その名ぞ

第一章 三中受験 1

         
            その名ぞ

                                                西木秀作

   第一章 三中受験

昭和十六年 三月 一日 国民学校令公布 第三待鳳(たいほう)小学校を鳳徳(ほうとく)国民学校と改称
       四月 一日 米穀配給通帳制 外食券制実施 西木(にしき)秀作(しゅうさく) 鳳徳国民学校                   五年生
       四月十三日 日ソ中立条約調印
       七月二八日 ゾルゲ事件発覚
       十月十八日 東条英機内閣成立
      十二月 八日 日米開戦
昭和十七年 一月 二日 マニラ占領
       二月 一日 衣料切符制実施
       二月十五日 シンガポール占領 昭南島と改称
       三月 八日 ラングーン陥落
       三月 九日 インドネシア制圧
       四月 一日 秀作、国民学校六年生
       四月十八日 日本本土初空襲
       五月 一日 マンダレー占領
       五月 七日 コレヒドール島占領
       六月 五日 ミッドウェイ海戦
       六月 七日 キスカ島上陸
         八 月 七日 米軍ガダルカナル島上陸
       九月 一日 大東亜省設置
昭和十八年 一月 一日 中野正剛「戦時宰相論」を掲載した朝日新聞朝刊が発禁
       二月 一日 ガダルカナル島より日本軍転進

           1

 昭和十八年四月、嬉しい晴れの京都三中入学式は木造本館二階で、教職員、保護者及び上級生代表と新入生の集まるなか厳粛に挙行された。秀作にとって待ちに待った入学式であったが、あっという間に終ってしまった。
 一年生の教室は汚い、古い木造校舎、秀作は一組だったので一番西の教室に入った。座席は名簿順に座るよう前の黒板に書かれてあった。他の生徒も緊張した面持ちで指定された席に座って静かに待機していた。
 やがて担任の先生が教室に入ってきた。
「皆さん、本日、入学式の時に校長から紹介された一年一組の担任の田村です」
 薄いねずみ色の背広に身を固めた私たちの担任は教室の中をゆっくり見回して言った。
 「君たちはもう伝統ある京都三中の生徒です」
 この日は入学式の後ということもあって大した話しもなく、明日の始業式の予定の発表だけで終った。 
 
 次の日の始業式は教員と一年生から五年生までの全生徒が生徒控室に集合して行われた。その後教室でいよいよ担任の自己紹介(田村先生は東洋史の先生であった)、一学期の時間割などの発表があり、私たち新入生に対して三中生としての心構えなどのお話があった。
 
「一般にはこの学校は三中と言われているが、正式にはどう言うのか知っておいて欲しい」
 僕たちはついこの間まで国民学校の生徒であり、まだほんの子供に過ぎなかったが、難関の三中の入試を突破して張り切っていた。
「三中の正式の校名は何というのか、知っている者は手を挙げてみい」
 担任は謹厳な顔を少しほころばせてきいた。
 二・三手が挙がった。
「はい、君」
「京都第三中学校です」
「違うねえ」
「はい、京都府立第三中学校です」
 別の生徒が答えた。
「それも違う」
 みんな黙ってしまった。西木は教室の右側の窓から二列目の後方に座っていた。
  どこが違うんやろか。
 あたりを見回してみたが、他の生徒も不審そうな顔をして同じように右を見たり左を見たりしている。
「正門から入ってくる者は知っとる筈じゃ。正門の向かって右側の柱にちゃんと正式の校名が書いてある大きな板が掛けてある。自分の学校に入ってくる時、門にどんなもんがあるのか、きちんと見てないのやな」
 四十歳を過ぎたと思われる先生は、薄いねずみ色の背広の下に着込んだチョッキのポケットに左手の中指と人差し指を突っ込んでいた。
「裏門にはない。表門だけに掛けてあるんや。正門から入ってくる者は、毎朝校名を見て、それから御真影に敬礼して教室に入れ。それでは正式の校名を言う。よう覚えておけよ。京都府立京都第三中学校」
 先生はもう一度校名を繰り返して、黒板にきれいな楷書で書いた。
 西木も心の中で二度ほど繰り返し、それから小さな声で「京都府立京都第三中学校」と唱えてみた。すると何とも言えない喜びが腹の底から沸いてきた。
  
  そうなんや。僕は三中の生徒や。京都府立京都第三中学校の一年生や。
  
 その時、今朝の始業式の終わりに「校歌斉唱」の号令で始まった校歌をふと思い出した。二年生から五年生までの今まで聞いたこともない、地底から響いてくるような、太い大人びた何百人という声が、新一年になったばかりの西木に大きな衝撃を与えた。「愛宕」とか「桂」とかほんの一部の文句しか分からなかったが、終わりの繰り返しは素晴らしかった。
「おお 三中 その名ぞ 吾らが誇り」
 秀作は先ほど初めて聞いたメロディを思い出しながら、その部分を胸の中で歌ってみた。
「おお 三中・・・」
 そして呟いた。
「京都府立京都第三中学校」

第一章 三中受験 2


          2

 秀作がこうして目出度く三中生になるについては本当はいろいろのことがあったのである。どんな目に遭ったのか、どんな屈辱を味あわされたのか、それらを想い起こす度に秀作の胸は痛んだ。

 事の起こりは国民学校五年の二学期半ばの頃であった。担任の吉田先生は、この春、東京のある専門学校を卒業したばかりのまだ若い先生であった。その日の朝、担任は「今日の五時間目は体操の時間にする。体操服を持ってきてない者は、昼休みの時間に家に取りに帰ってよろしい」と組全員に告げた。
 秀作は昼弁当を食べ終わるとすぐ、二・三の友人と一緒に家へ走った。食事のすぐ後なので思うようには走れなかったが、一所懸命に走った。西木の家は校区の一番北東の端にあり、学校から一キロ近くあった。ようやく家に着くと、母は店の中で客と話をしていた。母は京都市勤務の父の安月給を補うため日用雑貨の店をやっていた。
「お母ちゃん、体操服や」
 客を相手にしているので母は子供の声を無視してしゃべり続けた。
 秀作は家の奥の体操服が入っていると思われる整理タンスをかきまわしたが見つからない。 
  えらいこっちゃ。
「お母ちゃん、体操服はどこに入ってんねんや」
 大声でそう叫ぶのと母が奥に入ってくるのと同時だった。
「服は洗濯したさかい、まだ二階や」
 母はそう言って二階へ急いで駆け上がり、しばらくしてきれいに折りたたんだ体操服を持って下りてきた。
 秀作は体操服を小脇に抱えて学校まで走りに走った。
 学校に着いた時予鈴がなっていた。五年三組の教室は二階の東の方にある。教室に飛び込んですぐ着替え始めた。何人かの生徒も血相を変えて黙々と着替え、すむと運動場へと走っていった。
 秀作も走った。
 しかし急に小便がしたくなった。便所で小便をしている最中に本鈴がなった。
 ようやく運動場に駆けつけると、もう担任は生徒を整列させていた。遅れてきた生徒は西木以外にも五・六人いたが、その連中は列に入れてもらえず、横に立たされていた。秀作も「横に立っとれ」と言われた。整列が終わり人員点呼がすむとボールゲームが始まった。すると担任は横に立っている者に向かって「時間を守らんかい。馬鹿たれ」と怒鳴った。 二人ほど「遅れてすいません」と小声で言った。
「よーし、ゲームやれ」
 その二人は嬉しそうにゲームの中に入った。
「遅れて悪かったと思わんのか。謝れ」
 秀作以外の全員が「すいません」と謝ったが、秀作は詫びを入れなかった。
  自分は遅れたけど謝らんならんようなことは何一つしてない。途中で遊んで遅れたんなら謝らんならんけど、学校と家とを一所懸命  走ったんや。
「西木、お前は遅れてきても謝らんですむと思うのか。級長のくせに。級長はみんなの模範にならないかんのじゃ」
 秀作はもう意地になっていた。ぷいっと横を向いたままで、言い訳らしいことは何一つ言わなかった。店が来客中だったことも、便所に行ったことも。  
 憎たらしい子や、と先生は思っただろう。けど、あの時は謝る必要などなかったんやと今でも思う。 
 体操の時間が終わって教室で着替えている時、数人が西木の回りに集まってきた。
「秀ちゃん、謝らなんだけど、僕も謝らんでもええと思うわ。急に時間変更言うといて。秀ちゃんみたいに学校から遠いもんは、走ったかてしんどいわ」
「そやねん、自分のことは棚に上げといて、ひどいわ」
「そやけど、秀ちゃん、教室出てからどこに行っとったん」
「便所や」
 そう言って秀作は「へっ、へっ、へっ」と笑った。その時、一人が急にまじめな顔になって、そそくさと自分の席へ戻っていった。振り返ると担任が西木をにらみつけていた。
 このことがあってから西木と担任とは心が通じなくなった。

 秀作にはもともとドジな所があった。この件を振り返ってみる時、たとえ店に客がおったにしろ、自分でばたばた探したりせずに、母に強硬に体操服を出してくれるよう迫ったらよかったのに、また小便なんか少し我慢すればとか、担任が背後にいることにもっと早く気づけばと、後になって思ったりした。

 小学校の低学年の頃、近所の連中とメンコをして、自分の持っていた百枚近くのメンコを全部取られて泣きベソをかいて家に帰ったことがある。
「負けて泣くぐらいなら、初めからメンコなんかしなはんな」と母に睨み付けられた。
 メンコをやってる途中で秀作が優勢になり、メンコの枚数がかなり増えていた時に、適当にやめればよかったものを、ついいい気になって続けて、全部失ったのである。その晩は口惜しくて泣きながら眠ったように思う。

 小学校の三年だったか四年だったか、秋も深まったある日、先生から「木の葉を百枚集めてきなさい」と言われ、秀作はその辺の木の葉を百枚取ってきて、紙箱に入れて学校へ持っていった。理科の時間になって、各自集めた木の葉を机の上に出した時、秀作は「あっ」と驚いた。みんなが持ってきたのは、黄色の美しい銀杏の木の葉であったり、美しく紅葉した楓の葉であった。秀作のようにくすんだ緑の木の葉を持ってきているのは他に一人もいなかった。
「なんで、みんなこんなきれいな葉っぱを持ってきてるんやろ」
 秀作が独り言を言うと、「理科の教科書を見てみいや」と誰かが言った。
 慌てて教科書を開けてみると、何と「美しい木の葉を集めてみよう」と書いてあるではないか。
 秋になると緑の葉が黄色や紅色に変わるものがある、それを集めよう、という内容だった。秀作は何のために木の葉を集めるのか、どんな葉を集めるのか、といったことに何の注意も払わず、従って教科書を見ることもなく、ただ木の葉を百枚集めさえすればよいと思っていたのである。
「恥ずかしい」と思った。
 家に帰って母にそのことを話した。
「お前はアホか。今学校で何の勉強をしてるのか、ちょっとも考えてえへんちゅうことやがな」と母にぼろくそに言われた。
 近所の教会の庭には、真黄色に変色した銀杏の葉が一面に落ちていた。それをかき集めて、色の良いものを百枚選んで箱に入れ、次の日学校へ持って行った。

 だから、もう少しいろんな点に注意が働いておれば、恥ずかしい思いをしたり、口惜しい思いをしたりする回数が減っていたのかもしれない。そんな数々の己のドジを踏んだ思い出の中で、この体操服の一件は、一番口惜しいものであり、このために更に口惜しい思いをする羽目になっていったのである。
 
 二学期の学芸会には、秀作は級長であったが端役しか与えられなかった。

 十二月八日は早朝からのラジオ放送のせいか、一日中落ち着かなかった。
「大本営陸海軍部午前六時発表、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
 ラジオは繰り返し放送していた。
 父も母も「さあ、えらいこっちゃ」と興奮していた。
「再度の召集があるかもしれない。その時の心の準備だけはしておかないと」
 父は家族みんなに言った。
 今年生まれたばかりの乳飲児を抱えた母は「アメリカと戦争なんかして、ほんまに勝てるんやろか」と不安そうだった。
 しかし、戦争はまさに連戦連勝だった。マニラ、シンガポール、ラングーンと次々に落とす度に教室は喚声に沸いた。特にシンガポール陥落の時などは学校・町内会共に大喜びであった。祝賀の旗行列や提灯行列もあった。教室の前の壁に日本軍の進捗状況を日の丸の旗で示す大きな地図が張り出された。
 母のやっている日用雑貨の店も順調に売上げが伸び、十六年の年末の売上げは開店以来だと言って母は喜んでいた。

第一章 三中受験 3

          3

 六年三組の二学期の級長は、今年も投票で西木に決まった。圧倒的多数であった。ところが担任の吉田先生はこう言った。
「西木を級長にするかどうか、二・三日預かっておく」
 その時間の後、教室は騒然となった。
「みんなで決めたのを先生が自分勝手に変えられるんか」
「そんなん、おかしいわ」
「そんなんやったら選挙なんかせんと、初めから自分で決めたらええにゃ」
 そこを一組の担任が通りかかり、開け放した廊下側の窓のそばでじっと聞いていた。
 この先生は学年主任で、みんなに話をする時、よく「カンジン」という言葉を終わりにつけて「・・・することがカンジン」と言ったので、「カンジン先生」と生徒たちに言われていた。温厚な先生であった。
 担任が何も言わないので一学期の級長の吉井が号令かけを代行していた。
 数日後の一時間目に「西木を級長にしたくないが、みんなで決めたことだから、西木を級長にすることにする」と、担任はしぶしぶ宣言した。

 綴方の時間に秀作は国史が好きだったので、その旨を書いた。そして通知簿に秀をつけてもらえるほど頑張りたいと希望を述べた。
 その次の日の国史の時間のことであった。「西木は国史が好きで、通知簿に秀が欲しいと綴方に書いてあったが、西木には秀はやらん」と、組全員の前で言った。
 秀作は愕然とした。
  こんなことをみんなの前で言うなんて。
 でも秀作は頑張った。国史の試験は不意の小試験も含めてそのほとんどが満点で、間違っても一ヶ所位であった。しかし二学期の末の通知簿には、国史は秀ではなく優しかついていなかった。

 二学期には毎年恒例の学芸会がある。出演者は担任が決めるわけだが、組を代表する級長や副級長は必ずといってよいほど何らかの役を当てられた。しかしその年は秀作には何の役の割り当てもなかった。他の組からは、当然のごとく級長をはじめ主だった者が出演していたのに。秀作は他の者と一緒に講堂に座って劇を見た。どんな劇だったかほとんど何も覚えていない。級長だからといって、劇に出なければならない理由はないのだと、何度も自分に言い聞かせはしたけれど。
 この学芸会の事を考えると、秀作は今も全身が怒りと屈辱感に満たされるのを感じる。

 二学期末の小雪のちらつく日の夕方、母に頼まれて品物を届けるために学校の前を通った。その時、吉田先生ともう一人、二組の担任が校門を出てくるのに行きあった。西木は「さいなら」と小声で言って軽くお辞儀をした。
「西木、どこへ行くんか」
「店のお使いで、お得意さんへ品物を届けに行きます」
「そうか、寒いのに大変だな」
 それで「はい、おおきに」と言って走っていけばよかったのだが、珍しくねぎらいの言葉をかけられて、秀作は思わずペロリと舌を出してしまった。
「何だ、その舌は」
 怒声が来た。思わず首をすくめて一目散に走った。
 その翌朝、またもや担任は組全員の前でそのことを暴露した。
 この時は恥ずかしさで秀作はうつむいたきりだった。そしてまたまた踏んだドジに自分を責めた。

 大東亜戦争は最初のうちは華々しかったが、この頃になると少し様子が変わってきた。
 新聞に載る参謀本部の発表を読んでいる限り、負けているのではないと思うが、戦争は初めのように調子よくいっていないように思われた。
 店で売る品物が問屋から少しずつ手に入らなくなり、また手には入ってもその品質が少しずつ悪くなった。
 鼻紙などは、以前は真っ白な薄い紙だったのが、今では薄茶色の少し厚手の紙になり、鼻をかむときごわごわした。落し紙は新聞などから再生した、しわくちゃの紙で、ところどころに活字が残っており、いかにもきたならしい感じがした。
 母はこんな状況になったのも、戦争がうまくいっていないからだと、小さい声でぼやいた。

第一章 三中受験 4

          
          4

 三学期になり、いよいよ進学する学校を決める時がきた。
 先生は組全員に志望校などを書く紙を配った。
 秀作は第一志望の欄に「京都三中」とだけ書き、第二志望以下には何も書かなかった。「決定は他の組のこともあるので、一組や、二組の先生とも十分相談した上で、二月下旬までには発表する」と先生は言った。
 二十日過ぎのある朝、授業に入る前にその発表があった。
 「京都一工」、「京都二商」の受験決定者名の発表の後、いよいよ三中の番になった。
「三中を受ける者の名前を言う。井上、酒田、滝井、豊田、藤井、吉井。以上六名」
 秀作は自分の耳を疑った。「西木」の名前がなかったのである。教室のみんながざわめいた。中には西木の方を見る者もいる。
「何で井上が入って、西木があかんのや」
「井上なんかおかしいわ」
「秀ちゃん、どないすんねやろ」
 そんな囁きが教室に充満した。
 井上の隣に座っている者が「お前が入っているやなんて、ひいきや」と小声で言ったが、それは教室の隅々まで聞こえた。
「静かにせい!」と担任は言ったが、その声は怒気を含んで凄みがあった。
「先生、秀ちゃん、いや西木君はどうなったんですか」
 勇気のある、秀作の一の仲良しである吉井が尋ねた。先生はしばらく口をつぐんで何か考える風であったが、「目下考慮中」とだけ言った。
 その日は一日中、この話で持ちきりになった。一組や二組からもいろんな事が分かってきた。一組は十二名、二組は十名、なのに三組はたったの六名しか三中を受けられないということも。
「何で三組は少ないんや」
「こんなんおかしいわ」
 それは自分の意志とは関わりなく、三組に入れられ、その結果、一組や二組に大きな差をつけられたことに対する口惜しさも大いに混じっていた。
「新米の先生が担任やったらえらい損や」
「こんなんやったら、一組か二組に入れてもらうようお母ちゃんから頼んでもろたらよかった」
 もし、一組や二組と同じくらいの人数が三中を受けさせてもらえれば、自分も受けられたかも知れないのにと思っている者も結構たくさんいたのである。
 一・二・三組は男子ばかりの組で、四・五組は女子組であった。そうこうするうちに誰かが四・五組の様子を聞いてきて、みんなに披露した。女の子から話を聞いてくるなんて、ある意味では勇気のいることだった。
「四組も五組も府二(府立第二高女)は十三人ずづやって」
 さあ、教室がおさまらなくなってきた。口をとんがらせて、三組に入った不運を口々に嘆いた。そのうちに不満の対象が井上に集中した。
「お前、何でや。お前のお母ちゃんが、先生とこへ何か持っていったという話やけど、それほんまか」
「こないだ、先生がお前んとこで夕飯よばれたらしいて言うけど、ほんまやったんやな」
「秀ちゃんがあかんでお前が入るやなんて、おかしいと思わへんか。こんなん、ひいきって言うんや」
 秀作には初めて聞く話ばかりであった。そしてみんなよう知ってるなあ、と感心した。

 騒然とした雰囲気の中で終礼が終わった。秀作は家に帰る気がしなかった。ぐるっと回り道をして店の見える所までくると、足がすくんで立ち止まってしまった。
 ようよう店に入ると、母が秀作の顔を見て言った。
「秀ちゃん、どないしたん。えらい元気がないやんか」
「お母ちゃん、三中あかんみたい」
 涙声がしゃくりを上げて泣声になった。
「何やて、何であかんのや」
 母はきつい声で言った。
「あかんとは言わはれへんけど、目下考慮中やて」
 秀作はそのまま二階へ上がって、呆然と机の前に座った。しばらくして、もし三中があかん場合はどうなるんやろかと、考え始めた。
  
  高等科(高等小学校の高等科)へ行って、自力で中学卒業の資格でも取らなしゃあない。中学の講義録でも取ろうか。お母ちゃんは   がっかりするやろうな。そやけどこんなん不公平やし、そもそもがおかしい。

  秀作は腹を立てるというよりは、むしろ気がおかしくなりかけていた。
 その晩、店を閉めてから両親に今日学校であったことを全部話した。
「何で受けさせてもらえんかったんか。お前は何か悪いことでもして、隠してるんやないか」
 父は目を三角にして秀作をにらみつけた。
 秀作は泣きながら「そんな事はない」と言い続けた。母は父の怒りをなだめるのにせい一杯であった。

第一章 三中受験 5、6

          
           5

 それから数日して母は担任と話をしに学校へ行くことになった。秀作は学校が終わるとすぐ帰って母の代わりに店番をした。
 先生に、今日放課後母が先生と話したいので来ると言った時、急に難しい顔になった。そして「そうか」とだけしか言わなかった。
 秀作は母の帰りをじりじりしながら待っていた。二・三の客があったがうわの空であった。もう暗くなりかけた頃母は帰ってきた。
「先生、どない言うたはったん」
 待ちきれずに母にきいた。
「どうも、煮え切らへんねん」
「煮え切らへんてどういうこと」
 母はさえない顔で「もうちょっと待ってほしいということらしいわ」と言った。
 その晩両親はこの件でかなり話し合っていたみたいであるが、解決法が見つかった様子はなかった。母の「もうちょっと待てと言うたはるさかい、待たなしょうがないのと違うやろか」という声だけがやたらにはっきり聞こえてきた。

 三中の願書締切の日が近づいてくるというのに、先生からはいっこうに話がなかった。
  
   もしこのまま三中が受験できなければ、二商にも一工にも行かれへん。高等科へ行くしかない。でもそれには我慢がでけへん。何   としてでも三中を受けさしてもらわんと。先生のえこひいきや個人的な感情で僕の一生を左右されるなんてたまらんわ。
 
 締切まであとほんの数日になった日の放課後、秀作は思い切って職員室へ行った。入りにくい職員室で行きたくなかったのだが、やむにやまれぬ気持ちだった。ガラガラと引き戸を開けて中に入ると、一番奥の教頭をはじめ、全職員が一斉に音のした方を見た。秀作は足がすくんだ。しかし勇気を奮って大きな声で言った。
「吉田先生に用があります」
 慌てたように担任は戸口に駆け寄った。そして恐い声で言った。
「何の用か」
 職員室の全神経が二人のやりとりに集中しているのが分かった。
「いつになったら三中を受けさしてもらえるんですか。もうじき締切です」
「それだったら、この間、君のお母さんにも言ったように、もう少し待ってくれと言ってるじゃないか」
「そやけど、もうすぐ願書の締切です。締切がすんだら、僕は高等科へ行くことになるんでしょ。早いこと決めてもらわんと、僕、困ります」
 一組のカンジン先生が慌てて教頭の側へ行き、何やら話し合っているのが見えた。それからカンジン先生は足早にこちらへやってきて、吉田先生に耳打ちをした。
「はい、分かりました」
 そう言うと、担任は秀作に向かって「明日の放課後、もう一度ここへこい。その時最終的な話をするから」と言って自分の席へ戻って行った。
 しーんと静まり返った職員室はまるで氷の部屋のようだった。
 翌日の放課後、秀作は腹を決めて職員室へ行った。職員室の雰囲気は何かしらちょっと昨日とは違っているような気がした。どこかなごやかな雰囲気があったからである。
 担任は秀作の顔を見ると、難しい顔を少しほころばせた。
「西木、君には三中を受けてもらうことになった。ここに願書があるから家に持って帰って、明日授業が始まる前にわしのところへ持ってこい。締切が近づいているので、小使さんに午前中に持って行ってもらうからな」
「有り難うございます。明日の朝遅れんように持ってきます」
 秀作は足が地につかない感じであった。願書をランドセルに入れると、一気に家まで走って帰った。

           6

 三月も終わり頃に三中入試の合格者発表があった。その日は朝から落ち着かなかった。秀作には自信があった。どの科目の試験も比較的易しく、国語や地理・歴史は満点であるに違いないという確信さえ持っていた。
 面接も大した落ち度もなくこなした。ただ、面接の順番を待って、教室でカンヅメになっている時、横にものすごく面白い事を言う奴がいて、その回りの数人と一緒に大笑いをした。その時廊下にいた先生に「静かにしなさい」と注意され、それでもまだ笑っていると、何やらメモをしていた。後で考えると受験番号をメモしたのではないかと、少し不安が残った。そんな事もあって、きっと合格すると思っていても、自分の番号を見つけるまでは落ち着かなかった。締切間近に願書を出したため、受験番号は後の方だった。三百名の定員に対してかなりの受験者があったようだった。秀作の番号は四百番台の後半だった。
 発表は父と二人で見に行った。三中の体育館のすぐ横に続いている生徒控室の壁に張り出された。若い番号から張っていくので、なかなか自分の番号までこなかった。次々と張り出されていくにつれて、「うあー、あったぞ」とか「合格やあ」といった声で回りはものすごく騒がしくなった。
 ようやく四百番台後半の紙となり、自分の番号を見つけると、秀作も「通った、合格やあ」と大きな声ではしゃいだ。父も涙声で、「よかった、よう通ったなあ」と感慨深げに言った。
 父は小卒だけであったのでいろいろ苦労していた。自分の子供にはせめて中学だけはと思っていたようである。
母も合格したことをとても喜んだ。
「あんなにいろんな事があったけど、力があったから通ったんや。府立はえこひいきせえへんからな」
 そう言った母の目は涙で一杯だった。
「これからは授業料や本代やいうて、えらい物入りやさかい、うちもしっかり店をやらんと。お前もしっかり勉強しいや」
「うん、まあ見ててんか」
 秀作はちょっと得意げな顔で言った。
 
 次の日学校へ行って、担任に合格した旨を報告した。担任はにこにこ顔で「よかったね。三中に入ったらしっかりやれよ」と言った。秀作もにこにこしていたが、担任のにこにこ顔が何か変に思われた。
 三組からは案の定、井上と藤井が不合格であった。秀作は入試は厳正に行われたと思った。
 夕方、晩ご飯の支度をしている母に代わって店番をしていると、二人連れの女の人が店に入ってきた。一人は秀作もよく知っている吉井の母親だった。
「今晩は」
「ああ、秀ちゃん、お母さんは」
 秀作は母を呼びに行った。
「私らは三組の親です。私は吉井で、こちらさんは酒田さんです。二人とも三中に合格しました。お宅さんも三中に合格しやはったそうで、お目出とうさんでございます。ところで、今度担任の吉田先生が滋賀県の方に転勤しやはることになりました。それで三中や二商、一工に合格しやはったお子さんの親を中心に、先生に餞別を贈ろうということになりました」
「それはそれはご苦労さんなことで、おおきに有り難うございます。うちもいろいろありましたけれど、お蔭さんで無事合格さしてもらいました。先生が転勤しやはるそうですが、喜んで餞別させていただきます」
「それに、今度また先生は結婚しやはったそうですねん。聞くとこによりますと、ご養子さんらしおすけど」
「それは重ね重ねお目出度いことで」
 母と二人の母親はしばらく話をしていた。それから母は奥へ入って言われた金額のお金を持ってきて、吉井の母親に渡した。
「それでは夕方七時にここまで来て下さい。明日、滋賀県の方へ引っ越さはりますので、今日の夕方、餞別をお渡ししてお別れの挨拶をしたいと思っていますので」
「はい、必ず行かしていただきます」
 二人は帰っていった。
 母はもらった紙切れをしばらく眺めていたが、「秀ちゃん、お母ちゃんは行けへんで。お前、代わりに行っといで」と言って、秀作に紙切れを渡した。そこには先生の家の場所が簡単に書いてあった。
「お母ちゃんに来てほしいと言うてはったんやから、僕、店番してるから、お母ちゃん行ってきて」
「絶対行けへんで。何であんな先生のお見送りに行かんならんねや。代わりにお前、行っといで」
 母は頑として行くとは言わなかった。
 仕方なく、その晩七時ちょっと前に地図で示された家に行くと、家の前の道に親や子供がかなり集まっていた。玄関脇の門灯に「八田」と書かれていた。
  何や、小糠三合あったら養子に行くな、と言うてたくせに。
秀作は心の中で少し軽蔑した。
 吉井の母親が「秀ちゃん、お母さんは」と秀作に尋ねた。
「店が忙しゅうて来られへんので、僕が代わりに来ました」
 秀作は嘘を言った。
「お店が忙しいんやったら仕様がないけど。お母さんに来てもらいたかったんやけど」
「すいません」
 秀作は悪い事をした子供のように頭を下げて、人の後ろの方に行った。
 先生が門前に出てきた。
 吉井の母親が前に出て、くどくどと子供の合格のお礼やら先生の結婚のお祝いの言葉を述べた。そして最後に「大したことはでけしまへんのですけど、ほんのお礼のしるしに」と言って、餞別を渡した。
「夕方、お忙しい時間にこうしてお集まり頂き有難うございます。なおその上、餞別まで頂戴して感謝に堪えません」
 先生は少し改まった調子で、それからしばらく挨拶を続けた。先生の後ろにお嫁さんと思われる若い女性が現れて、先生の挨拶に合わせてお辞儀をした。
 秀作はみんなの集まっているところから少しずつ後ずさりしながら離れていった。そして電灯の光の届かない十字路の角まで来ると、先生の挨拶がまだ終わらないうちに姿を消してしまった。

 このような経緯を経て三中に入った。その喜びはほんとに口では言い表せない程のものだった。

  先生のえこひいきや、気に入る、入らんでひどい目にあわされるのはもう終わったんや。ここは実力の世界や。僕は少なくとも同じ  国民学校からきた連中には負けんようにせんと。京都府立京都第三中学校一年一組西木秀作、頑張れ。

 「ガダルカナル島から日本軍転進」と新聞に出た時、母はうさんくさそうな顔をして、「転進なんて書いたあるけど、ほんまは退却と違うんやろか」とぼそっと言った。秀作はドキンとして「大きな声で言うたらあかんで。非国民やと言われるがな。大丈夫、日本は負けへんにゃから。神風も吹くしな」と言うと、母は「そんな風あるかいな」と憮然とした顔で言った。

 新聞もラジオも「撃ちてし止まむ」の標語であふれていた。

第二章 三中一年生 1

          
          第二章 三中一年生

昭和十八年 四月十八日 連合艦隊司令長官 山本五十六戦死
      五月十二日 アッツ島日本守備軍玉砕
      七月二九日 キスカ島日本軍撤退
      九月 八日 イタリア、バドリオ政権、連合軍に無条件降伏
      十月二一日 学徒出陣
     十一月二一日 タラワ・マキン両島日本守備隊玉砕
昭和十九年 一月 九日 米軍、ルソン島上陸
      一月二九日 『中央公論』『改造』編集者検挙
      二月十七日 米軍、トラック島空襲
      二月二五日 決戦非常措置要項を決定(学徒動員の徹底)
      三月 八日 インパール作戦開始
      三月三一日 古賀峰一連合艦隊司令長官殉死(五月五日発表)


          
          1

 三中へは市電に乗って通学した。国防色の制服、戦闘帽に革靴、右肩から斜めに布製のカバンを掛けた。衣料の状態が悪く、制服はスフのペラペラであった。しかし周りを見回しても、みんな同じような服を着ていたので別に何とも思わなかった。帽子は三年生より上は上部の丸い学生帽であったが、帽子の前につける校章は全く同じ横長の桜の校章であった。秀作はこの校章がとても好きだった。
 家の近くにある立命館中学をはじめ、市内の多くの学校の生徒は通学に背嚢(はいのう)を背負い、足にはゲートルを巻いていたが、三中生は肩掛けカバンにゲートルなしであった。これも秀作が心ひそかに自慢していたものであるが、周囲の強まる軍事色の中で、せめてゲートルぐらいは、と思った。
 市電は烏丸車庫から乗って、千本北大路で白梅町行きに乗り換える。生まれて初めて定期券なるものを手にしての通学は、何か大人になったような気がして嬉しかった。
 しかし市電は猛烈に混んだ。中学一年生の小さな身体は勤め人が殺到する市電の乗降口から簡単にはじき飛ばされ、目指す電車に乗れないこともよくあった。何とか乗り込んでも、次々と止まる停留所から乗ってくる乗客に押し込まれ、千本北大路で降りるのに苦労した。
 千本北大路から白梅町までは、京都の古い市電、いわゆるチンチン電車であった。運転席は前にガラス窓はあったが、左右は吹きさらしで雨の時などは大変だった。運転士は頭からすっぽりと黒い雨合羽で重武装していた。停車する時は運転士は大きなハンドルをぐるぐる回さなくてはならなかった。千本北大路から白梅町まではちょっとした勾配の下り坂である。千本北大路で前後の乗降口の手すりに乗客がぶら下がる程満員になった時は、途中の金閣寺前、わら天神、平野神社前などの停留所を通過して、一気に白梅町まで電車は駆け下りた。平野神社を過ぎたあたりから運転士はブレーキをかけ始めるのであるが、下り坂でかなりのスピードがついており、おまけに満員ときているから、白梅町の停留所にきっちり電車を止めるためには、運転士は必死になってブレーキを巻かなければならない。時には停留所を少し通り越すこともあった。烏丸通や千本通などを走っている市電は空気ブレーキを備えていたのに、この千本北大路・白梅町間の電車にはそれがついていなかった。
 白梅町に着くと車掌は二本のポールの先端あたりから下がっているロープを使って、ポールの最先端の小さい集電車を架線から外し、ロープを手繰って、それにぶら下がるようにして大きな弧を描きながら、ピョンピョンと跳びはね、ポールを千本北大路側から白梅町側に回した。そして二本の架線に先端の車をはめるわけだが、その時うまくはまらないとその接触点で青白い光が閃き、時には薄い煙が上がることもあった。また、小さな火の玉のようなものがハラハラと車掌の頭上に落ちた。秀作はこの作業を毎日飽かず眺め、車掌が落ちてくる火の粉で火傷をしないのが不思議でならなかった。そして一度でいいからこの作業をやらせてもらいたいと思った。(この作業は千本北大路でも行われていたのは勿論の事である。)
 工事中だった白梅町・円町間のレール敷設が終わって、赤茶けたボギー車や最新鋭の青電が烏丸車庫から西大路へ乗り入れるようになり、この古い電車が見られなくなったのは、昭和十九年の事であったろうか。あのポールを回す風景は千本北大路でも白梅町でも、もう見られなくなった。

第二章 三中一年生 2

          
          2

 白梅町側からは、裏門を通って校内へ入った。正門は学校の南側、花園馬代町(はなぞのばだいちょう)に面していたので、秀作たち北の方から来る生徒は裏門を利用した。裏門は大将軍(だいしょうぐん)の方に向かって開いていたからである。
 正門を入ると正面に大きな木造二階建ての本館があった。一階は職員室や事務室になっており、二階は講堂であった。その本館の前方、右寄りの木立の中に御真影をまつるコンクリート造りの小さな建物があった。正門から入る生徒は毎朝この前で敬礼するのであるが、裏門から入る生徒は裏門を入った所で、この御真影のある方向に向かって敬礼した。
 裏門を入ったすぐ右側には教員官舎、広いグランドの南には鉄筋三階建の校舎があったが、東西に横たわる校舎の中程より少し東に寄った所で、鉄筋が突き出たままになっていた。そこから南北に校舎が建設される筈であったのが、戦争の影響で中止になっているとのことであった。グランドの西側には、南から武道場・兵器庫が並んでおり、さらにその西には塀を隔てて京都高等蚕糸(さんし)学校の校舎があった。グランドの北側には興亜館と称する二階建の木造校舎があった。一階は図画・工作の教員室及び教室、教練の教官室等があり、二階には大東亜戦争の戦果とか、日本の陸海空軍の勢力図、赫々たる戦果をあげつつある戦争の様子などがいろいろな形で展示されていた。
 鉄筋校舎の南に体育館と生徒控室、その西に二五メートルプールがあった。プールのスタンドの下はクラブ室になっており、ア式蹴球部とかラ式蹴球部といった訳の分からないクラブ名が書いてあった。
 控室と鉄筋校舎は渡り廊下でつながっており、その廊下沿いの西側に大きな水槽があった。控室を南側に出るとまた渡り廊下があり、その先に汚い、今にも倒れそうな木造校舎があった。秀作の属する一年一組はその木造校舎の一番西、廊下の突き当たりにあった。廊下分を含んでいるので、一組は他の教室よりも広かったが、何しろ古い建物であったので、廊下も教室も歩くとギィーギィーきしんだ。この木造校舎と本館とは、やはり渡り廊下でつながっていたが、廊下の西側には物理・化学・博物などのこれも古い木造の教室、更にその南の木立の中に図書室があった。
 三中の東側には細い道路を隔てて府立医大予科、グランドの西は高等蚕糸、更にその西に野球が強い京商があり、三中の西北、衣笠山の麓にある等持院の北に、立命館大学の理工学部があった。三中の正門から妙心寺道までの約五十メートルの道の両側には銀杏の並木となっており、そこから西へ行くと花園駅や嵯峨野高女、東へ行くと京都二商があり、このあたり一帯は小規模ながら文教地域になっていた。
 また妙心寺・等持院・御室の仁和寺・金閣寺・北野天神・平野神社などの神社仏閣が西から東にかけて囲むように三中を取り巻いていた。衣笠山・御室・宇多野・双ケ丘(ならびがおか)と続く一帯はいわゆるお屋敷も多く、秀作のような貧乏人には縁のないところであったが、学校の帰りなどに回り道をしてその辺を歩いたりした。左大文字の山に登って、八月の送り火を燃やす火床を見に行ったこともあった。
 何しろ珍しいものばかりで、今まで知らなかった世界に入り込み、好奇心に駆られてあちこちうろうろした。
 北野天神と平野神社の間を流れる天神川に沿って、仲の良くなった西田と一緒に帰ったことがあった。そこはどう言ってよいのか分からない程落ち着いた感じのする川沿いの道で、こんな所に住めたらいいのにと思った。
 その時、西田は少し顔を赤らめ「ヘッ、ヘッ」と卑屈な笑みを浮かべて言った。
「北野の天神さんの向こうに五番丁ちゅう所があんにゃけど、どんなとこか知っとるか」
「五番丁?何やねん、そこ」
「遊郭やねん」
「えーっ、遊郭?」
 秀作は「遊廓」がこんな身近にあるとは思ってもいなかった。誰かの小説でそんな所があるというのは知っていたが、全く別の世界のことぐらいにしか考えていなかった。そのうちに学校の帰りに二人で探検に行こうということになった。 
 それにしても西田は物知りであった。

 学校のことは一組の堀田が何でも知っていた。堀田と秀作の席は離れていたので、初めのうちはほとんどつきあいらしいものは何もなかった。ただ堀田の席の辺りで「タヌキ、タヌキ」と言う声が時折聞こえてきたので、前の席の宮田に聞くと、「ああ、タヌキか、あいつや、堀田の事や、あいつの顔をよう見てみ、タヌキそっくりやから」と小声で言った。そして付け加えた。
「あいつは落第して、もういっぺん一年をやっとんのや」
「落第?」
「そやねん。学校の成績が悪かったら、次の年もういっぺん同じ学年をやりなおさなあかん。それが落第や」
  これはえらいこっちゃ。試験の点が悪かったら落第か。
「それにな、この学年には落第生が多うて、各組に一人ぐらいいるそうやで」
「お前、何でそんなこと知ってんねや」
「タヌキに聞いたんや」
 
 それから数日して、秀作は堀田にむかって「タヌキ、聞きたい事があるんやけど」と恐る恐る問いかけてみた。
 タヌキは「何や、学校の事やったら何でも聞いてみ」とにこにこして言った。
 秀作は内心ほっとした。見も知らぬ人間からあだ名で呼びかけられたのだから、腹を立てられても仕方ないと思っていたからである。
「試験の事やけど」
「ああ、試験か。一学期と二学期は中間と期末の二回、三学期は一回、その他、小テストをする先生もある。全部の試験の結果、三学期末で四十点を切ったら赤点。それが三つ以上あったら落第や。この学年は英語のムラや数学のハゲゴシ、国語のスケベがきついさかい気いつけや」
「ムラて誰や」
「英語の村山や。ハゲゴシというのはな、数学の水越、頭禿げてるやろ、せやからハゲゴシ。スケベは国語の太田。女の話になったら目え細めて長々としゃべりよるで」
 タヌキがそう言うと、回りに集まって話を聞いていた連中も一緒になって大笑いになった。秀作は仰天し、笑うどころではなかった。先生にあだ名をつけたり、姓を呼び捨てにしたりするのを聞くのは初めての事であった。しかし回りが大声で笑っているのに合わせて自分も一緒に笑ったが、どこか頼りなげな笑いであった。
 家に帰って「ムラ、ハゲゴシ、スケベ」と呟いているうちに、何か一人前の中学生になったような気がしだした。夕食の時、その話をすると、父はニヤニヤ笑っていたが、母は真面目な顔で「先生にあだ名をつけたり、呼び捨てにしたり、ほんまに生意気な」と御機嫌が悪かった。

第二章 三中一年生 3


          3

 学校の授業も国民学校とはまるで違っていた。教科ごとに先生が替わるのも、音楽や理科などの授業はそれぞれ特別教室で行われるのも珍しかった。

 音楽の授業は正門正面の本館二階の講堂で行われた。にこりともしない謹厳そのものの先生がピアノを弾きながら、素晴らしい声で歌うのを聞いたときはびっくりした。低音から高音まで、しかも美しく声を震わせる、その声に聞き惚れた。
  自分はどんなに努力してもあんな声は出ない。どうしたらあんな声になるんやろか。
最初の音楽の授業は、あの始業式の日に秀作を感激させた校歌であった。前の移動黒板に歌詞が書いてあった。

 一、朝(あした)に仰ぐ秀嶺愛宕
   夕(ゆうべ)に掬(むす)ぶ清流桂
   山河自然の霊気を享(う)けて
   集ふ双陵(そうりょう)健児一千
   おお三中
   その名ぞ 吾等が誇り

 校歌は全部で四番まであるが、取りあえず今日は一番だけ練習する。歌詞をノートに写し終わると早速練習が始まった。歌詞一行ずつ先生が先に歌い、生徒が同じ所を歌うといったやり方で練習が始まった。歌いやすい曲ですぐ覚えてしまった。終わりの「おお三中」以降は秀作としても十分思いを入れて歌った。その日は家に帰ってもずっと校歌を歌い続け、そのため夜、布団に入ってからも頭の中ではその曲がいつまでも響いていた。
 次の音楽の時間に、先生は音楽の教科書を開かせて、五線譜に書かれた各記号の説明、音符の種類と五線譜上での音程など一通りの説明を終わるとすぐドレミで歌わせた。
 ソーラソミレドドーラ ソーミミドレーとかソーミソドー ラードドソー・・・
 美しいメロディをドレミで歌う、もう秀作は夢中になってしまった。家に帰っても大きな声で歌うので、母も弟達も変な顔をして秀作を見た。その顔を見るとかえって得意になり一段と声を張り上げたので、「うるさい、ええかげんにしいや」と母に叱られてしまった。
 そのうちに楽譜をドレミで読めるということは、明笛やハーモニカを吹くのに大いに役立つということが分かってきた。

 初めて習う英語には神経を使った。敵性語として女学校ではもう習っていないのに、と思いながら発音の練習をしたり、短い文を暗記したりしたが、なかなか思うようには出来なかった。担当のムラは背の高い色白の紳士で、いつもきちっとネクタイを締め、よく似合う背広を身につけていた。先生はいつも丁寧に発音や読み方などを教えてくれてはいたのであるが、習う方としては心の底のどこかに、英語はそのうちいらんようになるのではないかという気持ちがあったせいか、予習にもあまり気乗りがしなかった。

 代数には驚いた。国民学校の頃に苦労した鶴亀算などが、未知数をX、Y、Zなどの記号に置き換えることによっていとも簡単に解けるのだ。なぜこんな便利なものを国民学校では教えなかったのかと憾みに思った。そんなわけで代数は好きになり予習も自分でどんどんやっていったのだが、幾何には参った。なんでこんなもんがあるんやろか、と何度も思った。

 その他、国民学校にはなかった新しい教科、例えば教練や武道などがあったが、これは先生の命ずるままに体を動かせておればよいので大して苦にならなかった。

 担任の田村先生は東洋史の先生であったが、授業中に度々進学の話をした。高等学校・高等専門学校・大学など、一度では済まないので何度かに分けて日本の高等教育の現状を生徒に話した。
「現在、日本で入るのが難しいと言われているのは、陸士、海兵、一高、三高、東京高師、広島高師などである」
 そしてそうした学校に入るのがいかに難しいか、どうしたら入れるようになるのかを時間をかけて説明した。先生自身は東京高師出身であったので自分の受験した時の話もした。 陸経・海経・東京商大予科・大阪商大予科・神戸商大予科・北海道大予科の話になった時に「三中の隣には京都府立医大予科があるよ」と言って、「予科」とは何かの説明もした。その他多くの高等商業・高等工業・高等農林などの紹介もあった。秀作はこうした話を聞きながら、自分は将来どの学校に進んだらよいのかをあれこれと思い描いた。
「君たち各自の将来の事だが、まだまだ先の事だから、今は何か一つに決めてしまわないで幾つかの目標を立てておく方がよい。中学の四年・五年になる頃までに、その中のどれかに決めればよいのだから。家の経済もよく考えに入れるんだぞ。中学をでてすぐ職についても構わない。中学を出てさらに三年間勉強したければ高商や高工、さらに大学で勉強したければ高等学校。高商などに行って卒業時に大学へ行きたくなれば、その時また大学は受験できるが、大学へ行くんだったら高等学校へ行く方がよい」
 高等学校や高等専門学校で何を勉強するのか、大学ではどうなのか、また卒業した後どうなるのかなど、話は多岐にわたっていた。 中学一年のまだ子供子供した生徒、入学したばかりで今はただ三中に通学できる喜びに浸っていて、将来の事にまでなかなか考えの及ばない生徒にこうした話をするのは、まだ遠い先と思っている進学を決める時が、生徒が考えている以上に足早にやってくるという事を先生は先刻ご承知であったし、また戦争が激しくなっていく中で、いつ何時、先生自身が戦地へ赴く事になるかも知れない、そうすると自分が直接指導して受験させる事が出来なくなるかも知れない、だからまだ少し早いかも知れないが、こうした話をきちんとしておこうという気持ちが強く働いたのかも知れない。

 授業は坦々と進んだ。月曜から土曜まで毎日六時間。土曜日も六時間目まであり、やっぱり中学は違うなあ、と思った。
 やがて一学期の中間考査となった。一週間前に試験の時間割が発表になる。一日に二?三科目、月曜日から始まり金曜日までの五日間、そして土曜日は試験休みであった。先生は採点のため、生徒は試験勉強御苦労さん、まあ一日ゆっくりせい、そのかわり後が怖いぞ、というのがタヌキの説明であった。
 一週間前に時間割が発表になっているのに、秀作はその意味がよく分からずのんびりとその一週間を過ごしてしまった。勉強らしい勉強をしたのは試験の前日になってからであった。夜、明くる日の試験科目の教科書とノートを机の上に出して試験範囲を改めて確認した時愕然とした。僅か数時間でこなせるものではない、しかも二科目もある。もう頭に血が上り、自分が今何をしようとしているのかも分からないほどであった。第一日目の試験が終わると一目散に家に帰った。散々な目に遭ったのである。次の日の試験に備えて食事の時間も惜しんで必死になって試験勉強をした。しかし所詮付け焼き刃に過ぎなかった。かくして初めての中学での試験は完全に失敗に終わった。

 次の週、その「怖い」日がやってきた。毎時間、次々と返される答案。秀作は返された答案を見る気がしなかった。しかし先生は自分の答案をしっかり見て、どこが間違ったのか、どうすればよかったのかを点検せよと言って、答え合わせをする。耐え難い時間が続いた。
  こんな悪い点を取って。えらいこっちゃ。お母ちゃんには見せられへんわ。
 その次の日、また次の日と答案返しは三日ほど続いた。秀作は完全に参ってしまった。十日ほどすると、全科目の点数と学年及び組の中での席次をつけた紙を担任から渡された。
「ちゃんと親に見せて、はんこをついてもらって、切取線から切り取って明日持ってこい」
 田村先生は厳しい声で言った。
 学年・組とも前から三分の二位の席次であった。こんな悪い点をもらうのも初めてなら、点の悪い秀作よりもまだ点の低い者が三分の一ほどもいる、ということも不思議だった。
 僕はあんまり勉強せえへんかったけど、それ以上に勉強せえへんもんが結構ようけおる。
 秀作はほっと安心すると同時に、こんなことしてたら三高や陸経どころかどこにも行かれへんなと思った。
 両親にその成績表を見せるのはまさに地獄に落ちる思いだった。
「初めての試験やから準備が十分には出来なかったんや。次からは何とかするから」
「長いこと待たへんで」と父は言い、母には「こんなんが続いたらどっか丁稚にでも出す」と脅された。そしてやっとの思いではんこをついてもらった。
 それから暫くの間、秀作はどこが悪かったのか、どうしたら良いのか考え続けた。毎日帰りにあちこち道草を食っていたのが悪かったのか、予習はまあまあするけど復習が足りなかったのか、悪い点を取った答案と問題とを子細に検討したりしながら、いろいろ考えあぐねた末、次のような結論を出した。
 学校で習うことだけでなく、参考書か問題集を手に入れて日頃の勉強の幅を広げる。
 直前の試験勉強を考査時間割に合わせて一週間前から計画的にやる。

第二章 三中一年生 4・5・6

 
         4

 大東亜戦争も始めの頃のようには行かなくなり、国内のあらゆる物資が不足しだしていた。秀作の望む本はそう簡単には手に入らなくなっていた。『蛍雪時代』を買うにも、予め書店で発売日を聞いておいて、その当日早起きして並ばないと手に入らない程であった。入学して間もない頃、英語や漢文の先生が黒板に学習に必要な辞典の名を幾つか書いて、そのどれかを手に入れるようにと言われたが、そのどれも本屋には売っていなかった。
 学校で塩谷温著『新字鑑』という漢和辞典が希望者に抽選で買えることになり、秀作は幸運にもその抽選に当たった。この辞書は新刊で、漢文の先生の紹介した辞書リストには入っていなかったので、少し不安だったが、折角抽選に当たったので購入することにした。暫くすると、三中指定の書店でその辞書を買うようにとの連絡が入った。帰りに書店に立ち寄りその分厚さと重さに驚いた。カバンには入らないので抱えるようにして家へ持って帰った。部屋に上がってつくづくと眺めてみた。
  辞書というのはこういうもんか。家には一冊もないなあ。
 母も二階へ上がってきてその分厚さに驚き、「中学でこんな辞書がほんまにいるんかいな」と目を丸くした。弟達も両手で持っては「重いなあ」と言い、頁を繰っては「何とようけ字がある」と驚いたりした。
 辞書にはただ単に漢字や熟語の意味だけでなく、学校で習っているような漢文の短文の読み方や解釈も載っており、これは便利だなと思った。そして勉強するには辞書が絶対必要であると確信した。しかし家には辞書らしきものは一冊もなかった。書店にも当然の事ながら何もなかった。そんな話を夕食の時にすると、父は、「河原町丸太町近辺や寺町丸太町から南に下がった寺町通に古本屋がたくさんあるから一度見にいっては」と言った。

 河原町丸太町から西へ入った丸太町通の両側、及び寺町通にはかなりの古本屋があった。その一軒一軒に入ってどんな本が置いてあるのか見て回った。秀作の印象では京都大学や三高の学生が読むような、学問に関する本が圧倒的に多いように思われた。自分が欲しいような本はあるにはあるが数は少ないなと思った。店先に積んで安売りしているものの中に、中学生向きの問題集などが混じっていることもあった。その日はただ見て回るだけで何も買わなかった。
 
 あまり芳しくない中間考査の成績をもらって帰った後の日曜日に、秀作は再びその古本屋街を訪れた。数件の店を回って、代数・幾何の参考書と問題集、『辞林』という国語辞書、さらに『コンサイス英和辞典』を買った。どれも古本で辞書などは手垢で薄汚れていた。勇んで家に帰り、まっさらの『新字鑑』、古本の『辞林』『コンサイス英和辞典』を自分の机の上に並べて秀作はいささか興奮していた。特に『新字鑑』はどの頁を開いても面白く飽きずに読み耽った。「淫」という字などはその熟語も含めて尽きせぬ興味があった。粗末な装丁で紙質も悪かったので、宝物を扱うように丁寧に扱った。その点 『辞林』や『コンサイス』は古本ではあったが革表紙で、装丁もしっかりしており扱いは気楽であった。

 山本五十六連合艦隊司令長官戦死の報は、西木一家にも大きな衝撃を与えた。厳かに行われた国葬の儀は、大東亜戦争の今後に何かしら一抹の不安を残した。何しろ日本の海軍を一身に背負っているのが山本長官であるとみんなが思っており、その長官が戦死すると言うことは、絶大の信頼を置いている海軍の力が弱くなるということ、海軍が弱くなれば太平洋各地の陸軍の力にも大きな影響を与えるに違いないと思ったからである。そしてそれを裏書きするようにアッツ島日本守備隊が玉砕した。
 『アッツ島日本守備隊玉砕』と大きな活字で印刷された新聞を見ながら、秀作は「いよいよ近づいてきたな」と思った。母は父に「玉砕というけど、全滅ということやな」と言った。すると父は「そうやな、あんな小島に、僅かな兵で守らせて。可哀想に」と力なく呟くように言った。父は一昨年中支から、負傷して帰還するまで三年間戦っていた。そして兵力と武器の優劣が勝敗を決めることを身を持って経験していたのである。
 母は不安げに「大きな声で言われへんけど、日本は負けるんと違うやろか」と呟いた。
 父は目をむいて「うっかりしたこと言うたらあかんで。非国民やと言われるで」と警告した。
 学校も何かが底に動いているようだったが、授業は毎日坦々と続けられた。

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 六月、梅雨に入った頃、同じ組の宮田が秀作に言った。
「お前、泳げるんか」
「あかんねん」
「金槌か。泳がれへんと、何かの時、死んでまうで」
「せやけど泳ぎ方知らんねん。潜りは出来るけどな」
「ほな、わし教えたるさかい、放課後プールのとこへ来いや」
 秀作は水泳はからきし駄目であった。国民学校の五・六年の時に弟達を連れて、加茂川を渡り植物園の横にあるプールへ二・三度行った事はあったが、それは泳ぐというよりは水に浸かるだけの事で、泳ぎのうまい友達がすいすい泳ぐのを羨ましそうに眺めているだけであった。
 その友人が水中に潜って、女の子のお腹や足に触ってすっと潜ったまま逃げる。触られた女の子が水から顔を出して「イャー、スケベー、誰や」と叫ぶ頃は、もう遥か向こうを知らん顔でクロールで泳いでいる。秀作はそれを見て自分もやってみたいと思った。それで泳ぎもろくに出来ないのに、足の立つ所を探して同じ事をやってみたが、すぐに息が上がって水面に顔を出してしまった。「悪い子や」とその女の子に金切り声をあげられ、頭から水を浴びせられたりして、それはもう散々な目に遭った。ちょうどすぐ下の弟がそれを見ていた。
「お母ちゃんに言うたんねん」
「あかんで、言うたら。今度から連れてけぇへんで」
 こんな事があって秀作は何とか上手に泳げるようになりたいと思っていたので、宮田の話に乗ることにした。
 宮田は水泳部員であった。それで水泳部の練習を見せてくれたのである。部員の練習を見ながら、「泳ぐというのはそんなに難しいことやない。まあ、すぐにはあんなに上手にはなれへんけど、今から始めたら、この夏の終わり頃までには二五メートルプールの端から端まで、何とか泳げるようになるさかい」と言った。この言葉を信用して秀作は水泳用の褌(ふんどし)を用意して、放課後、週に二・三回泳ぐ練習をすると約束した。
 水泳部の練習の邪魔にならないよう、プールの隅で「浮き身」から始めた。宮田は自分の練習の合間を縫っていろいろ教えてくれた。
 「浮き身」は一見易しそうで、簡単に体が浮くものだと思っていたが、これが結構難しかった。体を浮かせようと仰向けになったとたん体が沈んで鼻や口から水を吸い込んでしまった。それを見て宮田は胸一杯に空気を吸い込み顔を水に漬けて俯せに体を浮かすようにと言ったが、これも全く同様に浮かんだと思ったらすぐ足の方から沈んでしまう。模範として宮田が見せてくれるようにはいかない。何回も繰り返しているうちにほんの暫くの間どうにか体が浮くようになった。こうなればしめたもので、顔を水に漬けたまま数メートル進めるようになった。
 夏休みになっても週に二・三回は学校のプールで練習をした。夏休みの終わり頃、宮田が言っていたように二五メートルプールの片道どころか往復も出来るようになった。勿論スピードは遅かったけれど。宮田と同時に泳ぎだしても、秀作が二十メートルもいかないうちに宮田は五十メートルを泳いでしまっていた。でもこれでいいんだと秀作は思った。宮田も、今は平泳ぎや横泳ぎしかできないけれど、そのうちにクロールも練習すればスピードもついてくるからと励ましてくれた。
 練習を始めた頃は体が疲れて困ったが、夏休みの終わりには少々泳いでも何ともなくなっていた。五十メートルを泳いで、さらにもう五十メートル泳いでも大したことはないとさえ思った。
 九月初めの組対抗の水泳大会には秀作は泳がなかった。まだ泳ぎに十分な自信がなく、泳いでいる途中で沈んでしまったりしたら、えらい恥をかいてみんなに迷惑をかけると思ったからである。この大会では宮田は平泳ぎ、クロール、背泳、リレーと全種目に出場し、一組の好成績に大いに貢献した。宮田が出ると組の者は全員拍手し声援を送った。
 秀作はもっと練習を積んで来年は出場させてもらおうと心ひそかに誓った。

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 あれは何の時間だったろうか、秀作はノートを取っており、また席も離れていたので、その現場を見ていなかったのであるが、先生がある生徒の横に立って大きな声で「馬鹿もん。こんなものを持ってきて」と怒鳴った。びっくりしてその方を見ると、先生はなにやら白っぽい本を取り上げて振りかざしていた。教室は水を打ったように静まり返った。
「これが何か分かっとるか。こんなもんを学校へ持ってくるなんて。これはもらっとく」
 怒られた生徒は真っ赤になってうつむいたきりだった。
 先生は教壇に戻るとみんなに言った。
「これ、何というのか知っとるか」
 誰かが「サンモンです」と答えた。
「よう知っとるな。お前も持っとるのと違うか」
 先ほど答えた生徒はどぎまぎして言った。
「いいえ、持ってません」
「サンモン」というのは秀作が初めて耳にする言葉で、何の事やらさっぱり分からなかった。
「何でサンモンというのか知っとるもんは」
 誰も答えなかった。
「サンモンの値打ちもないからサンモンというのじゃ」
 「サンモン」は「三文」か、と秀作は思った。
「サンモンは君等の勉強の助けにはならん。勉強というのはな、自分で辞書を引いたり、参考書を調べたりして自力でやるもんや。こんなもんをちょっと見て手間を省いたり、学校にまで持ち込んで授業中に見るなんて、なっとらん。三中生のすることやない。これからも見つけ次第取り上げて、わしがもらっとく。いいな」
 「三文」とはどんな本なのか秀作は知らなかった。その時間の後、宮井やその他の近くの席の者に聞いてみたが、みんなにやにやするだけで要領を得なかった。
 次の日曜日、秀作は丸太町の古本屋へ出かけた。そうするとあるわ、あるわ、各教科の三文がどの本屋にも店先に山と積んであった。今習っている『キングズ クラウン リーダー』の三文を見てみると、発音がカタカナで振ってあり、単語の意味、英文の日本語訳などもついていて、非常に便利な本であることが分かった。漢文、代数、幾何、何でもあった。三文と同じように店先にはいろいろな種類の古い教科書も積んであった。中学校の教科書は出版社によって名称も中身も違うこともその時知った。英語の『コンパニオン リーダー』はクラウンより難しいのではないかと思ったりした。
 幾何の三文は「ほしいな」と思ったが、買わなかった。代わりに漢文の三文を買った。先生の怒鳴り声が頭の中でがんがん響いた。
 家に帰るとすぐ二階へ上がって、語句の解釈が三文と新字鑑とではどう異なっているかを調べた。この作業は結構面白かった。辞書の解釈・説明とほぼ同じものを三文がつけている場合も数多くあったが、全体としてみると、三文の方がより親切であった。返り点などは、辞書では語句・説明の単文にしかついていないのであるが、三文は全文につけていたからである。また三文には語句の解釈だけでなく、全文の解釈もついていた。
  先生は三文の値打ちもないと言うてはったけど、五文ぐらいの価値はあるんやないか。しかし先生の言うとおり、三文に書い  てある程度のことなら辞書を引いたりして、そのうちに自力で出来るようになるやろ。
 折角買った漢文の三文はそれ以後、あまり見ることはなかった。

 一学期末考査の時間割が発表になった。秀作は考査時間割をノートに写しながら、今度はこの前のような失敗をせんようにきちんと計画を立てて勉強しようと決心した。家に帰ると、その日から試験終了日までの計画表を作った。
 試験開始の前々日までに一通り習ったことを見直す。当該科目の試験のある前日に最低一回、出来れば二回見直す。数学などは類似問題を参考書や問題集で出来るだけ多くの問題に当たる。
 前回の汚名挽回のために秀作としては今までにないほどの努力をした。
 しかし、いざ試験になってみると予想もしなかった問題が出たりして、思うようには点が取れない科目もあったが、全体としては、前回よりは大分ましではなかったかと思った。両親には今回は前よりはましだとだけ言っておいた。

第二章 三中一年生 7・8・9

          
          7

 試験が終わると一日休みがあり、その次の日は夜行軍の日であった。
 一・二年生は奈良街道が宇治川にかかる観月橋に夕方六時集合、午後、学校に集まって観月橋まで行進してくる上級生を待つ、解散は明朝六時頃奈良大仏前という予定だった。
秀作は徹夜なんて一度もやったことがない。自分には徹夜はできないのではないかと思っていた。時々何かのことで十二時頃まで起きていたり、一時過ぎまで本を読むことはあっても、それ以上に起きていたことはないし、またそんなことはできないと思っていた。だから試験の前に担任から夜行軍の話を聞いたときは、一晩中眠らないで歩き続けるということがどんなことなのかよく分からなかった。
 教練のトンコー教官からも夜行軍の心構えや用意すべきものなどの話があった。
 家でその話をすると、父は「ええ訓練や。小さい時からしっかり鍛えてもらえ」と言った。
 秀作は「えらいこっちゃ、一晩中歩くなんて。僕にはでけへんかわからん」と言うと、父に「何を言うとるんや。前線の兵隊のことを考えてみい。鉄砲の弾は夜やさかいいうて飛んでけえへんちゅうことはないんやから。今でもどんどん兵隊は弾にうたれて死んでいっとるんやぞ」と叱られた。
 母は「夜中に弁当食べるんやったら、作らないかんな。あんまりええもんはないけど、ちょっと奮発しとこうかな」と言った。
 弟たちも晩に歩き続けるというので驚いていた。
「へえー、僕やったら、途中で道で寝てしまうかもわからへんな」
 すぐ下の弟がちょっとおどけて言ったので、家じゅう大笑いになった。
 
 午後三時過ぎ、制服、戦闘帽、革靴、足にはゲートルを巻き、夜食は白い布に包んで右から背中にたすき掛け、水筒は左からたすき掛け、そして水筒がぶらぶら揺れないように少し幅の広い帯革を服の上からしめる、という勇ましい格好で秀作は家を出た。
 観月橋というのは今まで行ったこともないところである。どうして行くのか、よく分からなかったので父に聞くと「三条から京阪に乗って、中書島で宇治行きに乗り換えて次の駅」ということだった。
 観月橋に着くともう大勢の生徒が橋の上やたもとに群がっていた。かなり大きな橋で、昔この橋の上から月を眺めたのかなと思った。
 奈良街道は京都から伏見稲荷の前、桃山御陵の西を通ってこの観月橋を渡り、南下して奈良に至る大道で、京都からは約十里、観月橋からは七里半もある。
 上級生は学校を出発して五時半頃この橋に到着する。秀作たちは六時に集合、点呼を行い、六時半頃に上級生と一緒に出発する。
 やがて自転車隊が先に到着した。それを見て秀作たちは、自転車なら楽でええな、と羨ましかった。
 暫くして、遠くでラッパの音が聞こえてきた。
「上級生が着くぞ。道をあけろ」
 教練の教官が怒鳴った。
 下級生は橋の両側に寄って道をあけた。やがてラッパ隊を先頭に堂々の隊伍を組んで上級生が到着した。
  何とラッパ隊に大西がいるではないか。
 背の高い大西はラッパ隊の先頭を意気揚々とラッパを吹きながら歩いていた。
  ラッパ隊は一年生でも学校から歩かされたんやな。しんどかったやろな。
やがて「集合」と号令がかかり、秀作たち一年生は組順に縦隊列を作って整列した。
 田村先生が級長に点呼をとらせた。全員参加、欠席者なしであった。
 みんな張りきっていた。いや緊張していた。恐らくどの生徒も初めての徹夜の行軍であっただろう。いつもより大きくはしゃいでいた。点呼をとった後も、大きな声で名前を呼び合ったり、冗談を言ったりしていた。
 上級生の約五十分の大休止の後、いよいよ奈良への行軍が始まった。五十分歩いて十分の小休止、十一時半から夜中の十二時半までは大休止、それから後も五十分の行進、十分の小休止を繰り返し、朝六時頃に大仏前に到着する予定であった。
 ラッパ隊員は自分の学年に戻り、各学年は数名のラッパ隊を先頭に、組ごとに四列縦隊となって出発していった。いよいよ一年生の番になった。大西たち数名の一年のラッパ隊は一年一組の先頭にたった。「進め」の号令と共に、りょうりょうとラッパが鳴り渡り、みんな一斉に行進を始めた。歩調も揃って力強い行進であった。六組までの一年生全員が行進を始めて間もなくラッパは止んだ。
 みんな楽しそうに笑いさざめきながら元気よく歩いた。しかし元気がよかったのは最初の小休止をはさむ二時間程であった。十時頃になると口数もだんだん少なくなり、歩くスピードも落ちてきた。教練のトンコー教官が走ってきて激励した。
「さあ、元気を出せ。こんなことでは奈良に着くのは明日の昼頃になるぞ」
「は、は、はぁ」と笑い返す声も力がなかった。
 夜中の大休止になると、大急ぎで夜食を食べ、道ばたで眠った。五十分の大休止はあっという間に過ぎた。「集合、点呼」の声がかかったにもかかわらず、起きてこない者もかなりいた。秀作も友人にたたき起こされて、眠い目を無理にあけて整列した。
 「進め」の号令と共に動き出したのは、のろのろした敗残兵の集団だった。田村先生も教練の教官も、入れかわり立ちかわり激励してくれたが、眠いのには勝てそうもなかった。長い時間がたってやっと小休止。ほとんど全員が道ばたに倒れ込んで僅かな眠りをむさぼった。「起きろ、起きろ」の声と共に起きて歩くのだが、まともに前に進めなくなってきた。よろよろと地面に膝をついたり、列外へでてしまう者も出てきた。道の横は溝になっていたり、田んぼになっていたりした。ふらふらと列外に出ていけば危ない。
 西田が提案した。
「四人腕を組んで、一人おきに眠りながら歩こう。十五分で交代や」
 眠りながら歩いている者を支えながら歩くというのは、なかなか大変である。足に力がなくなり、膝をつこうとするのをぐっと引き上げて、「こら、ちゃんと歩け」と言いながら、自分の目も閉じてくる。そのうちにどちらが支えているのか分からなくなってくる。お互いに「起きろ」とか「目を開けろ」とか「こっちが歩かれへんがな」とか言い合いながらふらふらと進んだ。
 木津川を渡り、奈良坂を越える頃にはようやく夜も明け始めた。大した坂ではなかったが、疲れ切り、睡魔におそわれている者にはしんどい坂であった。
 秀作はうつらうつらしながら、両側の友人の腕に支えられてやっと歩いていた。
 突然「大仏や、大きな寺や」と叫ぶ声ではっと目が覚めた。そこはもう奈良坂を越えたあたりで、前方に朝日に照らされた大きな大仏殿が、回りの低い家並みから抜け出て、かすかな朝靄の中に浮かんでいた。
  きれいやな。
 しょぼつく目を凝らしてじっと大仏殿を見た。
  ああ、奈良や、やっと奈良に着いたんや。
 田村先生がにこにこして言った。
「さあ、もう少しだ。頑張って歩こう」
 みんな急に元気が出てきた。もう少しと思うだけで足取りも軽くなった。
 大仏の仁王門前で組ごとの流れ解散となった。秀作たち一年生がそこへ着く頃には、上級生はもうすでに解散して、三々五々駅に向かっていた。
 点呼の後、秀作は組の者数人と一緒に奈良電(現・近鉄京都線)の奈良駅へ向かった。聞くところによると、自転車隊は国鉄の奈良駅から自転車を列車に乗せて京都へ帰るとのことであった。
 秀作たちは電車が京都に着くまで眠りこけた。京都について、あたりがざわめきだしてやっと目が覚めた。秀作が家に帰り着いたのはもう九時を過ぎていたろうか。家では母が二階に布団を敷いてすぐ寝られるよう準備してあった。

         8
 
 秀作の一組の友人の中に「宝塚歌劇」に夢中になっている者がいた。斉藤である。学校へも「歌劇」という雑誌を持ってきて、その素晴らしい歌や演技について話をした。雑誌に出ているスターの写真は、初めて見たときは何か変な感じがしたのであるが、そのうちに何か夢の国の女が男装をして舞台に現れているように思われ出した。斉藤もさかんに誰々は男装よりも素顔の方が本当はきれいなんやとか、この舞台の何々の役の彼女の美しさは、一度見たら忘れられへんとか言って秀作をそそのかした。
 秀作も早速古本屋へ出かけて、何号か前の雑誌を買ったり、立ち読みをしたりした。
もう一人、山中も仲間に加わった。しかしどうも「宝塚」をみんなの前でおおっぴらに話すのには気が引けた。斉藤は小柄でやせていたが、こと「宝塚」の事となると秀作や山中は押しまくられた。斉藤の母親と姉とが、いわば宝塚狂いで、斉藤もそれに伝染したのであろう。宝塚には全く縁もゆかりもなかった秀作と山中にもそれが伝染しかかった。
「戦争がこんな風やから、そのうち宝塚は見られんようになるかもしれへんので、今のうちに一回是非見ておいた方がええと思うけど」
 斉藤がしきりにそう言うので、秀作と山中はやむを得ず「じゃあ、一回だけ行こうかな」ということになった。
 母には格好が悪いので、友達と大阪へ行くと嘘を言って、日曜日の早朝出かけた。
 四条大宮から新京阪(現・阪急京都線)で十三乗り換えで宝塚まで行った。阪急宝塚駅から劇場までの道も、劇場の中も、女ばかりであった。結構年のいったお婆さんから女学生くらいまで、女、女、女であった。そして劇が始まるまでの間とか幕間とかのやかましいこと。秀作はうんざりしてしまった。
 男三人が寄り固まっていたのだが、全く無視されていた。女たちは、それぞれのひいきに大声援を送り、耳が痛いほどであった。斉藤・山中・秀作の三人は毒気を抜かれた思いで、いわば、ほうほうの態で京都へ帰った。 秀作は、どんな劇が上演されていたのか、ほとんど覚えていなかった。  
「お父ちゃんに言うたらあかんで」と母にそっと本当のことを話した。
 母は「男の子のくせに」と言って軽蔑したように秀作を見た。
 秀作は二度とこんなもん見に行かへんでと思った。

     9

 二学期の中間試験が始まった。一学期末と同じように秀作は計画を立てて試験の準備をした。しかし範囲がかなり広い科目があったりして、はじめ考えていたようには進まなかった。その上、試験が始まってみると、自分の準備不足や、自分の能力を超える応用問題などでかなり苦しめられた。
 何の試験の時間だったか。一所懸命問題に取り組んでいる時、「こら、何しとるか」という大きな声と、頬を殴られる音に驚いてその方を見た。真っ赤になった試験監督の先生が、その生徒の襟首を片方の手でつかみ、もう一方の手でなにやら小さな紙切れらしきものを振って、その生徒の頬に押しつけていた。
「すんません、すんません」
 その生徒は半泣きになって謝った。しかし先生は許さなかった。その生徒の答案を取り上げ、廊下に放り出してしまった。
「この時間が終わるまでそこに立っとれ」
 教室内は異常な緊張に包まれた。ちょっとした音を立てるにも気を使った。終わりのサイレンがなるまで、聞こえてくるのはサラサラという鉛筆で字を書く音だけであった。
 休みの時間に難しい顔をした田村先生が来て、その生徒の鞄や帽子などを持っていった。
 その生徒は次の時間の試験は受けていなかった。
 二時間目の試験が終わり、帰り支度をしていると、もうみんなの話題はその事で持ちきりとなった。
「あれはカンニングというのや」
 誰かがそう言うと、みな口々にしゃべりだした。
「アホなことして。見つかったら終わりやで」
「見つからんようにせんとなあ」
「見つかったらどないなるんやろ」
「停学や」
 ここでもタヌキは何でも知っていた。

 西田と一緒に学校を出た。カンニングをしたのは西田と国民学校が一緒の松山であった。西田はしきりに松山のことを心配していた。
 秀作は西田に尋ねた。
「カンニングて何や」
「お前、そんなことも知らんのか。小さい紙切れに出そうな問題の答えを書いて、鉛筆箱の鉛筆の下に隠したりして、試験中にそれを見たり、写したりすることや。ノートや教科書を机の下に入れておいて、それを試験中に先生に分からんように引き出して見るというのもある。見つからんようにやらんと、えらい目にあうで。三中ではまあ一週間か十日の停学、受けた試験も含めて全科目の試験の点が零点。勿論、親も呼び出されて一緒に怒られるんや」

 松山は一週間後に、うっとうしい顔で学校にやってきた。みんなその件については、松山には何も聞かなかった。しかし松山の顔色からその事情は察していた。
 秀作は西田のカンニングに関する解説や、その後の松山の様子から、バレたら大変だということは十分に分かったが、一度何らかの形で、バレない工夫をしてやってみたいものだと思った。

第二章 三中一年生 10・11・12

     
          10

 二学期の中間考査が終わってから、急に教練の授業が厳しくなり、先生が休んだりした時の自習時間が教練の時間になった。
 上級生も何かというと教練をやらされるので、行き帰りの電車の中で大きな声で不満を言う者もいた。学校全体が教練にとりつかれていた。
 それは査閲、京都師団による査閲があるため、教練の教官は必死になって生徒の訓練に取り組んでいたのである。
 配属将校、通称配将の新田中尉をはじめ数名の教練の教官は、もう一日中生徒の訓練にかかりきりであった。秀作たち下級生は、時々別の教官の訓練もあったが、主として「トンコー」こと伊藤準尉が担当であった。
 整列、分列行進、木銃訓練、短棒投、城壁登攀などを毎日のように練習した。一・二年生はこの程度で済んだのであるが、上級生はそれは大変だった。三八銃による射撃訓練や行軍なども加わって、半日、授業をつぶしての訓練などもあり、一日が終わるとへとへとに疲れていた。電車の中での不満も、まあ当然出るべくして出た不満であったろう。
 毎日の朝礼は雨が降らなければ運動場で行われていたが、査閲が近づくと、朝礼はほんの連絡だけにして全校生徒による分列行進の練習に当てられるようになった。ラッパ隊も大変である。秀作は一時ラッパ隊に入りたいなと思ったこともあったが、何かにつけて利用されるラッパ隊は、しんどいような気がして言い出せないままになっていた。背の高い、体ががっしりした大西が吹くラッパは素晴らしかったが、自分にはとてもそんな音が出ないようにも思っていた。しかし何かにつけて利用されはするが、隊の先頭に立って歩く姿には惹かれるものがあった。今度の査閲でも大いにラッパ隊は活躍するであろうと思うと羨ましくもあった。
 全校生による分列行進がラッパ隊を先頭に上級生から歩き出し、運動場を一周して順次教室に入っていって一時間目の授業となる。かなりの雨が降ってない限り、毎朝のように行われた。教練の教官の目から見て、全生徒がきちんと歩調を揃え、隊列を乱さず行進するのは、なかなか難しい事であった。秀作達一年生が歩き出すと忽ち怒声が飛んでくることがよくあった。少しでも歩調が乱れたり、隊列が崩れたりすると、普段は温厚なトンコー教官もその生徒を殴ったりした。三八銃をかついだ上級生などは銃の位置が悪い、歩いているうちに銃の先端が下がってくるなどといって、配将に殴り倒される者もいた。教練以外の教科の先生達は、それをただじっと眺めているだけである。おそらく何も口出し出来なかったのであろう。しかしただ一人、体操の金田先生だけは違っていた。行進の具合が悪いと思われるところへ走っていって、大きな声で注意はしたが、生徒を殴ったりはしなかった。金田先生は一年の体操の授業も担当しており、話も面白く、また体操の授業の方もほどほどに厳しかったので、生徒達には結構人気があった。その先生が教練の教官と一緒になって査閲のために協力しているのが秀作にはちょっと気になった。
 一年生にとって一番つらいのは城壁越えであった。二メートル近い木造の城壁はほぼ垂直に立っており、二、三十メートル走っていって飛び上がり、城壁の上に肘をかけて、後は腕力で体を引き上げて登るのであるが、この肘をかけるのがつらい、というよりは、ものすごく痛かった。肘が城壁の上の平な所に当たる時、突き出ている骨がガツンと板に当たり、時には腕がしびれてしまうほど痛い。しかしそんなことは言っておれない。体の小さい秀作は肘をかけるのも大変だった。
 上級生は革のベルトで三八銃を背中に斜めにかけて登るのだが、これも大変だった。一年生の訓練の時はそれほど口やかましくなかった教官達も、上級生には厳しかった。うまく乗り越えられないで、何度も何度もやり返されている者もいた。「もういっぺん」と怒鳴られると、半ベソをかきながら悲痛な声で「はい」と答えて、また走っていった。
 
 いよいよ査閲の日が来た。運動場には式台の横に白いテントが張られており、テントの中には長机と椅子が幾つか置かれていた。
 運動場に整列している生徒の前に、校長に案内されて師団の将校が数名、生徒の前に立った。襟章から判断すると、どうやら最高位はベタ金に星一つの少将で、佐官級も二・三いた。
 それまで生徒の整列の指揮を執っていた配将が台を下りた。そしてあろうことか、軍服姿の金田先生が指揮台に上がった。襟章を見ると、何と大尉である。金田大尉は軍刀を握りしめて壇上に駆け上がった。その凛々しい姿に生徒全員唖然とした。配将は中尉である。従って上官の金田大尉がこの査閲の総指揮を執ることになったのだろう。
 いつも生徒を怒鳴りつけたり、殴ったりしている配将、滅多に笑わない配将ではなく、ユーモアのある、どこかやさしさのある金田先生が大尉で、配将をさしおいて査閲の指揮を執るのである。生徒の間にいつもとは違った雰囲気が流れたように秀作は思った。
 いよいよ金田大尉の指揮のもとに査閲開始が宣言された。東方遥拝、英霊に対する黙祷、校長の挨拶、査閲官である少将の挨拶と続いた。少将の名前ははっきり聞き取れなかったが、背の低い白髪の老人だった。

 軍人勅諭を全員が唱えた。

 一、軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ  
 一、軍人ハ礼儀ヲ正シクスベシ
 一、軍人ハ武勇ヲ尚ブベシ
 一、軍人ハ信義ヲ重ンズベシ
 一、軍人ハ質素ヲ旨トスベシ

 次いで『海ゆかば』を斉唱した。

 海ゆかば 水浸(みず)く屍(かばね)
 山ゆかば 草むす屍
 大君の辺(へ)にこそ死なめ
 顧みはせじ

 これで式は終わり、いよいよ日頃の訓練の成果を査閲官に披露する事になった。
 全生徒の分列行進から始まり、次いで各学年別による各種の演技が整然と開始され、日頃の訓練の成果を見てもらうことになった。金田大尉も教練担当の各教官もそれぞれの担当学年の指揮に当たった。
 第一日目は運動場での演技が中心だった。学年が上がるにつれて演技種目も多く、かつ装備も重くなっていた。そのため四年、五年の演技にはかなり時間がかかった。一・二年生は上級生の演技の交替の間を縫うようにして各種目をこなした。一日目が終わると生徒はかなり疲れていたが、教官たちはそれ以上に疲れたに違いない。
 二日目は行軍である。一・二年生は広沢、大沢の池までの往復で昼過ぎには帰ってきたが、上級生はかなり遠くまで行軍したようであった。朝礼が終わるとすぐ、完全装備で出発したのに帰ってきたのはもう三時をまわっていた。出発時の溌剌とした姿はもうなく、何かどたどたした様子であった。ラッパの音もどこか元気がなかった。
 全員帰着、整列、その後査閲官による講評があった。査閲の運営、生徒の動きなど全般的な話の後、「今回の査閲の結果、評定は良好である」と結果を発表した。
 秀作は「良好」という言葉を聞いて「やれやれ良かった」と思った。褒めてもらったと思ったのである。
 査閲官が帰った後、新田配属将校が壇上に駆け上がった。
「お前らは『良好』という講評がどういうものか知っとるか。これは『あかん』ということじゃ。『優秀』という判定をもらわなきゃいかんのに、『良好』とは何ということじゃ」
 『あかん』を一語一語区切ってさも憎々しげに強調した。それから暫くの間、顔を真っ赤にして怒鳴りまくった。
 生徒は配将の激高に反比例して気持ちが白けていった。秀作も「何であかんのやろ」と思っていた。良好だからいいのではないかと。しかし配将の話を聞いているうちに、だんだん分かってきた。
 査閲では『優秀』が一番良い評価で、単なる『良好』は平均かそれ以下である。優良可の可のようなもので、これでは毎日毎日、一所懸命査閲に備えて訓練してきた甲斐がない、配将としも情けない、残念至極だ、そういうことだったのである。
 生徒の方からしても、褒められたと思ったのはほんの一瞬で、大したことはないと言われたようなもので、連日の激しい訓練がそういう結果しかもたらさなかったのは残念には違いなかったが、もうしんどい訓練はなくなるという事でほっとしていた。それに口では言えないが、訓練の仕方にも問題があったのではないかという疑いも持っていた。しかし怒り猛っている配将に対し、師団での自分の評価にも影響するのではないかと思い、少々気の毒にさえ感じていた。

 夜、父にその話をすると、父は「上官には上官の面子があって、なかなか難しいもんや。優秀の評価をもらおうとすると、生徒全員が一つの体みたいにならんと、もらえんやろ。そやけど何もそこまで無理せんでも。訓練が素晴らしかったいうても、前線ではまた別やしな」と自分が最前線にいた頃のことを思い出していたのだろうか、ぶつぶつと呟くように言った。
  そんなもんかな。十分な訓練ができてないと、前線では役に立たんやろ。そやけど、それは人に見せて評価してもらうために訓  練されるんとは違うような気がする。
 秀作は何か虚しい思いでこの二日間の査閲を振り返っていた。

      11

 「今度の土曜日から日曜日にかけて一泊二日で伊吹登山をする。希望者は、ここにだいたいの予定や費用を書いた印刷物があるから、これを持って帰って家の人とよく相談の上、明日中に費用を添えて申し込め。なお雨具の所は線で囲ってあるが、天気の良し悪しにかかわらず、雨具は登山に必需品なので、参加する者はその用意を忘れるなということ。傘など重いとか邪魔やとか思うかもしらんが、山に登る者は、たとえ結果として雨が降らなかっても、雨が降らず、傘も使わんですんで有難いことやったと考えるもんだから」 
十一月の半ば過ぎの英語の時間にムラはそう言って、伊吹登山参加者を募った。
 土曜日の夕方、京都駅に集合、東海道本線の近江長岡駅まで列車に乗り、そこから徒歩で伊吹山麓の宿屋に一泊。次の日の早朝四時に起床して登山、山頂でご来光を拝む。測候所などを見せてもらって午後下山。夕刻京都駅解散。こういう計画であった。
 夕食の時、この話をすると、父は「それはええな。是非参加させてもらえ。伊吹山頂のご来光は素晴らしいそうな。天気が良かったら富士山まで見えるそうやで」と言って秀作に参加を勧めた。
 「ご来光て何」
 「日の出のことやがな。山のてっぺんで日の出を見るのをご来光を拝むと言うんや」

 地図で調べてみると、伊吹山は標高一三七七メートルの結構高い山である。秀作はこれまでほとんど登山らしい登山はしたことがない。今までに登った一番高い山は比叡山ぐらいしかなかった。それも小学校四年の時、町内の遠足ということで、大人に励まされながらやっと登ったものであった。その時は修学院から雲母坂(きららざか)を登った。ものすごくしんどかったということしか覚えていない。比叡山は八四八メートル。もう中学一年だから、何とか伊吹には登れそうに思った。
 次の日登校するとすぐ職員室へ行って、ムラに参加の申込みをし、鉄道運賃・宿泊費なども一緒に渡した。

 出発当日、学校から帰るとすぐリュックに夜食や米、雨具などを入れて家を後にした。薄曇りの日で、明日は良い天気になるかどうか怪しかった。京都駅に約四十名が集まった。東海道本線で滋賀県の方へ行くのは初めてであったので、窓外の風景を楽しみにしていたのだが、汽車は真っ暗な中をただ走るだけであった。近江長岡で降り、山麓の宿屋に着いたのはもう十時頃だったろうか。駅から宿屋までかなりの距離を歩いたのだが、友人達と一緒に無駄話に花を咲かせていたのでそう遠いとは思わなかった。
 宿屋の広間で持ってきた夜食を食べた。その時ムラはこれからの予定について簡単に説明した。
「十二時までに寝ること。たとえ眠れなくとも目をつぶっているだけでよいから、静かに寝ること。四時にたたき起こす。起きたらすぐ便所、洗面、朝食。できれば五時までに宿を出発したい。出発の時、宿のおばさんから弁当をもらい、水筒にお茶を入れてもらうのを忘れるな」
 秀作達は割り当てられた部屋に上がった。一部屋に十人分ほどの布団が敷いてあったが、隣の連中がしきりのふすまを開けてなだれ込んできた。何人かが布団の上でどたんばたんと悪ふざけをしたりしたので、ムラに一喝されてしまった。一時は静かになりはしたが、やがて枕投げなどが始まり、一時間ほど騒いでいたが、そのうちに部屋がかなり静かになった。やがてあちこちから軽いいびきも聞こえてきた。
 秀作は集団で宿泊するのは初めてのことであったので、なかなか寝付かれなかった。ムラの言うようにじっと目をつぶって体を横たえていた。少しうつらうつらと眠ったかなと思った時、「起きろ、起きろ。四時だ」と大きな声がした。
 夜明け前の肌をさすような寒気の中で、大急ぎで洗面、朝食をすまし、弁当をもらい、水筒に熱いお茶を入れてもらって宿を出発した。外はまだ真っ暗だった。先頭を行く者がカンテラや懐中電灯を振り、後の者はその明かりを見失わないように、各自足下を懐中電灯で照らしながらついていった。かなりの寒さだったにもかかわらず、登るにつれて全身が汗ばみ、額から汗がしたたり落ちた。背中の汗が下着にしみこみ、冷気にふれて下着そのもが冷たくなり背中を冷やした。何だか変な感じであった。
 どれくらいの時間登り続けたであろうか、僅かな休憩時間以外はただひたすらに登り続けた。坂は徐々に険しくなり息が切れた。真っ白い息を吐きながら頂上はまだか、後どれくらいで頂上なのかとお互い言い合いながら登った。
 突然雪が舞い始めた。風も強くなってきた。初めちらちら程度だった雪は、風にあおられて目も開けていられない程激しくなってきた。夜が明け始め、空が白くなってきた。しかし猛吹雪の中、ご来光を拝むどころではなかった。急坂が終わり緩やかな坂の向こうに小さな建物が見えてきた。雪で白くなった細い道の先にあるコンクリートの建物は、斜めに吹き付ける雪の中で一種異様な感じさえ与えた。
「何や、あれは」
 みんな口々に叫んだ。その建物を目指して先頭は突き進んでいた。後の連中も回りに何があるかなどを考える余裕もなく、その建物になだれ込んだ。あまりの寒さに体はがたがた震えた。背中には冷たいシャツが張り付いていた。
 そこは測候所であった。先に中に入っていたムラは所員と話をしていた。どうやらムラはここの所員とは顔なじみのようであった。四十人もの人間が入るともう立錐の余地もないくらいであったが、所員は、赤々と燃えるストーブの回りで体を温めるようにと明るく笑いながら、みんなに言った。
顔が真っ赤に火照るぐらい赤々と燃えるストーブが、こんなにも有り難いものなのかと秀作は思った。熱いお茶をご馳走になり、しっかり体を暖め、じっとりしていた下着が乾き始めた頃下山することになった。ムラは「山頂がこんなふうだから、予定していた山頂での散策は中止、吹雪いているが下山する。予定より早く下山するので、京都へ帰る途中、醒ヶ井(さめがい)の『ようそんじょう』に立ち寄ることにする。醒ヶ井は近江長岡から京都の方へ行く汽車に乗って次の駅。『ようそんじょう』は駅から歩いて約一里。京都へは予定通り夕方着くように帰る」と皆に説明した。
「『ようそんじょう』て何ですか」
「養う、鱒、場と書いて『ようそんじょう』と読む。鱒を人工孵化させて大きく育てている所だ」
 秀作達はそれがどんなものか想像がつかなかったが、初めて見聞する所であったので、何かしらちょっとした期待を持った。
 測候所の外は相変わらず猛吹雪であった。その中を一行は一列になって下りていった。登りとは違って、下りは少しは楽であったが、そのうちに膝ががくがくして下りるスピードが落ちてきた。麓に近づくにつれて坂は緩やかになり、膝の負担も軽くなった。秀作は下りの途中で靴が少しおかしいのが気になっていた。麓で小休憩をしている時、靴を脱いで調べてみた。何と、左の靴の踵の所で釘が少し頭を出しているではないか。石で押さえると引っ込むが、靴を履いて左足をとんとんと踏むとすぐ出てくる。釘の当たる左足の踵に血がにじんでいた。
 ムラが寄ってきた。
「どうした」
「左の靴底の踵の所に釘が出てきてるんです」
「見せてごらん」
 秀作は靴を脱いで釘の出ている所を見せた。
「ああ、これは痛いね」
 ムラはそう言うと、リュックから新聞紙を取り出して、少し破り、それを折り畳んで釘にかぶせた。
「少し歩きにくいかもしれんが、釘に突き刺されるよりはいいだろう」
 折り畳んだ新聞が靴の中で動かないように気をつけながらはいてみた。
「釘の先が当たりませんので、いけると思います」
「そうか。この新聞を君にやるから、歩いていておかしくなったら取り替えてごらん」
 新聞の残りをもらって秀作はほっとした。
「有り難うございます」

 伊吹山頂の吹雪は下界では小雪混じりのみぞれになっていた。先日のムラの忠告通り、全員、傘ないしは雨合羽を持ってきていた。
「ムラは経験者やからなあ」とみんな感心した。
 近江長岡から一駅戻って醒ヶ井駅で下車した頃からみぞれが激しくなった。その中を養鱒場までの一里の道をみんな傘をさしたり、雨合羽を着たりしてぞろぞろ歩いていった。初冬の雨は冷たくどこか陰鬱で、気持ちも暗くなった。養鱒場に何があるのかしらんが、こんな雨の中を無理して行かなくても、と思ったりした。
 靴底には新聞紙を折り畳んだのを入れてあったが、歩いているうちにそれがずれて、釘の先が時々チクリと踵を刺した。なるべく踵から足を下ろさないようにしながら歩いた。ムラは時折「大丈夫か」と声をかけた。
 養鱒場で係りの人から一通りの説明を聞き、養殖池を見せてもらったりして昼食となった。早朝大急ぎで朝食を食べて、伊吹山に登り、吹雪に追われて急いで下山し、さらに醒ヶ井の駅から一里も歩いた後であり、とても空腹になっていた。
 養鱒場でゆっくり時間を過ごした後、またもと来た道を醒ヶ井の駅まで取って返した。
 みぞれは小雨になっていた。傘を差し、リュックを背負った一団が、とぼとぼと約一時間かけて駅まで歩いた。秀作は養鱒場を出発する前に靴底の新聞紙を取り替えた。今度は少し分厚く、そしてずれないように靴底全体に入れた。はいてみるとかなり窮屈であったが釘に刺されるよりはましだった。
 家には夕食に間に合うように帰り着いた。旅館や山頂での吹雪、帰りの養鱒場の話などをしたが、何といっても秀作を苦しめた靴の話は少し大げさにして、釘に刺された左の踵を見せた。靴下に血がにじんで広がり、かなりの血が出たように見えた。
「ええ靴が欲しいけど、もうこの頃はこんな革靴は売ってえへんしな」
 母はそう言って血のにじんだ靴下をじっと見つめていた。夕食の後父は金槌で釘の先をたたいて丸めていた。 

      12

 九月、イタリアのバドリオ政権が連合国側に無条件降伏した。
 やっぱりイタリアは弱い、あんな国を枢軸国に入れたのが間違いや、というのが秀作やその友人達の感想であった。そして卑怯で弱い奴を「バドリオ」みたいな奴と軽蔑した。
 しかし、秀作一家の生活は時間の経過と共に少しずつ締め付けられていった。目に見えて物資不足は顕著となり、一家を支える商いにもかなり大きな影響を与えた。日曜日などに秀作はよく問屋まで品物の仕入れに自転車に乗って出かけたが、希望する品物がなかったり、代用品ならあると言われたりした。それも数を減らされて仕入れなければならなくなってきた。店の中も、以前は山と品物が積んであったのに、今ではもう隙間だらけになっていた。

 秀作は映画が好きで、よく一人で映画館へ行った。『海軍』などの勇ましいものも見たが、『姿三四郎』や『無法松の一生』などの方が強く印象に残っている。学校で映画の話をしていると、「お前、一人で見に行ってんのか」と安田に尋ねられた。安田は映画をはじめ、演劇などその方面にはとても詳しく、その関係で近頃秀作がつきあいだした生徒であった。
「そうや、一人でよう行くねん」
「『無法松の一生』もか」
「そうや」
「危ないで、キョーレンに見つかったら停学やで」
「キョーレン?」
「キョーゴレンメイを縮めてキョーレン。おしえるの教、まもるの護、それに連盟や」
「それ何や」
「京都の中学の先生が作ってる連盟や。一人でしょうもない映画や、時局にあわん映画や劇を見に行ったり、祇園や新京極あたりを、用もないのにぶらついている中学生を見つけたら、たとえよその学校の生徒であっても本人は勿論の事、学校の名前や親の名前や住所をきいて、その学校へ連絡するんや。『海軍』みたいな映画やったら文句は言われへんけど、『姿三四郎』や『無法松』やったらどや分からへんで」
「何であかんねん」
「子供や中学生の見る映画とちがうということやないか。連盟の先生が手分けして映画館や京極あたしに行ってるそうやさかい、気いつけや」
 秀作はびっくりしてしまった。
  今まで何度もそういう映画を見に行ってたけど、よう捕まらなんだこっちゃ。これからはちょっと用心せんと。

 十一月のタラワ・マキン両島守備隊玉砕、十九年正月明けの「アメリカ軍ルソン島上陸」などの報道に、「だんだん日本に近寄ってきよった。日本本土に近づいたら、こっぱみじんにやっつけたるからな」と思った。

第三章 三中二年生 1・2・3


           第三章  三中二年生

昭和十九年 六月 三日 農村労務対策として学徒の動員を決定
      六月 六日 連合軍、ノルマンディに上陸
      六月十一日 中学校低学年の動員を決定
      六月十五日 米軍、サイパン島上陸
      六月十九日 マリアナ沖海戦
      六月二三日 昭和新山誕生
      七月 四日 大本営、インパール作戦失敗を認める
      七月 七日 サイパン島守備隊全滅
      七月十一日 中学校低学年の動員決定
      七月一八日 東条内閣総辞職、小磯内閣成立
      七月二十日 学童集団疎開の範囲拡大
      八月 三日 テニヤン守備隊、玉砕
      八月 四日 国民総武装化(竹槍訓練など)を決定
      八月 十日 グアム島守備隊、玉砕
      八月二五日 連合軍、パリ解放
      九月十四日 雲南の日本軍全滅
      十月二三日 松根油緊急増産対策発表
      十月二四日 レイテ沖大海戦、神風特攻隊初出撃
      十月二五日 中国からのB29、九州初空襲
     十一月 七日 ゾルゲ、尾崎秀美処刑
     十一月二四日 マリアナ基地発進のB29、東京初空襲
     十二月 七日 東南海地震(M8)
       死者約四千、家屋全半壊約七万三千戸
     十二月十三日 B29、名古屋初空襲
昭和二十  一月 九日 米軍ルソン島上陸
   一月十三日 三河地震
      一月二五日 「決戦非常措置要綱」を決定
      二月 四日 神戸空襲
 二月十二日 ヤルタ会談の共同コミュニケ発表
 二月十六日 米艦載機約機関東・東海地方攻撃
 二月十九日 米軍、硫黄島に上陸
 三月 三日 米軍、マニラ占領
 三月 十日 東京大空襲
      三月十二日 名古屋大空襲
 三月十四日 大阪大空襲
      三月十七日 硫黄島の日本軍守備隊全滅、大本営は三月二一日に玉砕と発表。神戸大空襲
     
          1

 二年は二組、いわゆる軍人組というのに入れられた。陸幼に行きたいという希望は持ってはいたが、近視であったので無理だということは秀作には分かっていた。陸士・海兵にも行けないということも分かっていた。ただ近視の度がたいして進まなければ、陸経とか海経などにはまだ行けるのではないかという希望はかなり強く持っていた。そんなわけでこの軍人組に入れたことを内心喜んでいた。そうした学校に行くについて、少しでも助けになるかもしれないと思ったからである。
 組の中はいわゆる多士済済であった。健康にも自信があり、また当時の最難関の学校をねらう連中ばかりであったので、勉強もかなりできる者が多いように思われた。
  この組ではうっかりすると自分は最下位になってしまうのではないか。そういう学校に行く、行かんは別にして、勉強の方は手が抜  けないな。
そんな時、京都のよく勉強のできる連中を一中に集めて英才教育をする、そのため三中から何人か一中へ行ってしまった、という噂が流れた。そういえば秀作もよく知っている坂田の顔を最近見かけていない。彼は理数系がよくできた。
  あんな奴ばかり京都じゅうから集めて一ヶ所で勉強させるのか。
秀作は自分がその中に選ばれなかったのを少々悔しく思ったが、しかし仮にその中に入れられたとしても、到底勝ち目はなく恥ずかしい結果になるようにも思われた。また一中ではなく三中にそうした学級を作ってくれたらよかったのに、と残念に思った。
 二組になってすぐ仲良しになった藤井に「これで三中は一中にどうしても勝てんことになるな」と話した。一年の担任田村先生の話が頭にあったからである。
 
 一年の終わりに陸幼に合格して、この四月から大阪陸幼に入学した者が数名いた。その連中が母校訪問というので、三中に帰ってきて陸幼の宣伝に一役を買った。組の中に「陸幼へ」という空気がこれをきっかけに強くなった。学校から希望者を集めて大阪陸幼まで見学に行くという熱の入れようだった。

 教室はボロ校舎から鉄筋校舎の二階へ移った。木造とは違ってかなりきれいだった。戦時中だから使用されていなかったが、スチーム暖房の設備もついていた。屋上へ上がると市内を一望のもとにおさめることができた。廊下の窓から校庭を眺めたり、遠くの北山を見たりした。
 三年以上の生徒は学徒動員で愛知県の半田へ行ってしまった。中島飛行機という工場で寮に泊まり込んで飛行機の製作をするという話であった。

「ええなあ、勉強せんでもええし」
 母は目をつり上げて怒った。
「何がええのん、中学生まで遠いところへ連れて行って、工場で働かすのやなんて。そんなことしてたら勉強もろくすっぽでけへんやろしな。何のために親は三中へ入れたと思うてんねゃ」
 ここでまた、秀作は母と論争になった。
「仕事の合間に授業もあるそうな。せやから一・二年担当の先生以外は全員半田へ行ってるそうやで。非常時やんか。敵に勝つためには仕様ないやろ。一機でもようけ飛行機を作らんとあかんねん」
「何言うてんねん。中学生が勉強もろくにせんと工場へ行ってしもうて。これから先どないすんねん。大学生も中学生もみんな勉強ほったらかしといて、戦争に行ったり、工場へ動員されたり。日本のこれから先、危ないわ」
「総力戦や、みんなで戦うんや。今勉強せんでも、戦争が終わったらまた、勉強したらええんや」
「戦争に勝てたらええわな。勝つや負けるや分からへんで」
「日本は神国や。負けへん、絶対負けへん」

 三年以上がいない学校はやけに静かだった。生徒の数もぐっと減って、どこでも伸び伸びできた。上級生がいないというのはええもんやとみんなそう思った。それに秀作達二年生は目下のところ最上級生だというわけで大きな顔をしていた。

          2

二年になっても英語はなくならなかった。英語の授業がなくなるのではないかと期待していたのだが。英語の担当はムラから田端に変わった。痩せた背の高い先生で、細縁の眼鏡をかけ、一見して神経質そうな容貌であった。この先生の英語の授業はとても厳しく、生徒達の恐怖の的となった。
 毎時間、前の時間で学習した所を丸暗記させ、次の時間にそれを暗誦させるのである。一時間に約一ページから一ページ半ほど進む。一年の教科書とは異なり、活字も小さくなっているため、一ページあたりの分量も増えている。しかも暗誦するのは出席番号順ではなく誰に当たるか分からない。一回当たったからもういいだろうと思って暗誦をサボると、思いがけず当てられてしまう。うまく暗誦できないと恐怖の鞭が鳴る。先生は細長い節の多いしなやかな竹をいつも手にして、それを大きく振りかざして出来の悪い生徒の手の甲や手首を狙ってたたく。たたく強さはサボり具合に比例する。完全に手を抜いた時などは強烈な鞭がくる。それも一回だけでなく、二回、三回と。片手だけでなく両手をたたかれる場合もある。
 英語は暗記・暗誦が大切であるということは分かっていても、毎時間毎時間覚えてくるのは大変である。
 二ページぐらいの暗誦範囲で、二ページ目の終わりの方は記憶が薄れて曖昧になっている場合がよくある。急に当てられて、「えっ」と思っているうちに頭が混乱して、すぐ前に当てられた生徒がどこまで暗誦したのかが分からなくなったり、たとえそれが分かったとしても、それに続く最初の単語が浮かんでこない時もある。暗誦につまってもたもたしていると鞭が飛んでくる。一人当たりほんの数行を暗誦させると、次は誰々と間をおかず当てられる。全部の暗誦範囲を済ませるのに七?八人、多い時は十人以上も当てられる。回転のスピードは当然の事ながら速いわけである。鞭でたたかれるのは痛いのでみんな必死になって覚えた。英語の時間が始まる前の十分の休憩時間はそれこそ教室全体が低い声で一杯になる。知らない人が通りかかると、組全員のものが必死になってお経を唱えているのではないかと思ったことであろう。前の晩、当日の朝、電車の中、学校へ着いてからの空き時間、あらゆる機会をとらえて覚えた。それでも当てられてうまくいかないと鞭でしごかれた。秀作などは、二度三度手の甲をたたかれて、みみず腫れを作った。英語の時間が終わると、折角覚えた箇所はもうすっかり忘れて、次に覚えてくる所、即ち今習ったばかりの所は覚えやすいか、量が多いか少ないかに気を取られた。
 暗記・暗誦をするだけではない。予習もきちんとやっておかなくてはならなかった。当てられて英文を読んで訳すわけだが、いろいろ質問される。予習が不十分だと答えられない。そうすると次の質問に答えられるまで、暫くの間立たされることになる。
 そんなわけで、英語は恐怖の時間だった。この学年が後に旧制三高や新制の京大に一中をしのぐ多くの合格者を出したそのもとはこの辺にあったのかも知れない。

 漢文は楽しかった。秀作が後々まで漢文を読むのが苦にならなかったのは、この漢文の先生のお陰であったと思っている。背筋を伸ばし、端然とした先生は、各文や語句の解説が丁寧であったばかりでなく、一時間の授業の終わりに、わざと少し時間が余るように授業を進めて、詩を吟じてくれることがよくあった。秀作は勿論の事、多くの生徒はそれまで詩吟とはどんなものか全く知らなかったと言っても過言ではない。そのせいか、朗々と鳴り響く先生の詩吟にみんな聞き惚れた。休みの時間などに先生の真似をしてうなる者もいた。教科書に出ている漢詩はもとより、中国の有名な漢詩を次々に紹介し、それらを吟じてくれたのである。漢文の時間数は少なかったが、生徒達が楽しみに待ち望んでいた時間でもあった。

 絵を描くことは秀作は全く苦手であった。色紙を貼ったような絵になることが多く、国民学校の時を含め、図画の成績はずっと悪かった。写生なども、物の形や色彩、細部の描写などにこだわり過ぎたのかも知れない。何しろ描き上がった絵は、いつまでたっても子供じみた拙劣な絵であった。
 二年になって暫くして図画の先生から、自分の家の近所の風景を水彩で描いてこい、という宿題が出された。秀作は近所の公園へ出かけて行って公園風景を描いてみたが、いつもの通り実に下手くそな絵しか描けなかった。賀茂川の河川敷で比叡山を背景にした川向こうの植物園、そして手前に流れる賀茂川を描いてみたが、これも人に見せられるような絵にならなかった。上賀茂神社まで出かけて、真っ赤な鳥居、その奥の神殿のたたずまいを描いてみたが、母に「下手くそやなあ」と軽蔑されてしまった。もうこれで最後に一枚と、二階から北山を背景にした家の前の街並みの風景を描いてみた。夕暮、北山や街の西に面したところは明るく黄色味を帯びて輝いており、東側はもう暗く沈んだ色になっている。
 山の形や街並は大ざっぱに鉛筆で描き、そこへ様々の色に変化している山や街の色を出来るだけ色数を減らして大まかに水彩で描いていった。山の西側は薄い黄色、日陰の部分は薄いねずみ色に少し紫を混ぜて、といった風に。山と街の風景は色で劃然と分けられ、描きあげてみると、それぞれが比較的はっきり区分けされてはいるが、全体として夕暮れの情景が描けているように思われた。母に見せると、「やっぱり下手やなあ。色紙を貼ったみたいや」と相変わらずの酷評であった。しかしもう夜になっており、さらに絵を描く事は出来なかったので、それを提出することにした。
 一週間ほどすると、「おい、西木、お前の絵が張り出したあるで」と誰かが秀作に言った。秀作はびっくりした。
「どこや」
「廊下の突き当たりや」
 半信半疑で絵が張り出してある所へ行ってみた。廊下の突き当たりの壁面に十枚ほどの絵が張り出してあった。その中に「西木秀作」と絵の下に名前を張り付けてある秀作の絵があった。他の絵を見ると、秀作の絵よりも上手な絵ばかりで、自分の絵が下手で恥ずかしかった。「どうしてこんな絵が」と思いながらも、こうして張り出されてみると何だか嬉しかった。
 後にも先にも秀作の描いた絵が先生に認められて皆の前に張り出されたのはこの一回きりであった。

     3

 休憩時間に廊下の窓からグランドを見ていると、ちょうどシェンシェというあだ名の先生が通りかかった。横の窓から見ていた二人の生徒が小声で「シェンシェ、シェンシェ、シェンシェが歩いとるわ」と言った。シェンシェ先生は数学の先生で、「先生」を「シェンシェ」と言ったとかで、生徒の間で「シェンシェ」というあだ名で通用していたのである。初めてその意味を聞かされた時、秀作は笑い転げた。そして「セ」を「シェ」と発音する地域が日本にあるということを知った。
 ところでその先生は自分のあだ名を言われたと知って、大急ぎで二階へ駆け上がってきた。その時授業の始まりのサイレンがなり、秀作たちは教室に戻っていたが、その先生は構わず教室に入ってきて怒鳴った。
「今、そこの廊下から顔を出してた奴、出てこい」
 そして目ざとく秀作を見つけると「こら、そこのメガネ、前へ出ろ」と顔を真っ赤にして怒鳴った。さらに他の二人も見つけて前へ引きずり出した。
 秀作たちは二・三発殴られて、二階の廊下の端にある職員室へ連れて行かれた。秀作はたまたま窓から外を眺めていただけで、先生のあだ名を言ったわけではなかったが、同類と見なされたのである。
 職員室の隅で革靴のまま正座を命じられた。
「窓から顔を出して何と言うたんか」
 先生は怒り狂って、頭といわず顔といわず殴った。秀作には眼鏡を外させて殴った。
「人に言えんこと言うたんか。正直に言え。昔から言うやろ。正直者の頭に神宿る、とな」
 一人が答えた。
「シェンシェと言いました」
 その途端ゲンコツの嵐となった。
 一年の時の担任田村先生が横にきて、じっと秀作たちが殴られるのを見ていた。
 次の授業時間中座らされた。終わりのサイレンがなると「よーし、帰ってよろしい。これからはつまらんことを言うな」とシェンシェはようやく勘弁してくれた。
 秀作は足のあまりの痛さに顔をゆがめ、涙さえ浮かべていた。「帰ってよろしい」と言われた時は、もう足は完全に感覚を失っていた。立ち上がろうとしてなかなか立てない。何とか立ち上がってもすぐよろよろと壁に手をついた。一人の生徒など、どしんと大きな音をたてて倒れ込んでしまった。
 田村先生は三人を自分の席に呼んで言った。「これからは気いつけや。歩けるか。歩けなんだらここにしばらくおるか。西木、去年はわしの組やったが、どうや。つまらんことは言うでないぞ」
「はい、でも・・・」と言いかけて、秀作は口をつぐみそれ以上何も言わなかった。
 先生は秀作の顔をじっと見ながらかすかに頷いた。
 その日家に帰って机の前に座り、今日の事件の事を思い返した。
  先生のあだ名を実際は言わなかったが、横でにやにやしてたのは大いに腹が立ったやろ。そやからといってあんなに怒ることはな   い。むちゃくちゃどつきやがって。あだ名を言われたくらいであんなに腹が立つんやろか。おまけにあれはけしからん。「正直者の  頭に神宿る」なんて言うて、正直に言うと殴りつけて。こういう諺はいつも上に立つ者の利益となるように使われるのかも知らん。  これからは用心せんと。 

第三章 三中二年生 4・5・6・7


          4

 桜も終わり、もう若葉の頃になっていた。父に再び召集令状が来た。
 最初の召集令状が来たのは昭和十三年、秀作が小学二年の秋であった。その時は町内会の主だった人達が集まって、それはそれは盛大な出征の式典を行った。店の前に大きな旗や幟が立てられた。それには「武運長久 陸軍歩兵上等兵 西木 洋君」などと大書されていた。同じ町内の電器屋さんが、大きな拡声器で軍艦マーチ、太平洋行進曲などの勇ましい曲をレコードで流した。三日間ほど全く商売ができないほどであったが、それでも旗や幟の間から店へ入ってきた客は「出征しやはるんやね。無事に帰ってきやはるよう願っています」とか「これからは奥さんも大変やね。私らもできるだけの事をさしてもらいます」とか、激励とも慰めともつかない言葉を母にかけていた。
 出征の日、町内一同の大歓呼の中、父は盛大な見送りに対する感謝の言葉、後に残される妻子のことなどを「宜しく」とお願いした後、国のため、陛下のために生命を惜しまず戦うという誓いの言葉で挨拶を終えた。万歳、万歳の声はしばらく続き、やがて行進が始まった。旗や幟を持った人が先頭を行き、その後に父、家族さらに大勢の町内の人が続いた。なんとも晴れがましい出征の行事であった。 烏丸車庫で貸し切りの市電に乗り、京都駅まで見送りの人はついてきた。京都駅でさらに簡単なお礼の挨拶をすますと、父は改札を通り、駅の構内に入っていった。父の立つ列車の乗降口にすがるようにして立っている母の顔は涙でぐしょぐしょになっていた。
 しばらくして母が「店を休んで子供らみんなを連れて奈良へ行く」と言った。奈良の三八連隊に入隊し、日曜日に面会が許されるので来るようにという父からの便りがあったのである。母はいそいそとうれしそうに子供たち三人を引き連れて奈良へ向かった。
 奈良公園は暖かい秋の陽光を一杯に受けていた。遠くからやってきた多くの人が兵士を囲んで広い公園のあちこちに固まっていた。秀作たちも同じように父を囲んで話をした。帰りに父が母に「恐らく中支に行くことになるやろ。できるだけ便りは出すさかい」と言っているのが聞こえた。
 約束通り便りはよく来た。母は秀作たちにも近況報告を書かせてせっせと前線の父に便りを出した。また千人針などを慰問袋につめてよく送った。その度に父から返事が来た。そのうちに父は中支の戦線で負傷し、帰還してきた。秀作が国民学校五年の時であった。迫撃砲の砲弾がすぐ近くで炸裂し、太股や肩に砲弾の破片が入ったのであるが、簡単に出せるものは出し、すぐに取れない破片はそのままにして帰ってきたのである。
 帰還後も何度か入退院を繰り返し、やっと全部の破片が体内から取り除かれるまでに一年ほどかかった。

 その父に再度の召集令状が来たのである。父は覚悟はしていたとはいえ、かなりの衝撃だったようだ。負傷して帰還したのだから再度の召集はないかもしれないというかすかな希望を持っていたのかもしれない。
 今度は前の出征の時のような華やかさはなかった。型どおりの町内の出征兵士激励及び歓送の式は開かれたが、それはささやかなものだった。物資もどんどん不足し、街から華やかさが少しずつ失われていく昨今、とても大仰なことはできなかったのであろう。それでも町内会の役をしている人達は陸軍軍曹の軍服に身を固めた父を京都駅まで見送ってくれた。
 父は「今度は生きて帰れない」と思ったのか、町内の役員方には何度も何度も「後のことは宜しく」と頭を下げていた。
 父は大阪第四師団三七聯隊に入隊することになっていた。
 父が大阪へ行ってほんの二・三日すると、同じ聯隊に召集されていた叔父から至急電報が来た。
「アスヒル オーサカ バンバチョウ 三七レンタイマエヘ コイ」
 母は今度も秀作たち子供一同を引き連れて大阪へ急いだ。母は乳飲児を背負い、秀作は二人の弟の手を引きながら、四条大宮から天六行きの電車に乗り込んだ。
 京都は朝から時雨ていたが、大阪に着いた頃雨は少し強くなっていた。ちょうど昼頃に馬場町の少し南、市電通りに面した聯隊の門前に到着した。そこには二つの聯隊、市電通りをはさんで東側には八聯隊、西側には三七聯隊があった。八聯隊は「またも負けたか八聯隊」で有名な聯隊であった。秀作は父が八聯隊ではなく、三七聯隊であることに内心ほっとした。
 両方の門からの人の出入りはかなり激しかった。隊列を組んで歩調を取りながら門から出ていく兵士、あわただしく駆け込む将校、一人あるいは二人連れの兵や下士官も、手に何かの包みを持ってさかんに出たり入ったりしていた。
 門の前を時折市電がゆっくり通り過ぎた。
 門の中には十数名の門衛が座っており、部隊や将校が出入りする度に「敬礼」と叫んで一斉に立ち上がり、挙手の敬礼をした。門を通過する隊や将校の数が多かったので、始終こうした敬礼が繰り返されていた。
 秀作たちが三七聯隊の門前に来て恐る恐る中を覗くと、叔父が走り出てきた。どうやら叔父は衛兵の入っている建物のかげで、秀作たちの来るのを待っていたようだった。叔父は陸軍少尉であったので、衛兵の前を通りかかると衛兵たちの敬礼を受けた。叔父は軽く答礼した後、門の横にいる秀作たちのすぐそばに駆け寄った。顔は緊張していた。
「よう来たな。ずっと待ってたんや。昨日決まったんやが、今日の午後、遅くても夕方までに洋兄ちゃんの部隊は中支へ出発する。ここで待っていたら一目見られるかもわからん」
 叔父はそう言って母としばらく何か話していた。それから急に何か思いついたように言った。
「姉さん、ちょっとここで待っててんか」
 そう言うとすぐまた門の中へ入って行った。
 雨は小やみなく降り続いていた。母子は傘を寄せてじっと門の中を見つめていた。出入りする兵士の邪魔にならないように、門に続く塀にぴったり寄り添うようにして立っていた。まだうら若い女性を伴った老夫婦、赤子を背に負い、幼児の手をしっかり握りしめた若い女、そうした何組かの人達が、秀作たちと同じように雨に濡れそぼりながら、門前や門の横に立ったり、門前を行き来していた。
 そこへ馬に乗った将校が衛兵の前を通りかかった。見るとどうやら将官らしく、羽織った雨衣の間から襟章が金色に輝いているのが見えた。衛兵はそれまでとは全く違った大きな声で「敬礼」と言ったが、それは「おう」に近かった。馬上の将校は直立不動の衛兵の前に馬を止め、衛兵たちをゆっくり見回して答礼をした。衛兵の体が硬直しているのが秀作にも分かった。将校は馬をゆっくり進めて市電通りを馬場町の方に向かって雨の中を進んでいった。大阪城内の第四師団司令部にでも行ったのだろうか。
 十五分程すると叔父は父を連れて門の外に出てきた。母子は一斉に雨の中を父の方へ駆け寄った。
「あんまり時間がない。出発時間が予定より早よなった」
 父はそう言うと、子供たちの顔を順々に見ていき、最後に母の顔をじっと見た。
 母はもう涙、涙であった。
 叔父が状況の説明をした。
 この聯隊だけでなく、大阪の師団全体が慌ただしいこと、列車や船の出発時間に合わせて次々と各部隊の出発時間が決められるのだけれど、どれか一つの部隊の準備が時間までに整わないと、それが次の部隊の出発時間に影響して出発が遅れたり、準備のできた部隊を繰り上げて出発させたりしていることなどを話した。そして自分もどうやら明日出発することになりそうで、行き先は九州らしいとも言った。
 母はそれを聞いて「九州やて。内地やから。うちは中支やもんな」とうらめしそうに言った。
「まあ、これは師団が決めることやさかい」と叔父は母をなだめるように言った。
 秀作はそんな話を聞きながら、下士官と将校とでは何もかも違うということを感じた。
  下士官の父には、叔父のように比較的ゆとりのある行動はとられへん。電報で知らせたり、自由に聯隊の門を出入りしたり、出発の  迫った父を門前にまで連れてくるなんていうことは、将校やからできるんや。軍隊に入るんやったら将校にならんとあかん。 
父は腕時計を見て、叔父に目で合図した。「もうそろそろ行かなあかん」
 そして秀作に向かって言った。
「お前は長男やし、もう中学二年や。お母ちゃんを助けて・・・」
 後は声にならなかった。
「うん、分かってる。どんなことがあっても頑張るから」
 秀作も、何か気持ちが高まって、目と目の間が熱くなるのを感じ、胸がつまって十分なことは言えなかった。
 父は母に「子供らを頼む」とだけしか言わなかった。
 母はもう涙にむせんで何かを言おうとしても、しゃくりを上げるだけで何も言えなかった。
「みんな体に気いつけや」
「お父ちゃんもな」
 秀作たちも口を揃えて言った。
 母は涙にむせび、絞り出すような声で言った。
「無事に帰ってきて。どんなことがあっても」
 父と叔父は門の中へはいたが、叔父だけがすぐ戻ってきて「洋兄ちゃんの出発時間は三時頃や。後一時間ちょっとや」と早口で言うと、すぐまた門の中に消えた。

 叔父の言っていた時間より更に三十分ほど経った頃、急に衛兵の詰所の動きが慌ただしくなった。高らかにラッパの音が響きわたり、「歩調とれ」の号令がかかると、軍旗を先頭にラッパ隊、そのすぐ後に堂々の隊伍を組んだ兵士が軍靴の音も力強く続々と連隊の門から出てきた。隊列は門を出ると歩調を元に戻し、すぐ左折し馬場町方面に向かった。衛兵詰所では軍旗に向かって隊長は抜刀し、兵は直立不動で「捧げ銃」の姿勢をとった。秀作はその光景にただただ圧倒され身揺るぎもせず見続けた。母も子供たちも必死に目を凝らして歩調を取りながら正門を出ていく兵士の中に父の姿を探した。
「あっ、お父ちゃんや」
「どこや、どこや」
「あそこや、今、門のすぐ横」 
 赤ん坊を背負った母と三人の男の子が門の横を通り過ぎていく隊列の右端の父に視線を集め、手を振った。父も母子の姿を認めて僅かに頷き、にっこり微笑んだ。
 その頃にはもうかなりの人が門の前に詰めかけていて、次々に出ていく兵士のなかに我が子や夫の姿を探し求めていた。

 父が出征して間もなく、大阪で書いた手紙が届いた。それには今度は死を覚悟していること、子供たちが何とか立派に育つように願っていること、長男の秀作の責任は重いことなどが書かれてあった。中支へ行ってからの便りはほんの一・二度だけで、前の時ほど頻々と便りは来なかった。

          5

「天保銭(てんぽうせん)はすごいなあ。写真屋の息子はんが天保銭や」
 隣の薬屋のおっさんが大きな声で母に話しかけた。
「へえー、あの息子さんがなあ」
 母も感に堪えんという調子で応えた。
「市電を降りた和ちゃんが、北大路新町を上がったところでそれまで偉そうな格好で歩いていた将校に出会うたんや。そしたらその将校いうたら電気仕掛けの人形みたいにパッと立ち止まって、和ちゃんに敬礼したんや。和ちゃんは鷹揚に敬礼を返して上がって行ったんやが、その将校はぐるっと体を回して敬礼しながら見送りや。えらいもんやなあ」
 秀作は母に聞いた。
「天保銭て何」
 薬屋のおっさんが答えた。
「天保銭ていうのはな、陸大、つまり陸軍大学にいっている人が胸にぶら下げる徽章、それが昔の金貨、天保銭大判にそっくりやさかい、そう言うんや。和ちゃんは三中から陸士・陸大へ行った天下の秀才や」
 天保銭の小判や大判がどんなものか秀作は全く知らなかった。だから薬屋のおっさんが言っていることが本当なのか嘘なのか分からなかった。しかし三中出身ということだけが頭に残った。
  そうか、三中からか。えらいもんや。せやけど僕はあかんな。それほど秀才でもないし、目も悪いしなあ。陸士・海兵があかなんだ  ら、陸経か海経や。それもあかなんだら・・・。先はどうなるか分からへんけど、兵隊になられへんなら、どっか他の高校とか高商  に行くしかしょうない。 
そんなことを考えていると母が急に叫んだ。
「あっ、和ちゃんや。これから東京へ帰らはんねやろか」
 天保銭が写真屋の店先に立って、近所の人に軽く頭を下げた。その姿は全身から燦然と光が出て輝いているように見えた。
 写真屋のおばはんが出てきて、「体に気いつけや」と言いながら誇らしそうに回りを見回した。
    
 五月初めの古賀峰一連合艦隊司令長官殉死の報は、山本長官の時ほどではなかったが、しかし、この戦争の前途に何とも言えない、腹の底を揺り動かすような不安を与えた。 
  何で「戦死」でなく「殉死」なんやろ。連合艦隊司令長官が「殉死」というのはどういうことなんやろ。おかしい。
 母はいつものように、「もう日本はあかんで。この戦争は負けやな」と言っていた。それに対して秀作は意地になって「そんなことあらへん。今は負けてるように見えてても、最後にはきっと勝つんやから」と反論していた。
 七月に東条内閣が総辞職した時、秀作は一瞬耳を疑った。
  一代の英雄とも思っていた人が、辞職するなんて。
 それに引き続くようにテニヤンやグアムで守備隊が玉砕した。「玉砕」という言葉は美しい言葉である。日本は鬼畜米英に負けることはない。しかし圧倒的な敵の勢力の前では捕虜になるよりは死を選ぶ。素晴らしいことだ、勇気のあることだと秀作は思った。
  それにしても東条さんは何でやめたんだろう。
 母に聞くと「そんなもん、分かってるやん」とだけしか言わなかった。その語調と顔色から「日本は危ない、東条さんではもう持たなくなってるんや。そやけど後の小磯さんかって、どうなるや分からへんで」と察しがついた。父がおればもう少し日本の軍隊の内情が聞けそうなのだが、出征していない、従って軍隊を知らない者がラジオや新聞の報道を頼りに戦局を推測するだけであった。しかし母は店に来る客や近所の人達の話から、大東亜戦争は日本の思うように進展していないこと、それどころかあちこちで負けていること、大本営の発表がどうやら嘘っぱちであることなどを仕入れていた。だから秀作がいくら日本は負けない、負けているように見えてても、いずれは盛り返すと言い張っても耳をかそうとはしなかった。
「日本は負ける、そやけどお父ちゃんだけは生きて帰ってきてほしい」が、秀作とのこうしたやりとりでの、いつも最後の母の言葉であった。
 
          6

 二学期になった。その頃秀作には一つ気になることがあった。
 国民学校の六年生の時、四組の丹羽という女の子とふとしたことから仲良くなったのであるが、それは目とちょっとした指の合図で知らせ合うだけで、言葉を交わす機会はあまりなかった。秋の運動会の時、四組の席の後ろを通りかかったりした時にほんのちょっと誰にも分からないように声をかけたりするのが精一杯であった。その子の家は秀作の家とは学校をはさんでちょうど反対の位置にあった。その家のすぐ近くに公園があったので、秀作は度々その公園まで出かけた。いつもではなかったが、時折その公園で顔を合わすことがあり、そんな時、勉強の話やら友達の話、それから進学の話などをした。
 その子は府二へ進学した。府二は千本通を走る市電に乗って通学しなければならないので、秀作は千本北大路までの道中、何度か彼女を見かけた。二人は顔を見ると、お互いににっと微笑んであとは知らん顔をした。毎朝、市電に乗る時や車内で、秀作はいつもあたりを見回して彼女がいないか探した。
 ところが最近彼女の姿を全く見かけなくなった。
  病気なんやろか。それとも前よりも早い時間に学校へ行ってるんやろか。
秀作はいろいろ考えてみた。時に「早出」と勝手に称して三十分程早い電車に乗ったりしたが、彼女の姿は全然なかった。
 彼女の四組の友人であり、同じ府二に通っている女の子の上田さんに聞いてみたいと思ったが、これはちょっとやそっとの勇気でできることではなかった。ある日、たまたま学校から家に帰る途中、市電を降りると、その上田さんが一人で家に帰るのに追いついた。秀作は千載一遇のチャンスとばかりにその子に聞いてみた。頭に血が上り、顔は真っ赤で、口はカラカラになっていた。
「丹羽さん、近頃見かけないけど・・・」
 上田さんはしれっとした顔で、どぎまぎしている秀作を冷ややかに見た。
「ああ、丹羽さん、お父さんが出征しやはって、丹後のお母さんの実家に帰らはったんやて。女学校も丹後の宮津の方やということやけど」
 それだけ言うと、上田さんはさっさと行ってしまった。
 秀作はさっきまでの緊張が急にゆるんで、ぼうっとその場につっ立っていた。

  しもうた。あんなことをあの子に聞くんやなかった。あの子はきっと他の子に「秀ちゃんが丹羽さんのことを聞いていた。きっと気  があったんや」などと言ってあざ笑うに違いない。もう電車の中でも顔を合わされへん。えらいことしてしもうた。
後で思い返して、秀作は反省することしきりであった。そしてその事を思い出すと思わず顔が火照り、赤くなるのが自分でも分かった。

          7

 この一年ほどの間に三中の先生が数人出征した。特に若い文科系の先生は次々と兵隊に取られ、その補充として入ってきた先生も応召するという有様であった。
 二学期になってなじみのある先生がばたばたと出征していった。その中に田村先生と新田配属将校も入っていた。
 九月の下旬になって、田村先生に召集令状が来たという噂を秀作は聞いた。西田に確かめると「その通り」という返事であった。
「明後日、土曜の午後出征しやはるんやて」
「見送りに行こうか」
「うん、行こう」
 たとえ西田が行かなくても自分は行くつもりであった。
 温厚ではあるがどこか厳しさのある先生、一年生の時の担任であり、まだ一年ながら、自分の将来についてゆっくり時間をかけて考えるように話された先生に、強い信頼感を持っていた。
 その先生が出征する、ということはもう二度と会えないかも知れないということだと思うと、どうしても先生の出征を見送りたいという気持ちになったのである。
 先生の家は平野神社の北、秀作が住んでみたいと思った天神川の近くにあった。放課後二人は大急ぎで先生の家に向かった。
 先生の家の前に大勢の人が集まっていた。もうこの時期には時局が時局であったので、華やかな出征風景はかなり地味になっていた。それでも「祝出征 陸軍中尉 田村善男君」と大書された幟が数本立てられ、雰囲気を盛り上げていた。
 集まっている人達の話を聞いているうちに、この人達は大半、先生の教え子であることが分かってきた。
  先生の人徳やなあ。先生の出征にこんなに大勢の教え子が集まってくるやなんて。それに先生も将校やったんや。軍隊の中ではもう  老中尉というところかも知れへんが、先生ぐらいの年の人にまで召集令状がくるんやから、日本も大分苦しいんやろな。
 
 歓送の式が始まるまで、二人は集まっている人達の後ろの方で待っていた。
 支那事変の頃の、あのにぎやかで晴れやかな歓送風景とは大分違っていた。
 集まってきた人達も、大きな声でしゃべるわけでもなく、お互いにひそひそと戦況や苦しくなった生活の話をしていた。特に戦況に関する話はかなり深刻で、大本営発表の赫々たる戦果は、大きな声では言えないが、大分眉唾ものらしい、何とか生きながらえて帰ってきた親戚の海軍の将校がそう言っていたとか、暗い話が秀作の耳にも聞こえてきた。
  本当にそうなんやろか。日本は負けているんやろか。東条さんが辞めてから、悪うなったんと違うやろか。それとも東条さんは悪く  なった戦況の責任を取って辞めたんやろか。東条さんほどの人が辞めんならんくらいに日本は悪うなってるんやろか。
 考え始めるととめどもなくなった。
  そのうちに神風が吹く、なんてことは絵空事なんやろか。田村先生までが出征するくらいなんやから。そうすると父も危ないかも知  れへん。中支ということやったけど、今どの辺りで戦っているんやろ。
 式が始まり、田村先生が壇上に上がって挨拶ををした。凛々しいその姿は、父が再度の応召をした時の姿と重ねて、涙でぼやけてしまった。
  父も田村先生も、もう二度と生きて帰ってくることはないかも知れへん。
 そう思っただけで涙が出てきた。西田が変な顔をして秀作を見たので、急いで横を向いた。

田村先生が出征して一週間も経たないうちに、新田配属将校が出征することになった。秀作は直接新田中尉の軍事教練の授業を受けたことはなかったが、「とうとう配将までも」と思った。
 新田中尉の家は等持院の近くにあった。秀作は見送りには行かなかったが、行った生徒の話によると、集まった人の数はかなり多く、堂々とした立派な出征であったということである。しかし小さい子供を抱えた中尉の奥さんは、涙にくれながら子供をあやしていたと聞いて、秀作は胸の塞がれる思いであった。
 現役の将校であったので、いつまでも三中の配属将校を続けられないだろうとは思っていた。しかしこうしてなじみのある先生や教官が次々と出征していくのを見るにつけ、このまま戦争を続けていて、果たして勝利を収められるのだろうかという不安を感じたが、秀作としては大本営の発表をそのまま信ずるよりほかにどうしようもなかった。

 十月、大本営はレイテ沖大海戦における日本海軍の大勝利を報じた。
「眉唾かも分からへんで」
 母はうさんくさそうに言った。
「やっぱり日本の海軍は強い」
 秀作の海軍に対する信頼感はますます強くなった。        
これからきっと盛り返す。敵にはもう戦う軍艦はないんやから。
 二階の自分の部屋で秀作は静かに「海ゆかば」を歌った。

第三章 三中二年生 8・9・10

     
          8  

 十一月になると、三中生にも勤労奉仕の声がかかってきた。
 京都市近郊の農家、特に一家の主や働き手が出征して、年寄りや女子供だけになった農家へ行って、秋の収穫の手伝いをするということだった。
 秀作は西田と二人で京都市南部の農家へ行くように先生から指示された。奈良電(現近鉄京都線)の上鳥羽口駅はいわば田んぼのまっただ中の小駅だった。踏切をわたるとそこはもう一面の田んぼで、秋晴れの紺碧の大空の下で田んぼは秋の日射しを受けて黄色く光っていた。あちこちで稲刈りが行われていた。その田んぼの中にある古い藁葺きの農家が目指す農家であった。その藁葺きの農家は秀作の父の実家とほぼ同じで、秀作には何か懐かしい気がした。
「三中から来ました」
 大声で言うと、薄暗い家の中から身支度を整えたお婆さんが一人、「はい、はい」と言いながら走り出てきた。
「三中から来てくれはりましたんか。朝からずっと待っとりましたんやで。おおきに、御苦労はんなことで。今お茶を出しますさかい、ちょっとここで座って待ってておくれやす」
 お婆さんは中へ引っ込んですぐお盆にお茶と饅頭をのせて戻ってきた。二人は礼を言って饅頭を頬張りお茶を飲んだ。
「何年生ですのん」
「二年です」
「まだほんの子供やのになあ」
「はあ、でもこんな時ですから」
 西田は妙に大人びた口をきいた。
「今までに稲刈りをしたことは」
「ありません」
「ほな、刈り方をちょっと教えとかなあきまへんな」
 二人はこっくり頷いた。
 お婆さんは三人分の鎌を持ってきて、「ほな行きまひょか」と先に立ってさっさと歩き出した。
五分ほど歩くと、「この田ですねん」と言って畦に立ってにこにこ微笑んだ。
 鎌の使い方、刈った稲の束ね方など一通りの講習がすむと、二人は早速刈りだした。よく切れる鎌はザクッ、ザクッと左手で握った株を一気に切り取る。五・六株を左手でひとまとめにして数本の稲藁でくくる。初めのうちはなかなか面白く、作業はどんどん進んだ。しかし半時間も経たないうちに腰が痛くなってきた。お婆さんは「ゆっくりやんなはれや。初めからあんまり一所懸命やると、昼まで持ちまへんで」と笑った。
 二人は顔を見合わせて「思ったよりしんどいわ」と腰を伸ばした。
 それでも昼までにはそう大きな田ではなかったが、大半片づけてしまった。お婆さんは大喜びで「さあ、お昼にしまひょ」と言って二人を連れて家に帰った。
「こんな時やさかい、大してうまいもんはおまへんけど、ご飯だけはたっぷりありますよって、なんぼ食べてもうてもかましまへん」とお櫃ごと二人の前に置いてくれた。
 なんぼ食べてもええと言われても、少年の腹に入る量なんて知れたものである。二人はせっせと白いご飯をかき込んだが、腹一杯になった時、まだおひつには半分以上ご飯が残っていた。
「余ったご飯は帰りにおにぎりにしてあげるさかい、お家へ持ってお帰り」と言ってくれた。
 暫く食後の休憩をとった後、再び田んぼで稲を刈った。久しぶりにお腹にご飯を詰め込んだ体は、何か気だるく重かった。のろのろ稲を刈っていると、すぐ腰が痛くなる。腰を伸ばし、またしゃがみ込んで稲を刈る。その時間がだんだん短くなり、しまいには二人ともへたり込んでしまった。
 お婆さんは「は、は、は、日頃なれんことをすると、明日になったら体のあちこちが痛むさかい、ゆっくりやんなはれや」と笑った。 その言葉に甘えて二人は稲を刈ったり休んだりを繰り返しながら、それでも日暮れ時までには大きな田んぼを一枚刈り取ってしまった。刈り取った稲束を稲架にかける作業が残っている。これはそう大してしんどい仕事ではないので、二人で架けることにした。要領だけを二人に教えると、お婆さんは一足先に帰った。
 稲を全部架け終えて戻ると、お婆さんは満面に笑みを浮かべて二人を待っていた。
「さあ、御苦労はんでした。お茶をお上がり。うちは息子が二人おるんやけど、二人とも兵隊に取られてしもうて。今年の秋はどないしようかと思うてましたんや。よう助けてくれはりました。おおきに。これはお昼の残りをおにぎりにしたもんどす。お家へ持ってお帰り。それからまた明日も来ておくれやすどんな。宜しうお願い申します」
 勤労奉仕は一週間ほど続いた。毎日上鳥羽口まで電車に乗って通った。お婆さんの家の田んぼは結構広かったが、二人以外にも村の人の加勢もあって、六日目にはほとんど収穫が終わってしまった。稲こき、乾燥、籾すりなどの後の作業は村が共同で済ませるということだった。最終日に作業を終えてお婆さんの家に戻ると、お婆さんはいそいそと二人を迎えた。
「ほんまに御苦労はんでした。お陰でこんなに早う稲刈りが済んで。おおきに有り難うはんでした。稲は刈り取った後もいろいろせんならんことがおますんやけど、後は村で助けてくれはりますさかい。もう稲刈りだけが苦になって、どないしようかと思うとりましたんや。ほな、これが今日のお昼の残りのおにぎりと、この一週間手伝うてくれはったお礼のお米ですねん。米はほんの三升ほどやけど、お家へ持って帰ってあげておくれやす」
 思わぬ言葉に二人は大喜びであった。おにぎりと米のお礼を言って帰りかけると、お婆さんは二人に言った。
「どうしてもお米がいることがあったらおいでやす。少々のことならお分けしますさかい。その時は何も持たんと、手ぶらで来ておくれやっしゃ。あんたはんがたと商売しようとは思ってえしまへんので」

 その年の暮れも押しつまった十二月の終業式の日に西田が声をかけてきた。
「西木、この間から考えてたんやけど・・」と言葉を濁した。
「何やねん」
「うーん、あのなあ、この前勤労奉仕で鳥羽の農家へ行ったやろ。あそこへ米を買いに行けへんか」
「ああ、そうやな。そう言うたら、あのお婆さん、米が入り用やったらお出でと言うてたなあ」
「そうやねん、正月ぐらい米を食べたいしなあ」
 近頃は米とコーリャンや豆かすとを混ぜて炊いたご飯が続いていて、米だけのご飯は全く食べていなかった。さらに芋蔓なんかを混ぜて量を増やしてある時もあった。芋もろくに手に入らなかった。母は食べ盛りの子供を含め男の子を四人も抱え、どうして毎日食べさせるのかに追いまくられていた。その上、ガスの供給も途絶えがちになり、燃料にも困っていた。十分にあるのは水道の水だけである。母は上賀茂の知り合いに頼んで自分の着物を米と交換したりして何とか凌いでいた。
「そうやなあ、家に帰って聞いてみるけど、一応行くことにしとこか」
「行く行かんは別にして明日午後二時に京都駅に来いや」
 秀作は家に帰ってその話をした。
「お米は一升でもええから売ってほしいけどなあ。せやけどたった一週間稲刈りの手伝いをしたからちゅうて、売ってくれるやろか」
「お米がほしかったらお出でと言うてはったんやけど」
「それはあんまり当てにはならへんで。その場限りのおべんちゃらかも知れへんし」
「えらい疑い深いな。人を信用でけへんのかいな」
「信用するとかせえへんとかいうのやあらへん。人とのつきあい方はいろいろあって。その人が言うてる言葉が全部信用出来る時もあれば、そうでない時もあるということや。いつでも全部人の言うた通りになるんやったら、こんな楽なことはない。いつでも必ずしもそうはならへんという所が、世の中の難しさみたいなもんやから」
 秀作は腹を立てていた。
「お母ちゃんみたいなこと言うてたら、お互い信頼してつきあうなんちゅうことはでけへんやないか。人はお互い信頼しあって生きてるんと違うのんか。鳥羽のお婆ちゃんはあの時ほんまに喜んでそう言うてくれたんや」
「お前がそう思うのなら、明日行ってみたらええやんか。そのお婆さんがお前の言うてるようなお人やったら何も言うことあらへん」
 次の日の昼過ぎ、秀作が出かける用意をしていると母が言った。
「何か持っていってあげるもんがあるとええんやけど」
「そんなもん。こっちが何もないことぐらい知ったはるやろ」
「せやけど、手ぶらではね。何か店の物でもないやろか」
 母は売り物が少なくなった店を見回した。
「この頃の農家はお米と交換で何でも持ってるらしいし」
 思案顔の母に秀作は言った。
「何もいらへん。来る時は手ぶらでお出でと言うてはったし。お金を少々持っていったらええ。そのお金もいらんと言わはるかも知れへんで」
「そんな馬鹿なこと言わんとき。ちょっと手伝うてもろたさかい言うて、お金も受け取らんちゅうことは絶対ないで」
「お母ちゃんは人を信用せえへんから」
「それとこれとは違うねん」
 母は頑として譲らなかった。
 店の中をあちこち見回していた母が、ふと何かを思いついたように奥へ入った。そして何かを新聞紙に包んで持ってきた。
「これ持っていき」
「何やこれ」
「ちょっと上等の化粧石鹸や。向こうさんは持ってはると思うけど、石鹸は毎日使うもんやから、なんぼあってもええやろ」
 秀作は不機嫌だった。何も持っていかんでもと思っていた。しかし母はその小さな包みを風呂敷に包んで強引に秀作に渡した。
「これ持っていき。何もありませんけどと言うてお婆さんに渡しとき。それにお米の代金もちゃんと聞いて、きっちり渡しとくねんで。お米を売ってくれはったらこの袋に入れてもらい。念のために袋は二つ入れとくさかい」
 そう言って何がしかのお金の入った財布と風呂敷包みを秀作に渡した。
 しぶしぶ財布と風呂敷包みを受け取った秀作は京都駅に向かった。
 駅に着くと西田はもう来ていた。そして西田も何か小さな包みを持っていた。
「何やそれ」
「お母ちゃんがうるさいねん、これ持っていけ言うて」
「僕んとこもそうや。いらんちゅうてるのに」
 秀作は西田の母親も自分の母親も同じように考えているのを少し以外に思った。
  どこの母親も同じなんやろか。人の言葉をそのまま信じるというのは世間では通用せえへんのやろか。お婆さんは手ぶらでと言うて  はったのに。こんな風に二人共手土産を持っていったら怒るんと違うやろか。 
 二人は上鳥羽口駅で電車を降りて、つい一ヶ月ほど前通った道をお婆さんの家へと向かった。道の両側の田んぼは、秀作達が手伝いに来ていた頃の明るさはすっかり消えて、稲を刈り取ったあとの切り株が目の届く限り行儀良く並んでいた。もう冬空で、弱い太陽の光がその切り株を白っぽく照らしていた。
「今日は、今日は」
 二人は門口に立って大きな声で言った。中はひっそりとしていて全く人気がないように思われた。そっと引き戸を引いて「今日は」と言った時、「はあーい、どなた」と言いながらお婆さんが出てきた。不審そうな顔で二人の顔を代わる代わる見ながら、「どなたでっしゃろか」と呟くように言った。
  つい一ヶ月ほど前のことやのに、もう忘れてしもうたんやろか。
「西田です」
「西木です」
 二人は顔一杯に笑みを浮かべて名乗った。
「へえー、西田はんと西木はん。どういうお方でっしゃろか」
 お婆さんは怪訝そうな顔で、全く初めて会う人を見るような目つきで、にこりともせずに二人を見ていた。
「先月、稲刈りに三中から手伝いに来た二人です」
 二人は精一杯の笑みを浮かべて、へつらうようにお婆さんを見た。
「あー、あの時の。ほいで何の用だす?」
 秀作はこの言葉を聞いた時、来るんではなかった、やっぱり母の言う通りやったと思った。体がこわばり、背中が急に寒くなった。西田の方を見ると、西田も同じように思ったと見えて、その顔から笑みが消えていた。秀作はそのまま何も言わずに、手土産だけを置いて帰りたかった。米を売って欲しいなんて切り出せるような雰囲気はなかった。あの時、にこにこして「米が欲しかったらお出で」と言ってくれたお婆さんとは全くの別人であった。どうしようかと思って西田を見ようとした時、西田が口火を切った。
「少しだけでも結構ですから、お米を売って下さい。お願いします」
「お米?今年は供出もようけ言うてきて、よそさんに売る米はもうあんまり残ってえしまへんのどす。家で食べる分ぐらいしか」
 ここまで来て、手ぶらでは帰られへんと秀作も腹を決めて言った。
「はあ、そうですか。そやけどこの前、稲刈りにきた時、米が欲しかったらお出でと言うてくれはったさかい・・・」
「そんなこと言うたかなあ。せやけど無いもんは無いんやし」
 お婆さんは少しの間冷たい目を二人に当てていたが、何かを思い切るように言った。
「それやったら、しゃあないな。ほんの少しだけやで。袋、持ってなはるか」
 秀作は米が五・六升も入るかと思われる袋を二袋持って来ていたが、そのうちの一袋だけをお婆さんに渡した。西田も同じように袋を一つ渡した。
「ちょっとだけやで」
 お婆さんは中へ入っていった。
 戸口に残された二人は意外な事の進行に、一言も口をきかず、じっと家の中を見ながら呆然と立っていた。
 お婆さんはすぐ戻ってきた。
「三升ずつだけやで」
 そう言って米の入った袋を二人に渡した。
「これ、母にことずかってきました。大したもんはありませんけど」
 秀作は風呂敷包みをほどいて、新聞紙で包んだ石鹸を渡した。
「僕も、これお渡しするようにと預かってますねん」
 西田も小さな包みを渡した。
「へえー、そうどすか。ほなおおきに、もろうときます」
 何もいらない、何も持ってこんでもええどころではなかった。お婆さんはさっさと包みを受け取り、その場で包みを開けた。
「ああ、化粧石鹸かいな。これはええにおいや。上等の石鹸やな。石鹸は毎日使うもんやのに、この頃はええ石鹸が少のうなって。おおきに、頂かしてもらいます。上等の絹の着物なんか持って、米を買いにきはる人がぎょうさんいたはりますけど、そんなもん持ってきてもろうても、こんなお婆にはもうどないも仕様おへん。こっちは砂糖、それも真っ白な白砂糖どすな。これも毎日いるもんや。おおきに。頂かしてもらいます」
 お婆さんは初めてにっこり笑った。
「ちょっと、ここで待っといてや」
 中へ走り込んだお婆さんは、新聞紙に包んだものを二つ持って出てきた。
「お餅や。ほんのちょっとやけど。これ一つずつ持ってお帰り」
 これまた意外な事の進行であった。やっとあの時のお婆さんに戻ったのである。二人の暗くよどんでいた心が少し明るくなった。 「おおきに、有り難うございます」
 二人は声を揃えて言った。
 米の代金をきいて、少し多い目にわたし、二人は帰途についた。
  一斗ほども分けてもらえるかとも思っていたのに、三升とは。でもお餅を少しもらったから、まあこれでええとせんか。
 師走の日暮れは早い。二人はもう薄暗くなった上鳥羽口駅の京都行のホームに黙然と立っていた。

          9

 二学期末の試験中のことであった。午後一時半頃だったろうか、北大路堀川で市電を降りて、北大路通りをほんの少し東に向かって行った時、歩くどころか立っていられない程に大地が揺れた。秀作は両手と両膝を地面についてかろうじて体を支えた。市電は少し先で止まって左右に揺れていた。北大路沿いの二階建ての民家がお辞儀をするように揺れて、大屋根から瓦が数枚飛び、黄色い砂埃をあげていた。
  これはえらい大きな地震や。
 揺れる家から何人かの人が転がるように出てきた。どれくらいの時間揺れていただろうか。秀作には随分長い時間のように思われた。やっと揺れが収まり、立ち上がると同時に大勢の人が家の外に飛び出してきた。そしてお互いに顔を見合わせて、口々に大きな声でわめきあっていた。止まっていた市電は何事もなかったように動き出した。
 秀作は自分の家が心配になり、大急ぎで家に向かった。どの道も家から出てきた老若男女で溢れていた。口々に「えらい大きな地震やったな」とか「あんたとこ、大丈夫やったか」とか「棚から物が落ちてきて危なかった」とか、みんな興奮して、そのせいか大声でしゃべっていた。
 家に着くなり店の中を見回した。どうやら大した被害は無いようだった。しかし安定の悪いお釜や薬缶、棚に並べてあった小さな品物が下に落ちて散乱していた。最近は問屋から入ってくる品物の数が少なくなっており、店全体の品数が減っていたためか、被害も少なかった。母が落ちた品物を拾って棚の上に並べ直していた。
「えらい地震やったなあ。僕、座り込んで暫く立たれへんだ」
「どこで地震に遭うたん」
「堀川で市電を降りてすぐ」
「市電は走ってたん」
「すぐ止まった。市電もぐらぐら、えらい揺れてたで」
「せやろな。よう脱線せえへんだこっちゃな」
 秀作はカバンを家の中に放り込むとすぐ母を手伝った。
 店の外では近所の人が行ったり来たりしながら、やはり大きな声で声を掛け合っていた。
 何人かの人が店に入ってきて「西木はんとこ、大丈夫でっか」と声をかけた。
「へえ、おおきに。ちょっと品物が落ちただけで、大したこと、あらしままへん。お宅はどうどした。どなたもお怪我もしやはらんと」
 母は声を掛けてくれた人にいちいち丁寧に返事をしていた。
 街じゅうがこの大地震で興奮しているように思われた。

 次の日登校すると、その興奮は学校にも渦巻いていた。
「お前んとこどうやった」
「神棚から物が落ちたんや。日本ももうあかんという証拠かもわからへんで」
「俺んとこの隣は、逃げ出そうとしたおばはんの頭に棚から落ちた物が当たってちょっと怪我したそうやで」
 もう喧噪そのものであった。
 試験の時間になった。しかしなかなか監督の先生が来なかった。みんな「何でやろ」「何してんのかな」と小さな声で囁きあった。やっと十五分程して先生が答案用紙を持って小走りに教室に入ってきた。
「えらい事になってるんや。今まで職員会議をしていて来るのが遅れた。詳しいことは試験終了後担任から話があると思うけど。従って今日の試験は十五分ずつ遅らす」
 昨日の地震のことに違いないと思った。しかし学校はどこも被害を受けていない。あのオンボロ木造校舎も不思議なことに倒れもせんと立っている。どこがえらいこっちゃなのか分からなかった。
 二時間目の試験が終わると、担任が入ってきた。教室の中は騒然としていた。いつもは大きな声で「やかましい、静かに」と一喝する担任が今日は何か憂鬱そうな、悲しげな顔で、騒ぐ生徒を見回しているだけであった。
「みんな静かにせい」
 たまりかねて級長が怒鳴った。
 教室がようやく静まると、担任はなぜ試験の開始が遅れたかについて静かに話し始めた。
「昨日の地震、みんな知っとるな。えらい大地震やった。しかしこの三中では物理や化学の実験室の道具が少し倒れたぐらいで大した被害はなかった。しかし君たちの上級生が動員されて行っている愛知県の半田という所にある中島飛行機の工場、これはあんまりよその人には言うなよ、その工場が地震のために倒壊して、何人もの犠牲者が出た。昨日、動員先から緊急の電話がかかってきて、校長先生をはじめ、数人の先生が半田の工場へ行って、被害状況を調査している。今朝の電話連絡では十数名の三中生が死に、負傷者も大勢いる、ということやった。今朝の職員会議で、さらに応援の先生を出すこと、今、行(おこな)っている試験は予定通り進めることなどを緊急に取り決めた。君たちはいろんな事を耳にするかも知れないが、学校から話す事だけを信じて、変な噂に心を動かされんようにしてほしい」
 さっきまでの騒々しさが信じられない程教室の中は静まり返っていた。
今年になって三年生以上は愛知県へ動員され、飛行機製造に携わっているということは一・二年生も知っていた。そのお陰で秀作達二年生は校内では最上級生だというので威張っていたし、またかなりしたい放題の事をしていた。自分たちも三年になればどこかの工場に動員される。だからやりたいことは今のうちにという気持ちも手伝っていた。しかし今の担任の話はショックだった。予科練などに応募して戦場で死ぬというのなら名誉なことだが、工場が倒れてその下敷きになって死ぬなんて考えてもいないことだった。
 あの騒がしい連中が妙に黙りこくって、静かにカバンに教科書やノート類を放り込んで家路についた。
 後ほど分かってきたことだが、半田の中島飛行機の工場は紡績工場を軍用飛行機工場に転用したものであった。工場の建物の中で製作するために、工場の柱を何本か取り除いたらしかった。柱の数が少なくなった紡績工場の大屋根が強烈な地震のためにドサッと落ちたのであろう。
 三中生だけで十数名、他にも多くの他の学校の生徒や工員が働いていたので、犠牲者はもっともっと多かったに違いない。
 その日、家に帰って母にその話をした。
「可哀想に」
 母は目をうるませた。
「死んだ子供も可哀想やが、その親は・・・。折角、三中に入って、そんな所で死なすために子供を大きくしてきたんやないのに・・・」
 母はそれだけ言うと黙り込んでしまった。
 去年の学徒出陣以来、老いも若きも、男女を問わず、あらゆる所で動員されている。大学・高専生はもとより、中学生・女学生も次々と軍需工場へ、工場へ行かない者は近くの農家へと動員されている。一億総動員、お国のために鬼畜米英を撃つ、撃ちてし止まむ、都市も農村も国全体が「欲しがりません勝つまでは」と食糧不足、物資不足の中で歯をくいしばって戦っている。そんな中での三中にとっての大事件であった。

 それから数日して、半田で亡くなった生徒十三名の遺骨が学校へ帰ってくることになった。
 その日は定刻に登校した。数十人の上級生も半田から帰って登校していた。上級生の姿は、それまでのうのうとしていた二年生に強い衝撃を与えた。親元を離れて、半ば合宿生活の連続のような、工場を中心にした寮生活は、その精神や肉体に強い影響を与えたのであろうか、風貌を一変させてしまっていた。
一・二年生は何か恐いものを見るような目でおそるおそる上級生を見た。しかしその外見にもかかわらず上級生は変におとなしかった。
 誰かが知り合いの上級生と話をした。
「お前らはええな。家から学校へ通えて。わしらがどんな毎日を送っているか知っとんのか。工場で働かされるだけ働かされて、ろくな食いもんはなし。勉強の時間はあるけど誰もまともに勉強なんかせえへん。する気にならんのや。それでこれや。地震で死ぬわ、大怪我をするわ。ほんまにわやくちゃや」
 ドスのきいた声、やせてくぼんだ頬、見てるだけで恐かったというのを聞いて、下級生達はいっそう縮こまってしまった。
 午前中は校内の清掃に当てられた。みんな号令一下、自分たちの持ち場に走り、一所懸命掃除をした。そうすることで、こんなのんびりした生活をしてきた自分たちが、命を懸けている上級生に対して申し訳がたつとでも思っているかのように。

 遺骨を迎えに各組の級長・副級長が京都駅へ行った。山陰線の花園駅に着いた遺骨は、校旗を先頭に列を作って三中へ帰ってくる。帰ってきている上級生と下級生全員は正門前に整列してお迎えすることになっていた。
 秀作は日頃あまり正門を利用していなかった。登下校にはいつも裏門から出入りしていたのである。正門から妙心寺道までの道は結構幅の広い道で、両側は銀杏の並木となったいた。妙心寺道にある書店へ時たま行く時にこの銀杏並木を通った。いつ通っても気分の良い道であった。
 初冬の薄ら寒い日であった。京都特有の冬の雲が出て弱い日射しを翳(かげ)らせていた。時折しぐれては、はらはらと小雨が並んでいる人たちに降りかかった。
 列車が花園駅に到着する頃までには、この並木道の両側にはびっしり人が立ち並んでいた。三中の生徒はもとより、多くの父兄も喪服に身を包んで待っていた。暫くすると、伝令役の先生が数名の生徒と一緒に急ぎ足でやってきて「もうすぐです」と沈んだ声で報告した。その声は立ち並ぶ人々と銀杏の並木に吸い込まれた。
 やがて悲しげなラッパの音が小さく響いてきた。しばらくしてラッパの音が急に大きくなった。妙心寺道を東に進んできた隊列が、北に折れて正門前の並木道に入ってきたのである。
 制服、制帽、ゲートル姿のがっしりした体格の生徒が校旗を捧げ持ち、その後に校長、遺族が続いた。白木の箱に収められた遺骨を白布で包み、それを両手でしっかり持った父親とすぐ横に並んで歩く母親、父親が出征しているのであろうか、抱きしめるように白布の箱を胸に抱えている母親、十三の遺骨は銀杏並木を懐かしむように、ゆっくり、ゆっくり進んでいった。その後に工場へ生徒と一緒に派遣されていた先生、遺骨に付き添って帰ってきた同級生たちの列が続いた。
秀作のまわりから迎える親たちのすすり泣く声が聞こえ始め、それが迎える人たち全部のすすり泣きに変わった。絞り出すような女親の声が更に加わった。
「男はどんなことがあっても泣いてはいけない」と聞いてはいたが、迎える生徒達もみな目頭を熱くし、鼻をすすり上げた。

 学校葬は本館二階の講堂で行われた。下級生は各組の代表だけが参加を認められた。式場の準備をした秀作達は教室で待機しながら校葬の終わるのを静かに待っていた。日頃やかましくおしゃべりをする連中も、この日は口を慎み静かにしていた。
 やがてかすかにピアノが鳴り、校歌が聞こえてきた。

 一、朝(あした)に仰ぐ秀嶺愛宕
 夕べに掬(むす)ぶ清流桂
   山河自然の霊気を受けて
   集(つど)う双陵健児一千
   おお三中 その名ぞ 吾等がほこり

 二、誠実天の聖火とかかげ
   剛健地(つち)の威徳とたたへ
   崇文(しゅうぶん)尚武(しょうぶ)ただ一途(ひとすぢ)に
   競(きほ)ふ姿の雄々しさ看(み)よや
   おお三中 その名ぞ 吾等がまもり

 三、進取不断の光と恃(たの)み
   協力不壊(ふえ)の翼と張りて
   若き生命の日に新しく
   理想の空ゆく羽音を聴けや
   おお三中 その名ぞ 吾等がちから

 四、歴史はにほふ古き都に
   繚乱(りょうらん)誇る桜の徽章(しるし)
   護りてとはに祖国の幸を
   拓(ひら)かん吾等が大なる使命
   おお三中 その名ぞ 吾等がいのち

 教室の中で、静かに式の終了を待っている生徒達は、そのかすかに聞こえてくる歌声に、声もなく、口だけを動かして唱和していた。

     10

 秀作の三中二年の三学期、即ち、昭和二十年の一月から三月は、さすがの楽観派の秀作にも大きな不安をかきたてる日々であった。  一月早々に、折角占領していたフィリピンのルソン島に米軍が上陸という新聞報道にまず衝撃を受けた。シンガポールで英国のパーシバル将軍に「イエスかノーか」と迫った、あの山下奉文司令官はどうしたんやろ、無敵ではなかったんか、というのが率直な感想であった。
 サイパンを取られたのは痛かった。マリアナ基地発進のB29が続々と日本各地の空襲を始めたからである。米機動部隊の艦載機による攻撃も始まった。五機とか十機ではなく、数百機のB29や時には数千機に及ぶ艦載機による攻撃であった。
 一月二十七日の東京空襲に続いて、二月四日には神戸を空襲した。町内の人達は西南の空がどす黒くなり、それが夜になると赤味を帯びていつまでも消えないのを不安そうに眺めていた。
「どこでっしゃろな、やられたのは」
「神戸でっせ。神戸がやられてますねんで」
「大阪ではないんでっしゃろな」
「大阪やったら、もう少し南寄りですわ」
 しかし、これは三月になって始まる日本の大都市に対する大空襲のほんの始まりに過ぎなかったのである。
 ラジオや新聞にはどの都市が空襲され、どの程度の損害を被ったのかについて詳しい報道は無かった。従って秀作は身近に体験できる神戸や大阪の空襲のもの凄さを、空の色で判定せざるを得なかったのである。しかし役所や会社・工場などに勤めている大人達はしっかり情報を手に入れていて、それが噂となって流布していった。
 母も店に立ち寄る客からそうした情報を仕入れていた。
 ヤルタ会談の共同コミュニケに対して、秀作の家が取っている朝日新聞は「机上の大空想」と書いた。
「当たり前や。日本が連合国側に降伏なんかするもんか」
 しかし、母は不安を隠さなかった。
「もうじき戦争が終わるんやろか」
「終わるかも知れへんで。日本が大勝利を収めて、アメリカが参ったと言うんや」
「焼夷弾で一切合切焼かれてから、勝ってもしようない」
「大丈夫や、その前に勝つって」

 秀作はある日曜日、賀茂川の方へ出かけたその帰り道、筆らしきもので書いてそれを印刷したと思われる半紙大の紙を何気なく拾った。少し読んでみると、それはどうやら米軍が飛行機から落としたビラであった。「ルーズベルト」と書くべき所が「ローズベルト」と書いてあり、「何や、日本語も知らん者が作ったんかいな」と思わず失笑したが、人に見られてはと思って、あまりよく読まないまま、慌てて折り畳んでポケットに入れた。
 家に帰って、そっと母に見せると、きつい目で秀作をにらんだ。
「誰にも見つからへんかったんか」
「うん、見つかってえへんと思うけど」
「これ、お母ちゃんが預かっとくからな」
「どないすんねん」
「後で分からんように燃やす」
「どっかに届けなあかんのと違う」
「家でこっそり燃やす。どこにも届けへん」
「何でや」
「後で警察や警防団が来て、どこで拾うたかとか、誰かに見せなんだかとか、いろいろうるさいからや。お前も知らんふりして、誰にも言うたらあかんで。絶対やで」
 母の目は真剣そのものだった。秀作は母の気迫に押されて約束した。
「絶対、誰にも言わへん」

 『敵の謀略、心許せぬ紙の爆弾』と新聞に書かれたアメリカの宣伝ビラは、見付け次第警察が警防団に届けるよう厳しく伝達されていたにもかかわらず、母のこの姿勢には許し難いものがあるように思われた。しかし母のもの凄い剣幕に秀作は沈黙を守るより外ないと思った。
 
東京・横浜・名古屋・大阪・神戸など日本の大都市に対する大規模空襲が続いた。三月十三日から十四日にかけての大阪大空襲に、京都中の人がおびえた。爆撃を終えたB29は京都上空を通過する。その時空襲警報が鳴る。もう布団にもぐって寝てはいられない。服を着替えて防空頭巾をかぶり、道路の向こう側の畑の中に作った防空壕にはいる。何百機というB29が頭上高く飛び去る。防空壕には近所の人も入っている。何人かの人が外に出ているので、秀作も防空壕を出て空を見上げると、数本の探照灯が空をなめるように動いている。編隊を組んで高空を飛んでいるB29の数機を探照灯が捉える。たまに高射砲が弾を打ち上げる。しかし届かない。日本の高射砲の弾が届かないほど高い所をB公は飛んでいるのだ。B29を迎え撃つ日本の飛行機は一機も飛んでこない。警防団の人も全く歯がゆそうに、ゆうゆうと飛び去るB29をただ眺めているしかない。
 何時間か経って、空襲警報が解除された。西南の方角には例のどす黒い赤が空を染めている。その範囲と色がこの前の神戸の時よりも大きくかつどぎつい。
 学校へ行っている間、時々西南の空を見たが、昼間はもうなくなったのかと思うほどに薄れていたのが、夜になるとまたもやその毒々しい色を映し出していた。
 母は大阪に住む自分の兄や姉を気遣っていた。
「大阪はもう全部燃えてしもうたんやろか」
 秀作には返事が出来ない。
「大阪の次は京都やで。焼夷弾が落ちてきたら、防空演習でやったことなんて、何の役にもたたんそうや。火のこんとこに逃げるしかしょうないそうや」
「誰がそんなこと言うてんの」
「どっかから聞いてきて、この辺の人はもうみんな知ってるわ。バケツリレーなんかしてる間に家は燃えてしまうって。落ちてくるのは焼夷弾一発と違うんやて。狭いとこに何百発と落ちてくるそうや。バケツでなんかとても間に合わんて言うてはるがな」
母のそんな話を聞いていても、焼夷弾攻撃のすごさはピンとこなかった。しかしもし京都がB29の空襲にさらされたら、それこそひとたまりもないことだけは秀作にもどうやら飲み込めた。
 いつ京都がやられるのかは分からない、明日かも知れない。その時何を持って、どこへ逃げるのかを母と相談した。
 母は大急ぎで袋をいくつか作った。家の中で一番大事なものを入れる袋、当座をしのぐ現金や衣類を入れる袋、僅かばかりの食糧を入れる袋。そうした袋を持って賀茂川の土堤まで逃げる。一番下の弟は母が背負い、後の二人の弟は秀作が責任を持って賀茂川まで連れていく。
「しっかり頼むわ。弟二人の手を引いて、絶対はぐれたらあかんで」
 夜、警戒警報が鳴ると、秀作はもう寝ていられない。自分の持って行くべき袋を目の前に置いて、空襲警報が鳴るまでまんじりともせずに起きていた。空襲警報が鳴るまでに、なかなか目を覚まそうとしない弟達を起こして着替えさせ、空襲警報が鳴ると同時に一家五人は防空壕に駆け込んだ。
 もし京都に焼夷弾が落とされたら、すぐに賀茂川まで二人を連れて走る心準備をして。

 マニラが落ち、硫黄島が占領された。
「硫黄島の日本軍は、優勢の米軍に対して寡兵よく奮戦中」 
この大本営の発表にかすかな望みを託したのであるが、その後二週間程で玉砕した。
 B公だけでなく艦載機による攻撃も増えてきた。そして毎日、日本のどこかが攻撃されているように思われた。

第四章 三中三年生 1・2・3・4

  
第四章 三中三年生

昭和二十年 四月 一日 米軍、沖縄に上陸
      四月 四日 京都市内の国宝の仏像疎開完了
      四月 五日 小磯内閣総辞職
      四月 七日 鈴木貫太郎内閣成立。戦艦大和沖縄方面に出撃、主力全滅。
      四月 十日 陸軍大将南次郎、「戦ふ沖縄に送る」の特別放送後、「もはや第一線も銃後もない」と記者会見で発言。
      四月十二日 東京空襲。ルーズベルト大統領死去、副大統領トルーマン昇任
      四月十三日 東京大空襲、宮城の一部、明治神宮焼失
      四月三十日 ヒットラー自殺
      五月 二日 ビルマの英軍、ラングーン占領
      五月 七日 ドイツ、連合軍に無条件降伏
      五月 九日 「帝国と盟を一にしたドイツの降伏は遺憾だが、日本の戦争遂行決意は不変」と政府は声明。
      五月十一日 神戸、芦屋空襲
      五月十七日 名古屋大空襲、熱田神宮の一部焼失
      五月二五日 東京大空襲、宮城内表宮殿、大宮御所焼失
      五月二九日 横浜大空襲
      六月 六日 本土決戦体制決定
      六月十八日 沖縄ひめゆり隊、集団自決
      六月二三日 沖縄守備隊全滅
      七月十一日 主食の配給一割減 
      七月二六日 ポツダム宣言発表
      七月二八日 日本政府、ポツダム宣言を黙殺
      八月 六日 広島に原爆投下
      八月 八日 ソ連、対日宣戦布告
      八月 九日 長崎に原爆投下
      八月十四日 ポツダム宣言受諾
      八月十五日 天皇、終戦の詔勅を放送。鈴木内閣総辞職、東久邇内閣成立
  
          1

 昭和二十年の四月になった。
 秀作は三中の三年生である。
 二年三学期の終業式の日に、秀作達は四月の初め、始業式までの十日間、建物強制疎開の応援に行くようにという連絡を受けた。その時、必ず金槌と釘抜きを持っていくのを忘れるなと厳命された。
 堀川通は北大路から北は道幅が広かったが、南は、現在の紫明通辺りまでは、かなり狭い道で古い家が建て込んでおり、道も真っ直ぐではなかった。さらにその南は、現在の堀川通ではなく、堀川の東側にある道がもとの堀川通であった。この道には京都駅前から北野天神まで狭軌のチンチン電車が走っていた。当時、北大路堀川の少し南に屎尿処理場のようなものがあり、その横を通る時は鼻をつまんで通った。おそらく堀川に流し込んで処理していたのであろう。
 秀作が割り当てられた疎開場所は、今の紫明通の近くであった。指定された時間に疎開現場につくと、数人の警防団の人が近寄って
きて声をかけた。
「三中か」
「はい」
「誰が班長や」
 秀作の知らない三中生が手を挙げた。
「点呼を取ってくれ」
 班長は名簿を見ながら点呼を取った。
「みんなおります」
 警防団の中で一番年長と思われる人が生徒の前に立って、作業の段取りを説明した。
「鋸で家の主な柱を切る。数本の綱を何本かの柱にかけて、みんなで引っ張る。家が倒れたら、柱などから釘を抜く。抜いた釘は一ヶ所に集める。大きな柱を鋸で切ったり、二階から綱をかけたりする危ない作業は警防団の方でする。中学生は怪我をせんように、作業の進行ををよく見て行動して欲しい」

 門と板塀を倒す作業から始まった。これは至極簡単であった。鋸で柱を切らなくても、数カ所に綱をかけて数人で引っ張ればすぐ倒れた。板塀なので大した埃も立たなかった。しかし、その後の釘抜きが大変だった。板を止めるために小さな釘が沢山打ってある。板をはがし、釘を抜く。錆びついた釘は頭がとれて抜けない。それをペンチなどで抜いていく。柱に打ち込んである太い釘も錆びついていて、なかなか抜けない。金槌を使って釘抜きを叩き込み、足で踏みつけて釘を抜く。こうして釘を抜いてみると、板塀のようなものにも、使用されている釘の数は随分多い。一軒の家ではものすごい数になるであろう。抜いた釘は警防団の指定した場所に運んだ。
がっしりした平屋や二階建ての家を倒すのはとても時間がかかった。特に大きな二階建ての家は、柱も太く、頑丈に出来ているので、ちょっとやそっと綱をかけて引っ張ったぐらいではビクともしなかった。警防団が走り回って、綱をかける位置を変えたり、また新たに柱を切ったりして、一斉にかけ声をかけて綱を引っ張る。綱といっても藁縄のようなものなので、再三切れる。一所懸命引っ張ったところ、綱が切れてどっと尻餅をつく。大笑いしながら切れた綱をつなぎ、また引っ張る。家が傾きかけると瓦がガラガラと落ちてくる。
「それ、もうちょっとや。頑張って引っ張れ」
 年長の警防団の人が周辺に目を配りながらハッパをかける。
 二階建ての場合、かけてある綱が短いと綱を引っ張っている者が危ない。かなり傾いてくると、家は自分の重みで倒れる。その瞬間「逃げろ」と声がかかる。それまで渾身の力で綱を引いていた者は、一斉に綱から手を離して逃げる。逃げる時も倒れてくる建物から目を離さないようにして走る。何が飛んでくるか分からないからである。
 倒れた後のすざまじい土ぼこり、一寸先が見えないとはこのことである。少し離れたところで埃が静まるのを待つ。埃がおさまるとまた釘抜きである。
 倒れた家の中に入ると、ほんの昨日までそこで人が生活していた跡が残っている。打ち捨てられて埃まみれになっている座布団や新聞、雑誌、時にはお盆の上に置かれたままになっている湯飲み茶碗などが、ついさっきまで人がここにいたのではないかと思わせる。
 この家を出て、今はどこかへ移ってしまった人、おそらく自ら進んで移った人はいないであろう。お国のため、戦争に勝つため、京都の町を守るため、そんな理由で強制的に永年住み慣れた「我が家」を追われた人達のことを思った。
 慌ただしく引っ越しさせられたためか、引っ越しをするトラックが小さかったり、数が足りなかったためか、押入や茶の間に心ならずも放棄された品物が数々あった。それらが、秀作たち、家を取り壊しに来た者たちに、かえってそこはかとない哀愁をさそった。
今はまだ大丈夫だけれど、そのうちに自分の今住んでいる家も、「強制疎開や、何月何日までにどこかへ立ち退け」とお上から言ってくるかも知れない。その時自分たちはどんな気がするだろうか。
 秀作は一緒に来た三中生にそんなことを尋ねてみた。
「どないなるんやろ、お母ちゃんは気が狂うか知れへんで」
「まさか、気が狂うやなんて」
「そやけど、お母ちゃんは生まれてずっと住んでる家やもん」
「家つきの娘やったんか」
「そやねん。出征してるお父ちゃんは養子や。家にとっては大事な娘やったんや」
「お爺ちゃん、お婆ちゃんは」
「一緒に住んでる。ずっと何代も前から住んでる家や。そやから一層ひどいねん。家はなくなるわ、商売はでけへんわ。どないして暮らしていったらええねん」

 秀作の家とは違って、西陣あたりの老舗にとっては、これは「ちょっと引っ越しますさかい」というわけには行かない。
 しかし、空襲で家を焼かれた大阪や神戸の人は笑うかも知れない。家や財産なんて、そんなもんこんな時代に何になるか、一切合切焼かれてかえってせいせいしとるわ、そんな嘲笑の声が聞こえてくるような気がした。
でも焼け出された人はどうしているんだろう、防空壕の上に粗末な屋根を置いた「壕舎」や木ぎれを集めて作った堀立小屋みたいなところに住んでるという話だが、それはいったいどんな生活なんだろう、収入はどうなっているんだろう、秀作はそんなことを考えてみると、強制疎開で家を追われた人も含めて、家をなくした人達に比べると、自分の家はまだまだましだと思わざるを得なかった。
秀作の父の実家でも、名古屋へ嫁に行った娘が、夫が出征し、その上、空襲で焼け出されて、子供二人を連れて帰っている。実の娘ではあるが、実家に気を使い、そのために目を患ったり、体の不調を訴えたりしているという話であった。
 自分たち一家が住める家、人に気を使わないで住める家があるのとないのとでは、大違いなんだと思った。
 
一日疎開の応援をして家に帰ると、母は汚いものを見るような目で言った。
「何や、まあ、ほこりまみれになって。早よう顔や手を洗うといで」
 洗面器の水がたちまち黄色くなった。うがいをし、鼻の穴に何度も指を突っ込んで洗った。
 秀作たちが十日間で壊した家の数は二十数軒に及んだ。

      2

 四月十一日(水)登校。始業式、その後、新しい組の名簿発表。秀作は三年一組であった。
 担任は数学の山内先生、アダ名は「コイ」。大きな口を大きく開けた時、コイそっくり、というのがその所以であった。アダ名はいつも極めて適切である。
「現在のような時局柄、君たちは今までのように勉強に専念するということはもう許されなくなった。昨年と同様、三年生になった君たちは工場へ動員される」
 教室の中が一瞬ざわめいた。
「しかし、君たちは愛知県の工場へ動員されるのではない。京都の太秦にある三菱の工場へ行くことになっている」
「ウオーッ」という何とも言えない声が教室に充満した。
「早速、明後日の金曜日から二日間、太秦の工場へ行く。工場の各係りの人から工場全体の概要や、各部署での作業の説明があり、その後どんな機械を使ってどんな物を作っているのか、作業の手順はどうかなどを見学する。それから明日は三年用の教科書等、学習に必要なものを販売する。必要なものの一覧表を配布するので、明日はその心づもりで登校するように。しかし勉強のための時間割は工場動員のために、今のところ作っていない。もし勉強できるようになれば、時間割を作って発表する。なお、学徒動員の印として、一覧表の下にも書いておいたが、ボール紙を直径八センチほどの円に切って、赤い布で覆い、その表面に「学」を図案化した文字を墨で書いたものを胸につけてくること。裏には校名、名前、住所、血液型を忘れずに書き込んでおくこと」
 数学の先生らしく、コイは要点をてきぱきと大口をあけて説明してプリントを配った。

 秀作は張り切っていた。母に赤い布をもらい、動員票を作った。
  いよいよ自分も工場で働くんや。当分は勉強はでけへんけど、こんな時局にのうのうと学校で勉強なんかしてられへん。三菱へ行っ  て飛行機の部品を作る。それがちょっとでも国のためになるんやったら、できるだけのことをしよう。
 母は秀作達が京都の工場へ動員されると聞いて、ほっとした顔をした。
「愛知県みたいな遠いとこへ連れていかれたら、どないしようと思うてたんや。まあ京都でよかったわ。せやけど、もう勉強はでけへんな。工場の工員はんと同じように仕事をせないかんやろし」
 母は勉強ができなくなるのが残念で仕方がなかったのであろう。何度も同じ言葉を繰り返した。
「時局が時局やさかい、仕様ないやんか。東京も大阪も名古屋も空襲でえらいことになってるらしい。京都かていつどうなるか分からへん。ちょっとでも、国のためになるんやったら、しばらく勉強がでけへんでもええやないか」
 秀作は口をとんがらせて母にかみついた。

 十三日から二日間太秦の工場へ通った。四条大宮まで市電で行き、そこから嵐電(京福電鉄嵐山線)に乗って「太秦」で下車する。そこから工場までは歩いて数分の距離であった。「太秦」の駅は嵐電の駅とも思えないような駅、線路沿いにプラットホームのようなものがあるだけで、ちょうど市電の停留所のような駅であった。「太秦」駅のすぐ北に、道を隔てて石段の上に端正な広隆寺の門がある。
 四条大宮までの市電の混みようはものすごかった。すし詰めとはまさにこの事かと思った。
 秀作達三中生は広い講堂に中に入った。そしてこの工場でどんな物を作っているのか、その製作手順、工場の配置など一応の説明の後、各組に分かれて工場の見学をした。
 秀作は初めて見る軍需工場の内部に圧倒されてしまった。忙しく立ち働く人々、かなりの年輩の人から中学生・女学生に至るまで、多くの人が轟々とうなっている機械を操作し、動き回っていた。
 外からは窺い知れない秘密主義の工場内部に、何か神秘的なものを感じていたのであるが、実際はすさまじい人間と機械の格闘の場であり、轟然たる騒音の中で必要以外、黙々として製品を作る真剣勝負の場であった。説明によると僅か0.01ミリの誤差も許されない厳しい工程もあるということだった。
 三中生は飛行機エンジンの吸入弁、排気弁製作の最終工程に携わることになっていた。各組に分かれて大体の工場見学の後、自分たちに割り当てられた弁製作の工程を念入りに見学した。送られてきた、ほぼ形が出来上がった弁を、ゲージを使ってその歪みを測り、バイトで削って磨きをかけ、最終的に製品に仕上げる工程である。
 硬いアルミ合金で出来ている吸入弁・排気弁とも、松茸のような形をしている。吸入弁の傘の部分は平たく、直径が八センチほどあり、軸の部分は直径一.五センチほど、長さは十センチほどある。エンジンに直接当たる部分は斜めにカットされている。その部分は精密にカットされており光り輝いている。
 排気弁は吸入弁と比べると、全体にずんぐりしていて、少し小さい。軸の部分は吸入弁よりかなり太く、傘の部分は吸入弁よりも大分小さいがかなりの厚みがある。これは軸から傘の部分にかけて中が空洞になっており、ある一定量の熱伝導効率のよいナトリウムが封入されているからである。ナトリウムは面白い金属で、常温では粉末状であるが、約百度以上になると液状になる。吸入弁にナトリウムを封入するのはこの点を利用したものであるが、一方非常に危険な物質でもある。ナトリウムは酸素と化合しやすく、空気中の水分や水と激しく反応して水素を発生する。その際、極めて高温となるので取り扱いには十分注意しなければならない。このナトリウムが排気弁の中で移動することによって、弁全体を冷却する。吸入するガソリンの温度は低い。エンジンの中で空気と混合されたガソリンが爆発して回転力を生み出すのであるが、その燃えかす、即ち排気ガスの温度は極めて高い。従って排気弁は排気ガスを放出する際に高温になる。弁の中でナトリウムが移動することによって弁の温度の上昇を抑える。排気弁の形が吸入弁よりずんぐりしているのはそういう理由によるものであった。
 工場で働いている若い一般工員、挺身隊の女子工員、動員された中学生や女学生が見学に来た秀作達を、何の感情もない、無表情の顔で迎えた。一所懸命働いているせいなのか、仕事に疲れているためなのか、それとも新参者が来よったと見下しているためか、冷たい目で秀作達をちらっと一瞥するだけであった。彼らの動きは全く機械的で、その人達の表情から何も推測することはできなかった。
 新たに加わる、自分たちよりも年下の三中生に対して、極めて冷淡な態度をとっている人達を見ていると、何か厳しいが寒々としたものを秀作は感じた。そして働いているうちに自分もあのような態度をとるようになるのではないかという危惧の念にとらわれた。
 三中生が担当することになっている弁の最終工程で働いている人達の中の、少し年輩の人が、大きな声で解説に当たった。年がいっているだけに、その考え方や態度に余裕があり、微笑を浮かべ、分かりやすくその工程の説明をした。
 回りの厳しい雰囲気と冷たい工員達の視線の中で、緊張し、不安な目をしていた三中生は少し和やかな、ほっとした気分になった。 工程の説明は興味があったが、一つ一つの作業は極めて厳密であるということが分かってきた。僅かな誤差も許されない。誤差が大きいと最終検査に通らず、次々とオシャカとされて、再度この工程に戻ってくる。中には廃棄処分となるものもある。いかにオシャカを少なくするか、完全な製品をいかに多く生産するか、これが最重要点であると、話の最後を締めくくり、次いで実演に入った。
 排気弁の軸の先端をくわえた旋盤が回転する。軸に当てられたゲージの針が大きく振れている。それを金属の棒でたたいて振れを小さくする。慣れた人なら二・三回たたくだけでほとんど針がふれなくなるが、新米はそうはいかない。下手にたたくと振れがかえって大きくなってしまう。初めはこの振れを小さくする練習を何度も何度も繰り返してやらなくてはならない。振れが小さくなってゲージの針がほとんど振れなくなると、今度はバイトを当てがって弁の表面を削る作業に入る。何ミリ削るかが決まっており、正確に削らないといけない。ところが硬いアルミ合金を削るのであるから、バイトの歯がすぐに鈍ってしまう。鈍ったバイトの歯をグラインダーで研ぐ。しかしアルミ合金を削るバイトはアルミ合金より硬い。そのバイトを研ぐグラインダーはすぐその表面が不規則に磨滅して変形する。その変形したグラインダーを今度はダイヤで整形する。こうした作業を見ているうちに、初めは面白そうに見えた作業も、面白いどころではない、大変な神経を使う仕事だと思った。
 こうして一応の見学を終えて、三中生は四月十六日、桃山御陵へ必勝祈願と工場動員の報告のため行軍、四月十七日よりいよいよ三菱太秦工場へ動員と決定された。

          3

 四月十六日の朝、学校を出発した秀作たち三中三年生は、教練担当のトンコーこと伊藤準尉の指揮のもと、桃山御陵を目指して行軍していた。
 途中で小休止をした後、出発間際になってトンコーが生徒に訊いた。
「少しだれてきたので、暫く軍歌でも歌おうか。何がええかな」
 誰かが「戦友」と言った。
「馬鹿もん。あれは軍歌ではない」
「何で軍歌でないんやろ」
 みんな一瞬きょとんとした。
「あんな陰気くさい歌は歌わん。軍歌でもない。何か他の歌にせい。何、万朶(ばんだ)の桜、うん、その歌ならええわ。ところでこの歌の題は何というのか知っとるか」
 一瞬、静かになった。秀作も知らなかった。すると後ろの方で「歩兵の本領」と小さい声で言う者がいた。振り返るとそれは安田であった。
 安田は流行歌であろうと軍歌であろうと、歌のことなら何でも知っている男だった。
「えらい、よう知っとる」
 珍しいことにトンコーは褒めた。
「整列。それでは『歩兵の本領』の一番と二番、『日本陸軍』の一番と二番を二度繰りかえす。前へ進め」
 行軍が再開されて暫くの間、軍歌を歌った。一つの組の中で、前半分が先に「万朶の桜か襟の色」と歌うと、後半分が「万朶の桜か襟の色」と同じ節を繰り返す。

「万朶の桜か襟の色
 花は吉野に嵐吹く
 大和男子(おのこ)と生まれなば
 散兵線の花と散れ

 天余の銃は武器ならず
 寸余の剣何かせん
 知らずやここに二千年
 鍛え鍛えし大和魂(やまとだま)」

 次いで『日本陸軍』を歌う。
「天に代わりて不義を討つ
 忠勇無双のわが兵は
 歓呼の声に送られて
 今ぞ出で立つ父母の国
 勝たずば生きて還らじと
 誓う心の勇ましさ」

 ここまで歌って秀作はにやっと思い出し笑いをした。
 以前、ある上級生が「忠勇無双のわが兵は」のところを「チュウチュウねずみの運動会」と小声で歌ったにもかかわらず、すぐ近くを歩いていた配将に耳ざとく聞きとがめられて、行軍の列から胸ぐらを掴まれて引き出され、殴り倒された話を思い出したからである。

 軍歌を歌うとしっかり歩調が合ってくる。二回通り歌って、元気が出てきたところで、軍歌を止めた。ところが、またぞろぞろした行軍になった。しかし、まあ行軍は順調に進んでいたといってよい。学校から桃山御陵まで約十五キロ、昼食の休憩時間を含めて約五時間の行程である。正午過ぎ、伏見区内を行軍中に警戒警報、続いて空襲警報が鳴り響いた。直ちに行軍は停止、道路の両側の家の軒先などに身を隠した。B29が一機、東から西へ飛んで行ったと思う間もなく、遠くで「ドン、ドーン」と腹に響く爆弾の炸裂音が聞こえてきた。
「空襲や」
「どの辺やろ」
 みんな音のした方を向いて口々に叫んだ。方角からすると学校の方である。三中の学区のどこかがやられていると思った。伊藤教官も心配そうな顔で、伸び上がってその方を見ている。しかし家並みに遮られて何も見えなかった。
 やがて空襲警報、警戒警報の順に警報は解除された。行軍は停止したまま、その場で昼食となった。それぞれ班別にひとかたまりになって昼食を食べたのであるが、どうも落ち着かなかった。自分の家がやられたのではないかという不安があった。しかしそれを確かめる方法がなかった。
 それぞれに不安を抱きながら、行軍は再開された。予定より少し遅れて桃山御陵に到着、組毎に参拝、後は流れ解散となり、各自家路についた。帰りの電車の中でも、話題はもっぱら今日の空襲の事であった。

 次の日、「太秦」で嵐電を降りると、生徒が停留所の辺りに大勢集まっていた。工場へ行く道に先生が立っていて、行こうとする生徒を押し止めていた。やがて広隆寺の門前で「ビーッ」と笛が鳴った。コイが門の石段の最上段に立って大声で言った。
「昨日、三菱の太秦工場が爆撃されて、本日は後始末のため操業を中止している。君たちはいったん学校へ帰り、担任の指示があるまで教室で待機せよ」
「ウァーッ」という何とも言えないどよめきが生徒の間に起こった。
 そして口々に大きな声で叫んだ。
「これからどないなるねん」
「一日違いでえらいことになるとこやった」
「昨日の昼のあのドーンという音がしたのがこの空襲やったんや」
 三百人の生徒が一斉にわめきだし、それからやおら、ぞろぞろと停留所に向かった。

 嵐電の数が少なく、生徒全員が学校に戻って来るまでかなりの時間がかかった。
 教室は蜂の巣をつついたようになっていた。どこからそんな情報を仕入れてくるのか秀作にはよく分からなかったが、昨日の空襲の被害についてかなりよく知っている者がいた。その回りに大勢の者が集まって、大きな声でしゃべり合っている。その話を総合するとおよそ次のようであった。
 爆撃はちょうど昼頃、B29一機が約十発の爆弾を太秦近辺に投下した。目標は三菱の軍需工場であったと思われるが、狙いが外れて工場の外に落ちた爆弾も数発あったらしい。この爆撃による被害は死者、重軽傷者含めて約五十人、死んだ人は二名ほどらしい。学徒動員で働いていた中学生や女学生も被害を受けている。工場の機械もかなり破壊されて目下操業不能となっている。
 当然極秘となっているような、こうした被害状況が、もう中学生に知られているということに秀作は驚くと共に、秘密というのはなかなか守り難いものだと思った。しかしこうした被害状況は隠しておくよりみんなに知らせておく方が、空襲に備える心構えが出来るのではないかとも思った。
 爆撃を受けた時の、中学生や女学生の話も秀作の興味をそそった。特に女学生は哀れを止めたようである。昼食時でのんびりしていたところを、不意を打たれ、慌てて防空壕に駆け込んだ女学生の中には、空襲の後、泣き叫んでしばらくは手がつけられなかった者もいたらしい。誰であれ、自分の生命が脅かされる場面に直面すると、女学生ならずとも、我を忘れて思わぬ行動に出ないとも限らないと思った。
 コイが教室に入ってきて、やっと静かになった。
「昨日、君たちがやることになっていた工程の工場に爆弾が落とされた。工場の建物が修復され、破壊された機械を修理したり、新しい機械を入れるのに相当時間がかかるということだ。従って操業できるようになるまで、君たちは学校で勉強する」
「えーっ、勉強やて。いまさらかなわんなあ」
「工場で働くと思うてたのに。今頃勉強やいうても、その気にならへんがな」
 勉強から放免されたと思っていたのに、という気持ちが、「勉強だ」と言われて当てが外れ、口々に不満をとなえた。
「馬鹿もん。本来ならば君たちは勉強に専念しなければいかんのだ。こういう時勢だから工場動員ということになったけれど、こうしてまた、たとえ僅かな期間でも勉強が出来るということに、感謝せないかん。文句を言うことではない」
 コイは生徒全員を睨み付けた。その後声を少し和らげて言った。
「時間割を発表する。何日勉強できるか分からないが、しっかり勉強してくれ。いいか、だらだらした気持ちで学校に来るなよ。今、現在を大事にするんだ。これから先、何が起こるか分からない。だから君たちの本来の仕事である勉強に専念するんだ。勉強できる間に、だ」
 教室の中は静まりかえっていた。

          4

 学校の授業はたんたんと進められた。そのうちに工場の復旧には最低一ヶ月ぐらいかかるらしいという噂が流れた。
 五月初めのある日の朝礼時、コイから今後の予定を聞かされた。
「君たち三年生全員は、明後日より十日間、丹後の天橋立のそばにある旅館に宿泊して、舞鶴鎮守府から派遣される海軍の教官の指導のもとに海洋訓練を受けることになった。その間に、三菱太秦工場から君たちが担当することになっていた工程の機械を、本校の体育館及び控室に運び込み、学校工場とする作業が行われる。海洋訓練から帰ったら、すぐにでも操業出来るように準備すると三菱は言っている。学校ならば、B29も狙わないだろうということだ」

 筆記用具、ノート、着替え、洗面用具、それに米を少々リュックに詰め込んで、三中三年生は元気よく花園駅から列車に乗り込んだ。
 秀作は山陰線の汽車に乗るのは初めて、また有名な「天橋立」へ行くのも初めてであった。途中、列車の窓から見える風景は、秀作の田舎へ行く風景と大した違いはなかったが、全く知らない土地へ出かけるという事で緊張し、興奮していた。
 天橋立駅で下車、そこから天橋立を徒歩で対岸の江尻へと向かった。天橋立は細長い砂洲のようなもので、道の両側は松林である。林の向こうは海、北に向かって右は宮津湾、左は阿蘇海である。駅から歩いて約一時間の道のりであった。秀作達は遊覧船の船着場である一の宮桟橋のすぐ近くの小高いところにある旅館に入った。
 各自、予め決められている部屋に荷物を置き、すぐに大部屋に集合、点呼の後、海洋訓練開始の行事が行われた。学校関係及び舞鶴鎮守府関係の代表者による一通りの挨拶があって、訓練を指導する海軍関係者が紹介された。各組別の訓練日程も張り出され、みんなそれをノートに写した。学校とは違い、時間は厳正に守られるということであったので、各訓練の始まりと終わりの時間は間違えないよう確認して写した。
 訓練には、いわゆる学科と称するものと、体を使う訓練、即ち海軍体操、手旗、カッター等の訓練があった。さらに夜は海軍の教官による「よもやま話」とでもいうべきか、海軍に関するいろいろな話を聞く時間も設定されていた。これは大広間で生徒全員を集めて行われることになっていた。
 こうした伝達や諸注意の後、各自部屋に戻って、私物の整理、自由時間、六時の夕食、七時からの「海軍の話」と、日程通り進められた。

 学科といっても、何も難しい学問的なことではなかった。日露戦争の時、東郷元帥率いる日本艦隊がどんな戦略でロシア艦隊を撃滅したかとか、帝国海軍が現有する軍艦、各軍艦の大きさ、種類、装備、速力など秀作達にも十分興味のもてる話であった。
 特に戦艦など大型艦船が装備している三十センチ砲、四十センチ砲の威力には驚いた。口径が三十センチ、四十センチもある大砲から打ち出された砲弾は一万メートルも飛び、敵の軍艦に当たると、少々部厚い装甲で固められている軍艦でも打ち抜いてしまう。勿論、敵もこの程度の大砲を備えているので、こちらは敵の弾に当たらないよう、ジグザグに進む。ジグザグに進みながら、そして敵もジグザグに艦を動かしているので、敵艦との距離は絶えず変化しており、お互い弾を艦に命中させるのは至難の技である。海上であるから、当然波も立っている。波の高さも時々刻々変化する。風も吹いている。どの方向から、どの程度の強さの風が吹いているかも測定する必要がある。こうしたすべての悪条件を克服して、敵艦に弾を命中させる訓練を、我が海軍は十分に積んでいる。
 しかも我が帝国海軍には世界に誇る巨大戦艦武蔵・大和がある。
 しかしこの戦争は、今や艦の大きさや大砲の威力だけでは勝てなくなってきている。一番大きな影響力を持っているのは飛行機である。開戦当初、イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウエールズと巡洋戦艦レパルスを轟沈させたのは我が軍の飛行機であった。各海戦の死命を制するのは、航空母艦に積んでいる艦載機である。航空母艦には雷撃機や戦闘機を積んでいるが、我が海軍の零戦にかなう戦闘機はない。日本海軍がここまで勝利を収めてきたのは、この零戦のお陰である。
 生徒はみんな、こうした話しに目を輝かせて聞き入った。
 その他、飛行機の種類、装備、速力など飛行機の性能に関する話、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各軍港に鎮守府があり、横須賀はヨコチン、呉はクレチン、佐世保はサセチン、これはひどい、サチンだ、舞鶴はマイチンと言っているというのを聞いて、大爆笑になった。また海軍の制服、階級、日本海軍の指揮命令系統など、日本の海軍の概略を知る基礎的な話が、冗談を交えながら、数回に分けて話された。なかなか楽しい時間であった。

 毎夜行われる「海軍よもやま話」は、大日本帝国海軍の訓練の内容やそのつらさ、現在、海軍がどこでどのように戦っているかーーこれには「ここだけの話だが」という前置きで、苦戦している状況も付け加えられたーーまた、海軍から見た大東亜戦争の見通しなど、興味深い話が、次々と人を変えて話された。
 昼間の学科の時間に話しきれなかったことも、ここで追加として話題になった。
 零戦が優秀な戦闘機である理由として、空中戦では敵機の背後につけて後ろから攻撃するのが敵機を撃墜する最重要点であるが、その際の零戦の回転能力の高さ、素晴らしい速力などが相俟って、アメリカの戦闘機に対して圧倒的に有利に攻撃を仕掛けることが出来ることなど、手振り、身振りを交えての話に、生徒は実戦を頭に描きながら、自分が零戦の操縦士になったような気になって耳を傾けた。
 また、よく知られている「月月火水木金金」の実際はどうなのか、こんなに働きづめ、動きづめではいざ実戦となった時、疲れてしまって身体がいうことをきかないなんてことにならないよう、しっかり鍛えている。従ってその訓練たるや、言語を絶する猛烈なものであるといった話を、実例をまじえて面白おかしく話したので大笑いになったこともある。
 狭い潜水艦内での生活の話、敵前や敵の飛行機が飛んでいる時には潜望鏡はうっかり出せないこと、特に飛行機には発見されやすいのでかなり深く潜ったりすること、八千メートルも離れている敵艦に三十センチ砲の弾を命中させるにはどうするかなど、話題はつきなかった。

 秀作を最も悩ませたものはモールス信号であった。短信号(・)と長信号(ー)の組み合わせで「い、ろ、は」といった平仮名や種々の数字・記号が表されるのであるが、すぐごっちゃになってしまって、何が何だか分からなくなってしまう。同じように困っている同じ組の八田から、イはイトー(・ー)、ロはロジョーホコー(・ー・ー)と覚えやすい言葉に代えて暗記するとよいと言って、その一覧表を見せてもらった。「これだ」と思ってその表をノートに写し、必死になって覚えた。ところが、いざ実際に使ってみようとすると、うまくいかない。発信されるモールス信号を、いちいち覚えた言葉に置き換えないと、それが何の文字であるのか分からないので、それを思い出しているうちに、送られてくる信号はどんどん先に進んでしまう。結局、終わってみると、送られた十~十五程度の文字を、とびとびに三・四字ぐらいしか解読していないということになった。送られた信号を、直ちに文字や数字に頭の中で転換するのでなければ、何の役にも立たないということが分かった。しかし一度、言葉に置き換えてから文字を考えるという方法を覚え込んでしまうと、今度はその言葉がつい頭に浮かんできて、それにこだわってしまう。秀作はこの時点でモールス信号にまともに取り組むのをあきらめてしまった。十日間の訓練中にモールス信号にある程度熟達した者が、結構大勢いたのであるが、秀作は羨ましく思うだけで、己の無能さかげんに愛想を尽かした。

 学科やモールス信号の訓練は旅館の一室で行われたが、海軍体操や手旗など体を動かす訓練は、旅館の前の広場や近くの神社の境内で行われた。
 手旗信号はモールス信号よりもずっと簡単ですぐ覚えられた。赤と白の手旗を使って、カタカナの文字を作ると言ってしまうと言い過ぎかも知れないが、それに近い動作をすればよかったのである。
 ただ信号を送る時の姿勢についてはやかましく注意された。また連続して信号が手旗で送られた場合、集中していないと読み損なってしまう点などに注意すればよかった。
 
 体を使う訓練で、最もつらく、苦しいものはカッター訓練であった。
 片側に六人、両側で計十二人が橈(かい、オールのこと)を揃えて、水澄ましの如くにすいすいと海上を漕いで行く様は、映画で何度も見たことがある。そんな姿を夢見て、カッター訓練には大きな期待があった。
 ところが初めてカッターに乗り込んで、橈を見た時、こんな太い橈で果たして漕げるのかと秀作は思った。何しろ自分の腕よりも大分太い橈だったからである。しかも長さは五メートルほどもある。いわば自分の腕よりも太い五メートル近くの丸太ん棒で漕ぐようなもので、そんな棒は持つだけでも重い。
 初めて橈を橈座から水に下ろした時、橈は水面近くに浮いているので、なんなく漕げるように思われた。しかし橈を握って、いざ漕ぐ段になると、何とその重いこと、嵐山のボートの比ではない。あまり重いので橈先の平たくなっているところの角度を変えて、水平近くにすると橈は動くが、それではカッターを進める力が出てこない。間髪を入れず、教官から「橈の向きが違う」と怒鳴られる。
「ピーッ、ピーッ」と教官の吹く笛に合わせて橈を漕ぐ。しかしどうしても遅れてくる。叱咤の声がかかる。必死になって笛に合わせようとするが、腕が鈍ってくる、その上、橈を握る握力も落ちてくる。橈がバラバラに動いて前後の橈がぶつかったりする。
 教官は苦笑して、「橈上げー」の声に、橈を水平にして一休みする。いろいろ注意を受けてまた漕ぎ出す。これを何度か繰り返しているうちに、何とか橈が揃うようになった。勿論、教官は疲労の程度を考慮に入れて、極めてゆっくりしたペースに落としてくれてはいたのだけれど。
 二日目、三日目になると、手にマメができ、腹の皮が突っ張って、少し力を入れただけで皮が痛む。大便の時も気張れない。力を入れると痛いので、海軍体操や手旗の訓練も何となく元気がなくなってくる。
「腹に力を入れろ」と怒鳴られる。
 そんな状態でカッターを漕ぐのだから、力強くカッターが進むはずがない。何度も叱られ、怒鳴りつけられてようように桟橋にたどり着く。教官の方から見れば、多少手加減をしたつもりであったと思われるが、生徒の方から見れば、手加減どころか、鬼のように見えた。しかし四日目、五日目とようやく訓練日程の半ば過ぎから腹の皮の痛みも取れて、動きが活発になった。海軍体操も、手旗もすべてうまく運び出した。
 カッターには「橈立て」というのがある。これは橈を垂直に立てるのであるが、水を含んで重くなった橈を、疲れた腕で立てるのはなかなか難しい。うまく反動を利用してすっと立つ時もあるが、えてして橈を支える力が弱くて、「ばちゃーん」と水に落としてしまう。一本でも橈が落ちると、それまで惰力で進んでいたカッターは、橈が落ちた側にブレーキがかかり、カッターは向きを変えてしまう。しかもいったん水に落としてしまうと、もう一度立てるのに倍の力がいるように思われた。
「しまった」という気持ちと、「早く立てないと」というあせりから、すんなり橈を立たせるどころか、途中からまた落ちてしまう。しかしこんな失敗も何度か繰り返すうちに、「橈立て」の号令と共に、さっと橈が立つようになった。練習とはすごいものである。
 海上で「橈組め」の号令で、カッター内で左右の橈が交差するように橈を引く。これはいわば、完全な休憩で、手を橈から離しても、橈先が海面よりもかなり高い位置にあるの大丈夫である。カッターは波まかせ、さざ波が舷側にあたって「ちゃぷ、ちゃぷ」音を立てている。こんな時、教官はカッターにまつわる笑い話や訓練の失敗談などをして時を過ごす。カッター訓練中、この時が一番楽しい時であった。やがて時計を見て、「橈用意」
 帰りはゆっくり桟橋へ向かったものであった。
 カッター訓練の最終日は一の宮桟橋から文殊の桟橋まで往復した。行きは笛に合わせて、一気に文殊まで漕いだ。あの映画に出てくるシーンのようではないかと思いながら。しかし文殊の手前で、先に到着した他の組のカッターが「橈立て」で迎えてくれたので、こちらも「橈立て」の返礼をする段になって、少しもたついた。四キロ近くを一気に漕いだためか息が上がってしまったのである。相手はこちらの様子を見ながら、にやにや笑っている。教官は「ここで恥をかくな」と一喝を入れる。何とか全員の橈が一斉に立って面目を保った。カッターをゆっくり回して、一の宮桟橋へと帰途についた。
「まだまだ一人前とは言われんが、一応カッターが漕げるという段階で訓練も終わりだな。よう頑張った」
 教官はにこにこ笑いながらねぎらってくれた。

第四章 三中三年生 5・6・7


          5

 ある晩、「海軍の話」の時間に、この夜限りでここを離れて、舞鶴に戻り、南方へ向かう軍艦に乗船することになった士官が、別れの挨拶に立った。まだ二十代半ばの海兵出身の少尉で、名は「松本」、正式の真っ白な軍装に身を包んでいた。その凛々しい姿に生徒はみんな見ほれてしまった。
 少尉は目をかすかに潤ませていたが、決然とした表情で話し出した。生徒は静まり返り、姿勢を正して聞き入った。
「俺は今夜、舞鶴に帰り、明日、戦場へ出発する。戦況は必ずしも良くないが、命の限り戦ってくる。敵の軍艦を一杯でも多く撃沈し、日本の勝利への道を切り開くために、この身を捧げるつもりである。いつどこで生命を失うか分からないが、その覚悟は出来ている」 そこまで言って、急に声を大きくした。
「後はお前らに頼む。お前らがここでしっかり大和魂を鍛え、大東亜戦争に勝ち抜く気力を養ってくれ。分かったか」
「はい」
 生徒は全員、大きな声で返事した。
 秀作は何とも言えない気持ちになった。
  こんな素晴らしい海軍の士官が、生命を落とすなんて考えられない。こんな人達が次々に死んでいったら、後に残されたものはどう  したらいいのか分からないではないか。ここで受ける訓練なんてたかが知れている。僕たち中学三年生が、この士官の年齢に達する  まで生きているとは限らないし、仮に生きていたとして、この士官ほどの能力を得られるのだろうか。
 回りが少しざわめいた。
 戦場に赴く松本少尉の代わって、戦場から帰ってきた士官が前に立った。中尉であった。「俺の名前は川井、海軍中尉だ。前任者の松本少尉に代わって、俺が君たちの訓練を担当する。一昨日、南方海域から舞鎮に戻ったばかりで、気は荒いぞ。びしびしやるからそのつもりでおれ」
 真っ黒に日焼けした精悍な顔が、南方帰りを物語っており、その爛々と光る目が三中生を圧倒した。

 散会後、秀作はすぐ自分の班の部屋に戻って、身の回りやノートの整理をしていたが、自分の部屋に戻らず、去りゆく少尉と新しい教官である川井中尉を囲んで話をした者が十人近くいた。その連中が部屋に戻ってきて、話の内容を皆に知らせた。
「中尉さんの話によると、松本少尉は本当に戦死するかも分からへんということや。行き先は分かっているが、お前らには言えん、軍の秘密やそうな。しかし、一番危ない海へ行くことになってるんやそうな。松本少尉はそれを十分承知してはる。自分でそう言うてはるんやから。それから川井中尉は命からがら舞鶴に帰ってきはったと言うてはったで。それで休暇をかねて、ここで僕らの訓練をしてくれはるんやて。また、こんなことも言うてはった。お前らはどういう話を聞いてるか知らんが、大きな声では言えんことやから、ここだけのことにしてもらいたいが、現在、日本は負けている。海軍の有力な艦船はもうほとんど沈んでしまって、敵の海軍に太刀打ち出来るだけの船はあまり残っていない。このままで行ったら、日本は負けてしまう。家へ帰って、海軍の南方帰りの中尉がこんな事を言うてたなんて言うなよって。そない言うてはった」
 秀作はこの話を聞いて、もうそこまで来てるんかと思った。そして何かを思いついたように、急に階段を駆け下りて、教官の部屋に向かおうとした。その時、旅館の玄関に大勢の人だかりがしているのに気がつき、そちらへ走った。
「それでは行きます」
 少尉のきっぱりした声がした。
「おおーっ」
 見送る海軍の士官や下士官、兵が腹の底から力強い声で応えた。
 ふと、少尉のすぐ横に立っている若い兵の顔を見た。日頃、少尉の命令を受けたり、世話をしたりしていたその兵は、滂沱(ぼうだ)の涙を流しながら、じっと少尉の方を注目したまま動かなかった。
 少尉は海軍式の挙手の敬礼をして桟橋へ向かった。
 ポンポン蒸気の小舟が一隻、少尉を乗せて、天橋立駅のある文殊に向かって水面を流れるように走り、艫(とも)に立って手を振る少尉の白い姿は、夜の闇の中へ消えていった。
 見送る海軍関係者、三中の先生と生徒、そして旅館の人達も桟橋に立っていつまでも手を振り続けいた。

          6

 海洋訓練の日程を半分ほどこなした日の午後、手旗やカッター訓練をやめて、傘松公園へ登ることになった。
 有名な「股のぞき」の場所である。
 天橋立は宮島、松島とならぶ日本三景の一つである。秀作はその名前だけは聞いたり、雑誌や教科書で読んだり習ったりして知っていたが、そのどれにも行ったことがない。折角天橋立に来たのだから、傘松に登って「股のぞき」をしてみたいと切に願っていた。
 カッター訓練中に海上から眺める天橋立は、ただ横に松林がずっと続いているだけである。最初は「これが有名な天橋立だ、なかなかきれいや」とは思ったが、毎日見ていると、変化に乏しい横一線の風景に飽きてきた。そういうわけで、「今日の午後は傘松に登って、股のぞきをする」と、朝礼の終わりに、教官から話があった時、にんまりした。
「ただし、戦時中のため、ケーブルは動いていない。歩いて登る。傘松はすぐそこだ。走っても大したことはない」
 どっと笑い声が生徒の中から起こった。
 初夏の午後の太陽はかなり強い光線を投げていた。
 旅館からケーブルの駅までほんの数分である。そこからケーブルに沿って階段状の道が上に続いている。そこを、えっちらおっちら登る。時々後ろを振り返って、徐々に拡がる風景を見る。そんなに高い山ではなかったが、急な坂でかなりきつかった。途中で何度か立ち止まり、汗を拭った。汗が後から後から湧いて出てきた。
 上に登ると、涼しげな風が吹いていた。先に上がった連中がさかんに股のぞきをしている。秀作も股のぞきの出来る場所に走っていって、のぞいてみた。背を伸ばして振り返り、天橋立を真正面からじっと眺め、また向きを変えてのぞいた。股のぞきをすると、それまでの風景が逆転する。濃緑の松林が細長く続き、その向こうには山々がかすんで青紫色の姿を逆さに海に写している。
 阿蘇海は縮緬のようなさざ波がたって、映している山や雲の輪郭をぼやかしている。
 体を起こして、向きを変え、天橋立から文殊、そこからずっと西の山波に目を移す。あまり高くない山々が低く連なり、初夏の日射しの中でゆらめいている。また、股からのぞいてみる。逆さに映る海がきらきらと微妙な光りを反射してまぶしい。目を細めてみると、その光り輝く海の真ん中に漁船らしい小舟がゆっくり動いている。櫓を漕いでいる人が左右にかすかに揺れて、操り人形のように見える。
 平和な風景であった。
  戦争なんてどこで行われているんだろうか。どこかで毎日のように人が死んでるなんて本当だろうか。日本のどこかの都市が次々と  B29の餌食になっているなんて、単なる空想に過ぎないのではなかろうか。
 あくまでも美しい山と海、それらに囲まれた天橋立、そんな風景のまっただ中にいる自分が不思議であった。

 三日目頃からだったろうか。昼休みや夕食後の自由時間に、旅館の外や近くの神社にいると、男女の国民学校の生徒が三中生に近づきだした。話を聞いてみると、これが何と、京都市内の国民学校の五・六年生で、目下近くの寺などに疎開中だという。そのうちに「あの兄ちゃん、僕の京都の家の近くの兄ちゃんや」という子供がいた。二人は何事か小さい声でぼそぼそ話していた。
 後でその二人の話を聞いてみると、何か非常に可哀想な気がした。
 もう数ヶ月も親元を離れてここに疎開していること、とても親に会いたがっていること、食事はかなり貧しく、時々畑などへ盗みに行くこと、ほとんど全員に虱がつき、さらに女の子は髪の毛に毛虱がついて痒くてたまらないことなど、ここでの暮らしを聞いていると、秀作は危うく涙ぐみそうになった。
 毎日言葉を交わしているうちに、中には三中生にくっついて、時間がきてもなかなか離れない子もいた。女の子はそれでも多少遠慮もあって、それ程のことはなかったが、男の子の中にはもうまるで弟にでもなったような気分でいる子もいた。
 海洋訓練が終わるその前日は、大勢の子供がやってきて三中生を取り巻いた。
「兄ちゃんら、ええなあ。明日、京都へ帰れるんやから」
「僕らも帰りたいわ」
「頼んで連れて帰ってもらおうかしらん」
 取り囲んでいる男の子の後ろに、そっと女の子も近づいて、もの言いたげな様子で遠巻きに立っていた。
「戦争に勝ったら帰れるんやから、もうちょっと頑張れや」
「京都はいつ空襲されるか分からへんさかい、辛抱せなしゃーないやんか」
 恐らく何度も聞かされたであろう、慰めにもならない言葉ではあったが、それでも三中生は子供達一人一人に声をかけていた。

 海洋訓練が終わり、旅館の前に整列して、舞鎮の教官にお礼の挨拶をした後、教官や旅館の人達に見送られて帰途についた。
 疎開してきている国民学校の生徒は、授業中だったのか、誰も見送りには来なかった。
 なまじ郷愁をかき立てるだけだから、あの子たちが見送りになんか来てくれない方がいいんだと、秀作は思った。

          7

 海洋訓練から帰洛(きらく)した次の日、登校した三中生は驚いた。
 太い電線が何本も束になって控室や体育館に導入され、中には機械が整然と並んでいた。工員が据え付けた機械の調子を点検しているのもあれば、もうすでに作業を始めているのもあった。控室の方には吸入弁用の機械、体育館には排気弁用の機械が入れられていた。 控室は暗いので、天井から大きな照明器具がいくつもぶら下がり、室内を明るく照らしていた。またそれぞれの機械の周辺も作業がし易いように照明されていた。
 体育館はガラス張りで照明がなくても相当明るいが、夜間操業に備えてか、要所要所にはきちんと照明器具が取り付けられていた。
 全く違った風景になった控室と体育館の内部を、物珍しそうに秀作はぐるぐる歩き回った。

 教室では、生徒全員が作業能率テストのようなものを受けた。どの工程を担当させるのかの目安とするということであった。
 三年生全員を校庭に集めて、今後の予定などについて、コイから話があった。
「明日、君たちの持ち場を決めて発表する。自分の割り当てられた工程の作業に慣れるまで、暫くは学校と同じように八時半始業、四時半終業とする。君たち全員を三班に分け、二班ずつ仕事を覚えてもらう。残った一班は自分たちの番が来るまで授業をする。全員が作業を覚えると、三交替で勤務することになる。朝組は午前六時から午後二時、昼組は午後二時から午後十時、夜組は午後十時から次の日の朝の午前六時まで、それぞれ一時間の休憩時間をはさんで八時間働いてもらう。月曜から土曜まで六日間働いて、日曜日は休む。次の週は、前の週に朝組だった組は昼組に、昼組は夜組に、夜組は朝組にと、一つずつずらす。三週間で一回りする勘定になる」
 グランドは騒然となった。特に徹夜の作業もあると聞いて、興奮は一層高まった。
 この非常時に、徹夜がイヤだとか、できないとか言っていられない。連日のように日本の大都市はB29の爆撃の脅威にさらされている。今や枢軸のイタリヤはもう敗退し、頼みのドイツも負けて、無条件降伏した。
  ドイツが負けるなんて。ヒットラーはどうした。ヒットラーユーゲントはどこへ消えた。ロンドンを恐怖のどん底に陥れたV1号や  V2号をもってしても勝てなかったのか。歴史の先生が言うてたように、ドイツが英仏軍をダンケルクに追いつめた時、軍艦を並べ  てでもイギリスに上陸すべきだったのに。
 秀三はドイツ降伏の報道にショックを受けたが、日本だけでも勝利を目指して戦わないと、今まで何をしてきたのか分からないと思った。
 五月九日には、日本政府は次のような声明を発表して、国民の一層の奮起を促している。
「帝国と盟を一にしたドイツの降伏は遺憾だが、日本の戦争遂行の決意は不変である」
 秀作は何としても負けられない、徹夜でも何でも、一機でも多くの飛行機を作って、アメリカに立ち向かわないと、と思った。
「静かにせんか。三年一・二組が第一班、三・四組が第二班、五・六組が第三班とする。明日、持場の発表があったら、早速、第一班と第二班は作業の見学、練習に入る。各工程担当の工員さんや係長さんの指示に従うこと。第三班は授業をするからその用意をしてこい」

 秀作は西田や久野らと共に、一・二組から六名がバフ工程に割り当てられた。バフ工程とは、弁製造の最終工程で、サンドペーパーのようなもので弁を磨き上げる工程である。ペーパーは上に細かい砂を糊付けしたものであるが、紙だとすぐ破れてしまうので、薄い布に砂をつけたものを使う。砂の目は少し荒いもの、中程度のもの、非常に細かいものと三種類あった。
 前工程から送られてきた弁(吸入弁)の表面の状況によってペーパーの種類を変えるのであるが、大抵は中程度で一度磨き、次いで細かいペーパーで仕上げる。荒目のペーパーを使うことはあまりないということであった。機械から真横に出ている、ゴムをはめ込んだ軸にペーパーを巻き付け、高速で回転させる。右手に軍手、左手に分厚い手袋をはめる。弁をペーパーに当てて、ゆっくり回転させながら磨く。かなり力を入れないと、きれいにペーパーがかからない。力を入れたとたん、弁が滑って、当てたペーパーから外れ、自分の手をペーパーで磨いてしまう。手袋に穴があき、血がにじんでくる。力の入れようによっては、左の手袋の甲をまともに突き破って、血が吹き出してくることもあった。六十年以上たった今でも、その時の傷跡が両手に残っている。
 作業に慣れてくるに従って、手に傷を負う回数も減っていった。ところが、問題は別にあった。これには、バフの仕事をしている者全員が困り果てた。コイにも話してみたが、「考えておく」だけで、いっこうに埒があきそうにもなかった。
 それは、弁に磨きをかける時に、細かい金属粉と砂が舞い上がり、三十分も作業をすると、マスクをしていても、鼻や口はもとより、顔、頭、首筋など、露出しているところはどこであれ、金属粉と砂にまみれてしまうことであった。一時間ほど研磨して、便所でうがいをすると、ねずみ色の水になったり、顔を洗うと薄黒く汚れた水が流れた。マスクは鼻の穴と口に当たるところだけが黒ずんでいた。
「こんなことしてたら、肺病になって死んでしまうがな」
「そのうちに目もやられて、目がみえんようになるんと違うやろか」
 バフに携わる者は不安であった。秀作や西田、久野など日頃仲の良い者が休憩時間に話し合って、コイに強く言おう、そのためにはまず親から話してもらうのが良い、ということになった。
 二・三の親がコイを訪ねてきて、バフ工程を見学した。知らない顔の人もいたので、きっと他の班の親で、秀作たちとも同じ悩みを親に打ち明けたのであろう。そして秀作の母も来た。
 二・三日してコイはバフの者を集めて説明した。
「工場の責任者と話し合った結果、次のようになった。二日間バフ工程の者は他の仕事を手伝ってもらう。その間に、バフの作業によって出る細かい砂や金属の粉を吸い取る装置をつける。マスクもいらなくなる程強力な装置だということだ」
 バフは控室の西南の隅にあった。南北に機械が並んでいたので工事は割合簡単なようであった。
 南側の窓に大きな扇風機というか、今でいう換気扇が取り付けられ、そこから太いトタンの円筒が工程の端まで延びていた。天井から太い針金でその円筒を釣り下げてあり、更にその円筒の途中に穴をあけて、各機械の作業箇所に届くように少し太めの円筒が延ばされていた。
 大した仕事もなかったので、秀作たちバフの者は時々その工事を見守った。餅は餅屋で二日間のうちに、極めてあっさりと工事は終わった。
 頭上で轟々とうなる扇風機の音は少々うるさかったが、手元の吸入口からは勢いよく空気が吸い込まれていた。試しにバフをかけてみると、粉塵はほとんど吸い込まれる。淡い煙のような塵すら吸い込んでしまう。もうこれで一安心だと思った。
 工場の責任者とコイが立ち会って試運転の結果を確認した。
 三日目から本格的にバフ作業を再開した。万一を考えてマスクをつけたが、一時間経っても二時間経っても、前のようにマスクは汚れなかった。しかし数時間もつけたままでいると、鼻や口の当たる部分がうっすら灰色になっていた。かなり強力な扇風機ではあったが、完全とは行かなかったのかも知れない。
 秀作はマスクをつけ続けていたが、中には「マスクはもういらん」と言って、はずした者もいた。そのうちに秀作もだんだんマスクをつけないままで作業をするようになった。
 粉塵問題も一応解決し、仕事にも慣れてきた頃、急にオシャカが増えてきた。検査係の工員から厳しい注文がついた。
「もっとちゃんとやってくれないと、オシャカが増えて困る。最終検査に通らんと、飛行機のエンジンに取り付ける弁がなくなってしまうやないか」
 初めのうちは、教えられた通り、きちんと作業していたのが、慣れるに従って、その作業がいい加減になっていたのである。最も大切な、弁がエンジンに当たる、斜めにカットされた部分に、うっかり手が滑ってバフをかけてしまうこともあった。そうすると工程を戻してその部分だけを加工し直さなくてはならない。二重三重の無駄な手間をかけることになる。バフではその箇所にふれないないよう細心の注意を払わなくてはならないのに。
 慣れによる怠慢で、つい集中力が欠けたのであろう。もし正式の三菱の工員であったら、ものすごいカミナリを落とされたことであろうが、秀作達には苦言を呈するだけですんだ。しかし、上の人を通じて話があったらしく、コイはバフの連中を集めて、「もう少しちゃんとせい」と一喝した。

 朝勤、昼勤、夜勤の三交替を一回りした時、各班を集めてコイから話があった。
「そろそろ工場の勤務にも慣れてきたことと思う。君たちはまことに幸運なことに、学校を工場にして働いている。よそでは考えられないことだ。この幸運を活用しない手はない。来週から授業をする」
 秀作達は唖然とした。
  八時間働いてまだその上に授業までするなんて。
「朝勤は午前六時から午後二時までであるから、その後二時間、昼勤は午後二時からであるので、その前、即ち十二時から二時間の授業をする。早速来週から実施する。予習は出来ないかも知れないが、こういう時節だからこそ、かえってしっかり勉強してもらわんといかん。三年の担任は勿論の事、一・二年担当の先生にも手伝ってもらって、わずか二時間ではあるが、勉強してもらう。いいか。今から時間割を配布する」
 否も応もなかった。
 時間割を見ると、国漢・数学・英語・物化などの教科が週に二、三時間ずつほど組まれていた。
 愛知県の半田に動員されている四・五年生に付き添って、多くの先生が出払ってしまっている。出征している先生も多い。従って、一・二年の授業に加えて三年も朝・昼勤合わせて四組四時間の授業をするとなると、現有勢力のすべてを動員するということになるのではないだろうか。それでも実施できない科目もあるに違いなかった。それは時間割からも読み取れた。歴史の授業が一時間しかなく、数学の時間が他の教科よりも多く入っていた。
「実は、夜勤の者にも、勤務前か後にたとえ一時間でも授業をしたかったんだが、これはちょっと無理だろうな。すこし様子を見ることにする」
 コイは生徒がどう反応するか十分承知の上であった。だから有無を言わせず、強引に授業を実施しようと決意したのであろう。
 声高な生徒の不満には一切耳をかそうとはしなかった。

 授業は機械の騒音があまり聞こえてこない、控室から木造校舎を隔ててさらに南にある、古い木造の理科室で行われた。博物の教室はいろいろな博物標本が部屋の後ろや横に並んでいたし、物理教室には実験用具が戸棚に収められていた。学校工場から切り離されており、気分を変えて勉強するのには、まあよさそうな教室であった。
 実際に授業が始まってみると、昼勤の昼の十二時からの授業の方がまだましであった。朝起きて、ちょっと予習をして学校へ行く。体は疲れていないし、頭の方も何とか授業に耐えることが出来た。ところが、朝勤が終わってからの二時間の授業はこたえた。まず眠い。朝の六時就業に間に合わせるためには、朝四時半には起きて学校へ来なくてはならない。間に休憩時間があるとはいえ、八時間働いて、すぐ後の二時間の授業はほとんど勉強にならなかった。授業中にうつらうつらと居眠りをする者が続出した。秀作も何度も後ろや横の者に背中や脇腹をつつかれて起こされた。やっと目を開けて、黒板や先生の顔を見るともなく見ているうちに、すぐ目が閉じてしまう。こんな生徒が教室のあちこちにいるという状況では、さぞかし先生も力の入らないことであったろう。居眠りするからといって、怒鳴りつけるわけにもいかない。特に朝勤後の生徒は、予習もろくすっぽしていないので、いわば、先生の独演のような授業になる。ただ聞いているだけであると、それが心地よいお経のようになって、ついつい睡魔に襲われるのであった。
 しかし、コイは許さなかった。居眠りする生徒の前に来て、大声で言った。
「眠るな。しっかり目を開けて授業を聞け。勉強できる時に勉強するんだ」
 幸いコイは数学を教えていたので、黒板にどんどん書き進む内容をノートに写さねばならない。手を動かしていると、何とか五十分の授業を眠らずに受けることは出来たのだが、それでも眠ってしまう者もいた。
 そんな時、コイは黒板に書く手を休めて、何とも言えない表情の目で、じっとその生徒を見た。決して生徒を殴ったり、叩いたりはしなかったが、その目を見ていると、何とか眠らないでいこうと、隣の者が眠り込んだ生徒の脇をつついたりした。

 最初のうちは、張り切って工場の仕事に全力をあげていたが、少しずつ疲れがたまり、仕事にも慣れによる飽きが来だした。一時間の休憩時間には欲も得もなく控室の外の壁にもたれたりして眠る生徒が増えだした。
 特に夜勤の場合、休憩時間になって、工場の機械が一斉に止まると、思いもかけない程の静寂が訪れた。あまりの静けさに、音を立てるのも気が引ける程であった。いつの間にか、働いていた人のほとんどが控室や体育館から出てしまっている。大急ぎで簡単な食事をすませ、眠るのである。休憩時間になって十五分もしないうちに、あちこちでいびきが聞こえてきた。
 休憩時間が終わって、再び機械に向かう時の、何とも言えない気分は到底筆舌に尽くし難い。まだ十五歳になったばかりの少年が、時局柄とはいえ、徹夜の作業をするのは、矢張り無理ではなかったかと今にして思う。
 朦朧とした頭、焦点の定まらない目、動きの鈍くなった身体、これでオシャカを作るなといっても所詮無いことであった。しかし秀作も久野や西田たちも、一所懸命であった。眠気を覚ますために、度々洗面所に顔を洗いに走ったり、頬をピシャピシャ叩いたりした。

 ようやく夜が白みはじめ、六時が近づいてくると、急に元気が出てきた。もう少ししたら、今日の仕事が終わりになるという気持ちと、早く家へ帰って眠りたいという気持ちからであった。終業のベルがなり、交替の生徒が入ってくる。機械の状況や、仕事の進捗状況など、二言三言、言葉を交わす。後ろの壁にもたせかけてあるカバンに自分の物をポンポンと放り込んで外に出る。後はもう一目散。白梅町からの市電はガラガラ。乗り越さないよう注意しながらも、眠りこけてしまう。
 家に帰っても、大した食欲はない。勿論、大した食事もない。昨夜の余りものみたいなものをかき込んで、後はもう布団にもぐり込むだけ。
 六月の蒸し暑い日などは、暗くするために引いた雨戸のため、寝苦しいことこの上なかった。夕方五時頃に起き出すが、疲れと寝不足のせいでだるくなった身体を板の間でゴロゴロさせる。みんなと一緒に夕食を食べ、ラジオを聞いて、ちょっとするともう学校に行かなくてはならない。
 夜勤の一週間はあっと言う間に過ぎ去ったが、身体の疲れは日曜日に眠っても眠っても取れなかった。

第四章 三中三年生 8.9.10


         8

 直接扇風機の風に当たるわけではないが、吸い込む空気のせいか、六月、七月の暑い時期でも、仕事中は比較的涼しかった。
「バフには扇風機がついていて、涼しいやんか」
 休み時間や、仕事中でも、暑くてたまらない時には涼みに来る連中もいた。
「いつでも仕事、代わったるで」
「いやいや、ちょっと涼むだけや」
「お前んとこの仕事、おもろそうやから、代わってぇな」
「なんもおもろいことなんかないで。慣れたら退屈なだけや」
 バフは、ほこりをかぶる、ということは誰も皆知っている。勝手に仕事を代わったりすることは、当然許されないことであったが、秀作たちは涼みに来る連中に「代わってくれ」「代わったろか」と冷やかした。

 ある日、一時間の休憩時間に、体育館の側で数人の生徒が集まって自転車に油を差していた。
「そんな油、どこで手に入れたんや」
「大きな声で言えんけどな、軸受けの廃油や」
 精密な加工をする旋盤は、軸受けのベアリングが磨耗したり、変形しないように絶えず新しい潤滑油を流し続けなくてはならない。軸受けの真上から、ポタリポタリと油の滴が一定の時間をおいて落ちる。その下に油受けがあり、その油は他の機械に再使用される。どうやら、最高の油の廃油をこっそり手に入れたのであろう。
「ヒデサク、お前んとこ、自転車あるんか」
 もうこの頃には、秀作のことを「シュウサク」と呼ぶ友人はいなかった。誰も彼も「ヒデサク」とか、それを更に省略して「ヒデ」と呼んでいた。
「あるで、古いのが」
「明日、乗ってこいや。油、切れてるやろ。たっぷり、油、差したるで。他のもんかて、家に自転車あったら乗ってこいや。この油、差したら、よう走るで」
 朝勤だったので、次の日は早朝、いつもよりは半時間ほど早く自転車に乗って家を出た。もう古い自転車で、走り出すとあちこちでギシギシ、キィキィ音がした。
 日曜日にはよくこの自転車で問屋まで品物の仕入れに乗って行ってたのであるが、最近は、問屋にも品物が少なくなって、仕入れに行く回数も減っていた。
 大宮から北大路千本までの登り坂は、いくら頑張っても、自転車に乗ったままでは登れない。大徳寺の横を通り、船岡山の麓にさしかかる頃にはもう自転車を押していた。北大路千本の手前の坂は、自転車を押すのもしんどいくらいである。しかしその後の何と楽であったことか。北大路千本から金閣寺前を過ぎ、平野神社あたりまで、ほとんどペダルを踏むこともなく、もの凄いスピードで自転車は駆け下りた。
 学校に着いたのは、まだ五時半前、これでは市電よりも速く着くのではないかと思った。しかし、北大路千本をはさむ登り坂のことを思うと、到底自転車通学はできないなあと思った。
 休憩時間にたっぷり油を差した。特に後輪のハブには十分差したので、音がしなくなった。チェーンにも油を差した。赤っぽく錆びていたチェーンは油を含んで赤黒くなり、いかにもよく回るように見えた。
 仕事の後の授業が終わり、軽くなった自転車に乗って家路についた。
 秀作はご機嫌だった。

 坦々と毎日が過ぎていた。夜勤の時以外は勉強をしながら、毎日八時間、学校工場で働く生活が少しずつ身体になじんできた。しかし、食糧不足はますますひどくなり、衣料品などもほとんど手に入らなくなった。母は子供たちに食べさせるために、嫁入りに持ってきた多くもない衣装を、一枚一枚、身体からはがすように、知り合いに頼んで米と交換した。その交換比率も日を追って悪くなっていった。
「百姓は着物ばかりもらっても仕様がない。もっと他に何かないかと言うとるんで」
 知り合いの言葉に、着物の上に、更に店の品物とか現金を添えた。
 毎日のように、日本のどこかが敵のB29や艦載機の攻撃にさらされていた。
 阿南陸軍大臣の「本土上陸決戦近し」の言葉に秀作は奮い立った。
「鬼畜米英に負けてたまるか」
 手製の竹槍と木刀を部屋の隅に立てかけて、時折裏で竹槍で、木銃よろしく「突き」の練習をした。
 鈴木内閣になってから、戦況は一層悪くなったように思われた。南方戦域だけでなく日本本土が危なくなってきていた。宮城にも爆弾が落ちたと新聞に載っていた。 
  これが神の国か。天皇が神さんやったら、自分の身近に爆弾が落ちないようにはできなかったのか。
 そう思う半面、こうも思った。
  神国日本はわれわれ日本人がどんなことをしてでも守り抜かねば。

 硫黄島が占領され、遂に沖縄も敵の手に渡った。

「ポツダム宣言」という言葉が新聞紙上に現れ、鈴木首相の「三国の共同声明黙殺」の記事を読んだ時、「当たり前や」と思った。

          9

「どーん」という腹にこたえる音がして、控室と三階建鉄筋校舎とをつなぐ渡り廊下の方から、白い煙が控室の中へ漂ってきた。
 昼食休憩時のことであった。
 控室の外の壁にもたれて、うつらうつら居眠りをしていた秀作は、「何事か」と飛び起きて、控室に入った。白煙の中から数名の生徒が走り出てきて、なにやら叫び声をあげている。顔面は蒼白であった。
 工場の人たちが慌てて走り寄ってきて、また逃げ出す。秀作は入りかけた控室から、白煙に追われるように外へと逃げた。
 暑い最中であったせいか、窓という窓は全部開け放たれており、出入り口の戸も開かれていた。休憩時で止まっていたバフの扇風機も、誰かがスイッチを入れたらしく、轟々と回り始めた。
 それでも白煙は急には消滅しなかったが、外から吹き込む僅かな風と扇風機のお陰で、暫くするとかなり薄くなった。
 コイをはじめとする数人の先生と工場の責任者とおぼしき人たちが渡り廊下に集まって何事か話し合っていた。
 秀作は何が起こったのか全く分からず、手当たり次第に尋ねてみた。ところが尋ねられた方も何も知らず、ただただ驚き、不安がって、逆に秀作に聞き返すという有様だった。中には爆弾が落ちたのではないかと恐ろしそうな顔で言う者もあった。しかし爆弾だったら、この程度では済まないのではないかと思った。
 休憩時間が終わる頃までには、それでも幾つかの情報を秀作は手に入れていた。
「誰かが防火用水槽に排気弁を投げ入れた」「排気弁の底に穴をあけて、水槽に放り込んだ奴がいる」
 秀作はそれを聞いて、思い出した。太秦工場で工程の説明があった時、排気弁にはナトリウムが入っていること、ナトリウムは水に激しく反応することを。
 排気弁に入っているナトリウムの量はそんなに多くない。それなのに、それを水槽に入れたら、工場全体を恐怖のどん底に陥れる程の反応を示す。
 ナトリウムの怖さを初めて知ったのである。
 時間が来て、工場はいつも通り、何事もなかったように動き始めた。しかし、出入口近くにあるバフで仕事をしていると、先生や工場の責任者の動きが慌ただしいのがよく分かった。
 その日の授業も、いつものように行われたが、生徒たちにはあの大事件の原因や工場に与えた損害等について何の説明もされなかった。漠然とした不安を覚えながら、秀作は帰途についた。
 次の日、少し早めに登校した。何人かが固まって、ひそひそ話をしている。そばによって話を聞いているうちに、昨日の事件の概略が分かってきた。

 排気弁の太田が中井に言った。
「この中のナトリウムを水槽に放り込んだらどないなるやろか」
「えらいことになるんと違うか。太秦での説明では『激しく反応する』と言うてはったんやから」
「その『激しく反応する』の『激しく』とはどんな程度なんやろか。中井、お前、見てみたいと思わへんか」
 横からおちょこちょいの山内が口を出した。「『激しく』言うたかて、大したことあらへんで。太田、いっぺん、やって見いひんか」
「やって見てもええけど、ちょっとこわいなあ」
 そう言いながら、太田は排気弁の底をドリルに当てて押し込んだ。
 穴があくと、それを持って水槽へ走った。中井も山内もその後から走った。そして遂に太田がそれを水槽に投げ込んだのである。
 太田は日頃から度胸の据わった男だという評判の高い奴であったが、あの反応の激しさには、さすがの太田も度肝を抜かれたらしい。白煙の下をはうようにして「逃げろ、逃げろ」とわめきながら脱出した。後の二人は白煙から何とか逃れると、へなへなとその場に座り込んでしまった。ところが、太田は白煙から僅かに逃れた所で立ち上がって、『激しく反応』した方をじっと見て、その後の成り行きを観察していたというから「さすがは太田や」ということになった。

 学校の方でもこの事件を捨ててはおけず、関係した生徒の親を呼び、三人に「謹慎」を申し渡した。
 実害といえば、弁一本だけのことであったし、戦時中、一人でも工場を休むと生産に響くというので、謹慎期間も短く、四日目には神妙な顔をして、それぞれの旋盤の前に立っていた。

      10

 八月七日の新聞に次のような記事が載っていた。
「六日、広島に新型爆弾投下。詳細は目下調査中」
 この週は秀作は昼勤だったので、朝食時に新聞を読んでいた。
「お母ちゃん、この新型爆弾て、どんな爆弾やろ」
 タプロイド一枚の新聞の記事を指して母に訊いた。
「さっきちょっと見たけど、よう分からん」
「白い布かなんか身につけてるとええと書いてあるで」
「ほな、熱いもんが落ちてきて、焼きつけるんやろか」
 十二時から授業があるので、十一時まえには家を出なければならない。それまでに新聞をもう一度よく読み、ラジオも聞いて、もし京都に同じような爆弾が落とされたらどうしたらええのかを考えなくてはならない。
「お母ちゃん、白い布あるの」
「あんまりないけど、探してみるわ」
 オムツのような白布の切れ端を弟たちの防空頭巾に縫いつけた。また切れ端に頭が入る程の穴を開けて、前後に垂らすようにした。
 弟たちはそれを見て「こんなんつけて学校へ行くのん、いやや」と言って、頭巾はかぶって行ったが、穴を開けた白布はそのままになった。
 秀作も穴を開けてはみたものの、それを身につけて行く気にはなれなかった。

 八月八日 大詔奉戴日。
 新型爆弾の防御法が新聞に載った。矢張り防空壕が一番安全なようであった。

 八月九日 ソ連参戦。

 八月十日 九日、長崎に新型爆弾投下の記事。
 八月十一日 「国体を護持、最後の一線を守るため国民も共に努力を」という下村情報局総裁の談話と、全軍将兵に決戦を促す阿南惟幾陸相の訓辞が新聞に掲載された。
 母はそれを繰り返し読んでいた。
「秀ちゃん、もうあかんのん違うやろか。新聞にこんな事を載せるようでは」
 秀作は引ったくる用に新聞を母から取って読んだ。
「どこにも、もうあかんなんて書いてないわ」
「そんなん、どこにも書いてないわ。せやけど、よう読んでみたら、そうとしか考えられへん」
「何べん読んでも同じや。みんなもっと頑張れと言うてはるんやから」
「こないだからの新型爆弾かてそうや。新聞やラジオでは、大したことはないと言うてるけど、ほんまはきっともの凄い爆弾なんやで。爆弾が破裂した時に出る熱線でやられてしまうのんと違うやろか」
 秀作は、これはえらいことになってきたと思った。
 母は前から「日本は負けるんと違うやろか」とか「もう日本は危ないとこまできてるんや」とかよく言っていて、その度に秀作は反発していたのだが、事はどうやら母の言っている通りに進行しているように思われた。

 八月十二日 日曜日。明日から夜勤。
 今日一日と明日の夜八時過ぎに学校へ行くまで、時間は十分にある。秀作はここ数日の新聞を読み直し、ラジオにもしっかり耳を傾けようと思った。
 昼過ぎ、隣の薬屋のおっさんと話をした母は、びっくりするような事を聞いてきた。
 当時、電話を取っている家は少なかったが、薬屋は商売上必要と言うことで電話を取っていた。その薬屋へ岡山の親戚から重大な電話あった。

 人に言うと「機密漏洩」ということで、警察や憲兵に捕まるかも知れないが、どうしても西木はんにだけは、そっとお伝えしたい。しかし、人には言わないでほしい。
 広島に落ちたあの新型爆弾はすさまじい爆弾やそうな。家という家は焼かれ、何万という人が一瞬のうちに焼けこげになってしまった。こっちの方へ命からがら逃げてきた人も、みんなひどい火傷をしている。岡山や福山・尾道あたりには、広島に親類縁者がおる人が結構たくさんいて、そこへ逃げてきた人を抱えて、みんな途方に暮れてるということや。ひどい火傷で、手当をする甲斐もなく、次々と死んでしまう。火傷というても、そんじょそこらのちょっとした火傷と違う。爆弾の光線に当たった所が、ベロリと皮がむけて、それはもう痛々しいというか、可哀想というたらええのか、手の施しようがない。
 何とか今、生きてる人も、髪の毛がどんどん抜けてしまう。ちょっと持って引っ張っただけで、ぬるっと抜けてしまう。引っ張らなくても、どんどん抜ける。女の人が丸坊主になってしまって、恥ずかしい恥ずかしいと言うてるうちに、死んでしまった人もある。何しろピカッと光ったと思う間もなく、ドーンともの凄い音がして、家の中にいた者は家が壊れてその下敷きになる。家に火がついて焼け死んでしまう。道を歩いていた人は、ポーンと吹き飛ばされて、気がついてみたら、えらい火傷を負っている。火傷で身体が熱いのと、喉が渇いて水が飲みたいのと、その両方で、次々と川に飛び込んで、水を飲むどころか、そのまま死んでしまう。太田川なんか、死んだ人がいっぱい浮いていたそうな。その話を聞いた人はみんな、驚き、恐怖に戦き、涙を流したということや。新聞に書いてあるような、白い布なんか身につけてても、つけてなくても、同じことやそうや。京都に新型爆弾を落とすかも知れへんので、どうしたらええか分からんけど、恐ろしい爆弾やということだけ連絡しておく。人にはどこからこの話を聞いたか、くれぐれも言わんように。

 薬屋のおっさんは、父が出征して、家にいないこともあって、そっと母に話してくれたのであった。
 母は秀作に「誰にも、よその人に言うたらあかんで」と念をおして話してくれた。
 秀作は言葉を失っていた。
  この話はきっと本当やろ。親戚の身を案じて、危険を覚悟で隣へ連絡してきたんやから。そんな爆弾を落とされたら、もう逃げよう  がない。弟たちには疎開の話はないが、田舎へでも連れていったらええのやないか。幸い夏休み中やし。せやけど、こんな凄い爆弾  をアメリカは発明したのに、日本にはない。やっぱり日本の科学の力はアメリカよりも劣っているんやろか。
 秀作が黙り込んだまま、何も言わないので、母は「秀ちゃん、どないしたらええやろ」と訊いた。
 秀作は返事の仕様がなかった。
「弟たちを田舎へ連れていって、もしもの事があったら、後は宜しく頼んますとお願いするしか、他に方法はないんと違うか。この家をほっといて、家族全員が田舎へ行くことはでけへんし、僕も工場があるし」
 今度は、母が黙ってしまった。
 しばらくして、母がぼそっと言った。
「お父ちゃんがいてくれたら、家族みんなで田舎へ行けるかも知れへんけど。お父ちゃんは中支へ行ってるしなあ」
「お父ちゃんがおらんでも、行っても構へんと思うけど」
「あかん、それはあかんねん。お父ちゃんと一緒になる時の経緯(いきさつ)もあってな」
 何やら秘密めいた話になり、秀作はそれ以上のことは聞けなかった。ただ、秀作が田舎へ行ったとき、祖母や父の弟妹、秀作から見れば、伯父、伯母に当たる人たちの何気なくふと漏らす言葉から、母は田舎の人たちにとって、歓迎されざる結婚をしたのではないかという気がしていたのである。長男である父が、家を出て、京都に住んでいるのが何よりの証拠である。だから母が「お父ちゃんが一緒ならば」というのも無理はないのではないかと思った。
「ええやんか、このまま家族みんなが京都にいても。死ぬ時はみんな一緒に死んだらええのんや。田舎へ行って、気詰まりなことになるくらいなら、みんなここにおろう。何とかここで頑張っていったらええやんか」
 秀作は自らも励ます気持ちを込めて、母にそう言った。
「そうしよう。ここにいたいんや。誰か一人でも生き残って、お父ちゃんの帰りを待ってあげんと。お父ちゃんが帰ってきても、誰もおらんでは可哀想やしな」
 父が生きて帰ってくるという保証はなかった。しかし、母は生きて帰ってきた時のことを心配していた。父からの音信はもう何ヶ月も途絶えたままで、どこでどう戦っているのか全く分からなかった。音信がなくても、それは死んだということにはならない。もし死んでいたら、戦死公報がくる筈である。それがこないうちは、生きているんや、そう思うしかなかった。

 八月十五日 水曜日
 この日は夜勤明けで、七時過ぎに家に帰り、軽く朝食を食べた。これから寝るのであるから、少々腹が減っていても、たくさん食べてはいけない。一度、腹一杯雑炊を食べて寝ようとしたが、なかなか寝付かれないことがあったので、軽く、一・二杯の雑炊で寝ることにしていた。
 ラジオが何やら繰り返し放送しているようであったが、秀作は疲れているのと、眠いのとで、しっかりとは聞いていなかった。
「さっきからラジオは、正午に何か重大な放送があると言うてるで」
 母はそんなことを言って、「起きるか」というような目をした。
「正午やったら、ぐっすり眠ってる最中や。起こさんといてほしいわ。途中で一ぺん目を覚ましたら、後、なかなか寝付かれへん。今夜の仕事に差し支えるがな」
 秀作はそう言って、二階へ上がった。

「秀ちゃん、起きて。起きて、ラジオを聞かんと」
 眠り込んでいる秀作を、母は激しく揺すった。
「何や。眠たいやんか。せやから起こさんといてと言うといたのに」
「あかん、起きてラジオを聞かんと。近所の人もみんな言うたはるで、今日のラジオは国民みんなが聞かないかんねんと。玉音放送やて」
「お母ちゃん、聞いといてくれたらええやんか。後で聞かしてもらうさかいに」
「あ・か・ん。起きて聞き」
 それまで目をつぶって文句を言っていた秀作は、薄目を開けた。
 すぐそこに母のきつい顔があった。
「しゃーないな、起きるがな」
 母は先に下に降りた。秀作はのろのろと服に着替えて、棚のラジオの下に行った。
 放送は始まったところであった。
「全国の聴取者の皆様、ご起立願います」
 続いて『君が代』が聞こえてきた。
 母と秀作はラジオの正面に立って聞き入った。
 下村総裁の「これより、謹みて玉音をお送り申します」の声の後、玉音放送が始まった。
 聞き取り難い放送であった。ザーザーという音の中から、天皇の声が大きくなったり、小さくなったりして聞こえてきた。二人は一所懸命聞いていた。ラジオの音を大きくして聞こうとしたが、ザーザーという音も一緒に大きくなって、かえってよく聞き取れない。秀作はラジオに出来るだけ近づいて聞いた。しかし、何を言っているのかよく分からない。
「堪えがたきを堪え、忍び難きを忍び」というような断片だけが、今も耳に残っている。
 放送は終わった。
 母はぽつりと言った。
「負けたんやな、戦争は」
 秀作はしばらく黙っていた。
「ほんまに負けたんやろか」
 母と子はラジオの下に呆然と座っていた。
「僕、ちょっと外を見てくるわ」
 秀作は外に出て道を見渡した。誰もいない。早足で町内をぐるっと回ってみた。どの店も、店は開けているが、客は入っていない。こんな時に外を歩き回るのは不謹慎なのかと思い、急いで家に帰った。
「外には誰もいいひん。やっぱり負けたんか」
 信じられないとはこの事だった。

 今日の夜勤はどうなるのかという事に思い至って、秀作は学校へ行くことにした。
「工場はもうあらへんで。行ってもしゃあないで」
 そう言われても、じっとしていられなかった。
「せやけど、いっぺん行ってみるわ。もし負けてえへんのやったら、工場はあるんやさかい」
 市電は動いていた。しかし乗客の少ないこと。各停留所で待っている人もほんの僅かだった。市電の窓からの風景はいつもと変わりはなかったが、何しろ人が少なかった。
 白梅町で電車を降りて、大将軍から学校へ通ずる道にも、ほとんど人影はなかった。
 夏の太陽は容赦なく照りつけており、蝉の鳴き声がやかましかった。その中を急ぎ足で歩いていった。
 体育館の近くまで来た時、いやに静かだなと思った。
 控室の入口に立って中を覗いてみた。照明は消されていて薄暗い。機械は停止している。静まり返った控室にそっと入った。
 真夏にもかかわらず、寒気がした。バフにも、旋盤にも一人もついていない。いつも座っていたバフの前に座った。横に積んである箱から、いつものように弁を取り出して、バフにあてがった。停止している機械からは、音も埃も出ない。弁を研磨する姿勢のまま、静かに座っていた。
 立ち上がって、音をたてるのが恐いような気がして、旋盤の間を縫うようにしてそっと歩いた。
 体育館の中も覗いてみた。南側の大きな磨りガラスを通して、暑さがうだっている。しーんと静まり返って、いつもの音はない。板張りの床の上をそっと歩いてみる。音をたてないようにして。ここにも誰もいない。あまりの暑さに追われるように控室に戻った。
 少し喉が渇いていたので、隣の洗面所に行った。栓をひねって出てきた水は、もう湯になっている。誰も使っていないからだろう。生ぬるい水を一口含んで、やめにした。
 もう一度、控室を覗いて帰ろうと思い、入口に向かった。
 不意に背後で声がした。
「ヒデサクやないか」
 振り向くと、西田が自転車から降りて、秀作に近づいてきた。
「ああ、ニシか」
「戦争、負けたんやてな」
「どうも、そうらしい」
「学校、どないなるんやろ」
「よう分からん」
 西田は自分にも言い聞かせるように、小声で言った。
「九月からまた学校が始まるんやろか」
 二人は黙って、控室の入口に立ち、昨日まで使ってきたバフの機械をじっと見た。
 突然、西田が小さな声で歌い出した。

「朝に仰ぐ秀嶺愛宕」
 秀作もそっとそれに和した。
「夕に掬ぶ清流桂
 山河自然の霊気を享けて
 集ふ双陵健児一千
 おお三中その名ぞ吾等がほこり

 誠実天の聖火とかかげ
 剛健地の威徳とたたへ
 崇文尚武ただ一途に
 競ふ姿の雄々しさ看よや
 おお三中その名ぞ吾等がまもり」

 夏の強烈な太陽が三中の校舎を灼いていた。

                                             <終>
                                      
                                   (最後までお読みいただき有難うございました)

その名ぞ

その名ぞ

旧制京都三中入学から三中3年生で8月15日の終戦を迎えるまでの当時の中学生の物語です。当時の学校教育がどんなものであったか、勤労動員や工場動員の中で中学生はどんな日々を送っていたのか。僅か2年と4ヶ月ほどの間にどんな経験をしたのか。今では到底考えられないような過酷な中学生活でした。そんな中学生の日常を当時の歴史、戦争の歴史を年表で表現し、それと対比しながら読めるように配置して作成しました。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-09-12

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  1. 第一章 三中受験 1
  2. 第一章 三中受験 2
  3. 第一章 三中受験 3
  4. 第一章 三中受験 4
  5. 第一章 三中受験 5、6
  6. 第二章 三中一年生 1
  7. 第二章 三中一年生 2
  8. 第二章 三中一年生 3
  9. 第二章 三中一年生 4・5・6
  10. 第二章 三中一年生 7・8・9
  11. 第二章 三中一年生 10・11・12
  12. 第三章 三中二年生 1・2・3
  13. 第三章 三中二年生 4・5・6・7
  14. 第三章 三中二年生 8・9・10
  15. 第四章 三中三年生 1・2・3・4
  16. 第四章 三中三年生 5・6・7
  17. 第四章 三中三年生 8.9.10