practice(11)



十一
 腰掛けるロッキングチェアは私の寛ぎに木鳴りを立てて,スマートな太っちょ猫であるピケは私のお腹で眠って幸せの加重をかける。ぎしぎしと,今度は抗議を申し立てられる。私だって重い。
 側で光を通すカーテンレースは外から吹く風に見えないお尻を柔らかく押されて,先程から私の顔に掛かるばかり,その定位置に帰って行く時には北欧出身のサイドテーブルの上に置いた(おそらく)ブラジル産の熱いコーヒーの湯気を包む。『アタリ』行為ばかりで肝心なものを盗めない見習い,あるいは頂戴を言えない育ちが良いご婦人か,その辺りは任せる気分に,透けて見える向こうの庭で洗いたてのシャツは物干し竿に掛けられる。一所懸命に乾くことに励んでいる。そのうちの一枚が,これ以上ないと思える程の端っこで再洗濯の未来と闘っているけれど,手を差し伸べるのは野暮というものだ。シャツはこうして鍛えられる,というのが怠けた気持ちの即席哲学,ただの言い訳と指摘してはいけない。それに今もこうして,お腹に猫も乗ってるし。
 台所でスクランブルエッグを作っている同居人にはオムレツを頼めない。ウォールペーパーの柄には今も悩んで,「あれは良かった。」と言うことと「これは悪くないね。」と感心してる内心を言ったり,私に(一応,)聞いたりしている。午後からは新しいフライ返しと,欲しがったジューサーを見てから買ったりする予定になっているけど,もう少し加える変更もあるかもしれない。椅子はもう一脚増やしてもいいと二人して思っていたし,彼女は低い木製の踏み台を買ってから小さい額縁のシリーズの絵を,手の届かないところにも散りばめて飾りたがっていた。丸やら文字やら数字やら,一つずつのシンプルな絵を意味ありげに配置するのは特に意味はないと意味あり気に言う。ピケはたまに座ってじっと眺める不思議さがそこにある。この前は見かけていたアルファベットの『O』が抜けていた日には『×』が二つ三つと増えていた。『ぺけ』を思って「掛け算?」と聞いたら,「ご自由にどうぞ。」と返された。そんなに増えても謎は解けない。ロッキングチェアに座っても,それで直ちに名探偵にはなれないのだ。
 そういえば椅子という椅子に座っても,足を組まないトキワのお姉さんは今日か明日にはここに来ると言っていたのを思い出した。最寄り駅に辿り着いてもそこから先に向かうには車を選択するのが妥当な我が家への道のりには,だから車で迎えに行くのが手間賃も掛からず相当だ。連絡は確か彼女が受けたはずだから私は彼女に聞いたのだが,二人分目のスクランブルエッグと厚切りベーコンを焼くことに集中して取り掛かっているためか生返事ばかりが返ってくる。「そうだったかもねー。」とか,「どうだったかなー。」では,決められるものも決められない。メモも取っていないのは,実の姉だからといってトキワのお姉さんを甘く見過ぎている。義理のない報復は必ず果たすトキワのお姉さんは,そのために専ら僕の書斎を弄る。表紙の付け替えに始まり,ボールペンの針抜き,ないしは巧みな色替え,日記の簒奪,及びディナーにおける朗読,ドア裏に貼り付ける赤ペンを用いた一言感想。私にだけ向けられたその数々の「不器用な愛情表現なの。」は,木漏れ日の只中で避けたい気持ちで一杯なのだ。後で必ず連絡を取る。これは全く言い訳ではない。
 ベランダから入って出ている秋の一往復に嵐の気配を感じる。
 しかし残された時間を閉じた本を開くことから始めた。丸っこいピケが隠れて,開いて始めた頁の頭には『話をする必要は無いのが心地良くて,』と主人公が柔らかい草の上で分度器を手にして,一つの出会いを果たそうとしているのだ。読者としてはその邪魔にならないように一つ一つ先を目で追うのが素直で正しい。集中力はそれだけで良いのだ。プラスチックで透き通り,目の前の雲の流れも止めずに細かい目盛りで角度を測り,降ってくる『それ』を待っている。生きている『それ』は物語の生き物で,主人公をクッションにして着地を決める。ある程度の衝撃はやっぱり受けるものだ。主人公は呻き声に目を瞑って身体で感じる痛みを和らげる。それは気持ちの上の話で,『それ』はそこを退かない。主人公は取り敢えず重いのだ。自分の分と『それ』の分で,衝撃の出会いとその展開に句読点が休む。痛みが無事に散るようにと,誰かの作為が入り込めば『それ』が初めての声を出す。話し言葉じゃなくて一つの鳴き声だった。『それ』は動物のようで,特に襲い掛かったりしていない。主人公は目を開ける。その目に飛び込む『それ』はそうして,主人公と目を合す。『それ』は物語の猫で,物語の犬だ。着地した場所であるそのお腹で,主人公の物語が始まっている。
 我が家のピケは貰い猫だ。彼女の友達が飼ってた猫の生んだ子猫だった。ここでの暮らしを始めてから一ヶ月後のことで,私たちも生活を始めたばかり,築かれつつあるリズムの安定感を楽しく跳ねさせるきっかけにもなると思って貰って来た。よちよち歩きの可愛らしさだった。面倒に関しては問題なし,二人できちんと育てていった。私に慣れて,彼女に慣れなかった当初は彼女がやたら可愛がり,ピケがますます苦手になるという悪循環もあってピケに関して二人は仲良くなかった。得意満面な私が腹立たしかったそうで,得意満面を止めなかった私だった。ピケは歩けば私に来たし,ピケは眠れば私の所だった。彼女は愛情の表現を控えめにするようにはしていたけど,愛情を減らしたりはし無かった。そんなもんじゃないと言う,彼女にピケは眠りながら撫でられていた。
 ピケにある日,私は自室の机の上で話をしたことがある。彼女との出会いから時の経過に合わせて,私が覚えている事だ。記憶違いはあるだろうし,そこで感じたことも実は違うんだろうけれども取り敢えず過ごして来たその時々だから,私は気にせずに話した。まだ細かったピケは耳を立てて聞いていた。直近の,ピケが眠ってからその日の今朝起きるまでに話し合ったことまで話し終わってから私はピケに彼女にも話を聞くように言った。これは私の物語だから,彼女の物語も聞くようにと。それで思うことをピケが思えばいい。彼女が帰って来てから,それから初めて呼ばれてからと。
 午後の八時に彼女が帰って来たのは私も覚えてる。ピケが先に彼女を迎えたのだ。彼女はとても喜んで,ピケの名前を読んでいた。私はベランダ近くでロッキングチェアに座ってから,夏の隙間を縫って吹く風とカーテンレースを顔に受けてた。恐らく彼と彼女はよく話し合ってたと思う。話されたことは私と同じじゃないかもしれないけど,それはどこかの物語となっていて,ピケは耳を立てて聞いていただろう。見ていたシルエットはそうだった。これは私が覚えている物語の一部だから。
 そう思い出す本の向こう側,私のお腹の辺りでピケが丸く動き出して,気にした私の動きで腰掛けるロッキングチェアが鳴った。起きたと分かる目と目は,手にする本の下から覗いている私のことを見ていた。カーテンレースの動きも気にせず,表情変えずに風を気持ち良さそうに毛並みで受けて,ひと欠伸もしないのは珍しかった。さてどうするの?を聞いてるようだった。これから食べる朝食を考えて,ピケの今朝の分のササミがあるのは確かだから,出掛けがてらにピケのものを買うのを決めた。猫向けのダイエット用品も一応見聞して置いて,「お留守番は宜しく。」と私は言った。ピケは返事をしないけど,それがピケの平常運転。
 「準備は出来たよ。」と声が掛けられて,私は本を閉じて,本を置く。ベランダのドアはまだ閉めずにカーテンレースの好きにさせる。温い珈琲は後で入れ直すから,置いて行くのはその見習いか,あるいはそのご婦人のため。薫りはそろそろ消えそうだった。透けて見える向こう側ではシャツはきちんとご健在,物干し竿の端っこで成形された姿を風にからかわれている。ロッキングチェアを鳴らして立ち上がる。
 自室に戻って,携帯から掛けた電話口に無事に出てくれたトキワのお姉さんは四時間後に最寄り駅に着く予定だと私に伝えた。遅れることは一分たりとも許さないというお達しで,やはり何かしらのペナルティを受けるのは聞くまでもないことだった。お姉さんの方こそ予定を狂わせたりしないように気を付けるようにと,遠回りな嫌味をきちんとお返ししたところ,一度鼻で笑ってから「抜かりは無い。」と,とても時代劇風に言われた。推測するまでもないけど,きっと何かに嵌っている。特に聞かなくてもどうせ知ることになるから,忘れる努力を今からすることに決めて電話を無事に切ったのだった。
 リビングには同居人がピケを撫でて,テーブルには私たちの朝食が並んでいた。ピケのササミは私が冷蔵庫から出して,同居人が少し温めてからピケの『テーブル』に乗せた。ピケは起きてからまだ鳴かない。お礼のような視線を送っている。けれどそれもまたピケの平常運転。
 一枚のお皿に焼かれた二枚のトーストとレタスとコーンのサラダがあって,インスタントのスープが湯気だつ。スプーンは新調した小さいもの,器に凭れて仕事を待ってる。添えられていた卵料理はオムレツでなく,やっぱりスクランブルエッグだった。
あるいはオムレツになろうとしたスクランブルエッグかもしれない。名探偵は美味しく頂き,それから聞いたりするかもしれない。    

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-13

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