キャッチボール(6)

六回表・六回裏

六回表
 
「じいちゃん、キャッチボールをしようよ」
孫のハヤテの声がした。
私は、ソファーに寝転がったまま、テレビと新聞の二つの情報装置から、外部の世界とつながっている。だからと言って、特段、テレビで、観たい番組があるわけではなく、電気代の無駄と言われようとも、ただ、スイッチを入れているだけで、イージーリスニング音楽のように、情報が耳を通過する。時に、ニュースの時間、アナウンサーのしゃべり声が、音符として聞こえる時があり、思わず、今の出だしの音は、ドだ、いや、半音高かったとか、それにしても、このアナウンサーは、抑揚がなく一本調子などと、ニュースの内容よりも、しゃべり方、つまり、音やリズムとして捉えている。それも、ほんのひと時の気まぐれで、直ぐに、自分と現実世界を遮断する目の前の左右の紙の壁に目を落とす。
新聞も読みたい記事があるわけでなく、時には、漢字を飛ばして、ひらがなだけで文章を読んだり、一つの記事の字数を数えたりする。時には、今流行りの、声に出して読むこともある。また、写真付の記事がサラマンダーのように精霊の形に見えた時などは、新しいデザインを発見した喜びで、孫がいるのも忘れて、やったーと叫び声を上げ、必要もないのに、ハサミで切り抜き、そのまま、枯葉のように床に積み重ねていく。だが、それは、人類の叡智への敬意ではなく、自己満足の証なのだ。自分から、テレビと新聞の要塞の中に引き篭もった状態のため、ハヤテの声は聞こえても、姿は見えない。今日は、小学校の授業が終わるのが早かったのか、時計は、まだ、午後一時過ぎだ。
私は、会社を定年した後、別の関連会社に再雇用されていたが、息子夫婦が共稼ぎとあって、誰かが孫の世話を見る必要が生じた。妻は、まだ、仕事に就いているため、結局、私が孫の世話を見ることになった。その孫も、もう、小学一年生だ。後、何年、孫のめんどうを見なければならないのか。いや、見ることができるのか。頭では、明確に意識していないけれど、孫の成長と自分の老化との闘いが、末端の細胞では、日々、激しい攻防を繰り返している。
「いいとも。玄関前の道路でキャッチボールをやるか。でも、呼び方が違うぞ。じいちゃんじゃないぞ、ジェイジェイだぞ」
私は、孫が生まれ、世代を超えた血のつながりができたことが、大変嬉しかった。しかし、血縁上は、私が祖父で、ハヤテが孫だが、それをあからさまに表現されることは、少し不愉快だ。じいちゃん、老人会、老いし者。中島みゆきの曲に「年をとることは、素敵なことです」というフレーズがあるが、何が素敵なものか。生まれて、生きて、死んでいく、今、人生の第四カーブを曲がり終え、最終の直線百メートルか、二百メートルかはわからないが、ゴールを目の前に迎えて、素敵だなんてことは、これっぽっちも思えない。
素敵という言葉は、他人を踏みつけにし、他人を喰らい、生き延びたこと、つまり人生の勝利者への賛辞なのか。それとも、生きる目標を失った者への慰みの言葉なのか。せめて、老いたことへの最後の抵抗として、孫には、じいちゃんと呼ばせずに、JJ、つまり、ジェイジェイと呼ばせている。GGでもいいが、それでは、ジージーと発音され、じいちゃんと同じように聞こえてしまう。自分が、日本人であること、日本の国で生まれ、育ち、骨になろうとしていることから、JAPANのJと、年寄りの冷や水と言われながらも、温泉郷の足湯に浸かって温もり、死ぬまで元気でいようと、夢を追い続けるサッカーのJリーグの若者にあやかりたい気持ちから、JリーグのJを組み合わせて、JJとした。無理矢理のこじ付けだと思うかもしれないが、理由なんかは、どうでもいい。とにかく、じいちゃんと呼ばれたくないことだけなのだ。
「わかったよ、ジェイじいちゃん」
屈託のない、ハヤテの返事。わざと、間違えている。私は、執拗に食い下がる。
「ジェイじいちゃんじゃない。ジェイジェイだ」
「わかったよ、ジェイジェイ」
じいちゃんの私が、大人気なく、呼び方にこだわるのに対し、小学生のハヤテは、大人のやり方で妥協する。目的は、キャッチボールをすること。その目的を達成するためには、枝葉末節の事柄なんてどうでもいい。大木になるためには、枝打ちが必要なことを知っているのだ。これから成長していく七歳の孫と、今後、心と体が収縮傾向し、ねんねになっていく七十歳の私。
二人は、いつ、入れ替わってしまったのだろうか。そうだ、今年の正月の初詣で、近くの神社の氏神様にお参りした後、次から次へと階段を上ってくる参拝の人を避けるため、神社の階段の端を二人で手をつないで下りようとした。最初は、いち、に、いち、に、と掛け声を上げ、調子よく、二人三脚のように降りていたが、作られた年代が違うのか、石の階段の高さが異なっていたため、リズムを崩し、私の右足は石を踏み外してしまった。
私は、滑りながらも、孫を守るため、胸で抱きかかえたが、二人一緒にそのまま下まで転がり落ちた。大丈夫ですか、と声を掛けてくれる参拝の人もいたが、大半の人々は、自分の幸せを祈るために、お参りに来たのであって、他人の不幸にかまっている暇はないという顔をして、何事もないように通り過ぎる。惨劇は、テレビ番組と同じで、全て作り物、やらせ、出来レースなのだと確信している。痛みは、自分には届かないのだから。とにかく、二人は、階段から転げ落ちた。多分、その時から、私と孫のハヤテは、歳の差を越えて、同級生になったのだ。そして、月日が流れ、生物学的に成長したハヤテが上級生、老化した私が下級生になったのだ。
「よし、ハヤテ。表にでろ、勝負だ」
「いいよ、じいじい、じゃなくて、ジェイジェイ」
ハヤテは、かかとが半分以上折れ曲がり、人生の汚れも穢れも知り、決して真っ白には戻れない運動靴に足を突っ込んで玄関を開けた。
「ハヤテ。キャッチボールをしたことは、あるのか?」
私は、孫とキャッチボールをするのは、初めてだ。
「パパといつもやっているし、友だちとしたこともあるよ」
息子の翼と、初めてキャッチボールをしたのは、いつのことだったか。
「ジェイジェイ。いくよ」
ハヤテからボールが投げられた。
「おっと、よそ見はいけないな。ボールから目を離すなと、よく言われたものだ」
「ボールに目がひっついたら、キャッチボールができないよ」
ハヤテが、私のひとり言に突っ込んでくる。
「あはははは、例え話だよ。それだけ、ボールに集中しろということだ」
「僕と、ジェイジェイの目がボールに集中したら、ボールは恥ずかしがって、真っ赤になるかもしれないね」
ハヤテにそう言われて、ふと、手にしたボールに目をやる。どこかで見たことがあるボールだ。なんだか懐かしい臭いと汚れだ。握り締めると、昔の感触が伝わってくる。
「ハヤテ。このボールは、どこで見つけてきたんだ」
「家の外に置いてある道具箱の中に入っていたよ。それも、一番底のほうに。パパに野球のボールがないから「買ってよ」と頼んだら、「庭先の道具箱の中に入っているはずだから、よく探してみなさい」って言われたんだ。多分、パパだって、本当に、箱の中にボールがあるかどうかは知らなかったと思うよ。一生懸命探して、見つからなくて、パパにそのことを言ったら、「そうか、なかったのか?前に、あったはずだったんだがなあ」という返事が返ってくるのはわかっていたから、僕は真剣に探したんだ。まずは、一番上に王様のように陣取っているバットやグラブを取り出して、次に、真ん中で、上からの重みと下からの突き上げで少し変形している、中間管理職のサッカーボールやドッジボールを取り除き、その次に、僕もあまり使ったことのないんだけど、いつも虐げられているのか、糸が少しゆるんだバドミントンや先端の羽が折れかけのシャトル、最後に残ったのが、世間から見放されたような、青色の縄跳びの縄と色が剥げ、下地の木が見える独楽と汚れたひものセット。そして、お目当てのボールが、丸い体を四角にして、道具箱の角に押し寄せられていたんだ。どこにも行き場がないから、おしくらまんじゅうをして、孤独な自分を慰めていたのかなあ」
  小学生にしては、例えがすごいと思いながらも、昔、翼もそうだったような気がする。
「そうか、道具箱の中か」
私は、もう一度、野球のボールをじっくりと眺めた。あの頃の、あの場所の、あの時の、あのボールにそっくりだと思い出しながらも、ボールなんて全て同じだと思い直し、ハヤテに返球した。
「ストライク!」
ハヤテの甲高い声が返ってくる。子どもの頃の翼にそっくりの声だ。考え方も声も引き継がれている。
「ジェイジェイも、パパと同じで、コントロールがいいね。野球の素質があるよ」
今さら、野球の才能のことで、孫に誉められてもどうなるわけではないが、近所の同年輩のじいちゃんたちに呼びかけて、日本じいちゃん野球連盟、略して、JJリーグを設立するのも一興かもしれない。
「パパは、上手なのか、ハヤテ?」
「うん、パパはうまいよ。野球だけでなく、サッカーや、ドッジボール、バドミントン、卓球なんか、どんなスポーツでも、僕より上手だよ」
「そうか、その上手なパパに野球やサッカー、ドッジボールにバドミントン、卓球を教えたのが、このジェイジェイなんだよ」
ハヤテからのボールは、力を込めすぎたのか、大きく反れ、私の頭上を通り過ぎようとした。上手なパパを教えた、より上手なジェイジェイを演じるため、私は、思い切りジャンプした。跳び上がった瞬間、背骨からぐきっと音が聞こえた。手を伸ばそうにも、痛くて伸ばせない。体は、くの字のまま折れ曲がり、地面に落下。ボールは、私の頭にさよならを告げ、地球を一周するかのようなスピードで、空の旅へと出かけた。膝を上手く使ったクッションができなかったため、私は、そのままの勢いで地球に激突した。
衝撃で、地面に大きなクレーターができれば、温泉を掘ることができるだろう。しかしながら、地球は、私をやさしく受け入れるどころか、反対に、私の体を跳ね飛ばした。一方的に、被害を蒙ったのは、私。膝は、笑うどころか、痛みの泣き声を上げた。そして、崩れ落ち、五体倒地となる。これまでの私に与えられた数々の恩に対し、森羅万象の神々に感謝する機会が与えられたのだ。涙が出るほどありがたい。
「ジェイジェイ、大丈夫?」
ハヤテが、心配そうに駆け寄ってきた。
「大丈夫、大丈夫」
と、笑いながら答えるものの、何が、大丈夫なものか。今は、先祖帰りではなく、孫と同様、子ども帰り、赤ちゃん帰りになりたい気分だ。このまま、「痛いよ、痛いよ、かあちゃん、痛いよ」と泣き声を上げたい。泣いたところで、痛みが消えるわけではない。泣くことで、自分の感情にどっぷりと浸り、埋没してしまうが、時間が経つうちに、泣いている自分にもう一人の自分が気づき、冷静になれるのだ。
だが、今は、孫の手前、足を引きずり、腰に手を当てながらも、敢然と立ち上がる。どんなことがあっても、孫の前では、颯爽とした自分を見せたいが、今の自分は、春のそよ風が吹いてきても、倒れてしまいそうだ。もちろん、冷たい北風なら、枯葉同様、ここから姿を消してしまう。風よ、止め!
「ジェイジェイ。キャッチボールはもうやめようか?」
「そうだな。ボールは仲間を見つけに、どこかに遊びに行ったみたいだし、エアキャッチボールでは臨場感がないな」
「何、エアキャッチボールって?」
「目の前にある空気を掴み、丸めてボール状にして、相手に投げるのさ」
「つまり、本物のキャッチボールをしているふりをするんだね」
「ああ、そうだよ。だけど、本物のボールを使わなくても、野球の練習はできるんだ。シャドウピッチングといってね、プロ野球のピッチャーたちは、等身大の鏡の前で、自分の投球フォームを毎日チェックするんだよ」
「ふーん、そうか。鏡が、ジェイジェイの代わりに遊んでくれるんだ。じゃあ、早速、家の中で、そのシャドウピッチングをやってみるよ。その間、ジェイジェイは、テレビと新聞と遊んでいてもいいよ」
孫のやさしい言葉に、私は頷く。わずか、数回のキャッチボールだったが、心は十分に通い合った。ただし、この後、私には、病院通いの試練が待っている。
「ありがとう。だけど、逃げていったボールを探さないといけないよ。エアキャッチボールだけでは、飽きてしまうよ」
「それなら大丈夫。僕が探してきてあげる」
と言うなり、ハヤテは、家の裏にしまっている自転車を表に出すと、サドルに跨り、ボールが転がった方向に漕ぎ出した。その自転車は、ハヤテの小学校の入学祝に、私と私の妻が買ってやったものだ。失礼した。私たち夫婦が、全額出したわけでない。ハヤテの両親、つまり、翼夫婦が、ハヤテを連れて、近所の自転車屋さんに選びに行ったものの、両親が買おうとした自転車とハヤテが欲しがった自転車が、金額の面で折り合いがつかず、足りない費用をじいちゃん夫婦、いや、ジェイジェイ夫妻が追い足したのだ。その時、自転車屋の主人に、
「自転車メーカーは、必ず、子ども用自転車に、二種類のランクの製品を設定しているんですよ。一種類が、両親が手を出せる金額の標準タイプで、もう一種類が、軍資金の豊富なパトロンがいる、つまり、孫のためにお金を出したくてたまらない、じいちゃんやばあちゃんが、五段切り替えなどの多彩な機能を持ち、見た目のデザインが優れている高級タイプの自転車です。私ども、商売人にとっては、金額の高い商品が売れるほうが、利益も高くて、ありがたいことですが、自転車職人の立場としては、普通に使うのなら標準タイプの自転車で十分だと思いますよ」
と、気の毒そうな顔をして言った。
 その自転車を走らせ、ハヤテはボールを追う。最初、両手でハンドルを持っていたが、左手をポケットに入れ、余裕の片手運転を見せる。そのうちに、右手も離し、両手を左右に広げて、バランスを取りながら、手離し運転だ。やや、フラフラしているため、いつ倒れないかと心配になり、思わず声を上げる。
「ハヤテ。危ないから、手放し運転は、今直ぐにやめなさい」
祖父の役目として、注意したものの、自分が子どもの頃、両手放しでどのくらいの自転車を漕ぐことができるのか、悪友たちと競い合ったものだ。言うことと、することが違うと言われればそれまでだが、内心は、怪我をしてもいいから、どんどんと何事にも挑戦してもらいたい。昔、「わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい」と、商品とはあまり関係のないセリフを語るコマーシャルがあったが、今の時代には、「腕白」や「たくましい」という言葉は死語であろう。それだけに、ハヤテの、一見、無謀な行動にも、影ながら応援したい。
私の気持ちが通じたのか、ハヤテは、両手をハンドルに戻したものの、調子が乗ってきたのか、サドルから腰を浮かし、立ち漕ぎの姿勢となる。やや猫背のなで肩の後姿は、父親の、翼と同じだ。そして、祖父の、私とも。  
  やがて、小さく見えた姿が、再び、大きくなって、私の元に戻ってきた。
「ジェイジェイ、ボールを探したけれど、見つからなかったよ」
  もう、既に、日は沈み、暗闇が世界の大半を占めている。私としては、ボールを探すことよりも、ハヤテが自転車で滑走する姿を見ることの方が重要であった。
「いいよ、いいよ。また、明日、ジェイジェイが探しておくから」
「ほんと、ジェイジェイ。ちゃんと見つけておいてね。僕、今度の休みの日に、パパとキャッチボールをする約束をしているからね。もちろん、ジェイジェイともだよ」
  本音の後に、抜かりなく、私に気を遣った発言だ。いくら、私が大事に育てたところで、父親には適わない。まして、適おうとも思っていない。だが、少しでも、近づきたい気持ちで、ハヤテが自転車を片付ける時間を待ちながら、一緒に、玄関に入った。

 六回裏

  近くの建設現場から、箱バンの軽自動車がライトを照らし走ってきた。急に、キキキキキーと音をたてて、鉄の塊が止まった。年の頃なら、四十前の、作業服を着た男が、ドアから降りてきた。
「ふう、危なかったぞ。もう少しで、タイヤで踏みつけるところだった。道路の真ん中に落ちているのは何んだ。まさか、犬や猫の死体じゃないだろうな」
  男は、ヘッドライトに照らされている物体を確認した。
「これは、野球のボールか」
  男は、安心して、その場を離れ、車に乗り込もうとしたが、思い直して、ボールを拾い上げる。
「野球のボールか。懐かしいな」
  男は、ふと思い出す。小学生の頃は、プロ野球の選手になりたくて、学校の授業が終わると、一目散に家に帰り、ボールとグラブとバットを自転車の前かごに入れ、近所の公園に向かった。友だちと、誰が一番乗りかで競い合い、早く来た順番に、ピッチャーや一番バッターなど、好きなポジションが選べたのだ。中学生のときも野球部だったが、とうとう三年間、レギュラーになれず、高校に進学してからは、野球をやめてしまった。それ以来、ボールを握ることなんかなかった。今から思えば、高校生のときも、あきらめずに野球を続けていればよかったと少し後悔している。
  そう言えば、来年、小学生になる長男が、野球をしたいと言っていたのを思い出した。自分の苦い経験があったため、あえて、野球に関すること、例えば、キャッチボールやバットの素振りなどは誘っていなかった。むしろ、避けていた。自分の子どもの頃は、スポーツと言えば、野球しかなかったが、今は、サッカーやバスケットボール、バレーボール、卓球など、野球以外にも、様々な種目の球技が盛んに行われ、全国規模の大会がテレビやラジオで頻繁に放映されている。そのせいか、多くの人々がスポーツに関心を持ち、サッカーやバスケットボールなどは、プロ球団が発足し、他の競技も事実上、アマチュアではなく、プロ化している。それだけ、子どもたちにとっては、好きな競技を選択して、自分の可能性にかけるチャンスが増えたわけだ。
  時代は変わりつつある。それでも、様々なスポーツの中で、息子が野球を選んだのならば、野球をさせてやりたい。まだ、息子は幼いので、時期早々と思っていたが、やりたいときが始まりのときだ。
  男は、早速、家に帰って、息子をキャッチボールに誘おうと、車に乗り込もうとした。
「おっと、いけない。このボールは忘れ物だな」
  男は、ボールをポンポンと手のひらで回転させる。
  明日、きっと誰かが捜しに来るだろう。日に焼けた黒い肌に、真っ白い歯の少年の姿が目に浮かぶ。昔の自分だ。このまま、道の真ん中においていたのでは、どこに転がるかわからない。車に跳ねられでもしたら、裂けてしまうだろう。人目について、かつ、なくならないところはないか。辺りを見回すが、暗くて、適当な場所が見つからない。
  おやっ、あそこの電柱はどうだろうか。少し低く、子どもの目線の高さに、ガムテープでひっつければ目立つだろうし、防犯灯が点灯しているので、夜でもわかりやすい。思い立ったら、動け。
男は荷台にある工具箱から、布製のガムテープを取り出すと、およそ十メート先の電信柱に歩み寄り、所有者を待ち焦がれているはずの「希望の星」を貼り付けた。今頃、どこかのだれかが、泣きべそをかきながら、ボールを探しているかもしれない。見つけてくれるかどうかはわからないが、自分が何もしないわけにはいかない。
  男は、きびすを返すと、電信柱から離れ、自分の車に向かい、運転席に乗り込む。
さあ、急ごう。妻や息子が私の帰りを待っている。帰宅したら、まずは、ゴムボールを使って、キャッチボールだ。リビングだと、「家の中で、ボール遊びはやめて」と妻にいやがられるから、二階の子ども部屋でこっそりとやろう。俺と息子の、秘密のグラウンドだ。週末は、近くの公園でグラウンドデビューをするぞ。日に焼けた、昔の自分が頷いている。
  車は、急発進すると、信号が点滅しだした交差点を猛スピードで駆け抜けた。

キャッチボール(6)

キャッチボール(6)

六回表・六回裏

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted