シンクロニシティ10
人との出会いは縁という不可思議な力によって支配されていますが、人の強い思いがそれを引き寄せることもあると思っています。
会いたいと思う人と出会えないのは、元々その人とは縁がなかったと言うことでしょう。逆に、出会わなければ良かった思う人との出会も、やはり縁なのです。しかし、この小説の主人公の妹のように、見ず知らずの男達に出合い、そして殺される運命も縁なのでしょうか?
第一章
強烈な日差しが都会の澱んだ大気を貫き、コンクリートとレンガで覆われた街路に降り注ぐ。そこで熱せられた大気はゆっくりと立ち上り、空高く聳える高層ビルをも包み込み、あの威容を誇る巨大な都庁ビルが蜃気楼のようにゆらゆらと揺れて見える。都会は、まさにコンクリートが作り出した巨大な人口の砂漠なのだ。
ビル内を快適するために吐き出された熱が外にいる人々をむかつかせる。その内側からガラス越しに行き交う人々を眺める女も、幾許かの代価を払って一時の清涼を得ているに過ぎない。
都会の雑踏は、せっかちな人間をただでせさえ苛立たせるし、さらに熱気と湿気は体中にへばり付いて不快さを一層つのらせる。汗を拭うハンカチはあまりにも小さく、ましてぐちゃぐちゃに濡れていた。それでも二人の男は黙々と歩き続ける。
ようやく雑踏を抜けだし、都庁を過ぎて中央公園をさしかかると、若い方の男は立ち止まって遅れて歩いてくる中年の男を待った。左手に抱えた背広が汗で濡れている。
深い緑に覆われた公園には、木陰で昼寝をするホームレス、暑さにもめげず抱き合う若いカップル、そして子供連れの母親達がいるだけで人影もまばらである。若い男は立ち止まると、公園内の時間にゆとりのある人々をぼんやり見ていた。遅れてきた中年の男は額の汗をハンカチで拭きながら、いかつい顔に笑みを浮かべ若い男に声を掛けた。
「原ちゃんの脚が長いのは分かったよ。でも、もうちょっとゆっくり歩るいてくれると助かるんだが。」
原と呼ばれた男は肩をすくめ、少し困ったような表情を見せると「はあ」と曖昧に笑ってみせたが、中年の男が追い付くとすぐに歩き出した。
原の背中を見つめながら、榊原は苦笑いしながら長い息を吐いた。そしてある拷問の話を思い出した。囚人に深い穴を掘らせ、翌日埋め戻させる。これを繰返すのだそうだ。無意味なことをやらされるという拷問は結構堪えるのかもしれない。
石神井署に捜査本部が置かれて既に5ヶ月が過ぎようとしている。当初、楽観的に早期解決を予想していた刑事達の苛立ちは頂点に達しつつあった。原もその一人なのである。榊原はもう一度長い息を吐いた。
それから15分後、二人は喫茶店にいた。
「まったく、しょうがないなあ。大先輩の榊原さんには逆らえないし、まあ、確かに熱くて死にそうだってのは僕も一緒ですけど。」
と言って、原は汗を拭きながら大ジョッキいっぱいのアイスコーヒをストローでチュウチュウと音をたてて飲み続けた。その前に座る榊原は相棒の膨れ面に気付かぬ素振りで氷アズキをせっせと平らげてゆく。
「真夏の聞き込みには水分補給は欠かせない」
と呟いてみたが、原は聞こえないふりを決め込んでいる。何度も、といってもまだ2度目なのだが、喫茶店に入るのが気にいらないらしい。とはいえ、原も水分を欲していたのは確かなのだ。
榊原は警視庁捜査一課2係りに属し、迷宮入りした事件の継続捜査を担当している。今の捜査本部に詰める直前まで、榊原は暴力団がらみの事件を追っていた。この事件には、警察庁キャリアが何らかのかたちで絡んでいるらしく、臭いものには蓋とばかり、片隅で埃をかぶっていたのだが、蓋を開けてみれば、やはり上司の横槍が入った。
上司とのすったもんだがあり、うんざりしているところに、石神井署の捜査本部に欠員が生じたという話が舞い込んだのだ。榊原は、上司と口をきくのも苦痛になっていたため、もろ手を上げて志願したのである。
世間を震撼させた大事件である。榊原は、その捜査本部に勇んで参加したものの、捜査は何の進展も見られず、捜査員達の疲労だけが蓄積され今日に至っている。
捜査本部は事件の起きた所轄署に置かれるが、本庁捜査一課と所轄署の刑事課、それぞれの刑事がコンビを組んで捜査に当る。本庁の刑事は捜査の専門家として、また所轄署の刑事は地の利と豊富な情報量を生かし、互いに協力して捜査の効率を計るのである。
榊原の相方の原警部補は石神井署刑事課所属で、榊原より一回りも若い。その原警部補は、自分と組むのが本庁捜査一課の榊原警部補と聞いて、当初、心躍らせていた。
というのは、榊原は警視庁捜査一課ではちょっとした有名人なのである。粘り強い捜査手法と僅かな手がかりから情報を手繰り寄せる能力から名刑事と謳われ、さらに榊原がかつてキャリアを殴ったという噂はノンキャリアの警官にとって尊敬に価した。
しかし、その榊原は、捜査会議で発言することもなく、外に出れば黙々と原に付いて歩くだけで、切れ者の片鱗などどこを捜しても見えない。原はその名刑事という噂に首を傾げ、最初の頃に抱いた尊敬の念と憧憬の思いは、今ではすっかり冷めている。
榊原はガラスの器をスプーンでかきまぜると、小豆の混じった茶色の液体をぐっと飲み干した。
「最後のこれが美味いんだ。」
こう言うと、満足そうに相棒に微笑みかけた。しかし、原は横を向いたまま、呟くように言った。
「榊原さん、そろそろ出掛けましょうよ。F地区にはもう一ケ所、中外商事っていうセコハン屋があります。早く行かないと、会議に間に合いませんよ。」
そう言って、手に持った地取り捜査用の地図をポケットから取り出した。榊原はそれをちらりと一瞥して言った。
「分かった、分かった、でも、もうちょって休ませろよ。どうせ行ったところで成果なんてありっこない。よほどの素人でない限り盗品の、しかも170万もするローレックスを質入するなんて思えん。」
「でも……」
何か言いかけて原は押し黙った。同じ警部補とはいえ、本庁の大先輩に逆らうことなど出来ない。まして原も同様に感じていたのだが、無駄とは思っても、それを口に出さないのが刑事なのだ。
二人は被害者宅から盗まれたローレックスのナシワリ捜査にあたっていた。ナシワリとは盗品捜査のことで、犯人が盗品を質屋やセコハン屋に持ち込む可能性があり、そうした店を虱潰しにあたる。捜査本部に途中から加わった榊原は、原の分担であるローレックスの捜索に付き合うことになったのである。
実を言えば、榊原は以前からこの石神井の強盗殺人事件に注目していた。何故なら、かつて榊原が興味をもって見詰めた事件、一時新聞紙上を賑わせ、人々の記憶から消え去ったあの事件に似ている気がしたのだ。
石神井の事件は雪の散らつく寒い晩に起こった。深夜0時、国土交通省に勤める石橋順二、34歳の自宅に強盗が入った。一階に寝ていた夫婦は激しく抵抗したが出刃包丁で刺殺され、階下の物音を聞き付け降りてきた小学生の男の子は絞殺された。
夫婦とも10ケ所以上の刺し傷、切り傷があり、妻は頚動脈を切られ出血死し、夫は、包丁が肋骨を切断しその刃先は心臓まで達していた。予期せぬ抵抗にあい、半狂乱になって包丁を振り回す強盗がとった凶行と判断された。
それは妥当な判断と言わざるを得ない。何故なら部屋は荒らされ、現金、預金通帳、クレジットカード、宝石類が盗まれており、その中に被害者所有の市価170万のローレックスも含まれていた。単純な強盗殺人事件と考えるのは当然である。
まして、悲鳴を聞きつけ窓から首を出した付近の住人が、現場から立ち去る白っぽいセルシオを目撃していたし、血のついた運動靴の足跡は玄関先から車の停めてあったと思われる場所まで続き、その運動靴のメーカーまで特定されていた。誰もが早期解決は当然だと思っていたのである。
しかし、指揮を執る本庁捜査一課3係りの石川警部の機嫌が良かったのは、華々しくマスコミ会見を開いていた最初の一月だけで、その後は悪くなる一方だった。石川警部が部下の尻をいくら叩いても捜査の進展は一向に見られなかったのである。
榊原は石川警部とかつて新宿署で一緒に仕事をしたことがある。大学の5年後輩ということで榊原に近付いてきたのだが、榊原は肌が合わず疎んじた。しかし今では本庁捜査一課の係りは違うが上席にあたる。
石川警部は科学捜査信奉者だ。しかし捜査マニュアル通りの手法しか思い付かず、その結果収穫がないのに業を煮やし、部下を怒鳴り散らすという人間臭さをみせている。恐らく榊原の仮説など一顧だにしないだろう。
うとうととして、ふと前を見ると原の姿はない。どうやら一人で聞き込みに行ったようだ。榊原は一人ほくそえんだ。今日も、報告は原に任せればよい。
もうこの捜査にはうんざりだった。煮詰まったら原点に戻るか、視点を変えてみるのが常道だ。石川警部にはその姿勢がない。今の捜査手法は或いは犯人の思惑通りなのかもしれないのだ。独創性或いは創造性のない上司を持った部下は哀れだ。
しかし、こう思っている榊原でさえ自分の仮説に自信があるわけではない。その仮説とはこうである。「強盗は偽装で、目的は別にあった。また素人の犯行にみせてはいるが、犯人は殺しのプロである。」ふとそう思ったのである。
榊原が似ていると思ったもう一つの事件は、1年半前、埼玉県警鴻巣警察の扱った事件である。榊原はこの事件について、大学の友人を通じて情報はつぶさに掴んでいた。この事件も誰一人として捜査が長引くと考えた者はいなかったのである。
その被害者は通産省に勤める丸山亮、34歳。妻は不在で難を逃れた。丸山はその日、仕事を終えた後、高崎市の妻の実家に行く予定だった。当初、新幹線を使うつもりだったが、残業で最終に間に合わず、車を取りに家に戻った。
丸山は居間で賊と鉢合わせになり胸をナイフで突かれた。しかし最初の一撃は肋骨によって弾かれ、犯人は逆上してナイフを振り回し、丸山は両腕をかざしてそれを防護した。無数の深い切り傷がそこに残されていた。
抵抗もそこまでだった。犯人はナイフの刃を水平に構えて突進したのだ。ナイフは肋骨を避け、心臓を貫いた。見事な殺しである。最初の失敗、次ぎはまるで素人のような無様な攻撃、そして最後はまさに研ぎ澄まされた一撃である。
この事件では寝室から妻の貴金属類、夫の書斎からはCDと時計のコレクションが盗まれていた。犯人は二人で、それは血の海と化した居間に残された靴跡が物語っている。そのうちの一人はよほど気の小さな男らしく、嘔吐物が居間に残されていた。
鴻巣署の友人に電話で話を聞いたおり、榊原が「CDだって」と聞き返すと鴻巣署の友人は、「どうせエロCDだろう」とこともなげに言ったものだ。しかし、榊原はこのCDが気になってしかたなかった。通産省→情報→CDという図式である。
この二つの事件で似ている点は、遺留品が多く、誰も捜査が長引くとは思わなかった点。そして第二点は、最初の事件では包丁が肋骨の間隙から、今回の事件ではそれを切断して心臓に見事に達していること。第三点は、二人とも国家公務員上級試験の難関を突破したキャリア官僚だということである。。
榊原が気になったのは、被害者に加えられた最後の心臓への一撃である。その前にめちゃくちゃに包丁を振り回していることも共通する。つまり素人を装ったプロの仕業ではないかとふと思ったのだ。
しかし、捜査ファイルを熟読したが、プロに狙われるような背景はどこにもない。榊原は腕を組み考えこんだ。二人が何らかの事件の秘密を知ってしまったとか、或いは、非日常の世界に巻き込まれたという可能性である。
ふと、我に返って苦笑いをもらした。またしてもどうどう巡りの迷路に迷い込んだようだ。想像逞しくしたところで、真実に近付くわけでもない。榊原は煙草を取り出し、火を点けた。そして目を閉じ、ゆっくりと煙を肺に送り込む。
その時、思考のなかに別のものが入り込んできた。榊原は思わず頬を緩ませ、満足そうに笑みを浮かべた。傍から見たらさぞかし、やに下がっていたに違いない。原がいないのは幸いだった。
榊原は思った。不思議な巡り合わせとしか言い様がない。かつて憧れたあのマドンナが目の前で微笑んでいる。あれほど魅力的な肉体が自分のものになろうとは、まさかこの歳で胸をときめかせることがあろうとは想像だにしなかった。
それは石神井署に入って1週間目のことだ。原刑事と足を引きずるようにして署に戻った。そして思わず自分の目を疑った。二度と会うことはないと思っていたマドンナがそこに佇んでいたのだ。
やや頬がふっくらとした感じがしたが、美しさに変わりはない。彼女はかつて友人の妻だった。その友人は不幸の塊を背負ったような男だが、そんな男に一人の女がいつも寄り添っていた。
俯きかげんに見上げた時の澄んだ切れ長の目、透き通るような肌、触れると壊れてしまいそうな女に榊原は息を呑んだのだ。初めてその友人に紹介された時のように、その視線を榊原に向けている。
しかし、それは榊原個人の像を形作ることなくさ迷っている。榊原が話しかけようと近付いているにもかかわらず、困惑した視線は揺れ続けていたのだ。
「お久しぶりです。」
声をかけられて初めて、女は目の前の男に視線を凝らした。そしてそれがかつて親しくしていた友人であることに気付くのに数秒掛かった。
「あらっ」
両目を大きく見開き、喜びの表情を顕わにした。
「榊原さん。本当にあの榊原さんなの。警察にお勤めになられたって聞いていましたけれど、ここにいらっしゃたの?」
「いや、所属は本庁の方ですけど、最近、ここの捜査本部に詰めているんです。幸子さんは何でここに。」
幸子と呼ばれた女の表情は少々曇ったが、かつての気心の知れた関係が瞬時に蘇り、打ち明ける気になった。しかし、榊原の後ろにいるぎょろ目の男が気になる。
榊原は女の視線で原の存在に気付いた。原はいつになく取澄ました榊原の物腰、そしてその相手の美貌に目を剥いている。榊原が手で追い払うと、原は口を尖らせ、何度も後ろを振り返りながら階段に向った。
二人だけになると、ようやく安心したらしく、幸子は溜息混じりに口を開いた。
「娘が、補導されたんです。少年課に来るように言われたんですけど、その少年課がどこなのか分からなくって。それに、刑事さんとお話するなんてなんだか怖くて、気後れしてたの。」
俯いていた幸子が、苦笑いする榊原を見上げてこう付け加えた。
「でも優しい刑事さんもいるって言いたいの?」
「ああ、目の前にいるのがそいつだよ。いったい娘さん何で補導されたの?それに前にも補導されたことあるのかな。」
「ええ、何度も。でもシンナーは初めて。近くの公園でシンナー吸っていたところを補導されたみたい。本当に困った娘なの。親に逆らってばかりいて」
榊原は幸子に傍らの長椅子を勧め、自分も座った。
「すぐに連れてきてあげますよ。ここで待っててください」
榊原は何かを言おうとしたが思いとどまった。そしてすぐに席をたった。
幸子は榊原の背中に一礼した。そして不安と苛立ちがじょじょに氷解してゆくのを意識した。ここで榊原に再会したことが、娘にとって良いきっかけになるかもしれないと思ったのだ。榊原は娘をよく知っていた。もっとも3歳になるまでなのだが。
榊原は5分ほどして二階から降りてきた。その大きな背中に見え隠れしながら娘が歩いてくる。かつて榊原の膝で満足そうに笑みを浮かべていたあの子が、一人で大きくなったみたいな顔してふて腐れている。
榊原が振り返り何か話しかけた。憮然とした顔をどうしたらいいのか戸惑っている。顔をほころばせてなるものかと抗っているようだ。また榊原が声を掛けた。娘はとうとう笑い出した。幸子は思わず頬をほころばせた。あんな娘の顔を見るのは何年ぶりだろう。
「幸子さんに、つまり親御さんによく言い聞かせるっていう約束で無罪放免にしてもらった。とにかく、二人でよーく話し合って下さい。」
榊原はそう言って、にこにこと微笑んでいる。
「本当に有難うございます。」
幸子は深深と頭を下げた後、困惑したように娘を見た。娘は知らん顔でそっぽを向く。
「晴美、あなたは覚えていないでしょうけど、榊原さんはあなたのことをよく知っているの。まだ赤ん坊の頃よく遊んでもらったのよ。」
晴美の反応は予想外だった。
「そのゲジゲジ眉だけは印象に残ってる。でも、私の大事な部分を見られたなんて、悔しい。」
大人二人は顔を見合わせ思わず吹き出した。榊原が笑いながら言った。
「本当に覚えているのかい。3歳までの記憶は忘れてしまうって話だが。」
「私の記憶は3歳からよ。あの日のことだって覚えているもの。」
こういって母親に視線を向けた。幸子は一瞬顔を曇らせたが、すぐに気をとりなおした。
「晴美、今度と言う今度は本当に呆れて何も言えないわ。何でシンナーなの。シンナーって恐ろしいの。体がボロボロになってしまうのよ、分かっているの。脳が溶かされて一生を台無しにしてしまうの。」
「うるせっての。あんたのその深刻そうな面見ているだけで反吐がでそう。ウエ。その面忘れるにはシンナーが一番よ。」
榊原は或る程度予想していたものの、その突き刺さるような言葉を聞いて寒寒とした気分に襲われた。どうとりなしたものか、言葉を捜した。突然、幸子が周囲を憚ることなく声を荒げた。
「いい加減にしなさい。私のどこが気に入らないの。私だって必死で生きてるのよ。あんたにとやかく言われるようなことなど一切していないわ。それなのに、何であなたまで私を不幸のどん底に落とすようなことするの。何故なの。」
晴海はふんと横を向いてふて腐れている。
「中学校の時はあんなに良い子で、成績だって学校でトップクラスだった。それが何故なの。お母さんには何がなんだか分からない。」
そう言って、幸子は涙を絞るように顔を歪め長椅子に座り込んだ。何も隠すこともない関係だからこそ幸子はあからさまな激情を吐露している。榊原に助けを求めているような気がした。榊原はその気持ちに応えるしかない。逡巡しながらようやく口を開いた。
「ワシはあんたを赤ん坊の頃から知っている。何であんたが肉親に逆らっているのか、今は分からんが、いずれは分かることもあるだろう。ゲジゲジ眉のおじさんは、あんたのオシメまで換えたこともある他人なんだから、今度ゆっくりと話し合おう、どうだ。」
晴美に笑顔が戻った。そして答えた。
「ええ、いいわ。あんたとなら話しが合いそうだし、私、あんたのこと好きだったから。」
「そいつは光栄だ。女にもてたのは後にも先にもこれが初めてだ。あんた、今、携帯もっているか。」
榊原が晴美のナンバーを聞いて登録していると、
「おじちゃん、ぶっとい指のわりに器用じゃん。ねえ、ねえ、今の番号かけてみて。」
しばらくして晴美の携帯が鳴った。晴美は忙しく指を動かし榊原の携帯番号を登録している。榊原はこそばゆい感覚を噛み締めながら幸子を見ると、幸子も涙を拭いながら苦笑いを浮かべている。
榊原は幸子の視線にすがるような色合いがあるのを感じた。かつてマドンナと崇めた女が、今どんな現実にいるのか垣間見る思いだった。同時に、これから起こるであろう新たな関係に心時めいた。
ふと、家に鎮座する達磨のような女房を思い浮かべた。かつて可憐な婦警だったが、子供を産むたびに肥え太っていった。2人の子供には良き母親ではあったが、女としての魅力は感じなくなっていた。榊原は急いでその面影を振り払ったのだった。
第二章
男はプラットホームの端に立ち、ネクタイを緩めながら電車の巻き起こす風を体全体で受けとめた。手の甲で額の汗を拭い、つかのまの涼しさを味わうように目を閉じている。電車が減速するに従い風は次第に弱まり、とうとう熱気が男の周辺に漂いはじめた。
山の手線の電車は軋みをあげて停止したのだが、男が一歩足を踏み出そうとした矢先、車両はゆっくりと後戻りを始めた。男は再び目を閉じ、大きな吐息を漏らした。電車がようやく停止し、扉が開かれた。
ふと、時計をみると約束の7時を3分ほど過ぎていた。電車は動き始めたばかりで、有楽町まで2分、駅から目的地まで歩いて10分、おおよそ15分の遅れとなる。
「まあ、いいか。」
男は静かに呟くと、移り行く夜景を背景にうっすらと浮かび上がる自分の顔を見詰めた。やつれ果て、精気が失われている。せっかくの二枚目がだいなしだな。自分の影がそう言ってせせら笑った。
石田仁は螺旋階段を駆け下り、ドアのガラス窓から中を窺がった。思い描いていた通り、20年来の友人である榊原成人はグラスを傾け、刺すような視線を前方に投げかけている。石田は榊原の野武士のようなその風貌が好きだ。
榊原と初めて顔を合わせたのは、大学の日本拳法部の部室だった。石田はその日、大学キャンパスで行われたデモンストレーションを見て、日本拳法にすっかり魅了された。剣道のような面と胴を付け、手にはボクシンググローブという奇妙な出で立ちだ。
突然その奇妙な格好の二人が、これまで見たこともない壮絶な果し合いに入った。その迫力と気迫、ぶつかり合う体と体、拳が空を切り互いの面を襲う。瞬時に蹴りが飛びバシッという音とともに一人が倒れた。
練習の始まる夕方、部室に行くと、一足先に来ていた榊原と出くわした。いかにも田舎から出てきましたと言わんばかりの服装だったが、それに臆することもなく、名前を名乗ると大きな手を差し伸べた。
広島出身で1浪、学部は違うが同じく新人だと言う。石田はこの戦国時代から蘇ったような男、榊原を一目で気に入った。
石田はドアを開けるなり、頭を掻きながら榊原に声を掛けた。
「申し訳ない。新幹線が30分時間も遅れてしまって。」
榊原はゆっくりと顔を石田に向け、太目の眉を片方だけ上げて答えた。
「30分や1時間の遅刻なんて、どうってことない。待つことはワシの仕事みたいなもんだ。それに、これがあるだけでも在り難い。」
と言うと軽くグラスを持ち上げた。東京弁がすっかり身に付いたようだが、「ワシ」だけは変わらない。榊原は警視庁捜査第一課の刑事である。代代警察官の家系で、キャリアがいないというのが自慢だった。
榊原はウイスキーを飲み干すと、ちらりと旧友の横顔を盗み見た。熱い感覚が食道を降りてゆき後頭部に心地よいが浮遊感が広がってゆく。その心地よさは、石田の別れた女房と出来てしまったことに対する疚しさと、心をくすぐるような優越感を伴っていた。
榊原にとって石田は心に秘めたライバルだった。最初に会ったときから劣等感に苛まれた。本人は千葉出身だと言い訳したが、当時の榊原の感覚では千葉県も東京の一部なのだ。気後れした自分を隠すためにことさら胸を張り、鷹揚に振舞った。
この瞬間から、榊原は生まれ変わったのだから運命とは分からない。柔道一筋の陰気な田舎者が豪放磊落な若者の仮面を着けたのだ。しかし、それは誰にでもあることで、理想とする人間像を描き、それに近づこうとするのは、一種の向上心とも言える。
また、石田から幸子を紹介された時の衝撃はいまでも瞬時に蘇る。女っけのない生活を送っていた榊原にとって、幸子はとうてい手の届かない、いわゆるお嬢様タイプだった。その彼女が石田の同棲相手だと知った時の驚きはただごとではなかったのだ。東京人にはやはりかなわない。それが偽らざる心境だった。
石田が生ビールを注文し、隣のストールに腰掛けると、榊原は幾分上気した声で話しかけた。
「で、どうなんだ。奥さんの行方のほうは。」
顔を曇らせて、石田が答えた。
「さっぱりだ。今日は、高校と大学が一緒だったという甲府の女を訪ねた。以前電話で問い合わせした時、ちょっとひっかかるところがあって、女房のことを何か知っているかもしれないって、勝手に思い込んで、会いに行った。」
「それで。」
「何にも知らなかったよ。それより、かつての親友の凋落ぶりと失踪に興味があるらしく、根掘り葉掘り聞いてきた。」
「あの倒産事件は、地方紙にも載ったからな。取り込み詐欺の典型だ。あんな手口に引っ掛かるなんて、義理の親父さんもよっぽど焦っていたんだろうな。」
「ああ、親父の会社はあの事件がなくとも、遅かれ早かれ倒産しただろう。今時、宝石の卸し商なんて割りの合わない商売だよ。」
甲府にある石田の女房の実家が倒産したのは半年ほど前のことだ。そしてその両親と共に、女房の亜由美、そして愛娘である5歳になる知美も失踪した。そして石田名義のマンションは抵当に入っており、明渡しが迫っていたのである。
亜由美が抵当証書に石田の実印を勝手に押したのだ。石田の歪んだ唇から深い溜息とともに言葉が零れた。
「あいつは、最後までお金持ちのお嬢様を演じたかった。だから実家が潰れるなんてプライドが許さなかったんだ。俺よりそのプライドを選んだわけだ。まったく馬鹿な女だ。」
「プライドだけじゃあるまい。親父さんの窮地を心底救いたかったのさ。お前に合わせる顔がありませんって書置きした奥さんの気持ちを思うと、本当に可哀想だよ。失踪するその日の朝、どんな思いでお前を送り出したか。」
「ああ、離婚届に判も押してあった。まったく勝手な奴だ。」
「おいおい、奥さんを捜しているのは、そんな恨み言を言うためなのか。」
「まあ、正直いうとそれも半分あるかな。もっとも、女房と子供を前にしたら、そんなこと、思い出しもしないだろうけど。」
「兎に角、早く捜しだしてやれよ。きっと奥さんだって、お前を待っているはずだ。」
石田は深く何度も頷いた。
石田は最後の一滴を美味そうに飲み干し、ジョッキを置いた。そして言った。
「ところで榊原、俺に話ってのは何だ。」
榊原は、呼び出した用件をいきなり催促されて、一瞬困惑の表情を見せた。そして煙草をポケットから引っ張り出して、一本をつまみむと口に咥え、もごもごと唇を動かした。
「実は、お前がもう少し落ち付いたら話そうと思っていたんだが、一向に落ち付きそうもないし、幸子さんにも催促されているし、俺も参ったよ。」
「おいおい、幸子って、まさか、山際幸子なんて言うんじゃないだろうな。」
「いや、その幸子さんだ。今は、小野寺幸子になっているが。」
石田は、榊原の顔をまじまじと見詰めた。忘却の彼方に追いやっていた苦い思い出が蘇って、胸が締め付けられた。榊原の唇が動いているのは分かったが、言葉として耳に入っていなかった。石田がぽつりと言った。
「幸子と会ったのか。」
「おいおい、何度も同じこと言わせるなよ。捜査本部が置かれている石神井署で偶然出くわしたって言っただろう。三ヶ月前、今年の5月頃だ。少しやつれていたけど、昔と変わっていなかった。本当に懐かしかったよ。」
「彼女は、何故そんな所に来ていたんだ。」
「高校2年の子供が補導されて、引き取りに来たんだとよ。」
「高校2年生だって。」
一瞬、石田は過去に迷い込んだような錯覚に陥った。
「ああ、そうだ、お前の子供だ。お前が22歳の時の。しかし、あのちっちゃな赤ん坊があんな女の子になるなんて、ワシ等も歳をとるわけだ。」
石田は押し黙った。幸子と子供の3人で暮らした中野の古い二階家の一室が脳裏に浮かんだ。子供をあやす幸子がそこにいた。幸せで静かな日々がそこにあった。そして、次ぎの瞬間、その心象風景は狭い玄関に移った。子供を抱える幸子が目に涙を湛えて佇んでいた。真一文字に結んだ唇が動く寸前、石田は何かを幸子に投げつけた。
榊原の声が遠くで聞こえた。
「お前そっくりだ。可愛いお嬢さんに成長していたよ。しかし、精神的に弱いタイプかもしれない。」
榊原の「お前にそっくりだ」という言葉で、ふと現実に戻された。
「晴美は何をした。何で補導されたんだ。」
「シンナーだ。」
そう言うと、ようやく口に咥えたタバコに火を点けた。そして続けた。
「幸子さんと何度か会った。話によると、晴美ちゃんは、義理の親父とうまくいってないらしい。それに幸子さんの言うことなど聞く耳を持たんと言うんだ。だから、お前の力が必要だって。」
「しかし、今の俺に何が出来るというんだ。それに俺の頭の中は、亜由美と知美のことでいっぱいだ。それどころじゃない。」
「ああ、分かっている。だけど、何も四六時中、晴美ちゃんの面倒を見ろって言ってるわけじゃない。時間が在る時に、会って話を聞いてやってくれって言っているだけだ。」
石田は、溜息をついた。榊原はさらに迫った。
「晴美ちゃんだって、3歳の時別れたんだから、お前を覚えている訳じゃない。だけど、本当の親父であれば心を開いてくれるかもしれない。兎に角、今、誰かが支えてやらなければ、彼女は落ちるところまで落ちてしまう。」
石田がまたしても溜息をつき、苦笑を浮かべながら口を開いた。
「ああ、分かったよ。会ってみよう、親としての責任もあるし。俺の身の上話をしたら、同情してくれるかもしれんな。」
榊原が笑いながら応えた。
「全くだ、奥さんに二回も逃げられるなんて、めったにあることじゃない。彼女にとっても人生を考え直すきっかけになるかもしれん。まあ、反面教師ってわけだ。」
友のきついジョークにうんざりしながらも石田は覚悟を決めた。全く、面倒ってやつは、いつだって、いっしょくたに襲ってくる。石田の偽らざる心境だった。
仕事の途中だという榊原と別れて石田は銀座の街をぶらついた。憂鬱な気分に包まれ、足を引きずるように歩いた。不安が心の奥底からじわじわと浮かび上がる。晴美と会う。そのことが憂鬱の原因だった。晴美はあのことを覚えているだろうか。
人は激情にかられて、自ら理性をかなぐり捨てる瞬間がある。それがどんなに理不尽な行為と分かっていても、その衝動を押さえるのは難しい。思わず一線を踏み越えるのではない。自らの意思でそうするのだ。あの忌まわしい情景が瞬時に蘇る。石田は思わずため息を洩らした。
幸子は高校2年の時に福岡から都立高校に転入し、駒込の叔母の家で暮らしていた。石田はたまたまその家に家庭教師として派遣されたのだ。二人はすぐに親しくなったのだが、それにはそれなりの理由があったのだ。
ぽつりぽつりと語った話しによると、幸子の父親は福岡の素封家で、母親は事情があって幸子を連れて家を出たが、その母親が急逝して叔母の元に身を寄せているのだと言う。その頃の幸子は孤独を癒してくれる誰かを求めていたのだ。
幸子が妊娠してしまい、石田は大学を休学して先輩の勤める設計会社に就職した。幸子は叔母の反対を押し切って中野に借りた一軒家に身一つでやってきた。そして晴海を生んだ。親子3人の生活は決して豊かではなかったが、穏やかな幸せに包まれていた。今でも、その一こま一こまを脳裏に浮かべることが出来る。
石田が奈落の底に突き落とされるような事態に直面したのは、結婚3年目のことだ。1通の封書が会社に送られてきた。そこに同封された衝撃的な写真が石田を狂わせた。そこには幸子が見知らぬ男と公園でキスをしている姿が映っていたのだ。
家に帰ると、石田は怒りに震える手で写真を幸子に突きつけた。言い訳など聞く気もなかった。石田が声を張り上げた。
「お前は、俺を裏切った。俺は絶対に許さない。晴海を叔母さんに預けてデートってわけか?ふざけるな。」
その後何を言ったのか覚えていない。あんなに興奮したのは妹の死以来だった。怒りが体を震わせていた。
この時、晴美が夫婦の異変に気付き、駆けよってきた。自分が介入すれば全て解決すると心から信じて全力で抗議した。石田の脚にしがみ付き、「パパ、パパ。ママいじめちゃだめ」と石田を見上げ睨み付けたのだ」。
しかし、幼子の思惑など大人の重い現実の前には無力以外のなにものでもない。その時、石田の怒りが頂点に達したのだから。石田は乱暴に脚を払って、晴美を転倒させた。晴美は生まれて初めて父親の暴力に晒され、火の点いたように泣き出した。
あの時、心から愛した娘に、何故、あんな冷酷な仕打ちをしてしまったのか。石田は長い間後悔の念を抱き続けてきた。幸子の声が蘇る。
「何てことするの。この子には関係ないでしょう。」
石田の目には狂気が巣食っていた。嫉妬という狂気だ。
「本当にこの子は関係ないのか。その写真の男の子供じゃあないって誰が証明するんだ、えっ、俺の子供だってどう証明する?」
幸子は目に涙を溢れさせながら何度も首を左右に振った。そして晴美を抱き上げ、無言のまま玄関に向った。石田が最後の罵声を浴びせた。
「ふざけるな。俺は騙されんぞ。」
幸子が真一文字に結んだ唇を動かし、何かを言おうとした。その瞬間、石田は、写真を幸子に投げ付けたのだ。幸子はシューズボックスに落ちた一枚の写真に目を落とし、下を向いたまま呟いた。「ごめんなさい。」と。
あれから14年が経っている。榊原は言った。「晴美はお前にそっくりだ」と。やはり晴美は石田の子供だったのだ。あの時、石田は嫉妬に狂って、冷静さを失っていた。脚にまとわりつく晴美に一瞬抱いた憎しみは結局妄想に過ぎなかったことになる。
何もかも、今となっては後の祭りである。幸子の話を聞く余裕さえなかった。いや違う。思い返してみれば始めから自暴自棄になっていた。幸子の言い訳など最初から聞く耳を持たなかった。自分にばかり襲いかかる災厄に対する深い憤りがまずそこにあった。
妹の無念の死、両親の事故、妻の浮気、全てが運命の神によってもたらされたと感じた。運命の神は石田を憎んでいる。それを確信した瞬間だった。その暗い情念が一挙に吹き出したのだ。幸子はそんな石田の理不尽な思いの犠牲者だったのかもしれない。
榊原と別れた帰り、車窓から見える人々の生活のともし火に視線を向けながら、石田はめそめそと泣いた。何故、自分ばかり不幸にみまわれるのか。愛する女を失うのか。ただ平穏な生活を求める平凡な男が、何故?
「亜由美、知美」小さく呟いて、石田は涙を拭った。
第三章
コンピュータ画面には、直線と曲線が複雑に交差して描かれ、その狭間に数字と記号がちりばめられている。マウスをクリックすると、その全てが一瞬にして消え、かわって全体像がすっと浮きあがる。石田はぼんやりと画面に見入りながら、図面を弄んでいた。
石田は今の会社で正社員になって10年になる。幸子と別れてから大学に戻ったのだが、卒業後、アルバイトをしていたこの会社に28歳で再就職した。同世代と比べるとかなり遅いスタートを切ったことになる。
そのハンディを埋めるために寝る間を惜しんで勉強した。そのかいあって36歳で難関の資格を取得し、1年後管理職になった。何もかも順調だった。家庭も仕事も、上司に恵まれていない点を除けば申し分なく推移していた。
結婚は32歳の時だ。辛い過去の傷を引きずって7年、恋心を心から締め出していた。それが、7歳年下の部下、亜由美の積極さにほだされた。女が自分に好意を抱いても何の反応も示さずにやり過ごしてきたが、他の女達と違う何かを亜由美に感じたのだ。
亜由美は、甲府で老舗といわれる宝石の卸し問屋の一人娘だった。そのブランド嗜好とプライドの高さには辟易していたのだが、その天衣無縫さには驚かされた。幸子はどこか暗さを秘めていた。その対極にある明るさが石田には新鮮に映った。
結婚してすぐ子供に恵まれた。新生児室のガラス越しに見た知美は10年前、同じ状況で見た晴美の姿とうりふたつだった。一瞬、過去をさ迷い目眩を感じた。それは晴美に対するうしろめたい気持ちがそうさせたのかもしれない。
夫婦仲はよかった。家庭は何もかも順調だった。いつものように自宅のドアを開けるまで、そう思っていた。それが一瞬にして奈落の底に突き落とされたのだ。信じられない事態に呆然自失とした。
石田は、この半年、妻と子供の行方を捜すために休暇を取り続けた。会社では大きなプロジェクトが進行中で、直属の上司、氏家部長はこの時とばかり、石田の追い落としに動いている。新設した仙台支店への異動である。
今日も、石田は机の抽斗に休暇届をしのばせていた。一月以上あった有給休暇も残り少なくなっている。マウスをいじりながら、タイミングを計っていた。氏家部長は、真後ろに位置しているが、石田がさっきから仕事をしていないことに気付いていない。コンピュータ音痴なのだ。
石田は椅子から立ちあがった。その瞬間、氏家は白髪混じりの眉毛を吊り上げ、ふーっと溜息をついた。
「おい、おい、また休暇なんて言うんじゃあるまいな。」
「その休暇です。本当に申し訳ありません。」
この男にはどこまでも下手に出るに限る。二人の不仲はいつ始まったのか何度も思い返してみた。あの場面かもしれないと思うところは幾つかある。しかし、どれも仕事に関わる意見の対立で、理は自分にあると信じていた。
「石田課長、お前は仕事を何だと思っているんだ。随分と遅れているってことはお前が一番よく分かっているだろう。このまま行くと、工期に間に合わんのじゃないか。」
石田は頭を下げながら答えた。
「だいじょうぶだと思います。恐らく、工期延伸は先方から言ってきますよ。JRと東芝電鉄との折衝はそう簡単には運ばんでしょう。またぞろ、設計条件の変更を言ってくるはずです。このまま進めて、全てやり直しではかないませんからね。」
「おい、君は預言者か。設計変更が出るってどうして言えるんだ。」
「実を申しますと、東芝電鉄の工務課には後輩がいますから、情報は入ってきています。JRもそうそう無理は通せないでしょう。」
「本当なんだろうな。その後輩の話ってのは。」
「ええ、間違いありません。」
延々と頭を下げ続け、説得した。妻の居所が掴めかけたと嘘もついた。氏家部長は苦虫を潰したような顔で判子に手を伸ばしたのである。
東芝電鉄の後輩の話は嘘である。しかし、設計変更が出るという自信はあった。直感でしかないが、それはJRの担当者との打ちあわせでそのニュアンスを読み取ったのだ。氏家も参加した打ちあわせである。どうやら、氏家は何も感じなかったようだ。
氏家は典型的な左脳人間である。言葉のニュアンスが分からず、行間が読めない。こうしたタイプは理科系と役人に多い。かつて榊原に聞いたことがある。
「キャリアっていうのはどっちのタイプが多いんだ。」
「言うまでもなく左脳人間だ。記憶力と論理はさすがだが、おおよそ、第六感とか閃きとは縁のない連中だ。かつて後藤田が言った通り、新たに創造する能力はない。とはいえ、人生一度きりのテストで将来を約束された500人ほどのキャリアが、つまりその左脳人間である警察庁キャリアが、俺達の頭を押さえ込んでいるんだから参るよ。」
石田が聞いた。
「でもキャリアが現場に降りてくることなんて、めったにないのだろう?」
「ああ、現場に赴任してもお殿様だからな。俺たちジャコが関わることはない。でも全くないわけじゃない。そんな時失敗こいて、そのお殿様に睨まれたら一巻の終わり。一生日の目は見られん。たとえ昇進試験に受かってもな。」
「おいおい、現場中心の職場で昇進試験かよ。検挙率とか行動力とか或いは統率力で評価されて出世するんじゃないの?」
「いや、試験に受からなければ昇進出来ん。」
「しかし、バリバリの現場で試験が昇進の判断基準では組織がおかしくなる。」
呆れたような顔で榊原が言った。
「だからおかしくなっているんだ。現場での能力なんて昇進には役にたたん。胡麻摺り能力のほうが余程有効だ。それに、ワシがどんなに成績を上げても、厚いバインダーに記録された考課表は変わらん。あるキャリアがワシに下した評価は、次々と引き継がれ警察を辞めるまでついてまわる。」
「なんだそれ。」
「ワシも、つい若気のいたりでヘマをこいたのさ。」
「一発のヘマでも出世に響くのか。」
「そういうこった。ワシが警部になれない理由もその辺にある。」
こう言うと、榊原は押し黙った。濃い褐色の液体を喉に流し込み、グラスの底をカウンターに叩き付けた。コーンというその乾いた音は、これ以上聞くなと言う合図のように感じられた。誰にでも、話したくない過去がある。それは石田も一緒だった。
その榊原から連絡が入ったのは、晴海のことを聞かされて二週間ほど経ってからだ。榊原がそれなりにセッティングしてくれるのかと思っていたが、晴美の携帯の番号と会う日時と場所を連絡してきただけだ。晴美は会うことを楽しみにしていると言う。
その日、その時間に、石田は不安と期待を胸に抱きながら電話を入れた。晴美も同じ心境だろうと思っていたが、石田が名乗ったのち、受話器の向こうから聞こえた声は存外明るかった。
「もしもし、晴美です。今日はありがとう。あの…」
しかし、ここで声は途切れ、やはり緊張しているのか静かな吐息だけが聞こえる。石田も雰囲気に気圧されて何を話したらよいのか分からない。晴美が声を詰まらせながら続けた。
「今日、会えるんでしょう?」
「ああ、そのつもりで電話したんだ。今、君が指定した渋谷の駅前にいる。」
「それじゃあ、15分後に。あっ、そういえば、携帯、非通知設定になってないでしょう。」
「えっ、非通知設定。」
「つまり電話番号を相手に知らせないように設定しているかどうかってこと。さっき、電話掛かってきた時、慌てていて画面見なかったから、番号が表示されていのたか、それとも非通知設定だったかよく確かめなかったの。」
「ああ、大丈夫だ。非通知設定じゃない。僕の電話番号は携帯に残っているはずだ。15分後、その番号に電話してくれ。僕はこげ茶色のTシャツに白のジャケットを着ている。君の特徴は。」
「お父さんにそっくりだって、榊原のおっちゃんが言っていたわ。」
石田はにこりとして答えた。
「分かった。自分の子供が分からんはずがない。じゃあ、待っている。」
14年ぶりの再開ということになる。二人は喫茶店で向かい合った。ほんの数分前、二人はぎこちなく挨拶を交わし、はにかみながらも互いの血の濃さを確認し合った。その時、石田はかつてこの少女に会ったことがあるような気がした。
勿論、子供の時の晴美ではない、別の誰か。確かに会ったことがあると感じた。じっとその顔を見詰めていると、ふとその目に引きつけられた。茶色がかった瞳、切れ長の二重瞼、きりりとした眉、その面影が心に浮かんだ。妹の目元に似ているのだ。
全体的に晴美の方がすっきりとした顔立ちで、細い鼻梁と尖った顎は妹のそれではない。晴美の方が今風のシャープな感じなのに対し、妹は古風な日本人を思わせる丸顔のぽっちゃりタイプだ。しかし、晴美は間違いなく叔母にあたる妹の目元を引き継いでいた。
石田は晴美に妹の面影を重ねた。じっと見詰めていた。なつかしさがこみ上げてきた。沈黙に耐えられず晴美が口を開いた。
「あのー、さっきから、どうしてそんなに見詰めているの。」
「ああ、実は、君の目元が死んだ妹にそっくりなんだ。顔全体の雰囲気は違うし、君の方が美人だけど、目元がそっくりで、本当に驚いた。」
「あら、私の叔母さんに当る方ね。どうして死んだの。」
石田は一瞬息を呑んだ。思案をめぐらし咄嗟に嘘をついた。
「病気で死んだ。高校2年の時。白血病だった。」
「ふーん、可哀想、でもやっぱり、不幸な家系なんだ。」
と言って、遠くを見詰めた。石田は何と答えてよいのか分からず、煙草をとりだすと火を点けた。
晴美の先ほどまでの明るさと幼さが一瞬にして崩れた。何のブランドかは分からないが、高級そうなバッグから銀のシガレットケースを出し、煙草を咥えた。半開きの唇に艶っぽさを漂わせている。
妹の和代とは別の人間であることを思い知らされた。煙を吐き出しながら晴美が言った。
「榊原のおっちゃんに、お父さんに会えって言われた。慰めてやってくれって。奥さんに逃げられたんでしょう。」
「ああ、君のお母さんに次いでこれで二度目だ。よほど女運が悪いらしい。」
晴美は無表情のままだ。石田は溜息混じりに聞いた。
「榊原に詳しく話を聞いたのか。」
「ええ、今、奥さんと子供の行方を捜しているって。」
「榊原の奴、全く余計なことを言う奴だ。」
晴美は石田の不機嫌そうな顔を見て話題を変えた。
「でも、冴えない中年だったらどうしようと思っていたけど、素敵なオジサンで良かった。それに話は違うけど、喧嘩強いんだって。榊原のおっちゃんが言ってたけど、公式戦には出られなかったけどクラブで一番強かったって。」
「ああ、強かった。でももう昔のことだ。もうすぐ40だからね。」
石田は一呼吸あけると、一番気になっていることを口にした。
「ところで、僕のこと、と言うか中野の家のこと、記憶にあるの。」
煙を横に吐き出しながら、視界の端で晴美の反応を窺がった。晴美は思案顔で視線を巡らせると、にこりとして答えた。
「ぜんぜん。」
ふわーっと肩の力が抜けてゆく。火の付いたように泣き出した幼子の顔が一瞬蘇る。石田は心の襞に隠していた疚しさなど微塵も見せず、何食わぬ顔で言った。
「僕と君の母さんのことは、いずれ話そうと思うけど、今日のところは勘弁してほしい。今から思えば僕が一方的に悪かったと思っているけど……」
「聞いてるわ。写真のこと。」
石田はぽかんと口を開けたまま晴海を見た。幸子が不貞の事実を娘に打ち明けたと知って面食らったのだ。
「ママ、最近になって話してくれたの。二人が別れた事情。多分、私の口を借りて、お父さんに言い訳がしたかったんだと思う。」
石田は、思わず身構え、押し黙った。あの時、幸子の話を聞かなかったことを今でも後悔していた。晴美の口が動いた。
「あの写真の男は高校の時のボーイフレンド。名前は杉村マコト。肉体関係はなかったって言ってるわ。」
石田はごくりと生唾を飲み込んだ。いよいよ真実が明かされる。今更の感はあるものの、あの写真の男、杉田マコトという名を心に刻み込んだ。
「その人、高校時代、ママのために暴力事件を起こして退学になったの。高校の先生がママに不当な言葉を吐いて、それでキレたみたい。」
石田はすぐにピンときた。あのことだ。
「そういう人種など無視すればいいんだ。どこにでもいる、馬鹿な連中だ。」
「ええ、ママも私も気にしてなんかいないわ。でもマコトは我慢できずに暴走してしまった。ママのことが好きだったから。本当にマコトの男って感じ。で、その人と別れる時、つまりその人が福岡を去る時、ある約束をしたそうよ。」
「どんな。」
「ママの20歳の誕生日に、福岡のある場所で会う約束をしたの。ママは迷ったみたいだけど、その日、その場所に行ったの。愛する人が出来たことを報告するつもりで。でも、とうとうその人は現れなかった。」
石田はぼんやりと遠くを見つめた。やはりそんなことがあったのか。何か事情があるとは思っていた。あの日、唐突に母の墓参りにゆくと福岡に飛び立った。そして、幸子はその直後に妊娠した。そして石田はその暗い疑念を心の襞に隠しつづけていたのだ。
「その人が今のお父さんなの。」
「違うわ。そうであったらどんなに良いか。プラトニックな愛のために自分の将来を犠牲に出来る人なんて、そうはいないもの。退学になったのは、県で一番の進学校よ。」
「結局、その人とは結ばれなかったわけだ。」
「ええ、一度、東京で再会しただけ。あの場所で会って、それっきり。」
「あの場所って、写真の場所のことかい。」
「ええ、そう。ママに言わせると、急に抱きすくめられてキスされそうになったけど、胸を押してそれを避けたんだって。」
言われてみれば、写真はやや右斜め後ろから撮られていた。キスしているように見えただけだったのかもしれない。
「では、あの写真を撮ったのは誰なんだろう。」
何度となく繰り返した疑問を口にしていた。恐らくあの人物だろうと思うところはあるのだが。
「分からない。ママも分からないって言っていたわ。」
石田は大きな吐息を漏らすと、くらくらと目眩を感じた。何もかも、自らの卑小さが作りあげた妄想に過ぎなかった。そんなもの、幸子の人となりを知っていれば一蹴できたはずだ。しかし、今さら後悔したところで始まらない。石田は素直な気持ちで言った。
「ママに謝っておいてくれないか。一方的に僕が悪かったって。」
「ええ、言っておくわ。こんな作り話を素直に信じたって。」
こう言って、晴美はけらけらと笑った。笑いながらも、どこか醒めた視線を投げかけている。石田が聞いた。
「ママは幸せか。」
「不幸のどん底。パパに三行半を突きつけて、離婚を迫っているわ。パパには女がいるのよ、きっと。でもパパは離婚を拒否しているの。」
「別居しているのか?」
「まあ、そういうこと。でも、ときどき何かにかこつけて家に来ることがある。ママは無視しているけど。あんな奴、家に上げなければいいのに。」
こう言うと、晴美は視線を窓の外に向けた。この話題にはもう触れられたくないらしい。石田も外を眺め、何とも言えぬ複雑な思いを噛み締めていた。
それから1時間ほど話した。晴美の興味は次々と湧き起こり、石田の今の生活や仕事のこと、晴海の母親とのこと、中野の家の出来事など、聞かれるままに語った。晴美は自分のアイデンティを探求するかのように石田の話に耳を傾けていた。
結局、石田ばかりが話をするはめになり、晴美の心の襞に触れることはなかった。ふと、晴美がしきりに時計を気にしているのに気付いた。どうやらお開きにしたいらしい。石田は最後に父親らしいことを言いたくなった。
「榊原に聞いたけど、シンナーやっていたって。」
「心配しないで、もう止めたから。あんなの子供がやるものよ。」
「そうか、よかった。お父さんも心配していたんだ。」
晴美が笑いながら言った。
「あっ、今、初めて、自分のことお父さんっていったわね、僕ではなく。」
「ああ、なかなか言えなかったけど、ようやく言えた。本当に心配なんだ。お、と、う、さ、ん、は。」
「でも、私、お父さんって言うの、何となく恥ずかしいわ。それより、仁って呼んでいい。ママがそう呼んでいた。だから私もそう呼ぶ。」
「ああ、いいよ。それより、ご飯食べて行こう。」
そう言って、伝票を取り上げレジに向ったが、後から声がした。
「今日、これからデートなの。」
石田がレジで清算していると、晴美はその後をすり抜け外に出た。扉から顔だけ出して石田に声を掛けた。
「仁、今日は有難う。会えて本当に良かった。また電話する。今度はゆっくりとお食事しよう。」
石田は振り向くと、晴美の微笑みに応えた。その顔がドアから消えたと思ったが、すぐにまた現れた。そして言った。
「奥さんとお子さん、見つけられるように祈ってる。」
石田は気の利いた台詞も思い付かぬまま、苦笑いするしかなかった。
第四章
一週間後、石田は再び晴海に呼び出され、渋谷で待ち合わせて昼食をご馳走した。晴美は起きたばっかりだという。どんな生活をしているのか不思議に思い問いただすと、大学受験資格を得るため大学検定の勉強をしていると言う。
晴美はよく食べよく喋った。若い女のエネルギーを感じた。石田は始終にこにこと話を聞いて、頷くばかりだった。父親という役割も演じるのではなく、自然に身に着いてきたようだ。娘とのデートは、憂鬱な現実を忘れさせる楽しい一時だった。
渋谷駅で晴美と別れ、うきうきと幸福感に包まれて山手線に乗った。晴美は更正しつつある。母親とも素直に話せるようになったという。何が彼女を変えたのか。それは、新しい彼氏の存在が大きいようだ。
話を聞いただけだが、彼氏の牛田洋介という青年に好感が持てた。しかし、どう考えても肉体関係があると思わせる台詞に、つい目くじらを立てたくなるのだが、今の子供にとってそれはごく当たり前のことだと思っているらしく、実にあっけらかんとしている。
次に食事をする時は洋介を誘ってもよいかと聞かれたので、歓迎すると言っておいた。晴海の彼氏なら一度会ってみたいと思った。晴海が言うには、幸子も一度会わせただけだが妙に彼氏を気に入っていると言う。
つくづく思うことだが、人は出会いによって人生が変わる。ふと、今日の新聞の記事が脳裏をかすめた。女子高の女教師が殺人教唆で逮捕されたとあった。浮気相手が自分の旦那を殺したのだ。教唆の事実を裏付ける証拠があったからこそ、警察は逮捕に踏み切ったのだろう。
しかし、その証拠について、その記事には何も語ってはいない。いずにせよ、その男との出会がなければ、女教師も真っ当な人生を歩んだはずだ。たとえ、旦那とうまくいっていなくとも、罪人になるよりはましな人生だったはずである。
ふとそこまで考えて、暗い思いに直面した。そうだ、妹もその男達に出会わなければ、真っ当な人生を歩んだに違いなかった。今頃は俺に似た手の掛かるやんちゃ坊主の母親に納まっていたかもしれない。
そう、妹は、出会うべきでない男達にたまたま出会ってしまったのだ。妹の体から複数の男の精液が検出されたのだから。
妹、和代の死体が発見されたのは新潟の柏崎の海岸だった。男達に暴行され、最後に首を絞められ殺害された。その苦悶の表情が石田の脳裏に焼き付いて離れない。和代はまだ16歳、高校2年の夏の出来事だった。
あれから19年が過ぎようとしている。既に時効が成立して4年が経過していた。復讐の思いは虚しく朽ち果てようとしている。そこに和代の目元を受け継いだ晴美が現れた。抱きしめたいという衝動を漸く押さえた。和代が晴美のなかで生きている、そう思った。
しかし、晴美は和代とは性格も容姿も全く別の人間だった。清楚で純朴な少女と艶やかで早熟な女の違いである。まして一番の違いは、和代は間違い無く処女だったが、晴美は既に男を知っている。濡れたピンクの唇がそう語っていた。
妹、和代は友人三人と泊まったユースホステルを朝一人で散歩に出てそのまま失踪した。海岸を散歩する和代を新聞配達の少年が目撃している。しかしその後、警察の徹底した調査にもかかわらず、その行方は杳として知れなかった。
和代の死体が発見されたのは、一ヶ月後のことだ。スリップ一枚で下着も着けず、その体は痣だらけだった。和代は暴行され、陵辱され、そしてぼろぼろになって捨てられたのだ。思い出すだけで、石田の体は怒りに震える。
両親は事件解明の為、新潟に通いつめた。和代の写真入りのポスターを作り、目撃者捜しに奔走した。その両親も何の成果も得られないまま、高速道路で事故を起こして死んだ。全てが悪夢としか言い様がない。
和代の味わった恐怖、怒り、悲しみ、絶望、想像するだけでも胸が張り裂けそうになる。当時、石田はその思いをサンドバッグにぶつけた。拳を思いきりサンドバッグに叩き付けることで、漸く心のバランスを保っていたのだ。
石田は中野駅を降りると真っ直ぐに行き付けの飲み屋に向った。行き付けといっても、マスターに顔を覚えられ、親しく話しかけられるまでの話だ。話しかけられれば次ぎの店を捜す。
じっくりと酒を飲む。それが目的なのだ。誰にも邪魔されたくはなかった。アルコールが脳神経を麻痺させるまで飲み続ける。ふらふらになって家に帰り、ベッドに直行する。何も考えずにすむように。
ぼんやりと親父やお袋の顔を思いながら酒を飲む。家族旅行のことや、和代との口喧嘩のことなど、思い出しては懐かしむ。そして最後には妹の苦痛を思い、湧き起こる悔しさと悲しさを憎しみと怒りに変える。そうしなければならないと感じてきた。そうすることにより、必ず運命を引き寄せることが出来ると信じてきた。
その運命とは男達と出会うことだ。会って復讐を遂げる。男達が許しを請う。石田は和代の写真を見せて泣き叫ぶ男達を次々と殺す。強い思いが現実を変える。強く念じることが男達との出会いを実現させてくれると信じていた。
しかし、いくら念じてもそれは訪れない。何故なのだ。石田は何度もその不思議を体験してきた。日常で、仕事で、それは確かにあるのだ。深く強い思いが、現実を動かして、その思いを実現させるということが。
一心に解決を望む心、或いは言葉を変えるなら、人の強い思いには、その強さゆえ何か不可思議な力が加えられ運を引き寄せる。それを信じてきた。だからこそ、復讐心を奮い立たせ、体を鍛えてきた。いつその男達に出会ってもいいように。
そんな暗い思いが希薄になっていた時期がある。6年ほどだ。そうさせてくれたのは、二人目の妻、亜由美であり、愛娘、知美だった。その二人が忽然と姿を消し、代わって和代の姪にあたる晴美が現れた。石田は以前の復讐の思いに再び捕らわれ始めた。
酔った思考がさ迷っている。亜由美、戻って来い。全て許す。何もかも、お前のとった行動の全てを許す。だから戻って来てほしい。お前を心から愛していた。知美を心から愛していた。俺はお前等がいなければ駄目になる。
復讐に燃える心の片隅に残された微かな揺らぎ。荒んで行く心を引き止めてくれる二人の存在、その愛を求める思いが揺れていた。しかし、アルコールの力は更に脳神経を冒していった。亜由美から、晴美に、晴美から和代に強引にイメージを移し替えていった。
憎悪が膨れ上がる。そろそろ席を立つ時が近付いている。その言葉を吐けば、そろそろなのだ。顔のない男達に対する復讐心が石田の心を占めていた。その言葉「殺してやる。いつか殺してやる」と、心の中で叫ぶ声が聞こえた。
晴美は全身にシャワーを浴びながら、冷水が体の芯に残る違和感を拭い去ってくれるのをじっと待っていた。友人等に聞く女の喜びには程遠い自分のセックスにうんざりしながらも、体のどこかで熱く疼いているのが分かる。
ベッドルームとバスルームはガラスで仕切られており、二回も行って満足したのか、洋介が放心したようにベッドで煙草をくゆらせているのが見える。洋介は立教大学2年生で富山の金持ちのぼんぼんである。付き合い出して二ヶ月になる。
体も拭かずシャワールームから出ると、晴美はいきなりベッドに飛び込んだ。
「おいおい、シーツがびしょぬれになるじゃねえか。まったく晴美は子供みたいなところがあるから、参るよ。」
「だって子供だもん。体は大人だけど。」
「ほんと、体は大人そのものだ。高校生って聞いたときは俺も驚いたよ。一瞬やばいって思った。手が後に回るんじゃないかってさ。」
洋介はそう言うと晴美を後から抱きしめ、首筋に口付けをした。晴美はこそばゆいだけで感じるどころではない。首をかしげてそれから逃れようとした。石田が囁いた。
「大人の女はここが性感帯なんだぜ、まあ子供じゃあしょうがないか。」
晴美は振り向くと、両手で洋介の首を絞めながら叫んだ。
「うるさい、これでもだんだんでも良くなっているんだぞ。それより自分の下手なテクニックを反省しろ。」
二人はもつれながら互いを抱きしめた。そして、笑いながらベッドから転げおちた。晴美が上になった。尻の下で洋介の物がむずむずと大きくなって行くのが分かる。晴美は自分の下半身を押し付けてぬるぬると動かした。
晴美は体をずらせて、洋介から降りた。そして言った。
「今度は口で行かせてあげる。」
洋介は口をぽかんと開けて晴美を見ている。晴美は向きを変え、洋介と向かい合った。それを握ってぱくりと咥えた。そのまま見上げると、洋介は晴美を凝視している。まだ柔らかい。舌を動かすと、洋介はあーっと吐息を漏らし、その瞳は閉じられた。晴美は必死で舌を動かしながら、幸せを噛み締めていた。
洋介とはまだ知り合ったばかりだが、今まで付き合った男達とは毛色が違っていた。誠実で、何よりも大人の雰囲気を漂わせている。実際、前の彼氏、ノボルは体が大きいだけで精神は子供のままだ。暴走族のリーダーで喧嘩が趣味のような男だった。
一月前のことだ。洋介に寝取られたことを知ったノボルは、東長崎の洋介のアパートを襲った。晴美も一緒だった。僅かに開いたドアから覗いたノボルの憎悪に満ちた目が忘れられない。ドアチェーンが引き千切られた。
洋介は一瞬ひるんだが、侵入しようとしたノボルを足で蹴って、ドアを戻すと鍵をかけた。身を翻し、押入れにしまい込んであった木製のバットを取ると、ドアの前に立ち身構えた。合板のドアが蹴られミシミシとひび割れて行く。洋介が振り返り叫んだ。
「警察だ、警察に電話しろ。」
晴美は震える指で電話をかけた。その間、ドアの鍵がキンという音と共に飛んでドアが内側に開かれた。ノボルが仁王立ちしていた。その手には金属バットが握られている。両脇からケンと佐々木が顔を覗かせている。洋介はバット構えたまま言った。
「入れるもんなら入ってみろ。」
ノボルが三和土に踊り込み「この野郎」と叫びながら、バッドの先を洋介の顔目掛けて突いてきた。その瞬間、木製のバットが唸りをあげた。金属バットはキンという音と共にノボルの手から弾けるように放たれた。それは台所の壁にぶつかり晴美の足元に飛んで来た。晴美は「キャー」と小さく叫んだ。
その声に洋介が振りかえった瞬間、ノボルは洋介の腰にタックルをかけた。洋介は後ろに倒れ込みながら、左に払ったバットを引き戻し、両手で握り直すとノボルの喉仏を思いきり前に突き出しながら仰向けに倒れこんだ。
ノボルは喉の痛みに堪え切れず、手を離し洋介の隣にうつ伏した。洋介はすぐさま立ちあがり、バットを構え直し、背後から迫っていたケンと佐々木を睨み付けた。そして唸るような声を発した。
「俺は中学高校と野球部の四番バッターだった。お前等、その手と足を一生使い物にならなくしてやろうか。えっ、どうする。」
二人は顔を見合わせた。晴美が叫んだ。
「もうすぐ警察が来るわ。あんた達、早く逃げて。」
二人はピクンと肩を震わせると、さっと身を翻した。ノボルが漸く起き上がり、洋介を睨むと、大きく肩で息をしながら声にならない声を発した。洋介はノボルが何を言ったのか、怪訝に思った。洋介を睨んだまま、ノボルがゆっくりと部屋を後にした。洋介は身じろぎもせず誰もいなくなった入り口を睨みつめている。
静寂が訪れた。ハアハアという洋介の呼吸だけが響いている。バットを構えたまま、晴海に顔を向け聞いた。
「あいつ最後に何て言ってたんだ。」
晴美は思わず笑い出した。腹の底から笑った。洋介が怪訝そうに晴美の顔を覗き込む。晴海は可笑しくて可笑しくて笑いが止まらない。
「もう、バット、下ろしてもいいんじゃない。もう誰も襲って来ないよ。いつまでその格好しているつもり。バット振り上げたまま、何、考えているの。」
こう言ってまた笑い出した。
洋介は力を入れすぎて、体が、がちがちに固まっているのを意識した。次ぎの瞬間、急に力が抜けて、腰から崩れ落ち床に座り込んだ。晴美は笑いを堪えながら、言った。
「ノボルは、覚えておけって言ったんだと思うわ。」
晴美は、ふーと安堵の息を吐く洋介に抱き付いた。しばらくして、洋介が困惑顔で言った。
「おい、晴美、俺の指を解いてくれないか。バットを放そうにも、指が固まっちまって動かん。」
鏡に晴美のスリムな肢体が映っている。洋介は鏡の中のその横顔を見つめた。晴海は彼の胸で静かな寝息をたてている。いや、本当は眠ってなどいない。晴美が求めていたもの、静寂と安らぎがそこにある。
「お父さんに会ってどうだった。」
洋介が晴美の肩を抱きながら囁いた。晴海は厚い胸板に頬を押し付けて、こっくんこっくんという血流の音を聞いていた。晴美は少し考えて、ゆっくりと言葉を選んだ。
「不思議なんだけど、仁の記憶、つまり本当のお父さんの記憶は、恐ろしい顔から始まっているの。中野の家や仁のお友達の記憶はあるのに、仁のは鬼のような形相で睨んで、私を蹴った記憶しか残ってないの。」
洋介は押し黙ったまま、晴美の肩を引き寄せた。晴美は悲しみの原点を見詰めている。恐らくそれがトラウマになって少女の心を歪ませたのだろう。またぽつりと晴美が言った。
「ママに言わせると、蹴ったわけじゃないって、脚にしがみ付いた私を振り払っただけだって言ってた。確かに、今日も話してみて子供を足蹴にするような人じゃないてことは分かったけど…。」
晴美ははにかむように微笑んだ。
「それにママの方が誤解を受けるようなことをしたんだから。それに…」
晴美は言葉を飲み込んだ。かつて、落ちるところまで落ちてしまった自分がいた。そんな自分を正当化しようと、憎しみを自ら増殖させた。すべてが不幸な生い立ちのせいだと自分にいい訳するために。子供じみた過去の自分に溜息をつき話題を変えた。
「でも、もう、いいの、仁のことは。それより許せないのはパパよ。パパは妹が生まれて人が変わったわ。それまでは連れ子の私を可愛がってくれてたの。でも、小学6年の時、本当の子供が出来たら急に態度がおかしくなった。変わっちゃったのよ。」
洋介は神妙な顔で頷いた。
「そんなものなのかなあ。まだ子供持ったことないから分からないけど。」
「絶対そうよ。子供なんて血の繋がりがあるから可愛いのよ。ママに追い出されてから、何回か家に来たことあるけど、妹のことは可愛いみたい。目で分かるもの。いとおしいって目をして見ているわ。」
「しかし、いったい誰なんだろう。仁さんにその写真を送った人は。」
晴美が意味ありげに微笑んだ。
「分からないわ、そんなこと。でも、写真の相手が、つまりママの昔の恋人のマコト君が、誰かに撮らせて仁に送り付けたとしたら、その後にマコト君のママに対するアプローチがあってしかるべきだわ。だけど、何の連絡もなかったって。」
「お母さんは仁さんと分かれて1年後に見合で結婚したって言ったよね。」
「そう、前に駒込の叔母さんのこと言ったでしょ。その旦那の甥っ子がパパ。優しそうで、私を可愛がってくれそうだったから、決めたって言ってた。」
「しかし、その直後に、お母さんの福岡の実父と義兄、二人とも一緒に自動車事故で死んで、莫大な遺産が転がり込んでくるなんて不思議といえば不思議だよな。それで君の親父さんは、次ぎから次ぎに事業を起こしては失敗し、その財産を食いつぶした。」
「ええ、昔からやってる仕事以外に、別の事業を思い付くままに起しては潰していたみたい。でも遺産を相続したのは結婚の後だから写真のこととは関係ないと思うけど。」
「いや、そうとも言えない。写真を使って仁さんと分かれさせる。そして自分の親戚と結婚させ、そして…」
「そして…?」
晴美は目をきらりと輝かせて続けた。
「つまり、駒込の叔母さん、或いは叔父さんが、…」
「いや可能性だ。一つの可能性を言っているだけだ。」
こう言いながら、洋介は肌が粟立つのを感じた。晴海の叔母或いは叔父が自動車事故を仕組んで姪に遺産を相続させた。そんな馬鹿な。
「何考え込んでいるの。」
洋介が顔を上げると、晴美がにこにこしながら顔を覗き込んでいる。
「いや、何でもない。」
「何考えていたか分かるわ。いいと思うわ、その推論。駒込の叔母か叔父が黒幕ってことでしょう。でも、パパが独自に仕組んだ可能性だってあるわ。」
「ああ、確かに。でも、叔母さんが二人を、つまり高校時代の恋人二人を会わせたわけだろう。君を預かってまで。ってことは二人の写真を撮ることが出来たってことだ。」
「やっぱりその結論に行き付くしかないわよね。」
「ああ、それしかない。最後まで仁さんとの結婚に反対していたのはその叔母さんだ。仁さんと別れさせる絶好のチャンスだった。」
晴美が真剣な眼差しを向けてくる。
「そして思惑通りに仁さんは動いた。」
「ええ、ママはキスなんかしていないって言ってた。抱きしめられそうになって、それを拒絶したんですって。」
「遺産相続後、親父さんは何の商売を始めたの。」
「バブル時代に不動産を買いあさって失敗したって言っているけど、具体的には何も知らない。いつの間にか、財産がなくなってしまったみたい。確信はないけど、叔母も甘い汁を吸っていたと思う。だってすっごく強欲だもの。あの頃、しょっちゅうパパに電話してきていたわ。最近は、ママとは絶縁状態。」
「つまり、晴美も財産を吸い上げたのは叔母さんかもしれないって思っているわけだ。」
「ええ、そうとしか思えない。だってパパは馬鹿じゃないもの。前からやっている事業はそのまま順調みたいなの。なのに、新たな事業だけが全部駄目になってしまうなんて考えられる?」
「よし、調べてみるか。親父さんの会社って何を扱っているの?」
「メインは大理石の輸入加工販売だけど、他にも何かやっているみたい。でも、詳しくはしらない。興味ないし。」
「でも、本当に全部使っちゃったの、君の親父さん。それを許していた君のママもちょっと考えられないな。」
「ママはそういう人なの。降って沸いたような財産だったから実感がなかったみたい。まして、人を疑うことを知らないし、欲ってものがないの。残ったのは株券だけだって。でも、その中でかなり急成長している会社があって、その配当がすごいらしいの。パパが離婚届に判を押さないのはそれを狙っているからじゃないかしら。」
「その辺は分からない。でも間違いなく女がいると思う。その証拠を掴めばすぐ離婚出来るんじゃないの。」
「それが、だめみたい。尻尾を掴ませないんだって。私立探偵雇ったけど、それらしい人がいないのよ。不思議なんだけど。」
「ふーん、手始めに親父さんが借りているマンションでも張ってみるか。」
「わー、かっこいい。何だかわくわくしてくる。兎に角、駒込の叔母さんっていうのも、パパもどっか変なのよ。暗くって、何考えているのか分からないって感じ。ママと結婚するまで猫を被っていたんでしょうけどね。」
洋介は退屈な大学生活に辟易していた。何かわくわくするものが欲しかった。目的が欲しかったのだ。もし、野球を続けていればこんな気持ちにはならなかっただろう。しかし、今さら野球でもない。
可愛い恋人に手を貸してやるのも悪くはないと思ったのだ。人のプライバシーを覗くのも一興だった。女がいないはずがないと思った。証拠を掴んで、晴美とその母親を喜ばせてあげたかったのだ。
第五章
捜査会議は沈痛な雰囲気の中で幕を下ろした。皆、ぞろぞろと出口に向う。榊原に声を掛ける者は一人もいない。相棒の原さえ、ぎょろ目を右往左往させ、榊原の傍らから少しでも距離を置こうとしている。
榊原は平静を装い、原を振り返りざま、陽気に言葉を掛けようと思った。「まったく、課長の腰巾着が、偉そうにしやがって。屁でもこいていろってんだ、なあ、原。」と。
しかし、原の落ち着きのない目の動きはそれを受けとめる余裕などなさそうだ。榊原は思い付いた強気の言葉を飲み込むと、顔を前へ戻した。そう、あんな場面の後、笑って済ませるほどの大物などいるはずもない。
榊原は今日も報告を原に任せた。しかし、捜査会議の責任者はそれが気に入らなかったらしい。石川警部が立ち上がると声を張り上げ怒鳴った。
「おい、榊原、いったいお前のチームの責任者は誰なんだ。何でお前が報告しない。自分が本庁から来ているからって、偉そうにしやがって。そんな態度だから、いつまでたってもうだつが上がらないんだ。」
石川警部は拳をテーブルに思いきり叩きつけた。ぴんと張り詰めた雰囲気のなか、ドンという鈍重な響きとしーんという静寂。石川警部は椅子に腰を落とすと憤然と天井を睨み付けた。皆の視線が榊原に集中し、そして一瞬にして散った。座は重苦しい沈黙に包まれた。
さすがの榊原もどう反応してよいのか分からず、石川警部を見上げた。その瞬間、かっと血が沸き立った。頬から耳たぶの先まで熱くなり、形相が一変した。しかし、一瞬にして柔和な顔に切り換えた。興奮を押さえるように大きく長い息を吐いた。
石川は捜査の行き詰まりに苛立っていた。それは誰もがひしひしと感じていた。相棒の原はいつものように何の成果がなかったことを報告しただけだ。それは原に限らず他のチームも同様だった。そんな閉塞状況に石川警部の苛立は頂点に達したのだ。
その苛立ちが、榊原というエスケープゴードに向けられた。石川にとって榊原は大学の先輩ではあるが、階級社会において決して自分を超えることのない存在、自分を脅かすことのない存在だからこそ、それに相応しかった。
しかし、それを言うなら最初から言うべきなのだ。榊原は、それが許されると思ったからこそ、相棒の原に報告を任せていたのだ。今更言われても、ハイそうですかと素直に交替出来る訳でもない。
榊原は、自分の高ぶった心を必死に鎮めた。階級社会に生きて17年。憤りの処理を間違えれば、災厄が頭上に降りかかる。石川警部が言った通りうだつが上がらない理由がそこにあった。確かに、憤りに身を任せたために榊原は出世できないのである。
榊原は長い溜息をついた。諦めと焦燥。同時に存在するのが不思議に思えるこの二つの感情が榊原の心に去来する。警部昇進試験の筆記をクリアーしても、人事考課で落とされるのだ。あのキャリアの襟首を掴んで振り回したことが今でも影響している。
噂では、殴ったことになっているらしいが、そこまで馬鹿ではない。激情し相手の襟を掴んで引き寄せただけだ。肘が相手の顎に当ったが、それははずみというものだ。いや、正直に言えば意識してやったことだが、当然のことをしたと思っている。
あのキャリアの顔は今でも覚えている。駒田一郎。瓜実顔に黒縁の眼、典型的なキャリア顔した男だった。当時、榊原は大井警察署の刑事課にいた。署内でキャリアの研修が行われていたのは知っていたが、まさか自分にお鉢が回ってくるとは思いもしなかった。
その日、榊原は突然課長から呼び出され、駒田のお守り仰せつかった。覆面パトカーにでも乗せて、午後いっぱい遊ばせろという指示だ。午後の講師役が事故を起こして来られないというのだ。榊原は駒田を助手席に座らせ、管内を流して回った。
くれぐれも大事に扱えという指示がおりていた。それに反発して、ついついつっけんどうな受け答えになっていたが、冷たいと言うほどではない。榊原としてはまずまずの対応だと思ったし、後一時間無事に済ませれば開放されるところまで来ていた。
車は大井競馬場から大森駅方面に向っていた。広い道から折れて住宅街の狭い一方通行に入っていった。ふと、50メートルほど先にパトカーが止まっているのが見えた。ゆっくりと近付いてゆくと、そこには小さな公園があった。
公園の奥、木立の中で二人の制服警官が、若者三人に職務質問をしていた。体の大きな若者が、猛然と食ってかかっている。年かさの警官がその若者をやんわりとなだめ、もう一人の憮然とした若い警官をけん制している。そんな構図である。
いきなり若者がなだめていた警官を殴った。ボクシングかなにかやっている、榊原は咄嗟に判断した。腰の入れ方が素人のそれではない。殴られた警官はがくっと膝をついた。若い警官が警棒に手を掛けた時、二人の若者が飛び付いた。
榊原は咄嗟に車から飛び出し、「お前も来い」と叫んで走り出した。駒田は追ってこない。そんなことは最初から分かっていたし、どうせ頼りにならないのだから気にもしなかった。久しぶりに手応えのある相手を見つけて躍り出たのだ。
あっという間に若者三人をぶちのめし、二人の警官と一緒に勝利の雄叫びを上げたい気分で、ぜいぜいと息をしながら警官達に話しかけた。
「ご苦労さん。一件落着だ。ワシは刑事課の榊原だ。おい、お若いの、早く手錠をはめちまえよ。」
年かさのいった警官も肩で息をしながら答えた。
「助かりました。私は有川巡査部長、相棒は志村巡査といいます。この野郎、ボクシングかなにかやっていますよ。私達二人ではとても手に負えませんでした。本当に有難うございます。こいつらトルエンの売人ですよ。近くに隠しているはずです。あの樹の後あたりでしょう。」
二人の警官は三人をパトカーに連行しようとして、覆面パトカーの中に人がいるのに気付いた。若い警官が振り返って榊原に聞いた。
「中にいるのは誰です。」
「キャリアだ。今お守りの最中だ。」
若い警官は、駒田を睨み付けながら言い放った。
「仲間がぼこぼこにされているのに自分は車の中で、ぶるぶる震えていたってわけだ。まったく恥を知れって。もっとも、キャリアなんて俺達を仲間となんか思っていないんでしょうけど。」
車の窓は開いている。志村巡査はわざと聞こえるように言っている。榊原は声を落として、駒田に聞こえないように言った。
「まあ、そう言うな。それにそうじろじろと見るんじゃない。奴だって忸怩たる思いがある。後は君達に任して、ワシは行くぞ。ワシから調書取ろうなんて思うなよ。」
軽く手をあげて、車に乗り込んだ。
横目で見ると、駒田は俯いて押し黙っている。息が荒い。榊原はそんな駒田を無視して車を走らせた。長い沈黙が続いていた。駒田は言訳を懸命に考えているのかもしれない。余計な言葉など掛けないほうが無難だ。ところが、突然、駒田が榊原を怒鳴ったのだ。
「君達は何を勘違いしているんだ。私は君達とは立場が違う。常に冷静に状況を掌握し、何をすべきか判断しなければならない。そう教えられて来たし、そう訓練されてきた。研修中とはいえ、私は君の上席なんだぞ。」
榊原を睨んだ目にはうっすらと涙が滲んでいる。
「いいか、私は万一に備え署に無線で連絡しようとした。しかし、私にはそのやり方が分からない。何故なら、君は研修だというのに、そんな初歩的なことさえ教えようとしなかったからだ。君は研修を何だと思っているんだ。いいか、私はしかたなく、必死で無線機と悪戦苦闘していたんだ。」
ここで榊原は話の腰を折った。
「それが済んだら、駆けつけようと思っていた?」
「当たり前だ。こう見えても、私は東大法学部、空手部の主将だぞ。」
榊原は殴りつけたい衝動をどうにか押さえ込んだ。じっと堪えるしかない。溜息混じりに答えた。
「はい、はい、分かりました。分かりましたから、そう興奮しないで。」
この一言で、駒田が切れた。
「なんだ、その言い方は。お前は私を馬鹿にしているのか。お前は研修という目的を最初から放棄していた。その怠慢に対する反省もない。いいか署に帰ったらこのことは報告させてもらうからな。貴様は処分を免れない。かご、かく、覚悟しておけ。」
最後は興奮し過ぎて言葉が乱れた。
榊原は車を急停車させると、駒田を睨み付けた。駒田も睨み返した。そして、鼻でせせら笑った。駒田は榊原が謝ると思っているのだ。急いで車を止めたのも、必死で頭を垂れるためだと思い込んでいる。駒田の勝ち誇った顔が、榊原を激昂させた。
「表に出ろ、この野郎。東大法学部の空手部がどれほどの腕か見てやろうじゃないか。」
「馬鹿なことを言うな。有段者の拳は凶器だ。それに、私闘は固く禁じられている。」
榊原は駒田の胸倉をつかんで引き寄せ、同時に肘を思いきり回した。駒田の顔が恐怖で歪んだ。榊原は低く搾り出すような声で吼えた。
「いいか、俺は殴り合いの最中もちらちらとお前を見ていたんだ。お前は、この窓から首をだして俺達の格闘に見ていただけだ。無線機なんていじりもしなかった。ワシを処分するだと。やれるならやってみろ。お前が、仲間に加勢もせず、車の中でぶるぶる震えていたと、皆に言いふらしてやる。空手部の主将だとほざいていても、蚤の心臓だってな。」
駒田の目がウサギのように赤く染まった。
その日、署長室に呼ばれ絞られた。駒田が榊原の振舞いが傲慢で無礼だったと抗議したのだ。駒田は、どうやらその日起こったことには口を閉ざしているらしい。コワモテのキャリアという化けの皮が剥がれるのを恐れたのだ。
その駒田の恐れは杞憂には終わらなかった。何故なら、榊原が喋らなくても、現実をつぶさに目撃した有川巡査部長と志村巡査があちこちで喋りまわったからだ。駒田の話は、ノンキャリ警察官にとって、格好の酒の肴になっていたのである。
榊原も仲間と飲めば、そのことを聞かれた。ついつい酒が回って、その後に起こった駒田の言訳とふてぶてしい態度、胸倉をつかんだ時の情けない顔を面白おかしく話した。それが一人歩きし、榊原がキャリアを殴ったという話になっていったのだ。
これが原因で榊原の出世の芽は摘み取られたのである。それでも、諦めながらも昇進試験だけは受けた。女房の手前もあったからだ。それに、確実に実績を積めば上層部にも変化があると期待した。しかし、待てど暮らせど何の変化もなかったのだ。
あの時の激情がすべてを決定した。まさに若気の至りとしか言い様がない。とはいえ、僻地に飛ばされもせず、こうして本庁勤務でいられるのもやはりキャリアのお陰であるというのは何とも皮肉である。
捨てる神あれば拾う神ありとは正にこのことだろう。自分を信頼してくれている人間が二人ほど組織の中にいる。そのキャリアの顔を思い出すだけで、救われる思いがするのだが、今日という今日はそれさえ役に立ちそうにない。
石川警部が、皆の前で、榊原をあそこまで面罵出来たのは、何らかの確信があったからだ。俺がこれ以上出世出来ないと確信した。或いはもっと悪い情報を掴んだ可能性だってある。奴は、組織の意思をどこかで嗅ぎ付けたのだ。榊原は厭な予感に囚われた。
榊原は石神井駅前の焼き鳥やで自棄酒をあおっていた。ひとりきりだ。あの後、誰ひとり声を掛けてこなかった。原は「今日は早く帰るって、女房に約束していまして。」と、頭を掻きながら、そそくさと駅に消えていった。
暗い思いは悪循環に陥り、出口のない迷路をさ迷い込んでいた。いつもの結論を何度も口ずさんでみたが、いつものようには納得がいかなかった。確かに榊原には警官以外の仕事など考えられない。だから耐えるのか。
携帯が鳴った。幸子からかもしれない。そう思ったが、惨めな自分を晒すような気がして話したくなかった。鳴るに任せて、酒を煽った。回りの客の視線が気になり、しかたなく、胸のポケットから携帯を取りだした。やはり幸子だった。溜息がこぼれた。
「もしもし、私、今日、何度も電話したけど、ずっと留守電だったわ。」
「ああ、張り込み中に電話が鳴ったら台無しだからな。」
つい嘘が出た。
「あら、ご免なさい。でも、この一月ずっと会ってくれないんだもの、寂しくって。」
「ああ、申し訳ない。捜査本部に入ったら、プライベートの時間なんてとても持てない。もうしばらく勘弁してくれ。」
「何か元気がないみたい。どうかしたの。」
女は鋭い。榊原は適当に誤魔化し、来週には時間を作ると約束して電話を切った。幸子の切なそうな声を聞くうちに勃起していた。疲労が体全体を包んでいるというのに、下半身の神経だけは高ぶっている。
幸子の関心を惹こうとして自分以上の自分を演じていた。事実に則して事件解決の顛末を話したつもりだが、自慢話になっていた。幸子がベッドで「名探偵さん」と囁く時、やに下がっていた自分が恥ずかしい。
自分はシャーロックホームズなんかではない。生活がかかっているのだ。出世だってしたい。せめて警部にはなりたかった。父親は榊原より5歳も若く広島県警の警部になった。そんなことで悩んでいる自分を幸子に気付かれたくない。
携帯を戻そうとして、ふと着信履歴を見ると、幸子の着信の前に同期の戸塚の名前が表示されている。日付をみると三日も前だ。さっそくリダイアルした。心が弾んだ。先ほどまでの暗澹たる思いも消えていた。榊原は立ち直りも早い。相手はすぐに出た。
「もしもし、随分と放っておいてくれたもんだな。」
「いやいや、申し訳ない。ワシは殆ど携帯なんていじらないから、よう気が付かなかった。」
「おいおい、それじゃあ、俺の残したメッセージも聞いていないのか。俺は生まれて始めて、思いきって、ピーっていう音の後にメッセージってやつを入れたんだ。」
「そいつを聞くのは後の楽しみにとっておこう。お前の緊張した声を聞くのも一興だ。それより例の頼んでおいたことだな。」
「ああ、もっとも、こんなことで一杯奢って貰うのもちょっと気が引ける程度のことだがな、お前さんのいう共通項に違いない。手が二本とか、チンボコが一本とか、そういう類の共通項でなければ何でも良いって言ったよな。」
「ああ、その通り。そういう類以外の共通項であれば何でもいい。」
「それじゃあ、一杯奢って貰えそうだ。それじゃあ、言うぞ、がっかりするなよ。」
鴻巣警察署の事件と今回の事件、被害者の共通項とは何なのか。耳に神経を集中した。
「ふたりとも、大学生の時に天涯孤独の身になっているってことだ。」
榊原は、その情報にがっくりときたが、口には出さず次ぎの言葉を待った。
「まず、西新井の石橋順二の方は週刊誌に詳しく載っていたんだが、生まれは島根の片田舎。中学の時、父親が交通事故で亡くなっている。高一の時、母親が再婚して神奈川に引っ越したが、義理の親父とうまくいかず、家を飛び出した。高校は出席数かつかつで卒業。その後一浪して東大に入った。母親は大学1年の時に心筋梗塞で亡くしている。」
そこで言葉を切って、間を持たせた。榊原は「それで。」と言って先を促した。
「鴻巣警察の事件の被害者、丸山亮はもともと片親だった。鹿児島出身。母一人子一人で、かなり貧しい生活を送っていたらしい。俺の女房の弟が鹿児島県警にいる。その義弟が調べてくれた。」
「ああ、そのことを思い出したからお前に頼んだんだ。それで。」
「中学校での成績は良かったそうだが、高校進学など望むべきもなかった。中学卒業後就職したんだが、どうしても自分の実力を試したくて、働きながらでも大学に行きたいといって単身東京に行ったんだ。」
「ほう、今時珍しい話しだ。つまり夜間高校に通ったわけだ。」
「ああ、卒業した翌年東大合格だ。とにかく母親思いの少年だったらしい。電話は高いからってめったにかけなかったが、手紙は毎月書いていたらしい。近所でも評判だった。」
「へー、ワシなんてお袋が死ぬまで1通も書いたことない。丸山はよっぽどマザコンだったんじゃないか。」
「まあ、そんなところだ。しかし、母親は、会うのを楽しみにしているという息子の最後の手紙をバッグに入れたままあの世に旅立っちまったんだから、可哀相の一言に尽きる。」
「で、その母親はどんな状況で亡くなったんだ。」
「それが、また可哀相な話なんだ。全く信じられないよ。俺の弟はその当時の新聞記事を見付けた。丸山亮の記事だ。地元紙しか出ていない。見出しはこうだ。”親孝行が徒に”だ。意味が分かるか。」
「いや、想像も出来ん。どういうことなんだ。」
「つまり、こういうこった。丸山はアルバイトの金を貯めて、お袋さんに東京までの切符を送った。卒業式にお袋さんを招いたんだ。その贈り物がお袋さんを死に導いた。分かるか。俺も思わず涙を誘われた。あんまりにも可哀想で。」
榊原はそろそろ潮時だと感じはじめた。戸塚はどんな話でも自分好みに脚色する癖がある。お涙頂だいの物語は榊原にとって推理の邪魔になるだけだ。涙目になっている戸塚を思い浮かべて溜息をつく。わずかに戸塚の声が震えてくる。
「山奥の自宅からタクシーで駅まで来るようにって、タクシー券を贈ったんだ。その途中でダンプがタクシーに突っ込んだ。お袋さんは、この事故で死んだ。」
電話口の向こうで、鼻をすする音が響く。
「くー、泣かせるじゃねえか。アルバイトしてせっかく買って送ったその3000円分のタクシー券がよ、お袋さんを死地に赴かせるなんて、誰が考える、誰が予想する。息子のせっかくの好意と、息子の晴れ舞台を一目なりとも見たいと思う親心を思うと、涙なしには語れないよ。」
「ああ、分かるよ。で、その新聞記事も送ってもらえるわけだな。」
「ああ、送るよ。お前だって涙を誘われるよ。丸山は本当に親孝行だった。ただ、運がねえのよ。お袋さんも運がなかった。」
「つまり、その時点で丸山も天涯孤独になったというわけだ。二人に共通することは、大学卒業までに両親を亡くしている。これ以外に丸山のことで何か情報はないのか。」
「うーん、とにかく母親思いで、真面目で、努力家だってことだ。」
どうやらこれ以上の情報はなさそうだ。しかし、どう考えても捜査データとして使えそうもない。まだ二人とも包茎だったという方が話としては面白い。がっくりと肩を落としたのがわかったのだろうか、戸塚のおもねるように猫なで声が聞こえた。
「そうがっかりするなよ。まさしく偶然の一致だ。事件に関わることなんてこれっぽっちもない。お前さんも、そろそろ焼きがまわったんじゃねえのか。あの事件、特に鴻巣の方は強盗殺人さ。まあ、いい。お前さんのとっぴな推理はこれが始めてじゃない。しかし、約束は約束。お前さんの言っていた共通項には違いない。そうだろう。」
「ああ、その通りだ。分かった、来月の定例会の二次会は俺の奢りってことだ。」
「そういうこと。俺、あの店、気に入っているんだ。ちょっと高そうだけど、まあ、俺の努力を買ってもらうんだから、あのレベルじゃないと合わない。あの店のママ、好美っていったけ、美人だったよな。」
勝ち誇ったような哄笑が携帯を切ってからも榊原の耳に残こされた。
第六章
駒込駅の改札を抜けると、頭上を山手線外回りの電車がレールを軋ませながら通り過ぎて行く。見上げるとコンクリートで固められた天井が振動に震え、微細な塵が頭上を舞っていた。蕎麦汁の匂いが漂う駅構内抜けて左手に折れると、狭い路地の両側に軒を連ねて商店が並んでいるのが見える。
右手前には手作りパンの店。一つ先に油臭い肉屋、その前にこじんまりとした喫茶店がある。男は手にしたバッグを持ち替えて喫茶店のドアノブを引いて中に消えた。牛田洋介はやや傾斜のある道をゆっくりと歩いて、ガラス越しに店の中を覗いた。
男は店のママとなにやら話し込んでいる。二人の姿は洋介の視界からすぐに消えた。戻って喫茶店に入るべきか迷ったが、止めにした。喫茶店のママと何を話しているのか興味はあったが、あまりにも店が狭過ぎる。顔を覚えられる危険は避けるべきだ。
そのまま歩いてアパートに向った。ここ駒込の地はかつて丘陵地帯であったらしく土地に高低差がある。細い道を左に折れると飲み屋が軒を連ねる路地だが、少し行くと小さな階段が幾つも続き、登り切ると広い通りに出る。
その途中に洋介が新たに借りたアパートがあった。
晴美の元彼であるノボルの攻撃は執拗だった。しかたなく東長崎のアパートを引き払い、従兄弟のマンションにもぐり込んだ。その浮いたお金で駒込のアパートを借りたのだ。東長崎の家賃の半分で、正にボロアパートである。
ドアを開けるとすぐに3畳の台所、便器とユニットバスは一体型、その先は六畳の和室、そして最低限の電化製品とベッド。ただそれだけの空間。場違いな望遠鏡とノートパソコンが妙に目立っていた。洋介はどっかりとベッドに座り、望遠鏡を覗き込んだ。
望遠鏡の先は地上5階建ビルの三階の一室に固定されている。いつものように事務所には秘書兼総務の中年女性がパソコンに何やら打ち込んでいる。経理担当なのか爺さんが計算機を叩きながら、伝票を繰っている。彼は70歳を過ぎているはずだ。
もう一人は、40代の営業マンで、すこしヤクザっぽい感じのする優男だ。普段は地方に出張しているらしく、めったに事務所にはいないが、今日は珍しくどっかりと腰をすえて机に向っている。出張の清算でもしているのだろうか。
たった4人の事務所。中国福建省、そしてギリシャから大理石を輸入し、加工して卸す輸入商社だ。建材としてではなく美術品として大理石を扱っている。都内に職人を数人抱え顧客の注文に応じて研磨して納める。時計や花瓶そして置物、中でも高級電気スタンドの台座は注文が多いという。
バブルの頃、小野寺巌が不動産取引に乗り出した場所は新宿である。西口の高層ビルの一室に事務所を設けた。しかし、この古びた5階建てのビルではバブルとは関係なく粛々と業務を続けていたのである。
レンズに小野寺の姿が映し出された。女性がすぐに立ちあがり、給湯室に入っていった。爺さんは相好を崩し出迎え、小野寺は椅子にどっかりと腰をおろすと爺さんの話に耳を傾ける。すぐに破顔一笑し何やら答えた。
どう見てもバブル紳士とはイメージが違い過ぎる。かつてそうであった者が、バブルが弾け、本来の自分を取り戻したとでも言うのだろうか。不動産業者に特有の生き馬の目を抜くような機敏さや抜け目なさとは無縁で、むしろ知的で物静かなタイプと言える。
本当に、妻の財産を無断で借用し、その殆どをバブルに投じて蕩尽したというのはこの男なのだろうか。そして妻に三行半を付きつけられ、家を出た。しかし、この2~3年、別居状態だが、決して離婚届には判を押さないで頑張っている。何故?晴美の言うように、残された財産を狙っているのか。
当初、愛人がいないはずがないと思っていた。金持ちで端正な顔立ちの男を女が放って置くはずもなく、ましてホモでもなければ何年も女なしで居られるはずもない。そう思って探り始めたのだが、全くと言ってその匂いがしないのだ。
小野寺のマンションに女の影はなく、洋介の1ヶ月に渡る張り込みは無駄に終った。洋介は望遠鏡から目を離し、ベッドに寝転んだ。この望遠鏡を買い込んだのも新たな切り口を探るためだ。事務所を見張って捜査線上に現れていない人物を見いだそうとした。
しかし事務所を訪れるのは昼飯の出前持ちばかりで、年がら年中同じメンバーが決まった場所に陣取っている。皆定時退社だが、小野寺は1~2時間残業して家路に着く。夕飯は近所の一杯飲み屋で済ませ、マンションの部屋に消えると出かけることはない。12時には灯りも消える。
真面目の典型のような生活だ。味も素っ気もない。顧客と飲む以外は友人と会うでもなく、まして愛人もいない。年に何回か仕入れのため海外出張するらしいが、そこで発散しているのかもしれない。しかし、それも年に二三回でしかないという。
初めのうちは根を詰めていたのだが、半年を過ぎた今では、週に一度、今日のように授業のない火曜日だけ、こうして探偵まがいのことを繰り返している。この男は何者なのだという疑問が洋介を突き動かしていた。
受話器を握る小野寺の顔つきが一瞬変わった。柔和な顔に暗い影がさした。何か異変がおこったのか。瞬きして目を凝らすと、小野寺は笑って話を続けていた。電話が終ると、立ち上がって営業マンと何やら話し、トイレに消えた。
洋介はがっくりと肩をおとし、溜息をつく。人の出入りも怪しい所業もない。暫くして、営業マンが立ち上がり、ロッカーから背広をだして羽織り、爺さんに声を掛けて事務所を出てゆく。まだ4時前だから帰るには早い。
洋介はこの男をつけたことはない。捜査は閉塞状態が続いており、それを打開するために、何か新たな切り口が必要だった。この営業マンの後をつけてみようと思い立った。洋介はジャンパーとリックを握ると部屋を蹴って出た。ドアの鍵を掛ける暇もなく駅に急いだ。営業マンは東口、洋介は西口、ホームで捉えられるはずだ。
切符を買うのももどかしく、改札を抜けた。階段を駆け上がり、ホームに出ると息を整えながら急ぎ西口の階段に向った。営業マンは、既にホームに立って新宿方面の電車を待っていた。洋介はかなりの距離を置き、上野方面の電車を待つ振りをした。
新宿方面の電車が入って来る。じっと機会を窺がった。男が電車に乗り込む瞬間、踵を返した。電車に乗ってから距離を縮めた。夕刊を見る振りをしながら、視線だけは隣の車両に向け男の様子を窺がった。
男は池袋で降り、ゆっくりと階段に向った。洋介は男の頭が階段で徐々に下がってゆき、それが消えた時、新聞をたたんで後を追った。見ると男は階段を降りきったところだ。洋介は気付かれぬよう距離を置いて人の影に隠れるように進んだ。
地上に出て、男はスターバックスーに入っていった。洋介は迷ったが、煙草を一本吸い終えて、その店にに向った。歩きながら中を覗くと、男が道路に面した席で新聞を読んでいる。洋介は入り口のドアを押して中に入った。
レ ジでコーヒーを受け取り、男を背中で意識しながら奥に向った。ちょうど男を後から見える位置に席がとれた。スポーツ紙を広げ、男を見詰めた。男も新聞を読んでいる。10分もそうしていただろうか。
男は新聞を読み終え、それをテーブルの上に置いたまま席を立った。洋介も立ちあがりかけたが、再び腰を落とした。男の隣にいた紳士然とした男が、テーブルに残された新聞を取り上げたのだ。そしてそれを読み始めた。
ロマンスグレーの髪、高級そうな背広、肩幅が広くがっちりとした体躯、その男が、隣の男が捨てていったボロボロの新聞に手を出した。何か不自然さを感じた。しばらくして男が新聞を小脇にかかえて立ちあがろうとした時、何かがきらりと光った。新聞に何かが挟まれている。 男が店を出て右に折れた。洋介は男の後をつけた。男は池袋駅に向っている。新聞を脇に挟み右手はポケットに入れて、急ぎ足で階段を駆け下りてゆく。
洋介は大股で階段に向かった。男が地下のコンコースに下り立つのが見えた。男は右手に回った。要町方面に向ったようだ。階段を降り切り、洋介もその跡を追った。
男は10mほど先を歩いている。近付き過ぎているのは分かってはいたが、興奮が体全体を包んでいた。男は急ぎ足になっている。どうやらその先に見えるWCに入るらしい。男の姿がWCに消えた。洋介は駆け出して、便所の入り口に立って中を覗いた。
男は、右手でジッパを下げると、下の物を手探りしている。今がチャンスだった。男が下の物を取りだし、尿を放出し始めれば暫くは動けない。洋介は覚悟を決めた。ほとばしる音を聞いた途端、洋介は動いた。男に近付くと脇に挟んだ新聞をさっと引き抜いた。
男の視線はまるでスローモーションのように洋介を追うだけだ。動こうにも放出は続いていた。余程焦っていたのだろう、あっと声をあげ、体の向きを変えた途端、小便を床に撒き散らし、そこにいた男達の罵声を浴びた。洋介は新聞を右手に持って駆け出していた。「待て、この野郎」と言う叫び声を後に聞きながら、全力失踪していた。
池袋駅構内で男をまいたことは間違いない。改札でふり返って見たが、男の姿は何処にもなかった。階段を駆け上がって、ホームに入って来た電車に飛び乗った。電車はすぐに発車した。ドアの窓から過ぎ行くホームを覗いたが後を追う者はいない。
新聞は固い物が挟み込まれており、そこを握り締めていたため汗でぼろぼろになっている。新聞を広げると、そこにはケースに入ったMD(ミニディスク)がガムテープで止められていた。洋介は新聞を網棚に放り投げ、それを背中のベルトに差し込んだ。
高田馬場でドアが開くと電車を降りた。ちょうど、反対ホームに内回り電車が入って来るところだ。洋介は先頭車両に乗るため前方に急いだ。ジャケットを脱いでリックに押し込み電車に乗り込んだ。電車は池袋駅に入ってゆく。プラットホームに立つ人々に目を凝らしたが、それらしき男はいない。
銀髪の大男だ。見逃すはずもない。電車のドアが閉まり、洋介はふーと長い息を吐いて空いている席に腰を落とした。下谷の従兄弟のマンションに向かうことにした。駒込で降りてアパートの後処理をしようかとも思ったが、あの男に会う可能性もある。
会えば態度がぎくしゃくするに決まっている。それほど緊張しているのだった。腰を上げて後方の車両を覗いてみた。通路を歩いてくる男が見えた。あの銀髪ではない。2つ後ろの車両を、人を掻き分けこちらに向かって歩いて来る。
洋介は後頭部を窓ガラスにつけて、目を閉じた。まさかあの銀髪の仲間ということはないだろう。そう思い込もうとするのだが、胸の奥に巣くっている不安が振動しながら喉元までせりあがってくる。がばっと身を起こし男の方を窺った。
その男は黒の背広の上下にグレーのカッターシャツをラフに着こなしている。両サイドに目を配り、誰かを探している様子だ。体中の汗腺から冷や汗がじっとりと吹き出した。掌の汗をリックで拭いた。奴の仲間だろうか。
男は学生風の二人連れに近付き、片方の若者のリックを持ちあげてラベルを見た。若者は血相を変えて抗議しているようだが、男は相手にしない。手に持ったリックを突き放すと若者がよろけた。男は悠然と次ぎの車両に移った。
グレゴリーのリックだ。ジーンズの上下にグレゴリーのリックを背負った若者を捜している。洋介は膝に乗せたリックを見詰めた。大枚3万も叩いて買ったのだ。しかし、今はそんなことを言って惜しがっている場合ではない。
ふと、隣を見ると、予備校生らしき若者が膝に参考書を広げたまま寝入っている。洋介は立ちあがり、そっとリックを若者の上の網棚に載せた。電車は既に大塚を過ぎ、巣鴨の駅に入ろうとしている。洋介は思い切って男に向って歩き始めた。両手をポケットに入れ、外の流れる景色を見ながら歩いた。
スポットライトに照らされ桜の木々が浮かびあがった。桜の蕾がほころびはじめている。春の訪れを感じ、季節の移り変わり眺めている。そう自分に言い聞かせた。冷や汗が滲む。袖で額の汗を拭う。男がだんだん近付いて来た。
男に気付かれぬよう深呼吸をした。落ち付け、落ち付けと何度も自分に言い聞かせた。男との距離は5メートル。早咲きの桜が目に飛び込んで来た。立ち止まって目で追った。「へーもう3分咲きじゃねえか。」と独り言を呟いた。
桜を振りかえっている最中に男と擦れ違った。ゆっくりと歩き出した。徐々に早足になる。車両の間のドアを後手に閉めた時、男を振りかえった。男は予備校生にグレゴリーのリックを突き付けている。
洋介は走り出した。「すいません」と声を掛けながら走った。巣鴨の駅に電車が入った。振りかえると男も走り始めた。なかなかドアが開かない。数人の若者がたむろしている。洋介が叫んだ。「すんません、急いでいます」と。若者達が道を開けてくれた。男との距離は一両しかない。徐々に電車のスピードが落ちてゆく。
次ぎの車両で振りかえると、若者の一人が男の袖を掴んで、何やら怒鳴っている。どうやらぶつかって因縁をつけられているのだろう。ほくそえんでいたが、次ぎの瞬間、度肝を抜かれた。男が拳銃を若者達に向けている。
洋介は必死で走った。大変な奴等を敵に回してしまったらしい。電車がようやく止って、ドアが開いた。幸いにも階段の手前だ。電車を飛び降り、階段を駆けあがった。男がホームに飛び出して叫んだ。「まてーこの野郎。」
後を振り向かなかった。足がすくみそうになるのを必死で堪えて走りに走った。脚には自信があった。改札を飛び越えた。目の前にタクシーが止っている。そいつに乗り込んだ。
「急いでいる。追われている。何処でも良いから、兎に角、早く出してくれ。」
洋介はそう叫んだ。見ると男が改札を抜けるところだ。タクシーが急発進した。ほっと胸を撫で下ろした。バックミラーを見ながら、運転手が訊ねた。
「相手はヤクザかい。」
「ええ、ちょっと喧嘩になって。」
洋介が振りかえって見ると、男は携帯電話で誰かに連絡を入れている。右手には洋介のリックを握っていた。
「そりゃー、あんた相手が悪いよ。喧嘩するときには相手を良く見なけりゃ。俺も若い時、やったことがあるけど、その時は勝った。だけど、後になってそいつが仲間と一緒にやって来て袋叩きにされちゃったよ。おっと、見ろ、あいつもタクシーを捕まえたぞ。」
「ちくしょう、しつこい奴だ。そうだ、運転手さん、1万円やるから、次ぎの角を曲がったら俺を降ろして、そのまま暫く走ってくれないか。」
「あいよ、でも、降りる時、後続車には気を付けてくれよ。」
十字路を左に曲がって5メートル程行ったところで急ブレーキが踏まれ、車が止まった。洋介は飛び降りると、目の前のビルに飛び込んで大きな立て看板の後に隠れた。タクシーは再び急発進して遠ざかる。
10秒ほど遅れて、男の乗ったタクシーが十字路に入ってきた。男は運転席に手をかけ前を睨んでいる。一瞬、男の獰猛そうな目の輝きを捕らえた。まるで狩人の目を思わせた。洋介はテイルランプが闇に消えるまで見詰めていた。
タクシーを乗り換え、下谷の従兄弟のマンションに辿り付いた時、膝ががくがくで部屋に入るなりベッドに倒れ込んだ。恐怖と悔恨が一緒になって洋介の心を苛んだ。背筋が凍りつくような感覚だ。どうやら自分は大変なことに首を突っ込んでしまったらしい。
しかし、あの銀髪からMDを奪って、5分から10分の間に、仲間が池袋駅に現れている。とすれば、仲間は池袋付近にいたことになる。あの男は、或いは集められた男達のうちの一人でしかなく、彼らは分散して池袋から山の手線に乗ったのかもしれない。
いずれにせよ、暫くは池袋で降りるのは危険だ。大学はどうする。もうすぐ新学期が始まる。しかし、相手は拳銃を振り回すような男達だ。殺されることを思えば、大学どころの話ではない。1年休学するか。どうせ法律なんて飽き飽きしていたのだから。
寝返りをうった時、背中に挟んだMDの存在を思い出した。すっかり忘れていた。そうだ、これが全ての原因だった。まず、男が必死で取り戻そうとしたこのMDの中身を知ることが先決だ。従兄弟のパソコンデスクに向った。
MDを指し込み、マイコンピューターを開いた。MDをクリックして、画面を覗き込んだ。暫くして大文字と小文字のアルファベットと数字の羅列が画面に映し出された。
何の意味も見出せないまま時が過ぎた。高校時代数学を捨てていたことを後悔していた。入学当初から文系私立を選択していたのだ。確か数列という授業があったはずだ。しかし、知っているのはその言葉のみで内容は全く思い出しもしない。
携帯を取りだし、晴美を呼び出した。幸い晴美はすぐに出た。
「もしもし、洋介、どうして電話くれなかったの。もう3日も会ってないのよ。ずっと留守電になっているし、折り返し連絡してって言っているのに、ぜんぜん…。」
「おい、晴海、今、それどころじゃないんだ。大変なことになった。思いもしない事態に巻きこまれたんだ。」
「大変って。」
「お前の、親父さん、何かやばいことやっているんじゃないか。スパイとか何かやばいことだ。ただの会社経営者とは思えない。」
「スパイですって、そんな馬鹿な。あの人がスパイなら、私はさしずめ殺し屋ってとこだわ。実際、そんなのあり得ないわよ、馬鹿馬鹿しい。」
「でも、今日あったことは、どう考えても、ちょっとヤバイって感じなんだ。俺は拳銃を持った男に追いかけられたんだ。」
「嘘、それって嘘でしょう。まして、拳銃なんて言っても玩具の拳銃かもしれないじゃない。あなたにそれを見分けられる。本物そっくりな拳銃なんてどこでも手に入るわ。」
「そうかもしれない。でも追いかけて来た奴はまともな男じゃない。絶対ヤクザだよ、あの雰囲気は絶対にヤクザに違いないって。」
「分かったわよ、そういうことにしておくから、その絶対なんて言葉は何度も言わないで。利口そうに聞こえないわよ。何があったのか、詳しく話して。」
洋介は混乱した頭を整理しながら一部始終を話した。聞き終わって、暫く晴美も沈黙していた。洋介が言った。
「おい、何とか言えよ。俺は、嘘は言っていない。これはすべて今日、俺が体験したことだ。お前の父親がもしかしたら営業マンにMDを渡したのかもしれない。」
漸く晴美が口を開いた。
「そんなことあるわけないでしょう。パパがスパイで、そのMDには国家機密か何かが入っているってわけ。それに、安部さん、その営業マン、安部さんて言うんだけど、彼が独自でやったことかもしれないでしょう。パパは関係ないわよ。」
「それは、そうかもしれない。でも、可能性は常に考えておかないと。それから、中身を開いてみたが、何がなんだかさっぱり分からない。アルファベットと数字の羅列だ。もしかしたら、暗号化されているのかもしれない。お前、誰か知っていないか。こういう電子的なこと詳しいやつ。」
「知らない、私の回りにそんな人いるわけないでしょう。」
晴美は苛立っているようだ。たとえ憎んでいる父親であったとしても、スパイなどという暗い非日常の世界と繋がっていると思いたくないようだ。洋介は一歩引くことにした。
「それもそうだ、まして晴美は高校生だもんな。」
この言葉に晴美はほっとして、その忌まわしい洋介の物語を心の片隅に追いやった。そして言った。
「あっ、そう言えば、仁さんが詳しいみたい。CADとかいうパソコンをやっているって言っていたわ。」
「CADか、ああ、何か聞いたことあるな、それ。それに仁さんは、確か理数系だったよな。それにパソコンやっているなら俺より詳しいに違いない。仁さんのメールアドレス分かるか。」
「ええ、確か名刺に書いてあったはずよ。この前デートした時、貰っておいたの。ちょっと待ってて。」
電話口の向こうで、ごそごそと音が聞こえてくる。アドレスと一緒に電話番号も聞いておいたほうがよさそうだ。晴美に電話させてから、メールを送る。その後、電話で話を聞けばよい。
「ねえ、これから会えない。もう3日も会っていないのよ。」
晴海の切なくせがむような声は、いつもなら洋介の下半身をカチカチにしたものだが、今日に限ってそうはならなかった。強がりを言う気にもならないほど怯えている自分が惨めで、弱虫に思われるのはしゃくだが、恐怖のほうが勝った。
その日、洋介は夜になってから、晴美に聞いた石田仁のアドレスにメールを発信した。晴海も見たいというので送っておくことにした。晴海に分かるわけがないとは思うのだが、自分だけでこれを所有していることも不安だったのだ。
石田は晴美から連絡のあった翌日、さっそくメールを開いてみた。画面には訳の分からないアルファベッドと数字の羅列が並んでいる。数列かと思い数字を書き出してみた。しかし、何の規則性も見出されなかった。アルファベッドの羅列も全く意味が分からない。
しかたなく、いくつか持っている暗号ソフトにかけてみた。結果は更に訳の分からない文字の羅列が現れただけだ。石田はあっさりと晴美の要請を諦めた。ここで頼りがいのある父親を演じたかったのだが、無理なものは無理だ。
石田はその場で大学の後輩に電話を入れた。彼は電子工学科だったが、高校の後輩だったこともあり親しく付き合った。今は大学院に残って助手になっていた。暗号化についても詳しいはずだ。石田が名乗ると、うれしそうに返事が返ってきた。
「先輩、お久しぶりです、しばらく会ってませんね。お元気ですか。」
この声を聞いて、ぽっちゃりとしたあの丸顔を思い出した。
「実は、ちょっと頼まれてほしいんだ。俺も友人から頼まれたんだが、俺の腕ではさっぱりだ。こういうことなら押田しかいないと思って電話してみたんだが。」
「なんです。先輩の依頼じゃ断れませんけど、とりあえず話を聞きましょう。」
「実は暗号解読なんだ。」
「へー、面白そうじゃないですか。早速メールで送って下さい、やってみますよ。」
「それじゃぁ、メールアドレスを教えてくれ。」
石田は電話を終えるとパソコンに向った。仕事の方は石田の予想した通りJRが設計変更を申し入れてきたのだ。東芝電鉄との話し合いは思い通りに運ばなかったらしい。氏家部長は最初からそうなると思っていたなどとうそぶいている。
東芝電鉄の後輩の話を出して、思い出させても良いのだが、敢えて言うのは止めにした。また休暇を取ろうと思っているからだ。亜由美の父親の叔父が北九州にいることが分かったのだ。
亜由美の山梨の実家は競売に掛けられ、家財道具一式他人の手に渡っていたが、ダンボール8箱分の私物が残され引き取り手のないまま銀行の倉庫に眠っていた。先日問い合わせがあり、石田が引き取ることにしたのだ。
その中に住所録があり、その叔父の住所がわかったのだ。北九州市に家族で身を寄せている可能性がある。そう思うと居ても立ってもいられない気分だった。亜由美のことを思うと可哀想でしかたがない。
亜由美は惨めさに耐えられるだろうか。何不自由なく育った亜由美が年老いた両親と逃亡生活を送っている。住民票は移しておらず、行方は探りようがない。借金取りから逃れるにはしかたなかったのかもしれない。
かつて、石田が甲府の亜由美の実家を訊ねた時、父親である戸塚修三は上機嫌で石田を迎えた。石田が技術屋であることが修三を喜ばせた。宝石の卸商に限界を感じていたようで、技術屋という言葉を何度も満足そうに口にしていた。
修三は押し出しの強い自信家で石田の苦手なタイプであったが、娘婿を心から歓迎してくれた。一人娘にもかかわらず、外に出すことも覚悟していたし、家業が自分で終りになることも納得していた。
亜由美は父親を心から尊敬していた。父親が被害者になった詐欺事件が新聞紙上を賑わせたときでさえ、その父親を信じ切っていた。絶対に大丈夫と言って憚らなかった。だからこそ、その父親を捨て切れなかったのだろう。
石田が最初に修三に逆らったのは、結婚後の新居のことだった。修三は3500万円する新居をプレゼントするというのだ。まだ、修三も景気が良かった頃で、亜由美は当然のごとくそれを受け入れていた。しかし、石田にはどうしても納得できなかったのだ。
石田は両親が残してくれた千葉の家を売って、その物件を買った。修三は何が不満なのか分からなかったようだし、亜由美も不服そうだった。その物件を内緒で抵当に入れていたのだから、亜由美は石田に会わす顔がなかったのだろう。
しかし、何故相談してくれなかったのか。相談してくれれば最悪の事態は免れたはずだ。もしマンションを売ってくれと頼まれれば躊躇なく売って義父を助けた。詐欺事件の時、或る程度覚悟はしていたのだ。相談さえしてくれれば、と思う。
石田は夫婦互いに信頼しあっていると思っていた。何の問題もないと、そう信じていた。しかし、二人はどこかで擦れ違っていたのだ。仕事が忙し過ぎたこともあったが、それだけではない、何かがあったのだ。
亜由美は石田ではなく父親を選んだ。この事実が石田の自信を失わせた。亜由美が相談しなかったことは、やはり二人の間には知らぬ間に溝が出来ていたことを物語っていた。石田が信じて疑わなかった家族の絆は単に幻想でしかなかたのかもしれない。
石田は目の前にあるパソコンの実行キーを押した。図面が現れた。何度も描き直した図面だ。これが、またしても変更になる。馬鹿野郎と図面に書きなぐった。氏家部長はそれを見て、後ろで「俺は最初からこうなると思っていたんだ。」と言って笑った。その言葉に嫌悪感を抱きながらも、笑顔を作って振り向いた。休暇届を手にしながら。
第七章
洋介はほっとして歩を緩めた。懐かしいボロアパートに着いて階段を駆け上がろうとした矢先、携帯が鳴った。洋介は胸のポケットから携帯を取りだし、画面を覗いた。非通知で誰なのか分からない。
「もしもし、牛山です。」
「牛山洋介君だね、部屋には入らないほうが良い。入るとそのアパートの一番奥の部屋にいるヤクザに、君が来たことを知らせることになる。」
洋介は声を押し殺して聞いた。
「あんたは誰だ。」
「そんなことはどうでもよい。今君は敵の罠に嵌ろうとしている。すぐに、その場所から離れることだ。もう十分ほどしたらもう一度電話をいれる。」
背筋にひやりとする感覚が走った。洋介は脱兎のごとく駆け出した。広い通りに出て、滝野川方面に走った。しばらく走って、ちょうど歩行者用信号が青になったところで、反対側に渡った。後ろを振り返りつつ、歩道を走りに走った。
タクシーが近付いてくる。通りに出て、手を上げた。タクシーが止り、乗り込んだ。自分を見張っていた男からも逃れたかったのだ。しばらくして、携帯が鳴った。
「まさに脱兎のごとくとはよく言ったものだ。ハッハッハ」
男の高笑いに洋介はかっとなって叫んだ。
「あんはたは誰なんだ。なんで、俺のことが分かったんだ。」
「俺が誰だろうと、君には関係ない。だが、何故分かった教えてやろう。実は君が興味を示した男を、俺は何日も見張っていた。あの、便所で失態を演じた男だ。奴は情報ブローカーだ。しかし、君も思い切ったことをしたもんだ。もっとも君がやらなけば俺がやっていたがな。」
「でも、あいつ等は何故俺のことが分かったんだ。」
「君のリックが奴等の手に渡った。そのリックに君のクレジットカードのレシートが残されていた。」
洋介は思い当った。先日西武デパートで靴を買ったのだ。リックに靴を放り込んだのを思い出した。その時、レシートも一緒だったのだ。
「それに君は、今のアパートを借りる時、住民票を移しただろう。そんなことをすれば直ぐに足がついてしまう。」
「だけど、あんたはどうやって奴等の動きをキャッチしんだ?奴等が俺のアパートを張っているこがどうして分かったんだ。」
「簡単なことだ。あの日、洋介君を見失ってから、君を追いかけていたヤクザっぽい男の後をつけた。」
「あのヤクザの部屋を突き止め、見張った?」
「そういうことだ。ところで、MDはどうした。」
「持っている、いや部屋に置いてある。」
「どこの部屋だ。」
「それは言いたくない。それより、あの男が情報ブローカって言っていたけど、それってどういうこと。」
「つまり産業スパイだ。おもに技術情報を盗んで、競業他者に売り付けている。便所の御仁は元ヤクザだ。お前を追ったヤクザは池袋に事務所を持つ上村組。どうやら奴等は組んでいるようだ。」
「あんたは警察関係者じゃないの?」
「まあ、元警察関係者ではあるが今は民間だ。実は私のクライアントが新製品を開発した。元親分はその情報へ何度もアプローチしていた。だから張っていたわけだ。とにかく、あのMDがクライアントの開発に関するものか否か確かめたい。MDを送ってくれないか、中身が見たい。」
「ああ、もうあんなモン手元に置いておきたくありません。どこに送ればよろしいのでしょう?」
いつのまにか丁寧語になっている。
「中央郵便局、私書箱125だ。」
「ええ、分かりました。もう、こんなこと、こりごりです。」
「それが分かればいい、ところで、誰かにMDを見せたり、メールしたりしていないか。」
「いいや、誰にも見せてないし、メールもしていません。」
沈黙が二人を包んだ。洋介は晴美と石田の二人に迷惑をかけたくなかったのだ。男は笑いながら皮肉っぽい声で言った。
「それならいい。兎に角、暫く姿を隠すことだ。この電話を切ってから、非通知設定を切り替えて、君の携帯に電話を入れる。それを登録しろ。相談に乗るよ。俺の名前は、そうだな、えーと、モンスターってことにしよう。」
「分かりましたよ、モンスターさん。あんたに頼らざるを得ない。兎に角、僕を助けて下さい。相談に乗って下さい。」
「ああ、分かった。それよりMDを大至急送ってくれ、もしそれが我クライアントに関するものなら、流失経路を探り出さなければならない。」
電話が切られて暫く放心状態が続いた。タクシーの運転手が話しかけてきた。
「何か物騒な話をしてましたね。」
洋介は「はあ」と声をだしたものの、曖昧な笑いで誤魔化した。脱力感が体を支配し、腹に力が入らず話す気にもならなかったのだ。
石田に電話を掛けたのは、下谷のマンションに着いてからだ。携帯は使いたくなかった。石田は直ぐに出た。
「やあ、洋介君か。例の件だけど、さっぱり駄目だ。僕の手には負えない。だから大学の後輩に任せてある。そいつは専門家だから何とかなるかもしれない。」
洋介はそんなことはどうでもよかった。
「石田さん、その、晴美からMDをどうやって入手したか何か聞いてますか?」
「晴海は洋介君が拾った鞄の中に入っていたって言っていたけど。」
「実は違うんです。ちょっと言いづらいことなんですけど、…」
洋介は本当のことをしゃべった。もはや隠し立てしている余裕はない。晴海の父親に対する疑念もあっさりとしゃべった。そして、一週間前やくざの追跡をかわしたこと、今日モンスターから聞いたことも全て話した。
聞き終えると、石田が溜息混じりに口を開いた。
「しかし、君も思い切ったことをしたね。これからどうする、身を隠すのか?」
「ええ、そのつもりです。とにかくヤクザ絡みですし、身を隠せとモンスターが言ってましたから。」
「私の友人に警視庁の刑事がいる。そいつはマル防ではないけど力になってくれるかもしれない。」
「実は、そのことがあったので電話したんです。晴海から、いえ、あの、晴美さんから聞いていましたから。榊原さんでしょう。何とか話をつないでもらえませんか。僕も何年も姿を隠すなんて無理ですから。」
「ああ分かった。今日にでも電話しておく。」
「ありがとうございます。僕の番号を言いますので、よろしいですか。」
「いや、その必要はない。この電話に記憶されている。」
「兎に角、僕は窮地に立たされています。よろしくお願いします。」
「ああ、分かった。」
電話を切って、すぐに榊原に電話を入れたが、携帯は繋がらなかった。次に警視庁に電話をいれると、会議中とのことだったので連絡をくれるように頼んだ。
その頃、榊原は総務部長室の深いソファーでごそごそと尻の落とし所を探していた。そのまま座れば、まるでふんぞり返っているような姿勢になってしまう。実際、目の前には小川総務部長がにこにことしながらふんぞり返っている。
ようやく前屈みになる位置を探り当て、背筋を伸ばした。本来、雲上人であるキャリアの個室に、警部補風情が出入りすることなどあり得ない。警察機構において、警部補以下は大阪人の言う“じゃこ”、つまり漁師も捨ててしまう雑魚である。
そのじゃこである榊原がこうしてキャリアと親しく接することが出来るのは、悔しいが父親のお陰なのだ。小川総務部長は26歳で広島県警へ警務部長として着任し、そこで榊原の父親と親しくなり、家にもよく遊びに来ていた。
榊原は当時中学生で、夕飯時に現れ、柔和な顔をさらにほころばせる小川をよく覚えていた。2年たらずでその姿を見せなくなったものの、父親との親交は続いていたらしく、榊原が卒配で赴任した丸の内署にわざわざ訪ねて来てくれた。
それ以来、何かと力になってくれてはいるが、例の一件だけは如何ともし難いらしい。榊原が殴った駒田は小川さえ仰ぎ見る警察庁の幹部の甥っ子なのだ。せめてそのことを知っていたら、榊原も爆発を押さえたかもしない。
小川は運ばれたお茶に手を伸ばしながら口を開いた。
「どうだ、ひさびさの捜査本部は。」
「やはり足が鈍っています。本庁勤めも5年になりますから。」
それを聞くと、小川はにやりとして茶碗を置いた。
「そろそろ、外にでるか?」
やはりという諦めが心を萎えさせ、と同時に、たとえ左遷でもせめて刑事でありたいという渇望が喉元まで駆け上がる。しかし、声には出さずぐっと飲み込んだ。
「君は数々の実績を上げた。誰一人、君以上の実績を上げることなど出来ようはずもない。しかし、私も来年は転勤だ。大阪方面になるだろう。そして、今度の捜査四課長は君のよく知っている男だ。」
顔を上げ榊原がその名前をあげた。
「駒田一郎、ですか?」
「そうだ、あの駒田だ。蛇のようにしつこい男だ。」
ここに至って、石川警部が衆目のなか、榊原を怒鳴った意味を了解した。石川はいち早くこの人事情報を察知していた。だからこそ、あの気の小さな男が思い切った態度に出た。駒田というキャリアに取り入るための武勇伝を演出したのだ。
そもそも警察庁のキャリアは警察官ではない。自らは全警察機構の監督、必要な法律の整備、予算獲得、そしてその管理を司るとしている。その僅か500名弱のキャリアがノンキャリアと呼ばれる全国24万の現場警察官の遥か頭上に君臨している。
彼らは2年という短い周期で現場を経験し出世街道を駆け上ってゆく。警視庁であれば捜査2課、4課はその指定席だ。あの駒田が四課長に就任するという事実に、榊原の理性は制御不能に陥っていた。それに追い討ちを駆けるように小川の言葉が続いた。
「それともうひとつ。今度の総務部長も駒田の系列だ。つまり日比谷東大ラインだよ。君にとって居心地が悪くなるのは目に見えている。どうだ。俺がいるうちに外に出る気はないか?」
榊原の口から思ってもいない言葉が飛び出した。
「いえ、結構です。もし、報復人事があったら辞職します。その覚悟は出来ていますから。決して外に出たくないとか、今の職にしがみ付いていたいわけではありません。敵前逃亡は嫌なのです。」
「しかし、よく考えたまえ。君を欲しがっている所はいくらでもある。そこに行けば、あいつらだって手は出せん。」
「部長、そんなことは一時しのぎに過ぎません。駒田がもし報復人事をするなら、私も報復して刺し違えます。」
「それはどういうことだ?」
小川が気色ばんだ。榊原の脳細胞は戦闘モードに入っており、既に冷静さを取り戻している。冷静でなければ喧嘩には勝てない。
「では、高嶋捜査四課長は何処に行かれるのですか。」
「警視庁の方面本部長だ。」
「あの方とは親しくさせて頂いていますけど、あの方にも迷惑をかけることになるかもしれませんね。」
「おいおい、いったい君は何を考えているんだ。」
榊原は冷然として席を立った。
小川は父親の友人などではない。単に接待相手に過ぎなかった。母親も必死だったのだろう。小川が来ると、一オクターブも高い声で出迎え、大柄な父親は体を屈めて卑屈な笑みを浮かべてお酌をしていた。その時の屈辱は今でも忘れられない。
父親は最終的には田舎の警察署長を勤め上げ、定年退職した。しかし、それが何だというのだ。息子に軽蔑されて本当に幸せな老後だろうか。父親が小川に、丸の内署に息子がいることを年賀状に書いて、面倒を見てくれるよう頼んだのは分かっている。榊原は今その小川に逆らったのだ。
ここ数ヶ月悩み苦しんだ結果が、これまで後ろ盾になってくれた人との決別だった。中にいる限り流れに逆らうことなど出来ない。少しでも逆らえば組織からはじき出される。掌を返すような冷酷な仕打ちが、手ぐすねを引いて榊原を待ち構えているのだ。そんな事例を何度も見てきた。
石川警部のあの勝ち誇った顔が思い浮かぶ。薄目を開けて、見下すような視線を投げかけてくる。ふつふつと湧き起こる憎悪と恨み、じっと耐えた月日が榊原を激情へと走らせた。面白い、やるならやってみろと心の中で叫んでいた。
榊原の顔に不敵な笑みが浮かぶ。駒田が捜査四課長になるのであればちょうど良い。何年か前、山口県警の不祥事で県警本部長が起訴された。キャリアが起訴されたのだ。その驚きと感動が蘇る。怒声が胸に響く。
『自分達は警察官を管理するだと。何が管理だ。現場を知らぬ者が、どうして管理なんか出来る。昇進試験なんてふざけるんじゃねえ。人としての実力や人間性を抜きにした評価がまかり通る。筆記試験で人間の何が分かるというのだ。』
榊原の罵詈雑言は続く。鬱積していた感情が捌け口を求めて奔流のように脳内を駆け巡る。猜疑心と不安を吹き飛ばすために、激情を野放しにするしかない。強い人間とは、自分の弱さを知っている人間のことだ。弱いからこそ強くなる必要があったのだ。
第八章
ゆらぐ紫煙が突然一つの方向に流れを変えた。ふと、榊原は視線を落とし、寝ているはずの幸子を見た。幸子は無邪気な悪戯を母親に見咎められた子供のように、息を吹いて尖らせていた唇を引き結んだとおもうと、今度ははにかむような笑った。
あまりの可愛さに思わず抱きしめた。背中の薄い肉をまさぐりそれを掌で味わった。髪が頬に絡みつく。その感覚さえいとおしい。幸子が榊原の胸を手で押し豊満な乳房を引き離した。下から見上げる目が何かを訴えたいた。榊原はこくりと頷いた。
「ご免よ、色々あってね。今日のワシは晩飯の時からどうも上の空だった。それを言いたいのだろう。分かっている。だけど君の話はよく分かった。マル暴の親しい奴に話してみるよ。」
「面倒なことお願いしてご免なさい。でも、晴海がどうしもって言うの。なんだか怖い話で、私背筋が寒くなったわ。そんな世界あるなんて思ってもみなかったもの。」
「ああ、ワシもちょっと聞いたことがない。ヤクザが情報ブローカーってのはどうも腑に落ちない。そのモンスターに元ヤクザの名前は聞かなかったのかな。」
「多分聞いていないと思う。でもそのモンスターって名乗った人と連絡は取れるみたい。だから聞いてみるように言っておくわ。」
「ああ、そうしてくれ。それと、疑問がひとつある。モンスターは何故洋介君の携帯の番号を知っていたんだろう」
「だって実家も分かってしまったのだから、何でも調べようと思えば調べられるんじゃない。NTTから情報を得るとか」
「素人はそんなこと出来ないよ。警察なら別だが。」
少し考えて再び聞いた。
「肝心なことを聞き忘れていた。洋介君を追ったヤクザは何と言う組だった。」
「聞いたけど、よく覚えていないっていうの。まったく晴海はぼーっとしていて、肝心なことなのに。兎に角それも洋介君に聞いてみるわ。」
頷くと榊原は押し黙った。空を見つめてまたしても上の空の様子だ。幸子は深いため息をついて言った。
「いったいどうしたの。今日のあなた少し変よ。何かあったの。」
幸子の疑問には適当に答えて誤魔化したが、内心は泣きたい気持ちだった。今日は1週間前からの約束だったので、心を奮いたたせて飲み会を抜け出してきたのだ。幸子を帰して、ひとりホテルのバーで飲み直した。
実は事件が解決し、捜査本部が解散になったのだ。今日はその納会だった。しかも、あろうことか原警部補と回った質屋に例のローレックスが陳列されていた。製造ナンバーも一致し、持ちこんだ男も逮捕された。単純な物取りとして事件は決着したのだ。
あまりにあっけない幕切れに茫然自失として、心に秘めていたアイデアを放棄せざるを得なかった。
犯人が割り出された時、とっさに替え玉かとも考えたが、死刑判決確実なこの事件に替え玉などあり得ない。連日のナシワリ捜査の疲れがどっと足腰にきた。思ってもいない結末に頭が真っ白になってしまったのだ。
石川警部に対する唯一の優越意識は榊原の推理力だった。権力機構の中でがんじがらめに縛られ、それでも彼の顔面に一撃を与えるたった一つの希望が潰えたのである。そして、あの日、石川警部は榊原の追い落としの好機と睨んで行動を起こした。
衆目のなか、石川が榊原を怒鳴りつけたという話は、着任すれば早々に駒田の耳に入るだろう。榊原は警視庁で名刑事と謳われ、怒らせると怖い存在と囁かれた。その男と渡り合ったという逸話は、まさに絶妙なタイミングで作られたのである。
駒田は間違いなく報復人事を画策する。最悪の場合、箱ポリスボックスに戻されるか、或は僻地に飛ばされる可能性だってある。刑事畑に馴染んで十一年、その地位を得るために必死で頑張った機動捜査隊の頃のことが脳裏に浮かぶ。
あれだけ小川総務部長を脅したのだから時間稼ぎにはなるだろうが、それがいつまで持つかは分からない。兎に角、証拠となるブツを入手することだ。それしか、彼らの鼻をあかす手段はない。
マスコミが喜びそうな不正など掃いて捨てるほどあるが、そんなことで脅すなど榊原の流儀ではない。あの事件こそ、警察不祥事の詰まったパンドラの箱のような気がする。上司が横槍を入れてきて、榊原のやる気を削いだ、あの事件だ。
県警本部長の首をとった山口県警のノンキャリアの向こうを張って、どでかい報復を考えていた。もしこれが榊原の推理通りであれば警視庁始まって以来のスキャンダルになるはずだ。兎に角、ブツを手に入れることに全力を注ぐ決意を固めた。
翌日、目覚めて寝床の時計を見ると既に10時を過ぎていた。とっさに飛び起きたが、久々に休暇をとっていたことを思い出した。女房は子供を預けてパートに出かけている。二日酔いで頭ががんがんと痛む。
電話が鳴った。恐らく石田だろう。用件は分かっていた。先に幸子に聞いてしまったが、それを隠す必要はないだろう。いずれ幸子のことも、話さなければならないかもしれない。受話器をとると、案の定、聞き覚えのある声が響いた。
「もしもし、石田と申します。榊原さんはご在宅でしょうか。」
「もしもし、ワシだ。その、ご在宅中だ。携帯に電話くれたみたいだけど、ポケットに入れっぱなしで、留守電も今日聞いた。」
「そんなことだろうと思っていたよ。でも、警視庁にも電話いれて、折り返ししてくれるように頼んだんだが」
「いや、何も聞いていない。きっと伝言するのを忘れたんだろう。」
実際、そんな伝言は聞いてはいない。数人の同僚の顔を思い浮かべ、心の内で舌打ちした。
「ところで、今、九州だ。女房の叔父さんの家を訪ねた。知らぬ存ぜぬだ。どうも怪しい。恐らく知っていると思う。」
「おいおい、また有給かよ、余裕のある民間はいいよな。」
「それより、お前に頼みがあるんだ。」
「ああ、聞いた。洋介君のことだろう。幸子さんと昨日会った。」
少し間をあけて、不思議そうな声が響いた。
「お前たち随分頻繁に会っているんだな。」
榊原は二人の仲を隠すつもりはなかったのだが、何故かうろたえた。
「いや、頻繁に会っているわけじゃない。たまたま訪ねてきた。よほど洋介君のことが心配だったんだろう。晴海さんに頼まれたらしい。」
「ふーん、そういうことか。まあ、そんなことはどうでもいいんだが、兎に角、ただごとじゃない。」
「お前は、洋介君から直接聞いたのか。」
「ああ、聞いた。」
「それじゃあ、洋介君を追いかけたヤクザの組の名前はどうなんだ、洋介君から聞いているのか?」
「ああ、確か上村組と言っていてな。池袋に本拠を置いているらしい。」
榊原の心臓が高鳴った。どくどくと音を立てて脳神経の末端まで流れ込んでゆく。上村組と言う言葉が脳内でこだまする。そうだ、この偶然なのだ。この偶然の一致こそ、すべてを支配するお天道様の業なのだ。このはっとするような発見と偶然がなくして、どんな推理もそれ以上飛躍しない。
それが夢であったり、期待もしていない人の証言だったり、過去の事件との出会いだったり、全てが仕組まれているように、時空を超えた偶然の一致が、まるで真実に近づけるために配置されているように、そこに配置されているのだ。榊原が叫んだ。
「おい、今何て言った。上村組だって。本当に東池袋一丁目の上村組か。」
「おいおい、一丁目だか二丁目だか、俺には分からん。兎に角、池袋の上村だ。」
榊原は押し黙った。血流は体全体を駆け巡っている。
「それから、何故、モンスターが洋介の携帯番号をしっていたのか聞いたか?」
「いや、聞いてない。親が分かったんだから、その線で調べたんじゃないか。探偵だから色んな、例えばNTTとかのコネクションもあるだろうし。」
幸子と同じ答えが返ってきた。
いずれにせよ、上村組と聞いて自分の勘が真実味を帯びてきた。偶然の一致にこそ全ての謎を解く鍵が隠されている。誰もが単なる偶然の一致と退ける事項にこそ、実はこの世の秘密が隠されていることを、榊原は経験から知っていたのだ。
「おい、榊原どうした。上村組ってことが、そんなに興奮することだったのか。」
「ああ、そうだ。お前は何度もワシに言っていただろう。何といったかな、あの、英語。偶然の一致みたいなニュアンスの、、、」
「シンクロニシティだろう。ユングの言う、意味のある偶然の一致というやつだ。俺に言わせればそれに縁を結びつけたいね。かつて、南方熊楠という学者が因果律に縁を結びつけたように。」
「難しいことは分からんが、とにかくその意味のある偶然って奴だ。ワシが今まさにその上村組のことを考えていた。密かに内偵している事件の鍵を握っているのがその上村組なんだ。」
「へー、そいつは面白い。幸子、晴海、洋介、そしてお前が、偶然にも上村組で繋がった。単なる偶然の一致として片付けるわけにはいかないかもしれない。」
「以前お前も言ってたじゃないか。お前は仕事で悩んで資料室で文献を探していた。その時、偶然、棚から資料を落とした。落ちた文献の開いたページに、その解決の糸口が書いてあったって、そう言ったじゃないか。実は、ワシも何度も捜査で同じような経験をしている。そんな時に限って難事件が解決するんだ。」
「ああ、その話は覚えている。面白い。確かに何かがあるのかもしれない。」
「うん。久々にやる気になった。徹底的に洗ってやる。」
「ああ、その意気だ。これだけ狭い人間関係が一点に収斂された。何かがあることは確かだな。」
電話を切ってからも興奮は収まらなかった。密かに内偵していたのは、石神井の捜査本部に入る前の話だ。その事件は上司の横槍が入り、やる気をなくして放り投げた。それが駒田等に対抗するため、その事件に関わるブツを入手する必要に迫られたのだ。
そのブツには、警察庁キャリアのスキャンダルの核心が隠されている。それを握っているのが上村組なのだ。それが石田、榊原、幸子、晴海とその恋人洋介、それぞれが繋がった。何かがあることはまず間違いない。
その日、池袋署マル暴の知の知り合いに連絡をとり、上村組に同行してもらう手筈をとった。翌日、朝出勤すると、机にメモが置いてあった。捜査四課長、高嶋からの伝言で、今日、7時に新宿の例のバーで待つと書いてあった。そのメモを丸めてゴミ箱に放り投げ、お茶を一口すすって席を立った。
有楽町線で池袋向かった。昨夜はつい飲みすぎてしまい、アルコールが少し残っている。二日酔いと言うほどではないが頭が重い。幸い通勤時間を過ぎており、席に座ることができた。瞼を閉じ、うつらうつらして目を開けるといきなり池袋に着いている。
待ち合わせの場所は東口駅前の交番だ。中を覗くと、眠そうな目をした中畑がお茶を飲みながら、制服警官とおしゃべりに興じている。どうやら中畑も二日酔いらしい。相変わらずヤクザと見まごうばかりだ。肉厚なボディに角刈り、腕には金のブレスレットが光る。
外の榊原に気付いて手で中に入れと指示していたが、榊原が首を縦に振らないものだから、ごそごそと立ちあがって外に出てきた。身長175センチの榊原も見上げるような大男だ。しかし、その声は少しトーンが高い。
「二日酔いなんだ。そんな俺を朝っぱらから働かそうってわけか。」
「ワシも二日酔いだ。それにもう10時過ぎている。親分さんも、もうご出勤だろう。」
「しょうがねえな。でも、昨日も言ったけど、上村組なら本庁に行った坂本辰夫のほうが顔は利く。俺なんてまだ日が浅いし、あいつに頼んだほうがいいと思うんだが。」
「ああ、坂本警部殿か。そうかもしれん。だけどワシはあいつは好かん。」
にやりと笑って中畑が吐き捨てるように言った。
「ああ、胡散臭い男だ。ヤクザの上前をはねるよな奴さ。そんな奴が警部試験に合格して、本庁にご栄転とは警視庁も腐ったもんだ、まったく。」
榊原は聞こえないふりをしていたのだが、中畑の鋭い人物評価に思わず頷いてしまった。坂本警部は池袋署にいた頃から上村組との黒い噂が絶えなかった。榊原の妄想が暴走する。坂本は上村組が関わったあの殺人事件のもみ消しに動いたのではないか。
豊島区役所に向かう道から右に折れると狭い路地がある。その路地の両側には飲み屋、ピンサロ、韓国エステなどが軒を連ねて、どぎつい看板が立ち並ぶ。さすがに客引きの姿はないが、夜ともなれば彼らの口からそのものずばりの口説き文句が飛びだすのだろう。「旦那、一発抜きませんか」などと。
上村組のビルは奥まった路地の一角にあった。地上5階建て、一階は駐車場になっており、黒塗りのベンツの他、5台の車が止めてある。ビルの横に階段があり、そこを上りきると分厚そうな鉄のドアがデンと構えている。監視カメラが二人を追って動く。
中畑がブザーを押すと、すぐに扉は開かれた。若い男が立って、「どうぞ」と頭を下げて中に招き入れた。中畑は「どうも、どうも」と例の高いトーンで言葉を発し、勝手知ったる我が家に上がるがごとくずかずかと奥へと進んで行く。
6人程の若い衆が立ちあがり、腰を直角に曲げて挨拶する。中畑の「どうもどうも」が繰り返され、奥のエレベータに近づいていった。先ほどドアを開けてくれた若者が二人を追い越し、先回りして、エレベータのボタンを押した。
エレベータに乗り込み、入り口の方をみると右手の応接に男が座っており、二人を窺っている様子だ。写真でしか見ていないが、例の男に違いなかった。エレベータのドアが閉まると、榊原が口を開いた。
「目つきは鋭いが、随分と礼儀正しいヤクザじゃねえか。まして、いかにもヤクザってな格好はしていない。」
「ああ、上村の方針らしい。これからのヤクザのシノギは一目でヤクザでございってな格好でやるような単純なものじゃ駄目だと言っているらしい。」
「確かに紳士然とした奴が、突然ヤクザに豹変したほうが、素人には恐怖を与える。」
エレベーターのドアが開き、前には大理石の壁が立ちはだかっている。右手にドアがあり、そのドアが開かれ、男が顔を出した。「どうぞ」と言うと、中に消えた。
ドアを抜けると、右手に受け付カウンターはあるが受付嬢の姿はない。左手にあるドアが少し開いており、そこから入れということらしい。中に入ると部屋は20畳ほどの広さで、真中に皮張りの豪華な応接ソファが置いてある。既にコヒーが用意されていた。
榊原は上村組長の前のソファにどっかりと腰を据えると、開口一番その印象を伝えた。
「テキヤの親分さんの事務所と言うより、一流企業の社長室といった分囲気ですな、いや、ご立派ご立派。」
にっこりと笑い、上村が答えた。
「有難うございます。みなさんそうおしゃいます。中畑さんが、ここの方がいいと仰るものですから。何故、新宿の事務所ではいけなかったのですか。」
上村組長は新宿にやはり10階建てのビルを所有し、上村興業㈱の看板を掲げている。傘下に入る五つの会社の親会社である。中畑が答えた。
「企業人の上村社長じゃなく、テキヤの親分の上村組長に話があったんだ。」
上村は鷹揚に何度も頷いて、視線を榊原に戻した。
年齢は榊原より2歳上と聞いていたが、50歳を越えているように見える。鼻梁が曲がっており、喧嘩に明け暮れたという昔の名残なのだろう。眉が太く、眼光は鋭い。中畑に負けないほどの体躯を前に傾けながら座り直した。榊原が付け加える。
「それに、神農と天照を祭った神棚もない。」
上村が笑いながら、それに答えた。
「実は、昔ながらの組長室はこの下、三階にあるんですよ。もともとテキヤ出身ですから伝統は重んじますので、そこにはその神棚も飾ってあります。ここは、いわゆるビジネスのためのスペースです。」
「そうそう、自己紹介が遅れた。中畑がなかなか紹介してくれないから。」
横を見ると、中畑は瞼をようやく開けている状態で、それどころではないらしい。
「ワシは警視庁捜査一課の榊原だ。以後お見知り置きを。」
こう言って少し腰を上げて挨拶した。上村も同様の仕草で応えた。
「さっそくですが、組長さん。ちょっと頼まれてほしいんだ。たいしたことじゃない。ある若者の無礼を許してもらいたいんだ。」
「そう言われても、なんのことやら。」
「実は二週間前、或若者が男の新聞を盗んだ。ただの新聞じゃない。中にMDが挟みこまれていたそうだ。」
植村がきょとんとした顔で聞き返す。
「そのMDってのは何です?」
「フロピーディスクの進化したやつで、10センチくらいの円盤に情報がぎっしり詰まっている」
「どんな情報だったんです?」
「さあ、分からん。何か重要なものだっただろう。おたくの幹部が拳銃をちらつかせてその若者を追いかけたんだから。」
「榊原さん、それは本当の話ですか。だいちMDなんてうちが関係するような話じゃない。」
「いや、追いかけたのは確かにお宅の組員だよ。飯島敏明、あんたの弟が社長をやってるレディースクレジットウエムラの専務さんだ。さっきちらっと見たぞ、2階で。」
組長は立ちあがり、内線電話を掛けた。飯島を呼んだのだ。暫く無言で向き合っていると、ドアが開き背の高い男が入って来た。ゆっくりと歩いて組長の前に佇んだ。渋い二枚目といったところだ。
「お前、二週間前、モデルガンちらつかせて若い男を追いかけたって?」
こう言いながら、榊原に笑いかけた。榊原も苦笑いを浮かべている。
「はい、知り合いが大事な鞄を盗まれたって聞きまして、そいつの人相風体を聞いて追いかけました。」
「刑事さんは鞄じゃなく、MDだと言っている。」
「MDって何です。」
「何でもいい、少なくとも鞄じゃない。」
「まあ、何であろうと、頼まれたもんで盗まれたものを取り戻そうとしたわけです。」
上村が向き直って榊原に言った。
「ということらしい。」
「なるほど、しかし、その若者は反省している。MDを返したいと言っている。許してやってくれんか?」
榊原は飯島に向かって言ったのだが、飯島は無視している。組長が間に入った。
「どうなんだ、飯島。お前の知り合いは何と言っている。」
「さあ、分かりません。あれ以来会っていませんから。」
「それじゃ、いますぐ連絡してみろ。」
飯島は携帯を取り出すと、静かな声で話し出した。要領よく説明するところをみると、それなりに頭は良さそうだ。「はい、はい、」と短く答える声だけが響く。榊原は組長を観察していた。
間違いなくこの組長も電話の相手を知っている。見ず知らずの男に自分の組員が命令されるのを無視することなど絶対あり得ない。広い事務所に飯島のきっぱりとした声が響く。
「分かりました。そのように伝えます。」
こう言って、携帯を胸にしまうと組長に向かって言った。
「MDを返してくれるのであれば、問題にしないと言っています。告訴も考えていたようですが、取り下げてもよいとのことです。」
上村は鷹揚に頷くと、榊原に向き直った。
「こんなことでいかがでしょうか。」
榊原は、にやりと微笑みポケットからMDを取り出すと机の上に置いた。飯島の視線が揺れるのを飯島は見逃さなかった。飯島がゆったりと口を開いた。
「刑事さん、確認して置きたいんだが、まさかコピーなどしてないだろうな。先方さんはある企業の重役だ。もしこの情報が外に漏れると大変なことになる。つまり、あの若造のとった行動は窃盗だ。あんたは、その窃盗の告訴を取り下げることを条件にバーター取引を申し込んでいるんだ。本来刑事が関わるべきことじゃねえ。」
「コピーなんかしていねえよ。それに、バータ取引なんて言うが、若者の将来を考えて情状酌量ってこともあるだろう。」
「いや違うね、告発すれば刑事事件になる。あんたはその当事者ではなく、ヤクザの組長に、その取り下げをお願いに来ている。問題じゃないかね。」
「しかし、まだ告訴したわけじゃないだろう。」
眠っていると思った中畑が突然声をあげた。
「うるせいな。眠ってもいられねえ。おい、飯島、いいかげんにしろよ。この榊原って刑事は信用の置ける人間だと組長に言ってある。だからこうして会っている。榊原さんが、やってないと言えば確実にやってない。お前が、ここでごたくを並べてどうする。えっ、組長の面子はどうなる。」
二人は睨み合った。先に視線をはずしたのは飯島だ。上村組長が引き継いだ。
「まあ、そういうことだ。榊原さんがコピーしていないと言っているんだ。俺は信用している。中畑さんがそうおっしゃっているんだ。お前はもういい、下がってろ。」
不承不承といった面持ちで、飯島はドアに向かった。中畑がさっと立ちあがり、組長に長々とお礼の口上を述べ立てた。まるでヤクザの仁義みたいだ。笑いを噛み殺していたが、頭を下げるタイミングだけは中畑に合わせた。
外に出ると、中畑は開口一番榊原に言った。
「どうせ、コピーとってあるんだろう。」
「いや、若者の将来がかかっているし、仁義に背いくわけにはいかん。だから、コピーはとっていない。」
「そいつは榊原さん、正解だぜ。奴らと付き合うには仁義を守ることが一番だ。」
二人は駅に向かって歩いた。実を言えばコピーはとってある。上村組に関する情報は何でも欲しかったからだ。しかし、石田も、さらにモンスターでさえMDの暗号は全く手に負えなかったのだ。
警視庁の公安に持ちこめば、その手の暗号解読の部署があり、そこに頼めばよいのだが、刑事課と公安課は全く接触がなく頼む伝手もない。やはり、あの人を通じて頼むしかないかもしれない。
今日、行くつもりはなかったが、キャリアで信頼でき、しかもコネクションがあるのはあの男ぐらいだ。石田にキャリア批判をぐだぐだと話している時も、この男のことが頭に引っかかっていた。友人としてここ数年つき合ってきたのだ。
その友人とは、今日、新宿に榊原を呼び出した高嶋四課長である。CDを解読するには高嶋の手を借りるしかない。高嶋が小川総務部長を慌てさせたあの一件で呼び出しをかけたことは分かっている。榊原は憂鬱な気分で歩いた。
第九章
榊原がキャリアである高嶋と親しくなったのは剣道を通してである。榊原は警視庁に入って初めて竹刀を握ったのだが、数年で上位有段者と互角に渡り合うようになり鼻高々だった。そんな榊原を不快に思う輩がいたとしてもおかしくはない。
そんな折、高嶋と剣道場で初めて立ち会った。高嶋は6段、榊原は3段。あちこちで試合稽古の竹刀の音が止み、衆目が二人に集まった。高嶋の堂々とした構えには一分の隙もない。面金(めんがね)の間から鋭い眼光が榊原の目を射抜くように向けられていた。
初心者の高慢な鼻柱をくじく役割を担っていたことは確かだった。榊原の打ち込みは日本拳法で培った足さばきを基本としているため、剣道とは多少異なる。それが意表を突くらしいことは分かっていた。
榊原の最初の一撃は見事にかわされた。その動きの敏捷なことに驚かされたが、高嶋の繰り出す籠手を返しざま面を打つと、高嶋は「ほう」という声を発し、手ごたえのある相手を得た喜びに、満足そうに何度もうなずいた。
その直後から高嶋の矢継ぎ早の攻撃が始まった。負けじと榊原もやり返す。その激しさに周りが感嘆の声を上げたほどだ。しかし軍配は高嶋に上がった。体当たりを食って榊原は後ろに倒れたのだが、しばらく立ち上がれなかったのだ。高嶋の息は少しも乱れていなかった。「恐れ入谷の鬼子母神」と、喘ぎながら言うと、高嶋が手を差し伸べた。
それ以来の付き合いだからキャリアとジャコという地位の差など一歩職場を離れればなくなってしまう。ここは、高嶋の指定した新宿のバーである。榊原はちらりとそのすっきりとした横顔に視線を走らせた。高嶋は一重瞼を閉じたまま口を開いた。
「榊原さんは常に意外性を求めている。そんな気がします。つまり、モンスターの話は作り話ということですか?」
そう言って高嶋は水割りのグラスを傾けた。榊原はその指摘が自分をうまく言い当てていると思ったが、とりあえずそれには答えず、話を続けた。
「何故、モンスターの話がおかしいかと言うと、暴対法施行で昔からのシノギが難しくなっている。だからヤクザが民事に介入しているのは分かるが、だからって、ヤクザが情報ブローカーっていうのは今一つ頂けない。」
「しかし、奴らはありとあらゆるジャンルに触手を伸ばしている。情報ブローカーが存在してもおかしくはないと思うけど。」
「おかしくはないが、いまひとつピンとこない。ヤクザとパソコン、どうも今一だ。」
「では、モンスターは何故そんな嘘をついたんです。」
「それは分かりません。しかし、当たり障りのない説明ではある。素人にとって納得し易い話しだ。」
「しかし、もしモンスターの話が嘘となると、彼はそのMDをすり替えた可能性があるんじゃないですか。」
「いえ、そのMDは本物でした。ワシの友人にMDの内容を送ってあるんですが、それと比較してもらったら、全く同じ配列だそうです。それとMDを送り返したもらうためにモンスターに連絡して以来、もうその携帯には繋がらなくなったそうです。調べましたら、例のプリペイド式で契約者を探し出すことは無理のようです。」
「その友人というのは?」
「まあ、それはいいじゃないですか。」
「分かりました。では、そのMDを公安の暗号解読チームに渡して調べてもらいます。」
「有難うございます。」
「ところで、話はかわりますが、榊原さんも、総務部長に思いきったことをおっしゃったみたいですね。」
ちらりと高嶋の横顔を一瞥した。いよいよ今日の呼び出しの核心に触れてきた。高嶋は小川総務部長から指示を受けて、榊原を呼び出したのだ。
「榊原さん、あなたとはごく親しくさせて頂いています。だから小川総務部長は僕に頼んだのだと思います。それに駒田のことは僕もよく知っています。大学の後輩です。ですから報復人事なんてことは絶対させません。」
「その話はやめてもらえませんか。ワシはお世話になった方を脅した。申し訳なく思っています。つい、かっとなって思いもしない言葉が衝いて出た。それだけのことなんです。他意はありません。」
「分かります、私だって駒田なんて男が自分の上司になると知ったら、全てを蹴飛ばしたくなりますよ。あいつは、エリート意識と権力意識に凝り固まっている。あんな奴がこの国の警察官僚のトップになろうとしているんだから厭になってしまう。」
「でも高嶋さんは、あいつの上司になるわけじゃないですか。」
「いや、もともと育ちが違う。私は母一人子一人の母子家庭で、あまり家庭環境は自慢できるものではない。だが、あいつはエリートの家系だし、強いコネクションを持っている。いずれ追いぬかされる。僕も、いつかは、あいつに尻尾を振るしかないのかもしれない。」
「つまり家柄やコネクションの方が実力より勝るというわけか。」
「ええ、その通りです。」
「つまり、最終的には駒田の報復人事を押さえるのは難しいと?」
「いいや、出来るとおもいます、少なくとも後輩は後輩ですから、何とか説得しますよ。ところで、榊原さん、榊原さんが小川総務部長を脅したネタは5年前に起こった上村組の事件でしょう。小川さんには悪いが、応援しますよ。」
榊原は肩をすくめて惚けてみせたが、高嶋はそしらぬ素振りで続けた。
「あの事件の裏にはキャリアの問題が深く関わっていることは確かです。仲間を売ることになるかもしれませんが、それもしかたありません。」
榊原は一瞬虚を突かれ、ぽかんと口を開けて高嶋を見つめた。高嶋はキャリアの一員である。その高嶋が仲間を裏切ってもいいと言っているのだ。
「こいつは驚きだ。高嶋課長もキャリアじゃないですか。本気とは思えませんが。」
高嶋はにやりと笑みを浮かべると口を開いた。
「榊原さん、あの上村組の事件の直前に池袋署の磯田副所長が脳溢血で亡くなったのはご存知ですか。」
「ええ、香典を包んだ覚えがある。」
「そして、その死を自殺じゃないかと言う者がいる。実は私はその磯田さんには大変世話になった。だからその噂を捨てては置けないと思っている。」
「しかし、それは単なる噂なんでしょう。」
「ええ、噂です。ですが、どうも気になることがあるんです。それは磯田さんの死の直後に坂本警部補が警部に昇進し、本庁に戻された。これをどう思います。」
「つまり、坂本はキャリアに関する不祥事の秘密を握っているということですか。そして、その秘密は磯田副所長の自殺に関係があると?」
高嶋は、ゆっくりと首を縦に振った。榊原が確認するような口調で聞いた。
「そして、高嶋課長はその不祥事を明るみに出しても良いと思っているんですね。」
「ええ、かまいません。ところであの事件について、榊原さんはどうなんです?ある程度、掴んでいるんですか。」
「ええ、或る程度は……。では、これだけはお話しておきましょう。その不祥事に関するDVDが存在します。何が映っているのかは分からない。恐らく、その中に、当時の池袋署の平山署長か或いは磯田副所長に関する何かが映っているのかもしれない。」
「それは知らなかった。しかし、上村組の事件は誰もが蓋をしようとしている。それだけ臭い事件だということです。その事件にどっぷりと首を突っ込めば、まさに足をすくわれる恐れがある。ですから、ことは隠密裏に運びましょう。協力は惜しみません。」
榊原が頷いた。高嶋は口元を引き締め、手を差し伸べて言った。
「共同戦線成立ですね。」
榊原はその手を強く握り締めた。高嶋なら信頼に足る人物であることは確かだ。しかし、そのDVDを得るための秘策については話さなかったが、いずれ協力を頼まなければならない。
上村組の事件は、榊原が石神井の捜査本部に詰める前まで、必死で追いかけていた事件である。OLの失踪とホステスの自殺に絡むもので、被疑者として組長の弟正敏が浮かび上がったが、いずれの事件でも正敏を挙げるには至らなかった。失踪したOLも自殺したホステスも正敏の元愛人である。
ことの起こりは、顔に青痣を作ったOLが池袋署に保護を求め駆け込んだことから始まった。OLは一月ほど前に組長の弟、上村正敏と知り合い、彼のマンションで暮らし始めた。フリーのジャーナリストという触込みで、最初はヤクザなどとは想像もしなかった。しかし、知らず知らずのうちにヤク中になっているのに気付き逃げ出したのだ。
この時、OLの対応に当たったのが池袋署のマル暴だった坂本警部補で、彼はただちに正敏を引っ張った。しかし薬物反応が出たのはOLだけで、正敏からは何の反応も出なかった。そして、彼はこう言い張ったのである。
「俺は、もしシャブを打ったことがバレれば、たとえ組長の弟であってもそれなりの落とし前をつけなきゃなんねえ。そんな俺が、シャブを自分の女に打ったって。馬鹿もやすみやすみ言えってえの。女がシャブをこっそりやってるいるのを見つけて、張り倒しただけだ。」
二人の言い分は平行線のまま幕引きとなり、OLは群馬の実家に引き取られた。しかし、一月ほど後、OLは、前橋駅で友人と夜11時に別れて岐路に付いたのだが、家には辿り着かなかった。自宅近くの住民が深夜、女性の悲鳴を聞いている。
榊原がビデオの存在にたどり付いたのは、もう一つの上村に絡む事件の継続捜査においてである。この事件は自殺として闇から闇に葬られたのだが、今一歩というところまで真相に肉薄した刑事がいたのである。
それは坂本警部補の部下だった石井巡査部長である。事件から4年後、彼は奥多摩の山奥の駐在所勤務となっていた。榊原が休暇をとって、彼を訪ねたのは一昨年、新緑が目に沁みる季節だった。
「あんたが、榊原先生か。その先生が俺に何の用だ。」
挑むようなその目は濁っており、昨夜の深酒の名残だ。
「上村正敏を、いま少しのところまで追い詰めたのに、残念だったな。」
石井の死んだような瞳に一瞬輝きが戻ったかに見えたが、すぐに暗く沈んだ。新証言に辿り着いたのもつかぬま、その証人が消されてしまったのだ。ぽつりと漏らした。
「俺も甘かった。まさか病院に忍び込んで、自分の情婦を殺すなんて。彼女はシャブを断って更正しようとしていた。正敏って奴は本当に唾棄すべき男だ。」
と言って、目を潤ませた。石井はこの情婦から正敏が女を攻落するのに常にシャブを使用していたという証言を引き出していたのだ。
しかし、いよいよ正敏を引っ張ろうとした矢先、女は病室で首を吊り死んでいたのである。自殺、他殺の線で捜査陣は揉めたが、これは榊原が想像だが、坂本の巧みな誘導に引きずられるかたちで自殺の線で落ち付いてしまった。
「坂本さんは本庁に戻されて警部に出世した。それに引き換え、君は何故ここにいるんだ。優秀な刑事だった男が。」
石井はじろりと榊原を睨み、言ったものだ。
「坂本先輩をとやかく言う人がいるのは知っている。しかし、坂本さんは、坂本さんなりの考えがあってやっているんだろう。俺はそこまでやる気がなかっただけだ。」
「そこまで、とは?」
ぷいと横を向いて呟くように言った。
「とにかく、話すことはない。帰ってくれ。」
榊原は民宿に宿をとり、夕暮れ時も行ってみたが頑として口を開こうとしない。翌朝も同様だったが、その日の夕刻、ジャックダニエル二本を手に携え、にこにことして「明日は帰ろうと思うんだが、一人で飲むのも寂しくてな」と駐在所に入って行くと、
「あんたも、俺に似て頑固な人だな。」
と言って、裏の宿舎を指差した。先に行って寛いでいてくれと言う。榊原は内心小躍りして喜んだものだ。
石井はなかなか真相を語ろうとはしなかったが、酔いが回ってくると、徐々に心の鬱積を吐き出すかのように語り出した。話はこうだ。池袋署の署長、副署長が、ある時点から、何かに怯え始めた。上村組の追及にストップがかかったのはそれが原因だという。
さらに、坂本警部補は大学の先輩である副署長から相談を受け、上村組と交渉していた。坂本がちらりと「DVD」と言ったのを石井は覚えていた。何が映っているのかは想像もつかないと言う。
また、酔った石井の口から漏れた言葉で、長年の疑問が氷解した。石井はこう言ったのである。
「あの週刊誌の記事覚えています?実はあれは俺が週刊誌に漏らしたんです。」
その週刊誌の記事とは、OL失踪と、新たな証言者の自殺に或る組の人物が関わっているという内容だった。
この人物は、池袋署の署長の弱みを握り、それをネタに捜査に揺さぶりをかけたという。どう考えても内部の人間にしか知り得ない内容を多く含んでいたのである。その告発者が目の前にいる石井だったのだ。
しかし、ここで一つの大きな疑問が新たに出現した。証人の居場所を誰が上村に流したかという疑問である。内部から情報が漏れたのは確かなのだが、榊原はそれが坂本警部補だと思っていた。しかし、石井はこれを一笑にふしたのだ。「それはありえない」のだそうだ。では誰が?
確かに坂本警部補の豹変は皆の驚きを誘ったと言う。警察組織の中でも決して上に媚を売らず、ヤクザに対して毅然と接する姿は警官の見本ともいうべき男だった。その男があの事件に関わってから変わってしまった。
その事件後、坂本警部補はキャリアである池袋署の署長と親しく飲むようになったのだそうだ。その署長は名前を平山勝といい、5年前、池袋署長から愛知県警へ、そして今は警察庁の捜査二課長と順調に出世している。
石井巡査部長の坂本警部補に対する人物評が甘いということも考えたが、少なくとも石井は馬鹿ではない。鋭い嗅覚を持っているのは確かだ。だとすると、坂本が副署長に相談されてやむを得ず情報を漏らした可能性はないかと石井に問うと、こう答えた。
「榊原さん、署長、副所長が何かに怯えはじめ、坂本さんが村上と交渉を始めたのは、植村の情婦が殺された後だ。それに、俺は坂本さんを今でも信じている。彼は不正を心から憎んでいる。俺の言えることはこれだけだ。」
榊原をじっと睨みすえ、そして視線をそらすと続けた。
「しかし、以前から感じていたんだが、上村組には強い力、例えば、政治家とか、警察権力とか、裏に付いていそうな気がするんだ。」
この言葉には少し驚いて、意外な思いをしたことを今でも思い出す。石井はそれから数ヶ月後警視庁を去った。
榊原は高嶋と連れ立って店を出た。バーのマダムがエレベータまで送ってくれた。高嶋と出来ているのではないかといつも思うのだが、確信まで至っていない。香水の香り誘われ視線を向けると、流し目が榊原を通りすぎた。高嶋の横顔はそれを無視してエレベータの中に消えた。
第十章
駒田が捜査四課長に就任して一月が経とうとしている。いずれは、ばったりと顔を会わせることになると思うが、今のところ、榊原が巧妙に避けているのでまともに出くわしたことはない。あの会見以後、小川総務部長は榊原に声を掛けることもなく転勤していった。
いずれにせよ、小川総務部長は上層部に榊原の話を申し送りしている。キャリアを守るための榊原包囲網が出来あがっているのは間違いない。組織は、警察庁キャリアを守るために全力を注ぐ。守りきることで、自らの出世が保証されるのだから。
とはいえ、榊原は上村組長をあぶり出す秘策について、唯一信頼できるキャリア、高嶋に協力を要請していた。それは榊原の身を危険に晒すことになると高嶋は反対したが、これ以外の方法は思いつかなかったのだ。それは榊原がDVDのコピーを入手したという噂を警視庁内で流すことだ。
榊原は外部からの電話に出て、大げさに芝居を打った。「本当か、本当に手に入ったんだな。」と聞こえよがしに何度か繰り返し、部屋を跳び出た。尾行が着くことは最初から計算に入れていた。新宿駅東口でホームレスの男から紙袋を受け取った。
ホームレスは見知らぬ男から頼まれ、それを持ってそこに立っていただけだ。その紙袋をホームレスに渡したのは、榊原とコンビを組んでいる瀬川だ。この男とは3年の付き合いになるが、勝気で正義感が強く、刑事になるべくしてなったような男である。
大事そうに紙袋をかかえ、榊原がちらりと振り返ると、案の定、尾行がついていた。坂本の相棒の須藤だ。しかし、マル暴デカの尾行はお粗末だ。だいたい格好が目立ち過ぎる。榊原はデパート内で須藤をまき、紙袋をトイレのゴミ箱に捨てた。これで用意は整った。
その後、適当に噂を流し、後は待つだけになっていた。榊原の上司である佐伯係長も駒田課長のスパイである。水面下で何かがうごめいている気配はあるが、表面上は何事もなく既に1週間が過ぎようとしていた。
今も佐伯係長はちらちらと榊原を窺う。とはいえ神経を集中している訳ではない。佐伯は警部だが、まだ管理職試験に合格していない。この試験に合格しなければそれ以上の出世は望めない。二係では過去の事件記録を読み漁ることもしばしばだが、佐伯はそれを隠れ蓑に受験勉強にいそしんでいるのだ。
そんなことは誰もが知っているのだが、佐伯は気付かれていないと思っている。話しかけると、資料の山に隠されたノートをさっと閉じたりする。思わず苦笑いするのだが、その苦笑いの意味さえ思い付かない。鈍い男である。
上村組の事件に、佐伯は最初から積極的ではなかった。というより、何度も捜査の邪魔をし、足を引っ張った。そして今度は榊原包囲網の一員となって探りを入れているのだ。しかし、こんな男が警察組織のなかでは出世してゆく。
電話が鳴った。瀬川からだ。受話器を置くと、榊原は、「ちょっと出かけてきます」と声を掛け、席を立った。何処に行くのかなどと聞かれることもない。「お受験、せいぜい頑張れよ」と声を掛けたい気持ちを漸く押さえた。
今、警察機構は縮みの構造になっている。外に向けるべきエネルギーの大半を内側に注いでいる。それが日常になると、誰もそれを不思議と思わなくなる。事件捜査も防犯も成果が上がる訳がない。
ましてや、現場で身の危険も顧みず努力しても、それは出世には繋がらないのであれば、危険をやり過ごすのが賢明だ。警察官に最も必要な勇気と覇気は試験制度でふるい落とされる。実績を評価しない組織が腐るのは自明の理なのである。
榊原が向かったのは高崎である。瀬川と駅で待ち合わせをした。実はこの数日で予想だにしない展開をみせたのだ。
坂本警部を通じて情報は上村組長に流れたはずだ。そして、その反応を待った。盗聴法成立以来その対象者は電話連絡に神経質になっている。従って、上村組長自身が何らかの動きを示すと踏んでいたのだ。
そうした思惑で瀬川に上村組長を張らせ、また高嶋方面本部長に頼み、極秘裏に三課から一人借り受けレディースクレジットウエムラの飯島敏明の動向を探らせていた。通常は二人一組で動くのだが、状況がそれを許さないのだからしかたない。
思わぬ展開を見せたのは、瀬川の方だ。噂を流して10日目、一昨日のこと、午後9時、瀬川から連絡を受け六本木に駆け付けた。瀬川の言葉は「来て頂ければ分かります」と歯切れが悪い。指定された飲み屋に入って行くと、奥の座敷に通された。
障子をあけると2人の男に挟まれ、瀬川がお猪口を片手に憮然とした表情で榊原を見上げた。周りにはお銚子が何本も転がっている。
瀬川を囲む2人の男。その一人とは知り合いだった。厚生省の麻薬取締官である。何度かバッティングして互いに競い合った。片目で固太りの中川捜査官がにやにやしながら榊原を迎えた。榊原と同じ年だ。
「よう、警視庁の名探偵。しばらくだな。元気でやってるか。ところで、おまえさんの部下、この野郎にはまいったよ。」
「瀬川が何かしたのか。」
「まあな、それより、この野郎の格好を見ろよ。安物の背広にゴム底靴だ。眼光鋭くデカの看板をしょって歩ってる。こいつがクラブに入って来た時、上村もすぐに気付いて話しを止めちまった。場違いなんだよ、ああ言う高級クラブにはな。」
瀬川が顔色を変えた。
「あんなに暗い室内で、背広が上等かどうかなんて分かるわけねえだろう、靴だって同じだ、馬鹿言ってるんじゃねえよ。」
「馬鹿言え。吊るしかオーダーかなんて目の肥えた人間ならすぐ分かるんだよ。靴だってそんな分厚い革靴なんてあるわけねえだろう。皮、何枚貼ったらそんな厚さになるっていうんだ。」
「そういうお前はどうなんだ。六本木の遊び人に化けたつもりだろうけど、エンブレム付きの紺のブレザーなんて今時流行らねえし、まして、その着こなしじゃあ、まるで七五三じゃねえか、千歳飴でも持っていれば、そのものずばりだ。」
榊原は、あまりにぴったりの表現に思わず吹き出しそうになるのをようやく堪えて、睨みあう二人の間に割って入った。
「おい、瀬川、そいつは言い過ぎだ。中川捜査官はお前の大先輩だぞ。」
一瞬、瀬川の凄んだ顔の筋肉が伸びきった。
「えっ、ってことは明大柔道部ですか?」
「ああ、そうだ。おまえさんもそうか。こりゃ参ったな。根性はあるし、言うことは鋭いし、どこか並じゃないとは思っていたんだが。さすが明大柔道部だけのことはある。何年卒だ?」
「はい、自分は平成十一年卒であります。」
今までの険悪な雰囲気が一気に和んで、中川も鷹揚な先輩を演じ始めた。互いのエールの交換が終わると、酒で顔を赤く染めた中川が、もう一人の佐々木捜査官を紹介し、榊原に向き直った。
「榊原さんよ、あんたにはいろいろ世話になっている。だけど、今回だけは譲れない。横取りは許さんということだ。色々瀬川君に聞いたけど、さすがに口が固くて頑として喋ろうとしない。あんたに直接聞くしかないと思ってよ。」
この野郎から瀬川君ときた。体育会系の同じ釜の意識は強い。
「その前に聞いておきたいのだが、上村組長が麻薬に関係しているってことか?」
「それに答えるわけにはいかん。」
「もう、答えているのと同じだろ。組長が狙いって訳だ。しかし、あそこは組員に対する麻薬売買の禁止は徹底している。それは有名な話だ。まして、風俗、金融、土建、運輸業まで、かなり手広くやっている。そんな上村がヤクなんて危ない物に手を出すとは思えない。」
「それは我々が納得するか否かの問題だ。兎に角、桜田門が回りでうろうろされると目障りなんだよ。俺達は何ヶ月もあいつらを追っている。それが、昨日今日、いきなり出っ張ってきて、俺達の前に現れた。」
「分かった、そいつは謝ろう。だが、我々が追っているのはヤクじゃない。失踪事件と殺人だ。」
「そうだとは思っていた。ということは、例の5年前の事件だな。」
「ああ、そうだ。お前も過去を洗ったんだろうから薄々何か感じているんだろう。」
「ああ、薄々だ。確信はない。」
「おい、面白い話を聞かせてやるよ。その事件に警察庁キャリアが絡んでいる。勿論、犯罪に絡んでいるわけじゃない。恐らく、上村組長はキャリアの弱みをつかんで、捜査に揺さぶりをかけてきたんだ。」
キャリア嫌いの中川の片目が光った。榊原が続けた。
「ワシ等が探しているのはDVDだ。そのビデオをワシが入手したという情報を警視庁内部で流した。実は警視庁内部に上村のスパイがいる。」
そう言って、にやりと笑った。中川の片目もそれに応え、舌なめずりして口を開いた。
「つまり、上村組長がそれを確かめるべくのこのこ動くかもしれん。或いは、お前を狙うか、渡りをつけてくるか。相変わらずエグイことをやってくれるじゃねえか。」
「ああ。そうだ、聴盗法成立以来電話による重要情報の交換は誰もが避けている。だからワシがDVDを入手したと知ったら、それを確認するために上村が自分で動くと踏んだ。」
中川がにやりとほくそ笑み、唇を捻じ曲げながら言った。
「榊原さんよ、それはあんたの常識であって、全ての犯罪者のそれじゃない。ここだけの話しをしよう。後輩もいることだしな。いいか、上村は我々の聴盗に全く注意を払っていなかったぜ。」
にやりと笑う中川に対して、榊原は一瞬虚をつかれ目を剥いてた。動揺を悟られまいという心などどこかに吹き飛んだ。取引としては最悪だ。もう頼み込むしかない。息堰切って言葉を吐いた。
「つまり、DVDを預けた相手に電話を入れたってことだな。いや、DVDと言ったかどうかは分からない。兎に角、誰かに預けたブツの安全を確認したってことだ。そうなんだろう。おい、頼む、頼むから教えてくれ、頼む。」
「ああ、DVDとは言っていない。我々も、全くのど素人がブツを預かっていると知った時には驚いた。我々としてはヤクを預かっていると解釈するしかなかったからな。それで、そいつの身辺を洗った。」
ここで気を持たせて、中川が煙草に火を点けた。瀬川も中川を注視していたが、煙を吐き出す間も待てなかったようだ。
「先輩、じらさないで教えてください。頼みますよ。」
漸く、中川が煙を吐き出して、続きを話し始めた。
「その相手は高崎市の歯科医だ。息子は国立の医大を出て勤務医。娘は嫁いでいる。土地持ちで金は余るほどある。そんな奴がヤクに関係する訳がない。上司は最初からびびっている。しかし、俺達も、預かっているブツが何であるのか知りたい。」
そこまで言って長いタバコをもみ消した。もう笑っていない。。榊原が反論した。
「本来であれば、お前らがやったほうがゲロする確立は高い。預かったブツがヤクの疑いがあるとなれば、そうでないことを証明せざるを得ない。そうじゃないのか。」
「ああ、そうだ。だが俺達には手が出せない。」
「何故、バッチか?」
「ああ、或国会議員の、それも厚生族議員の後援会長だ。」
「つまり、ワシであれば問題ないと?」
「ああ、キャリアのスキャンダルを暴こうって訳だろ、榊原さん。怖いものなしだ。違うか?」
今度は榊原が優位に立った。中川の片目が真剣な色を帯びている。それぞれに事情がある。榊原は頷いた。
「そうだな、ワシの方が適任だ。まして、DVDの確立の方が高そうだ。」
中川は再び笑顔を取り戻して言った。
「ただし、盗聴の話を出してもらっては困る。分かるだろう、その辺のところは。それから、もしその結果が分かれば、あと二人の男の情報も流そう。」
「つまり、上村は三人にビデオを預けているってわけだ。おい、その残りの二人の情報は、今って訳にはいかないのか。」
「いや、駄目だ。結果を聞いてからだ。おい佐々木、その高崎の野郎の名前と電話番号と住所を書いてやれ。」
暫くしてメモを榊原に渡すと、二人は立ちあがった。中川はレジを素通りして、片手を挙げた。転がっているお銚子を一瞥し、榊原はその後ろ姿に舌打ちした。
高崎駅でタクシーに乗り込んだ。瀬川はどうしても行くという。榊原は怖いものなしの心境だが、瀬川の将来を考えれば同席させたくはなかった。緊張の面持ちの瀬川を横目に、一度訪れたことのある高崎の町並みを眺めた。
行方不明のOLは渋川出身だった。吾妻川沿いにへばり付くように田畑が広がっている。両父母が細々と農業を続け、兄は渋川市役所に勤めていた。娘の無事をご先祖様にお願いしているという母親は、榊原と話しながらも仏壇に向かって何度も手を合わせていた。
その帰りに高崎市に寄った。上村兄弟が育った街。兄は中学を卒業すると、父親が生前属していたテキヤの門をくぐった。母親思いの兄は努力してのし上がっていった。一方、弟は兄の送金によって何不自由ない生活を送った。
兄は、高校を退学になった弟を随分と甘やかした。高校で弟がグレ出したのも、バックにヤクザの兄がいるという虎の衣を借りてのことだが、終いには自分が虎だと勘違いしだしたことが原因だったようだ。
タクシーは駅前通りをまっすぐ進み、市役所を左に見ながら道なりに左に折れた。のっぽビルの市役所を左に見ながら観音山に向かう。タクシーは山際の緑に囲まれた邸宅の門前に止まった。
女中に通されたのは、目を見張るような豪華な応接間だった。お客を通すだけの部屋にこれだけの調度品を用意する家があるのかという、ごく庶民的な感想に榊原は思わず苦笑した。瀬川は目をまん丸にして眺め回している。
お茶が出され、暫くして上背のある上品な男がドアを開けて入ってきた。年零は58歳。歯科医院は数人の勤務医に任せているとのことだ。その安岡が何故、上村の依頼を受けビデオを預かったのか全く理解出来なかった。
突然の電話の非を詫び、それでも快く会見を受け入れてくれた礼を言って、榊原はいきなり核心に迫った。
「ところで、突然、なんですが、社会的な地位があり、群馬県の良心と言われる安岡さんが、何故、暴力団の組長のお先棒を担ぐんです?」
安岡はお茶に手を出し、ゆっくりと口に運んだ。脅し文句に微動だにしないという意思が働いている。
「何のことでしょう。」
「二人のお嬢さんが被害を受けた。一人は殺され、一人は行方不明だ。勿論、証拠はない、まして渋川のお嬢さんの死体が発見されないんじゃ警察としては動きようがない。渋川のOL失踪事件は上毛新聞にも載ったはずだ。」
安岡は怒りを顔に顕わにした。
「いったい何の話しをしているのです。私は、何のことだかさっぱり分からない。いきなりそんな話しを聞かされて言葉も出ない程です。」
榊原が、立ち上がりそうな勢いの安岡に負けず劣らず語気鋭く切り込む。
「ワシは、お嬢さんの生存を信じて、帰りを待っている渋川の秋川さんのために、命を懸けている。あんたは、男が命を懸けるということの意味が分かるか。何者をも恐れないということだ。」
安岡は立ちあがり、怒鳴った。
「帰ってくれ、今すぐ帰ってくれ。帰らなければ警察を呼ぶぞ。」
部屋を揺るがすような、どすのきいた唸り声が響いた。
「ワシがここにこうして座っているってことは、この首も惜しくないってことだ。もし首になれば洗いざらいマスコミにぶちまけてやるつもりだ。ヤクザのお先棒を担いだあんたのこともな。」
マスコミ、そしてヤクザという言葉に、安岡がぴくりと反応した。あの記事を安岡も読んでいる。被害者が近隣の娘なのだ。
「上村君はヤクザじゃない。実業家だ。埼玉に本社のある熊谷土建の会長だ。昔はテキヤだったらしいが、今はれっきとした実業家だ。」
「奴は今でもヤクザの事務所を持っている。いいか、熊谷土建の元社長は騙されて会社を乗っ取られたんだ。奴が闇金融の元締めだってことをあんたは知っているのか。健全な企業を食い物にしているダニだ。」
安岡の目に不安の色が浮かぶ。立ちあがったままだが部屋を退出する訳でもない。振り上げた拳はもはや行き場を失っている。榊原はここで手の内を明かし、相手に揺さぶりをかけることにした。諭すような声が響く。
「上村からDVDを預かっているのは、あんただけじゃないんだ。あんたを含め三人が預かった。そのうちの一人を別件でしょっ引くつもりだ。そいつが吐けば、あんたも芋ずるだ。秋川さんのお嬢さんの命を奪った、上村の弟のお先棒を担いだことになる。」
育ちの良い男には恫喝するに限る。恫喝に慣れていない。安岡の声は震えていた。
「あれは、自分の無実を証明する映像が映っていると聞いた。だから万が一、上村君が警察に捕まるようなことがあれば新聞社に送る手筈になっていた。」
「違うんだ、安岡さん。奴はそのDVDをネタに警察を恫喝しているんだ。秋川さんの事件にも、もう一人の女性の死にも、これ以上手を出すと、DVDを世間に公表すると、警察を恫喝しているんだ。そしてあんたはその手先になっている。」
安岡の手はぶるぶると震えていた。恐らく預かったDVDは見ていない。頭の良い上村は中身を見せない形でDVDを預けたはずだ。榊原の読みは当たっていた。
麻取りの盗聴の事実を言えないのであれば、ここに賭けてみるしかなかった。安岡はどさりとソファに腰を落とした。安岡は、秋川由紀の事件と預かった物が関係しているなど、思いもしなかったはずだ。
安岡は顔面蒼白だった。か細い声が響いた。
「私は、ただ預かっただけだ。秋川さんの事件は週刊誌で読んだ。まさかあの記事が上村と関係していたなんて思ってもみなかった。上村は警察に罠をかけられたと言った。その無実を証明するDVDだと聞いて、それを信じただけだ。」
それだけ言うと、ソファーから立ちあがった。部屋を出て行く。瀬川が焦って立ちあがろうとするのを手で制して呟くように言った。
「大丈夫だ。DVDを取りにいっただけだ。」
放心したように安岡の後姿を見送った瀬川が、榊原を振り返って言った。
「しかし、榊原さんの啖呵には驚きました。ヤクザより凄みがありましたよ。いやー、ついて来て良かった。こんなに興奮したのは初めてですよ。まったく榊原さんは凄い。」
瀬川の尊敬の眼差しを避けて、榊原は煙草を取り出し火を点けた。深く吸い込んで長く吐き出した。賭けに勝った。冷や汗が腋の下を濡らす。安堵の溜息を煙草の煙で誤魔化した。
ブツは何重にも包装され、開け口は緑色の蝋と印で封印されていた。中身を入れ替えて、前とそっくり同じ状態で返却することを条件に借り受けた。その処置は、鴻巣警察署に大学の同期の戸塚という警部がおり、そこに持ち込んでやってもらうことになっていた。
鴻巣警察署で待つこと20分、応接室にDVDが届けられた。戸塚が制服警官に声をかけた。
「ご苦労、で、元通りになってるか。」
「はい、殆ど分かりません。」
「そうか、それをさっき渡したメモの住所に送っておいてくれ、頼んだぞ。」
そんなやり取りの間も惜しんで、榊原はDVDを戸塚からひったくり、デッキの挿入口に押し込んだ。スイッチが入れられ、画面が揺れる。しばらくザーザーという電子的な映像が続くが、いきなりソファに座る男の顔が映し出された。
知った男だった。思わず瀬川と顔を見合わせた。画面が引いて、そこが新宿の上村興業のビルであることは、窓から都庁ビルが見えることで分かった。ズームレンズを自在に操っている。隠しカメラを別室で操作しているのだ。
音声も普通のDVDの比ではなく実に明瞭だ。マイクも応接セットのどこかに埋め込まれている。恐らく、榊原が組長と対談した池袋のビルにおいてもDVDが回っていたはずである。上村の狡猾さは思った以上だった。
10分ほどでテープは終わった。誰も口をきこうとはしない。榊原が大きな溜息を吐いた。戸塚は俯いたまま黙り込んでいる。瀬川が口火を切った。
「糞ったれが。警察なんて糞ったれだ。ヤクザの方がましじゃねえか。」
戸塚が顔を上げて榊原を見た。
「どうする気だ、これを。」
「まあ、いずれ、これは公にするしかないだろう。そう思わんか。」
「ああ、マスコミに流すか、或いは裁判の証拠として使うかだな。これが二人の女性の捜査が十分なされなかった理由だと訴えるしかない。問題はどういうタイミングで出すかだ。」
二人の会話に大きく頷き、瀬川が言った。
「やりましょう。難しい仕事になるのは目に見えていますが、なんとかやりましょう。榊原さん。」
榊原は頷いた。瀬川はかなり興奮しているらしく、いきなり榊原の手を取って強く握り締め、唾を飛ばしながら言った。
「榊原さん。私も首をかけてもいいです。私も榊原さんと一緒に首をかけます。」
戸塚が苦笑いしながらちゃちを入れる。
「二人とも随分と燃えているじゃないか。感極まって男同士抱き合うなんてことは、やめてくれよ。」
榊原が慌てて瀬川の手を解くと、言葉を返した。
「ああ、大丈夫だ。ワシも抱き合うんなら女の方がいい。」
戸塚がいつになく真面目な表情を作ると言った。
「榊原、俺は見なかったし、聞きもしなかったことにする。俺の言っている意味は分かるな?」
榊原が大きく頷く。戸塚は警部の試験に引き続き、管理職試験にも合格した。出世街道をまっしぐらだ。とはいえ何時勉強しているのか不思議なくらい多忙な生活を送っている。榊原はこの男の出世に心から声援を送ってきた。だから言った。
「ああ、お前は何も見なかったし、何も聞いちゃあいない。」
榊原と瀬川が立ち上がり、部屋を出ようとしたとき、戸塚が声を掛けた。
「くれぐれも慎重にな、とにかく頑張れ」
第十一章
榊原から電話を受けたのは、昼休みの転寝の最中だった。つい最近、省エネ対策で昼休みは消灯となり、その時間は食後の昼寝に当てることになった。夢うつつのまま受話器を耳に当てると、野太い声が響いた。
「おい、石田、ちょと頼みたいことがあるだが、今日会えないか、例の店で。7時でどうだ。」
一呼吸おいて石田が答える。
「ちょっと仕事が押してるんで、遅れるかもしれない。電話するから、携帯をオンにしておいてくれ。お前の携帯、めったに繋がったことがない。」
「分かった、そうするよ。それじゃ、7時に。」
電話を切って、石田は、ふと、晴海の言った言葉を思い出した。「二人は出来ているんじゃないかしら。」
何日か前、晴海から電話があった。田舎に帰った洋介君と3日ほど連絡がとれなくなり心配していると言う。洋介の実家に電話するのは控えているらしい。十分ほど話したが、晴海が笑いながら言ったその言葉が頭にこびりついていた。
嫉妬しているわけではない。幸子への思いは、苦い思いでとともに遠い過去の記憶として封印してしまった。まして、もし晴海の言うことが事実だとしても、石田に口を挟むことなど出来ない。しかし、どうしても引っかかるのは、それが不倫だということだ。
幸子は不幸な結婚を二度も経験した。そして再び同じような不幸を繰り返そうとしている。そのことが不憫だった。相手が榊原であろうとなかろうと、相手が妻帯者だということは、幸子にも榊原の妻子にも相応の不幸が訪れるということだ。
そんな石田の思いをよそに、榊原はいつもと変わらぬ微笑をむけて出迎えた。マスターはちょうこんと頭を下げてにこやかに言った。
「どうします、生ビールもありますが。」
榊原を見ると中ジョッキをあおっている。衣替えもしていない季節に生ビールでもない。とはいえ、喉が乾いていることも事実だ。石田はビールの小瓶を頼んだ。榊原がジョッキを置くと口を開いた。
「どうだった、北九州の方は。親戚が見つかったって言っていたが。」
「ああ、会ってきたよ。あの親父は何か隠している。だから、もし会ったら、こう言って欲しいとたのんだ。全てを許す。何も心配することはないってね。」
「そしたら何と言った。」
「ああ、分かりましたと言っていたよ。」
石田は榊原の横顔をちらりと盗み見た。幸子とのことを詰問してやろうかと心が騒いだが、ぐっと堪えた。榊原が向き直った。
「お前に頼みというのは、こいつを預かって欲しいんだ。」
こう言うと背中に手を回し、紙袋をベルトから引き抜いて差し出した。石田が受け取り、袋を開けようとすると、手で押さえて、あたりを見回すようにしながら言った。
「DVDだ。家で見ても構わんが、今はそのバッグにしまってくれ。大事なものだ。兎に角、信用のおける人間に預かってもらう必要があったんだ。」
「おいおい、ってことは警視庁内部にも敵がいて、同僚も信用出来ないってことか。」
榊原は、苦虫を噛み潰したような顔をして頷いた。石田は旧友の顔をしみじみと見入った。「分かった預かろう。」
二つ返事で答えて、それ以上のことは聞かなかった。
それから小一時間ほど話して二人は分かれた。石田は家に帰ると早速包みを開いてDVDをデッキに差し込んだ。
二人の男が映し出され、なにやら話している。二人とも紳士然とした身なりだが、どこかヤクザじみた印象がある。
鼻の曲がった男が鷹揚に頷き、白髪混じりのごま塩頭が、揉み手をしながら頭を下げて、「餞別をかき集めたが、100万ほど足りない」と言う。鼻曲がりが、細い目を見開いてこう言ったものだ。
「おいおい、磯田さん、あんたが言う一本とは100万か。ってことは、つまり、平山署長の餞別が○千万円(注1)ということになる。こいつは驚いた。だって平山さん、池袋署の署長、2年しかやってねえだろう。その餞別が…それはヒデエな。」
「そうなんだ、うちは元々ノンキャリアが署長を勤めていたんだが、今回警察庁のごり押しで、キャリアがなっちまった。キャリアだとそれが相場だそうだ。俺としても出来るだけのことしたい。裏金からありとあらゆる関係業界から集めたが、どうしても100万足りない。」
「それで、思い余って俺の所に来たって訳だ。」
「ああ、ヤクザの親分さんではなく、実業家のあんたになら頼んでもいいかと思ってよ。」
へへへと笑ったごま塩頭の顔に卑屈な表情が浮かんでいる。鼻曲がりが、おもむろに立ちあがると、「一包みほど持ってこい」と電話で指示した。
しばらすると、若い男が紙袋を携えて入って来て、鼻曲がりに渡そうとする。すると鼻曲がりは顎を前に突き出した。顔を伏せるようにしていたごま塩は、しかたなく若い男に視線をむけた。若い男はにやりと笑い、袋をテーブルの上に置いて、一礼して去った。鼻曲がりが口を開いた。
「俺達の商売は原価は低いが、全く無いってわけでもねえ。時には命をはることもある。その点、キャリアってのは俺達の向こうを張ってやがる。税金も納めないってわけだ。」
「ああ、二年ごとに、新しい任地で同じようにしてもらうって訳さ。」
石田は、大体の察しはついた。榊原からキャリアの餞別の話を聞いたことがあったのだ。その餞別は、三箇所回るとまさに家が建つ金額になると言う。まさか、ごま塩はDVDに撮られていようとは想像もしなかったようだ。何度も頭をさげながら部屋を出ていった。
石田は知るよしもないが、このごま塩男はこの後自殺した池袋署の磯田副署長である。副署長の表情には必死さがあった。脂汗を浮かべた顔はてかてかと光っていた。卑屈に捻じ曲げられた頬が震えて漸く笑みを作る。石田の心にその顔が深く印象に残った。
数日後、榊原は晴海の悲痛な声を聞いていた。
「おっちゃん、どうしたらいいの。洋介が行方不明なの。思い余って洋介の実家に電話をかけたの。そしたら、家には帰っていないって。帰るという電話があって実家では待っていたそうよ。だけど帰ると言った日に帰らず、もう1週間も連絡がとれないって。捜索願を出すそうよ。」
「晴海ちゃん、そう興奮しなさんな。例の件は親分さんに話を通したから絶対に大丈夫だ。ワシが保証する。それに男っていうのは時々ふらりとどっかへ行きたくなることもあるんだ。」
「違うわ、私、胸騒ぎがするの。私って人より敏感なところがあるの。」
「ああ、分かった。兎に角、明日にでもその親分さんに会って話してみよう。」
「でも、誘拐しましたなんて、正直に言うわけないでしょう。」
「いや、話してみて、その表情や態度を見るんだ。ワシはそっちの方の目は確かだからな。晴美ちゃん、兎に角落ち付いて。」
晴海の興奮はなかなかおさまらなかったが、榊原が忍耐強く話を聞いてやると、次第に落ち付きを取り戻した。明日電話を入れることを約束して話を終えた。
翌日、榊原は上村組長にその日の午後にアポをとった。レディースクレジットの飯島も同席させるよう言付けた。そして、ため息を洩らした。どうやら、しばらく惚けていたが、高嶋方面本部長の部屋に行かなければならなくなったようだ。
1週間も前、高嶋からMDの解読が出来たと連絡を受けていた。電話で内容を聞こうとする榊枝に、「暇な時に部屋に来て、目を通したらいい。」と言うのだ。しかし、暇はあるのだが、部屋には行く気がしなかった。
というのは、高嶋には高崎の件で、成果はなかったと嘘の報告をしていたからだ。実は、高嶋も地方の警察署長を歴任しており、間違いなく餞別を受け取っている。DVDの内容がキャリアに対する餞別であったなどと言えば、高嶋自身も二の足を踏むに違いない。
部屋に行けば高崎の件の詳細を聞かれる可能性がある。榊原は嘘が顔に出る性質だ。部屋には行きたくなかったのだが、レディスクレジットの専務、飯島に会うともなれば、MDの内容を知っておかなければならない。
高嶋はにこやかに榊原を出迎え、嫌味を一言。
「お忙しい榊原さんに、ようやく暇が出来たようですね。」
「いやまったくもって申し訳ございません。こちらが無理にお願いしたことなのに。」
高崎の件に触れられたら、嘘をつきとおすつもりでいた。
「いえ、どうということはないですよ。うちの暗号解読チームは優秀ですから、あっという間に解読したようですよ。で、やはり情報ブローカーっていうのは間違いありませんね。」
「と、言うと?」
高嶋は満足そうに微笑んでいる。高崎の件はどうやら忘れているらしい。高嶋は書棚から分厚い資料を取り出し机の上に広げた。榊原が覗き込むと、そこには複雑な化学記号が並んでいる。高嶋がページをめくってゆく。
「この後半の部分は動物実験の膨大な薬品投与経過とその結果が書かれています。恐らくこれは盗まれたものでしょう。そうとしか思えない。」
榊原は、たいして興味はなかったが、資料に覆い被さるように見入った。
「やはり元ヤクザの情報ブローカーは存在したってことですか。」
「ええ、そうです。今、この新薬の特徴を要約して、製薬会社に問い合わせています。もし、盗まれたものであれば、その情報ブローカーを引っ張ろうと思ってます。」
「それはちょうどよい。今日、その情報ブローカーと繋がりがある男に会います。」
高嶋がちらりと榊原を一瞥して、嘆息しながら言った。
「そろそろ、ことの詳細を教えてくださいませんかねえ。」
榊原は洋介がMDを奪うことになった詳細について、つまり晴美の義理の父親を探っていたこと、その後、上村と会ったことも報告はしていない。高嶋とは、あくまでもDVDの件で協力しているに過ぎないからだ。高嶋はそのことに不満を抱いている。
「まあ、いずれ必要とあれば話しますが、MDの件は、ただの若者の好奇心から発したことです。」
「とりあえず、そいうことにしておきましょう。兎に角、何とか、その男からそのブローカーの情報を仕入れて下さい。今のところ、製薬会社から何の反応はありません。大手にばかりに絞ったのですが、今後は中小にも広げる必要があるのかもしれません。」
高嶋は新たな犯罪の芽を見出し、それに夢中になっているようだ。高崎の件は眼中にないようである。榊原はそうそうに部屋を後にしようとうした。その時、高嶋がふと思い出したような素振りで榊原に声を掛けてきた。
「そういえば、高崎の安岡邸を出るとき、DVDくらいの大きさのものを小脇に抱えていたそうじゃないですか。榊原さん、そろそろその内容を教えてもらえませんかね。」
榊原はぎくっとして振り返ると、高嶋がにやにやしながら続けた。
「私のスパイは優秀でね、駒田のそれとは比較になりませんよ。」
榊原は溜息をつきながら言った。
「つけられていたとは、思ってもみませんでした。まいりましたね、これは。」
「どんなことでも確かめるのが性分でしてね。どうぞ遠慮なく仰っしゃって下さい。成果がなかったと言ったのは、私を騙そうとしているんじゃなく、私に遠慮してのことだと解釈しています。」
榊原は観念し「気を悪くしないで下さい」と前置きし、DVDの内容をつぶさに語った。高嶋は黙って聞いていたが、最後にふーと長い息を吐いて両手で顔を覆った。長い沈黙の時が流れた。そして高嶋が静かに口を開いた。
「ところで、榊原さん、そのDVDをどうするつもりです。」
「まだ決めたわけじゃありません。どうするか、ゆっくり考えます。」
「それを破棄するわけにはいきませんか。」
「それは出来ない相談です。事件では二人の犠牲者が出ています。そしてそのDVDによって捜査が撹乱され立件出来なかった。」
「それは分かります。しかし、そのDVDがあったとしても上村組長の弟の事件を立件できるわけじゃない。死んだ磯田副所長の顔に泥を塗るだけです。前にも言いましたが、私は磯田副所長には大変お世話になった。ですから、それを表に出したくないのです。」
榊原はじっと高嶋の目を覗き込んだ。その目には忸怩たる思いが秘められている。やはり餞別を受け取っていたのだ。見抜かれたと思った瞬間、高嶋は諦めたような表情をすると、おもむろに口を開いた。
「ええ、榊原さんの推察通り、確かに私も選別は受け取っています。最初に受け取った時には悩みました。しかし、一度受け取ると、二度目は悲しいかな抵抗ありませんでした。餞別をかき集め骨を折ってくれた副所長に恩を返せばそれで終わりですからね、ギブ&テイクです。」
高嶋はここで言葉を切り、溜息をつくと続けた。
「情けない話ですが、最初に受け取った時、私には金で縁を切りたいと切望していた人がいたのです。それは育ての親でした。」
「ほう、それは不幸なことだ。」
「ええ、本当に不幸な巡り合わせです。この前お話したように、私は母をなくして、近くの父親の親戚を盥回しにされ、最終的には母方の叔母の家に落ち着きました。当時、叔母の家は裕福で大学卒業まで面倒を見てくれました。しかし、」
「叔母が零落して、金をせびるようになった?」
「その通りです。叔父が死んでみれば借金だらけだった。貧すれば鈍すとはよく言ったものです。」
「高嶋さんも顔に似合わぬ苦労をしてきたわけだ。」
「ええ、兎に角自由になりたかった。」
「そんな時、大金が転がり込んできた。」
自嘲気味に笑い、高嶋が答えた。
「ええ、それ以後は毒食らわば皿までの心境です。でも、現場の警察官に対する罪悪感は心の底で澱んでいました。そして、たった今、DVDの中身がそれだと知って、榊原さん。私が何を考えたと思います?」
「いや、さっぱり分かりません。」
「やっぱり、神様はいるんじゃないかってことです。お笑いになるかもしれませんが、本当にそう思ったのです。私が一番気にしていることを、ずばり目の前に突きつて見せた。まさに驚くばかりです。」
「そのようなことは間々あります。厭だ厭だと避けようと念じていれば、自ずと厭なことに直面する。不思議な偶然です。」
「ですから、もう餞別は受け取りません。磯田副所長の切羽詰った思いを考えれば、そんなことは二度と出来ないでしょう。でも、榊原さん、これだけは勘違いしないで下さい。けっしてそのことに蓋をしようとして言っているのではないのです。これだけは信じて下さい。あくまでも、磯田さんの霊とご遺族のために言っているんです。」
「確かにあのDVDを法廷に出したところで、平山署長や坂本警部が捜査に手心加えたなんて証言するわけはないのは分かっています。しかし、やり方によっては…」
「榊原さんの言う、そのやり方とは何です?まさかマスコミに流すと言うんじゃないでしょうね。」
心の片隅に巣食っていたやけっぱちを言い当てられ、榊原はうっと息を詰まらせた。激情に駆られてそのことを何度も考えた。しかし、冷静になればそれは大変な問題を引き起こすことは想像できるが、その波紋がどこまで広がるのかは想像も出来ない。
「榊原さん、それを榊原さんが保管していることは何も言いません。駒田の暴走を抑えることが出来ますからね。でも、マスコミに流すことだけは思い留まってください。もし、世間に公表されれば警察の威信は地に落ちます。その影響は計り知れません。」
榊原はまじまじと高嶋の顔を見詰めた。切々と訴える高嶋の金縁眼鏡は汗で曇っている。高嶋は自分でも気が付いて、眼鏡をはずすと、ハンカチを取り出してレンズを拭った。マスコミという言葉が高嶋の心に恐慌をもたらせたようだ。
やはり、キャリアだ、と榊原は思った。自分たちの権威を守ろうと必死になっている。榊原はそんな思いなど露ほども見せず、高嶋の言葉を遮った。
「高嶋さん、最初からそんなことなど考えていませんから、安心してください。」
思いのほか大きな声に榊原自身驚いた。高嶋は一瞬言葉を失い、視線を漂わせた。榊原は慌てて言い添えた。
「高嶋さんの言いたいことは良く分かりました。私も警察の一員です。決してマスコミに流すようなことは致しません。約束します。」
榊原が約束という言葉を使ったことで、高嶋もようやく安心したようだ。いずれにせよ、キャリアの力は絶大で、今後もその力を借りなければならないことは確かなのだ。
部屋を退出し、榊原が会議室にさしかかると、そのドアが開き石川警部と鉢合わせになった。目があうと、石川の視線が激しく揺れた。それでも動揺を悟られまいと咳をひとつ。そして榊原の存在など無視するように、顔を背けて歩き出した。
その少し前、その会議室では、駒田四課長、石川警部、坂本警部の三人で密談が行われていた。榊原が本物のDVDを入手したという確かな情報が寄せられ、どう対処するか話し合われたのである。
この情報をもたらしたのは、石川警部が親しくしている情報屋である。この情報屋は高崎の歯科医宅で、密かに植え込みの中に隠れ、榊原の大喝を聞いている。石川警部がその一部始終を話し終えると、駒田課長はこう切り出したものだ。
「ということは、先般、榊原がDVDを入手したというのは芝居だったということになる。」
坂本警部がそれに答えた。
「その偽情報を上村に流したのがいけなかったのかもしれない。上村がすぐに反応して尻尾を捕まれた。」
「厭な奴に先を越された。」
三人は悔しそうに顔を見合わせ、押し黙った。しばらくして駒田課長が重い口を開いた。
「DVDを預けた先が、はたしてその歯医者だけならいいのだが。あの用心深い上村のことだ、何人かに預けている可能性もある。」
それまで黙っていた石川警部が宙を睨みながら口を開いた。
「もしかしたら、その預け先の情報を榊原が掴んでいる可能性はないですかね?」
はっとして、駒田課長が石川を見て言った。
「石川警部、そこだ。その可能性もある。何とか、榊原から情報を引き出せないものか。」
横から坂本警部が口を挟んだ。
「奴を、俺と同じように、警部にしてやったらいいじゃないですか。やっこさん性懲りもなく昇進試験を受けているらしいし。」
薄笑いを浮かべる坂本をちらりと見て、駒田課長は声を押し殺して言ったものだ。
「そんなこと、絶対に許さん。あいつには絶対に日の目を見させるものか。高嶋方面本部長がいなくなったら、まずは本庁から放りだしてやる。それからゆっくり料理だ。」
坂本がやり返した。
「上村を叩き潰すためにはDVDの確保は絶対条件です。DVDがなければ、奴等の言いなりになんかならなくて済む。榊原だって話せば分かります。私に任せてもらえませんか。」
「あいつは、小川総務部長を脅したんだぞ。いいか、あいつはDVDを利用して自分の保身を図るつもりなんだ。いや、それをもって我々を脅しにかかるかもしれん。そんなことは私が許さん、絶対にだ。とにかく、榊原を懐柔するなどもってのほかだ。」
うんざりしたような顔で坂本が答えた。
「俺は、責任を取って自殺した磯田副所長の無念を晴らしたいだけだ。あんた達、警察庁キャリアの意地と自己保身に付き合うつもりはない。あんたは元池袋署長だった二課長の平山に泣き付かれただけだろう。平山は、あんたの可愛い後輩だ。DVDを回収してくれって頼まれたんだろう。」
「何を言っている。磯田は自殺じゃない。何度言えばわかるんだ。」
「あんた達が事実を隠蔽したのは分かっているんだ。」
「馬鹿も休み休みいえ。私はその当時静岡にいたんだ。隠蔽も糞もあるか。」
「そんなこと言っているんじゃない。あんた等キャリアのことを言っているんだ。平山にとって、直属の部下が自殺したなんて汚点を残したくなかった。だから脳溢血と診断書を改竄したにちがいない。もし、平山が磯田さんに詰め腹を切らせたとしたら、平山も許るさん。」
駒田四課長の薄い唇がぶるぶると震えている。坂本は駒田を睨みつけていたが、ちらりと石川を一瞥し、鼻でせせら笑った。そして無言で席を立った。
石川警部は憎憎しげにドアから出てゆくその後姿を見送った。駒田は「あんな奴は頼りにならん」と言い放つと、石川警部をじっと見詰めて言った。
「君に何とかしてもらいたい。」
石川警部はごくりと生唾を飲み込み、頷いた。
「また例の情報屋を使ってみましょうか。」
「そうだな。高崎まで尾行して、あの榊原に気付かれなかったのだから相当なやり手に違いない。何者なんだ。」
「私の隠し玉で、本業は何でも請負業みたいなもんです。何かと面倒を見ていますので、協力は惜しみません。実は、奴さん、面白い情報を手に入れてきました。これを見てください。」
胸のポケットから数枚の写真を取り出し、駒田に渡した。
「その情報屋が撮った写真ですが、面白いものが写っています。なかなか優秀な奴です。今度、課長にも紹介しますよ。」
写真に見入っていた駒田が咄嗟に答えた。
「おいおい、私が会う必要はないだろう。そういうことは君達レベルで処理してくれ。」
「はっ、申し訳ございません。そうさせていただきます。」
実は、石川は、その情報屋に駒田と引き合わせてくれるよう頼まれていたのだ。困惑顔の石川をおもねるように駒田が優しく声をかけた。
「しかし、あの榊原に女がいたとは、まったく驚きだ。とにかくよくやった。君の働きには評価に値する。さて、これが使えるかどうかだ。」
評価という言葉に、石川の鼻がぴくぴくと蠢いた。
「榊原はその女に夢中らしいのです。何か仕掛ければ面白いことになるかもしれません。」
「何か仕掛ける?その情報屋を使って?」
「ええ、中身は今思案中です。」
にやりとして駒田が答えた。
「よし、君に任せる、頼んだぞ。良い部下と出会えたことを神に感謝したいくらいだ。」
駒田が、ぎゅっと石川の両手を握って離さない。漸くそれから開放され、石川は「それでは」と言って席を立ったのだから、ドアを開けた途端、榊原本人と出くわして驚かないわけがない。後ろから来る足音に全神経を集中させながら、それが廊下を折れて遠ざかるとほっと胸を撫でおろした。
応接室には既に組長と飯島が待ち構えていた。秘書の女性に案内され、榊原が部屋に入ってゆくと、組長は立ち上がり、少し腰を落とし気味にして頭を下げた。飯島はしかたなさそうにそれに倣った。ソファに座る早々、榊原は切り出した。咄嗟の反応を見るためだ。
「あのMDを盗んだ青年が消えちまったよ。金沢の両親が捜索願いを出したそうだ。心当たりはないかね。」
二人は一瞬、顔を見合わせ驚きの表情を浮かべ、まず組長が答えた。
「榊原さん、それは我々の預かり知らぬことだ。あの件は、あれで決着したはずだ。互いに納得して、恨みっこなしって奴ですぜ。」
動揺したのか、組長の口調が可笑しい。嘘はついていない、と見た。
「そちらのお兄さんも納得したのかな。」
無表情を装っていた飯島もさすがに感情を剥き出しにした。
「おいおい、俺があの餓鬼を誘拐したとでも言いたいのか、とんでもねえ。そんなヤバイことする訳ねえだろう。だって何の得にもならねえじゃねえか。」
確かに何の得にもならないのである。MDの中身を知るわけでもない洋介の口を塞ぐ必要はないし、まして盗まれた恨みを晴らすほどのこともないのだ。榊原も首を傾げざるを得ない。榊原が飯島を睨み付けた。
「飯島さん。あのMDの中身は何だい?」
一瞬、言葉に詰まった飯島に、組長が言った。
「おい、何でも喋ってしまえ。あんな奴の肩を持つこともないだろう。昔の親分かなんかは知らないが、おかしな疑いを掛けられるよりはましだ。」
意を決したのか、飯島が重い口を開いた。
「実は、ある小さな製薬会社の研究員が、或る人を通して、笹岡さんに、つまり、私の前の親分なんですが、これに売り込んで来たんだそうです。笹岡さんは相当の金額を払ったようです。」
そう言って、ひと息ついて続けた。
「私がお話出来るのは、ここまでです。これ以上のことは知りません。もっと知りたいのであれば、あとは笹岡さんを探すことですね。」
榊原が笹岡の連絡先を聞くと、飯島は笹岡の携帯の番号は知っているが、住所は知らないという。笹岡のフルネームと電話番号を聞き出し、事務所を後にした。
歩き出すと携帯を取りだし、番号を押した。しかし案の定、予想した反応が返ってきた。「・・現在この番号は使われておりません・・」
ちくしょう、と舌打ちをして、榊原は歩き出した。手間を掛ければ何とか笹岡に辿り着けるだろう。その面倒な仕事は高嶋方面本部長に頼むことにした。出世の糸口を見つけ有頂天になっている高嶋であれば喜んで引き受けてくれるはずである。
第十二章
石田は人一倍感性が強い。妹が死んだと思われる時刻にも、両親が死亡事故を起こした時刻にも、胸騒ぎを覚え、息が乱れた。何がそうさせるのか分からないが、人並みはずれた感性を持っているのは確かだ。
そしてもうひとつ、石田の石田たる所以がある。それは人の死が終着点でないこと、死が無を意味していないことを経験から知っていることだ。それは石田が中学一年の夏休み、祖父が亡くなり、その納骨式の日に体験した。
納骨式が行われる日、再び親戚一同が集まった。女達の賑やかなおしゃべりが延々と続き、納骨式までの時間をつぶす一時だった。父と、その兄である叔父もお茶をすすっては、騒がしい女姉妹に苦笑いするばかりだった。
その時、3歳になったばかりの石田の従兄弟が、昼寝から覚めると突然火の付いたように泣き出した。そして泣きじゃくりながら訴えたのだ。
「じっちゃんが、穴がない、穴がないって泣いてるよ。可哀相だよ。」
一同驚いて、悪い夢でも見たのだろうと、子供をあやそうとするのだが、抱こうとする母親の手を払いのけ、何度も何度も同じことを大人達に泣きながら訴えたのだ。
「じっちゃんが、可哀相だよ。穴がないって、泣いているんだ。可哀相だよ。」
大人達はその意味をはかりかねた。年端のいかぬ子供のざれごとと誰もが解釈し、笑ってその場をやりすごした。
納骨式は順調に執り行われた。しかし、読経がすみ、墓石を動かす段になって、皆はてと首を傾げた。あるはずの墓穴が見つからないのだ。本来あるべき所になく、もしかしたらと思い、下の石も動かしてみたがやはり穴はない。
その時、その場にい合わせた全員が、子供の訴えていた意味を理解するとともに、背筋が寒くなるような感覚を味わった。じいさんが子供の口を通じて自分の意思を伝えていたのだ。そこで石田が感じたことは、死、すなわち無ではないということだ。
家に帰って数後日、そのことを思い出し、父に聞いた。
「やっぱり、死んだ人には墓が必要ってことなの。」
「さあ、どうかな。お父さんだってそれは分からない。でも、おじいちゃんって人は、冗談が好きで、ちょっと皮肉屋さんだった。それに家族ではいつも自分が中心でなければ気がすまない人だった。」
「だから?」
「だから…、」
笑みを浮かべ、遠くを見るような眼差しでこう続けたのだ。
「僕達を驚かそうと思ったんじゃないかな。誰一人、おじいちゃんのことを話題にもしていなかったから。」
「でも、なんで穴がなかったの。」
「おじいちゃんはお墓を二つ買っていたんだ。自分が先に死ぬと思っていたから、ひとつは墓穴を用意していた。もうひとつは息子夫婦用だからまだいいだろうと思っていた。だけど、叔母さんがおじいちゃんより先に死んじゃっただろ。」
「明叔父さんは、穴のある大きな墓を叔母さんに使っちゃたんだ。」
「そうだ。だけど、おじいちゃうんは何も言えなかった。叔母ちゃんの葬式の時、明叔父ちゃんがわんわん泣いていたの覚えているだろう。だから、おじいちゃんは心の中で、自分のために用意した墓を叔母ちゃんに譲ったんだよ。」
父親は祖父のいたずらだと言ってのけた。単なる偶然とは言わなかった。中学生だった石田にとってそれは世の真実のひとつとして素直に受け入れることができたのだ。
大学に入って唯物論や機械論的宇宙論に接したが、全く馬鹿馬鹿しい空論としか感じなかった。真理に触れたことのない人間が作り出す理論は、理屈っぽくてぎすぎすとしている。目を閉じ素直に感じることの方が大切なのだ。
経験はその人間の世界観や価値観を決める大事なエレメントなのだが、既にそれを確立した人間は、その貴重な経験さえ記憶の片隅に追いやってしまう。実を言うと、半年後、父親はその逸話のことを全く覚えていなかった。直後の素直な感想は、常識という壁を越えられず、理性によって記憶は消し去られていたのである。
石田は、和代も両親もあの世で幸せに暮らしていると信じている。にもかかわず、憎しみを克服出来ない理由があった。それはこの世で受けた苦しみは、この世で返さなければならないという強い復讐心があるからだ。
そこは中野の小さな飲み屋である。店の親父が無口なのが気に入った。カウンター越しに目も合わさず肴を置く。刺身が新鮮で安い。小さな店にありがちの馴染み客同士の仲間意識も希薄で、一人ぽつねんと酒を飲むにはもってこいである。
石田は杯の最後の一滴を飲み干し、席をたった。相当に酔っていて、足元がふらついている。ガラス戸を後ろ手に閉めて、細い路地を歩き出した。このあたりは中野駅南口から歩いて5分だが、細い路地に囲まれた住宅が広がっている。
しばらく歩いて、大通りのサブナードに通じる太い道に出た。ここも何軒か商店や飲み屋はあるが、まだ住宅街が続く。ふと見ると、道の端にワゴン車が止まっている。その横を、石田が酔った足取りで擦りぬけようとした時だ。
ワゴン車の後方から一人の男が、するりと石田の背中に回った。と、前からもう一人の男が現れた。後ろの男はいきなり石田を羽交い締めにして、前から現れた男が距離を一挙に詰め、石田の腹に拳を叩き込んだ。と思ったが、その男は後ろにのけぞって倒れた。石田の前蹴りが前の男の鳩尾を突いたのだ。
石田は、羽交い締めする男の首筋に肘打ちを繰り出すが、男の力は思いのほか強い。それでも何度か繰り返すと、男が、「うっ」とうめき声を発して、よろめいた。石田は振り向きざま男の股間を蹴り上げ、前のめりになった男の腹に膝を叩き込んだ。男は一瞬にして気を失った。
いきなりワゴン車が急発進し、軋みをあげて路地を曲がっていった。二人の男が路上に放り出されている。石田は携帯で110番をした後、二人の男を見張った。一人が起き上がろうとするのを、石田は顔を殴り付けまたしても気絶させた。
しかし、パトカーを待つ間に石田の気が変わった。相当に酔っていたし、全てが面倒になっていたのだ。眠気の方が勝った。一刻も早くシャワーを浴び寝床に飛び込みたかった。だから二人を置き去りにして、その場を去ろうとした。
ふと見ると、一人の男の手に黒光りするものが握られており、それが上着の端から覗いていた。石田は屈み込むとその男の手から黒光りするものをもぎ取った。拳銃である。石田は昔からガンファンである。モデルガンを幾つも持っている。石田はその拳銃をベルトに差し込むと、千鳥足でその場を立ち去った。
家に帰ると、冷たいシャワーを浴びた。アルコールが飛ばされ冷静になるに従い、どうもここが安全ではないように思えてきた。奴等は強盗ではない。何日か前にも、黒のワゴン車をマンションの近くで見かけたことを思い出したのである。
石田は浴室を出ると部屋の電気を全て消した。十分後、必要な着替えや小物を入れたリックを背負い、外に出るとドアの鍵をかけた。拳銃はベルトに刺している。そしてビルの非常階段の下に潜んだ。何故かわくわくしている。
それからおよそ20分後、エレベータの音が聞こえ、石田の住む5階で止まった。またしても二人の男が石田の部屋の前に立った。さっきの男達だ。一人がキーを錠前に差し込んだ。石田は「やはり」と呟いた。
男達が部屋に入ると、石田は非常階段を駆け下りた。間違いなくあの黒のワゴン車が下に控えているはずだ。二人が、部屋に石田がいないことに気付き降りてくる前に、そのワゴン車を何とかしなければならない。
案の定、黒いワゴン車がそこにあった。その時、向かいのマンションの前にタクシーが止まった。若い女がタクシーから降り立つところだ。石田はワゴン車の運転手に気付かれぬよう迂回してタクシーの後部座席に滑り込んだ。
「あの黒のワゴン車の後をつけてもらいたい。謝礼ははずむ。」
若い運転手はにこりとして頷いた。見るとマンションから二人の男が出てくるところだ。二人を収容すると黒のバンは発車した。
タクシーはすぐに発車せず時間差をもってゆっくりと滑り出した。
翌日の午後10時過ぎ、晴美は、自宅50m程手前に止っていたセドリックの後部座席にいきなり押し込められた。叫び声もあげる間もないほど、それは手際良くなされた。そうとうに手馴れた男達のようだ。
二人の男に両側から押さえつけられ、晴海は身動きもとれない。
「あんたたち、誰なの。私をどうしようというの。」
叫ぶように言うが、返事はない。二人の男は顔を隠そうともしていない。冷酷そうな目をした若い男と、分厚い筋肉の塊のような40がらみの男だ。
晴美は恐怖に体ががたがたと震え出した。車は首都高に上がってゆく。若い男がポケットから黒い袋を取り出すと、晴美の顔にすっぽりと被せた。
どこをどう走ったのか全く分からない。1時間ほど走って、車は停車した。ガラガラというシャッターの閉まる音が止んで、晴海は車の外に連れ出された。そこはガレージの中なのだろう。明かりが厚い布地をとおして感じられる。
ギーという音とともに床が振動している。しばらくして振動が止ると、二人の男に導かれ晴美は歩を進めた。そして足先が宙を泳いのだ。恐怖にキャっと声をあげるが、階段だとすぐに気付いた。二人の男が下がって行くのを感じたからだ。地下室になっているようだ。
「ここはどこなの。いったい私に何をしようというの。」
晴美の声は恐怖に打ち震えている。右側の太った男が答えた。
「何もしない。静かにしていればいいんだ。」
階段を降りきると、被らされていた黒い袋が取られた。晴海は部屋の内部を見回した。そこは20畳ほどの広さがあり、薄汚れた大きな工作台が一つ、それに見たこともない機械類が散在し、隅にはダンボール箱が山済みにされている。
そして晴美を驚かせたのはまるで牢屋としか思えない部屋が三つも並んでいることだった。小窓が開いているがそこには鉄格子がはめ込まれている。若い男が真中の部屋の開けると、太った男が晴美を中へ突き飛ばした。そして扉が閉められ、鍵の閉まるカチッとい音がした。
部屋に明かりはない。地下室の明かりが小窓から洩れてくるだけだ。まるで診療台のようなベッドに毛布が畳まれて置いてある。その脇に小さな穴が開いており、そこから異臭が漂う。それは便器のようだ。
晴美はベッドに倒れ込みしくしくと泣いた。
石田に晴美失踪が伝えられたのは翌日である。新宿のビジネスホテルの一室で、石田は榊原の緊迫した声を聞いて、思わず息を飲んだ。一昨日の襲撃に続いて、今度は、晴美が失踪したという。この二つの事件に関連があるのだろうか。
「幸子さんが言っていたんだが、晴美さんは、昔は何度も無断外泊をしたが、最近は全くなかったそうだ。それに、昨日、晴美さんと一緒だった友人が、今日、会う約束をしていたんだが、すっぽかされたらしい。携帯もつながらなくなっている。」
「榊原、例の昔のボーイフレンドがいただろう。しつこく付きまとっていたらしいが、そいつはどうなんだ。」
「ああ、さっそく当たってみたが、野郎、少年院送りになっていやがった。洋介君に続いて晴美さんまでいなくなった。いったいどうなっているんだ。」
「実はな、榊原、俺も二日前、中野の路上で二人の男に襲われた。そいつらは、俺のマンションの鍵を持っていた。薄気味悪いので鍵を交換中だ。」
石田は、二日前に襲われた経緯を語った。しかし、拳銃を手に入れたことは黙っておくことにした。聞き終えると、榊原は困惑顔で言った。
「おいおい、晴美さんに続きお前も襲われていたって、それって本当かよ。」
「嘘を言ってどうする。俺を襲った男達の目的は、やはりお前から預かったあのDVDかもしれない。いや、一連の事件が関係あるとすれば、例のMDのことも気になる。」
「いや、MDの方は、この前も話した通り、製薬会社から盗まれたもので、そのうち、どこから盗まれたか分かると思う。だから洋介君失踪の原因になったとは思えない。お前が襲われたのは、これは、どう考えてもDVDが原因だろう。」
「そうかもしれない。奴等は俺のマンションの鍵を持っていた。しかし家捜ししたって見つかるはずはない、DVDは会社のロッカーの中だ。奴等はお前の仲間じゃないのか。」
「いや、いくらなんでも内の連中はそこまでやるとは思えない。そこまで落ちてはいない。」
「どうせ誰かを雇ってやらせたんだろう。それに奴等は拳銃を持っていた。ヤクザじゃないかな?ところで、俺はその連中の後をつけて住んでいるところを確かめた。」
「本当か。」
急に声を潜め、
「良くやった。よし、その場所を教えろ。いや、これから会おう。詳しく状況を聞きたい。どこにする。」
「そうだな、新宿がいい。学生時代、よく行った例の店ではどうだ。店の名前は言えないがな。ハハハハ…」
榊原は笑いながら言った。
「その言い方は、まるで、盗聴を気にしているみたいだな。」
「お前の話だと、警視庁の仲間さえ信じられないみたいじゃないか。」
「この電話は大丈夫だ。朝必ずチェックしている。それでは1時間後に。」
榊原が電話お置くと、斜め前にいる佐伯の目が点になっているのが分かった。まったく分かりやすい男である。聞き耳を立てなくとも、榊原は興奮して大きな声を張り上げていたのだから、すべて聞こえたはずだ。榊原はちらりと佐伯係長を一瞥し声を掛けた。
「ちょっと出てきます。」
と言って、にこりと笑いかけたが、すぐに険しい顔に戻って席をたった。
佐伯係長の顔は青ざめていた。先日、駒田捜査四課長が主催した秘密ミーティングのおり、幸子、晴美親子の名前も、秘密のDVDの存在も聞いていたからだ。その晴美が失踪し、その晴美の関係者と思われる男が誰かに襲われたたらしい。まして榊原は相手に「内の連中はそこまでやるとは思えない。」と言っている。
佐伯は榊原の意見に賛成だった。そして呟いた。「俺達だって、そこまで、落ちてはいない。」
佐伯はしかたなく受話器を取り上げた。
「何だと、そんな馬鹿な。おい、坂本と石川を呼べ。」
駒田課長は、佐伯が報告すると血相を変えて怒鳴った。駆け付けて来たのは石川警部だけで、坂本警部は出かけているらしい。
応接に腰を掛けている佐伯係長に、駒田は顎で出て行くように指示した。秘密を知る人間はできる限り少ない方がよい。部屋を出ようとする佐伯に、駒田が声を掛けた。
「さっきの話しは聞かなかったことにしろ、いいな。」
「分かっております。」
佐伯は一礼してほっとしたような顔で部屋を去った。
「石川警部、あの情報屋には何を頼んだんだ。」
と言って、佐伯が漏れ聞いた話を語った。見る見るうちに石川の顔が青ざめてくる。聞き終わると、両掌で顔を覆い、そして額の汗を拭った。そして言った。
「私は少女を誘拐しろなんて一言も言っておりません。」
「当たり前だ。そんなことをしてみろ、こっちが犯罪者になってしまう。この前の情報屋の話では、榊原からDVDを預かった男がいて、そいつの部屋を家捜ししたが見つからなかったということだった。その後のことはどうなっている?」
「ええ、情報屋はその男に直接接触してみると言っていました。金が必要なら、こちらが用意する旨、申し伝えておきましたが…。」
「では、本当に、その少女の誘拐とは関係ないんだな。」
「ええ、ただ…」
「ただ何なのだ。」
「実は、情報屋が言うには、榊原の愛人の娘は相当のあばずれとかで、男友達の家に泊まって帰ってこないことも多いのだそうです。その娘を何とかしましょうかと言うので、つまり、旅行にでも連れ出して、その間、榊原に脅しをかけるみたいなことを言いましたので、それは止めておけと釘を刺しておきましたが。」
「おい、本当か、本当にそんなことを言っていたのか。おい、ぐずぐずするな、すぐその情報屋に会って、問い詰めろ、何もしてないってことを確かめるんだ。ぐずぐずするな。」
駒田の怒鳴り声が部屋を揺るがした。石川は追いたてられ、あたふたと部屋を出ていった。ドアの前で最敬礼するいつもの動作さえ忘れている。駒田課長の眉間に寄せられた深い皺に沿って脂汗が一滴流れた。
第十三章
幸子の狂乱は収まりそうになかった。電話口で、榊原は何度も溜息をついては言葉を飲んだ。何を言っても彼女の不安を去らせることは不可能だ。一日くたくたになるほど歩きまわったが、今日も何の手がかりもない。幸子が悲痛な叫び声をあげた。
「あの子に何かあったら、私はどうしたらいいの。かけがえのない娘なの。どうにかして、お願い、夜も眠れないの。貴方は刑事さんなんだし、なんとかして、お願い。」
榊原はこの言葉にむっとなった。刑事物のテレビドラマではあるまいし、手がかりが都合よく飛び込で来るわけはないのだ。榊原も出来るだけのことをしている。まして動いているのは榊原一人である。
洋介失踪と関係があると思い、今日は五反田の笹岡の事務所を訪ねたのだ。MD関連については高嶋がそうとう調べ上げていて笹岡まで辿り着いたのだが、製薬会社から被害届が出ない限り笹岡には手も足も出ない。高嶋の無念そうな顔が思い出された。
笹岡は56歳、固太りの大男だ。白髪で品の良い顔立ちは、どう見ても元ヤクザの親分とは思えない。新橋駅近の雑居ビルに「ケーエスシー」と怪しげな看板をかかげ、若い事務の女性一人を置いている。突然訪ねると今しも出かける直前だったが、
「いえいえ、かまいません。こっちの方はどうせ野暮用だ。それより、桜田門の旦那がお尋ね下さったとあっては、用件を聞いてからじゃねえと、気になって用事どころじゃねえやな。」
と言って、榊原を応接に誘って、事務員に声を掛けた。「節っちゃん、コヒー三つ頼む。」
節っちゃんと呼ばれた女性は週刊誌に目を落としたまま電話に手を伸ばした。1階にある喫茶店に注文するらしい。榊原はソファにどっかりと腰を落とし、いきなり聞いた。
「笹岡さん、上村組の飯島に既に聞いていると思うが、MDを盗んだ青年が姿を消した。そして今度はその恋人が失踪している。これはどういうことなんだ。」
笹岡はにっと笑った。疚しいところがないのか、或は胆力があるのか、どちらともとれた。
「はじめまして、榊原さん、飯島から聞いてるよ、あんたのことは。しかし、飯島も言っていたが、言いがかりもいい加減にしてもらいてえな。MDは戻ったんだ、俺にとって何の被害もねえ。何で今更その若い奴を拉致しなければならねんだ?ましてその恋人まで?冗談じゃねえよ。」
笹岡の声は途中から怒気と恫喝の響きが加わっていたが、事務員は何の反応も示さない。どうやら慣れているらしい。
「しかし、警察としてはそう考えざるを得ない。青年を追った時、飯島はチャカをちらつかせた。本人はモデルガンだと言っているが、俺はそうは思わん。それだけ必死だったってことだ。そうじゃないのか。」
笹岡はまたしても不適な笑みを浮かべた。榊原は警察という言葉を出して脅したのだが、笹岡はびくともしない。榊原は、あくまでも個人として動いているのであり、警察組織は二人の失踪が事件として成立するような情報がない限り動かない。笹岡はその辺の事情にも通じているのだろう。冷ややかな声で言った。
「あんたも警官なら良く知っているだろう。この日本では行方不明者は10万人もいるんだ。そいつにちょっと関わったからといって、そんな嫌疑をかけられたんじゃ、おちおち人と話もできねえ。そうじゃねんえのか。」
ぐだぐだと笹岡の抗議は続いた。こうした男たちを何度も見てきた。この部類の人間は、たとえ証拠を付きつけられても、言い逃れるための嘘を並び立て、警官に食って掛る。証拠も根拠もない榊原は負け犬よろしく席を立つしかなかった。
その後、石田を襲った三人組が住む尾久駅前のマンションに向かった。そこは瀬川と犬山が交代で見張っている。犬山は高嶋から借り受けた警視庁捜査二課の刑事である。高嶋に言わせれば犬山は信頼でき、同郷の誼で時々酒を飲み交わす仲だという。平山二課長に知られることはないと断言した。
駅前を見張るという口実でセブンイレブンの二階の一室を借りているのだが、その時間は瀬川ではなく、犬山が詰めていた。
「どうだ、変わった様子はないか?」
「まったくありません。誰かが出て行けば、後を着けてみるのですが、だいたい飲み屋や雀荘です。三人のうち一人はこのマンションの別室に女房子供がいます。あとの二人はあの部屋に寝起きしていますが、一緒に外に出ることはありません。何でですかね?」
「誰かを押し込めて見張っていると?」
「いえ、そうではありません。ちょっと覗いてみますか?リビングと8畳は丸見えです。そのリビングに接してダイニングがありますが、その背後が6畳の和室、その右隣が4畳半になってます。気になるので二回覗きましたが誰もいませんし、家具もおいていません。」
「そうか、一昔前なら、電話連絡を絶やさぬためとも考えられたが、携帯があるのだからその必要もない。だとしたら、何か大切な物、例えばヤクか何か、ヤバイものが中に隠してあるってことだ。」
「ええ、そんな気がします。いっそ、ご友人に被害届を出させて引っ張ってみたらどうです。何かが出てくる可能性もあります。」
この言葉に榊原は考え込んだ。もし、石田襲撃の目的がDVDの収奪であるとするなら、三人を引っ張っても収穫はたかが知れてる。しかし、洋介、晴美、石田の件が一つに繋がるとすれば、このアジトは榊原にとって唯一の突破口になる可能性がある。
「もうしばら待ってくれ。いずれは考える。」
榊原は、こう言うしかなかった。
笹岡の自信たっぷりな態度が気に掛かった。やはり、MDが絡んでいる可能性も捨て切れなかったのだ。榊原はふと思い出し話題を変えた。
「そう言えば、犬山君は、高嶋方面本部長と親しいみたいだな。」
「ええ、同郷なんです。ふたりとも岩手です。」
「本当か、高嶋さんは訛りがないから、てっきり東京近郊の出だと思っていたが、岩手県人か。」
「ええ、そうなんです。でも、高一の時に東京に越してきたので、ほとんど東京人だと自分では言っています。」
「しかし、高一まで岩手にいたわりには全然訛りがないな。」
「ええ、まったくです。私だってまだ抜けてないですからね。でも、あの人と二人きりのときは郷里の言葉で話すんですけど、何となくほっとするんですよ。」
榊原は山形弁で話す高嶋を想像し、思わず微笑んだ。まるでイメージが合わないからだ。
あの澄まし顔の高嶋がズーズー弁を話すところを見てみたいと思った。後を犬山に任せ、待ち合わせの場所に急いだ。
午後9時、上野駅前の飲み屋で坂本警部と待ち合わせをしていた。厭な奴にしかも厭な時に、呼び出されたものだ。坂本の用件は大体分かっていたからだ。
坂本警部は既に、約束の飲み屋の座敷で日本酒を手酌で飲んでいた。肴はない。榊原が入ってゆくと、相好を崩して杯を置いた。笑うと意外に人懐こい顔である。榊原が声を掛けた。
「随分と洒落た靴が外にあったが、あれはあんたのか。」
「ああ、ウエスタンが好きでな、あれは俺の自慢の一品だ。テキサスで買った。それはそうと、もしかしたら来てくれないと思っていたよ。あんたにとって汚職警官ほど唾棄すべき存在はないからな。良かった、ほっとしたよ。よし、すぐに肴を注文しよう。」
立ちあがって、階下に声を掛けた。
女中がテーブルを整え出てゆくと、坂本はお通しに箸をつけながら言った。
「榊原さん、例のモノを手に入れたらしいね。中身は見たんだろう。」
坂本は杯を傾けると、じっと榊原を見詰めた。
「磯田副署長も、ふざけた真似をしたものだ。相手はヤクザだ。」
榊原のきつい言葉を聞いて、坂本は不服そうに俯いてたが、暫くして顔を上げた。
「だから磯田さんは責任をとって自殺した。」
その噂のことは高嶋から聞いていたが、惚けて答えた。
「自殺だって、脳溢血だと聞いてる。」
「いや、自殺だ。何の証拠もないが私は自殺だと確信している。あの日、磯田さんは二時間も平山署長に責め続けられた。その平山署長から開放されてすぐに帰宅した。そして死んだ。連絡を受けて最初に駆け付けたのは平山署長だ。遺体はすぐに警察病院に移され、死因が特定された。恐らく死因は改竄されたんだ。平山にとってそんなことは容易いことだ。」
「それだけでは自殺だと決め付けるわけにはいかない。」
「確かにその通り、しかし目撃者がいる。」
「奥さんか?」
「まあ、家族だ。私はデカとして磯田さんを心より尊敬もし、親しくお付き合いもさせて頂いた。独身時代から家に呼ばれ晩酌のお相手をしてきたから、奥さんともご長男とも親しい。確かに奥さんは最後まで真実を隠そうとした。」
「では、奥さんではなくご長男が、自殺をほのめかせたんだな。」
「あの無念そうなお顔を拝見して、私は、まさか自殺では…と問いただした。息子さんは目をつぶって首を縦に振った。僅かな動きだった。」
「ご長男さんは、自殺だと言ったわけではない?」
「言わなかったが、頷いた。それで十分だ。」
「……」
「私はねえ、榊原さん、人に何と言われようと気にしない。汚職警官とよばれようとね。私は汚濁にまみれながら上村組を徹底的に洗っている。そして上村の犯罪の証拠も掴みかけている。」
「上村の犯罪だって?二つの殺人以外のか?」
「ああ、でも、今は手のうちを明かしたくない。あんたも分かるだろう、刑事なら。」
「勿論だ、だが、坂本警部、あなたはそれを告発出来るんかい?OL失踪事件も上村の情婦殺害事件もみんなあんたが、もみ消したんじゃないか。」
そう言われて坂本は押し黙った。榊原が静かに言った。
「俺は奥多摩の石井巡査部長に会って来た。」
顔を上げた坂本の顔にふと優しげな微笑が浮かんだ。
「奴はどうしてた。今でもあそこにいるのか?」
元部下が何か秘密を漏らしたかもしれないという疑念も恐れもその顔にはなかった。ただ懐かしそうに目を細めているだけだ。
「石井君は警視庁を去った。もうとっくの昔だ。」
「そうか、辞めたか。それはそれで良いのかもしれない。奴はこの世界には不向きだった。正義感が強すぎたんだ。腐った組織に見切りをつけたんだろう。」
「しかし、そのあんたは、その腐った組織からはみ出して、更に腐って汚れ切っている。そう思われている。まあ、石井君はそんなことは一言も言わなかった。あんたを信頼しきっていたよ。」
「俺は石井君にだけは真意を伝えた。何としても磯田副署長の汚点を世間に晒さないことだ。そのために、上村に接近した。上村に気付かれずにDVDを回収する。そして一気に片を付ける。」
「しかし、DVDはいくらでも複写可能だ。」
「いや、奴は吝嗇だ。金の成る木をそう易々と他人には渡さん。マザーテープは一つ。あの5階の金庫の中だ。これをコピーしている。渡す相手も限られているはずだ。」
「その通り。俺が掴んだ情報では3人だ。それも上村を有能なビジネスマンとして認識している人間ばかり。」
坂本の顔が驚愕に彩られた。じっと榊原を見詰め、ゆっくりと口を開いた。
「ということは、あと一人、もう一本テープがあるってことだ。」
「ほう、さすがに坂本警部だ。既に一本は確保しているわけだね。」
「ああ、顧問弁護士の丸山だ。徹底的に洗って、締め上げてやった。そしたら金庫の奥から厳重に梱包されたテープを出してきやがった。上村にばらせば、弁護士資格剥奪だからな、喋る恐れはない。そっちの方はどうなんだ。」
「大丈夫、上村に洩れることはない、保証する。」
「ところで、もう一人のDVDを預かっている男の情報は、あんたが掴みかけているという上村の犯罪の情報と交換というわけにはいかないか?」
「榊原さんも、なかなか、商売上手だ。いいだろう、教えてやろう。ところで、榊原さん、上村の犯罪は何だと思う?」
と言って、にやりと笑った。暫くの沈黙の後、榊原が答えた。
「ヤクだろう。」
坂本は、緩んだ頬を硬直させ、憮然として頷いた。上村のヤク嫌いは有名な話だ。榊原が上村の犯罪がヤクであると指摘したのは、麻取が動いていることが頭に引っかかっていたからだが、やはり正解だった。坂本が口を開いた。
「ヘロインと覚せい剤。しかも純度が恐ろしく高い。」
ずばり当てられてうろたえ気味であったが、坂本も気をとり直して続けた。
「出所は北朝鮮。この情報を得るのに苦労したよ。俺自身が中毒になっちまった。毒食わば皿までってことだ。」
榊原は、坂本を睨んだまま押し黙った。坂本が上村と刺し違える覚悟であることはその暗い目を通して伝わってくる。上村の弟の主張を覆すために自ら覚せい剤に手を出したのだと言う。その噂が業界に広まるにつれ、上村組長の弟、正敏が心を許した。
「てことは、渋川のOL失踪事件、入院ホステス自殺事件の立証が出来るということだ。俺は継続事件としてそいつを追っていた。まずは、それに決着をつけようじゃないか。」
「榊原さん、俺も最初はそれが目的だった。だから、組長の弟がぼろぼろになった俺を哀れんで最高級品を手渡してくれた時は内心小躍りして喜んだ。だけど、だんだん欲が出てきた。奴はボロも出さずに商売をやっている。不思議に思わないか?」
「ああ、不思議だ。どんな裏があるか、つい探りたくなったというわけだな。よし、俺の情報を少し流すが、上村組に麻取りが動いている。」
「ふふふ、その情報を麻取に流したのは俺だ。内部に食い込んだ俺でさえなかなか核心に迫れない。だから、匿名でサンプルを添えて情報を流した。外が騒がしくなれば内側も騒ぎ出す。」
「なるほど、上手い手だ。それで、内側は?」
二人の含み笑いが低く響く。そこには、互いの腹の探り合いに終止符を打つ頃合だという含みが込められていた。
しかし、容易ならざる事態が事件を包んでいることに、榊原は改めて思い知らされた。DVDをめぐる上村の動き、北朝鮮ルートの覚せい剤、スパイ活動を想起させるMDの事件、漆黒の闇のなかに不気味に何かが横たわっている。
榊原は坂本にすべてを打ち明けようと決心した。洋介や晴美の失踪から、麻取の動き、石田襲撃まで、全てを話すことにしたのである。榊原は、事件の底に蠢く得体の知れないに物に恐怖を抱き始めていた。
この男との出会いがもたらしたものは正に破滅への道だった。その破滅から逃れる為には、男の要求に応えなければならない。男と知り合ったのはほんの1ヶ月前のことだ。
石川警部は石神井の事件を解決した手腕と例の榊原を怒鳴り付けたという度胸を買われ、駒田課長から目を掛けられていた。榊原の不穏な動きが始まって、坂本警部と石川警部が呼ばれ秘密の指令を受けた。しかし、坂本は榊原に常に裏をかかれた。
そんな時、あの男が石川に近づいてきたのだ。いつものバーでグラスを傾けていた。カウンターの席はがら空きだった。にもかかわらず、その男は石川の隣の席に座ろうとしていた。石川の冷ややかな視線に動じる気配はない。
艶のある福福しい顔が前の鏡に映し出された。知った顔ではない。大柄な体をのっそりと動かして小さなストゥールに座ろうとしている。体が触れて石川の肘を押す。石川は鏡に向かって不快感を顕にしたが、男はにやりとしてそれに応えた。
「申し訳ありません。石川警部。」
石川は驚いて男に顔を向けた。その視線をやりすごし、男は柔和な笑顔で再び口を開いた。
「坂本警部やその部下の二人のデカ長さんと、よくかち合うんですよ。でも榊原さんはいつも尾行を振り切っていた。顔を知られた人間が尾行しても、うまくいかないのは道理だ。しかし、デカがデカを尾行しているのを不思議に思いましてね。」
石川は緊張で言葉が出ない。もともと小心者なのだ。男は何食わぬ顔で続ける。
「私は或る人から頼まれて榊原さんの行動を探っている私立探偵です。デカを見張るなんて仕事は初めてですがね。」
男はぺらぺらとよく喋った。石川も漸く落ち付きを取り戻し、刑事であるといういつもの誇りが頭をもたげはじめた。男のお喋りを右手で遮り、口を開いた。
「おい、あんたのやっていることは公務執行妨害に抵触することにもなり兼ねないぞ。」
低いどすの利いた声に満足しながら男を睨み据えた。
「別に公務の邪魔なんてしてませんよ。女性関係を洗っているだけですから。それより面白い情報をさしあげましょう。」
「おい、待て。何で刑事が私立探偵から情報を貰わなければならないんだ。」
「まあまあ、そうかりかりしないで下さいよ。私としてはこんな商売してますから、刑事さんと仲良くやりたいわけですよ。」
こうした成り行きでこの男、猿渡との付き合いが始まったのだ。
石川警部の鼓膜には未だ駒田課長のヒステリックな怒鳴り声が響いている。あたふたと猿渡の事務所に駆け付けると、いつものように、にこにこしながら「節っちゃん、コヒー三つ」と女性事務員に声をかけた。女性は週刊誌に目を落としたまま電話に手を伸ばした。
石川はソファに腰掛けるのももどかしく、息せき切って詰問した。そして猿渡の顔付が妙に歪んでゆくのを呆然と眺めていたのだが、その顔が笑っていると気付くのに数秒かかった。石川はじわりと背筋に恐怖を感じた。
猿渡はゆっくりと胸のポケットからテープレコーダーを出し、スイッチをいれた。テープは石川自身の声だった。
「ああ、駒田課長から頼まれた。何とかしろってことだ。えっ、その不良娘をかどわかすだって。そいつは良い。駒田課長にも了解をとっておこう。その方が良いだろう。兎に角、宜しく頼む。」
強烈な衝撃が石川を襲った。わなわなと両手が震え、怒鳴り声も震えていた。
「ふざけるな。こんなこと喋っていない。貴様、俺を罠に掛けたな。テープを都合よく繋ぎ合わせやがって、貴様、何が目的だ。」
石川の怒鳴り声には泣き声が混じっていた。
第十四章
男達がようやく動き出した。夜遅く、尾久駅前のマンシいションにいる三人が揃って黒いバンに乗って出かけたのだ。瀬川から連絡を受け、榊原は練馬の自宅から車を発し首都高に向かった。
男達は入谷口から首都高に入り暫く走ると、高速湾岸線で浦安方面に向かった。瀬川は距離を空けながら追尾した。午前零時を回っていたが、追尾に気付かれない程度に車は走っている。瀬川は携帯に向かって叫んだ。
「榊原さん。早く追い付いて下さい。例のおんぼろ車なんでしょうけど、アクセル全開でお願いします。」
「分かった、恐らくあと30分で追い付く。今、メーターは150キロ、エンジンが変な唸り声をあげているが、何とか持つだろう。これから坂本にも連絡を入れる。幸い奴さんの自宅は浦安だ。兎に角連絡を絶やすな。分かったな。」
「了解。」
坂本は起きていた。話を聞くと「よしっ」と大きな声をあげ、そして湾岸線で浦安方面と聞いて「やっぱりな」と呟いた。
「おい、そのやっぱりなってのはどういう意味なんだ。」
「榊原、やはりお前の言ったとおり、全てが繋がっているかもしれない。兎に角、瀬川に俺は浦安から乗って、館山のインターで降りて待つと伝えてくれ。それと館山に何時頃到着か俺に電話を掛けるよう言ってくれ。」
「おい、しかし、なんで館山なんだ。」
「お前に打ち明けるのはもう少し調べてからだと言ったことを覚えているだろう。俺は飯島を車で追跡した。しかし、奴のシボレーは軽く200キロは出る。いつも或る地点で見失った。そこが館山なんだ。だから、館山に組に繋がる何かがあるんじゃないかと思って調べていたが、その手がかりが向こうから飛び込んできたってわけだ。」
「つまり、石田を襲った奴等は飯島とも繋がりがある。ということは、DVD、MD、そしてヤク、どれも関連している可能性があるってことだ。」
「そういうことだ。兎に角、今は時間がない。詳しくは落ち合ってからにしよう。」
電話は切られた。館山と聞いてふと、父親の顔が浮かんだが、すぐに振り払った。
榊原は坂本に全てを打ち明けていたが、坂本の方もかなり驚くべき情報を持っていた。それは、覚せい剤の黒幕が上村組長や、弟正敏ではなく、レディースクレジットの専務飯島敏明らしいということであった。
坂本の話はこうだ。麻取が動き出してすぐに反応したのがこの飯島で、組長も弟も尾行に気付いてはいたが、ただうろたえていた。しかし、飯島の動きはにわかに慌しくなり、密かにマークする人間を窺い、すぐに麻取だと見破った。
つまり、麻取の顔に精通していることが怪しいと坂本は言う。彼は裏の世界に入って麻取のメンバーの顔写真が売られているのを知って驚いたものだが、その必要に迫られなければ、その顔を覚えようとは誰も思わない。飯島はそれを頭に叩き込んでいた。
次第に、ぴたりと口をつぐむ上村兄弟に睨みをきかせる飯島という構図が浮かび上がった。僅かな気配でしかない。飯島の兄弟に対する態度は慇懃であるるが、無礼というわけでもない。しかし、確かに組内の雰囲気に微かな変化が立ち上りはじめた。
坂本はその微妙な変化の裏を探ろうとしていた。隠された真実があると踏んで、飯島を張った。その飯島が出口付近になると俄にスピードをあげたのが館山なのだ。石田を襲った男達は飯島に繋がる可能性があるということだ。
榊原は思考を巡らせた。石田が襲われた理由はDVD、MD、両方の可能性がある。では、洋介君と晴美の失踪はどういうことなのか。MDの内容は素人が解読できるものではない。まして、それは盗まれた薬品の製造過程と実験結果の文字の羅列に過ぎない。それが何故、何人もの人間を巻き込んだ、複雑な事件に発展するのか。
ここまでくると、もはや推理の糸はぷっつりと切れてしまう。材料が少な過ぎる。坂本が言うように、麻薬がすべての共通項ということも考えられるが、どこをどう結び付ければ、石田や晴美、そして洋介君の件と繋がるのかさっぱり浮かんでこないのだった。
瀬川に電話を入れたが通話中で繋がらない。坂本とやりとりしているのかもしれない。車は軋みをあげて疾走している。車体はボロボロだが、エンジンはまだまだ使える。瀬川に遅れること30分、ようやく湾岸線に乗った。
そこは海岸沿いに建ち並ぶ倉庫の中だった。積み上げられた麻袋に何が入ってのか分からない。入り口は閉じられており、薄暗い電灯が一角を照らし出している。そこで数人の男達が何やら話している。
一人の男が椅子に座り、両手で顔を覆っている。その後ろには屈強そうな二人の男が銃を構えて立ち、椅子の前にいる太った大柄な男が、拳銃を差し出し男に受け取るように促している。この太った男は例の探偵、猿渡であり、椅子の男は石川警部である。
猿渡は肥えた腹を突き出し、よく響く声を張り上げた。
「いい加減に腹をくくれ。もう逃げられないんだ。こうして榊原の拳銃を持ってのこのこやって来たんじゃねえか。既に手を汚している。もし言う通りやらなければ自分が殺されるんだ。貴様はどっちを選ぶ?」
石川警部は両手を顔から引き離し、すがるような視線を向けた。
「頼む、猿渡さん、何とか見逃してくれ。これからだってどんなことでもやる。君等の言うことは何でも聞く。だからそれだけは勘弁してくれ。仲間を撃つなんて出来るわけがない。」
「ふざけるな。俺達の世界は証人を生かして返すほど甘い世界じゃねえ。お前は殺人者になるか死人になるかのどっちかなんだよ。お前は刑事だろう。危険な世界と隣り合わせで生きて来た。そうだろう?その覚悟があってこの世界にはいったんだろうが。」
泣き声が返ってきた。
「俺は、ただ生活の保証された役人になりたかっただけだ。警官になってからも危険は出来るだけ避けてきた。だからそんな世界とも無縁だった。頼む助けてくれ。」
猿渡は後ろの男たちに顎で合図を送った。後ろの固太りの小柄な男が石川警部の後頭部に銃口をあてがった。石川警部が恐怖に顔を引き攣らせる。猿渡の「よしやれ」と言う声と同時に、悲鳴とも泣き声ともつかない声が響いた。
「分かった、分かったよ、やるよ、やる!」
男達の冷ややかな笑いが響く。
「そうこなくっちゃいけねえ。さあ拳銃を受け取れ。おっと、サランラップの巻いてある所を握るんだ。榊原の指紋を消しちゃあなにもならねえ。しかし、変な気を起こすなよ。銃口は、ずっとお前の背中に標準を合わせてある、いいな。」
石川警部は拳銃をうけとるとよろよろと立ち上がった。猿渡が石川に手順を手短に指示すると、男達は麻袋の闇の中に引き上げてゆく。突如、携帯の呼び出し音、続いて猿渡の声が響く。
「俺だ、おう、そうか、インターを出たんだな。うーむ、尾行は2台か。一台は榊原に違いない。いっぺんに片をつけてやる。」
猿渡が石川警部に向かって怒鳴った。
「おい、10分後だ。石川、手筈は分かっているな……、おい、分かったかと聞いているんだ。」
「はい。」
力なく石川警部が答えた。
石川は背中に視線を感じながらじりじりと待った。奴等の仲間の車が着いて扉が開いた瞬間に途端に駆け出せば逃げられるかもしれない。いや、後ろの男達との距離はせいぜい3メートルだ。やるだけ無駄だろう。
銃を握り締める。じっとりと汗が腋の下を流れる。思考はくるくると空回りしている。殺すしかない。仲間を殺すしかない。殺せば生きられる。生き残ることこそ人生の目的なんだ。俺はそうして生きてきた。これからだって、ずっとそうして生きてやる。
どのくらいの時間が経ったのか分からなかった。タイヤの軋む音が聞こえ、しばらくして扉が開かれた。一人の男が入って来て車を誘導している。石川に気付いて、拳銃を向けた。石川は両手を上げた。男が低い声言った。
「銃口は下に向けておくんだ。危ねえな。」
「はい、すいません。」
「座って、銃は後ろに回しておくんだ。そう言われてなかったか。」
「はい、言われてます。」
「わかりゃあいい。」
車から二人の男が降りてきた。二人とも背広の下にホルスターを着けている。入り口の扉は僅かな隙間を残して閉じられた。男達が闇に消えた。石川警部が呟く。
「榊原さんよ、悪く思うなよ。俺を恨むなよ。お前さんはやり過ぎたんだ。DVDを手に入れたことが上村組長を怒らせたんだ。」
ぶつぶつと独り言が続く。低くせせら笑う声。男達は思いのほか近くに潜んでいる。殺るしかない。
扉には僅かに隙間がある。瀬川は用心深く中を覗いた。外からの光に照らされて一人の男が浮かび上がった。車の左後方2メートルの所だ。瀬川は目をこらし男を見詰めた。向こうもじっとこちらを覗っている。手は後ろで縛られているようだ。
薄暗い光に照らされている男の顔が輪郭を顕にする。瀬川はその知った顔を見て息を呑んだ。何故ここに石川警部が。「ちょっと見て下さい」と言って後ろにいる坂本に確認を促した。坂本の顔が覗いた。その目が大きく見開かれている。
「馬鹿な男達だ。」と低い声で呟いたのは石川警部だ。そして次の瞬間、石川は弱弱しい声で二人に話しかけた。
「大丈夫だ。奴等は奥の管理室に入った。俺もどじったよ。奴等に捕まっちまった。」
惨めで悲惨な自分、それよりももっと惨めで間抜けな二人を見詰めて、漸くいつもの優越感が心を満たしてゆく。俺は生きる。しかし間抜けなお前等は死ぬしかない。扉が開かれ二人が入ってくる。迷いは無かった。生きるには二人を殺すしかない。ぶるぶると後ろにまわした手が震えている。失敗は許されない。
榊原が銃声を聞いたのは倉庫の手前50メートルだ。銃声は四発、続けざま聞こえた。榊原はインターを降りる寸前、スピード違反で捕まってしまったのだ。運悪く警察手帳を忘れてきてしまったため、身分の確認に時間がかかった。
瀬川が倉庫の位置を連絡して来たのはインターを出た時だ。待つように言ったが、二人は聞かなかった。「後から来い。」という坂本のひと声で、榊原は携帯を置いた。倉庫はすぐにみつかった。車を林の小道に入れると、二人の車もそこに隠してある。
銃声を聞いて、瀬川が拳銃を持っていることを思い出した。銃声は瀬川のものである可能性がある。ゆっくりと倉庫に近づいていった。 そして、榊原は靴音を気にしながら忍び寄り、扉の陰に張り付いた。倉庫の扉は開かれている。榊原はゆっくりと首を伸ばし扉から中を覗った。そこに見たものは、つま先を天井に向けた坂本自慢のウエスタンブーツだった。そのブーツがゆっくりと奥に引きずられてゆく。奥から声が聞こえた。
「榊原はどうしたんだ。」
その声に聞き覚えはあるが、気が動転していて思い出せない。榊原は扉を背に、がくがくと膝が震えるのを意識した。
「榊原さんは…」ゴホっゴホっと咳き込む声。その声はまさに瀬川だ。気が遠のくような感覚が後頭部を襲った。血を見て興奮し、荒荒しく息を吐き歩き回る男達の気配。
「榊原さんは来ていない。連絡がつかなかった。」
「もう死ぬんだ。本当のことを言え。」
「死ぬ。俺が死ぬって。そうか、俺は死ぬのか。」
「そうだ、お前は死ぬ。死ぬにしても残酷な死は望まんだろう。この警部さんの銃はお前の顔をこなごなにする。そうなりたくなければ、榊原のことを喋れ。」
「そう、俺は殉職する。男として名誉ある死だ。お前とは違う。」
瀬川は最後の声を振り絞った。
「この裏切り者め、地獄に落ちろ。」
バンという音とともに瀬川の声は途切れた。リーダーらしき男の声が
「おい、腰を探ってみろ。その刑事は拳銃を持っているはずだ。おい、気を付けろ。指紋は消すんじゃねえぞ。その拳銃で榊原を撃ち殺す。そうすれば榊原がこの二人のデカと互いに撃ち合って死んだことになる。時間がない。おい、早くしろ、榊原をここまで連れてきて横たえるまで仕事は終わっちゃあいねえ。」
猿渡が振り返り、石川に声を掛けた。
「おい、警部さんよ、よくやった。お前の命は助けてやる。しかし、驚いたな。普通はなかなか顔は撃てないもんだがな。」
と言って、石川の背をばんと叩いた。そして、吼えた。
「野郎ども、榊原は家にいるか、或いは近くまで来てるかもしれねえ。そのつもりで奴を探し出すんだ。」
慌しく動き回る男達を尻目に、石川警部は、ふと右手に握る拳銃に視線を落とした。先ほどまでの手の震えはおさまっている。そして、その先に転がっている血だらけの死体をまるで物を見るように見詰める自分を意識した。
榊原は逃げた。這うようにして逃げた。逃げるしかないと思った。瀬川の砕けた顔が、坂本の無念の顔が浮かんでは消えた。瀬川ーっと心の中で叫んだ。貴様は勇気ある男だった。お前の最後の言葉を忘れない。お前の最後を奥さんに伝える。子供にも伝える。涙が頬を伝う。
膝ががくがくして上手く走れない。我ながら情けないと思いながら必死で逃げた。方向を見失っていた。いきなり強い衝撃が襲った。体が後ろに仰け反った。気が付くと鉄条網が胸に食い込んでいる。用心しながら鉄条網をはずし、立ちあがるとまた走り出した。
自分の車とは反対方向だった。倉庫の扉の死角を選び、暗がりを選んで走った。少し高台になった地点で、倉庫を振り返る。男が7人、倉庫から出てきて3台の車に分乗するのが見えた。榊原は携帯を取りだし、自宅に電話を入れた。なかなかでない。ふと思いたって携帯を切った。
奴等は何もかもお見通しだった。尾久駅前のマンションの男達は明らかに榊原達をおびき寄せることが目的だった。瀬川、坂本、榊原の三人を一人残らず消すつもりだったのだ。リーダ格の男は、瀬川を撃った男を「警部」と呼びかけていた。その警部が手引きしたのだ。
しかし、底知れぬ一連の事件の深い闇を覗き込んだ今となっては、榊原は用心深くならざるを得なかった。ふと、かつての疑問が浮かび上がったのだ。「モンスターは何故洋介君の携帯番号を知り得たたのか」という疑問である。奴等は想像以上に巨大な組織なのかもしれない。この携帯だって危ないと思ったのだ。
さ迷うように暗がりを走り、林を幾つも抜けて国道に出た。100メートル先にセブンイレブンが見えた。心臓が破れそうだったが、必死で走った。そこに公衆電話があるはずだ。そこから電話すれば大丈夫だろう。
女房の声が受話器を通して聞こえたのは、呼び出し音を数えて12回目の時だ。
「おい、子供を連れてそこを出ろ。いいか、男達がそちらに向かった。」
「男達って誰なの。あなたいったい何を言っているの。」
「今は何も言えない。俺自身がこれからどうなるのかも分からない。事件に巻き込まれた。これからそちらに男達が向かう。俺を捕まえるためだ。お前や子供に危害が加わるかもしれない。兎に角そこを出るんだ。」
「分かったわ、あなた。すぐに出る。」
「いいか、よく聞け。俺は犯罪者になるかもしれない。だけど、俺は何もしていない。俺の無実を信じていてくれ。」
「それってどういうこと。あなた、もう少し詳しく話して。」
「今はその暇はない。とにかくそこを出ろ。いいか出るんだ。」
「分かった。あなたの携帯にいずれ電話する。いい、それでいいでしょう。」
「待て、携帯は盗聴されてる可能性がある。兎に角、心配するな、しばらく実家に帰っていろ、いいな。」
電話が済むと、今度は110番通報して殺人のあったこと、そしてその死体の所在、犯人達が3台の車で高速に乗って東京に向かったことを告げて電話を切った。そして、憂鬱な思いで、もう一度、携帯のボタンを押した。背に腹は変えられなかったのだ
それからおよそ5時間後、時ならぬ警察官殺人事件にざわめく館山警察署に一本の電話が寄せられた。
「名前だって、冗談じゃねえよ、厭だよ、言いたかねえ。何だったらこのまま切ってもいいんだぜ。どうする。…そうそう、最初からそう言えばいいんだ。いいか、俺は見たんだ。男が倉庫から出てくるのを。乗ってきた車はそこに置いたまま、泡食って駆けていった。あそこから東に行ったところに雑木林があっただろう。そうだ。倉庫から50メートルのところだ。奴は、あそこに何かを投げ捨てた。恐らく凶器じゃねえかな。俺はちょうどそのそばで車を止めて横になってたんだ。さあ、国民としての義務は果たしたからな。せいぜい頑張って犯人をつかまえろよ。それじゃな。」
第十五章
金属を擦りあわせるような不快な音で目覚めた。続けざまにざくっざくっという音がして、それに混じってその耳障りな擦過音が響いている。ぼんやりと辺りを見まわした。この牢屋に閉じ込められて幾日たったのか判然としなくなっている。
牢屋に明り取りの窓はなく、夜の食事が終わると電気は消され、暗闇の世界が訪れる。食事は日に二回、ずんぐりした男が運んで来た。こわごわ声をかけてみたことはあるが、男は細い目を更に細くさせて睨むだけで、会話は成り立たたない。
澱んだ空気はべったりと素肌にまとわりついている。額の汗を手の甲で拭うと、耳を澄ませた。不快な音は未だ続いている。
あの男は、時々階下に下りて来て、なにやら作業をする。金属の棒のようなものを溶接したり、木片を組み立て釘打ちしたりしている。昨日も出来あがった縦長の木箱を見下ろし、満足そうに頷いていた。
「何を作っているの。」
恐る恐る尋ねてみた。男はゆっくりと振り向くと、虚ろな笑みを浮かべた。一瞬、背中のあたりでぞくっとするような悪寒が走ったが、男が始めてみせた笑みに、少しでも情報が得られるかも知れないという淡い期待を抱いて、幾分甘えるような声で言った。
「ねえ、何を作っているの。教えてくれたっていいじゃない。」
「見りゃわかるだろう。俺の棺桶さ。そろそろお迎えが来そうな気がするんでな。」
男は薄気味悪い笑みを浮かべて言い放ったものだ。
昨夜、晴美は男の言った棺桶という言葉を何度も反芻した。あの棺桶は自分のためのものなのかもしれないと思うと、指先が小刻みに震えて食事も喉に通らなかった。晴美はベッドから降りると恐る恐るドアに近づいた。男はいったい何の作業をしているのか、恐ろしかったが見ずにはいられない。
窓からそっと覗いた。男の後姿が見えた。腰を上げて、男の手元をみた。さらに木箱の中を。次の瞬間、
「ぎゃー」
という絶叫が狭い空間に響き渡った。晴美は牢屋の鉄格子を両手で握りしめ、真っ白になった脳の内側を見詰めていた。絶望と恐怖が呼吸のたびに波のように押し寄せ、息を吸いそして絶叫する、それを何度も繰り返していた。
意識はなかった。それを目にした時から、意識を失っていたのだ。この世の地獄を一瞬垣間見た。そこから逃れるには気を失うという行為以外何が出来た出あろう。絶叫は意識の外で起こったことであり、晴美の意識は虚空をさ迷っていた。
そこに何かが入り込む。晴海は一瞬それを感じたが、すぐに意識は遠のいた。そしてその何かが行動を起こした。それはある種の振動である。それは始め小さかったが晴海の絶叫にともない次第に大きな振動となって部屋中に木魂した。
その振動は時空を超え、この世に不思議をもたす。現実に二つの作用を及ぼしたのだ。不思議はそれを信じる者にのみ感知され、信ぜざる者には、それは電子的な雑音としか聞こえなかったはずだ。さらに、コンピュータチップに僅かな誤作動を生じさせたのである。
晴美の絶叫は間断なく続く。男はちらりと振り向いて、煩そうに眉をひそめたが、ため息をつくと作業を続けた。木箱に横たえられた洋介の体は微動だにしない。かつての精悍な顔は頬がこけ、真っ青な表情はまるで別人のようだったが、それはまさしく晴美の愛した男の変わり果てた姿だった。その体の上に、男はセメントを流し込んでいた。
険悪な雰囲気が、だだっ広い会議室を支配していた。氏家部長は憮然としたその表情で、自分を言いくるめようとする石田に決して甘い顔をしないという意思を顕わにしている。自分では手に負えないと思ったらしく、青戸専務を引っ張り出してきていた。
青戸は石田の早稲田の先輩で、アルバイトから本採用になる時、何かと便宜を図ってくれた恩人だ。その青戸がその鼻眼鏡を直しながら石田にその真意を質した。
「で、何でなの、休職だってのは?今度は本格的に腰を据えて奥さんを探そうってわけ?」
「いえ、今度は娘です。」
「えっ、今度は娘さんに何かあったわけ?まさか奥さんの所を家出したなんて言うの?でも、このあいだ幼稚園にあがったばかりだったろう。いくらなんでも、それは…」
青戸は目を白黒させて絶句した。
「いえ、違います。まして、娘というのは前妻の娘です。」
「そうそう思い出した。確か君はバツイチだったな。娘さんがいたんだっけか?」
「はい、その娘が誘拐されたんです。いても立ってもいられません。」
これを聞いて氏家部長は目をまん丸にして声を張り上げた。
「誘拐だって。石田君、さっきはそんなことは言わなかったろう。しかし、女房が家出して、今度は前の奥さんの娘が誘拐されただって。いったい君はどんな運命を背負っているんだ。」
氏家が言った運命という言葉を聞いて、一瞬、石田が切れた。
「部長。20年前、新潟の柏崎で高一の少女が陵辱され死体で発見された事件を覚えていますか?当然、氏家部長は、そんな昔の事件など覚えているわけはないでしょうが、私ははっきりと覚えています。何故なら私はその被害者の兄です。」
石田の目には僅かに涙が滲んでいる。ぽっかりと口を開けて、氏家が石田を見詰めた。青戸は押し黙って、上目遣いに石田を見ながら何度も頷いていた。と、その口が開かれた。
「君は、僕達と何か違う性質を持っている。それが何なのかは分からなかったが、今分かったような気がする。時々、議論をしている君を見ていて怖いと思うことがある。切れはあるが議論がきつ過ぎる。相手をとことん追い詰めてしまう。」
ここで言葉を切って、暫く言葉を探していたようだが、こほんと咳をして続けた。
「まあ、そのことはともかく、僕は君の才能を買っている。いずれ戻って来るというなら、休職を認めよう。好きなだけ休んでいい。」
「有難うごじます。」
石田は深深と頭を下げた。思わず涙が滲んだ。氏家はまだだらしなく口を開けたままだ。暫くして仕事のことを思い出し、慌てて言った。
「青戸専務、東芝電鉄の仕事はどうなるんです?」
青戸がぴしゃりと言った。
「後は、君が引継ぎなさい。打ち合わせに最初から出ているのは君だけだろう。」
「宜しくお願いします。」
こう言って石田は席を立った。
その日は一日、氏家を交え部員達と打ち合せをした。その間にも、石田の頭にあの声がよみがえり胸を締め付けた。ぞくぞくとする恐怖と懐かしさ。涙が滲む。何とかしなければならない。焦燥が体中を駆け巡る。あれは、正に死んだ妹、和代の声だった。
「仁、助けて、仁、お願い助けて。」
これを二度繰り返した。その切ない必死の声が耳に残っている。石田は即座に理解した。晴美の中の和代が呼んでいる。和代は晴美の危急を知らせてきた。電話が切れ液晶画面を食い入るように見詰めた。そこには「非通知設定」という文字が表示されていた。
居ても立ってもいられなかった、何度も榊原の携帯に電話した。榊原しか頼れる人間は考えられなかったのだ。あの事件が報じられて一週間ほど経っている。榊原は二人の刑事を殺した犯人として全国指名手配されていた。倉庫から50メートル離れた雑木林で榊原の指紋付の拳銃が発見されたのだ。
しかし、指名手配されてはいたが、榊原は間違い無く晴美の見方であり、晴海の行方を追っていたのだ。携帯に出るとは思えなかったが、何らかの反応が返ってくると確信していた。そしてついにその榊原からメールが入ったのだ。メールにはこうあった。
「俺は嵌められた。お前の助けがいる。お前の携帯は使うな。新たな携帯を確保しろ。俺の電話番号とアドレスを送る。もしかしたら、今回の事件は晴美さん誘拐にも関係しているかもしれない。連絡を待つ。」
まさか榊原のメッセージが、晴美の失踪について触れているとは思いもしなかった。心が震えた。やはり和代が知らせてくれたのだ。晴美は絶対に無事だと思った。和代が守ってくれている。何の疑問も無くそう信じた。
男は川口のビジネスホテルでウイスキーを流し込んでいた。ここに篭って二週間以上になる。酔うことでしか恐怖から逃れることは出来ない。とうとう裏切りが露見した。恐怖に耐え、神経を研ぎ澄ませてきたが、4年も生き延びられたことの方が奇跡なのだ。
かつて、その信念は揺るぎないものだった。世界同時革命の前衛という幻影を追いかけた。大学時代にオルグされ組織に入った。組織は非合法であったが迷いはなかった。世界同時革命という言葉は、若者の心を陶酔させる響きを持っていた。
妻の連れ子の晴美が、柏崎で殺されたあの少女の姪だと知らされても、まだ心に余裕があった。むしろ不思議な縁を感じたし、彼女を思い出す度に心の中で手を合わせてきたことがその縁を運んできたのではないかと思った。
まして革命家に感情や情緒は不要だった。妻の財産を革命資金に回すことも使命だと感じていた。晴美に後ろめたさを感じたのは最初だけだった。晴美も自分になついた。そして小野寺は心から晴美を愛したのだ。
しかし、早熟な晴美が少女から娘に脱皮しようとする頃、その瞳に現れた輝きに恐怖を抱いた。その輝きは和代が発していたものと見まごうばかりだった。顔を合わせるのが怖くなった。その瞳に見据えられると、居ても立ってもいられなかった。
思い出させるのだ。怯えながら救いを求めて振り向いた少女の顔、すがるような瞳。小野寺は、少女の瞳の輝きが消えてゆくのをただ見守るしかなかった。耐え難い現実ではあったが、まだ世界同時革命という標語は色褪せてはいなかった。
何故なら。どんなに崇高な使命を帯びた革命家も、目的成就のために仲間の理不尽な行為に目をつむるしかなかったという現実を知っていたからだ。人間は感情の動物である。その理不尽な感情を制御するのは革命思想ではなく、持って生まれた個々人の人間性、理性なのだから。崇高な政治目標達成こそが革命家に求められると信じた。
しかし、ある時、晴美がすがるような視線を向け話しかけてきた。以前のような父親との交流を取り戻そうという気持だったのだろう。そのすがるような視線は囚われの少女が見せたものと寸分違わなかった。その瞳に死者の視線を感じたのだ。そのとき、冷血な革命家を装う男の情緒の綻びが一気に裂かれた。
そんな心の隙に韓国のエージェントが入り込んできた。いつも寄る小料理屋の常連だった。医療機器会社の社長だと聞いていた。笑顔を絶やすことのない丸顔が印象的な男だ。きっかけは店に置いてあるテレビから流れた北朝鮮の拉致疑惑だった。
「もしこれが本当なら、酷いことをするもんだ。」
時々隣り合わせに座る男が呟いた。小野寺はスパイであることを忘れ、反論した。勿論、穏やかな笑みを浮かべることは忘れない。日本人は憎いが、日本人と偽って生きていたからだ。
「でも、日本人だって戦時中、同じように朝鮮人に酷いことをしたようですよ。まあ、こっちにも拳を振り上げられない弱みはありますよ。」
男はいきなりいつもの柔和な顔をかなぐり捨て、絞るような声を発した。
「どっちだって?えっ、貴様はどっち側だと言ったんだ?」
冷たく鋭い視線が小野寺の両目を貫いた。一瞬、言葉を失った。男は低い声で続けた。
「こっちじゃないだろう。お前があっち側だってことは先刻承知しているのさ。しかし、いつまでも泳がせている訳にもいかん。そうそう、お宅には可愛いお嬢さんが二人もいたな。特に上のお嬢さんの行動は目に余る。見ていてひやひやするよ。」
ひやりとする感覚と同時に、かっと血が頭に登った。
「それはどういう意味です。」
「別に。」
思わず男の胸倉を掴んだが動じる気配はない。にやにやして答えた。
「最近、お嬢さんに彼氏ができただろう。ノボルっていう奴だ。あれは俺の命令は何でも聞く。お嬢さんをバイクから蹴落とすぐらい平気だ。」
小野寺は呆然と男の薄い唇の動きを見ていた。戦慄が体を震わせた。思わず手を離した。
男は、二人を心配そうに見詰めるお上に、何もなかったように声を掛けた。
「お上さん、お勘定。」
これがダブルスパイになる最初のきっかけだった。小野寺は、その夜、男の最後の言葉が脳裏に蘇り一睡も出来なかった。翌日も店に顔を出した。今度こそ守り切ってみせる。晴美を守り切る。そう決意していた。
果して、男は奥の小上がりのテーブルでにこにこして手招きしていた。しかし男の目は笑ってなんかいない。かくかくと震える脚を一歩前に踏み出したのだ。
エアーコンディショナーは鋭い冷気を送ってくる。上半身裸だが、体はアルコールでほてっている。しかし、時として恐怖が背筋を走って寒気を催した。ぶるぶると震えて膝を抱え込んだ。あの男、韓国のエージェントの岡山も殺された。
洋介の失踪は知っていた。晴海の携帯を盗聴していたからだ。すぐさま岡山に相談した。すると岡山は金を要求してきた。洋介の情報を得るため、北のスパイと分かっている男を一人潰すのだからそれを金で保証しろと言う。
つまり、泳がせれば情報はいくらでも取れる。それを捕らえて口を割るらせ、万が一殺すこともあり得る。その損失を金で購えというのだ。まさに正論だった。岡山から電話が入ったのは支払いを済ませてから一週間後だ。
「どうする、お前も見に来るか。まあ、無理にとは言わん。あの時みたいにゲロ吐かれても堪らんからな。しかし、モンスターとは大きく出たな。しかし、二重スパイらしい偽名だ、誉めてやるよ。」
小野寺は全てを飲み込んだ。潰された男は自分と洋介とのやり取りを何もかも知っていたと言う。岡山は続けた。
「しかし事態は、お前さんの想像を超えている。仲間の情報では、お前さんの娘さんが拉致された。ってことは、つまりお前が二重スパイだってことはばれているってことだ。つい昨日のことだ。残念ながら、俺の仲間は娘さんが乗せられた車を追跡したが撒かれた。お前も見張られていることは確かだ。」
「晴美が、さらわれた。まさか、そんな。」
小野寺は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けて絶句した。電話の声は続く。
「娘さんのことより自分の心配をしろ。そのマンションから夜中に抜け出せ。絶対に見つかるなよ。落ち合うのは7番だ。明日の午後7時、いいな。」
彼等は都内に恐らく20箇所以上の秘密の隠れ家を持っている。7番とは葛飾区のマンションのことだ。何度か使ったことがある。小野寺は部屋のスイッチを切り、窓から階下を見た。怪しい影は見えない。だが、安心は出来ないのだ。
「そうそう、言い忘れていたが、洋介君は既に殺されたようだ。逃げ出そうとしてところをナイフで刺されたらしい。馬鹿な真似をしたものだ。兎に角、会おう。娘さんを助け出す算段をするのか、それとも高飛びするか、お前次第だ。手は貸す。」
これが岡山との最後の会話になった。
小野寺は7番のマンションで岡山の死体と遭遇することになった。惨たらしい死に様だった。小野寺はここでも吐いた。しかし、死体はまだ温かい。唇を拭うと拳銃を構えた。殺し屋がまだ潜んでいる気がしたのだ。恐怖は頂点に達した。
マンションの構造はよく知っていた。隠れる場所はそう多くははい。小野寺はバスルームに4発、クローゼットに4発、それぞれのドアに撃ち込んで、素早くカートリッジを入れ替えた。銃声など気にならなかった。恐怖が先だった。
銃を構えながらクローゼットのドアを開くが誰も居ない。恐る恐るバスルームに向かうと、見知らぬ男の死体が転がっていた。撃つ順番が逆だったら死んだのは小野寺の方だ。じっとりと冷や汗が額を伝う。近所が騒ぎ出す気配がした。警察には既に通報されているだろう。小野寺は部屋から逃げ出した。
洋介は、モンスターの正体を特定すために拉致されたのだ。モニターされた組織の人間達の声からモンスターを割り出すためだ。モンスターの声を知っているのは洋介だけだったからだ。モンスターとは小野寺のことだ。二重スパイが露見したのだ。
いや、もしかしたら、あれもばれているのか?いや、そんなことはない。あれを持っていることを知っているのは、俺だけなのだから。これは最後の、本当に逃げ道がなくなったときの切り札だ。いや、上手く行けば金を手にすることも出来るかもしれない。
危なくなったらヨーロッパに高飛びするつもりだった。パスポートも用意していた。しかし、まさか晴美を人質にとるとは思いもしなかった。生き延びるには晴美を見捨てるしかないのか。死の恐怖が小野寺の心を支配しており、思考はぐるぐると空回りをしている。
しかし、高飛びするとしても既に遅いのかもしれない。恐らく空港と言う空港に網が張られているはずだ。どこからともなく沸いてくるスパイ。まさにスパイ天国の国。各国のスパイが好き勝手に暗躍している。それを取締る法律さえない。
会社で営業として二年前に採用した安部は本部から派遣された本格的なスパイだった。本部といってもはっきりとした輪郭をもった存在ではない。小野寺のような生え抜きの在日朝鮮人スパイでも、突如としてもたらされる指令で、その仕事の一端に触れるだけだ。
その指令は、まるで像の尻尾をつまむようなもので、全体像は掴みかねた。しかし、時として、あの事件の一翼を担ったと思いあたることはある。その本部の安部はMDを入手するために働いていた。当然、小野寺はその手足になって動かざるを得なかった。
本部の人間と一緒にいることは小野寺に極度の緊張を強いた。しかたなく韓国エージェントの岡山と相談し、偽のMDを安部に握らせることにしたのだ。小野寺は安部に、不審なMDが裏社会に出回っていて、その暗号を解きさえすれば大金に化けるという与太話を耳打ちした。
安部はその話に乗った。岡山の用意した偽のMDを一瞬迷った挙句、本物のMDにすりかえた。何故そうしたのか、小野寺自身にも分からなかった。僅かばかり残っていた忠誠心か、或いは悪戯心がそうさせたのか、判然とはしない。いずれにせよ、その解読には俺の握っているあれがなければ不可能なのだ。
かつての革命の戦士が、単なるスパイに身を持ち崩し、あろうことかダブルスパイにまで堕落している。そして、今、自らの命惜しさに、娘を見捨てようとしているのだ。小野寺ははたと気付いた。あの事件だ。20年前の柏崎の事件が、今の全ての始まりだったのだ。小野寺は同じ過ちを犯そうとしていた。
石田は、深夜、リック一つでマンションから姿を消した。榊原の指示はいちいちうるさいと思ったが、先達の助言に従った。都内のビジネスホテルに一泊し、翌日の夕刻、行徳の健康ランドに向かった。駐車場にお目当てのキャンピングカーが見えた。
そう大きくはない。せいぜい四トン車程度の改造車だ。とはいえ、男三人は楽に横になることは出きる。車のドアを指示通り三つ、続いて二つ叩く。
ドアが開かれ、中から榊原が顔を出した。少しやつれていた。石田が思わず言った。
「元気そうじゃないか。」
「元気なわけないだろう。兎に角上がれ。夕飯はすませたのか。」
車の中は畳を三枚ほど連ねた広さで、一方の壁にベッドが上下二段くくり付けてある。後ろは簡単なキッチンと冷蔵庫、その前にテーブルがありその上にノートパソコンが置かれている。
「これで連絡してきたわけだ。」
「ああ、親父のだ。」
「この車は親父さんのか。」
「ああ、この車で全国を渡り歩いている。一人身の身軽さってやつさ。事件に巻き込まれた時、たまたま近くにいたんで助けてもらった。今は、風呂に行っている。」
「いったい何があったんだ。」
「ああ、まず、その辺から話すとしよう。」
榊原は全てを話した。時折、時系列を遡り、紆余曲折に陥りながらも考え考え整理して語った。石田は話を何度も頭の中で反芻した。しかし、全体像は浮かんでこない。まして自分、晴海、そして洋介君の誘拐に至る原因が思い付かない。
「その仲間を殺した警部って奴に心当たりはあるのか。」
「いや全く分からない。そいつが俺の指紋つきの拳銃を持ち出した。身内にスパイがいたってわけだ。何もかもお見通しだったのも頷ける。瀬川とコンビを組んで、尾久のマンションを張った犬山は二課所属だ。てことは二課の警部ってこともありえる。しかし…、」
榊原は宙を睨んで思い悩んでいる。
「どうも、思い付かん。仲間を殺すような奴は想像を絶する。そうそう、親父が探ってきたんだが、尾久のマンションの男達は消えていた。」
突然ドアが開いた。びくっとする榊原をせせら笑い、てかてかの丸坊主男がにゅーっとその大柄な体を現した。石田に目配せして野太い声を発した。
「おう、おう、石田さんか。息子がいろいろとお世話になります。まして、全国使命手配中の友人に手を貸してくださるとは、本当に感謝します。おい、成人、酒をお出ししろ。石田さん、ビール、それともお酒、焼酎もあるよ。おい、成人。」
「分かったよ、そのでっかい声、何とかならないのかよ。俺は追われているんだ。成人、成人って怒鳴るなよ。」
「おい、石田さん、聞いたか、こいつは、泰然としている振りをしているが、本当は小心なんだ。だから逃げ出したんだ。棍棒でもなんでも持って殴り込むべきだった。」
「うるせえー、糞爺が、黙っていろ。相手は7人、ぜんぶチャカをもっていた。棍棒で相手になるわけねえだろう。」
親父は耳に小指を入れて掻きまわしている。分厚い下唇を突き出して、石田にウインクした。石田が思わず口を開いた。
「まあ、とにかく、何処で人が聞いているか分かりません。どっちにしろ静かに話しましょう。」
にこにこしながら親父が石田に話しかけた。
「こいつが小学校からやっていた柔道をやめて、何故大学で日本拳法に走ったかわかるかね。」
「いえ。」
「実はね、へへへ、俺に勝てなかったからだ。柔道で勝てなくて、今度は殴り合いで勝とうとしたんだ。だけど、それも駄目。こいつが大学二年の時だ。」
自慢そうに頷く父親を見上げると、榊原は腐った顔でぷいと横を向いて何か呟いた。糞親父と言っているようだ。父親はこの辺が潮時とみて、さて、と言って、石田のグラスにウイスキーを注いだ。それを一気に空け、石田が唐突に言葉を発した。
「実は、晴美から電話があった。」
二人は寸分違わぬ驚きの顔を石田に向けた。まるで双子のような似たもの親子である。榊原の額は学生時代より3~4センチ後退している。50代にはどうなっていることやら。
「何だって。」
同時に同じ反応が返ってきた。
「仁、助けて。仁、お願い助けて。これを二回繰り返し、電話は切れた。非通知設定だった。彼女の携帯じゃない。隙をみて誰かの携帯でかけてきたんだ。その誰かを確かめたい。」
すぐに反応したのは親父の方だ。
「よし、それは俺が引きうけよう。何とかなるはずだ。石田君の携帯の番号を後で教えてくれ。よし、今日も出かけるぞ。都内で泊まりだ。そうだ、成人、明日の夕方は都内の健康ランドに移動しとけ、いいな。場所は着いたら電話をくれればいい。」
「親父、また健康ランドかよ。こういう所は、警察が真っ先に手配書を回す。だから俺は正面から中には入れない。露天風呂に忍び込むのも大変なんだ。いっそのこと観光地のホテルに泊まった方が安全じゃないかな。」
「駄目だ。お前は警官殺しで追われている。奴等も必死だ。泊まるならここが一番安全なんだ。そうだ、お前は例の二課の犬山を捕まえに行くって言っていたな。だったら車の移動は石田君にまかせよう。どうだ石田君。」
「ええ、大丈夫です。江東区にいい健康ランドがあります。名前は忘れましたが。着いたらお二人に連絡します。」
石田は本当のことを言えなかった。死んだ妹が電話を掛けてきたなどと言えば、狂人扱いされてしまう。常識人であればあるほど世の不思議を無視するか、遠ざけようとする。理解の範囲以内で理性を働かせようとする。
しかし、この世には理性で割り切れない事柄がいくらでもあるのだ。科学信奉者は科学的に説明出来ない事柄を退ける。それはこの世のありとあらゆる事象を現代科学が到達しえた知識内に縛ろうとするものだ。
現代科学は百年前に比べれば飛躍的な進歩を遂げたかもしれないが、千年後の未来の人類にとって、現代科学は我々が中世のそれを連想する程度の貧弱な科学に過ぎないのだ。いずれ霊的な分野にも、科学のメスが入れられ、その全貌とまではいかないまでも、その周辺が解明される日が来るはずである。
第十六章
男は暗闇で声をかけられ、一瞬たじろいた。榊原はサングラスをかけている。太い眉を毛抜きで抜いて細く切り揃え顔を変えた。サングラスはその容貌を隠すためだ。男は眼を凝らしじっと見詰めていたが、その風貌から相手が榊原と分かって顔をこわばらせた。
「榊原警部補。」
と言ったきり固まった。
「どうする、犬山君。ワシを逮捕するかね。」
犬山は顔を引きつらせ、何か言おうしたが思うように口が回らない。大卒、27歳、巡査部長だ。最近、小心な警察官が多くなってきたが、犬山もそうした警官のひとりだ。犬山がやっとの思いで声を発した。
「榊原さんの事件は、何かの間違いだと思っています。」
「そう、何かの間違いだ。あの日、例のマンションの男達が動いた。君が休んだ日だ。瀬川は後を追った。ワシも坂本警部に連絡して追跡に加わった。」
ここまで言って、榊原はポケットをまさぐり煙草を取り出すと火をつけた。
「それで、どうなったんです。」
「ワシのおんぼろ車では二人に追いつけず、それが災いした。先に倉庫に着いた二人は敵に遭遇し殺されてしまったんだ。ワシはその直後に現場に到着した。そして、そこには妙な男がいた。残念ながら、ワシは声も聞いていないし、姿もみていない。しかし…」
「しかし、何なんですか?」
「男達に警部って呼ばれていた。」
「何ですって!」
「その後、すぐに千葉県警に知らせてた。恐らく検問が敷かれたはずだが、それに引っかからなかった。手の内を知っているその警部が先導して検問を逃れたのかもしれない。ところで、君は高嶋方面部長以外に任務のことを誰かに漏らしたか。」
「いいえ、高嶋方面部長から秘密の任務だと聞いていましたから。ただ、」
「ただ、何だ。」
「警視庁内部で変な動きは感じていました。つまり、その、何て言うか、榊原警部補を取り巻く変な噂が流れていましたから。そんな中、高嶋方面部長から極秘で榊原さんと瀬川さんに合流するよう指示をうけました。でも、もしかしたらそれが漏れていたんじゃないかと思うんです。」
「つまり二課の誰かが知っていたと?」
「いえ、課内とは限りません。警視庁内部という意味です。ふと視線を感じることがありました。だから、尾久駅前のセブンイレブンに行く時、付けられたんじゃないかと思ったことがあります。」
「確かにその通りだ。でなければその警部が俺達に罠を仕掛けることなど出来ない。」
「ええ、そうとしか考えられません。我々は裏をかかれたんです。尾久でも見張られていたように思います。勘でしかありませんが。」
「そうか、いずれにせよ、もう後の祭りだ。ところで、犬山君にお願いしたいことがある。ワシの拳銃を持ち出した奴がいる。そいつが、男達から警部と呼ばれた男だ。ワシを罠に嵌めた奴だ。そいつは間違いなく警視庁内部にいる。」
「それを調べろというわけですね。分かりました。」
「ワシはその日、非番で家にいた。持ち出せるわけはない。だからそいつを特定出来ればワシの容疑も晴れる。12日か13日に例の金庫に入った奴の名前を知りたい。そいつはワシの拳銃と弾の保管場所の周辺に指紋を残しているかもしれない。」
「分かりました。やってみます。」
榊原は随分と迷って犬山に決めた。父親は警視庁関係者との接触は危険だと言う。しかし、自分の無実を証明しなければならない。最初は高嶋方面部長を考えたのだが、彼の立場上榊原と接触があったことを秘密にしておくことは難しい。犬山であれば秘密は保たれると判断したのだ。
江東区の健康ランドに移って二日目、三人は昼過ぎ近くに目覚めた。コヒーをいれながら、親父さんが昨日までの調査の詳細を語った。手に入れた石田の携帯の通話記録を見詰め、何度も首をひねっている。
「いったい、これはどういうことなんだ。」
三人はじっと、通話記録の日付に見入った。
「昭和57年7月18日、ってことは…ワシが50代前半の頃だ。つまりおおよそ18~9年前に掛けられたってことになる。まあ、コンピュ-ターの誤作動か何かに違いないのだろうけど、IT時代にもこういうことがあるわけか。」
「いや、IT時代だからこそ、こういうことが起こるんだ。」
榊原親子の会話はそこで途切れた。しかし、黙って、食い入るように見詰める石田には、それは忘れようにも忘れられない日付だった。その日付はまさに妹が殺された日なのだ。石田がぽつりと言った。
「いや、18~9年前ではない。ちょうど20年前になる。」
榊原がすぐに反応した。
「そうか、しかし、不思議なこともあるものだな。20年前と言えば、俺達が出会った頃頃だ。」
榊原はふっと何かを思い出したらしく、一瞬顔を曇らせた。そう、榊原はこれまでも石田の妹の死について一言も触れることはなかった。石田がそのことを打ち明けた時でさえ、無言で、石田の肩に手を添えただけだ。その後もその話題を避けた。
「で、晴美が俺に掛けてきた携帯の持ち主は分かったのですか。」
この一声で、榊原の抱いた不安は遠のいた。まさか石田の妹の命日?それが榊原の不安であった。言葉を差し挟もうと思った時、親父さんが答えた。
「分かったことは分かったんだ。契約書に書かれた住所を訪ねたんだが、ごく普通のサラリーマンで、持っている携帯の番号は全く違っていた。恐らく偽造の免許証で携帯のナンバーを取得したんだろう。」
榊原が、不安を振り払うようにいつになく饒舌になって説明した。
「いわゆる免許証なんて、いくらでも偽造が可能なんだ。最近はかなり精巧なやつが出まわっている。特に不法入国者が後を断たんだろう。こういう奴に偽造免許を供給する組織が存在する。」
「ってことは、晴美がとっさに手にした携帯電話は誰の物なのか分からないってことですか?」
「そうだ、誰のものか全く分からない。」
石田は押し黙った。そうであれば、親父さんが調べたナンバーに電話を掛けてみるしかない。和代は、そのナンバーから石田の携帯電話に掛けたきたのだ。親父さんも同じことを考えていたようだ。
「つまり、このナンバーに掛けてみるのが一番手っ取り早い。電電公社の野郎もこれ以上の協力は警察からの正式な要請がなければ出来んと言っている。しかし、これには危険が伴う。何故なら晴美さんが掛けた携帯は、晴海さんを誘拐した奴等の持ち物とも考えられるからだ。」
石田はそうは思わなかった。和代がその携帯を選んだのだのには訳があるはずなのだ。和代は晴美を救いたかった。だとすれば晴美を危険に陥れるような真似はしない。何かしら和代に縁のある人物の携帯であるか、或はこの番号に連絡しろという意味なのかもしれない。石田は決心した。
「その番号に電話してみましょう。どちらにしろ晴美の危険に変わりがないような気がする。」
「おい、石田、それはまだ早い。その番号の動きを探るように、電電公社じゃなくてNTTの親父の知り合いに掛け合うことも出来る。」
「いや、時間がない。」
こう言うと、あっけにとられる二人を尻目に、石田は携帯を取り上げ、番号を素早くなぞると、耳に当てた。
「おい、待て、万が一ってこともある。やめろ、おい、石田。」
榊原の声を石田は無視した。親子は呆然と見ていただけだ。
呼び出し音が響く。ルルルル、ルルルル、呼び出してはいるがなかなかでない。胸が締めつけられるような緊張を覚えながら、石田は待った。20回を越えて漸く呼び出し音が途切れ、相手が出た。沈黙が流れた。石田がごくりと生唾を飲み込み漸く声を発した。
「もしもし、もしもし、電話を切らずに聞いてください。私は怪しい人間ではありません。名前は石田仁と申します。何故、あなたの番号に電話を掛けたのか、理由を言います。少し驚くような内容ですが、これは真実です。」
二人も緊張して石田を見詰めている。相手が電話を切らずに聞く意思があることを感じて、石田は一呼吸してゆっくりと続けた。
「実を申しますと、私の娘が、娘と申しましても前妻の娘なのですが、事件に巻き込まれました。誘拐されたのです。そして7月18日。私の携帯に一本の電話がありました。助けを呼ぶ電話です。その電話はあなたの携帯から掛かってきたのです。」
「………」
「電話は、助けを求める女性の声でした。ですが、その声は、失踪した娘の声ではありません。私は何度も娘に会いその声を知っていますし、記憶に残っております。でも、娘の声ではなかったのです。もし、娘の声であれば、私はこの電話番号に掛けたりしません。その声は、私の記憶にしかない声だったのっです。」
「………」
「それは20年前に柏崎で殺された、妹、和代の声だったのです。あなたは、」
突然電話が切れた。
「もしもし、もしもし」
石田の叫びに答える者はいない。何度かリダイアルしてみたがすでに電源が切られている。
親子は呆然と石田を見詰めていた。二人とも同じように口をあんぐりと開け放ったままだ。息子の唇にかろうじて貼り付いていた煙草がぽとりと落ちた。しばらくして、親父さんの方が「あちちち、あちちち」と声を発し、屈み込みながら、足元の煙草を拾い上げた。それを口に咥えて言った。
「今言ったことは、それは…本当のことなのか?」
「ええ、本当です。晴美の声ではありません。妹の声だったんです。聞き間違いではありません。」
榊原はまだ口を閉じようとはしない。目は驚きと恐怖に囚われたままだ。親父の方はすぐさま現実を見詰め始めていた。暫くの沈黙の後、唐突に口を開いた。
「相手は、最初のうち、話を聞く態度を示していた。切らなかったんだからな。それが妹さんのことに触れた途端電話を切った。ってことは妹さんのゆかりの人、妹さんの死に関わりのある人ってことだ。つまり妹さんはその人に助けを求めた。」
「ええ、そう思いました。ですから直接電話してみたんです。もしかしたら、晴美のことを、つまり居場所を知っている人かもしれない。」
榊原がごくりと生唾を飲み込み、話に加わった。
「二人ともどうかしているんじゃないか。妹さんは死んでいるんだ。死んだ人間が電話できるはずがない。石田は晴美さんを思うあまり、幻聴を聞いたんだ、そうだ、それならありうる。」
親父さんがそれに答えた。
「馬鹿か、お前は。現にこうしてコンピューターに記録されてる。日付つきでな。石田さん、この日付は、つまり?」
「ええ、和代が殺された日です。」
「ってことは間違い無く妹さんが石田君に掛けてきたってことだ。」
榊原が大きく首を横に振って叫んだ。
「そんなこと考えられん。二人ともどうかしたんじゃないのか。ワシは信じない。そんな馬鹿な話は信じないからな。何かしら科学的に説明のゆく理由があるはずだ。」
哀れむような視線を息子に向け、親父さんが言った。
「ワシは人の死を何度もまじかに見てきた。その経験から言えることは、世の中には説明のつかない不思議に満ちているってことだ。もしかしたら死ってのは終わりではないのかもしれないと思うことが何度もあった。」
親父さんは、ふと、顔をあげて息子を見た。
「そういうお前は、そんな風に感じたことはないのか。不思議な出来事に遭遇したことはないのか。」
「ある訳はない。ワシはいつだって正常な世界の人間だ。」
「そうだった、お前は死んだお袋似だったな。あいつも、お前のように常に現実的で、常識の殻の中に納まっておった。だから、今ごろは、お前の横に腰掛けて、自分が間違っていたことを、うんうんと首を縦に振りながら、認めているかもしれん。」
榊原が、一瞬、たじろぎ、辺りを見回した。親父さんがその様子を見て言った。
「馬鹿か、自分のお袋を怖がってどうする。」
「とにかく、ワシは信じない。そんな話なんて溝に捨ててしまえ、ワシは信じないぞ。」
その後、石田は一時間ごとに電話を入れたが通じなかった。その日、榊原親子が寝入ってから、石田は眠れずにうつらうつらと時間を過ごした。不思議な夢が幾つも通り過ぎた。和代が枕元に現れ、石田に何かを訴えている。しかし、何を訴えているのか分からない。両親も現れた。必死の形相で晴美を助けろという。
突然、胸の携帯が鳴り響いた。すぐに飛び起き、携帯を握った。画面を見ると、やはり非通知設定だ。あの男からだ。それは確かだった。親子も飛び起き二段ベッドの上と下で石田を見詰めた。石田はゆっくりと通話ボタンを押した。
「もしもし、どうか切らないで下さい。あなたからの電話を待っていました。娘は今危険な状態にあります。でも、和代が電話してきたってことは、まだ晴美は生きていると思うのです。何故、和代が貴方の電話を使ったのか分かりません。でも、和代は貴方の助けを求めたのだとおもいます。どうか、私を助けて下さい。」
「……」
「お願いします。晴美は私にとってかけがえのない娘なのです。」
「……」
沈黙が微かに揺れている。相手が何か話そうとしている。
「お願いします。何かを言ってください。」
空気が動いた。石田は緊張した。果して、受話器の向こうから声が響いた。
「晴美はまだ生きている。しかし、残念ながら、洋介君は死んだ。」
衝撃が走った。石田は洋介君を電話のやり取りでしか知らない。しかし、晴美は心から洋介を愛していた。その洋介君が死んだ。信じられなかった。何故、このような現実が、この日本で起こるのだ。
「洋介君は何故死んだのです。」
「逃げようとして殺された。」
「何故拉致されたんです。」
「そんなことは知らん。」
痛ましい事実に暗澹として身震いした。晴美の陥った世界は尋常の世界ではない。ぜいぜいという男の吐息が不安を呼び起こす。石田はすがるような声で言った。
「なんとしても晴美を救い出したいのです。協力してもらえませんか。お願いします。」
「私は、和代さんを知っていた。何とか助けたかった。だから、こうしてあんたに電話を入れた。石田さんが言うことが真実なら、和代さんは晴美を助けたがっている。」
「あなたは、晴美と呼び捨てにしている。あなたは誰なのですか。」
「私が誰であろうと関係ない。余計な詮索はするな。この電話を切ってもいいんだぞ。」
男の張り上げる声は呂律がまわっていない。そうとう酔っている。普通の精神状態ではない。
「待ってください。私は貴方が和代の意思を継いでくれる人だと信じています。晴美を救いたいのです。」
「分かっている。何とかしなければならない。」
「どうすればいいのですか。私は命も惜しみません。死んでもいいのです。」
「……」
長い沈黙が続いた。男が溜息をついた。そして、言葉を発した・
「あんたは、死んでも良いと言った。しかし私にはそこまで覚悟が出来ていない。」
「私は、覚悟は出来ています。和代がついているのです。私は怖くありません。たとえ、命を失うことになっても、何もしないでいるよりましです。」
「私は怖い。殺されることが心底怖い。石田さん、晴美を救うとはそういうことなんです。」
「私は死を恐れません。晴美を救えるのなら、この身など、失っても何の後悔もありません。どうか、お願いします。晴美を助けたいのです。貴方の助けがいります。」
「……」
暫く沈黙が続き、石田は自分の言葉を反芻した。なにかまずいことを言ってしまったのではないか。だから、相手が黙っているのではないか。不安がよぎった。しかし、その不安は杞憂だった。相手は、尋常な声を取り戻していた。
「分かった、あんたの言いたいことは分かった。私も覚悟を決めよう。殺されることも含めて、自分の運命として受けとめなければならないのかもしれない。」
「貴方を、何と呼んだらいいのかわからないが、和代との関わりを教えて下さい。お願いします。20年前に殺された和代の最後を知りたいのです。真実をしりたいのです。どんなに惨い事実も受け止めます。聞かせてください。」
「……」
やはり、沈黙が続いた。相手は冷たい反応を示した。
「あんたは、晴美を救いたいんだろう。それを第一に考えろ。今、午前2時だ。明日13時に電話する。」
そこで電話は切れた。
第十七章
「何故、その男は洋介君を知っていたんだ?しかも、洋介君が殺されただと。いったいどういうことなんだ。」
石田の説明を聞いて、親父が叫ぶ。榊原が考え込んでいたが、吐き出すような一言を発した。
「うるせえんだよ、親父。ちょっと黙っててくれよ。頭を整理してんだから。」
石田が口を開いた。
「恐らく、あの男は小野寺だ。幸子の旦那の小野寺に違いない。きっとそうだ。あの男は晴美と呼び捨てにした。ごく自然にだ。晴海は父親が自分を嫌っていたと言ったが、違う。俺も最初に会った時、晴美に見出したのは、和代の面影だ。目元がそっくりだった。薄茶色の瞳もよく似ていた。小野寺は、それに耐えられなかったんだ。」
親父が口を開いた。
「そうかもしれん。小野寺は、20年前、和代さんを助けようとしたが、それが出来なかったと言ったんだろう。小野寺の心にあるのは、人間としての良心の疼きだ。」
「ええ、和代が電話するとしたら、晴美を愛している人で、助けだせる可能性のある人だ。和代は小野寺の良心に訴えたんだ。」
それまで黙っていた榊原が叫んだ。
「分かったぞ、てっことは、小野寺がモンスターなんだ。小野寺だからこそ晴美の恋人、洋介君の携帯の番号だって知っていたんだ。」
榊原は和代が石田に電話してきたという事実を既に認めているようだ。霊的な話を常に避けてきた榊原にしては珍しい。石田は、微笑みながら言った。
「そうだ、その通りだ。榊原、お前の疑問が漸く解けたようだな。いくら探偵でも洋介君の携帯番号を調べるなんて出来っこない。」
「そうだ、小野寺は、一度、洋介君の危機を救っている。アパートの部屋に戻るなと警告しているんだからな。それに拉致した組織のことも知っている。そうでなければ、助ける算段なんてあるわけない。しかし、小野寺はその組織とどういう関係なんだろう。」
二人のやり取りを聞いていた親父が重々しく頷きながら口を開いた。
「小野寺は、晴美さんや洋介君を拉致した男達と同じ世界の人間だ。闇の世界で生きてきたんだ。恐らく、その組織の人間だろう。だから洋介君は拉致された。洋介君が裏切り者であるモンスターの声を知っていたからだ。」
二人が親父の顔を見た。榊原がうめくように言った。
「そうか、洋介君はモンスターの正体を割り出すために拉致されたのか。しかし、裏切り者を探すという目的のためだけで誘拐という犯罪を引き起こすなんて考えられんが。」
「スパイの世界とはそういうものだ。だからこそ、小野寺は相手の怖さを知っていた。知っているからこそ、死を覚悟せざるを得ない。お前は刑事畑しか知らない。ワシは公安も知っている。スパイの世界は冷酷だ。つまらぬ利害の不一致が死をもたらす。」
榊原がすっとんきょな声をあげた。
「スパイだって、なんてこと言い出すんだ、親父。ヤクザの世界だよ。スパイなんかじゃない。北朝鮮ルートのヤクがらみの事件だ。」
「いや、これは公安事件だ。確かにヤクザやヤクが絡んでるのも事実だ。しかし、もっと冷酷な感じがするし、組織だっている。簡単に考えるのは危ない。小野寺は、恐らくその世界を知っているんだ。最初からそんな匂いがしていた。石田君、覚悟を決めよう。」
「ええ、はなからそのつもりです。」
「よし、やろう。ワシも燃えてきた。死に場所が見つかった。おい、成人。弱虫、成人。お前はどうなんだ。」
「馬鹿にするな、俺だって警官だ。その覚悟なくして警官になったりはしない。」
「よし、明日の13時。小野寺から電話がかかってくるのを待とう。」
石田が、ふと思い付いて榊原に聞いた。
「しかし、モンスターと洋介君のやり取りを知っているのは限られている。その組織に情報を漏らしたのは誰なんだろう。」
「そう、知っているのはごく限られている。まず、死んだ二人、瀬川と坂本。だが、彼等から情報が漏れたとは考えられない。そして、高嶋本面部長と、その指示で例のCDの中身を調べた公安課長、そして製薬会社を調べている捜査二課長。この三人だ。公安課長は、警察庁のキャリア、捜査二課長は警視庁の生え抜きだ。」
親父が口を挟んだ。
「その三人とは限らんだろう。課長だって自分で捜査するわけじゃない。部下を動かす。その三人以外にも何人かに伝わったはずだ。お前が顔の確認を怠った警部にもだ。」
榊原はぷーっと膨れて、何か反論しようとしたが、大きく息を吐いて押し黙った。
しばらくして、榊原は、ふと何かを思い出し、携帯のボタンを押した。相手はすぐに出たようだ。
「もしもし、犬山か。その後どうなんだ。」
「連絡をお待ちしてました。例の件、高嶋方面本部長に相談して、秘密裏に金庫の指紋を採取しました。そのなかに、ゴム手袋のものと思われる指紋がありました。私も高嶋方面部長も、それがその警部のものだろうと。」
「敵もさるもの、と言うわけだ。」
「ええ、それより、高嶋方面部長に連絡なさったらいかがですか。きっと力になって下さると思います。高嶋方面部長も、連絡がないのを不思議がっていました。」
「ああ、分かっている。いずれそうするつもりだ。」
榊原も何度か電話したいという誘惑にかられた。しかし、父親の言葉に真実があるような気がしたのだ。父親はこう言った。
「お前とそのキャリアが親しいことばれているなら、そのキャリアの電話は盗聴されている。それはそのキャリアも納得ずくだ。キャリアってのは上の命令に逆らうことはない。いいか、頼るのは最後の最後だ。盗聴されてもかまわんというせっぱ詰まった時だ。」
ここはホテルの一室である。小野寺は着信履歴に残された番号を見ながら、もう一台の携帯でその番号を一つ一つ押してゆく。その番号から何度も掛かってきている。それに出れば、凡その位置がばれる。だからもう一台携帯を用意した。真夜中だというのに相手はすぐに出た。
「おい、巌だな。おい、そうだろう、返事をしろ。」
「ああ、そうだ。」
「何処にいる。と言っても答えるつもりはないってことは分かっている。しかし、とんでもないことをしてくれたもんだ。お前が二重スパイに成り下がっていたとは、想像だにしなかった。見下げ果てたやつだ。金かそれとも女か。」
「どっちでもない。それより、叔父さん、早く用件を言ってくれ。」
「本部が動き出した。それは分かっているな。これから携帯の番号を教える。そこに電話すれば本部の幹部が出る。」
ホテルのメモ帳に番号を書きなぐって電話を切った。
この叔父の影響でこの非合法の世界に入った。石田と幸子の仲を裂いたのはこの叔父だ。幸子の高校時代の恋人、杉村マコトと偶然飲み屋で知り合い、二人を再会させ、密かに写真を撮った。どうしても石田の存在がじゃまだったのだ。
そして、幸子の父親が素封家であることに目をつけ、叔父が財産分与の分け前に預かろうと、組織に相談を持ちかけた。当時はまだ本部が機能していなかったから、まさしくあの男が陰で動いたのだ。
あの男は遺産を幸子一人が相続するよう、福岡にいた幸子の父親と義兄を自動車事故に見せかけて殺した。叔父は、まさかそこまでやるとは思ってもみなかったようだ。その知らせがもたらされた時、叔父はがたがたと震えていた。それが今ではいっぱしのスパイ気取りだ。まったくお笑い種だった。
あの男はどんなに冷酷なことでも平然とやってのける。思い出すだけで怒りと屈辱で体が震えてくる。しかし、小野寺は、叔父の指示に従った。妻、幸子名義の資産を売却し、北にせっせと送金してきた。それが使命だと思っていたからだ。
が、はたして、その金が祖国のため、人民のために使われたのだろうか。今となっては全く無駄だったと思う。むしろこうして南の韓国に与した自分の判断は正しかったとさえ思える。たとえ脅迫されたという経緯があったとしてもである。
その日の昼、小野寺が約束通り13時に電話すると、石田は妙な場所を待ち合わせに指定してきた。板橋の健康ランドの駐車場である。不審に思ったが、石田が罠にはめるはずもない。目当ての車はすぐに見つかった。
石田一人かと思っていたが、屈強な男三人が雁首を揃えて待っていた。一瞬嵌められたかと思った。三人のうち二人はどう見ても素人には見えなかったからだ。とっさに身を翻そうとする小野寺に、禿げの大男が大きな声を発した。
「小野寺さんよ。ワシ等は晴美さんを助けたいだけだ。あんたをどうこうしようなんて、これっぽっちも考えていない。」
振り返るってみると、禿げの大男のゲジゲジ眉は真っ白だった。相好を崩した顔は、最初に出迎えた時の険しい印象とはうって変わって人の良い老爺のものだ。小野寺はゆっくりと車に入っていった。
榊原と名乗った男のことは知っていた。幸子の家の電話を盗聴していたからだ。一人の女性を巡る不思議な人間関係がそこに出現した。幸子に対する苦い思い、榊原に対する嫉妬、石田に対する後ろめたさ。
榊原は、学生時代から幸子と晴美を良く知っているらしく、石田同様、晴美を救い出したいという意欲に燃えている。しかし、幸子のことに触れるたびに妙に視線が揺れる。小野寺とまともに目を合わそうとしない。苦い思いを噛み殺した。
榊原は元刑事だと言った。元と言うのは、いろいろ事情があってと口を濁していたが、禿の親父が口を挟んだ。
「あんたは新聞を読んでいないのか。同僚二人を撃ち殺して逃げている刑事がいるだろう。あれがこいつだ。」
榊原は顔を真っ赤にして親父を怒鳴った。
「親父、いい加減にしろよ。そんなこと話してどうする。」
榊原は小野寺に向直って、言い訳した。
「小野寺さん、確かにワシは警察に追われている。だけど聞いてくれ。あれは嵌められたんだ。二人を撃った奴は他にいる。そいつがワシの拳銃を持ち出した。」
小野寺が遮った。
「榊原さん、その話も詳しく話してくれませんか。と言うより、これまでのことを全部聞かせて下さい。」
親父のだみ声が響いた。
「そうだ、お互いに知っていることを話すとしよう。」
狭い空間に男四人が車座に移動し、額を寄せ合った。
執拗な質問を繰り返す榊原とその親父はさすがに刑事だけのことはある。うんざりさせられたが、自分が小野寺であることと、ダブルスパイだということだけは認め、組織の実態については口をつぐんで秘密を守ることにした。
晴美に関することは全て話した。そして、今、置かれている状況、組織との接触の方法、用意できる武器、要するに晴美を救い出すための話だけに絞った。石田はしつこく死んだ妹のことを尋ねてきたが、今はそれどころではないと突っぱねた。
しかし、いずれ話すと約束せざるを得なかった。それがあの少女の最後を見送った人間の最低限の責務だろう。小野寺の態度は三人にとっては不満のようだったが、それはしかたのないことなのだ。小野寺はあくまでも反日で動いてきた人間だし、日本人が大嫌いなのだから。
話し合いの内容は、今に至る両者の状況を付き合せ、突破口を見出すことだ。そして曙光が見え始めたのは、話し始めて7時間ほどたった頃だ。みなそのアイディアに飛び付いた。そして作戦が練られたのだ。
小野寺が電話を掛けたのは一晩あけた翌日の昼過ぎである。相手は、叔父が電話するよう指示していた本部の幹部だ。彼はすぐに出た。駒込の叔父から連絡がいっているのだ。名前を言うと、すぐにどすの利いた声を響かせた。
「随分と用心しているじゃねえか、小野寺。お前が掛けているのは公衆電話だな。」
「ああ、逆探知でもされたら大変だからな。」
「馬鹿言え、警察じゃあるまいし、そんな芸当が出来るか。そうそう、今回の俺のコードネームはお前にあやかってモンスターってことにしよう。このコードネームは俺にこそ相応しい。これから俺をそう呼ぶんだ、いいな。ところで、用件はわかっているな。」
「ああ、分かった、モンスター。これでいいか。」
「ああ、それでいい。」
「つまり晴美と交換ってことだろう。」
「そういうことだ。娘は大切に扱っている。安心しろ。」
「俺を甘く見るな。お前等は洋介君を殺しただろう。俺はブツを死体と交換するつもりはない。晴海が生きてるという証拠をみせろ。」
「さっきも言ったが、娘は大切に扱っている。それにあれは事故だった。あの青年は、次の工作船が着いたら北に送るつもりだった。しかし奴は逃げようとした。そして慌てた見張りが思わず刺したということだ。殺すつもりはなかったんだ。」
「ブツは間違い無く渡す。だが、それは晴美が生きているってことを確認してからだ。三日後に電話する。テープでも何でもいい。晴海の声を聞かせろ。そしたら交換場所を指示する。」
「交換場所を指示するだと、ふざけるな。おい、娘を預かっているのはこっちだぞ。いいか、良く聞け。交換場所に娘を連れてゆく。望遠鏡でも何でも用意して娘の生存は確認しろ。もし、死体だったら近付かなければいい。」
「駄目だ、モンスター。お前等のやり方は心得ている。本部が動けばどれだけの人数を集められるか知っている。場所はこっちが指定する。」
「娘がどうなってもいいのか、おい、どうなんだ。おい、返事をしろ、返事を。」
小野寺は何も答えない。しびれを切らしたのはモンスターの方だ。
「ちっ、食えねえ野郎だ。分かった、お前の心配の種を取り除いてやる。こうしようじゃねえか。取引は昼間、街中の喫茶店だ。そうだ渋谷がいい。俺達だってそんな所で暴れたり、まして発砲したりはしない。」
「とにかく、娘が生きているという証拠が先だ。娘の無事だというメッセージを録音しておけ。三日後にまた電話する。それを聞けば、そちらの指示に従ってもいい。」
「分かったよ。ブツさえ手に入れば、こっちは何もいらない。お前の命も、娘の命もだ。ただし、ブツが偽物だったら、ただじゃあ置かねえ、分かっているな。」
「ノートパソコンでも用意しておけ。そうすればその場で確認できる。そうそう、その道のプロも同席させたらいい。」
「よし、分かった。三日後だな。娘の生存の証拠は声を録音すればいいんだな。」
「ああ、声を聞けば信用しよう。」
「だが、俺達には時間がない。三日後の朝10時に電話をくれ。そして取引は、その日の午後3時。」
「分かったよ、モンスター。10時に電話する。」
思いのほか有利に取引となった。よほどブツが欲しいのだろう。ブツのことは三人にしつこく聞かれたが、話さなかった。日本人に話す気がしなかったからだ。三人はヤクと勘違いしたようだ。そう思わせておけばよい。
ウエムラレディースクレジットは豊島区役所近くの雑居ビル5Fにあった。飯島はそこの専務だが、その実態は北朝鮮スパイだ。小野寺は飯島の顔と名前は知っていたが、その所在や日常については知らなかった。
榊原が飯島の名前を出し、二人の刑事殺しに触れた時、小野寺はある男を思い出した。20年前、和代を襲った男達の中にもその男はいた。叔父からも何度かその名を聞いた。北で訓練をうけた本物のスパイだ。彼が動く時は、本部が動く。
その男が、榊原警部補を陥れるのに大きな役割を担ったことは間違いない。ということは今回も動く可能性が強いということだ。まして和代との因縁も深い。互いが知っている男が同一人物だと気付くのに多少の時間を要したが、分かってしまえば対策は立てやすい。
今回の事件でも、飯島が中心的な役割を担うとすれば、彼を見張ることにより、何かが見えてくるはずである。そのためには時間が必要だった。だからこそ晴美の肉声を求めた。その間、飯島の動きを探る。これが皆が飛び付いたアイディアである。
飯島は東陽町駅前のマンションから車で事務所に向かった。三人の男は二台の車を用意していた。シボレーで何度も振り切られたという坂本警部の話を思い出したからだ。しかし、一日目、飯島は自宅と事務所の往復で車を使っただけだ。
二日目の午後三時、飯島は事務所を出て、向かいの通りの喫茶店に出かけた。そこで太った男から小さな金属製の物を受け取った。親父は車を置き、飯島を追って喫茶店に入ったのだが、それが小型テープレコーダのようだったと後に語っている。榊原と石田は飯島に接触したその男の後を追った。
小野寺は川口のビジネスホテルの一室に閉じこもっていた。どこに行ってもスパイの目が光っている。相当数の人員が動員されて写真片手に蠢いている。奴等も必死だ。しかし、この三日の間で、榊原達が状況を一変することだってあり得る。それを待つしかない。
ウイスキーを流し込み、まどろんだ。あの光景が網膜に浮かび上がってくる。砂浜を散歩する少女がいた。朝6時を回った頃だ。松林の中に建つ建物の中から、男達が少女を眺めていた。突然、飯島が言った。
「おい、お前等、あの女をここに連れてこい。」
お前等と呼ばれたのは3人の少年だ。15、6歳で北朝鮮から日本語研修に派遣されていた。語学の天才ということで、三人とも英語、ドイツ語、フランス語を自在に操った。小野寺はこの少年達の日本語の発音を徹底的に矯正するのが仕事だった。
飯島は三人を国際的なスパイに育てるといきまいていた。そう言う飯島も英語を流暢に話すところをみると、自分の果たせなかった夢を三人に賭けていると当時は思っていた。飯島は、空いている時間を空手や武器の使用法など、スパイの実践技術を徹底的に叩き込んでいた。
そんな飯島の言葉は命令に等しかった。三人は顔を見合わせ、頷き合った。そして躊躇することなく建物を出て、松林に潜みながら少女に近づいていった。小野寺は呆然と三人の少年達の後姿をみていた。
少女は男達に何度も陵辱された。少年たちの欲望は果てしなかった。小野寺は目をつぶるしかなかった。日本人はもっとひどい事をしてきたのだ。それこそ何万倍もの規模で。小野寺は手を出さなかったが、べそをかく少女を労わった。そして、こう言い聞かせた。
「君と同じ不幸は、かつて朝鮮の地で毎日のように繰り返された。多くの女子供が犠牲になったんだ。君は一ヶ月後、我が祖国に送られることになっている。そこで、自分の親達が成したことの罪滅ぼしをするんだ。」
少女は地下室に押し込められていた。警察が何度も訪ねて来たし、付近の捜索さえ行われたが、地下室があることは誰も気付かなかった。別荘で過ごす、会社社長と弟、その弟の友人二人、そして社長付きの運転手が小野寺の役回りだった。
その役割を自然に演じることが出来るほど3人のスパイの卵は、日本語が巧みだった。流行語も上手に喋った。相当の訓練を積んで送り込まれていたのだ。みな利発そのもので、すばしこかった。その中でも社長の弟を演じた少年は語学も格闘技も群を抜いており、飯島のお気に入りだった。
彼は三人のリーダー格で、明るく振舞っているが、その目には冷酷な光りを宿していた。和代に対して惨い扱いをしており、憎んでいるようにさえ見えた。小野寺は彼を何度か、無抵抗の女に手荒なことをするなと、たしなめた。
しかし、少年の心には日本人に対する深い憎悪が宿っていた。口でたしなめても、少年は隙をみつけては和代をいたぶっていたのだ。少女は精神的に参っていた。少年は和代が同じ年頃だからこそ、憎悪を膨れさせたのかもしれない。
小野寺は見ていられず、とうとう拳で少年を殴り付けた。その時である。突然、飯島が駆け寄り、拳銃で小野寺の顔面を殴りつけたのである。小野寺はどっと後ろに倒れ、しばらく気を失っていた。そして意識を取り戻した時、目の前には飯島が仁王立ちになり、小野寺の眉間に拳銃を向けていた。二人はにらみ合った。飯島が口を開いた。
「舐めた真似をしやがって、貴様は何様のつもりだ。世界革命に私情は禁物だ。目的達成には手段を選ばぬ冷酷さが必要なんだ。こいつ等にはそれがある。」
そう言うと、それまでの小野寺の傍若無人を罵り、それが日本在住の期間が長く、朝鮮人のあるべき姿を失った結果だと糾弾した。そして飯島がこう叫んだのだ。。
「やっちまえ、その小娘を殺せ。それが、祖国に対する忠誠の証だ。小野寺にはそれが欠けている。お前等の根性と決意を小野寺に見せてやれ。」
あの少年が即座に反応した。和代は事態の急変に恐れおののき小野寺にすがるような視線を向けた。驚愕に目を見開く二人の瞳と瞳が一瞬結ばれた。その刹那、二人の視線を遮るように少年が和代に馬乗りになった。
「止めろー、止めるんだ」
二人の少年が抵抗する和代の手と足を押さえた。
「和代ー、和代ー」
小野寺が和代の名前を叫んだ時、飯島が何か口走りながら銃を振り下ろした。側頭部に衝撃が走り、昏倒した。
意識を取り戻すと、和代も飯島も誰もいなくなっていた。和代の遺体を捨てに行ったのだと気づいた。その時、すがるような視線を向ける和代を思い出し、悔恨と絶望が心を鋭くえぐった。和代の名を何度も叫んだ。涙が血と混じり、頬を伝う。何が真実なのか分からなくなった。朝鮮民族万歳、革命万歳。少年達の行為は正に小野寺が少年時代から思い描いてきたことだった。朝鮮民族の敵を殺せ。しかし、頬を濡らす涙はそんな思いを押し流すようにあふれ出た。
小野寺はぶるぶると震えていた。死の恐怖がそうさせるのだ。飯島という男の冷酷さを知り尽くしているからだ。その男と渡り合わなければならない。
ふと、懐かしい声が聞こえた。耳を澄ませた。あの弱弱しい声が微かに聞こえてきた。
「小野寺さんも、、、、して。」
少女はそう言うと、小野寺の手をとり自分の小さな胸に導いた。それは少女が殺される前の日の出来事だった。小野寺はゆっくりと、小さな肩を抱き寄せ、唇を重ねた。和代の閉じた瞼が震えている。小野寺は時を越え少女を抱きしめた。そして呟くように言った。
「ごめんよ、和代。俺はあの時、君を助けたかった。でも何も出来なかった。」
日本人には珍しい薄茶色の瞳は優しい光りを帯びて小野寺を見詰める。
「和代、俺は、きっと晴美を救い出す。必ずだ。たとえ、死んでも構わない。」
そう思った時、ふとあることに気付いて、頬がゆるんだ。そうだった
のか。恐怖と苦渋の思いが徐々に恍惚へと変容し、そして、後頭部から体の芯をゆっくりと下りてゆく。また呟いた。
「もしそうなったら、俺は和代と同じ世界に行けるってことだ。今度こそ、君のそばにいて、君を守ってあげられる。こんどこそ。」
酔いが眠りを誘う。唯一、心の平安を取り戻せる時、小野寺はそれを待っていた。
その翌日の昼過ぎのことである。たまたま犬山は高田馬場で所用を終え、駅の改札に入ろうとしていた。その時、入れ違いに出て行こうとする男の顔を見るともなく見た。男は犬山に何の注意も払わなかったが、犬山は思わず振り返って男の後姿を凝視した。
男は尾久駅前のマンションにいた男達のうちの一人に良く似ていた。犬山は踵を返すと男の後を追った。男はつけられているとも知らずに軽やかに歩いて行く。犬山は気付かれぬよう二三人の背中に隠れるようにしながらそ知らぬ振りで後に続く。
男は駅前のパチンコ屋に入っていった。犬山はパチンコ屋の入り口を通り過ぎ立ち止まると、ポケットから煙草を取り出し火をつける。吸い終わると、ゆっくりと歩いて店の入り口に立った。自動ドアが開き、ジャラジャラという喧騒の中に一歩足を踏み入れた。
男はすぐ右の一番手前に座って玉を弾いている。犬山は三列後方に席をとり、男の台からはみ出た右足を見詰めた。犬山は懐具合を考え、1000円で止めにして外に出て待つことにした。出そうもない台で、男に付き合っていたら直ぐに万札が消えたであろう。
30分ほどで男は出てきた。そうとうにすったのだろう、不機嫌そうな顔でそれと分かる。その顔を真正面から見てあのマンションにいた男だと確信した。男はタクシーを止め乗り込んだ。犬山は慌てて通りを渡りタクシーを捜したが見当たらない。
幸い30メートル先の信号で止まった。後ろを見ると一台のタクシーが角を曲がり通りに現れた。犬山は大きく手を振りタクシーの到着を待った。信号が青に変わり男の乗った車が滑り出す。少し遅れて犬山もタクシーに乗り込み、運転手に言った。
「警察の者だ。3台前にタクシーがいるだろう。アレを追ってくれ。」
この運転手は、ぶすっとしたたまスタートさせる。犬山はちらりと運転手を見やり、拍子抜けして前かがみになった姿勢を戻した。もう少し驚いてくれてもよさそうなのだが、何の興味も示さない。しかたなく前方を走るタクシーを睨みつける。
犬山は警視庁捜査二課の刑事である。贈収賄や企業がらみの犯罪を主に担当してきた。そうした事件には、相手を追い詰めてゆく緊張感はあるものの、この一月の間に味わったような身の危険を感じるような緊迫感はない。それが犬山を興奮させていた。
男の乗ったタクシーは交差点で左折した。しばらく行って再び左折し、新目白通を直進する。タクシーの運転手が間延びした声で聞いた。
「あんた本当に刑事さん?」
「当たり前だ。嘘を言ってもしかたがないだろう。」
「いや、最近多いんですよ。どうも探偵らしいんですけど、刑事って言えばこっちが必死で協力したり、無理をしてくれるって思っているんです。つい調子に乗って事故起こしちゃったこともありますから。」
犬山は胸から警察手帳を出して前に突き出した。運転手は振り向くいてそれに手を添えて目の前にもってこようとしている。動転して犬山が叫んだ。
「おい、おい、前を見ろ、前を向いて運転しろ。」
運転手は漸く納得したらしく、
「奴は何をしたんです。おっと山手通を右折しましたぜ。」
などといって右折車線に入ろうとして、横から割り込もうとした車をクラクションを鳴らして蹴散らした。信号が変わり、ようやく右折すると既に男の乗ったタクシーは何台もの車が間に入っているが、見失うほどではない。
「ちょっと追い越しをかけてみましょうか。」
「いや、大丈夫だろう。そうだ、連絡をしておかなければいかん。」
この手柄を高嶋方面本部長に知らせておかなければならない。高嶋の携帯に電話をいれた。
ちらちらと運転手がバックミラーで様子を窺う。高嶋が出た。犬山は運転手に聞こえるように大声で言った。
「犬山です。例の、尾久の男達の一人を追跡中です。もしかしたら奴らのアジトが分かるかもしれません。」
「本当か、そいつはよくやった。くれぐれも注意しろ。拳銃は持っているのか。」
「いえ、拳銃は携帯していません。大丈夫です。アジトさえ確かめられれば応援を頼みますから。」
運転手が叫んだ。
「旦那、奴が要町の交差点で降りますぜ。」
「奴がタクシーを降りました。こちらもタクシーをすてて追跡します。また連絡します。」
「分かった。成果を期待してるぞ。榊原警部補の無実を証明できるかもしれん。私は待機して、連絡を待つ。」
千円札を握らせ、タクシーを降りると全速力で駆け出した。男が路地に消えたからだ。路地まで駆けつけ見ると、男が携帯を耳に当てながら左に折れるところだ。犬山はゆっくりと曲がり角まで近付いた。塀の横から顔を覗かせると、男は倉庫のような建物の敷地に入ってゆく。しばらく息を殺して待った。十秒数えて建物前まで移動した。
コンクリート三階建ての建物がそこにあった。二階三階の窓は全て閉ざされている。左手にアルミニウムのドアが半開きになっている。そこから男は中に入ったに違いない。しかし、これ以上近づくのは危険だ。応援を頼むことにした。
その時、いきなり太い腕が首に巻き付き、こめかみに冷たい金属が当てられた。拳銃だった。振り解こうとするがなまじっかの力ではない。男の強い息がうなじにかかる。相手も必死である。押し殺したような声が響いた。
「薄汚い犬が。俺達を甘く見やがって。生きて帰れると思うなよ。」
犬山は一瞬にして力が抜けた。坂本警部、瀬川巡査部長の顔が思い浮かんだ。後悔の念が渦巻き、あの場所でこの男と出会ってしまった運命を呪った。がくがくと膝が鳴った。体の震えが止まらない。男の言う通り、生きては帰れないと悟った。
そのままの姿勢で階段をあがっていった。男が回した腕をほどき、拳銃を向けたまま、鉄製の扉を開く。男は何が可笑しいのか鼻で笑っている。
「さあ、中に入るんだ。」
ドアノブを握ったまま銃口を振った。犬山は頭が朦朧としていた。おずおずとドアの内側へと入っていった。涙が止めどなく流れた。死にたくなかった。まだ子供は小さいし、女房を愛していた。
かくかくと歩を進めた。鉄の扉が後ろで閉まった。薄暗い部屋に一人の男が立っていた。涙でよく見えない。涙を絞りその男に焦点を当てた。その男が誰であるか分かった時、犬山のこの現実が理解できなかった。さらに確かめようと手の甲で涙を拭った。
男は後ろ手に持っていた拳銃を一瞬のうちに構えた。次の瞬間、その銃口から犬山の額に一直線に弾が走った。死の瞬間、犬山の脳裏に疑問が渦巻いた。
「高嶋方面本部長が奴等の仲間?何故?」
疑問は疑問のまま虚空に留まった。犬山の額から流れるどろどろとの液体がその疑問を空くうに放出したのだが、今、それはコンクリートの床を赤黒く染めていた。
第十八章
飯島はその男から録音機を受け取ると店をすぐに立ち去ったが、太った男の方はコーヒー一杯で小一時間喫茶店に粘った。榊原と石田は、店の中にいる親父からの連絡をじりじりと待った。ようやく男が席を立ったと聞いて、榊原は車の助手席から降りた。
男が車であれば途中で榊原を拾い、電車であれば石田は車を捨てることになっていた。車のエンジンを入れ、じっと前方を睨んだ。男は階段から下りてくると左右を見回し、駅に向かった。
レディースクレジットは豊島区役所を巡る細い路地裏の一角にある。その喫茶店はそこから歩いて5分の距離だ。男は池袋駅に向かっていた。明治通に出ようとしている。榊原は石田に電話を入れた。
「男は、駅に向かっている、パルコの前まで車を回せ。兎に角、こちらが指示をだすまで、そこで待て。男が地下鉄かJRを使うようなら連絡する。」
男は明治通りに出ると、迷わず地下街入り口に向かった。榊原は携帯で叫んだ。
「男は電車だ。JRか地下鉄だ。車を捨てろ。」
石田は車を置いて外に出た。親父さんに車の位置を連絡する。地下街に下りる入り口まで百メートル。必死で走った.携帯を耳にあてた。携帯は繋ぎっぱなしになっている。
「男は地下街の西に向かっている。東武デパートを抜けるところだ。有楽町線の入り口を通り過ぎた。奴は地下街を要町方向へ向かっている。」
有楽町線の入り口を越えて暫く行くと、柱の陰に隠れている榊原の後姿が目に飛び込んできた。近づくと、榊原がにやりと笑って言った。
「奴も例の便所に立ち寄ってる。笹岡といっしょだ。これも、お前さんの言う、何とかという偶然の一致か。」
「シンクロニシティだ。いい加減、覚えろ。俺は奴の前を歩く。出口は右にしろ左にしろ、見失うことはない。」
榊原をやりすごし、ゆっくりと歩いた。トイレを横目で覗くと、男が便器に向かっている。太っていると思ったが、そうではなく分厚い筋肉に包まれているようだ。ゆったりと着こなした黒い背広が筋肉の動きに合わせて揺れた。
男は歩きながら小さく呟いた。
「やっぱ、人生は、出会いだぜ。」
何度も頷きながら、ぽっかりと開いた地下街の出口に向かって階段を上った。二人の男に尾行されているなど思いもしなかった。
あれから一月が経とうとしている。あの日、たまたま池袋駅で会った中学の同級生に誘われて同窓会に顔を出したのだ。ちんけな店に案内された。そして誰もが驚きと羨望の眼差しを送ってきた。思わず身震いした。
仕立ての良いダブルのスーツ、100グラムを越えるプラチナのブレスレット、万札の詰まった鰐皮の財布、名刺には社長の肩書。皆を赤坂の高級バーに誘った。誰もが財布の中身を気にして怖気づいていた。お目に掛かったこともないような美人がわっと寄ってきたからだ。
「今日は俺の奢りだ。遠慮なくやってくれ。」
そう言うと昔の仲間は漸くほっとしたように席に着いた。優越感に満たされた。昔子分だった男が近づいて来て言った。
「松谷さんは昔から肝が座っていましたもんね。どっか違うと思ってましたよ。」
この男が松谷から離れたのは高一の時だ。松谷の残忍さを嫌ったのだ。喧嘩相手の目を親指でえぐるのを目撃して、顔を歪めた。仲間を抜ける時の言い草がいい。「俺はあんたとは違う人間だと思う」と男は言った。松谷はぶちのめしてやった。そいつが擦り寄ってきたのだ。思えば、あの日は一般人として振舞った初めての日といってよかった。
そうだ。俺は普通の人間ではない。何故なら俺は普通じゃないことを平然とやってのける人間なのだ。男は地上に出ると、再び呟いた。
「もし、飯島さんに出会わなかったら、俺の人生、真っ暗だったなあ。」
飯島が上村組に姿を見せるようになったのは10年ほど前のことだ。飯島は最初から組長の客分で、待遇も良かった。松谷はその頃、たこ焼屋が唯一のシノギの下っ端で、飯島とは話したこともなかった。たまに、事務所ですれ違う程度だった。
しかし、松谷は常に飯島を意識していた。この世界では男が男に惚れるということがよくある。最初はそれかと思っていたのだが、どうも質的に異なる。それが恋だと気付くのはずっと後のことだ。
いつしか飯島は組長の弟の面倒を見るようになっていた。組長の弟、上村正敏はどうしようもない男だったが、飯島は正敏の言うことを何でも聞いた。親しげな二人を垣間見て嫉妬を感じた時もあったが、今は違う。飯島は正敏を利用しているに過ぎないのだ。
松谷に転機が訪れたのは6年前のことだ。正敏がどじを踏んだ。女が警察に逃げ込んだのだ。覚せい剤使用が露見するところだった。正敏は警察では何とか言い逃れたが、女の存在が邪魔になった。飯島に命令が下った。その時、飯島は助っ人に松谷を指名してきたのだ。緊張する松谷に飯島は言った。
「女は殺す。お前は苦もなくやってのけるだろう。どうだ。」
「ええ、苦もなくやってみせます。」
「よし、今から渋川に向かう。一週間で片をつける。いいな。」
「はい。」
息はぴったりだった。少しの躊躇もなかった。女をさらって絞め殺し、山に埋めた。ただそれだけのことだ。二人目は病院に忍び込んで自殺に見せかけて殺した。飯島は夕飯のために鶏の絞めるように人を殺した。松谷も仕事を片付けるという感覚は同じだった。
この間、二人の間に何か起こるのではないかという密かな期待は、一瞬にして潰えた。飯島は渋川の女を殺す前に犯したのだ。「お前もやれ」と言われ、萎えそうになるのを、飯島の顔を思い浮かべ必死で果てた。松谷の儚い恋はこうして終わりを告げたのだ。
飯島の舎弟になったことが松谷の運命を変えた。一挙に羽振りが良くなった。飯島が気前良く金をくれるからだ。飯島には裏のシノギがあったのだ。それがヤクだと知れたのは、正敏が組長にばらしたからだ。 しかし、飯島にお咎めなし。組長との取引が成立したのだ。
それから上村組も変わった。急に金回りが良くなった。組長は次々と事業を起こし、軌道に載せていった。まるで企業家気取りだ。馬鹿馬鹿しい。飯島が裏で上村組を操っていることを誰も知らない。しかし松谷は気付いた。だから飯島に忠誠を誓ったのだ。
坂本警部のことは最初から疑っていた。飯島は坂本を評してこう言った。「坂本はもともと武士だ。武士が商人のように手を揉んで近づいて来る図は不自然極まりない。奴の額に浮かぶ冷や汗を見たか。それが真実を語っている。」こう言ってにやりと笑った。
麻取りが動き出すと、飯島は松谷に坂本を見張るように指示した。確かに坂本は飯島のシボレーを追跡していた。松谷がそれを報告すると、「やはりな、分かっていたが、坂本の執念はさすがに武士のものだ。」
飯島は、ここ数年時代物の小説にに凝っている。特に池波がすきなようだ。彼に言わせると、日本の武士道は朝鮮半島から伝わった朝鮮文化だという。松谷は飯島が北朝鮮のスパイかもしれないと薄々感じていた。しかし、それに目をつぶっていた。
若い頃、朝鮮人との喧嘩に明け暮れた。何人もの朝鮮人の目に親指をグイとめり込ませ潰した。その朝鮮人と思しき男に今使われている。松谷は何の痛痒も感じていない。飯島の生き様が好きだからだ。飯島はただこう言うだけだ。
「人間は死ねば無だ。ということは、生きているうちに、どれだけ美味いものを食うか、美人を抱くか、いい思いをするか、それに尽きる。そうだろう。」
松谷はふとその言葉を思い出し、「そうだ。」と口に出した。自分がつけられているとは露ほども考えていない。
松谷は急に思い立った。そうだ、あの女もやってしまおう。どちらかというと松谷は男が好きなのだが、女のケツも決して嫌いというわけではない。そういえば洋介も武士だったと思う。松谷はあの洋介を何度も責めた。そして洋介は最後に松谷に逆襲したのだ。
松谷は洋介の反撃に感動した。最後の力を振り絞り、プライドを守ろうと立ち向かってきたのだ。食事の時に与えた割り箸を使ってである。歯で先を尖らせていた。ふらふらになりながら松谷の首に狙いをつけて突き立ててきたのだ。危うく逃れた。
つかの間の恋人に別れを告げ、松谷も武士として振舞った。腰のサバイバルナイフを引きぬき、洋介の頚動脈を切り裂いたのだ。洋介は迸る血を横目で見ても動じなかった。憎しみの目を剥いて睨み続けた。意識が遠のいてばたりと倒れた。感動的だった。奴も男として死んだ。悔いはないだろう。
涙を滲ませ、松谷はアジトに急いだ。山手通りを渡り有楽町線要町駅に向かう。しばらく歩いて右に折れた。通りの両サイドでつけていた石田も榊原も何食わぬ顔で歩を早めた。暫く行くとコンビニがあり、男はその手前を左に曲がった。
石田が通りを渡って榊原に追い付き、二人は曲がり角から男を窺った。男は塀の中に入るところだ。塀の中には頑丈そうなビルが建っている。二人は塀に背中をつけ、頷きあった。ようやく、たどり付いたのだ。
二人は通行人を装いゆっくりと歩いた。ビルはコンクリート塀に囲まれ、道路から20メートルほど奥まったところに位置する。門扉はなく、10メートル位の進入路が切られているだけだ。右手奥には焼却炉が見える。
三階建てのビルの一階は駐車場スペースのようで、シャッターが五つ。一つが開いていてベンツが見える。入り口は左側のアルミのドア一つで、恐らく入るとすぐ階段になっている。二階は事務所スペースのようだ。
榊原は小野寺から貰い受けた拳銃をベルトから引きぬいた。石田が問いただす。
「まさか、乗り込もうというんじゃないだろうな。」
「そのまさかだ。奴は俺達に感づいていない。明日は晴美を連れ出す日だから用心するだろう、今がチャンスだ。」
榊原の言葉には子供じみた強がりが感じられた。それは父親を意識してのことだろう。
「馬鹿なこと言うな。いいか、あの二階にも三階にも晴美はいない。」
「何故そんなことが分かるんだ。」
「いくら二階三階に意識を集中させても何も感じない。俺を信じろ。」
榊原は瞬時に石田の言葉を信じた。石田の勘が鋭いのは先刻承知だったからだ。
大学時代二人がリングで殴り合っていた時だ。石田が急にうずくまった。「あの時と一緒だ。和代が死んだ時と同じだ。」とうめいて、その場にうずくまった。その時刻に、石田の両親が事故で死んだと後で知った。
「榊原、いずれにせよ晴美を渋谷に運ぶのはきっとあの男だ。あの男さえマークしていれば晴美にたどり付く。根気よく待とう。」
「しかし、こんな場所でどう見張ればいいんだ。ここで二人が突っ立っていればすぐに怪しまれる。」
「あのベンツを見ろ。あれで晴美を迎えに行き、渋谷まで運ぶのだろう。俺はあの車の後に隠れている。お前はこの近くまで車を持ってこい。何かあれば携帯で連絡する。」
「よし分かった。この拳銃を持っていろ。」
「いいや、この伸縮警棒で十分だ。今日か、明日、奴は動く。奴が晴美に接触する時にこそ拳銃が必要になる。その時まで持っていろ。」
「よし、ここで見張っている。あのシャッターまで走れ。」
石田は開いているシャッターに駆け込み、ベンツの後ろに隠れると榊原に手を振った。榊原はにやりと笑いその場を去った。
思いのほか広い駐車場だ。奥は薄暗くて良く見えないが、車がもう一台置いてあるようだ。近づいてみると車にはシートカバーが掛けてある。こちらの方が隠れるのには都合がよい。石田は車と壁の間に身を沈め、持久戦に備えた。
腹が鳴る。朝、コンビニで買った握り飯二個食べただけで、昼飯を抜いていることに気付いた。蒸し暑い。ティシャツもコットンのジャケットも汗まみれでぐじゃぐじゃだ。腰に差した警棒を取り出し、掌を叩いてその重さを量った。
そしてパンツの裾の上から右足外側に隠した拳銃をゆっくりと擦った。やや小ぶりのオートマティックだが銃弾は8発装填されている。これだけの装備があれば何とかなるだろう。再び腹が鳴った。角のコンビ二を思いだし深い後悔の念に襲われた。
最初の変化は、2時間後の6時半頃起こった。唯一開いているシャッターが外側から締められた。うとうとしていて、その音で目を覚ましたが、まさに飛びあがらんばかりに驚いた。次第に明かりが薄れ、しまいには真っ暗闇になった。
恐怖が心臓をわしづかみにし、その鼓動が速まるのが分かる。石田は生まれて始めて漆黒の闇を体験した。生き物にとって光りが唯一の希望なのだ。目を閉じていたほうが、まだ心の平安を保てる。石田は目を閉じ、そして耳を澄ませた。
再びシャッターの音が聞こえてきたのは、それから2時間後のことだ。石田は警棒を握り締め、シャッターから漏れる明かりを見守った。漆黒の闇に月明かりが差し込む。微かな光が駐車場全体に充満していった。石田は腰を上げた。
光りの中に一人の男の姿が浮かび上がった。男はベンツの横を歩いて行き、そして腰を屈め何かを操作したようだ。半開きのシャッターが再び閉まり始め、同時に床が振動しはじめた。ベンツの横の地面がせり上がった。機械的な音が断続的に続く。石田は目を見張った。晴美は地下にいるのだ。
床が斜め45度にせりあがって止った。シャッターが閉ざされ地下からの光りで、例の男の横顔がくっきりと浮かび上がる。その顔がだらしなく歪んだ。男が階段をゆっくりと下りてゆく。
石田は車の陰から這い出た。男の頭が床の下に消えるとゆっくりと地下室の入り口に近づいた。首を突き出して地下に続く階段を見下ろした。男の後姿が見える。ワイシャツが汗に濡れて、盛り上がった背中の筋肉を浮き上がらせている。
その筋肉を見て、奴に勝てるかどうか不安になる。警棒を握り締め、階段を下り始めた。
男はすぐに気付いて振り向いた。背中に手を回して何かを掴んでいる。二人は上と下で睨み合った。男が唸った。
「貴様、どこから湧いて出やがった。この蛆虫が。」
「俺が蛆虫だと何故分かったんだ。サナダムシのふりをしていたんだが。」
男はにやりとして背中から刃渡り20センチもあろうかと思われるサバイバルナイフを抜いた。石田が一歩踏み出した。男も一歩上がった。石田にとって不利な体制だ。脚ががら空きだ。石田はナイフの間合いを避けるぎりぎりまで一気に下がった。男がナイフを右に薙いだ。
石田はそれを避け、左に飛んで床に着地した。男はナイフの手さばきに自信があるのだろう。右手をだらりと下げて、無造作に歩をすすめてナイフの間合いに立った。石田の警棒は15センチだが、振り出すと60センチになる。ナイフより40センチ長い。
男が一気に距離を詰め、右上に薙いだ。首を狙ったのだ。石田は極端な前屈みから、重心を一瞬後足に移して刃先を避けた。同時に真上にあげた警棒を男の首筋に斜めに振り下ろした。男は膝から崩れ落ちた。石田は男からナイフをもぎ取った。
「仁。」
石田が振り返る。晴海が牢屋の窓の鉄格子を握り締め、石田を見詰めていた。その目から涙がほとばしる。石田は駆け寄ろうとするが、ふと思い出し、倒れた男のポケットを探った。右ポケットに鍵が入っていた。
鍵を開け、晴美を抱きしめた。ティシャツは薄汚れ、ジーンズはよれよれだ。髪はぼさぼさで臭い。ふと和代を抱きしめているような感覚に襲われる。
「きっと来てくれると思っていたわ。何度も夢で見たの。だからへこたれなかった。」
「ああ、もう大丈夫だ。お母さんの所に帰れる。」
「仁、その男、動いたわ。」
振り返ると、男が腰を浮かせている。石田が声を掛けた。
「目覚めたようだな。」
男はそれには答えず、一瞬にして階段横に掛けより内線電話を取り上げ怒鳴った。
「敵襲、敵襲。地下室に敵が侵入した。」
石田はナイフを握り締め、男に近づき首にそれを押し当てた。
「敵襲とは随分時代錯誤な言葉だ。相当焦っているわけか。おい、受話器を置け。」
男は素直に従った。石田が聞いた。
「しばらく地下室のあの蓋を閉めたい。どうすればいい?」
「さあ、知らん。」
石田はナイフに力をこめた。男が言った。
「どうした、サナダムシ。押し付けるだけじゃ駄目だ。ナイフは引くんだ、そうしなければ血は噴き出さない。どうした引くんだ。引いてみろ。お前はその度胸があるのか?」
石田は血の気が引くのを感じた。男は石田がそれを出来ないと分かっている。どうする?迷った。
「確かに、残酷な光景は見たくない。だけど、この程度なら我慢できる。」
石田は男の膝裏に自分の膝頭を思いきり当てた。男が前にのめった。石田は屈んでゆっくりとナイフの刃をじっくりと引いた。男の悲鳴が響いた。石田が言った。
「右足のアキレス筋に続き左足も切ろうか。どうする。」
この男のような筋肉マンにとってアキレス筋を失うことは誇りそのものを失うことなのだ。
「待ってくれ、その箱の陰にあるレバーを左に回せ。」
晴美が駆け寄ってレバーを回した。地響きを伴って床が下り始める。外で何人かの声が響く。半分まで閉まった天井床から男が顔を覗かせた。石田が持っていたナイフを投げつける。男のはそれを避けた。床が軋みをあげながら閉じられた。
「おい。上でも操作できるはずだ。どっちに優先権があるんだ。」
「当然上だ。」
石田は男を引きずり、晴美の入っていた牢屋に押し込めた。
「晴美、俺の後ろにいろ。もうすぐ、敵が地下室の床を上げて入ってくる。」
石田は、右足から拳銃を引きぬいた。晴美が石田の背中に抱き付いてきた。そして涙ながらに言った。
「仁、右のその木製の箱を見て。中はセメントで固められているけど、その中に洋介君がいるの。」
石田が視線を落とした。そこには木製の縦長の木箱が置いてある。表面はコンクリートで固められているが、その内部に洋介君が横たわっているのだろう。石田は木箱に向かって黙祷しただけだ。それ以上の行動を取るゆとりもなかった。
「晴美、もう泣くな。きっとあのデブが殺したんだろう。敵をとるか?もし望むのならあのデブを殺してやる。」
「やめて、そんなことを言ったんじゃないわ。あの男を殺しても洋介君は戻ってこない。」
「今の俺なら難なくやれそうな気がする。自分でも怖いと思うが、今の俺なら何でも出来る。そんな気がする。」
「怖いこと言うのやめて。仁。いつもの仁に戻って。」
そう言われても石田の興奮は納まりそうもなかった。床が開けば間違いなく敵が襲いかかってくる。石田の持つ拳銃には8発の銃弾があるだけだ。敵は何人いるのか分からない。しかし、石田の興奮はその生死を分けた闘争に誘発されていたのである。
第十九章
天井が開ききるまでの間、石田は作業台を横倒しにし、晴美を台の陰に伏せさせた。見回す限り、銃弾に耐えられそうなものはこの厚い木製の台くらいだ。しかし、あまり自信はない。鉄格子越しに男が地上の仲間に叫んだ。
「気をつけろ、奴は拳銃をもっている。入って左だ。作業台の裏に隠れていやがる。」
男は牢屋から覗いて、石田が拳銃を取り出すのを見ていたようだ。入り口付近に複数の人の気配がする。緊張で掌が濡れる。左手で拳銃の筒先を握り、右手の汗をジャケットで拭う。そしてもう一度握り直した。階段の左端に銃口が見えた。
石田が頭を引っ込めた途端に鋭い銃声が響き、密閉空間にこだまする。目暗滅法撃っている。そのうちの一発が木製の台に当たった。晴美がキャッと悲鳴を上げた。一瞬ひやりとするが銃弾は貫通しなかった。一瞬訪れた静寂に、石田は耳を澄ませた。
すると外で銃声が一発、それに続いて切迫した怒鳴り声が聞こえ、三発銃声が響いた。榊原が攻撃したのだ。続けざまに銃声が響く。榊原は不利な闘いを余儀なくされているようだ。榊原のリボルバーは6発の銃弾しかない。派手に撃っているのは敵の方だ。
しばらく静寂があって、また銃撃が始まった。音の強弱から、榊原の一発に対して数倍の反撃が加えられているのが分かる。石田は「晴美、ここから動くな」と言って立ちあがった。
「仁、立っちゃだめ。危ないわ。」
「いや、そうも言ってられん。榊原がやられそうだ。」
「おっちゃんも来ているの。」
「ああ、とにかく、そこを動くな。」
石田は階段に近づき、入り口を覗いた。誰も見えない。銃声は散発的になった。階段を上がり始める。頭を傾げ、右目で床面から外を覗った。シャッターの内側に人影は見えない。一気に階段を駆け上がる。銃声が一斉に鳴り始めた。石田は床に倒れ込んだ。
銃声は建物の外から響いている。石田は立ちあがり、柱の陰に身をひそめ、外を覗った。そして目を見張った。二人の警官が片膝をつき、向かいのビルに銃を向けている。石田も目を凝らせて見るが、ビルの周りは暗くて何も見えない。
警官に銃を向けてはみたものの、迷った。もしかしたら、近所の交番から駆けつけた警官ということもあり得る。その時突然サイレンの音が響いた。パトカーだ。付近の住民が通報したのだろう。一人の警官が立ちあがり駆け出して、塀のかげに消えた。その後姿を見ていたもう一人もその後を追った。
前のビルからは何の反応もない。塀が途切れた所から30メートル付近にオレンジ色に点滅する光りが見える。たまたま付近を巡回中のパトカーが駆け付けたのだ。遠く近く、あちこちからサイレンの音が聞こえてくる。東京中のパトカーが集まって来そうだ。
これより5分ほど前、ビルの左側にあるドアが乱暴に開けられ、制服警官二人が飛び出してきた。一人がベンツのおいてあった場所のシャッターを開けている。シャッターがガラガラと音をたてて天袋に巻き込まれる。もう一人が駆け込み、ベンツの脇にしゃがみ込んで何かを操作している。
榊原は潜んでいたビルの脇から出て、通りを渡った。塀の陰から中を覗くと、シャッターの陰で見えないが、機械的な音が響いている。近づこうと、塀から頭を出したとき、ふと左方向のドアに男がいて、携帯で話しているのに気付いた。
榊原は男を見て愕然となった。なんとその男は石川警部だったのだ。その時、銃声が響いた。8発だ。一人の制服警官はベンツの前で銃を構えている。ということは、もう一人の警官が一丁の拳銃で8発連射したことになる。つまり彼等は偽警官だ。警官の銃は5発しか装填されていない。
躊躇なく制服警官に向けて拳銃の引きがねを引いた。弾はコンクリートに当たって跳ねた。制服警官は咄嗟に柱の陰に隠れて、何か叫んだ。そして二発三発と続けざまに撃ちまくる。静寂が訪れる。
榊原も狙いを澄まして、一発撃つ。反撃は凄まじい。しまいにはカチッカチッと銃弾が切れ、空打ちの音が響く。それを見てもう一人が撃ち始める。再度狙いをつける。絶対にはずすものかと撃ったが見事に外れた。もう少し練習しておくのだったと後悔したが後の祭りだ。
一人が踊り出て、焼却炉の陰に隠れ、カートリッジを交換している。今度こそと思い、塀に銃を固定して、顔を出すと思われる位置に向けた。男が銃を構え、顔を出した。引き金を引いた。銃弾はコンクリートに当たってはじけた。
榊原の潜んでいる塀に銃弾が何発も撃ち込まれ、コンクリートが弾け飛んだ。石川警部も撃っている。思わずかがみこんだ。焼却炉の右端から男がまた銃を構えた。そこからだと榊原は丸見えだ。榊原は走って通りを渡り、ビルの脇に隠れた。
二人の警官が塀の両脇から榊原の潜む暗がりに銃を向けた時、サイレンの音が近くで響いた。榊原はビルと塀の僅かな隙間を奥へ奥へと後退さりして通りから離れた。もうすぐこの辺は警官でいっぱいになる。石川警部は一帯を捜索させるだろう。その前に何とか車にたどり着かねばならない。あちこちからサイレンが聞こえてくる。
石川警部は、駆けつけたパトカー乗務員二人にバッジを見せながらすぐさま名乗った。
「警視庁捜査一課の石川だ。警官殺しの犯人とおぼしき男を尾行中拳銃の音を聞いて駆けつけた。既に本庁には連絡してある。応援が駆けつけるまで、ここでの指揮は俺がとる」
二人はすぐさま敬礼し、指示に従うそぶりをみせたが、硝煙の臭いのたちこめる現場である。二人は興奮していた。ひとりが、「あれは何だ」と叫んで駆けだした。ベンツの脇の床が45度の角度で持ち上がっていて、下から光りが漏れている。石川が舌打ちしながらそちらに近づいて行く。地下室の入り口がぽっかりと開いている。
「何だこれは。地下室じゃないか。」
石川警部は自分でもわざとらしい演技だとは思ったが、しかたがない。中にはデブの松谷がいる。顔を合わせるのはまずい。まして、ここをうまく収めるよう飯島に指示されている。それをどう実行に移すかが問題だった。
パトカーのサイレンの音が次第に近づいてくる。冷や汗が脇を濡らす。外にいる二人の偽警官が上手くやってくれることに期待するしかない。
「石川警部、自分が入ってみます。」
パトカー乗務員の臼井巡査と名乗った男が申し出た。やや小柄だが敏捷そうな男だ。石川が命令口調で言った。
「まず、中に声をかけてみろ。」
「はい。」
臼井は腰を屈めて、叫んだ。
「誰かいますか。どなたかいたら返事してください。こちらは池袋警察署の臼井巡査です。」
サイレンがまじかに迫った。どうやら二台目が到着したようだ。遅れれば遅れるほど面倒になる。石川は額の汗を拭う。中から声が響いた。
「二人います。一人は行方不明だった少女で、ここに監禁されていました。私はその父親です。」
「嘘だぞ、そいつは拳銃を持っている。」
松谷の声だ。臼井巡査が石川を振りかえり、困ったような顔で石川の指示を待つ。石川は考えを巡らせるが混乱した頭は真っ白なままだ。すると再び声がした。
「確かに銃を持っている。しかし、これは使っていない。監禁された娘を取り返すために持って来たんだ。それより、臼井巡査、貴方は本当に警官ですか。それを証明できますか。」
臼井はこれを聞いてはじかれたように笑いだした。そして笑いながら答えた。
「これは驚いた。パトカーに乗って、しかもこの制服を着ていて、本物かどうか疑われたのははじめてです。」
今度は少女の声だ。
「まずは顔を見せなさいよ。私は、何週間もここに監禁されていたの。人間不審になってもしょうがないでしょう。」
「お嬢さんがいるみたいですね。監禁されていたっていうのも本当らしい。いいでしょう。これから降ります。もう一人は内田巡査部長と言います。撃たないでくださいね。」
臼井巡査が階段を降り始めた。石川は思わずほくそえんだ。外にいる二人の偽警官であればこうも上手くことは運ばなかっただろう。臼井巡査の人柄が下の二人を安心させたのだ。もう少しだ。もう少し、時間があれば飯島の命令に応えることが出きる。
先ほど電話を入れて緊急事態を伝えると、飯島は石川に指示を与え、最後に、こう付け加えた。
「俺は次の事態に備える。絶対にうまくやれ。」
そう言って、飯島は電話を切った。次の事態に備えるとはどういう意味なのか、石川には理解できなかった。とはいえ、飯島の指示は地下室を誰にも知られずに密閉し、晴美を確保することだ。パトカー乗務員の臼井と内田は葬りさらねばならない。
四人が階段を上がってくるまでの時間が途方もなく長く感じた。臼井は石田から預かった拳銃をビニール袋に入れて手に持っていた。臼井が二人から聞いたこれまでの経緯を話している時でさえ、次々とパトカーが到着する。石川は気が気ではない。
石川がビニール袋に入れられた銃を受け取ると、二人のパトカー乗務員、臼井と内田にに新たな指示を下した。
「よし、分かった。私が二人を保護しよう。それより、地下をもう少し調べてくれ、中にもう一人の声が聞こえた。」
「ええ、それが彼女を拉致した犯人のうちの一人だそうです。」
二人は石川に敬礼して、再び地下に降りてゆく。奴等を地下室ともども葬ってしまわなければならない。石川は少女に話しかけた。
「私は警視庁捜査一課の石川と申します。しかし、大変な目にあったみたいですねえ。体の方は大丈夫ですか。」
「ええ、平気です。でも二食とも油っぽいコンビニ弁当だったのには参りました。」
石川はことさら大きく笑って見せたが、外の様子を見て気の遠くなる思いに駆られた。制服警官のオンパレードだ。二人の仲間の偽警官が叫んでいる。
「犯人は拳銃を携帯しています。この通りの東側に逃げています。本庁の石川警部の指示です。包囲網を敷くようにとのことです。おたくはこのまま戻って山手通りに行ってください。」
石川がその一人の偽警官に声をかけた。
「おい、澤田巡査。ちょとこっちにこい。」
澤田と呼ばれた男が振り返り、駆け寄った。石川は澤田に地下室にパトカー乗務員を閉じ込めろと指示した。澤田がビルに向かって走った。しばらくすると、喧騒のなか、床の閉まる振動が後ろから聞こえてきた。しばらくして澤田が何食わぬ顔で横を通りすぎた。
石田と晴美はパトカーの横で待機していた。ちょっと待っていて欲しいという石川警部の指示に従ったのだ。石川警部は喧騒の中、次々と到着する警察官たちにてきぱきと指示を出し、忙しそうに動き回っていた。
15分ほどして機動捜査隊が到着して、ビルの回りにテープを張り始めた。機動捜査隊員二人が敬礼して、石川警部に捜査開始を伝えた。石川警部が辺りを見回した。そこに待機している二人の警官を呼んだ。
「おい、そこの二人、ちょっと来い。」
二人は早足に近づいてきた。石川警部が喧騒に負けないような大声で指示を出した。
「この事件は本庁が取りし切る。お二人を警視庁にお連れしろ。特にお嬢さんは疲労困憊されている。手短に調書を取ったら、入院の手続きが必要だ。いいな。分かったな。」
二人は踵を返しパトカーへ向かう。石田と晴美に事情を説明し、パトカーのドアを開けた。二人は後部座席に落ち付いた。ドアが閉められようやく喧騒から逃れた。二人の警官も乗り込みパトカーが動き出す。
警視庁と聞いて、石田はほっとした。池袋署は殺された坂本警部のいた古巣だ。例の裏切り者の警部がいるような気がして不安だった。警視庁であれば少しは安心できる。見張る目は多いほど良いに決まっている。
晴美は疲れているのだろう。しばらくすると石田の胸に顔を押し付けて寝入ってしまった。ふと思い付いて、携帯を取りだし榊原に連絡を入れた。榊原はすぐに出た。石田が言う。
「もしもし、俺だ。今パトカーで警視庁に向かっている。ちょうど飯田橋を過ぎたところだ。」
「おい、前にいるパトカー乗務員に気をつけろ。俺を銃撃したのは偽の制服警官だった。それに、坂本警部と瀬川警部補を殺した警部も現場にいた。石川警部と言う。そいつがお前達に近づかなかったか?」
「ああ、分かった。君もタクシーを飛ばして警視庁に来てくれ。」
そう答えると、携帯を切った。確かに、あの警部は石川と名乗った。助手席に座る警官が話しかけてきた。
「誰に電話したんです?」
「こいつの、お袋さんだ。心配して何日も寝てないんだ。ゆっくり眠れと言っても、今日は眠れんだろう。警視庁に呼んでおいた。」
「それはよかった。お嬢さん、すっかり安心して寝入っていますよ。よっぽどほっとしたんでしょう。」
警官は前を向いて頷いている。たいした演技力だ。石田は、ベルトに差した警棒を引き抜いた。皇居が見えてきた。道は合っている。内堀通を疾走する。もうすぐ桜田門だ。寝たふりをしながら視線を走らせる。
桜田門を通り過ぎた。石田は再び警棒を握り締める。桜田通りを疾走する。二人が寝入った思っているらしく、前の二人は気楽に考えているのだろう。しばらくして車は環状線に乗り、芝公園を左に見下ろした。
相当飛ばしているようだ。車はお台場線との分岐点で羽田線にはいった。そしてすぐに一般道に下りた。石田があくびをして、きょろきょろと車外を見た。大きな倉庫が林立している。
「ここはどの辺ですか。」
助手席の男がにやにやしながら振り返り、言葉を発した。
「目覚めてみれば、地獄の1丁目ってわけだ、石田。よく寝ていたな。」
「ここが地獄の1丁目だとは初耳だ。あそこに見えているのは品川火力発電所だろう。あれが地獄の猛火といいわけか。君もセンスがないねえ。」
男が顔色を変えた。右腕を動かし、リボルバーを突き出した。
「起きていたってことだ。まったく油断も隙もあったもんじゃねえ。あんたの顔を見てすぐに思い出したよ。中野ではちょっと油断して蹴りをくらった。しかも後までつけられた。しかし、今度は、そうは行かん。」
「俺も、最初に気付くべきだった。あそこに止めてあったパトカーは最初に駆け付けた臼井巡査と内田巡査部長のパトカーだ。彼等はどうした。」
「地下室に閉じ込めておいた。もっとも床の開閉装置を破壊したから、もう日の目は見られん。ミイラになるしかない。ポリ公のミイラなんて見たくもねえがな。」
こう言って声を出して笑った。石田に向けられた拳銃が上下に揺れた。一瞬の隙をついて、石田は左手で銃身とシリンダーを握った。男の顔が引きつった。石田が言った。
「こうしてシリンダーを握ると引き金が引けないってことを知っていたか。君はまたしても油断したってことだ。」
男は必死で引き金を引こうとしている。しかし、シリンダーが回らず、従って引き金は動かない。石田は右手に握った警棒を振り下ろした。
急ブレーキがかかる。車がスピンする。ブレーキ音が心臓に響く。運転していた男が腰の拳銃を抜こうとしてハンドルがぶれたのだ。車は回転しながらガードレールに衝突を繰り返した。石田は諦めて車の動きに体を委ねた。悲鳴をあげる晴美を抱きしめ、ソファーに伏せた。
強い衝撃が襲った。晴美を抱きかかえながら、最初は前に、そして上に飛ばされた。衝撃は一瞬だったが、衝撃音はしばらく耳に残っていた。ガラス片が顔にへばりついている。前の方でうめくような声が響いた。
「やられた。奴にやられた。」
見ると、さっきの男が携帯で話している。息も絶え絶えで、血だらけで痛々しい。携帯を取り上げるが抵抗する気力も残っていない。手がだらりと落ちた。携帯を切って、晴美に声をかけた。
「大丈夫か、晴美。」
「ええ、大丈夫。仁がクッションになってくれたから。仁こそ大丈夫。」
「ああ、大丈夫だ。ちょっと頭痛がする。前の奴等は相当ダメージを受けている。」
床にオートマティックの銃が転がっている。食指が動いた。これも頂いておくことにした。
左のドアは何度かガードレールと接触を繰り返すうちに吹き飛んでいる。二人はようやく這い出ると、石田は小野寺に電話を入れた。小野寺はすぐにでた。晴美が無事だというと、深い溜息を漏らした。そして言った。
「幸子にも知らせておく。」
いで119番通報して救急車を呼び、榊原にも電話を入れる。
「おい、大丈夫か。心配していたんだぞ。だが、電話してよいものかどうか、ずっと迷っていたんだ。」
「ああ、大丈夫だ。すぐに迎いに来てくれ。晴美も無事だ。」
しばらく沈黙が続く。ほっとしているのだろう。
「良かった。本当に良かった。今何処だ。」
100メートルほど先にコンビニが見える。塀にある住所表示を読んでコンビニの所在を伝えた。急に腹が鳴り、レストランを探すがそれらしき明かりはない。しかたなく、コンビニに入り、隅に備えられた小さなテーブルでカップ麺とお握りを食べた。
救急車のサイレンが響く。ようやく到着したようだ。晴美はよほど眠たいらしく、石田によりかかりうとうとしていた。ところが、急にたちあがり、
「いけない、忘れてた、」と叫んで、石田の携帯をポケットからぬきとった。
「すっかり忘れてたわ。お母さんを安心させないと。」
携帯のボタンを手際良く押して耳に当てた。しばらくそうしていたが、首を傾げた。何度かリダイヤルしても結果は同じだった。
「おい、どうした。お母さんは留守か。」
「ええ、出ないの。どうしたのかしら。春代がいるのだから、こんな遅く出かけるはずないわ。」
「春代って晴美の妹のこと?」
「そう妹。パパの血を分けた子よ。可愛いの。まだ小学6年生だけど。」
「春代っていうのか。」
石田は春代と聞いて妹の和代の名前を思い出した。小野寺の思いがこもっているのだろうか。何とも言えない不思議な感動を覚えた。だが、次の瞬間、急激に不安が襲った。
小一時間程して二人は榊原に拾われた。晴美は榊原の変わり様に目を丸くしていたが、特にそれには触れなかった。確かに、野武士が商人に化けたような変わりようだ。その綺麗に刈り込んだ眉を見上げながら、石田が言った。
「晴美が何度も電話を掛けたが家につながらない。どうしたんだろう」
「お前から電話をもらって、すぐにワシも電話した。その時は通話中だった。いったいどうなっているんだ。つまり、その後何処かに行ったということか。」
と首を傾げた。石田はすぐに了解した。小野寺と幸子が話をしていたのだ。ということは、それまで榊原が言うように、幸子は家にいたことになる。榊原が言う。
「よし、もう一度電話してみよう。」
片手運転で、携帯のリダイヤルボタンを押した。しばらく耳にあてていたが、諦めて首を振った。
「今度は留守だ。30回待って出ないってことは、間違いなく家にはいない。よし、晴美さんを親父に預けたら、二人で行ってみよう。」
「私も一緒に行く」
「駄目だ、撃ち合いになるかもしれないし、これ以上君を危険な目に合わせたくない。いいか君は残るんだ。いいね。」
「分かった。」
消え入るような声で言った。やはり不安は隠し切れない。しばらく重苦しい沈黙が車内を包んだが、石田が大きく溜息をし、気分を変えるように言った。
「晴美、さっき話してやったあの不思議な話しを思い出せ。お前の叔母さんが付いているんだ。心配するな。ところで、今、何処に向かっている?」
「目黒だ。目黒区役所の先だ。さっき親父に電話して確かめた。ところで池袋駅に置いた車はレッカー移動されたんで、親父の借りた車を取り上げて来たんだ。それで親父は怒っている。」
「それはそうだ。あの人のことだ、待つのは苦手だろう。」
「ああ、親父も一緒にあのビルに行くつもりで車に乗った。だけど、足手まといになると思って、親父が煙草を買いに降りた時、置き去りにしてきた。キャンピングカーを渋谷に回せって怒鳴ったら、地団駄踏んでた。」
黙って聞いていた晴美が口を挟んだ。
「親父さんって?」
「ワシの親父だ。頑固もんでな、面倒な男だ。」
キャンピングカーは広い駐車場でも目立った。車をその横につけた。榊原が恐る恐るドアをノックすると、内側から勢い良く開いて、親父さんがにこにこして顔を出した。榊原を無視し、その手で横に押しのけた。その視線は晴美に向けられている。
「良かった、良かった。本当に良かった。腹すいているんだろう、晴美ちゃん。饂飩をゆでておいたから。さあさあ、中に早く入りなさい。」
晴美を預けると、石田と榊原はすぐに車を発車させた。幸子の家は三軒茶屋にある。ここからすぐ目と鼻のさきだ。しかし、15分もしないうちにキャンピングカーにもどるはめになった。小野寺から連絡が入った。幸子と春代がさらわれたと言う。
第二十章
石田から電話をもらい、晴海が無事と聞いて、心に巣くっていた不安と焦燥が一瞬で消えた。小野寺は石田の電話を切ってからも、それを幸子に伝えられる喜びで、浮き立つ思いは押えようがなかった。震える指でダイヤルを押した。
幸子と話すのは何年ぶりになるだろうか。愛想を尽かされても仕方がないことをやった。幸子は金に執着を持たない女だが、さすがにあきれ果てていた。互いに憎みあうことはなかったが、結局あのことが契機となって、二人を結びつけていた糸がぷつんと切れた。
晴海に冷たいという非難は、説明不能なのだから、無視せざるを得なかった。二人の溝が深まったのは、晴海がぐれだし外泊を繰り返すようになった頃だ。あの時、もっと親身になって相談にのっていれば、あそこまで亀裂が広がることはなかった。とはいえ、晴海の携帯を盗聴したり、ノボルを張ったり、裏ではそれなりに努力していたのだ。
その溝は、今となっては埋めようもないが、それでも二人がかつて共有したぬくもりに触れてみたいという思いが、小野寺の心を浮き立たせた。まして幸子が待ち望んだニュースだ。呼び出し音が響く。心ときめかせる。しかし、受話器から聞こえたのは男の声だ。
「はい、もしもし、小野寺です。もしもし、もしもし。」
その声に聞き覚えがあった。まさかという思い。過去の記憶へと神経経路が辿る。愕然として受話器を落としそうになる。一瞬にして奈落の底に突き落とされた。受話器を握る手が震えているのが分かる。小野寺の怒りが爆発した。
「きさまー、許さんぞー。幸子をどうしたんだ。春代に指一本触れてみろ、殺してやる、絶対に殺してやるぞ。」
その後、何を叫んだか覚えていない。一瞬にして正気を失っていた。男は小野寺の罵詈雑言を静かに聞いていた。そして、怒りの言葉が尽きる頃、小野寺は自分の弱い立場に思いあたった。怒りを収め、今度は泣きながら哀願していた。
「たのむ、助けてくれ。二人の命だけは助けてくれ。俺はどうなってもかまわない。もう、死ぬ気でいたんだ。晴美の命とひきかえに死んでもいいと思った。頼む二人を助けてくれ。」
ようやく男が口を開いた。
「小野寺さんよ、そっちがその気なら、こっちも考えてもいい。あんたもようやく素直になったようだ。晴美さんだって例のブツさえ手に入れば、返すつもりだった。それをあんたが余計な手を使うからこうするしかなかった。分かるか。」
「分かった。二人は無事なんですね。」
急に丁寧語になっている自分に気付かない。誇りも何もあったものではない。晴美同様、二人を自分の命に代えても守らなければならない。
「当たり前だ。傷つけるつもりはこれっぽっちもない。いいか、良く聞け、お前が例のものを渡せば、その場で二人を放す。お前の命をとろうとも思ってもいない。ブツが本物だと分かれば、二人と一緒に帰ればいい。」
「分かりました。あなたの言葉に従います。最後の言葉は眉唾だが、それはもうどうでもいい。」
「おいおい、それはないだろう。俺は本部に対してだって超然としてきた。あんたの命は保証する。信用しろ。それより、あんたは、何故、あの石田と接触をもったんだ。」
「あの石田」という言葉に、「あの少女の兄」というニュアンスを感じた。電話の相手が飯島であることは間違いない。
「飯島さん、おひさしぶりです。こうして再会するとは、やはり縁でしょうね。何故、あの少女のお兄さんである石田さんと私が結び付いたのか。実に不思議なことです。」
飯島は正体がばれたのはまずいと思った。やはり殺すしかないだろう。
「飯島さんは、信じないと思いますが聞いて下さい。実は不思議なことが起こったんです。石田さんが突然私に電話してきたんです。誰も知らないはずの私の携帯に石田さんが電話を掛けてきたんです。何故だと思います?」
「そんなこと分かるか。」
「あの少女が、あの柏崎で死んだ少女が、私の携帯を使って石田さんの携帯に電話したんです。お兄さん助けてと叫んだそうです。」
「…………」
「私の携帯は非通知設定でした。石田さんはある伝手を通じてNTTの通話記録を入手しました。その日付を見て、私も目を見張りました。まさにあの日だった。私達があの少女の命を奪った、あの日だったんです。飯島さん、そんな話信じられますか。」
「信じるわけないだろう。」
その声に怯えはない。苛立ちを押さえているが、耳だけはそばだてている。
「私も、その通話記録を見るまで信じなかった。しかし、その記録には昭和57年7月18日の日付が確かに書いてあったんです。飯島さん、死は終わりじゃないのですよ。それが信じられるようになって、少しは気が楽になった。」
飯島が怒りを爆発させた。
「うだうだ下らんことを言ってんじゃねえ。明日の午後四時電話する。その誰も知らないその携帯番号を教えろ。」
携帯の番号を教えると、飯島が言った。
「いいか連絡を待て。二人に危害は加えない。とにかくブツを用意しろ。」
見覚えのあるキャンピングカーが見える。既に深夜0時を過ぎていた。合図のノックをすると榊原が顔を出した。居眠りしていた石田が背筋を伸ばしているのが見える。中に入ると皆既に車座になっていて、小野寺の席も用意されていた。
上下のベッドが二つ壁側に折りたたまれ、三畳ほどのスペースがある。晴美の姿はない。中に入ると、榊原が上を指差した。運転席の上がベッドになっている。見ると、晴美は顔をこちらに向けて寝入っている。疲れているのだろう軽いいびきが聞こえる。小野寺はその顔をしばらく見詰めた。
こうして寝顔を見詰めるのは何年ぶりだろう。夜遅く部屋を覗くと、ぐれてはいても寝顔だけは昔のままの愛らしさを湛えていた。頬寄せたい衝動を押さえたものだ。今もその衝動をそっと心の奥に仕舞い込んだ。
これで晴美とのお別れとしよう。そして、彼等に、話すべきことを話してしまわなければならない。死を前にして初めて民族の壁を越えられそうな気がした。小野寺は振り返り、腰を落とした。
和代の話しは出きるだけ正直に話したが、和代が死ぬ前日、小野寺を誘ったことは話さなかった。互いに淡い恋心を抱いていたと語ったのだ。そして最後に、何も出来なかった自分の卑怯さをさらけ出し、石田に詫びた。石田がそれに答えた。
「いや、私だって拳銃を突きつけられたら何も出来なかったでしょう。それより、和代は夢見る少女だった。いつか現れるであろう恋人を夢見ていた。きっと最後に会えたんだ。和代は貴方の心の中にまだ生きていた。だからあなたの電話を使ったんだ。」
そういってまた涙ぐんだ。そして大きく息を吐き、きっぱりと言った。
「もう、分かりました。長年の心の靄がようやく晴れました。さあ、次に移りましょう。小野寺さん、例のブツの話しをして下さい。我々はここまで関わったのだから、知る権利があります。」
榊原と親父の目がぎらりと光った。
「分かりました、お話ししましょう。」
と言っって大きく息を吸った。皆、固唾を飲んで小野寺の言葉を待った。小野寺が口を開いた。
「皆さんはGPSをご存知でしょうか。」
石田が答えた。
「ええ、最新鋭の精密度誘導装置に使われているのがGPSでしょう。湾岸戦争の時のピンポイント爆撃で有名になった。」
「そうです。全地球測位システム、GPS衛星の信号で位置を計測し、10メートル以内の誤差でミサイルを標的に誘導する、それがGPSです。そして、あれは日本の最新鋭技術が用いられていることを知る人は少ない。」
「ほー」
榊原親子が同時に感心して驚きの声を上げた。
「北朝鮮にはミサイル技術はあるが、それを正確に標的に着弾させる技術はない。この情報は喉から手が出るほど欲しかった。」
三人が頷く。
「そして、彼等はある民間の研究所からそれを盗み出した。しかし、ようやく手に入れたその情報が彼等の手から零れ落ちて、人手に渡ってしまった。」
石田が聞いた。
「つまり、小野寺さんの手に渡ったということですか。」
「そうです。そして、彼等はそれを再び手に入れることになるのですが、その前にたまたま洋介君の手に渡った。つまり洋介君が盗んだCDにはGPSの情報が詰まっていたのです。」
「なんだって?」
すっとんきょな声をあげたのは榊原だった。
翌日、目覚ましの音で目覚めると、親父さんの姿はベッドにない。榊原があくびを噛み殺しながら言った。
「もう、朝か。4時間も寝ていない。今日は忙しくなりそうだ。そうそう、今日、逮捕されなきゃならないかもしれないな。」
晴美も目を覚ましていたらしく、榊原の言葉を聞きとがめた。
「おじちゃん、なんで逮捕されなきゃならないの。」
「うーん、どうも説明しずらいな。でも、大丈夫だろう。疑いも晴れ、無罪放免になる。きっとな。」
「もう少し、詳しく教えて。」
石田が口を挟んだ。
「晴美、今日、全てが終わったら、教える、何もかも。二人は今日やるべきことがあるんだ。」
「もしかして、お母さん達も誘拐されたんじゃないの。」
石田と榊原が顔を見合わせた。石田が重い口を開いた。
「ああ、そのまさかだ。だが、お母さん達は大丈夫だ。二人に危害が加えられる恐れはない。或る人物が奴等の所に行けば、お母さんと春代ちゃんは開放されることになっている。それは間違いない。」
「ある人物って誰なの?昨日聞いた、伯母さんが仁に電話した、その携帯の持ち主?」
石田はつくづく勘の鋭い子だと思った。しばらく口をつぐんでいたが、もう隠す必要はないと感じた。頷きながら答えた。
「そうだ、実はそれが君のパパだ。昨日の深夜、ここに来て、君の寝顔をずっと見詰めていた。お別れがしたかったんだ。」
見る見るうちに、晴美の大きな目から涙が吹き零れ、頬を濡らす。思いも掛けない真実に触れ、心の隅にしまい込んでいた理不尽な思いから、一瞬にして開放されたのだ。
「パパは叔母さんを愛していたの。」
「そうだ。だから君のパパは、君を見るのが辛かった。君が僕の妹にそっくりだったからだ。君を嫌っていたわけじゃないんだ。」
晴美が声をあげて泣き始めた。
「さあ、時間がない。いいか、ここで待つんだ。榊原の親父さんはここの支配人と友達なんだ。事情を話して、君を預かってもらうことになっている。夜までには、かたをつける。つまり、君のパパを救い出す。君のパパは何もするなと言い残した。俺達が動けばお母さんと幸代ちゃんに危険が迫ると思っている。だけど、俺達は君のママと幸代ちゃんの二人が開放されてから動くつもりだ。それなら、君のパパも許してくれるだろ。」
晴美は泣きべそをかいたまま階段を降りてくる。健康ランドのお仕着せに身を包んで、肩を震わせている。何度もしゃくりあげる様子は子供のそれだ。石田と榊原が準備を整えると、三人は車の外に出た。晴美が二人に抱き付いてきた。声を震わせ言った。
「二人とも絶対に戻って来て。パパを、お願い、助けて。」
石田は車を走らせながら榊原に聞いた電話番号に掛けた。
「ちょっと情報を提供しようと思って電話したんだ。情報と言うのは警視庁の刑事が二人殺された事件のことだ。知っているかね。」
「は、はい、知っています。」
相手はかなり緊張している様子だ。
「それでは、その事件担当に回して下さい。」
担当部署にはすぐに繋がった。
「こちらは、警視庁捜査1課です。最初にお名前を伺いましょうか。」
「その前に、貴方のお名前を伺いましょう。」
「榎本警部補です。」
「私は石田といいます。こうした電話は結構多いのですか。」
「ええ、その通りです。」
「昨晩、要町で銃撃事件がありましたでしょう。あの場に、私と榊原警部補がいたんです。」
「ほう。」
まだ信用していないようだ。
「パトカーが一台行方不明になった。そのパトカーは品川埠頭のコンテナ置き場で事故を起こし、乗員が病院に運ばれた。」
「そうです。」
これは今朝の新聞には載っていない。榎本警部補は一瞬緊張し受話器を握り直した。
「家族が病院に駆けつけると、乗員はまったく別人だった。そうでしょう。」
「おいおい、ちょっと、そっちの電話とって聞いてくれ、とんでもない情報だ。」
受話器を押さえたつもりなのだろうが、すべて聞こえていた。そうとう焦っている。石田は笑いを押し殺し、次の反応を待った。
「もしもし、もしもし、もう一度聞きます。パトカーの乗員が偽者だったと言うわけだね。あんたは、いや、石田さんはそのことを何で知っているの?」
「その前に、テープレコーダーは回っていますか。これから何度も電話するつもりです。ですから、別の番号を私専用に押さえておいて下さい。それとテープも忘れずに回して下さい。いいですね。」
「はいはい、分かりました。もう一度聞きますが、、、」
石田が途中で遮った。
「ええ、パトカー乗務員は偽者だった。本当の乗務員は別のところにいます。臼井巡査と、内田巡査部長です。」
「二人は何処にいるのです、生きているのですね。」
「ええ、生きています。その前に話しを整理しましょう。これから言うことは必ず裏をとってください。まず、金沢で牛田洋介君の捜索願が5月末に出ています。そして7月初めに三軒茶屋に住む小野寺晴美さんの捜索願が出ているはずです。二人は恋人同士でした。まず。このことの裏を取ってください。どのくらい時間かかりますか。」
「15分で十分です。」
「では掛け直します。私専用の電話番号とファックス番号を教えて下さい。」
電話をきると、車をマクドナルドのドライブスルーに滑り込ませた。既に午後一時半になろうとしている。小野寺に連絡が入るまで二時間半しかない。
次にコンビニの駐車場に移動した。今朝、石田は中野の自宅マンションに戻り、キャドで正確な図面を作っておいた。偽警官の話から推して例の開閉する床面は周りと見分けがつかないように出来ている。確か50センチ角のプレートを敷き詰めたような模様だった。
石田は記憶を頼りにその開閉口の正確な位置と大きさを描いた。敵は偽警官が臼田巡査達のミイラになる運命を石田に漏らしたとは思っていない。つまりこのことが、敵の完璧な情報網と組織に楔を打ち込める有効な手段なるのだ。
つまり石田達も警察の情報網と組織を動員して敵に立ち向かうことが出来る。勿論、コンタクトする人間は、信用のおける人間に限るのだが、今は運を天に任せるしかない。15分後、石田が携帯を取り上げ、番号を押した。電話の相手はすぐに出た。
「はい、捜査1課、榎本です。確認がとれました。確かに二人には失踪届が出されております。」
「その前に、聞いておきたいことがある、榎本さんの班の係長は何と言う人です。」
「磯田警部です。」
磯田警部は榊原のメモによるとまあまあと書いてある。何人も名前をあげてメモを書いていたが、榊原が誉めた人物など一人もいない。榊原の暗い人間関係を思い知らされた。
「それから、この件はしばらくの間、榎本さんの班と捜査一課長止りにしてもらえませんか。それと、石川警部には情報を流さないで下さい。了解してもらえますか。」
しばらく、間があいた。恐らく石田の電話に耳を傾ける捜査一課長に目線で了解を得ているのだ。
「了解しました。石川警部と言うのは本庁捜査一課三係の石川のことですね。」
「ええ、その通りです。では、昨晩の事件の概要をお話しします。まず、あのビルには地下室があり、そこに失踪していた小野寺晴美が軟禁されていました。その小野寺晴美を榊原と私で昨夜救出したのです。牛田洋介君は残念ながら、既に死んでいました。死体はコンクリート詰にされて地下に放置されています。」
「ほ、ほ、本当ですか。」
「ええ、本当です。小野寺晴美は今安全な場所に保護しています。今話したことは、彼女が証言するはずです。そして、臼田巡査達もその地下室に閉じ込められています。そうそう忘れてましたが、敵が一人牢屋にいます。脚のアキレス筋を切られた状態ですが、命に別状はないでしょう。」
「その敵は誰にアキレス筋を切られたのです。」
「私が切りました。晴美を救出するためにしかたなく。」
別の声が響いた。
「石田さん、捜査一課長の韮沢です。今、晴美と呼び捨てになさった。貴方は晴美さんのご親族なんではありませんか。」
「これは韮沢さん。榊原に言わせれば叩き上げの信頼出来る人物だとか。」
韮沢が笑った。実を言えば叩き上げだが、優柔不断だと評していたのだが、榊原の今後のことを考えておべっかを言ったまでだ。
「それはそれは有難うございます。それはそうと、どうなんです。」
「榊原が評した通り鋭い。おっしゃる通り父親です。ですが、今は離婚していますので戸籍上は関係ありません。」
「石田さん、どうも分かりません、どうして警察の力をかりずに、独力で危ない真似をするんです。二人の偽警官の銃が消えています。石田さんが持っているんじゃありません。」
石田は顔をしかめた。
「私共を信用して下さい。信用出来ないというのは、さっき言っていた石川警部に関係があるのですか。つまり、警視庁も信用できないと。榊原がそう言っているのですか。」
「実は、この事件は公安事件です。」
これは榊原から言えと指示された台詞だった。公安と刑事はもともと仲が悪い。公安に事件を持って行かれることを極端に恐れているから、極秘扱いになると言うのだ。石田は拳銃の件をうやむやにしようとその台詞を言ったのだが、効果はあった。
韮崎が息を呑む音がかすかに聞こえた。
「公安だって、とんでもない。これはれっきとした刑事事件だ。警官が二人殺された。その事件とも関係しているってことでしょう。」
「その通りです。二人を殺したのは石川警部です。」
今度はごくりと生唾を飲む音がはっきりと聞こえた。
「いいですか、これからFAXを送ります。発砲事件のあったビル1階の図面を送ります。それと、私は土木技術者なんですが、何処をどうやれば床が開くかヒントもかいてあります。早めに二人の警官を救出して、洋介君の遺体を回収して下さい。開閉スイッチの位置も図面に描いてありますが、例の偽警官はそれを破壊したと言っていました。それが修復可能かも調査して下さい。」
「分かりました。すぐに取りかかります。ところで、小野寺晴美さんを保護したいのですが、場所をお教え願いませんか。」
「さっきも言いましたが、これは公安事件です。情報が漏れれば、晴美が狙われます。明日まで待ってください。それでは…」
「待って下さい。石田さん、何かやろうとしておるんじゃありません?素人が危険を犯す必要はありません。我々がいるのです。そのために警察があるんです。」
「お言葉ありがとうございます。ところがこっちには三人も玄人がいます。ではFAXを送ります。」
電話が切れ、韮沢は受話器を持ったまま、不思議そうな顔をして呟いた。
「三人だって。榊原を助ける奴が三人も警視庁内にいるって。そんな馬鹿な、そんなことあり得ない。」
コンビニでFAXを送り、着信したかどうか確認をいれ、話したがる韮沢を冷たくあしらい、車を環七の流れに乗せた。しばらく走らせ、方南町交差天を左折し、新宿に向かった。既に時計の針は二時を回っている。あと二時間だ。
親父さんは眠らずに、朝早くその男の自宅を張った。男は警視庁にまっすぐ入って行き、出てくる様子はないという。警視庁内部では榊原の唯一の友人が、その男の今日の予定を探っているはずだ。分かればすぐに榊原に知らせることになっている。
石田は榊原と親父さんに二丁の拳銃を取り上げられたことに、苦い思いを抱いた。もし、榊原の推理が正しければ、もし、和代に手を掛けた少年が成長してその男に成りすましているのなら、この手で撃ち殺してやりたいと思ったからだ。
第二十一章
小野寺の話しは衝撃的だった。そんなことが本当にあり得るのかというような内容だ。三人は、じっと聞き入った。
小野寺は、柏崎で北朝鮮からやってきたという三人の少年達に日本語の発音を徹底的に教えた。彼等は語学の天才で母国語と日本語以外に3ヶ国語を話したという。三ヶ月の研修が終わり少年達と別れた。
その後二度と会うことはないと思っていた。何故なら、飯島から少年達はこれからヨーロッパに派遣されると聞かされていたからだ。時とともに三人のことはすっかり忘れていた。
しかし、偶然にも小野寺は三人の子供の一人と遭遇してしまったのだ。それは品川の高輪プリンスへ取引先の社長を訪ね、挨拶を終えての帰りだった。GPS研究会と看板に書かれた会場に近づいてゆくと、人がどっと会場から退出して来た。小野寺は足をとめ人混みを避けるために佇んでいた。
ふと、会場の入り口に目を向けると、人々の流れに逆らって二人の男が立ち止まって話し込んでいる。こちらを向いている男の顔に見覚えがあった。何処かで会っているのだが、どうしてもそれが思い出せない。
男は、もう一人の男に熱っぽく語っている様子だ。語りながら耳たぶを何度も引っ張っている。その時、その仕草で小野寺はあの時の少年の一人を思い出したのだ。神経質な質で緊張すると、いつもそうやって緊張をほぐしていた。
心に描いた少年の頃の顔が、見る間にその男のそれとぴったりと重なった。ちょうど一回り大きくなっただけで、目鼻立ちはそのままだ。あの柏崎での出来事が一瞬にして脳裏に映し出され、礒の香りさえ甦った。
小野寺は男の住所を突き止め、韓国情報部の岡山に密告した。小野寺は岡山が望む情報を流すだけで、仲間を売ることはしなかった。岡山もそれを強要しなかったのは、小野寺の情報源としての価値を認めていたからだ。
それが何故仲間を売る気になったのだろうか。あの少年が成長し、日本人として生活しているという事実の裏に何があるのか知りたかったのか、或は和代の死に関わった男への復讐を遂げたかったのか、今でも分からない。
小野寺と岡本は、電話を盗聴し、丸山亮が妻の実家に行くことを知って、その日、家に忍び込んだ。二人の注意を引いたのはパソコンだった。そして机の抽斗を開けるとMDがごっそり詰まっていた。
岡本はパソコンのスイッチを入れた。12桁のパスワードを聞いてきた。最初、丸山や家族の生年月日を組み合わせて入れてみたが駄目だ。いろいろ試しているうちに、夢中になって注意を怠った。そして、予想もしない事態が起こった。
「貴様等、そこで何をやっている。」
背後で怒鳴り声が響いた。二人は飛びあがらんばかりに驚いた。丸山が新幹線に乗り遅れ、車を取りに家に戻ったのだ。しかし、岡本は訓練されたスパイだ。腰のナイフを引きぬくと、男に突進した。男もこれに立ち向かった。
最初の一撃は丸山の肋骨に阻まれ弾かれた。岡山はにやりと笑った。丸山も背広を左腕に巻き付け構えた。しかし、岡山のナイフさばきは見事なものだ。右からと見せかけ左から払う。丸山の両腕は血だらけになり、丸山の口から悲鳴が漏れ始めた。
その時、岡山は腰をぐっと落とし、そのまま体ごと丸山にぶつかっていった。丸山の口からうめき声が漏れた。岡山はナイフの柄を握ったまま、体を丸山の背後に移し、一気に引きぬいた。どっと丸山が倒れた。絨毯がどす黒く濡れて広がった。
小野寺は急激に胃がせりあがるような感覚を意識した途端、嘔吐した。ゲーゲーと声をあげて吐いた。岡山が怒鳴った。
「おい、隣近所に丸山の怒鳴り声が漏れているかもしれん。パソコンの電源を消して退却だ。分かったな。」
こう言い終えて岡山はMDボックスからMDを鷲づかみにして鞄に入れると玄関に向かった。
小野寺はハンカチで口を拭い、パソコンを消そうとしたが、ふとMD取り出しボタンを押してみた。すると中にMDが入っていた。或はと思い外付けフロピーディスクドライブを見ると、フロッピーが僅かにその先端を覗かせている。小野寺は二つをポケットにいれると、岡本の待つ車まで走った。
榊原が口を挟んだ。
「そいつは鴻巣警察の事件だな。」
「ええ、そうです。この事件のことはご存知でしたか。」
「ああ、石神井の一家惨殺事件捜査本部に志願したのは、その事件と鴻巣の事件が似ているように思ったからだ。どうも素人を装った玄人の殺しに思えた。」
小野寺が大きく息を吐いて、言った。
「驚きました。まさにその通りなのです。その石神井の事件は韓国のエージェント岡山が引き起こしたのです。」
岡山のMDボックスから盗んだMDの中にも同じMDが入っていた。意味不明の文字と数時の羅列を単なる暗号とみて、本国に解読を依頼した。最初は楽観していたらしい。しかし、本国でも解読できず、情報部から岡本に、何としても解読の手がかりを掴めとの命令が下された。
例のMDは同時に外付けフロッピーディスクドライブに刺し込み12桁の暗証番号を入れないと本来の内容を表示しない仕掛けになっている。その暗証暗号はフロピーディスクに張り付けてあった。
岡山は何人かの北のスパイを捕らえ情報を得ようとしたが、彼等から何も知らなかった。これを聞いて榊原が叫んだ。
「それだ、そこが分からなかった。モンスターという裏切り者を探すのに、何も洋介君を誘拐までする必要があったのか、どうも納得がいかなかったんだ。」
小野寺が聞き返した。
「どういうことです。」
「つまり、こうだ。北側はMDとフロッピーがセットだと知っていた。恐らくこれは丸山の考案だ。丸山宅からは二つとも盗まれたが、北側は肝心なフロピーは韓国側に渡っていないと判断した。何故なら韓国側がその秘密を必死で探っていたからだ。」
今度は石田が聞いた。
「つまり…?」
「いいか、最初の鴻巣の丸山を襲ったのは、一人は岡山、もうひとりは血を見て嘔吐した素人だ。岡山がフロピーを入手し損なったのなら、この素人がフロッピーを隠し持っている可能性がある。しかし、その素人は何故か韓国側にそれを渡してはいない。つまりその素人は、どっち側でもないってことだ。」
三人が榊原を見詰める。
「一方、モンスターは北側が洋介君のアパートを張っていたことを知っていた。従って北の情報を知りうる人物で、裏切り者の可能性がある。つまり二重スパイなんてものは、結局北でも南でもない、どっち側でもないってことだ。その素人のどっち側でもない奴がモンスターってことに気付いたんだ。モンスターがフロピーを持っていることをね。」
小野寺が眉根を寄せて呟いた。
「なるほど、そうかもしれません。奴等も必死だったんでしょう。結局、洋介君を死に追いやったのは私ということになる。親御さんになんて言ってお詫びしたらいいのか。」
親父さんが、重々しく口を開いた。
「しかたがない。だれが悪いということではないんだ。そんなふうに因果が巡ってしまった。それが縁というものなんだ。」
その沈痛な声には皆を納得させる響きがあった。深い溜息をついて小野寺が続けた。
本国からの矢の催促に岡山が焦っていたのは確かだ。焦った岡山が辿り付いた結論はこうだ。三人の少年は全員日本人に入れ替わり、日本人社会の中枢にいる。彼等ならその解読法を知っているはずだというものだ。
岡山は丸山の交友関係を徹底的に洗った。MDに入っていた住所録を元に全ての人物の写真を撮った。そして小野寺が呼ばれ、その一枚一枚を入念にチェックさせられた。そして岡山の推理が当たっていたことを思い知らされたのだ。
「それが、石神井の石橋順二だな。小野寺さんもその事件の時、現場にいたのか。」
「いいえ、私はあの事件には全く関わっていません。」
「確かに、あの事件では現場で吐瀉物は発見されていない。」
と言ってにやっと笑った。石田が聞いた。
「しかし、何故、小野寺さんは岡山にフロッピーの情報を提供しなかったんですか。」
小野寺が溜息を漏らした。
「私は二重スパイの生活に疲れていました。こんな生活から逃げ出したかった。だから、最終的には岡山に情報を売るつもりでいたんです。そしてヨーロッパにでも渡ってのんびり暮らすつもりだった。」
「しかし、石神井の事件では容疑者が捕まった。ワシはそのことで自分の推理を捨てざるを得なかった。」
「あの容疑者は韓国エージェントです。日本国内で事件が騒がれ、韓国情報部としても騒ぎを沈静化させる必要があった。公判が始まれば、彼は供述を覆すでしょう。自白を強要されたと言ってね。」
「そして、アリバイを証明する人間が現れるって寸法だな。」
「その通りです。」
突然親父さんが割り込んだ。
「お前の推理が鋭かったってことは十分に分かった。いいか、ここで問題なのは三人目が誰なのかということだ。それが分からなければ、お前さんの推理がどうのこうのと言ったって始まらん。そして入れ替わったのなら、その本人はどうなったかだ。違うか?」
榊原が振り返り、二人はお互いに睨み合った。親父さんは晴海救出に置いてきぼりにされたのをまだ怒っている。
「親父さん、その三人目なら、ワシはもう目星をつけてる。それに本物の丸山亮は少なくとも偽者が大学4年生になるまで生きていた。毎月手紙を送っていたんだ。お袋さんが死ぬ直前まで手紙を書いている。」
小野寺がそれに答えた。
「鹿児島で少年が拉致されたという噂を聞いたことがある。恐らく手紙は北朝鮮で書いたものでしょう。」
「そしてお母さんは殺されたってことか。」
「ええ、そういうことです。北朝鮮スパイが日本人に入れ替わるための最後の仕上げです。一番重要で厄介な証人を生かしておくはずがない。」
「ひでえことしやがる。小野寺さんは、彼等はその後どうなったと思う。」
「分かりません、ただ言えることは、きっと三人とも北朝鮮で生きていたと思います。母親と時々連絡をとるために。しかし、利用価値があるのは母親が生きているうちだけです。母親の死後、生き延びることが出来たか否かは、これは個人の運としかいいようがありません。」
「ワシの記憶がただしければ、石神井の石橋順二は大学時代、母親とは没交渉だった。そして二年生の時母親は死んだ。その三人目は母一人子一人だったが、高一の時母親を失っている。」
これを聞いて、親父さんは興味津々の様子だが、行きがかり上、催促出来ずにいる。しかたなく石田が促した。
「その三人目って言うのは誰なんだ。」
「名前は高嶋信吾。警視庁の方面本部長だ。警察庁キャリアでもある。」
「何故、そいつがその三人目だと思うんだ。」
「以前、ワシは友人に頼んで、鴻巣と石神井の被害者の共通項を調べてもらったことがある。そいつも刑事だが、そいつの結論は、二人とも大学生の時に天涯孤独に陥っていると結論した。今日、それを思い出したんだ。そしたら、すらすら謎が解けてきた。」
石田が口を挟む。
「三人目の高嶋信吾も、片親で高一の時、その母親も亡くなった。つまりその刑事の話と一致しているというわけだ。」
「実はそれだけじゃない。三人目を特定する根拠はいくつもある。一つは、高嶋はMDを擦りかえられる立場にいた。つまり高嶋はMDを公安に回し、公安はMDを解読して製薬会社の新薬に関するものだと報告している。明らかにGPSのMDから新薬のMDが摩り替わっている。これが出来る立場にいたのは奴だけだ。」
「それは公安関係者でも出来る。」
「まあ聞けよ、親父。二つ、モンスターの情報がすぐに敵に漏れた。三つ、ワシが尾久のマンションを見張っていたのを敵は知っていてワシらに罠を掛けてきた。この二つ目と三つ目の両方の情報を知っていたのは高嶋だけだ。」
親父さんが口をもごもごさせている。榊原は父親の不満を理解し、すぐに反応した。
「モンスターのことはMDの解読にあたった公安課長や製薬会社を調べた捜査二課長も知っていた可能性があると言いたいのでしょう。だからワシは二つ目と三つ目を同時に知っていたと言ったんです。」
親父さんはぷいと横を向いた。
「四つ、和代さんの事件は今から20年前だ。ってことは年零がぴったり一致する。五つ、奴は、さっきも言ったが、大学ではないが高一で天涯孤独になった。友人が下した結論と一緒だ。六つ、奴が入れ替わったとするなら、東京に出てからだ。でも、どうしても郷里の言葉を覚えなければならず、一年か二年山形で暮らしたはずだ。ところで、犬山という山形出身の警部補から聞いたんだが、奴と話すときは山形弁で話すらしい。」
親父さんは意味が分からず、つい口をきいてしまった。
「それがどうした。」
「さっき、小野寺さんが言わなかったかい。三人の少年は語学の天才だったって。」
石田が思わず賞賛の声を上げた。
「つまり、山形弁を一二年でマスターしたってわけだ。それを今でも自由に操っている。榊原、お前の推理は完璧だ。それしか考えられない。すばらしい推理力だ。」
親父さんがむっとした顔で言った。
「まったく、お前って奴は、他の所は全く駄目だったが、そんな所だけワシに似やがって。」
榊原が言い返した。
「誰に似たって?ワシはお袋似だ。お袋には何の隠し事も出来なかった。だが、あんたはワシの思いなんてこれっぽっちも分かっていなかった。」
「分かった、分かった、もう何遍も聞いて、耳にタコが出来てる。ワシがゴマスって出世したと言いたいんだろう。神経の細いカミサンを犠牲にしたっていう、お前のガキ並の持論はもう聞き飽きた。」
親父さんがぷいと横を向いてふて腐れた。
榊原の唯一の友人から連絡が入った。高嶋方面本部長は13時から15時半まで方面部長会議、そして16時には私用で出かけるとのこと。榊原は自分の勘が当たっていることを確信した。私用に入る時間は、飯島が小野寺に電話を入れるのと同じ時間だ。
その友人は、高嶋のその日の行動予定と公用車を使用するか否かの二点だけは確かめると約束したのだ。そして時間をおいて公用車は予約されていない旨連絡してきた。これだけ分かれば十分だった。
高嶋は午後4時、正面玄関から出てきてすぐにタクシーを拾った。玄関で待機していた親父さんがやはりタクシーに乗って後を追った。その連絡を受け、合同庁舎三号館に駐車していた石田が車を急発進させた。
榊原は桜田門駅前で地下鉄を張っていたが親父さんの連絡を受け、クラクションを響かせ疾走する車を避けながら内堀通りを渡り切った。しばらくすると、白いカリーナが急停車してドアが開かれた。榊原は飛び乗ると携帯のボタンを押した。
「親父さん、タクシーは何処に向かっている。日比谷通りを右折だな。分かった。このまま携帯は切らずにいてくれ。」
石田がアクセルを踏み込んだ。
「おい、石田、どうも昨日、偽警官がお前達を連れていこうとした場所に向かっているような気がするが、どう思う。」
「ああ、確かに方角は一緒だ。恐らく昨日の今日だから場所を確保出来なかったのかもしれない。」
「しかし、それでは、あまりに安易過ぎないか。」
「いや、奴等が俺達の動きに翻弄されて余裕を失っているのかもしれない。ましてGPSの情報を得ることは至上命令だ。俺と晴美を餌に小野寺をおびき出す場所を翌日また使うというのも、止むおえない処置なのかもしれない。」
案の定、西新橋を左折し、しばらく行って都心環状線に乗った。間違い無く昨日の道だ。親父の携帯でのナビゲーションに従って疾走する。追い付く必要はないが、出来るだけ距離を詰めておきたかった。石田が携帯のリダイアルを押す。
「どうです、地下室はみつかりましたか。」
「いや、もう少しのようです。」
この時、車内の榊原が大声を張り上げた。
「おい、石田、高嶋方面本部長が埠頭公園で降りて歩いているそうだ。そして右に曲がった。親父の車はそこ通過して先で駐車した。今度は俺達の出番だ。」
「よし、分かった。この先だな。」
車内の会話を韮沢が聞きつけすっとんきょな声をあげた。
「おい、おい、石田さん。あんたが言っていた北のスパイってのは、まさか高島方面本部長ってわけか。」
「ああ、聞こえましたか。その通りだ。高嶋方面本部長だ。」
「まずいよ、それはまずい。あいつはキャリアだ。もし間違いだなんてことになったら、俺は左遷だ。」
「そんな馬鹿な話があるか。あんたは捜査一課長だろう。」
「一課長だろうが二課長だろうが、関係無い。おいおい、とんでもないことになっちまったな。兎に角、まずは地下室発見が先だ。それが出てくるまでこっちは手も足もだせん。」
「おい、おい、それはないだろう。多勢に無勢だ。あんた等の助けがいる。」
「それは地下室が見つかってからだ。」
電話は切られた。高嶋方面本部長と聞いて相当ぶるっている。石田は愕然とした。
ようやく埠頭公園が見えた。しばらく走ってゆっくりと左折する。左手に埠頭第一倉庫と書かれた倉庫があり、そこに駐車した黒の大型のバンに高嶋が乗り込むところだ。車の内部がみえた。一瞬だが壁一面に通信機器が埋め込まれている。
高嶋が乗り込むとバンは走り出した。そして海岸通を左折した。榊原が携帯に怒鳴った。
「親父、黒の大型のバンだ。そっちに向かっている。」
携帯を耳にあてたまましばらくして言った。
「汚水処理場を右折したそうだ。」
しばらく走り、右のウインカーを点灯させた。榊原が叫んだ。
「おい、石田、小野寺がいるそうだ。おい、石田、その細い道を左折して待機しろ。小野寺が高嶋に何か言っている。手にした物を折ろうとしているらしい。はあー、はあー、はあー、何だそれは。親父、はーはー、なんて変な声を出さずに解説しろ。」
榊原が石田に向かって解説を続ける。
「なに、前の車から母親と子供が降ろされたって。つまり、小野寺はフロピーディスクを折ろうとしたんだ。そうして親子を解放させたんだな。よしよし、それでいい。」
「小野寺がバンに乗り込んで、二台の車が動き出したそうだ。前の車は黒のセドリック。親子はその場に残された。おい、親父、しばらくそこで待機しろ。すぐに後を追っては気付かれる。」
受話器から親父さんのガーガーという割れた声が響く。榊原が解説した。
「そんなことは分かっているって。そうでしょ、そうでしょ、分かりました。はい、はい。」
石田が携帯をリダイヤルする。韮沢捜査一課長が叫んだ。
「まだ開いていない。もうちょっと待ってくれ。」
「そのことじゃない。誘拐されていた親子が今開放された。場所は五色橋の近くの汚水処理場だ。すぐに保護してくれ。」
うっと絶句する声が聞こえた。
「小野寺親子が開放されたというのだな。分かった。ところで、高嶋方面本部長がそこにいたのか。」
「高嶋が乗ったバンがそこにいた。それで十分だろう。」
「だが……」
「兎に角、親子を大至急保護しろ。身の保身のことはそれから考えろ。」
今度は石田が携帯を切った。榊原が言った
「二台の車がこっちに向かっている。」
二人は車をUターンさせて二台の車を待った。黒のセドリックと黒のバンが目の前を通り過ぎる。二台は海岸通りを直進し港南大橋に向かった。石田もかなりの距離を置いて後についた。二台の車は倉庫街へと進んだ。そして突然右折して一つの倉庫に入っていった。
石田達はゆっくりと倉庫の前を通過する。二台の車は道路から20メートル奥まった倉庫の前に停車している。見ると、男二人が鉄の扉を開けているところだ。石田はその前を通り過ぎて、曲がり角を折れ、急停車した。二人は車から降り、倉庫を覗った。
タクシーが走ってくる。親父さんだ。榊原が手を上げ、タクシーが曲がり角を折れた。タクシー運転手は疲れ切った様子で、領収書を打ち出している。石田が一万円札を差し出すと、それを鷲づかみにしすぐに立ち去った。親父さんの強引さに辟易した様子だ。
榊原が言った。
「韮沢に、もう覚悟を決めろと言ってやれ。ワシ達で出来ることは限られている。あの倉庫を包囲するように説得するんだ。」
石田がリダイアルする。相手はすぐに出た。石田が怒鳴った。
「おい、韮沢、俺達は今覚悟を決めているんだ。お前も覚悟を決めろ。」
「ちょっと待ってくれ。今、正に開くそうだ。」
石田の携帯を奪って榊原が叫んだ。
「おい、韮沢、見そこなったぞ。貴様がそんな軟弱な奴とは思わなかった。」
沈黙が続いた。そして韮沢が口を開いた。
「榊原、本当に方面本部長がかかわっているのか。」
「そうだ、何度でも言う。奴は北朝鮮スパイだ。もう覚悟を決めろ。」
「分かった、何とかする。」
またしても電話は切られた。
「煮え切らん奴だ。」
そう言うと、腰に差したリボルバーを引きぬいた。
第二十二章
三人はゆっくりと倉庫に近付いていった。倉庫の鉄の扉はぴったりと閉じられている。榊原が扉に忍び寄り、耳をあてたが、何も聞こえない。石田に囁く。
「よし、韮沢に電話をいれてくれ。ここの住所を知らせるんだ。」
石田がリダイヤルを押す。相手はすぐに出た。息せき切って話し出した。
「地下室が開いて、二人を救出した。元気だ。洋介君の遺体も発見された。そ、そ、それに小野寺親子の身柄も保護した。」
「よし、俺達が言ったことが真実だとわかっただろう。」
「ああ、方面本部長が北のスパイだってこと以外はな。」
「まだ、そんなことを言っているのか。兎に角、」
突然クラクションの音が響いた。石田が振り向くと、白のクラウンが入ってくる。運転する男と目があった。初老の学者タイプの男だ。再びクラクションが鳴らされた。榊原が叫んだ、「やばい逃げろ。」鉄の扉が内側から開き始める。
三人は倉庫と塀の路地に逃げ込んだ。塀にそって30メートルほど走った時だ。後ろから銃声が響いた。石田の前を走っていた親父さんが倒れた。石田が駆けより、親父さんの右手に握られた銃を取り、振り向きざま撃ち返した。親父さんは起きあがろうとするが、脛の横を打ち抜かれおり、がくっと膝を折った。石田が声を張り上げた。
「親父さん、私の肩に掴まって下さい。」
榊原も引き返してきて、銃を構えている。親父さんが叫んだ。
「ワシに構うな。二人で行け。」
榊原が銃を発射した。
「奴等だってこんな爺さんをやたら殺したりせん。大丈夫だ。行け。」
榊原が叫んだ。
「石田、石田、その先に階段がある。倉庫の二階に上がれる。そこから下に通じているかもしれん。親父の言うとおりにしよう。大丈夫だ。親父、身を横たえていろ。」
榊原が駆け出した。石田も、「よしっ」と言ってそれに続いた。
二人は階段を駆け上がった。鉄のドアがある。ノブを回すと鍵がかかっている。榊原がポケットからキーホルダーを取り出し、金属の細い棒を鍵穴にねじ込んで回し始めた。
「石田、下を見張ってくれ。」
階段の下に男の姿が現れた。石田は引き金を引いた。銃声が響き、男が仰け反って倒れた。
「石田、開いたぞ。」
そう言ってドアを開けた。石田が先に入った。中に入った途端、男と鉢合わせになった。殆どぶつかる寸前だった。男は二階の物音に気付き、階段を上がってきたのだ。石田は男の鳩尾を銃身で刺すように突いた。
男は持っていた銃を床に落とし、胸を押さえて屈み込む。階段の途中で銃を構える男が見えた。咄嗟に屈みこむ男の肩をつかんで立たせると、階段の男めがけて押しやった。
二人の男が折り重なるようにして階段下まで転げおちた。一斉に銃弾が二人めがけて発射された。二人は床に伏せた。床の幅は3メートル。鉄の手摺が倉庫を一周してる。幸い階段は一つだ。
石田は後戻りして、鉄のドアの錠前を閉めた。階段下に人の気配がする。二人の男が息を吹き返し、様子を覗っているのだ。下で誰かが叫んだ。
「おい、爺をひっ捕らえた。顔を出して見るんだ。」
榊原が手摺の間から下を見ると、飯島が親父さんの禿げ頭に銃を突きつけている。親父が叫んだ。
「成人、言うことを聞いちゃいかん。ワシは命などこれっぽっちも惜しくない。ここで死ねれば本望だ。絶対に言うことを聞くな。」
飯島が親父をこずいて怒鳴った。
「おい、榊原、俺にそれが出来ないと思ったら大間違いだ。俺は人殺しなどなんとも思わん。いいか、これは脅しじゃない。」
「成人、わしは母さんが死んでからというもの生きる屍になってしまった。母さんと旅をしたかったんだ。だから位牌を持って旅を続けてきた。」
がつんという鈍い音がした。飯島が叫んだ。
「この後に及んで、ホームドラマやってんじゃねえ、この糞爺が。」
「いてててて、酷いことしやがる。いてててて、せっかくいいところだったのに。ててて。」
「威勢のいいこと言っていたわりに、だらしねえ。」
親父さんが呟いた。
「ワシは、命など惜しくないが、痛いのは嫌いなんだ。」
這いつくばる親父に向けて飯島は銃を向けている。その時、大型バンの横の引き戸が開かれた。高嶋方面本部長が降り立った。
「静かにしろ、飯島。先生が怖がっている。あと5分待て、先生を送り出してから片をつければいい。二階のドアは見張りをつけてあるのか。」
飯島が答えて言う。
「ええ、大丈夫です。兎に角、今しばらくは静かにしていましょう。」
高嶋は、よし、と言って、また車に戻った。車の陰に、石川警部が隠れているのが見える。
石田がジャケットの左ポケットから携帯を取りだし耳に押し当てた。
「おーい、おーい。」という韮沢の間の抜けた声が聞こえてきた。これまでの緊迫した状況をつぶさに聞いていたはずで、何度も呼びかけてきたに違いない。
「おい、どんなに状況が緊迫しているか分かったか。」
突然の反応に驚いて、韮沢がどもりながら答えた。
「わわわ、分かった、分かった。すすす、すぐに緊急手配する。パトカーを急行させる。住所を言ってくれ。」
住所と倉庫名を言って、石田が言った。
「大至急だ。頼む。それから、テープは回っているか。」
「ああ、回しっぱなしだ。」
「そのまま聞いていてくれ。」
石田が下に向かって怒鳴った。
「おい、飯島、何故、洋介君を殺した。」
「殺したのは、俺じゃねえ。そんなこと分かるか。」
石田が声を押し殺し、韮沢に話しかけた。
「どうだ、今の会話が聞こえたか。」
「音は悪いが、何とか聞こえる。」
「分かった。兎に角、ボリュームを上げて聞いておいてくれ。」
こういうと、榊原に目配せした。石田の言葉を聞いて、榊原はすぐに理解した。いやに明瞭な言葉使いで怒鳴った。
「おい、石川、石川警部。何故瀬川と坂本を殺した。何故なんだ。」
しばら時間を置いて石川が反応した。石田は携帯を手摺の端まで持っていった。
「いろいろとあってな、一言では言えん。まあ、生きるためだ。」
「声が小さい。ちっとも聞こえん。」
石川が怒鳴った。
「しかたがなかったんだ。こいつらに脅された。やるしかなかった。」
別の声が聞こえた。
「おい、榊原、もうちょっとだ。もうちょっとで、貴様の死に顔が拝める。俺が誰だか分かるか。」
「笹岡さんか。惚けやがって。」
「ふん、もう少し俺に食らいついていたら、瀬川と坂本は死なずに済んだ。榊原、お前さん、刑事としては失格だ。」
「うるせー、いつか敵は取る。それより飯島、何故、瀬川と坂本を殺した。」
飯島だけは隠れることもなく、うずくまる親父さんに銃を向けて立っている。その薄い唇が開かれた。
「目障りだったのよ。あのマンションの地下は倉庫だ。1階のお前等が見張っていた部屋の裏が出入り口になっていた。北から大量のブツが入荷したんだ。」
「なるほど、そういうわけか。」
「そうだ、坂本が一緒だったのはこっちにとって一石二鳥だった。本命はあくまでもお前さんだった。お前は知り過ぎたんだ。DVDを含めてな。ところで、おい、銃の弾は何発残っている。こっちにはいくらでもある。もう少しの辛抱だ。もう少しで貴様を地獄に送ってやる。」
「高嶋方面本部長が貴様等の親玉か。」
「親玉、ずいぶんと古臭い言葉を出してきたもんだ。まあ、そんなもんだ。」
「本部っていうのは何だ。」
「ふん、お前等が知る必要はない。」
このとき、男が音も無く階段を上がってきた。石田が気配を感じて階段までにじり寄った。一瞬顔を出すと、男が銃を発砲した。銃弾は手摺に当たってそれた。石田は頭を引っ込め、銃だけ出して応戦した。男が階段から落ち、どさっという音がした。
石田がそれを確認しようと頭を上げた時だ。下から石川警部が狙いをすまして撃ち込んだ。銃弾は石田の耳元をかすめた。石田が振り返りざま撃ち返した。石川が肩を押さえて倒れ込んだ。榊原が目を丸くして言った。
「おいおい、お前うまいな。やったことあんのか。ワシは当たったためしがない。」
一方車の中では、小野寺が椅子に座らされ、一人の男が後ろで銃を構えている。その横のコンピュータの前に、先ほどの学者然とした男が座り込んで画面を食い入るように見詰めている。男が、長い息をはいて言葉を発した。
「すごい情報だ。私もコピーが欲しいくらいだ。」
「先生、間違いないのですね。」
「ええ、日本のGPS技術の粋が詰まっている。この情報があれば、祖国のミサイル技術は飛躍的に進歩するはずです。」
「よかった、苦労した甲斐がありました。」
「おい、小野寺、どうやら本物らしいな。」
「モンスター、そんなことは最初から言ってあるはずだ。そんなことより、さっきの俺の話しをどう思う。確かに、あの少女は俺と石田の仲を取り持ったんだ。」
「無駄口をたたくな。それに、もうモンスターなんて呼ばなくてもいい。お前の知っての通り、俺の名はパクサンスイだ。」
学者風の男が後ろから声を掛けた。
「それはそうと、妹のことお願いします。何とか生活出きるように面倒を見てやって下さい。お願いします。この通りです。」
「そんな、頭を上げてください。上司にはじきじきに私からお願いしておきます。収容所から出して、普通の市民になれるよう申しあげます。安心して下さい。」
「有難うございます。今後も協力は惜しみません。何なりとお申しつけ下さい。」
「有難うございます。いずれ、先生の教示を仰ぎたいと長官も仰っています。その節は、ご協力をお願いします。さあ、これですべて終わりました。外に出ましょう。」
この時、銃声が響いた。二発目。高嶋は顔をしかめた。学者風の男がおどおどしている。
また続けて二発の銃声が響いた。高嶋がドアを開けて叫んだ。
「先生がお帰りになる。銃をしまえ。石川、笹岡、扉を開けるんだ。」
石川が肩から血を流しているのを見て舌をならした。
石田は携帯に話しかけた。
「どうだ、聞こえたか。」
「ああ、石川警部が真犯人ってことは確認できた。最後のは高嶋方面本部長か。」
「そうだ。」
「銃声がしたが、こっちの損害はないか。」
「あっちが階段下に一人で転がっている。それに石川が仲間に止血してもらっている。そうだ、言っておくが、いいか、パトカーで周りを固める時は、一気に固めるんだ。揃ってからサイレンを鳴らせ。おそらく敵は6人から8人、全員銃を持っている。」
「ああ、分かった。今、がらがらと音がしているが、あれは何だ。」
「よく分からんが、学者みたいな顔をしている奴が帰るところだ。」
「そっちに先行しているパトカーに後を追わせよう。」
「あと、どのくらいかかる。」
「あと5分と掛からない。十数台がそっちに向っているはずだ。」
その時、高嶋の声が響いた。
「おい、榊原、まったく貴様と言う男は、やっかいな男だ。散々てこずらせやがって。これからお前のもとに殺し屋を差し向ける。撃てるものなら撃ってみろ。銃を捨てる必要はない。撃てばいい。おい、小野寺を引きずり出せ。」
車から小野寺が降りてきた。高嶋が叫んだ。
「さあ、ジジイ、立つんだ。立って小野寺に肩を借りろ。おい、笹岡。この二人が離れられないように縛るんだ。そしてこいつら楯にあの二人の所まで行って、息の根を止めてこい。」
笹岡はにやにやしながら、言った。
「人間の楯か、こいつはいいや。よし、上に着いて二人を始末したらこいつら二人も殺っちまおう。」
小野寺と親父さんは首と腰をロープで縛られた。二人は横に抱き会うようにして歩きはじめた。ゆっくりとした足取りだ。石田は心の中で叫んだ、「もっとゆっくり歩け。」と。
笹岡はその二人の陰にかくれて階段に向かう。途中で親父さんが膝を折って、崩れかかる。笹岡の顔が一瞬覗いた。石田は狙いをすましていたが、撃つには至らなかった。榊原は顔面蒼白だ。笹岡が階段の下で銃を構える男に声をかけた。
「村井はやられたのか。」
「ええ、胸に一発くらって即死です。」
「ふーん、運のねえ奴だ。どうする、この役、お前がやるか。村井の弔い合戦だ。一度やれば度胸もつく。どうする。」
「いえ、親父さん、お願いします。俺にはまだ、無理っす。」
「ちぇ、度胸のねえ野郎だ。おい、榊原、そこを動くんじゃねえぞ。これから階段を上がる。撃てるものなら撃て。こっちは一向に構わん。」
二人が肩を寄せ合い、階段を上り始めた。笹岡は二人の背中の影に隠れ、寄せられた首の間から銃身を覗かせてる。
石田は、瞬間的に頭を出し、様子を覗った。少しの隙でも撃とうと考えていたが、笹岡はその大きな体をうまく隠している。ましてチャンスは一瞬でしかなく、榊原に誉められた腕をもってしてもチャンスを生かすことなど不可能だ。
脂汗が額を流れ目に入る。何度も目を瞬かせ、顔をだしては隙を覗った。うしろで榊原が言った。
「どうする。」
「どうしようもない。笹岡は二人の首の間から銃身を出して狙っている。最悪の場合、親父さんか石田さんに当たるかもしれないが、脚の間を狙う。それしか方法はない。」
「馬鹿野郎、駄目だ。銃を構えて、顔を出した瞬間に、お前は撃たれる。さっきのはまぐれ当たりだ。いくら誉められたからといって生意気言うんじゃない。」
「だったら、どうする。」
階段を上がる足音が一歩一歩近づいている。脂汗を拭おうともせず、二人は階段の方を見詰めていた。
その時だ、倉庫の外でサイレンが響いた。けたたましい大音響だ。笹岡は入り口の方を首を傾けて覗いた。その瞬間、小野寺が笹岡の胸に足あてて後ろに蹴った。笹岡は背中から落ちていった。小野寺と親父さんが駆けあがってくる。
石田は下方に銃を向けて笹岡の動きを見張った。二人が登り切ると、笹岡が起きあがりバンの方に駆けて行くのが見えた。もう一人の男もそれに従っている。高嶋が焦って声を張り上げた。
「パトカーに包囲されている。おい、全員バンに乗れ、俺と石川が扉を開く。この鋼鉄製のバンは銃弾も弾き返す、パトカーの二三台潰すことも可能だ。強行突破しろ。いいか、パトカーと警官を蹴散らして、何としてもMDとフロッピーを例の男に渡すんだ、いいな。俺達はドサクサに紛れて、ここを脱出する」
石田が携帯に声を押し殺して言った。
「鉄扉の前のパトカーを後退させろ。強行突破するつもりだ。いいか、二三台、後方に移動させて追跡出来る体制を整えろ。」
もう一台の電話に向かって韮沢が怒鳴り声を上げているのが聞こえる。男達がバンの中に消えてゆく。バンがゆっくり動き出し、方向転換している。高嶋と石川が、声を掛け合い、鉄の扉を左右に引き始めた。
間に合うかどうか、鉄の扉が徐々に開かれてゆく。扉の前のパトカーが後方にバックしているのが見える。扉が開き切ると、そこにはバンが通れるほどの幅の開かれている。バックしたパトカーがエンジンを響かせ、追跡準備を整えている。
バンはハンドルを左右に振って、何台ものパトカーにぶつかりながら通りに出た。それを待っていたかのようにパトカーが三台サイレンを響かせ後を追う。逃げ切れるものではない。サイレンが遠ざかる。
黒のセドリックの後ろに隠れていた高嶋と石川がポケットから警察手帳を引き出し、高く掲げた。高嶋が石川の左脇に右肩をいれて歩き出した。高嶋が叫んだ。
「高嶋方面本部長だ。中に二人の警官殺しで指名手配中の榊原警部補がいる。すぐに逮捕するんだ。彼と撃ち合って捜査一課の石川警部が撃たれた。おい、そこの警官手を貸せ。」
皆黙って拳銃を向けている。
「おい、分からんのか。高嶋方面本部長だ。この顔に覚えがあるだろう。この警察手帳を見ろ。」
またしても、静寂が返ってくる。戸惑ったままの警官達の視線が、高嶋には不気味に映った。戸惑ったのなら、すぐに直立不動の姿勢をとるはずなのだ。それがキャリアに対するノンキャリアの普通の態度なのだ。しかし、彼等は微動だにしない。冷やりとする感覚が背筋に流れた。
石田らは階段を降りてセドリックの背後で様子を覗っていた。韮沢の怒鳴り声が小さく響く。石田は携帯を耳に当てた。
「奴に何て言ったらいいんだ。警邏隊の隊長が聞いてきている。」
石田が答えた。
「こう言うんだ。パクサンスンお前を逮捕するとな。そして、、、」
「そして何です。」
「何でもない、兎に角、そう言えばいいんだ。」
パクサンスイ、三人目の少年の名前だ。その名前を出せば、奴は恐らく自らを始末する。和代の復讐が成就するのだ。韮沢が電話の相手にその名前を怒鳴った。そして最後にこう付け加えた。
「兎に角、全責任は俺がを取る。今言った通り方面本部長に宣告して手錠をかけろ。」
パトカーの最前列でマイクを握り締め、韮沢と電話で話していたと思われる警官が、にやりとしてマイクに向かってがなる声が響いた。
「第六警邏隊隊長、篠塚警部、韮沢一課長のそのお言葉、一生忘れません。心から尊敬申し上げます。」
「いや、そう尊敬されても困るんだが。」
そう言う韮沢の声を聞いて、石田は苦笑いをしながら携帯のスイッチを切った。
警邏体長、篠塚は、マイクを車に戻すと、ゆっくりと二人に歩み寄った。そしてその前に立つと腰の手錠を取り出し、しっかりとした声で言った。
「パクサンスイ。お前を逮捕する。」
見る見るうちに、高嶋の顔から血の気が引くのが分かった。石川警部がへたり込んだ。高嶋は押し黙って、顔を歪めた。口を何度も何度も蠢かせている。篠塚はその顔が奇妙に歪んで、いつしか苦痛のそれに変わるのをただ見ていただけだ。
高嶋がいきなり口から一本の白い歯の残骸とともに血反吐を吐き出した。そしてゆっくりと後ろに倒れてゆく。篠塚はようやく何が起きたのか理解した。偽歯に埋め込まれた毒を飲んだのだ。
「救急車、救急車だ。急げ。」
警官達が銃を構えながらゆっくりと包囲の輪を狭め二人を取り囲む。榊原も近付き覗き込んだ。高嶋は目を剥いて仰向けに倒れている。石川は呆然として座り込んだままだ。ふと人の影が視界を横切った。見ると、石田が通りの方に歩いてゆく。
石田の視線は黒のバンの行方を追っている。パトカー三台がそれを追尾する。バンは尻を振ってパトカーをなぎ倒し振り切ろうとする。石田はじっとそのバンを見詰めていた。その後姿を榊原が注視する。
よく肥えた中年女性が甲斐甲斐しく動き回っている。榊原の奥さんとは結婚式以来だが、その変わり様に驚かされた。奥さんは、よく笑い、よく喋った。それに引き換え、榊原は魂の抜け殻みたいにぼーっとしている。
小野寺夫妻はもう一度やり直すことになった。小野寺の出所を待つと言う。晴美の説得が効を奏したようだ。石田はぼんやり病院の庭を眺める榊原の横顔を盗み見た。榊原は思い出したように溜息をつく。幸子に捨てられたのだ。
その空しさ、寂しさは一人で耐えるしかない。物悲しげな視線が外をさ迷う。石田は心の中で意地悪く友に語りかけた。諦めろ、榊原。女は常に現実的だ。家庭を守ることが一番なんだ。石田は友を現実に引き戻すべく話しかけた。
「駒田はどうなった。」
振り向くと、榊原は深い溜息を吐き、心ここにあらずといった雰囲気で、面倒臭そうに口を開いた。
「石川警部は最後まで駒田の命令だと言い張った。駒田を道連れにするつもりなんだ。今、ごたごたやっているよ。」
「駒田も気の毒に。」
「ああ、そういうこった。」
「結局DVDは闇から闇ってわけだ。」
「ああ、組事務所を急襲して、金庫のマザーテープも回収した。ワシはそれでもいいと思っている。上村組長も弟も逮捕出来たんだ。まして坂本が死を賭して守ろうとした磯田副署長の秘密だ。あいつの死を無駄にしたくないからな。」
「ああ、その通りだ。」
「しかし、あの本部のバンが突然爆発炎上したのには驚いた。韮沢に聞いたんだが、車に自爆装置がしかけてあって、それが誤作動を起こしたらしい。」
「ああ、和代がやったとしか思えん。」
榊原は困惑顔で曖昧に頷いた。しかし、何かを考えているようだったが、厳しい表情で口を開いた。
「ワシはそうは思わん。和代さんは、復讐とかそんな汚い言葉とは無縁な、清らかな所にいる。ワシはそう信じている。」
「おいおい、どうしたんだ。理性で割り切る男が趣旨変えしたみたいだな。」
「お前だ。お前は、ああなることを望まなかったか?」
石田は黙って友の顔を見詰めた。
「お前の憎悪は半端じゃなかった。それをいつも聞かされてぞっとしたものだ。その憎悪と執着が事件を引き寄せ、最後の結末、奴等にとっては最も悲惨な死をもたらした。」
石田が、重い口を開いた。
「ああ、確かに、あのバンが爆発炎上することを願った。走り去るバンを見詰めてそう念じた。それが原因だとでも?まさか…」
榊原は押し黙ったままだ。外では降るような蝉時雨が聞こえる。残り少なくなった命を惜しむかのように必死の鳴き声を響かせている。
親父さんが、眠りから覚め、石田の顔を見ていた。二人の会話を聞いていたのかもしれない。そして声を掛けてきた。
「石田さん、あんた、良い顔になったよ。以前とは全然違う。」
「そうですか、自分ではわかりませんが。」
「あんたいつか言っていただろう。自分は不幸にばかり見まわれるって。それはその顔に原因があったんだ。その顔を形作っていたのは憎しみなんだ。」
「和代が殺されたことですね。」
「そうだ。ワシは何人もの犯罪者を見てきた。共通して言えることは、憎しみや恨みが顔に出ていることだ。それが災いを招くんだ。災いを引き寄せるんだ。だから、犯罪者はみな不運な連中だ。これ本当のことなんだよ。」
「仰る通りなのかもしれません。何となく分かる気がします。」
「ワシもしつこく言わんが、これはワシが一生をかけて掴んだ唯一の真実だ。心の片隅にでも仕舞っておいてくれ。」
「分かりました。そうさせて頂きます。」
その時、胸の携帯が鳴り響いた。驚いて榊原が振り向いて、胸を凝視している。親父さんもじっと見詰めている。胸の携帯は、和代から掛かってきたそれだった。
事件の最中、使うことはなかったが、もしかしたら和代から再び掛かってくるかもしれないと充電をかかさなかったのだ。二人はそのことを知っている。今それが音をたてて震えている。三人は見詰め合った。
榊原がどもりなが言った。
「ど、ど、どうせ、ま、ま、間違い電話だ。」
冷静な顔を取り繕うが既に恐怖で歪んでいる。父親ににじり寄る。石田はポケットから取り出し、耳に当てた。それは小さな低い声だ。
「ジン?」
さわさわと鳥肌が体全体に広がるのが分かった。胸の鼓動は激しく高鳴っているのに、体温が急激に低下した。しかし、同時に瞳が潤んだ。心の底からこみ上げるものがあった。懐かしさと愛おしさが溢れた。石田が叫んだ。
「和代。」
榊原が怯えて壁際に背中を寄せ、つま先立っている。もうそれ以上、下がれない。震え声で呟いた。
「お、お、お礼なんて、い、いいのに。」
親父さんはベッドの手摺をぎゅっと握り締めた。受話器から声が漏れた。
「仁?パパなの?」
石田の体から力が抜けてゆく。そして喜びがこみ上げてくる。そして再び叫んだ。
「そうだ、パパだ。知美、パパだぞ。ずっと探していたんだ。僕の可愛い可愛い知美。今何処にいるんだ。」
「わー、やっぱりパパなのね。今日、ママが携帯忘れていったの。それをいじっていたら、ひらがなで“じん”てかいてあったの。だからボタンをおしたらやっぱり、パパだったのね。」
「みんな元気でいるのか。」
「じいちゃんが死んだの。」
「いつ?」
「ずっとまえ、みんなで泣いたの。悲しかった。」
「ねえ、知美、いったい何処にいるんだ。すぐに迎えに行きたいんだ。」
「私、分からないの、住所とかそういうことは、私には無理よ。だって、まだ幼稚園よ。ちょっと待って、おばあちゃんに代わる。」
おばあちゃんと叫ぶ知美の声が遠ざかる。石田は涙を堪えながら、榊原親子に微笑みかけた。親子はほっとしたように胸をなでおろし、緊張を解くと、良かった良かったと互いに頷きあっていた。心から喜んでいるようだ。しかし何故か二人とも疲れ切った様子だ。
事件直後、榊原が言った言葉がある。こうだ。
「結局、ワシが上村組の事件と二つの強盗殺人事件に興味を持ったってことは、お前さんのいう、シンクロニシティってことになる。そうじゃないのか。」
石田は笑って答えた。「そうかもしれない。」と。
しかし、その石田さえ、気付かぬシンクロニシティが、この話の続きにはあったのである。シンクロニシティとは、みながそれと気付かずに見過ごしているだけなのである。実を言えば、この世はシンクロニシティに溢れている。
杉村マコトの視線は密かに亜由美の後姿に注がれている。かつて、「マコトの男」と友に賞賛された杉村の人生はけっして平坦ではなかった。二年ほど前、錦を飾るでもなく故郷に舞い戻った。そして友の経営する地元スーパーに就職して、ようやく生活も落ち付いてきたのである。
店は人でごった返していた。ちらりと亜由美に視線を戻し、おやっと思った。亜由美の様子がおかしい。レジは長蛇の列だ。亜由美の前にいる中年のお客がその顔を覗き込み、声を掛けた。
「あんた、大丈夫。何を泣いているの。」
亜由美は右手の入り口をちらちらと見ては涙を新たにした。微笑もうとするのだが、しゃくりあげてしまい、うまく笑顔が作れない。顔が泣き顔になってしまうのだ。
店の入り口から、少女を肩に抱いた男が近付いてくる。亜由美は、化粧をしてこなかったことを後悔していた。せめて口紅くらいはしておくのだった。昨夜は遅くまで内職をしていたため、寝坊してしまったのだ。
男が微笑みながら歩み寄ってくる。肩に抱かれた知美が手を振っている。もう涙で何も見えなくなってしまった。杉村が近付いて声を掛けた。
「石田君、今日はもう、帰りなさい。事情は明日聞かせて下さい。レジは私がやります。」
「店長、有難うございます。」
そう言うと、亜由美は夫と子供のもとに駆け出していた。杉村はその後姿をちらりと見て、お客に声をかけた。
「申し訳ございません。彼女には何かしら事情があるんでしょう。さあ、急いでレジを打ちますよ。」
杉村の手は自動的に動いた。誰よりも早く正確に打つ自信がある。大根は150円と打ちこみ、牛乳のバーコードをさっと光りにさらす。しかし、よく動く手とはうらはらに、その頭の中は空白になっていた。
三人の寄りそう後姿が目の片隅に焼き付いた。淡い恋心のまま終わりがきたようだ。その方が良いのかもしれない。心が傷つくこともない。ただ、昔、恋した女の面影を追っていたに過ぎないのだから。
手を繋ぐだけで心ときめいたあの頃を懐かしく思い出す。今となっては、キスくらいすれば良かったと思う。ほんの少しの勇気さえあれば、思い出も違ったものになったかもしれない。しかし、まだ若かったのだ。
初めてのデートの時、彼女は言った。「私、ハーフなの。日本と朝鮮のハーフ。」にこりと笑った笑顔が清清しかった。杉村はその時、こう言った。「人種が交わると優秀な子孫が出きるんだ。」その時、初めて手を握った。
彼女の母親は後妻だったが、朝鮮人ということが原因で家を追われた。狭い町に噂はすぐに広がった。そんなおり、あの人でなしの先生が彼女に侮蔑的な言葉を吐いたのだ。その言葉は彼女に言ってはならない言葉なのだ。
杉村は思わず立ちあがり、先生に詰め寄った。その襟首を掴み、黒板に押し付けた。先生が黒板拭きで頭をこずいた。そこで切れたのだ。あとのことは覚えていない。幸子の叫ぶ声が聞こえた。
「杉村くん、やめて、お願いやめて。」
気が付くと、先生は血だらけで倒れていた。
ふと、ほろ苦い思いが胸をかすめ、その情景が彷彿と浮かび上がった。20年以上前のことだ。待ち合わせ場所に、幸子が佇んでいた。校門の陰に隠れ、遠くからじっと見詰めた。東京から無けなしの金をはたいて駆け付けた。一目見るだけでよかった。失業中だったから、とても会う気にはなれなかったからだ。
その幸子と一度だけ東京で会った。胸をときめかせ一張羅を着込んで出かけたものだ。思わず抱きしめキスしようとした。幸子が会いたがっていると聞いていたからだ。しかし幸子は手で杉村の胸を押さえこう言ったのだ。
「ごめんなさい。今、幸せなの。本当にご免なさい。」
あの言葉は、しばらくのあいだ杉村の耳の中でこだましていた。そんな苦い思い出が、ふと懐かしく思えるようになったのはつい最近のことだ。年なのだろうか。杉村は遠ざかる三人の後姿をそっと眺めた。そして心の中で呟いた。
「石田亜由美さん。僕の初恋の人、幸子さんのように、幸せを掴めよ。」
かつて石田を不幸のどん底に落とした写真があった。石田は、その写真に映っていた男と今すれ違ったのである。
シンクロニシティ10