汚部屋の迷探偵

 どうしよう!
 ネコが家から出て行っちゃった!
「マーブル? マーブル?」
 何処にいるんだろう。隠れてるのかな? 色んな所を覗いて呼んでみるけど、やっぱり何処にもいない。
 もしかして、洗濯物を取り込んでいる間に出て行っちゃった? ここは1階だから、その可能性は充分あり得る。
「ああ〜、どうしよう!」
 セットした髪を搔き毟る。見た目なんてどうでも良い。1人暮らしを始めてから家に来た、相棒、いいえ、妹のようなあの子の方が心配よ!
「そうだ、交番!」
 警察の人に言えば探してくれるかも。……いや、多分あの人じゃ取り合ってくれないだろうなぁ。いっつも競馬観てるし、何かやる気無さそうだし。
 じゃあどうすれば良いんだろう……。
 困る私。そんな私を更に追いつめるかのように、刻一刻と講義の時間が迫ってくる。ネコがいなくなったなんて理由じゃ大学も認めてくれないし……。
「ごめんね、ホントにごめんね」
 姿の無い家族に手を合わせて謝ってから、私は家を出た。
 近所のおばさんが挨拶してくれた。でも、頭がパニックになっていてきちんと挨拶することが出来なかった。いつも優しくしてくださる人なのに。後で謝らなきゃ。
 電車に揺られている間も、キャンパスまで歩く間も、私は妹のことを忘れることがどうしても出来なかった。気がつくとマーブルのことばかり考えている。そんな調子だから講義にも全く集中出来ない。肝心なところを何度も聞き流してしまった。講義中ずっと最悪の事態を幾つか想定していて、気がついたらチャイムが鳴って終わっていた、という感じ。ノートもまともにとっていない。
「ねぇ、真美? ねぇ! ちょっと、大丈夫?」
 ぼーっとしている私に、友人の智子が声をかけてくれた。
「あっ、ごめん」
「ホントに、大丈夫? 何か思い詰めてたみたいだけど」
 智子はずっと私のことを気にかけていてくれたみたい。彼女が言うには、私はずっと前を見ているだけで、手が全然動いていなかったそうだ。そして何よりも、私の髪型が“危なかった”らしい。
「どうしたの、その頭? ボッサボサだよ?」
「え? ああ、うん。ごめん」
「いやいや、アタシに謝られても困るから。ねぇ、何があったか話してみ? 気持ちが楽になるかもよ?」
「うん、ありがとう」
 私は智子に悲劇の概要を説明した。ひと通り話を聞き終えると、智子は大笑いした。
「なんだ、ビックリしたよ! 真美が落ち込むくらいだから、何か変なヤツに付きまとわれてるんだと思ったわ」
 今の笑いは嘲笑ではなく、安堵から来た笑いだったようだ。
 智子からはいつも助けられている。私が変な男に引っかかった時も助けてくれたのは彼女だったし、お母さんが倒れた時はまるで我が家のことみたいに心配して、見舞いにも来てくれた。智子には本当に感謝している。
「マーブルちゃん、だっけ? ほら、いつも狭い所とかに隠れてたじゃん。帰ったらヒョコって顔出すかもしれないよ」
「わかった。もう1回探してみる」
「そうそう、元気出して! 見つからなかったらアタシも協力するから」
「うん。ありがとう」
 とは言ったものの、家にマーブルがいる可能性は限りなく0に近い。朝あれだけ探しても、あの子を見つけることは出来なかったんだから。
 帰りもずーっと、悪いことばっかり考えて余計に不安を増幅させていた。安心させようにも心のダメージは想像以上に大きくて、簡単には埋めることが出来なかった。
「はぁ、これからどうしよう」
 家へ向かう道中、下を向きながら独り言を呟いていた。前方から来る自転車に気づかず、あの小さなベルで怒られてしまった。一応謝ったけど、多分聞こえてないだろうなぁ。
 まずはやはり警察に連絡するべきか。駄目元であのおまわりさんを頼ってみよう。それからポスターを作って貼ったり配ったりして、あ、それかネットで情報を集めるのも良いかもしれない。今は広く情報を発信出来る時代だし、マーブルの写真を見た誰かが知らせてくれるかもしれない。
 ……でも、もう遅かったら?
 ほら、こんな風に、どんなに気持ちをプラスに持って行こうとしても、何処からともなく暗い考えが出てきて、心をマイナスにしてしまうのだ。朝から今に至るまでその繰り返しだ。
 公園に差し掛かったところで、ネコの鳴き声が聞こえてきた。マーブルかもしれない。声のする方へ行ってみた。でも、そこにいたのは妹とは似ても似つかない黒くて横に大きなネコだった。黒猫は私にガンを飛ばして帰って行った。
「違ったか……え?」
 黒猫が向かった場所から、1人の男性がぬっと現れた。服も肌も汚れていて、2メートル以上離れているのに妙な臭いが漂ってくる。足下には先程のネコが。
 主だ。公園の、そして黒猫達の主なんだ。
 男があのネコと同じような視線を送ってきたので、怖くなって逃げ出した。振り返って確認したが、男が追いかけてくることはなかった。
 ため息をついて再び歩を進める。また少し進んだ所でネコの鳴き声が聞こえた。また違うネコなんだろうなぁ。でも、一応気になるので探すことにした。
 ぱっと顔を上げると、声の主はすぐに見つかった。
 薄茶色の服を着ている男の人に抱かれた、白地に黒い縁のあるネコ。首には見覚えのある青い首輪をつけている。あれは、もしかして……
「マーブル!」
 私が呼びかけると向こうも気づいたみたいで、どうにか男の手から逃れようとジタバタしだした。男はそれを必死に押さえている。私のネコに何をする気なのだろう。男に歩み寄って問い質した。
「あの! そのネコ、家の子なんですけど!」
「い、いや、違うよ。この子は、えーっと、名前は忘れちゃったけど、お客さんが探しているネコだよ!」
 歳は20代後半か。髭を剃れば少しはイケメンに見えるかもしれない。痩せ形体型で、身長は私より少し低い。私が167センチだから、だいたい164か5くらいか。
 男はズボンのポケットを弄って1枚の汚い紙を取り出し、それを私にも見せてきた。青いペンで人の名前と電話番号、その下にペットの名前と特徴が書いてある。
「ほら。この子は、えーっと、田宮さん。田宮さん家の奥さんが探してるネコなんだよ。残念ながら君のネコじゃない。何ならここに連絡するかこの事務所に来てくれ。いつでも依頼に……」
「ちょっと待ってよ」
 私は紙を取り上げて目の前に突き出した。
「ここ、よく見て。首輪の所。なんて書いてある?」
「え? あー……赤い首輪をつけてる、って」
「ね? 赤でしょう? この子の首輪は何色?」
「えーっと、青、です」
 男は申し訳無さそうに答えた。悪い人ではないみたいだ。
「この首輪はね、誕生日に買ってあげた物なの。だから名前も書いてあるでしょう?」
「あ、はい。言われてみれば確かに」
「そう。この子は、私が探していたマーブルなの」
「……失礼いたしました」
 男は私の顔を見ずにマーブルを返した。マーブルは私の手の中であくびをしている。
「すいませんでした。色々ありまして」
「い、いいえ。私もちょっと、言い過ぎました」
「じゃ、じゃあ、ここはお互い様ということで。じゃあ!」
 そう言って、男は駆け足でその場から去ってしまった。
 何者なんだろう。事務所がどうとか言ってたけど。先程の紙を見て確認する。インクが薄くなっていたけど、何とか『丸山肇探偵事務所』と書いてあることがわかった。そして、もう1つ。
「あ、紙!」
 あの人、この紙が無かったらネコを探せないんじゃないだろうか。こんな大切な物を忘れてしまうなんて、ちゃんと探偵として働けているのだろうか。
 住所を見ると、事務所はちょうど家の近くにあった。裏面に雑な地図が書いてあったので、それを頼りに事務所を探してみる。
 公園を横切って、コンビニの辺りで右に曲がって、そのまま真っすぐ進む。私の家に向かう道とは若干違う。真っすぐ進むと小さい横断歩道、その先にコインパーキングが見える。この位置で右を見ると事務所がある筈だ。
「えっ?」
 思わず声をあげてしまった。私の右側に建っている建物は、ボロボロの日本家屋だったのだ。
 道を間違えてしまったのだろうか。いや、それは無い。ガラス張りの引き戸の上に『丸山探偵事務所』という木の看板が取り付けられている。
 これが探偵事務所。ビルの様な建物を想像していたのだが、それは大きな間違いだった。
 ガラス越しに中を確認する。小さなカウンターと休憩所みたいな所があって、その奥にも部屋があるようだ。その部屋の戸は今は閉まっている。カウンターにはおばあさんが1人ちょこんと座って待機している。
 そうだ、紙を返さなくちゃ。恐る恐る戸を引いて、挨拶しながら中に入った。
「あのー、すいません」
「ん? ご依頼ですか?」
 おばあさんはすぐに私に気づいて声をかけてきた。なんだ、寝ていたんじゃないんだ。
「あの、そうじゃなくって、ここの探偵さんが、コレを忘れて行ったので」
「う〜ん? ありゃ、コレは大変だ。坊ちゃん! 坊ちゃん!」
 おばあさんが奥の間に向けて呼びかける。その後、約1分程の間があって、戸がゆっくりと開いた。
「どうしました?」
 奥の間から顔を出したのはあの探偵だった。探偵は私の顔をじっと眺めた後、少しだけ首を傾げた。そして、
「依頼ですか?」
 こんな質問をしてきた。
 ふざけているのだろうか? さっき会ったばかりなのに。ムッとする私を見て、探偵も膨れっ面を、おばあさんは小声で笑っている。
「あの、さっき会いましたよね?」
「え? あなたに? いいえ、初めましてですよ?」
「そんな筈ないでしょう? 私のネコと、この田宮さんって人のネコを間違えたじゃないですか」
「いや、確かに探しには行った気がするのですが……あれ? そうだっけなぁ? それより田宮さんって?」
「坊ちゃん、ほらこれ」
 おばあさんが汚い紙をひらひらさせて探偵に示した。探偵は目を擦って部屋から出てくると、黙ってその紙を受け取った。まじまじと見つめた後、何かを思い出したかのように大きな声を上げた。
「ああ、田宮さんってこの人のことかぁ! 貼っておかないとな」
 紙をしっかりと握ると、男はまた奥の間へ戻って行った。
 その際、隙間から見えた景色が何とも異様だった。
 部屋中にびっしりと貼られた紙、紙、紙。全部何か書いてあるようだった。
 視線に気づいたのか、探偵は戸を閉めてしまった。しかし何を思ったか、私はあとを追って戸を開け、部屋に上がり込んだ。勿論マーブルは抱いたままだ。
「な、何、これ?」
 やはり何処を見ても紙ばかりだ。よく観察すると、それらがポストイットであることがわかった。大小様々なポストイットが、壁や柱、置物や窓にびっしりと貼られているのだ。貼られていないのは床と棚の引き戸だけ。
「ちょっとちょっと! 初対面で人の部屋に上がるって、君凄いなぁ! って、あれ? そのネコってもしかして田宮さんの」
「だから違うってば! 首輪の色が違うでしょ? 書いてあるじゃん、そこに!」
「え? ああ、本当だ。ん? 待てよ、何で君が内容を知ってるんだ?」
「ああ〜、もう! 何で、はこっちの台詞よ」
「あっはっはっはっ」
 私達のやり取りを聞いていて、おばあさんがお腹を抱えて笑い出した。私も探偵も、恥ずかしくなって顔を伏せた。
「面白い人だねぇ。坊ちゃん、この人は悪い子じゃなさそうよ? 話してあげたら?」
「いいよ、多恵さんが話してよ」
「全く。あのね、この人はねぇ、記憶能力に障害があるんだよ」
「えっ?」
 おばあさんの説明を聞いて謎が解けた。
 この男の人、通称坊ちゃんは、幼い頃に交通事故に遭い、脳に傷を負ってしまったそうだ。それが原因で、会った人の顔と名前、以前行った場所、更には僅か数分前に起きた出来事もすぐに忘れてしまうのだとか。部屋中にポストイットを貼っているのは、依頼や大切なことを忘れないようにするため。このサイズの紙なら持ち歩きも楽だし、たとえ忘れたとしても紙があれば思い出すことが出来る。
 そういえばさっきも依頼人の名前を思い出すのに紙を見ていたっけ。ネコの特徴を覚えていなかったのも、その障害が関係していたのだ。
 でも、そんな障害を持ちながら、この人は何で探偵を続けているのだろう。記憶障害を持っていたら捜査はますます大変だろうに。気になって聞いてみたけど、探偵は、
「うーん、それも、何だか曖昧なんだよね」
 と答えた。
 何てことだ。自分の夢や思いすらも思い出せないなんて。
「でも、多恵さんのことは覚えてるんだよね」
「生まれた時から一緒だったからね」
 詳しいことは教えてもらえなかったが、2人は古くからの仲らしい。
 そのとき、カウンターの黒電話が鳴り響いた。多恵さんは3コール目で電話に出た。
「もしもし。はい、そうですが。ええ、あ、田宮さん! ちょうど今……え? ああ! そうなの! 良かったねぇ! じゃあ伝えておきますね。 いえいえ、はい。はーい」
 依頼人の田宮さんからだったようだ。電話を切ると、おばあさんは顔だけ覗かせて坊ちゃんに内容を伝えた。
「田宮さん家のネコちゃん、帰ってきたって」
「え? 田宮さん? ……ああ。うん、わかった。じゃあこれは捨てよう」
 坊ちゃんはあの汚い紙を近くのゴミ箱に入れた。当然そのゴミ箱もポストイット塗れである。ゴミと一緒になりはしないのだろうか。
「もう終わったことだから、こうやって捨てておしまいにするんだ。だから、多分この依頼を思い出す時はもう無い」
 坊ちゃんがまだ覚えていることは、多恵さんのことと仕事の手順だけだった。なるほど、長年続けていると紙無しでも脳に焼き付けることが出来るのか。人間の脳ってホントに不思議だ、
 さて、1つ終わると、探偵は次の紙を取り外した。そこには同じように人名と地名が書いてある。
「また……坊ちゃん、その依頼、もうやらなくていいって言われたでしょ?」
「そうでしたっけ? ははは。じゃあ、この人はもう見つかったの?」
「い、いや、それはまだだったかしらね」
「だったら良いじゃん」
 坊ちゃんは部屋を見回して別の紙を探し、同じように取り上げた。記憶が抜けているのに、何故探している紙を容易に見つけられるのだろう。
 不思議に思っていると、多恵さんがまた教えてくれた。
 ポストイットには、依頼毎にサインをつけている。サインは色分けされているため、探偵はそれさえ追っていれば自ずと探している情報に辿り着くことが出来るのだ。
 今彼が探しているのは、何と1ヶ月前に頼まれた仕事の情報だった。



 それは、とても蒸し暑い日のことだったという。
「多恵さん、今日暑いね」
「そうねぇ」
「アイス棒無いの? それか、ガリガリ君」
「無いねぇ」
「ふうん。じゃあ、買ってくるよ。紙貸して」
 特に新しい依頼も入らず、平凡な毎日を送る2人。紙に買い物に出る目的を書いて、多恵さんからお駄賃を貰い、近くのコンビニへ行こうとしていた。
 その依頼人がやって来たのは、ちょうどそのときだった。ガラガラと戸が開き、白いワンピースを着た女性が事務所に入ってきた。
「あの、丸山探偵事務所というのはこちらですか?」
「はい、そうですが。あなた、もしかしてお客さんかね?」
「ええ。探してもらいたい人がいて」
 この時期2人目の依頼人。アイスの紙をポケットに突っ込むと、隣の休憩所で早速話を聞くことにした。
 女性の名前は本城加代子と言って、この事務所のことを知ってわざわざ隣町から来たそうだ。
 探しているのは、彼女の父親だという。何でも、数ヶ月前に出かけたきり戻ってきていないのだという。当然警察にも相談したが、結局見つけることは出来なかった。また、その間に父親が帰って来ることもなかった。
 そんなわけで、加代子が最後に頼ったのがこの探偵事務所だったのだ。
「お願いします。料金は倍払います。ですから、父を探してください!」
「わ、わかりました。でも倍じゃなくても良いですよ」
「ありがとうございます!」
 加代子は父親の名前、年齢、見た目の特徴といった情報を教えて事務所から出て行った。
 情報を得た探偵は、まず隣町に移動して探すことにした。父親の姿を見ている人がいるかもしれない。だが、男の姿を見た者は誰も居なかった。父親の行きつけの場所も調べたのだが、やはり見つけることは出来なかった。


「それで、結局そのお客さん、諦めちまってねぇ。でも、そのときの坊ちゃんはまだ諦めきれなくて、ああやって部屋に紙を貼付けてたんだ。で、その後は新しい依頼と勘違いして剥がしてる。貼っては剥がし、貼っては剥がしの繰り返しさ」
「そうなんですか」
「ああ、ごめんね! 長話になっちまった。ネコちゃんものぼせちゃってるよ」
 腕の中でマーブルがジタバタしていた。
 私は挨拶をして事務所をあとにした。この辺りに引っ越して2年くらい経っているのに、あの事務所のことを全く知らなかった。
 マーブルが私の方を向いて小さく鳴いた。
「あ、ごめんね。帰ろうね」
 雲行きが怪しくなってきた。やや駆け足でマンションへ戻って行った。
 
 
 
 
 
 それから5日後。大学からの帰り、急に雨が降ってきた。仕方がないので駅前のコンビニで傘を買って先を急いだ。
 先日“主”と遭遇したあの公園を通りかかる。子供達の遊ぶ声が聞こえてくるこの場所も、あの日以来怖いものになってしまった。別に主が何かしたわけではないのだけれど。
 公園をぼーっと見ながら歩いていると、ある人物を見つけた。坊ちゃんだ。この前と同じ服装だったからすぐにわかった。坊ちゃんは傘もささずにベンチに腰掛けていた。しかも腕を抱えて震えている。凍えてしまったのだろう。
 すぐに駆け寄り、傘を彼の上に翳した。相手もようやくこちらに気づいたみたいで、ビックリして私の方を見上げた。
「ああ、どうも」
「はじめまして」
 どうせ覚えていないのだ。面倒くさいけど、こういう挨拶で統一したほうがいい。
 私が挨拶をすると、坊ちゃんはポケットを弄って1枚のポストイットを取り出した。それと私の顔を見比べて、1人で納得している。
「ああ、青い首輪の人ね!」
 覚え方は少々納得がいかないが、まだ覚えていてくれたのが何となく嬉しかった。
「多恵さんに書いてもらったんです」
「そうなんですか」
 何か返事を返そうとしたが、坊ちゃんはそれを止め、盛大なくしゃみをした。ああ、遅かったか。雨に打たれて風邪を引いてしまったらしい。
「風邪?」
「は、はい、引いちゃいまして……」
 口を大きく開けたが、くしゃみは出なかった。
「探しているんですか、あの人を」
「え? あ、そうか、多恵さんが教えたんだ。はい、そうです」
 この5日間、彼は他の依頼そっちのけでこの仕事をしていたという。何が彼をそこまで駆り立てたのだろう。それはきっと、この人自身もわからないのだろう。
「風邪引いたら探せなくなっちゃいますよ。ほら、立って」
「ちょっ、何するんですか」
「事務所まで送ります! ほら、立って!」
 私に怒鳴られて、探偵が渋々立ち上がった。彼を傘に入れてやり、2人で歩き出した。その間もずっとくしゃみをしたり咳をしたりなかなか大変だった。だが、坊ちゃんは必ず手を押さえて、なるべく私の方を向かないようにしてくしゃみをしていた。その辺のマナーはしっかりしているようだ。
 道はもう知っていたから事務所に着くのは早かった。戸を開けて中に入り、多恵さんを呼ぶ。しかし、何度呼んでも出て来ない。
「あ、多恵さんはお買い物です」
「はぁ? 先に言ってよね!」
「ああ、ごめんなさい」
 取り敢えず奥の間へ連れて行き、彼を休ませた。布団が起きた時の状態で放置されていたのでそこに寝かせた。
「きょ、今日はありがとうございました。えーっと……あれ? 紙が、紙が無い」
 私のことが書いてある紙を落としてしまったらしい。じゃあ、このまま部屋を出て行ったら、また綺麗さっぱり忘れてしまうのだろう。
 それはそうと、紙だらけの部屋も気になったので、しばらく見学することにした。依頼の内容は勿論、掃除のルール、ゴミ出しの日、それから近くのスーパーの特売日まで書いてある。別の場所には雑誌の名前と発売日が記されている。へぇ、この雑誌が好きなんだ。
「あの、何をなさっているのでしょう?」
 探偵の方に目をやると、彼は勝手に起き上がって、依頼内容をもう1度確認していた。ポケットの中には全14枚の紙がくしゃくしゃに仕舞われていたのだ。あれだけ入っていながら私の紙だけ落とすとは。
「良いでしょ、気になったんだから。それより寝てなさいよ……あれ? コレって」
 1枚、気になる紙を見つけた。それは他のポストイットに埋もれていて1部分しか見えなかったが、そこに書かれた赤いサインが目に付いた。紙を除けてそのメモを取り出す。
「ああっ、やめて! 秩序が乱れる」
「これって、探してる人の顔?」
「え? どれどれ?」
 ゆっくりを立ち上がって紙を見に来た。
 そこに書かれていたサインは、ちょうど今坊ちゃんが布団の上に広げた紙にも記されていたものだった。で、新たに見つかった情報には、現在彼が探している人物の写真が適当に貼付けられていたのだ。
「ああ、そうだね。よく覚えてないけど、これが書いてあるってことは、多分この人なんだろうね」
「私、知ってるかも」
「え?」
「この人、この前見た気がする」
「え? 本当に? ちょっと、それ早く言ってよ」
「そっちも気づいてなかったでしょ、コレに!」
「それはそうと、どこで見たんだよ? 隣町の人達だって見てないって言ってたんだよ?」
 隣町で見つかる筈が無い。私が見たのは、この町の中なのだから。
 写真の男を見た場所を教えると、探偵は棚からコートを取り出してそれを羽織り、布団の上に置いてある紙を1枚取り上げた。
「電話しなきゃ」
「ただいま〜。いやぁ、すっごい雨だねぇ。あれ? あんたこの前の?」
「あ、こんにちは……」
「多恵さん! それは後! 取り敢えずこの人に電話して! 見つかったんだよ!」
 何のことかわからない様子だったが、坊ちゃんが持っている紙を見てようやく理解したらしく、黒電話を持って来て電話をかけた。
 情報は伝えたし、私がいても邪魔だろう。傘を持って帰ろうとすると、坊ちゃんが手を握って制止した。
「一緒に来て」
「え? ……はい」
 そのときの坊ちゃんの目はとても澄んでいて、5日前に会ったときとはまるで別人だった。
 こんなことになるなんて。何だか緊張してきた。
 
 
 
 
 
 
 約1時間後、依頼主の女性、本庄加代子が事務所にやって来た。白い傘に洒落たコート。整った顔につぶらな瞳。女性の私でさえ魅了される程の美しさだ。
「父が見つかったというのは本当ですか?」
「はい、おそらく。これから一緒に確認しに行きましょう」
「わかりました」
「多恵さん、留守番お願いします」
「あいよ」
 私を先頭に坊ちゃんと加代子が外に出る。来た道を引き返し、あの公園に戻ってきた。
 ここに、写真の人がいる。偶然って本当に怖い。私が見た公演の主こそ、坊ちゃんが探している、本城加代子の母親だったのだ。髪や髭は伸びていたけど、あの目が特徴的でずっと覚えていた。
 この前あの黒猫を見た場所を探す。この前は鳴き声を聞いてここに来た。
「この辺なの?」
「うん。前は確か……あっ」
 目の前に、1匹のネコが現れた。そう、このネコこそ、公園の主を連れてきたネコである。
 ネコは私達の顔を見た後、さっと奥へ行ってしまった。私は無言でその跡を追っていた。この先に、この先にあの人がいる。2人も私の後ろについてきた。
 人が通るのは難しそうな道を進むと、普段は見えない、公園の暗黒面が見えてくる。そこにはアスレチックは何1つ無い。木が生い茂っていて、人影もない。子供が迷い込んだらパニックになってしまうだろう。
 その森の中に、明らかに不自然な物が建っている。ブルーシートで作られた簡素な家だ。ネコは家の入り口に座っていた。私達を導いてくれているみたいだ。
「どうした?」
 外の物音に気づいて住人が出てきた。以前遭遇した男性だった。男性はネコを撫でた後に私達を見た。初めは睨みつけていたが、後ろにいる加代子の姿を見て目を見開いた。加代子もまた同じ様な反応を見せていた。
「お父さん!」
 探偵を押しのけ、加代子が男性の前に立った。男性は申し訳無さそうに顔を背けた。
「今まで何してたの? 探したんだよ?」
「……すまない」
「すまない、じゃないでしょう? みんな心配してたんだから」
「リストラされたんだよ!」
 加代子の父、本城光太郎は、以前は大手企業に勤める社員だった。しかし、不景気のために会社では人員削減が行われ、光太郎も選ばれてしまったのだ。
 最初の何ヶ月かは残っていた小遣いを切り崩して、どうにか働いているように見せかけていた。ハローワークにも通っていたが次の就職先が見つからず、とうとう小遣いもそこをついてしまった。
 本当のことを言うべきだったのだろうが、妙なプライドが邪魔してそう出来なかった。だから、彼はひっそりと姿を消すことを考えた。仕事に行くと言って嘘をつき、色んな町を点々とした。初めは大きな町に隠れていたのだが、町を次々と追いやられ、最後に行き着いたのがこの公園だった。ここで彼は、同じようにたった1匹だったネコと共に暮らしていた。
「馬鹿」
 たったひと言、加代子がそう言った。次の瞬間、彼女は父親に抱きついた。私達は勿論、光太郎さんも呆然としている。
「言ってくれれば良かったのに!」
「お、お前達がショック受けると思って……」
「いなくなられた方がショックだったわよ!」
「ご、ごめん。ごめんよ」
 森の中で抱き合う2人。どれだけ汚れていようが、どれだけ臭いが凄まじかろうが、そんなことは関係無かった。加代子にとって目の前の男はたった1人の父親なのだから。
 
 
 
 
 
 
 その後、加代子と父親は歩いて帰って行った。汚れていたので、一旦事務所でシャワーを浴びた後、坊ちゃんの服を借りて出て行った。そのときの光太郎さんの姿は凛々しかった。
 あの黒猫は、いつの間にか事務所のカウンターの上で丸くなっていた。一緒についてきたらしい。多恵さんはネコの身体を撫でて可愛がっている。
「可愛いねぇ。クロって名前つけてここに住まわせてあげようかしら」
「それでも良いけど、僕の部屋には入れないでくださいよ。記憶がまた抜けちゃうよ……あ」
 私に気づいた坊ちゃんが歩み寄ってお辞儀した。
 今回の1件を通じて、この人が何で探偵をやっているのかわかったような気がする。あの目を見たとき、それは確信に変わった。……答えは多分、坊ちゃん本人にはわからないのだろうけど。
「あの、ありがとうございました。助かりました」
「いいえ、寧ろ、一緒についてきちゃって良かったの?」
「ああ、だって、あのまま帰っちゃったらあなたのこと忘れちゃってたし」
 坊ちゃんが私を止めた理由。それは、単に目撃者だったからというわけではなく、私のことを忘れないようにするためだったらしい。本人は、「恩人を忘れるわけにはいかない」という意味で言ったのだけれど、私は勝手に解釈してしまい、勝手に頬を赤く染めていた。
「また紙作らなきゃ。名前、教えてください」
 坊ちゃんは私の名前と好きな色や好物、趣味だけを聞いてポストイットに書いた。書き終えると、満足げな表情でそれを見せてきた。
「安西真美さん。これで、忘れることはありません」
「……ううん」
「ん?」
「覚えるんだったら、もっとちゃんと覚えてよ」
「え? それってどういうこと?」
 
 
 
 
 
 あれから何週間か経った。
「こんにちはー。あ、おはよう、クロ!」
 私は週に1、2回、丸山探偵事務所に来て仕事を手伝うことにした。仕事に興味を持ったというのと、探偵が頼りないというのも理由に含まれるけど、何よりも私のことをしっかりと覚えてもらいたかったのだ。
「ああ、いらっしゃい。これからお客さんが来るから、お菓子お願いね」
「はーい」
「うわっ! ネコが! ああ、ええっと……安西さん。こんにちは」
 まだ記憶には焼き付いていないみたい。それに、何だか緊張しているみたい。その様子が何だか面白かった。
「ほら、早くしないとお客さん来ちゃうわよ!」
「すいません! お菓子買ってきます!」
 多恵さんからお駄賃をもらって、私はコンビニへ向かった。

汚部屋の迷探偵

汚部屋の迷探偵

ある探偵の物語ですが、今回も推理小説ではありません。

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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