practice(12)



 十二



 浮いた電話ボックスがあるとしよう。通常のものと変わらず,電話も間違いなく繋がって料金はちょっと高めだけれど音声もクリアな一つのボックスで,丁度一人分の足場があるドアの前には急な階段を梯子みたいに登っていく。辿り着けばそこで押し開いて入るボックス内の電話機の前で,テレホンカードか十円玉を用いればカシャンとして支払いは済み,話す時間が貰えると同時に減っていく。だから話せることも限られてくる。また投入すればいいのだけれど,そうしないのもまた良いのだと言うまとまった匿名の意見が複数ある。
 その電話ボックスは三台浮いてる。街中の電灯を足元に見下ろす程だから電話をしながら360度の景観を独り占めして楽しめる。うち一台は座りながら電話が出来るように上等な椅子を置いている。盗難防止のためにボックス内にがっちりと備え付けられたものだ。そこだけでしか使えないたった一つの上等な椅子。意味のない落書きは,事細かに状態をチェックする一人の作業員により消されてる。落ちたネームプレートなんかは三台のどこでも直ちに拾われて保管所で保管されている。
 地上より会話内容をきっと聞かれにくい。だから浮いた電話ボックスに入って電話していると要らぬ誤解も生じるだろう。電話をかけている姿が街を行く人たちから丸見えである以上,聞かれたくない話をしていると取られて,とある夫婦の間にボックス型の影を落として一方の顔を見えにくくしたり,見知らぬ異性と歩く眼下の恋人に後から聞きたい「何してたの?」という疑問を抱かせれば,あるいはそこから降りてくる恋人を待つ突然の待ち合わせとなる。このような例は数知れず,浮いた電話ボックスはそれなりの幸せを閉じ込められずに,それなりの別れを生んだりする。
 例外は,あって少しだろう。浮いた電話ボックスでしかかけられない電話は,その人にしかかけられない。
 九十円を握ったその人は三十円ずつに分けて三人に電話をかけることにした。仕事始めの午後七時前,街の通りを埋める人が増える中でその人は浮いた電話ボックスの梯子みたいな階段をなるべく足だけで登っていき,ドアを押し開いて中に入った。隙間風は下から十分に入るからボックス内は外に合わせて肌寒く,遮蔽された温かみが不在で居留守を使う厚くて黄色い電話帳は開いてもその人を出迎えてはいない。しかし進む一歩で,既に中央に立つことになるそのボックスを形作るガラスの一面には写るその人の顔がある。その人は,背後に明るいビルが幾つか有るはずと思ってみた。ボックス内を照らす上部の電灯はしかし中々容易でない。ピントはまず近くにあって,それから遠くのビルにあった。写っているその人も同じなはずで,あちらのビルを遠くに捉えているはず。こちらの各階の明かりはまだ煌々としている。あちらはどうかと聞くのも会話だ。
 受話器を取ろうと目を離せばその人はもう居ないのだから,その人は右手で握った硬貨から三十円分を数えて選り分けて,投入口に縦に入れた。プッシュ式の『0』のボタンは待ち望んでいた音をカチッと鳴らしたものだった。
 最初の電話で話すことは手短にする。その人が決めたことだった。夕飯はきちんと食べたのか,何か変わったことはなかったか,戸締りはきちんとして明日の準備を済ませて,それから遅くまで起きたりせずに早く眠ることを約束すること。最初の声を聞いて,最後に名前を呼ばれて,おやすみを言うまでの時間は切れない。言葉と言葉の間に差し挟まれる二つ返事に,何かをしながら聞いてる様子を,頑張って返事をしている気持ちを,その人はきちんと感じながらメモを取る。献立のような注意書きで,買い足すものだけを記したような少なさだった。書き終わった文字の上をなぞって動くペン先と話せない受話器の先で,面白いことがあったというから聞かせて欲しいと返事する。あとで,と答えはしない。嘘は付かないのが電話ボックスの厳格なルールであろうからその人は待ってると言えない。「おやすみ。」を早めに言って電話が機械的に切るのを名前を呼んで,何でもないと待つ。その人への依頼人からの要望だからその日は,遊んで貰ってると喜ぶ声をいつもより長く聞けてもたった一回のやり取りになる。
 二つ目の電話なら留守電に切り替わって,残念ながら相手には繋がらない。しかしその人は託された言葉は伝え切らなければならない。『メッセージをどうぞ。』と促されて,間違いなく記憶している形成された思いをその人は表して話す。赴いて対面した依頼人の体調は芳しくなく,息づかいに特徴が生まれてしまっていたからその人は一応確認を取るのだけれども,依頼人はそのままを望むから,その人もそのままにする。片付けた物の仕舞った場所と,片付けられなかった物の取り扱いを尋ねて教えて欲しいと言う。持って行かなければいけないものは何か,持ってきて欲しいものは何かあるか,それから大きくなったお孫さんの写真と,思うより老けた子供達の顔を忘れないように持って行くから迎えは早々には要らないと言う。待っててくれればいいと言う。最後に元気でいるかと聞いたのが依頼人であったから,その人も最後にするのだろう。『元気でいるか。』のイントネーション,依頼人には注意されたところになっているようだから。
 こういう場合に返事となる伝言を受けることは別の人の職分になるのに,今回に限っては依頼人の強い要望でその人が担当することになりそうで,その人はまたそこの浮いた電話ボックスに来ることが決まっていることになる。三回目の電話をかける前にボックス内の明かりを利用して,だからその人は背広の内ポケットから手帳を取り出し確認をする。椅子は無い浮いた電話ボックスの一面に,凭れることはしないその人の足下で特に並んでいる人もいなくて,よくよく街は流れて動く。車線に割り込む車は一台も見当たらないようで,交通秩序が現れているのだろう。お互いを照らし合うライトにイラつきは感じられなくなっている。
 その人は二週先まで予定をチェックしつつ,空いてる箇所を数えている。飛び飛びで四箇所まで見つけたところで,電話機の下で置かれて開いている厚くて黄色い電話帳の異常にその人は気付く。手帳の間に指を挟んで,電話帳の開かれた頁をしゃがんで確かめてみれば欠落している番号を見つける。切り取られているようで,剥がされているような欠落。その人は残り三十円を投入口に縦に入れる前に赤いボタンを押して,管理会社に電話を繋げる。由々しき事態を報告するためである。誰かがそこから取っていくことは自然の摂理に反する,と言うと大袈裟に聞こえる。浮いた電話ボックス内に置かれている電話番号なんてどうでもいい,とならないのが浮いた電話ボックスに反射した一面になるだろう。書き加えられることもあっても,消されたり取られたりすることはあり得ない。そういうことはあってはいけない。
 事態を正しく報告するその人に管理会社は欠落している電話番号を伝えて,そこに電話をかけてから,きちんと施すことをお願いする。その人は直ぐに応じて電話を切って,覚えたての番号を順番通りにプッシュしてかける。十円玉は,仕方無く使わなければいけない。耳に聞こえるコール音には雑音が混じるから,綻びはもう感じられる。直ちに繋がらなければならない事態となっている。その人は電話の向こう側に通じるのを辛抱強く待たなければ,その人は三回目の電話をかけることが出来ない。正面に写る顔を難しくその人は見なければいけない。
 ガチャ。言葉で言えばそうなる音に,繋がった先では子供が話す。その人は耳を疑うだろう。覚えたばかりの語句を使って繰り返し繰り返し,もしもしを発音するその子はたった二人に囲まれて,テーブルにも手をついて,その人たちに呼びかける。おもちゃの電話は靴下履いた小さな足下に,たまに大きく踏まれながら,赤い色の受話器は短いコードいっぱいに持ち上げられてる。きっとそうだとその人は思っている。名前なんてまだ言えない。二人はまだまだ,指し示されては呼ばれていない。それでも『はい。』という意味で受話器を渡されたのはその人で,もしもしを言ってと求められる。その声を,十円玉の時間が切れるまでその人は聞いている。第三者として聞けている。
  ガチャ。そう切れれば,その人は暫くコール音に頼らざるを得ない。衝撃は拍動のリズムを奪うから,ツーツー音で息をする,その人の顔は浮いた電話ボックスの一面に写らない訳にはいかない。ピントはあって,360度は見渡せる高さと明るさだから,その人は真っ正面を選んでみる。写るその人も同じなはずで,上階が使われていないビルは真っ黒に背景となっている。そこに文字はない。気持ちとするのに滞りを生むものも無い。
 何かを話せば良かったと,そう考える前にその人は三回目の電話を二十円分でかけるために受話器を置く。それをもう一度取り,二十円を投入口に縦に入れてから繋がる電話でその人は依頼人となって話を始めた。止むを得ず予定より時間は短くなった時は依頼人に任せるのが一つの方法だから,その人の判断に間違いは無い。そして結果としてもその人に良いものとなっているはずである。今のその人は考えながら眠っているようなもので,思い出しながら生きてるようなものだから,もう一度起きるために時間は正しく必要になってる。二十円分では足りないけど,二十円分でも無くてはならない。
 ツーツー音はまだ,その人の心にまで届いていない。




 三回目の電話は依頼人から切って,記憶が巻き戻される感触が腹の底から立ち上がる。通話音の違いを耳に残しながら受話器を置いて,その人は背広の内ポケットに手帳を仕舞いながら外ポケットに入れてあったボールペンを取り出す。浮いた電話ボックスの床部分に落書きをするためである。ペン先は太いから床部分の硬さにも負けずにその人の言葉を書き残せる。短いものになるのだから,途中で終わるなんてことにはならないとその人は踏んでいるし,恐らくそうなるだろうと思うように話せるのはとても自然だ。書き加えるように書き残す理屈,消したり奪ったりするものでないから。
 カチ,っと音させてキャップを閉めたボールペンを元の外ポケットに収めて,その人は電話帳の欠損箇所に番号を載せて閉じる。綻びは正されるのに事後確認は必要である。けれどそれはその人は職分でなく,依頼人からの要望もない以上,その人がまた電話をかけることにはならないだろう。その人はそれを理解している。その人はそれを受け入れている。
 浮いた電話ボックス内の緑色の電話機の下で厚くて黄色い電話帳が素っ気無く居留守を使い始めて,滞りなく流れる街から始まる電話ボックスへの,梯子のような階段の前には相変わらず人は居ないであろうけれども,その人はそこから出なければいけない。十円玉を,補充するところから始めなければいけない。外から入るのと同じように,折れる構造で押し開くドアに向かう。
 電話ボックス内の床部分に書いた落書きは事細かに状態をチェックされて,一人の作業員により消されてる。意味のないものは消されてる。
 二回目にかけた電話に関して,依頼人のために,その人はそこの浮いた電話ボックスにはもう一度来なければならない。返事となる伝言を受け取って,『元気です。』と伝えなければいけなくなる場合に備えて,イントネーションに気を付けて。




練習はコツコツする方だ。その人はボールペンで落書きをした。



 

practice(12)

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-17

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