たっちゃんとちーちゃんの話

僕には何故か幽霊が見ることができた。
そう一言でいうと語弊を生むかもしれないので付け加えさせて貰うと、幽霊とは言っても本当に幽霊かは定かではない。じゃあ何かって、それは僕にもわからないんだ。
僕の知る限り、僕以外は彼女を見ることは出来ない。かといって僕は彼女以外にそういう類を見えたこともないのだけれども。
そもそも彼女は自ら幽霊なんて名乗ったことは一度もない。
なら何で幽霊なんて呼んでるんだ、なんて疑問を持つと思う。言ってしまえばそれは、彼女を表現する時の便意上の一つの呼称に過ぎないものだ。
ただ単に、僕が幽霊以外に彼女の存在の表し方を知らないってだけとも言うかもしれない。


窓からの暁光が群青色のカーテンを通り抜けては僕の体を襲う。その息苦しさにこのまま息が止まってしまえばいいとも思った。
鈍色の四角い目覚ましはとっくの昔に騒ぐのを止め、今は小さな音で時を紡いでいる。この静寂の中、機械じみたその音と僕の小さな息遣いだけが響く。もう20分は経っただろうか。未だ覚醒しない鈍い意識は夢と現実の狭間を行き来している。
「たっくん、今日掃除するからさっさと起きて、部屋の片付けしてから学校行きなさいよ」
階下から扉を通して響く声に気怠さを感じながら生返事をした。
ベッドから重い身体を起こすと雑多な部屋が目に入る。堅苦しい学生服に着替えた後、僕は床に無造作に積み上げられた教科書や問題集、それらをかき集めて何も乗ってないまっさらな机に乗っけた。別にとことん片付ける必要などないし、母親も床を掃除機で吸えれば文句はないだろう。
そもそも片付けたところで意味などないのだ。それは気付いたらまたそこに存在しているのだから。
「適当すぎない? ちゃんと片付けなさいよ」
「ちーちゃんは僕の母親よりも母親らしいね。それとも姉?」
後ろを振り返る。いつの間に現れたのか、雪白のワンピースを着たちーちゃんが僕の机の上、ただそこだけを見つめていた。その顔は苦虫を潰したような顔をしていて、不細工だった。
思わずぶっさいくな顔、と呟くとちーちゃんはむくれた顔をして、「部屋が散らかっているのは心が荒んでいるから。小学校で言われなかった?」と嫌味のように言った。
それに少しの苛立ちを感じて、何も返事をせず、逃げるようにエナメルバックを掴んで部屋を出た。階段を降り、居間の椅子にそのままどかりと座る。
「おはよう」
斜め前に座って新聞を読んでいた父がちらりと見て言った。おはよ、とぶっきらぼうに返して頬杖をつく。キッチンではせっせと弁当におかずを詰める母さんが見えた。
「母さん、今日部活出るから」
「はいはい。遅くなって迷わないようにね」
「いつの話だよ。出来るだけ早く帰るつもりだし」
「どうだか」
さり気なく横目でちーちゃんがいるかを伺う。見ると、薄っすらと埃を被った真っ暗なテレビの前のソファーの上で体育座りをしていた。どうやら無言でついて来たみたいだ。
こうして見るとちーちゃんは小さい女の子のようだ。
斯く言う僕は彼女の実際の年齢を知らない。前にそれとなく年齢を聞いてみたことがあるけれど、笑うだけで何も答えてくれなかった。まあ、普段の言動や態度からすると、僕と変わらないか少し上のようだと考えている。見た目なら僕とほぼ変わらないようにも見えるけれど。
ことり、とテーブルにご飯が置かれた。炊きたてなのか、普段より少し熱めの白米と色とりどりのおかずを食べ、置いてあった弁当をエナメルバックの中にいれて玄関に向かう。いってらっしゃい、と大きく響いてきた声に小さくいってきますと返して外へ出た。
カーテンという覆いがない分、直接当たる陽の光が肌を焼くような痛みを生み出している。汗が頰をつたってアスファルトへ落ちた。溶けてしまいそうだ。
「みて、たっちゃん、今日は燃えそうなほど快晴だよ」
僕が太陽と攻防戦を繰り広げる中、子供のようにはしゃぐちーちゃんは今日も僕と一緒に登校するらしい。


僕が授業を受けている間、帰路を辿っている間。ちーちゃんは偶にふらりとどこかへ消える。
それはいつも唐突で、僕はいなくなった瞬間を見たことがなかった。もしや、僕以外にちーちゃんを相手にできる人でもいるのだろうか。それともただの散歩にでも行ったのか。授業の合間にふとそんなことが気になって、なんとなく窓から校庭を見下ろした。
陽炎が静かに揺らめくグラウンドでサッカーをするどこかのクラスの生徒たち。倉庫前のベンチにはぽつんと黒い野球のグローブが1つ置かれていた。
あ、と声が漏れる。
もしや朝練の後、僕らは片付け忘れてしまったのだろうか。それとも授業で使うためとか。後者なら良いのだけれど。
窓際の一番後ろにある僕の席は考え事に打ってつけだった。普段真面目な分、ちょっとぐらいいいだろ。
「どうしたの」
不思議そうな声が聞こえてきて視線を窓から離す。
いつの間に帰ってきたのやら。まだ花の開いていない、若草色のたんぽぽを持ってちーちゃんは僕を覗き込んでいた。その近さに驚いて、思わず椅子と共に仰け反る。内心ひやりとしたが、幸運にも先生や周りは気付かなかったらしい。眼前では誰も気にした様子はなく、淡々と授業は進んでいく。
安堵の息を吐き、シャーペンとノートの隅を使って「なんでもない。どこへ行ってきたの?」なんて聞いてみた。けれど返ってきたのは、真っ直ぐ僕を見つめる瞳と、ヒミツのたった一言だけ。
ちーちゃんの僕への隠し事は、意外にも多かったりする。


予想に反して早くに部活が終わった。きっと突然のこの重苦しい曇天がその理由だ。学校に置いていた折りたたみ傘を振り回しながら家へと歩く。ちーちゃんはまた消えた。アスファルトが光を失ったまま鎮座している。
不意に視線を上げると、先にある花屋で見覚えのある制服姿が誰かと一緒に花を選んでいるのが目に入る。真白なワイシャツに淡緑色のスクールベスト。少し近付いたところでその予想が外れていることなく、あまり年の変わらない姉であることを知る。その隣にはいるのはパーカーにズボンという軽装の大学生の従兄。
このまま自分が立ち去ったとして、もしあちらが自分に気付いた場合なんとも心証が悪い。
そう思い話しかけようとも思ったが、2人が真剣に選ぶ姿にそれも憚られて少し離れたところで立ち止まった。人通りが少ないお陰か会話がここまで聞こえてくる。
この白い花はどうかな?
赤と紫だけでなく、白も目立つのはあまり良くないって書いてあったからな……。
じゃあ、この黄色いクロッカス。
いいな、あとこれとか。
花束なんて誰に渡すのだろう。ぼーっと見つめている間に選び終わったのか。お店の方に包んでもらった花束を抱え、立ち止まったままの僕を置いて2人は歩き出す。
と、その足はすぐに止まった。見ると、僕も良くしてもらっている近所の女性の方が丁度通りかかったらしい。声を潜めて何か会話をしたと思うと、その女性は花束に目を向けて微笑んだ。
「これからお見舞いに行くのね。とても綺麗な花束」
存外ハッキリとこちらまで聞こえた声。それに一瞬目を伏せた姉は、何かを堪えるように答えた。
「でしょう? ……もう1ヶ月も、1人だけを待っているんです。」


「どう思った?」
ブランコに腰掛けたちーちゃんはゆっくりと漕ぎながら僕に問いかけた。
「何が?」
「お姉ちゃんと彼のこと」
ああ、と花屋にいた姉と従兄弟の姿を思い出す。どう思ったかって。
「特に。……ああ、お見舞いに行くんだなって?」
最初あの姿を見た時は近付きにくいと思ったけれど、まあ、わざわざ近付く必要もないってことに気付いた。そうした所で用事がないので特に話すこともない。無言で立ち去るよりは話しかけた方が心証は良いけども、見ていたことさえ気付かれないように静かに立ち去れればそれが一番楽だ。現実、僕は気付かれずに置いてかれたのだけれども。
「へぇ」
聞いてきたくせに酷く冷めた返事だった。珍しいこともあるもんだ。
それから無言で立ち上がったちーちゃんは歩き出す。一瞬戸惑ったが、すぐにその足が家の方向へ向いてるのをみて無言で着いていった。ちらりとみた時計はもう夜と言っていいような時間を指していた。


灰色がかった暗い空を眺めながら進む。着いた先はひっそりとしていた。ただいま、と声を掛けて居間へ続く扉を開ける。開かれた視界では両親がテレビも付けずに白いソファーに座っていた。エナメルバッグから弁当箱を取り出してキッチンの流し台へ。
居間を見て、ふと疑問が湧いた。
「姉ちゃん遅くない?」
病院へ寄ったとしてももうみるからに面会は終わっている時間。家と病院はそんなに離れてるはずないのに。そんな、今まで気にもしなかったことが頭に浮かんだ。
「志乃はまだよ」
「ふうん、遅いね」
目を合わせる2人を尻目に、踵を返して居間からでようと扉を開いた。そういえば父は一言も喋ってないな、なんて思ってそっと居間へ振り向く。
……どきりとして、息を飲んだ。
2人は黙ってこちらを見ていた。無表情で、でも瞳には何か情を浮かべながら。
こちらを見ていたといってもそれは僕じゃない。それを辿った先にいたのは、端で俯いたままの彼女の姿だった。
見えているのか。
驚いて振り返るが両親はもうこちらを見ていなかった。考えすぎか。
ホッとしてでた小さな息が透明に溶けた。そして踵を返そうとした僕に父はただ俯いたまま、ぽつりと一言だけを零した。
静まり返ったこの家には3人もいるはずなのに、まるで誰もいないような冷たさだった。


部屋に入ると同時にエナメルバッグをベッドへと放り投げ、自身も後を追う。
わからない。
居間を出る時に言われたその言葉の意味が僕にはわからなかった。
なぜそんなことを言われたのか。気にすることでもないはずなのに。ただの譫言だろうに。
靄がかかったような思考が鬱陶しい。赤一色の中に朱色が一ヶ所混ざっていたような、そんな小さく複雑な気持ち悪さだ。さっさと忘れてしまおう。どうせ意味のない、たわい無いものだ。僕には関係ない。
「ちーちゃん?」
扉の前で立ってるちーちゃん。未だ何も喋らない彼女に今度は違和感が渦巻いた。公園でのことがそれほどまでに気に障ったのか。若干の煩わしさに眉がよった。
「たっちゃんはさ」
「何?」
「私と初めて会った場所や時期、覚えてる?」
初めて会った場所。ちーちゃんは突然僕の目の前に現れて。時期なんて曖昧だ。最近でもないけどそんな昔でもなかったはず。
黙り込んだ僕はふと思い立って机の一段目を開けて茶色いノートを取り出した。
ページをめくり、一番最後の書き込みを開いた。7月12日と書かれたそのページに書かれていたのは細かく綴られた何気無い日常。その中にお目当ての物は見つからず1ページずつ前へと戻って行く。体育祭、練習試合、始業式。果てにはクラスメートの誕生日。そこまで戻ってもまだ見当たらない。
前へ、前へ、前へ。左手が今までと違う触感を感じたところで僕は顔を上げてちーちゃんを見た。
その日付は3月27日。その間一言も彼女には触れてなかった。普通なら、絶対何かしら書いてあるはずなのに。混乱する僕に彼女は口を開いた。
「本当に忘れていることはないと言える? 気付いてなくても世界は巡り続けている。たった一つが失われても感情抜きでの世界では何一つ変わりはしない。真実は見えないだけでいつも君の側にあるの。視野を狭めているのは君自身。何気ないことも集まれば真実を写す鏡になるんだよ。」
彼女の言葉にただそっと目を閉じた。
記憶を手繰り寄せるけれど、思い返すのは両親と彼女だけ。そこに姉の姿は殆どなかったことに今更ながら気付いた。それが当たり前すぎて何故なんて考えたこともなかった。今となってはなんでそれを当たり前に思っていたのかさえもわからないのだけれども。
僕が今明瞭に覚えているのは「待ってる」と語った姿だけ。
それは他の人にも言える話だった。クラスメートや部活のメンバー。顔も名前も思い出せる。
なのに、最近喋ったのは?
両親以外との会話は?
その問いの答えは僕の中に無かった。
それに気付いてしまえば簡単だった。ただ目を逸らしていたかっただけかもしれない。
燃えるような暑さだったあの時。起きるのが億劫で息苦しかった。
忘れ去られた黒い野球のグローブ。今思い起こせばそれはよく知るものだった。
花を抱えた姉が話していたお見舞い。それが誰のとは考えもしなかった。
でも、もしかしたら。


再び目を開けると彼女の姿はなかった。
彼女だけじゃない。僕の部屋も、家も、夜空も、何もかも全てがなかった。
真っ白な空間に僕だけが佇んでる。
けれど不安は何一つ感じなかった。
ありがとう。
そう一言だけ呟いてもう一度目を閉じた。

たっちゃんとちーちゃんの話

たっちゃんとちーちゃんの話

僕には幽霊が見えた。でも、違った。じゃあ何かって? 本当は、すぐ隣にあったのにね。心がそれを覆い隠しちゃったんだ。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-27

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