私は思わず眉をしかめた。異常な程に整った彼の顔は、その場に居合わせた全ての人を不安にさせるのに充分だっただろう。それにも増して均整のとれた彼の体格は恐ろしい程の八頭身で、しゃんと伸びた背すじは気味が悪いくらい真っ直ぐだった。私は出来うる限り視界の内に彼を入れないように努め、傍らの知人との会話に没入しようとした。そうすることで彼の存在を黙殺したかったのである。彼のために心を掻き乱されているのは、もちろん私だけではない。私の知人は、熱心な私の語りかけにもどこかうわのそらの様子で、落ち着きのない目線はしきりに揺れていた。
(だめだ、見ちゃだめだ)
 内心でそう叫びながら、私は必死になって知人に語りかけた。なんとか知人の関心をこちらに惹きつけようと死に物狂いで喋り続けた。そのために、敢えて下世話な話題も口にした。突拍子もない作り話もでっち上げなくてはならなかった。額は汗だく、口はからからになりながら、遂に私の声は殆ど無意味な絶叫に変わっていた。それは、居合わせた人々を一斉にこちらに振り向かせるのに充分だった。……ところが、私の知人だけは違った。彼の視線はいつの間にか一点に固定され、飛び出さんばかりに目を見開いている。私はその視線の先を追おうとしたが、やめた。そこには、彼が立っているに決まっている。私は咄嗟に知人の眼前に立ちはだかり、その視界を遮った。何としても知人の視界から彼を追い出さなくてはならない。私は知人の肩を掴むと、力一杯揺さぶりながら叫んだ。
「おい、しっかりしろ!」
 しかし、もはや手遅れだった。知人はだらしなく口を半開きにし、鳴き声のような音を喉の奥で鳴らしながら、垂れるヨダレを気にする素振りもない。
「おい!」
 私は大きく開かれた知人の目を覗きこんだ。
「な、なんだ、これは」
 一瞬、何が起きているのか分からなかった。……知人の眼球には、目の前にいる私の姿ではなく、彼の、忌まわしい彼の八頭身が映っていたのだ! 彼の悪魔的な力によって彼の姿が私をすり抜けて知人の眼球に到達したものか、それとも、一度見た彼の姿が、知人の網膜に焼き付いてしまったものか……。
 しかし、そんな思索にふける暇はなかった。知人は咆えるようにひとたび叫ぶと、私を押し倒した。そして、到底聞くに堪えない悲痛な奇声を発しながら、部屋を飛び出していってしまった。誰も知人の後を追わなかった。ただ、沈痛な面持ちでその場に立ち尽くしているばかりである。
 その時、突然の悪寒が私を襲った。何者かがこちらに近づいてくる。私はその人影を見なかった。そうしている間にも悪寒はいよいよひどくなる一方だった。……見なくても分かる。分かるからこそ見てはいけないのだ。
 彼だ。彼が私に近づいてくる。彼が発散するであろう、何やら不吉な妖気が確実に私を包んでいく。私は一刻も早くここから逃げ出したかった。これ以上彼と空間を同じくすることは危険なのだ。……にも関わらず、私は動かなかった。この緊急事態においても、私は体裁というものを気にした。衆人に取り乱した姿を晒したくなかった私は、平静を装ったのである。それがいかに浅はかな痩せ我慢だったとしても……。
「どうしたんですか、先程の方は」
 遂に彼が口を開いた。居合わせた誰もが気まずい様子で無関心を装いながらその場を動かないでいるのに対して、彼一人はこちらへの興味を隠さなかった。
「何かあったんですか、出ていかれたのはあなたのお友達なのでしょう?」
 私は耳をふさぎたかった。彼の声ときたら、魔が宿ったかのごとく魅惑的に響き、一片の淀みもなく私の鼓膜を撫でた。私はギリシャ神話のセイレーンを連想した。
「いや、違うか。強いて言うなら森本レオと下條アトムを足して二で割ったような……」
 手塚漫画だな、こりゃ。呑気な空想があまりに場違いで、思わず苦笑してしまった。
「様子が普通じゃなかった。追いかけなくていいんですか? おや、あなたも何だかご気分がすぐれないようですね」
 彼は畳み掛けるように喉を鳴らし私を追いつめる。もう限界だった。彼は形容しがたい芳香を漂わせながら私の目の前に立った。
 私は激しい嘔吐感を必死にこらえながら、何とか彼を見ないように努めた。
 が、遂にその時はやってきた。
「大丈夫ですか?」
 慈愛に満ち溢れた口調で彼はそう言うと、私の肩に手を触れた。
 その瞬間、幻覚でも見ているのであろうか、春の昼下がり、静かな木陰で眠りに落ちているような、そんな何とも言えない穏やかな快楽が、私を襲った。
 私は絶叫すると、全力で駆け出した。底なしの恐怖が私を追い回しているように感じて、振り向くことすらできずひたすら走った。再び嘔吐感に見舞われ、今度はこらえきれずに辺り構わず飛び散らせながら、それでも走り続けた。

 ……どれだけ走っただろうか。いつしか私は足を止め、路上にうずくまって息を整えていた。
(ここまで来れば大丈夫だろう)
 ようやく、私の心にわずかながら安堵が生じてきた。私はよろよろと立ち上がると、覚束ない足取りで歩き始めた。
(とりあえず、家に帰ろう)
 行き交う人々の中を、私は安息の地を目指して一歩一歩踏みしめていった。なるべく先程のおぞましい出来事を忘れようと、両脚の動きに意識を集中した。少しでも気を弛めれば……。
(いや、だめだ)
 私は首を振った。そんな想像すら危険に思えたのである。無我の境地。それが、彼の魔手から逃れる唯一の手段だ。そして、それは成功しているように思えた。なぜなら、その時の私は激しく消耗し、歩くだけでやっとの状態だったからだ。半ば朦朧とした意識の中には、歩行の意思以外に何も入り込む余地はなかったのである。
 その時だった。何者かが肩にぶつかり、私はその衝撃に耐えられずその場に倒れた。その人影は気に留める素振りも見せずすれ違った。気づいていないのだろうか。さすがに恨めしく思い、私は振り返ってその人影を見届けようとした。
「え?」
 しかしそんな感情は一瞬にして消し飛んだ。忌まわしい記憶が甦ったのである。心臓を握り潰されたような衝撃。もはや耐えられるはずもなかった。
 私にぶつかったその男は、寸分狂わぬ八頭身だったのである。

 ……気づいた時にはベッドの上だった。通りがかった人が救急車を呼んでくれたらしい。私はあれから一週間程入院を余儀なくさせられたが、治療の効果は確実に現れ、ようやく二、三日のうちには退院できるという所まで回復した。「彼」の影響は次第に薄らいでいった。もはや得体の知れない恐怖に怯えることもない。
 ただ、一つだけ奇妙なことがある。あれ以来、何もかもが八頭身に見えるのである。大人はもちろんのこと、子供や赤ん坊までもが、スタイル抜群なのだ。人間だけではない。窓から時折見える鳥、すなわちハトやカラス、スズメ等が見事なモデル体型なのである。
 ある時、老人が紐をつないで引いている生き物を見て私は驚いた。股下が異様に長く、一瞬、馬と見間違う程だった。しかし、その生き物は呆然と見守る私に向かって、「ワン」と鳴いたのである。
 とにかく、頭のあるものはもれなく八頭身の栄誉にあずかるという有り様なのだ。しかし、だからといって今のところ、特に困ることもない。世界の全てが、理想体型になっただけだ。考えようによっては、それはむしろ喜ばしいことかもしれない。私は美に囲まれて生きている。ならば、一刻も早く退院して均整美に溢れた世界に飛び出したい!
 私は医師を探した。退院を早めてくれるよう頼もうとしたのである。
 私は待合所まで来ていた。診療時間の終わったその場所には、入院患者とおぼしき人々が何をするでもなく立ち尽くしたり椅子に座ったりしている。その姿はおしなべて八頭身で、たとえ白髪の老人といえども背筋の曲がった者は一人もなかった。
 目当ての医師はなかなか見つからない。何しろ、行き交う人間全てがきっちり八頭身なので、体型だけで見分けることはできなかった。
(いいことばかりではないな)
 そう思い直して椅子に腰を下ろすと、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。その声だけで私は分かった。その正体はテレビだ。そこには、私が幼いころ見ていたアニメが流れていたのである。何だか、懐かしくなった。今の位置からは画面が見えなかったので、私は回り込むようにテレビの正面に移動した。
 そこには、見覚えのある青色のキャラクターが映っているはずだった。猫を模した、ずんぐりした体型の愛嬌ある姿が、未来の道具をポケットから出しているはずだった。
 ……私は画面を食い入るように見つめた。それは懐かしさからでは決してなかった。
 そこには、原型が猫であったことなど微塵も感じさせない程に真っ直ぐ姿勢を伸ばした青と白のツートーンカラーのキャラクターがいた。猫背とは無縁のそのキャラクターの顔は不自然に小さく、その表情が判別できない程であった。いや、むしろ顔は殆ど映らない。なぜなら、我らが愛すべきそのキャラクターは、全身が画面に収まりきらない程の見事な長身を誇る八頭身だったのである。

形式はショートショートです。ジャンルは……読んでくださった方々に決めていただければ。ただ、シュールであることは自覚してます。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-20

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