空へ

 ……今日も、窓から眺める。
 足早に歩くサラリーマン風の男の人。
 小気味良い音を鳴らして歩く女の人。
 きゃっきゃっと騒ぎながら走り去る子供たち。
 そして、その後ろをゆっくりと歩く老人。
 外にいる人たちの一日が、始まって、終わって。
 その本当に一部分を、私は窓から眺めていた。

 長すぎる入院生活では、どう暇を潰すかが問題になる。
 私のように、生まれてからずっと入院しているような人だとなおさらだ。
 やることがなくなるのだ。
 テレビはずっと見ていられるものじゃない。
 古い曲ばかりの音楽だって、もう聴き飽きてしまった。
 誰かが尋ねに来てくれるわけでもなく。
 暇を持て余して、結局、窓の外を眺める。

 窓から見える世界は、とても楽しそうで、キラキラして見える。
 だから、見ていても飽きない。
 私だったら、こうしたい。
 私だったら、ああする。
 そんなことを考えながら、外を眺めるのが好きで。
 でも、私にはできないだろうなと、最後には落ち込んで終わる。

 私の十四年間はそんな感じだった。

 この何もない病室が、私にとっての世界で。
 テレビの中で知る情報や親から聞いたことが、私にとっての知識で。
 この世界は、とても狭く、小さく、窮屈で、とてもつまらなかった。



『空へ』



 籠の中の鳥は、いつ出られるのだろうか。

 そんなことを考える。
 大真面目にではなく、単に暇つぶしとして。
 時間はたくさんあるのだから、なにをしたっていいのだ。
 
 鳥が出る方法にはどんなものがあるだろうか。
 ぱっと思い浮かんだのは『飼い主に開けてもらう』『自力で開ける』『籠を壊して出る』……この三つくらいだろうか。
 ……どれも無理なこと。
 飼い主に開けてもらえるのなら、そんなこと考えなくてもいいし。
 自分の小さな身体では、鍵に届かなくて。
 硬い籠は、鳥一匹の力じゃ壊れるわけなんてない。
 ……結局出られない。
 気まぐれに開けてもらえるのを待つか。
 死んでしまうしかないのだ。

「……あ」

 ふと、窓の外を見ると、男の子が一人立っていた。
 私に気づいたらしく、軽く頭を下げた。
 最近よく見る子で、こうやって目が合うと会釈をしてくる。
 私は、特に何もせずにただその子を見ていた。
 小学校低学年くらいで、夕方になると、いつも何かを待っている。
 そして気がつけばいなくなっているのだ。

「あ、そうだ」

 籠の中の鳥が出られる方法がもう一つある。

 『誰かに開けてもらえばいい』

 そんなことを思いついた私は、少年と目が合うと、今度は手招きをした。
 少年は周りをキョロキョロすると、自分を指差す。

「そう。キミ」

 私は頷いて、もう一度手招きをする。
 少年は辺りを見回しながら、おずおずと、私のいる病院へと歩き出した。
 さて、これで少しは楽しめるだろう。
 外に出してもらえる、なんてそんなこと本気で思っちゃいない。
 これも、暇つぶしなんだから。


◇◇◇


 コンコン。

「どうぞ」
「し、失礼します……」

 恐る恐る顔を出した男の子は、私の姿を見るなり、少し後ずさった。
 ……酷いな。そんなに怖い顔をしているだろうか。
 自分としては可愛らしい方だとは思うのだが。

「こんにちは」
「あ、はい。こんにちは」

 どうして呼ばれたのか分からない少年は、とにかく所在なさげに部屋を見回した。

「とりあえず入りなよ」

 私にそう言われ、少年は病室に入り、ドアを閉める。

「あの……?」

 上目遣いになにかを聞きたそうに、声を鳴らす。
 なんか可愛い子だな。

「キミ、いつもあそこにいるでしょ?」

 話をしようとして、少しドキドキしている自分に気がつく。
 会話というものに慣れていないから、話をするというだけで緊張する。
 こうして家族やこの病院の人以外の誰かと話をするのは、ひさびさのことだったから。

「……うん」
「なにをしているのかなぁって気になって。ほら、よく目が合うじゃん?」
「……お姉さんこそ、なにをしているの?」

 質問を返されるとは思わなくて、私は戸惑った。

「私? 私はなにもしてないよ」
「僕も、なにもしてない」
「なにもって、なにかを待ってるんじゃないの?」
「待ってるよ。でも、来ないって知っているから」

 ……?
 なにか深い理由でもあるみたいだ。
 ……別に深く探る必要はないか。
 それに、誰かと待ち合わせでないのなら、好都合だ。

「キミに頼みたいことがあるんだ」
「……頼みたいこと?」

 私は私の暇つぶしの相手になってもらえればそれでいい。
 それ以外はいらない。

「私の話し相手になってくれない?」
「……え?」
「暇でしょ? キミの日常を私に教えて欲しいんだ」

 それが私の望んでいた暇つぶしの方法だった。
 私が、外にいる子とこうやって会話できるなんでめったにない。
 このチャンスを最大限に利用しよう。

「よく分からないよ。なにをしたらいいの?」
「話してくれるだけでいいんだよ。今日の学校はどんなだった?とか、友達がこんなことした?とかさ」
「……そんなことでいいの?」

 少年は戸惑うように、私を見つめる。
 なんにも面白くないよ、と少年は言いたいんだ。
 そう、なんの取り留めのないお話。
 少年の日常を聞いたって、他人の私には面白いわけがない。
 そう思うのだろう。
 だけど、私はそれが聞きたいんだ。
 私には送ることができなかった、そんな日々のお話を。

「ダメ?」
「……いいですよ」

 少年は、まだ困り顔のまま、頷いた。
 やった。
 これでしばらくは、退屈しなくてすむ。

「ありがとう」

 だけど少年は、私のお礼には何も言わず。
 ただずっと外を眺めていた。
 この子にもなにか事情があるのだろうか。

 ……深くは探らない。

 この出会いは、一時のこと。
 私にとっては一生覚えていられそうなことでも。
 この少年には、この時だけの思い出なのだ。
 他にもたくさんの楽しいことがあると、簡単に忘れてしまうだろう。
 なら私も、この少年のことを、すぐに忘れてしまえるように。

「それでそれで?」

 あれから一ヶ月が経とうとしていた。
 少年は真面目な性格みたいで、放課後になるとほとんど毎日、私の病室に来ていた。
 そして、今日学校であった出来事を私に聞かせてくれるのだった。
 はたから見ているとなにが面白いの?と聞かれるような内容だと思う。
 実際、看護士さんにそう言われたし。

「もうないよ。ネタ切れ」

 そう言って、窓の外を眺めようとする少年。
 少年は話が途切れると、いつもそうする。
 それは、一ヶ月前ここに呼んだときから変わらない。
 でも、少年はそれについてだけは、喋らなかったし、私からも聞いてない。

「なんだ、つまんない」
「つまんないって、本当にこんな話が面白いの?」

 この一ヶ月間何度となく聞いた質問。
 私が聞いているのはだたの日常。
 彼が友達と話したこと、どんな授業をした、とかどんな給食だったとか。
 本当にそんなことなのだ。でも。

「そりゃ、面白いわよ」

 私は小学校に行くことが出来なかった。
 一応通信制というので卒業したことにはなっているけれど、授業を受けたり、友達と会話したり、そういう経験はまったくないのだ。
 だから羨ましいと思うし、知りたいと興味を持ってしまう。

「面白いって、僕は紗奈さんの方が面白いよ」

 面白い? 私が?

「なんで?」
「だって、僕より年上なのに、なんにも知らないんだもの」
「……・仕方ないじゃない」

 そういう機会が得られなかったんだから。
 口を尖らせて文句を言う。

「それに、教えてくれるはずの私の親は、見舞いになんてめったに来ないしね」

 両親は仕事が忙しい。
 そういう理由で滅多に来ない。
 ……まぁ、もう慣れてしまったけれど。

「……そうなんだ」
「なんだ少年、浮かない顔して」
「いや。っていうか“少年”って呼ばないでよ。名前教えたじゃん」

 少年は自分の名札を見せる。
 確かにそこには、大樹と書かれていた。

「……別に“少年”でいいでしょう?」
「僕は、ちゃんと名前で呼んでるじゃないか」
「私は教えてないんだけどなぁ」

 大方、病室の前にあるネームプレートでも見たのだろう。
 教えてと言われたが、私は断ったんだから。

「どうして呼んでくれないの?」
「呼ぶ必要がないから」

 と、これまた一ヶ月間何度も繰り返した会話する。
 ……この子とは意外に仲良くなれたと思う。
 年は離れているけれど、初めて“友達”と言えるような関係になれているのかもしれない。
 それでも、どうせ私の目の前からいなくなるのだ。
 この出会いは、会話は、一時だけのもの。

「言ったでしょ。キミは私のことを忘れちゃう。いつかは絶対にね」

 私とは違い、この子には自由に羽ばたける翼があるんだ。
 籠の中の鳥とは違う。
 色んなものを見て、色んなものを知ることができる。
 そんな中で、私との思い出なんてちっぽけなもの。

「少年が忘れて、私が覚えているなんて、悔しいじゃない」

 悔しいだけじゃなく、寂しいのもある。
 だから、名前は覚えない。
 いや、呼ばないようにするんだ。

「……僕は忘れる気なんてないけど」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「……まだまだ若いねー」

 少年は、私の言葉にムッとした表情をする。

「じゃあ、紗奈さんは“夜景”って見たことある?」
「夜景って、夜の風景ってことでしょ? テレビでならあるけど」

 実際に、目で見たことはない。
 小さい時から入院生活をしているし。
 数回あった退院の時だって、夜まで行動できるほど私は丈夫じゃなかった。

「建物だったり、家だったり、街灯だったり、その電気がキラキラと散らばっていて、とても綺麗なんだ」
「……子供のくせに夜出歩くなんて、悪い子だねー」

 売り言葉に買い言葉。
 見たことがあるのを自慢そうに話す少年に私もムッとして、つい意地悪なことを言った。

「ち、違うよ! お母さんに連れていって――」

 少年は少し声を荒げて、そして途中で言葉を噤んだ。
 気まずそうに眼をそらすと、少年は黙ったまま窓の外を眺めた。
 いつもそうしてるように、けれど、寂しさを携えながら。

「どうしたの?」

 つい聞いてしまった。
 今まで知ろうとしなかった少年の領域に、私は足を踏み入れた。
 どうして・・・・・・?

「……なんでもないよ」
「お母さんがどうかしたの?」

 言葉が出てくる。
 戸惑っているはずの自分から、知りたいという欲求が沸いてくる。
 あぁ……違う。
 知りたいんじゃない。

「……ずっと少年は、なにを待っているの?」

 私は、この子の悩みを解消してあげたいんだ。
 それぐらい。この少年のことを大切に思い始めている。
 ……この一ヶ月間、思いの他、私は楽しかったんだなぁ。
 最初の時から、こんな気持ちに変わるくらいに。

「一ヶ月前、外でなにかを待っていてたよね。でも君は来ないことを知っているって言った。それは」
「お母さん、だよ」

 ずっと黙って私の言葉を聴いていた少年が、答えた。

「……亡くなったの?」
「……違う。けどもう会えない」

 ……もしかして、離婚というやつだろうか。。

「だから、いつもあの場所で待っていたの?」
「……もしかしたら、また会えるんじゃないかって……思って」

 少年はずっと待っていたんだ。
 会えないと思っているのに、ずっと待っていたんだ。
 あぁ……そうか。
 だから、私とこの少年は気があったんだ。

 要するに少年も籠の中の鳥なのだ。
 なにかに囚われて、自由に飛べなくなっている鳥。

「でも、会えるわけないんだよ……お父さんだってもう会わせないって言ってた……」

 私は、彼の籠を壊すことを手伝っていいのだろうか。
 ……このまま気づかないフリをしていれば、少年は私の仲間だ。
 せっかく得た友達を、私は自ら手離してしまう?

「……そっか」
「……紗奈さんは、怒らないの?」
「怒るって?」
「お母さんと会おうとすると……お父さんはすごく怒るんだ」
「だって、私には関係ないじゃない」

 ……そう。私に少年の事情はなにも関係ない。
 そして、私の事情にも少年には関係ない。
 だから、手助けをしよう。

「……そうかもしれないけど」

 そう言われたことが嫌だったのか、少年は顔を伏せて落ち込んでしまった。

「ねぇ……少年は、お母さんに会いたいんだよね」
「うん。もちろん」
「お母さんは、少年と別れるとき……泣いてた?」
「……うん」
「だったら、会いに行っちゃえ」

 どういう事情が、この少年の両親の間であったかは分からない。
 それでも、少年とお母さんが別れを惜しんでいるというのなら、会わないというのは間違っている。
 大人の事情やプライドがあるのかもしれないけれど。
 子供にはそんなの関係ないんだから。

「でも、会いに行ったらお父さんが……」
「少年は、お父さんのことは嫌い?」
「好きだよ」

 だったら、解決できそうな気がする。
 所詮、私の感でしかないけど。

「ちゃんと少年の気持ちをお父さんに話してあげたらいいんじゃないかな」
「僕の気持ちを?」
「ただ会いたいじゃなくて、どうして会いたいのかって。もしかしたら、お父さんが自分のことが嫌なのかもしれないって思っちゃうじゃない?」
「……そう、かな?」

 こんな簡単ではないかもしれないけれど。
 でも、これで少しは変わってくれると……いいな。

「分かった。やってみる」

 そう頷いた少年の表情は、見違えるほどに明るかった。
 可愛らしいという感じが消えて、頼もしさが生まれてきている。
 あぁ、これがこの少年の本当の表情なのかもしれない。
 これまで、暗いっていうのは感じなかったけど、頼りなさそうに見えたのは悩みのせいだったのか。

「うん。頑張れ」

 この少年の明るさが、どうか長く続きますように。
 私は、少し寂しさを覚えながら、その日はお別れしたのだった。

 あれから一週間が経っていた。
 もう夕方というには遅い時間帯で、夜の帳が落ちている。

「……今日も来なかった」

 あれから少年は一回も来ていない。
 窓の外を眺めても、姿は見えなかった。
 またつまらない日々に逆戻り。
 彼はきっと、空を自由に飛べるようになったんだ。
 だから、私のところには戻らないだろう。

「はぁ……」

 分かっていたことだった。
 それを承知で、あの時、彼の悩みを聞いたのだ。
 彼の心に踏み込んだのだ。
 ……寂しいな。
 私が覚えているのに、彼が忘れてしまうのは……やっぱり寂しい。

 コンコン。

 来客を告げるように、扉が鳴った。
 時計を見ると時刻は九時。
 こんな時間に面会してくるということは親だろうか。

「どうぞ」

 窓の外を眺めながら、私は返事をする。
 そして、扉を開ける音と共にその方向を向いたのだった。
 そこには……。

「……お久しぶりです」

 一週間ぶりに、照れくさそうに会釈をする、少年がいた。

「……あ」

 いきなりのことで、私は戸惑う。
 というより、どうやってここまで来たんだろう。
 もう面会出来る時間じゃない。

「キミ、どうやって忍び込んだの?」
「看護士さんに話したら、通してくれました」

 ここの看護士さんは話が分かる人が多いからなぁ。
 でも、こんな時間に家族以外が訪れるのは、大抵恋人に会いたいってのが多いんだけど……あらぬ誤解をされてそう。

「ずいぶん大胆なことをするねぇ、少年は」
「大胆?」
「女の子の部屋にこんな時間に来るだなんてね。夜這い?」
「……よばいってなに?」

 まだ分からないか。
 これじゃ私のほうが恥ずかしいじゃないか。

「よばいではないけれど、大胆なことはこれからするんだよ」

 そう言うと、少年は窓を開け始める。

「……なに?」

 なんか危険なことでもされちゃうのだろうか。
 かすかに身の危険を感じる。

「外に出ようよ」
「……は?」
「外。夜景見たことないって言ったよね。見に行こう」

 ……言葉が出ない。
 あまりにも突然な誘いだったから。
 というか、大胆過ぎだよ、少年。

「えっと……私出れないよ?」

 ぐるぐると考えて、はじめに出た言葉がそれだった。
 そりゃ、病院に入院しているのだから、ほいほいと外に出れるわけがない。
 
「だから、内緒で出るんだよ」
「ちょ、ちょっと少年!?」

 窓の外に身を乗り出して周りを見回すと、私の方を見て。

「どうしたの? 行かないの?」

 にっこりと笑いながら、少年は囁いた。

「私、運動神経皆無なの! ついていけるか不安だし。なにより怒られるよ!」
「大丈夫。僕が支えてあげるし、僕も一緒に怒られるから」

 う……なんだろう、なんか前より頼もしくなってる。
 何も大丈夫じゃないのに、すごく強引だし。
 でも、出会ったとき冗談のように思っていたことが、現実になっていた。
 今は……籠の扉を開けてくれる人がいる。

「…………よしっ」

 私は決心すると、ベットを降りる。
 ひさびさに立つと、世界が揺れるように眩暈が走った。
 支えを探して、ベットの手すりを掴むと、ゆっくりと息を吸い込む。

「あ……紗奈さんっ!」

 少年が私に駆け寄り、身体を寄せる。
 私の体重を自分に預けさせようとするように、手すりを掴んでいた手を持った。

「大丈夫?」

 心配そうに私に声をかける。
 私はゆっくりと深呼吸しながら、眼を開ける。
 大丈夫。私はこれから生まれて初めて、籠から出るんだ。
 自分の意思で。

「当たり前でしょ」

 強がり半分で、けど元気そうに少年に言った。

「あ……うんっ。行こうか」

 少年は安心して笑うと、私の手をぎゅっと掴んで歩き出した。

「私、外に出るような格好してないんだけどなぁ」
「ごめん。我慢して」

 格好は気になるけれど、まぁ夜だし良いか。
 それにちょっとワガママを言ってみたかっただけだし。
 それほどに今日の少年は頼もしかった。

「どこに行くの?」
「この先を行くと、高台があるんだ。そこの夜景が綺麗なんだよ」

 ということはずっと坂を上がらなくてはいけない、ということ。
 ……私に、それほどまでの体力はあるだろうか。
 そんなことを考えていると、少年の足が止まった。
 見ると、そこには自転車が置いてあった。

「それじゃ、後ろに乗って」
「へ?」
「歩くの辛いでしょ? だから僕が運転していく」
「……それはありがたいけれど、私乗り方知らないよ?」

 なにもかもが初体験。
 すごい新鮮で、楽しくもあるけれど。

「後ろの荷台に座るんだよ。足元気をつけてね。あと、落とされないように僕にしがみついて」
「……今日の少年はホント大胆だねぇ」

 矢継ぎ早にそう言うと、少年は自転車にまたがって私が乗るのを待っている。
 私は恐る恐る荷台に腰をかけ、そして少年の背中にギュッと抱きついた。
 ……小さな身体。
 でも、今はこの身体だけが私の頼りなのだ。

「よし、じゃあ行こう」

 少年は勢いよく漕ぎ出す。
 どこからそんな力が出るんだろう。
 こんな小さくてもやっぱり男の子なんだなーと思う。
 私が貧弱なだけかもしれないけれど。
 キツそうに、それでもゆっくりとペダルを漕いで、少年と私が坂を登っていく。

「私降りようか?」
「いや、そのまま乗ってて」

 なんだか男らしい。
 なにがここまで少年に変化を?
 様子を見るに、お母さんのことは上手くいったんだと思うんだけど……それにしたって。

「……っ、到着!」

 そう少年は叫ぶと、フラフラと自転車を降りた。
 少年は息を切らしながら、自転車を支えていて、私が降りやすいように手を取ってくれる。

「ありがと」
「はぁ……はぁ……こっちだよ」

 少年はまだ苦しそうにしているけど、強く私の手を引いて、目的の場所へと案内する。
 するとそこには……。

「ね、綺麗でしょ?」

 自分の足元から、見える先全てに、光が広がっていた。
 大きなものから、小さなものまで。
 まるで、足元に広がる星のように、キラキラと瞬いている。
 なんとも、不思議な空間だった。

「どう?」
「……綺麗、だよ」

 感動した。

 眼下には、私の病院の明かりもついている。
 そしてたぶん、この少年の暮らしている家の明かりも。
 この景色の一部になっている。
 これだけ大勢の人がいる。大勢の人が生活をしている。
 その明かりが、こんな綺麗な景色を作っている。

 そう思うだけで、なんだか温かな気持ちになった。

「ありがとう」

 少年がそう呟いた。

「え……?」
「紗奈さんのおかげで、お母さんと会えるようになった。お父さんが許してくれたんだ」
「それは私の力じゃないよ。少年が頑張ったからでしょ」

 そう私はなにもしていないのだ。
 少し背中を押してあげただけ。

「いいや、紗奈さんのおかげだよ。だからありがとう」
「……どういたしまして。私の方こそ、ありがとう」
「これはお礼なんだから、気にしないで」
「それだけじゃないよ」

 私は人と接するときに、線を引いて接する。
 自分が嫌な思いをしたくないから、寂しい思いをしたくないから、自然と身についたことだった。
 でもそれは、ちっぽけなものだと気づかされた。
 この少年は、自分の籠の扉を壊しても、また私のところに戻ってきてくれた。
 そして、今度は私の籠の扉を開けてくれたのだ……私を、空に羽ばたかさせてくれた。

 ……自分勝手に人と距離を取り、線を引いて、他人を拒絶するのはその人に対して失礼だ。
 もっと、心を開いていいんじゃないだろうか。
 傷つくことを、踏み出すことを恐れていたら……籠の扉は開くことはない。
 それを、彼には教えてもらった。

 今度は私から少年の手を握る。
 それに気づくと、少年は不思議そうにこっちを見た。

「紗奈さん……?」

 これが、私が勇気の一歩。
 どうせ出来ないんだと、悟ったようなことを言って。
 自分から動こうとしなかった私が、踏み出す一歩。
 籠の中の鳥は、いつだって出られるんだ。

「勇気をくれてありがとう……大樹」

 私は、彼の名前をかみ締めるように呟いたのだった。


◇◇◇


 病院に戻ると、大騒ぎになっていた。
 出ていたことがバレたのだろう。私たちは素直にお縄についたのだった。
 私たちは共犯ということで、少しばかりの説教をくらい、それで解放された。
 それで、済んで良かったよ、本当。

「紗奈さん!」

 今日も元気に、少年は私の病室へ訪れた。
 怒られたって懲りずにくるんだから、この少年もなかなかに度胸がある。

「毎日毎日来なくてもいいって言ってるでしょ?」
「いいじゃん、僕がしたいんだから」
「……まったく」

 なにを好き好んで、私に会いに来ているんだろうか。
 もしかして……私に惚れてる?

「私って罪な女よねー」
「なに言ってるの?」

 真顔でそう返されると、私の立つ瀬がない。

「……まぁ、いいや。ねぇ大樹。今日はなにを話してくれるの?」
「今日はね」

 また、彼の話を聞く。
 そんな日々が日常となりつつあった。
 それは、私が自分で手に入れたもので。
 彼が、くれたものでもある。

 これは、いつまで続くのだろうか。
 もしかしたら、すぐに終わってしまうようなものなのかもしれない。
 でも、今の私は悲観する気なんてまったくない。
 どうせこの病室から出られないって、諦めたりはしない。
 必ずここから出る。病気にも負けない。
 いつか、私がこの籠から出て、彼と一緒に外へ自由に飛びまわれるようになったら……きっと楽しいだろうから。
 そんな日々を描ける。
 そうなれた自分を、私は結構気に入っているから。



 籠の中の鳥はいつ出れるのだろうか。
 答えはいつだって出られる。
 たとえ、扉が閉ざされていようと、どれだけ籠が頑丈だろうと。
 それを壊せる力を、勇気を、誰だって持っていて。
 そんな自分を助けてくれる人が、必ずいるから。

空へ

空へ

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2010-09-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted