通せん坊くん

通せん坊くん

どうしようもない関係、どうしようもない気持ち。恋なのか愛なのか、ただ変なのか、まだまだ分かりません。

 入院して、一ヶ月。
誰も面会に来ない。特別な症状で隔離されているとは思わないけど、僕が精神科に入院しているのは確か。身体を鍛える事に関しては、やった分だけ成果が出るけど、心の問題は中々僕自身も分からない。
けど、周りの奴らはどうやら僕が何か変わったと言うからには、変わってしまったのだろう。
何が変わったのだろう。何を変えれば元通りの自分に戻れるのだろう。少しずつ変わってしまったのか、元々の僕がそうだったのか、全く分からない。
職場では、怒りっぽくなったと噂話をしている。でも、本当の僕は怒りっぽい人間で周囲に合わせてニコニコしながら過ごしていたとしたら、別に変わる必要もない気がする。そもそも、本当の僕が残忍な性格だろうと、温厚な性格だろうと、誰にも関係ない事と思う。犯罪を犯している訳じゃなし、今後、犯罪を犯してしまうとも思っていない。
けど、ここは間違いなく精神科病棟。何かしらの病が潜んでいるのか、もう既に何かしらやらかしてしまったのか、ひと月も入れられていて、いつ出られるのか、何をクリアーすれば出られるのかハッキリしない。さすがに、ひと月という時間は焦りが出てくる。

 精神科病棟の生活は、とにかく単調。良く言えば、毎日規則正しい生活。拗ねた見方をすると、時間だけが無為に過ぎて行く。周囲と隔離された環境で自分の内面を見つめなおす、という趣旨らしいのだが、随分内面の嫌な面と対峙してきた。悪い自分その一。
部下に対して、パワハラめいた助言、元気づけをしている自分。気分が落ち込んでいる人に、頑張れと言ったところで、いきなりシャキッとはしない事と判っていても、ついつい背中を押したくなってしまう。要に、人は人、自分は自分。実は、相手を追い込んでいるだけな事が多い。悪い自分その二。
悪いと思っている自分。これはタチが悪い。なんでもかんでも、自分の不備と思い込んでしまい、ついには世界の紛争や格差社会、ニュースで見聞きする殺人事件までも、背負い込んでしまう。せめて、背負い込んだ態勢のまま背負い投げするくらいのパワーがあれば良かったのだが、そんな地球の裏側の事件なんて、ぶん投げられるわけがない。身近な問題でも結局は、相手あっての事なのだから、無理な事は承知覚悟のうえで、流す事をしなければ、決壊してしまう。でも、自信過剰な僕としては、いちいち答えを探してしまう訳で、気付いた時は、本当にホッとした。悪い自分その三。
とにかく、僕なりの思考パターンや行動パターンが判っていない。全ての行動や思いは、熟考したうえでの事と思い込んでいたけど、とにかく答えを急ぐあまり、熟考とか後回しだとかせずにやってきた。答えなんて最初からない事の方が多いことは、頭で理解していても、ついつい急いでしまう。グレーなものはグレーでいいなんて、全く思えなかった。白か黒。オールオアナッシング。全く子供。大人のロマンスグレー、なかなか素敵じゃないか。悪い自分、そのまま。
そのままでいいじゃないか。いくら挙げたところで、悪い自分て奴は、たぶん何万通りあるんだろうから、そのままで立ち止まってみる。焦りはあるけど、贅沢な入院生活。流してみるもよし。戦うもよしだ。

 お団子ナースが病室をノックした。
「横田さぁ~ん。食事の時間ですよぉ。具合でも悪いのですかぁ~。」
実は、お団子ナース三十才。大の苦手。話し方は語尾が間抜けに間のびするのが、苛々するし、頭をお団子にしている髪型も気に入らない。目もとパッチリ、鼻は可愛げのある団子っ鼻。口はプックリ柔らかそうにいつも、少し開き加減。体型はポッチャリだけど、愛くるしさが漂う。ポッチャリがダメではない僕。むしろ好み。問題は、名付け親の僕としては、パーツもいちいち可愛いし性格というか、仕事に対する態度も立派な彼女が、てんでばらばらで、魅力を出し切れていない事の焦燥感がイライラの素。
あらゆる構成要素が、団子の彼女の可愛さはもっと光り輝くべき。なにより本人が気付くべき。なのに、無頓着に接する態度が、お団子ナースをお団子ナースたらしめている勿体なさ。可愛いのに可愛くない。

 病棟の生活は、朝七時の検温と脈拍測定、八時の朝食投薬。十二時に昼食。夕方六時夕食投薬。就寝十時。単調で規則正しい。それ以外は基本自由時間。外出許可の出ている患者は外出可だし、病室で寝てようが誰かと話をしようが自由。喫煙所は、朝の五時~就寝の夜十時まで利用可。束縛と感じるのか、自由と感じるのか人それぞれ。僕にとっては自由で気ままな時間。
ある日の朝、いつものように七時の検温と脈拍測定。夜勤二人の看護師の最後の仕事でもある。お団子ナースが夜勤明け。検温は各自が体温計を脇に挟んで、自己申告。長く入院の患者は、脈拍も自己申告なのだが、僕は脈をうまく取れないため看護師に任せる。
「はぁい、横田さぁん、腕出してくださぁい……。」
腕をグイッと引っ張られて、ガシッと脈を取ろうするお団子ナース。何かの拍子なのか、いつもの事なのか拳がお団子ナースの胸を押しつぶす。や、柔らかい。
「……。おかしいわねぇ。きょうは脈がいつもより、かなり早いわねぇ。時間をおいてもう一回ですねぇ。」
胸の感触が、モロに伝わってくるのだから、男として平静な脈なんて取れないだろ。と思いながら、必死に息を整えようと深呼吸。
「はぁい、横田さぁん、もう一回測りますよぅ。」
腕をグイッ。またまた胸にグイッグイッ。今度は、確信を持って胸の柔らかさを、手の甲で受け止めようと、委ねる。き、気持ちいい……。胸ばかりでなく、触ってくる手のひらの感触までも、刺激的過ぎる。だからどうしたという訳でもなく、人の肌というか、異性の感触って久しぶりで、自分自身の感度の良さが情けない。
「変わらないわねぇ。昨晩とか良く眠れましたかぁ。」
「あ、あぁ……。そういえば、寝苦しかったかも……。」
苦し紛れに眠れなかった事にした。

 お団子ナースの事、それから意識してしまうようになってしまった。向こうは看護師で僕はただの患者。何かを思ったところで、発展する事もないだろうが、ちょっとした指先の刺激だけで過剰に意識してしまうのは、抑えようのない事だった。
どうしようもない関係で出来る事、といえば、さりげなく情報収集するくらいで、分かった事は、ささいな事ばかりだった。夜勤明けにうっかりミスが多いとか、子供はいるけど旦那の影はないとか、実は男性患者のファンが多いとか、飲むのが好きだとか、どうでもいい事ばかりだった。かと言って、一体どんな事を知りたいのかというと僕自身さっぱり分からない。例えば、退院できたあかつきには、お付き合いしたいとかは全く思えなかった。看護師と患者の距離感というか関係が、一番いい関係なんだろうなと、僕はなんとなく感ずいてる気がした。塀の中というか、ドア越しの擬似恋愛だと諦めていた。
 そんな気持ちの変化はあっても、僕の入院生活は相変わらず規則正しく続いている。大ニュースかどうかはともかく、一日一時間の外出散歩の許可が下りた。と言っても季節は梅雨の真っ只中で、気が晴れるような晴れないような、微妙なところ。
ある日も、『これはイケる。』と張り切って出掛けたのはいいけど、帰りは土砂降り傘なしズブズブ状態で病院まで帰ってきた。梅雨時の雨は寒い。濡れると、気は晴れない。
 一時間の外出許可をもらって一週間後、外出時間は二時間に延びた。随分な進歩だと自画自賛したものの、雨自体に灰色の塗料が混ぜてあるかのような天気は相変わらず続いている。窓を眺めると光も陰も大差ない薄墨色のグラデーション。決して雨嫌いでないのに、確実に雨と対峙する機会は増えるわけで、雨よあなたはどうして雨なのと問うたところで、回答なんて期待出来ない。それでも、身体は微かな自由を求めて二時間の散歩を欲する。本当の自由は病院内にはなく、ある程度の回復の後の退院と、その引き換えの証の自己責任が伴わない事には、自由を手に入れられない事を最近では薄々、感じ始めていた。

 宝塚な患者さんが新規に入院。
何かしら、病を持っての入院なんだろうけど、新しい入院患者さんが入って来ると、とりあえず観察しながらあの人は鬱だとか躁だとか噂し合う事が、一種のルールになっている。躁の患者は字の通り。ヘンに足が付く躁患者は、とにかく歩く。病的にセカセカ歩く患者は、まだまだ時間がかかる。病的なのは、病気なのだから当たり前の事として、皆普通に受け入れる。そんな躁の患者も、早ければ一週間くらいでそぞろ歩きに変わる。かかる人は、疲れ果てるまで歩き続ける。食事の時間以外はとにかくセカセカ、セカセカ。
 セカセカ歩きが治まるまで、入院生活は何も要求しないみたいという事も分かってきた。それが躁患者に対するこの病院のやり方。そぞろ歩きに移行しても、よくよく観察していると、普通と少し違うのも分かってきた。ただ、世の中的に普通がいいのかどうかは分からない。本人の傾向が躁なのか鬱なのかとか、自分自身の傾向を知る事に、重きを置くのが僕の病院のやり方みたいだ。
 ところで宝塚な患者さん。入ってきた瞬間から強烈だった。いきなり宝塚風のオペラ調の歌を歌い始めたのだ。一般の生活では出さない音量で歌う、何かの一幕のオペラ調は、最初は音量が音量だけにウルさいと思ったのだけど、ついつい聞いているうちに、かなりな説得力のある事に気付いた。なにやら、
「あぁ~~そなたはいつぞやのぉ~~いつかは窓辺に佇んでいたぁ~~あのお方ぁ~~。」
とかなんとか歌う。声量に圧倒される。不思議な迫力でズンズン引き込む。生の声と生の叫び。歌詞なんて分からなくても、気持ちの叫びが突き刺さる。が、飛んできた看護師によって、中断させられても、歌は途切れない。
 宝塚さんの魂を揺さぶる声は、個室に閉じこめられても病棟内に響き続ける。いつしか、僕が興味を失うまで。窓の外は、だいだい色と桃色の夕焼け空が輝いていた。つかの間の梅雨の切れ間。心がザワついている。
宝塚さんの歌は、それ以来聞いていない。僕はともかく、他の患者にとってはどうひびいたのだろう。迷惑な歌声で片付けてしまったのか、同様に何かしら響いたのか。互いに立ち入らない無言ルールの病棟内では、それを知る術はない。

 僕の退院日時が決まった。
喜ぶべき事なんだろうけど、一週間後のその日を待ち望む気持ちには至っていない。生活に慣れたためか、隔離され守られた空間が心地良すぎたのか、外の世界でやって行ける自信は皆無。主治医も、『大丈夫。』と太鼓判を押してくれるわけでもない。同じ大丈夫でも、『もうそろそろ、大丈夫。』らしい。外の世界で外の生活をしても、通院しながらなんとかやって行けるから、という意味らしい。
 ついでに、病名も決定。
『気分障害』という病名は、今の移ろいやすい心の僕を、正確に表しているように思える。でも、気が抜ける病名、『気分障害』。
天気屋さんとか、気分屋さんとか普段よく使う単語に
想像されるような、ワガママで簡単な人っぽい。それでも、病名を拝借したからには、たぶん一生のお付き合いになるわけで、お付き合いいただく者同志の挨拶の期間が、残り一週間なのかなあ、と思えた。

 退院が決まった事は、最も親しい喫煙所の患者さんたちにだけ話した。僕自身もそうだったが、皆一様に、
「おめでとう。もう帰って来ないでね。」
と、祝福される。
実は、患者全員に言える事だけど、羨ましくてたまらない気分半分、心からの祝福半分。喫煙友の会と名付けた面々のなかには、たぶん一生出られない人もいる。外の世界を一週間過ごして、その後一年病棟で暮らすといった繰り返しの人は、別に、珍しくない。本人も薄々気づいている人はむしろ、心から祝福してくれる。なんとかなりそうな人、は、心寂しくて自分の順番がなぜ来ないのかと、哀しみと焦りのないまぜになった気分が伝わってくる。僕自身そうだったから。
でも、報告の儀式は済ませなきゃいけない無言のルールだから、報告する。そして、残りの月日を過ごす。

 何事もなく、一週間は過ぎた。
朝一番の五時前に、喫煙所の頑丈な鎖の施錠を開けてもらい一服。見慣れた薄汚れた黄色い壁に煙が伝う。長く入院生活を送る、おじいちゃん患者も、半分眠りながら灰が落ちそうなタバコを挟む。見慣れた平和そのものな時間。
バタバタと、サンダルの音をさせながら、常連のおばちゃんも現れる。焦りながらタバコに火を点ける。椅子には座らずに壁を背もたれに、目を細める。
「そういえば、おにいさん退院だねえ……。どれくらい居たの。……そう二ヶ月……。ワタシが三ヶ月だから、ワタシもそろそろ出るよ。そう……、二ヶ月ネ……。」
医者じゃないから分からないけど、おばちゃんは、もう少しかかるかも知れない。そんな事は言わないけど、なんとなく、誰がどの位かかるか、分かるようになる。
おじいちゃんのタバコは、燃え尽きて、灰はそのまま床に落ちてフィルターを挟んだまま。おじいちゃんは、いつものように眠りこけている。僕は、三本目のタバコをどうしようか迷ったけど、火を点けずに箱に戻す。ベッドに横になろう。
「そんじゃ、お世話になりました。また、別の場所で
会えたら、よろしくおねがいします。」
おじいちゃんは、眠りの中。

 七時。検温の時間。
久しぶりに、夜勤明けはお団子ナース。
脈を取ってもらう。グイッ。
この前と変わらず、手の甲が胸を押しつぶす。この前から二回目だが、同じくらい僕の鼓動は早く打つ。しばらくぶりの、手に凝縮された快感。早打ちの心臓は、正直。
「はい……。異常なし。いつも通りですね。」
「……。」
そんなわけない。ドキドキは明らかなのに……。
「それと、きょう退院ですね。手続きは九時に行ないます。ナースステーションまでお願いします。帰りはバスですか。あまり本数ないので、時刻表確認した方がいいですよ。」
事務的に、ハキハキ話す。
こんな調子で話してたっけ……。

 手続きは一時間足らずで終わった。
小さな手荷物だけを提げて、残りは明日、家の車で取りに来る。
「ありがとうございます。お世話になりました。」
ありきたりの挨拶をすまし、自動ドアを出ると、今までの梅雨空は吹き飛ばされ、澄んだ空気が漂っている。陽射しは、『さあ、来い。』と厳しく照りつける。風は、まだ微かに残る水気を浄化するように、強さを増す。しばらくしたら、風は止み、気だるい季節を告げるだろう。太陽に手をかざすと、目眩を覚える。一人で、生きて行ける自信なんてまだ、ない。後戻りさせてくれ。自分の心が砕けそうになる。
目の前を、外来の患者が入って来る。不安を隠せないながら、ホッとした面持ちで……。
患者を伏し目でやり過ごして、一歩踏み出す。そしてまた一歩。
どうなるかなんて、先のことなんて分からない。でも、きょうだけは、自分の意思で踏み出そう。自分の自由意思で踏み出そう。肉体が死ぬまでは、生き続けてみよう。心が死にかけたなら、また戻ってこよう。なんとかなるさ。
呪文みたいに自問自答しながら、バス停にたどり着く。躊躇しながら歩いたせいか、バスは行った後だった。三十分待ちの間も、梅雨明けそうそうの陽射しが皮膚の奥まで突き刺さる。
「フゥ……。」
何も考えないように、ボンヤリ景色を眺める。
黄色い鮮やかに光る軽自動車がバス停につけて、助手席のウィンドウを降ろす。
誰かに話しかけているのだけど、僕以外にはバス停にいない。
「ちょっとぉ、聞いてるのぉ? 」
「朝、ちゃあんと説明したでしよぉ。時間確認してからバス待ちなさいってぇ。このトーヘンボク! 早く乗りなさいよぉ。夜勤明けで疲れてるんだからねぇ……。」
 頭を下げ下げ、ズングリの黄色い車に乗り込む僕。
『もしかしたら、こんな始まり方もありかも……。』
乾いた熱風が予感を運ぶウィンドウを閉めた。

通せん坊くん

本当に書きたい事は、ただの日常を取り上げたかったのですが、なかなか筆は言う事を聞いてくれませんでした。ちょっとした、言葉遊びや聞き違いが今回の発端でした。『通せん坊くん』はどういう働きで、どこに登場したのか、分かってる方にはスミマセン。分からなかった読者様は、後半にご注目下さい。内面の通せん坊くんや、遊びの通せん坊くんがチラホラします。お読みいただきありがとうございました。

通せん坊くん

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-21

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