理由ある反抗

 市立東尾中学のグラウンドで行われている、野球部の紅白戦は終盤に差し掛かっていた。3?2と紅組の一転リードで迎えた最終回。後攻白組の攻撃は二死ながらランナー二・三塁。一打サヨナラの好機に、打球が三遊間を襲った。レフト前へ抜けようかというその打球はしかし、間一髪の所でショートを守る井岡誠のグローブに拾い上げられた。誠は、元は黄色だったが、使い込んで黒ずんだ愛用のグローブから、素早くボールを右手に持ち替え、ノーステップで一塁へ送球した。ショートバウンドになった送球が、ファーストを守る小川佑介のミットに掬い上げられるのと、ほぼ同時にバッターランナーが一塁塁上を駆け抜ける。全部員の視線が、主審を務める野球部顧問青木健二に注がれた。
「アウト!」
 アウトともセーフとも取れる際どいタイミングだったが、青木は力強く右拳を突き上げ、アウトの判定を下し、試合は紅組の勝利で終わった。
「3?2で紅組の勝利。礼!」
「ありがとうございました!」
 ホームベース前で整列した部員達は、互いに帽子を取って頭を下げた。
「じゃあ、道具の片付けとグラウンド整備をして、解散」 
 誠が、バックネットの裏側にある倉庫へ、グラウンド整備用のトンボを取りに向かうと、菊
池翔太が声を掛けてきた。
「最後の守備凄かったっスね、絶対抜けると思ったのに。やっぱこないだスカウトされちゃったから気合入ってんスか?」
 翔太は誠より一年後輩で、この日は白組のセンターを守っていたが、普段は誠と二遊間コンビを組むセカンドのレギュラーだ。体格は小柄だが、二年生部員の中では抜群のセンスを持っている。そしてスカウトというのは、県立東尾商業高校野球部の監督、西崎俊雄の事である。
 東尾商業、通称“東商(とうしょう)”の野球部は、春五回、夏四回の甲子園出場の実績を誇る名門校だ。西崎は二十五年前の夏に、東商の四番打者として甲子園に出場し、二本塁打を放つ活躍で、チームをベスト8に導いた男だった。そしてその時の二年後輩が青木である。その縁もあって、東尾中野球部で実力を認められた者は、東商野球部にスカウトされるのが通例となっており、東尾中野球部員にとって、西崎に認められることは大きなステイタスでもあった。誠達の二年先輩で、当時のキャプテンだった小松辰弥も、西崎の誘いを受けて東商入りし、東商においても時期キャプテンの座がほぼ内定している。その西崎が、先日東尾中の練習を見学に訪れた際に、三人の部員をスカウトした。エース投手で三番を打つ宮田英治、四番ファーストでキャプテンの佑介、そして一番ショート井岡誠。
 東尾中野球部員にとってこの上ない名誉な事だが、誠にはその話題には触れられたくない事情があった為、わざとそっけなく答えた。
「あの状況でそんな事考えらんないよ。必死で捕りに行っただけ。それに、今日は西崎監督来てないじゃん」
「でもいいプレーしたら、青木先生から報告して貰えるかも知んないじゃないスか」
 なおも食い下がる翔太の質問をさえぎるように、後ろから声を掛けたのは佑介だ。
「俺達はお前みたいに雑念だらけでプレーしたりしねえんだよ」
 佑介は誠とは幼馴染であり、少年野球チーム時代からのチームメイトでもある。
「お前こないだもバレバレの隠し球狙って、先生に怒られたばっかだろ。もうちょっと真面目にやれよな。他所との試合になったら、出たくても出れない奴らだっているんだから、レギュラーに選ばれてる以上、例え野球部同士の紅白戦でも、チャラチャラした態度見せんなよ」
 キャプテンのお叱りを受けた翔太は、ぺろりと舌を出したおどけた表情で「はーい,すんません」と言いながら、ズルズルとトンボを引きずってグラウンド整備に向かっていった。誠と佑介もトンボを担いでグランドへ向かう。
 二人でマウンド周辺の土にトンボを掛けていると、視線は自分がならしている土に向けたまま、佑介が訊ねてきた。
「やっぱりおじさん、許してくれそうにないの?」
 その質問に誠は「・・・うん」と力なく答えた。
「そっか…。まあ東商は偏差値あんま高くないし、ヤンキーとかも結構いるからな。親としては嫌かも知んないよな。せっかく成績良いのにもったいないもんな」
 佑介が言うように、東商は、高校野球の強豪としては、県内でも名高いが、学校そのものの評判は決してよくなかった。事実、誠たちの先輩達にも、西崎のスカウトを受けながら、「東商はガラが悪いから」という理由で、他校へ進学する者も少なくなかったという。
 誠の場合、本人はそれでも東商へ行きたいと思っているのだが、父の義秀がそれに断固として反対しているのだった。だが誠は、自分の進路選択において、自分の意思より親の意思が優先されているという状況を、まだ認めたくなかった。
「でも、まだ完全に諦めたわけじゃないよ。やっぱり自分の進路なんだから自分の意志で決めないと。東商で野球やるにしても、一般受験するにしてもさ」
 佑介よりも、自分自身に言い聞かせるような口調になっているのがわかった。佑介は、そんな誠の気持ちを、知ってか知らずか「そうだよな、せっかく小学校からずっと一緒にやって来たんだからさ、高校でも一緒にやろうぜ。な、誠。東商なら甲子園にだって行けるも知れないぜ」 と言って、誠の背中を、大きな手の平でぽんぽんと叩いた。
 誠も、「ああ」と努めて明るい声を出したが、作り笑いが引きつっているのが自分でもわかってしまうほど、不自然になってしまった。
 佑介は一瞬戸惑ったような表情を見せたが、誠の気持ちを察したのか、それ以上はこの話題に触れる事はせず、既に丁寧にならしてある土に、軽くトンボを掛けなおして、トンボを肩に担ぐと「よし、こんなもんでいいだろ。トンボ、倉庫にしまって帰ろうぜ」と言って、倉庫の方へ歩き出した。その佑介の声色も、不自然に明るかった。
 幼馴染の気遣いが、嬉しくもあり、辛くもあった。

後片付けを済ませた後、誠はいつものように、佑介と共に下校した。いつもなら野球談義をしながら帰るのがお決まりだったが、その日は先刻の会話が尾を引いていてしまい、どうしてもよそよそしい雰囲気になってしまっていた。お互いにその気まずさを紛らわすように、言葉を搾り出すのだが、会話が続かない。間が持たない。やがてお互いに黙り込んでしまい、佑介の家の手前の曲がり角で、別れの言葉を交わすまでは、共に下校しているというより、ただ一緒に歩いてるだけという状態だった。
「じゃあ、俺こっちだから。また明日な、誠」
「ああ、じゃあな」
 いつもは、ここで佑介との会話が途切れるのが、少し名残惜しかったが、今日は、気まずい空気から開放されて、少しホッとした気分だった。
 佑介と別れてから井岡家までは、徒歩で約五分程の距離だったが、自分が父を説得できるだろうかという思いが、誠の足取りを重くさせていたせいか、いつもの何倍も長く感じた。
 憂鬱な気持ちのまま帰宅した誠を、母の美奈子が出迎えた。
「おかえり、誠。あら、ユニフォーム泥だらけじゃない。塾まで、まだ少し時間あるし、すぐにお風呂入っちゃったら?」
「うん」
 そう言って、誠は風呂場に向かった。
 汚れたユニフォームをかごに放り込み、熱いシャワーを浴びる。疲れた身体に、湯の熱さが染み渡る。できれば湯舟にも浸かりたいが、七時には塾に行かなければならないため、あまりゆっくりはしていられない。
「はあぁ…」
 思わず、ため息が漏れた。部活の後で疲れていたこともあるが、それだけではない。東尾商業への進学を、父に断られてから、誠は毎日、どうすれば父を説得できるだろうかと、そればかり考えていた。しかし、あの融通の利かない父が、自分の主張を曲げる事など、あるだろうか。
 誠が野球を始めたのは、小学三年生の時だった。きっかけは、当時仲の良かったクラスメイトに誘われたのだ。
 誠が野球チームに入りたいと言い出したときも、義秀は、あまり良い顔をしなかったが、週に一回、二時間だけという練習時間なら、さほど勉強に支障はないだろうと言う事で、了承してくれた。
 もともと運動神経は良い方で、足も速かった事に加え、真面目で練習熱心だった誠は、めきめきと上達し、五年生で、ショートのレギュラーポジションを獲得した。
 誠にとって、毎週土曜午後三時から五時まで、二時間の練習は、何よりの楽しみだった。平日の午後は、二箇所の塾を掛け持ちし、 放課後自由に遊べるのは、水曜日だけだった誠は、その時間も大概野球をして遊んだ。相手が見つからなければ、一人で校舎の壁に向かって、日が暮れるまでボールを投げつけていた。
 中学に上がっても、誠は一年生からサードのレギュラーに抜擢された。
 そして、この時ショートを守っていたのが、辰弥だった。
 軽快なグラブ捌きと強肩で、ヒットを許さない守備も、体の軸が全くブレないシャープなバッティングフォームで、広角に打ち分ける打撃も、辰弥のプレイは一つ一つが洗練されており、美しかった。
 辰弥のようなプレイが出来るようになりたいと、強く思った。辰弥は、誠の憧れだった。もう一度、辰弥と一緒に野球をしたいと言う事も、誠が東商で野球をしたい理由のひとつでもあった。
  譲れない。これだけは、どんなに反対されても譲れない。そのためには、なんとしても、父を説得しなければならないのだ。
 義秀は、一人息子である誠に、幼い頃から厳しかった。特に職業柄か、勉強に関しては、満点でない限りは褒められる事は無く、義秀の個人レッスンの下で、不正解だった問題の復習をやらされた。
 義秀の、厳しい指導の甲斐あってか、誠の成績は小学校時代から、学年でも上位から数えたほうが早かった。クラスメイトや、教師たちからも、「井岡君は、頭がいい」と言われた事は、決して少なくなかった。そして、それが父の厳しさのおかげだと言う自覚は、誠にもあった。だが、どんなに良い成績を収めても、勉強が楽しいと思ったことは、一度もなかった。
 自分は何の為に、こんな事をしているんだろう。
 父に言われるままに、勉強に打ち込む自分に、疑問を感じるようになったのは、少年野球のチームメイトの言葉だった。
 野球の練習中に、グローブが破けてしまったのだ。紐も何箇所か痛んでいて、今にもちぎれそうだった。誠は、家に帰ってから、義秀に新しいグローブをねだった。
 それを聞いた義秀は素っ気無く「じゃあ、明日の帰りにでも、ホームセンターに寄って、買ってきてやる」と言った。
 だが、誠が欲しかったのは、ホームセンターで売っているような安物ではなく。プロ野球選手が使っているような、野球用品専門メーカーのグローブだった。この時、破れてしまったグローブも、ホームセンターで買って貰ったもので、チームメイト達が使っているメーカー品のグローブが、ずっと羨ましかったのだ。
「ホームセンターじゃなくて、スポーツ洋品店で売ってるやつが欲しいんだ。ダメかな?」
「いくら位するんだ?」
「一万円くらい…」
「そんなにするのか、しかし、うーん、さすがに、このグローブをこれ以上使うのは無理だしな。よし、買ってやる」
 義秀は、使い古してぼろぼろになったグローブを、手にとって眺めながら、そう言った。
「本当!?ありがとう!」
「但し」
 はしゃぐ誠を制するような口調で、義秀は付け加えた。
「今度の塾のテストで、いい点が取れれば、の話だ。それが出来なかったら、ホームセンターの物で、我慢しなさい」
「うん、わかった」
 一瞬気落ちしたが、誠は俄然やる気になった。入念に予習をし、義秀が納得するだけの点数を取ったのだ。
「よく頑張ったな、誠。それじゃあ約束通り、グローブを買いに行こう」
 返却されたテストの答案を見ながら、義秀は満足そうな笑みを浮かべ、誠の頭をなでた。
 そして誠は、憧れのメーカー品のグローブを買って貰った。それまで使っていた、合成皮革の物にはない、本皮の香りに胸を躍らせた事を、今でも鮮明に覚えている。
 そのグローブを始めて少年野球の練習で使った日、チームメイトの川西弘之が、誠がグローブを新調した事に気づいた。
「お前、グローブ買い換えたんだ」
「うん。塾のテストでいい点採ったら買って貰うって、お父さんと約束してたんだ」
 誠がそういうと、弘之は、嘲るように言った。
「なんだよそれ、お前、親の言いなりじゃん」
「えっ?」
 確かに誠は、義秀に逆らう事は殆どなかった。というより出来なかった。たまに反論しても、すぐに言いくるめられてしまう。そういうことを、繰り返すうちに、確かに誠は、言いなりと言っていいほど、義秀に従順になっていった。
 だがそれまで、自分と父のそういった関係に疑問を持つことは無かった。どこの家でも、子供は親の言う事を聞くのが、当たり前だと思っていた。
「そうやって、えさで釣られて、なんとも思わないのかよ、だっせえ」
 誠は、何も言い返せなかった。確かにそうかもしれない。義秀は、誠が欲しがっていたからではなく、成績を上げることに利用できるかもしれないと思って、あのような条件をつけたのかもしれない。自分は、義秀の手の上で、踊らされていただけなのだろうか。
 買って貰ったばかりのグローブを、愛しく思う気持ちは変わらなかった。その証拠に、こまめにローションで磨き、オイルを塗り、手入れを怠らずに大切に扱い、今でも愛用している。
 だが。
 
 お前、親の言いなりじゃん。
  
 その日、誠の胸の奥を抉ったその言葉は、今も深く突き刺さったままだった。
 

 
 まだ六月だと言うのに、この日の最高気温は三十度近かった。日中に比べれば、幾分涼しくはなっているものの、熱い湯をたっぷりと浴びて、火照った身体のまま風呂場から出れば、すぐに汗が噴き出してくるだろう。
 誠は、湯のバルブを少し閉め、その締めた分だけ、水のバルブを開いた。熱かった湯が、適度に冷たい温度になり、火照った身体を心地よく冷ます。
 体の火照りが冷めてからも、誠そのまま、シャワーに打たれ続け、どうしたら父を説得できるだろうかと考えていた。
 考え込めば、考え込む程、心が折れそうになる。
 だけど、諦めるわけにはいかない。自分の進むべき道は、自分の意思で決めなければならない。東尾商業で、野球をやりたいと言う気持ちも強かったが、それ以上に、自分の進路を父に委ねてしまう様な、弱いままの自分でいたくないという気持ちのほうが強かった。
 「誠、随分長く入ってるみたいだけど、塾の時間大丈夫?」
 母の声にはっとして、シャワーを止め、扉越しに尋ねる。
「今何時?」
「六時二十分。塾、七時からだっけ?」
「うん。もう出なきゃ」
 風呂場から出た誠は、冷蔵庫から瓶入りの牛乳を取り出して、一気に飲み干した。微かな痛みを覚えるほど冷たさが、喉から胃にかけて、染み渡る。 火照った身体は、外側と内側から冷まされ、すっかり汗もおさまった。
 部屋に戻って、塾へ行く支度をしていると、ふと、先刻無造作に床に放り出した、部活用のスポーツバッグが目に入った。バックのファスナーを開き、グローブを取り出した。野球部の顧問の青木から、入部して間もない頃、型の良さを褒められた時の事を思い出す。
「よく手入れがしてあるな。自分でやってるのか?」
「はい」
「そうか。偉いぞ井岡。道具を大切にする奴は、きっと上手くなる。特に内野手は、丁寧なグラブ捌きが大切だからな。これからも、大切に使えよ」
「はい」
 嬉しかった。自分の野球への熱意を、褒められた気がした。でも……。
「お前、親の言いなりじゃん」
 自分の野球に対する熱意と、父に対する従順さ。大きく揺れる今の自分の、その振り幅の対極にある二つの気持ちを、ともに象徴するグローブ。
  高校で野球をすることになっても、高校野球は硬式野球だから、軟式用のこのグローブを使うことは無い。つまり野球を続けるにしても、辞めるにしても、このグローブでプレイするのは、中学卒業までの間だけだ。役目を終えた後の、このグローブは、誠にとって、何を思い出させる物になっているだろう。
 誠は携帯電話のディスプレイを開いた。待ち受け画面に映るのは、野球部の仲間たちと撮った写真。その画面箸のデジタル時計は、午後六時二十八分を示している。
 誠は塾用のショルダーバッグを肩にかけ、部屋を出た。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「うん」
 玄関を出て、自転車に跨る。ペダルを漕ぐ度に、洗い髪をなでる風が、心地よかった

 誠が通っている塾は、駅前の大通りに面した、六階建てのビルの、五階にある。エレベーターで五階へ上り、教室の扉を開くと、すでに何人かが席についている。二人掛けの机が、八つ、二列に並んで配置された座席の、壁に掛けられたホワイトボードから、向かって右側の列の、前から二番目の机の窓際が、誠の席だ。誠が自分の席に座ると、少し遅れて阿部亮平が教室に入ってきた。亮平は、誠とは違う中学で野球部に在籍しており、何度か練習試合でも対戦した事がある。
「よお、井岡。翔太から聞いたんだけどさ、お前東商からスカウトされたってマジ?」
 亮平は、翔太と同じ少年野球チームの出身だ。上背はないが、がっしりとした体型で、強肩強打の三塁手として、青木からも一目置かれていた。
「ん、まぁ、一応……」
「マジかよ!凄えじゃん!今あそこ、お前の先輩の小松さんと、一年の大谷って人が凄えらしいじゃん。来年は久々に甲子園行けそうって言われてるし、お前ももしかしたら……」
「そんな簡単にいくわけないだろ。大体まだ東商に行くって、決めたわけじゃないんだから、そんなに騒ぐなよ」
 一人で勝手に盛り上がる亮平を、制するように、誠は言った。
「えっ、何で?せっかく誘われてんのに、勿体ねぇじゃん」
 先刻の、翔太とのやり取りを思い出し、誠は思わずため息をつく。
「そんなに簡単に決めれる事じゃないだろ。自分の将来にも関わる事なんだから、野球やりたいからってだけで、あっさり決められるかよ」
「じゃあ、東商に行かないとしたら、どこらへんの高校狙ってんの?」
「一応、第一志望は鶴川学園」
「鶴川学園?あそこ野球部ないじゃん」
 だからこそ、選んだのだ。東商を諦めたら、もう野球はできない。だからこそ、なんとしても父を説得し、東商で野球をやるのだ。そうやって自分を追い込むために、あえて野球部の無い鶴川学園を第一志望にしたのだ。だけど、そんな事で、悩んでいる自分を、亮平に悟られたくなかった。 
「うるさいな。俺の事より、阿部はどうなんだよ。志望校決まってんの?」
「俺?俺は今更悪あがきなんてしねえよ。ただ、この年で就職はまだしたくねぇからな。とりあえず、入れりゃどこだっていいよ」
「そんなら、わざわざ、塾なんか来なくたっていいじゃん。お前、何で塾通ってんの?」
亮平は、何故塾に通ってるのか不思議なほど、不真面目だった。授業中にくだらない事を言って、皆を笑わせたりするのが得意で、誰からも好かれる性格だったが、肝心の成績の方は、不動の学年最下位だ。誠は、亮平のような男が、何故塾に来ているのか、不思議だった。
「別に、部活終わってから、家に帰ったって、俺一人っ子だし、やる事ねえじゃん。だったら、誰かと会える場所にいたほうが楽しいじゃん?」
「ったく、そんなんで、将来大丈夫かよ?」
 ため息混じりに言いながら、自分が義秀に言われている事と同じような事を、良平に対して言っていることに、気がついた。その気持ちを紛らわすように、亮平の顔から視線を外し、教室の中を見回した。
 誠達の他に、八人、計十人の生徒が、席について雑談をしている、いる。今日は欠席者はいないようだ。それとなく聞き耳を立ててみると、自分たちのように、進路について話をしている者もいれば、部活や、新しく発売されたゲームについて話をしている者もいる。
 みんなは、自分の進路をどうなふうに決めているんだろう。親や教師、塾の講師ら、大人達が勧めるままの進路を選ぶ者は何人いるのだろう。それを当たり前のように受け入れるものは、何人くらいだろう。それに抗い、別の道へ進もうと、もがいている者は何人くらいだろう。そうして決めた結果について、後悔する者と、しない者は、それぞれ何人ずつくらいだろう。そして結果に後悔した者達は、その後自分とどのように向き合っていくのだろう。そんなことを考えていると、教室の扉が開いて、数学の担当講師、早川尚樹が入ってきた。生徒達はおしゃべりを止め、皆自分の席に着く。早川は、教室の中を見渡して、欠席者がいないのを確認すると、満足そうに頷きながら言った。
「よし、今日も全員出席だな。じゃ、はじめるぞ」 
 塾の授業が始まっても、誠はやはり集中できなかった。いつもの習慣で、ホワイトボードに書かれているものを、ノートに書き写す作業だけは怠らなかったが、早川が話している内容は、耳に入ってこない。板書を終えて、ふうっ、とため息をついて、窓の外に目をやると、陽はすっかり暮れていた。帰宅ラッシュの時間のせいか、人通りは、この頃がもっとも賑やかだ。スーツを着た会社帰りのビジネスマン、自転車のかごを一杯にした買い物帰りの主婦、塾帰りの小学生。高齢者は、比較的少ない気がする。
 五階という高さから、俯瞰気味に町の風景を見下ろしてみると、町を行き交う人々の姿も小さくて、地上ですれ違う時に比べ、生命感を感じない。それでも彼らは確かに生きていて、一人ひとりに人生があり、家族や友人がいて、そして彼らにもまた、それぞれの人生がある。
 人類が誕生してから、今までにいくつの人生があるのだろう。これから先、いくつの人生が始まるのだろう。その時間を全て足したら、どれくらいの時間になるのだろう。そして自分の人生は、その全体の何分の一くらいになるのだろう。
 地球全体と、砂浜の砂一粒くらいの比率だろうか?いや、もっと小さいかもしれない。それでも、自分にとっては、この人生だけが全てなのだ。この人生を、どれだけ実りあるものに出来るか、それが何より大切なのだ。そのためにも、今は強い気持ちで戦わなければならない。決して父のものではない、自分自身の人生のために。
「どうした井岡」
「えっ……」
「上の空で、外の景色なんか見て。いつも熱心に聞いてるお前が、珍しいな。部活かなんかで、疲れてるのか?」
「いや、大丈夫です。すいません」
「そうか、それならいいけど、具合が悪いようなら、すぐに言うんだぞ」
「はい」
 一応、そう答えた誠だったが、結局、その日は最後まで、授業に集中できなかった。
 憂鬱な気分のまま、帰り支度をしていると、亮平が声を掛けてきた。
「井岡、ちょっとコンビニ寄ってこうぜ」
 誠と亮平は、塾があるビルの隣にあるコンビニでアイスを買って、それを店先でかじっていた。 
「お前、ほんとに今日ずーっと、ぼけっとしてたけど、どうしたんだよ?」
「いや……、ちょっと考え事しててさ」
「東商に行こうか、どしようかって?」
「……うん……」
 学校でも塾でも、この話か。そっとしておいてほしいという気持ちもあるが、時期的に仕方ないとも言える。それに、彼らなりの意見を聞いて見たいという気持ちもあった。
「阿部だったらどうする?」
「んー、わかんねえな。まぁ、俺は東商からスカウトされるほどの野球の実力も、進学校に合格できそうなほどの成績も無いからさ。俺からすりゃ、贅沢な悩みにも思えるけど、でもなぁ……」
 そこまで言って、亮平は俯いて口をつぐんだ。誠は、何も言わずに、地べたに座り込んでアイスをかじっている亮平の顔を見下ろした。亮平の話の続きは気にはなるが、せかすような事はしたくなかった。亮平は、誠との視線に気づいたのか、顔を上げて、誠の顔を見ると、再び口を開いた。
「俺や翔太がいたのチームの三コ上の先輩でピッチャーやってた人でさ、つっても、翔太が入ってくる前の年に卒業しちゃったから、あいつとは面識ないんだけど」
「うん」
「その人も野球推薦で、長浜実業に行ったんだよ。木田君って人なんだけど。」
「長実か、名門じゃん」
 長浜実業は、甲子園出場回数で言えば、東商よりやや少ないが、春の選抜大会で準優勝した事がある。輩出したプロ野球選手の人数も、東商よりやや多い。
「その人の親父も、長実の元エースでさ、ガキのころから、親父さんにしごかれまくってて、その分上手かったよ。コントロールがめっちゃ良くてさ。フォアボールなんかほとんど出さないの。でも親父さんほんとに厳しかったみたいで、本人は、もう勘弁してって感じだったみたいなんだよね。野球自体は嫌いじゃないけど、あくまで楽しむレベルでやりたかったみたいな。だから長実行くのも、あんまり乗り気じゃなかったんだって」
「ああ、俺とは、逆のパターンか」
「そういや、お前ん家は、親父さんが勉強に厳しいんだっけ?」
「うん、まぁ、教師なんかやってるぐらいだから」
「なるほどね。で、その木田君なんだけどさ、嫌々行かされた長実で、全く通用しなくて、挙句の果てに肘壊して、結局中退しちゃったんだよね」
 他人事とは、思えなかった。
 父の身勝手で、自分の進路が決まってしまった時、どれほど悔しかっただろう、どれほど自分を情けないと思っただろう。その想いと、今、木田は、どのように向き合っているのだろう。
「そんでさ、こないだ、久しぶりに木田君に会って、色々しゃべったりしたんだけどさ、いつも優しくて、誰かの悪口なんか絶対言わないような人だったのに、親父さんのこと愚痴ってばっかで、なんか、かわいそうになっちゃってさ、だから、その……、井岡にも同じような事で後悔して欲しくないんだよ。木田君が言ってたんだけどさ、親父さんの強引なやり方も許せないけど、それに従うことしか出来なかった、自分の意志の弱さが一番許せないって。だからさ、お前も、後悔したくなかったら、ほんとに東商で野球したかったら、絶対諦めんなよ。お前の意志の強さ次第だぜ」
 そういって、亮平は、誠の目を真っ直ぐに見た。誠も、その視線を正面から受け止めた。だけど、二人の視線が重なっていたのは、ほんの二、三秒だった。亮平のほうが、照れくさくなって視線を外してしまったのだ。
「悪い、なんか熱く語っちゃってさ。大きなお世話だよな、お前だって、自分なりに悩んでんだろうし」
 普段はお調子者で、ふざけてばかりいる亮平の、不器用な優しさが、嬉しかった。
「そんな事無いよ。聞いてよかった。ありがとな、阿部」
「そっか。そんならいいんだけどさ」

コンビニで亮平と別れ、一人家に向かう帰り道、誠は自転車を漕ぎながら、亮平が話した木田という男の話を、思い出していた。
 野球推薦で進学したいという自分に、一般受験で進学しろと言う自分の父。一般受験をしたいと言う木田に、野球推薦で進学しろと言った木田の父。誠とは全く逆の形だったが、木田の気持ちが痛いほど良くわかる。
 自分も木田のように、東商野球部のレベルの高さについていけないかもしれない、という不安は、以前からあった。
 だけど、自分の意思で進んだ道なら、たとえが上手くいかなかったとしても、納得できる。少なくとも、結果を全て自分で受け止めることは出来る。
 だけど、仮にもし、自分が東商行きを諦め、鶴川学園へ進学して落ちこぼれ、劣等感から中退するような事があったら、そして、そうさせた父を恨むようになったら、どれほど惨めだろう。
 今まで、自分の将来について考えた事はなかった。自分の将来進む道を、自分の意思で決める。当たり前の事だけれど、決して簡単ではないという事を、義務教育を終えるこの年になって、初めて知った。だけど、それが出来ないようでは、いつまでたっても親から自立できない。
 まだ、胸を張って自分が大人だと言い切れるような年ではない。しかし、自分力で何も出来ないほど、子供でもないはずだ。
 絶対に、木田と同じ道は辿りたくない。
 絶対に、父を説得しなければならない。
 家に帰ったら、今日こそもう一度、父に自分の思いをぶつけてみよう。自分は決して、野球が好きだからというだけの理由で、目先のことだけを考えて、父が示す道を拒んでいるのではない。
 自分なりに、真剣に自分の将来を考えて、悩んで、その上で、自分の進む道を、自分の意志で決めたいと考えているのだ。それが出来なければ、きっと後悔する。そして、それを父のせいにする。そんな惨めな思いは、絶対にしたくない。それだけなのだ。それだけだけど、絶対に譲れないことなのだ。
 家に着いて玄関の扉を開くと、いつものように、美奈子が出迎えに来ていた。
「お帰り、疲れたでしょう?」
「うん……、父さんは?」
 誠は、靴を脱ぎながら、母に尋ねた。
「今日は遅くなるみたい。他の先生達と飲みに行くって、電話あったから」
「あ……、そうなんだ」
「また、汗かいたんじゃない?お風呂入る?」
「いや、今日はもういいよ」
「そう、確かに夕方から、一気に涼しくなったものね。そんなに汗もかかなかったか。じゃあ、すぐ、ご飯にする?」
「うん」
 テーブルに夕食が運ばれてくるのを待つ間に、誠は冷蔵庫から麦茶の入ったペットボトルを取り出し、氷を入れたグラスに注いだ。氷がぴきぴきと音を立てひび割れていく。
 一気に飲み干して、ふうっ、と息をつく。
 肩透かしを食らった気分だった。父と、進路について、もう一度話をしたいとは、ずっと思っていた。思ってはいたけれど、なかなか決心がつかずにいたのだ。
 今日は、その決心がついていた。学校で佑介や翔太と、塾で亮平と、自分たちの進路について話をして、改めて、自分は東商で野球をしたいと思った。その想いを、自分以外の誰かの意思で、断ち切られたくないと、強く思った。だからこそ、決心できた。それなのに、そんな日に限って、父は酒を飲んで帰ってくるという。
 義秀の帰りを待っても、酔っている父に、今の自分の気持ちをぶつける気にはなれない。義秀は、家ではあまり酒を飲まないが、外で飲んで来る時は、かなり酔って帰ってくる。そんな状態の父に、今の自分の真剣な気持ちをぶつける気にはなれなかった。
 タイミング悪いなぁ、と思いつつも、自分の父親に、自分の気持ちを伝える、たったそれだけの事に、これだけ大きな決心が必要な自分の脆弱さが、情けなくもあった。
 明日だ、明日こそは絶対に、父に自分の気持ちをぶつけよう。そして、絶対に説得してみせる。しなければならない。いつまでも迷っていられるほど、時間は残されてはいないのだ。
 義秀は、結局十一時頃に帰宅した。
 誠は、その時間には、部屋の灯りを消して、ベッドで横になっていたが、なかなか寝付なかった。せっかく父を説得するために、高めた集中力が、行き場を失い、収まりがつかなかったのだ。普段なら、今頃徐々に眠気が襲ってきて、目を閉じているのに、この日は、目が冴えていて、神経も研ぎ澄まされていた。その分、扉越しに聞こえて来た両親の会話は、はっきりと聞こえた。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま。誠は?」
「もう寝たんじゃない。十時ごろには、部屋に戻ってそれっきり」
「そうか」
「誠が、どうかしたの?」
 今夜のように、なかなか寝付けなくて、両親の二人だけの会話が耳に入ってくる事はあるが、この時間なら、いつも誠がベッドにいる事は、義秀も知っているはずだ。それでもあえて美奈子に尋ねたからには、義秀にも、何か自分について、考えるところがあったのかもしれない。誠は、窓から差し込む月明かりしかない、暗がりの部屋の中で、聞き耳を立てた。
「いや、別に、どうって事はないんけど……」
 義秀が言葉を詰まらせた。いつも断定的な物言いをする義秀にしては、珍しく歯切れが悪い。どうとも思っていないはずなどない。自分なりに、感じる事があったに違いない。
 知りたい。父が何を思っているのか。なぜ、この日に限って、自分の様子を気に掛けているのか、直接尋ねてみたい。
 ベッドから飛び起きて、自分の思いを父にぶつけてみようか。そう思ったけれど、一度冷めてしまった想いは、簡単には、熱を取り戻せない。
 自分の感情をコントロールする事って、こんなにも難しい事なんだろうか。いや、結局それは、自分の決断力が足りないだけで、意志の強い者なら、今すぐにでも部屋を飛び出して、父に自分の思いをぶつけるのではないだろうか。
 やはり、自分の人生が思い通りに行かない一番の理由は、自分自身の弱さなのではないだろうか、それを父のせいにして、自分の弱さから、目を背けているだけなのではないだろうか。
 そんな事を考えているうちに、両親の会話は途切れていた。微かに、水の跳ねる音が聞こえる。義秀は、もう風呂に入っているのだろう。美奈子も、義秀が上がれば、それに続いて風呂に入り、夫婦は寝室へ向かう。そうして、井岡家は一日を終える。
(今日もダメだった。でも、明日こそは、きっと)
 誠は、一度萎えてしまった気持ちを、再び奮い立たせるように、自分にそう言い聞かせ、目を閉じた。

理由ある反抗

理由ある反抗

高校野球の名門、東尾商業へのスポーツ推薦での進学を希望する、中学三年生の井岡誠と、学業最優先の進路を強要する、父・義秀の、親子間の葛藤を書いたお話です。主人公と同じ中高生や、その年代のお子さんがいらっしゃる方に、特に読んでいただきたいと思っています。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-09-15

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