practice(10)




 遊園地のワンコインと娘の後ろについて,列で並ぶ男の目には中々に溶けないアイスクリームと携帯電話で話すことを止めない妻のポージングが気になって仕方無かった。あんなに肘を支える必要があるのか?あんなに太陽を背にして,何から隠れて何を話しているんだ?列は一応順調に,また一歩と進んでいるんだぞ?
 襟が白い,緑のワンピース。娘が着ている今日の服から歌う娘の襟の真後ろから見えるタグが黒い。アトラクションの説明を欠かしていないガイドブックを見る前に,それを直すのは単なる意地だ。『きちんとする』のが遊園地だ,そこに何についての間違いがあるというのだ。軽かろうが重かろうが,これから乗るのは回転木馬のただの尻と中途半端な背中の間,そこに跨がる予定二十五分後の目に見える未来なんだ。
 




 掃除するなら点検の後に,というのが回転木馬担当の彼の信条で人が誰一人乗っていない閉園後の,煌々とした一回転を眺めるのは彼のスタッフとしての義務だった。深夜に明るい音と工具箱は現実と折り合わせて,回るホースは諦めた夢のようだった。何時停めるのかは難しく,だからといってずっとというわけにもいかない一周。帰りの車に差し支えない,ノンアルコールビールは時々飲んだ彼だった。
 彼の住んでいる家に犬が居るのかと言えば,いない。しかしドッグフードは一袋,時によっては三袋をリビングの片隅に積んでは買い替えている。たった一つの設定,あるいはキングストン弁のような位置づけ。たまにキャップを置いて,大事な工具箱の大切な工具を一つ一つ点検する。工具からして使えなくなることもあるのだから,気が抜けない,これもまた一つの作業だ。疲れてしまっては話にならないし,集中出来ないなんてありえない。塊のようにびっしり詰まって,背もたれの様に固いその三袋ないし一袋の積み上げは,彼の仕事道具だった。ラジカセは一番新しくても流れてくる古い一曲,口ずさめる長い思い出。休んでは確かめ,また休んでは確かめる。手の届きにくい奥,向こう側を縮める六角形に丸い穴。傷まで磨いてピカピカにする同僚も,居ないではないがそれは彼じゃない。二回入った短いノイズがDJの言葉をテンポ良く歯抜けにして,古い柱時計が五分遅れて一度鳴る。午後は11時,深夜に近くて,けれど未だに今日だった。金具を締めるにはコツが要る。人が容易くしてるより,人が容易く思うより,例えばネジを締めるにも,十分なコツが要る。
 その日のうちに止んだのは雪を交えた小雨で,遊園地へ訪れる者の足を心から遠ざけたのは朝から降ってた大雪だった。閉園するまでとはいかず,静かに深々と園内を白くした。「歩いたのは私です。」と告白する,そんな素直な人物は今日の園内には数少ない。回転木馬を気にして彼の足跡は残った。その日の閉園は通常時間より30分早いことが既に決まって,乗っているのは変わった若いカップル以外に居なかった。
 工具箱の中で工具がぶつかり,かちゃかちゃと細かい暗記を繰り返す毎日の延長線上で彼がその時に出会った者は分からない。
 黒いレインコートに付いている黒いフードは下ろされて,黒いズボンに黒い長靴を履いたその子が鼻を拭うたびに短い袖口から見える,その白い長袖の袖口が目立って仕方無かった。黒が嫌いでもなく,黒猫が横切っても英国流解釈を行う彼としては不吉さなんて感じなかったが,佇まいは気になった。肘を曲げ,腰の辺りで組んだ両腕を必ず交互に組み直しながら立っている。長い左足はカウントを取って,同じく長い右足は反対にじりっとも動かない。若々しくも分かっている,「この回転木馬はさあ,どうだろうか?」と,その子はずっと言っているようだった。
 距離はまだあるからはっきりとはしないけど,その子の後ろの足跡は一歩一歩が妙に深いものになっている。雨に混じってぬかるんでいてもそれはズボッとして,その子にくっ付いて回る影の新種だった。彼は見えるだけ数えた。その数は十五,あるはずのもう一歩は見えなかった。
 暗記を続ける工具箱は彼が歩みを止めないから止まない。その子との距離は縮まって,聞こえても可笑しくない。でもその子はこっちを見ないで回転木馬を見ていた。いま乗っているカップルは上手く捨象されて,近付く彼も同様だった。その子はとても『乗っている』のかもしれない。彼は思って,それからある程度の技師として,そんなことはとてもセンチメンタルだとぬかるむ足下に気をつけて感じた。
 来園しているお客様に閉園時間を知らせる。しかも通常時間より三十分早いのだからそれを知らせるのはスタッフとしての,彼の役目だ。だから彼はその子に声を掛けた。普段よりも幾分は,好意と好感の割合を意識した。まずはただの挨拶から。そうして大事なお知らせをと。
「こんちにわ。」
 その子はこれには反応して,それから彼には挨拶をした。
「あ,こんちにわ。」
 その話し方にも澱みはなく,視線の動きと行き先にも問題はない。その子は安心していいのだと,彼は判断した。技師としては推測的で,スタッフとしては勿論甘めの判断だった。工具箱とかちゃっと止まって,その子の隣で彼は聞いた。
「真剣にご覧になっていましたね。回転木馬,好きですか?」
 その子は彼を見て言った。回転木馬は見なかった。
「はい,好きです。回転木馬。」
「いいですね。そして嬉しいです。僕も回転木馬が好きで,ほら,」
 と言って彼は工具箱を一回かちゃっとさせてから,「これの整備もしてるんです。」と続けた。その子は『わあっ。』と言う口を作ってから戻る口元で少し笑った。ほっぺが滑らかに動いた。表情筋,と彼は思った。それでもすぐに,それを洗うように,彼はその子に『残念だけれど伝えなければいけない大事なことがある。』という顔を意識して浮かべるようにしてから,彼はその子に言った。
「只今お乗りになられているお客様が降りてから,すぐに取り掛からなければいけない。すみません,お客様。今日はいつもより閉園時間が三十分早いのです。今朝からの例の大雪で,雨交じりの『この』ぬかるみ,明日のために少し早く閉めなければならないのです。だから,申し訳ありませんお客様。お客様にこの後に,乗っていただくことが叶いません。」
  その子は彼を見続けて頷いた。彼の後ろの,鉄柱で高く伸びさせられて,アナウンスを伝える大型スピーカーが一つあって,その子は「それでさっき,聞きました。」と言ってから回転木馬を見た。それからその子は言った。
「残念です。でもいいのです。チャンスは今日だけじゃないですし,明日もあるかもしれません。その時でいいですし,こうして確かめたかったこともありましたから。」
 一拍置いて,彼もまた回転木馬を見る。乗って回るカップルと,そのギリギリまで目が合ってしまった。服装から明らかにスタッフと分かる彼と,一人のその子と二人で今乗っている回転木馬を見つめ始めたのだから『こっちに何かあった』か,『あっちに何かあった』のどちらかの疑問(あるいはその両方)を思い浮かばせるものなのだろう。彼はスタッフとして思い直し,その子を見てから,技師としてその子に聞いた。
「確かめたかったことですか。良かったらお聞かせ願いませんか?何せ僕は整備をするもの,お客様が気になることは知っておいて,損はなさそうですから。」
 その子は一度彼を見て,回転木馬をもう一度見た。そのまま見据えるその子の迷いは,彼と回転木馬との関係の程度を見極めようとしているようであった。回転木馬が好きな彼はその整備から清掃に至るまで手を抜いたり誤魔化したり,おざなりにしている何かはないか。愛情なんて言えなくても,親密さを感じられる手順と時間を踏まえているのか。回る馬の一頭一頭に権限を持った口頭質問をするように,掴まれたポールに残された物言わぬ証拠があるように,その子はとても回転木馬を見続けた。
 回る間に流れる音楽の,名前を彼は忘れている。
 しかしその子はそんなこととは関係なく,また彼の質問とも噛み合わない問いを発した。それは彼の整備に関することで,整備に取り掛かっている間に見学してもいいのかということだった。「やっぱりダメでしょうか?」と,その子は無理を言ってはいなかった。
 けれど彼は「申し訳ありません。」と答えてから,その子にスタッフとしても技師としても応じた。
「内部規則でして,整備に関して見学をさせてはいけないことになっております。事前に許可があれば別ですが。例えば何らかの取材の一環として,などのように。だから,申し訳ありません。」
 最後に謝った彼をその子は見直してから言った。その表情に浮かぶ残念がった気持ちは,『それもまた慣れてます。』と言っていた。
「いえ,無理は承知と分かってました。それでも,もしかしたらを試してみたのは私です。気にしないで下さい。」
 沈黙は回転木馬に流されて,軽快に反対側を回って戻って来る。そのメロディーは覚えている彼はそろそろ終わる頃合いを知っている。カップルは回って,雪とならずに小雨は降る。少しばかりで気にならなくても,気にしようと思えばそれもまた出来る。その子は顔を拭っていた。レインコートの短い袖口から,長袖の襟口が目立って見えた。そのまま黙って,終わりでもいいかもしれない。持ち直す工具箱は,またかちゃっと鳴ったのだから。彼はそうするつもりで,その子はそうするつもりでなかった。
「回転木馬って,飛びますか?」
 その子はそれを彼に聞いた。
 彼はそれを聞き直せなかった。
 回転木馬は飛べるわけがない。揚力を得たりする,そんな機構は,回転木馬に備わってる訳がないからだ。だからその質問の答えは「いいえ。」,その理由は彼が思った通りだ。だからそう答える。技師でなくてもスタッフとしても,変更点は一つもないのだ。
 彼はだから言おうとした。でもその子は続けた。回転木馬を見ながら,彼を一度も見ないままにその子は話を続けたのだった。
「こんな質問は奇妙なんでしょうね。でも私には奇妙じゃない。今日の天気を尋ねるそれと変わりはない,ただの一つのクエスチョンです。相手を試してます。答えは私の中にあるから。私の答えは『はい,飛びます。』。なぜなら私は飛んでる回転木馬に乗っていたから,が理由になります。」
 彼はすごく慎重な性格だ。だから工具箱を鳴らさずに,黙って何も言えなかった。スタッフとしての対応として,『何事もなくして無事に済ませる。』が最善だ。技師としては興味があっても(そんな技術がありえるのかもしれない),彼は回転木馬とその子を見ることから事態の進行を観察するしかないのだ。
「幼い時,私はママに売られたことがあります。ここじゃない遊園地で,そこにあった回転木馬の前で。その理由は分かりません。お金に困ってるわけでもありませんでした。パパとは離婚していたけど,養育費は定期的にきちんと振り込まれていたし,私自身も私立の幼稚園に通ったり,欲しいものを買ってもらったりしていて,家の貧しさなんて感じたりしませんでした。お金が理由じゃない,そういう形でしかその理由を積極的に意味付け出来ません。あとから起きた出来事から,推測として出来るのも,ただ売ろうと思った,そういう形のものなんです。『どうせだったら売ろうか,お金にもなるし。』。中古品のような,そういう感じです。」
  冷え込む気配が改まって,小雨がその身に何かを連れて頬に当たった。予報では曇りのままに推移しそうだった空の様子は当たらずに,降っている事実を伝えてた。カップルの一人が外を指差して,もう一人がもっともっとと,天候が荒れるのを誘っていた。彼は工具箱を気にする。そして自分を気にする。
「回転木馬に乗せられて,ママにもたくさん手を振って,ママは知らない人と話してたんです。知らない人は私をよく見て,ママは私から視線を剥がしてました。視界に収まる私は居たのに,そこに私は居なかった。回転木馬と同んなじだったんです。私は握手一つで売られた。分かったんです,私には。ママはどんどんと離れていくし,知らない人は一人一人と増えていたし。だから止まって欲しく無かった。ずっと回っていて欲しかった。乗っていたのは私ともう一人。誰にも見つからない私にはなりそうになかったんです。」
 回転木馬をまだ見つめるその子は,話している内容に比べて,彼が聞いてしまっている『その事実』に比べて,話しぶりが変わらない。振る舞いが現実を生んで,現実がその子の話に積もるように落ちる質を与えてる。どさっとした耳触り,パサパサとした手触り。思わず握れば硬くなって誰かに投げつけることも,きっと出来る。彼は南部育ちで,今はもう雪で遊ぶ年齢ではないけれども。
 現実のみぞれはその子に当たっても,その子は続きを覆い被せて聞かせる。
「回転木馬は回ってました。回って回って,もう一人の子を勢いよく放り出してから土台の一部を引き剥がして壊してから,私を乗せて飛びました。ヘリコプターとは違う,妙に緩くて,でも落ちない書いてんです。周りの景色も分けて見れたし,私が目を回したりしません。馬が走って回してる,それ以外に居るものもあったかもしれません。私には分かりません。私は一頭に捕まって,回転木馬に乗っていただけですから。飛んで行って,その途中で回転木馬が駐車場に向かってたママを轢き殺してしまったのは確かなのですが止まらずに,回転木馬と私はそのままに遊園地を飛んで出て行きました。中で回る私には,下に見える街が小さく見えて,不思議でした。『ああ,落ちたらやだな。』と思って,私の記憶は終わりです。」
 その子はそこで彼を見た。声が波としてぶつかってきて,それが分かった彼だった。
「気付いたら原っぱに居ました。焦げた匂いと燃えるモノの側で,私は倒れていました。通りかかったトラックの運転手が私をその場からだいて遠ざけて,延焼未満でどうにか消火したようです。私は近くの街で入院して,パパに引き取られて今に至ります。事情聴取とか,勿論ありましたけど,私は分からないと答えていました。それが良いかなって思ったんです。信じてもらえないっていうのもありましたけど。」
 黒くて短い袖口から,白い長袖の袖口を見せて頬に当たったみぞれを拭いて彼に先程と変わらない笑顔を見せた。
「一応新聞にも載ったんです。二つの事件で,二つの事故で。ミステリー雑誌とかにだったら,今もホットな話題なのかもしれません。」
  彼は知らなかった。どちらの事件もどちらの事故も,恐らく一方は回転木馬に関する不思議な事故として扱われているだろうけれども,彼は知らない。スタッフとしてはどうにでもなる。しかし技師としては?それでも良いのだろうか。工具箱は何も言わないけれども。
 その子は初めて目を伏せて,息継ぎの練習をするように,それからあげて彼を見て言った。
「こういう話は,カウンセリングを進められるものかもしれません。でも私にはこの記憶が何の形にも現れていません。社会生活上の支障ってものが無いんです。こういうのって,仕事をする相手がすごく困るもので,ただのアドバイスのようなものを聞いて帰って来るだけになると思うんです。取っ掛かりが無いですから。ただ覚えてるだけですから。」
「お母さんのことは,大丈夫なのですか?」
 スタッフとしては余計なことかもしれず,技師とは何の関わりもないこととして,彼は彼として聞いた。彼の親は自然死だったけど,かつて親が居た。そこは同じだと思うのは勇み足過ぎるのかもしれないと,彼は思ってもいたけれども。
「悲しいです。けれど,正直にそれは半分。あとは私が私に語る気持ちです。」
 大きいみぞれが間に落ちて,音楽はもう止まっていた。曲名を彼が忘れても,メロディラインには限りがあるから回転木馬も終わりを迎えて,カップルはにこやかに降りるのだった。それで今日の仕事は終わり,あとは彼の仕事が始まるのだった。
「黙って聞いてくれてありがとうございます。あなたが木馬の技師だから,話しても良いと思ったのは私の勝手で迷惑だったかもしれませんが。でも,嬉しかったです。。」
 表情筋,と心の中でまた彼が思ってしまった,滑らかに動くほっぺで形作られる笑みでその子は言った。
「点検,頑張って下さい。それと,きちんとしてあげて下さい。回転木馬はそれを喜ぶと思いますから。」
 「はい。分かりました。」と言った彼は,そのまま黙らざるを得なくて,工具箱から出す工具をいつもより選ぶしかなかった。丁寧な点検,緩みの無い,回転木馬としての『機能』を整える。それはまた現実的な行為だ。金具を締めるのにもコツが要る。例えばネジを締めるのにも,十分なコツが要る。
 その子が聞いた『回転木馬は飛びますか?』という趣旨の質問は,『叶える』のならどうすればいいか。そんな疑問は意味が無く,飛ぶとしとしたらその乗り物はもう回転木馬でない。けれど,回転木馬として飛ぶのなら?一体どこまでのモノが飛んでる回転木馬になれるのだろうか?
 例えばネジを締めるのにもコツが要る。十分なコツが要る。それは緩めるということについても同じことだ。締めることと同じように,緩めることにもとても大事な意味がある。
 終えてから,そこの掃除をする前に,回転木馬の中に立って彼が眺めたのは小さい雪の始まりだった。概ね暗い園内の中で回転木馬が漏らす光は傘のように狭く広がり,遠くの雪は見せてくれない。手を伸ばせば届きそうなそこで,ひらひら雪は降っている。彼は南部の育ちで,雪で遊んだことは無い。






 電話を切って戻って来た妻が急用を言い出して男ともめた。口論はエスカレートして列をざわつかせて,男の足にしがみ付く娘の泣き声で黙って火花を散らすだけだ。男は妻に腹を立てていた。列はどんどん前に進んで,順番はもうすぐ回ってくるのだ。
 だからもう少し待てと言った男の一言で,しかし妻は再び激怒する。喧嘩は収まりそうになかった。娘はもう乗らなくていいと悲しそうな声で男に言う。しかしこうしてまた進んで,ほら順番は巡って来たのだ。乗ろうと思えば,もう乗れる。男は選ばなければならない。
 回転木馬に,ここで乗るのか乗らないのかを。

practice(10)

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-10

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