霜夜に咲く花
「引き金は心で引くな手で引くな、闇夜に霜の降るごとく引け」 -旧日本軍の教訓-
1.
加治(かじ)匠之介(しょうのすけ)は、村の外れに住む老人だった。人は良いが無口な性格で、年越しの酒の席でも老人会の者と話さずに、ただ黙々と日本酒をちびちび飲むような人間だった。
しかしだからと言って、人と話さぬ訳ではなく、話しかけられれば気さくに話すし、話が合えば酒が無くなろうがつまみが切れようが、話し続けるのである。
ただ、話が終わると何故か思い詰めたように小さく息を吐くのが、匠之介の癖であった。
匠之介は、陸軍の歩兵連隊で戦地に赴いた、歴戦の勇士である。ここ、阿賀北に編成されていた陸軍第十六歩兵連隊は「最強の精鋭部隊」と呼ばれるほどのものであった。明治の七年ぐらいに作られてから、各地の戦地に出撃しては功績を挙げていたそうだ。
最強の精鋭部隊といえども、それは戦時中の話であって、太平洋戦争に日本が敗れたあとは、歩兵連隊は解散されてしまった。その時に東京に出稼ぎに行った者も居れば、匠之介のように地元にとどまる者もいた。
匠之介は、部隊の中でも特に射撃の腕がいいと評判だった。
噂を聞きつけた警察予備隊が射撃顧問として呼び寄せた時、匠之介は断っている。なにぶん終戦後の人手不足は深刻で、何度も政府の役人が匠之介を訪ねてきたのだが、皆がっくりと肩を落として長い山道を帰ってゆくことになった。
「匠之介や、なぜお前は役人さんの仕事を断るのだ」
村の老人会の一人が、なんの気無しに匠之介に尋ねたことがあった。匠之介は、いつものように酒をちびちび飲みながら一言だけ返した。
「俺は、もう銃は撃たねぇ。戦地でいやというほど撃ってきたからな。もう飽きちまった」
そう言ってまた、小さく息を吐いたのだった。
匠之介のその返事が、仕事を断った本当の理由ではないことは誰もが分かっていたが、それを追及しようとはしなかった。誰も続きを聞く勇気がなかったというのもあったのだが。
2.
結局、匠之介は雪で真っ白になった山で蕗の薹や栗を採りながら、ほそぼそと生活していた。川で魚を捕ったりもしていた。
秋になると、産卵のためにサケは川を遡ってくる。そして上流の方で産卵すると、そのまま息絶えて川を流れて来るのである。匠之介は、それを川の真ん中で待ち構えていて、冷たい水の中から拾い上げてくる。塩漬けにすれば長いこと持つから、いつも軒先には縄に吊るされた大きなサケがぶら下がっていた。
そんな隠遁生活を送る匠之介の元に、ある日来客があった。
突然の来客は、匠之介が昼寝をしようと床の間に御座を敷いたまさにその時、やってきた。
「匠之介さぁん。加治匠之介さぁん」
山に木霊すぐらい大きな声で、戸口を叩く男は、まだ二十そこらの若い男だった。
「加治さん居ませんか、お願いしたい事がございます」
「なんだ。何があったというのか」
「ああよかった、加治さんにしか頼めない事がありまして……」
息を切らしてそう言う男を見ながら、匠之介は嫌な予感を感じていた。
「なんだ、俺にしか頼めねぇ事ってのは」
「隣の俺たちの村に、熊が出たんです。村の吉彦ってやつが、加治さんに頼めって」
匠之介は、うーんと唸った。なぜその吉彦という奴が、わざわざ隣の村の自分を熊退治に抜擢(ばってき)したのか分からなかったが、なんにせよ匠之介の返事は決まっていた。
「俺は、行かねぇ」
「な、なぜですか。昔は腕の立つ兵隊さんだったと……」
「昔は昔だ。今の俺は、ただの老人だ。山で山菜採って、川でサケを拾うだけの単なる老人に過ぎねぇ。他をあたってくれ」
「……そうですか」
そう言って、男は消沈した様子で帰って行った。匠之介は、男に申し訳ないとは思いながらも、何かを思い詰めたように小さく息を吐いて戸を閉めた。
床の間に敷いていた結局使わなかった御座を纏めると、匠之介は思い立ったように部屋の端にあるもう一つの御座を巻いたものを持ってきて、床に広げた。
がちゃり、と音を立てて現れたのは、綺麗に手入れされた三八式歩兵銃であった。匠之介が歩兵連隊にいた時、肌身離さず持っていたものである。武士における刀と同じくらい大切にしてきたものであった。本来であれば、軍に没収されたあとに廃棄処分となるはずであったが、匠之介は廃棄される前に倉庫から盗み出したのである。命を預けた銃を、鉄くずと一緒にされるのは、匠之介としては耐え難いものであった。
匠之介は、三八式の鉄(てっ)幹(かん)を引いて薬室を開放した。数年ぶりに動かされた三八式だったが、なんの問題も無く動いた。銃身の付け根には『菊花紋章』と呼ばれる菊の御紋が浮き彫りにされていた。
ほとんどの部隊では、日本が戦争に負けてこの菊を削り落とす者が多かったと聞く。天皇の象徴である菊花紋章を敵の手に渡せぬと言うことだ。しかし、匠之介の第十六連隊はそのまま残しておく者が大半であった。それは、紋章に込められた意味よりも、銃そのものに託した想いの方が大きかったからである。
「もう撃たねぇって決めたんだ」
ポツリと呟いた匠之介は、鉄幹を戻して薬室を閉鎖すると、銃床を肩に当てて立射の体制をとった。
昔の感覚が蘇るのを、匠之介はひしひしと感じていた。まるで固まった氷柱が三八式歩兵銃から流れる雪解け水に晒されて、少しずつ溶けていくような、そんな感覚だった。
3.
大戦末期、匠之介は激戦区に赴いていた。原油の輸送ルートを確保するために、敵の重要拠点を攻略する必要があった。その作戦で、匠之介は部隊長として部隊を率いていたのである。
港に併設された要塞のような警備基地が、部隊の最終目標だった。警備基地はさほど大きくはないものの、コンクリートのかたまりのように堅牢で、入り口を警備する歩兵の数も、かなりの人員が配備されていた。
「夜襲をかけよう」
匠之介はそう提案した。部隊長だからと独断で作戦を決めてしまう軍人も少なくないのだが、匠之介は作戦を立てる際はいつも兵士たちに同意を求めていた。上官が下位の兵士たちと対等に接するということは、戦時下では珍しいことだという。
日が沈み、空の色が深い群青色になったころ、匠之介たちの突撃隊は警備の隙を突いて要塞へと突入した。ちょうど警備の兵士たちが交代する時間だったようで、基地内は大混乱に陥った。
匠之介は、混乱に乗じて基地の中枢部に向かった。兵士は要塞の外に飛び出していったのか、曲がりくねった廊下には蹴倒された木箱が散らばるばかりで、人の姿は誰もいなかった。
「よし、一気に行くぞ」
匠之介は、後続の隊員に声をかけると、廊下を全力で駆け抜けようとした。その時だった。
耳を貫く破裂音が廊下に響き渡った。
突然の音に、先頭にいた匠之介はとっさに床に転がった。
何事かと後方を確認すると、血にまみれた隊員が倒れ込んでいた。
「大丈夫かっ」
「敵です!」
匠之介は、瞬時に銃を構えた。ほぼ同時に、廊下に面した小部屋から飛び出てきたのはまだ十五にも満たぬであろう少年だった。
「少年兵、だと」
少年兵は自分が仕留めた兵士に銃口を向けかけたが、その脇に膝をつく匠之介へと照準を移した。
迷いがなかったと言えば、嘘になるだろう。
しかし、この少年は自分を殺そうとしているのである。道徳心と本能が匠之介の中でせめぎ合い、一つの結論を出した。
そのとき、匠之介の心は獣と化したのであった。
「また、撃たねばならんと言うのか」
匠之介は、歩兵銃に問いかけるようにつぶやいた。銃に罪があるわけではなかったが、この銃が一つの輝かしい未来を奪ったことには変わりはなかった。それ故に、匠之介は銃を使うことだけは避けたかったのである。
たとえ相手が熊だろうと、それは大きな違いではなかった。匠之介にとって、命というものはただならぬ存在感を持ったしこりとして、匠之介の心に引っかかっていた。
4.
その晩のことである。匠之介が座敷の端に丸まって寝ていたところに、激しく戸をたたく者が現れた。
「匠之介さん。加治匠之介さんは居るか!」
激しく既視感を感じる状況に、寝起きの頭はなかなかついていけなかった。飛び起きた匠之介は、二、三歩ふらつきながらも、なんとか戸をあけた。
「ああよかった、加治さんに頼みがあるんです」
「昼間にもそういって来たやつがいたんだが」
「ああ……、あいつは、死にました」
匠之介は唖然とした。
そして、うつむいたその男の身なりから、あの若者が死んだ理由が分かった気がした。
「おまえ、マタギか?」
「へえ、二つ隣の村から呼ばれたんでさあ。何でも馬鹿みたいにでかい熊が出たって言うもんだから鉄砲担いで来てみたんだが……全滅だ」
男は悔しそうに唇をかみしめた。
匠之介は、動揺を隠せない様子だった。
ふらふらと家の裏手に回ると、貯めてあった水を頭からかぶった。雪のちらつくこの季節である。文字通り身を切られるような冷たさだったが、匠之介はそんなことは気にもとめぬ様子で桶の水面に映る自分の目を見つめていた。
「もし俺があのとき……」
匠之介は、そこで言葉を切った。
今更嘆いたところで歴史は変えられぬ。これから自分がどうするかが、自らに与えるべき試練なのだと、匠之介は自分に言い聞かせた。過去の呪縛にとらわれたままでは、いつになっても暗い闇から抜け出ることはできないと、匠之介は自分に言い聞かせる。
「ちょっと待っていろ」
匠之介は男にそう言い残して家に戻ると、三八式を取り出した。鉄幹を引き、撃鉄を起こすと静かに引き金を引いた。ばちんという音がして撃鉄が落ちる。弾が入っていれば、再び銃口が火を噴いたことであろう。
「俺は、俺の生き方で生きる」
三八式の弾を十数発、革の弾薬入れに入れると、腰に括りつけた。三八式を背中に背負うと軍帽を被った。
匠之介の軍靴が、再び大地を踏みしめた。
「案内しろ。その熊を討ちに行く」
匠之介の目には、兵士の魂が蘇っていた。
5.
村は人気が全く無かった。
村の入り口に立った匠之介であったが、出迎える人はおろか井戸から水を汲む人も家の前で遊ぶ子どもたちも、誰一人として居なかった。
熊の襲撃を受けたと見られる、生々しい傷跡が、荒らされた家屋にしっかりと残っていた。
「おまえはここに残れ。ここから先は、俺一人で行く」
「そんな。あぶねえですよ。一緒に行きます」
「来るな」
そう言った匠之介の眼は、マタギの男を怖気づかせた。最強の部隊を率いた隊長の覇気は伊達ではない。匠之介はただ一人、熊の足跡を追って山に入っていった。
匠之介は、山の入り口で陸軍の野戦服を整えた。熊だけではなく、山の動物というのは僅かな音や異変を逃さず察知してくるものである。迂闊に服を枝に引っ掛けようものなら、向こうに先に気付かれてしまう。熊を討つなら、けっして気取られてはならぬ。
野戦服の迷彩模様も、野生に生きる動物にどれだけの効果があるかも分かったものではない。
匠之介は、雪の山道をゆっくりと歩いた。ぎしぎしと雪を踏みしめる音が、匠之介は好きだった。
ふと、一面の雪道に点々と足跡が続いていた。人の足より数段大きい、丸い足跡であった。まだ新しい。匠之介は、雪道に身を屈めたまま、背負っていた三八式を手に取った。冬の凍てつく山風を受け続けた三八式は、手に張り付きそうな程冷え切っていた。銃把は木製だからまだいいのだが、銃身などの金属部は本当に手に張り付きそうであった。
鉄幹を操作し、弾薬を装填する。陸軍製の実包は、戦時中に支給されたものであったが、引っ掛かりもなくするりと薬室に滑り込んでいった。寒さで金属が僅かに収縮しているのかもしれない。
「もう一度、お前に働いてもらうぞ」
匠之介は、三八式に語りかけるように白い息とともに呟いた。兵にとって、銃は相棒であり戦友である。ただの道具とは程遠い愛着がある。
三八式には五発の実包が込められるが、匠之介は三発だけ装填した。無理をさせてはならぬのは、人も銃も同じである。そもそも、熊と戦うのに三発も撃つ必要はない。一発で仕留めねば、死ぬのは匠之介の側である。
匠之介は、しっかりと銃床を肩に当てると、森の中を睨みながら歩を進めた。照準は近距離用であっても、射程は五百メートル程もある。だが、熊を確実に仕留めるためには数十メートルまで近付かねばならない。迂闊に近づくと危険ではあるが、一発目を外せば二発目が撃てるかどうかは賭けである。三発目は言うまでもない。
「俺は、やはり兵隊だ。こうしていると妙に落ち着く」
匠之介は、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。冷たく澄んだ空気が鼻腔を通って肺に満たされる。匠之介の鼓動は、落ち着いていた。
不意に、がさりと草を掻き分ける音がして、匠之介は立ち上がりかけた身を屈めた。ぱきぱきと枝を踏み折る音が、小さく聴こえてくる。
深く覆われた草の間から、ぬっと大きな影か見えた。
熊だ。
それも、この辺りでは見たこともないほど大きな、深い毛に覆われた羆(ひぐま)である。威風堂々とした体格で雪の上を闊歩している。歩みは遅く力強い。かなり歳のようであるが、人ならいとも容易く引き裂かれるだろう。
匠之介は、音を立てぬように安全装置を外した。撃鉄は弾を装填した時に既に起きている。
「さあ来い。お前は俺の最後の敵になる。俺の生きてきた、集大成になるんだ」
匠之介は立ち上がった。
照準を羆に合わせると、距離を読む。まだ遠い。
ふと、熊がこちらを向いた。長い茶色の毛の奥で、こちらを睨みつける二つの目が光っていた。
匠之介は、次第にこちらに向き直る熊の額に狙いを定めた。確実に銃弾を撃ち込まねば、倒すのは難しい。
「お前に罪はないかもしれない。だが、俺の使命はお前を殺すことなのだ」
いつの間にか、完全に熊はこちらに向き直っていた。静かな雪山に、二人の老兵は対峙していた。
熊は身を僅かに屈めた。そして、山が震えるような咆哮を轟かせると、匠之介目掛けて飛び掛った。
まだ距離は遠い。
身じろぎもせずに立射体勢を保ち続ける匠之介は、冬の雪山で汗が噴き出していた。
「許せ」
引き金に指をかけた時、ふと、連隊にいた頃に射撃を教わった、教官の言葉が脳裏に蘇ってきた。
「手で、心で引くな。闇夜に霜の降るごとく、引け」
匠之介がまだ新米だった頃に、部隊で随一の射撃の腕を誇る、教官の言葉である。心を無にし、ただ指先の感覚だけを頼りに、余分な力をすべて抜く。何度もたたき込まれた教えであった。
匠之介は、引き金を引いた。何度も聴いた懐かしい炸裂音が、今度は熊に向けられて轟いた。一瞬、発砲炎であたりの雪が明るく輝く。
疾走していた熊は、どうと倒れた。巨大な躯体が、大地を削るようにして滑り、止まった。
熊は二、三度と大きく息をした。脳天を貫かれているはずだが、それでも荒々しい息をしようとするのは、並々ならぬ争闘本能のせいか。
最後に一度、大きく息を吸い込むと、力尽きたようにゆっくりと雪に沈み込んでいった。あたりには薔薇の花弁を散らしたような、赤い飛沫が雪を染めていた。
匠之介は、既に息絶えた熊を見下ろすと、語りかけるようにつぶやいた。
「お前が来なければ、俺達は戦うことはなかったかもしれない。いや、逆に俺が連隊にいなければ、こいつを撃つことはなかっただろう」
銃口から煙をたなびかせている三八式を雪に落とすと、匠之介は涙を流して熊の側に膝をついた。
匠之介は、腰のアルミの水筒の口を開けると、熊の口に中身を注いだ。阿賀北の地酒、麒麟山である。
「もしお前が人間なら、酒を飲みながら朝まで話す事もできたかもしれない。だがそれは叶わんかった。……それが運命なんだ」
匠之介は、空を見上げた。
冬の澄んだ空に、星が輝き始めていた。夏が来れば、この深い雪も解けるだろう。その頃にはこの熊も大地に還っている事であろう。
匠之介は山を降りた。阿賀北の春はまだまだ遠そうである。
霜夜に咲く花
どうも、優羽です。前の投稿からは少し時間が空いちゃいました。さて、今回の「霜夜に咲く花」は、東北の阿賀北という地域をモデルにして書いた作品となりました。私は九州人なのですが、阿賀北の文学賞に応募してみようと言うことで書いた作品になります。今までの作品より少し重い感じかと思います。
読んでくださった方々、これからも頑張っていきます。ありがとうございました。