ニヒリストが迎えた今日
「今日、地球は終わります」
傷だらけの四角い箱がたんたんとそう告げた。そこに映るのはいつもの化粧の濃い看板女子アナではなく、灰色のくたびれたスーツを来た年配の男性。
「原因はー……」
特に心に響くものがなかったのでリモコンの電源ボタンを押す。
ああ、ついに終わるのか。僕は首裏をかいた。
ジャージからTシャツズボンに履き替えた。充電器から買ったばかりの携帯電話と音楽プレーヤー、それに中学生の時から使ってる古びた黒い布地の財布を引っ掴んでポケットに突っ込んだ。
「いってきます」
空虚に響いたその声を背後に靴を履いて外にでる。
いつもの青空と違い、空はまだ白くもやがかかっている。道を急ぐサラリーマンも、だるそうに歩く茶髪の女子高校生も、小さい柴犬を連れた群青色のジャージのおじさんもまだいない。
この街はまだ、眠っている。
電灯は薄く世界に色をつけ、 たんぽぽは白く化粧をし、儚い命を今にも飛ばそうとしている。
街だけじゃない。きっと僕もまだ、眠っているんだ。
だってほら、セカイは確かに存在しているだろう?
ベンチの上。空を見上げれば、世界は薄青く色付いてきた。 生ぬるい風が僕を追い越す。腰を上げ、また歩き出した。キイキイ音のする錆びたブランコ、ゾウをかたどった灰色のすべり台に、花壇で向日葵が東に恋してる。それらを過ぎて道にでた。
ここからはいつもと同じだ。いや、同じだけど違った。
あのサラリーマンは青光りする車に乗って家族で出て行ったし、女子高校生は制服を着ずに桃色のワンピースにおめかし。柴犬とおじさんはいなかった。虚蝉のようだ。ズボンのポケットが静かに揺れた。
ほの明るかった電灯は役目を終え、電線の上の雀は溜め息を吐いた。傷一つない携帯電話の画面が僕を照らす。
そうだ、だって実質、今日が最期の日なのだから。
がたん、ごとん。
一番端の車両に乗ったはずなのに、沢山の人で溢れかえってる。僕にはそれが深海の魚たちのように映った。狭く、重苦しい世界で呼吸をする為だけにもがいている。頭上を優雅に踊る、大きな暗影に怯えながら。
それならば、と考える。
赤いTシャツにくすんだ金髪をワックスで逆立てているあの男は太刀魚だろうか。あの野球帽を被った少年は金目鯛、メガマウスにアンコウもいる。じゃあ僕はスケトウダラと言ったところか。まあ、僕は本当の意味で深海魚じゃないから全ては想像なのだけれども。
窓の外に目を逸らすと、太陽が僕らをじりじり焼き付けているのが見えた。
こんな日まで働いている駅員の無機質なアナウンス。聞き流しながら人混みに流されて改札口まででた。木の葉に隠された涼しげな遊歩道を歩く。それでも太陽は、嘲笑うかの様に見下ろしてくるのだ。道の真ん中で一歩止まってみると周りの人がしかめっ面で僕を追い越した。
ひゅうっと、生暖かい風が僕の意識をさらった。と同時に後ろから、数週間ほど前までは教室で毎日聞いてた声が耳をかすめる。
「お、立川じゃん。夏休みなのに学校の近くまでくるなんて、暇人か?」
「あー、ちょっとした用事。そういう赤城はどうしたんだよ」
「俺? 俺はー…部活しに?」
「ふーん。部活、ねぇ」
そういう割にはいつものラケット持ってないくせに。
浮かんだ言葉は口の中で溶けて消えた。振り向いた先にいた赤城は、学校指定の青空に似たジャージに汚れたテニスボールとビニール袋を持って1人立っていた。
「1人? 他に誰かいないのか?」
「遠野は家族でどっか行くっつって、部長は彼女とデート、やっちは自分探しの旅に出るって。他は、まあどっかふらつき歩いてんでねーの」
皆、最期の日だからって休みやがった。
ぽつりと呟かれたその言葉はやけに小さくて。笑顔なのに目だけが遠い虚空をみつめている。僕の目にはそれが、人間が捨てた日常に取り残された独りの犬のように映った。
「寂しいもんだね」
「そうか?」
「そうだろ」
「…なかなか楽しいぞ?」
1人で練習するのも、散歩するのも。それに久々にお前とも会えたしな。
赤城はニヒヒと笑いながらそう続けた。もうさっきのような目はしてなかった。笑ってできたえくぼがやけに眩しい。
歯に衣着せぬ物言いのこいつはクラスでも素直で良い奴だと好かれている。こっちも笑い返すと赤城はあっ、と声を上げた。
「そういや、用事って言ってたけど時間は大丈夫なのか?」
「……まあ」
「お?……わかった。中原ちゃんに会うんだろ?お前普段やる気なさげなのに、ちゃっかり彼女いるもんなー」
「あー……ごめん?」
「何に対してだよ。あ、そうだ、これやるよ」
袋から出され、差し出されたのはラップに包まれた少し不恰好なおにぎり。
暖かみのあるそれに、呆気にとられてじーっと眺めていると、ふはっとこぼすような笑いと共に頭に軽い衝撃。
「んなに見つめんなって。餌前にして待たされてる犬かよ」
「だからって、暴力はんたーい…」
「はいはい、良いから持ってけ。俺のばあちゃんの手作り梅おにぎり」
「え、でも」
「いいから。いっぱい持ってきてるし、お前その格好は絶対昼飯持ってきてないだろ。っていうことで、はい」
半ば無理矢理手のひらに乗せられたそれは、見た目よりも重くずっしりとのしかかった。そこから胸にじんわりと暖かさが広がる。
本当に貰っていいのだろうか。
「今更遠慮とかすんなよ。俺は初のテニスコート独り占めしてくっから、じゃあ」
「 あぁ、ありがとう。それじゃあ、また……いや、元気でな」
「そう、だな。じゃあ、元気でやれよ」
薄く笑ってまた歩き出す。顔をそらすまで赤城は笑みを浮かべていた。ふわふわしていた足しどりが、心なしかちゃんとしてきたように感じる。
ラップをむき一口、口に含んだ。すぐに冷たくなるコンビニのおにぎりとは違って食べ終わるまで、いや、食べ終わってもどこか暖かいままだった。
もう一度、携帯電話の画面を見た。
真っ白な背景に15時屋上、とだけ書かれたそれ。右上の時間の表示は14時48分。あと10分ぐらいか、と溜め息を吐きながらちらりと視線をまだ遠い校舎の一番上にあげる。と、つい眉間にしわを寄せた。 そこでは見慣れたような人影がフェンスに寄りかかっている。えっ、と漏れだした声と同時に弾け飛ぶように駆け出した。
数人の影が見える校庭を尻目に昇降口に入り、上履きを取ろうとして……止まる。そうだ、洗うために持ち帰ったんだった。自然にでた舌打ちを隠しもせずに進む。端にはいってた来客用のスリッパを乱雑に落として履き、小走り。
いつもは騒がしい廊下は今日は全く人通りがない。壁から伝わる冷たい空気に身震いする。
「おー立川、こんな日に青春か」
「そうかもしれませんねっ」
踊り場の窓にもたれかかって外をみている理科の教師とすれ違う。咎める気配は全くなく、ただただ空に浮かぶ雲を見て微笑んでいるのを横目に階段を1段飛ばしで駆け上がった。途中、脱げてしまった片方のスリッパを慌てて拾い一気に上がる。
明るい窓からの風が僕を後押しするように笑いかけた。
あと4段、2段、そして最後に扉!
開けた視界では無機質なコンクリートが僕を嘲笑し、大嫌いな太陽がにやりとした。おまえが見下ろすから、金網に寄りかかる彼女の目元は見えないんだ。唯一見える赤い口元はきゅっと引き締まっていた。
スリッパを履き直して一歩一歩前へ進む。さり気なく携帯電話の時間を確認。14時57分。よし、ちょうどいい感じのはずだ。
彼女、安紀の横には乱雑と荷物が置いてあった。桜色のお弁当包みと紅色のポーチ。友達が誕生日にくれたの、と影法師がアスファルトで微笑んだのが見えた。
「間違ってたんじゃないかって思うの」
「……間違ってた?」
「そう」
視線を上げると、いつの間にか安紀がこちらをじっと見つけていた。
泣いている。その顔は確かに笑みを作っているが、僕にはそうとしか見えなかった。
「例えば、さ。お互いに我が儘を突き通す、なんてことはなかったよね」
「それは、不満がなかったからじゃないか?」
「そうとも言えるね。でも私には、相手に対して諦らめているように思えた」
「でも僕は安紀を」
「うん、知ってる。……でも」
安紀は不自然に切り、空を見上げた。つられて僕の視線も上に上がる。
「それが“恋”じゃないのも、知ってる。」
「……え?」
「昴くんの視線は、兄弟や親友への愛と似てるの。信愛とか、親愛?」
真っ白な雲のうえにぽつんと浮いた灰色の雲が見えた 。やけに近いそれはまるで、真っ白いシャツについた一つのしみ。なんだか見ているだけで違和感と焦燥感にかられる。
「こんな日に、って思われるかもしれない。私にとってはこんな日、だからこそなんだけどね」
「きちんと終わらせたかった、ってか。なんだかんだ真面目なんだからさ」
そういう安紀も好きだから。
どういう感情で、かはわからない。見失ってしまった。
「大好きだよ、友達として。昴くん……別れよう」
静かに目を閉じる。
底無しな暗闇が広がると同時に弾けて消える。そう、まるでシャボン玉が弾けるみたいに。すると僕の周りには宇宙が広がる。そこでは星がきらきら煌めいて僕の周りを羽ばたき、やがて一つの明星となる。そして僕を照らすのだ。まるで罪人を照らす、電球色の蛍光灯のように。ああ、また取り残されてしまった。
大丈夫、僕は笑みを貼り付けるんだ。
「……わかった」
その言葉を出すのにどれだけたったかはわからない。数秒か、数十分か。
ただ、安紀の表情を見るからに前者なのかもしれない。安紀は俯くと言葉を紡ぎだした。
「最後の手紙、教室の昴くんの机のなかに入れてきた。手渡しする勇気が無くてごめん。私のこと嫌いになったかもしれない。昴くんのことだから読まないかもしれない。でも、出来たら読んでほしい」
「安紀、ごめん」
「もう、謝らないでよ。最後ぐらい、違うこと言えないの?」
「そうだね。……安紀、」
多分、今まで安紀に言ったことのないだろう5文字の言葉に彼女は笑った。
それこそ、僕が初めて見るような笑顔で。
閑散とした教室に窓から茜色に染まりつつある光が柔らかく入ってきている。校舎内を当てもなく歩き回っていた僕は、2-Bと書かれたプレートを見て足を止めた。後ろの扉を開けて、教室に入る。学校があった日ならば僕が登校する頃にはいつもクラスの半分ぐらいが来ていたのだが、今日は誰もいない。嫌に生活感のある置きっ放しの教科書やシューズ入れが、持ち主に忘れ去られたまま鎮座しているだけだ。読書をする委員長、談笑する女子、教卓にいたずらをするお調子者。全てが泡影のように思える。
窓側の後ろから二番目。そこからいつも教室を見渡していた。横の壁に寄りかかれば皆を見渡せるところが好きだった。椅子に座って机の中を手探る。かさり、と手に感触がした。
「残ってる奴いるか? もう閉めるぞー、先生帰っちゃうぞー」
「あっ」
慌てて手紙を掴み、廊下に出たところでさっき会った教師とぶつかりそうになる。ちょっと驚いたように僕を見て彼は言った。
「お前、今まで一人で教室に……? 青春とかいって、悪かったな。先生と同じだったか」
「残念ながら違いますね。青春は終わりましたが」
「そうか。でもな、青春ってもんは終わらないんだぜ。先生ももう歳だが心はな、」
「あーはいすみません、帰ります」
無理矢理会話を切ろうとする僕に優しい笑み、まるで子供を見守る親のような眼差しを向けて彼は続けた。
「まあ忘れないでくれ。願い続ければ叶うこと、希望を抱いていればいつか。さ、いい子で帰るんだぞー」
何を今更。ついそんな目で見たが彼はもう口を開くことはなかった。
ひらひらと手をふる彼に会釈をしてそそくさと離れる。数歩歩いたところで鍵が鳴る音が響き、遠ざかって消えた。
校舎を出て振り返ると厳粛とそびえたってるその姿に、わからないけどどこか安堵した。
西陽が照らす駅には老若男女、たくさんの人が集っていた。それは僕のように一人であったり、恋人同士であったり、はたまた家族であったり色とりどりだ。これから起こることへの不安や恐怖、無関心や最後に一緒にいれることへの喜びなどその色は複雑。一歩前では酒に酔ったおじさんが若者にこの世の恨みを紡ぎ、銅像の前では酔狂な青年が彼女に愛を囁いている。それらを一瞥してどんどん進んだ。
また電車に揺られ、歩き、真っ暗な我が家につく。空はまだ橙色なのにそこだけが暗く、世界から切り取られたようだった。鍵を開けて、靴を脱ぎ散らかし、居間へ。マッチと線香を取り出して火をつける。なかなかつかないそれに心が苛立つ。
やっとついたそれを線香立てに立てて、また靴を履いてでていく。一瞬視界に入った写真では海の前で3人が笑う姿が光っていて、見ていられなくて。胸に針が突き刺さったように感じた。
自転車にのって30分弱。殆んど沈みつつある夕日が静かな波を紅く見つめていた。もう空の多くには紫と黒の焔が燃えている。適当に自転車を置いて、砂に足をついてあぐらをかく。ほんの、まばらに見える人が僕を落ち着かせた。
いつのまにかポケットに突っ込んでいた手紙を取り出す。宛名は僕、差出人は君。なんたって、口の部分には赤いだろう小さなハートマーク。少しよれた封筒から目を逸らして夕日を睨む。
ああ、やはり僕は一生、この手紙を読むことはないんだろう。そう考えると、なんだか妙にすっきりした気分になる。未だに、あざ笑うようなこの淡い赤色の手紙は憎たらしく見えるけど、同時にちょっと好きになれたような気がした。
また、手紙を無理矢理ポケットにねじ込む。違うのは無意識か、意識的かの違い。ぐちゃぐちゃ? そんなのどうでもいいさ。だって読むことは絶対にないのだから。
結局その程度だったんだろ。影が僕を嘲笑してる。
目をつぶる。見えてきたのは手紙の主。砂の上に大の字に倒れる。近くで砂が舞い上がった気配がした。そしてごめんとまた謝り、黒く染まった天井に瞬く星たちをみた。
今僕が見ているのはいつの星だろう。太陽は8分前らしいけど、ベガは、アルタイルは? 詳しいことはわからない。けど星は生きていて、また僕らも生きていて。
希望を抱いていて、何て言ったけど僕にはとても難しい問題だ。今の地球に対しては誰だって、そう、楽観的やへんてこな人以外そう感じてるんじゃないか。
また思考を暗闇に預けた。
何日か前に多くの宇宙飛行士や著名人が子孫を、人類を残すために飛びだっていった。
だ、なんてニュースでやっていたけど、そんなうまくいくのだろうか。生き残れる確証も何もないのに。だいたい、それで解決できるような簡単な話なのか、そこまでして人類を残すことにどんな意味があるのか僕にはわからない。僕らは成るべくして生まれ、成るべくして絶える。ただそれだけじゃないのか。いくら手を尽くそうとも必然からは逃れることは出来ない。僕はそう信じている。
ブーブー、と携帯が鳴った。
目を開けて画面の時間を確認する。いつだか、地球が終わると聞いたときに僕が仕掛けたアラームだ。あと3分。短いようで長い。そうして僕はおさらばだ。
気付かない内に空が薄く白に変わっていた。少し明るくて、夜じゃないみたいだ。空が咆哮をあげているのが聞こえてきた。目を細めて見ると小さな赤い光が見える。あれは何だろう、飛行機のランプにも見えるし、それにしてはすごい早さで大きく強くなっていく。違和感だらけだ。
まあ、いっか。きっと、どうせあと少しだ。
赤い光がこのセカイを包むのを感じたと同時か、少し遅れて僕は違和感の正体に気付いて、意識を手放した。ああ、成る程。
空が群青に戻った時。そこには異様な静けさだけが残っていた。
ニヒリストが迎えた今日