AlfaRomeo Giulietta Sprint Veroce

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いえ、不安だとかじゃぁ無いんです。お義父さんの体のことだから、私は一所懸命しなくちゃいけないに決まってます。
この家に嫁いできてから、どれだけお義父さんには良くして頂いたか・・・

区役所に向かいながら、祥子は運転中ずっと初めての出来事に戸惑いを隠せないでいた。

「お待たせしました。高齢福祉課の輿水です。いかがなさいましたか。」

「はい。幸町の水村と申します。実は父のことで・・・母はまだ達者なんですが父がこのごろ具合が悪くて。聞くところによると介護保険のサービスを受けるには、まずこちらに相談したほうがいいってことでしたので。」

「分かりました。それでは手続きの進め方についてお教えしましょう。」

輿水は祥子に介護保険の認定を受けるための手続きを詳しく丁寧に伝え始めた。

その後説明を受けたとおりに申請を行い、暫くすると訪問調査員による聞き取りが行われ、義父の様子は介護認定審査会に提出された。
その結果、義父の耕太郎は第一号被保険者、要介護2と判定された。
思っていた通り生活上の動作に不具合があることが認められたが、それ以上に認知機能について軽度の機能低下が確認されたことが家族にとっては心を痛めることになった。

自宅のほど近くに居宅介護支援事業があることを聞かされ、ケアマネージャーは祥子と同年代の女性、近藤に依頼することになった。

「水村様。お義父さまのケアプランですが初回のご利用ですので暫定で作成してあります。ご確認下さい。水村様の生活環境であれば在宅サービスをお使いになりながら、まだまだご自宅での生活が続けられると思います。
持病が少し心配ですが、主治医とは長きに亘ってお付き合いされているようですから、まずは医療の支援体制についても再度ドクターと確認をしておきましょう。」

「ありがとうございます。よろしくお願いいたします。あなた、こちらがケアマネージャーの近藤さんよ。」

「親父のことで色々と面倒を掛けます。よろしくお願いします。」

水村家は地元でも名の通った旧家だった。とは言え飛び抜けて裕福というわけではなく、先々代が教育に熱心で子供のために私塾を無償提供し、叙勲の誉れに預かったという名家だった。

「親父の部屋の整理が必要だな。この頃変な収集癖も始まっちまったし。なんか坪庭もゴミだらけだ。」

「和やかだけどプライドの高いお義父さんだから、矢鱈にいじってしまうのは不味くはないの?それがきっかけで家族との関係性が失われるってこともあるみたい。ケアマネの近藤さんからは、そんなことも助言されているわ。」

「そうか。これまでの親父と同じに接しちゃいけないことも有るって、頭に置いてなきゃいけないのか・・・」

「あなたのお父さんだから、あなたが一番お父さんの味方になってあげて。」

「実は・・相談したいことがあるんだ。お前も知ってるだろう、千葉の田舎にあるあれ。」

「あぁ、そうね。お義父さんの宝物。」

「うん。あれはまだ親父も記憶の中にあるんだろうか。」

別荘といえば聞こえが良いが、25年ほど前南房総に耕太郎は"しもた屋"の如き質素な家屋を作ったのだった。
南房総は暖流のせいで早春から様々な花が咲き、2月にはポピーやストック、キンギョソウなど花摘みの観光客で賑わうほどだ。
祥子を嫁に向かい入れ、自分にも孫ができた時、耕太郎は温かい南房総に泊りがけで呼び寄せられるよう、この簡素な別荘を立てたというわけだ。
春の花が終わっても、夏は海水浴、秋にはマザー牧場や養老渓谷の紅葉と、祥子は一家で遊びに行ったものだった。

「あの旧い車ね。もう随分乗っていないでしょう、動くの?」

「・・わからん。けれど処分するには忍びないな・・」

耕一は父親がこれを手に入れた時の、誇らしげな顔を思い出していた。

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「これはなアルファロメオ・ジュリエッタ・スプリントと云うんだ。」

「ふ~ん。」

「お前が生まれた頃の車だが、欲しくて欲しくて仕方なかった。今や探してもおいそれとは見つかるものでもなかったんだが、ようやく縁あって私のところに来た。」
「しかし近所の買い物にまで乗るわけには行かないから、普段遣いにもう一台別な車を用意しないといけなくなったけどな。」

親父は誰がなんにも訊かずとも、ジュリエッタ・スプリントの話を始めると、それは延々と留まる所が無かった。
購入したのは1973年、俺は中学生だったからまだ運転免許も持てない歳だった。車よりオートバイの免許を取りたくて仕方なかったが、両親とも2輪免許を取得するのはいい顔をしなかった。

「バイク?つまらん。足か腕を折って後悔するだけだぞ。もう少しで車の免許が取れる年令になるのだから、それまで待て。」

俺は友達の乗るホンダCB750が羨ましくて堪らなかった。
しかし親父はついぞこのジュリエッタで長距離のドライブには連れて行ってくれなかった。
それはこれが50年代後半の製造年という事による信頼性の問題なのか、それとも別に何か理由があったのか。
今となってはその理由を確かめることも難しいわけだが。

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「次のお休み、千葉に一度行ってみようかしらね。」

「ああ、子供たちも連れて行ってみるか。あの辺りなら旨い魚も食えるしな。」

千葉へ出かける時は久里浜から金谷港までフェリーで行き、その後海岸線を走るというパターンがお約束だった。
僅か40分ほどの船旅なのだが、運転から開放され東京湾をゆらゆらと船で渡るのは、小旅行の雰囲気があって耕一のみならず家族中のお気に入りだった。
とは言え今はもう成人した息子と大学2年の娘はそれぞれ自分の都合があるようで、今回は夫婦二人での小旅行になった。

「お義父さん、デイサービスは気に入ってくれるかしらね。『俺をこんな年寄りと一緒にするな』なんて言われたら・・・」

「しかし無理強いするわけにもいかんだろう。」

「あなたは良いわよ、昼間は仕事で家にいないんだから。私は家の用事しながらお義父さんのことも気を張っていなきゃいけないのよ。安心して買い物にも行けないわ。」

「お袋だって親父の面倒見られるだろ?お前ばかりが世話すること無いじゃないか。」

「お義母さんの言うこと素直には聞かないの、知ってるでしょ。前は喧嘩になんかならなかったけど、今はそうじゃないの。お義母さんがちょっと強く言ったりすると怒鳴りつけるのよ、あの温和だったお義父さんが!」

「おい大丈夫か、今日は二人きりで留守番だぞ。」

「ヘルパーさん、お願いしてあります。お昼前には来てくれるわ。そして夕方にももう一度。」

バブルの頃は日帰りのゴルフ族で賑わったこのフェリーだったが、高速道路が開通してからはめっきりとその姿は減っていた。かく言う耕一もそのゴルフ族の一員だった時期も在ったのだが。
間も無く船は金谷港に到着し、耕一の運転するワゴンは穏やかな春の陽を浴びて海岸沿いの道を進んでいった。
途中の道の駅で休憩し、息子と娘と留守番してくれている両親へ土産物を選び、千倉の町では出かけた時には必ず立ち寄る生簀のある料理屋で贅沢な昼ごはんを取った。

「さてもう少し、別荘は崩れていなけりゃいいけどな。」

「まさかそんなことは無いでしょうけど、ここ3年ほど放りっぱなしだから心配。」

「子供たちも連れてくれば良かったな。随分久しぶりだものな。」

「無理よ。もし一緒に来れるとしたら今度は私たちは後ろの座席。子供に連れられて『おじいちゃん』とか呼ばれるようになってるんじゃない?」

「そうかもしれないな。それもまた楽しみだ。」

目指す"しもた屋"が見えてくる。海の近くだからと、親父は左官職人にブロックを積ませ頑丈に作らせたことが自慢の家だった。
玄関の鍵を持ち車から降りる。なるほど自慢するだけあって躯体は丈夫にできているのか、玄関の開口は立て付けが狂うこともなく建具はするすると開いた。

土間伝いに奥へ回り、車庫へ向かう。そこにはボディカバーが掛けられたジュリエッタがあった。その表面にうっすらと砂埃が乗っており、主である耕太郎の手が暫く掛けられていないことを物語っていた。

「こんな海の近くで60年近く前の車を保存しておくのは、決していい環境じゃないな。旧い車は時々走らせてやらないと急速に劣化するって聞いたことがある。電気が流れる所には電気を通し、水が通るところには水を回さなきゃいけない。エンジンを回さなきゃオイルも下がるだろうに。下手するとポイントの接点には緑青が吹き、ピストンはスリーブに張り付いているかも知れないな。」

何故か耕一は物言わぬジュリエッタに父親の姿を重ねていた。記憶の中ではうっすらと白い排気ガスを破裂音とともに吐き出すエクゾーストパイプ、やや唐突にクラッチを繋ぐと弾けるようにダッシュして行くジュリエッタの姿があった。

「エンジン掛けるのは無理だろう。処分するにしろ何にしろキャリアカーで運び出すしか手はないな。そうだ車検はどうなっているんだろう。」

締め切られたガレージの中でゆっくりとボディカバーを剥いでいく。極力ホコリが舞うのを防ぐようにゆっくりと。

「おや?車検取ってるじゃないか。今年の4月まで、と言うことは一昨年の春にはこの車動かしたってことか。親父一人でここまで来たとは到底思えないが・・・それより思ったほどくたびれているようには見えないな。少なくともきちんと手入れがされているように見える。」

「あなた、玄関の郵便受けに3通手紙があったわ。」
「差出人は全て同じ人。聞いたこと無い名前だけど、あなた知ってる人?」

「え~と、今井澄夫さんか。いや、聞いたこと無いな。知らないぞ。」

二人は怪訝そうな顔をしつつ封を切ってみた。
そこには手紙の主は耕太郎から依頼を受けて定期的にジュリエッタの面倒を見ている自動車屋さんであること、時々試走させるもジュリエッタは完調であること、そしてそろそろ車検の時期が迫ってきたことなどが記され、それぞれの封筒に収められていた。
耕太郎はこの今井という自動車整備士にジュリエッタの整備を託していた。しかも時折り走らせることまでも頼み、当然車検も取って貰っていた。車が予想以上に綺麗なわけもこのおかげだった。
封筒には「今井自動車販売」と云うゴム印が押してあり、そこには電話番号もあった。耕一は今井という整備士に電話をかけずにはいられなかった。

耕一夫妻は取り敢えず今井澄夫と名乗る人物と会うべく連絡を取った。
電話で聞いた彼の店の住所をナビに入力して、耕一夫妻の乗ったワゴンは今井氏の店に向かった。

「知らなかったわ、お義父さんが・・・」

「俺もだよ。もう運転しなくなって10年以上だ。あの車は放りっぱなしかと、少しは気になっていたけど。まさか・・・」

15分も走ると、祥子が『今井自動車修理販売』という電柱広告が出てきたことに気がついた。
すぐに店は見つかり、小奇麗にきちんとコンクリートが打たれた駐車場に車を滑り込ませた。
今井氏は想像していたより遥かに若い店主だったことに、耕一は少し意外な気持ちがした。
耕一は挨拶の代わりに、思わずこう言葉を発してしまった。

「お若いんですね」

「はじめまして。今井澄夫と申します。水村さんにはお世話になっています。」

「私が水村耕一、これが妻の祥子です。突然おじゃましてご迷惑ではなかったかと。」

「いいえ。いつかはご子息様にご挨拶をしなくてはと思っていました。汚いところですがどうぞ。」

今井は自宅を兼ねた店に二人を招き入れ、簡素な応接セットを置いた、のどかな早春の日だまりが心地良い部屋に通した。
どこから話しましょうか、と今井は少し間を開けて、頭に手をやり、そしておもむろに切り出した。

「私は父から水村さんを紹介されたんです。水村さんは私の父を通じてあのジュリエッタを購入しました。」
「そのころ父は東京の芝公園で輸入車を扱う中古車店、といっても立派なショールームを持つ、その頃の国産車ディーラーより遥かに立派な社屋でしたが、ともかくそこに務めていました。景気が良かったこともあり輸入外車はかなり利幅の大きな商売だったそうで、父は商才があったのか成績も良く、主任販売員とやらになったそうです。」
「その頃ですね、水村さんがジュリエッタを探しておいでになったのは。」

(俺が小学校から中学に挙がるくらいの時、親父は45か46歳だったはずだ。今の俺より10ほど若い。)
耕一は自分の知らない父親の若き時代を知る人間に会えたことに少し興奮を覚えた。
その後今井の担当でジュリエッタを手に入れるわけだが、今井の務めていた立派な輸入販売店はバブルの終焉とともに長い歴史に幕を下ろすこととなり、今井は生家である千葉へ引っ越した。
ほどなく今井の父は若くして病に侵され床に伏す事となり、今から10年ほど前に亡くなった。
息子である澄夫は父親が始めた自動車修理と中古車販売の店を継ぎ、同時に何故か南房総に別荘を建てた耕太郎のジュリエッタも同時に父から引き継ぐことになったと云うわけである。

「だからお義父さん千葉に別荘なんて言い出したんだわ。丁度その頃よ。」

「あぁ、バブルが弾けて仕事で忙殺されていた親父が急に時間を持て余していた頃だ。」

「水村さん、お元気ですか。もう3年もお会いしていないんです。整備については手紙や電話で事細かにご連絡を頂戴していたのですが、この頃はそれもなくなってしまい心配していたんです。」
「お歳もお歳ですから、運転はとうに諦めていると聞いていました。しかしあのアルファロメオだけは手許に置いておくんだと、それはもう大変な熱の入れようで・・・そんな水村さんから連絡が来なくなったことを心配していたんです。」

「お支払いが滞っているのではありませんか?もしそうならおっしゃって下さい。実は父はこのところ急に体の具合が悪くなってしまって。」

「そうなんです。お義父さんは今は介護保険を利用して近所のデイサービスへ行ったり、今日のような時にはヘルパーさんの手を借りて近所へ散歩に出かけたりしているんです。」

「そうだったんですか・・・いえ、お支払いはきちんと頂戴しています。一昨年の車検の時は電話で確認されてお振込みをいただきました。その他にも動かさないとダメになるから時々走らせてくれと。私はあんな歴史的な車を走らせることができて、それだけで満足なんですが、その分はまた別に取ってくれと、それも頂いております。」

今井は耕太郎からガレージの鍵とジュリエッタの合鍵を預かり、定期的にメンテナンスを行い、天気の良い時を狙ってやや長い距離を走らせるということまで請け負ってくれていた。
興味が尽きない話ばかりで、あとすこしこの場に居たかったのだが耕一は帰りのフェリーの時間が気になり始めていた。
二人は今井に礼を述べ、近々ジュリエッタの今後についても相談をお願いしたいと言って、暖かな春の宵闇が迫る中、店を後にした。

「・・・私達の知らない、お義父さんの歴史なのかもしれないわね。」

「そうだな。働くだけ働いてきて、これといった贅沢もしたわけじゃないけど、中学生の俺を前にしてあの車を買った時の興奮した親父は、あれは別人だった。」

「お義母さんはこのこと、どれくらいご存知なのかしら。」

「さあな。仕事やめるまで結局一度も給料はお袋に見せなかったからな。」

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自宅に近づくに連れ、留守中の耕太郎のことが心配になってきた二人だったが、幸いにも老夫婦二人での留守番はヘルパーさんの手助けもあり、難なく過ごせたようだった。
お土産を渡すときに千葉の件が話題になるかと少し心配ではあったが、土産は夕餉の酒肴として食卓を賑わせて、大きな話題になることもなく終わった。

耕一はジュリエッタの車検が間近に迫っていることが気になったが、その話は父親から出てくるまで触れないようにと決めていた。
しかし桜花も盛りを迎える頃、今井氏から封書が耕一宛てに届いた。

「あなた、あの車の件かしら。今井さんから手紙が来ているわ。」

「うん。そろそろ車検が切れる頃だ。きっと親父からは連絡が行っていないんだろう。さすがに心配になったのかもしれないなぁ。」

手紙を開けてみると想像通りジュリエッタの車検取得についての打診で、耕太郎の体の変化を聞いた今井は、今度は耕一に連絡をしてきたわけである。
読み進むうちに、耕一はある一文で息を呑んだ。そこにはこう記してあった。

『・・・ですので、大変差し出がましくそして厚かましいことだと、重々承知の上でのお願いです。あのジュリエッタをお譲りくださることはできませんでしょうか・・・』

「どうかしたの?何かあったの?」と祥子が尋ねる。

「あ、あぁ今井さんがね、あの車を是非譲ってくれないかと云うんだ・・・」

「それは・・・お義父さんに確認しないと。」

「いや、もう忘れているのなら寝た子を起こすようなものだ。どちらにせよ親父はもう車の運転をさせる訳にはいかない。却ってそれは親父を苦しませることになる。」

「そうね、それならあなたは処分するという事で良いの?」

「・・・・・・」

すぐに結論を出すにはもう少し時間が欲しかった。
今井からの手紙を握る耕一の手が少し震えているのを祥子は見てしまった。

再び耕一と祥子は今井の店を訪ね、届いた手紙のことについて詳しく話を聞くことにした。
今井は先ず耕太郎のジュリエッタの状況について説明するところから話を切り出した。

「率直に言って維持するのは楽ではありません。ボディもそろそろ手をいれる必要がありますし、エンジン、足回りなどひと通りの交換をすることが望ましい状態です。ビンテージカーと言うかどうかは意見の別れるところですが、私はそうは思っていません。」
「しかしだからと言ってどこの店でもメンテナンスができる訳ではありません。この車は750シリーズと呼ばれる、戦前のアルファの考え方を随所に残した貴重な車なんです。60年ころからは101シリーズとなって、ベルリーナも登場しました。こちらは冷却系の取り回し、テールフィン形状などの変更を含め、750シリーズとは別な車だと私は思っています。けれど知らない人が見れば同じ車に思えるでしょう。」

「私は父と水村さんのお付き合いを傍で見ているうちに、自分自身がこのジュリエッタに引きこまれていることに気が付きました。」
「父が体を壊して仕事に出られなくなった頃から、私は水村さんと直接お付き合いをさせてもらえるようになりました。そして先日申し上げたようにお歳を召してからは、云わば『動態保存』を命じられたようなお付き合いに変わりました。」

今井が朴訥な人柄であることは一目見ればすぐに分かった。そして恐らく仕事に対しては実直でごまかすことを知らない真っ直ぐな働き方をするタイプだろう。
この前も通されたこの応接セットは決して安物じゃぁない。けれどもう随分旧い物だ。それを丁寧に手を掛けながら維持している。
きっとあのジュリエッタもこういう男の手で過保護ではない維持のされ方が望ましいに違いない。
耕一は今井の話を聞きながら、自分の棲む所とは遥か隔たった場所に居する男だと感じていた。

「そうね、あなたも私もあの車の価値なんて気にしたこともなかったわ。昭和30年代に作られた、イタリア製の小型車っていうくらいの理解しかしていなかったものね。」

「・・・ま、そうだな。俺はもっと俗物だったな。」

俗物などという言葉を自ら発するなどとは、耕一は少々我ながら驚いていた。

「私はね、今井さん。この車とほぼ同じ年に生まれたんですよ。いわゆる岩戸景気の申し子。私達の一回り上の先輩は実に様々な体験をしてきている。60年安保、三池炭鉱闘争、70年安保、学生運動、砂川闘争、横須賀への原潜寄港反対運動などなど。勿論もっと文化的なこともあったよ。新宿西口フォークゲリラ、アイビーブーム、ビートルズ来日、東京オリンピックなどもね。けれどそのどれもが私達が自我を意識する前に終わってしまった。そう、私達は『遅れてやってきた世代』とも言われることもあったんですよ。」

「自分の周りには私が覚えている限り、極貧な家庭は無かった。勿論裕福でない家もたくさんありましたよ、だけども明日の米も買えないような家は無かったんです。夜逃げとか身売りとかは別な世界の出来事だと当たり前に思っていたね。」
「世間に目が向き、自我とやらを意識し始めた時には、既に日本は経済大国を目指してがむしゃらに突き進んでいた時代だった。カラーテレビや車を持つことが庶民の夢だという時代ですね。だから傍目で見ればとても幸せな世代に見えるんだと思う。先人の築き上げたステージに次から次へと乗り換えていく、苦労知らずの坊ちゃんだとね。」

「あなたはあなたで努力してきたし、苦労だってしてきてるわよ。私は知っています。そんな自虐的な表現はあなたらしくないわ。」

思わず祥子が口を開いた。

「自虐的か。そうかも知れん。でもな俺達が日本の何を動かしてきた?何を創り挙げて来たかい?先輩等の引いたレールの上を上手いこと乗り継げた奴が出世するという、俺には自分の限界があると、この年になって分かってきた。けれど親父は違った。そして今井さんのご尊父も俺とは違う。生きた時代が違うんじゃなくて生き方が違うんだってこと、ジュリエッタと今井さんとに出会ってから分かってきた。良い悪いじゃないんだ、自分が何者であるかを見つめながら未だ見ぬ新天地を切り拓いていけるかという心根の問題だ。」

何故か耕一は頑なだった。父親の車のことを解決しようと千葉までやってきたのに、話は随分と横道に逸れて行ってしまったことが自分自身意外な気持ちだった。しかし耕一は一気に喋った後、突然こう告げた。

「今井さん、きっと私にはジュリエッタを愛する気持ちは生まれてこないと思えます。この車の持つ背景や生まれて来なければいけなかった運命のようなものは私の興味の外にあるんです。けれどあなたは違う。あなたは有能な営業マンだった、そしてこの車の何たるかをわきまえていたご尊父の心根に流れる、私が持ち得なかった何かを受け継いでいるんでしょうね。」
「今日ははっきりと決めなければと気負ってきたのですが、気負っていることこそが我が身の俗物さを証明していることだったんです。ですから今井さん、私こそお願いをしなければいけないんです。父が愛したこの車を是非あなたの許でしっかりと愛してやって下さい。それが老年期を迎えた父に対して、私ができる親孝行だと信じています。是非親父の気持ちを受け継いで下さい。」

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「あなた。今井さんから。」

「お!久しぶりだな。ウオーターポンプの手配は付いたのかな?」

「あなたいつからそんなに車のことに詳しくなったの?変な人。」
「お義父さん今日はデイサービスの日ね。認知障碍は過渡期が過ぎると穏やかになる方も多いんですって。この頃はお義父さんも穏やかになってきて、友人もできたようよ。出かけるのが楽しみになっているってお義母さんから聞いているわ。」
「でね、お義父さん、この前のデイサービスでこんな絵を描いてきたの。」

「あ!・・・」

そこにはジュリエッタを真正面から捉えた鉛筆による精密なデッサンがあった。
もしかしたら自分は父親に対して凄く残酷なことをしてしまったのではないかと狼狽した。

「心配しないで。デイサービスでのお友達には『格好良いだろ?俺が若い頃、憧れた車なんだ』と言っていた様よ。自分が大事にしてきたことを忘れかけているみたい。」

「そうか。それなら少し安心した・・・酷い息子だよな、俺は。」
「あの車は今井さんのおかげで、これからも元気な姿のままで長く可愛がられるんだろう。でも親父はどうだ。近ごろは欲も何もなく好々爺然としたあの姿。歳を取るということは一体どういうことなんだ・・・」

「私は思ったの。お義父さんは幸せな余生を過ごせているって。だってお義父さんの大切にしていたあの車をあなたが一番良いと思う結論を出してくれて、少なくともあの車の未来を確かなものにしてくれたんだもの。きっと喜んでくれているはずよ、ジュリエッタは。」

「そうだな、そう信じることにしよう。今井さんから来月の連休には遊びに来てくれってさ。ひと通りメンテナンスが終わったから、俺ら二人を乗せてドライブに、って誘ってくれた。親父の愛したアルファロメオ・ジュリエッタとやらを少しは俺も判らなきゃいけないな。」
「そうだ、この絵を入れる額も用意しよう。今井さんへのプレゼントに。」

居間に目をやると随分と背中の小さくなった耕太郎の後ろ姿が見えた。
若い頃からのお気に入りだったカーディガンを着て。

AlfaRomeo Giulietta Sprint Veroce

AlfaRomeo Giulietta Sprint Veroce

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-18

Copyrighted
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