キャッチボール(7)
七回表
広い空き地に、僕たちは集まった。そこは、塩田を埋め立てた造成地だが、まだ、建物は、ほとんど立っていない。自宅から、四キロから五キロほど離れているため、みんな、自転車で集合する。自転車の前かごには、愛用のグラブとボールが一個、その他に、麦茶が満タンの水筒が一本。ポケットの中には、小銭が数枚。駄菓子でも、ジュースでも買える金額だ。頭には、好きなプロ野球球団のマークが付いた帽子を被る。タオルはない。汗をかけば、手で拭い、自然に乾くのを待つか、Tシャツの裾で拭く。シャツがびしょびしょに濡れている場合、自分の汗で自分の顔を拭うことになる。今、思いかえせば、不衛生だったかもしれないが、当時は、風が吹けば、ひんやりとして、かえって心地よかった。
キキキーという自転車の急ブレーキの音。続いて、キーキーという音が続く。また、また、キーキーキーと軋む音。
「これで、何人集まった?」
学級委員の秋山君が尋ねる。
「ひー、ふ、みー、で、全部で十五人。試合をするには、後、三人足りないな」
体育委員の十河君が答えた。
「誰が、来ていないのかな?」
「さあ、誰だろう?」
「古川君と山田君と大平君だよ」
僕が返答する。
「あの三人、家が近所だから、きっと、一緒に来ているんじゃないかな」
「それじゃあ、三人が来たら、直ぐに試合ができるよう、今から準備をしよう。十河君、みんなに指示を頼むよ」
秋山君の依頼に、十河君が動く。
「よし、わかったよ。みんな、まずはグラウンド作りだ。今、僕がいるところがホームベースだ」
「じゃあ、一塁は、僕が作るよ」
小柄で、足の速い杉本君が、十河君の足元から、バットの柄の部分で線を引き出した。ホームベースから一直線上には、波もない穏やかな海が開けている。その海には、多くの小島が、ヨットのように浮かんで見える。島づたいなら、どこまでも線が引けそうだ。うまくいけば、地球が一周できるかも。
「それなら、三塁は、僕が作るよ」
一番背の高い大山君が、もう一本のバットを持つ。
「よし、大山君にお願いするよ。おっと、杉本君、線がゆがんでいるよ。もう少し、右に引かなくちゃ」
川は、必ずしもまっすぐに流れない。線だって、同じだ。
「僕が直すよ」
僕は、杉本君の引いた線の上から、運動靴のつま先でなぞっていく。ここ何日間、雨が降っていないせいか、埋立地の土は固く引き締まっており、線がはっきりと見えるくらい深く掘ることはできない。それでも、一歩分、前に進んでは、もう一度、後ろに下がり、なぞり返す。何度も何度も繰り返すうちに、線は、次第にくっきりとしてきた。顔から噴き出した汗が、線の上に落ち、より一層、はっきりと浮かび上がる。
「よし、内野の線、外野の線は、全て、OKだ」
十河君の大きな声が、一塁線のはるか遠く外野まで進んだ僕にも届いた。
「何か、ベースになるものはないかな。誰か、探してくれないか」
十河君の声に、みんな、四方八方に飛び散る。
「これは、どうだい。重いけれど、何個も落ちているよ」
藤川君が、ブロックを一つ持ってきた。空き地から百メートルほどの離れたところで、家が新築されており、その家の外構に使うものだろう。
「うーん、目立つから、ベースにはうってつけだけど、もし、ランナーが滑り込んだときに、ぶつかったら痛いよ。それに、ブロックは工事中の材料だろう?落ちているんじゃなくて、置いているんだよ。それを勝手に持ってきたら、工事現場の人に怒られちゃうぞ」
残念ながら、第一候補は取り下げだ。藤川君は、せっかく重い思いをして持ってきたのに、とぶつぶつ文句を言いながら、ブロックを戻しに行った。
次に、山下君が、ジュースの空き缶を四個拾ってきた。
「少し小さいけれど、これでは、どうだい」
「うーん」
十河君が、少し悩んだ末に、
「もし、ランナーが滑り込んだら、ベースが飛んでいってしまうね。そうなると、野球じゃなくて、缶蹴りになってしまうよ。相手チームが、全員、どこかに逃げてしまったら、野球どころじゃなくなってしまうかな」
と、にやっと笑う。いきなりの駄目出しはしない。冗談を交えて、やんわりと断る。彼の得意技だ。
「そうか、缶蹴り野球か、それはそれで面白いんじゃないの」
山下君が、自分の主張を認めてもらおうと食い下がる。
「山下君の意見は、確かに面白いなあ。野球をやり終わって、時間に余裕があれば、缶蹴り野球をやってもいいんじゃないの。新しい遊びへの挑戦だ」
クラスの委員長、秋山君の裁定が下る。いつものことながら、秋山君の取りまとめ方には感心する。二人の意見を取り入れ、両者が喧嘩することなく、納得させる、いい判断だ。
そこで、僕の番だ。
「コンクリートブロックも空き缶も駄目なら、自分たちのグラブをベース代わりに置こうよ。これなら、滑り込んでも安全だし、缶蹴りごっこじゃなくて、グラブ蹴りごっこにはならないだろう?」
自分ながらいい考えだと思った。秋山君はいかなる裁定をするのか。
「うーん。そうなると、守る側は、自分のグラブをはずせないから、攻撃側のグラブを置くことになるのかな」
「そうだよ。自分のチームのグラブがベースになるから、ヒットを打って、ベースを駆け抜けるときでも、わざとグラブを踏みつけることはしないと思うよ」
僕は、秋山君の質問に、すかさず、しかも、少し胸を張って答えた。
「ええー。誕生日のお祝いに買ってもらったグラブが踏まれるなんていやだな」
「そうだよ。兄ちゃんのグラブを勝手に持ってきているから、足跡がついたらばれちゃうよ」
「でも、ベースの目印として置くだけだろう?グラブを踏まないように走ればいいんじゃないか」
「そうだよ。勢いよく走っているのに、グラブを踏みつけたら、バランスを崩して転んでしまうよ」
「まあ、他に、ベースの代わりになるものがないのだったら、グラブをベース代わりにするのでいいんじゃない」
「こんなことで、議論しているうちに、日が暮れちゃうし、塾が始まる時間が来てしまうよ。今日は、早く帰らないといけないんだ」
「そうだ、そうだ。さっさと始めようよ」
メンバーが、口々に、思うまましゃべりだす。野球の応援より、やかましい。
十河君が秋山君と相談している。そして、秋山裁定が下る。
「よし、やろう。各チームから、四個ずつグラブを出して、攻撃と守備が変わるたびに、交換だ。誰のグラブを出すのかは、各チームにまかせるよ。出来るだけ、同じ人が出し続けないように、くじでもして、順番制にしたらいいよ。みんな、お互い様だからね」
「よし、そうしよう」
みんなの掛け声が、一致する。
すると、そこに、まだ来ていなかった古川君と山田君と大平君の三人が、自転車を猛スピードで漕ぎながらやってきた。これで、全員集合。早速、試合開始だ。その前に、チーム分けだ。二人ずつ組となり、じゃんけんのグー、パーを出し合い、二つのチームに分かれた。
「ジャンケン、ホイ。あいこで、ホイ」
チームが二つできた。それぞれのチームのキャップテンの秋山君と大山君が、じゃんけんで、先攻、後攻を決める。
「よし、先攻だ」
大山君が、グーの右手を高々と上げる。秋山君は、チョキの手でボールを握る。
僕も一員である大山君のチームからの攻撃だ。みんな、一斉に、持ち場につく。
「よし、プレイボール」
三塁の守備についた秋山君の声が、グラウンド全体に高らかに響く。
「一番は、杉本君だぞ。なんとかして、塁に出ろよ」
「まかせてくれ」
小柄で、足の速い、杉本君が打席に立つ。
ピッチャーは、肩の強い、大林君だ。学校の体力テストの遠投競技では、もちろんクラス一で、学年全体でも一、二位を争う。当然、投げる球だって速い。それに、彼が投げ込んでくる球は、ただ単に速いだけでなく、打席に立っていると、時々、怖いときがある。スピードガンで測ったわけではないけれど、僕たち小学生レベルでは、プロ野球でいう百六十キロ級のスピードに感じられる。そこでついたニックネームが、「百六十キロの男」。もちろん、体重ではない。
バシッ。
一球目が、ミットに投げ込まれた。
「ストライク」
僕たちのクラスでは、既に半数近くの生徒が眼鏡をかけているが、いまだに、二・0の視力を誇る吉永君が、大きく右手を挙げてコールした。通称「アフリカの目を持つ男」。彼は、こうした審判が必要な際、積極的に主審となってくれるし、みんなも頼みたがる。だから、別称「最高裁判事」とも呼ばれている。通常なら、審判員は、公平を期すため、どちらのチームにも属さないが、今日の人数は、全員で十八人のため、余裕がない。そんなときは、攻撃側が審判を兼ねる。自分のチームが有利になるように、えこひいきをしないかだって?それは、大丈夫。僕らは、みんな、将来、プロ野球選手になることを目指している。大きな志を持っているから、目先の勝利にはこだわっていない。それよりは、今のうちから、正しい審判の下で、ゲームをすることが大切だ。そのため、互いに、大局的見地に立って、審判員として、試合に臨む。時には、判断が誤ることもあるかもしれないが、それは、お互い様だ。僕たちは、自分たちでルールをつくり、そのルールに従って野球をする。小さな民主主義の実行だ。
続いて、大きく振りかぶった大林君の手から、二球目が繰り出された。
「ストライク、ツー」
「いいぞ、いいぞ、大林君。その調子だ。もう一球で、三球三振だ」
サードから、秋山君が激を送る。
「いいぞ、いいぞ、大林。いいぞ、いいぞ、大林」
秋山君の声に合わせて、他のチームメイトからも、リズムに乗った声援が出る。
「タイム」
バッターの杉本君が打席をはずす。額から目に流れ落ちる汗を、右肩の袖口のシャツで拭う。
「杉本君、ちょっと」
僕らのチームの監督役の大山君が、草むらのベンチから、杉本君に近づき、右耳に何か囁いている。小さいけれど、何度も頷いている杉本君。
その後、二度、三度と素振りを繰り返し、バッターボックスに戻る。大山君から秘策が授けられたのか。それにも関わらず、彼は、いつものように飄々としている。
「大林君、油断するな。大山君が杉本君に何か策を授けたぞ」
すかさず、秋山君が大林君に声を掛ける。さすが、秋山君だ。野球やサッカーなどのスポーツや、校外学習などの勉強でも、クラスメイトを分け、班編成をした場合、いつも、中心となり、みんなの取りまとめをするのが、秋山君であり、大山君だ。将棋で言えば、互いが、王将だ。片方が会長なら、片方が委員長。片方がリーダーなら、片方がキャップテン。片方が監督なら、片方は指導者だ。クラスの浮沈は、二人にかかっている。好敵手だが、二人の関係は良好だ。互いに認めあい、尊敬しあっているのだろう。僕らは、彼ら二人に全幅の信頼をおいている。
「残念、見抜かれたか。杉本君、サインはさっきも言ったとおり、ホームランの指示だ。一発、思い切り打ってやれ」
大山君の演技に、両軍から笑い声があがる。そう、僕らの攻撃のサインは、いつも、ホームラン。打てるものなら、ホームラン。どんなことがあっても、ホームラン。もちろん、ボールがバットに当たるのが先決だが。
大林君は、空の雲に届かんばかりに腕を精一杯伸ばし、大きく振りかぶると、これまでにない豪速球が、空気を切り裂くかのように投げられた。
杉本君が咄嗟に動く。バットを水平に構えた。バントだ。
「しまった」
強振すると思って、ややサードベースの後ろに下がっていた秋山君が、ホームベースに向かってダッシュする。
バットは、見事、大林君のボールを真芯で捕らえた。その瞬間、杉本君はバットを思い切り振り切る。ボールは、前に突っ込んできた秋山君の頭上を越え、レフト前に飛ぶ。レフトを守っていた藤原君が猛然と突っ込んでくるけれど、ボールは目の前でバウンドして転がった。藤原君は、すべりこんで、後ろに抜けないようボールを抑えるのが精一杯だった。
「やった、やった。ヒット、ヒットだ。杉本君、すごいぞ」
僕たちのベンチは、ホームランを打ったかのように沸き立っている。
ファーストベース上では、普段、ポーカーフェイスの杉本君が、ベンチに向かって、右ひじを曲げ、ガッツポーズを見せている。大山君は、にっこりと笑顔で応え、頷いている。サードの秋山君は、やられたという顔で、くやしそうに、空にぽっかりと浮かんだ雲を見上げている。ピッチャーの大林君は、気持ちを少しでも落ち着かせようと、レフトから返球されたボールを、グラブの中でポンポンと二度、三度投げつけている。ファーストの高木君が、「ドンマイ、ドンマイ、試合はまだ一回の表、これから、これから」と両手を上げ、内野と外野に向かって呼びかけている。
「さあ、仕切り直しだ」
大林君が呟く。
それから、大林君は、本来の調子を取り戻し、二番、三番を三振に仕留めた。そして、四番の大山君を迎える。大山君が打席に立つ前から、互いの目から火花が散る。
大林君の一球目は、外角の、ちょうど膝あたりの高さ。バットを振っても、ファウルになるコースだ。大山君は、手を出さずにじっと見たが、主審の吉永君は、ストライクのコール。ええっという驚きのベンチの声に、バッターの大山君も、主審の吉永君も、顔色ひとつ変えない。確かに、きわどいコースだが、ストライクはストライクだ。自分のチームがチャンスだからと言って、有利になるような審判はしない。キャッチャーの後ろに立った瞬間から、そこは、両軍チームから立場を離れた、聖域なのだ。例え、審判のコールに不満があったとしても、僕たちは従う。世の中は、何が一番正しいかわからない。だが、仲間でゲームをやっている以上、誰かが判断をしなければならない。次は、僕の番になるかもしれない。だからと言って、いいかげんな審判をするという意味じゃない。審判員として、役割を担った以上、その職責を全うするだけだ。
さあ、二球目が投げられた。今度は、内角高目のコース。一発当たればホームランだ。思い切り投げたボールと、すばやく振り出されたバット。力と力の真っ向からの勝負。バットはボールに当たったかと思ったが、その瞬間、ボールはホップして、キャッチャーミットに収まった。ボールが伸びている証拠だ。
「ツーストライク」
主審の右手が、再び、上がる。
追い込まれた大山君。だが、彼の顔は笑みを浮かべている。ピッチャーの大林君も同様だ。この勝負、この瞬間を、彼らは心の底から楽しんでいるみたいだ。
バットを握り直し、構える大山君。大きく振りかぶる大林君。
三球目が繰り出された。今度は、まっすぐ、ど真ん中のコースだ。
振り下ろされるバット。タイミングは、ドンピシャだ。まさに、バットがボールを捉え、はじき返そうとした瞬間、ボールは、今度、バットの下をかいくぐり、地面に落ちていった。フォークボールだ。結局、バットはボールに一度も出会うことなく、ホームベース上の空気を二回切り刻むことで終わった。
「ストライク。バッター、アウト」
主審のコールだけが、辺りに響く。
一塁の杉本君は、しばらくの間、立ち尽くしたままだったが、仕方がないとあきらめた顔で、ベンチに戻ってこようとした。僕は、ベンチの側においてあったS・Sのイニシャル(杉本慎也でS・Sだ)が印されたグラブを掴むと、彼に向かって放り投げる。
「ナイス、バッティング。次も頼むよ」
「ありがとう。これからは、守備に専念だ」
「さあ、今度は、こちらの番だぞ」
秋山君がダッシュで、ベンチに戻る。
「ピンチの後には、チャンスあり。今日は、絶対、勝つぞ」
秋山君を中心に、円陣が組まれ、チームの仲間が一体化する。
相手がその気なら、こちらも負けられない。
「おーい、みんな、集まってくれ」
ピッチャーの大山君が、ピッチャーマウンドに、チームの仲間を呼ぶ。
僕は、セカンドから駆けつける。
「よし、相手チームは、かなり気合が入っているぞ。こちらも、声を出して、頑張ろう」
「おおー」
九人の声が、マウンドを中心として、同心円状に、辺り一面に波打っていく。目の前に広がる、穏やかな海を航行する船にも、僕らの元気な声が届いているだろうか。澄んだ秋空高く、空港から東京に向けて飛び立つジェット機にも、僕らの生気あふれる声が届いているだろうか。
僕らのチームのピッチャーは、キャップテンで、四番バッターの大山君だ。まさに、このチームの大黒柱だ。彼は、投手はもちろんのこと、キャッチャーを始め、内野から外野まで、どこでもうまく守れる、オールラウンドプレイヤーだ。しかし、今日の対戦相手のピッチャーが豪腕大林君だから、一点が試合の明暗を分ける投手戦になる。
「大山君、相手ピッチャーは、大林君だから、こちらも、大山君でいこうよ」
チームメイト全員の合意の元、大山君が、マウンドに立つ。
「よし、それなら、こちらも打倒大山だ。大きくて、険しい山だが、一歩、一歩、確実に登っていけば、必ず、制覇できるよ」
攻撃側のベンチから、秋山君の檄が聞こえてくる。
さあ、相手チームの一番バッターは、左バッターの小柄な田中君。僕らのチームの杉本君に負けず、劣らずの俊足だ。当たりそこないの、ボテボテのゴロでも、守備側のダッシュが遅れたら、既に一塁ベースを駆け抜けている。もし、グラブの中で、お手玉でもしようものなら、二塁ベースに達していることもある。もちろん、盗塁だって、お手の物、いや、お足の物だ。とにかく、塁に出すとやっかいな相手だ。
主審の秋山君のプレイボールの手が上がる。秋山君なら、安心して、審判を任せられる。一回の裏の始まりだ。
大山君がゆっくりと振りかぶり、第一球目を投げる。
さっと、バットを水平に身構え、足を踏み出す田中君。
思ったとおり、一球目から、セフティバントだ。サードの大塚君が、猛前とホームベースに向かう。ボールは三塁線を切れ、相手チームのベンチに転がる。
「ファウル」
秋山君の大きな声は、グラウンドにいる攻撃側と守備側の全員に伝わる。
半分以上、一塁線上に走りこんでいた田中君が、打席に戻ってくる。インプレーなら、確実にセーフだった。
「惜しい、惜しい。次こそ、決めてやれ、田中君」
相手側のベンチから、盛大な応援の声がする。
セカンドの僕を始め、内野手全員がピッチャーマウンドに集まる。
「大丈夫、大丈夫、ど真ん中に、ボールを投げてやれよ、大山君。どんな難しい打球でも、僕たちが捕球して、アウトにするから。なあ、みんな」
サードの大塚君が、他の内野手に同意を求める。
「そうだ、そうだ、大山君の快速球なら、相手は当てるだけで精一杯さ。ど真ん中に投げこんで、打てるものなら、打たせてやれよ。田中君のセフティバントだって、へっちゃらさ、なあ、みんな」
あまり守備のうまくない僕だが、声の大きさなら、仲間の誰にも負けない。まずは、大声を出して、自分を奮い立たせるとともに、周りのみんなを元気付けることが大切だ。そのためにこそ、僕が内野にいるのだ。守備のキーマンではなくて、元気の源のキーマンなのだ。誰だって、個人個人の役割があり、自分の職責を精一杯果たしている。それが、チームプレイなんだ。チーム競技なんだ。
「そうだ、そうだ、ストライクを投げ込んでやれよ」
「応援、ありがとう。思い切り投げるよ」
みんな、大山君に思い思いの励ましの声を掛けて、自分の持ち場に戻った。それは、自分自身にも語りかけているのだ。
「さあ、いくぞ」
大山君の長い指から、白球が放たれた。ボールは、周りの空気を渦に変え、彗星のほうき星のように、目的地へと向かう。キャッチャーの石川君は、ミットを最大限に広げ、ストライクゾーンに構えている。どーんと来いだ。
バッターの田中君は、もう一度、セフティバントを試みようとバットを水平に出す。だがその瞬間、ボールは、軽くホップし、バットの上をすり抜けた。固まったまま動けなかったバット。と同時に、あまりのボールの勢いに、一瞬、ボールを見失ってしまったキャッチャーミット。バットとミットに別れを告げたボールは、審判員も、バックネット代わりに置いてあった自転車も越え、後ろのアスファルト道路も通り過ぎ、はるか彼方の空き地へと転がっていく。
「早く!早く!」
秋山君の声に、八十川君と河合君の自転車部隊が動く。いわゆるボールボーイだ。通常のボールボーイなら、ファウルグラウンドに転がったボールを取りに行くのが仕事だが、ここ空き地での仮の野球場は、バックネットがないため、ボールは、一旦は空の果て、そして、バウンドして、地の果てまで向かう。遠くまで転がったボールを急いで拾いに行くためには、自転車が有効だ。走って行ったのでは、時間がかかる。二人は、自陣ベンチの後ろ側に並べていた自分の自転車のペダルに足を掛けると、立ち漕ぎの姿勢で急発進した。大山君の投げたボールは、三つ向こうの先の空き地まで転がっていった。試合当初、白かったボールも、グラウンドの土埃のせいで茶色に汚れ、空き地と同一色化しつつある。早く到着しないと、見失ってしまう。
キ、キ、キ、キ、キーという軋む音。急ブレーキを掛けるが、ブレーキのゴムがちびているためか、自転車は直ぐに止まらない。二人は、急いで、自転車から飛び降りると、スタンドを立てる暇もなく、ボールがあるはずの空き地に飛び込む。
ガチャン、ガチャンと自転車と大地が出会う大きな音。その音を無視し、二人はボールを探す。
「どこだ、どこだ」
「自転車に飛び乗ったときに見たところでは、確か、この辺りに転がったはずだけどなあ」
「ないなあ、溝にでも落ち込んだのかな」
「野犬が、食べ物だと思って咥えていったのかもしれないよ」
「この辺り、結構、野犬が多いからなあ」
「でも、野犬が悪いんじゃないよ。子犬を捨てた、人間、大人が悪いのさ。だから、こうして、野犬が増えたんだよ」
「でも、子犬を見ると、人は優しい気持ちになれるのか、残飯などのエサをやりにくる人が多いらしいよ」
「子犬とっては、ありがたいことだけど、犬は、縄張り意識が強くて、エサをくれる人には尻尾を振ってなつくけれど、通りすがりの人には、自分のテリトリーから追い出すため、吠え掛かってくるよ」
「僕も、この間、この付近を自転車で走っていたら、野犬に追い回されたことがあるんだ。ちょうど、自転車のペダル付近に噛み付いてくるんだよ。犬が口を大きく開けたところに、僕の左足があるわけさ」
「ヒエー、危ないなあ。それで、どうなったの」
二人は、ボールを探すのを忘れて、夢中になって、野犬のことを話している。
「どうしたんだー、ボールが見つからないのかー」
聞き慣れた声が近づいてくる。
後ろを振り返ると、キャップテンの秋山君が、彼ら二人の方に向かって走ってきている。その後ろでは、チームメイトが何かしら叫んでいるが、あまりにも遠くに離れたため、何を言っているのかわからない。誰かが、大きく手を右の方向に示している。
「八十川君、もっと右みたいだよ」
「よし、あそこの草むらを探してみよう」
二人して、膝頭までの高さに伸びた、草むらに分け入る。
程なく、河合君の声がする。
「あった、こんなところに、隠れていたよ」
ボールは、黒く薄汚れたお菓子のビニール袋の下にはいりこんでいた。
「見つかってよかった。さあ、ボールを持って、みんなのところへ戻ろう」
「このお菓子の袋、誰かが犬のえさをやった後に捨てたのかな」
「そうかもしれないね。袋は、いろんなところが噛み千切られているよ」
「ボールは、見つかったかい?」
二人が同時に振り向くと、秋山君は、もう五十メートルほどの距離まで来ていた。
「ああ、見つけたよ」
河合君が、秋山君に見せるように、ボールを右手で高くかざす。
「それじゃあ、そこからボールを僕に投げてくれ。みんな、急いでいるんだ」
河合君は、二、三歩走ると、秋山君に目掛けて投げる。
「ナイス、ボール」
ボールは、ワンバウンド、ツーバウンド、スリーバウンドして、秋山君のグラブに入る。と同時に、秋山君は、すぐさま振り返り、その五十メートル後方にいるキャッチャーの福島君に目掛けて投げる。虹に負けまいと、空に大きく孤を描いたボールは、僕たち少年時代の夢が叶うかのように、キャッチャーのミットの真ん中にすっぽりと納まった。
「ストライク!」
福島君が、体全体で喜びを表現している。
秋山君は、再び、八十川君と河合君の方に振り向くと、
「さあ、行こう、八十川君と河合君。日が暮れて、真っ暗にならないうちに、試合を終えないと。ここは、ナイター設備がないからね。時間切れコールドなんていやだよ」
と、笑みを浮かべて、みんなの元へと走り出す。
取り残された二人は、野犬のことが少し気にかかりながらも、互いの顔を見合わせて頷くと、乗ってきた自転車に跨り、チームメイトの待つ栄光のグラウンドへ向かう。
さあ、試合再開だ。
カウントは、ツーストライク。田中君は、完全に追い込まれた。大山君の腕から三球目が繰り出された。今度も、先程と負けず劣らずの速球だ。田中君は、バットを短く持ち、ひと呼吸早くバットを振る。それでも、ボールの勢いが勝る。なんとか、バットにボールを当てたものの、ボテボテのゴロが、僕のいるセカンド方向に転がる。打球は打ち取った。だが、田中君には足がある。振り抜いたバットを自陣のベンチの方に投げると、ファーストベースへ目掛けて、猛ダッシュ。それを見て、セカンドの僕も、少しでも早くボールを捕ろうと前に突っ込む。このまま、打球を待っていたら、田中君はファーストベースを駆け抜けてしまう。グラブを使わずに、素手でボールを掴む。一塁を振り向くと、田中君はファーストベースにあと数歩のところだ。
「早く、早く」
一塁手の南君が、股関節が裂けんばかりに足を広げ、左手のグローブを目いっぱい突き出している。南君の体を、夕日が照らし、大きな影も一緒にボールを待ち受けている。
僕は、振りかぶる時間も惜しくて、サイドスローで、南君に向かって投げた。まるで、映画のコマ送りのように、僕の投げたボールと田中君の足が、ゴールのファーストベースを目掛けて競争だ。ひとコマ目では、まだ、ボールは、田中君の背中を追っている。ふたコマ目で、激しく手を振る田中君の後ろまで、近づいた。三コマ目で、田中君の体とボールが、一直線上に並ぶ。四コマ目で、ボールは、南君のグラブに入り、田中君の右足のつま先が、ベースを踏んだ。さあ、アウトかセーフか、どちらだ!ベンチに集まっている攻撃側と、グランドに散っている守備側が、一瞬沈黙し、判定を待っている。
「アウトー」
審判の秋山君の右の拳が上がった。
「惜しいなあ、残念!」
一斉に悔しがる攻撃側ベンチ。
「やったー、やったー」
反対に、もうこの試合が勝ったみたいに、飛び上がって喜ぶ僕たち守備側。
一塁手の南君が、僕に近づいてきて、互いの好守備を称え、手のひらで叩き合う。
ピッチャーの大山君も、マウンドから降りてきた。
「ナイス、フィールディング!さすが、鉄壁の二遊間。次も、是非、頼むよ」
大山君の顔に、満面の笑みがこぼれている。
「OK!OK!どんどん打たせていこう。どんな打球でも、アウトにしてみせるよ」
互いに、ハイタッチで鼓舞しあう。
さあ、試合続行だ。二番バッターは、中村君。大山君の、速球が冴え、三球三振ではないものの、最後は、外郭低めのボールが決まって、バッターアウトだ。一度も、バットを振ることなく、打席を離れる中村君。バットをかつぎ、うなだれたままベンチに戻る。
すかさず、秋山君の励ましの声。
「ドンマイ、ドンマイ、次は、打てるさ」
顔を上げ、大きく頷く中村君。目が大きく開き、輝きが戻った。
「ツーアウト、ツーアウト。次の打者も三振だ」
守備側は、ひとさし指と中指を立て、互いに確認しあう。
「野球は、ツーアウトからさ。ここで、一本、大きいのを打ってやれ」
「そうだ、そうだ、打ってやれ」
応援だけは負けまいと、攻撃側のベンチからも、連続して声が上がる。
次は、三番の大林君だ。ピッチャーとして調子がいいときは、打者としても、要注意。心してかからないと、大きいのを打たれてしまう。また、バッターとして、活躍されると、ピッチャーとしても、スピードやコントロールが冴え出す。自分のチームの大山君と同様だけど、ピッチャーを調子に乗せると、まずい。ここは、なんとか、大山君に、踏ん張ってもらわないといけない。
打席に立ち、念入りに、バッターボックスの土を慣らし、足元を固める大林君。
ピッチャーマウンドでは、大山君が、ゆっくりと、右肩を回している。
大林君は、肩幅をよりやや広く、両足の位置を決めると、バットを軽く、二、三回振る。邪魔にはならないはずなのに、左肩のTシャツの袖を軽く引き上げ、万全の構えで、ボールを待つ。いつもながらの彼独特の癖だが、それだからこそ、気をつけなければならない。いつ、投げられても、どんな球でも、打ち返してやろうという気迫が篭っている。
大山君の一投目。やや肩口より高めのコース。大林君は、見送ると思われたが、思い切り振ってきた。かなり、積極的だ。だが、バットは、空を切り、ボールは、キャッチャーの藤井君のミットの中。
審判の手が上がり、「ストライーク」の声が響く。
「ナイスピッチャー、次も、同じ球だ」
「ドンマイ、ドンマイ、自分の好きな球だけを狙っていこう」
二人の対決に対して、両軍からの大合唱。
まさに、大山君と大林君の、一挙手、一投足に、三十二の瞳が釘付けだ。
振りかぶる大山君。構える大林君。
大山君の手からボールが離れる。弾道を見据える三十六の熱い視線。そのうちの二個の瞳が、特に、大きく見開かれた。今度のコースは、外角低めだ。一球目が、高目だっただけに、膝頭辺りの球は、低く感じ、ボールだと判断しがちだが、実際は、ストライクコースだ。高目と低目、内角と外角。巧みにコースを使い分ける大山君には、脱帽だ。もちろん、思ったとおり投げられるコントロールがあってこそだが。
大林君が反応した。ストライクか、ボールか、迷って待つくらいなら、動いてみる。これが、彼の身上だ。バットが唸る。タイミングは、ジャストだ。いや、やや、到達点には、バットが少し遅れている。
このままでは、電車に乗り遅れまいとして、一生懸命走ってきたのに、ちょうど目の前でドアが閉まり、電車が汽笛を鳴らし、走り出した時と同じだ。特に、乗客と、目が合った瞬間のバツの悪さは、経験したことがないとわからないだろう。そのためか、電車に乗り遅れた人のほとんどが、ただ黙って俯くか、広告を見るのが目的のように、構内の掲示板に目を遣る。
話を戻そう。大林君は、さらに、腕を振るスピードを上げる。ボールとバットの衝突だ。力と力の対決。打球は、ボールの勢いに打ち負けたものの、痛烈なライナーで、右方向に切れていく。明らかに、ファールボールだ。ファーストの南君は、それでも、ボールを捕球しようと、小石のばらつくファールグラウンドにダッシュし、体全体を投げ出して飛びつく。
「おおおおおー」
南君の果敢なプレーに、敵、味方の両方から、驚きと歓声の声が上がる。
残念ながら、電車には飛び乗れなかったようだ。
ボールは、道路を越え、隣の空き地へと転がっていく。再び、八十川君と河合君の自転車部隊の登場だ。先程の名誉回復のため、二人は、さっと自転車に飛び乗ると、立ち漕ぎのままボールを追いかける。今回、四つの視線は、確実にボールを捉えている。
南君は、地面に倒れ込んだものの、すぐに飛び起きると、Tシャツやズボンについた土を払う。少し、左ひざを気にしている。そこは、赤く血が少しにじんでいるのがわかった。自分の唾を指に付けると、とりあえず、怪我をした部分に塗りつける。守備が終わり、自分たちの攻撃の番になれば、道路の側溝沿いに生えている蓬を千切って貼り付ければ、野戦病院での治療は完了だ。自分が患者であり、自分が医者である。何から、何まで、全て自分の責任だ。
「ナイス、ファイト」
ピッチャーの大山君が、八十川君から返球されたボールを頭上にかざす。
左手のグラブを空に上げ、応える南君。少し足を引きずってはいるものの、チームメイトに心配をかけまいと、ファーストベース上でジャンピングをする。もう、大丈夫だ。
さあ、ツーストライク。アウトにしろ、ヒットにしろ、最後の一球になるのか、それとも、息詰まる一対一の駆け引きがこのまま続くのか。
大山君が振りかぶる。それに、呼応して、大林君も大上段にバットを構える。
さあ、勝負だ。球は、一直線上に矢のごとく、キャッチャーミットへ。今回のコースは、外角高め。釣り玉なのか。それとも、三振を奪いにいく球なのか。大林君が再び、反応したかに見えたが、そのまま、不動のまま立ち尽くす。ボールは、ミットの中へ。さて、審判のコールは?
「ボール。ツーストライク、ワンボール」
惜しい。ほんの少し、高かったみたいだ。やはり、大林君をひっかける捨て玉だったみたいだ。そのコースに投げる大山君のコントロールもすごいが、身動きせずに見逃した大林君の判断力もすごい。
「ドンマイ、ドンマイ、次で、勝負だ。大山君、こっちに、打たせろよ。どんなボールでも取ってやるよ」
サードの今村君が、グラブを右手で叩いている。
「ファースト方向なら、僕がいるぞ。もう一度、ダイビングキャッチだ」
南君も、今村君に負けまいと声を上げる。
「三遊間なら、僕がいるぞ。どんな打球でも、OKだ」
今度は、ショートの渡辺君だ。
僕も、みんなに負けられない。
「二遊間は、僕がいるよ。もう一度、さっきのプレーを再現してみせるよ」
僕は、両膝を曲げ、腰を落とし、爪先立ちで、前後、左右、どこにボールが飛んできても、すぐに対応できる態勢をとっている。
僕を忘れてもらっては困ると言いたげに、キャッチャーの石川君が、マスクをかぶったまま立ち上がり、右手の二本の指を立てる。そして、大きな岩のごとく、どっしりと座り込む。今の石川君なら、どんなボールを投げても、全て受け止めるだろう。
次は、どんな球種で勝負なのか。セカンドの僕からは、少し見えにくいが、石川君が、キャッチャーミットに隠して、サインを出している。首を横に振る大山君。これならどうだと、再び、サインを示す石川君。今度は、首を大きく縦に振り、頷くピッチャー。次のボールが決まった。一球目が内角高めで、バッターは空振り。二球目は外角低めで、一塁線へのファウルボールとなり、ツーストライク。三球目が外角高めで、バッターは見逃してボール。次の四球目は、どこだろう?僕なら、内角低めで勝負だ。三球目に外角ぎりぎりのコースを突いたので、大林君は、少し、ホームベースに近くにじり寄っている。ただし、バットは長く持ったままだ。内角低めなら、バットは、ボールのスピードに追いつかず、空中で一人ダンスショーだ。大山君、内角低めで三振だ。僕は、心の中で呼びかけた。
さあ、いよいよ大山君が、次の投球動作にかかる。ピッチャーの背中を照らす夕陽は、大山君の影を生み出し、先ほどよりも一段と伸び、ファースト側のベンチにまで届いている。わずか一回の裏表の攻防なのに、なぜか、何時間も経過しているような気がする。僕たち十八人が、同じ時間を共有し、激しい息遣いや、飛び散る汗、収縮しては、伸びきる筋肉、熱く、気迫のこもった声援など、全てが、同じ空間の中で、同時進行で営まれているせいだろうか。まさに、十八人の凝縮した生命が燃焼している。
空間を突き破るかのように、ボールが投げられた。大林君は、瞬時に、左足を開き、バットを短く握り締め直した。そうか、大林君は、最初から、内角の球を狙っていたんだ。引っ張ってくる可能性が高い。
「サード」
僕は、大声を上げると同時に、セカンド方向に走った。ボールは、ミットのど真ん中に向かっている。投げられたボールは、ピッチャーからは、既に手が離れているにも関わらず、大山君の意思どおりにコントロールされているようだ。大林君の「もらった」という顔が、「え、まさか」の驚きの顔に変わる。ボールは変化せず、ど真ん中の、ど真ん中。ピッチャー大山君は、正々堂々と、バッター大林君との勝負にでたのだ。打てるものなら、打ってみろ。大林君は、それでも、すぐさま元の体勢に戻すと、ボール目掛けて、バットを振り下ろす。
「カーン」と澄み切った秋の夕方に響く快音。そして、「ズバッ」という、グラブに命中した音。大林君の打球は、野球のセオリーどおり、ピッチャー返しで、センターまでも抜こうとする勢いだったが、瞬時に差し出された大山君のグラブに吸い込まれた。
「アウト。スリーアウト、チェンジ」
審判員の声が、空き地全体に響き渡った。
「ナイス、フィールディング、大山君」
激戦の結果、ピッチャーの全体重がかかり、大きく穴が掘れたマウンド。そのマウンドを両足でならしている大山君のところに、サードの今村君、ショートの渡辺君、ファーストの南君が次々と駆け寄り、賞賛する。
「ありがとう、みんな」
白い運動靴は、土ぼこりで、真っ黒に汚れ
ている。それでも、マウンドを直し続ける大山君。しばらくすると、相手ピッチャーの大林君が、攻守交替で、マウンドに登ってくる。
「ナイス、ピッチング。まさか、ど真ん中に投げて来るとは、思わなかったよ。完全に、力負けしたよ」
「いや、大林君こそ、いい当りだったよ。咄嗟にグラブを出さなければ、センターに抜けていたし、あの勢いなら、ランニングホームランだったかもしれないよ」
大山君は、振り返り、遥か向こうの堤防を見る。
「いやいや、完全に、僕のほうがボールの力に押されていたよ。今回は、僕の負けだ。だけど、次こそは、必ず、打って見せるよ」
「そうこなくっちゃ。僕だって、次も、必ず、大林君を打ち取ってみせるよ。あはははは、だけど、なんだか盾と矛の関係みたいだね」
「本当だ、僕は、君の投げるボールを打つし、君は、僕を打ち取る。どちらが、正しいんだろう。とにかく、勝っても、負けても、互いに、全力を尽くすのみだね」
大山君は、土の付着したボールを自分の服で拭うと、大林君に手渡した。
「ありがとう」
大林君は、頭を下げて、ボールを受け取った。
さあ、両チーム、ゼロ対ゼロのまま、二回以降を迎える。果たして、この攻防の結末はどうなるんだろうか。
既に、七回の表・裏の攻撃が終わった。両チームのエースの力投で、互いにゼロ対ゼロの、均衡状態が続いている。どちらかが勝つまで決着を付けたいが、太陽は、瀬戸内海の小島に隠れてしまった。今日を惜しむように、夕日が辺りを真っ赤に染め、ボールは、星のまたたきほども、見えなくなってきている。両チームの選手たちの影だけが、大きく、隣の空き地にまで映し出されているが、境界が夜の闇にだんだんと溶け込んで、見分けがつかなくなっていく。いつの日か、僕らの中から、本当のプロ野球選手が輩出するだろう。彼は、何万人もの歓声で盛り上がるスタジアムで、まばゆいばかりの照明を浴び、光り輝く本当のスター選手として、空き地の何倍もの広いグランドの中を、縦横無尽に走り回るのだろう。ブロッケンの大男が、僕たちの未来の姿だ。
両チームのキャップテンの秋山君と大山君が、試合を続行するのか、今日はとりあえず引き分けのままで、次の機会に再試合をするのか、会談中だ。
「本当は、決着をつけたいけれど、こんなに暗くなっちゃうと、ボールが見えないよ。今日の試合は、中断にしよう」
秋山君は残念がる。
「そうだね、足元も見えず、暗くなっているから、ボールを追いかけて、石ころや空き缶に躓いたり、工事中にできた穴にでも足を突っ込んだら、大怪我をしてしまうよ」
大山君も、秋山君の意見に賛同する。
「よし、みんなを集めよう」
二人は、それぞれ、自分のチームの選手を呼ぶ。
「今日の試合は、大林君、大山君の両ピッチャー共に絶好調だし、みんなも気合が入っていて、ファインプレーが続出している。最近にない、好試合だから、是非、勝敗を決めたいけれど、こんなに暗くなってしまうと、ボールが見えないし、家の人も心配しているだろうから、残念だけど、引き分けにしよう。また、日を変えて、再試合だ。みんな、いいかい?」
秋山君の説明に、選手全員が頷く。
さあ、お腹もすいたことだし、家に帰ろう。今日の、夕飯は何かな。大好物の、カレーだといいんだけど。僕たち十八人と、三十六個の目玉は、もう既に、家のテーブルの前に釘付けだ。さあ、父さんや母さんの待つ家路へ向かおう。自転車止めをはずす音がガチャガチャ、ガチャガチャと騒がしく鳴っている。
「さよなら」
「バイバイ」
「また、明日」
「それじゃあね」
それぞれが、自分の思いで、言葉を発する。多分、正解なんてないんだろう。そして、自分たちが進む方向だって、みんな違う。
先ほどまで、子どもたちの歓声で満たされていた空き地は、もう、誰の声もしない。海から吹く風が、グランドの土を巻き上げ、少しずつ、少しずつ、子どもたちが一生懸命引いたラインやマウンドの線を消していく。熱戦が繰り広げられていた事実さえも、記憶から消し去られていく。そこに、置き忘れられたボールが一個、マウンドに転がっている。誰が忘れたのだろうか?ボールは、海風に吹かれ、グランドから移動し、草むらを通り過ぎ、段差のあるアスファルトの道路に転がった。そして、数回のバウンドから回転運動を経て、今、動きが止まろうとした瞬間、黒い闇の空間が開き、ボールは、歴史という名の深い穴に吸い込まれていった。もう一度、子どもたちの元気な声が帰ってくるまでの間、眠りにつくために。目ざまし時計はいらない。
七回裏
「父さん、父さん、大丈夫?」
「パパ、パパ。ほら、ジェイ、ジェイが、目を覚ましたよ」
私は、随分と眠っていたような気がする。ひょっとしたら、このまま、決して目覚めることのない、永遠の眠りにつくことを望んでいたのか。だが、こうして起きてみると、目覚めも、なかなかいい気分だ。新しい朝、新しい自分、新しい時間。全てが、初めての出来事のように新鮮に感じられる。生まれる、生まれ変わるということは、こうした感覚なのだろうか。七十年も立った今、自分が、この世に産み出されたときのことは覚えていない。もちろん、野球を始め、遊ぶことに一生懸命だった小学生のときでも、答が既にわかっているのに、紙に書かれた問題の正解をわざわざ記載することが目標であった中学生のときでも、大学入試に合格することが自分の最大の人生の目的だと思い込んだ高校生のときでも、将来の自分が進むべき道がわからず、目先のバイトに明け暮れ、本質的問題から目をそらし続けた大学生のときでも、就職先が決まらず、留年もやむなしと思いながら、年末の十二月二十五日の朝、サンタクロースでもないのに、赤いオートバイに跨ったに郵便配達人から、会社の合格通知を受け取った大学四年生のときでも、自分が生まれた瞬間のことなんて覚えてやしない。
「おっ、おはよう、今日は、いい天気かい」
「お早うどころか、今は、昼の十二時前だよ、おそようだよ」
孫の、ハヤテが突っ込んでくる。
「そうか、おそようか、それはいい。はははははは」
間近に見える天井、いつもより低い枕、弾力性が異なるベッド、消毒された臭いのする部屋などから総合判断すると、私は病院のベッドの上に横たわっているのだ。首を横に向け、窓の外に目を遣る。明るい陽射しが、部屋に差し込んでいる。小鳥を始め、草や木、虫たちなど、地球上の生き物たちすべてが、太陽の光の下で、自分の役割を果たしているのに、私だけがベッドの上で取り残されている。
「先生、どうなんでしょうか?」
息子の翼が、傍らに立っている医師に尋ねた。
「検査結果がまだ出ていませんので、正確な診断はできませんが、患者さんの元気そうな顔色を見ている限りでは、今すぐに、どうということはないでしょう」
「そうですか、ありがとうございます」
軽くひと息呼吸をした後、安心したように、医師に頭を下げる息子。
「とりあえず、父さんが、目覚めてくれたので、安心したよ。パパは、着替えなどの荷物を取りに家に帰ってくるから、その間、ハヤテは、ジェイジェイの様子を診ていてくれるかな。昨晩のように、ジェイジェイの様子が急に変わったら、ベッドの上のナースコールボタンを押すか、詰所にいる看護師さんを呼びに行きなさい。それと、パパの携帯電話にも連絡してくれ」
「うん、いいよ。僕、ジェイジェイと一緒にいるよ」
私は、ようやく、自分が置かれている状況が飲み込めてきた。昨晩、私の身に、何か異変があったのだが、全く覚えていない。周りの様子から推察すると、命が危なかったのかもしれない。そんなこともつゆ知らず、本人は、夢を見ていたのだから恐れ入る。危篤状態に陥りながらも、確か、夢の内容は、私が小学生で、友人たちと草野球をしている様子だったはずだ。今から、六十年近くも前のことだ。だが、今でも、鮮明に、ボールの一球、一球や友だちの走る姿を思い出す。それに比べ、最近、物覚えが悪くなったのか、それとも、物を覚えることを拒絶しているのか、ついさっき出会い、あいさつを交わした近所の人の名も、昨晩食べた夕食が、大好物のカレーライスだったのか、それに負けまいと好きなクリームシチューだったのか、DHOの豊富な鯖の煮付けだったのか、いやいや、昨晩は、久しぶりに、退職した会社時代の友人との飲み会だったのか、過去が自分の記憶の中で、時間軸を通り過ぎ、願望と相まって、脳の中で右往左往している。全く不思議だ。反面、過去の順番なんて、私にとって、もうどうでもいいことなのかもしれないと自己正当化したい気持ちにもなる。それとも、私の脳だけが特別なのだろうか。
「ジェイジェイ、まだ気分が悪いの?」
私よりも一回りも小さい顔のハヤテが、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「ああ、そんなことないよ。元気もりもり、この通りだよ」
無理やりに、パジャマの腕の部分をめくり、腕を曲げ、やせ細った筋肉を見せる。確実に、肉体は、加速度を増して、老化へと突き進んでいる。
「それなら、よかった」
そう言うなり、ハヤテはベッドの側の椅子に座ったまま、マンガの月刊誌のページを開き始めた。耳には、ウォークマンのイヤホンをつけて、音楽を聴いている。どこまで、私のことを心配してくれているのかわからないが、その姿にほほえましさを感じる。普段と変わらない一日。そう、私が倒れたことも、病院に入院したことも、ハヤテが付き添いで看病していることも、マンガの本を読んでいることも、全て、日常の生活の一コマなのだ。時に、楽しいことや悲しいことなど、様々な感情を触発させるスパイシーな出来事が起こるだけだ。人は、それでも生きていく。そして、寿命を全うする。生きているその瞬間まで。生と死は、隣り合わせであり、二人三脚のように、日々、「おはようございます」や「こんにちは」、「おやすみなさい」と言葉を交わしながら、互いに意識し合うことで、存在を確認しあっているのだ。
「そのマンガは、面白いかい?」
「面白いよ」
顔は上げずに、口だけで答えるハヤテ。
「それは、いいことだ。楽しいことが、一番だ」
「ジェイジェイも、読むんだったら、先月号があるよ。貸してあげようか?」
「ありがとう。また、今度にするよ」
私が、家で倒れ、ここに運ばれて、何時間が経つのだろうか。零れている昨日の夕方の記憶を拾い出し、集めた。そうだ、庭木に水を遣ろうとして、玄関口に立ったときに、急に目の前が真っ暗となり、そのまま崩れ落ちてしまったのだ。ベッドの傍らに置いてある小さな目覚まし時計を手にする。長針が六を指し、短針が一と二の間だ。倒れたのが、午後五時頃だから、二十時間近くも眠っていたことになる。あまりにも、眠り過ぎたのか、背中が痛い。少し、横に向く。このまま、目を覚まさずに眠り続けたら、痛みも感じないのだろうか。それとも、逆に、痛みで目が覚めるのだろうか。私の人生を支配する目覚まし時計があって、時間ですよとブザーを鳴らしてくれるのだろうか。ふと、ハヤテの座っている椅子の下を見ると、ボールが一個転がっている。病室に、ボールなんて、変な組み合わせだと思いながら、ハヤテが持ってきたのか、もしくは、私の前の入院患者が、まだ、子どもで、入院生活中、退屈しのぎに、病室でボール遊びをしていたのかもしれない。
「ハヤテ、椅子に下に、ボールがあるぞ」
「うううん」
マンガに熱中して、上の空の返事だ。ひと腕も、一歩も動こうとしない。ただ、活躍するのは、漫画のページをめくる指だけ。
「そのボール、ハヤテが持ってきたのか?」
「どのボール?」
本のページをめくる手とまばたきひとつしない見開いた目。
「ほら、ハヤテの椅子の下に、転がっているボールだよ」
「え、ホント!」
ようやく本から目を離すと、体を折り曲げ、足元を見る。
「ホントだ、ボールがある!」
ハヤテは、自分の手のひらよりも大きいボールを、両手で拾い上げた。
「その、ボール、ハヤテが家から持ってきたのか?」
再度、確認する。今度の言葉は、耳に届くだろう。
「違うよ、僕が持ってきたのは、このマンガの本だけさ」
「その本、一冊だけ?」
私は、ハヤテが座っている椅子の後ろのサブザックに目をやる。何が入っているのか知らないが、荷物が一杯で、チャックの蓋が途中までしか閉まらず、半分以上が開いたままだ。片付けられたいよりも、飛び出したいおもちゃの気持ちが表れている。
「うん、このドッチボーラーが主役の漫画は一冊だけだよ。その他に、カードゲームで対戦するマンガと、少年忍者が活躍するマンガと、海賊が七つの海を駆け巡るマンガと、ロボットが人間のように意思を持つマンガと・・・、それに、カードが数十枚と、コンピューターゲーム機が一台、ソフトが二個」
「ハヤテは、一体、何冊の本を持ってきたんだい?」
「うーん、わかんない」
「その青色のバッグに、いつも入れて、持ち運んでいるのかい?」
「うん、そうだよ」
「つまり、ハヤテの全財産が詰め込まれた宝石袋というわけだな」
「そうだね・・・半分当たっているけど、半分はずれているよ。僕の部屋には、もっとたくさんのマンガの本と、数百枚のカードと、壊れたロボットのおもちゃが数十台もあるよ」
「それじゃあ、火事や地震などの、いざというときは、ハヤテの部屋ごと、そのバッグに詰め込まないといけないね」
「そんなことできるの?そうか、どんなものでも入る、ドラえもんバッグがあればいいんだ」
「どんなものでも入るバッグか、それはいいね。それが手に入ったら、遊びに行くときは、そのバッグの中に、ジェイジェイも一緒に入れて欲しいね」
「いいよ、ジェイジェイも、仲間に入れてあげるよ。でも、できるだけ、小さくなってね。ジェイジェイの頭だけが、バッグから飛び出していたら、変だから」
「ははははははは、それは、愉快だね。ハヤテの頭の後ろに、一回り以上大きなジェイジェイの顔があったら、さぞ、ハヤテの友だちは、びっくりするだろうね」
頭の中で、想像してみると、実に、楽しい。これは、私の願望なのか?ハヤテの読んでいるマンガの世界なら実現可能だ。それなら、私もハヤテと一緒に、マンガの世界にワープだ。
「それより、ジェイジェイ、今は、気分がいい?」
「そうだな、いいというほどではないけれど、悪くはない。悪くはないということは、いいということだろう」
実際、今の健康状態がどうなのかは、自分でもよくわからない。頭や、手、足、目、鼻、口など、私の一部は、正常に動いている。呼吸もできる。心臓も脈を打っている。おっと、お腹が鳴ったぞ。まだまだ、背中とお腹のランデブーには程遠いが、胃や腸などの食道器官は、動くのを待ちかねている。今すぐ、何かプレゼントを、喉越しに贈ってあげないと。
「ただ、お腹が少し、いや、かなり減ったみたいだ」
ベッドの周りを見回しても、さっきのボール以外に、口に咥える物はない。例え、ボールを咥えても、じいちゃんのおしゃぶりでは情けない。
「じゃあ、僕のお菓子を分けてあげるよ」
ハヤテは、すぐさま、バッグの中に手を突っ込み、洗濯機の回転板のように、中をかき混ぜながら、お菓子袋を取り出した。
「はい、これあげるよ。昨日買ったばかりだから、賞味期限は大丈夫だと思うよ。その代わり、お菓子を食べた後、僕と遊んでよ、ジェイジェイ。僕、とても暇なんだ。マンガの本を読むのも、少し厭きてきたし・・・」
「いいよ」
私は、すぐに頷いた。いい答えにしろ、悪い答えにしろ、返事は早くしたほうがいい。相手が、子どもだと思って、おろそかにしてはいけない。
ハヤテからスナック菓子を受け取り、ビニールの袋を横に開ける。縦に開封するとお菓子を床にばらまいてしまう。そのスナック菓子は、昔から売られているえびせんべいだ。形は、体操の月面宙返りほどではないけれど、何故だか、少しひねられている。主に塩味だがで、よく噛み締めると、ほんのりとえびの香と甘みが感じられる。他の駄菓子に比べて、味も少しひねられているのが、好評の理由だろう。私が子どもの頃、新製品として発売され、もう既に、五十年以上経っている。それ以来、わさび味やカレー味など、多彩な種類が発売されているが、私は、子供の頃の体験が脳に刷り込まれているのか、スーパーマーケットのお菓子売り場に向かうと、私の手はいつもこの商品を選んでしまう。
特段、このお菓子と共に人生を歩んできたわけではないけれど、何故か親しみを感じ、このスナック菓子を食べるたびに、心から喜びが込み上げてくる。えびせんべいを一本口の中に放り込むと、私の目の前に、ひとつの情景が浮かび上がってくる。そう、父親とのキャッチボールの風景だ。バリバリ、もぐもぐと、口の中で音がしている間、私は、ボールを握り締め、父のグラブ目掛けて投げ込もうとしている。音が鳴り止む。景色が消えた。慌てて、えびせんべいをもう一本、口の中に放り込む。カリカリ、ごっくん。歯とえびせんべいの音の競演が始まると、先ほどの映像が、引き続いて流れ出す。ボールは、私の手から放たれると、父の顔に向かって真っすぐに飛んでいっている。このままでは、父の顔にぶつかってしまう。だが、心配はそこまで。父は、何事でもないように、片手のグラブだけでボールを軽くさばいた。
父は、普段、私に、ボールは両手で捕球しなさいと口やかましく言っているのに、自分の場合は別だ。だが、簡単にボールを捕球する父の姿を見ると、私は、子どもながらかっこいいと思い、いつか自分も真似してみたいと憧れたものだ。父が何か叫んでいる。今の私には、何を言っているのか聞きとりにくい。父の声がどんどん小さくなっていく。おっと、口の中の、えびせんべいが少なくなってきているぞ。慌てて、右手に掴みきれないほどのえびせんべいをほおばる。ガシャ、ギシャ、グシャ、ゲシャ、ゴシャ、ぺロリン。これでは、お菓子を食べているというより、工場でえびせんべいを破砕しているようだ。
「ナイスボール。今度は、父さんの番だ」
お菓子を粉砕中の音の隙間から、再び、父の声が聞こえてきた。父が、右足を一歩前に出し、両手を家の二階の屋根に届かんばかりに伸ばし、体全体を使った投球フォームに入る。左ひざを上げ、体を右半身に向け、左足を大きく前方に踏み出す。ひねられた体から、わずかに遅れて、しなった右腕が振り下ろされる。最後、右手首のスナップがきかされた。ボールは、私の胸目掛けて、真正面に飛んでくる。父のいる前で、父の真似をしてみよう。ふと、そんな考えが頭をよぎる。おっと、父の姿が、夕闇の中に溶け込むように、輪郭が薄れていく。父が何か叫んでいる。私の耳に聞こえない。もっと、お菓子を!急いで、えびせんべいの袋に手を突っ込む。あれ、ないぞ。ぐるぐるっ、ぐるぐるっと掻き回す。手には、かくし味の岩塩が付着するものの、残骸のひとかけらも残っていない。
ハヤテを見る。にこっにこっと笑った顔に、最後のえびせんべいが放り込まれた。ガリガリッ、ガリガリッ。私は、子供から、孫のいるじいちゃん、いや、ジェイジェイに戻った。
ハヤテの顔をもう一度見つめる。たかが、お菓子で、自分の人生を振り返ることができるなんて、安いものだし、ありがたいことだ。このお菓子が、私のタイムマシンになれるのか。そして、今、生きている、私の同胞たちの、思い出の宝箱になるのか。人生は、ほんの小さなきっかけで、そう、この指先ほどの、スナック菓子が、私の、私たちの、人生の充実度を確認してくれる。何だか、嬉しくなってきた。この先、まだ、何年間かは生きられる。
「どうしたの、ジェイジェイ。一人で、何を笑っているの?」
「いやいや、このお菓子が懐かしくてね」
「そう、僕もこのスナック菓子は、大好物なんだ。昨日も食べたけど、今も目にすると、ものすごく、懐かしいよ」
「あっはっははははは、そうか、それじゃあ、今日も二人で、昨日を懐かしがって食べたいけれど、もう、お菓子は残っていないぞ」
「大丈夫だよ。実は、こんなときのために、もう一袋、準備しているんだ。ジェイジェイが眠っている間に、パパと一緒にコンビニに行って、レジでお金を支払うときに、パパの目を盗んで、カゴの中に放り込んだんだ。ほら、ここにあるよ」
マンガのコミックやゲームカードで溢れ返るサブザックの中に手を突っ込むと、難なく、えびせんべいの袋を取り出した。ハヤテの手には、目がついているのか?
「はい、ジェイジェイ」
渡された袋を開き、ハヤテの手のひらにお菓子をのせ、自分の口の中にも放り込む。
「おいしいかい?」
「おいしいよ」
「ジェイジェイもおいしいよ。二人で食べると、一層、おいしさが増すみたいだなあ」
「それより、ジェイジェイ。このお菓子を食べ終わったら、さっきの約束を守ってよ」
「さっきの約束?」
ハヤテは、手のひらに盛ったお菓子を、口の中に一度に投げ込むと、もぐもぐさせながら話し出す。
「このほうほるで、きいやっちほうるをひようよ」
「はははははっ、ゆっくり食べてから話しなさい。転がっていたボールで、キャッチボールをするんだな。わかったよ、わかった。必ず、キャッチボールはするよ。それよりも、今は、えびせんべいをゆっくりと噛み締めて食べなさい。大丈夫、それまで、ジェイジェイは、どこにも行かずに、ここにいるから」
お菓子に夢中になっている、目の前のヘンゼルならぬ、エンゼルは、手のひらいっぱいのえびせんべいを食べつくすと、今度は、
「ジェイジェイ、お茶か、ジュースか、何か飲み物をちょうだいよ。お菓子を食べすぎて、喉が渇いたよ」
「ああ、いいよ。そこの冷蔵庫に、お茶のペットボトルが、はいっていないかい?」
「ちょっと開けてみるよ」
お菓子の次は、飲み物と相場が決まっている。ハヤテは、部屋の隅の病室に備え付けの小さな冷蔵庫のドアを開ける。
「ジェイジェイ、何も入っていないよ」
「そうか、何もはいっていないのか」
これから、ひとつずつ知識や、思い出を、まだ隙間の多い宝箱に詰め込んでいくハヤテ。そして、反対に、全うすべき寿命に向かって、ひとつずつろうそくを消していく私。後、何本のろうそくが残っているのだろうか。そのろうそくも風が強ければ、灯が消えてしまう。
「それじゃあ、自動販売機で買ってこないといけないな」
「僕、お金を持ってきていないんだ。ジェイジェイはある?」
「そうか、お金か・・・」
昨晩、自宅で倒れて、病院に運ばれてきたため、財布は持ってきていないはずだ。だが待てよ。庭で水遣りをする前に、近くのコンビにで、たばこを買いに行ったはずだ。もし、倒れたままの服で運ばれたのなら、その時のおつりが、ズボンのポケットに入っているはずだ。
「ハヤテ、そのロッカーに、ジェイジェイの服が入っていないかい?」
翼が、さっと動き、ロッカーの扉を開ける。早くも、お金の臭いを嗅ぎつけたのだ。
「あったよ。戸棚の中に、ジェイジェイの服が架かっているよ」
「そうか、それじゃあ、青色のズボンがあるだろう?そのズボンのポケットの中を探ってごらん」
「ちょっと待ってね」
ハヤテは、吊るされたズボンのポケットの中に手を突っ込み、五本の指を器用に動かしている。しばらくして、ブラックボックスから手を引き抜くと、手品師がハンカチから鳩を取り出すように、握り締めた手を開いて、私の顔の前にお金を差し出した。
「あったよ、ジェイジェイ」
「いくらある?」
「百円玉が三枚と、十円玉が二枚、合計三百二十円なり!それに、レシートが一枚」
「それじゃあ、レシートは預かるから、残りのお金で、病院内にある自動販売機で、ジュースでも買ってきなさい」
「わかったよ、ジェイジェイ」
ハヤテは、私にレシートを差し出すと、残されたお金を握り直し、兎というより、すばしこい子犬のように、病室を駆け出た。空地にも、病院にも、どこにでも犬は住んでいる。犬は、昔から人間の友達なのだ。
ハヤテのあまりの勢いに、椅子が倒れ、下に隠れていたボールがベッドの方に転がってきた。私は、ボールを拾い上げ、お手玉感覚で空中に放り上げる。右手から、左手に。左手から、右手に。今から、六十年程前に、空き地で草野球をしたのと同じ感触だ。まさか、その時のボールではないだろう。窓から差し込んだ日差しが、ボールを照らす。石やアスファルトに当たったときの傷。握り締めた時の爪あと。全ての体験が、このボールに刻み込まれている。
「ジェイジェイ、買ってきたよ」
ハヤテが、はあはあと息を切らせて戻ってきた。両肩を上げ、素早い連続呼吸。開いた口からは、子犬の舌がみえる。酸欠状態になる前に、呼吸器官をフル回転させている。手には、左右一本ずつ、合わせて二本のお茶のペットボトル。
「ジェイジェイの分も買ってきたからね」
「そうか、どうもありがとう。ジェイジェイは、お茶でよかったけれど、ハヤテは、好物のオレンジジュースにしなくてもよかったのかい?」
「うん、僕も、お茶がいいんだ。最近、少し、太りぎみだから、パパから、糖分の多いジュースは、控えるようにって言われているんだ。それに、お茶のほうが、あっさりしていて、口の中がすっきりするよ。その方が、また、お菓子が食べたくなるんだ」
「それじゃあ、ジュースを飲むのと一緒で、カロリー多寡になってしまうぞ」
「そうだね、一緒だね」
ハヤテは、何の屈託もなく笑った。私は、ハヤテからお茶を受け取ると、蓋を開け、ごくりと一口飲み干す。口の中の舌、喉、胃と上から順番に活動開始だ。私は、本当に生きている。
ハヤテは、私のベッドに座ったまま、相変わらず、口を動かし、先ほどと同じ行動をとっている。口だけが生きているかのように見える。そう、人生の主役は、口なのだ。人は食物を摂取しているときのみ、平和のひとときを過ごせる。歴史を振り返れば、食糧を巡っての個人、集団、民族、国家間の争いは絶えない。食べるために争うのか、それとも、満腹後、充実した時間を過ごすために争うのか。だが、まもなく主役の交代の時がきた。私の手や肩がうずうずしている。
「ジェイジェイ、その手に持っているボールを貸してよ」
「ああ、いいとも」
私は、軽くスナップをきかし、さっきまでの主役のボールとバトンタッチした。
「ありがとう」
夢広がる未来の野球選手は、ボールをじろじろと見つめると、
「これ新品じゃないよね、ジェイジェイ。誰の物なのだろう?」
「さあ、ジェイジェイも、よくわからないな」
そう答えながら、何の根拠もないが、昔、使っていたボールに間違いないと確信している自分がいる。空き地を駆け抜ける子どもの頃の自分の姿や、友だちのボールを投げる姿、バットを思い切り振る姿、さよならの声とともに自転車が散りゆく姿が、やや汚れたボールの白いスクリーンの上に映し出される。
「誰のものかわからないけれど、少しの間、使わせてもらおうよ。ジェイジェイ、それ、キャッチボールだ」
ハヤテは、病室のドアまで後ろに下がると、ベッドに向かってボールを投げてきた。ボールは、私の寝ているふとんの上に落ち、半球程度沈み込んだ。
「よいこらっしょ」と掛け声を出さなければ、起き上がれない。頭と体は、それぞれ別の生き物なのだ。土下座してでも、手や足、腹筋、背筋の力を借りなければ座ることすらできない。いや、土下座さえ、意のままにならない。ああ、やっかいな生き物、それは人間。私は、ふとんの端を掴み、自分自身ではずみをつけて起き上がると、ベッドの上に座り込んでボールを右手で握り締める。
「ほら」
腕は使わずに手首だけで、ハヤテに向かって軽く投げた。手加減をしたわけではないけれど、あまりに力が弱すぎてハヤテにダイレクトに届かず、ボールは病室の床面を三回バウンドして、ゴロとなって転がった。
「ジェイジェイ、届かないよ」
この部屋のエースピッチャーは、床の上でじっとして動かないボールを拾うと、もう一度、私に向かって投げてきた。
「悪い、悪い。ずっと寝すぎたためか、体が少しなまってしまったみたいだな。次こそは、ジェイジェイの本当の力を見せてやるぞ」
もう心配はいらない。口だけは、軽やかに動く。
「それ」
ボールよりも、声が先にハヤテに届き、その後、壁にぶつかり跳ね返り、私の耳元に戻ってきた。やまびこではなく、部屋びこだ。音は、ボールよりも早い。ただし、早く届くからといって、コミュニケーションが図れたわけではない。互いの会話をキャッチボールする中で、人は人と意思の疎通が可能だ。一方的な叫びは、代償の必要ない会話であり、最初から相手を拒絶している。
「OK、今度は、届いたよ」
監督から、お褒めの言葉をいただく。
「今度は、僕の番だ」
狭い病室のため、大きく振りかぶっては投げられない。それでも、小学一年生級のスピードボールが来る。伸びゆくものと、衰えていくもの。その差は、加速度的に開くばかりだ。
「ストライク!」
ハヤテのボールを両手でしっかりと掴む。もし、ボールを弾くのであれば、胸で抱きかかえればいい。胸で抱きかかえられなければ、体全体で受け止めればいい。このボールは、私とハヤテとの意思のキャッチボールなのだ。そして、ハヤテから次の世代へと引き継がれていく。
「さあ、もう、一球」
ボールを投げ返し、次なる意思を待つ。しっかりと両手でボールを受け止めるハヤテ。そして、第二球目。ボールは、更に勢いを増した。私はスピードについていけず、手を出すタイミングが少し遅れる。ボールは、私の両手をはじき、後ろの窓ガラス当たった。
「あっ、大丈夫、ジェイジェイ?」
心配したのか、ハヤテがベッドの側まで駆け寄ってきて、私の手を握る。
「へえ、ジェイジェイの手は、こんなにやわらかかったんだ」
不思議そうに、私の手を撫でる。
「ハヤテが赤ちゃんのとき、この両手で抱きかかえ、高い高いと持ち上げたり、水族館へ行ったときは肩車をしたりして、よく活躍したものだ」
「へえ、僕を抱きかかえるなんて、ジェイジェイ、力が強いんだ。パパとジェイジェイとどちらが強いの?」
「もちろん、ジェイジェイだよ。ハヤテのパパが赤ちゃんの頃、ジェイジェイはそのパパを抱きかかえたんだから」
「そうなの?それなら、ジェイジェイが、赤ちゃんのときは、誰が抱っこしたの?」
「それは、もちろん、ジェイジェイのお父さんだよ」
「それじゃあ、ジェイジェイよりも、ジェイジェイのお父さんの方が、力が強いことになるね」
「あっ、はっ、はっ、はっ、は。そうだね、ハヤテの言うとおりだ。」
まだ、首をかしげているハヤテ。
「そうなると、ジェイジェイよりも、ジェイジェイのお父さんの方が力持ちで、ジェイジェイのお父さんよりも、ジェイジェイのお父さんの、お父さんの方が、力が勝っていることになるの?」
「そうだね」
子どもが、頭をひねる姿は、なんとも微笑ましい。自らの頭で未知の世界に挑戦し、格闘しているのだ。世界は、君のために開かれる。
「ジェイジェイのお父さんの、お父さんの、お父さんの・・・。なんだか、訳がわからなくなってきたよ。とにかく、僕の祖先は、とてつもなく大きくて、力が強くて、ひょっとしたら、生まれたての地球を抱きかかえていたということ?」
「そうかもしれないね、ははは。ハヤテは、ユニークな考え方をするね。それは、大変素晴らしいことだよ」
「となると、反対に、僕より、僕の子どもは、力が弱くて、僕の子どもより、僕の子どもの僕の子どもはもっと力が弱くて・・・。どんどんどんどん、力がなくなってしまうのかなあ。そのうちに、どこかに消えていってしまうんじゃないの。それは、悲しくて、寂しいね」
「そうだね、使わない筋肉は、どんどんとやせ細っていくんだよ。ジェイジェイだって、昔は、腕立て伏せなら、五十回は連続してできたのに、今では、十回でさえ、ふうふうものだ」
「それって、進化なの、退化なの?発展なの、衰退なの?」
「難しいことを聞くね。さあ、それはわからないな。ただ、どちらにせよ、ハヤテの意志のある方向に進むことはできるよ」
「それなら、ジェイジェイはどちらに進んでいるの?」
「今は、ハヤテとのキャッチボールに、夢中さ」
その時、病室のドアが開き、息子の翼が戻ってきた。
「あれ、父さん、もう起き上がっても大丈夫かい?もうしばらくは、横になっていたほうがいいんじゃないのかい?ハヤテ、ジェイジェイは、まだ、完全に病気が治っていないのだから、無理を言っちゃいけないよ」
「だって、僕も、病気になるくらい暇だよ。それに、ジェイジェイだって、寝すぎて腰が痛いと言っていたよ。このままだと、二人とも、ベッドの中に入院しちゃうから、ジェイジェイのため、僕のために、運動しているんだ」
「運動だって!病室は、遊ぶところでも、走り回るところでもないよ。静かに、体を休めるところだ。体を動かすのも、お医者さんの指示があってから、リハビリをするんだよ。もちろん、リハビリだって、ちゃんとした治療の一環なんだ」
「ふーん、じゃあ、今から、僕がジェイジェイ専属の医者になるよ。ジェイジェイの心と体を治してあげるんだ」
ハヤテは、腰に手を当て、胸を張って答える。あんな小さかったはずのハヤテが、今は、私には大きく見える。
「あはははは、もういいよ、翼。ハヤテは、ハヤテなりに、ジェイジェイのことを心配してくれているんだ。ハヤテが、さっき言ったように、ジェイジェイは寝すぎて、背中や腰が痛くなっていたんだよ。でも、なかなか起き上がれなくて、やっと、ハヤテの声に励まされて、こうしてベッドの上に座ることができたよ。本当に、ハヤテは、名医だよ」
「それなら、じゃあ、さっきの続きだよ、ジェイジェイ」
ハヤテは私に向かって、再び、ボールを投げてきた。
「まあ、父さんが、そう言うのなら、構わないけどね。みかんと柿とバナナを買ってきたから、ベッドの横のテーブルの上に置いておくよ」
「パパ、なんだかそれ、信号機みたい」
「信号機だって?」
「ほら、柿は、赤だし、バナナは黄色、みかんは、まだ、青い」
「あっはっはっは、なるほど、信号機だな。ハヤテは、なかなか面白いことを言うな。それじゃあ、今、青いみかんが光っているから、キャッチボールはOKだ」
「でも、青いみかんの中は、黄色い果実だから、要注意だよ」
ハヤテは、買ってきたばかりの袋からみかんを一個取り出すと、皮を剥き、ひと房を自分の口に放り込むと、残りを私に差し出した。
「う、うまい、座布団三枚ものだ」
ハヤテの切り返しに思わず頷く私。みかんのジューシーな味が口の中、体中に広がる。彼が、また、一回り成長した。
「何を誉めているんですか、父さん。そんなにおだてると、すぐに舞い上がってしまう性格なんですよ、ハヤテは!」
「そう言う、翼、お前も、同じだったはずだぞ。百点取った後の試験は、必ずといっていいほど、六十点台だったはずだ。もう一度見直しをすれば、ちゃんと問題が解けるはずなのに、簡単な計算間違いで、何度も失敗したはずじゃなかったかなあ」
「そんなのことは、とうの昔に時効ですよ」
「へえー、父さんも、僕と同じ性格だったんだ。そうなるとさっきの遺伝の話じゃないけれど、ジェイジェイだって、僕やパパと同じ性格なんじゃないの?」
「ストライク!今の指摘は、まさに、ジェイジェイの心のど真ん中に当たったよ、それ」
私は、布団の上に落ちたボールはそのままにして、袋からもう一個の青いみかんを選ぶと、翼に向かって投げた。不意を突かれたものの、昔とった杵柄ならぬ、グラブさばきで、みかんを左手で軽く掴む息子。
「おっ、うまいじゃないか。昔、よく、家の前の道路で、キャッチボールをしたなあ」
「そうだね、父さん。父さんは、何かにつけて、俺をキャッチボールに誘ったね」
翼は、左手から右手にみかんを持ち替え、自分の息子のハヤテに軽くトスする。三角キャッチボールの始まりだ。
「そうだよ、パパだって、僕をよく、キャッチボールに誘うよ」
父から投げられてきたみかんを両手で捕るハヤテ。みかんがつぶれないように、取った瞬間、両手を軽く後ろに引く。細かい動作だ。これも、翼が教えたのか。それとも、自分で習得したのか。私も、翼が小さい頃、ボールを柔らかく捕球するコツを体で覚えさせるため、家の中で、生卵のキャッチボールをしたものだ。その後の夕食は、決まって、目玉がつぶれた目玉焼きか、スクランブルエッグか、卵料理のおかずが一品よけいに付いたものだ。時には、翌朝の卵焼きに変わることもある。
私から翼へ。翼からハヤテへ、ハヤテから私へ。父から子へ、子からその子へ、そして、再び、孫から私へ、キャッチボールの輪が広がる。永遠に続くかも知れない、また、続いて欲しいと願わざるを得ない、三世代のキャッチボール。意思は、どこへ。
キャッチボール(7)