本の虫と王子様
濃厚な本の独特の匂いが広がる図書室がゆずは大好きだった。自分の大好きな本が、手を伸ばせば届く距離に何万冊と並んでいるからだ。
図書室で図書委員として活動しつつ空いた時間はずっと読書に勤しむ、それがゆずの日常だった。
「今日はどんな本を読もうかな」
本を選ぶとき、それは一番わくわくする瞬間だ。どんな物語がエンディングが待っているのだろうと想像が膨らむ。
いつものように分厚い一冊を手に取り受付の席に座ると珍しく図書室の重い扉が音をたてて開いた。
「こんにちは、本の利用ですか? それとも返却ですか?」
決まった台詞を言いながら本から顔を上げると、背の高い少年が入ってきた。少年は一瞬人がいたことに驚き体をこちらへ向ける。
「いや、静かに眠れそうな場所を探してたんだけど、ここで寝てもいい?」
「は、はあ」
堂々と図書館での居眠り宣言に、困り顔でゆずがうなづくと、少年は用は済んだと言わんばかりに図書室の奥へ進んで行く。それを見てゆずはつい声をかけた。
「あの! ……眠るなら一番奥の席がいいと思います。その、風がよくあたるので気持ちいいかと……」
話しているうちに余計なお世話だと気づき、だんだん声が小さくなってゆく。うつむきそうになるとき少年が小さくぺこりと頭を下げた。
「どーも。それならそこで寝てみる」
「は、はいどうぞ!」
緊張して声が裏返りそうになるゆずをみて少年はくすりと笑った。元々整っていた顔に微笑が加わり、見とれそうになった。
「あのバスケ部の期待のエース、学校中でイケメンと有名な月城蒼穹(つきしろそら)が図書室に来たー!?」
「ちょっ、声、声が大きいから、静かにっ」
目を大きく広げて驚く親友怜奈(れいな)に必死で周りに迷惑だと注意する。しかし屋上だから大丈夫だと豪快に笑い飛ばした。
「すごいわよ! 月城くんと話せるなんて‼」
興奮気味に喜ぶ怜奈にゆずは首をかしげる。月城、聞いたことはある名前だがそれ以外は全く知らない。この学校自体総勢1000人以上の生徒がいるのだから知らない人がいてもおかしくはないが、怜奈は嘘だと言わんばかりに詰め寄ってきた。
「ええっ! 知らないの!? だって彼の瞳は青かったんでしょう? 黒髪で背が高くて、細身なのに筋肉がしっかりついてて、クールだと思ったら優しいんでしょ!?」
「いや、そこまでわからないけれど……」
細かく語る彼女にゆずはぎこちなく首をかしげる。それからしばらく自分の世界に浸っていた怜奈は、ゆずを見つめ大きなため息をついた。
「さすが本の虫……あの男を知らないんだなんて、どんだけ本にしか目を向けてないのよ……」
飽きられているのに「本の虫」と褒め言葉をもらった気分になり嬉しくなるゆずに、怜奈は心配になってくる。ゆずが本を大好きなことは知っているが、あまりにも現実に興味がないのは危うい。そう思い彼女は立ち上がると、どこから取り出したのか一冊の手帳と赤いフレームの眼鏡をかけた。
「それじゃあこの学校一情報通の私が教えてあげましょう! 彼は二年生バスケ部所属、その実力は先輩もうならせるほどでハイルックス及びちょっと釣り目気味な整った顔が女子に大人気、今やファンクラブもできているもはや知らない人はいない有名人なのよ! だけれども彼はあまり友好的な関係は好まず態度も素っ気ないし笑顔も滅多に見せない。まあ、そこが乙女心を萌えさせるんだけどねー。クールな顔に隠された本当の顔みたいな?」
熱烈に語る怜奈に押されるようにとゆずはうなづいた。まさかそんな有名人だとは思わなかった。
「だーからっ、ゆず、いいこと? 学校で彼を知らないのはあなたくらいのものなのよ? もう少しは現実とか世間にも目を向けて」
「いいよいいよ、別に。本の虫な私は図書室が一番お似合い。世間なんて知らなくても生きていけるよ」」
へらっと言うゆずに怜奈は、ていっとゆずの鼻をつまんだ。
「まったく。だから恋もしたことがないのよ。恋をしたら一気に現実が色づくわよ!」
またもや今度は恋愛について語りだした怜奈に相槌をうちつつ、遠い空を見つめた。きっと恋なんてすることはないだろう、本の中の王子様たちがいるから十分だ。
今日もいつも通り放課後に図書室の受付で仕事をしつつ読書をしていると、また扉が開いた。放課後に図書室に来る人は極端に少なく二日間連続の訪問者は珍しい事だった。
「こんにちは、本の利用ですか? ……――あっ!」
扉から現れた人物を確認すると思わず声を上げた。昼休み親友と話していた月城がまた現れたのだ。
「今日も寝に来たんですか……?」
自分には不釣り合いなほど有名な人物だと思うと、同学年でもついつい敬語になってしまう。それを月城は横目で見つつもうなづいた。
「昨日寝た場所がちょっと気に入ったんで」
その言葉にゆずは、音をたてて椅子から立ち上がった。
「本当ですか!? 私もあの場所はお気に入りで、よくあそこで読書するんです! でもあまり他の人はあそこの良さには気づいていないので……知ってもらえて嬉しいです!」
にこにこと笑って心の底から嬉しそうなゆずに月城は昨日と同じように笑みを漏らした。
「知ってもらえてって、教えてくれたのあなたじゃん」
「まあ、そうですけど」
あまり笑わないらしい月城の笑みが今日も見れて、なんだか嬉しくなった。奥の席についてくつろぎながら眠りにつく月城を確認しながら、本ヘ眼を移す。彼の寝息のする図書室は、なぜかとても心地の良いものだった。
夕方、太陽が沈もうとする時間にそろそろ終了時間だと本を片づけ、図書館の明かりを消すとあることにふと気づいた。月城がまだ寝ているのだ。
「……あの月城くん。時間ですよー」
びくびくとした思いで話しかけるが月城は一向に起きない。仕方なく手を伸ばして肩をたたこうとしたとき、月城がぱちりと眼を開けた。
「きゃっ」
いきなりのことに急いで手をひっこめる。幸い寝起きで頭がまだ回転しきれていないのかぼけーっと窓から空を見つめる月城にゆずは困った顔で声をかけた。
「もう下校時間ですよ。あまり長居すると今度は門が閉まっちゃいますし」
それでもまだ月城は空を見つめたままだ。このまま月城を放っておくこともできないのでどうしようかと悩んでいると月城が口を開いた。
「空ってさ、青くて綺麗だよね」
唐突に呟かれたその言葉にゆずも窓の外を見つめた。空の青と夕日の赤が混じって少し眩しい。
「そうですね。でも、私は真っ赤な夕空も、落ち着くことのできる夜も、光がさして涼しい朝の空も素敵だと思います」
いつも頭上にある空。物語の中でもよく綺麗な空が書かれているが、現実の空はもっとキラキラしてて美しい。ゆずの数少ない、現実で好きなものだ。
ゆずの返答に月城はそうですねとだけうなづくと、立ち上がって失礼しましたと図書室を出て行った。ゆずはなんだか空の書かれた本を読みたくなり、何冊か本棚から抜き出してと家へ持ち帰って読むことにした。
それから毎日、日課のように月城は図書室へ眠りに来た。月城所属のバスケ部は今、体育館の改装工事中で一か月の休みらしい。なぜ図書館へ? と思う節もあったがあまり人も来ないし図書館の利用目的はそれぞれ自由なので聞かずにいた。
それと同時進行で、少しづつ二人の会話が増えていった。
天気の話や話題のテレビの話、最近髪が薄くなってきた社会のおじさん教師の話、時としてゆずが本について熱く語ったりもした。大抵の人はすぐ話に飽きてしまうのだが月城は無表情ではあるが飽きずに最後まで聞いてくれた。
ちょっとづつほんの少しづつ心が交差していき、図書館はゆずにとって今までより陽だまりのような温かく心地のいい空間となっていった。
月城が図書館を訪れてから丁度一か月経とうとしいた頃、、今日も今日でいつも通りゆずが図書室で読書をしつつ図書委員の活動をしていた。しかし先ほどから時計が気になって仕方がない。なぜなら、
(月城くんが来ない)
普段来る時間を半時過ぎても訪れる気配はない。彼にも用事があるのだろうと思ったが、心はしゅんとうなだれていた。その時、窓の外から声が風に乗ってやってきた。窓はいつも開けているから向こう側の中庭の音は筒抜けだ。気を紛らわすように2階の窓から中庭を覗くと見覚えのある生徒がいた。
「月城くっ……!」
大声で叫びそうになるのを押さえながら、どうにも目が離せずにいると一人の少女が目に入った。栗色のふわふわした髪の毛が印象的な少女だ。
(あれは……柴崎さん?)
一つ下の学年の男子から人気のある可愛いらしい少女だ。月城が学校一のイケメンだというのなら、柴崎は学校一の美女だ。そんな二人が並んでいる姿は絵になっていて、急に月城が遠い存在だと叩きつけられた。二人が仲良さそうに話している姿にゆずはぎゅっと目をつぶった。胸が痛くて見ていられない。
早くこの気持ちを追い出してしまおうと本を手に取るが、文字は欠片も頭に入ってこず、その日は一ページも進まなかった。
「本が読めなーい‼」
屋上で思いっきり叫んだ。前は親友に大きな声を出したら迷惑だと注意したが、今はそんなこと頭から抜けている。
「ちょっと、ゆず。いきなり叫ばないでよ。私の喉にパンが詰まったらどうしてくれるの?」
今度は怜奈の方が注意役になり、昼食の生クリームあんぱんを持ちながらぶつぶつ言っている。ううっとゆずは小さく唸った。
「本が少しも頭に入ってこないの……開いてる時間さえあれば月城くんのことでいっぱい! それもこれも月城くんが……」
「ああ彼、あれから図書室には来てないんだっけ?」
柴崎と一緒にいるのを見た日から一週間、月城は図書室に姿を現さくなった。同じ学年ではあるがクラスは違うので顔すら見てないのだ。
「柴崎ちゃんと付き合い始めてたりして……」
怜奈はパンを食べる手を止めてぽつりと呟いた。それがなぜかするどく胸に刺さる。ゆずは読まないで傍に置いてあるだけの本を手に取って抱きしめた。
(もし、あの時告白してたりしたのなら、それで付き合い始めたのなら、そりゃあ図書室での眠りより柴崎さんとの時間を優先するよね……)
胸がずきずきと痛い。油断すると涙が出てきそうだ。
(こんな気持ちはじめて……)
重たい気持ちを吐き出すようにため息をつく。怜奈は物珍しいものでも見るようにゆずを見た。
「なあに……」
「いや……ゆずがまさか恋をするなんて思ってなくて……」
「こい……?」
初めて聞いた言葉のように聞き返した。しかしその意味を理解するとゆずは首を振る。
「そんなものしてないよ」
「じゃあ月城くんへ抱いているその想いはなんだっていうの?」
「……友達をとられて悔しい想い」
だと思う。それ以外の理由で胸が痛くなるわけをゆずは知らなかった。
ふと空を見上げると青くどこまでも続く景色が眼に入る。生まれたときから変わらない景色。だがあの時だけは違かった。月城と見たときだけは、もっとキラキラしていた。
遠い目になるゆずをこちらへ連れ戻すように怜奈は手を引っ張った。
「ゆず、最近駅の近くに新しいアイスクリームショップが出来たんだ。おいしいって評判だから帰りに行ってみない?」
「うん」
元気づけようとする怜奈の優しにあったかくなりうなづいた。
放課後、図書室の営業を早めに切り上げて怜奈の待っている昇降口へと足を向けた。怜奈と落ち合い、なんのアイスクリームを食べようかと話しながらアイスクリームショップへ向かおうとすると、体育館のほうから歓声が聞こえてきた。
怜奈が興味津々に覗きに行くのでゆずも続いていくと、バスケ部が練習試合をしているようだった。
(バスケ部の練習試合……ん? バスケ部って月城くん所属の……)
一つの期待が胸に広がった。もしかしたら、図書室に来なくなったのは部活に出るようになったからなのかもしれない。
そう思いながら、自分でも知らぬ間に目で月城を探していた。月城はすぐに見つかった。一人だけまるで光っているかのように、ゆずの目の前にすぐに飛び込んでくる。しかし、そのことによって先ほどゆずが抱いた期待が無惨にも打ち砕かれた。
「はい、月城先輩」
「ありがとう」
笑ってタオルを差し出す柴崎に、ユニフォームを仰ぎながら受け取る月城。
(やっぱり二人は付き合ってるんだ……)
今まで、もしかしたらと目をそむけていた現実がゆずに叩きつけるようにある。
「だから嫌いなの……現実なんてお話の中みたいに上手くいかない。ハッピーエンドなんて来ない……!」
誰にも聞こえないような小さな声でゆずは絞り出すように言った。早くこの場から逃げてしまいた。体育館の外へ足を向けるとき、しっかりと誰かが手首を握った。
「っ……怜奈」
「ゆず、現実から逃げちゃダメ。あなたの気持ちから目をそむけちゃいけない。ゆずは本当に月城くんをただの友達だと思っているの? ……月城くんの事を話すときのゆずはすっごく楽しそうだった」
怜奈の言葉は頭を頭にスッと入ってきて響いた。
彼のたまに見せる笑顔、眠っているだけ見つめることのできる横顔。彼の青い瞳が見たくて早く起きてほしくて、でも彼の寝ている時間はとっても居心地がよくて……。
見て、触れて、感じたことが脳内を駆け廻って広がる。言葉にできない甘くて切なくて苦い思いが胸を満たす。
「これは…………」
これはきっと恋だ。
ぽんっと怜奈が手首を離して背中を押した。それに後押しされるようにゆずは走った。初めての感情を抱く大切な彼のもとへ。
「月城くんっ ……蒼空っ‼」
そら、そう自分の下の名前を呼ばれた月城は驚いたように振り返った。
世界の音と景色がすべて消えて、月城だけが見える。高鳴って他の人に聞こえてしまうんじゃないかというほど大きい胸の音を遠くに聞きながら、ありったけの想いを込めてゆずは叫んだ。
「好きっ、あなたのことが大好きです!」
叫んだ瞬間、ぐっと引き寄せられて倒れるように抱きしめられた。月城のカモミールの香りが体を包む。
「俺も好きだよ……」
熱く甘くゆずだけに聞こえるような耳でささやかれた言葉にゆずは自然と涙がこぼれた。
「月城くん、閉館時間ですよー」
目の前で規則的に寝息をたてて眠る愛しい彼に、ゆずは声をかける。だが一向に起きる気配がない。静かな時間にゆずは告白してからのことを思い出した。
柴崎と月城は付き合っていなかった。中庭に二人でいたのはバスケ部のマネージャーになる相談を受けてたらしい。それならタオルを渡していたのも納得できる。図書館に来なくなったのも部活の関係らしいし、全てがゆずの想像にすぎなかったのだ。
そしてゆずの告白騒動は学校中に広まってしまった。体育館のど真ん中で繰り広げた告白は素晴らしい速さで隅々まで広がったらしく後からたくさんの月城が付き合うことへの女子のショックの言葉と男子の冷やかしが、ゆずを付きまとった。
落ち着き始めて2週間、月城はあれからもちょくちょく顔を出すようになった。放課後の図書室は誰の邪魔も入らない秘密の時間だ。
「おーい月城くん……月城くん……蒼空」
「――なに?」
閉ざされていた瞼が開かれ青い瞳にゆずが映る。ゆずは奇妙な声を上げながら後ずさった。
「ね、寝てたんじゃっ!?」
「ゆずの声で起きた」
顔が真っ赤に染まるのが自分でもわかった。寝ているから呼んでみようかと油断していた自分を殴りたい。恥ずかしさのあまり月城から逃げるように距離をとろうとすると、逃がさないとでもいうように手をつかまれ壁に追いやられた。片手だけついて上から見上げてくる。逃げ道がなくはないのだが、逃げることを月城は許さなかった。
「もう一度、名前を呼んで? ゆず」
低くて色っぽい声がささやくようにゆずを攻める。付き合いだしてから2週間、月城は意地悪いじわるになったとゆずは思う。時々、二人だけの時にゆずの反応を楽しむように悪戯をしてくるのだ。現に今もすごく楽しそうだ。
「い、嫌……」
真っ直ぐ見つめてくる瞳から逃げるように横を向くと月城はしゃがみ込むように顔をのぞいた。
「じゃあ、好きって言って?」
「それはもっと嫌っ‼ 意地悪な月城くんは嫌い!」
「なんで? あの時言ってくれたじゃないか。空は好きだって。どんな空も素敵だって。ならどんな俺(蒼空)のことも好きだよね?」
「そ、それは意味が違って……!」
「ごめん、よく聞こえないや」
都合よく首をかしげる月城を睨みつけようとするが、腕の中にすっぽりと収められてしまう。
「俺はどんなゆずも好きだよ。ゆずは外見だけじゃなくって中身を見てくれた。本を読むときのキラキラしたゆずとか困ったゆずとか怒るゆずとか大好き」
他の人が聞いても恥ずかしくなりそうな甘い言葉を平然と放つ月城をゆずはどうしたらいいものかと悩む。この場から逃げたいが自分から腕を離したくない。決意を込めてゆずは蚊の鳴くように言った。
「……私も……好きだよ」
「知ってる」
そう言って笑う月城に、ゆずは今更はめられたと気づくのであった。
本の虫と王子様