白雪の舞う場所で、また
雪と携帯電話
鉄の柵はいつものように冷たかった。
冷たい風が剥き出しの頬をちくちくと刺している。それでもあたしは、眼下に広がる無数の光をぼんやりと眺める。
あたしはこの光が嫌いだ。
一度、絶滅の危機に瀕した人類は、多少の自由を捨て、退化をする道を選んだ。そして、計画的に退化するために、多くの統制を受け入れた。それがこの一直線に並んだ光の正体だ。それでも綺麗だとは思う。この一直線の道路を。
人類が、最初に捨てたもの。それは高度な通信だった。インターネットと呼ばれたそれは、人間を内向的に押しとどめた、と学校で習ったが、本当にそうだったのかなんてわかりっこない。あたしが産まれたころに廃止され、物心がついたときには、ただの写真の中の物でしかなかったのだから。
ひとつ、息を吐く。白く伸びたあたしの息が、空に薄まって消えていく。今も降っている雪とは少し違う、汚い白。それに手を伸ばすが、掴む前にどこかへと消えてしまう。代わりにあるのは、雪と人工の光だけ。
目の前のすべてが人工の世界だった。あたしが歩いてきた道、見える景色、咲いては散る草花、毎日食べているもの、本物の空を隠す雲ですら。すべては人間が手を加えたものだった。永遠に降りつづく、この雪もそうだ。
世界が終わりかけたとき、人口の半分が死に絶えた。その理由はわからない。記録する人も、それを伝えようとした人も死んでしまったから、と言われている。そのときに作られた、この雪を降らせつづける黒雲を止める術を持った者達もいなくなってしまい、街はこの雪雲に閉ざされた。
「はぁ」
小さくため息を吐くと、その息も白いもやになって溶けていく。
「……帰ろ」
もたれていた柵から離れ、ゆっくり踵を返す。そこにはわずかに積もった雪と、来るときに残ったあたしの足跡だけ。ここにはあたし以外の来客はない。どんなもの好きが使われもしなくなった電波塔の展望台の五百段以上ある階段を上がってまで、こんな場所へ来るのだろうか。
そんなもの好きであるあたしは、部活とバイトの荷物が入ったカバンを手に取ると、階段に続くドアへと歩きはじめる。
風に乗って、微かな音が聞こえてきた。
あたしはその音のなる方を見つめる。雪が深く積もる方、金網に仕切られた先から鳴っているみたいだ。
さくさくと小気味いい音を立てる新雪に背を押されるように、あたしは奥へと進んでいく。だけれど、雪に足を取られ、その動きも鈍くなっていく。雪の厚さが増してきて、膝をすっぽりと覆い隠すほどに深くなっている。引き返そうとも考えたが、靴をびしょびしょの雪まみれにして、何の手土産もなしなんて恰好もつかないので、一歩、また一歩と進んでいく。
カバンは置いておくべきだった。そう後悔しながらも、金網まで辿り着く。幸い、扉があるようで、二メートルはある金網をよじ登る必要はないみたいだ。
南京錠で閉じられていた扉を軽く押してみると、開くべき方向と逆に扉が開いた。蝶番の方が腐り落ちていたようで、南京錠が扉を支えていた。
その音はまだ、静かな白銀の中で響いている。だんだん大きくなる音に、かすかに胸を躍らせる。一歩進む毎に、聞こえてくる電子音が大きくなっていく。
もう少しだ。そう思って踏み出すと、その音が途切れてしまう。風で掻き消されたかと耳を澄ませてはみるが、もうその音は聞こえてこない。
くそ、ここまできて諦められない。ざくざくと雪の中を進みつづける。音源かもしれないと思った場所で足を止めた。
強く息を吐いたあたしは怒りに任せて、雪の中へ手を突っ込む。……なんにもない。
そのまま手を雪の中を這わせ、辺りを探しつづける。指はひりひりと痛んで、感覚が薄れていく。
諦めようか。そう思ったとき、こつり、と指先に何かを感じた。それを見失わぬように捕まえ、勢いよく引っ張り上げる。
「なに、これ?」
赤色をした薄い板にディスプレイが付いている。携帯電話、と呼ばれていたものだろう。アンテナのない今となっては、ただのガラクタでしかなかった。
珍しい物を見つけた、とその携帯電話を握り締めたまま、来た道を引き返す。
その道中で、ふと思う。
電波のない今、なんでこれが鳴ったのだろうか。
しかし、その問いに答えるものはなく、ただ冷たい風が、びゅうびゅうと吹きつけていた。やがて、日付が変わったことを告げるアナウンスが、音楽に乗って聞こえてきた。
繋がる糸
翌日。その日もあたしは電波塔の上にいた。バイト先のポットから拝借した温かいお茶が水筒の中で湯気を上げている。それを一口飲み、ぼんやりと昨日のことを思い返す。
昨日は家に帰るとすぐ、拾った携帯電話を調べてみることにした。
一際目立つボタンを押すと、すぐにディスプレイが光を取り戻し、使用者の入力を待っている。幸いにもセキュリティの類はないみたいだ。
しばらく、その画面を行ったり来たりしていると、操作説明を見つけ、それを開いてみることにした。
随分な親切設計なようで、かなりわかりやすく、短い説明文が数行だけ、ディスプレイに表示される。今みたいに分厚い本なんかに頼る必要なんてない。この薄い携帯電話の中には、たくさんの情報が入っているみたいだ。これだけでも便利じゃないか。携帯電話を持っていること自体は禁止されていない。だが、ほとんどの人はアンテナが撤去されると同時に、これを捨ててしまった。小さな利点には目もくれず、大きな便利がなくなると、すぐに。
計算機、メモ、カメラくらいには使えそうだ。それと、ファッションアイテムくらいだ。
それでも、電波塔で鳴っていた理由はわからないままだ。アラームはセットされていないし、電波はやはり圏外を示している。
携帯電話をベッドに投げ、自分もそのベッドに倒れ込む。わからないことを長々と考えてても意味がない。
そのまま瞼を降ろすとすぐ、意識はどこかへ溶けていった。
突然、鳴った携帯電話に無理矢理、回想から引き戻される。ディスプレイには通話の文字と、いくつもの数字の羅列。
アンテナのない今、なんで通じてるの? そんな疑問が、頭の中を駆け巡る。
あたしはおずおずと通話の表示に触れる。それをゆっくりと耳元へ運ぶ。もしかしたら宇宙からの怪電波を受信してしまったのかもしれないのだから、警戒しなくてはなるまい。別に怖がってはいないと誰にでもなく弁解しながら、電話の主からの声を待つ。
「もしもし? 誰か出たの?」
少年の声が聞こえてきた。その声はわずかだが、弾んでいるように聞こえる。
「……誰?」
「やっと出てくれた!」
どうやらこちらの話が聞こえてないのか、無視されているみたいだ。どうやら後者の方だったようで、今気付いたような声を上げると、自己紹介を始めた。
「僕の名前は水端逢季。よろしくね」
透き通るような声が電話口から聞こえてくる。電話ができること以前に、そのことに驚いた。
「あたしは杏よ。こちらこそ、よろしく」
苗字を名乗るのも忘れて、一人で浮かれている。少なくとも、変態なんかと繋がらなくて安心するところだろう、とはしゃぐ自分を受け入れた。
「で、君はなんでこの番号に掛けてきたの?」
ん、と一瞬、言葉を詰まらせた少年が言葉を探しながら答える。
「この携帯電話、拾い物でね。ひとつだけ残ってた番号に掛けてたんだ。――この電波塔の上で」
電波塔? ここにいるのは、あたし一人のはずだ。
いくら見回しても、どこにも誰もいない。ここの出入り口は一つで、そこから延びる足跡はあたしのものだけだ。
「そこから何が見えるの?」
「えっとね。街の光と、まっすぐ延びた道路があって……」
彼が語る風景と、あたしが目にしている風景は似通いすぎていた。いや、完全に同じなのだ。
驚いて言葉が出ずに立ち尽くしていると、零時を知らせる時報の声が聞こえる。
一秒遅れて、電話越しにもその時報が聞こえてきたのだ。
それには互いに驚いたようで、「え」という声が重なった。
「タイムラグってことはないよね」
あたしが恐る恐る尋ねると、「それだと早く聞こえるはずないし」と言葉が返ってくる。
どういうことだろう? 一秒ずれて聞こえてきた時報。でも、その内容は全く同じだった。見えて居る景色といい、時報といい、何がどうなっているんだろうか。
あたしが勝手に混乱していると、電話口から落ち着いた声が聞こえる。
「今日は何月何日?」
「日付が変わって、十一月二十日よ」
たぶん。最近はバイトのシフトも同じ曜日で決めてもらっているので、あまりよく覚えていない。
「えっと、今年は何年?」
日付は合っていたらしく、新たな質問が飛んでくる。
「新暦で、127年よ」
同じだ、と彼が唸る。考え込んでしまったようで、唸る声や、息遣いしか聞こえなくなる。
数分経ち、刻々と変化する光の数を数えるのにも飽きてきたころ、逢季がゆっくりとその考えを話しだす。
「一秒ずれた世界なんじゃないかな。パラレルワールドってやつ。君が一秒先で、僕が後。互いに一秒ずつだけ進んでいくから、交わることはない。……これで説明つかないかな?」
最後は自信なさげにあたしに問い掛けてきた。それへの返しは実に簡単だ。
「そんなこと、わかるわけないし」
きっぱりと言い切ってやった。正直、確かめる術はないのだから、論ずることも無駄だろうし。
そうだね、と控えめな笑い声が聞こえている。その声に負けないような声を出しながら、あたしは笑う。
「とにかくさ、この縁を大事にしたいね」
逢季の澄んだ声が明るく言う。
「そうだね。こんな奇妙な縁は、そうそうあるものじゃないし」
そろそろ寒くなってきたから帰るね、と付け加えて通話を切る。実際は寒くなんてない。しもやけのせいなのか、それとも彼の変な言い回しのせいなのか、頬が熱かった。
それを振り払うように、カバンに携帯電話を突っ込むと、階段へと走り出した。
誰のために
「あーんず!」
大きな声と共に、見慣れた奴がこっちに駆けてくる。
「今度は何に誘おうっての? もう登山は嫌だからね?」
「今度は近場だよー」
遭難しかけた登山から二週間。その間にまた何かを見つけてきたであろう友人、洋梨は笑顔を浮かべている。こんな笑顔を見た数時間後には、ろくな目に遭ったことがない。よりによって今日は短縮授業で、午前中で学校は終わってしまう。
どこへ行くかは聞かされないままに、教室から連れていかれる。即日弾丸登山よりはマシであることを祈りながら、引っ張られていった。
その一時間後。あたし達は母校である小学校の周りでごみ拾いをしていた。しかも、どこかのボランティア団体のジャージを着させられている。
「お母さんが勝手にわたしを参加させてさ。杏がいてくれて助かるわー」
洋梨がえへへ、と笑う。
「なんであたしを巻き込んだのさ……」
ボランティアなら一人でやればいいじゃない、と毒づく。
「だって、一人じゃ寂しいじゃん」
「あたし帰るわ」
数歩、歩くと腰に洋梨がすがりついてくる。ええい、鬱陶しい。
「だったら早く終わらせるよ」
洋梨の頭を叩き、せっせとごみを拾う。こんなダサいジャージ、早く脱ぎたい。
長い外周の一辺を掃除し終わり、大きなごみ袋は半分ほど埋まっていた。掃除してきた場所を見ると、確かに綺麗になっていると実感した。今、ここにごみを捨てる輩がいたら、どんな奴だろうと、手に持ったトングで殴っている。きっと、土下座するまでは許さない。
「ノルマ達成?」
洋梨に尋ねると、たぶん……、と曖昧な返事しか返ってこない。とりあえず、これをリーダーっぽい人に報告しようと外周をうろうろする。
学校の外周を半周ほど歩くと、見慣れた白衣を見つけた。
「おっさん先生もボランティア?」
ん、と顔を上げた白衣の男がかちかちと数回、トングを鳴らす。
「あぁ、お前達か。校長に学校のイメージアップでもしてこいって、無理矢理な」
眠そうな目を白衣の袖で擦りながら、おっさん先生が面倒臭そうに答える。こんなおっさん一人でイメージアップに繋がるはずがない。ちらりと隣を見ると、洋梨も笑いを堪えて、身体が震えている。
やってられない、という気持ちを身体中からにじませるおっさん先生は、尻のポケットから煙草を取り出す。その先端に馴れた手つきで火をつけると、すう、と息を吸ってから、灰色の煙を吐き出した。あたし達はそれに咳き込む。
「わりいわりい。お前達は煙草吸ってなかったか」
「未成年だから」
「校舎裏でお前らに似た茶髪二人組が煙草吸ってるの見たからよぉ」
あたし達じゃないから、と二人でこの大笑いするおっさんの脛を蹴り飛ばした。それに悶え苦しむクソ教師を無視し、報告に向かった。
その人は校庭の側でごみを拾っていた。
「どうもありがとうね」
「いえいえ、これっくらいはいい運動になりますし」
じゃあ、次は筋肉痛になって貰おうかしらね、と笑うおばさんに、勘弁してください、と苦笑いを返した。
それで、とあたしは一呼吸置いたあとに、彼女に尋ねた。
「こんなこと、って言ったら悪いんですけど、なんでボランティアなんてやってるんですか?」
怒ってもいいような質問に、何かを含んだような笑みを浮かべたおばさんが答える。
「それはね、綺麗にしたいからよ。この学校を。いいえ、私の見ている世界をね。別に世界中を綺麗にしようなんて大仰なことは思っていないし、思う気もないわ」
思っているより自分勝手で、自由な人みたいだと、けらけらと笑うおばさんを見て思う。
「参加してくれたお嬢ちゃん達に種明かししましょう」
さっき以上に妖しく笑った彼女が、顔をあたし達の近くに寄せた。ほのかな香水の香りが鼻を撫でる。
「私ね、この学校の校長よ。自分の職場が綺麗なのって、うれしいでしょ?」
意地悪く笑う校長。
「私ってすごい自分勝手なのよ。このボランティアを企画したのも自分のため、あなた達に種明かししたのも自分が楽しむためだし、いい校長として振る舞っているのだって自分の地位のためよ。自分が後悔しないために子供達を守るし、嫌がられても救うし、説教だってするわ」
彼女の目があたし達をまっすぐに見つめる。教育者、ではなく保護者に、字面通りの意味の保護者の顔だった。母親ですら、こんな顔を見せただろうかと思えるほどだ。甘さのない優しい顔をしている。
「なんでも自分のためなのよ、突き詰めればね。――誰かのため、なんてことは人間じゃできないわ、そうでしょう?」
あたし達は顔を見合わせる。言っていることはわかる。でも納得はできず、喉の奥に引っかかった骨のように、違和感が心に留まっている。
彼女がくすりとあたし達を笑う。
「難しかったかしらね。答えは、大人になったら見つかるわ」
あたし達にお礼と口止め料代わりのお菓子を握らせた大人は、子供二人の背を押した。気をつけて帰りなさい、と一言添えて。
溶ける雪
「管理できないなら閉めちゃえって話だよねー」
雪降る展望台で話すあたしの愚痴に笑う。もちろん電話先の彼がだ。
数日前まで、目の前に広がる静かな景色をゆっくり眺めるのが好きだったはずなのに、いつの間にか騒がしくなってしまった。
「そっちは不満とかないの?」
話したいことを話し切ったあたしが、電話越しの彼に訊く。その問いに、うん、と答える逢季。
「それが起きたこともさ、必然なのかなって思うんだ。それをどう捉えるかって違いだからね。どうせなら楽しもうって思ってる」
「ぷっ、なにそれ!」
どこかの自己啓発の標語みたいな模範解答に、つい噴き出す。難しいことを考えたくない、というのも少しある。
「そんな真面目ちゃんが、なんで真夜中の電波塔になんているのさ」
けらけらと笑うあたしに対し、そんなにおかしいかなぁ、と不満そうな声が投げかけられる。
「おかしくなんてないけど、ちゃんと答え過ぎなんだよー」
笑い声を張り上げて、目の前の手すりをバンバンと叩く。その振動で手すりに積もる雪が落ちて、街へとゆっくり舞っていく。それでも、こんな場所のあたしを注意する者なんて一人もいない。
笑いすぎて瞳に溜まった涙を拭いながら、雪を降らせつづける空を仰ぎながら思う。
いつからこの景色が楽しみになったんだろう、と。
ここに来て街を眺めて、愚痴をこぼす。そこまでは同じなのに、惨めに思えたはずなのに。今は心を掃除したように澄んでいる。
でも、逢季は? 小さな疑問なのに、心をざわめかす。目の前の景色もあたしの意識には見えなくなっている。髪に積もった雪も、小さな雪の山を崩す冷たい風も、あたしが感じることはなかった。思いきって、言葉を吐き出そうとする。
「ねえ」
ん、という声に息が詰まりそうになる。たったの一言が出てこない。もし楽しくないと答えたら? そのとき、あたしはどうすればいい? 疑問があたしの中で堂々巡りを始めて、喉が微熱を持ちはじめる。
「杏ちゃん?」
あたしの名を呼ぶ彼の声で、現実に引き戻された。逢季の優しそうな声を聞くと、喉元の熱がゆっくりと引いていく。小さく深呼吸をしたあたしは、逢季に問い掛ける言葉を紡ぐ。
「あたしと話してて、楽しい?」
今度は、驚くほどすっと言えた。あたしはその問いの答えを待つ。彼が答えるまでのわずかな時間が、もどかしいほどに長い。それでも待った。
「楽しくなかったら、ここに毎日も来ないよ」
見たことすらない彼の笑う顔が浮かぶ。あくまでも想像で、何一つ合っていないかもしれないけれど。きっと会うことはないのだから、それでいい。
あたしは、ありがと、としか言えなかった。それだけで良かったからかもしれない。
「じゃあ、また明日」
恥ずかしくなって、早口で電話を切ってしまう。それをカバンに押し込むと、手すりを背もたれにずりずりと腰を沈める。あらかじめ足で退けておいたから、あたしの周囲には雪はない。
ひんやりとした鉄の冷たさがスカート越しでも伝わってくる。わずかに残っている雪がスカートを濡らす。それでも立ち上がろうという気は起きない。その冷たさはあたしの体温でだんだんと和らいでいくにつれ、そこへの興味も失せていく。
雪はいつでも雲から降りつづいている。舞い落ちる雪が肌に落ちては、溶けて消えていく。
はあ、と息を吐く。そんな弱い風にすら煽られた雪が、ぐるぐると歪んだ輪を描きながら落ちていく。その雪もあたしの伸ばした足に落ちて消えた。
見上げる顔に触れる雪が心地よい。目を閉じて、そのひんやりとした感覚をめいっぱい受け止める。微かな街の音が、耳に届く。こんなに聞こえたんだ。小さな発見に驚きながら、全身の力を抜いた。雪と共に溶けていくみたいだ。
ふう、と息を吐いたあたしは立ち上がる。帰ろう。風邪を引いたらここにも来れない。
立ち上がるついでに街を見つめる。無数の光がある。動く光は、車だろうか。ビルであろう連なった光。その中にも様々な色があることに気付かされる。雪なんかよりも機械的な白。目が痛くなりそうな明るい赤。淡いオレンジ色もある。それでもこの景色に自然なものは、たったのひとつもない。それだけが惜しかった。
カバンから携帯電話を取り出して、目の前にかざしてみる。ボタンをひとつ押すと、画面が光り、無数の光の中で一際、目立って見える。
それから、あたしはメール機能を思い出し、たった一言、おやすみ、と打ち込み、送信した。
送信されたのを確認すると、あたしは出入り口の扉に歩き出す。その扉を開ける前に振り返り、小さく呟いた。
「あーあ、明日も来なくちゃいけないのかー」
今、あたしはどんな顔をしているんだろう。と小さく笑うと、地上への階段へ一歩踏み出す。携帯が鳴っていた気がしたけれど、それを無視して階段をひたすらに降りていった。
きっと、今は笑顔のままで。
それぞれのこと
帰り道、圏外になった携帯にメールがあったことに気がつく。階段を駆け降りているときの音は、それだろう。
あたしはそれを確認することなく、ディスプレイを消した。今は見なくてもいい。そのまま携帯電話をカバンにしまう。
崩れたマフラーを巻き直しながら、家のある無数の灯りの方へ歩いていった。
情報技術がなくなって、何が変わったんだろう。
昼休み。ふと取り出した携帯電話を見て、思ったこと。この携帯電話が使われなくなっても、内向的な、引っ込み思案な人は珍しくもなかった。もっと酷かったのか、とも考えたが、当時を知る由もないから答えようがない。
「やー、珍しいの持ってんじゃん」
二言目には、ちょうだい、とでも言いそうな雰囲気で、洋梨があたしの机にやってくる。手には紙パックの紅茶が握られている。中身の残量を確認するように、それを振りながら、あたしの前の席に座る洋梨。
その紅茶を一口飲んでから、洋梨があたしに尋ねる。
「なんでそんなの持ってるの?」
「お守り、みたいな?」
本当のことは黙っておいた。なんて言われるかわからないから。少なくとも教室で話すような話ではない。聞こえようものなら、明日からは電波とでも呼ばれることになるだろう。
「貸してねー」
あたしの手から携帯電話をひったくると、洋梨は馴れたように操作しはじめた。が、すぐにあたしに返して、
「もう電池ないじゃん、これ」
え、そうなの? ほら、と洋梨が電池の残量らしき表示を指差した。確かに15%と表示されている。それがどれくらいで空になるのかはわからないが、少ないことは理解できた。
「充電ってできるの?」
「できない、と思う」
あの場所にはこれしかなかった。あったかもしれないが、今一度あそこを探すのはごめんだ。
「こういうのに詳しいのって」
洋梨の言葉に浮かぶのは一人だった。あたし達は顔を見合わせ、にこりと笑う。
「なんだ、お前達?」
「かわいい生徒のお願いだよ」
おっさん虐めてる奴らのどこがかわいいんだ、と毒づきながら、椅子ごとこちらを向いたおっさん先生こと、栗岡先生。
あたしはカバンから携帯電話を取り出し、おっさん先生に渡す。先生はそれをじーっと見て、ディスプレイを点けたり消したりしている。
「脂ぎった手であんまり触んないでください」
「酷いな、おい。で、壊れてないみたいだぞ?」
携帯電話をあたしの前に置いた先生は、煙草に火を点ける。洋梨はそれを取り上げて、置いてあった灰皿に擦りつけた。
「生徒の前で煙草を吸わない。充電したいんだって」
「はぁ、持ってないのかよ」
変なの、と笑った先生は、すっかり煙草を奪われたことも忘れているように上から二番目の引き出しを開けた。その中には似たようなコードが雑多に詰められていた。
「相変わらず汚いですね。それだから独身、彼女無しなんですよー」
洋梨がけらけらと笑う。その通りなのか、ほっとけ、と先生は一言返すだけだ。それからすぐに先生が何かを引っ張り出し、組み合わせはじめる。それをあたしの前に置きっぱなしになっていた携帯電話の上に置いた。
「充電器だ。家のコンセントで充電できるはずだぞ。それにしてもそんな骨董品、どこで手に入れたんだ?」
「雪に埋まってるのを拾ったんですよ。お陰で指先がしもやけになったけど」
見せびらかすように手を振る。もう治ってるけど。
「持ち主がいたら返してやれよ」
あたしのぴかぴかの手を見て、それだけ言うと、おっさん先生は煙草を取り出し、口にくわえる。珍しい物を見たからか、少し音程のずれた鼻歌に合わせて、煙草が上下していた。そして、あたし達を見ると、追い払うように手を振った。
「お前らがいたら吸えねえだろ。さっさと帰れ」
むっと頬を膨らませた洋梨が先生に詰め寄って、その煙草をひったくる。
「不健康なもの吸って、何が楽しいのさ」
洋梨が先生にぐっと詰め寄る。先生は彼女の額を片手で押して、引き剥がそうとするが、洋梨も簡単には引かない。少しだけ読めてきた気がする。
「ほら、行くよ」
洋梨の襟首を掴むと、失礼しました、と一言添えて、機械工学用の特別教室から出る。
「まったく……、どこに惚れたの?」
あたしは自分でもわかるくらいに、にやつきながら洋梨に尋ねる。洋梨の顔がみるみる赤くなっていく。わかりやすい奴め。
「惚れたって誰に?」
上擦った声で洋梨があたしに尋ねてくる。今の彼女には、見るに耐えないという言葉がしっくりくる状態だ。顔を紅潮させ、無心を装っているが、必死さがにじみ出ている。
「普通、生徒が教師の健康の心配しないっての」
にやつきながら洋梨の額を、指で軽く弾いた。痛みか、驚きかはわからないが、小さな悲鳴を上げた。
「うぅ……、秘密だからね」
「もちろん。でも、早めに唾つけとかないと、他の虫がついちゃうぞー」
おっさん先生は、ああ見えて二十歳の半ば。ちょうど、婚期に突入したくらいだろうか。
あたしの言葉が効きすぎたのか、うあぁ……とか洋梨が悶えはじめた。
「とは言え、発明バカだから、色恋沙汰にも縁遠く見えるけどね」
あたしは慰めの言葉をつらつらと並べ、ふらふらと歩く洋梨の背中を叩く。
ビルに吸い込まれようとしている夕日が、おっさん先生のいる教室を照らしていく。窓の近くに立っている先生が、こっちに煙草を持った手を振った。
「吸ってんじゃねーっ!」
ありったけの力を込めたであろう洋梨の叫びに、夕日を浴びるおっさんが肩をすくめる。叫んだあとに見せた洋梨の顔は本当に嬉しそうに笑っていた。
わずかに
今日もまた、鉄製の螺旋階段を上っていく。カンカンと階段を踏む音が塔の中を反響していく。
心許ない充電を確認したあたしは、電話帳を開こうと携帯電話のロックを外す。ちょうどそのとき、携帯電話が電子音を鳴らしはじめた。それに驚いて、携帯を雪の中に落としそうになったが、どうにか両手で支える。
明るく灯った画面に表示されたのは、見慣れた番号だ。
やっほ、と通話ボタンを押し、携帯を耳に当てるのとほぼ同時に言った。あちらからも、ほとんど同じ単語が返ってくる。
「電池なくなりそうだって、最初に言っとく」
言うことに集中して刺々しくなった言葉に、一応ね、とその棘を無理矢理に覆った。
「わかった。それより、充電できる?」
あたしの言葉には特に何も感じなかったようで、あたしの杞憂はあたしの中だけでこっそりと霧散する。彼は何気ないように携帯電話の向こうで首をかしげた。
「うん、それは大丈夫。充電器貰ってきたから」
よく残ってたね、と感心したように言う逢季の声は明るい。それでいて、洋梨の話し方のような能天気さは感じられない。耳に響く、そんな穏やかで優しい声。ふっと息を吐くと、肺に新鮮な冷えた空気がなだれ込んでくる。
「それでさ、充電器をくれた先生がおっさんみたいな恰好なのに、まだ二十代なんだよ!」
あたしの話は段々とずれはじめて、たわいもない話に傾き、それへと興じていく。会って数日しか経っていないなんて思えないほどに、あたし達は打ち解けていた。その会話の節々に自分のこと、友達のこと、そして家族のことも混ざっていく。
「うちの母親なんてどこにいるんだか」
「え?」
逢季の驚いた声に、あたしは声を上げて笑いながら、違う違う、とそれを否定した。
「都市の方に出稼ぎに行ってるだけで、本当に場所がわからない、とかじゃないから気を遣わなくていいからね」
そういうことね、と電話越しの彼が、胸を撫で下ろす息遣いが聞こえる。
よくあることだ。両親が二人とも稼ぎに出て、一人暮らしをしている子供は多い。学校では、西暦と呼ばれていた旧暦の後期から増えていったと習った。きっと、通信機器で今のあたし達みたいに簡単に会話ができるから、距離はそう遠いものじゃなかったのかもしれない。今でも電話はあるが、通話時間には厳しい制限があるため、彼と交わすような雑談をすることはない。しかし、その寂しさにはとっくに馴れてしまっていた。
逢季が話をそこで区切るように、小さく息を吐く。
「ちょっと大事な話をしたいんだけど、いい?」
その吐息に、雰囲気が張り詰めた気がした。冷やされて張っていただけの空気も、いばらの中へ転げ落ちたかのように肌を刺しはじめる。
「なに?」
胸がとくん、と跳ねる。
「実は、僕――」
彼の声は、一瞬響くノイズに掻き消された。突然に起こった雑音と、耳の痛みに、携帯を耳から遠ざける。そこにバッテリー切れの表示が映され、数回点滅すると間もなく、画面は真っ暗になった。
「……タイミング悪いなぁ」
続きは気になるが、充電しないことには聞くことはできない。
小さくため息を吐くと、手すりに手を掛ける。ひんやりした鉄の感触が伝わってくる。冷たさに耐え、それに体重を預ける。街の様子は数日前とは変わらない。きっと、あたしもそんなに変わっていない。
数日前までは、こうして街を眺めていた。相変わらず規則的に点滅する光、動かない暖かい色の光が、地上にもうひとつの星空を作っている。本物の星空が街のけたたましい光に追い立てられ、その姿を隠している。街を背にすると、少しは彼らの小さな姿を見せてくれる。
彼もこの空を見上げてることをふと願いながら、ぼんやりと瞬く星空をしばらく眺めていた。
瞬きすら忘れて見上げていたからか、目が乾きはじめる。それと同時に、風景がにじんでくる。次第に、目の前に広がる星空も、あの電話越しの少年のことも淡い幻影のように見えはじめていた。
けれど、その考えを振り切り、そっと携帯電話を握り締める。こんな小さなもののバッテリーだけで途切れる繋がりを大切にしたい、とそっと誰かに祈りながら。
広がる世界
今日は充電もばっちりだ。あたしは意気揚々で展望台へと続く焦げ茶色に錆びたドアノブを回す。扉を開くと同時に、はらはらと舞う雪が前髪に降っては溶ける。
わずかに積もった雪を踏みながら、あたしはいつもの場所へと歩いていく。そのついでにカバンから携帯電話を探す。
今日も光を放つ街の顔に変化はない。無表情に明るく、あたしを見つめている。その顔から目を逸らすように携帯電話を操作し、電話帳に唯一登録された電話番号へと発信する。
「もしもし?」
二回目の呼び出し音が終わる前に、その声が聞こえた。
「いやー、待たせたね」
少し気取って言葉を返す。電話の向こうで笑う声がしている。それに釣られて、あたしも笑った。
「じゅだーっ!」
謎の掛け声と共になにかが走ってきて、手の中のものを掻っ攫っていった。あっけにとられたあたしは、ぽけーっとそれを眺めていた。
「はっはっは!」
その人物はけらけらと笑いながら、赤い携帯電話をあたしに向ける。あたしの携帯電話を。
マフラーを下げると、その顔が現れる。見知った顔というか、洋梨だった。
「なにしに来たの?」
「近頃の変な様子の正体を探りに来たのさ!」
空いた方の手で自信満々に親指を突き出してきた。と同時に、携帯電話を耳に当てる。ディスプレイの光が幼い印象の顔を照らし出す。
「もっしもーし!」
相手の声を聞いた洋梨の目があたしを見る。すごくむかつく顔であたしの顔をじっと見ては、その口が大きく吊り上がる。そして、電話の向こうの彼に向けていくつもの質問を、矢継ぎ早に投げかけている。きっと彼が答える暇も与えていない。
いい加減にしろ、とあたしは携帯電話を奪い返し、通話が切れていないことを確認して、彼に呼びかける。
「ごめんね、友達が着いてきたみたいでさ」
電話越しの逢季がくすりと笑う。どうやら不快には思っていないようで安心する。それと同時に、なぜか胸の隅がちくりと痛くなった。
「スピーカーにしたらどう? 使い方わかる?」
すぴいかあ? 聞き覚えのない言葉に、返事も忘れて首をかしげる。その沈黙で察したようで、小さく笑った彼が説明を始める。彼の説明はわかりやすく、すぐにスピーカーにすることができた。
「これでどう? 聞こえてるー?」
わざと顔から離して呼びかけると、
「聞こえてるよ」
逢季の声が離れてても聞こえてきた。そのことに洋梨もその目を輝かせて近付いてくる。ちょうどいい、とその頭を捕まえる。
「この子は洋梨。あたしの友達」
適当に説明をすると、よろしくー、とあたしに頭を掴まれたままの洋梨が声を上げる。
「本当に同じ場所なんだねぇ」
見えている景色の確認し合いを終えた洋梨が呟く。逢季は誰にでも優しく接するんだろう。一度した確認でも嫌がることもせず、見えている街並み、雰囲気、質感なんかを事細かく確認していた。一度したからか、上達しているみたいだ。
「運命的だねぇ、ね?」
洋梨が唐突にこっちを向く。突然の動きに思わず、ふぁっ、と変な声が出て、口を紡ぐ。
「な、なにが?」
「君達二人の出会いが、だよぅ」
あたしの問いに答える洋梨の口元は、意地悪い笑みを形作っている。熱が血管を辿るように、身体中へと飛び回っていく。顔が、手足が、心臓が、身体中が熱い。雪の冷たさなんて感じないくらいに熱を帯びる頬に手を当てる。
「まあ、杏ちゃんが携帯電話を見つけてくれなかったら話せなかっただろうし、そうなるのかな?」
逢季は至って冷静、というか落ち着きすぎだ。というか、茶化されていることに気付いてすらいないのだろう。洋梨はあたしを弄んで楽しんでいるみたいで、にっこりとしてあたしから視線を外さない。
「そろそろ、だね」
電話からの声に、二人ともその携帯電話を見た。そのときだった。
零時を知らせる時報が、わずかにずれて重なり合う。
あたしは一度聞いたにも関わらず、それを聞き入っていた。ほんの一秒という、薄くて堅い壁を全身で感じるように、耳を澄ませていた。
「……やっぱり、本当なんだ」
洋梨の声が漏れる。信じがたい現象にじっと携帯電話を見つめる洋梨。彼女の表情は驚きと楽しいを混ぜたような顔をしたまま、硬直してしまっている。
「そろそろお開きにしようよ、冷えてきたし」
あたしはそう言って、口元を覆うようにマフラーを直す。冷たく乾いていた空気が、温かく感じられる。
身を震わせる洋梨もあたしの提案に従うように腰を上げる。
「じゃあ、また明日ね」
あたし達はその声に返事をして、電話を切った。
「じゃ、帰ろっか」
駆けだす洋梨を追って、携帯電話を握ったままに走り出す。その前に、また明日、と心で唱えた。
風呂上りで心地よく火照ったまま、ベッドに倒れ込む。柔らかい感触に意識が身体から抜けていく。
眠りに落ちる直前、充電器に繋がれた携帯電話が目に入る。木製の机に置かれた携帯電話の赤が映える。微睡んで、焦点の合わない瞳でも捉えられるほどに。
意識が溶けていく中でぼんやりと、それでもしっかりと気がついた。
いつの間にか、明日を楽しみにしていることに。
そこまで考えたところで、あたしの世界は霧散した。
バカで出来てるこの世界
「それじゃ、失礼します!」
カバンを肩に掛け、バイト先を出る。
長引いて遅くなってしまった。風に煽られた雪が顔に当たる。それでも気にせずに走った。走りには自信がある。
夜も遅いこともあって、大通りでも人通りは少ない。数センチだけ積もる雪もあたしの足を取るほどではなく、足は順調に進んでいく。
次第に街も田舎めいてきて、はっきりと見えるようになった電波塔を目指して走る。頂点で弱々しく光る赤いランプを目印に、コンクリートの砕けた道を走り抜け、展望台への階段を駆け上がる。
呼吸を整えながら扉を開け、手すりにもたれ掛かる。額には汗がいくつかの筋を作っていて、身体は程よく温まっている。深く呼吸をしながら、乱雑に物の詰められたカバンの底にあった携帯電話を探し当て、馴れたように操作する。
真っ赤な携帯電話。これを手にしてから一週間も経っていないけれど、もうあたしの手には馴染んでいて、操作も随分と覚えた。
「もしもしー」
この電話特有の挨拶も馴れたものだ。
「もしもし」
そして、この声にも。顔も見たことのない声だけの彼。身体もどこかに存在するのだろうけど、あたしに見えなければ、それも関係はない。
鏡写しの街に住む彼は、あたしの街の地理だって知っているし、あたしも彼の街の地理を知っている。でも、それはわずかに違っているんだろう。声だけでは伝え切れないところに。
そんな苦悩を頭の隅に追いやり、逢季との会話に集中する。
「ごめんね、バイトが長引いちゃった」
「僕も用事が長引いて、今来たんだ」
遅れた理由を話すと、笑った声が返ってくる。そこで一昨日の、途切れた会話を思い出した。何か言おうとして切れてしまった会話のことを。
ごくりと飲んだ唾が、出掛かっていた言葉を詰まらせる。
「どうかした?」
彼の心配そうな声が聞こえてくる。話そう。話す。話せ。心で何度も命じて、喉の奥に詰まる言葉を絞り出す。
「…………大事な話って言ってたよね、一昨日にさ」
言ってしまった、と指先にまでこもっていた力が抜けていく。達成感が沸いてくる。それでもどこか情けない。
「やっぱり気になるよね。実はね――」
そこで一瞬、言葉が途切れる。息継ぎなのか、あたしと同じで言葉に詰まっているのかは判断できない。
「病気なんだよね。所謂、不治の病ってやつ」
耳が壊れたのかと思った。
「は? もう一回言って」
あんぐりと開いた口を不格好に動かしながら、逢季に尋ね直した。
「不治の病なんだ、僕」
頭が回らなかった。携帯電話を耳に当てたまま、遠くをぼんやりと眺めていたのだろうか。身体中の機能が止まったかのように、はっきりとした感覚はなかった。
次に湧いてきたのは、病人に対する憐れみでも、騙してたことへの恨みでもなかった。
「病気を治してから、来やがれ!!」
咄嗟にそう叫んで、電話を切っていた。本当に反射的だった。そのまま足からくずおれて、手すりに額をぶつけた。額が熱を帯びて、痛みを訴える。
「なにやってんのさ」
その言葉を誰に投げ掛けたのかもわからない。赤い携帯電話はいつの間にか手から滑り落ちて、純白の雪に埋もれていた。それに手を伸ばすこともせず、後ろに倒れた。雪のお陰で頭を打つことはなかった。
白い雪はあたしの顔へと降りつづける。顔に落ちた雪は、水滴に流されて消えた。いつの間にか涙を流していたことに、そのときに気付く。
本当に自分がわからなくなっている。涙のわけも、それがわからない理由すらもあたしにはわからない。
あの日、あたしは気がついたらベッドに突っ伏していた。どうやって帰ったか、なんて覚えていない。手元にあの携帯電話は無くて、それ以来、あの電波塔にも行っていない。
あれから一週間。窓の外は相変わらず、雪が弱い風に揺れている。産まれてから、たったの一度も変わることのない景色。
「今日も行かないの?」
「……行かない」
あたしの答えを聞いた洋梨が小さなため息を吐く。何度目のやり取りだろう。そしていつも、このあとに二人は沈黙する。でも、今日は違った。
「杏、ちゃんと聞いてね。あの塔、明日から解体されるんだって。話すなら今日だけだよ」
その言葉に双眸が洋梨に釘づけになる。今日だけ、という言葉が胸につき刺さった。
「それ、本当?」
洋梨は黙って頷く。そのことに目が回ったような錯覚を受ける。
「行かなきゃ」
足元もしっかりしないまま、立ち上がる。椅子が、がこがこと耳障りな音を立てる。
「適当に言っとくから、行ってきな」
洋梨の手の温かさがあたしの背中を撫でる。その温かさが目頭に伝わってきた。拳を握ったあたしは、涙がこぼれる前に走った。何人かの呼び止める声を無視して走る。
校門を飛び越えたときに、足に痛みを感じたけれど、気にかけている暇なんてない。
普段なら余裕で走れる道も、足の痛みとぶれた視界のせいで走りづらい。何度もよろけ、その度に足の痛みが増していく。
田舎道に出たころには、よろけた自分を支えきれずに転ぶようになっていた。
流れつづける涙が切れた唇に触れ、じんわりと染み入る。
「ばっかみたい」
小さく呟いたあたしは地面に手をつけ、身体を起こす。そのときに見えた身体は、傷だらけだ。本当にばかみたいだ。
小さく笑って、走り出す。どうしようもない、このバカを押し通すために。
白雪の舞う場所で、また
思ったより階段が上りづらかった。捻挫でもしているんだろう。
鉄の階段を踏み締める音がひとつ、またひとつと反響していく。それにあたしの荒い呼吸が重なる。
何度も転んだせいで、足は擦り傷だらけ、腕も擦りむけて制服の端を血が濡らしている。
こんなに傷だらけになったのは小学生の大喧嘩以来だ。あのときはあたしが男子相手に勝ったっけ。最後に男子の顔を蹴ったのを覚えている。ちょっぴり申し訳ない気もした。それと折ったあの歯が乳歯であることも祈った。
くすりと笑うと、また一歩踏み出す。もうすぐ扉のはずだ。あたしの足は痛みがあっても、まだ動く。倒れるのは、全部が終わったあとでいい。
錆びついて、焦げ茶色の姿をさらす扉を押し開ける。
「――ッ!」
ざらざらとした表面で左腕を削られた。けれど、そんなことを気にする余裕なんて、生憎と持ち合わせていない。奥歯を思いっ切り噛み締めながら、いつもの場所に、手すりにもたれる。
小さく息を吐いたあたしは、右腕を新雪の中へ突っ込む。ここら辺のはずだった。腕の痺れを我慢しながら、雪の中を潜らせていると、こつんと何かに指先が当たる。
手を伸ばそうとした直後に走る激痛に、顔を歪める。底だった。いつの間にか地面まで掘り進んでしまっていた。すべてを投げ出したくなってくる。それでも、まだ逃げるわけにはいかない。
一回、腕を雪の中から引っ張り出す。
「ひっでぇの」
あたしの右腕は真っ赤に色付き、傷口の辺りの雪はもっと深い色になっている。薬指の爪も割れていた。
ボロボロになった手を握る。ズキズキと痛むけれど、まだ大丈夫。
前の記憶を辿るように純白の中へと腕を伸ばす。腕の感覚はもう途切れ途切れにしか、あたしに情報を寄越さない。
かしゃん、と鉄と何かがぶつかる音がした。その音に希望に近い何かを感じて、重くなった身体を起こす。そして、その音のした場所を両手で掘り返す。
「あぁ、あ、あった」
プラスチックのような手触りのそいつが、赤い身体を雪の中から覗かせていた。
いくらか触ってみて、動くことを確認する。
さあ、ここからだ。
心で呟いて、自分を奮い立たせながら、電話帳からひとつしかない番号を選ぶ。
しかし、繋がらない。
ふとあることを思い出したあたしが、ふわりと脱力する。唇が吊り上がっている感覚だ。笑っているんだろう。
「まだ、昼だった」
そのまま意識は雪に押し潰されるように、白に溶けていった。
鳴り響く電子音。何度も何度も、あたしを追い立てつづける。あたしは頑張ったはずなのに、まだ頑張れと責め立てる。
街の光のひとつひとつがあたしを照らして、その目を開かせようとしていた。ちかちかと目の前で光りつづけるそれに、あたしは首を捻る。
わかった、起きればいいんでしょ?
誰のものかわからない呼び掛けに従うように重い瞼を押し上げる。すると、同時にそれが幻想じゃなかったことを知る。
携帯電話が鳴ってる。
電子音を発しつづけていた携帯電話は、あたしの手のひらに握られている。
「随分と、待たせてくれたわね」
電話に出て一言目はこれだった。周りの景色の大半は黒が占めている。振り返らなくとも、背中の明るさも感じている。
「久しぶり」
「この塔、解体されるんだって」
逢季の言葉を無視して、あたしの話したいことを話す。最後くらいわがままを言わせてほしい。
「知ってたよ」
だろうね。薄々わかっていた。
「いつだって、あたしよりも上に立ってさ。ずるいね」
「ごめん。この塔がある間は生きていたい、って思ったんだ。だから毎日ここにいた」
その言葉に胸が痛くなる。熱く、忙しなくなる喉を落ち着け、声を出す。
「やっぱり、ずるい。そんなこと言わないでよ! なんでもあたしが思ってるよりも深いこと考えてさ、あたしはまだ知らないことばっかだよ。一秒先にいるのはあたしなのにさ! ……あたしも同じ場所に立ちたいよ」
あたしは空を見る。そこに浮かんでいるものは、小さな自然の光達。それに、降りしきる白い光の粒。
それがあたしの頬に落ちる。頬を濡らすのも、儚く消えるのも、この作られた粒達に押しつけてしまえばいい。
「絶対に死ぬな! 他に電波の繋がるところを探して話そうよ。あたしはまだまだ話し足りないし、まだまだ君の声を聞いていたい」
沈黙。聞こえるのは、あたしの鼓動と吐息、それに微かに風に乗って聞こえる街の音。白い息があたしの目の前に広がり、真っ暗な闇を覆ってくれる。彼の返事までの時間もどこか、どこまでも温かい。
「……うん。いつかどこかで話そう」
できれば直接、と彼が付け足す。あたしの目も、喉も、身体も熱くなって、声がうまく出せない。それでも伝えなきゃいけない。だから叫んだ。
「あたしは君が好きっ!!」
ひねり出した愚直な言葉。飾りっ気のないけれど、一番伝わると思った言葉。その一言が限界のようで、喉が鳴り、涙がとめどなくあふれ出す。
「答えはまた今度でいいから!」
慌てて返事をする彼の声色だけで、満足だった。
「じゃあね」
涙を抑える気力もないあたしは、涙声を隠さぬままに別れを告げる。
「じゃあ、また」
彼の優しい最後の声が聞こえる。その声を胸に抱きながら、通話終了のボタンに手を伸ばす。
そのボタンを押すことで、あたしの恋が終わった。
電波は役目を終えたことを察したのか、圏外と表示されていた。本当に不思議な数週間だった。一秒違いの世界を繋ぐ携帯電話。普通はありえない話だけれど、あたしは愚直に信じつづけたい。
それが君に続く唯一の道だと信じて――。
想いを乗せて
電波塔へと続く道は封鎖され、塔を解体するために呼ばれた重機の低重音と、作業員の怒号が響いている。上半分があったはずの場所は、すでに寒空が広がっている。あたしと彼を繋げる電波を発していたであろうアンテナも既にない。
あれ以来、あたしの携帯電話が音を鳴らすことはない。ただ静かに、あたしの操作を待っている。でも、もう携帯電話で何かをするなんてないと思う。その度に思い出してしまいそうだから、というのが理由だ。
あのときにできた怪我も癒えてきて、もうじき傷跡も消えてしまうはず。洋梨との会話にも、次第に携帯電話と彼の話がなくなってきている。そのことに、彼が消えていくような錯覚をして、何度も何度も忘れたら楽だと思ったことだろう。それでも忘れたくなかった。
一か月が経っても、この空を舞う粉雪は止みそうにない。これから百年先も。
季節が永遠に動かなくとも、あたしの、あたし達の時間は動きつづける。それは、彼の時間も一緒だ。そして、それが動きつづける限り、あたしと彼の時間が交わることはない。
遠くに見える街に、自動車のテールランプが赤い尾を引く。その光が真っ白の雪に映えて、あたしの瞳に飛び込んでくる。雪にもそれが溶け入って、宝石のような赤に染まる。
「きれい」
あたしは、あたしの言葉に驚いた。あんなに嫌いだった作り物の風景に感動していたことに。そこで気付かされた。今までのあたしが見ていなかったものに。結局、あたしは自分以外のものを見ようとしていなかったんだ。自分の手が届く範囲だけを見て、それ以外を嫌って、見て見ぬふりをして誤魔化していたんだと気がついた。
空を見上げて、沈みかけの太陽を仰いで、短く息を吐く。そしてあたしは雪降る街への帰路を頭に思い描き、足を大げさに振りながら、田舎くさい一本道を歩きはじめた。
「またせたね」
にっと笑いながら、待ち人に手を振る。先に席でコーヒーを飲んでいた彼女が小さく手を上げる。
「なんか相談でもあるの?」
「相談でもなきゃ、誘っちゃいけないの?」
シュガースティックの入っていた袋を手持ちぶさたに畳みながら尋ねる洋梨に、笑顔で答える。わたしも忙しいんだけどなぁ、と怪しい笑みを浮かべる洋梨が言葉を返す。
「電波塔、見えなくなったね」
町外れにあるファミレスの窓から外を眺めた彼女がぼそりと呟く。そしてすぐに、しまったという表情に変わる。ビルの隙間から見えていた鉄塔を惜しむような表情をする洋梨。彼女なりに気を使っているのだろう。けれど、それがむず痒い。
あたしは黙って、カバンの中身を漁る。最近触っていないから奥の方にあるはずだ。探る途中、あたしの指先がカバンの底に当たる。それが可笑しくて、一人で小さく笑った。今日の底にはソファがあって、ふかふかした感触が、あたしの指先を押し返している。
目的のそれをテーブルに置く。赤い携帯電話。あの日を語る、唯一の思い出だった。その表示は圏外のまま。
「あたしはあれを悲しいなんて思ってないから。あたしも、彼も、お互いに生きてて、電波を探してるの」
だから、と言ったところで、洋梨の手が上がり、言葉を制される。
「うん、ごめん。じゃあ、わたしは杏がそれを忘れないように監視してればいいんだね?」
にやにやとした目であたしを見る洋梨の言葉に、もうそれでいいよ……、と仕方なしに頷いた。こうして腐れ縁のような友情が続いてきているんだっけ、と再認識させられた。
家に帰ると真っ先にベッドに倒れ込んだ。色々とやることは残っているが、一眠りしたい気分だった。それでも、それをぐっと堪えて携帯電話を取り出す。天高く掲げるが、圏外の表示に変化はない。一秒の壁は意外と厚いらしい。
身体にしつこく纏わりつく眠気を振り払うように身体を起こす。その勢いのまま、前につんのめる。
一度、目をぎゅっと閉じて、数秒後に開く。わずかにだけれど、目は覚めた。
手の中の携帯電話をゆっくりと操作する。起動したのはメール作成画面。そこへ頭に浮かぶままに文を作っていく。
「ただの近況報告じゃん」
自虐気味に笑って、送信ボタンを押す。圏外のままなのは、わかっている。でも、納得なんてできない。小さな抵抗を送信したまま、仰向けに倒れた。やっぱり、眠気には敵わない。
あたしは本文の最後に書き入れた、気取った文章を小さく呟く。
「白雪の舞う場所で、また」
あたしのキャラじゃないだろうけど、ありきたりな文章になんとかアクセントを持たせたかったと思って、数分悩んだ末に絞り出した一文だった。明日、その文面を見て、悶えるのも面白いだろう。洋梨にも見せて、二人で大笑いしよう。
微睡む意識の中、視界の端にちらつく携帯電話の画面。その画面に映る文字を、子守唄代わりに心で復唱した。
――送信を完了しました。
白雪の舞う場所で、また