『Oratio ~祈りの海~』(改1)

一、有岡の陥落

「久左衛門ッ! うぬは、それでも人の子か?」
 荒木摂津守村重は我を忘れて激昂した。
 久左衛門は背を丸めその額を地に擦り付け、ただただ無言で、その場に平伏するばかりであった……。

 * * * * * *

 天正七年(一五七九年)九月二日、荒木摂津守村重は居城である伊丹有岡城を脱出し、嫡男村次の篭る尼崎城へと入った。
 周囲を織田の大軍に十重二十重と包囲された荒木側にとって、毛利との連絡は専ら海に面した尼崎と花隈の両城を経由するしか術がなかった。毛利へは援軍を督促するものの、約定の七月から既に二月が過ぎてもなお援軍の来る気配は無かった。村重は腰の重い毛利に業を煮やし、自ら安芸へ赴き毛利の総帥輝元を説得するとして、僅かな供を連れ織田軍の囲みを辛くも掻い潜り有岡を脱出したのであった。

 一方、寄せ手の中で、いち早く村重の動向を掴んだのは滝川一益であった。織田軍の諜報担当でもある一益は、村重脱出の知らせに焦りの色を隠せなかった。一時は重用した村重の反逆に烈火の如く怒り狂った信長である。その信長が、村重をみすみす城から逃したと知ればどんな癇癪を起こすか想像するだけでも恐ろしい。
(急がねばならぬ)
 間者には堅く口止めを申し付けたものの、村重の出奔は数日の内に露見することは必至であった。城主不在が知れ渡れば城中の士気も下がるだろうが、信長はきっとこの機に乗じて総攻めを命じることは想像に難くない。元々、圧倒的な兵力差を見せつけて城方の戦意を奪い自ら降らせるのが織田軍の常套手段である。
(しかし、上様は……「根切り」と申されるであろうな……)
 有無を言わさぬ総攻めは、「根切り」即ち城方の皆殺しを意味する。逃げ場を失い絶望的な殺戮を前にして、城兵は死兵と化すだろう。そうなればもちろん攻め方にも多大な被害が出るのは必至である。
 勝ち戦で犬死することこそ阿呆らしいことはない。それがこの時代の将兵の普遍的な認識である。しかし一益の思考はそこだけに留まらなかった。
(長島の、あの地獄をまた味わうのか)
 配下の将兵のみならず敵将からもその清廉潔白さを称えられるような男であった一益にとって、天正二年(一五七四年)の夏、伊勢長島で繰り広げられた惨劇は直視に堪えないものであった。一旦は投降した一揆衆を大軍で囲み、鉄砲にて悉く撃ち殺したのである。更に残る砦も柵で厳重に囲った上で火を放ち、約二万の男女もろとも焼き尽くした。怒声と罵声と呪詛の織りなす様はまさに阿鼻叫喚の地獄そのものであった。
 一益自らも水軍を率いてその地獄に立ち会った代償は、皮肉にもその舞台となった長島の城であった。一度離れた民衆の心は容易には覆らない。徹底的な殺戮の目の当たりにして、表面的な抵抗は沈静化したものの、長島の民からすれば、信長のみならず織田家の将兵共々返り血に塗れた地獄の悪鬼とでも映るのであろう、織田家の人間に対しては上下分け隔てなく潜在的ともいえる嫌悪感を含んだ眼差しが向けられたままとなっている。
 信長もそれを知っているからこそ、あえて巧者一益に長島の地を任せたのだと一益自身も理解してはいるのだが、治める者の苦労は半端なものではない。手綱を緩め過ぎれば表向きは沈静化した一揆衆の温床となり、締め付け過ぎればこれもまた新たなる火種となる。いずれにしても無用な血が流れる結果となるのは明らかだ。
 有岡城で、一時の憎しみに任せて根切りをやれば、摂津もまた血塗られた土地として同じ道を歩むことになる。
(それだけは避けねばならぬ)
 意を決した一益は、かねてより進めていた有岡城内の切り崩しに尽力するしかなかった。尤も一益の調略手腕は一流、城主不在を盾に巧みに城方の不安を煽り、幾人かの内通者の獲得に成功した。

 十月十五日。信長の命を受け、織田軍は有岡城に対し一斉総攻撃を開始した。対して城方は一益の内通が功を奏し、ほぼ無血で上臈塚の砦へ織田勢の侵入を許した。ただし、岸砦を明け渡した渡辺勘大夫並びに、鵯塚砦の野村丹後守は信長に降伏を聞き入れられず即座に処刑されている。
 瞬く間に伊丹の町を蹂躙した織田勢は、城との間に建ち並ぶ屋敷に火をかけた。本丸は辛うじて健在とはいえ、総構えを突破されたことで有岡の落城は必至となった。寄せ手の一人である明智光秀は、これを好機として、尼崎、花隈の両城と引き換えに城方の将兵についての助命を信長へ進言した。光秀もまた、殺戮による惨劇の再来を恐れたのである。意外にも進言がすんなりと受け入れられた事に狂喜した光秀は、勇躍して荒木方に投降を呼びかけた。光秀の論理的かつ粘り強い説得に、本丸を守っていた荒木久左衛門は開城を決意、接収役として津田信澄が本丸へと入った。
 十一月十九日、信長の命を受けた形で、荒木久左衛門は手勢三百を引き連れ村重らの立て籠もる尼崎城へ赴いた。城兵の助命の条件である尼崎城と花隈城の開城を、主、村重に説く為である。
 尼崎城に到着した久左衛門は、手勢を城外へ残したまま単身城内へと入った。

 * * * * * *

「有岡の城は陥ちましてござる。申し訳ございませぬ」
 開口一番、久左衛門は土下座したまま石仏のように固まって微動だにしない。
 有岡の陥落、目と鼻の先にある尼崎城にて村重はもちろんそのことを既に知っている。しかし、留守を任せたはずの久左衛門のその言葉に、改めて現実を思い知らされたのであった。ここ尼崎城も、織田の大軍に囲まれ防戦一方である。一日千秋の思いで毛利からの連絡を待つ村重であったが、一向に便りは届かない。
「城内の者共はどうしておるか? 陀志は?」
 村重の問いに、久左衛門は漸く口を開いた。
「城兵については、城下に留め置きとなり、処遇については吟味中にてございまする。奥方様におかれましてもご健在でありますが……」
「が、何じゃ!」
 歯切れの悪い久左衛門の言い回しに焦れた村重は声を荒げた。
「……これを」
 久左衛門が差し出したのは陀志が持たせた文であった。短冊に一編の句のみが記されていた。

『霜がれにのこりて我は八重むぐら なにわの浦の底のみくずに たし』

 妻の死の覚悟を即座に読み取った村重は、みるみる青ざめたかと思うと狂乱したかのように叫んだ。
「ならん! 出陣の支度をせえ!」
「殿! なりませぬ」
 周囲の静止も村重には届かない。
「うるさいッ! 今すぐに討って出る! 見殺しになどできるか、出陣の支度じゃ! 早うせい!」
「なりませぬ! 犬死するだけでございます」
 久左衛門は、村重にすがりつくようにして押し止めようとするが、剛力で鳴らした村重の動きを封じるには至らない。必死にしがみつく久左衛門を引きずったまま、村重は呻いた。
「……構わぬ。死なせてくれ。この首、薄濃にでもすればええ」
「なりませぬ! 全てを無にされるおつもりかッ!」
 村重の諦観にも似た物言いに間髪入れずに反応した久左衛門は、叫ぶと同時に跳び退ると再び村重の行く手を阻むかの如く土下座の石仏と化した。
 村重は仁王立ちのまま久左衛門を見下ろすと、絞り出すような声で問いかけた。
「久左衛門、自念は息災か」
「……倅は、城に置いて参りました」
「城に残された者どもが、どうなっても良いと申すか」
 久左衛門は顔を上げると、射すくめるような目付きで村重を見据えた。その眼が赤い。
「手前は、説得の使いとしてここに罷り越してござる、事が成らずば殿の首級を持って帰るとも申しました。が、元よりその気はござらん。妻子にも覚悟は申し渡しており申す」
「久左衛門! うぬはッ! それでも人の子か?」
 激昂する村重に対し、ただひたすらに平伏する久左衛門であったが、その肩は小刻みに震えていた。村重もそのことに気がついてはいるが、やり場のない憤りをそのまま呑み込むこともできない。
「おやめください!」
 傍で二人のやり取りをじっと聞いていた村次が、真っ赤な顔をして叫んだ。
「久左衛門がどのような思いでここへ参ったのか、父上にはわかりませぬのか! 誰がみすみす妻子を死なせて平気でいられましょうや」
「村次様……」
 久左衛門は平伏したまま肩を震わせ嗚咽を漏らす。村次は、座したまま拳が砕けんばかりに床を打ち据えると、そのまま顔を伏せ号泣した。
「もうよい。この儂の不甲斐なさを恨め」
 村重は、そう言い捨てるのが精一杯だった。


二、陀志

 織田軍に占領された有岡城下では、村重の正室たる陀志を初めとして主だった将兵の妻子が人質として留め置かれていた。
 接収役として監視に当っていた津田信澄の元へ、突如、山崎に陣を構えていた信長が供回りの者数名を引き連れ訪れた。間もなく十二月を迎えようとしているにも関わらず、尼崎と花隈の調略が一向に進まない事に痺れを切らしたものと信澄は震え上がったが、信長当人は意に介した素振りもなく終始上機嫌で城内を一巡りすると、徐に人質らを集めるよう信澄へ申し付けた。

 * * * * * *

 城下の屋敷に集められた人質衆の内、陀志他身分の高い者やその従者達約数十名は別にされ、広間にて待機するよう申し付けられた。自分達の処遇について一切知らされていない上、別室に隔離されたことで不安は一層掻き立てられた。胸中の不安が一同のざわめきとなって漏れ出すのにさほど時間はかからなかった。
「いよいよ、あかんのやろうか……」
「尼崎や花隈はまだ降らんそうな」
「久左衛門様も尼崎から戻らんと聞く」
「まさか、この場で首を刎ねられるのでは……」
 侍女の中には恐怖のあまり真っ青な顔をした者もいる。
「静まりなさい。見苦しい真似は許しません」
 陀志の凛とした声が響くとざわめきは止んだが、それで一同の不安が拭われたわけではない。陀志としても自身の不安を抑え込むのに必死であった。
(主よ、お力を……殿……)
 一同が再び恐怖に屈し、座がざわめき出した頃だった。
「上様、御成り」
 小姓らしき甲高い声が恐怖の根源となっている男の到来を告げた。

(さながら悪鬼か、魔王か)
 南蛮のものであろうか、異国のものと思しき黒づくめの衣装に身を包んだ信長が姿を現すと、一同は深く頭を垂れ恐怖に肩を震わせたが、その先頭に座した陀志は毅然とした声で信長へ応えた。 
「荒木摂津守村重が妻、陀志にございます」
「うむ、面を上げよ」
 陀志が顔を上げると、信長の側衆の中に見知った男が居る事に気付いた。
 かつて、高槻城主として村重と共に信長に背いたものの、緒戦で織田へ降った高山右近である。陀志とは村重の室となる前からの知己であり、陀志をキリシタンへと導いた一人でもあるが、今は陀志の視線に恥じ入る様にただ俯くばかりであった。
 陀志は、この男が村重を見捨てた経緯と事情を知っている。大軍を以て城下に迫った信長に領民と城下の宣教師達の殺戮を示唆され、なんと領主の座ごと投げ捨てたのである。白装束に身を包み、単身丸腰で信長の本陣へ出頭した右近は、信長自身の強い慰留を受け、攻城部隊に組み込まれていたのであった。
 信仰心に篤い右近が、そのほとんどがキリシタンとなった領民を犠牲にすることも、教えに背き返り忠となることも選べず、苦悩の末の選択であったことは想像に難くない。村重は、戦略的に最重要地点である高槻をほぼ無血にて手放したばかりか、領主としての責任を放棄したことを殊更に非難したが、陀志としてはキリシタンとしての心情も理解できるだけに、右近を一方的に責める気にはなれなかった。しかし、元々義侠心に篤い青年であった右近が、自らの行為を心から恥じている事も痛いほど理解していたので、正直どう接して良いのか分からなかった。もっとも、この期に及んではその必要もなかったが。

 陀志の視線の先に右近が居ることに気が付いた信長は、何かを言いかけたようにも見えたが、無言のまま陀志の方へ向き直ると、その首に下げられたロザリオに目を止め、唐突に問うた。
「ヤソでも、死は恐ろしいか」
「恐ろしゅうございます」
 間髪入れずに応えた陀志に、信長は一瞬眉を動かしたが一息の後、更に問うた。
「では、なぜヤソを信ずるのか」
 信仰など無駄ではないか、と信長は冷笑したが陀志は臆せず応えた。
「恐ろしいゆえの信仰なのです。信ずる事で神の身許に一歩でも近づくこと、それが信仰の道なのです」
 ふん、お前も法華や浄土の坊主と同じことを言う、と信長は空笑いした後、鋭い眼光に戻って言った。
「村重を説け」
 思いがけぬ信長の言葉に一同はざわめいた。しかし、まるでそれに応えるかのように信長の口から漏れた言葉は、更に一同を驚愕させた。
「惜しい」
「上様!」
 脇に控えていた堀秀政が思わず声を上げたのも無理はない。秀政もまた信長の傍にあり、村重の反逆に激昂する主君の姿を知っている。自らも鉄砲隊を率い永らくの攻城戦に参加した身である。信長の命なればこそ、敵にも味方にも多大な流血を強いたのである。それを今更惜しいとは何事か。が、当の信長は秀政の声が聞こえなかったかの如く、平然と言葉を続けた。
「斬り死にするならそれまでとも思うたが、なかなかしぶとい。詫びさえ入れれば水に流す。説け」
「……陀志さま」
 侍女たちの顔に希望の色が浮かんだが、陀志は一瞥もくれずにきっぱりと言ってのけた。
「お断り致します」
「陀志殿! 上様のご慈悲におすがりなされ!」
「だまれ右近!」
 それまで沈黙を保っていた右近の絶叫が終わらぬ内に、信長の怒号が響いた。
 右近が、まるで雷に打たれた亀のように首を引っ込めその場に平伏したのを睨みつけた信長は、陀志に向き直って問いを続けた。
「何故か。儂の言うことが信じられぬと申すか」
「違います。意地でございます」
「われの意地で家来衆まで殺すか」
「殺すのはあなた様です」
「控えよッ!」
「秀政!」
 信長が制しなければ、秀政は即座に抜刀していたかもしれない。それ程の殺気を滲ませていた。しかし、陀志もまた秀政を睨み据えたまま一歩も動じない。
「よい、続けよ」
「この戦、村重の上様と意地をかけた喧嘩にて、女子が口を挟むことはできませぬ。降るも降らぬも村重の意のままに従いまする」
 喧嘩、という言葉に僅かに反応した信長であったが、であるかとつぶやいたのみで陀志に続きを促した。
「上様は、村重に寝首をかかれるのが恐ろしゅうございますか」
(なんとも不思議なお方か……)
 陀志は、信長の眼に怒りの色が無い事に気が付いたものの、それが何故だかは皆目わからなかった。信長の真意を図り知れぬまま、陀志は言葉を続けた。
「わが主村重は、負けそうになればさっさと腹を切るような腑抜けではありませぬ。裏切り者と蔑まれようが卑怯者と罵られようが、泥水を啜ってでも目的を達する、そのような強き男でござりまする。その礎となるのなら本望にござりまする」
「それで皆を道連れにして満足か? パライソにでも行く気でいるのか」
「既に多くの者を巻き添えにし、更に上様の首を掻いたならば、村重はパライソには行けませぬ。私も、皆をパライソへ送りし後は地獄にて合い見えまする」
 陀志を睨み据えたまま、暫くの間沈黙を保っていた信長は何かを思案しているようでもあったが、意を決したように立ち上がると、低く、しかしどこか愉しげな声色で命じた。
「……追って沙汰する。秀政、任す」
「御意」
「信澄、そちは城と街に専念せよ。街を見たい、案内せよ」
「ははっ!」
 弾かれたように飛び上がった信澄に連れられ、信長が足早に立ち去るや否や、陀志はその場に音もなく崩れ落ちた。
「陀志様!」
 侍女たちの悲鳴の中、思わず駆け寄った秀政がその肩を支えるように抱えこむと、陀志の体が小刻みに震えているのが秀政にも良くわかった。顔色も先ほどまでとはまるで別人かのように蒼白である。
「薬師を呼べ!」
 秀政の声を遮るように、陀志が呻いた。
「……大事ありませぬ、申し訳ありませぬ」
「いや、しかし……」
 陀志は、躊躇する秀政を見据え、未だ震える手でゆっくりと起き上がると微笑さえ浮かべて見せた。
「皆もよう聞きなされ。武門の倣いなれば、死など恐れてはなりませぬ」
(まだうら若いというのに、なかなか大した女子じゃ……)
 秀政は、陀志の気丈さに内心感じ入っていたが、それを周囲に悟られまいとして薬師と入れ代わりに広間を後にした。
(乱世とは、覇道とは、かくも無情なものか)
 秀政は、感傷的な心持ちをなかなか拭えずにいる事を自嘲するしかなかった。


三、船出

 摂津、尼崎城。
 師走に入っても毛利の動きはなく、村重は身動きが出来ずにいた。久左衛門は表向き説得に失敗しそのまま手勢すら打ち捨て逐電したことになっているが、単身、尼崎城内に留まっていた。
 十二月十二日の夜になり、人質の内、陀志や自念を始めとした主だった者たちが京都妙顕寺へ送られた。その知らせはわざわざ尼崎城中へも伝えられた。
 翌十三日、尼崎城にほど近い七松にて残りの者どもの処刑が行われた。言うまでもなく尼崎に籠る村重へ脅迫である。
 信長は、滝川一益、丹羽長秀、蜂屋頼隆に奉行を命じた。光秀は信長に対し懸命に殺戮の無益を説いたものの、一度言い出したことをそう簡単に翻す信長ではないことを一益は理解していたので、一切反論をせずに奉行の任を受けた。
 一益らは、信長の命ずるまま、まず上臈衆百人余りを磔とした。中には母親の胸に抱かれながら槍や鉄砲で処刑された幼子も居たという。次に下級武士の妻子並びに従者侍女約五百人余りが四軒の家に押し込められ、そのまま焼き討ちとされた。焦熱の修羅場と化した刑場は、一益が危惧した阿鼻叫喚の地獄絵図そのものであった。
 刑場には織田軍の喧伝もあり多数の野次馬が詰め寄せていたが、そのあまりに凄惨な様にその場に居合わせた者共は皆、身分を問わず「肝魂を失った」と信長公記は伝えている。また、この処刑の直前、荒木五郎右衛門なる者が明智光秀の元へ出頭し、自分を女房の替わりに処刑するよう申し出た。久左衛門と共に尼崎城へ向かい、その後姿を隠していた者であると言う。しかしその願いは聞き入れられることはなく、夫婦ともに処刑された。

(最早、打つ手なし……か?)
 尼崎城内には、七松から轟々と立ち上る黒煙を直視できる者は居なかったが、人肉の焼け爛れる悪臭が死者の怨念となり城中を支配した。城中でそこから逃れられた者もまた誰一人として居なかった。
 村次も、久左衛門も、皆憔悴の色を隠そうともせず、生気の抜けた顔のままうなだれて居るばかりである。
 しかし、村重は知っている。信長は、女子供を嬲り殺して喜ぶような下種な男ではない。むしろ、悲痛であるが故に己を駆り立てる為の手段として、血の凍るような殺戮を行うのではないか、とすら思えることがある。叡山しかり、長島しかり、殺戮の裏には信長なりの理由があるのであろう。それを声高に説明しようとはしないだけなのだ。
 それに、処刑する気があれば、これほどまで時間をかける必要もなくさっさと撫で斬りにすれば済む話である。陀志や自念を別にする必要もない。七松の惨劇は、露骨な脅迫には違いないが、まだ自分には脅迫する価値があるということでもある。
(諦めてたまるか)
 村重は、腰の重い毛利をいかに動かすかに思索を巡らせていたが、自ら、毛利の本拠地たる安芸へ赴き、毛利の総帥輝元を口説き落とすしか他に策はなかった。織田勢の厚い囲みを突破するには海路しかないが、信長が九鬼嘉隆に造らせたという六隻の鉄張りの大船の前に、二度目の木津川口の合戦で大敗を喫した毛利水軍の動きは未だ鈍い。村重の意向はとうに伝えてあるのだが、毛利からは兵糧が僅かばかり送られてくるのみで返事すら届かない。村重は、自分の力では何もできないもどかしさに苦悶する日々が続いていたのだった。

 夜になり、花隈城より使者が訪れた。毛利より派遣された客将、桂元将である。
「桂殿!」
 元将到着の知らせを聞き、待ちきれずに押しかけた村重を見て、元将は深く頭を垂れた。
「船の支度が整いましてござる。お待たせして申し訳ござらん」
「なんの。して、いつ?」
 逸る村重をなだめるかの如く、元将は低い声で応えた。
「明日の夜。沖合に迎えの船が参ります。急ぎご支度を」
「うむ」
(まだ、諦めるわけにはいかぬ。盛り返せば取引もできようぞ)
 村重は主だった者を集めると、その夜の内に人選を済ませた。
「村次、桂殿、尼崎はしばらく頼む。久左衛門、供をせよ」
 尼崎城は海に面しているとはいえ、海上にも織田勢の警戒の目は光っている。あまり大勢では目立ち過ぎ却って危険であると考えたのだった。
「殿、私もお供仕ります」
「阿古、お前はここに残れ、道中何があるかわからぬゆえ」
「いえ、なればこそ、何卒供にお加え下さりませ」
 阿古は足軽組頭の娘で元々は下働きとして荒木家に仕えていたのだが、女子らしからぬ膂力に恵まれ、村重の目に留まったのが切っ掛けとなり武芸の鍛錬に励んだ結果、薙刀と弓においては男顔負けの腕前を持つ程になった。戦場においても常に村重の傍にあり、並みいる武者たちに負けぬ武名を轟かせていた。有岡を脱出する折には、織田軍の包囲を掻い潜る為には女子が居た方が良いという陀志の意見もあり帯同させたが、海に出てしまえば無用の用心と言えなくもない。
「拙者も賛成にてござる」
 久左衛門まで何を言うか、と村重は咎めたが久左衛門はこのような時の為の阿古であるといって譲らず、結局村重が折れる格好で、安芸へは三人で向かうこととなった。

 十四日夜半、村重達は夜陰に乗じて元将の用意した小船で尼崎城を脱け出し、沖へと向かった。沖合いの小島の陰に小振りの関船、櫓にして四十挺ほどの大きさであろうか、が村重たちの到着を待っていた。
(凝った船やな)
 それが村重のこの船に対する第一印象である。小振りな船体ながらも甲板の上にはがっしりとした矢倉を備え、甲板の下の船室も長期の航海に備えたものか広めの造りとなっている。何よりも異様なのは黒づくめの船体である。船体ばかりか帆や帆柱、櫓に縄までが黒く染められるという徹底ぶりであった。敵の目を掻い潜って闇夜を渡るにはまさに好都合だが、まさかその為の船ということでもあるまい。船主の趣味が色濃く反映されたものだと村重は理解した。
「ええ船じゃろ」
 船上を興味深そうに見渡す村重に、不意に声を掛けて来た小柄な若い男は、歳は二十歳を過ぎたか過ぎぬかといったところだろうか。
(水夫か? それにしては華奢だが……)
 とはいえ、まさかいくさ人という事もあるまい。しかし、村重が首を傾げたのも束の間のことだった。
「船長! 小船収容しましたぁ」
「しっかり括っとかなあかんで!」
「応」
「ふ、船長?」
 仰天したのは村重である。まだ少年の面影が残るこの若者が関船の船長というのか。若者は村重たちが驚いていることに気がついてはいるようだったが、素知らぬ振りをして話を続けた。
「ちょっと年季は入っとるが、若お気に入りの早船よ」
「確かに、手入れもしっかりしとる」
 若き船長は、そうじゃろ、若が儂の腕前を見込んで貸してくれたんじゃ、と誇らしげに胸を張ると、自らを弥助と名乗った。
「ほう、儂も弥助じゃ」 
「そりゃええ名じゃのう」
「まったくじゃ。よろしゅう頼むわ、船長」
「任しとけや大将」
 村重の人懐っこさに呼応したのか弥助はカラカラと笑うと、ぽかんとした顔の久左衛門と阿古を尻目に、水夫たちに号令を掛けた。
「よっしゃ、錨を上げえ、帆を立てろ、出航じゃ!」
「応」
 静かにだが、力強く応じる水夫たち。村重は、元々この手の荒くれ男どもとは馬が合う性質であるが、その小気味良い所作が今日は格別心に沁みた。
 何故だかわからないが、自分の家に帰ってきたかのような安心感に包まれ、船上を吹き抜ける寒風すら心地良かった。
(待っとれよ、陀志)
 船は黒帆に風を孕み、ゆっくりと動き出した。


四、関船

 十二月十五日(出航二日目)、早暁。
 船は黒帆に風を孕み、音もなく暗闇の海を西へと走る。風の割に水面は意外と穏やかだが空は曇っているのか月明かりも見えない。決死行にはもはや僥倖とさえ言えた。
「ええ風や、これなら夜明け前に明石を抜けられそうやな」
 矢倉から身を乗り出した弥助は、寒風をものともせず船の行く先を見据えている。
 その脇で村重もまた、寒風に我が身を晒していた。弥助は矢倉の中へ入るように勧めたが、村重もまた自分の行く末を暗示するかのような暗い海を見つめていたい衝動にかられ、弥助の邪魔をしないという条件でここに居たいと言い張った。村重の頑固さに折れた弥助は、寒さ凌ぎにと少しばかりの酒と干した蛸を村重にくれた。干し蛸を齧りながら、弥助は自分の身の上について語り始めた。
「この船はの、儂の命の恩人なんじゃ……」

 聞くところによれば、元は淡路の漁師なのだという。
 漁師と水夫は同じ船乗りでも全く異質の存在である。
 漁師は絶対に無理はしないのが身上である。時化の海に漁をする馬鹿は居ないし、潮目や風向き一つ変わっただけでも流れに逆らわず、獲物を確実に仕留める力が要求される。一方、水夫は時に潮に逆らってでも前に進まねばならないし、戦で命を危険に晒すとわかっていても逃げ出す事は許されない。決して漁師が臆病だと言うのではない、各々戦う相手が違うというだけのことである。
 弥助もまた、淡路にて漁師の家に生まれ、それが当然であるかの如く漁師として日々の生業に励んでいた。弥助の運命が揺らいだのは弥助が十七の夏だった。何故かこの年は不漁続きで村の漁師たちは飢え、船を売り村を去る者すら出る有様だった。弥助は早くに父母を流行り病で亡くし独り者であったが故に、自分の食い扶持くらいはなんとか稼ぐことができていたが、身を寄せる先もなく明日は我が身かと怯える毎日であった。ある日、意を決した弥助はいつもとは違う漁場に足を延ばした。これがいけなかった。その日は午後から時化ると読んでいたにも関わらず、いつもの倍以上の収穫につい欲が出てしまい、引き際を誤ってしまったのだった。
 黒雲は弥助の予想を遥かに超える速さで弥助と船を包み込み、やがて激しい雨と風と波が弥助の小舟に襲い掛かった。
(あかん、俺は、死ぬのか……?)
 必死に櫓を漕ぎながらも、自分が一体どこに居るのかさえ分からなくなった弥助は奮闘空しく暗い海に沈みゆく自分の末路を思い描いた。その時だった。
(何の音や?)
 風雨の中、何か人の叫び声のようなものが聞こえた気がして、弥助は耳を澄ませた。「波に舳を立てるんじゃ! しっかりせえやあ!」
 間違いない、近くに別の船が居る。そう確信した弥助は波に揉まれながらも必死に声のする方を見渡した。弥助の目の前へ不意に黒い壁が立ち塞がった、かのように見えた。
(関船や! 黒い関船?)
 弥助が関船に目を見張ると同時に、船の上から別の声がした。
「若ぁ! 小舟がぁ!」
「綱降ろせぇ、拾ってやれえ!」
 若、と呼ばれた男が叫ぶや否や、弥助の前に黒く染めた綱が投げられた。
「早うせえ! 死にたいんかぁ?」
 弥助がほぼ反射的に縄へ飛びつくと、船上の男たちが弥助の体を素早く持ち上げてくれた。関船の甲板に夢中で転がり込んだ弥助は、はっと我に返ると、関船の縁から身を乗り出すようにして水面を見渡した。
「船が! 俺の船が!」
 弥助の悲痛な叫びも空しく、先ほどまで弥助を乗せていた小舟は暗い海の波間に消えていった……。

「船が……俺の船が……」
 嵐が収まった後も、うわ言のように呻き続ける弥助の胸中を察してか、周囲の水夫たちは敢えて無言のまま弥助を遠巻きに囲んでいたが、男たちの頭領と思しき若い男が声を掛けて来た。どうやら若と呼ばれていたのはこの男らしい。年の頃は弥助とそう変わらない。日に焼けた赤銅色の肌に水軍らしき具足と得物を身に着けていた。
「大丈夫か? 船は災難やったが、あきらめえ」
「親父の形見なんじゃ……」
「あほんだら! 死んだら終いじゃ! 命拾いして儲けじゃ」
「ほんでも、船がのうては漁もできん……」
 弥助の心配は至極もっともであるが、男は気にした素振りもなく弥助に問うた。
「お前、家族はおるんか?」
 弥助が力なく首を振ると、男は愉快そうにカッと笑い、言葉を続けた。
「ほんなら、儂んとこに来いや。飯の心配はせんでええ」
 言葉は粗いが、男の口調にはどこか温かみが感じられた。
「あんたは……」
「儂は、村上武吉が嫡男、元吉じゃ。お前は?」
「弥助」
「よっしゃ弥助、今日からお前は村上水軍の一員じゃ、ええな?」
 弥助は何だか夢を見ているような心持ちであったが、気が付いた時には首を大きく縦に振っていた……。


五、死闘

 冷たい風が吹く海を、船は西へと走る。
 一行の心配をよそに、未明には明石海峡を何事もなく通過した。 
 ここを越えれば毛利の勢力圏だが、明石と淡路の狭間となるこの水域は、それだけ敵の襲撃を受ける危険性も高まる最大の難所である。夜明け前に何としてもここを越えたいからこそ、夜通しで船を走らせているのである。
 明石を抜けると間もなく東の空が白み始めた。対岸は加古川あたりだろうか、霧で陸地はよく見えない。陸からも恐らく船は見えまい。
(ついている)
 出だしから幸先の良いことだと、村重は安堵した。弥助も似たような心持らしい、表情に緩みがある。
「しかし、闇夜やこんな霧でどうやって方角がわかるんじゃ」
「風よ」
「風、とな」
 弥助に言わせれば、風の匂い、重さなど方角によって全く違うのだと言う。
(海人とはそういうものか)
 これは村重の誤解である。風読みの能力は漁師や水夫たちが必ずしもその感覚を持ち合わせているわけではない、弥助は特にその事には触れなかった。
(もうすぐ姫路あたりか)
 姫路沖を抜ければ織田の勢力圏からはひとまず脱出したと言って良い。数か月前織田方に寝返った備前の宇喜多の動向は気になるものの、海上は今のところ毛利側の勢力範囲である。
(三木は、どないやろ……?)
 播磨にて別所氏の籠る三木城は未だ健在であり織田の軍勢に囲まれている。宇喜多が寝返り、有岡が陥ちた今となっては敵中に在って孤立無援に等しい。海路が使える尼崎や花隈とは違い、四方を軍勢に囲まれていては補給すらままならない筈だ。
(人の心配しとる場合やない、か……)
 目の前の危機を脱したという安堵感と答えのない思案とが入り混じり、村重は強い眠気に襲われた。その時、舳から物見の男が怒鳴った。
「船長! 前方に小船ぇ! 二十、いや三十!」
「敵や! 配置につけえ!」
 弥助も、間髪入れずに叫ぶと同時に船尾へと走る。
「取り舵、一杯や!」
「とーりかぁーじ、いっぱーい」
 ギイと船体が軋み、船が大きく左へ傾ぐ。村重はよろめきつつも手槍を掴み矢倉を飛び出した。
(霧のせいで、気付くのが遅れたな)
 船が左へ舵を切ったことで、右舷前方に小船の群れが犇めいているのがよく見えた。それぞれの船にはせいぜい二、三名ほどの人数しか乗っていないが、前方を完全に塞がれた格好になっている。その時、不意に関船の甲板へ何か丸い玉が投げ込まれた。甲板を転がるその玉にはぶすぶすと燃えている縄がついていた。
「焙烙玉や!」
 船尾から駆け戻った弥助は、叫ぶと同時に導火線に火がついたままの焙烙玉を素早く拾い上げると海へと投げ返した。
 その直後、だーん、という轟音と共に焙烙玉が炸裂した。破片にやられたのか、近くの小舟から何人かの男たちがばたばたと海へ落ちたのが見えた。
「気ぃつけろ、次来るでえ!」
「させるかい!」
 投げ返されることを警戒したのか、小船の上で火のついた焙烙玉を持ったまま投擲の間合いを計っていた敵を、阿古の放った矢が捉えた。男は胸に矢を受け焙烙玉ごと海へ落ちた。阿古は間髪入れずに大弓をぎりぎりと引き絞ると、小船の上の男をまた一人射倒した。それに負けじと関船のいくさ人達も小船目掛けて矢の雨を降らす。小船の男達は降り注ぐ矢の雨を楯板で凌ぎながら関船へと肉薄すると、鉤爪の付いた縄を投げ一斉に関船へと飛び移って来た。
 迎え討つ関船のいくさ人たちとの間で、関船の甲板は斬り合いの戦場と化し、村重と久左衛門も各々手槍と長巻を手に立ち向かう。しかし、こちらの手勢は村重達を入れても二十名に満たない。まだ乗り移っていない分を含めると、敵の頭数はこちらの倍近い数になる。
(多勢に無勢やな)
 村重は手槍で敵を串刺しにしながら、呑気な事を考える。戦場での村重の癖である。槍を振るえば振るうほど、頭が冷え、冴えわたって来るのだ。
(さて、どうしたもんやろ、このままでは競り負けてまう)
 船上での形勢は今でこそ互角であるが、敵方の加勢が尽きる前にこちらの限界が来るのは必至である、何とか押し返すしかない。
「うわあぁ!」
 矢倉の裏側でも喊声が上がった。
「ちッ、反対からも来やがった」
 弥助が歯噛みする。船尾側へいくさ人を回す余裕が無いのは弥助も理解しているらしい。下手に人数を割くとこちらも押される。劣勢に歯止めが利かなくなると負けは必至である。
(しゃあないな)
 村重は背中越しに怒鳴った。
「阿古!」
「殿!」
「ここは儂と久左衛門でなんとかする、いけッ」
「承知!」
 阿古は船倉へ飛び込むと、弓から愛用の薙刀に得物を持ち替え、船尾へと駆け出した。

 船尾へと阿古が駆け付けた時、既に味方のいくさ人の姿は無く、短刀を握りしめた二人の水夫が数名の敵に囲まれていた。いくつか甲板に転がっている屍はいくさ人のみならず明らかに水夫のものも混じっていた。
(こいつら、ど素人か)
 本来、水夫は戦闘には参加しないし、不必要に敵の水夫を手に掛けることもない。陸の人間でも知っている、水軍の戦における一種の不文律である。船を乗っ取った後、艪の漕ぎ手がいなくてはどうしようもないからだ。
「ちょっと待ちや!」
 阿古は、男たちの前に躍り出ると水夫達を奥へと逃がし、薙刀を大上段に構えた。五対一という数の有利と相手が女であるという侮りが、男達の油断を生んだ。
「へッ、女のくせに勇ましいこった」
「女一人に大の男が雁首揃えて逃げ腰かい、減らず口は要らんわとっとと掛かって来んかい!」
「やかましわ!」
 阿古の挑発を受け、一斉に襲い掛かる男たち。しかし、歴戦の阿古を前にしてはまるで虎と鼠であった。先頭の男が振り下ろした長巻が振り下ろされるよりも迅く、阿古の薙刀が一閃し、男の首が宙を飛んだ。阿古は首を失った男の長巻の穂をひらりと躱すと返す刃でその横の男の両腕を切り飛ばした。呆然とした男が何か口籠ったのとほぼ同時に、阿古は薙刀の柄でその鳩尾を突き、よろめきながら悶絶する男をそのまま海へと蹴倒した。
「さあ、次に死にたい奴は誰や!」
 瞬く間に二人の男を屠りその返り血に濡れた阿古を前にして、残された男どもの足が竦んだ。一番後ろの男が、ひい、と情けない声を上げ逃げ出すと、残りの二人もたまらず駆け出した。
「待たんかい!」
 阿古は、周囲に他の船が居ないことをちらりと見届けると、喊声を上げつつもわざと緩慢に後を追った……。

「助けてくれぇ!」
「なんじゃあ? 何事やあ?」
 船尾から挟み撃ちにするどころか、返り討ちを食らって逃げて来た男達は、阿古の狙い通りに敵方の混乱を誘った。
「鬼じゃ、鬼が出た!」
「誰が鬼婆じゃあ!」
 薙刀を手に、血塗れで追ってくる阿古の姿に戦慄する男達。そしてそのまま阿古の薙刀に蹴散らされていく。
「……頼もしい奥方じゃなあ」
「阿呆、ほんまの嫁はもっと怖いわ」
「くわばら、くわばら」
 弥助の誘い水とはいえ、陀志が聞いたら目を剥いて怒りそうな軽口を叩く村重に、弥助もけらけらと笑いながら、手拭いで包んだ焙烙玉の導火線に火をつけた。火のついた焙烙玉をくるくると回しながら間合いを計り、印字打ちの要領で沖合へ放り投げる。
「お返しや!」
 直後、ばーん、と鳴り響く轟音。後の方で関船に乗り込む機を伺っていた小船たちの頭上で炸裂した焙烙玉が、船上にいた連中へ破片の雨を降らせた。慌てふためく小船の群れ。そしてその動揺は甲板の男たちへも伝播する。
「今や! 押し返せえ!」
「応!」
 敵方が怯んだ隙を逃さずに村重の怒号が響き渡ると、関船のいくさ人達も一斉に応えた。
「くそ、いったん退け!」
 所詮は烏合の衆なのであろう、崩れ出すとあっけないほど脆かった。我先にと逃げ出す敵方。弥助たちも逃げる連中を深追いせず逃げるに任せている。
「殿! お怪我は?」
「儂はどもないわ、お主は?」
 左の袖に血を滲ませつつも久左衛門は毅然として応えた。
「何の、浅手にござる。阿古のお蔭で命拾いしましたわ。しかし、連中、九鬼水軍でしょうか?」
 こんなところまで織田に勢力圏を奪われているとすると、と心配した久左衛門の言葉を打ち消すように村重は返した。
「いや、それにしては小勢やな、違うやろ」
 水軍にも小早という軍船があるが、さっき襲って来た連中の船はもっと小ぶりであった。装備も貧弱だ。
「ぼけっとすんな! 新手や!」
 矢倉の上から発せられた弥助の怒声に我に帰ると、更に続々と集まってくる小船の集団が前方に見えた。さっきの焙烙玉の音を聞きつけたに違いない。こちらも、小早かそれよりも一回り小さい船ばかりで、ただの釣り船なども混じっているようだがいかんせん数が多い。大小併せて三十艘は下るまい。
「弥助!」
 村重は思わず弥助を見上げて叫んだが、当の弥助は意外な程落ち着いているように見えた。
「やかましい、じっとしとれよ」
 船のことは船のもんに任せとけ、弥助の背中がそう言っていた。
「漕ぎ方止めえ!」
「応」
 漕ぎ手達が手を止めると同時に、弥助が声を低くして次の指示を出した。
「ようし、合図したら一斉に漕ぎ出すんじゃ。ど真ん中を突っ切ったらあ」
「応」
 低く、静かに応える水夫たち。
 動きを止めた関船に対して、観念したと勘違いしたのか小船たちも動きを緩めた。双方の距離がじわじわと縮まってゆく。その距離が十間ほどに達した時、弥助が吼えた。「今や!」
「応!」 
 弥助の合図で一斉に漕ぎ出す水夫たち。関船はギイと船体を軋ませぐんぐんと加速してゆく。
「どけえ!」
 突如、猛然と突っ込んで来た関船に、慌てて舳先を逸らして回避する小船たち。ぶつけられては一たまりもない。海人とは言え、冬の海に投げ出されては堪らない。もちろん小船相手と言えども、まともにぶつかれば関船もただでは済まない。そんなことは船乗りの常識である。しかし、その「常識」が敵方の油断を生んだ。
 避け切れなかった小船が関船の舷側を掠めるが、弥助はお構いなしに突っ込ませる。
「ようしそのままッ! 漕ぎまくれぇ!」 
 強引に敵船の群れを割って進む関船。しかし、敵も徐々に態勢を整え直してしつこく追い縋って来る。単純に船脚だけならば関船に勝ち目はない。船尾からいくさ人達が矢を浴びせるが、敵の勢いを止めるには至らない。
「くそ、ひつこいな」 
 水夫たちの体力にも限りがある。弥助が焦りの色を滲ませた時、舳の男が叫んだ。
「ふ、船長! 前!」
 既に霧は晴れており、前方に二隻の船影が見えた。
(大きい)
 関船か安宅船か、村重にははっきりわからないが少なくともこの関船と同じかそれ以上の船である。いずれにせよ水軍のいくさ船であることは間違いない。
(これまでなのか……)
 村重の胸に諦めの陰りが差した刹那、弥助が歓喜の叫びを上げた。
「若や!」
 弥助の歓声に思わず見開かれた村重の眼は、安宅船に翻る上の字の旗を捉えた。見紛う筈もない、村重がか織田勢の一員として死闘を繰り広げた村上水軍の旗である。刹那、安宅船から一斉に放たれた無数の矢が半ば呆けた様に見上げる村重たちの頭上を飛び越え、追いすがる小船の群れへと降り注いだ。


六、元吉

 突如現れた安宅船が援軍であったことが、戦局を一転させた。
 安宅船から降り注ぐ矢の雨に襲われ、まるで大魚に追われる鰯の如く逃げ散る小船の群れ。我先にと逃げ惑い、転覆する船まで出る始末であった。安宅も深追いはせず、小船が逃げるに任せている。敵方の小船が逃げ去った後、村重の乗る関船に横付けして棟梁らしき男が乗り込んで来た。
「若ァ!」
 弥助が喜色満面で駆け寄ったその男を、村重は知っている。
 村上元吉。村上水軍棟梁村上武吉の息子にして、実質的に村上水軍を率いている男。そして、かつて木津川口の戦いで船団を率いて織田方の水軍を蹴散らした男である。
「弥助! 俺の船に傷つけやがって!」
「若、堪忍」
 弥助はまるで叱られた子犬のように頭を垂れた。
「まあええ、客人は無事か?」
「まあ、なんとか」
「よし、船の具合を確かめえ、直ぐに出るぞ」
「応!」
 叫ぶや否や駆けだす弥助を尻目に、村重は元吉へ声を掛けた。
「おかげで助かったわ、若いがなかなかの船乗りじゃ」
「ほうじゃろう、ありゃまだ半人前じゃけど、見所はある。眼がいいのと鼻が利く、風の匂いがわかるようじゃ。まあ度胸もええし鍛えりゃいい船頭になるじゃろう」
「その割りに危ない真似をさせるんやな」
「運も才能のうちじゃ。海に好かれとらにゃどのみち生きてはゆけん。それぇの、海の戦に易いも難いもありゃせんわ、戦の場数は戦場でなけりゃあ踏めんしの」
「しかし、棟梁自らお出迎えとは痛み入る」
「三原の殿さんの頼みじゃけ、しゃあないわ。気にせんでええ」
「しかし……ここいらまで織田の手が回っとるんか……」
 この先大丈夫なのか、と言いかけた村重の言葉を遮るように元吉は応えた。
「ここから西はもう大丈夫じゃ。大方、姫路の秀長が金で雇った連中じゃろう、小銭目当てのはぐれ者らじゃ」
「しかし、儂らの事が知られたら……」
「今更気にすることもないじゃろう」
 村重の心配を、元吉は一蹴した。
「しかし……」
「連中が、わざわざ失敗したなんて秀長に言わんじゃろ」
「ほんでも、言うのはただやないか」
「したって、その手の流言はこれまでずっとやっとろう。そやけえ今更なんじゃ」
 確かに道理である。それにこの場でできることは無い。
 村重が納得した顔を見て、元吉は船上を見渡すと話題を変えた。
「しかし、ぼちぼち限界じゃの。ここから手近な港は室津あたりじゃけど……」
「どないかしたんか」
「ん、室津はやめとこ、おい、弥助ぇ! 坂越まで行くぞ!」
「応!」
 矢倉の上から弥助が応えた。
 室津の港は今のところ織田の勢力圏外ではあるが、姫路から五里しかない。まずないとは思うが、姫路の秀長がその気になれば派兵できる距離だ、あいつだけは油断ならねえ、というのが元吉の意見であった。
「ずいぶん買うてるんやな」
 羽柴秀長という男について、村重は正直印象はあまり深くない。陽気で快活な兄秀吉の補佐として地味な役目を負わされているという認識はあるが、派手な功名には縁遠い男のように感じていた。
「あいつは、余所者のくせに金の使い方が上手い。ほれに、待つ度胸と攻める度胸を兼ね備えとる奴じゃ、なめとると痛い目に遭う」
 坂越は室津からさらに岬をもう一つ越えたところだが、相生湾の深く切れ込んだ入り江に阻まれる為、陸路では更に五里の道のりとなる。もし室津で何かあっても船のほうが早いし、そもそも慎重な秀長がそこまで深追いはしまい、というのが元吉の読みである。無論この期に及んで村重に異存はなかった。

 十二月十六日(出航三日目)。
 足の遅い安宅は坂越に残し、一行は再び関船のみで出航した。水夫は一通り入れ替えたが元吉は同乗している。
 このまま三原まで付き合うという。元吉によれば三原には山陽方面を預かる小早川隆景が居り、今回の件も隆景にまず話をするのが良いという。隆景としても摂津の動向は大変気にしており、無下にはしないだろうというのが元吉の言い分であった。
 坂越の港を出ると、ただひたすらに穏やかな瀬戸内の海が広がっていた。陽が水面にきらめく美しい海とは裏腹に、元吉の表情は優れない。
「風がねえ、潮目も良くねえ」
 結局この日は、日暮れを待たずして牛窓へと早々に寄港した。この先は潮目が変わる難所であり無理はできないというのが元吉の判断である。
「大将、こんな日もあらあな。辛抱してくれ」
「わかった、船のことは船長に従う」
「すまんの」
 申し訳なさそうな元吉を責める気にもなれず、焦る気持ちのやり場に困った村重は牛窓の町へと足を向けた。
 宇喜多の刺客に襲われるのではないかと久左衛門は反対したが、この町は依然として村上水軍の庇護下にあり、堂々としていればわからんという元吉の言葉を当てにして、阿古を連れて船を降りた。
 古来より牛窓は風待ちの港として栄えた所である。夕暮れの街は船乗り達と彼らを待ち受ける者たちで賑わっていた。町の賑やかさに少し苛立ちを覚えた村重は、いつの間にか街外れへと足を運んでいた。ふと聴こえて来た歌オラショの声を辿り、小さな礼拝堂を見つけ中を覗いた。
(夕方の礼拝であろうか)
 村重はふと懐のロザリオを取り出すと、陀志との別れを思い出していた。

 * * * * * * 

「尼崎城へ参る。必ず戻る。留守を頼む」
 村重の胸中には今生の別れとなる予感が犇めいていたが、それを決して口にしなかった。正直、怖かったのだと思う。
 心残りというのは即ち戦を諦めて織田に降ると言うことを意味する。諦めてたまるかという執念と冷静であるべきだという思考が逡巡していることは、陀志にもきっと伝わっている。それもわかっていたが、どうすることもできなかった。
 実際、陀志を帯同させると言う意見もあったが、陀志自身がそれを頑なに拒んだ。
「私は城に残ります」
「しかし……」
「殿の肩には城衆、いや摂津一国の命運がかかっておりまする。気弱なことでどうされますか」
「うむ」
 村重は妻の言葉にただ素直に頷くほかなかった。
(今は、前に進むしかない)
「殿、これを」
 心を決めた村重の表情を読み取った陀志は、懐中からロザリオを取り出し村重へと手渡し、祈った。
「道中、神のご加護がありますように」
「儂にはヤソの事はわからぬ」
「よいのです。神は万人に慈悲をお与え下さいます」
 正直、村重にとって宣教師たちの説くヤソの教えにはわからぬことばかりであった。自らを神の子と名乗り、神の子として起こした数々の奇跡。最後には自ら望んで群集により処刑されたという。最初、磔になったその姿を崇めるバテレン達に背筋が寒くなったこともよく覚えている。
 自らが死ぬことで、衆生を救う。人の罪を一身に受け止めた男。そして復活し天へ昇ったという。さっぱりわけがわからないし、それの何が偉いのかもわからない。釈尊が入滅した時に悲しみのあまり虫までが身をよじって悶え嘆いたという話の方がまだわかる。
「お前様は、道理で考えすぎです。信じることこそ救われる道」
「そういうものか」
「事が成りましたら、またお会いしましょう」
「うむ」
 村重は陀志を抱き寄せ、その唇を吸った。陀志の甘い香りが名残惜しくその手を緩めるのにはしばらく時間が必要だった。

 * * * * * * 

(待っておれ、必ず救い出して見せる。この身に代えても)
「お侍さま」
 村重たちに気が付いた司祭らしき男が、声を掛けてきた。
「今日の不安を憂うのではなく、明日の平安を供に祈りましょう。神よ、我らの行く先に光を、希望を。アーメン」
 村重は司祭に促されて祈った後、ロザリオへ刻まれた文字をただじっと見つめた。
 
 Quod ergo Deus coniunxit, homo non separet.
(神が結び合わせてくださったものを、人は、離してはならない)

 しかし、村重はいつまでも嫌な胸騒ぎを鎮める事ができなかった。


七、焦燥 

 十二月十七日(出航四日目)。
 村重たち一行は夜半に船へと戻ると、結局そのまま船に泊まった。
 元吉が言うには、何時出航するかわからないからだ、全ては風と潮目次第だと言う。 もっとも、元吉には別の思惑もある。この先、塩飽水軍の拠点、本島(ほんじま)に寄るのが常道だが、元吉はできれば鞆の浦へ強行したいと考えていたのだ。遅れを挽回したいということもあるが、塩飽水軍は瀬戸内の水軍衆の中にあって一種の独立勢力であり、正直揉めたくない相手であった。
 自らの独立性に誇りを持っていた塩飽水軍に対しては、礼を失さずに遇することが、うまく付き合う為の上策と元吉は考えていたが、微妙な立場の一行を連れて塩飽に滞留することには、一抹の不安を拭えなかった。
 また、備讃瀬戸は流れる潮が複雑で速く正に「潮湧く」難所である。だからこその潮待ちの港であるが、それは潮が変わると何日も足止めを食らうという厄介な場所であるということでもある。備後にさえ入ってしまえば最悪陸路でも進めるが、島からでは船が出なければそれこそ何も出来ないのである。行程としては多少無茶だが、鞆の浦からは三原への便も多い。最悪、船は鞆の浦で乗り換えれば良いというのが元吉が下した判断である。
 実際、風向きが変わったのは虎の刻、まだ暗いうちに牛窓を出発し、鞆の浦へ滑り込んだのは日没してかなり経った後だった。

「ようし、皆の衆ご苦労じゃった! 今日はゆっくり休めよ」
 疲労困憊の水夫たちに労いの言葉をかけて回る元吉が落ち着く頃合いを図り、村重は元吉を矢倉へ誘った。村重が深々と頭を下げると元吉は照れ隠しからかやめてくれと喚くと、酒を取り出し村重に薦めた。肴は例によって干し蛸である。これが実に旨かった。
 宵闇に浮かぶ鞆の浦の町の灯りは華やかでひどく美しかった。
「賑やかな街もええが、船上から眺めるのもなかなか乙じゃろう」
 元吉も、船から眺める街の灯りの方が好きらしい。村重はこのまま黙って酒を飲んでいたい衝動に駆られたが、無粋を承知であえて口を開いた。
「元吉殿」
「なんじゃ」
「なぜ、そこまでしてくれる」
 元吉は少し黙ったあと、笑って言った。
「さあね。三原の殿には義理があるんじゃ、それだけじゃ」
「小早川殿は……応じてくれるかの」
「知るかや! 用があるから拝み倒しに行くんじゃろうが、そのあんたが弱気でどうするんじゃ」
 元吉はそう言って高笑いすると杯の酒を飲み干し、甲板へと降りて行った。村重はその背中を目で追いながらも自分の行く末を思案したが、他に答えは見つからなかった。
(そうやな)
 元吉の言う通りだった。

 十二月十八日(出航五日目)。
 早暁、元吉は鞆の浦から早船で三原へと使いを出した。昼前には応答があったものの、鞆の浦にて待機せよとのことであった。
(ここまで来ておいて足止めとは)
 焦れる村重を気にしてか、元吉が村重の宿を訪ねてきた。
「大将、釣りでもいこうや」
 鞆は小振りだが活気のある港町である。沖を東西の船が目まぐるしく行き来し港には積み下ろしの荷駄と人足でごった返し、街には船乗り目当ての店たちが軒を連ねている。一方、その賑やかさが、じっと便りを待つ身の辛さをより一層増幅させるのであった。
(まるで、牢獄じゃ)
 見知らぬ土地で、行き場のない思いに逡巡する村重に、元吉もそれ以上口を挟むことはせず、傍らでただせっせと釣りに励んでいた。

 十二月十九日(出航六日目)。
 翌日の昼を過ぎても、三原からは何の音沙汰もなかった。これでは尼崎にいるのと何も変わらない。
(一体、何をしとるんや)
 村重の胸は焦れるばかりであるが、何もできない。船宿の二階から港を行き交う船たちをただ空しく見守るばかりである。
「殿、公方様からのお使いが……」
 久左衛門が遠慮がちに村重に声を掛けたが、村重は露骨に声を荒げて拒絶した。
「うるさい! 何が公方様じゃ、間抜けた面など見とうも無いわい、阿呆、死ねってゆうとけ!」
 おそらく軒下に控えているのであろう使いとやらにも聞こえたかもしれないが、村重はそれならそれで何も構わない、とさえ思った。
 公方様というのは、足利十五代将軍、義昭の事である。信長の庇護を受け征夷大将軍の座を得たものの、義昭を蔑ろにする信長に楯突き、遂にはここ鞆の浦まで落ち延びて来たのである。もっとも信長は将軍職に一切興味を示さず、首のすげ替えすらもしていない為、今もなお義昭はれっきとした征夷大将軍なのであるが、その空しい権威は義昭自らがしたためる「御教書」という檄文の飾りにしか過ぎない。村重もかつて畿内衆の倣いとして足利家に仕えたこともあるが、浮世離れした感覚を捨てきれずいつまでも現実を直視できない義昭を見限ってから久しい。しかし今もなお過去の栄光にすがりつく義昭の姿を想像するだけでも忌々しかった。
(儂には祈ることしかできんのか……)
 村重はロザリオを握り締め、ただひたすらに祈った。


八、浮城 

 十二月二十日(出航七日目)。
 二十日の昼を回った頃、漸く三原からの便りが届いた。逸る気持ちを抑えきれぬまま村重は早舟に飛び乗り三原へと急いだ。
 尾道を越えるとその向こうが三原である。元々三原沖は点在する小島を結んで水軍の一大拠点となっているのだが、小早川隆景は、ここに三原要害とでも呼ぶべき巨大な基地を築こうとしていた。
「久左衛門、見よ、これは……」
「話には聞いておりましたが、これほどとは」
 久左衛門も三原築城の規模の大きさに、すっかり呆気に取られているようだった。
(儂にも縄張りでわかる、なかなか見事じゃ)
 村重は、いずれここにそびえるであろう巨大な城の姿を想像し、戦慄した。海に浮かぶ城塞、まさに浮城である。
(有岡とは異なる風情やが、こんな城があるとは……)
 有岡城の縄張りには、摂津一国の国主たるに相応しい城をと、村重も随分苦心したし、その出来栄えにも自信があった。しかし目の前に今築かれつつあるこの城はあらゆる意味で村重の想像を超えていた。
(あれは……船止めか?)
 尼崎城にも船止めはあるが、規模がまるで違う。ほとんど船溜まりそのものである。
(なんと、港そのものを造っとるんか)
 これはただの海城ではない、瀬戸内の海を統べる為の一大拠点をここに築こうとしているのだ。
(隆景、一体どんな男か)
「どうじゃ、たいしたもんじゃろ」
 村重の期待を知ってか、元吉は誇らしげに胸を張った。

 船は外堀の奥へと進み、まだ工事中と思しき船止めの一つに寄せられ、村重たち一行は敷地内にまばらに立つ陣屋にて待つように案内された。
「奥の間へ、殿は既にお成りです」
 近侍らしき若者の声に気付いてか、奥から一人の男が顔を覗かせた。
「おお、これは摂津守殿でござるな、拙者が隆景でござる、ささ、奥へ」
 隆景は村重を抱え込むように奥へと誘った。
(なんと陽気な男か)
 秀吉に負けず劣らず人懐こいこの男が、毛利の山陽方面軍を総べる重鎮であるとは俄かに想像し難かったが、この明るさこそが大将の器のなのだということは、元吉を始めとした家臣らの態度から薄々感じとることができた。
 隆景は村重らを奥の間へと案内すると、座し改めて深々と頭を下げた。村重も慌てて頭を垂れる。
「荒木摂津守村重にござる」
「遠路はるばる申し訳ござらぬ、左衛門佐隆景にござる。さ、顔を上げられよ」
 促され、村重は改めて隆景の顔を見つめた。にこにこと笑う陽気さの奥に秘めた鉄の意志を感じさせる、そういう風格のある男であった。
「左衛門佐様、これを」
 風呂敷包みを差し出した久左衛門に、隆景で結構でござるよと笑いながら応えた隆景であったが、包みを解いてその表情が強張った。
「荒木殿、これは、もしや?」
「つまらぬ高麗茶碗にてお恥ずかしい限りですが、ほんの手土産にござれば、お収め下され」
「おお、これが……名高い荒木高麗」
 隆景はしげしげと茶碗を眺め回した後、はっと我に返って言った。
「しかし、これはお返し申す。受け取れませぬ」
 何と、と腰を浮かしかけた村重を押し留めるかのように隆景は両手で制しながら言葉を続けた。
「援軍の件、重々承知しており申す。しかし、今は動けぬ。いや、摂津のこと決して軽んじておるわけではござらぬ。しかし、まず備前、播磨をなんとかせねば」
 隆景の言うことはもっともである。備前の太守宇喜多の寝返りに加え、播磨はまだ安定はしていないものの有力豪族の殆どは概ね織田方と言って差し支えない状況であり三木の別所がどこまで持つかは悲観的な予測しかできない。それは村重にもよくわかっている。しかし、ここで引き下がる為にここまで来たのではない、村重は慎重に言葉を返した。
「陸の上は確かに油断はなりませぬ、しかし、水軍を率いて摂津に出ることはできましょう。尼崎や花隈が勢いを取り戻せば、いずれ宇喜多も播磨衆もひっくり返せまする。いや、そう思わせるだけで良いのです、信長は利に聡い男、必ず乗ってきます」
 村重は、ここぞとばかりにこれまでに練った反撃のシナリオを隆景相手に展開した。本願寺も未だ健在であり、摂津や丹波、和泉、大和にも反信長の機運は燻り続けている。また、織田の主力は今は東へ向けられつつあり、本願寺を通じて上杉や武田との連携が適えば勢いを盛り返すことは夢ではない、というのがその骨子である。同席していた元吉もまた再戦を強く主張した。自分が居なかったとは言え、織田の鈍くさい鉄甲船に一方的にやられたままでは村上水軍の沽券に関わるとまで言い切った。
 村重と元吉の熱っぽい説得に隆景も次第に感化されたのか、水軍の派遣については前向きに考えてみようという返答を得るに至った。
 
 その夜、村重一行は三原にて隆景の歓待を受けた。酒宴に置いても隆景は乱れても崩れぬその様に村重は感じ入るものがあった。酒の飲み方に品がある。
(この男なら、信用に足る。少なくとも虚言を吐く男ではない)
 明日にでも支度について相談しようという隆景の言葉に、久左衛門は少し怪訝そうな表情を見せたが、村重の心はすでに決まっている。この男を信用するしかないのだ。
 村重は、酔いが回ったせいか、不意に愚痴をこぼした。
「もっと早うにお目にかかりとうござった」
 隆景は、目を見開くと村重の正面にわざわざ向き直り平伏した。
「申し訳ない」
 仰天したのは村重の方である。そんなつもりでは、としどろもどろになりながら隆景を抱きかかえるように起こす。
「いや、責めているのではござらぬ、隆景殿のような男と早うに出会うておれば、この村重、もっと上手に道を歩めたものをと口惜しいのでござる」
「買い被りでござるよ」
 隆景はそう言って笑い飛ばすと、杯を一息に空けた。


九、失意

 十二月二十一日(出航八日目)。
 早暁。ふと目が醒めた村重は喉の渇きを覚えた。酒宴は深夜に及び隆景が寝所へ戻った後も元吉一党を中心に盛り上がった。深酒が過ぎたのか酔ったまま寝入ってしまったらしい。
(儂も、疲れとるんやろか)
 普段から酒は嗜む村重であるが、酔いつぶれることは滅多にない。酔うたところで酒を止め、酔いを覚ましてから寝床に入るのが武人の心得だと考えている。このような酔いつぶれ方をしたのは久方ぶりであった。毛利方の者も入り乱れて寝入っているが、元吉と弥助の姿はなかった。
 村重は水を求めて部屋を出た。冷えた空気が眠気の醒めやらぬ体にはひどく心地良かった。土間の水瓶から柄杓で掬った水はこれまた切れるような冷たさであったが、酒で焼けついたような喉を潤すには丁度良かった。
 部屋に戻ると、久左衛門が廊下に座し村重の帰りを待っていた。
「起こしてしまったか、許せ」
 村重はわざとひょうげた声色で久左衛門へ声をかけたが、久左衛門は神妙な表情を崩さなかった。
「……果たして、大丈夫でしょうか?」
「久左衛門、希望を捨てるな。この城を見よ、毛利にはまだまだ力がある。正直、毛利のことは買い被りかとも思っておったが、なかなかどうして大したものじゃ」
 努めて明るく言い切った村重に対し、久左衛門の顔色は晴れない。
「信じて待つしかない。きっとなんとかなる」
 目を伏せたままの久左衛門を説き伏せるように、村重は重ねて言った。
「きっとなんとかなる」
「……そうですな」
 久左衛門も静かに頷いた。
「大将! 起きたんか! 朝飯じゃ!」
 屋敷中に響き渡る大声に振り返ると、弥助が戻って来た所だった。
「腹が減っては何とやら、じゃ」
 弥助は魚籠に一杯の鯵を掲げて笑った。陽の光を受け、心の底から愉快そうな笑顔に村重は少しだけ嫉妬した。

 軍議は朝餉の後すぐにでも、という話であったが、隆景が姿を現したのはずいぶん陽が高くなってからだった。
 隆景は昨夜とは打って変わってひどく深刻な顔をしており、見かねた村重が堪らず声を掛けると、遅かった、とだけ呻いた。
「遅い、とは何の事でござろうか?」
 胸騒ぎに我を忘れた村重は、思わず隆景を詰問するような口調になってしまった事を一瞬後悔したものの、取り繕う余裕すら失っていた。
「先ほど、京より使いが来た……」
 隆景が京に放っている間者からの報告らしい。去る十二月十六日、京六条河原にて陀志、自念ら主だった者らが洛中引き回しの上処刑されたとのことであった。
「ご立派な最期であったと語り草、とある……」
 隆景は、下を向いて黙り込んだまま紙片を握りしめていたが、呆然と立ち尽くす村重に堪えられなくなり消え入りそうな声で詫びた。
「申し訳ござらぬ。もっと早うに……」
「お止め下され、死んだ者は生き還らぬ。もう終わりじゃ……」
 うなだれる隆景に、村重は労わりの言葉を掛けようとしたのだが、その言葉すら見つからなかった。
 船溜まりに戻ると、元吉が船の支度を済ませて待っていた。話は聞いた、と独り言の様に呟くと、それ以上は何も言わず船を鞆の浦へと走らせた。座して黙したまま無言ではらはらと涙を流す久左衛門の横で、村重はただ呆然と海を見つめていた。夕日にきらきらと輝く瀬戸内の海は全てが夢のように美しく、何だかひどく浮世離れした景色に思えた。
 鞆の浦の船宿に着いた後も、村重は食事もせずにただ一切れの紙片を見つめるばかりであった。隆景が、奥方の辞世の句じゃと手渡してくれたものだった。

『消ゆる身は惜しむべきにもなきものを 母の思ひぞさはりとはなる
 残しおくそのみどり子の心こそ 思いやられて悲しかりけり』

 翌朝、まだ夜が明け切る前に村重はふらりと船宿から外に出た。結局、村重は一睡もできぬまま夜が明けるのを察し、自分の居場所を探しに行きたいような衝動に駆られ表に出たのであった。久左衛門は寝入っていたようだがしばらく歩いている内に阿古が追って来た。恐らく阿古も碌に眠っていないのであろう、眼の下に隈ができていた。
「殿、どちらへ」
「外の風にあたりたいだけじゃ、心配いらん」
 村重は微笑んだつもりだったが、顔が強張ったまま動かせなかった。
 阿古を連れ坂を登り、港を見下ろす高台に出ると、漸く朝日が顔を出し水面を照らし始めた。朝日に輝く瀬戸内の海を無言で見つめる村重に対し、阿古も黙ったまま村重の横で立ち尽くすばかりであった。
 近くの礼拝堂らしき小屋から、歌オラショが聞こえて来る。
「阿古、この歌、知っておるか」
 異国の言葉の歌は阿古には聞き取れぬものであったが、村重には聞き覚えがあった。右近の招きで陀志と共に高槻のセミナリヨを訪れた折、良く歌った曲だった。黙したまま静かに首を振った阿古を諭すかのように、ふと歌オラショを口ずさむとかつての情景が目に浮かんできた。今ここに居ることも、陀志が死んだことも、全てがまるで夢の中の事であるかのようだった。
 村重の歌声は、傍らで不安げに見守る阿古の顔色を窺うこともなく、礼拝堂から聞こえ来る歌声と一体となりより高らかに響き渡った。美しくそして哀しげな旋律が阿古の胸を締め付けた。

 “汝の敵を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。
 すべて祈りて願うことは、すでに得たりと信ぜよ。さらば、得べし”

 一心不乱に歌う村重は、ふと我に返ると目を見開き天を仰いで叫んだ。
「神が……、神が何を救ってくれるんや! 陀志をなんで死なせたんや! 何が神の慈悲や、殺すんなら儂を殺せ」
 地べたへ座り込み、駄々っ子のように地面へ拳を打ち据える村重に、阿古もかける言葉を見つけられなかった。
「結局、何も……できなんだ」
 天上へと誘う様な幻想的な旋律が響く中、村重はただ絶望の海を彷徨うばかりであった。水を掌で掬っても指の狭間から零れ落ちてゆくかのように、どうしても掬い切れないものがある。ただその事実だけに打ちのめされていた。
「殿!」 
「しっかりせえ!」
 堪らず声を上げた阿古を背後から遮るように叫んだ男が居た。元吉だった。
「迎えに来た。船を出す。早うせえ」
「船?」
 緩慢に応えた村重に対し、少し苛立った表情を抑えつつも元吉は凛とした声で言った。
「ええ風が吹きよる」
 港へ視線を移した元吉の頸に巻かれた襟巻が、ぴゅうと吹き抜けた風に揺れた。
「今更、なんじゃ」 
「ええかげんにせえ! わりゃ大将じゃろうが、あんたを待っとる連中がおるんじゃろうが!」
 痺れを切らして吠えた元吉に、村重はのそりと顔を上げると独り言のようにつぶやいた。
「もう、終わりや。今更どうにもならんのや、陀志も、自念も、皆、儂のせいで死んでしもうた」
 そう言って座したまま肩を落とし虚ろな眼差しでうなだれた村重に、阿古は、つかつかと歩み寄り、いきなり襟首を掴むと力ずくで仰向けに投げ倒した。思わず止めに入った元吉の手を阿古は強引に振り払うとそのまま平手で村重の頬を張った。ぱあん、と乾いた音が響いても、打ち捨てられた案山子のように転がったままの村重に対し、阿古はその襟首を掴んだまま力任せに揺さぶった。
「しっかりなされませ! 殿は、荒木摂津守村重は、いつからそのような腑抜けになってしまわれた? それでは死んで行った者達も浮かばれませぬ!」
 阿古は大粒の涙を溢れさせながら村重を揺すり続けていたが、それでもなお反応しない村重に失望したのか、袖で顔を拭って眼を閉じたまま大きく溜息を吐き、意を決した様に瞼を開くと村重に向かって叩きつける様に叫んだ。
「かくなる上は私一人でも尼崎へと舞い戻り、信長めに一泡吹かせてくれるッ」
 そのまま大股で坂を下っていく阿古を黙って見送った元吉は、村重を抱え起こすと、静かに、だが有無を言わせぬ口調で語りかけた。
「無事送り返すまでが儂の仕事じゃ。面倒かけさすな」
 村重はああ、と呻きとも返答ともつかぬ声を漏らしたのみで、力なく起き上がると元吉に引きずられる様にしてよろよろと坂を下って行った。最早抗う事すら億劫であるかの様な足取りで、元吉に促されるまま船へと乗り込むと、舷側に肘をついて座り込んだ。その眼は海へと向けられていたが、どこに焦点を合わせるでもなくまるで海の向こうの浄土を見つめているようでもあった。

 まるで何事もなかったかのように、朝日を受けて輝く海。波も穏やかで風向きも良いのか船は順調に東へ走ってゆく。
「海は、こんなにもきらきらと美しいのに、陀志はもうおらぬ。……みんな死んでしもうた」
 海を虚ろな眼で見つめる村重は、誰に言うでもなく力なく呟いた。
(儂のせいじゃ。儂が不甲斐ないばかりに)
 自分を責めたところで何かが変わるわけでは無い事を村重も承知していたが、どうすることもできなかった。
「おかしいの、悲しくて寂しくて堪らんのに涙も出んわ」 
 阿古も久左衛門も、不安げに村重を見つめることしかできなかった。

 船は順調に瀬戸内の海を渡り、三日後には坂越へと辿り着いた。
 元吉は坂越の港に船を付けると、水夫らを降ろした後で船に戻って来た。今夜は船に泊まると言う。今度は用心の為ではない。単純に船が好きなのだ。
「酒、買うて来た、一緒にどうじゃ」
 元吉は村重を連れ矢倉に登り、干物を肴に酒盛りを始めた。村重もちびりと酒を啜る。少し酸味が強く舌が痺れるような酒であった。
 坂越の街の灯りが蛍のようにゆらゆらと揺れていた。暫くして酔いが回ると、感傷的な気持ちに支配された村重は半ば自嘲気味に口を開いた。
「今頃、儂ゃ天下の非道者と呼ばれとるんじゃろうなあ」
 村重の自虐に対し露骨に顔を顰めた元吉だったが、村重は気にする素振りすらなく言葉を続けた。
「主君に楯突き、城と兵を捨て、妻までも見殺しにして、それでものうのうと息をしとる、儂は……」
 儂は、と言いかけて言葉に詰まった村重を、元吉はしばらく無言で見つめていたが、徐に杯を煽ると優しい口調で語り出した。
「あんたも武家なら知っとろう、人ってもんはなあ、案外簡単に死んじまうもんじゃ」
 元吉は、顔を上げた村重の杯に酒を注ぐと目を伏せ言葉を続けた。
「槍で刺されりゃ死ぬ、弓で射られりゃ死ぬ。そんだけじゃねえわ、風邪こじらせて死ぬ、海で溺れて死ぬ、食い物がのうて死ぬ。いやいやそんなことせんでもよ、人は誰だってそのうち死ぬんじゃ。一人残らず全員な」
 村重は元吉の言葉に黙って頷いた。
「ほんでも、あんたはまだ生きとるんじゃろう? 生きて、何かできる事があるんなら、それをやれえや」
「儂に、できる事……」
「非道でも卑怯でもええじゃろう。しぶとく生きいや、えっとしょってのう」
 村重は眼を見開くと、すっくと立ち上がった。勢い余って不意によろけたが、咄嗟に元吉の腕が支えてくれた。
「どうした大将、大丈夫か」
「……しばらく一人にしてくれ」
 元吉は、そうか、と頷くと船倉への入口を顎で示した。村重はぺこりと頭を下げ、船倉の中の小部屋へ入り戸を閉めた。元吉も黙したまま、徳利と杯を持ったまま入口の戸の前にどっかと座りこむとそのまま手酌を始めた。
 村重は、戸を閉めると同時に目に熱くこみ上げて来るものを堪え切れなくなった。それまで溜め込んでいたものを吐き出すかの様に泣きに泣いた。元吉は素知らぬ顔で人払いをしてくれているのだった。棟梁たるもの、いい歳をして泣き顔を見られる訳にはいかないからだ。
(いや、違う)
 村重は、人目を気にせずただ思い切り泣きたかった。ただそれだけだった。

 夜半になり、船倉からふらりと出て来た村重は甲板で釣りをしている元吉を見つけた。村重に気が付いた元吉は、じっと村重の眼を見据えた。
「どないする」
「帰る、尼崎へ」 
 元吉は、わかった、とだけ言うとそのまま釣りを続けた。


十、祈りの海

 早暁、坂越の港にて。出航の支度を一通り済ませた元吉は、村重に念を押した。
「けしかけといてなんじゃが、ほんまにええんか」
「ああ」
「死ぬかもしれんぞ」
「かめへんわ」
 坂越から淡路岩屋へは順風なら一日の距離である。淡路を越えると織田の勢力圏となる。当然ながら、尼崎城へ向うのも命懸けの行為であるが、織田の大軍に包囲された城に戻ったとして勝ち目は薄い。それどころか再び船を寄せることができるという保証すらないのだ。元吉は村重が強がりを言っているとは思わなかったが、少しでも村重に迷いがあるようであれば船を出さないつもりでいた。しかし、村重の眼には欠片も曇りがなかった。
「儂は喧嘩は嫌いじゃが、今まで負けた事は無い」
 何の話か、という表情で顔を覗き込む元吉に、村重は静かに微笑むと言葉を続けた。
「コツがあるんや、二つ」
 ほう、と元吉の眼が反応した。
「一つ、熱くなったら負けや」
「そりゃそうじゃな、二つ目は?」
 焦れた元吉が催促すると、村重は真面目な顔で応えた。
「……諦めた方が負けや」
 元吉は思わず吹き出した。
「そりゃええわ、信長相手にとことん喧嘩を売るってか」
 腹を抱えて笑い転げながら、元吉はどこか羨ましそうに村重の肩を叩いた。
「すまんが、ほんまに尼崎まで、行けるか?」
「あほか、儂を誰や思うとんじゃ」
「阿古、どうする?」
 阿古はさっぱりとした顔で言い切った。
「地獄の果てまで、お供致しまする」
 村重は深く頷くと、久左衛門へと視線を移した。
「久左衛門は?」
「儂もお供しとうござるが、……本気なのですな?」
「ああ」
「然らば、儂は岩屋で降り申す」
「宛てが、あるのか?」
「まあ……あまり期待はできませぬが、無ければ作れば宜しかろう」
 そう言って久左衛門は不敵に笑うと、じっと村重を見つめた。肚を括った男の眼だった。
「そうか、元吉殿?」
「構わんで。おい弥助!」
「はいな」
「お前、案内したれや」
「任しとくんなはれ」
(何や面白なって来たでえ……)
 弥助は何だか船上を走り廻りたいようなうきうきした気持ちになった。それを察した元吉が弥助に顎で催促した。すかさず弥助が声を張り上げる。
「よっしゃあ! 錨上げ、帆張れえ! 出航じゃ!」
「応!」
 水夫たちのぴしりとした声が響き、帆が風を孕むと船は静かに滑り出した。
 村重はロザリオを握り締め、朝日を受けて輝く海へ向かって祈った。
(神よ、もし慈悲があるんなら、儂の心の火をどうか消さんとってくれ。……ほんで、陀志に逢うたなら、地獄の門の前でな、もうちょっとだけ待っとってくれと伝えてくれや)

 海は、ただ穏やかにその輝きを湛えていた。


(了)

『Oratio ~祈りの海~』(改1)

『Oratio ~祈りの海~』(改1)

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-22

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著作権法内での利用のみを許可します。

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