球体遊具

球体遊具

ペンキを塗り重ねた細長い鉄の棒やコンクリートの塊なんて、いたるところに溢れているものです。

 ペンキを塗り重ねた細長い鉄の棒やコンクリートの塊なんて、いたるところに溢れているものです。公園の遊具やガードレール、学校の建物やビル、電車・バス、街灯・電線など、ない場所を探す方がたいへんです。でも、いったん、そのペンキと鉄にとてつもない嫌悪感をもち始めたら、たちが悪いです。
きっかけは、彼が大学の講義室で気を失ったことでした。二百人ほどの学生が同じ講義を受けていて、六月初めの大学構内は、救急車が駆けつけ、大騒ぎになりました。
 それから、彼は大学の敷地内に入るどころか、電車に乗ることさえ出来なくなりました。ペンキの臭いや、レールなどの細長いまっすぐな鉄が気持ち悪いんだそうです。
 これが、彼の、ぐうたらな、引きこもり生活の始まりでした。
両親は、きっと無理してワンランク高い大学に受かったせいだわ~ん、と彼のお受験疲れを優しく気遣いました。でも、彼は何日たっても恐いという気持ちが消えず、とうとう、せっかく受かった大学を辞めてしまいました。
「こら、なに勝手に人のPCに落書きしてやがる?」
「だって、ちっとも出て行ってくれないんだもの!」
「おまえのほうこそ、出て行け! 死人はさっさと成仏しろ」
「わたしは、プロテスタントです。宗教が違います」
「この前は、真言宗じゃなかったんだっけ?」
「改宗したんです」
 とにかく、この彼といい、ここの住人の兄弟はひどいヤツばっかりです。
可哀相な少女は、死んでからずっとこの四畳半部屋を出られません。そんな少女の事なんかお構いなしに、後から不動産契約かなんか知らないけど、意味不明な紙切にかこつけて、彼の兄が少女の暮らしを脅かしはじめたのです。ほんと、卑劣極まりないです。
 居場所のない幽霊に少しは同情してくれたっていいはずです。なのに、彼の兄は、このいたいけな少女を目の当たりにして、オバケだと口汚く罵るばかりじゃなく、窮屈な物置き部屋にしてしまいました。おまけに、二十歳過ぎても両親のすねをかじってばかりで、ろくに働きもしない彼を、この窮屈な物置き部屋に住まわせてしまったのです。
 彼ら男たちの傍若無人な振る舞いに、血も涙もありません。死んでもなおイジメられ続ける少女は、なんて可哀相なのでしょう。涙が止まりません。グズン、グズン。
「幽霊は明らかにウソ泣きである」
「なによ! ムカつく」
彼はちゃんと五体満足で、あっちのほうも元気なクセに、この部屋からほとんど外に出ません。少しはバイトでもすればいいのに、ふてぶてしくも三食昼寝付きで、毎日ごろごろとネットのキモいサイトばかり見て、昼夜逆転した生活で暇を持て余しています。
だから、お兄さんに毎日怒鳴られて当然です。炭酸ジュースにから揚げ弁当ばかり食べているので、ぶくぶくと太ってお腹も出て、顔じゅう脂ぎって不健康極まりないです。この甘ったれた依存体質に慣れ過ぎてしまい、彼は自分の醜態に関して、まったくの無自覚です。
「うるさい! 俺のこと何も知らないくせに」
「あなたの代わりに書いてやってるんじゃないの。ありがたく思いなさい。高等遊民ぶった、堅苦しいだけで意味不明な、あなたの文章なんかただのオナニーと一緒です」
 ちなみに、彼の書いた意味不明な文章は、こんな感じです。

『人間が消耗品となってから、どこに行っても余所者感を努力でぬぐいきれなくなった。それを寂しさや孤独とか言い換えてもいいだろう。……(以下、省略!)』

 いったいだれが、読みたいと思うのでしょう。
この部屋の「もともと」の住人である、かわいそうな幽霊についての描写もひどいです。

『少女は幽霊のくせに、壁抜けどころか、この物置き部屋の外にすら出られない。両膝を外側に向けた女の子座りのまま、ほとんど動かず、黒髪に厚化粧、襟周りがやけに延びた白いセーターに、赤いミニスカートの、今どきのギャルという感じだった。ちなみに、ひざ丈のストッキングの片方は穴が開いていた。まるでコンビニ前の駐車場で気だるそうに地べたに座ってケータイを弄っていそうな、いでたちだ。』

 明らかに悪意に満ちています。
 いくら部屋を自分のものにしたいからって、これはひどすぎます。
「おまえの方こそ、部屋を自分のものにしたいからって、書きたい放題、書きやがって」
「お互い様でしょ。それに、わたしは十四の時から親の力を借りないで生きてきました。他人に守られて、一方的に世間を怨むあなたとは違います」
彼は怒りにまかせて、少女に向かいペットボトルを投げてきます。
「俺のこと何も知らないくせして、御託ばかり並べやがって。俺だって、こんな生活したくてやっているわけじゃない。誰にも頼らず生きられるなら、とっくにこんな幽霊の出るゴミ屋敷から抜け出せている」
 たしかに、彼のいう通り、引きこもりになりたくって、引きこもっている人ばかりではありません。少女も幽霊になりたくって、幽霊になったわけではありません。
 彼は幽霊の恐ろしさに無自覚すぎるから、親切心で部屋を出るきっかけをあげているのです。そのくせ、頑固に出て行こうとしないのです。もう、一月以上こんな状態です。
「なんだよ、幽霊の恐ろしさって……」
「言ってもいいの?」
実は、少女の心の風船は、彼の住みだした当初から破裂寸前です。彼女は、数年ぶりに話し相手を嬉々としながらも、絶対に本音を漏らしてはいけないとしています。この苦しい気持ちをどう整理したらいいのか、赤の他人である彼に彼女の抱える心の膿を一滴でも漏らしてはならないのです。
「あなた、わたしの苦しみの渦に耐えられますか? ペンキ・レール恐怖症のあなたに」

 どうやら、この幽霊は本気らしい。
彼にとって、ペンキとレールの二つの単語は最大の禁句で、パソコンでこの文字を見るだけで気分が悪い。幽霊が一度ふざけて連呼した時、とてつもない頭痛と胸の疼きに、まる二日中眠れない程に苦しめられた。なぜか、世の中の森羅万象すべてを虚無の底へ叩き落とす、恐ろしいものを感じずにはいられないのだ。
あの講義室での気絶の原因は、いまだ原因不明のままだ。いずれにしろ、彼も幽霊も出口のなかなか見えない狭い部屋の中で、自分を守るだけで精一杯であることに、変わりなかった。

 ……ザ―ンンーーン……!
重い鉄扉が、古いコンクリートのアパートに響いた。やはり、鉄は苦手だ。
 兄が帰って来てきたのだ。ひりひりと痛いほどの緊張が走る。兄は仕事用のかばんを手荒に叩きつけ、硬い音を床一面に響かせて歩き、冷蔵庫の扉を乱暴に開閉したようだ。
「くそ、いい御身分だな」、安い発泡酒の缶が開いた。「毎日毎日、休日返上、サビ残、深夜労働と、こっちは寝て起きてシゴかれてと。頭の出来がいいおまえと違って、俺はどうせ二三年で潰れそうなブラックな会社にしか拾われないよ~だ。おら! なんか言え、この穀潰し!」
 兄は壊れんばかりの勢いで、静かな物置き部屋の扉をいつものように蹴った。どうやら相当酔っているらしい。仕事で何か嫌なことでもあったのか、ここ数日、いやほぼ毎日、兄の機嫌は悪い。彼は激しい物音に怯えるしかない。
「あのババア、勉強のできる弟ばかり甘やかしやがって! 俺の方は見向きもしねえで、会社では毎日死ぬ気で働いても人間扱いもされねえし、風呂入って、寝て、抜いて、また、どやされて……、ああ、クソ! バケモノと一緒にくたばれ、この木偶の坊。あの不動産屋のおっさん、このご予算なら、ここしかありませんねえ、って、殺人の起こった事故物件に、この俺をぶちこみやがって! どうせ、俺は一生、女に相手にされないで、安い金で使い古され捨てられるだけだ。この野郎! 酒とAVだけか、俺の味方は」
 兄は、執拗に壁と扉を蹴った。そのせいで、壁は穴だらけ、扉は開けづらい。しかし、薄い石膏の板を張っただけの壁なのに、不思議と穴は物置き部屋まで達しない。彼は怯えきって、兄のいる時間はトイレにすら行けず、震えた手で空のペットボトルのキャップを開け、ズボンを下げ、物音立てず用を足す。もちろん、少女には背を向けてだが、うまく入らず手や床に零れて、アンモニア臭がたつ。
「生身の人間のほうが、幽霊よりも怖いって、あんた変わっているよ」
「……(あれは、人間じゃないよ)……」

『幽霊は人間ではないんですが……。それは、置いてといて、彼の声はすごく小さいです。幽霊じゃなければ、聞き取れない大きさです。
 そのくせ、彼はこの物置き部屋に初めて入った時から、幽霊に気づいていたはずなのに、全く恐がりもせず、ふてぶてしくも無視しやがったのです。
 常識で考えて、彼の兄のように新しい部屋に引っ越して、幽霊に遭遇すれば、悲鳴をあげて驚くのが当たり前です。
幽霊は、これが彼なりの自分を守るすべだということは、理解していますが、初めは一緒の空間にいることさえ嫌でした。』

 また、幽霊が落書しやがった。
 「だったら、おまえが出て行けばいいじゃないか。俺はひとりでいたかったのに……」
「何だと、ごららああ! どの面さげて口聞いてんだ、この野郎! だれのおかげで、のうのうと暮らせていると思ってやがる!」
 兄がまた暴れ始めた。
案の定、隣の住人にインターホンを連打で鳴らされたので、今度は玄関扉を思いっきり蹴った。隣の住人も蹴り返した。お互い扉ごしに、なにやら怒鳴り合っている。彼はこんな鬼畜どもと同じ監獄の中で暮らすのが、ますます嫌になった。
「じゃあ、ずっと檻の中でいいの?」
「よくないのは、言われる前から解っていたさ。でも……、首を吊るしかない」
外で女の声がする。どうやら、ケンカを止めに入ったらしい。兄は再び物置き部屋の扉を拳で殴り、ユニットバスの扉をこれも乱暴に閉めた。
あんな兄でも、昔はとても優しかった。機械弄りやプラモデルが好きで、一緒に小遣いを出し合って、ラジコンカーを組立てたこともあった。彼が投げだしそうになったときには、兄が組立を手伝ってもくれた。なのに、今では……。

 隣の家の壁からは、高い女の声がする。言葉まで聞き取れない。が、その声はしばらくするとあえぎ声に変わった。臆病で惨めな彼は、本当に首を吊りたくなった。
「たぶん、今死んだら、誰も悲しまないと思うよ」
「いいさ。初めから、俺は必要とされなかったんだから」
すると、少女は意外なことを口にした。
「かいかぶりすぎ! まるで自分は初めから他人に愛されて当然だって言っているのと同じに聞こえる」
「やっぱり、俺にはいないんだな……」
「わたしは、初めからいませんでした、はあっ!」
 少女は咄嗟に口を両手で押さえ、目を見開いた。彼は目を見開き、少女を凝視した。
少女は溢れ出しそうな心の膿を必死に抑え込もうとしたが、もう遅かった。両目の瞳は、彼も今まで見たことのない青い水晶玉のような光に照らされ、両肩は力を失い、腕をなでおろした。
 「ここ、壁紙も床も張り替えたんだよね……」
少女が壁に手を触れながら、寂しそう言った瞬間だった。
彼の座っている場所が赤黒い血で覆われた。鮮血は床一面を深紅に染め上げ、四方の壁のいたるところに飛散していた。
 まるで異空間に放り出されたようで、彼はたじろぎ固まってしまったが、少女は赤く濡れた壁を触りながら、涙を一滴こぼした。
「ごめんなさい……」
少女は細い声でつぶやいたが、彼はこの言葉が何を意味するのか量りかねた――。

 冷たい夜でした。
 おまけに、雨まで降って、彼女の手はさくら色にしもやけて、細い指は震えていました。雨をしのごうと、茂みの中の大きな楡の木の根元で三角座りをしていましたが、雨は彼女の衣服を濡らしていました。
 でも、なぜか胸だけは、不思議なくらい暖かく、強い鼓動は収まりそうにありませんでした。白い息を吐きながら、彼女は自分のした大それた行動が、まだ信じられないというか、理解すらできませんでした。
 靴さえも履かずに跳び出したので、ぐっしょり濡れたピンク色の靴下は、落ち葉と泥でつま先まで汚れてしまい、氷のような冷たさがお腹の底まで伝わりました。
とても小さな公園なので、水飲み場や遊具はあってもトイレはないので、小さく自分の身をかがめて、お漏らしで暖をとっていました。彼女の歳なら、もうひとりでトイレに行けて当たり前でしたし、保育園ですらしたことない恥かしい行為でしたが、彼女は生き抜くために恥を捨てて、意識的にそうしたのです。
お洋服もぐっしょりと重く肌に吸いつきました。きっと、この姿を母に見つけられたら、また機嫌を損ね、怒鳴られ叩かれるに決まっています。母はお洗濯が大嫌いなので、お洋服を汚してしまう悪い子は、何度も何度も叩かれて、ベランダに放り出されるのです。
それ以上に、彼女はもっと悪いことをしてしまったので、果ては殺されて、まな板の上でみじん切りにされて、シチューの具にされてしまうかもしれません。
夜中、トイレに起きた時でした。母が服を着たままお風呂に浸かっていて、彼女は声をかけてはいけないのがすぐに解りました。母は苦しそうな表情でもがくと、水が赤く染まっていきました。ようやく取りだした血まみれの裸のお人形は白目をむいて、内臓のような紐みたいのが捲きつけてありました。翌日は、早朝からシチューでした。口の中で鶏肉の骨のようなコリコリとした、普段食べたことのない触感が、彼女の記憶に残っていました。母のお皿を見ると、小さな指のようなものが捨ててありました。
ときどき車の眩しい光が、茂みの中を照らします。母の男が捜しに来たんじゃないかと、不安が頭をよぎり離れませんでした。まだ、夜は明けそうにありませんでした。ますます、暗くなるばかりで、近くのお家から洩れた明りも消えてしまいました。公園や道を照らす明かりさえも、そのうち消えて、真っ暗な地獄に落ちてしまうと、思っていました。
でも、彼女は絶対に大人に見つかってはいけなかったのです。小学校も通わずに、タンポポの葉っぱなどを食べて、ここで隠れて生きて行くしか選択肢はありませんでした。なぜなら、彼女はもうあの母の子ではなくなったからです。突然の選択でした。
「ごめんなさい、お母さん、わたしはやっぱり悪い子です。ダメな子です。お母さんの子どもじゃありません。」罪の意識が、彼女をさいなめましたが、もう遅かったのです。何もかも遅かったのです。
このまま死んだ方がどんなに楽か、彼女は考えました。マンガのように天使が降りてきて、天国に運んで行ってくれるかもしれません。しかし、悪い子は悪魔に切り刻まれて、ぐつぐつとお鍋で煮て、魔法の薬に変えられてしまうでしょう。きっと、人間を苦しめる悪い薬に決まっています。しかし、彼女には、「死ぬ」ってどんな感覚か、想像できませんでした。
彼女は母に首を絞められたことがありました。苦しくて、爪をたててもがいてみても、大人の力はとても強く、むしろ余計にきつく締められました。息が出来ないで、脚をバタバタさせ、背中をよじりましたが、最後は頭がくらくらし始めました。やっと、手を離してくれましたが、首の鈍い痛みはそのあとずっと残りました。
また、腕をカッターで切られたこともありました。その皮が裂けて、赤い血が滲みだしたとき、腕がとてもひりひりしましたし、同じような感覚は、背中にやかんのお湯をかけられた時や、タバコの火を押しあてられた時にも、ありました。悪魔にみじん切りにされて、ぐつぐつお鍋に煮られた時の痛みを想像すると、とても我慢できそうにありません。
どっちにしろ、彼女はとうていよい子にはなれませんでした。お仕事で疲れている母をいつも困らせてばかりいたからです。
お砂遊びで、新しいお洋服を泥だらけにしました。久しぶり作ってくれたごはんより、冷凍のスパゲティーの方がおいしいと言って、残してしまいました。母が仕事で忙しく疲れきっているときに限って、よく熱をだしました。しらない男の人と裸でくっついているのを見て、母に声を懸けてしまいました。
寒さで、体じゅうの痣が痛みます。母にも、その男にも死にそうなほど、ぶたれたことがありました。鬼のような恐い目をした男でした。狭い家で、また、母とくっついているその男と目が合った瞬間、考える間もなく彼女は跳び出してしまいました。人生で初めての家出でした。
野良犬が四、五匹、いえ、七匹、寂しい街灯の下に集まってきました。みんな毛が雨にぬれて、尻尾が千切れて、傷だらけでした。なのに、三匹が吠えあい、追いかけっこをして、ケンカを始めました。みんな、大声で吠えていました。一匹が前足をあげて、もう一匹にのしかかり、牙をむけて首に噛みつきました。
彼女はとても恐くて逃げたかったけど、七匹の犬と彼女じゃとても逃げ切れないので、気づかれないよう、物音ひとつ立てないようにしましたが、そんな時に限って、茂みの枝を揺らしてしまい、一匹に気づかれました。母の男と同じ目で彼女を睨み、吠えはじめました。噛みつかれた一匹は、血だらけに皮や肉を引き裂かれたが、まだ胴体や脚を動かし暴れ狂っていました。
彼女は「死」を覚悟して、涙が止まりませんでした。彼女もきっと鋭い牙に噛みつかれて、ボロボロに肉を引き裂かれて、死んでしまうかもしれなかったのです。
「助けて!」
声は誰にも聞えませんでした。一匹が茂みの中を襲いかかったのです。犬の吐く臭い息が感じられるほど、近かったです。彼女は心臓がとびだしそうになりながら、低いフェンスをよじ昇り、間一髪で毒牙から逃れられました。足を挫いてしまいましたが、生き延びるために死ぬ気になって走りました。
だれも知らない街に行こう。
母も、目つきの悪い男も、恐い野良犬もいないくらい遠い街に――。
彼女は必死になって走りました。どのくらい走ったかも、覚えていません。夜空が白ばむ頃には、雨も上がって、見たことのない大きなビルや広い道路がある街に来ていました。しかし、彼女が公園から実際に走った距離は三キロにも満たないところでした。
大きな太い木が何本も植えてある、とても広い公園が、みかん色の眩しい朝日に照らされていました。かわいいスズメも起きたのでしょう、何羽も群れて飛び立って、電線に止まっていました。ちょうど、大きな広場で、おじさんたちがラジオ体操をしていました。みんな、優しそうで、野良犬のような目をした人は見当たりませんでした。
「お嬢ちゃん、お母さんはどこだい?」
彼女は首を横に振りました。ウソをついたのです。でも、おじさんは咎めませんでした。むしろ、お風呂に入らせてあげるといって、自転車の荷台に乗せてくれました。

 しかし、世界はこんにゃくの上に立てられた家のように不確かなもののように感じられるのも、事実です。彼女は、急に自転車から転げ落ちて、ひざを怪我しました。むしろ、自分から恐くなって跳び下りたのです。そのおじさんが、急に怖い人に思えたからです。おじさんは、自転車を止めて、慌てて彼女に駈け寄りました。
「おお、大丈夫かい?」
彼女はおじさんの手を強く払いのけました。おじさんが、本当にいい人なのか、根拠が全くないことが、解ったのです。彼女はスッカリ怯えきって、首を横に振り、後ずさりながら、逃げ去りました。自動車がたくさん走っていようがお構いなしに、車道の真ん中を泣きながら走りました。なにもかも信じちゃいけない、彼女は自分に言い聞かせました。
 それだけではありません。
走っている途中で、彼女はもっと恐ろしいことに気づいたのです。彼女は、本当に母が生んだ子なのかどうかも、不確かなのです。いちばん古い記憶を辿っても、彼女が生まれる瞬間まで遡ることが出来ないのです。しかも、あの女は、まわりの保育園のお母さんたちよりも、不自然に若すぎていました。まだ、二十二、三歳でした。いつも、あの女が彼女に何度も暴力を振るうのは、きっと仕方なく居候させているだけだから、彼女のことが憎くてたまらないからです。
 しかし、彼女は、あの憎き女に依存しなきゃ生きて行けない現実に絶望を覚えました。だって、彼女はお金をもっていないし、住む家さえなく、野良犬に追いかけられて、お腹をすかせて、走り迷うしかなかったのです。ずぶ濡れで走っている幼い彼女という現実が、無意味だということが解ると、彼女の心に空いた黒い穴は、大きくなる一途でした。
 「わたしは、あの女の召使い、乞食なんだ……」
彼女の足には、目に見えない鎖がシッカリ捲きつけられていました。どこまで、走って逃げようが、鎖は捲き着いたままなのです。鎖を辿れば、必ずあの女に手のひらに握られたままでした。彼女は、どういう経路を辿ったのか覚えていませんが、古いアパートの玄関に正座していました。
「ゴメンナサイ、オカアサン、ワタシハワルイコデス」
彼女は、母と犬の目の男の二人に、内臓が千切れんばかりに蹴られ、叩かれました。しかし、逃げたり、わめいたりは、一切しなくなりました。なぜなら、彼女は自分の運命を受け入れる以外に選択肢がなかったからです。


小便くさい禽獣は、やがて妖艶で蠱惑な匂いを漂わせる悪魔に、突如豹変しました。
 彼女が十四歳の誕生日を迎えたときでした。
 母には新しい男ができていました。犬の目をした男は、ときどきお金を無心しましたが、母の方から縁を切って、すでに檻の中でした。 
彼女はもう子どもではなかったので、大人のあざとい考えに気づかないはずがありませんでした。新しい男はちゃんとした職についていて、一見すると優しそうで生真面目なところがありましたが、結局は同じ穴の貉でした。母も含めた大概の大人と同様、本音では自分のことしか考えていないくせ、それを巧みに隠す狡猾な部分を持っていました。
 彼女は何度か児童保護施設に入ったことがありましたし、同級生の男の子からひどいイジメや暴力を受けたことがあったので、自らを実験台として、大人の性質を十二分に観察することがすでに出来ていました。おかげで、彼女は誰に対しても心を開くことはありませんでした。今日の今までです。家出のことも、虐待のことも、イジメの事も、これから話すことも……、一切だれにもうち開けたことがありませんでした。
 話を戻します。小便くさい禽獣は、一人前にも女特有の芳香剤の匂いを漂わせていたので、相変わらずイジメの対象でした。男子からブスだとか、クサイとか、黒髪がゴキブリの羽みたいだとか、ずっと言われ続けていたので、彼女自身もそう思い込んでいました。ただし、彼女は自分の容姿を改める気がまったくなく、死にたくなるほどの苦痛をあえて受け入れていたのです。イジメの本質を見抜いていたからです。
 簡単に言えば、こうです。被害者は同じ歳の同じ町に住んでいるという理由だけで、この四角い部屋に監禁されている、三十数人全員でした。得体の知れない何者かと、ずっと同じ服を着させられて、ずっと同じ時間を過ごさないといけませんでした。自分の居場所を見つけられないで、当惑して過すのが窮屈なのは当たり前です。その窮屈さから解放される、もっとも解りやすい目印をだれもが欲していたのです。出る杭は打たれるのは、確かです。毎月一回の服装検査で、空間の規律を乱す者がいないのか、教師たちは目を光らせ監視していました。なぜなら、彼らの仕事は、三年間何事もなく、この囚団をまた別の機関に送り出せばよかったからです。規律の乱れは、彼らの最大の敵です。たった一人で、数十人の海のものとも山のものとも判らない囚団の統制は、困難を極めます。そうして、ひとたび事が起これば、彼らに責任に転嫁され、彼らの生活を脅かしてしまいます。
 窮屈さから抜け出したい欲望と、何も起きてほしくない欲望。その妥協点が、彼女だったわけです。
しかし、母にできた新しい男のせいで、もはや彼女は、小便くさい禽獣ではなくなりました。女子からは相変わらず、何を考えているのかわけがわからないと、気味悪がられていましたが、野獣の芽を吹き出しつつあった男子たちは彼女の蠱惑な匂いに態度を一変させられました。妥協点を失ったクラス内の感情の渦巻きは、もはやだれも制御できなくなり、授業にさえ出られない子たちが急増しました。理由は簡単です。イジメの対象が次から次に変化していって、教師も誰を叱りつけていいか、判断できなくなったからです。
当然、彼女にとりまく匂いの正体は、服装検査で見つけられない代物でした。スカート丈や靴下の色、ピアスや化粧、染髪や華美な装飾など、彼女には、一切ありませんでした。教師たちは、彼女を穴があくほど厳しく検分しますが、ただならぬ匂いの正体を掴めず、苛立ちを募らせるだけでした。
彼女は自身の変化を素直に受け入れたかというと、そうではなく、気づくと肉体に勝手に備わっていたものが蠢き始めただけです。余計な装飾がない分、より強烈な芳香を発し始めたのです。

彼女がいつものようにカップ麺を夕食に食べていた時でした。新しい男が突然ケーキを持ってやって来ました。母が仕事で留守なのを承知済みのはずです。
「誕生日おめでとう」
彼女はこの十四年間、誕生日を祝ってもらったことがありませんでした。彼女自身、この日が誕生日であることさえ忘れていました。どう反応していいのやら戸惑う彼女をよそに、その男は小さなケーキにろうそくを立て、歌いだしました。
「誕生日、おめでとう」
「……あ、ありがとうございます……」
彼女は、ケーキを持ってきてくれたことへの礼のつもりでしたが、男はもっと喜べよと言って、彼女の髪がくしゃくしゃになるまで撫でました。そのケ―キがとてつもなくおいしく感じたのは言うまでもありませんでした。その反面、男が何か見返りを求めていることに、うすうす気づいていましたが、彼女はあの家出から「抵抗」の二文字が頭から消えていました。男の行動は、まったく予測できないものでしたが、「恐怖」や「屈辱」という文字すらなく、すっかり禽獣と化していました。
「……これ、何ですか?」
 プレゼントだよと言って、男は彼女に紙袋を渡しました。中身は彼女が今まで見たことのない、赤、紫、緑、青、黄色、オレンジの極彩色の縦の線が入った水着のようなものでした。彼女は色彩の鮮明さに言葉を奪われて、男に促されるまま着てみることにしました。
 鏡に映る彼女の姿は、今までに見たことのないものでした。肩から胴体の付け根に集約される色彩の帯は、彼女の骨格と肉付きとで創作された曲線の彫刻に、花を添えるに余りありました。まるで、足の指から、手の細いしなやかな指の先まで、ひとつの完成度の高い芸術作品でした。それまで、彼女は自分の体が美しいと思ったことは一度もありませんでした。当惑する自分の顔は、ブスなどとは程遠く、ゴキブリの羽のような艶をおびた黒髪は、白い肉体の彫刻に十二分に花を添えていました。
 ボール紙のような薄いふすまを開けると、母の男は、目を見開き驚いたまま氷のように体全体が固まってしまいました。彼女の覚えた優越感は、このうえないものでした。男は椅子から崩れ落ちてひざまつき、彼女を仏像かなにか拝むかのように彼女の手を取り、助けてくださいと懇願するばかりに口を開けたまま彼女の姿を見上げていました。
 男は母の留守をいいことに、きっと彼女を手篭めにしてもて遊ぶつもりだったのでしょうが、むしろ男の方が彼女の遊び道具にされてしまいました。彼女の心に灯った淫靡な炎は消えることを知らず、蠱惑な煙を焚き漂わせ、たちまち母の男をスルメにしてしまいました。でも、彼女の芯に灯る胸を突き破らんばかりの激しく躍動する欲望を満たすにはまだまだ足りず、砂漠をオアシスに変えるには不十分なまま、朝日を迎えました。
 さなぎは、ついに蝶へと孵化しました。仕事を終え干物のように生気を失くした母、たちまち娘の不徳に嫉妬の炎を燃やし、髪ごと引っ張り上げて、頬を思いっきり平手打ちしました。しかし、何を思ったのか彼女自身でも説明がつきませんが、彼女は母に口づけをして、その毒牙にかけようとしたのです。母はこの妖艶な悪魔に抵抗できず、泣き崩れてしまいました。
 彼女は初めて母から勝利をもぎ取りました。母の男はすっかり彼女の奴隷と化して、彼女は十四年の監禁生活から解放されました。男の高層マンションから学校に通うようになったのです。生活は一変して明るく華やかなものになりましたが、心の渇きが潤されることは一向にありませんでした。それは、新たな地獄の始まりでもあったのです。

 *

彼が我に返ると、少女は白い背中を向けて座りこんでいた。確かに、闇夜に光る裸体は均整のとれたとても美しいものだった。つま先から、すね、腿から、尻、背中にかけての肉付き、漆のような光沢のある長い黒髪。どれも美しく、不衛生なこの四角い空間には、不釣り合いであった。
 彼は本能的に少女に話しかけてはならぬ気配を感じ取っていた。ニンフかビーナス、あるいは、メデューサかもしれぬ。たちまち、毒牙にかかり石にされる男の気持ちも解らなくはない。彼の下半身は、どろどろの糊状態と化し、抑えようとしても抑えきれぬほど、白濁とした液が壊れた水道管のように幾重の布を突き破り溢れ続ける。こんな恥辱があろうか! 苦しい、痛い、恥かしい、見られたくない! たとえ、相手がすでに死んだ者であろうと。
 ……しかし、少女は彼のほうに振り向いてしまう。
白い噴水は、天井にまで届き、彼の精神と肉体は引き千切れそうになる。もはや、生気は穴のあいた風船のように凋んでゆくが、死ぬことさえ許されない苦しみに耐えるしかない。彼の生きた細胞の、生殺与奪はすべて少女の手中にある。
少女は澄んだ水晶のような瞳で、彼の醜態をじっと凝視している。白く柔らかく流線を描く肉体は、いっそう彼を苦しめる。筋の通った鼻に、紅い唇、柔らかそうな頬、鎖骨の描く幾何学的直線、ニの腕から指先一本一本にいたる手、強烈な芳香を放つ陰毛、そのすべてが彼の両眼を経て脳髄を焼き切るのにあまりあるほどである。
少女の瞳は彼の醜態を凝視し、こう言い放つ。
 「サイテー」

 *

 妖艶な悪魔は、自らの過ちのせいで狂い始めました。
 彼女と男との生活は、「何か」が決定的に欠落していました。時間も場所も選ばず、思うままに欲するままに戯れることが出来たにも関わらず、です。
 男はたしかに遊び慣れていました。体の扱い方も上手で、彼女と同年代の男たちとは比較になりませんでした。それでも、彼女の心は、砂漠に水を撒くかのごとく、すぐに乾いてしまい、より強烈な刺激を求めて彷徨しはじめました。その行為が間違いの始まりだったのです。
 男は年齢のせいもあってか、彼女の遊びに付き合うことが出来ないことも、まれではありませんでした。なので、自然と相手も手段も選ばず、いろんな男を消耗して行きました。なかには職を奪われた者もいましたし、彼女にまとわりつく不浄な噂の数々も公然の秘密と化して、知らない者はいないくらいでした。
 それでも構わず、彼女は遊びを続け、男を嫉妬させました。それは肝が座っていたのではなく、感覚が完全に麻痺したせいでもあって、規律を乱す存在となっても反省の色は全く見せませんでした。体罰や恫喝ごときで委縮することなど毛頭ありませんでした。はっきり言えば、だれも手に負えない不良少女でした。
 しかし、天はそんな彼女を野放図のままにしておくはずがありませんでした。
ある日、いつもと違う吐き気と気だるさが、彼女を苦しめ始めました。まさかとは思いましたが、そんなはずはないと思いなおし、放置していましたが、収まり切らなくなり、固形物を体が一切受け付けなくなりました。思い当たる節がないはずがありませんでしたし、当然毎月来るはずのものが、一向に来ないことに焦りを覚え始め、真実を知るのが怖くなりました。
 しかし、真実は真実です。彼女の身勝手な妄想通り、なかったことに出来るはずがありませんし、右往左往と戸惑う間にも、彼女の心を無視して、カウントダウンは残酷にも始まっていました。男と遊ぶことに全く気後れもしないくせ、当然の結果に怯えている彼女の稚拙さが、皮肉というか情けないくらいでした。
 結果は、何度試してみても陽性でした。最後の月のものから数えて、残り四週を切っていました。お腹はあからさまに膨らんでいました。しかも、父親の正体がだれなのか、彼女でさえ全く心当たりがありませんでした。
正直に事実をマンションの男に告げました。男は彼女の期待に反し、全くそっけない態度で費用を出すと言ったきりでした。未成年だから、親の承認が必要だと言っても、別に親じゃないから、と相手にされませんでした。母の携帯に電話をかけても、着信拒否され、メールを送っても返事がありませんでした。アパートに直接尋ねても、すでに引き払った後でした。
最後の最後までなんて冷酷非道な親なんだ、と憤りを覚えましたが、ふと、母が彼女を生んだ歳を逆算すると、恐ろしい現実に気づきました。
母は、いつもあんたさえ生まれてこなければと、酒に酔った勢いでいつも口癖のように恨み事を言い続けていました。今、彼女がやろうとしていることと、生むことを選んでしぶしぶながらも彼女を十四年間育てた母、いったいどっちが冷酷非道な親なんだろうか。幼いとき味にしたシチューの記憶が蘇ってきました……。
あのコリコリと鶏の軟骨に似た触感に、ブタ肉に似た味。
母が吐き捨てた、小さな指の骨。
夜中、風呂場で汗をかき、死にそうな声で呻いて血だらけになっていた、母の姿――。
すべてに辻褄が合った途端、彼女の嘔吐は止まらず、胃液を出しつくしても止まず、血が混じり始めていました。母に対する嫌悪というよりも、むしろ彼女という存在自体に対する嫌悪でした。それは、便器に頭をつっこんで、いくら吐いても吐ききれない程の、嫌悪でした。
彼女は殺人の共犯者であり、これからまた、もうひとりを殺そうとしている現実。こんな、生命に対する冒瀆があっていいはずない。
彼女は母によって畜生以下に苦しめられ続け、さんざんの屈辱と痛みに耐えてきたにも関わらず、その母以上に残虐な仕打ちを彼女は自分の子どもに下そうとしている。
まだ幼い彼女にとうてい育児や労働のすべてが務まるはずがない。彼女は母の奴隷だと思い続けていたが、実際は逆だった。彼女がさんざん十四年にわたって母を奴隷のように酷使し続けてきたのだ。
はじめは、母も惑いながら生む棘の道を選び、彼女のため愛情を尽くそうとしながらも、現実は昼夜仕事を選ばず地獄のような労働を強いられ続け、中絶のお金も出せず赤ちゃんを殺すことを選択しなきゃいけない状況にまで追い込まれ、鬼のような女に変えてしまった。十四年たって、やっと手に入れた自由でした。母がそれを到底手放すはずがないことは、彼女に充分、想像できました。
 彼女には、まだ虐待の生々しい記憶が残っていました。たぶん、一生、いえ、死んで魂だけになっても、残るほどのそら恐ろしい記憶です。
いったい何が原因でそうなったか、彼女も記憶があいまいなのですが、まだ保育園にも入っていない頃、母に力づくで押さえつけられ、服の上から熱湯をかけられたことがありました。その時の、母の人間離れした魔物が憑依した怒りの顔、背中じゅうを針で刺されたような痛み、そこから逃げたくても逃げられない恐怖が、ひりひりと今だに焼き付いています。
血を吐く彼女は、そのときの骨に沁み入る激痛が十数年の時を越えて走り出し、獣のような声で泣いていました。まさに、彼女は自分の犯した軽率な過ちのせいで、逃げたくても逃げられない罪を一生涯にわたって背負わなければいけなかったのです。
たとえ、彼女が自分で吐いた汚物のなかに顔を突きこんで自殺を図っても、彼女が自分で殺害した貴い命が二つから三つに増えるだけでした。どっちにしろ、お腹の子を彼女は自分の手で殺さなければならなかったのです。まだ、男の子か女の子か、はっきりしませんでした。日の光を澄んだ瞳で感じ、柔らかい風を胸一杯に吸い込む機会さえ与えられず、羊水の暗闇から生涯の逃れられない死の暗闇に突き落とすのです。
母と彼女、どっちが悪虐非道か明白でした。子は親を選ぶことが出来ません。彼女は、これから先どんな人畜非道な罰でも受け入れる覚悟をしなければなりませんでした。これから先は、熱湯とは比較にならない罰に苦しみ続けるのです。
「ごめんなさい……」
彼女は、咽が枯れても、叫び続けました。生きている人間を殺すのとは違い、生まれてもいない人間を殺すのです。喜びも怒りも悲しみも楽しみもまだ知らないままに死んでしまうのです。何度、後悔しても後悔しきることはありませんでした。禽獣どころか鬼畜どころか、生き物として最低最悪の罪です。
「うるさい、いい加減にしろ、カネを出すって言っているだろ?」
この男はどこまでも自分勝手で、薄情者でした。この男は、世の中カネさえあれば、何でもどうにかなると考えていた節がありました。事実、生活にかかる最低限のお金も住む場所も、この男に頼るしかない弱みを握られていました。彼女はこの男のペット同然でした。

 病院の窓から見える空に、一羽のカラスが天高く澄みきった青空の中を優雅に飛んでいるのが、彼女の目に移りました。男は彼女が入院している間、手術の時でさえ顔を見せませんでした。唯一、退院の日に入ったメールは、閉口するほどの卑猥な言葉の羅列でした。
「カラスかあ……」
なんでもない、どこにでもいる鳥なのに、見ていて自然と涙があふれ出しました。公園に住みつく野良猫でさえ、母猫は大事そうに仔猫を舐めて暖かい体に包んで守ります。きっと、カラスも巣の中で大事に雛を守っているはずです。傷ついた野良犬でさえ……。
 それなのに、なんで、なんで、なんで……。
 彼女はコンクリートの壁の中、雨風をしのげて飢えに苦しむこともありませんでしたが、手足には目に見えない鎖で何重にも拘束されていました。多少、生きて行くのは大変でしょうが、カラスを眺めていると、軽くなった体をさすりながら、彼女は自分における理不尽さが身に沁みました。体の出血は収まっても、心の血が止まることはありませんでした。

 *

 「もう、自分を責めるのは止めろ! 」
少女は目から血の涙を流し、白い顔を紅く染めている。とても濃い紅の色だ。その血は、とてつもなく強烈な芳香を放つ女特有の血の匂いだ。
彼は頭がくらくらしそうな匂いに耐えきれず、部屋じゅうを彷徨いながら、二度、三度と嘔吐する。もう、扉はなく、逃げることさえできない。
「だから言ったでしょ。この部屋を早く出なさいって……」
少女は口からも同じ色をした血の塊を吐く。何度も何度も。白い体がたちまち紅く染まってゆく。彼は頭蓋骨が破裂しそうな激しい頭痛に襲われて立つことさえできず、必死に手を伸ばして、つぶやく。
「もう……、責めるのは止せ……」
「責めているんじゃない。この気持ち……、どこにも、だれにも、出せなかった……、話したくても……、話したかった……、でも……、解っていた……、解っていたよ……。だれにも……、解らない……、受け止めきれない……」
ピシャ、彼が伸ばした腕を降ろすと、床一面が少女の血で浸っている。彼の口や鼻の中まで入って来る。身を起こし血を吐いて、彼は言う。
「こんなに、なるまで我慢していたのか?」
「だれも……聞かない……解らない……」
少女はまだ血を吐いている。血のかさは増えて行き、彼の腰までになっている。彼も知らず目頭が熱く、動悸が激しくなる。彼は、俺に言え、ぜんぶ聞いてやる、と言いそうになったが、少女の苦しみはとても彼ひとりにも背負い切れる重みでも量でもなかった。ふがいない自分に情けなく思いながら、彼は言葉を選んで言う。
「そうだよな、本当にそうだよ。だれに、どこに、ぶつけていいのやら」
血の量は忽ち増えて、天井近くまで増える。彼は溺れそうになりながら、重い血のプールを必死でもがき酸素を求めるも、血の匂いで汚染されていて、内臓をえぐられそうになるうちに、血の量は天井を溢れんばかりになって、部屋の全てが血の水槽と化してゆく。彼は全身すべてを少女の血で侵され、意識が遠退いていく――。
 ああ、このまま死んでいくのか、ウソでもいいから、なぐさめてやりたかったな、そう思っていた頃、暗い水槽の底で、声をあげて泣いている少女を発見する。彼の体は、たちまち少女の方へと吸い寄せられていく。
「お人好しすぎるよ、あんた」
細い体を小さく曲げていた少女は、顔を上げるなり彼に向かってそう言う。
「どうせ、俺は殺されるんだろ?」
「そうだよ。あんたのせいだよ。死んでいるのに、わたしを悲しませないでよ」
少女は泣きながらも、笑っている。その紅潮した顔を見て、彼も不思議と微笑んでしまう。もう、後戻りはできない。少女は死んでからもずっと我慢して来たのだ。こうなれば、無間地獄の底まで、少女の苦しみに付き合ってやろうという気分に、彼はなっていた。
「あんたの生死に対して、わたしは責任を持ちません。ていうか、持てません」
「解っているさ」
 彼はこう思っている。
 ここまでの少女の半生が、あまりにも悲惨すぎていた。虐待にしろ、イジメにしろ、中絶にしろ……。男である自分の立場を考えるなら差し出がましいかもしれないが、中絶を選択しなきゃいけなかった少女の強い罪悪感は解らなくはないが、まだ中学生かそこらの少女ひとりが背負うにはあまりにも重すぎるし、大人でも耐えきれるようなものじゃない。少女ひとりがそうしなきゃいけない状況に追い込まれてしまったのは、ただ彼女の母親のせいでも彼女自身が無智なせいだけでもないはずだ。
「珍しくないよ、こんな話。みんな口に出さないだけで、何かしらの苦しみは必ず持っている。あんただって、そうじゃないの?」
 言われてみれば、確かにそうだ。彼だって、引きこもりたくて、こんな狭い場所に引きこもっているわけではない。そうでもしなきゃ、自分を保てないほど苦しく、自分が引き裂かれるのが怖いのだ。しかし――。
「そもそも、なんでこの部屋から出られないんだ?」
「これから、話します。あんたと比べたら、わたしは相当に穢い生き物です。そうなるしかなかったんです」
「また、自分を責めて」
「あんただって、自分を責めていたでしょ。オナニーしながら」
そう言われると、彼は返す言葉を失くしてしまう。しかし、あの時、なぜ彼は自制を失っていたのか、まだ説明がつかない。
「ああなって、当たり前です。別にどうでもいいでしょ、そこの話は。自分を責めるのは、一種のマゾヒズムです。大事なことは、これから話すことです」

 *

 退院したあとの彼女は、すっかり牙を抜かれていました。
 男に体を差し出すことを条件に、彼女は普通の高校生になりました。雑踏に紛れ込んでいれば、誰も彼女だと気づかないくらい、もはや一時期のような男漁りはしなくなって、興味すらなくしていました。この選択は、喪失感を紛らわすためで、あの事件をもう過去の話にしたかっただけでした。
 男は以前より彼女に気を使うようになりましたが、相変わらず彼女を陳腐な消耗品にしたてて満足していました。彼女が生理中のときは、別の女を代用していたようですが、彼女に不思議と母のような嫉妬心は起こりませんでした。
 それをいいことに、男は彼女がマンションにいても、代用品の女を連れ込むようになりました。それでも、彼女に全く嫉妬は起こらなかったのです。情婦のくせに、とても薄情でした。いえ、むしろ初めから、お互いに情などあるはずがなかったのです。
 彼女はいずれこの男から離れ、ひとり立ちするつもりでいました。そのために、高校へ進学したのもあったのですが、居場所のなさというか虚しさに似たものは漂っていました。もう中学生じゃないので、イジメみたいなものはありませんでしたが、お互いに傷つかない妥協点を見つけることに慣れていました。大人なのか子どもなのかもよく解らず、何が違うのか説明もつかない雰囲気のなかに、中途半端に漂っている状態でした。
 そんなとき、意外な人物からメールが届きました。
まだ二年かそれぐらいしか経っていませんでしたが、何十年も遠い過去のように感じられました。それは、メールの文面が仰々しいくらい丁寧だったところにも現れていました。  
まるで会社の上司か目上のお客さん相手に使う、大人どうし特融の共通語で書かれ、絵文字も何もありませんでした。内容は、人目に差し障りがあるから場末の安いビジネスホテルで何時に会ってくれないか、というものでした。
彼女にとって正直会いたくない人物でしたが、ただならない雰囲気を感じ取ったので、会うことに決めました。
放課後、別にやましい理由もないので、制服のまま薄暗い建物のなかに入ると、案の定フロントで無愛想なおばさんに呼び止められました。事情を説明すると、何階の何号室だと言われ、細いエレベーターに乗りました。あの女の人生を象徴しているようだなと、揺れるエレベーターのなかで彼女は思っていました。その思いは、そっくり彼女自身にも当てはまることでしたが。
その女は彼女を招き入れた途端、絨毯にひざをついて彼女に向かい謝りました。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
まるで命乞いをされているかのように、泣き叫んでいました。しばらく見ないうちに、とても老けて髪のなかに白いものが目立っていました。まだ三十代のはずなのにです。
 彼女もしゃがみこんで声を上げで泣きました。こんな弱々しい姿を見たのは、彼女の人生で初めての事でした。だから、彼女は余計に心細く感じて、老婆のように小さく塞ぎこむ姿は見るに耐えられませんでした。
「やめて、やめてよ、お母さん……」
彼女は額をこすりつけて謝る母の体を起こそうとしますが、母はずっと頭を下げたまま狂ったように、ごめんなさいと泣き叫び続けていました。母の罪悪感は、彼女の想像をはるかに超えるほど深いものでした。もはや鬼の形相で幼い娘に熱湯を浴びせた母ではなく、ひとりの弱い女の姿でした。
 母は初めて彼女に胸の内を話してくれました。
 それはとても痛々しい内容でした。彼女も自分の子どもを中絶した罪の意識が消えていない頃でしたので、余計に胸に響きました。
 「あんたのお父さんがだれなのか、あたしも知らないの。ちょうど、あんたの歳ぐらいのとき、テレクラでいろんな男の人と会っていたから。はじめは、なにもかもが嫌になって逃げていたのが、だんだん抜け出せなくなって、気づいたら妊娠していました。学校は規則が厳しかったから退学になって、親とケンカになって家出した後、あなたを生みました。周りからはもちろん堕ろせと言われ続けましたが、このときあたしの味方はお腹の中のあなただけでした。この子に絶対悲しい思いをさせたくない、自分の力で絶対に幸せにするんだと決めていました。まだ苦労知らずの小娘だったから。
 現実はそんなに甘くありませんでした。毎日、三時間おきにおむつを変えてミルクを飲ませて寝かしつけて、そのうえ仕事なんてとても無理でしたが、この頃まだ少なかった乳幼児向けの託児所に預けて、少しでも時給のいいところになると夜の仕事しかありませんでした。ほとんど寝る時間もなくて、あなたの泣き声を聞くことがだんだん嫌になって来て、三年目ぐらいで限界をとっくに超えていました。
 泣いているあなたに暴力を振るってしまいました。赤ちゃんなら泣くのは当たり前だし、あたしだって優しい母親でいたかったのに、どうかしていました。とても苦しくても、誰にも相談できなかったし、周りのあたしと同じ年の子たちは、結婚はおろか、まだほとんど学生で、友達どうしで遊んだりカレシを作っているのを見て、とても惨めな気分になっていました。
 それでも、絶対にあなたを守るんだと言い聞かせて、少しでもたくさんお金を稼ごうと汚いこともいっぱいしました。傷ついてストレスと不眠で安アパートに帰ると、ゴミのだらけの部屋であなたが泣いているのです。あなたは決して悪くありません。それははっきりしています。でも、ついあなたを責めてしまい、ヤカンに沸かしたての熱湯をあなたにかけてしまったこともありました。すごい後悔と罪悪感で、この頃から自分の腕をカミソリで切って、気持ちを紛らわせていました。男に逃げたこともありました。ろくでもない男ばかりでした。
 あたしも何度か暴力を振るわれたこともありました。それは別によかったのです。しかし、あなたに暴力を振るう男がいて、とても耐えきれなかったですが、男と離れたくないあたしのエゴのせいで、あなたを守ることができませんでした。
 そんなとき、妊娠がわかってしまって、もちろんあなただけで精一杯だったし、中絶を選ぶしかなかったのですが、そのお金さえありませんでした。とても人間のやることじゃないですが、料理の中に赤ちゃんを混ぜてあなたにも食べさせて、共犯者に仕立て上げました。自分でもどうかしていたと思います。苦しくて、苦しくて、自分を殺したいほど憎いと今でも思っています。
 あなたが小学校に上がる前に家出をしたことがありましたね。その気持ちは当然だと思います。よくこの時まで、あなたも我慢していたと思います。辛い思いばかりさせて、理想とほど遠い母親でした。しかし、このとき、あなたがこのまま消えてしまえばいいのに、と内心思っていたのもウソではありません。最低な母親です。ずぶ濡れで帰って来たあなたの顔には、諦めに似た表情がありましたね。それまで、掃除機の柄で叩いたら、ごめんなさいと泣き謝っていたのに、泣かなくなったのです。そこまで、あなたを傷つけておきながら、あたしはもっと泣けばいいのに、執拗に叩きつづけました。
 児童相談所から通報があって、あなたが保護される時になるまで、あなたへの思いやりを忘れていました。後悔と罪悪の念で、自殺を図ったこともありました。いろんな人に迷惑をかけて、やっとあなたが家に帰っていた時、あなたはすっかりあたしに心を閉ざしていました。可愛げのない子だなと思ってしまいました。全部、自分が悪いのにです。
 小学校、中学校とイジメにあっていたことも知っていました。担任の先生も、あなたをとても心配していました。でも、あたしと一切言葉を交わすことのなくなった、あなたにどう接して励ましたらいいのか、解んなくて戸惑っていました。
そうしているうちに、あなたひとりが大人になってゆき、あたしが当時付き合っていた男をあなたが寝とったことへのショックはとても大きかったです。こんな形で、娘に復讐されるなんて考えもしなかったからです。でも、妖艶なあなたに口づけをされたとき、正直に敗北を認めなければなりませんでした。女として十四になったばかりの小娘に負けたことが悔しかったです。あなたはあたし以上に大人びて美しいからです。あたしは嫉妬に狂い、あなたを男と一緒に閉めだしました。
あなたが妊娠したってメールを送ってきたときがありましたね。あたしは母親のくせに、あなたを守れず、自業自得だと思って一切連絡しませんでした。とても、母親のやることではありません。大人としてとても幼稚すぎていました。
そう気づいたのは、あたしのまわりに誰もいないってことが次第に寂しく感じるようになって、行きずりの男とまた妊娠して、子どもを堕ろしてしまったからです。身が引き裂かれそうになるくらい苦しくなって、ここまでのあなたへの罪の数々は謝っても謝り切れるものでないことは百も承知です。あなたに殴られ殺されてもいいくらい、悪いことをしてきました。許して下さいとはとても言えませんが、謝るだけのことはさせてください」
母がここまで言い切ると、彼女は思わず母を抱きしめました。なんて可哀相な女なんだ、こんなに苦しんでいたなんて、彼女も想像していませんでした。母は泣きながら、殺してと叫びました。彼女も殺されていいぐらいの罪の意識を心に封印してきていたので、母の気持ちが痛いほど解りました。
「お母さん、もう自分を責めないで。わたしのために一杯一杯だったのは、解っているから。それに、わたしこそ赤ちゃんを中絶して……」
母は首を横に振りました。
「つらい思いばかりさせてしまって……」
母も言葉が出ないほど悶絶してしまって、むせび泣いていました。
彼女は母とようやく対等に向き合える気持ちになりました。母が決して強い人間ではなく、彼女とそんなに変わらないんだと理解できたからです。やはり血は争えませんでした。
 「まだ、あの男と一緒?」
母はつらそうにつぶやきました。彼女は、ためらいながらも頷きました。母にこれ以上つらい思いをさせたくなったのですが、彼女に行く当てなどありませんでした。
「……そう」
母が声にもならない声で、静かに涙を一筋こぼしました。母の苦しい胸の内が、痛いほど彼女に伝わりました。彼女は思いっきり泣けるのがこの時しかないと、直感でそう感じ取っていました。母の痩せた体に着古した服、とても生活状況がいいように感じられませんでした。事実、これが母に会えた最後でした。
 彼女は思いっきり抱きついて、幼い子どものようにしゃくりあげて泣きました。本当は雨の降る夜中の公園でそうしたかったですが、お互い苦しい気持ちの限界はすでに通り越していました。
わずかな西日しか差し込まない小さな部屋のシングルベッドで、お互いの傷を舐めあいました。そうする他、寂しさを埋めあう手段をお互いに知りませんでした。親子そろって、生粋のビッチです。むきだしになって、確かめあわないと、心を満たされる実感がないのです。
母の左腕は包帯が巻かれ、体のいちばん大事なところには、二つのピアスが開けられていました。母なりの罰の印だったのでしょう。彼女も自分の体に罰の印をいれたいと正直に母にいいました。母はこんなことしても贖罪にはならないし、余計に自分を苦しめるだけだから止めなさい、と言いました。たしかに、羨ましくもありませんでしたし、母が痛々しく見えるだけでした。
むしろ、母は彼女の体を恋い慕うように眺めてしました。あのときの口づけが、母の体に火をつけたのかもしれません。ただ、背中に残るやけどの傷跡を触りながら、あたしのせいだと静かに涙をこぼしました。さんざん泣き疲れていたはずなのに、彼女の目にも涙が浮かびました。
彼女はいたたまれない気持ちになって、母を慰めたくなりました。こんな気持ちになったことは、それまでの彼女にないことでした。こうして、罪を償えるのだろうか、彼女にはまだ判りませんでした。ただ、最後に母のうれしそうな顔を見られて、彼女は少し救われた気持ちになりました。

母との再会から数日たって、男のマンションから見える夜景の色が、彼女には以前と違って見えてきました。
古いアパートで暮らしてきた彼女には、きらめく地上の星たちを見下ろすことなんてありませんでした。まさに雲の上の世界でした。しかし、彼女の心にどこか虚しい感情が湧きたっていました。
四角いコンクリートの壁に挟まれたガラスから見える夜景は、コンクリートと鉄でできた幾何学模様が、地平線の果ての暗闇まで続いている現実を映し出していました。人工的で無機質な空間の連続です。人々はそのなかに明かりを灯し、息をひそめている。それは彼女のいる位置も同じだ。決して雲の上なんかじゃない、そんな気がしてきました。
彼女は奇妙な感覚にとらわれながら、深夜仕事から帰宅した男にいつものように肉をむさぼられていました。
しかし、彼女の心の中は、波風の全くない静かなものでした。気持ちよくもなければ、気持ち悪くもなかったのです。静かに男の動きを観察していました。
化学的なもので作られたアダルトグッズを駆使しても、男そのものの動きはとても無機質でした。まるで機械を弄っているだけにしか、見えませんでした。
彼女は冷めた頭の中で単純な疑問が湧いてきました。
「この男、なにをしているのだろうか?」
さすがに、この言葉を口に出来ませんでしたが、彼女は心のなかを読まれないよう言葉を選んで聞いてみました。
「ねえ、気持ちいい?」
「ああ、すごいよ」
まるで安もののAV男優です。その後も、男は説明書どおりに彼女という機械を操作しました。はっきり言えば、彼女はこの男をバカにしていました。
「わたしのこと愛してる」
「愛してるよ」
男の声は機械音源のようでした。
彼女は初めからこの男を愛していませんでした。いえ、恋愛すらそもそもしたことがなかったのです。母のお腹の子だけが味方という言葉の意味は、彼女もよく解っています。胎内に宿る命には、特別な意味があります。彼女の人生を滅茶苦茶にした女でさえ、彼女にとって最大に愛しい存在でした。
男は企業や行政を相手に情報を売る大企業で働いて、それなりの地位や年収がありましたが、いったいどういう会社でどんな仕事をしているのか、彼女にはまったく理解できませんでした。男のほうも彼女に仕事の話はいっさいしませんでした。しかし、休日や昼夜を問わず忙しく働いて、暇があれば女と遊んで、身を寄せる場所のない彼女をペットのように飼いならしていました。独身か所帯持ちかも、あいまいでした。
 たぶん、この男は量産的なヨクボウにあやつられ生きて、最後までひとりのままコンクリートの中で死ぬのだろう。優しくもなければいじわるでもない、単純で感情の起伏の少ない、ただの計算器のような人間でした。たぶん、幼いころから、そう刷り込まれてきたのでしょう。脳細胞が終身刑に処せられていました。お金と地位のかわりに心を失った、ただのコンクリートに組み込まれた機械の部品でしかありませんでした。役目を失えば、スクラップと同じです。
彼女はまる裸の男にこう尋ねました。
「お金で買えないものって、あるの?」
男は鼻にかけるように彼女を笑って、言いました。
「社会にとってお金は、血液のようなものだよ。そんなものない」
しかし、血液の流れが止まってしまう出来事が起きてしまったのです。地震でした。
コンクリートの中が上下左右に激しく揺れて、立っていられないほどでした。冷蔵庫や食器棚、テレビなどが倒れて、高価なワインが次々と割れて、破片が飛び散りました。揺れが収まっても、停電で明りを点けることが出来ず、水道も止まってしまいました。携帯電話もまったく機能していませんでした。非常用のエレベーターで、外に出られましたが、寒さ厳しい中、戦場のように人でごった返し、固い非常用毛布で暖を取るしかなく、男は余震の揺れにすっかり怯えて、公園に住むホームレスより頼りなかったです。
彼女は澄んだ夜空に輝く数えきれない星々を眺めていました。普段の人工の明かりで黄土色に染まった空とはまるで別物でした。飢えと寒さと暗闇に強い彼女は、名のない怯えた群衆をよそに、間に合わせで着たセーターとミニスカートだけで夜の散歩を楽しんでいました。お金そのものが、なんら意味を持たなくなって、大自然の暗闇に放り出されると、清々しい気分でした。地球の持つ力強さに感謝したいぐらいでした。

地震の混乱は二週間ぐらいありましたが、彼女は男のもとに帰りませんでした。さまざまな理由で、社会から放り出された公園の人たちの中に、以前母と会ったことのある人を見つけたのがきっかけです。犬の目の男でした。
 彼女は幼いころの記憶が蘇り、条件反射で逃げようとしましたが、男の方から待ってくれと話しかけられました。
適当なベンチを見つけ、端々にお互い座ると、男が湿気た古い煙草のようなものを勧めました。
「マリファナ?」
「マイルドセブン」
彼女も男から燐寸を借りて、火を点けました。肺に溜めこめた熱い煙をゆっくり鼻から出しました。澄んだ冷たい空気が体を満たします。
「おまえのかあちゃん、元気か?」
「連絡先は教えないよ」
男は煙草を吸ってゆっくり吐きだします。彼女も煙草を吸ってゆっくり吐き出しました。
「そうか……」
彼女は無視して煙草を吸いました。
「まだ怨んでいるか?」
「当たり前です」
男はまた煙草を吸いました。正直に謝ればいいのに、一向にそうしませんでした。
「おまえのかあちゃんにそっくりだな」
彼女は無視して、煙草を吸いました。
「もう一本要るか?」
「いいです」
お互いに会話らしい会話が出来ず、気まずい雰囲気だけが漂っていました。重い口をようやく開いたのは、犬の目の男のほうでした。
「寂しい女だな、親子そろって」
犬の目の男は、彼女をベンチに残し立ち去ろうとしました。
男の言い草が負け惜しみなのは明らかですが、彼女は何か見透かされた嫌な気持ちを抱えました。彼女と母の固いきずなが穢された、その口惜しさもありましたが、犬の目の男を否定できない現実もありました。
「寂しいのは、あんたでしょ?」
彼女は大声で叫びました。
「じゃあ、慰めてくれるのか?」
犬の目の男は振り向きました。
「だれが、あんたなんか!」
「やっぱり、おまえは寂しい女だ。おまえのかあちゃんもそうだった。自分のために体を売る女だった。だから、俺みたいなろくでもない奴に、いいように食いつぶされた。おまえもそろうだろ? 心の乞食め」
「わたしは、乞食なんかじゃない!」
「口惜しいなら、慰めてみろ」
犬の目の男は、彼女に背中を向けて立ち去ってゆきました。
 彼女にとって、この男はどこまでも酷い奴でした。狙いは見え見えでしたが、母を侮辱した態度が気に入りませんでした。
「土下座して、お願いしますって言ってみなさい、慰めてほしければ」
 犬の目の男は、彼女の方に向き返り、意外にも素直に土下座して、お願いしますと言いました。このまま、彼女は逃げてもよかったのですが、男の頭の上をパンプスで踏みつけて、ほら、もっと頭を下げて、と言いました。彼女も負けずと悪い女でした。
 ところが、額を地面に擦りつけられた男は、急に咳き込みました。彼女が慌てて足を離すと、男は少量の喀血をしていました。
「罰が当ったんだな」と、男は苦しそうに言い、また咳き込みました。
「早く病院に行かないと!」
「バカか、住所不定、無職の無一文の男が、病院になど行けるわけが……」
男の体は熱く、相当ひどい熱が出ていました。よく見ると、服の両そでが血で汚れていました。相当以前から、喀血していたことが、素人の彼女にも判るくらいでした。
 彼女は近くの公衆電話を捜そうとしますが、情報科学技術の発達のおかげで、どこを見回しても、そんなものは一切ありませんでした。だれが葬ったか公衆電話、血を吐く男に情けはありません。
 血を吐く男は、彼女をよそに立ちあがりますが、二三歩いて頭から倒れました。起きあがろうと腰を上げますが、脚にもう力がありませんでした。彼女は男の肩を持ちあげようとしました。
「やめろ、放せ」
血を吐く男は彼女の助けを拒みました。こんな時でも意地を張りますが、結局彼女の肩を借りなければ歩けないほどでした。男は、自分の寝ている小屋まで運んでほしいと、頼みました。
 男の小屋は、大きな楡の木の根元にありました。ブルーシートと木材片でできた粗末なものでしたが、皮肉にも道路をはさんだ向かいのビルは倒壊し、その奥の住宅地から火の手があがっていたのに、その小屋はまったく倒れていませんでした。
小屋のなかは意外に暖かく、底冷えもなく、日差しも感じられました。彼女は血を吐く男を横にして、楡の木から三百メートル離れた位置にやっと、古い公衆電話を見つけましたが、救急車は全部で払ったから、自分たちで病院に連れて行ってくれと言われました。タクシーを拾うにも、車道には車一台も走っていませんでした。火事もビルの倒壊も放置されたままでした。
彼女が小屋に戻ったとき、男は震える手で茶筒の缶を彼女に渡しました。中には夥しい数の一万円札が丁寧に折り目もつかず丸めて入っていました。彼女が一枚一枚を数えてみると、全部で五十万ありました。
「おまえの金だ、うけとれ……」、男はまた咳き込みました。
彼女は一万円札と男を見比べました。
「盗んだんじゃないぞ、ムショとアルミ缶で稼いだ金だ」
「なんで、わたしに?」
「おまえのかあちゃんに借りた……」、男は血を吐きました。これまでにない血の量でした。 
男が彼女に声をかけた本当の理由は、このお金を渡したかったからでした。男は紅く染まった歯を見せて笑い、「気持ちのいい土下座だった」、と最後まで戯言を口にして謝りませんでした。男は上下に胸を動かし、指の先がしだいに冷たくなってゆきました。しかし、表情はこれまでにないほど穏やかで、もう野良犬の目ではありませんでした。
 彼女と母の人生を滅茶苦茶にして、ずっと苦しめ続けたひどい男でしたが、彼女の目には薄ら涙で滲んでいることを否定できませんでした。最後の最後まで酷い男でした。口惜しいけど、彼女はこの男を憎むことが出来ませんでした。蹴飛ばされ、殴られ、彼女を全身痣だらけにしただけでなく、母が体を削って働いたお金を浪費して、人殺しまでさせたのに、です。
 三日後、男は息絶えました。生意気にも、とても気持ちよさそうに穏やかな顔のまま旅立ってしまいました。彼女は目を赤く腫らして静かに泣いていました。彼女にとって人の最後を見取るのは、はじめてのことでしたし、人のために涙を流したのもはじめてでした。きっと、男にとって幸福な最後だったはずです。独り寂しく死んだのではありませんから。
 まだ地震の混乱が収まってない時でした。
 彼女の脳裏には、ありがとうと、とてもうれしそうに涙を流す母の顔が離れませんでした。まるで幼い子どものように娘に甘えていたわけです。母の苦しみ、悲しみ、決して強い大人ではなかったという事実。みんな、寂しかったのです。彼女だって――。
 狂ったように男を漁ったのは、彼女も母も同じでした。母は誰にも守られることなく、彼女を育てようとして、男からの暴力と妊娠を拒むことが出来ず、傷ついた心のまま大罪を犯し、同じように孤独を抱えた彼女も母の男を寝とって、母と同じ大罪に苦しむことになってしまったのです。
 彼女の贖罪の道が見えてきました。自分の体と心があり続ける限り、孤独をなくしていきたい。そうすればきっと、彼女や母のように罪で苦しむ女たちも減っていくはずだ。もう自分のために泣いたりしない。泣くなら人のためだ、と。
 彼女が、マンションの男のもとから離れる決断をしたのは、このためでした。

 茶筒のお金は、もともと母のお金でした。同時に男が生涯かけた贖罪のお金でもありました。彼女が自由に使っていいものか躊躇いが当然ありました。もう携帯電話がつながるころになって、母に電話をかけましたが、母はもうすでに携帯を手放したようでした。金銭的な理由か、娘に迷惑かけたくない思いなのか、本当の理由は、はっきりしませんが、いずれにしても、彼女が使い道を決めなければなりませんでした。母なら、どう使うだろうか真剣に考えました。
男から貰ったお金のうち、三万円ほどを彼女のこれから必要なものにあてがいました。かばん、最小限の化粧品と香水、カミソリに歯ブラシなど、夏用の上着、生理用品と避妊具、粉ミルク三缶、千札数枚。化粧品、香水、カミソリ、歯ブラシは、最低限のエチケットとして必要なものでした。毎日お風呂に入れたわけでないので、香水は役に立ちました。
まず粉ミルクをもって、近くのお寺の水子地蔵にお供えしました。三缶は、母と彼女の亡くしてしまった赤ちゃんの分です。彼女と同じような気持ちでお参りする人が後を絶たないのでしょうか、真新しいおもちゃやおかしがたくさん並んで、卒塔婆がたくさん立っていました。彼女は赤ちゃんに祈りをささげて、もうここに来ないと誓いました。中絶するつもりも、妊娠するつもりもありませんでした。
 残りの四十数万円を、彼女が以前預けられたことのある児童養護施設に寄付しました。これでつらい思いをする子どもがひとりでも減るとは、彼女も思っていませんでした。ただ、お金が社会の血液なら、つらい思いをしている子たちにこそ使われるべきだと思っての事でした。
 そうして、彼女は自分の小さな体で出来る限りの、これら諸悪の根源となっている孤独を受け止めて行こうと決意しました。少しでも、孤独をなくしていけば、母や彼女のように、つらい苦しい思いをして、罪を背負い、人生を滅茶苦茶にされる人もきっと減るはずだ。苦しむのは彼女ひとりだけでいい。生涯、金持ちの情婦でいるくらいなら、とことん命を懸けてこの社会の作り出す孤独を見つめて行こうと、そういう気分でした。
 孤独な人を見つけ出すのは、とても簡単でした。ネットカフェでフリーメールを使って複数のサイトに書き込んで待っていればいいだけでした。ものの二時間も経たないうちに、「神降臨」です。ゲームセンターでぬいぐるみを獲るよりもはるかに簡単で、そのゼロ距離間と罪悪感のなさに、不気味な恐ろしさを感じずにはいられません。サイトを覗けば、だれでも淫売婦になり得るのですから。おそらく一度嵌れば、絶対に抜け出せない無間地獄でしょうが。
 そう、無間地獄だと彼女にも解っていました。覚悟の上でした。人はいずれにしても死にます。避けられない宿命です。死に方を選ぶのは、生き方を選ぶのと同じことです。犬死になるかもしれませんが、彼女はだれかのために生きられたらそれでよかったのです。彼女に憎い人はだれひとりいません。苦しみから抜け出し希望を持てる人が現れるのなら、彼女は喜んで成仏できるでしょう。

 *

「で、その希望の持てる人って、だれだ?」
「わたしの話に耳を傾けている、あなたです」
幽霊は人差し指を向けて力強く言う。つまり、少女が生きていたうちには出会えることが出来なかったということだ。その無間地獄から見いだせる希望を見つけてみろと言いたいのであろうか。
「そうです」
「無茶言うなよ」
「だって、とことん話聞くんじゃなかったの?」
彼は確かにそのつもりだった。少女の話はここまでもかなり強烈であったのだが、まだ続きがありそうだ。四畳半の部屋はまだ暗闇に閉ざされ、彼のいる位置が、上か下か右か左か、それさえはっきりしない、完全に重力のない異空間である。
「あと、わたしの魂も、あなたの魂も、形を失っています。どろどろに融けあっています。あなたの気持ち次第では、あなたも一緒に幽霊になって、四角い狭苦しい空間から出られなくなってしまう危険があります。はじめからずっとしつこく出て行けと言った、理由が解りましたか?」
だが、彼はもともと生きる気力を殺がれるくらい、自分を守るので精一杯だった。生きていても死んでいても同じような虚無感が彼の心を支配していた。なにか巨大なものに押しつぶされそうな恐怖のせいで、彼はこの部屋から出られずにいた。
情けないことだとは自覚していたが、彼自身の力だけでどうにかなるものでもなかった。彼女には悪いが、彼には荷が重すぎる。
「わたしはそういうあなただから期待しています。たぶん、きっと気づいているはずでしょう。わたしを苦しめたものとあなたを怯えさせたものは、きっと同じはずです。ここからは、あなたの力が必要です。わたしの話の途中でも割って入って来てください」
彼は動揺している。男にしろ、そんな強い生き物ではない。打ちのめされ、迷宮から這い出せなくなる可能性だってある。だいがいの人間は、彼の兄のように酒に酔って暴れて、現実から逃避するものだ。それを真正面から打ち砕くのは、並大抵のことではない。
「だから、わたしはこの部屋で死んだ後に身動きできなくなったのです。とても恨めしいものがあるのに、それが何かわたし自身にも解らないから、幽霊のまま身動きできないのです」
「じゃなきゃ、幽霊にならないよな」
「そのまま身も心も消えてしまうのが、口惜しくて嫌だった。わたしだけじゃなく、苦しい思いをしている人はたくさんいるのに、忘れ去られ消え去るなんて……」
彼女の魂が血の涙を流す気持ちが、痛いほど彼にも伝わる。
 「あとさ、わたしもいっぱい恥を晒してきたけど、他人に白い目で見られて反感を買うのを恐がっちゃいけないよ。きっと、解ってくれる人はいるから」
 彼女はとても優しい幽霊である。

 **

彼女の苦しみは、彼女ひとりのものではない。自分ひとりの苦しみよりも、他人の苦しみのほうがより辛いものだ。苦しみを識る分だけ、他人の苦しい感情が自分の心に痛いほど伝わるだけでない。苦しみが苦しみをまた生む無限の連鎖に対して、無力な自分の存在を認めなければならない。
 まだ得体の知れない悪魔は、次々と新たな人間を苦しめていくことを止めない。彼女はそうした現実への非力さと、人を苦しめ続けることを止めない現実への憎しみの末、幽霊へとなった。人間個人を怨んだ結果ではない。
 ここからは、彼女の記憶をたよりに、彼が再構成させていく形で話を進めて行く。彼女と出会った男たちの苦しみを知るには、彼が語ったほうが、より解り易く近道だからだ。彼女にとって印象深かったのは、今から話す三人の男である。みな、掲示板やネカフェで知り合った人たちだった。

 最初の頃で一番記憶に残ったのは、意外にも少年だった。
 歳の頃は、十四五の中学生であった。彼女が無心に男漁りをしていた頃と同じ少年だった。この年頃なら、異性の体に興味を持つことは自然なことである。しかし、少年は違っていた。少年は根本的に人間としての何かが欠落していた。
彼女が一種の気味の悪さを第一印象から感じ取っていたのは、そのためでもあった。彼女は温室育ちのいいところの子どもだと思っていたようだが、彼はもっと違う見方をしていた。
少年は温室と言うよりは、むしろ無菌室育ちである。
少年の住む街には、雑多なものが一切ない整然と区画されたベッドタウンであった。突如、山林とわずかな田園が残る地帯に出現した大規模な団地やマンション、戸建てが並んだところであった。遠くに見える山林と耕作放棄地とは、不釣り合いに整然と都市化がなされ、住宅が規則正しく何百軒も何千軒も行儀よく並んでいた。きっと、旧来の住民と新興住宅地の住民との間には交流は一切ないだろう。
そういう環境の下で暮らす少年は、私立の有名な中学校に通い、その制服姿で彼女と面会した。少年なりのプライドであったのかもしれないが、彼女には精神的に幼い弟のような存在にしか見えなかった。真昼の住宅地に出現した、淫売婦と客。傍目には、ただの兄弟にしか見えなかったはずだ。雑多なものが排除され尽くしたショールーム都市に不釣り合いな二人が溶けこめて何ら疑問を持たれなかったことが、彼女により気味の悪さを抱かせた。
少年の年齢から考えて、ホテルで密会などできるはずなく、必然的に自宅にある少年の部屋となった。少年の家は、周囲と同様、規則正しく物差しで計ったように仕切られた広い土地に立つ二階建ての家で、ガレージに二台、高級そうな車が止められてあった。まるで周辺一帯がモデルハウスであった。少年の部屋も、男の部屋とは思えぬほど、勉強机と本棚、ベッドと、商品カタログのように整理されていた。少年は案内するなり、彼女に律儀に麦茶を勧めた。
彼女はタンスの中に少年の内面を知る手掛かりを見つけた。少年自らが彼女に見せたのだ。
一番上の段には、小学校の夏休みの自由研究で作ったという昆虫の標本。脚や触角の一本まで綺麗に形が整えられて、胴体をピンのようなもので刺してあった。まるでさっきまで生きていたかのようだった。二つ目の段には、毒の入った注射器と一緒にトカゲや小鳥同じように、こんどは釘で刺してあった。苦痛で悶えたのだろう、薄ら血が滲んだ胴体はねじれていた。それが、ホルマリン漬けのカエルへと、標本になった生き物がどんどん大きくなって、三つ目の段には、ペンキで赤く塗られた猫や犬の頭蓋骨が収められてあった。
彼女は猫や犬にこんなことをして可哀相でないのか、少年に聞きいてみた。
「どうせ、保健所で処分されるはずだった猫や犬だから問題ないよ。だれかのペットじゃないんだし」
少年は平然と顔色一つ変えず、そう答えた。死んで当たり前とばかりに、その感情の欠落した少年に、彼女は恐怖を抱かずにはいられなかった。
 少年にとって命の価値は二種類しかなかった。生きている価値のある命と、生きている価値のない命と。
ペットとして飼われている犬や猫は生きる必要性があるが、いずれ殺処分される犬や猫は初めから生きている必要性がないものだと。だから、生きる必要にない命は、どういう形で殺そうが構わない。その価値観はそっくり人間にもあてはまった。社会に必要とされる将来有望な中学生と、公序良俗を乱すだけの名もない淫売婦と。
「人間ってどんなふうに死ぬのか、興味ない?」
少年は手にナイフをちらつかせて、彼女にそう聞いた。そのナイフは柄に血の跡のようなものがこびりついていた。
 彼女は恐怖で腰がすくみ倒れてしまったが、そこから鉛のように急に手足が重くなって、次第に感覚が薄らいでいった。意識ははっきりしているのに、少年に顔を殴られ馬乗りにされても、その刺激が彼女の脳髄にまで届かない。麦茶に睡眠薬が仕込まれてあったことに気づいた頃には、もう遅かった。
少年に手足を押さえられ、ナイフで服を引き裂かれる光景を眼球に焼きつけても、彼女の体は脳からの信号を一切受け付けなかった。頭の感覚すら鈍くなって、眼も虚ろになっていった。殺されると思った――。
どこか判らない。
彼女は暗く狭い場所に脚を折り曲げられていた。顎が両ひざに当り、手の指で足の裏を触ることが出来た。体の関節や腕、胸などが痛い。体の右半身に重みを感じた。満足に呼吸すらできず苦しかった。
彼女は頑丈なスーツケースのなかに閉じ込められていた。しかも、左右の手足を交差して手錠に繋がれていた。少年は彼女を本気で殺すつもりだったらしい。きっと、彼女が苦しみもがいている様子を、少年がじっと観察しているように思われた。まるで、釘を打たれた虫が息絶えるまでの様子を眺めているかのように。
彼女は慌てなかった。きっと少年が蓋を開けるときが来るだろうと予想していた。閉めたままでは、死んでいるかどうか、確かめようがないからだ。わずかに空気の入る隙間があったから、慌てずしばらく眠った。
いくら眠ったかは覚えていなかった。急に目の前が白くなって、蓋が開いたのが判った。彼女は髪を掴まれ頭を持ちあげられると、少年がじっと凝視していた。
「くそ、しぶといな」
「わたしを殺そうがあんたの自由だよ。娼婦だもの」
彼には絶対に言えない科白だったが、彼女にはすべて折り込み済みだった。監禁されようが乱暴されようが殺されようが、自分を売ると決めたときにすべて覚悟していた。
「汚ねえ、女」、少年は蔑んでいた。ただの負け惜しみだったが、彼女が意に解するはずがなかった。
「汚されて、結構です」
「肉便器め」
「どうぞ用を足してください」
少年は力一杯に彼女を殴った。自分の部屋に彼女が存在するという現実に耐えられなかったからだった。しかし、彼女の目にできた痣は余計に少年を惨めな気持ちにさせたらしい。自分はこんな奴とは違うと言い聞かせているのに、なにも証拠を見つけられなかった。
「わたしはどうされても構わないけど、ゴムだけはちゃんと着けて。赤ちゃんを殺しはしたくない」
ここまで彼女は一度も泣いていないし、いさぎよい。むしろ、神々しくさえあった。右の頬を殴られたら左の頬を差し出すのが彼女であった。だれにも出来ることではない。
 少年は自分より弱いものを傷つけることで自尊心や優越感を保ってきた。犬や猫では物足りるはずはなく、自分の優位性を確かめる証拠が欲しかった。少年のプライドは脆く崩れやすいものだった。ただの淫売婦のくせに、自分に平伏さない彼女の態度が気に食わなかった。そうかと言って、彼女をさんざんなぶり殺したとしても、自分の優位性を証明したことにならない。この女のせいで、人生を棒に振るのが癪だった。
 少年は彼女の背中を蹴り、足で押し込め、再びスーツケースに閉じ込めた。それなのに、彼女は痛いとも恐いとも泣きごとを一切言わなかった。つまらない女だった。少年はスーツケースごとどこかへ捨てたくなった。処分の仕方に困ったエロ本のような存在だ。しかも、相当に重いうえ、怪しまれずに運び出す自信もなかった。少年にできることは、彼女を解放する以外になかった。
 手錠を外され出て行けと言われた時、彼女は少年の気が変わった理由が解らなかった。大事なところを掻きだそうとしたら、少年は彼女のバッグを投げつけて、赤面したまま自分の部屋を出て行ってしまった。
 少年が心に秘めた苦しみを外に出すことは最後までなかった。ただ、大人の錯綜したエゴを批判できずに、素のまま受け入れた結果が、少年の人格になったことは否定しない。一方では、競争に負けると全人格が否定されるように刷り込まれ、もう一方では、模範的であることを強要され、少年は、はけ口を見失ってしまったのだろう。彼もそう推測するしかない。
 彼女も少年のなかにギスギスしたものを感じ取ってはいた。少年が本音を正直にぶつけてほしかったのに、彼女は最後まで少年の気持ちを理解できなかったのが心残りだったが、男である彼にさえ少年の本心を理解できない。
 残念なのは、少年の不安定な精神状態ゆえのプライドの高さが、彼女を前に敗北することを許さなかったことだ。相手がつまらない淫売婦であろうと、客は必然と己の弱さをさらけ出し、敗北を認めなければならない。本音を出すことは、相手に弱みを握られることであり、敗北を意味した。少年にとって、自分の本音をさらけ出せる相手が地球上には誰もいなかった。もちろん、少年ひとりを悪者にできない。何が少年をそういう気持ちにさせたのだろうか。

 *

いつもはホテルで会っていたサラリーマンの男が、初めて郊外にある自宅のマンションに彼女を招いた。だいたい同じ年収に同じ家族構成の人たちが集まっていそうな、八階建てのありふれた三LDKの一室だった。
 会うたびに、サラリーマンの男は決まって仕事での愚痴をこぼし、正気を失うまで酔っぱらい、ホテルでも缶ビールを開けていた。酒癖さえ悪くなければ、とてもいい人だったが、赤の他人の彼女にしか愚痴を言えないとても寂しい人だった。会社の中でも、家庭の中でも、孤独なようだった。
 その日、サラリーマンの男は思い詰めた表情で雑踏の中から現れた。いつもなら、カラ元気でも愛想いいのに、その気力さえなく追いつめられたような顔をして、電車に乗り合わせても生返事しかなかった。彼女が何かあったか聞いても、「ちょっとね」、とお茶を濁すばかりで、行き先も告げられず、二人黙ったまま張り詰めた空気のなか、聞き慣れない駅名に見たこともない風景を眺めていた。
 彼女は声をかけづらかったし、咽から先に声となって口から言葉を出すことさえ、ためらわれるほどだった。サラリーマンの男は、くたびれたスーツに結び目の緩んだネクタイ、シャツの袖口が黒ずみ、眼の下が黒く淀んでいた。まっすぐに向かいの窓を見つめたまま、どの駅で降りるのかさえ口に出さなかったので、彼女の気持ちは心細くなった。
 最悪の事態の事も考えていた。心中って言葉を口走ったら、どう慰めて説得しようか、そもそも思いとどまらせられるだけの自信は彼女にあるのか。彼女はひとりの淫売婦としてどんな苦しみも受け止めるつもりでいた。このサラリーマンの男の持つ苦しみは、彼女に理解しえないものだし、どれだけ気持ちを引きだし受け止められるのか、恐いところがあった。今日の仕事は気が抜けないと腹をくくっていたが、男は彼女に声もかけずにどこかの駅で降りたので、彼女も慌ててついて行った。
 そうして居酒屋で食事することもなく、直接連れて来られたというか、ついて来たのが男のマンションだった。
「昨日、離婚したよ」
男がエレベーターの中でようやく自分から口にした言葉が、それだった。彼女は目をみはり、男を見つめた。彼女が慌てるのも無理はなかった。狭い空間の中、男にかける言葉を捜すも、彼女の頭に全く浮かんでこなかった。いや、むしろ男から話しかけるなと無言の圧力を感じ取ったせいもあった。とうとう一言も声を掛けることができないまま、彼女は男の自宅にあがった。
 真っ暗に静まり返った部屋に明かりが灯った。彼女は現実の残酷さに息をのんだ。家じゅうの物がほとんどなくなっていた。リビングにあっただろうテレビやソファーなどのあった位置の床だけが、日焼けしてなく、冷蔵庫があった位置のホコリがそのままになって、男の持ち物であろう衣服などがフローリングに捨てられてあった。
 こんな仕打ちがあるだろうか。
子どもの写真がないと、男はうわごとのように言いながら、家じゅうをさまよい歩いていた。その姿は、とても見るに耐えられなかった。ただ広いだけのコンクリート四角い空間に、ひとり男が呪いにかかったように「子どもの写真」と声に出しながら歩き回る、その窓の向こう側には闇夜の底まで四角いコンクリートの塊がいくつも並んでいた。これが、サラリーマンの男の家だった。
 彼女は脳裏にまさか自分のせいじゃ……と口に出したが、男は呪いにかかったままだった。彼女は力を失くしてしゃがみこみ、吐くように泣いた。何度も、何度も咳き込みながら、声に出して泣いた。涙は何度ぬぐってもあふれだし、ずっと頬を濡らし続けた。フローリングの冷たさが直接太ももから伝わってきた。血液を通して心臓までも冷やしてしまいそうだった。
「子どもの写真があったよ! 」
男はうれしそうに、SDカードをノートパソコンに差し込んだ。
「ほら、見てくれよ。かわいいだろ?」
遊園地や公園、旅行に行ったときの写真のようだった。だが、子どもはどの写真もカメラの方に視線を合わせておらず、不機嫌そうな顔で遊園地のマスコットと写っていたり、浴衣姿でも海辺でも小さなゲーム機に夢中になっていたいたりした。これが、男にとって、唯一の家族との「楽しい」思い出だった。
「もう会えないんだ……」
男は始めて涙をこぼした。
この男にとって子どもが唯一の心の支えだった。子どもがいたからこそ、将来の幸福のために挫けるわけにはいかないと、どんな理不尽なことにも耐えてきた。仕事で嫌なことがあっても、妻との距離が開いていっても、自分の体を騙し心を騙して、限界をとっくの昔に過ぎても、何年もがんばってきた。その努力さえも露と消えて、殺風景に広いだけのリビングに立ちすくむ男の虚しい姿。崩れ去るのは、とても簡単だった。
 彼女の涙は砂漠を潤すには心もとなさすぎた。たとえ全身の水分を涙に変えても、砂の上ではたちまち蒸発してしまっただろう。もはや男の心に草木一本生える拠り所さえなかった。彼女に出来たことは、顔をうずめて泣く場所を貸すことだけだった。
 布団さえなく、カーテンもなく、エアコンの効かない広いリビングに、残酷にも夜空は白ばみ、朝日が射した。二人とも空腹を忘れて、憔悴しきっていた。もう一歩たりとも動きたくないほど、心は沈んだままだったが、携帯のアラームは持ち主の心を理解せず、サラリーマンの男に出勤せよと怒鳴り立てた。
 もはや労働の意味すら男は見失っていたが、朦朧とした頭のまま昨日のスーツを着て、彼女と一緒にマンションを出て駅へ向かった。
ふたりは、甚大な数の黒い集団に押しつぶされながら、まっすぐに延びたレールによって無力に搬送された。熱気と群衆の重みで息切れしそうになったが、男は何年もこれに耐えてきた。そして、黒だかりの集団と共に男も駆け足で、四角いコンクリートの森のなかへ消えて行った。
 彼女は三日ほど男の自宅に行った。放っておけないくらい男が憔悴していたからだ。あんなに深酒をしても、翌朝には何事もなく起きあがっていた男が、何日たてど笑顔を見せることが一向になかった。多少の不満があっても、人並みの暮らしを守ってきたのに、その目印さえ失った今、ただ機械の部品のように意思も欲望も持たず、惰性で労働を続ける他なかった。
 彼女は中流以上の暮らしに以前は憧れていた。彼女の子どもの頃は、同級生たちとおなじような家庭が幸せの象徴であり、手の届かない遠い夢の存在だった。親や大人から暴力を振るわれず、施設に預けられることもない生活がしたかった。しかし、この男に会ってから、彼女の憧れや夢が空虚なものになってしまった。我慢と努力と犠牲のうえで、かろうじて維持できている哀しいものであり、哀しさ自体も当たり前となって、疑問も持たず常態化され、虚しさのうえになりたっていた幻想の幸福だった。
 ウソは長く続くはずがない。彼女にストレスのはけ口を見つけた時には、すでにほころびが始まっていた。外からは幸せそうな家庭に見えても、中は冷めきっていた。家族ごっこにみんな疲れていたのだ。だから、男は赤の他人である彼女に逃げて、男の妻と子どもも口実を探していた。家族ごっこを終演させたかった。
 しかし、幻想の消えた広いリビングは、苦しい現実を男に突きつけた。こうなることは、男も無意識に望んでいたはずだった。表向きの窮屈なウソに疲れ、現実へとはけ口を捜すうちに、現実が引き寄せられた結果だった。それでも、男にとって、この現実がよりいっそう心を重く空虚なものにさせたのは間違いなかった。自分から望んでいたくせに、より深刻に自分を傷つけてしまった。
 何もない広いリビングで知らない女とふたりきり。
まだローンが二十年以上残っていたが、精神的に耐えられるはずがなく、男は新しい中心に近くて安い物件を捜しはじめていた。若い娼婦は心を痛めて、心配そうに男を見つめていた。瞳がずっと涙にぬれて光っていた。男の傷は、娼婦の安い同情ごときで、癒されるはずなど到底なかった。
「なあ、俺たち結婚しようか?」
彼女は不覚にも返事に窮し、戸惑いを隠しきれなかった。心には絶望に近い無力さが突き刺さった。淫売婦がいくら献身的に男を癒そうと努力しても、明らかに無駄だった。
「悪い、今のは聞かなかったことにしてくれ」
これは彼女が必要ないと言っているのと同じだった。彼女は冷たい涙で頬を濡らしながら、静かに思い詰めた表情から、しだいに声をあげて泣きじゃくった。ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も叫んで、男の胸に顔をうずめて泣いていたが、男が彼女を抱きしめることはなかった。
 彼女は夜が明けるまで、ずっと泣き続け、眼を赤く腫らした。その涙がよりいっそう男を苦しめた。男は傷つけなくてもいい女を傷つけてしまった罪悪感に苦しんでいた。この優しい、優しすぎた娼婦に諦めてもらうには、男が悪者になる他なかった。

 *

雑居ビルの一角を占拠しているネットカフェは、決して居心地のよい場所ではなかった。むしろ彼女にとって、吐き気のするほど嫌なくらい四角いコンクリートを象徴する場所だった。
細いエレベーターで上ったそこは、四六時中、蛍光灯の明かりが灯され、日光の入る隙間もなく、汚れた空気が漂う。薄い木の板で仕切られた「個室」は、天井からつるされた監視カメラがフロア全体を見渡し、一枚板を隔てて赤の他人の気配を感じられるほど狭い。隣でお菓子の袋を開ける音さえ聞える。
まだ、犬小屋の方がましだといっていい。あの男の家具のない殺風景なマンションや、彼女が幼い頃に母の密会を覗いてしまった壁の薄い木造アパート、のほうがまだ人目を気にせず、脚を思いっきり伸ばせられる分だけ贅沢だった。理由がわからない油っぽい椅子と寝がえりの打てない空間は、とても丸一日正気でいられるほうが異常といっていいほど、人間の住めるようなところではないし、もともと住めるようにもできていない。
 それだけ不健康でプライバシーがない空間なのに、名のない余所者たちの日常に圧しとどめられた不浄な感情が、むきだしとなって蠢いている。
 店員に叱られ出入り禁止となった高校生の男女。卑猥な音の聞こえるカップルシート。みだらな行為禁止の貼り紙。マンガの万引きで捕まったらしい「立派な」大人。
それだけじゃない。会社から「個室」をあてがわれた出張中のサラリーマン。終電を逃した酔っ払い。行く当てなく大きなキャリーバッグを持った若い女から、白髪の混じる男。役所からの住民票取得可能の貼り紙。
そこは、四角いコンクリートのなかを浮遊する孤立して寂しい人間どもの感情が凝縮した、おぞましく非人間的な空間である。
 これだけ異常な空間がいきなり出現するのは、コンクリートに潜む負のエネルギーがはけ口を常に探し迷っているからで、そうした余所者たちの不潔さを嫌っても、必ずどこかに出現する。抑圧や排除などの潔癖症は、より人間の姿を見えなくさせ、より人間を苦しめてしまう。公園からホームレスを追い出しても、河川敷にテントが増えるのと同じで、ネカフェにしか居場所のない人たちも大勢いる。
 そんなネカフェを常宿としていた、つまり住んでいた母娘がいた。二人はそれぞれ個室が分かれていたが、母のほうは細々と娘を気遣ったり、野菜ジュースなどを差し入れしたりしていた。娘は奔放にマンガやオンラインゲームを楽しんで、まれに母のために腰痛の薬を買ってきたりした。お金はお互いにわけあっていた。ふたりはいつも同じ服で、有料のコインシャワーを使いたい娘に対して、母は明日の「ごはん」どうするのか、などさとして、娘はしぶしぶ従っていた。
 娘の歳は彼女と同じか下ぐらいに感じられた。顔立ちが丸く、言葉使いもしぐさも幼かった。よく母に対して駄々をこねて、レジ打ちのバイトは客がウザくて嫌だとか、新しい服が欲しいとか、スマホに変えたいとか、くだらない愚痴ばかりこぼしていた。娘の話し相手は母しかいなかったので、そう感じられたのかもしれない。
これが普通の母娘関係なんだろうか、と彼女は思った。母親から逃げるように独立した彼女には想像できないことだった。
 「ちゃんと、バイトしてるの?」
プラスチックの糸のような髪をした母は、不安げに娘を見た。
「してるってば」
ピンク色のシャツを着た娘は、手に少女マンガを十数冊持って、ぶっきらぼうに答えた。
「お金は、二、三日分ちゃんと持ってるの?」
「あるって!」
「お母さんね、近頃腰が悪くて、ヘルニアが悪化したみたい。しばらくお仕事できないけど、その分のお金は大丈夫なの?」
母は青くやつれた顔で、腰をかばうようにしていた。歩くのもままならず、立っているのも精一杯のようだった。
 その様子に、さすがに娘も心配になったようだ。
「お母さん、マジで病院に行った方がいいんじゃないの?」
「ダメ、保険証もってない。それにお金が……」
苦痛で顔をしかめる母に、娘も急に心細い表情になった。手に持っていたマンガを棚に重ねて置いたまま、母の肩を両腕で支えた。
「じゃあ、どうするのさ?」
「お母さんは、公園かどこかにいるから、あんたはちゃんと働いてなさい」
母の額に冷たい汗が噴き出して、彼女も思わず不安になった。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫です……すみません……」
母は彼女の助けを借りることさえ申し訳なさそうにして、会釈をする腰の低い人だった。しかし、彼女が母の体を支えようとすると、娘が彼女の手を払いのけた。
「ちょっと、触らないでください」
娘の睨みつける視線に、彼女も急に恐くなった。なにか余計なことしでかした、罪悪感のようなものを感じていた。
「なんてこと、言うの。この子ったら……」
「お母さんは人が良すぎるから、いいように騙されても気づかないんだよ。簡単に知らない人を信用しちゃダメだよ」
娘は母をなじった。この母娘はこうして今まで自分たちを守ってきたのだろうか。まるで二人以外はすべて敵であるかのように。
 娘はひとりの力だけで母を「個室」まで運び、椅子の上に寝かした。腰に激痛が走ったらしく、母は痛い痛いと叫んだ。彼女は一歩も動けなかった。
「お母さん、公園はヤバイって」
「大丈夫。あんたみたいな年頃はもうとっくに過ぎている汚いおばさんだから、だれにも襲われなんかしなよ。お母さんの事は心配しなくていいから、あんたは、ちゃんとご飯食べて、屋根のある安全なところで休んでいなさい」
「でも、お母さんが……」
 母娘の会話は、彼女の胸に突き刺さるものがあった。彼女に何が出来るか自問自答して、無力さを思い知るだけだった。
 彼女の後ろの「個室」からは若い女の声とともに壁の擦れる音が聞こえてきた。どうせまた、どこかのホテル代をケチったカップルだろう。本当、どうかしている、この世の中。
「余計な同情はしないでください。こっちが迷惑なだけです」
娘は敵意を向きだした愛想悪い顔で、通り過ぎざま彼女にその言葉を浴びせた。
 自分には何が出来るのか、彼女の胸の内は詰まりそうなくらい苦しかった。「神待ち」の掲示板の文字の羅列が、ほとんど頭に入らないくらい考えた。
 こうした苦しい状況にある親子は、どこにでもいるに違いなかった。ただ、彼女ひとりの問題に限らず。彼女と彼女の母は苦しい罪を背負い、文字通りの身を削って生きるしかなかった。この母娘も、困窮と孤独に追い込まれ、人間的な生活まで奪われて、希望さえも失ってしまっている。腰痛で働けない母に、マンガを持った娘。いったいどうするつもりか、彼女は気になって仕方なかった。困窮と孤独、人間的生活の喪失……まるで彼女と彼女の母の境遇と一緒じゃないか! 
 また傷を負っていく女たちを、彼女は黙って見ているだけでいいのか。今サイフに持っている数千円だけじゃ、とてもあの母娘をどうにもできないし、そもそも受け取ってもくれないことも彼女には判っていた。それに彼女が自分の体を汚して取ったお金で、あの母娘がどうにかなるはずもない。
 気づけば、「貧困」というキーワードのサイトばかり探していた。もちろん、彼女だって社会のなかではとても弱い存在だった。りっぱに働いているサラリーマンでさえ、重苦しい傷を負っている。まだ成人もしてない非力な彼女の身など、彼女を買った男たちと比べられないほど弱いものだった。そもそもなんとかしたいと思うことすら自惚れだったのか。
 あと、二時間ほどで相手を見つけないと、彼女自身も野宿するはめになる。幼いころの雨の公園が蘇る。野良犬どうしのケンカに怯える幼い少女。野良犬が一匹噛み殺されてもなにもできなかった。自分の身を守るために、足を挫いてまで逃げたではないか。野良犬どうしのケンカに割って入る自信が、今はあるのか。
 ぎりぎりのところで彼女は相手を見つけた。工業団地に近い場所に住む、二十六歳とまだ若い男だった。待ち合わせ場所と時間を指定して、ネカフェの外に出た――。
 
 彼女が男と約束した場所で待っていた時だった。
 あの母娘の、娘がぽつんと一人だけめまいのする雑踏に立っていた。次の瞬間、ケータイを弄っていた四十代くらいのお腹の出た男を見つけて、娘は何度もお辞儀をして、その男とふたりで雑踏へと消えて行ってしまった……。
 やはり、何もできなかった自分。
 ひとり少女がまた傷つき汚されることを止められなかった自分。
 彼女は体じゅうの臓物が粉々に引き千切られそうになるくらい口惜しい思いをした。彼女の握った拳はずっと静かに震えていた。脳裏には、あのとき目にした鳴きながら血だらけになって、肉を引き裂かれた野良犬の姿があった。

 *

墨んだフローリングが窓の外の明かりを冷たく反射していたワンルームだった。
「なにもないところだけど」
期間工の男が言った通り、いさぎよいほど家具も家電も一切ない。あるのは、薄い布団と雑多なものが入った段ボール箱ひとつだけ。
何もないはずなのに、彼女がこの空間に入った途端、重く滞留した空気を感じ取った。
「でも、掃除がしやすくて、いいよね」
彼女なりの最大限のフォローだったが、独房といった方がいいくらい両側の灰色の壁から強い圧迫感が感じられた。
「掃除など、一度もしていない」
男は彼女と会った時から、ずっとうつむいたままだった。長い前髪が垂れて、曇ったままの眼鏡に蛍光灯の光を反射して、表情がほとんど判らなかった。黄緑色の上着とコンビニのシャツに白いズボンと、ちぐはぐな作業着や制服の寄せ集めを着て、細い体は風で飛ばされてしまいそうなほど、骨と皮だけだった。
 言葉に詰まったままの彼女を無視して、男は壁の端に三角座りをしてケータイを弄り始めた。まるで最初から彼女が存在していないかのように。空気のような扱われ方だった。
「あのさ、シャワ……」
「無理しなくていいよ。嫌なら、嫌で……」
男は彼女の言葉を遮って言った。
「どうせ、俺なんかと初めから乗る気じゃなかったんだろうし、寝る場所くらいなら貸すよ」
 決してこの男が嫌だったわけではなかったが、彼女はまだあの母娘のことを引きずっていた。過去に軽蔑したくなるほど嫌な男はいっぱいいたが、我慢して乗り越えてきた。しかし、この気づまりで重苦しい空間は、彼女を尚いっそう抑うつ的にさせ、仕事という気分にさせなかった。体調がすぐれず、話すことさえ億劫に感じられるほど無気力で全身が鈍かった。
 ふたりとも会話はなく、思い詰めた表情のまま、壁に並んで座ったままだった。男にそういう気分はなく、彼女にもそういう気分が起こらなかった。なにもかも一切がどうでもいいというか、何もしたくない気分だった。
男も彼女も朝日が射すまで一切の言葉を交わさなかったし、一歩も動かず、一睡もしなかった。寝るのも座るのも立つのも呼吸するのも、彼女には嫌だった。生きていることさえ苦痛に感じるほどだった。なんとかしたい気分が殺がれてしまい、今まで通りひたすら闘い続けても無意味だと男が言い続けている気がした。男から発する極限なまでの無気力感がこの部屋全体を支配していた。
男が部屋に一切物を置かない理由が、彼女にも解る気がした。希望や欲望の一切が殺がれてしまい、心が解凍に失敗した冷凍食品のように、気力をすっかり奪われてしまっていた。男の心象風景が如実に表れていた。
おたがい見ず知らずの他人だし、憎らしくも親しくも、損得勘定もない。この二人がつまらなく四角いコンクリートのなかで、裸になって抱き合って、お互いの心を慰め合い、傷を舐めあっても、男の心にも彼女の心にも絶望的な虚無感が突き刺さるだけになった。期間工の男はその時々の景気という気まぐれで、生活を振り回されるままだったし、振り回され続けるのに疲れ切っていた。いずれ、また出て行かねばならない部屋の床を磨き、花を一輪飾る気など、最初からなかったのだろう。
 翌日、祭のような繁華街のにぎわいに百四十キロ以上を出した車がつっこんで、つぎつぎと人を跳ね飛ばした。男がその車から現れると、散弾銃を両手に構えて次々とうち放ち、その間に歩道に乗り上げた車が火柱を上げるのを見届けた。弾が尽きて、男が手に牛刀を持ちかえたところ、警察官に射殺された。男の憎悪は、この程度で収まるはずない。きっと世界中の核弾頭をもってしてもはらせるものではなかっただろう。
 犯人は彼女も知る人物だった。壁に凭れてケータイを弄っていた男も、このニュースを知っていたはずだったが、彼女には一切を語らなかった。
「おまえ、俺と同じ匂いがするよ」
 彼女はため息をつき、男に視線を合わせず、しばらく沈黙した。男の言葉の意味が理解できなかったからだ。
「そうかも知れない……」
彼女にも理解できないが、そう口が動いた。
「仕事に行く」、と男は彼女に言い残して部屋を出て行った。
昨日の服のまま鍵もかけずに――。

昼ごろ、サラリーマンの男からメールがあった。彼女が約束の駅へ向かう途中、電車がある駅で停車したままなかなか発車しないと待っていたら、運転見合わせのアナウンスが流れ、下ろされた。人身事故だったそうだが、三十代ぐらいの男が踏切に飛び込み自殺したようだった。
 彼女はその駅の近くのネットカフェへ行って新しい相手を探した。そこで初めて、あの事件をネットで知ったが、何も感慨はなかった。同じ匂い――男の言葉の意味をまだ彼女には量りかねていた。
偶然、あの母娘のうち、娘のほうが同じネットカフェにひとりいた。相変わらず、ピンクのシャツに相変わらずの甲高い声だった。この娘が今やっているバイトの内容がしだいに彼女にも理解できた。夕方になり、ふたりしてネカフェの外で相手の待ち合わせをした。彼女の下腹部は、歩けないほどの痛みになっていた。
 黒いワンボックスが車路わきに横付けされ、助手席から男がひとり降りてきた。男は娘に話しかけ、娘は後部座席に乗って消えた。彼女は娘がその後どうなったのか、知らないし、興味もなかった。優しさという感情を失うほど、彼女は無気力だった。
 彼女の前に現れた男は、ひどく汚れた格好で顔の肉がたるんで生気のない目をしていたが、あの男に間違いなかった。あの地震以来の再会だった。
「やっと、見つけた……良かったよ……」
男は彼女の腕にしがみついた。もはや、成り金の面影はない。
彼女にとって、初めての男はコイツだった。しかし、彼女は初めからこの男が好きでも嫌いでもなかった。数あまたのひとりにすぎない、赤の他人であるこんな男になんの未練もなかった。
「会社つぶれちゃったよ……」
「そう」
「失業保険も底をついちゃって……」
「そう」
「なあ……、助けてくれよ」
「イヤ!」
「なあ、いっぱい贅沢させてやったじゃないか。頼むよ」
「離しなさい」
「なあ、最後の一発だけでいい!」
相変わらず自分勝手でつまらない男だった。彼女は、この男の頭が悪くて単純なところが嫌だった。バカはずっとバカのままだった。だが、彼女に男を改心させる気はないし、孤独の正体をつきとめるのにも疲れきった。肉体的にも精神的にも朽ちてきていた。彼女は、期間工の男が言った同じ匂いの意味が、ようやく解った。
「これが俺の全財産だ。なんとかしてくれ……」
 男は彼女の足元にしがみつき、しわくちゃの一万円札を一枚出した。やはり最後まで、この男はバカだった。彼女は気の進まない相手と抱き合いたくなかった。お金で、女の心が買えるなどバカバカしい。この男に彼女の体を触る権利なんてない。彼女はその一万円札を粉々に破いて捨てた。
男は叫び声をあげ欲望をむき出しに、彼女の首を折れそうなほど強く絞めた。そこから、彼女の記憶はあいまいになり、いつの間にか古い鉄筋のアパートの一室につれて来られていた。遠退く意識のなか、男はなんどもなんども包丁で彼女の体を突き刺した。不思議と痛くも恐くもなかった。もう、何でもいい……。
彼女の記憶は、ここで終わった。夢叶わぬまま、傷ついた魂だけを残して――。

 彼女は自分の身を捨て、悪魔の正体を掴もうとしたが、悪魔は非情にも彼女を虚無の淵に追いやっても傷つけることを止めない。傷つく者を彼女ひとりにとどまらず、今もまた誰かを苦しめている。
 余所者たちは、みな心どうしの壁を越えられず、四角いコンクリートの箱の中で寂しく悲しく辛く泣き続けて、理解されない苦しみに息を詰まらせ虚無へと流れて行く。壁は人間を遮り砂のように孤立させ、名もない群衆としてコンクリートの林をひたすら滞留し続けている。
彼女が目にしてきた男たちは皆、人のつくりだしたコンクリートの四角い世界のなかで、得体の知れない悪魔の力に振り回されて傷ついていた。
人はみな悪魔の力によって四角いコンクリートの世界に形を曲げられ押し込められているのか。あるいは、得体の知れない悪魔から自分を守るために、自分の意思で閉じこもっているのか。そのどちらかだ。
彼女が出会った男たちは皆、前者のほうだった。悪魔によって傷つき、四角いコンクリートによって自らの形を捻じ曲げられた。そのゆがめられたエネルギーのはけ口を求め、ずっとさまよい続けていた。
もっと言えば、彼女の人生もそうだった。孤立を余儀なくされ、守られず、傷つき、重い罪を背負わなければいけなくなったのも、だれとも頼れない状況で生きなければならなかったからだった。決して好きで自分の体や心を傷つけていたわけではない。彼女はきっと光を探し求めていたはずだ。幽霊となった今でも、悪魔に消されてはならないと、強い意志によって傷つきながらも、この世にとどまり続けている。
「あなたは後者のほうって、わけね。悪魔の力に怯えて、自分の形を守るだけに精一杯になって、生きている実感が持てないくらい疲れてしまって。あなたのせいじゃないのに、人生を滅茶苦茶にされて、ほんと可哀相。でも、悪魔が恐いのは、わたしも同じだよ。あなたの言う通り、わたしみたいに、いや、わたし以上にもっと傷ついている子たちをたくさん見てきた。悪魔が誰かを傷つけるのは、もう見たくない!」
「俺も見たくない」
「こういう四角いコンクリートの箱にしか、あなたの逃げ場はなかった。わたしが幽霊でいられるのも、ここしかない」
引きこもりたくて引きこもっている奴なんていないし、幽霊になりたくって幽霊になった奴もいない。四角いコンクリートの箱によってかろうじて自分の形をとどめているだけにすぎない。だれかと繋がりあい、困難を乗り越えて行ける可能性を信じたいと思っても、悪魔は圧倒的な力で行く手を阻み、人間を四角い箱に孤立させ、虚無へと追いやってしまう。
悪魔の正体を知り闘える術がなければ、幸福になれる可能性を勝ち取ることはできない。得体の知れない悪魔の力に振り回され傷つくことは、誰も望んでいない。たった一度の人生、悪魔に自由を奪われ、意思も心も操られるのは、もう嫌だ。
「わたしも嫌よ。苦しくて辛い思いをして流した、わたしの血が悪魔の力で簡単に消されてしまうなんて。母も娘もお互いの意思と反対に傷つけあい傷つけられてきたか、いいことなんてなかった。罪をいっぱい背負い悲しんできたのに、もうわたしで終わりにしたかったのに……」
彼女の気持ちは痛いほど、彼にも解る。だれも気づかぬ悪魔の力に怯えなければならなくなってしまった。この世の森羅万象を虚無に化してしまう悪魔が、眼前に立ちはだかり続ける限り、彼女の意思も彼の意思も四角いコンクリートの箱の中で自由を奪われたままだ。
「もしかして、あなたは悪魔の正体に気づいていたんじゃないの?」
「まさか、俺が?」
 
 ***

 「それって、あなたのペンキ・レール恐怖症と関係あるような気がする」
 どういう意味だろうか。
 「わたしの話が終わるまで、ずっと黙っていたけど、あなたが四角い箱の外に出られない理由と関係あるような……」
 彼は大学一年の前期の授業中に気を失った。それ以来、ペンキのような化学塗料の臭いと細く長くのびた鉄に恐怖心を覚え、外出がほとんど出来なくなってしまっていた。
 元を辿れば、彼が引きこもったそもそものきっかけが、それである。
「いま、この話をしても大丈夫なの?」
「やはり、話さなきゃダメか」
「つらいのは、わかるよ」
「悪魔の正体をあぶり出さなきゃいけないもんな……」
 すると、彼は黒い闇にほんのわずかな隙間に気づく。紙一枚がやっと入るくらいの壁との間にできた隙間である。彼は何気なく引き寄せられて、その隙間をじっと凝視しはじめる。まだ何があるか識別できないが、光らしきものが細い糸のように暗闇に、三センチか五センチほど、あるいはもっと短いかもしれないが差し込んでいる。
 まだ、ぼんやりとしている。覗き込むのもやっと位の姿勢であるが、彼は吸い寄せられてじっと凝視して止められない。そこに、悪魔の正体をあばく、レールとペンキを繋ぐ何かが、ありそうである。
次第に外の色があいまいだが、判り始めてくる。紺だろうか、青だろうか、水色のようなものが次第に見え始める。だが、それが何か判るまでにはしばらく時間が必要だ。彼は頭に青いものをイメージしながら、この色がなにを現すのか想像を膨らませている。その青いものは、水だろうか、氷だろうか、ポスターカラーのように一定して均一に青い色のようだ。その青いものは光が乏しいせいか、底に近いところは黒くいようだ。
 黒だろうか? いや、茶色、黄土色、紫を混ぜたような色。よくよく目を凝らすと、次第に赤いものに見えてくる。わかった。
 彼はようやく正体を突き止めた。底は土だ。しかも、赤い大地位を覆う砂漠のような荒んだ色をした土。その上は、水か空かはまだはっきりしないが、全体が歪んでいないのは確かだ。薄い線状の鉛筆で擦ったような白い線が見える。これは雲だろうか。やはり空だ。ようやく、全体を掴みかけた瞬間である!
 彼の眼前は、たちまち、青と赤の世界が一気に被い始める。青い世界は紛れようもない空であって、底の赤い土は紛れもない岩や石ころで覆われた虚無の砂漠だ。まるで、人類の歴史すべてをナンセンスだとあざ笑うかのように茫漠と広がる砂漠だ。砂漠も空も茫然と彼の眼前に一気に広がり始め、際限なく、宇宙の果てまで続いているくらい、暗く冷たい膨大なものだ。薄い鉛筆のような線は、雲ではない。黒い糸だ。
 その黒くて細い糸状のものが、彼を中心にたちまち量を増し回りはじめる。その黒い糸は次第に大きく広がるばかりでなく、黒の濃さも増してゆき、たちまち彼をたまご状に包み込み、被い始めてゆく。その速度はあまりにも速く、視覚でとても追いつけるようなものでない。黒い糸はぐるぐる回転しているようで、黒い綿あめ状になって、録画したビデオの三倍速以上の、目が回りそうな速度で広がり、彼の視界のすべて上下左右の三百六十度を完全に覆い、とどまることを知らず、黒い球体上に広がり始める。
 その黒い糸の球体は、果てしもなく巨大で、公園の回転遊具、いや、その何十倍、何百倍、それどころではない。工業団地のガスタンクの何百倍、何千倍の大きさで、まるで一つの惑星の中心にいるような感覚に近いものである。
 しかも、その黒い糸は、公園の遊具や古い遊園地の乗り物のような、錆びた鉄の上に幾重にも塗り重ねられたペンキや化学塗料の臭いを放ち、めまぐるしい速度で回転し続けることを止めない。五色、七色の原色にペンキで彩られた黒い鉄の糸が猛スピードで模様を変え、強烈な極彩色のマーブル模様が視覚についていけない速さで変化することをやめない。さらに、ペンキの臭いは、何千何万もの化学塗料を織り重ね混ぜ合わせ凝縮したような、人間いやいかなる生き物の嗅覚でも追いつけないほど、脳髄が拒絶し感覚が麻痺してしまうほどの気体の流れを作り続け、とどまらない。
彼は吐き気をもよおすほどの、色彩の目まぐるしい変化と、ペンキを何億何兆リットルとかき混ぜられた臭いで、平衡感覚をすっかり失ってしまいそうである。自分が球体のどこにいるのか、どちらが上で、どちらが下か、あるいは東西南北、左右の位置すらおぼつかない、宇宙空間に放逐されてしまったような気分である。気分が悪くならないのがおかしいくらいである。
彼が戸惑いを覚えている間にも、球体内の黒い糸は絶えず複雑に絡み合って変化してゆき、LEDライトのような光線で描かれるマーブル模様の原色の世界も視覚のついていけない速さで変化を続けている――。
(……生命体系と物質代謝が行われ、下部構造、つまり、生産様式が展開し行くわけであります。で、……)
彼は大学の講義室のような場所に居る。
大きな階段教室で、顔も名前も知らない二百人ほどの若い学生が、教授の講義を聞いている。落書きのような板書をまじめにノートに書きうつす者もいれば、睡魔に耐えきれず目が半分とじている者、けだるそうな表情をしている者、初めから寝ている者、ケータイを弄っている者、など、ざまざまである。
雑談をしているウルフカットの派手な学生らが、彼を見ながら嘲笑しているように聞えて、耳障りな気分になる。ワックスの臭いが鼻につき、けばけばしい服装が教授の声を妨げ、意欲を殺ぐ。学生全体の雰囲気は四月と比べ緊張感に欠けて、教室内に空席が目立ち始めている。なかには、なんの断りもなしに出欠簿に丸を付け退席したまま戻ってこない者もいる。
だが、老齢の教授は、なんの叱責もせず、単調で小さな声のまま講義を続ける。入学以来、一週間に十五ほど授業を受けているが、どれも雰囲気は似通ったものだ。前期の授業料が二十六万円で計算すれば、この講義一回は千百六十円になる。この教授が誰か名前を覚えていない。あるいは、その値打ちすらないのかもしれない。相変わらずの単調な声が彼の脳髄の動きを妨げはじめる。
(……であるわけでして、次に生産力と生産関係で行われます価値交換に移ります……労働者、いわば、生産力のことですが、生産関係におけまして、労働価値と剰余価値の二つが生まれるわけで……余剰労働は余剰価値を生み、資本価値として蓄積されるわけであります。ですから……)
彼は自分のノートに目を移すが、自分でも何を書いているのやら、さっぱり解らない。細い黒鉛で描かれた線は、髪の毛か消しゴムのカスか糸くずに見えてくる。彼は自分が置かれている状況をいまいち掴みきれない。生まじめにやる意味があるのかすら、覚束ない気分になってくる。
三年間神経をすり減らして、気を張り詰めて努力して来た結果が、この椅子なのだろうか。これまで何を追い求めてきたのか、あるいは何をこれから追い続ければいいのだろうか。もっと言えば、何をすれば満足を覚えるのだろうか。空席に誰が座っていたのか、まわりの学生も教授すらも気づいていない現実……。
彼の眼前の講義室全体がくらくらと揺れているような感覚がする……。
いや、実際に揺れているのだ。
たちまち、壁や天井が取り払われ、彼の座っている頭上に、細く頼りない赤銅色に錆びたワイヤーが張っている。切れそうなのか、切れないのか、はっきりしない中途半端なワイヤーである。よく見れば、学生みんなが同じ細いワイヤーから吊るされたスキー場のリフトのような椅子に座っている。教授もだ。学生とは違う別の細いワイヤーに取りつけられた椅子に座っている。
床も取り払われ、このワイヤー以外に、無数の黒い糸状のものが複雑に入り組んで絡み合いながら、猛スピードで蠢き続けている。まるで、この講義室の外観すべてが光のような速さで動いているように見える。いや、彼ら学生たち、教授が乗っているワイヤーもゆっくりだが動いている。彼が後ろを振り向くと、コイルのような白い大きな筒状の物体があり、赤銅色の錆で汚れて、より汚い色をした今にも切れそうなワイヤーが無数に捲きつけてあって、ぽろぽろ錆びた欠片を落としながら、ワイヤーをのばしている。
そうか。そういうことだったのか。
彼には、黒い無数の糸の正体がやっと判った。あれはすべてワイヤーである。そして、そこに彼のように色んな人がぶら下がっている。いや、ぶら下がらなければならないようになっている。どんな人間も。ワイヤーに繋がれていない人間は、ひとりもいないと言っていい。
彼がにぎりしめているワイヤーから延びた椅子とつなげる棒のようなものは、上から何度もペンキが塗り足されて、乾ききっていないままべっとりと手のひらに着いている。
違う!
ペンキを塗り重ねられているのは、自分たちの方だ。椅子に乗っているどの学生も、さまざまなペンキを塗り重ねた上から、新たな色のペンキを塗り重ねられている。全身がペンキまみれになっている。
教授の方はもっとひどい。学生はまだ一色だけだが、教授は何十色も塗り重ねられて、眼鏡も口や鼻も原形が解らないくらいに塗り重ねられている。しかも、今しゃべっている間にも、さらなるペンキが頭上からかぶせられている。
(……資本家と労働者とは、生産手段を巡る所有関係によって、社会的関係が規定されるわけであります。一言でいえば、クラス、階級というわけでありますね……)
教授が話している間に、椅子に乗った学生が、ひとり、ふたりと落ちて行ったが、だれも気づかない。いや、気にかける余裕すら失くしてしまって、感覚が麻痺しきっているのだ。教授に至っては、自分の生命を維持できているかどうかさえ危うい。咽から声が出ていることが、奇跡に近い。
その上、金具、つまり、椅子とワイヤーとをつなげるボルトなど部品が、赤く錆びついてワイヤーの振動でかたかたと椅子自体が揺れている。ナットやネジが腐り切って、空洞化が激しく、いつ、どんな力が働いて落ちてもおかしくない。自分の座る椅子が、ワイヤー以上に危なっかしいものだと、彼は自分の置かれている状態にようやく気づくが、もはや施しようのないほど危険な状態であることに違いない。
彼は自分の置かれた状況から急に不安が増してゆき、柵もベルトもないこの椅子から、手を放せば簡単に落ちてしまうのではないか、あるいは、椅子ごと、いやワイヤーごと切れてしまうような恐怖感が次第に芽生える。しかも、ここまで吐き気を催すほどの、視覚や嗅覚の変化に耐えてきたが、尋常ない胃酸の混み上がり我慢しきれなくなって、突然、目の前が真っ白になった。
(……下部構造としての生産様式は、政治や法律、哲学、宗教など人間意識にいたるまでの上部構造を規定するわけでありますね……)
彼は急に足元をすくわれ、血液がつま先から失っていくような感覚を覚えた瞬間、さっきまで、座っていた椅子が猛スピードで上へとあがり、たった一秒にも満たない時間で、手の届かない位置にまであがり、さらに五秒から十秒ほどで、米粒ほどの大きさにまでなって、下から吹きつける風が激しさを増していった――。
違う、ワイヤーが昇っているのではない!
この足元からサーと血液が昇りあがる感覚は――、彼自身が落下しているのだ。教授の単調な声は、次第に遠ざかり、全く聞えなくなった。
どこまで落下を続けるか彼自身もかわらない。五臓六腑、全身のあらゆる器官をかき乱すほどの恐怖がこみあげる。
「……ぅぐぎいあああああああああぁぁぁぁ……!」
咽が裂かれんばかりの悲鳴を上げながら、脳髄や一切の神経回路が停電を起こしてしまいそうなほど、筋肉という筋肉が痙攣している。やがて血の気が引く感覚が緩やかに途絶え、何かに包み込まれるような感覚がして、下から吹き上げる風も止まった。
彼はコンクリートの箱によって、知らずのうちに落下から守られている。ただし、床以外は透明になっていて、依然黒い糸のようなワイヤーが激しい速度で動き続け、黒い砂粒がぽろぽろと雨のように降っている。何兆リットルものペンキが臭気を放ちながら描く、マーブル模様も相変わらずな、ままである。
彼の脳髄には、救急車のサイレンが鳴り響いている。五年前の講義室で気を失った時は、ここで真っ暗闇になって正気を取り戻した。
しかし、今もなお彼は巨大な鉄とペンキでできた球体の中にいる。彼はまだこの世界を直視し続けなければならない。まだ、続きがあるのだ。
彼の眼前には、ワイヤーから降り落ちている黒い砂粒が見える。まるで、映画で見たことのあるサイバー空間で、数字や文字がゆっくりとめどなく大量に、雨のように降り注ぎ続けるかのようである。あるいは、見たことないが原爆投下後の黒い雨のような。とにかく人工的で作為的な気味の悪い雨であることに違いない。
しかし、あの黒い雨は決して砂粒なんかではない。すべて人間だ。ワイヤーから振り落とされた人間だ。彼のように固定された椅子に座っていたのはほんの一握りで、多くは直接ワイヤーを握りしめ、ぐるぐる遠心力で振り回され続け、有害か無害かもはっきりしない粘度の強い気持ち悪い色をしたペンキを何重にも浴びせられ続け、傷ついて血だらけになっても、ペンキで血が隠れてしまう。
ワイヤーにしがみついている者の中には、べったりと全身がペンキの塊になっている人もいる。あるところでは、ワイヤーどうしが擦れ合い、黒い砂物と化した人間が、ばらばらと悲鳴を上げながら落ちていっている。
また、別の場所では、ワイヤーごと切れてしまって、人びとが恐怖に満ち満ちた絶望の悲鳴を上げながら、まるまる落ちている。なかには、ワイヤーによって真っ二つに肉体を引き裂かれ、雨となって落ちて行く者もいる。
イタイ、イタイ、クルシイ、モウ嫌ダ、人間たちの悲鳴が彼の耳に次第に届き始める。それらの声は次第に大きくなっていって、頭が痛くなるほどに響いてきて、彼を震え上がらせる。とんでもなく恐ろしいものである。
人間の数えきれない悲鳴と幾重に塗り重ねられた乾くことないペンキの臭い、めまぐるしく変化を続ける黒く細い糸の集合、髪の毛からつま先まで全身べったりと吸いつくペンキの感触、そのどれもが、気持ち悪く、恐ろしいものである。彼は腰が抜けて、手足の震えが止まらない。
 しかし、その恐怖と吐き気の正体を突き止められず、右往左往している人間がほとんどである。なかには、笑いながらペンキだらけにくるくる回転し続けている者もいるが、笑っているのは口と声だけで、目は見開き硬直し血の気を失っている。その間にも、雨のように人間やワイヤーが降り落ち続けている。
 どうして狂気に満ちたこの尋常じゃあり得ない世界に、耐えられ続けているのであろうか。また、次々と人間の雨が降り続ける状況に平然としていられるのか。
 みんな、自分の事だけで精一杯……そうか、だから無関心を決め込むことが出来る。たしかに、ワイヤーにしがみついている者は、みな手離さまいと必死だ。どんな色のペンキを浴びせられ、ワイヤーがどう動こうが、冷たい汗を流しながら耐え続けている。到底、黒い砂粒を相手にするゆとりなど、だれひとりない。
 コンクリート……あの六面を塞がれた四角い箱は、不都合な現実から唯一自分を守るための手段だ。一度閉じこもってしまえば、二度と外界を見たいなど思うはずない。ペンキやワイヤーに自分の体を傷つけられる心配がない空間をだれが手放すだろう。しかし、そこは一時的な避難所にしか過ぎない。
彼を守るコンクリートの箱は、ゆっくりとだが、下がり始めている。永続的に安心していられる場所など、このペンキとワイヤーで出来た球体世界に存在しない。下がり続けるコンクリートの箱は、徐々にある現実世界にまで彼を導いていく。
ある血だらけに全身が濡れた女の体にいくつもの膨大な数のワイヤーが絡みつき、その首、両手首や両足首を上下左右に力を加え引き裂こうとしていたが、じっと女は耐え続けている。だが、その間にも、容赦なくワイヤーが襲い、彼女の体に巻き付き、あるいは肉を貫通し、さまざまな力が加え続けられているが、彼女は一向にワイヤーを手放すつもりがないらしい。ワイヤーは何十本も彼女の体を貫き、もはやとっくに死んでいるはずだが、強い意志のような彼の計り知れない力で体は形を維持し続け、彼女の体を中心にしてワイヤーが絡み合いながら、巨大な翼が両翼に広がっているように形作っている。
それでもなお、毒々しい色のペンキが容赦なく、何重にも絶え間なく、彼女の体に浴びせられるが、いくらペンキを被り続けても、血がペンキを洗い流し続けている。これらの血は彼女の体内のどこから溢れ出しているのか、彼にも解らない。普通の人間ならもうとっくに死んでいる血の量をはるかに超えているが、まだ血はあふれ続けている。
頭やのどや心臓に容赦なくワイヤーが貫通し、目は見開き、力を失くし、すでに彼女の肉体に生気はないが、血は延々と流れ続けている。残虐極まる殺され方をしているにもかかわらず、その死に顔は不思議と穏やかで微笑んでさえいる。
彼女の体を貫くワイヤーの一本一本には、夥しい数の、いや、無数のへその緒のついた嬰児や水子が突き刺さっている。
残虐ではあるが、一身に罪や苦しみ悲しみの翼を広げる彼女は神々しくさえ見える。だがそんな彼女の努力もむなしく、夥しい数のワイヤーは新たな食指をのばしさまよい続ける。とうてい彼女一人の小さな体で背負いきれるものではない。
彼女のそばを、無惨に咽を引き裂くばかりの悲鳴を上げながら、つぎつぎと黒い雨は降り続けている。名もなき人間どもの罪深さと盲目さは、あらゆる感覚を駆使しても捉え切れられるものでは決してない。
彼が後ろに振り向くと、同じコンクリートの床の上に、黒い大きな翼が背中に生えた彼女が倒れている。近づくと、彼女は全身が痣だらけで血を流し、見ていられないほどひどく傷ついている。全身の力を大きく振り絞るように息をしている。
「どうしたんだ、その傷」
「……わたし……の、ことは……大丈夫よ……」
彼女は額からべったりとした血を流し、頬に生々しい傷がいくつもあり、顔じゅうから汗が噴き出している。
「ちっとも、大丈夫じゃないだろう」
「……ありがとう……」
「そんな、俺は何もしていない」
ギイイと、コンクリートの床を擦る音がすると思ったら、煙とともにワイヤーが彼の眼前に現れる。コンクリートの壁に守られている間にも、容赦なくワイヤーが牙をむいて、コンクリートを削り続ける。
「やっと……解った。みんな……独房に閉じこもりたくなる理由が……。恐いのはあなただけじゃない……」
再びワイヤーがコンクリートを擦っている。
「みんな、ほら、不都合な真実は見たくないから、コンクリートの箱の外には絶対に出ないの。わたしも、自分が何に傷つき、何と闘ってきたのか、まったく解らなかった」
 また、床をワイヤーが擦り始めた、土煙を上げ、いつコンクリートが崩れるかもわからない。そう思って不安が募ると余計にコンクリートの壁が厚くなってゆき、さっきまで見えていた外界がしだいに、曇り始めて行く。
「またコンクリートのなかに逆戻りだな……」
「違う、そうじゃない……」
彼女は荒い息をしている。濡れた血と傷はまだ体に刻まれている。
「……それより、四角い箱の外がやっと見えた。わたし、ううん、みんなが、苦しんでいた理由……」
 まだ薄く見えるコンクリートの外の世界は、相変わらず猛烈な速度でワイヤーがぐるぐると回り続け、ペンキのマーブル模様が変化し続けている。
「球体の外には誰も出られない。だから、かろうじて自分を保つために、四角いコンクリートの箱に閉じこもる」
「だから、わたしも四角い箱の外に出られなかったんだ」
彼女の瞳は虚ろながら、ガラス玉のような青い光は消え、しだいに人間らしい光を取り戻してきている。
「この世の孤独すべてを背負うなんて、無茶だよ」
「背負い切れなかったし、無駄死にだったんだね」
彼は首を振る。
「死んでもなお、球体のなかで闘い続けている。見ただろ? しっかりワイヤーを握りしめて、ペンキを血で洗い続けている」
「でも、まだ誰も助けられていない!」
今度は透明な涙を流す。彼女のそうした思いが、闘いを止めない原動力になっているのかもしれない。きっと、彼女の闘いはこれからだろう。今はやっと、球体の正体が見えたばかりだ。黒い雨がやむまで、彼女は闘い続ける。人類が滅ぶころまで止まない雨かもしれないが……。
「じんるい?」
「そうだよ。この球体を作り上げたのは、人間社会だよ。けっして、自然が作り上げたものなんかじゃない。宇宙のすべてを支配できる可能性があると思いあがった人間の無智な心が作りだした、窮屈で論理が破たんしても決して壊すことが出来ない球体の形をした遊具」
 
 いつから、この球体が存在するかはっきりしたことは、彼にも解らない。ただ、近代以降、科学技術と産業資本主義が進展した社会のなかで築かれたことは、はっきりしている。球体状に展開し続けるのは、この空間を抜け出せられる人間がひとりも存在しないからだ。
 狩猟や自給自足で生活が成り立っていたなら、こんな意味不明なおもちゃに人類が振り回され続ける必要はない。機械化が進み、効率化、集約化が進んだ近代社会でしか、成立しえない状態である。その生活は、人工的で作為的なものにあるにも関わらず、あたかも自然に存在しているかのような誤解を生んでいる。その近代社会が作り上げたシステムから逃れられる人間は、だれひとり存在しない。
 その理由は、まずこの形状が球体であることと関係している。
 仮に、四角いコンクリートの箱のような六面体なら、内側から外に向けて力を加えたなら、場所によって強度の違いが必ずあり、崩すことも不可能ではない。
 しかし、近代社会においては、胎児の段階から管理され、死後も法的な手続きや埋葬方法まで基本、厳格に管理された状態にあり、そこから漏れるのは自然災害などごく一部の例外しかあり得ず、現実に管理から漏れる事例はごく少ない。
 しかも、その社会に暮らす人間の大半は、自然にあるものを用いて生産を行ったとしても、極めて管理化効率化された設備の中で生産を行い、その対価はお金という形で表現される。お金が銅や銀や金で出来ていた時代なら、その生産量分の金、銀、銅が交換されるわけだが、現代のお金というものは、紙きれや通帳の印字や電子情報という、かなり抽象化されたもので量られ、生産に対する正当な対価として表現できているかどうかも怪しい。
 簡単に言えば、同じ労働時間でも、やった仕事の量や負担の違いに応じて、賃金に反映されているかどうか怪しい。彼女の母、彼の兄、期間工の男、ホームレスの男、高層マンションの男、ネットカフェ難民の母娘、サラリーマンの男、それぞれに賃金の差が現れるのは、なぜだろうか。仕事の内容による違いも当然あるが、努力が必要以上に報われる人間と必ずしもそうとは限らない人間が存在する。そもそも、お金という価値基準によって生産量を評価すること自体、妥当かどうかすらも曖昧である。 
このように、人間の行う生産活動に対する評価の方法、つまり労働に対して支払われる賃金そのものが、近代社会の決めた価値基準という不確かな人工的ものさしによって決められている。もっと残酷な言い方をすれば、テレビゲーム上のお金―ファイナルファンタジーのギル、ドラゴンクエストのゴールド、など―と現実世界で生産されたお金との間に境界線が消えつつある。しかし、近代社会では、そのよく解らないキャッシュカードに記録された数字という価値基準にたよって生活を行うことから逃れられる者はいない。  
一ドルが三百六十円の時もあれば、七十九円の時もあるし、百円前後の時もある。
 同じ生地で同じデザイン同じ大きさの服を作っても、日本製とバングラディシュ製とでは、お金で表される価値は全く違う。服としての機能や質に差はなくても、価格で差が生じるという不思議なことが成り立ってしまう。
 これは自然ではあり得ない奇妙な価値基準が現実世界を侵略している。一個のドングリが、全く触らないうちに半分に割れたり、二個以上に増えたりするはずはない。しかし、人工的な価値基準が絶対である近代社会では、一ドルに全く手を加えなくても、八十円にも百円にもなってしまう。そうした人工的な価値基準を無視して生活できる人間など、近代以降の社会では全く存在しえない。球体という構造ができてしまうのは、その人工的な価値基準が絶対であり、そこからの逸脱はどの方面からも不可能だからである。
 彼女が、幼少の頃に家出をしてタンポポの葉っぱで生きようとしたが、結局母のもとに戻り虐待に耐え続けなければいけなかったように、球体の外での生活は非現実的なものである。だが、最後に男からの一万円札を破り捨てて見せたのも、彼女は自分の肉体や精神のすべてと紙切れ一枚が交換不可能なものであると示したかったからだ。男はおそらくお金があたかも自然界にもともとある木の実と同じものと誤解し、固定観念に束縛されたままだったようだ。
 同じことは、お金以外に学歴や学校の成績とも同じである。少年が有名な私立中学の制服を見せびらかしたのも、それが絶対的なステータスの象徴のように誤解していたからである。だが、ひとりの人間として向き合いたかった彼女には、私立中学の制服は服としての機能以外の意味を持たなかった。
 では、次にその球体の中身が、なぜワイヤーとペンキで出来ているのか。ワイヤーから説明してゆく。
 この球体内に張り巡らされたワイヤーは、いわば人間が生産を行う上で不可欠な素地、つまり会社・役所・学校などの組織や団体のことをさす。何かしら価値のあるものの生産を行おうとすれば、全ての人間は組織・団体と関わりを持たないといけない。これが、すべての人間がワイヤーにしがみついている理由である。
 しかも、ワイヤーは生産の素地だけではなく、ワイヤーにしがみつく各個人の身分や利権を保障するものとなっている。学生であること、サラリーマンであること、フリーターや日雇い労働者、ネットカフェ難民、ホームレスなどを想像すれば、難しくはない。だから、たいがいの人間は自分の意思でワイヤーの放棄はしない。
 しかし、球体内では、ワイヤーどうしは、複雑怪奇に絡み合い、その利害関係に対立や矛盾は避けられないゆえ、ワイヤーが切れることも稀ではない。そのうえ、ワイヤーにはさまざまな人間がぶら下がっており、ワイヤー上のすべての人間の身分や利権を守るためには、ワイヤー自体の利益や存亡を無視することはできない。よって、ワイヤー上では人間ひとりひとりが、組織の利害を無視して、自らの意思で主体的に行動を行うことは、ほぼ不可能である。人間の主体性よりも、組織・団体の意思や主体性が重視され無視できない。ワイヤーはワイヤー自身の存亡や利益のために、ひたすら動き続けることになり、そこにぶら下がる人間の主体性や意思や社会全体の利益などはあまり重視されなくなる。
 ワイヤーにぶら下がる各個人が、健康であるか、必要最低限以上の生活を送れているか、やりがいや生きがいを実感できているかどうかは、無視してもいい問題になる。人間どうし心の通った結びつきが出来ているか、結婚できそうか、ちゃんと家庭がうまくいっているか、幸せに暮らせているか、別にどうでもいい話なのである。ワイヤーどうしの利害のため運動を続ける結果、必然的に人間は人生における主体性を喪失させてしまうことが容易になる。ワイヤーは複雑に絡み合い、猛烈な速度で運動を続ける故に、人間はバラバラな砂粒のような存在にならざるを得ず、たがいに人間を見づらくさせてしまい、人間どうしの関係に不信感や疑心暗鬼が膨らみ続ける一途になる。情けは人のためならず、よりも、人を見たら泥棒と思え、という思考回路が先行せざるを得なくなる。ネットカフェのあの薄い板で仕切られた空間を想像すれば、理解できるかもしれない。
 そうした球体内のワイヤー自体も、人工的な構造物であり、なんら普遍性を保証するものではない。事業仕分け、学校や役所の統廃合、企業の廃業・倒産など、現実に起きていることを見れば、簡単に想像できる。ワイヤーにぶら下がる人間は、全く生産の場を保証されているわけではない。生産の場の喪失は、お金や学歴を自然的な価値観と誤解する人間に揺さぶりをかけ、不安や動揺、保守的な感情を抱かせるのは、当然のことである。
 つぎに、ペンキについて説明をしていく。
 ワイヤー上で各個人に与えられる役割や義務のことである。簡単に言えば、ペンキは制服のようなものである。ワイヤーの上で、人間が生産活動をやっていくうえでは、どうしてもそこで与えられる役割や義務を完遂していかなければならない。ワイヤーそのものは、生産を行っておらず、ワイヤーの維持管理のために生産を行うのは、あくまでもそこにぶら下がっている人間たちである。
 そのワイヤーによって与えられた色彩に馴染むことで、人間は生産者としての矜持を保つことができ、安定した生活を営むことも不可能ではない。
 しかし、現実にはワイヤーどうしは複雑怪奇に回転をし続け、その方向性はまちまちに変化し続けているので、その都度個人に与えられる役割や義務も絶えず変化を強いられることになる。マーブル模様にペンキの色彩が変化せざるを得ない状況は、こうして作られてくる。しかも、その変化に人間がなじめ対応できているいかんに関わらず、ワイヤー自体の利害によって変化をし続けられるものである。
 こうして、猛烈な速度で複雑怪奇にワイヤーが方向性を変えながら、絶えず変化を続ける状況下では、ワイヤーにぶら下がる人間に生産者としての矜持を保持するのはきわめて困難になる。実際の役割を遂行する人間にすべての矛盾が、過労・格差・精神疾患などの形となって、しわ寄せに襲撃される。
 そのワイヤーにぶら下がる人間の、視覚嗅覚などあらゆる五感に追いつけない程の速度で変化を続ける球体内の世界は、人間にとって息苦しさ、虚無、疲労、不安、恐怖心を生み、「生きづらさ」となって表出する。
 ワイヤーに耐えきれず、黒い雨となって落ちて行く人間が後を絶たないのは、このためであろう。彼のようにワイヤーから自分で手を離し、他のワイヤーとのかかわりを一切断つ行為、これが、引きこもりである。一度ワイヤーから手を離してしまえば、外側から見えるワイヤーどうしの運動は凶器にしか見えなくなる。ワイヤーはワイヤーにしがみついていない部外者に対して冷酷極まりない態度を取り得るからである。組織外の人間を親しく向かい入れる人間が存在しないのと同じである。
 また、自らの意思とは関係なく、ワイヤーにしがみつくことに疲れ、またはワイヤーどうしの運動の矛盾によって、落下を余儀なくされる人間もまた、黒い雨の正体である。
 これら、近代社会に出現した、球体内部のワイヤーとペンキが、人間を孤立させ、個人はバラバラの砂粒と化し、他者とのつながりが実感しづらくなり、とてつもなく弱い存在へとならざるを得なくさせてしまっている。四角いコンクリートの箱は、あるワイヤーに順応するように人間を矯正させる装置であり、一度着いた形はそのまま残ることが多く、別のワイヤーに乗りかえる際、さらなる矯正を強いられ、過度に精神的負担となり得る。また、四角いコンクリートの箱は、ワイヤーの都合に合わせて変形させられた人間という弱い存在を守る細胞壁の働きも兼ね備えている。ある一定の形を維持してさえいれば、心傷つけられるリスクを最小限に抑えることが出来る。
ここまでのところをまとめるとこうなる。
 お金や学歴などは、社会システム上において人工的に作られた空想の価値であり、学校を出てお金を稼ぐ行為そのものは、人間の主体的な活動に必要不可欠というわけではない。たとえ、一万円札や卒業証書が紙切れとなっても、地球が滅ぶわけではない。山には木が生え、川に水が流れて、海で魚が泳いでいることに、変化は絶対に起こり得ない。
にもかかわらず、あたかも自然に存在する水や大地のように、社会システムが築き上げた空間内に、すべての人間が依拠することになっている。しかも、その全体像はプログラミングが不完全なオンラインゲームのように、暴走に対していかなる人間も無力である。だから、ひとたび欠陥や矛盾が生じれば、人間は無力に振り回され傷つけられてゆくことになる――。

彼女を買った男はだれもが、生きづらさに苦しんでいた。たしかに、全ての人間が生きづらさを自覚しているわけではない。彼女を飼いならしていた高層マンションの男は、無自覚であったが、仕事にしろお金にしろ、自慢の高層マンションにしろ、テレビゲーム上の世界と何ら変わらない空想上の価値に過ぎず、自分の欲望を晴らした後に残ったのは、四角い無機質な空間にひとりにされた自分だけだった。ゲームの世界から抜け出せられなかったこの男が、虚無という現実に放逐されたのは、遅かれ早かれ当然の結果だった。その虚無の苦しみによって欲望は屈折し、男は現実と空想の堺を見誤り、彼女への刃となった。
 それは、少年の末路の一つだったのかもしれない。表向きは「模範的」であっても、内面にいくら欲望をつぎ込んでも埋めきれない虚無の存在に怯えていた。弱いものを殺し標本にするという行為は、少年にとって自分の優位性を確かめるために過ぎなかった。その優越感は一時的なもので、すぐ煙のように消えてしまう儚いものだった。標本作りは、ゲームの世界におけるレベル上げと大差ない空疎なものであった。おそらく、ゾウやクジラの標本をつくったとしても、彼の心は満たされない。
 サラリーマンの男は、ただごく普通の暮らしを守りたいだけであった。しかし、男の抱いた「普通」という価値観は、生産、消費、生活環境、人生観のすべてか管理下に置かれた社会によって刷り込まれたものにすぎなかった。ゲームの世界において、プレイヤーはルールを変更することができない。男は平均家族というゲームをプレイしていたにすぎず、現実には妻子と心が離れ、埋め合わすことのできない寂しさを名も知らない娼婦をネットで買う新たなゲームで取りつくろった。結果、すべてが徒労に終わって、家族を失い鉄筋の冷たく広い箱の中で、そら虚しい自分の存在を見つけるだけだった。男の家族サービスというオプションゲームは、ゲームがつくりだす偽りを露見してしまい、旅行やレジャーは楽しい家族という虚像を仕立て上げるばかりで、子どもの心を閉ざした姿がしっかり写真に残された。ゲームによって弄ばれた男は、希望を失い、生きる気力までも喪失させてしまった。
 若い期間工の男は、だれひとりとして心の内を明かす恋人も友達も家族もおらず、コンクリートの四角い独房の中で言い知れぬ苦しみを抱え続けていた。それは何もかも一切が無駄だと言わんばかりに、希望も欲望をも失い、どこにぶつけていいのか解らない感情をテロリズムとしてゲームの仕組みそのものに対し刃をむけたが、その行為すらも徒労に過ぎなかった。
 これら男たちの虚しく寂しい感情は、個人の心の弱さだけで説明できるものではない。生きていても楽しいと実感できない状況、努力を重ねても自信の裏付けにならない弱い自我のままの居場所のない状況がある。どんなブランドの服、制服、スーツ、作業服を着てもロールプレイングゲームに過ぎず、幸福を実感しづらい状況、それらが男たちを虚しく寂しい生きづらい空間へと追いやった。一人の努力だけでどうすることもできない種のものだった。
みな、ひとりでは、見えない力に振り回されるだけの、力ない存在だった。だから余計に四角いコンクリートの箱の中で閉じこもり、自分を守ることに精一杯になる。それが、現代的な生きづらさに苦しむ所以だった。プレイヤーの資格を失えば、寄るすべなく茫容と広がる砂漠のような虚無の世界。楽しみを見つけ出すどころか、食うことさえままならぬ阿修羅のような世界である。希望という幻想風景すらない。
 生きづらさを実感として持つ者としては、その気持ちを無視され、だれにも理解されないまま闇に葬られることほど悔しいことはない。なかには、若い期間工の男のように、テロリズムによる自爆的反抗を起こす者もいるが、それでゲームのルールを変更できるわけはなく、虚しさしか残らない。余所者が余所者に向けた刃は、球体内のゲーム化された世界で到底受け入れられるはずはなく、人間どうしの距離間が一層離れてしまい、余所者=何を考えているか危ない存在=敵という思考回路がより強まり、独房の壁がいっそう厚くなるにすぎない。
 サラリーマンの男のように自殺するのは、一見球体すべてを破壊する最も合理的な方法に見えるが、男が一人消えるのみで、球体というゲーム自体に全く傷をつけられていない。死人に口なし。六面を分厚い壁に囲まれたなかでは、叫び声はだれの耳にも届くはずがないが、かといって死んでしまえば叫ぶことも考えることも希望を持つこともできやしない。
 一方で、逆に生きづらさに目をそむけている者もいる。こっちのほうが、ほとんどだと言っていい。
小学校・中学校時代に彼女をイジメていた同級生の事だ。彼らは自分を保つため、平和を守るため、あえて共通の敵をつくりあげた。ゲームを問題なく展開させ矛盾を回避するために出現したプログラミングの書き変えであり、素性のわからぬ人間どうし価値観や趣味などの食い違いによって起こる対立やケンカを避けられ、クラスという集団の中で適応することが可能だからだ。しかし、その「敵」という明確な設定基準が存在しないプログラミングは、ゲームをこじらせ、プレイヤーにその矛盾がしわ寄せとなって出現する。
 他にも、無名でいられる空間で、四角い箱によってゆがめられた欲望をむき出しにする者もいる。ネカフェの客のように、薄い壁一枚隔てた空間で万引きや卑猥な行為などのスリルを楽しんだり、もっとダイレクトにサイバー空間を通じて、名もない相手と淫行を楽しんだり、など。
こうした、なすりつけ合いや偽物の欲望によって、人びとは気づまりなくらいの虚無を埋め合わせようとするが、虚無感は消えるどころか、増える一方である。
 現代社会に存在する生きづらさは、だれにも当てはまることであり、そこから無縁で生きている者はいないといっていい。そうして、この古アパートに暮らす彼とその兄も同じだった。みんな、寂しく生きづらさを実感しながらも、どうすることもできない苦しみを抱えていた。けっして敏感な人間だけが損をしているわけではない。
そのシステムはこれまで説明したように数多くの矛盾をはらんだものであり、現代社会に様々な現象を引き起こしている。
中退・不登校にしろ、引きこもりにしろ、虐待にしろ、イジメにしろ、貧困にしろ、母子家庭にしろ、離婚にしろ、格差にしろ、非正規労働にしろ、他者への共感・想像力の欠如にしろ、精神疾患にしろ、ネットカフェ難民にしろ、ホームレスにしろ、万引きにしろ、少年犯罪にしろ、強姦にしろ、援交にしろ、風俗にしろ、殺人にしろ、通り魔にしろ、テロにしろ、自殺にしろ……、ありとあらゆる問題の根幹は、同じものである。球体の中は、どんな人間にもついていけない速度で変化を止めない。安全管理のしようのない究極の恐怖に満ちたジェットコースターといってもよい。
空想上の価値観―お金や学歴など―というもので抽象的に管理された球体形遊戯施設では、人間の主体性など幻惑に過ぎない。サラリーマンの男の子どもが、写真で笑顔を一切見せなかったのは、笑顔を見せられる場所が遊戯施設のどこにもなかったからだ。しかも、それは高額なゲーム機の中にすら存在しない。にもかかわらず、これらが娯楽だとだれもが錯覚している。こうした人間が主体性を失った社会で、矛盾したエネルギーを発散しようとすれば、先にあげたような事柄に絞られてきてしまう。
このゲーム化された球体空間では、いかなる欲望もゲームの内部に組み込まれてしまい、クッパのような最終目標のいないゲームで、プレイヤーは奇妙な球体ゲーム世界内で、一機のマリオのように消耗される。ただ、テレビゲームのマリオとの違いは、現実世界のマリオが血を流す生身の人間であるということだ。
これらの矛盾すべてを、身ひとつで受け止めようと血を流し続け、闘い続けているのが彼女という存在である。それが無謀な挑戦であることは、彼女もようやく理解したようだが、まだ誰も助けられていないという気持ちが、彼女が死んで幽霊となっても闘いを止めない強い意志となった。
おそらく、闘いはまだ始まったばかりだろう。人間が球体ゲームの主導権を握るまで、彼女は血を流し続けるに違いない。

『彼の説明通りだと、救いがあるのかないのか、はっきりしません。人間のつくりだした社会なんて、もともとそういうもんだ、と言ってしまえば、元も子もありません。
きっと、幽霊のわたしは、当分のあいだ成仏できそうにないでしょう。辛い思いをするのは、わたしひとりで充分です。どうか、わたしのような可哀相な女の子をマリオみたいに消耗しないでください。ゲームに熱中ばかりしないで、まわりの人たちを大事にしてください。キレイごとかもしれませんが、キレイごとがキレイごとでなくなってほしいです。人間はそのために努力を続けているんだと信じています。

最後にあなたとお兄さんが、球体ゲームによって引き裂かれる前のお話をします。
もっと古い記憶の話です。
お兄さんはあなたという、小さな生き物を不思議そうに見つめています。ずうっと寝ているか泣いているかのどっちかを、毎日毎日繰り返していました。トイレもいけないし、服も着替えられない、立つことも、しゃべることも、寝返りも、ひとりではなにもできない、手のかかる存在。母も父も、ずっとかかりっきりです。
自分もそうだったのか、想像してみましたが、お兄さんには記憶がないので思い出せません。でも、かわいい存在なのは、確かでした。あなたの顔を覗き込むだれもが、かわいい、目のあたりがお父さんに似ているなど、言うので、お兄さんもそう思いました。
しかし、お兄さんにはまだこの小さな生き物が自分程の背丈になってしゃべり、果ては大人になって行く姿など想像もつきません。母は、お兄さんの時と比べて手がかからないで楽だと言います。そんな、父や母にも、こんな小さな時期があったのか、お兄さんには想像すらできませんが、この不思議な感覚が命というものなのでしょう。
その小さな何もできない命が、お兄さんさえ知らないめったに会わない大人たちをも巻き込んで、みんな同じことを口にし、同じような顔つきにさせてしまいます。父と母でさえ育った家庭が違うから、ご飯の食べ方など些細なことでよくケンカをするのに、この小さな命がすべてまるくまとめてしまう。これが家族なんだなと、お兄さんは実感し、あなたを新たな一員として、受け入れました。
一人では何もできない赤ちゃん。両親がいない心細いと感じるのは、お兄さんも同じでした。変身ヒーローものを見て、自分は強いと思っていた兄でさえも、両親のいない生活はとても考えられませんでした。
お兄さんがそう思っているうちに、あなたも歩けるようになりました。まだ言葉をはっきり話すことはできませんが、だいたいの意思疎通はできていました。よく、叩きあいのケンカをし、あなたにとってのお兄さんは、目の上の煩わしい存在だったかもしれません。力では、どうしてもお兄さんには敵わないからです。
しかし、ずっと同じ遊びを何時間でも一緒に出来たのは、お兄さんだけのはずです。母が仕事に復帰すると聞いて、あなたは心細かったかもしれませんが、お兄さんと一緒だったので寂しいと感じることはなかったと思います。お兄さんにとっても、弟であるあなたの面倒をしっかり見なきゃいけない自負がありました。
ふたりとも寂しいと感じるのは、ひとりにされたときか、あるいは知らない人たちと一緒に過ごさなきゃいけなくなったときでしょう。保育所や幼稚園で過ごす時、まだ誰を頼りにしたらいいか解らない時、あなたはお兄さんを頼りにしたでしょう。お兄さんも頼られることを嫌だと思っていなかったはずです。そうして、あなたはお兄さんの友達から、どんどん知合いや友達を増やしていったはずです。他者との接し方をあなたは、そうやって学んでいったのでは、ないでしょうか。
人間はひとりにされてしまうと、とても弱い存在です。しかし、誰かと繋がっている実感が持てて初めて強くいられます。あなたたち兄弟は、お互いにそういう存在だったはずです。初めからそういう体験が、欠如しているわたしとは、違うはずです。
もっとも身近な、ずっと一緒に居ることが、無条件に許される他者、あなたの場合は、お兄さんと、繋がれる可能性はないのでしょうか。
あなたを引きこもりから解いてくれるのは、そういう身近な人なんじゃないでしょうか。あなたは生まれた時から、すぐにとても大事なものを得ていました。それはけっして、お金で取り換えが出来る、偽物の家族ごっこじゃないはずです。お互いに正直な気持ちをうちあけてください。幸せになりたいのなら、とても避けられません。
確かに、難しいと思います。この兄弟の力で自立するには、球体ゲームのなかであなたたち自身の力で、本当に大事なものを見失わない努力をしなきゃいけません。家族、兄弟という最も基本的な人間どうしのつながりの大切さを見失わないでほしいです。
それに、もっとお互いに心を開いてください。
正直、まだ救いようのあるあんたたちがうらやましいよ。ね、できることから、がんばってみようよ。』

 *

たちまち物置き部屋は、元どおりの形と状態に戻って行った。相変わらずゴミがひどく散乱した状態である。掃除など一度もしたことがなかった。しかも――
「あ~、我ながら無様だな……」
腹が出て顔じゅうが脂ぎっただけならまだしも、下半身がねっとり白濁としたデンプン糊のような液体が冷たくへばりついたままだった。
「こっちのほうが、もっと酷いよ」
服を裂かれ血だらけになって、黴の生えたナイフが突き刺さったままの、女の死体がしゃべった。彼は思わず声を上げ、鼻口を両手で押さえ、たじろいでしまった。
「こんな女とヤリたくないでしょ?」
言われてみれば、その通りだ。下半身も全体が膿んで黒く変色している。
「最後に、これだけは言わせて」
「なに?」
彼女は真面目な顔で彼を見つめた。今まで以上に真剣な顔だ。
「絶対、幸せになって。お願い……」
もう苦しむのは、彼女だけでいい。その願いは、彼女だけのものでは、もはやない。
 そうして、ふたりがかりでドアノブを回して、ついに扉の外へ出た――。

「なんのつもりだ、この野郎」
兄は安い発泡酒の缶を片手に、鬼のように赤い顔をしている。まだ怒りの収まりきらない様子だ。
 だが、窓の外では、彼女が手を振っている。幽霊もやっと外に出られたようだ。彼の視線に気づくと、大きく口を開け、ゆっくり、がんばれ、と口を動かすと、彼女は背中に生えた大きな黒い翼を広げ、闇の薄まり始めた濃紺の空へ飛び立った。
 闘いは、まだ始まったばかりだ。

球体遊具

球体遊具

  • 小説
  • 中編
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-10-24

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