地溝女

地溝女

 女は窓のない地下壕の固い三段ベッドに押し込められていた。しかも、素性のわからぬ泥のように眠る女と、ふたりで一枚の毛布をわけあって。
 眠る女の長い髪が、頬に刺さる。底冷えと排水路の異臭が尋常じゃない。汚水という汚水が、すべてここを流れるようになっていた。ここの女たちは、排水路へ直に用を足す。
 羞恥の欠片は微塵もない。
 ただ、「金」を生む機械となって股を開き、泥人形のごとく蚕棚に転がっているだけの生活。もはや、何もかもどうでもよかった。女たちは、みな生きている死体だった。
支給される食料は、すべてコンビニの期限切れのおにぎりや弁当など。「プレミアム」なんとかいうやつも、冷たい油粘土にしか感じない。胃袋に詰め込めば、心の底まで腐ってしまいそうというか、腐っていた。内臓を通過した油粘土をぼとぼと排水路に流しては、また油粘土を齧って命を繋ぐ。
 これが、一泊五千円三食つきの「シェアハウス」だった。
 この不景気、客が一人も来ない日はまれじゃない。女たちは、やっと来た客に必死にしがみつき、土下座までする始末で、安く買いたたかれる。樋口一葉がもらえれば、まだいいほうだった。野口数枚のために、寝る暇もない。女の手のひらにも、野口が二三枚ほど握られていた。
 「こんな、はずじゃなかった!」
 女の叫びは、だれの耳にも届かない。よくある話だ。珍しくもなんともないし、同情すらされない。「あい あむ がっつ ちゃいるどお」、鬼束ちひろが脳裏にこだまするが、虚しいだけだった。

 女はいわゆる「ゆとり世代」で、地元ではわりと有名な進学校と大学を出た。学生生活も決して自堕落なものじゃなかった。単位は一度も落とさなかったし、「就職に有利」といわれることは、一回生のうちから励んでいた。経済情報の新聞も欠かさず読んでいたし、英語の有名な資格もとっていた。
 なのに、お祈りメールの雨あられ。ちゃんと「自己分析」もしたはずだった。やっと、ぎりぎりになって内定をもらった会社は、「やりたい」こととは程遠い内容の中小企業だった。
 現場では、「即戦力」が求められたが、慣れない事だらけで、失敗の連続に、意味不明な研修と称するいびりの連続。同期は、一年も待たずに大半が去っていった。
 それでも、女は辞めなかった。
毎日、上司の罵声を浴びないか地雷原を避けるのに、緊張を強いられ続けてきた。案の定、仕事がうまくいくことはなく、余計に失敗を重ね、怒鳴り声が激しさを増し、とうとう限界がやってきた。悪魔がささやいた。
「あなたは、なにをやっているの?」
その声は女の胸に大きく響いた。なぜなら、女にとってこの「現実」はとうてい受け入れられるものでは、なかったからだ。孤独な毎日。毎月やっていくだけで、何も残らない薄給。徒労と虚無が精神を蝕む。しだいに、朝日を見るのが憎らしくなった。
 毎日の通勤電車の混雑。窒息しそうな息苦しさ。うなりをあげる列車のモーター音が、上司の怒鳴り声と重なる。なんのために、その日、その日を暮らしているのか、訳が分からない。女はとうとうその日から会社へ行けなくなった。典型的な「辛抱のない若者」だった。
心療内科で適当な病名をつけてもらい、会社へ報告した。会社からは自主退社を求められ、女も承諾した。素直さゆえの過ちだった。
 そこからは、回復どころか、むしろ停滞と劣化の一途だった。
 ハロワに通いながらのバイト暮らし。ハロワはいつも覇気のない目の死んだ乞食共でごったがえしていた。タッチパネルの画面を見ながら、自分は社会から必要とされないことを告げられる厳しい毎日。実家のほうはもっと酷く、めぼしい再就職先は皆無だった。薬の量だけが増えて行き、貯金は減るばかり。治療らしい治療もしないくせ、高額の薬を処方する医者が憎らしかった。とうとう、家賃さえ払えず、薬も中断して、家具など全部を売り払って、流れに流れ着いたのが、この地下壕だった。
 
 また、胸が疼きだした。息をするだけでも苦しい。吐きそうで、酸欠状態になりながら、ひとりになりたくてもなれない、この理不尽な状況。
隣で眠る女が憎らしい。睡眠不足で体が鉛のように重いのに、頭の中が冴えすぎているうえ、エクレア一つ口論で収まりきらず、殴り合い大泣きする住人の声が、憎らしかった。この部屋すべてが、女にとって憎らしかった。
 どさっと、白い女が落ちてきた。目は見開き、身体に生気はなく、少し柔らかいマネキンか蝋人形のようにうなだれ、髪が汚水に浸かろうが動きもしない。マスクをはめた男ふたりが、鉄梯子を下りてきた。あの女はたしか、数日前に意識もうろうとしながら、仕事させてほしいと懇願していた。地上とを繋ぐ鉄梯子を登る力さえもはやなく。
 住人たちの視線がマスクの男に注がれた。男たちは、茶色く錆びたマンホールの蓋を上げた。たちまち、腐った魚の数十倍もの異臭が、汚水に勝って空気を汚した。男たちは口々にくせっと言いながら、白い女を捨てて再び蓋を閉めた。男たちが去った後も、臭いが消えることはなかった。
ただ「死」を待つだけの生活に、自然と女の口から嗚咽が漏れる……。

「――あんた、どうしてここにいるの?」
だれかが、そう言った。そうだよ。あんたは、あたしたちと違って借金のない自由の身なんだよ。失うものなんて何もないじゃん。こんなところに縛られなくてもいい。あんたは、きっと幸せになれるはず。みなが、女を応援し始めた。あんたが幸せにならなきゃ、死んだあと化けて出てやる。そうだよ、あんただけが希望なんだよ。みな、女の味方だ。
女はようやく蚕棚から立ちあがった。この時が来るまで、どれだけの時間を無駄にしてきただろう。なんだ、そういうことだったんだ。女はようやく目覚めた。ゼッタイに生きてやる、犬死にしてたまるものか!
「――出るならいまのうちだよ」また、だれかが言った。あいつら、あんたのことは見張っていないから、いまのうちに外に出られるよ、と。女は決心して、鉄梯子を登った。さっきまで、鉛のように重かった身体がウソのように軽い。
今は何時だろうか。人工の光しか浴び続けなかった女には、太陽の感覚が乏しかった。だが、何時でも構うものか。外に出たもの勝ちだ。女は男たちの隙を見て、ついに外へと跳び出した。

女は陰部や片乳を丸出しにして、全裸以上にひどくみっともなかった。手には数千円の紙きれのみ。夜行バスにすら乗れない。しかし、それでもよかった。笑いたい奴は笑えばいい。おまえらには、白昼に堂々と外に出る勇気さえないくせに。
鉛色の空は太陽と青空を隠し、雑居ビルの森の中、女は力強く裸足でアスファルトを蹴り走り出した。雑居ビルの陰に潜む小動物の好奇の視線をもろともせず、むしろ跳ね返すくらいの勢いで走った。頭はまだ冬眠から覚めたばかりの熊のように呆然として、数メートルで息切れと嘔吐をもよおしたが、女が足と止めることはなかった。これは、闘いなんだ。たとえ地面のタバコの吸い殻やガラス片が、柔らかい足の裏に突き刺さろうとも、歩みを止めたら、また地下壕に逆戻りだ。期待を裏切っちゃいけない。どんなにカッコ悪かろうと生きるんだ。たとえ世界のすべてを敵に回しても、幸福を掴むまで死ぬ気で走るんだ。女はそう自分に言い聞かせた。
コンクリートの林はとどまることを知らず、大地を冒瀆していた。いくら走ったかさえ覚束ない。女の足裏は、いくらアザやマメができたか。血だらけになり激痛が神経を走ろうが、女は足を止めてはならなかった。本物の太陽と森を見るまでは。
しかし、コンクリートの林は、脳みそ迷路のごとく、女の行く手を阻む。隅田川の橋を渡ろうとしたところで、警官が追いかけてきた。女はたとえドブ川であろうと、死ぬ気で泳いで遡れば、きっと清流にたどりつけると信じていた。女が鉄製の欄干に手をかけた所で、警官に腕を掴まれてしまった……。

「きみ、田舎はどこなの?」
「イナカ」、女は生まれてから一度も見たことも聞いたこともない。外来植物の茂る耕作放棄地と限界集落はあっても。女は裸足でさんざん走ったが、そんな場所はなかった。雑居ビルとコンビニと団地と――世界の全てはコンクリートでできていた。地名とはただの記号でしかない。
「名前は?」
「ナマエ」、なんの記号のことだろうか。ハロワでは番号だった、饅頭工場ではあんこを練る労働経費だった、店では金を産む機械だった。もう、何年も名前すら覚えてもらえない存在だったから、自分ですら思い出せない。さっきまで、女は必死になって走っていたが、どこへもたどりつけず、結局どこにでもある交番のパイプいすにうなだれるしかなかった。
 弱ったなあ、と目の前の警官はため息をつく。女もどう答えていいのか解らない。女の脳裏には、「まいごの まいごの……」と無意識に鳴り響く。イヌのおまわりさんも、ユニクロで売っていそうなコートをかけてあげることしかできない。仕事とはいえ、毎日こういうどうしようもない連中の相手をしなきゃいけない徒労感に、女も同情せざるを得なかった。社会のゴミ掃除をさせてしまっている。処分の仕方さえ解らないゴミばかり……。
 「すみません……」
 女の咽からようやく発せられた言葉が、それだった。どうしようもなく情けない自分が悔しくて、女の目から熱いものが一滴、ニ滴とこぼれた。泣いてばかりいる子ネコちゃん。べつに、こっちも酷い目に遭わせようだなんて思ってないからさ、となだめるおまわりさん。まさに、童謡そのもの。
 女の虚無感は底知れず暗く重たく深いものだった。こんなはずじゃなかった。その言葉を繰り返すばかり。さっきまでバネのように弾んだ身体が、今ではまたそれ以上に重く感じられた。あの地下壕の住人たちを失望させ、マンホールの暗闇に落ちて行くのだろうか。女の頭は、錆びた鉄の塊以上に重く、一切のことを考える気力すら沸かず、朦朧としていった。

 蛍光灯のニセものの光が、まぶしい。涙のせいで、余計に白く光る。ペンキ臭い壁が鼻に着く。腐った生卵のような粘り気が、気管にまとわりつく。
男は女の両脚を持ちあげ、無心に突いていた。足の裏に痛みの記憶はない。すべて夢だったのだ。どこからがウソでどこからが本当なのか、そんなのどうでもよかった。女にとって大事なのは、仕事でもお金でもなく、本当の幸せがどこにあるのか。他愛もない普通の生活がしたい。それだけだった。
しかし、女はもはやあのときの女ではなかった。鼓動は本能的に力強く、胸を突き破らんばかりだった。あいつらのいいようにされてたまるか!
呆然と覚めきれぬ頭の中で、ふと小学校で習った「てこの原理」が思い浮かんだ。支点、力点、作用点。まさに、固いベッドに横たわる自分と男とか、ホッチキスのように見えたのだ。ホッチキスといえば、針。女に迷いはなかった。
女は起きあがると、無心に股を突いている男の不意を狙って、指先二本で勢いのまま両目を思いっきり突いた。勢いが良すぎたせいで、男はベッドの角に背中を打ちつけ、そのまま床に頭をぶつけた。男が断末魔をあげたその口に、女は気管に絡んだどこの男のものかわからぬ痰を吐いてやった。
こんな清々しい気持ちは何年振りだろうか! まるでのどに刺さった魚の骨がやっととれたかのような、女はうれしさを自力で掴んだ。

地溝女

地溝女

「球体遊具」の前段階に書いたものです。 タイトルは、中国の廃油を再利用した「地溝油」からとりました。

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-10-25

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