扉の向こう

扉の向こう

序章

「今夜は何時ころ?夕飯どうする?」

「う~ん、今日の夕方は部門会議なんだけど、決まって部長は会議の議事録を僕達に読ませるんだ。会社の意向を知っておけ、という事なんだろうけど話が長いからエンドレスなんだよね。夕飯は仲間と食べるかも知れない。」

準也は面倒だという口調と裏腹に、僅かに微笑みながら母親に伝えた。

「あ、判ったわ。8時頃までにはどうするか連絡頂戴。お父さんが必ず訊くのよ、準也はメシを食ったのかって。」

母親の明日香は、就職してから随分と頼もしくなった準也を見るのが嬉しくてたまらない。

「うん。オヤジはさ、俺が商社マンになったこと面白く無いんだよね、きっと」

「さあね。母さんには満更でもないように見えるけどなぁ・・・」

準也は手を振って駅へと向かった。梅雨も明け、強くなった日差しに目を細めながら。
通勤時間帯の殺人的な混み方の電車も、もう半ば諦めとともに体が順応してきている。
順応するとともに、父親もまた同じような苦痛を味わいながら30年以上仕事をしてきていることに驚きと感謝の気持ちが湧いてきていることが、我ながら照れくさいなどと苦笑いをした時もあった。


「おはよう!」

「おはようございます。」

「車の件、決まったぜ。」

吐き出されるようにホームへ降り、改札を抜けたところで職場の先輩、榊原から声を掛けられた。

「え?注文してこられたんですか?」

「まあな。新車は到底無理だから親父の古くからの知り合いに頼んで、程度の良さそうなものを見つけてもらったんだ。」

「ですよね。そういうコネクションは必要ですよね。リスク・マネジメントってやつ。」

「は、早速仕事で覚えた言葉を使いやがる。うかうかできないな~お前には。」

「で、結果を聞かせてくださいよ。家のオヤジの車、買い替えたいんですけど何故か良い返事をしなくて。先輩が買ったら借りれるし。」

「おい、まだ貸すって決まってないぜ。全く油断も隙もあったもんじゃない。」

先輩である榊原の話を聞くと、どうやらアルファロメオというイタリアの車らしい。
準也も車マニアというほどではないが、子供の頃のミニ四駆に始まって、ラジコンカー、そして大学時代に自動車免許を取得すると、本物の車を運転することが自分の世界を広げてくれることだと感じるようになった。
そんな準也もアルファロメオの名前は聞いたことがある。
榊原は根っからのクルマ好きで、そんな彼ならイタリアの車を選ぶのは無理もないと準也は思った。

父親の車は普通の目立たない国産のセダンだったが、思えば中学卒業の頃までは家族旅行へ出かけたものだった。
家族旅行も高校生になるとそれとなく理由を作り、父母と一緒に出かけることは殆ど無くなったが、父親は相変わらず新車に買い換えることもなくそのセダンを大事にしているようだった。


「アルファロメオ159ってこれですか。」

「おぅ。親父に聞いたら色は白らしい。排気量は2.2Lでマニュアル。マニュアルにしてくれってこっちから頼んだんだけど。」

「え!オートマじゃないんですか。さすが先輩。親父の車もマニュアルだから大丈夫。」

「大丈夫ってなんだよ。。」

昼休み、準也は榊原と二人で榊原の父親の友人から送られてきたという、159の写真を見ながら近くの定食屋で榊原と昼飯を食べていた。

「え~と2007年モデルで4万5千キロ、170万円ですか。シートの色がカッコイイですね」

「タンって言うらしい。茶色というか濃いベージュ?かな。これ良いだろ?」

「5年落ちですから今年の10月まで車検が残っているんですね。」

「貯金少し切り崩してボーナスを少し足して頭金が120、乗り出しが200くらいって言ってたから80万のローンだ。」

「そうなんですね。それなら僕にも何とかなりそうな・・・」

「お前も買っちゃえば?親父に話、しておこうか?」

「いや、僕はダメですよ。実家でしょ。車庫が1台分しか無いし。」

「近くに月極あるじゃん。1万円程度で借りれるだろ。」

「ローンに駐車場代金、ガソリン代に保険料、2年ごとに車検でしょう、そうなるとローンの額を減らしたいし、かといって貯金は卒業旅行で使い切ってる。ボーナスだってこの冬もまだ全額出るわけじゃないし・・」

「ま、今年一年は貯金しておきな。実家通いは貯まるだろう。」

準也は屈託なく笑う榊原を見て羨ましいと思った。実は自分がこんなにも車が欲しかったんだと気がついたのは、購入の話が現実味を帯びて来てからだった。

夕刻になり、やはり早い時間には帰宅できそうになく、準也は母親の携帯にメールを送った。
きっとオヤジは夕飯を食べながら、俺の居ないことをブツブツと独り言のように言っているに違いないと準也は思った。

邂逅

「昨日は何時だった?」

「あ、おはよう。え~と12時過ぎかな。」

「若いからって無理するなよ。それに出来れば母さんのメシを食え。」

「うん。わかってる。今日は休みだから家で夕飯食べるよ。」

昨夜は榊原の他、同じ部署の仲間とお決まりの居酒屋へと繰り出した。
夕飯なのか酒の肴なのかわからないような食べ方で、取り敢えず懐の許す範囲で飲み食いした。
しかし準也の頭の中には、酔うに連れて榊原の言った言葉「ま、今年一年は貯金しておきな。実家通いは貯まるだろう。」が浮かんでは消えた。

車が欲しいと言う衝動に突き動かされている自分に気がついてから、テレビコマーシャルを見ても雑誌を見ても自動車に目が行ってしまう。
通勤時の殺人的な電車の中から見える道路を走る車でさえ目で追っていることがある。

準也の父親、二三雄はここ最近彼が自動車雑誌をしきりに買ってきていることを知っていた。そして年齢的にも社会環境としても、もう息子が自分の車を欲しがって当たり前だと理解しては、いた。

しかし困ったのはどうやら先輩からの影響か、ヨーロッパの車に熱を上げているということだった。
二三雄の実家はもともと金属加工業を営んでいたが、父親の工場は戦後の復興期と重なり、二三雄は幼年期から地元では割合に裕福な生活を送ることができていた。
それでも学費はなるべく低廉で済ませるようにと、公立の工業高専を選び、卒業とともに4年生大学へ編入試験を受け大学院まで進み、金属工学を専攻し博士課程を終了した。こののち二三雄は、と或る大手金属加工会社のエンジニアとして採用された。

これは職人ではなく技術者への道を歩めと父親の勧めがあったことに加え、二三雄が自身で決めた自分の果たすべき役割だと信じて疑わない意思の現れだった。
日本の技術立国には自分の技術開発が少なからず貢献していることが二三雄の自負しているところであり、人生の折り返しをとうに過ぎても悔やむことなど微塵もないことが人生最大の宝物だった。


「・・オヤジがさぁ・・・」

「うん?何?」

「いや、なんでもないんだ。。。」

母親の明日香は聞こえているのに聞き取れなかったフリをした。
なぜならこういう話の切り始めをするときには、準也は話し辛いことを言う時だと知っていたから。
明日香は今が準也の2度めの巣立ちだと理解していた。
見え透いた嘘を付いて家族旅行を袖にしたり、何より父親に似て工学系に秀でていたくせに、わざと経済学部など受験した時には、彼女はこれが巣立ちというものかと寂しい思いをした覚えがある。
けれど今はそれで良かったと確信している。だから今回の微妙な親子のスレ違いは、その2回目がやって来たんだろうと、母親としてしっかり受け止めていこうと決心していた。

夫は常に学究的で、自分が日本の技術力を高めてやるなどと豪語し、実際それは全くの嘘でもないところが明日香の自慢でもあった。
『準也、日本の車にはお父さんの開発した技術が幾つも実用化されて、それが他所の国には真似ができず、世界では坂戸マジックとまで言われているんですよ。』
坂戸とは勿論二三雄の苗字である。
明日香はもう幾度と無く、この言葉を準也に言おうとした。しかしその度に喉元まで出た言葉をやっとの思いで飲み込んだものだった。



「先輩がね、車買うんだってサ。」

「へ~、いいなぁ~。準くんも運転好きなんだから、自分の車買えるようになるといいね。」

休日の今日、少し郊外に出かけた準也は、今風のエスプレッソマシーンで淹れたコーヒーを飲みながら、サークルで知り合った矢野睦子とデートと洒落こんでいた。
睦子は有名な私立美術大学美術学部、生産デザイン学科4年生。
商業デザインを主に学び、ゆくゆくはインダストリアルデザイナーの会社に就職を願っている。
父親がエンジニア、自分が商社マンという準也にとって、美術を学ぶ睦子の右脳的発想がとても新鮮で魅力的に思えたのが興味を持ったきっかけだった。

「アルファロメオって私も知ってるよ。デザインの勉強で出てきたんだ~。私のようなインダストリアルデザインを専攻してる仲間では有名だよ。あとね、写真の勉強してる子たちも知ってるかも。被写体として採り上げられることも多いみたい。で、ファインダーを覗くうちにその造形美に魅入られてオーナーになっちゃった人も知ってるし。
その人、スタジオで撮影したらしいんだけど、ポラで試写を何回か撮る際にストロボの位置を僅かずつ変えていったら車の表情が様々に変わるんだって!
それも表情だけじゃなく車全体の見え方が優しく見えたり猛々しく見えたりと、本当に何を表現したいのか撮る側の意思が試されているかのような錯覚を覚えたって聞いた。
今まで日本の車もたくさん撮ってるけどこんな感情になったのは初めてだったらしい。それで今はアルファロメオのオーナーになっちゃったって訳。
榊原さんてアルファロメオのどこに魅力を感じたのかなぁ。デザインだとしたら結構そっち系の感性があるのかもね。」

準也がアルファロメオの名前を出した途端、睦子は息つく暇もなく一気に話しはじめた。
加えて聡明さを感じさせる彼女の魅力的な瞳がいつもより一層大きく見開いていたことを準也は見逃さなかった。
しかし車の話をしているのに、何故か榊原先輩の話をしているような錯覚を覚えて、準也は少々焼きもちめいた変な落ち着かない、むず痒いような苛立ちを感じていた。

「・・・アルファロメオ・・か・・」

「そうだよ、準くんもアルファロメオにしなよ。私、すっごく気になってるアルファロメオがあるんだ。」

「簡単に言ってくれるなって。車って買うのはそんなに大変じゃないけど、維持していくのは結構お金掛かるんだよ。」

「う~ん。それもそうだね。でもさ、準くんには絶対乗って欲しい車なんだ・・・って云うか、助手席に乗せてくれるなら私もぜひ乗りたいし。」

なんだよ睦子のやつ、やけにアルファロメオに詳しいじゃないか。と苛立っていた気持ちに水が差されたような気がして、準也は少し気を取り直せた。
それにしてもこの睦子が気になるっていうことは、きっと分かりにくい形をしていることだろうな、とも思った。

「ねえ、これこれ、これだよ、見て。」

睦子はスマホで検索した画像を準也に見せた。

「あ!・・」

「え~とね、これは1、5、6、って書いてあるよ。数字が名前なの?」

「う、うん。ポルシェやプジョーも3桁の数字で名前をつけてるじゃん。榊原先輩のは159って言ってたから、この156っていうのはそれより前のモデルじゃないかな。」

「私これが気になって仕方ないんだ。準くんはどう思う?」

いやはや芸術的な感性の持ち主には到底太刀打ち出来ない。
準也はスマホの画面に表示されたその銀色のヌメッとした車を見て、消化しきれない不思議な感覚を抱いていた。

(・・これって機械なのか。159はメカニカルな美しさを感じたけど、この156ってやつは生き物みたいだ。写真からはエンジンの息吹よりも、骨太で屈強な筋肉の漲りを感じる・・)
準也は感じた不消化が何に依るのか、自分自身を整理しなくてはならないという切迫感に苛まれた。

「ねぇ!準くん!」

「っえ?ゴメン。何?」

「もう~返事くらいしてよ、私一人で喋ってバカみたいじゃない。」

「だからゴメン。先輩の159とは随分雰囲気が違うからちょっと・・・」

156の話はその後、お昼ごはんをどうするかという、ありきたりな会話に切り替わって再び交わされることはなかった。
聡明で快活な魅力にあふれる睦子と一緒にいる時、準也は会社でのストレスや若干の浮遊感を感じる自宅での違和感など全て忘れていることに喜びを感じていた。

しかしこの邂逅が明日香の言う「2度めの巣立ち」を決定的なものにすることになると分かるのは、もう少し先のことだった。

回顧

今夜も準也からは仕事が遅くなりそうだとのメールが来ていた。
明日香は二三雄の帰ってくるのを待って、夕餉の準備を終わらせた。
思えば結婚当初、二三雄は帰って来ないことのほうが多かった。確かにその頃、研究に没頭すると時計を見ることを忘れるばかりじゃなく私のことさえ忘れていると、はっきりと言われたこともあった。
それは嬉しい言葉であるわけではなかったが、二三雄が私の夫で在るための最も判りやすい出来事なんだろうと明日香は理解することにした。
「俺は日本を技術大国に押し上げる大きな力になるんだ」と何度聞いたことか。
明日香は結婚を機に魅力ある仕事場を退職せざるを得なかったが、妻として必要なことは私も惜しんだことはなかったと自負していた。

何より仕事一途な二三雄だったので、そもそも女性と出会うことなど皆無だった。
そんな彼が明日香に出会ったのは、或るプロジェクトで大きな海外の商社と取引を行ったことがきっかけだった。

「こちらが開発部主幹の坂戸君です。」上司からそう紹介され、一礼し名刺を渡す。
「ありがとうございます。こちらが私どもの開発総責任者、Mr.ブライアン・クラークです」
秘書が紹介したその長身の男は、いかにもWASP出身という身なり。モヘア混紡率が50%以上ではないかというシャキッとしたネイビーのブレザーに、太いストライプのレジメンタルタイをシングルノットで結んでいた。
握手をすると、氏の厚みのある大きな手は少々痛みを感じるほど強かった。
思わず坂戸も強く握り返したが、この軽い痛みが坂戸にとってこのプロジェクトの重要さを意味しているように思えた。
大掛かりなプロジェクトがこれから始まるというのに、二三雄はその重圧からか柄にもなく若干相手に気負わされてしまっていたかのようだった。
(だらしないぞ。今が正念場だ。このJ.Vを成功させることが出来なければ・・・)

「秘書の馬瀬明日香です。今回のプロジェクトの同行並びに通訳をさせて頂きます。よろしくお願いいたします。」
クラーク氏ばかり見ていた二三雄だったが、ふと自己紹介をした秘書を見た。
彼女は華奢ではあるが堂々とした振る舞いで、そして柔らかい笑顔で仕事をこなす有能な女性であることは瞬間的に理解できた。
(馬瀬さんか。。この人も日本人として世界を動かす力の一人かもしれないんだな・・・・)
30を迎えようとする坂戸は、明日香は共に戦う同士になれるはずだと根拠もなく確信した。

こうして始まったこのプロジェクトは、結局2年以上の長きに亘り推し進められ、応分の成果が得られるとともに、J.Vのプロジェクトリーダーを務めたブライアン氏は経済界でその名が挙がるほどの親日家になった。
そして何より二三雄にとっての一番の果実、それは生涯の伴侶になる明日香と出会えたことだった。
媒酌人をブライアン氏にお願いし、記念すべき実験工場を披露宴会場に仕立て、プレゼン用のプロジェクタースクリーンに二人の生き生きとした仕事風景を映しだすという、粋な計らいも行われた。


「準也のやつ、仕事は上手くいってるのか。」

「あの子は大丈夫よ。あなたにそっくりだもの。いつもまっしぐら。」

「今の時代は若い奴らには不幸だな。八方塞がりってことが分かっているのに力ずくで切り開かなけりゃならない。俺が・・・」

「貴方は貴方、準也は準也。でも準也の持つ強い信念は貴方譲りなの。こうやって家の中で二人を見てると、親子とはいえよくぞここまで似るものかと思うほどよ。だから信じてあげて。」

明日香はこのところの毎日は、ある一つの扉に向かって進んでいるかのような、そんな感覚を覚えていた。
それはもう30年とすこし前、彼女が留学するとき、開業して間もない新東京国際空港で見送りに来てくれた家族や友人に囲まれた時に感じた"あの感覚"に似ている。
大学在学中ではあったが、国際社会学部で学ぶうちに明日香はどうしてもアメリカへ留学したいという強い気持ちを抑えることが出来なかった。

明日香は女性として生まれたことを悔やんだことはなかったけれど、自分が女性として社会でどう生きていくかを考えるうちに、日本企業と海外の企業を掛ける橋になりたいと願うようになった。
明日香の父親はいわゆるエリートサラリーマンで、小さい時などは母子家庭と間違われるほど父親がそばにいなかった。
そんな父のような有能な男性とともに日本と海外を繋ぎ、私達の日本に少しでも役に立つような、そんな職業人になりたかった。

「そう言えばクラークさん、引退されてからこっち、連絡有ったかい?」

「何かね、日本においでになる計画を立てていらっしゃるみたい。貴方のあの車、まだ買い換えていないか、だって。」

「ハハハ、まだ覚えてくれていたんだ。それなら一度整備に出しておくかな。久しく長距離のドライブに行っていないから、もしクラークさんを乗せて不具合でも出たら坂戸マジックの面目丸潰れだ。」

「そうね。また奥日光の紅葉を観に三人で出かけたいわ。泊まるなら・・・」

「金谷ホテル、だろ?」

二三雄はあのプロジェクトの思い出の場所、日光に再び三人で出かけられることを心から願っていた。



「いよいよ納車なんですね。」

「おぅ!今度の土曜日だ。来るか?」

「えぇ、是非。あ、でも、先輩、彼女も一緒ですよね。なんか邪魔者になるんじゃないですか。」

「いやいや、それならお前も連れてきなよ、あの可愛い娘。セダンだから十分4人で乗れるぜ。」

と、準也はまた睦子が見せてくれた156の画像を思い出した。
しかしあれから自分なりに色々と調べてみたのだが、到底自分の手に負えそうにない車であるような内容の記事ばかり目についた。
いわく「電気系統が信頼出来ない」「突然バッテリーが死んだ」「整備性が悪くて、その度に結構な資金が要る」「定期的にかなり重要な部品の交換が必要で、それが維持することの障害になっている」「格好は良いかも知れないけれど、国産車においてかれる程度の性能」・・・

やはり初心者には無理なのかもしれない。榊原と云えば高校時代からダートラや走行会に参加して、今では公道を走れないサーキット専用のシビックなどをも所有するほどだ。
これくらいの輩でないとイタリアのジャジャ馬みたいなのは難しいんだろうな、などと思いながらあの時156の話をしながら瞳を輝かせてた睦子のことを思い出していた。

「じゃぁそういうことで。彼女と一緒に来なよ、あ、彼女にスケッチブック持って来させてな。俺の159をチャコールで書いて欲しいんだ。あの娘のデッサン俺、好きなんだ。」

準也は156のことを調べているうちに偶然見つけた156のラフスケッチを思い出していた。
それこそ初めて彼が156を見た時に感じたあの感覚を如実に表現していたスケッチそのものだった。

機械でありながら獣のような躍動感を感じる。あたかも骨と筋肉が表皮の下にあるのではないかと見まごうばかりのボディシェイプ。きっと優れたデザイナーがデザインしたに違いないことは、準也でも簡単に想像できた。
かつて80年代に流行ったエルゴノミクスデザインは機械の持つ独自の冷たさを、素材や"見慣れたもの"をモチーフにデザインに取り込むことで新しい風を吹き込ませたけれど、この156はそれとも違う。
「存在そのものがもう機械であることを否定して」いる。
しかし美術を学ぶ睦子にはそんな言葉じゃなく、きっと彼女の造形に対する感覚器官へ直接アプローチしてしまったデザインではないのか。
準也は調べれば調べるほどに156のことが頭から離れなくなっていた。
とは言え、維持することの難問は初心者の準也の前に立ちはだかっていたけれど。

決断

「おはようございます。」

「おぅ、おはよう。これ彼女にあげといて。スケッチのお礼。このチョコ好きだったよね。」

「ありがとうございます・・・何か朝から慌ただしいですけど、なんかあったんですか?」

「準、9時から緊急部会だ。この前の資料は後でいいから取り敢えず会議室に行け。」

準也の所属する営業部第1課には海外支局があった。大きな商社だったので当然ではあるが、ずっと高値で動かない円高と海外需要の落ち込みで、さすがの大手商社である準也の会社でも海外支局のテコ入れは火急の要件だった。
それに加え、リオデジャネイロ支局の一人が不慮の事故で帰国を迫られ、営業部としては有能なメンバーを急遽リオに異動配属しなければならなくなった。

「先輩、チャンスじゃないですか!先輩ならリオですぐにでも支局長になれますよ。此処にいても頭打ちですし、ラテン語を少しでも話せる先輩なら鬼に金棒じゃないですか。」

「う~ん。お前も平気でズバッと言うなぁ。人の気持も知らないで。そりゃあ宮仕えの身となれば、何としても取りに行くさ。けどな、実はあいつ、そろそろ結婚したいって言い出してるんだ。」

「え!結婚ですか!それはまた・・・」

「まずいよなぁ・・・俺はどうしてこうも間が悪いんだろう・・・」

夕刻になり、今夜は榊原と二人でいつもの居酒屋に行った。
榊原の悩みは結婚が近いことが当面の問題ではあったが、最大の問題は榊原の父親の体調だった。

「そうだったんですか。お父さん、そんなに・・・」

「あぁ、末期癌らしい。まぁそれほど急を要する程のことでもないけれど、この頃は元気なくてな。こんどの159だって、本当は親父のこともあってさ。」
「親父は若い頃からアルファロメオが大好きで、でもよそんなに裕福じゃなかっただろ?結局一度も買えず仕舞いでさ。」
「家には古めかしいアルファの本が随分沢山あるんだよ。一番欲しかったのはスパイダーだったらしい。ボートテールで白のスパイダー。確かに写真で見ればたまらなく雰囲気がある。でもさ俺には無理だ。第一、二人乗りじゃぁお袋が乗れない。」

「で、セダンを選んだんですね。」

「そうさ。恐らく159を手放す時期がやってくる前に親父はいなくなっちまう。車道楽をさせてくれた親父とお袋にせめて俺が・・・」

「すぐに結婚しなきゃダメですよ!お孫さんの顔を見せてあげたいじゃないですか。」

「このやろう、どうしてお前はそういうことを平気で言いやがる。わかってんだよそれも、だからあいつはここに来て結婚の話を早めたいんだ。それなのに俺が一人で外国の支局など行けるわけが無いだろう!」

榊原の彼女も彼の父親がそれほど長くないことを聞いていた。榊原は部内でも図抜けて優秀な評価を受けており、今回のリオの件では既にまっ先に白羽の矢が立てられていた。
準也はそんな榊原を部下として羨ましく且つ、見習うべき先輩として常に意識していた。


「ただいま。」

「お帰りなさい。また榊原さんと一緒?いい先輩だからって奢ってもらってばかりじゃ失礼よ。」

「オヤジは?」

「居るわ、もう奥の部屋に行っちゃったけどね。たまには夕飯、一緒に食べてあげなさいな。」

奥の書斎に向かう準也の後ろ姿は若い頃の二三雄にそっくりだった。けれど二三雄はいつもワイシャツの上に制服のジャンパーを着ていて、準也のようなスーツ姿ではなかった。
上着姿の二三雄を見たのは初めて会ったクラーク氏を紹介した時と、結納で挨拶にきた時くらいだった。何しろデートにも制服のジャンパーで来てしまうような人で、最初の頃は「選ぶ相手、間違ったかしら」と思ったくらいの仕事しか頭にない人だった。

「オヤジ、良いかい?」

「うん、どうした珍しい。雪にならなきゃいいけど。」

「降るわけ無いだろ、まだ8月だ。そんなに冷やかすこともないだろう。」

「で、何だ。仕事のことなら俺にはわからんぞ、商社マンってのは付き合いにくかったからな。」

「実は・・・」

さすがの準也も困っていた。
リオの一件はまたとないチャンスであることに変わりない。
榊原が無理であればそのチャンスは他人に取られてしまう事になるが、これは準也としても忍びなく、実力が伴わないのは重々承知で自ら名乗りを挙げたいと心が動き始めていた。
それでも日本のために貴重な人間でありたいという想いは、やはり二三雄の血を引く、いやもっと言えば祖父の代から引き継がれた坂戸家の血筋なのだろう。
ざっと事の顛末を話し、榊原の父親の容態についても少しだけ伝えた。

「うむ。お前がそれでいいと思うなら構わない。恐らく私がお前の歳で同じ境遇だったら多分怖気づいて諦めただろう。けれどこの年になって思うのは迷ったことはやるべきだったという想いばかり残っている。
私も一応は文献に乗るようなこともしてきた。だけど本当はもっともっとやりたかったことは沢山あったんだ。悩むことは有意義だけれど行動に移さなければ無駄だ。人生の浪費だ。」

「うん。ありがとう気持ちが楽になったよ。明日先輩に伝えるよ、俺に行かせて下さいって。」

そこに明日香が入ってきた。紅茶のセットとクッキーを乗せたトレイを持って。

「ん、明日香か、どうした。」

「男だけでずるいなぁ~って。私にも聞かせて頂戴。」

立ち聞きといえば聞こえが悪いが、とうに明日香はドアの前で成行きを聞いていた。
準也はもうしばらくすれば私達の手から離れていくのだと、望まずとも確かめることになってしまったことを少し悔いた。


「中古車屋さんてなんだか入りにくいね。」
睦子は身の置きどころを探すように、準也の腕に組んだ手を組み直した。

「一応先輩から紹介してもらってるから大丈夫だよ。アルファロメオとかフィアットとか、それにほらフェラーリなんかも扱ってるから、イタリア車中心のお店だって。」

「フェラーリねぇ、私から見たらアメリカの車みたい。って言うかアメリカ人の眼というバイアスが掛かった、イタリア車ってこうだろっていうデザインに感じられちゃう。」

「へぇそうなんだ。貴女が言うならきっとそうなんだろうね。僕には手が届かないところにある車だから興味もわかないけど。」

休日に突然準也は睦子を呼び出した。
二三雄と久しぶりに話した翌日、準也はリオへの配属について志願する意思を榊原に伝え、上司へ進言してもらえる事になった。
案の定、鵜の目鷹の目のエリートが複数名、名乗りを上げていることも知らされて準也は変な興奮を覚えた。
次に準也がやらなくてはいけないこと、それは取り敢えず156の実物を見ることだった。いや出来れば少し走らせることが可能であればとも思ったが、それは望外のことだった。

「こんにちは。榊原さんからの紹介で来た、坂戸ですが。」

「やあ、待ってたよ。どうぞ。」

オヤジとは違うけれど、機械を相手に働いていることがすぐ分かるような風貌のマスターだった。聞けばイタリア車ディーラーの主任メカニックを経て独立してもう10年になると。

「じゃぁ早速見てみるかい?ざっと綺麗にしておいたよ。実はシルバーの156はそれほど多くないんだ。赤と青ならグレードに限らず探しやすいんだが、初期型のシルバーでマニュアルっていうと結構タマ数は多くないんだ。」

「え~と、これは2.0のツインスパークですね。ってことは5速マニュアル。。。」

「詳しいじゃない。とても初心者には見えないね。V6は絶品のエンジンだけど維持しやすいのは2.0だね、確かにピストンが2本、排気量は500cc少ないけれど、それはそれほど悲観的な数字じゃない。それより日常的な回転域では、4発の回り方は6発よりトルクの出方が気持よくて、MTなら発進時など毎回頬の筋肉がニヤける程だよ。
榊原くんのは新しい型のエンジンだから単純にコレとは比べられないけれど、彼の2.2Lはこれより270kgほど重いんだ。だから走らせて気持ちがいいのはこっちだね。」

「はい。調べたらV6はやはり維持するコストがそれなりに高くなるということでした。初めてイタリアの車を買うなら、維持しやすいほうが良いのではないかと思います。
先輩の159にも乗らせてもらいましたが、確かにがっしりとした車でしたね。」

「ねぇ準くん、座ってもいいかな。私、室内の雰囲気が見たくて。」

「どうぞ。お嬢さんは助手席かな。坂戸くんは運転席へどうぞ。」

「・・・・・これ、好き。なんかドアを閉めると前のガラス越しに見える大通りが、スクリーン越しに見てるみたいだよ。榊原さんのよりロマンティック!」

睦子の第一声はこれだった。
しかし準也は黙ったまま、これがヨーロッパの感性なのかと丁寧に見渡していった。
回転計と速度計が大きく赤い文字で描かれているのも気に入ったけれど、全体を大きな曲線で繋げているヌメッとした空間が何故か不思議な感覚だった。榊原の159に乗らせてもらった時にも味わいの違いに少々驚いたが、この車は味わいが違うなどというレベルではなかった。
僕らの尾骶骨にしっぽの名残りがあるように、不要な盲腸が残っているように、これはきっと先祖からの遺伝子を現代にも受け継ぐ造形なんだろうとそんな風に理解した。

このあたりは睦子の得意とするところだろう。自分には言葉では表現できないけれど、きっと彼女の言うロマンティックとはこのことか、なるほど上手いことを言うなぁと感心した。
(この感じ、俺も好きだよ睦子。上手く言えないけど少なくとも自分の周りにはこういうテイストの空間は無いよ。なんだろう、この感覚は。)

その後、マスターの好意から近くを一回り乗せてもらった。勿論運転はさせてはくれなかったが、助手席に準也、後席には睦子が座った。
気になっていた156のエンジン音も聞くことができた。マスターはMTを操り、流れに逆らわず銀色のボディを過不足なく流れに乗せていく。
イタリアの車ってのはもっと勇ましい排気音を吐き出すのかと思っていたが、かなり普通の音だったのには少々期待はずれだった。けれどこのキャビンに座っている限り、高周波音や破裂音を盛んに吐き出すのは似合わないことも確かであると準也は感じていた。

途中で停めてもらい、睦子と準也は席を変わった。
後ろの座席に座るなんてオヤジの車にのって家族旅行に行った時以来だった。
あの時は碓氷峠を越えオヤジの会社の別荘がある軽井沢に宿を取り、白糸の滝を見に行ったことを覚えている。
お袋が助手席で俺は一人で後ろに座った。その頃は何かオヤジの隣に座るのが気が退けたからだ。

後席から見る景色は確かに睦子の言う通りだった。運転するマスターと助手席の睦子、そしてその前に広がるごく日常的なはずの景色。しかしその景色は普段見慣れている景色と少しだけ違って見える。
面白いものだな、と準也は独り言を呟いた。



「坂戸くん」

「はい。お呼びでしょうか。」

「あ、榊原くんも一緒に、すぐに2-Cの打ち合わせ室に来てくれ」

翌日出社して暫くすると部長から声を掛けられ、準也は榊原と二人、打ち合わせ室に呼び出された。
勿論話はリオの異動人事の件。結果から言えば、坂戸はなんとリオへの異動を認められた。
自分より社歴の長い数名を飛び越し、社内では「飛び級人事」なる造語まで出る始末。
坂戸は選考に貼りだされた名簿を見た段階で、この件は諦めなければならないと覚悟していたこともあり、驚きとともにその喜びは並大抵ではなかった。

「やったな、流石は営業部1課のルーキーだけのことはある。よし、今夜は早く切り上げてみんなとともに祝杯だな。あ、言っておくが今夜はお前の奢りだぞ。中には涙と一緒に酒を飲むやつだって居るんだからな。」
榊原は事あるごとに目をかけた坂戸が選ばれたことを自分のように喜んだ。今回の人事では榊原の推薦状が大きく功を奏したことは明らかだった。それは俺の代わりにと言ってくれたあの言葉を実現させてやりたいとの榊原のできる精一杯の恩返しだった。

「まあまあ、榊原さん。ごめんなさいね面倒をお掛けして。これ!準也、しっかりしなさい!」

祝杯に酔いつぶれた準也を榊原は自宅まで送り届ける羽目になった。

「お母さん、ご報告はお聞きだと思いますが、準のやつリオへの異動人事で選ばれたんですよ。これって社内じゃ飛び級人事なんて言う奴まで出てきて、それで今夜は課内の仲間と祝杯を上げたってわけです。準は凄いやつなんですよ、目が覚めたら褒めてあげて下さい。」

「いつも榊原さんには良くして下さるばかりか、ご馳走にもなりっぱなしで、今夜だってこうやって送ってまで来て下さって。本当に有難うございます。もう電車も無いでしょうからこれでタクシーでも。」

「いや、それは・・・」

「駄目だ榊原くん、私からもお礼を申し上げなくちゃいけない。もうタクシーは私が呼んだ。是非そうしてくれ。」

二三雄が後ろから声をかけた。その声に反応したかのように準也は言葉にならないような声を出した。

「・・俺は・・俺は・・アルファロメオを・・・」

「何?何言ってるのこの子、準也、榊原さんにお礼を言いなさい。」

(俺は買うんだ、あの156っていう車を。日本を離れる前に買うんだ。そして睦子の家に置いておく。睦子と俺が初めて共感できたのはあの車だったんだ。睦子がどうして魅力的に思えるのか、その答えはあの車が教えてくれた。俺に一番足りない所を睦子は持っている。だから日本に帰ってきたらおれは睦子と一緒になる。だから俺はあの車を買わなくちゃいけない。)

玄関先でうずくまる準也の口からは聞き分けられるような言葉は出ていなかった。
けれど朦朧とした意識の中、準也は何故かはっきりと醒めた意識でこれからの自分の行く末を決め始めていた。

憧憬

準也がリオへ赴任するのはこの冬になることに決まった。
本当は一刻でも早く赴かなければならないのだが、準也の仕事をきちんと引き継ぎ、部内の業務も滞り無く機能させるには若干の準備期間が必要だった。
異常なほどの暑さが続いた夏も終わる頃、二三雄は準也にひとつの提案をした。

「準也、覚えているか、母さんと三人で軽井沢に行ったこと。あれきりお前は一緒に出かけてくれなくなったがな。」

「あぁ、覚えてるよ。9月だったけど暑い日だったね。けど白糸の滝の前で暫く休憩してたら、寒いほどだったこと、よく覚えてる。」

「そうか。実はな、母さんと話したんだが、お前が日本を離れる前にもう一度三人で軽井沢に行かないかって。」

偶然にも先日156に試乗した時に思い出した軽井沢の旅行、再訪しようと父が言い出すとは、と準也は言葉を飲んだ。

「会社の別荘もこの時期なら借りやすい。たまには私の車に乗るのも悪くないぞ。」

「あぁ、そうだね。このところ仕事に忙殺されている。部長からもいまのうちに休暇取っておけって言われているんだ。」

一番喜んだのは明日香だった。まさか、また三人で軽井沢に行けるなどとは夢にも思っていなかったからだった。
一人で盛り上がる明日香の進言により、折角だからと混雑する土日を避け、10月の平日に休みを取って2泊3日の旅行と決まった。


コースは関越道を進み、一度前橋で一般道へ。理由は何としても碓氷峠は旧道を走りたかったからだ。
20年以上前に行った時も碓氷峠は旧道を抜けたので、今回も同じ道を通りたいと、これも明日香の提案だった。

二三雄の車は1985年型の国産車。この頃日本ではいわゆるバブル景気で自動車産業も活況を呈していた時代だった。
あれから30年近く、きちんと手入れをして二三雄はこの車を大事に乗り続けていた。
それなりにメンテナンス費用は掛かるものの、バブル時代の生産車は実は企業の資金力もあり、結果的には生産コストも潤沢に掛けられていた車も多く、バブル以降のものと比べ生産品質の高い車が多かったこともまた事実である。

そんな二三雄の車は関越道を快調に走る。今日は準也が助手席だが理由はこれもまた明日香の提案。
明日香はお気に入りのピクニックバスケットを運転席の後ろに置き、準也の後ろに座っていた。
このピクニックバスケットは明日香が留学中に一目惚れで買ったものだった。
皿とカップはマイセンのテーブルウエアーがセットになった、もう年代物のピクニックバスケットだ。
一番気に入っているのは、皿だけではなくナイフやフォークの柄の部分までマイセン磁器で作られているという手の込んだ作品であるということ。
これは日光に出かけた時にも持っていったが、クラーク氏は一目見るなり、是非譲って欲しいと繰り返し明日香に頼んだものだった。

「喉、乾かない?」

「いや、大丈夫だ。それよりそろそろ前橋だな。高速を降りたら少し休憩しよう。」

「準也は?お茶あるけど。」

「うん、貰おうか。」

明日香はにっこり微笑んでお気に入りのマイセンのカップにジャスミンティーを注ぐ。揺れる車の中で磁器のカップで紅茶を飲むなど酔狂にも程があるが、これは坂戸家の習わしだった。
勿論運転手である父親はいつも休憩時に飲むほか術はなかったが。

「さて旧道に入るぞ。」

二三雄は誰に言うともなく一人ごちた。そしてそれがきっかけかのように明日香が話し始めた。

「準也、お父さんが何故この車を手放さないか不思議に思ってる?」
「この車はね、世界で技術的に高い評価を受けた初めての日本車なの。もちろん輸出はしなかったけど、発売後暫くして海外の有名なメーカーが研究用に購入したらしいのよ。」
「どうしてこの車は歳をとらないのか、どうしてこの車は過酷な条件でも音を上げないのか、どうしてこの車はこんなに燃料消費率が少なくて済むのか。何の変哲もないファミリーセダンなのに黙々と自分の役割をわきまえて目立たずけれどしっかりと働き続けるのか。」
「お母さんは技術的なことは判らないけれど、それはお父さんの開発した金属工学に依る新しい素材に依るものだったの。正確にはお父さんのチームだけど。」
「お父さんと出会うきっかけとなった私の元上司、ほら準也も遊んでもらったでしょ、クラークさん。彼はこの新しい技術とその加工技術を、実現化を主査した人物の名前をとって"坂戸マジック"って呼んだの。」
「英文字でsakadoって検索するとヒットするのはお父さんの名前。これはこの時の偉業を今でも沢山のメーカーが研究しているからなの。」
「そしてもうあれから30年。この技術はごく普通の技術になったみたい。でもお父さんはこの車を大事に乗り続けることで、自らの研究の結果がどれだけの耐久性を持っているかを検証し続けているのよ。それが自分の責任だと思って。」

珍しいことだった。明日香がこんなにハッキリと自ら話しをすることは、準也は記憶している限り2度めだった。
そう、経済学部を選んで勝手に受験した時以来だった。

「まぁこれが自分の役回りってやつだ。俺の生んだ子供の行く末は俺にも見守る責任がある。」

二三雄は明日香の喋り終わるのを待っていたかのように呟いた。
準也は自分の父が有能なエンジニアであることは理解していたつもりだった。けれどこの年代物の車にそんな云われがあることまでは知らなかった。
それにしても母親が何故ここでそんなことを言い出したのか。考えてみればここ暫く、仕事の忙しさにかまけて二人ときちんと話をする時間さえ作らなかった自分に少し反省をした。

「ん?後ろから屋根を開けた車が来る。追い越させようか。」

決して広くはない峠道だったがどうにか追い越せる場所に差し掛かると、二三雄は僅かに車を左に寄せ、速度を緩めた。
シフトダウンして回転数を上げたのがはっきりと分かるエキゾーストノートを響かせ、屋根を開けた115スパイダーが二三雄の車を追い越す。
峠の秋風を受けて心地よさそうな表情の二人は、追い越しながら先を行かせてくれた二三雄に向けて片手を上げて感謝の意を示した。
やがてスパイダーは少し先の左コーナーに差し掛かる。ゆらりとテールをロールさせ、うっすらとブルースモークを吐いて再び野太い排気音が辺りに響き渡った。
再び速度を上げた二三雄は思いがけずこんなことを言った。

「技術屋としてアルファロメオという車は全く評価できない。しかしサンプルで幾つかのエンジンを分解してみると非常に絶妙なバランスで造り上げられている事実に気がついた。エンジニアは純粋に技術と工学の向上を目指すのだが、あれはどうやら違う方向に進化したらしい。作っている人間の感じられる技術、数字や計測器だけでは作り得ない工芸品。だからあのティーポ115スパイダーには私のメタルは使えない。」

(なんてこった!オヤジはアルファロメオを知っていたんだ。それも技術者という立場で。)
準也は次に発する言葉を探してから、こう尋ねた。

「で、オヤジはアルファロメオは嫌い?」

「好きでも嫌いでもないさ。そういう評価軸ではあの車は測れない。強いて言えば不思議な車だ。もっと言えば羨ましい車かな。」

「羨ましい?」

「そうだ。エンジンにかぎらずシャシーもサスペンションもスタイリングも、生産性とコストと整備性を無視したような車作りだ。普通ならあんな車作りは会議でまず落とされる。しかしあの車を作っている奴らは思っているんだ。自分たちが信じている技術を研ぎ澄ませ、緻密なバランスを持って作り上げることが大切なんだと。まるでローマ時代の大理石彫刻のように、奴らは独特の美学を懸命に表現したがっているようにしか見えない。だからこんな車なら売れる筈だ、いや売れるに決まっていると、誇りを感じるね。」
「戦前ならいざしらず、そんな志を持てる技術者が集まってあの車を作っているとするならば、技術者としては嫉妬に近い羨ましさを感じるよ。」

準也は次の言葉を探したがついに見つからず、黙ったまま前を向いていた。
車は全く快調なまま碓氷峠を下る。すぐに二三雄の会社の別荘のある旧軽井沢に到着した。

リオに出かけるまでの僅かの時間はあっという間に過ぎていくのだろう。こうやってオヤジとお袋と一緒に過ごす時間は、準也にとって今更ながら貴重に思えた。
白糸の滝にも出かけたが、あの頃より小さく見えたのが不思議だと思ったり、木立の間から見える三笠ホテルが懐かしいと感じる自分が興味深かった。

予想以上に楽しい休日を過ごせたと思う。お袋は後生大事にピクニックバスケットを持ち歩き、別荘の庭にロイヤルタータンのラグを広げ、大好きなハーブティを振る舞ってくれた。
オヤジは相変わらず無口なまま、どこに詰め込んできたのか仕事の本を広げて目で追っていた。


「はい、これお土産。」

「あ~そうか、準くん軽井沢に行ってきたんだったよね。あ、このクッキー有名なんだよ。よく知ってたね。いっただっきまぁ~す。」

「ふ~ん。有名なんだ。お袋がね、睦子にはこれにしろ、って選んでくれた。」

「やっぱり準くんのお母さん、分かってるなぁ~。うん、やっぱり美味しい。」

「俺ね、あの156買おうと思っているんだ。」

「え、だってリオに行っちゃうのに誰が乗るの?私、免許持ってないよ。」

「ああ、もし良かったら睦子の家のガレージに置いてくれないか。おれが帰って来るまで。」

「う~ん、ガレージ空いてるから置くことはできるけど、お父さんなんて言うかな。」

「お父さんの車の横に置ける?何ならお父さんに時々乗ってもらっていてもいいんだ。」

「そしたら私も乗せてもらえるね!うん、説得しちゃう!」

それから先は本当に忙しい毎日だった。こんな時期に経験ある即戦力の中途採用ができるわけもなく、結局、準也の受け持っていた仕事の殆どは榊原が引き継いだ。
自宅の部屋は明日香が掃除だけしてくれた。どうせ3年も経たずに帰って来るんだから、向こうでの生活に必要な物だけ持って行って、後はこちらで綺麗にしておくと。

156は購入することが決まり、僅かばかりの貯金に加え榊原がくれた多すぎる餞別を加えた額を頭金にした。残金は振り込まれる準也の給与から引き落としで支払うことにした。
ガレージ利用については名義を睦子の父親にしなければ車庫証明が取れないという問題があったが、拍子抜けするほど簡単に睦子の父親から承諾を得られた。

出発まであと2週間、準也は睦子を乗せてツーリングに行く事を考えていた。

「じゃぁそれで。明日の朝迎えに来るよ、自転車でね。」

「途中で転ばないでよ。2駅くらいあるんだから。」

日帰りで行ける所でこの時期まだ少しでも紅葉が見れる所、準也は中央道小淵沢I.Cから八ヶ岳高原ラインを抜け、清里を目指すコースに決めた。


この夏が異常に暑かったということで、今年の紅葉は今ひとつ発色が良くないとテレビでは報じていた。
しかし野辺山から清里の丘陵地を進むに連れ、目の前には男の準也でさえ声を上げるような見事な紅葉が続いていた。
ウルシ、山葡萄、ブナ、落葉松、楓、準也が見て判るのはそれくらいだった。
中古車店のマスターのようには上手く運転できなかったけれど、準也は八ヶ岳の裾野を走る周遊道路を、できるだけ丁寧に運転した。

「・・・ねえ、睦子。・・・」

「ん?どうかしたの?」

「いや、やっぱり来てよかったね。」

結局準也はこれからのことについて何も切り出せなかった。
睦子の家に戻り、父親にお礼を述べ、ガレージを去る時ふと、ボンネットの端を軽く叩いてこう呟いた。

「ありがとう。お前のおかげだよ。」

睦子は玄関先で手を振って見送ってくれた。準也は自転車に跨って漕ぎだした。
吐き出す息の白さが旅立つまでの時間の少なさを告げていた。

決断

見送りは榊原の運転する159で送ることとなった。後席には明日香、睦子が乗って。
成田までの道のりは渋滞も無く快適で、成田に近づくにつれ辺りは殺風景な景色が続くようになった。
明日香は自分が留学したときのことを懐かしく思い出していた。

あの時は父親の運転する車で来た。新学期にあわせるよう、8月末の残暑の厳しい時だった。
父親は終止無言で成田空港(当時は新東京国際空港という呼称だったが)まで送ってくれた。
明日香の父はジャガーのファンで、このときはオーストラリアでレストアを受けたMarkⅡを購入し所有していた。
子供のころから明日香はジャガーの乗り心地やエンジン音が好きで、小さいころ神経質で寝つきが悪く母親を困らせていた明日香は、なぜか父の運転するジャガーに乗るとすぐ眠りに落ちた。
明日香の母は時折り父に頼み、眠れない明日香を寝付かせるため、ジャガーに載せて近所を一回りしてもらったりしたこともあった。

空港では父親は『しっかりやってこい』とだけ告げ、唇を一文字に結んだままだった。
明日香の母親はと言えば、あたかも今生の分かれのような顔つきで私の手を取り涙を浮かべていた。
留学期間中には一週間に一通手紙を寄越すほどだった。けれど万年筆の青いインクが明らかに涙で滲んでいるのが見えて、明日香は手紙が嬉しくも悲しかった。
あれからいろいろのことがあったけど、まさか海外赴任する息子を見送る母としてまた成田に来るなんて思ってもいなかった。
準也が飛行機に乗り込む姿を見て、私も涙をこぼすのかと。そんな想像すると、なんだか可笑しくなってふと笑ってしまった。

「どうしました?」

明日香が微笑むの見た睦子は不思議そうに尋ねた

「榊原さんの車ってきれいな車ね。うちの車とは大違い。準也の車にはまだあまり乗っていないけど、どんな感じなのかしら。」

「準也さんの車は、ドラマチックでした。」

「まぁ不思議。ドラマチックなんて準也には一番縁遠い言葉なのに。」

(清里へのドライブはドラマチックだったよ準也。難しい顔ばかりしていたから海外への赴任に悩んでいるものばかりかと思ったけど、本当はそれだけじゃなかったんだよね。私は不思議だったんだ、わざわざうちのガレージに車を置かせてくれって言われたとき。
日本に帰ってから買ってもいいのに何故?ってね。帰国後では程度の良い中古車を探すのは難しくなっちゃうって言ってたけど、理由はまだあるんでしょ。
私も乗ることができてうれしかった。だって156の画像を見せたときの準也の顔、仕事以外であんな顔をみたのはあのときが初めてだったよ。すごく準也が近くに思えた。)

実は睦子も心に決めていたことがあった。
睦子の家に準也の買った156が棲むようになってから彼女は気が向くとクロッキーを走らせ、156のデッサンをした。
WEBサイトでアルファロメオの歴史を紐解くと、イタリア本国にはアルファロメオの博物館があるということを知った。そこには睦子の知的好奇心を騒がせる宝石のような車ばかりが並んでいた。

睦子には、この博物館に所蔵された車たちは自分の学んできたインダストリアルデザインを超えた造形を呈していた。
そこには戦前のオートクチュール、戦後の小型車、そして自分の父母の時代にも目を引き付けるデザインのアルファロメオがあった。
(ムゼオ・アルファロメオに行こう。実物を見なければ理解できない。)
来春睦子は春休みを利用して単身イタリアへ行くことにした。
睦子にはなぜだかわからないが、156は突然発生した異種ではなく、100年以上の歴史に流れるアルファロメオの血が生んだデザインであると確証もなく決め込んでいた。

それぞれの思いを乗せた榊原の159は成田に着いた。
明日香は賑やかになった北ウイングをゆっくりと見渡し、長かったような短かったようなこの30年近くの時の流れを感じていた。

睦子は自分もまた冬が過ぎたらここから出かけて行く。睦子は自分のやりたいことがおぼろげに見えてきたように感じていた。
『歴史を紡ぐ造形を仕事としたい・・・』

搭乗手続きを済ませた準也が榊原とともに近づく。頬を少し紅潮させたかのように見える準也に榊原は手を差し出した。

「しっかりやってこい。お前ならうまくいくさ。そうだ俺の分までやってこい。思いっきりな。」
準也と榊原は男同士の強い握手をした。
その静かな、けれど確固とした意思を発する握手を見て、明日香はかつてクラーク氏と二三雄が交わしたあの固い握手の情景を思い出した。

そう、この握手からそれぞれはそれぞれの扉を開ける。
明日香はまもなく自分の元から巣立つ一人息子を見送り、そして実直で堅物な夫との生活。
榊原は守るべきものを背負い込んで進む、一家の主の道を。
睦子は確信を持って自分の成すべきことを突き進むその先を。

そして準也はこの1年弱の間に起きた出来事を走馬灯のように思い出しながら、これから始まる新しいけれど険しい道に思いを馳せ、そして武者震いのような緊張を覚えた。
握手をする二人に睦子は声を掛ける。

「準くん、さあ目の前の扉を開けて行くのよ。私にも扉が見えてきた。準くんはもう準くんの扉に手を掛けているでしょ。行ってらっしゃい、扉の向こうへ。」

それぞれがそれぞれの新しい扉を開く。しっかりと自分の手でノブを握り、ドアを開け放ち前へ踏み出す。
明日香は搭乗口に向かう準也の背中に、JVで成功した時の表彰会場に入場する二三雄の姿を見た。


飛び立つ飛行機を見送った三人は榊原の159へ戻る。ドアを閉めて走りだすと、榊原は準也の抜けた分だけ軽くなったアクセルペダルの踏みごたえを感じ、不覚にも前車のテールランプが滲んで見えた。
明日香はバッグから取り出したハンカチを榊原に手渡した。

扉の向こう

扉の向こう

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 邂逅
  3. 回顧
  4. 決断
  5. 憧憬
  6. 決断