わたしのこと羅列羅列羅列

青い春と書いて青春と呼ぶけれど

おいら、人間になりたいんだと妖怪人間ベムはゆうけれどわたしだってできればもう少しまともな人間になりたいと思うのだ。
まともな人間とゆうと言い方が非常に変なので言い方を変える。
もう少し、こう…いい女になりたい。
違うな、いい女というのもただモテたいだけのやらしい人間だと思われてしまうかもしれない。
うーん…適度に面白くて適度にうまくやってて人を幸せにできるような人間になりたい。と思っているのだと思う。

私は時折人と話しているときにその人を嫌な気持ちにさせているな、困っているな…と思いながらも卑屈な話が止まらないことがある。
とても困ったようなあきれたような顔をされるのでなんだか申し訳ないなぁと頭をもたげる。
わたしはいつからこんな自虐で卑屈な話しかできなくなってしまったんだろうか。 
思えばそれは高校生の時代から始まったような気がする。

小学生時代と中学生時代、特に自分からがんばって友人を作らなくても自然と友達ができていた。
友達というか…それも今思い出すとなんだか胸が切なくなる思い出しかよみがえってこないので良かったのか悪かったのかは正直思い出せない。
でも中学生から高校生になるとき私は初めて受験勉強というために塾に一生懸命通い、なんとかふつうの偏差値、ほんとに平均的なちょうど真ん中!みたいな偏差値の高校に入学することになった。

私は当たり前に友達というのはできるものだと思っていた。
普通にしていれば自然と誰かが話しかけてくれるものだと思っていたのだ。
しかし現実はそうはいかず、私の高校生活の1年生は知らない・見たこともないような男女に囲まれたままほぼ1年生の半分、夏休みくらいまでほとんど一人で勉学に励み、一人で弁当を食らうような生活だった。
たぶん誰かと話したりもしたんやろうけどあの、一人で前向いて食って母が作ってくれた米の冷たい感覚を今でも思い出せる。ぼんやりと。
一年生の時に高校生の文化祭の前に行われる体育祭ではやんわりとクラス内に女子のグループがいくつかできていて、その女子たちが気になる男子をきゃっきゃきゃっきゃと応援する背後で私は体育祭の半日を大きな木の下の日かげに座り込んで砂を指先で撫でていた。
別に暗くしていたわけじゃないけれども、何か月も話さないでいると正直話すタイミングもないし、心もふさぎ切っていた。指がだんだん砂で汚くなる感覚と体操服のズボンに砂が入って若干お尻が痛くてたまに立ち上がっては座ってを繰り返していた。
のちにその時の写真を見た時にほんとにぞっとした。人間こんな顔ができるんやなというぐらいの悲壮感漂う表情で私は集合写真の端っこのほうにいた。あれはなんというか私の暗さではなく、そこまでの何か月もの集大成を背負っているような光景やった。

そのまま友達ができないまま、夏休みがやってきた。
わたしは中学生の時の友達と遊んだりして中学時代に戻りたいね、なんて話していた。
夏休みに学生というのは若気の至りで髪の毛を染めたりするものだが、なぜか私も母に髪を勧められてオレンジブラウンのような髪にした。
新高校一年生感漂う、まだ化粧っ気もない私の一重の重い顔とおそらくイケイケの女の子がするような明るいオレンジがかった髪の毛のギャップが全然うまい事化学反応を起こしてくれず私の夏は何もなくただ平凡に過ぎていった。

そして一般的に夏休みで明るくした髪は黒髪戻しで黒くして学校に行くのがスタンダードなイケイケな男女の行動だと思うのだが、私は何を思ったのかオレンジブラウンにした髪を黒くするつもりでライトブラウンで染めたのだ。
案の定、あまり変わらない…少し赤みを増したような髪で学校に行くことになった。
今思うと「黒くなってないで。」とだれも言ってくれなかったのかが不思議だ。

しかしこれが大きな人生のキーポイントになる。

案の定、夏休みの最初には頭髪検査が行われて先生が体育座りをしている生徒の間を通っていき、頭髪が明るいとされるものが立たされるということになり周りの黒くギシギシになった髪の毛の女の子たちの中でひときわ明るいオレンジブラウンの私は立たされてしまった。実は私は講堂に入った段階で周りの頭髪の色と自分の頭髪の色のあまりの違いに初めて冷や汗をかいて、これはまずいんじゃないかと思った。
しかし、ほんとにまずかった。先生から明日には真っ黒に染めてこいと言われてしまった。私以外もたくさん立たされていたけれど私の明るさは間違いなく群を抜いていたような気がする。この後も私は高校三年間たびたび頭髪検査に引っ掛かり、時には黒髪スプレーでごまかしながら髪を黒く染め続けることになる。そのせいで今の私の毛はやせ細り、髪にボリュームも出ない。何を思って私は茶髪にしていたのか。学生時代に戻りたいとはあまり思わないけれども、もしも時間を巻き戻すことができるのならば絶対に私は髪の毛を染めないことを誓う。戻りたい。

そして頭髪検査が終わって教室に戻るとクラスの中で中心になっていた女の子がおもむろに私に近寄ってきた。
「コゾノさんってそういうことするんやな。」と言われた。
「まぁ、一応染めたんやけどね。」と言った。
初めて話しかけられて嬉しかったことを覚えている。後、足が少し震えていた。

これをきっかけに文化祭ではその女の子に誘われて文化祭の手伝いなどをするようになると今まで話しかけてもそっけなかった同じ中学の女の子も話しかけてくるようになった。実はこの女の話をすると長くなるのだが、私は女嫌いなのだがこれはこの子がきっかけだといっても間違いはないと思っている。
高校生になって同じ中学だった子がクラスでこの子しかいなかったので、教科書販売の日とその次の日ぐらいはこの子と一緒にいたのだ。しかしこの子はその次の日から全然違う誰かと話すようになる。今思うと、その子も新しい友達作りたかったんやろうし、仕方ないと思うけれども正直昨日まで一緒に友達作っていかなあかんなぁと話していたのに自分だけ素知らぬ顔でグループを作って一人ぼっちになるとさみしいもんである。その新しい友達と話すのもいいけれど私とも話してくれるんかなぁと思っていたけどその子から私に話しかけてくれることはなかった。
それならそれでいいとずっとわたしはクラスでひっそりと暮らしていた。

そして転機となった文化祭の練習をしているときにその女が私に何か月も話しかけていなかったのに、クラスの中心の女の子と話し出した途端入ってきて、にこやかに話しかけてきたあの瞬間を覚えている。クラスの中心の女の子が私に話しかけたから話す…ゲッスーと私は思った。そしてこの女は野球部のマネージャーになり、野球部員たちにはちみつレモンなどを振舞うようになるのだ。身長が140センチ台で長い髪に濃い化粧、後々に体育祭の応援団長の女の番長みたいなのにもなるが、それが何だってんだ。私は目を閉じてはちみつレモンの入ったタッパーを空高く振り上げてレモンが飛び散るさまを想像した。へらへら笑いながら少し仲いい面下げて「マイカ」なんて呼んでくれるな。ごめんだぜ、と私はずっと思っていた。今もこの女がどうしているのかなんて知らない。

そしてその後の2年生、3年生と友達ができていくので1年生の文化祭までの空白の期間なんてことはなかったのだが、今でもあの時期が怖くて無理しているつもりはなかったけれども今考えるとすごいエネルギーをあの場所で使っていたような気がする。
青春、というのには程遠いけれどもそこで鬱々とした日々を過ごしている間に私は一人アジアンカンフージェネレーションに出会う。崩壊アンプリファーを聴いた時には頭痛とめまいが同時に起こったような衝撃だった。君繋ぎファイブエムをヘッドフォンで聴きながら全速力で高架下を走ってバイトに向かったことを思い出す。短かったようで私の高校生活はとても長かった。
恋なんてとんでもない。しょうもない、ダサくてカッコ悪い男子しかいなかった。女子だって頭の悪い何でわらっとんねん、何がおもろいねんというようなやつしかいなかった。ほんとのともだちなんてできひんかったけど中学に入った嵐が好きだったまぁまぁ若かった私も高校生を卒業するころには卑屈さを顔全体にまき散らしたような女の子に成長した。

その後もタワーレコードで働くのだがそこでもしばらくの間、卑屈な自分との闘いであった。しかしその自分を面白いと興味を持ってくれる人や同じ価値観で話ができる友達ができたり、声優の話ができて東京に連れて行ってくれる友達ができたり、いい縁を結べるきっかけにもなった場所である。ほんとにありがたい。

だんだん長々と話していると一人でわーってなって、今なんか少し涙が出そうになっているから文章というのは恐ろしい。私はいったいなにがいいたかったんやろうか。

まともな人間になりたいって思ってたけどわたしが思い描いているまともな人間は高校生の時のあの女、そのものじゃないんかなと今、思った。適当ににこにこ笑って適当に面白いやつなんて全然おもろない。答えがでんなぁ、どうあれば納得のいく私の形になれるんだろうか。

日々模索。

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わたしのことです。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-09

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