キャッチボール(8)

八回表・八回裏

 八回表

シュッ。
ドーン、トン、トン、トン、トン。
シュッ。
ドーン、トン、トン、トン、トン。
 規則正しく刻まれるリズム。
 だが、ドーンの後に、ピシッツとか、ガキーンという違和感のある音がして、ドッ、ドッ、ドッ、ドッとボールを追いかける足音が聞こえることもある。
繰り返される音たち。
 少年は、ひたすら、壁にボールを投げ続けている。いわゆる壁当てだ。
家のブロックの壁に、膝から、肩口までの、四つのブロックをストライクゾーンにして、ピッチャー役となり、一球、一球、丁寧に投げ込む。毎回、同じように投げているつもりなのに、必ずしも、真ん中には当たらない。ブロックの角に当たると、真っ直ぐに戻ってこないで、予想もしない方向にボールは跳ね返る。時には、道路の用水路の中へ、時には、大きくバウンドして、道路を隔てた向かいの家の庭に飛び込むこともある。そんな場合は、まず、塀越しに庭の中を覗き、転がったボールの位置を確認する。今日は、縁側の下に転がっているので、すぐに見つけることができた。
 だが、植木鉢や植栽の中に隠れてしまえば、外からぱっと見ただけでは十分に分からない。そんな時は、おおよその見当をつけ、庭の中に入ってから、隈なく探すしかない。以前は、一人暮らしの、八十は超えると思われるおばあさんが、日向ぼっこがてら、玄関口の椅子に座っていたので、「すいません、ボールが入ったので、とらせてください」と頼むと、いつもにこにこしながら頷いてくれていたが、ここ最近は、姿が見えない。カーテンは閉まったままだ。
 玄関のドアホンを何度も押し、ドアホン越しに庭に入らせてくださいとお願いをするが、返答はない。仕方がないので、「失礼します」とわざと隣近所に聞こえる程の大きな声を上げ、門扉を開き、足早に玄関から庭に回る。中庭に、さつきの鉢や松の盆栽などを置いていれば、ひょっとボールが当たって、蕾や枝が折れていないかと心配しなければならないが、幸いなことに、この家の庭には、植栽はなにもない。おばあさんが元気な頃は、四季折々に、朝顔やひまわり、菊、シクラメンなどの花を育てていたようだが、今は、空の鉢が家の軒下に積み重ねられている。花が消えていくとともに、蝶々やミツバチなどの虫、木の実をつつく鳥も、庭を訪れなくなった。家の所有者は、定期的に来るのか、雑草はきちんと抜かれ、きれいに掃除されているけれど、むき出しの土が、かえって、寒々しく感じられる。この庭にたまに訪れ、賑わいをつくっているのが彼ということだ。
「あった、あった」
 塀から見たように、縁側の下にボールは転がっていた。しゃがみ込み、手を伸ばして、ボールを掴む。再び、玄関に回り、門扉の鍵を閉め、「ありがとうございました」と頭を下げる。家の中からは、誰の返事もなく、自転車や犬を散歩させている通りすがりの人が、こちらを振り向くだけだ。
 ボールを手にした彼は、アスファルトの道路に水で引いたピッチャープレートに戻る。これまで、何度となく壁当てを繰り返した経験から、投げた瞬間に、ボールがどの方向に跳ね返るのか、咄嗟に、分かるようになった。五感とそれを束ねる第六感がどんどんと研ぎ澄まされていく。だが、時には判断が誤り、右方向に飛んだのに、思わず左足が一歩出てしまい、重心が左半身に傾いてしまうこともある。そんな時でも、直ぐに、体勢を立て直し、ボールの方向に右足を踏み出す。そして、左足も続く。ただし、一人キャッチボールも、十分も時間が過ぎれば飽きてくる。肩もかなり温まってきた。体も俊敏に、前後、左右に動く。
 そんなとき、彼は、ストーリーを作って、一人野球ゲームに興ずる。まずは、チームを二つに分ける。彼Aチームと彼Bチームだ。彼Aチームのピッチャーは、本格的な上手投げ。打線を紹介する。一番は、大柄だが、足の速さはチーム一の選手。もちろん、足の速さを最大限に活かすため、左打ちだ。二番は、小柄で、バントなど小技がうまい選手。三番は、安打製造機の異名を持ち、センター返しが得意。四番は、もちろん大砲だ。一発当たれば、場外ホームラン。ニックネームは、トマソンでも、大型扇風機でもない。顔はやさしいけれど、ゴジラのニックネームを持つ。打率は、常に三割をキープしている。
 ホームランバッターだからと言って、大振りばかりしているわけではない。どうしても点が欲しいときは、チームのためミートに徹する。五番は、四番に負けず劣らずの馬力を持つ。調子がいいときは、三番、四番と打順を交代しても遜色がない。六番は、シェアなバッティングが持ち味。下位打線からでもチャンスを作る。七番は、バントやヒットエンドランで、確実に塁を進める。八番は、想定外の八番バッターとして、恐れられている。ツーアウト満塁の最大のチャンスで、惜しくも三振するときあるし、前の打者二人が簡単に三振を奪われ、チャンスの目がなくなり、次の回が攻撃の勝負だと選手みんながグラブを手にしたところで、目の覚めるような大ホームランを打つこともある。意外性のあるバッターで、それが彼の魅力だ。
 八番バッターから、攻撃の口火が切られることも多い。末広がりの八のお陰か。そして、九番は、ピッチャー。チームの大黒柱だ。体も大きく、力も強い。時には、攻撃の主軸として、クリーンナップに座ることもある。だが、今日は投球に専念するため、九番に控える。さあ、これが、彼Aチームのメンバーだ。ピッチャーを始め、各選手を、それぞれの場面において彼が演じる。もちろん、野球は、相手チームも必要だ。 
 次は、彼Bチームの選手の紹介だ。ピッチャーは、横手投げ。左右のコントロールは、抜群だ。時には、シンカーなど落ちる球も投げる。いくら、強力打線を誇る彼Aチームでも、今日は、なかなか打てないぞと選手同士、目で合図しあっている。
 さあ、まもなくプレイボールの時間だ。試合開始に先立って、もう一度、家の壁のストライクゾーンを確かめる。色が薄くなってきているため、赤色のチョークで、以前引いた線の上をなぞる。そして、盛り上がってはいない道路のマウンドに戻ってくると、ジョロで水の線を引く。投げたボールが跳ね返ってきた場合、ファウルかどうかを判断するため、内野グランドの線も引く。もう一度、ルールの確認だ。
 ピッチャーがボールを投げる。壁に描かれたストライクゾーンに入れば、暫定ストライクとなる。その判断は、投げた本人が下す。そして、暫定ストライクとして跳ね返ってきたボールを捕って初めて、正式のストライクが取れる。だが、そのボールを後逸したり、はじいたりしたら、相手チームのヒットだ。マウンドの後ろには、空き地が広がり、転がった場所によって、シングルヒット、ツーベース、スリーベースに分かれている。一番奥のブロック塀にまで当たれば、ホームランだ。だから、ピッチャーとして投げるだけでなく、内外野の守備、公平な審判もこなさないといけない。本当に、忙しい。 だけど、お陰で、速い球や遅い球などスピードに変化をつけ、ストライクゾーンぎりぎりを投げ分けるピッチャーの練習にも、ストライクゾーンを正しく見極める審判の練習にも、膝を曲げ、腰を落とし、自分の体でボールを止めることはあっても、絶対に後ろに逸らさないで捕球する守備の練習にもなる。一挙二得に、もう一つの得が加わり、大変お得な練習方法だと自負している。まして、試合全体を記録するスコアラーであったり、監督・コーチの役を担ったり、今のボールは早かったなあ、とか、ええっ、あのコースはボールなのか、とか、観客の立場に立っても楽しめる。うーん、一体、一人、何役をこなしているのだろうか。瞬間、瞬間で、様々な役割を演ずるから、将来は、舞台に立つ俳優になれるかも?でも、彼の望む本当の舞台は、野球のグラウンドだ。
 さあ、始めるぞ。彼は、自分に気合を入れ、マウンドにつく。まずは、ピッチャーの役割だ。彼Aチームのピッチャーは、オーバースローの本格派。球の速さは、ピカ一だ。思い切って投げていけ。自分の中の監督・コーチ、そして、守備についている仲間、応援してくれている観客からの声援が飛ぶ。もう一人の自分ではなく、もう百人、もう千人の自分たちが、自分を応援してくれる。なんて、ありがたいことだ。今日も、一段と、応援の声が球場全体に、地鳴りのように広がっている。
 道路球場で、試合開始のサイレンが鳴る。それは、彼の口笛。
「プレイボール」
 目には見えないが、頭の中の、バーチャルな主審が、やや霞みがかった春の空の雲を掴むかのように、手を上げる。その指先の方向には、将来、プロ野球選手になるという彼の希望の星が瞬いているはずだ。ただし、今は、昼のため、はっきりとは確認できない。それでも、彼は、その星に向かって、一歩、一歩進もうとしている。
「よし、いくぞ」
 彼は、自分自身に語りかけ、腕を希望の星に向かって、高く上げ、大きく振りかぶり、第一球目を投げる。
「まずは、ど真ん中の直球だ、打てるものなら、打ってみろ」
 しなった腕から、最後にスナップをかけ、親指、ひとさし指、中指からボールが離れた。ボールは、彼の意思どおりに、家の塀のブロックに描かれたストライクゾーン目掛けて、直線で突き進む。見事、ブロックの真ん中に的中した。
「ストライク」
 主審の彼がコールする。
 今日は、まずまずの調子だと頷くピッチャーの彼。
 だが、ここで安心してはいけない。ブロック塀に当たって、跳ね返ってくるボールを、キャッチしないと、ストライクを取ったことにはならないし、弾いたり、後ろに逸らしたりすると、ヒットになってしまう。折角のストライクが水の泡だ。
すぐさま、守備の彼に変身する。
 思いきり投げられたボールは、アスファルトの地面に当たると、大きくバウンドした。ボールを速く投げれば投げるほど、返ってくる球も速い。その分、瞬時の判断で、動かなければならない。ただし、ストライクボールならば、ボールは真っ直ぐに、自分のところに戻ってくる。投げた後、体勢が崩れていても、グラブを前に出せば捕球できる。先ほどの一球目も同様だ。ワン、ツー、スリーの掛け声とともに、ボールは、難なく、グラブに収まった。これで、初めて、ワンストライクだ。
試合開始いきなりのど真ん中の直球に、なすすべもなかった相手チームの一番バッターの彼。
「さあ、二球目だ」
 キャッチャーからのサインは外角低め。大きく頷く彼。
 再び、大きく振りかぶり、腕をしならせて、投げる。目はブロックの左隅を見つめている。微妙に、投げ下ろす角度を変えて、外角低めいっぱいを狙う。同様に、踏み出した足のつま先も左隅方向に向ける。手と足は、同じ仲間だ。
「ボール」
 内なる、主審の彼の声がした。
 惜しい。ボール一個分、外側にはずれたようだ。残念がっている暇はない。ボールは、直ぐに跳ね返ってくる。このボールを捕球しなくても、ヒットにはならないが、後ろに逸らしたら、自分で走って取りにいかなければならない。そうなると面倒だ。やはり、どんなボールでも、しっかりと捕球しなければならない。ただし、斜め方向に投げた分だけ、ボールは、今の位置よりも、反対方向にバウンドする。それに、低めだと、バウンドは小さく、ゴロで転がってくる。膝を曲げ、腰を落とし、グラブが地面にすれるぐらい近づけなければ、捕球できない。
「よし」
 ファーストの彼が、足元を抜けそうなボールを、大きく左足を一歩踏み出し、グラブで掴む。
「ナイス、フィールディング!」
 ピッチャー役の彼からの声援だ。大きな声を出すことは、互いのコミュニケーションを図るためだけでなく、自分の心も盛り上げてくれる。他人から見ると、壁にボールを投げている者が、大声を出していると、変に思うかもしれないが、本人は、いたって真面目だ。気合が入って、自分のストーリーの中に、没頭できる。そうなると、逆にこちらのもの。一生懸命、汗を流し、打ち込んでいる姿は、人に感動を与え、思わず、応援したくなる気持ちにさせる。時には、自転車に乗った見知らぬおじさんが、「僕、頑張れよ」、「将来は、プロ野球選手か」と、励ましの声を掛けてくれる。近所の犬の散歩をしているおばさんは、にこにこしながら、会釈をしてくれる。彼一人だけの世界ではない。周りのみんなが、彼の世界に参加してくれる。彼は、より一層、自分の物語の基盤を強固にできる。
「ワンストライク、ワンボール。さあ、三球目だ」
 常に、自分で、カウントを数える。スコアラー兼球場関係者だ。
 次の球種は?
 キャッチャーの彼に確認する。
 首を立てに振り、次の体勢に移る。
 投げた。ボールは、内角高めを狙う。先ほどのコースが内角低めだったので、バッターはやや前のめりにベースに近づいている。そのバッターの意表をつき、胸元をえぐるつもりだ。ボールは、ブロックの右上の隅に当たった。微妙なコースだが、判定は、ストライク。高目のボールは、空中での浮遊時間も長い。ノーバウンドのまま、彼の足元に落ちた。大きくバウンドすると頭を越えて、後ろに逸らす可能性が高い。その前に、ボールを小バウンドで捕球しようと、投げたピッチャーの体勢から、急いで守備の構えに戻るが、一瞬、遅れた。
 ボールは、グラブの下を抜け、アスファルトの地面でバウンドすると、後ろの空き地に転がっていく。抜けた。ヒットだ。ボールに勢いがある。長打コースは、間違いない。急いで、押さえなければ。彼は体の向きを変え、必死で追い駆ける。ボールは、雑草と砂利石のグランドを、大きくバウンドしながら、一番奥の塀まで転がった。通常なら、三塁打だ。大きく息を弾ませながら、ボールのところまで辿り着いた外野手の彼。右手で、直接ボールを握ると、振り向きざまに、ホームベースに向かって、ノーバウンドで投げ込む。ボールは、直線の軌道を描き、ブロックの真ん中を射抜く。
「アウト」
 彼の頭の中で、サードベースの審判の手が上がる。
 そう、ボールを後ろに逸らしても、捕球した場所から、ノーバウンドでも、ワンバウンドでもいいから、ストライクゾーンのブロックに当たれば、アウトにできる。実践さながら、ピッチャーだけでなく、野手の守備練習も兼ねているのだ。
「ナイス、フィールディング」
「ナイス、好返球」
 次々と、自分の中の仲間たちから、声が掛かる。
 さあ、仕切り直しだ。ピッチャーの役の彼の出番に戻る。
 ボールが少し高すぎた、それに、真っ直ぐのボールが続きすぎたな。低めの次の高めのコースは、相手の裏を読んだつもりだが、逆に、相手に見抜かれてしまった。反省、反省。次に繋がる反省だ。キャッチャーの彼をマウンドに呼んで、もう一度、打ち合わせだ。
「ワンアウト、ワンアウト」
 内野、外野からの声に元気づけられて、二人目の打者を迎える。ワンアウトを取ったものの、試合が始まったときと同じように、緊張した気持ちで、勝負に挑む。一期一会の諺ではないが、打者に対しては、ピンチの時も、投球が調子のいい時も、新たな気持ちで、望まなければならない。相手が四番バッターでも、下位打線でも同じだ。
「よし、いくぞ」
 キャッチャーとの最終サインを確認し、ブロック塀に、ボールを投げ込む。腕の振りの勢いが増した。
「ストライク」
 真っ直ぐだが、内角低めの厳しいコース。
 バウンドして返ってくるボールも難なく、グラブに収める。
 マウンドに立ち、ブロック塀の後ろにいる幻影のキャッチャーと、次の球の確認だ。
 第二球目を投げ込む。
 今度は、落差の大きいカーブ。第一球が、速球だったため、バッターには、ボールの到達時間が先ほどの倍ほどに遅く感じられる。打つタイミングを逸したバッターは、ややのけ反り、ただバットを持ち、立ち尽くすのみ。
「ストライク」
 彼にしか見えない、主審が拳を握って、コールする。
「いいぞ、いいぞ、ナイス、ピッチング」
 後ろを守っていてくれる仲間たちから熱い声援が、次々と聞こえてくる。もう、僕は一人じゃない。
 反対に、相手ベンチから、野次が聞こえてくる。
「バッター、ドンマイ、ドンマイ。へっぽこピッチャーの球なら、次は間違いなく打てるぞ」
 今日の敵は、明日は味方だ。プロのピッチャーならば、どんな状況でも、冷静でいなければならない。心が乱れると、不思議なことに、ボールのコントロールにも影響がでる。それこそ、相手の思う壺だ。そんな声を無視し、答えはこの球にあるとばかりに投げ下ろす。
ボールは、真っ直ぐだが、シュート回転で内角に切れ込み、また、ややホップ気味で、バッターの胸 元を抉る。バッターは、つい、高めのボールに誘われ、手を出す。しかし、バットは、二次元の世界を彷徨だけで、三次元の世界のドアを叩くことはできなかった。
「ストライク、バッター、アウト」
 主審は、サードベース側に、二、三歩踏み出すと、全身を使った大きなジェスチャーで、バッターを始め、ピッチャー、キャッチャー、守備側の選手全員に、また、両軍ベンチに、球場に観戦に来ている観客全員に向かって、コールする。この瞬間こそ、主審が、自らの存在をアピールできる桧舞台だ。すべての者が、野球を愛している。
 審判の派手なパフォーマンスに、観客たちは拍手で応える。みんなで、野球を楽しもう。みんなで、野球を盛り上げよう。選手も、観客も、裏方も、一緒になって。一人でも多くの人々が共有する時間こそ、生きている証なのだ。時間は、与えられるものでなく、自らが作り出すもの。使うものでなく、生み出すもの。
 攻守交替。次は、彼Aチームの攻撃の番だ。彼は、Bチームのピッチャーにボールを手渡す。敵であり、味方でもある自分に。
「さあ、頑張っていこう」

 八回裏

 その時、車のクラクションが聞こえてきた。音のするほうに振り向くと、彼の父の車が、こちらに向かってきている。平日のこんなに早い時間に帰ってくるなんて珍しい。彼は、すぐさま自分の世界から、現実の世界へと立ち戻った。そこには、緑があふれる芝生も、ポップコーンを片手に応援する観客の姿もなく、ただ、アスファルトの道路とブロック塀があるだけだ。車は、彼の目の前に止まった。ジーという音を立てて、窓ガラスが下がり、彼の父が話しかけてきた。
「今日も、頑張ってやっているな、ハヤテ」
「うん、もう、一時間近くやっているよ、父さん。父さんこそ、いつも夜の九時過ぎに帰ってくるのに、今日は、いやに早いね」
「いや、今から、遠方の場所の会議に出掛けなければならないんだ。だけど、三十分程度は余裕があるから、少しの間、久しぶりに二人でキャッチボールをやるか。一人で壁当てばかりではつまらないだろう。それに、ハヤテがどれだけ上手くなったのか、父さんも自分の目で確かめてみたいからな」
「いいよ」
 彼は、特段、つまらなくもないし、一人ぼっちでもなかったが、父の申し出を承諾した。頭の中の友人たちに、ひと時の別れを告げる。
「また、会おう、僕の仲間たちよ」
「いいとも、僕らは、いつも君を待っているし、君の父は、僕らの父でもあるんだ。久しぶりに、親子のキャッチボールを楽しんでくれ」
 彼の仲間たちは、手を振り、グラウンドからベンチへと消えていく。束の間の休憩タイムだ。
 彼の父は、車を駐車場に止め、一旦、ドアから出て背広の上着を脱ぎ、運転席に置いた。そして、ネクタイを緩め、長袖の白いワイシャツを肘までめくり上げ、いつでも、野球ができる態勢に入った。
「グラブは、ここだな」
 彼の父のグラブは、家の軒下にある道具箱の一番下に眠っており、油分が飛んだせいか、光沢のある茶色が、今は、かなり白けていた。
「さあ、いつでも来い、ハヤテ」
 彼の父は、合図するかのように、大きく左手のグラブを上げた。
彼は、再び、ピッチャー役に戻った。頭の中から聞こえる満員のスタジアムの大歓声の後押しを受け、両手を大きく振りかぶり、父親のグラブ目掛けて、ボール投げ込んだ。
「ストライク!」
 今からのアンパイアは、彼の父だ。
「いい球だ。だけど、もう少し、ゆっくり投げてくれないか。ボールの勢いが強すぎて、手が痛いよ。それに、このグラブは、父さんが、子どもの頃から使っているんだ。大分ボロがきているせいか、ボールを受ける腹の部分が薄くなっているな。直接、手のひらで受けているみたいだよ」
 彼の父は、グラブの真ん中を右手で撫でる。グラブの上からも、手の感触が伝わる。
「それに、このボール、どこかで見たことがあるな」
 彼の父は、ボールを手に取り、今にも、マンションに隠れそうな太陽にかざした。
「父さんが子どもの頃は、太陽が沈むのがもっと遅かったはずだ。今では、高層マンションや商業ビルがあちらこちらに立ち並んだせいか、暗くなるのが早くなったような気がするよ」
「でも、道路には、ヘッドライトやテールライトを照らした車が行き交うし、マンションやビルの踊り場や通路、事務所の中でも、夜遅くまで煌々と明かりが点いているから、結構、道路周辺は明るいよ、父さん。だから、夕食後に外に出て、素振りと壁あての練習ができるんだ」
「そうか、時代が変わっても、世界中の明かりの総和は、同じなのかな。夜も明かりが欲しいという人の欲望が増えるだけ、昼間の自然の明かりが減るわけだ」
 彼の父は、手首だけを使って、ボールを投げ返した。ボールは、小さな地球の弧を描き、彼のグラブに納まった。地球は、いつまでも球形だ。
「ストライク」
 今度は、彼が主審となった。
「父さんも、いいコントロールしているね」
「はははは、年をとっても、まだまだ、若い頃に比べて、技術は変わらないか。だけど、残念ながら、体力は少しずつ衰えているから、ハヤテのような速い球は投げられないな」
「大丈夫だよ。父さんなら、僕よりも、もっとすごい球を投げられるよ」
 彼は、再び、振りかぶり、昔、彼の父が投
げていたと思われる以上の速球を繰り出す。今は、誰の応援もいない。彼と彼の父の二人だけが道路に立っている。
「ストライク、ツー。いい球だ。毎日のトレーニングの成果だな。ほら、見てみろ。あまりにハヤテの球が速いから、グラブから煙がでているぞ」
 彼の父が、ボールをグラブの真ん中に、ポンポンと投げ込むたびに、白い煙が巻き起こる。
「それって、煙じゃなくて、埃じゃないの、父さん」
「ははは、そうとも言うか。父さんのこれまでの練習の成果が、こうして、グラブから湧き出ているんだ。父さんにとっては、埃じゃなくて、誇りさ」
 ボールは、山ボールから、やや平坦の形となり、スピードも増して、返ってきた。
「でも、その白い煙が出れば出るほど、父さんが、それだけ歳を取ったということじゃないの」
「はは、父さんは、浦島太郎か。それにしても、うまいこと言うな。確かに、このグラブから煙が出るたびに、白髪が一本ずつ増えていったような気がするよ。だからこそ、ハヤテも、今、使っているグラブを大事にしろよ。そのグラブが、お前が生きてきた証拠、お前が頑張ってきた証明になるんだからな」
 彼は、もう一度、大きく振りかぶり、父に目掛けて、ボールを投げた。心なしか、父のグラブが、父の手が、小さく見えた。
「ストライク、バッター、アウト」
 その父の声も、さっきよりも聞こえにくくなったような気がする。
「もっと続けたいけれど、残念だが、もう時間だな」
 彼の父は、ポケットから携帯電話を取り出すと時間を確認した。
「ハヤテは、本当に、上手くなっているな。わずか三球だけど、十分、上達の手ごたえを感じたよ。また、時間がとれたら、キャッチボールをしよう。今度は、父さんがピッチャー役だぞ」
 彼の父は、ボールの入ったままのグラブを、息子に渡すと、めくりあげたワイシャツの袖を下ろし、ネクタイをもう一度締め直して、車に乗り込もうとした。
「ハヤテ、もうそろそろ暗くなるから、野球の練習は止めたほうがいいぞ。汗も掻いていることだから、早くお風呂に入りなさい」
「わかったよ、父さん。それで、父さんは、何時頃、帰ってくるの」
「そうだな、今から、二時間程度の会議だから、九時過ぎになると思うよ。だから、父さんは待たなくていいから、先に食事をしておきなさい。母さんには、朝、話をしているけれど、念のためもう一度、ハヤテからも伝えておいてくれ」
 彼の父の車は、息子をひとり残して、車庫から滑り出た。
 彼は、父に手を振って見送ると、彼と父のグラブ、そしてボールを、道具箱に片付けようとした。先ほどまでなら、白いボールがはっきりと見えるほど明るかったのに、今では、そのボールも辺り一面の夕闇に溶け込むほど暗くなっていた。
「急がなくっちゃ」
 彼は、そう呟くと、道具一式を箱の中に落とし込んだ。その際、ボールが跳ね、箱から飛び出し、道路に転がった。
「いけない」
 彼は慌てて、ボールの後を追ったものの、ちょうどその時、家の前を車が通り過ぎた。
「危ない」
 車のクラクションの音に、彼は急いで後ろに跳び下がる。ボールは、どこに行ったのだろうか。多分、車の下を抜けて、反対側の空き地に転がったのだろう。彼は車の通り過ぎた後、向こう側の空き地をすみずみまで探したが、夜のカーテンは、既に半分以上引かれていて、ボールを見つけることができなかった。
「まあ、いいや。明日の朝、いつもより早く起きて、明るくなってから探そう」
 彼は、自分にそう言い聞かせながら、玄関の扉を開けた。
「母さん、ただいま。父さんは、遅くなるんだって。僕は、お腹がすいたよ。ごはんにしよう!」
 彼の声が、玄関先から廊下を伝わり、居間や食堂、二階のハヤテの勉強部屋まで、家中に響き渡る。
「また、野球の練習をしていたんでしょう?汗を掻いたはずだから、ごはんの前に、先にお風呂に入りなさい。今日は、必ずシャンプーをしなさいよ。頭が臭いわよ」
母の姿は見えないけれど、声だけが聞こえてくる。夕食の準備のため、キッチンにいるのか。それとも、二階で洗濯物を片付けているのか。
「わかったよ。今から入るよ」
 彼は、玄関で靴を脱ぎ、明日に備えてきちんと揃える。洗面所のすべり戸を開けて、風呂場に向かう。着ていた服をすべて洗濯機の中に放り込み、かけ湯も面倒くさいと言わんばかりに、満杯にお湯が張った浴槽の中に飛び込んだ。
 ジャボーン。
 いくつもの玉のような水しぶきが上がった。その瞬間、彼は空中の水滴を右手で掴む。どこでもキャッチボールだ。水玉は壊れ、彼の腕から浴槽にしたたり落ちた。

走 ってきた車の後輪に跳ね飛ばされたボールは、再び、彼の家の玄関前に戻ってきた。道路の端を転がり、蓋が開いたままの水路に転がり落ちた。天と地が、再び、キャッチボールをするために。

キャッチボール(8)

キャッチボール(8)

八回表・八回裏

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-26

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