星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産

星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産

 2010年1月16日(日)、この日私は’親方’に連れられ、宮城県北部の松山町にある石雲寺に行った。ここには、片倉小十郎景綱、伊達成実とともに「伊達の三傑」と称される茂庭綱元の茂庭家霊屋があり、年に2回ご開帳されるうちの冬の一日だった。
 伊達政宗公の右腕として伊達家の内政を支え、政宗公の死後その冥福を祈り続けた綱元は、政宗公の命日(5/24)と同月日にこの世を去った。享年92歳。
 
 それまでの私は、歴史に興味も知識も皆無で、茂庭綱元が何者なのかも全く知らなかった。なによりもまず、親方とはメールやドライブをする仲ではけっしてなかったし、年が明けて間もないある日突然の’お誘い’に何事かととまどった。が、この日久々の小春日和ですばらしい青空だったこと、霊屋を撮影してくれと頼まれたことで、お供することにしたのだった。

以下点線-------で囲まれる部分は本来画像が入ります。
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石雲寺左手の石段を上ると茅葺の茂庭家霊屋。
堂内には、八体の座像と 伊達家・茂庭家代々の位牌が安置されている。 
はじめまして茂庭綱元どの  
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 ’親方’が『モニワツナモトの生まれ変わり』という話も、この日車の中で聞かされた。
 輪廻転生は信じるけど、行きつけの居酒屋の親方が真顔で告白するその横で、どんなリアクションをしていいものやら。仙台藩の逸話を遠い目でとつとつと語る親方に、ハテナマークがボコボコ出現した私だが、とりあえずこの場は素直に従ったほうがよさそうだと思った。
 
 親方が仙台の歴史を研究していて、仙台城下に六芒星を発見し、研究書を自費出版したというのはなんとなく知っていたが、まさかここまで精神一到とは知る由もなかった。そしてこの人が、現代に蘇った陰陽師~つまり綱元さんは天文学・風水・陰陽五行あらゆる呪術を駆使して、仙台城下の町割を手がけた人物であったと、歴史にうとい私をなんの因果か『星の街』にのめりこませていく張本人なのである。
 「写真を撮りなさい、ブログで展開しなさい」と、モニワツナモトの生まれ変わりらしい陰陽師親方から白羽の矢を打たれた歴史オンチの私は、親方が17年もの歳月をかけた研究成果を1年でまとめあげることとなった。しかしその途中で、『埋蔵金伝説』につながっていくとは、私も親方さえも予想していなかった。

第一章 呪術都市仙台

■陰陽師いなべの晴明の手記■
 宮城県仙台市、この町は400年前伊達政宗公によって築かれました。そこには、だれも知らなかった隠された秘密があったのです。
 仙台市中心街に、三角形を二つ組み合わせた星型図形『六芒星』(ろくぼうせい)が存在することを平成5年(1993)5月に発見しました。
 
- 六角星、六芒星、星型六角形、六線星型、ヘキサグラム (Hexagram) ともいう。これは、星型多角形の一種で、六本の線分が交差し、六角形の各辺を延長することでできる図形である。ユダヤ教ではこの図形を神聖なものとしてみており、イスラエルの国旗には、青色の六芒星が描かれ「ダビデの星」と呼ばれている。日本でも古来からこの図形は魔除けとして用いられてきた。現在でも伊勢神宮周辺にある石灯籠に、籠目紋-かごめもん(家紋としても使用される)が刻まれているのは有名である -
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仙台城下の六芒星地図
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 その星型が、イスラエルの国旗に記されているダビデの星と同じであったためとても驚きました。偶然にできたにしてはあまりにも正確だったので、道路との関係をよくよく調べてみると、星型の北と南を結んだ線上に国分町(こくぶんちょう)の通りがぴたりと重なっており、また東西の南側の線には柳町の通りがきれいに重なっていたのです。
 国分町は、現在では飲食店が集中する夜のネオン街ですが、仙台の町が造られた400年前では、城下の南北のメインストリートで「奥州街道」でした。また、柳町通りというところは、直線的に城下に入ることができないようにするために作られた道路で、国分町の通りの南端が丁字状にぶつかり東西に伸びています。その柳町の通りを東に進むと今度は、南南東に折れ曲がる道路の北目町に出ます。この道筋が「奥州街道」なのです。
 
 偶然発見したこの星型を詳しく観察すると’計画的に作られている’ということがわかってきます。その星型を形作る頂点には、仙台の主要神社やお寺、そして仙台城の本丸が位置しています。星の北の頂点から時計回りに説明すると、青葉神社(昔は東昌寺)、仙台東照宮 、榴岡(つつじがおか)天満宮 、愛宕(あたご)神社 、仙台城本丸 、大崎八幡宮 の六地点です。
 この詳しい説明は、平成11年に自費出版した冊子に出ているので興味のある方はそちらをご覧いただきたい。青葉神社社務所のみで販売していただいております。

 仙台の地名は、伊達政宗公によって命名されたのですが、この場所の発展の歴史は多賀城に始まります。多賀城の鬼門に陸奥一ノ宮として塩釜神社が建てられました。その裏鬼門に当たる場所に陸奥国分寺が建てられたのです。
源頼朝が奥州藤原氏を攻撃した際に、武功をあげた千葉氏に陸奥国分寺の周辺を統括領地として与えました。千葉氏は「国分氏」と名を改め、統治しました。そのときに築いた城が後の仙台城の場所でした。
 この城は千躰仏(せんたいぶつ)を祭っていたことから千躰城(せんたいじょう)と呼ばれたり、虚空蔵(こくうぞう)が祭られていたため、虚空蔵楯(こくうぞうたて)と呼ばれたり、また、後年は千躰から千代の字を当て千代城(せんだいじょう)とも呼ばれていたようです。
 伊達家が後に国分氏を家臣とし、政宗公が城を築く際に「千代と限らじせんだいの松」と詩を詠みました。常緑の松が代々千代だけではなく、永遠に青々と栄えるようにという意味をこめて、また中国にある仙人の住む丘「仙台」になぞらえて、政宗公はこの町を「仙台」に改めたのでした。ちなみに、城下町の南北の中心街である国分町は、城下建設の際にそこに国分氏を町人として住まわせたところから名づけられたのです。なぜに地位のある国分氏が町人とされたのかは何の記録も無いのですが、どうもダーティな姿が浮かび上がってきます。

■六芒星を形作る主要神社■
●青葉神社
 六芒星の北にある青葉神社は、武振彦命(たけふるひこのみこと-仙台藩祖伊達政宗の神号)を祭る。東隣にある東昌寺(とうしょうじ)の境内に建てられています。城下一の繁華街(現在東北一のネオン街)である国分町から一直線に北に向かった突き当たりに位置します。
 東昌寺は仙台の城下建設の際に最初に決定された場所と伝えられています。初代住職は、伊達政宗公の大叔父でした。その人はのちに、政宗公の師匠になった虎哉(こさい)和尚を招きます。虎哉和尚は子供のころから天才上人(てんさいしょうにん)といわれるほどに優秀な人物でした。しかし政宗公への教えは「暑いときには涼しいと言え」「苦しい時には楽しいと言え」というへそ曲がり教育でした。そのために、‘政宗公は具合が悪いという時にも、柱に背を寄りかからせてでも起きて人と会った’と伝えられています。
 
 日本が戦国の世になり、国を統一しようとしていた豊臣秀吉は、小田原の北条氏を攻めるために「国を出て一緒に戦うべし」と全国の武将達に命令を出しました。ところが、奥州地方(現東北)の武将たちには秀吉の強さがわかっていなかった。参加しない武将もたくさんいる中で、政宗公もしぶっていたのです。このときの伊達家のお城は山形の米沢にありましたが、その前に福島県の会津の城(当時は黒川城といった)を勝ち取っていました。だからここらでちょっと一休みしたかったのでしょうか。
 家臣の片倉小十郎景綱は、乗り気じゃない政宗公に参陣を強く勧めました。ぐずぐずの政宗公がようやく腰を上げたのは、だいぶ日が経ってからでした。しかし、遅れていく→秀吉の怒りを買う→ヘタすっと命の保障はないべな、という図式が頭をかすめた政宗公、なにを思ってか髪の毛をバサバサに下ろし、真っ白な着物をまとって小田原に参上したのです。その姿は死に装束、「さあ殺せ、俺は堂々と殺されにやってきたぞ」と言わんばかりのまさに処刑ファッションだったのです。
 秀吉の心理をつく綿密な計算の元なのか、いちかばちかのヤケクソか、これこそ虎哉和尚の「へそまがり」の実践でした。さすがの秀吉も苦笑い。遅刻ごときで命をとることだけは許してやりました。しかし、もしもこのブラックジョークが通じなかったならば、シャレにならない結末に…この時、豊臣秀吉54歳、伊達政宗24歳の1590年(天正18)のことでした。
 政宗公は秀吉に命を助けられましたが、遅刻の代償として生まれ故郷の米沢(山形)の地や、やっと戦で勝ち取った会津(福島)などの領地を没収されてしまいました。翌年、岩出山(現宮城県北部、当時は岩手沢といった)へ移されてしまったのです。
 
 青葉神社は明治になってから東昌寺敷地内に建てられましたが、それは1868年(慶応から明治に変わった年)、「神仏分離令」という国からの命令によって、神社とお寺を無理やり分けることになったためです。それまでは神社とお寺はペアで運営されてきたのですが、天皇様を日本の頂点と定めたことによって、神様である天皇と仏様の仏教とを対等にしてはならないという考えに変わりました。ところが、ただ分けるのではなく仏教は悪者だという間違った考えから、国がお寺にあった仏像などを破壊捨て去るなどの行動(廃仏毀釈-はいぶつきしゃく)に出たため、政宗公を守るために御神体に祭り、建てたのが青葉神社なのです。
歴史観光で仙台に来たら、最初にお参りに行くべき場所は青葉神社が道理なのです。(仙台城址にある護国神社は伊達家とは無縁です)
 
 青葉神社にはもう一人、政宗公の正室-愛姫(めごひめ)が祭られています。愛姫は不運な人生を送った戦国時代の女性です。政宗公が秀吉に米沢を没収されて岩出山へと移ったとき、愛姫は一緒には行けませんでした。秀吉の人質として、京都の聚楽第(じゅらくだい)という屋敷へとつれて行かれたのです。
人質は戦国時代では当然のことで、味方になった武将が裏切らないようにするため長男であったり奥さんであったり、大切な身内を差し出させて忠誠を誓わせたのです。この場合の人質は普通に生活できるように保護されていましたが、逃げ出さないよう厳しく見張りを置いていました。
 福島の三春城主、田村清顕(たむらきよあき)の一人娘である愛姫は、三春の地名の由来である梅・桜・桃の花が一度に咲くことから名づけられたように、花のごとく愛らしいお姫様でした。しかし戦国の世、田村家は周囲の圧力に対応するために、米沢の伊達家と縁組して協力関係を作りたかったのです。そのため、12歳の愛姫は13歳の政宗のもとへ嫁に出されました。これも一種の人質です。

 11月28日、雪の反射がまぶしい日差しの中、弓矢を持った数百人の武士が馬上に列をなし、そのはざまにきらびやかな駕籠(かご)が用意されていました。中には小さな火鉢がおかれ、ささやかな暖がとれます。父母に見送られ涙する愛姫を、隠すように乳母が駕籠に乗せます。身の回りの世話をする数十人の侍女と、衣装などの入った長持ちが長蛇の列を作ります。
寒さと不安の中愛姫は、駕籠脇に付き添って歩く乳母に「お城に帰りたい」と何度も言うのです。しかしそのつど乳母にたしなめられ、悲しみをこらえながら駕籠に揺られて引継ぎの場所である柳川の屋形へと進みました。
 柳川では伊達家の家臣遠藤基信(えんどうもとのぶ)や、若武者の伊達成実(だてしげざね)らが迎えに来ていました。そこで引継ぎが行われると、田村家の武士たちは三春へと立ち去りました。米沢の城に着くまで愛姫は無言となり、乳母の問いかけにも応えませんでした。
 米沢の城に着いて政宗と初めて対面した時に、愛姫は目を見開き息ができないほどの驚きを見せました。政宗はその反応を半ば予想はしていたものの、眼をそらし唇をかみました。遠藤基信がそれを察して、すぐさま話をめでたい話題に変え、場を取り持ったのです。政宗は5歳の時疱瘡(ほうそう)という病気にかかり右目を失明してしまいました。その目が飛び出し世にも恐ろしい顔になっていたのです。その異様さは愛姫に付き従ってきた侍女たちのささやきとなって広がっていきました。
 愛姫が嫁いで来て間もないころ事件が起きました。政宗は幼少のころより何度か暗殺されそうになったことがありましたが、このときまたしても暗殺未遂があったのです。政宗は田村家の人間がやったのだと思い込み、愛姫の前で乳母や侍女たちを斬り殺してしまいます。唯一心を慰めてくれる乳母が目の前で殺されたことで、愛姫は強い恐怖心とショックで気を失ってしまいました。その心が癒えるには長い年月がかかりましたが、そのつらさを乗り越え政宗公を慕うようになったころ、今度は豊臣秀吉の人質になってしまうのです。
 片目が飛び出した政宗に家来たちは遠慮して、目に関することには一切触れることはなかったのですが、政宗自身はとても気にしていました。ある日家臣たちを前にして、「この飛び出している目をつぶしてくれ」と言いました。たじろぐ家臣たちを尻目に、「私めでよろしければ」と前に出てきたのが、片倉小十郎景綱でした。うなずく政宗に脇差を抜いて、ためらうことなく膨らんだ眼を突き刺し、中の膿を抜きました。政宗も虎哉和尚の教えどおり、ざわめく家臣たちを前に苦しさをかみ殺して、布で眼を縛り「ごくろう」といって家臣たちを下がらせました。
 
 この片倉小十郎景綱の末裔が、現在の青葉神社の宮司である片倉重信氏(片倉家16代当主)です。
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青葉神社 片倉宮司
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 茂庭綱元の父良直と先妻の間には、喜多という娘が居りましたが、跡継ぎになる男子がなかなか生まれなかったために、先妻は離縁させられ七歳の喜多をつれて実家に帰りました。良直はすぐに後妻をもらい、そして綱元が産まれたのです。その後離縁された先妻は、米沢八幡宮の片倉家に再嫁し、そこで生まれたのが小十郎景綱です。
景綱と綱元は異父兄弟として、政宗公を支える重臣となります。そして景綱の異父姉である喜多が、政宗公の乳母になります。
 
小十郎二代目重長は、真田幸村の子供4人を預かることになります。真田公は、敵方ながら小十郎の戦いぶりに関心を持っていました。大阪の役で豊臣方についた真田公は、負け戦になると覚悟を決めたとき、自分の幼子4人を小十郎に託したのです。4人は片倉の姓を名乗り白石城で育てられました。うち女子ひとりが幼くして亡くなり、女子二人、男子一人が残りました。長女が14?15歳になって小十郎の後妻に入ります。小十郎の奥さんは早くに亡くなりましたが生前、‘自分が死んだら(自分が育てた)真田の長女を後妻に入れるよう’遺言していたのです。そして男子は、片倉を名乗って家臣になり終生伊達家に仕えました。
 そこからおよそ100年ほどで、片倉から真田の姓を復活させることになります。歴史上では、幸村公の代で子孫は残っていないことになっているようですが、どっこい現在の仙台にある‘真田家’につながっているのです。
 白石城に連れてこられた男子は、実は京都の河原の石合戦で石が当たって亡くなったことになっていました。ところがそれは、身代わりとなった別人の子供でした。真田家の血はそうして現代まで生き続けてきたのです。
 
 青葉神社の片倉宮司と陰陽師親方は、悠久の歴史の流れの中で引き合わされました。歴史の陰に隠れた感のある茂庭綱元は、実は城下建設の指揮をとった人物として、『六芒星』『グランドクロス』『四神』の知識の源であるかもしれないのです。かつて仙台藩の軍事機密を背負った男と、神官として転生した片倉宮司。戦国の世から400年、驚く史実にまみれた仙台に、続々と転生者たちが集まり始めているようです。
 
 青葉神社の大広間には、真田公の子供たちを仙台に送り届けた家臣の子孫が描いた政宗公の絵が飾られています。なんとこの現代に至って恩義と敬意を表し、2年がかりで仕上げたという大作です。400年の時を経てなお、政宗公にかかわる人たちが、絶え間なく訪れる青葉神社。
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満月(陽)の中に口を開けた龍(陽)をバックに、三日月(陰)の兜の騎馬政宗公。
絵を鑑賞する片倉宮司と陰陽師親方
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●大崎八幡宮
 伊達家が米沢城を本拠地としていたころの鎮守社である成島八幡(なるしまはちまん)と、豊臣秀吉の命令で岩出山(当時は岩手沢)に移った際に、岩出山にあった大崎八幡とを一緒にして仙台の地に移し祭った神社です。
 大崎という地名は今も宮城県に残っていますが、もともとは大崎氏(奥州探題-おうしゅうたんだいという、現在の東北地方太平洋側地域を治めていた役職)が住んでいました。大崎氏は奥州の名門として高いプライドを持っていました。小田原城を攻めるときに秀吉が参戦するようにと声をかけたのですが、キッパリ断ったため秀吉の怒りを買い領地没収となったのです。このとき、大崎氏と並んでそれより古い時代から奥州総奉行としてこの地を治めていた葛西(かさい)氏も、同じく小田原攻めに参戦しなかったのでともに領地没収となりました。それらの領地をまとめるために、秀吉は木村吉清(きむらよしきよ)を派遣しました。ところがうまくまとめきれず、しまいには攻められて佐沼城に逃げ込みそこから動けなくなってしまったのです。その木村氏たちを助け、大崎葛西の領地を平定(へいてい)、つまり乱を収めるために伊達政宗に出陣の命令が下りました。このタイミングでは、伊達家はまだ米沢にありました。歴史的にはこのような説明になりますが、現代に置き換えてみるとムチャクチャな話になります。

奥州に住む大崎君と葛西君の家は隣どうしでした。
一つ山を越した小田原に北条君ちがありました。
そのまた山向こうにあばれんぼうの秀吉君がいました。
ある日秀吉君が「北条君の小田原の家をおれにくれよ」と言って、近場の子分を集めて北条君ちを取り囲みました。
秀吉君は、遠く離れた奥州の大崎君と葛西君にも声をかけ
「こっちへ来て一緒に北条をいじめようゼ」と誘ってきたのです。
でも、大崎君と葛西君は「俺たち関係ねーし」と参加しませんでした。
中には政宗君のように、家来(こじゅうろう)に「参加しないとこっちがいじめられっから」と説得され、ぎりぎりのタイミングで仕方なく参加した人もいました。
大崎君と葛西君は、昔からの立派な武士の家柄だったので、「秀吉君なんてこわくねーもん」と余裕こいていたのです。
ところが、小田原の北条君ちがとうとう秀吉君に取られてしまい、大崎君と葛西君ちに、秀吉君の命令で家来の木村君が殴りこみにやってきたのです。
「ひでよし様の命令にそむいたオマエたち許さない!さっさと家を出て行けよ」
「ナニかだってんのや?ここはオラだぢの土地なのになして出でいがねばなんねんだぁ?馬鹿こくでねーど!」
代々続いた名門の武士たちにとって、急に代官になった木村君など一喝してしまいました。
木村君はビビって佐沼のお城に逃げ込み鍵を掛けて立てこもってしまったのです。
それを聞いた秀吉君は、思い通りにならないこの二人にキレて、今度は政宗君や蒲生君にふたりの家を取ってこいと命令しました。そうしてとうとう大崎君と葛西君も泣く泣く家を追い出されるはめになったのです。
 
2人の追い出しに成功した秀吉は、「まさむね君よくやったね」とご褒美に大崎君と葛西君の家を政宗君にあげることにしました。ふたりの家をくれると言われても、秀吉君を恨んでる人たちがいっぱいいるわけだし、何時だれが襲ってくるかわからないとこもらっても、オレ困るんだけど・・・と内心はちっともうれしくない政宗君でした。

「それあげる代わりに、政宗君が持ってる米沢とか会津とかの土地は僕がもらってあげるから」
「エェ!?」
わけのわからない理屈に逆らうことが許されなかった政宗君は、言いなりになるしかありませんでした。ショックで混乱する政宗君に追い討ちを掛けるように秀吉君が言いました。
「あ、そういえば君の可愛い奥さん、なんて言ったっけエ?ト…」
「メゴにございますが…」
「そうそう、そのメゴちゃんを京の都の僕の屋敷に連れてくるように♪」
「ハァ??」
領地をめぐる争いにあけくれる男たちの弱肉強食の影で、物のようにあっちこっちへ飛ばされる姫。まるきし納得いかないながらも政宗は、生まれ故郷の米沢(山形)を離れて、岩出山(宮城)に移ることになったのでした。しかも愛姫までとられてしまったのです。

 大崎八幡宮の隣には龍宝寺(りゅうほうじ)というお寺があります。龍宝寺は大崎八幡宮の別当(お坊さんが神主の仕事もする)でしたので、今の町名の八幡町(はちまんまち)は当初、龍宝寺門前町(りゅうほうじもんぜんまち)といいました。現代では、神様を祭る神社と仏様を祭るお寺は別のものと考えられていますが、昔は一緒でした。
 仏様が世の中の人々を救うために仮の姿としていろいろな神様となって現れてくる(本地垂迹-ほんじすいじゃく)、という思想を神仏習合思想(しんぶつしゅうごうしそう)といいます。この仏と神は同じであるという考え方は、平安時代(794年?)始まったもので、1074年もの間続いたのです。しかし、明治(1868年)になって天皇様が日本の代表であると決めたときから、神社とお寺は別物になりました。天皇は神様的存在だけど仏ではないから、神社とお寺が一緒じゃまずいだろってことです。だから神社とお寺が分かれてからわずか153年しか経っていないということです。
 
 大崎八幡宮には建設当初、奥の院に豊臣秀吉が祭られていました。米沢を取られ愛姫まで人質にされた政宗公、本当なら秀吉を恨んでもおかしくはないはず。でもどうやら政宗公は、豊臣秀吉という人間を好きだったようなのです。それは小田原城を攻めたとき目のあたりにした驚くべき光景のせいでした。
 
秀吉の命令とはいえ北条氏と戦争をしに来たにもかかわらず、城では毎日、囲碁やらお茶やらオネーチャンやら、お祭り騒ぎの状態が続きました。戦仕立ての武士たちは、そこにおよそ10万人いたといわれています。秀吉はこれらの人々に、戦どころか豪華な食事を提供し、‘仮の城’を建てる仕事をさせていました。まるでどこかの大きな町がそのまま移動してきたかのような光景で、どんだけ金持ってんだか秀吉さん、あまりの人数の多さに北条氏はおののき、小田原城から攻撃することをためらいました。おまけに自分の城を見下ろす山に、短期間のうちに巨大なお城が出現し北条氏パニクった。とてもじゃないけどこれでは全然まったくさっぱり少しも勝ち目は無いとあきらめて、完全に戦力を失い降参したのでした。
 人を殺さず兵士を遊ばせながら敵を降伏させてしまうとは…豊臣秀吉の偉大な力に政宗公は感心したのです。山に築いたお城の実態は、枠のみに白布を貼っただけのものでした。遠くから見れば立派な城壁に見えるのですが、それは本物に見せかけた映画のセットのようだったのです。人と人が命を掛ける戦争を、遊び心とユーモアで勝ち取ってしまうその人物像に、政宗公は尊敬しまくり惚れちゃったんですね。

 政宗公が、大崎八幡宮の奥の院に豊臣秀吉を祭ったことを裏付ける史料は、茂庭家記録(もにわけきろく)の中に記載されています。茂庭家は代々奉行職を務めた家柄で、宮城県北部の松山町(まつやまちょう)に屋形がありました。そこは、茂庭家13代の良元(よしもと)が初代の城主となりました。
 茂庭家が伊達家の家臣となったのは、源頼朝(みなもとのよりとも)が奥州征伐した際に(おうしゅうせいばつ:1189年現岩手県の平泉を拠点としていた藤原氏を攻めた事件)手柄を立てたご褒美に、伊達家の初代朝宗(ともむね)が現福島県の伊達地方を領地として与えられた頃のことです。伊達家はもと中村を姓としていましたが、源頼朝が伊達(だて)の土地を与えたところから中村から伊達に変えたのです。現仙台の国分町(こくぶんちょう)で知られる国分(こくぶん)の名前もこのころに関係しています。やはり源頼朝に従って戦った千葉氏が、手柄を立てて現仙台の地にある陸奥国分寺(むつこくぶんじ)を中心とした土地をご褒美にもらったので、千葉さんが国分さんに名前を変えたのです。そして政宗公が建てた仙台城の場所に、最初は国分さんがお城を構えていたのです。
 
 茂庭家の面々はすごい活躍をしました。茂庭家12代の綱元が仙台城下を造ったときの中心人物となります。このツナモト君は豊臣秀吉のお気に入りでした。秀吉が京都や大阪、また九州の名護屋にいた時、話し相手や囲碁の相手によく呼ばれていました。
 ある日のこと。
「ツナモト君どうしてきみの名前は怖い‘鬼’なんだい?」(茂庭家は綱元の時までは苗字が鬼庭-おにわだった)
「はい、先祖が茂庭村に住みました時、大きな蛇がおりまして毎年蛇の餌に可愛い娘を差し出していたそうです。それを訊いたご先祖様がその大蛇を退治しました。村人はご先祖様は鬼より強いと褒めたたえ、それから鬼庭を姓といたしました。」
「そうか、じゃぁもともとは茂庭なんだね。鬼がつく名前は良くないから、きょうから茂庭に戻しなさいよ」
ということで、鬼庭家はこのときから茂庭に改名したのです。

またある日のこと、秀吉君に呼ばれてお城に行きました。
「ツナモト君今日は僕と碁をしよう。君が負けたら首ちょん切るからね。そのかわり僕が負けたなら、あそこにいる女の子のうち一人あげるから♪」
と指を差した先には16人の美女が並んでおりました。全員が秀吉君のおめかけ(側室)さんでした。鼻息が荒くなったツナモト君はあっさりとひでよし君に勝ってしまいました。
「どれでも好きな子えらべよ、はやくしろよチッ」
そういわれるとツナモト君は、16人の中でもとくに地味な女の子を選びました。
「エッそんな子でいいの!?」と秀吉君がいうと
「うん。僕んち田舎で貧乏だからきれいなドレス買ってあげられないし、このこでいいよ」
と言いつつも実は、地味好みのツナモト君は天にも昇る心地でした。
秀吉君はさっと立ち上がるとクルリ背を向けて、奥の部屋にスタスタと行ってしまいました。実はこの一番目立たぬ格好をさせていた女の子が、ひでよし君の一番のお気に入りだったのです。
ツナモト君はこの女性こと高田種子(たねこ 1594年-文禄3年時18歳 京都伏見出身)をとっても大切にしました。ところが悲しいかな、後に政宗公が「おいツナ!おまえずるいよ。その子俺によこせヨ」といって横取りしようとしたのです。しかしツナモト君は種子を手放しませんでした。そうこうしているうちに政宗様の嫉妬を買い、城を追い出されてしまうのです。ツナモト君は種子を連れて、岩出山から種子の実家のある京都伏見へと向かったのでした。

 一行が京都へ向かってとぼとぼと歩いていたとき、突然ツナモト君がひらめきました。
「そうだ!江戸に寄ってまさのぶ君にごあいさつしていこう」
「本田正信(ほんだまさのぶ)様どすか?」
「うん、京都にいたときにずいぶんお世話になったし、今度はいつ逢えるかわからないから」
ツナモト君たちはお土産の馬を一頭連れて、家康様のお城に向かいました。
「やあ!よく訪ねてくれたね」
うれしそうにまさのぶ君がお城から出てきました。
ツナモト一行の旅の事情を聞くと
「失業したならうちの大将(家康様)に口利いてやるよ」と提案してくれました。
しかしツナモト君は
「武士たるもの二心(にしん)は恥です。伊達家にいたものが徳川様に使えることはできませぬ」と断りました。
その考えを聞いてまさのぶ君は感心し
「それならば、武士たるものそんな貧しい格好で歩いてはだめだよツナモっちゃん」と言うと
立派な着物類とお金、関八州(かんはっしゅう:箱根から東の八か国-さがみ、むさし、あわ、かずさ、しもうさ、ひたち、こうずけ、しもつけの国をいう)の伝馬(でんま)十頭のご朱印を与えました(馬を乗り継いでいける許可証)。それから、ツナモト君の家来が途中で商売して稼げるように仕事の手配までしてくれ、さらに家康様からは、馬の道具として虎の皮の打ちかけや紫縮緬(むらさきちりめん)の手綱(たづな)など、武士にふさわしい豪華絢爛なプレゼントをもらいました。このときの中白鳥毛の槍が現在も松山町に残されています。こうしてツナモト一行は、きらびやかないでたちで、京都伏見町の種子の父高田次郎屋敷へと向かったのです。
1612年(慶長17)11月の茂庭家記録によれば、種子は36歳時に大崎八幡へ金の灯篭(とうろう)ひとつ献納したと書かれています。『大崎八幡内陣の内に豊國大明神を祭り給うの所あり其の所に国君より献じ給う金灯篭三つと同然に掛け置かる…』これをみると豊臣秀吉が豊国大明神という神様になって祭られ、国君とは徳川家康のことと思われますが、このときすでに三つの金灯篭が掛けられていて、その隣に種子の金の灯篭が掛けられたということになります。

●仙台東照宮
 東照宮といえば、徳川家康が祭られている日光東照宮が有名です。仙台市街地の北東部にある東照宮にも、徳川幕府の許可を得て日光東照宮から分霊した徳川家康が祭られています。政宗公が豊臣秀吉の命令で岩出山へ移ることになったときに、岩出山の城を築いたのが家康だったのです。城の設計をすることを‘縄張り’といいますが、それを家康が行いました。政宗公にしてみれば、隅々まで弱点を知り尽くされている城に住むことは、大変不快であったことでしょう。その家康が岩出山へ向かう途中、休憩した場所が今の仙台東照宮のところでした。幕府への場所選定理由に、そのことを伝えて許可が下りたそうです。
その場所にはもともと国分氏以前から天神社がありました。天神様といえば菅原道真(すがわらみちざね)。いまは学問の神様として受験生に人気がありますが、彼は死後怨霊となった祟り神なのです。島流し同然に京の都から九州の大宰府(だざいふ)に送られ、失意のうちに死んでしまったのですが、その後に京の都で災いが多発したため、道真の怨霊のせいだとされ、大宰府に天満宮を建てて道真を祭りました。それでも災いがおさまらないために京の都に北野天満宮を建て、再度怨霊をなだめてやっとおさまった、という歴史があります。
 
 この仙台東照宮の場所は玉手崎(たまてざき)といって、仙台の城下を取り囲む丘のひとつの先端にあり、やや高台となっています。そして仙台城からは正確な東北の方角に位置しています。仙台城はもともと国分氏のお城の後に建てたもので、国分氏の時代に天神社の位置が決定されています。
 仙台は東北地方ですが、この「東北」という言葉には‘いわれ’があります。その昔、東北からは鬼がやってくると考えられて忌み嫌われた方角なのです。鬼というのは恨みや憎しみといったまさに怨霊を表し、その方角を「鬼門(きもん)」といいました。東北地方の「東北」は京の都から見た方角であり、蝦夷(えみし)と呼ばれた嫌われ者が住んでいたことも重なって、名づけられたのかもしれません。「鬼門」は中国から入ってきた考え方で、東北から鬼がやってくるのを防ぐため、そこに門を建てて二人の門番の神様を置きました。門番は鬼より恐く、都を守ってくれるのです。
 
 節分に豆まきするときの鬼は、頭には角が生えていて腰には虎皮のパンツをはいていますが、そのようなデザインになったのにも理由があります。ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い、の十二支を輪にして並べると、一つの角度が30度になります。それを方角としてみると、「ね」を真北にして、反対は「うま」で真南、東が「う」で西が「とり」になります。「東北」は「うし」と「とら」の接する60度の部分、これが「鬼門」となります。ここから、牛の角(つの)と虎のパンツのアイデアが生まれたのです。
 
 京都を建設する時には、鬼門の守りとして比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を建てました。江戸の町には、寛永寺(かんえいじ)と神田明神(かんだみょうじん)を建てました。仙台では仙台東照宮が「鬼門」に建てられたのです。

 徳川家康は1616年に亡くなってから、一度久能山(くのうさん)に埋葬され、その後に日光に移されました。このことにも理由があります。久能山から地図上で西に線を引くと京都にたどり着きます。その線の途中に鳳来山(ほうらいさん)寺があります。この寺は、家康のお母さんが子授けの祈願をしたところです。生まれたところと死んで埋葬されたところを東西のラインで結ぶことによって、太陽が東から昇り西に沈み、また東から昇るという輪廻再生を願ってのことなのです。久能山から直線に日光に線を引くと、途中で日本の霊峰富士山を通過します。逆に言えば、富士山を通るようにした場所に日光があるということです。日光の位置は江戸の真北に位置しますが、ここに大きな意味があるのです。夜空の星でいうと、全天を支配する北極星の方角になります。当時北極星は宇宙の最高の神様、すべてを支配している星と考えられていました。徳川家康は‘北極星’というお星様になったのです。
 ならば家康様を仙台にお祭りすべきはお城の真北じゃないですか。それなのになんでか鬼門の東照宮なのです。「家康様は仙台の鬼のための門番になりますた」なんて、これが幕府にばれたらえらいこってす。昔家康さんが休憩した場所だからねと、‘へ理屈’こいてる場合じゃありません。城下絵図を提出したとき、まだ仙台に東照宮は無かったし六芒星を形作る六地点は完成していませんでした。というより、その提出した絵図には小細工がされていたらしいのです。
 
その絵図は1645年~1646年(正保2?3)に描かれましたが、幕府から城と城下を描いた絵図を提出しなさいという宿題が出されたのは、その前年でした。政宗公はすでに亡くなっていて、息子の忠宗が、1年の間にアセって調べ測り描かせて、提出したと思われます。絵図によると、仙台城の鬼門には定禅寺(じょうぜんじ)を中心とするお寺や神社が現宮城県庁のある勾当台(こうとうだい)のところに、仙台城を向いて並べ建てられていました。ここは仙台藩が正式に「鬼門だよ」と言って建てた寺社群です。ところがその絵図では、そこが六芒星の中心点になる場所なのにわざとずらして描かれ、中心であることをごまかしています(星型の存在が判られる事を防ぐため)。その他にもいくつか六芒星を形作るには絶対必要な道路が曲っていたりするのです。ということは二代目忠宗は、この仙台の地に六芒星が隠されていることを幕府に知られたくなかったのだと思われます。それは、政宗公のもしかしたら遺言だったんじゃないだろうか…てことはこの六芒星には、なにかすごい秘密が隠されているの…?
 
 玉手崎に建てようとした仙台東照宮の場所には、もともと天神社がありましたが、まるで「城下とは関係ないね」という感じでポツンと描かれています。忠宗公は絵図を提出し、仙台東照宮を建てる許可をお願いしに江戸へ向かいました。

「このたび上様に御目どおりを願いましたのは、神君家康公を我が城下仙台の地に守護神としてお祭りいたしたく お願いに参上いたしました」
忠宗公は江戸の徳川家三代将軍の家光に深々と頭を下げた。
「おおそうか、ジィを守護神として祭りたいと申すのか」
「はい、神君家康公にあらせられましては、亡き父政宗が岩出山へ移封のとき城の縄張りをおん自らなされ、大変にお世話になっておりました。その際、今の仙台の地の玉手崎と申すところにて休息を成されたと伝えられております。そこは城下を一望にできる場所でございます。そこへ神君家康公のわけ御霊(みたま)を勧請(かんじょう:分霊を移すこと)できれば守護のもと伊達家末永く、徳川様に御仕えできるものと思っております」

このとき忠宗公は「鬼門鎮守の神様」として…なんて言えるわけがなかったのです。鬼門の番人は鬼の上に立つもっと恐ろしい存在なわけで、お星様になった全宇宙の神である家康様を、仙台を守るための見張り番に立たせると知られたら、その場で斬首どころか、仙台藩は終わりです。
「仙台の爺が、我がジィに城を造ってもらった事があるのか…」
家光は政宗公に大変可愛がられており、「仙台のジィ」といってとてもなついていました。ときおり江戸にあった仙台屋敷に招かれ、政宗公みずから腕をふるった料理を食べたこともあったのです。
 政宗公は当時の武将としては「料理が趣味」という異才を放っていました。仙台味噌というブランドも確立させ、戦に持参する食料としてはもちろんですが、江戸城下の庶民の間にも、その美味しさと品質の良さで大ブレィクさせていました。政宗公は、当時のグルメ武将としても名を馳せていたのです。
 家光は二つ返事で許可を与えました。1649年(慶安2)5月(絵図を提出した3年後)のことでした。同年8月には建設を開始しました。忠宗は「戦乱の世に生まれてくればすばらしい武将になった」と父政宗公が認めるほどの人物でした。
またあるエピソードで、政宗公が幼い忠宗をつれて徳川家康の御前に連れて行ったときのことです。子供ながらにきちんとした挨拶をし、そのあとにごちそうが出たときのこと。それには塩を振って食べたほうがうまいとわかっていたため、やおら近習(きんじゅう)にむかって「塩をもて」と命令をしたのです。その子供ながらも威厳のある態度を見て、家康は感嘆したと伝えられています。
 
 忠宗公は分霊許可をもらう前年に、玉手崎の天神社に行きそこから見えるところの確認(測量や見通し)をしています。ただ眺めたわけではなく、つねに軍事的に敵を見張ることを考えて、建物や街道の配置を研究していたのです。その時に、龍宝寺と覚性院(かくせいいん)などを確認したと記録にあります。龍宝寺は大崎八幡宮のところで説明した城下の北西にあるお寺です。覚性院は、現在は覚性院丁という名前で八幡町のほうに残っていますが、忠宗公が玉手崎から眺めた時には、南の今の東六番丁小学校の場所にありました。東照宮の分霊が江戸から運ばれてきた時にそこへ仮安置し、その御旅宮(おかりのみや)を建てるために覚性院を八幡町のほうへ移したのです。
 5年をかけて建てた仙台東照宮は、1654年(承応3)3月に完成しました。徳川家康の分霊は上野の寛永寺の東照宮から運ばれてきて、一旦御旅宮に安置され、後に仙台東照宮に移されました。江戸寛永寺の東照宮は1627年(寛永4)に藤堂高虎(とうどうたかとら)によって勧請(かんじょう-日光東照宮から分霊して移す)したのです。玉手崎にあった天神社は、東照宮の敷地内の東側に移され、後に榴ヶ岡のほうに移されました。
榴岡天満宮の名前は昭和30年代に付けられたもので、それまでは天神社と呼んでいました。徳川家光は、仙台東照宮が完成する三年前に他界しており、そのとき13歳の家綱が徳川家四代将軍となっていました。

1646年    城下絵図作成
1648年    忠宗公玉手崎に登り神社仏閣の位置確認。
1649年5月 仙台東照宮建設許可申請。8月着工。
1651年    家光死亡。
1654年3月 仙台東照宮完成。

 城下絵図を事実と違えて提出したのには、六芒星の存在を隠しておきたかったという意図がビシビシ感じられるわけですが、それはなぜか…仙台藩の伊達家を守るための『呪術』として六芒星を組み入れたからです。呪詛(じゅそ-呪い)という考え方は、現代では非科学的ですが、菅原道真の怨霊を静めるために天神社を建てまくった当時の人たちにとっては、呪詛されるイコール霊的攻撃を受ける、ということなのです。その防御施設が六芒星の頂点に位置する寺社群、つまり、霊的防御のために六芒星を作ったことがバレると、破壊攻撃のターゲットにされてしまいます。そのために、星の存在をなにがなんでも隠さなければならなかった。それなら、星型を作らなくても城下を囲んでグルリと祈祷する寺社を建てればいいじゃないか、と現代人は思うわけですが、六芒星は五芒星と並んで太古の昔から魔除けの図形として使われてきました。
 この星型は、ユダヤ教(ユダヤ民族)の象徴のしるしとしてイスラエル国旗にも描かれ、ダビデの星とも呼ばれています。二つの三角形が合わさることで強烈な気の流れが発生し、外部からの呪詛を防ぐ結界の働きをしていることは、現代社会においてもピラミッドパワーや風水などでよく耳にします。’非科学的要素’なくしてこの物語はありえないのです。
 
陰陽師いなべの晴明が星型を発見したのも、もともとは神社から流れ出る強烈な気の流れを認識したことから始まっています。そして後日地図上に気流を書き込んでみたところ、六芒星になったということです。間違いなくいえるのは、この時代は完全に呪術的なものに支配されていたということ。天下を取るため戦で活躍した武将は、死んで即効全宇宙の神になり、菅原道真のように、死後大災害が起きるのはアンタの祟りだと決め付けられた人もいる。祟り封じの天神様が全国に広められ、100年以上も祟り神として君臨していた道真さんだが、ほとぼりが冷めると今度は、生前学者で詩人だったことから「学問の神様」にされたのですから。

祟りを恐れる文化が、『星の街仙台』を作ったのです。

●榴岡天満宮
 榴ヶ岡にある榴岡天満宮。どちらも「つつじがおか」とよみますが、天満宮の名称には「ヶ」を入れないのが正式だそうです。東照宮のところでも説明したように、菅原道真を祀っており、学問の神様として受験生たちの願いどころとなっています。この神社はもともと仙台東照宮のある玉手崎から移された天神社です。仙台に東照宮が遷宮(せんぐう)してきた際に、玉手崎の東側に社殿をいったん移した後、今の榴ヶ岡に移されました。榴岡天満宮という名前に変わったのは最近のことで(昭和30年代)、1667年(寛文7)からそのときまでは「天神社」だったのです。
 1189年(文治5)に源頼朝(みなもとのよりとも)が奥州藤原氏を攻めたときに、藤原泰衡(ふじわらやすひら)がここに防御のための館を築きました。その名を「国分鞭楯(こくぶんむちたて)」といいました。国分とは、この場所が陸奥国分寺の領地である国分荘(こくぶんしょう)と呼ばれる地域だったからです。源頼朝に従ってきた千葉氏が手柄をたてたため、この国分荘を拝領して国分氏に名前を変えたのです。現在の夜の歓楽街である「国分町(こくぶんちょう)」は、国分氏が城下建設にあたって武士から町人になり、国分町に住んだのが地名の始まりとなりました。
 この国分鞭楯は楯を築くほどですから、見通しのよい地形で防衛施設を置くには最適の場所と言えます。そこからは陸奥国分寺が見下ろせ、そこを通る東街道(あずまかいどう)も見通すことができます。天神社が玉手崎にあったときには、仙台城の場所にあった国分氏の城の鬼門鎮守(きもんちんじゅ)を目的としていました。それが榴ヶ岡に移動してしまうとその目的が果たせなくなると心配されますが、鬼門の方角は十二支の「丑」と「寅」を挟んで、角度にすると60度の範囲になります。この場合お城を基準としているので、仙台城から見ると東昌寺(現青葉神社)から天神社(現榴岡天満宮)の範囲にぴたりと収まります。ですから、お城の鬼門方位を東昌寺・仙台東照宮・榴岡天満宮の三点で見事に押さえていることになるわけです。

●愛宕神社
 城下の南に位置する愛宕(あたご)神社は、1603年(慶長8)に建てられました。広瀬川を挟んだ崖の上にあり城下を一望にできます。仙台城と北の東昌寺とほぼ同時期に建設されていることから、その重要さが伺われます。
 愛宕神社のある向山と、その後ろ南側にある茂ヶ崎(もがさき)の山との間に、平安時代以前からの東街道(あずまかいどう)があります。この街道から城下へ入るには、おどげでない(すごく大変な)道のりがありました。当初は軍事的防衛の意味で橋は掛けられなかったため、船や人足によって川面を渡っていました。広瀬川は川幅が広く、歩いて渡れるところがほんの数箇所しかなかったようです。そのためまず茂ヶ崎の山裾をぐるりと回りこんで、愛宕神社の後ろに出ます。すると長い上り坂になります。そこを暫らく進むと、広瀬川へ下りてゆく鹿落坂(ししおちざか)にたどり着きます。(その西の小高い山は、のちに伊達家霊廟のある霊屋になり、政宗公と忠宗公そして綱宗公が祭られています。)鹿落坂を降りると広瀬川の浅瀬があり、ジャブジャブ渡って片平の丘に登り、やっとこさその先に進むことができたのです。
 また愛宕神社からさらに下流の、長町から河原町に渡るところには川渡しがありました。愛宕神社の位置は、それらの街道をぐるり見通せる場所にあるのです。北の青葉神社と南の愛宕神社を直線で結ぶと、南町と国分町の通りにきれいに重なります。このように城下の主要道路は、高台に設けた寺社と見通しにおいて、密接な関係に計画されていることがわかります。
 愛宕神社は火の神である「かぐつちの神」を祭っています。城下の南は十二支の方位では午(うま)の方角です。季節でみると夏六月になり夏至(げし)を含みます。五行説(ごぎょうせつ-古代中国発自然哲学思想)から見ると、北の子(ね)の「水」に対して南の午(うま)は「火」となり、火の神を祭る愛宕神社の場所としては最適と言えます。

●仙台城(青葉城)
 青葉山にあるため別の名を「青葉城」とも言います。地元仙台っ子にとっては青葉城のほうがしっくりくるかもしれません。
 ここはもと国分氏が住んでいた支城があった場所で、虚空蔵(こくうぞう)や千躰仏(せんたいぶつ?千体の仏像)などが祭られていたため虚空蔵楯(こくうぞうだて)とか千躰城(せんたいじょう)または千代城(せんだいじょう)とよんでいました。伊達政宗公はこの地に城を築くに当たって、『千代(ちよ)とかぎらじせんたいの松』と詩を詠み代々が千代で終わってしまうのではなく、常に緑が生き生きしている松のように長く栄えることを願い、また不老長寿の仙人が住むという中国の「仙台」という地名から「千代」→「仙台」に改めたのです。
 仙台城の特徴は、崖にせり出した「懸け造り」という建造物です。
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著作権あり
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 ここから城下を一望にでき、城下からは、北目町から柳町に入って西に向かうと、この懸け造りのお城が見えたのです。六芒星ではここから柳町に沿って一直線上に榴ヶ岡の天神社があります。この懸け造りは「眺望亭(ちょうぼうてい)」や「眺えい閣(ちょうえいかく)」と呼びました。ここから政宗公と綱元が並んで‘鉄砲のつるべ討ち’を眺めたという記録があります。
 鉄砲は片平の西端の旧家庭裁判所のところから、東北大学の南側を通り、五橋から土樋を経て、宮沢橋のある舟丁まで並べられました。鉄砲組は西から、徒歩小姓組、不断組、給主組、名懸組と総足軽組を配し、その数2000挺に及んだとあります。眺望亭の北側の本丸敷地内に、大町勝左衛門重吉組の三十人の鉄砲足軽を置いて合図の鉄砲を撃たせると、西側から、ダダダダダダダダダダダ…と三回行った、とあります。さぞかし気持ちの良い眺めだったことでしょう。それから暫くの後、鉄砲のつるべ討ちは長町で行われました。片平の時は広瀬川(当時の記録では仙台川とあります)の川向こうの土手に向かって、長町の時には大年寺山に向かって撃ったとあります。記録には、片平の時は、慶長14年7月24日です。
 この二回のつるべ討ちは表向き‘鉄砲組みの演習’だと思われますが、もうひとつ陰陽師親方の推測によると、政宗公が密かに企画した干支が関係する内々のイベント(陰陽道祭祀)とも考えられるのです。

六芒星を形作る二つの三角形ですが、易経では、万物の「誕生」「盛ん」「死」の三種の変転生・旺・墓とした「三合の理-さんごうのり」というものがあり、それを十二支へ配当して図形が描かれます。年に十二支を用いていたように、月と日にも用いていました。片平のつるべ討ちが行われた慶長14年の7月の24日は「卯」の日です。長町のつるべ討ちの日も「卯」の日でした。その「卯の日」に囲まれた8月3日は政宗公の誕生日なのです。慶長14年は「己酉(つちのととり)」年の1609年で、政宗公42歳、綱元60歳で、ちょうど二人の厄年になります。政宗公は1567年(永禄10)「丁卯(ひのとう)」のうさぎです。この二回行われたつるべ討ちは、誕生日をうさぎの日で囲んで、‘疫病神’を鉄砲で撃ち殺したことになります。南に撃って、次に西に撃ったということは、その中間(南西)には江戸があります…。政宗公のことだから
「おれもツナも厄年だな…鉄砲でもぶっ放してパァーっといくか!」
「フフ、、それは良いお考えで。幕府の目付けも呼んで派手に参りましょう」
てな感じでやったんでしょうか。

■仙台城下■
 鉄砲のつるべ討ちをした片平の道路は軍事道路です。いざ出陣の時には、城下内を通らずに五橋方面へと近道で抜けられるようになっています。奥州街道を城下に入ってくる道筋は、長町から広瀬川を渡って河原町に入り、北上して荒町で西に進み、五橋を抜けてそれから北上し染師町、北目町と進んで柳町へとくねくね曲って入ります。その地点から西にお城を見上げながら進み、そして城下のメインストリートの南町に北上します。そこまで進むまでに、鉤方(かぎかた)や直角に曲るところがあります。当時は「枡形(ますがた)」といって、敵が攻めてくるときに身を隠して待ち伏せできるようにしていたのです。今も南材木町と穀町の間にみごとな枡形が残っています。
 南町の先には 札の辻(現芭蕉の辻)の十字路に差し掛かります。ここが城下の中心で、西に行けば大手門、東に行けばさまざまな問屋のある町屋を抜け、足軽屋敷のある道路へと進みます。鉄砲のつるべ討ちにも参加した名懸組の住む名懸丁(現名掛丁)があり、その先が鉄砲町で、鉄砲隊が住んでいるところにつながります。
 札の辻(現芭蕉の辻)の北には国分町があり、その先二日町と続きます。国分町は、政宗の家臣だった国分氏が町人となって住んでいたところですが、札の辻を中心としたところに商店が配置されているので、城下に入ってきた人たちは必ずそこを通ります。ゆえに、国分氏の役割は‘偵察 ’だったと思われます。風呂敷包みを背負い商人の格好で城下を出入りすれば‘他国へ商い’という形で情報収集できます。つまり、スパイです。

 「丁」は「ちょう」と読み、「町」は「まち」と読みます。「丁」と付く場所には武士が住み、「町」と付く場所には商人や職人が住んでいました。字を見ればひと目でそれがわかるようにしていたのです。現在の国分町は「こくぶんちょう」とよみ、東北一の歓楽街として有名な町ですが、当時は「こくぶんまち」で町人の住むところでした。そして、札の辻を基準として南北方向を「横」、東西方向を「縦」として町割を行いました。この南北方向は現在「晩翠通り」となっていますが、以前は「細横丁」とよんでいました。「細」は字のごとく細い路地を表し、「横」は南北に伸びた道路であることを表し、「丁」は武士の住むところですので、「細横丁」という地名だけで「南北に伸びた細い路地のある武士の住むところ」という情報が得られるのです。
 国分町を北上して二日町に入る手前に、東西道路の「定禅寺通り」の交差点に差し掛かります。六芒星を隠したと思われる幕府提出の最初の絵図では、ここは交差していません。そこから東へ向かうと定禅寺にたどり着きます。今の勾当台公園と県庁のところです。定禅寺(じょうぜんじ)という寺を筆頭に寺社が配置されていました。定禅寺通りは現在もありますが、「定禅寺」がどこにあったかを知る人は地元でも少ないと思います。
 「**通り」とあるのは「目的地までの案内道路」という意味です。今も残る南町通りは東西方向ですが南町は南北に正対しています。現在は「横丁」も「**通り」も当時とはまったく関係なく名づけられていますので、本当の意味を成してはいません。定禅寺はそこから東側に神社やお寺などが立ち並ぶ寺社群を成していますが、それらはお城の本丸に向けて斜めに配置(鬼門封じの方角)されています。
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星の街仙台P9仙台城下絵図仙台博物館所蔵地図参照
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そのためそれに沿った北側の道路は、その形から「長刀(なぎなた)丁」と呼ばれるようになりました。札の辻を基準として東側へと東一番町、東二番町と通りに名前をつけてゆきました。現在の広瀬通を西公園から東に進むと、東二番町の交差点から急に道路の角度が変化します。それが当時の鬼門の傾きの名残りなのです。当時の寺社群は、そのすぐ北隣の本町にありましたから。
 現代の仙台の街は、高層ビルが林立する東北一の大都会と変貌しましたが、歴史の隅々をこれでもかとつついていけば、400年前の痕跡がまだまだ見つかるのかもしれません。お決まりの観光地をまわるのもいいのですが、歴史オタクなら城下の中心『札の辻(現芭蕉の辻)』もはずせないでしょう。(注:六芒星の中心ではありません)
 
このように、仙台は城下の中心である札の辻(現 芭蕉の辻)を基準として町割されていましたが、北一番丁は定禅寺の北側から名づけられています。まるで六芒星の中心である定禅寺通りを基準としたかのようです。

 札の辻の南北の道路が奥州街道です。そのまま北へと進めば北山にある東昌寺にたどり着きます。北山にあるお寺群は「北山五山(きたやまござん)」と呼んでいます。中国の五山(又は五嶽-ごがく)崇拝からはじまり、日本へ入ってから「山」がいつしか「お寺」に変わった(信仰するという共通点から寺を山の変わりにしたのでしょう)。
 伊達家は京都五山や鎌倉五山に習ってその思想を取り入れ、東昌寺(とうしょうじ)、光明寺(こうみょうじ)、満勝寺(まんしょうじ)、観音寺(かんのんじ)、興福寺(こうふくじ)を伊達五山とし、仙台の城下建設の際に「北山五山」を造りました。北山の東側から光明寺、東昌寺、覚範寺、資福寺、満勝寺が建設当初の北山五山の配置でしたが、後に満勝寺が柏木に移されて輪王寺が建てられました。奥州街道は東の光明寺を回り込むようにして北へと伸びて行きます。また、東昌寺から西へと進むと、輪王寺脇から荒巻方面へ行く道と、根白石(ねのしろいし)方面へと続く道がありました。

 六芒星の頂点を決める神社が建設されたのは、北の東昌寺(とうしょうじ)が最初です。城下の建設が始まったのが1601年(慶長6)ですからそのころのことです。しかし、政宗公は工事中の慶長8年8月に移徒(わたまし)式を行ったとあり、大広間をのぞいてだいぶ城はできていたようです。
 次が愛宕神社1603年(慶長8)、大崎八幡宮1607年(慶長12)、仙台城1610年(慶長15)、仙台東照宮1654年(承応3)、そして最後が榴岡天満宮1667年(寛文7)です。東昌寺から66年後に榴岡天満宮ができて六芒星が完成するのです。

 
 「杜の都」という仙台のイメージは、大正時代に仙台に来た者によって名づけられたのですが、なぜ「もり」を「森」とせずに「杜」としたのか。一般的に伝えられている「もりの都」と呼ばれるようになった理由に、大正時代に、当時まだ藩政時代の「屋敷林」が残っていたためそれが要因になったと思われますが、仙台の城下は、北西、中央、南東、北には「北山五山」、南には「御霊屋」などのお寺群を配していました。ですから寺社の木々がたくさんあったのです。「杜の都」の「杜」という字の意味には「寺社にある樹木」であると辞書で説明しています。ですから仙台の「杜の都」は「寺社の杜の都」ということになります。仙台は寺社だらけなのです。

 日本には、8万社以上の神社があるそうですが、「コンビニの数より多い」といったほうがわかりやすいでしょう。昔はお寺と神社がいっしょくただった(神仏習合思想)が、明治に入り天皇制になってから寺と神社は別物に分かれ、そして分霊という考え方にもよる増殖もあるのではないでしょうか。神道では、分霊しても本社の神霊と同じく神威は損なわれないため、無限に分けることができると考えられています。神社の数だけでも一番多い新潟県で4786、少ない沖縄県で13、宮城は949で全国35位。お寺も入れたらとんでもなく日本は寺社だらけ。
 
 仙台の城下には、六芒星を外れた北西部分と南東部分にすさまじい数のお寺が群をなしています。六芒星の真ん中には北西から南東に傾いてお寺や神社の集まりがありますが、これは本丸に対しての鬼門封じを目的としていることは歴史的に説明されています。しかし北西と南東の部分のお寺群は、星型を描かなければその配置すら気づくことはなかったのです。

 左上の赤い点々は北山近辺のお寺群、右下は連坊辺りのお寺群。もっと右下にある水色部の四角い場所は、陸上自衛隊霞の目駐屯地のある霞の目飛行場。ここが2箇所のお寺密集地のヒントになっています。実際自分で地図上に線と点を描いてみたら、おどろくほどみごとな一致を見せるこの方角に、なにか霊的なもの(当時の人たちの想い)を感じ鳥肌が立ちました。霞の目飛行場は1933年(昭和8)に、当時の日本陸軍が練習飛行場として建設したものです。当時は「仙台飛行場」として「赤とんぼ」と呼ばれた複葉機が離発着していました。プロペラ機は風を利用して離陸などを行うために、滑走路の向きは長年の風向測定によって決定されていたのです。滑走路の向きは北西から南東(赤線部分)、つまり夏には南東の風が吹き、冬には北西の風が吹くということです。同じ向きに寺社群があるということは、この「風」の方角から定められたものだと考えられるのです。
 城下とはもともと軍事要塞です。敵が攻める場合の一つの方法として「火責め」がありますが、火をつけるときには当然風上からです。そこに‘境内’という空間を持ったお寺があると、類焼を最低限に抑えることができます。ましてや、当時のお寺は「出城」(本城を守るための防御用)としての役割も担っていましたから、仙台の城下は「風」の攻撃にも備えていたことがわかります。

■陰陽道■
 昔々、「天」の存在は人々の生活の中にあり、様々な自然現象は「宇宙の意思」が起こすものとして当然に受け入れられていました。豊作を願っては天を仰いで祈り、病には呪文で邪気を祓いました。攻めてくる敵は実体のあるものと限らず、怨霊悪霊や魑魅魍魎(ちみもうりょう)など姿の見えない恐怖に鬼門を構えて防衛したのです。太陽や月を崇拝し宇宙を神とした時代、呪術や祈祷は人々にとって大きな位置をしめていました。除夜の鐘、節分の豆まき、雛流し、恵方巻きなどなど、現代でも‘呪術’は身近に存在しています。
 陰陽道は、古代中国の「陰陽・五行説」からきています。自然界に存在する全てのものごとは「陰」と「陽」で成り立ち、相対しながらも調和を維持し、どちらも単独では成り立たない。太陽と月、明と暗、男と女、夏と冬、表と裏、昼と夜、エトセトラ…
 五行とは、木火土金水(もくかどごんすい)という五種類の「気」の働きを表しています。

-すべての存在(万物)は「気」によって作られている-

 
「陰陽道」は1400年にわたって日本を支配してきました。しかし人はいつしか自然よりも偉くなり、かつては国家の官庁だった陰陽寮は廃止され、天から授かったはずの能力のごく一部しか使わずに生きるようになりました。そのかわり科学は進歩し、神の聖域だった天に飛び、ついには月に到達したのです。
この物語のキーワードは
「六芒星」
「グランドクロス(子午の呪術?)」
「四神(玄武・朱雀・白虎・青竜)」

 政宗公が仙台という街を作ってから400年もの間、六芒星はだれにも発見されませんでした。幕府に提出する城下絵図に偽りを記してまで隠し通す‘理由’があったからです。六芒星をなぞって作られた町だという証拠は、仙台の町割り自体が東西南北に正対しておらず‘傾いている’ことです。その角度はおよそ15度で、この傾きは六芒星を城の鬼門に合わせるためにできたものです。もし城下の町割りが六芒星となんら関係ないとすれば、この傾きが生じる必要はなかったはずなのです。
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 城下の3次元的絵図
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 六芒星を結ぶラインは、ある高さをもって結ばれています。現在の海抜で高さを調べると、城下の家々の頭上を通過していることがわかります。当時はそのラインを妨害しないように、建物の高さを四間半以内にするように藩令で定められていました。四間半というのは城下の地面からの高さで、どこかを基準としたかどうかは資料には無いので不明ですが、建物を建てるときにはその高さより高いものを建ててはならない、ということです。風水も「陰陽」「五行説」からきている学問です。一口に風水といっても、「地理風水」「隠宅風水」「陽宅風水」などに分類されるようですがこの場合、政治家が都などを建設するときに使う「地理風水」があてはまると思われます。
 陰陽師親方曰く「各点を結んだこの線上は、強烈な‘気’の通り道で、この気の流れをさえぎってはいけない」とされ、3階以上の建物ですと、ひっかかる可能性があるらしいのです。しかし、秘密事項であるライン上に高い建物を建てるなという法令の矛盾点について、六芒星のラインは見通しラインでもあるので、当時の資料においては各高台から見通すときの邪魔にならないように、という意味合いの高さ制限だと思われます。親方の発見後、「気の通り道を遮るな」という結果にも繋がりました。
 ところが現代では、そんなこと知ったこっちゃないわけで、にょきにょきと高いビルが建ち続け、100万人を突破する大都市と化しました。

呪術は今も 生きているのでしょうか。

■愛子(あやし)の鬼子母神■
 仙台市街地から西道路(R48)へ、車で約30分ほど走ると愛子(あやし)地区があります。JR仙山線では仙台駅から8つめの駅。駅前表示板の記述によると
『愛子の由来』
 愛子(あやし)というこの地名の由来につき『安永風土記書出』には「当時横町と申す所に相立ち申し候子愛観音之有り候を以つて当村の名に申し来り候由御座候」とある。
 愛子の地名はこの「子愛観音」から起こったといわれているが、今も下愛子横町旧捕陀寺境内に子愛観音堂があって、子安観音(子安地蔵)が祀られている。
(中略)
 この子愛(こあやし)観音様の名勝から「あやし」の語を「愛子」の文字に入れ替えて「あやし」と読むようになったものと見られている。

愛子駅のひとつ手前の「陸前落合駅」の南側は落合・栗生地区で、閑静な住宅街の中にポツネンと建ってる小さなお堂があります。
  20cmほどの木像は右手に幼児、左手にざくろの実を持っており聖母マリア像を思わせる。

 この地区では8/15に、「盗人神(ぬすっとがみ)」また「唖神(おっつがみ)-おし」という祭が行われています。祭りの間中、絶対に口をきいてはならぬ、途中人に見つかってはならぬ、音をたててはならぬという、まるで自分たちの存在をかき消すかのような信仰なのです。そしてこの奇祭の行われる8/15はマリア様が昇天した日とされます。
 また愛子には「愛子百軒、ドス(らい病)九十九軒、残る1軒駐在所」という古い諺がありますが、当時の城下の生活用水は広瀬川の水だったことから、広瀬川の上流に接するこの場所に伝染病患者を集めて住まわせるとは考えにくい。愛子の南は秋保(あきゅう)、西は定義(じょうぎ)で、このあたりは平家の落人が隠れ住んだ伝説が残っています。青葉山の裏手にあるこの一帯は、人が隠れるのには絶好の地理であったのかもしれません。
 
 落合駅から南へまっすぐ突き当りには栗生(くりう)屋敷跡があり、茂庭綱元が住んでいました。政宗公の死後、綱元が立ち退き、入れ替わりに五郎八姫(いろはひめ)が仙台城から移り住みました。五郎八姫は政宗公と愛姫の待望の第一子で、政略結婚により13歳で家康の六男忠輝に嫁いでいます。そして23歳で離縁され仙台に戻ってきました。
 五郎八姫は、吉利支丹でした。姫が住んだ栗生屋敷(西館)の真北に、このお堂は建っています。仙台藩はキリシタンに対しては寛容、というよりむしろ擁護していました。姫を忠輝に嫁がせた政宗公の策略が感じられるさまざまな展開が、今後明らかになっていきます。
 幕府がキリシタンを弾圧しなければならなかった理由…幕府にとってそれだけ力のある恐るべし存在だったから。当時30万人いたとされる隠れキリシタンを、もしも味方にすることができたなら…バクフなんか目じゃないよ…と政宗公が密かに目論んでいたかもしれない、愛子は「隠れ吉利支丹の里」だった可能性が非常に高いといわれているのです。「島原の乱」は、政宗公没後翌年のことでした。そして、六芒星のド真ん中を貫いてグランドクロス(大十字架)が描かれることも、陰陽師親方はとっくの昔に発見していたのです。

■五郎八姫(いろはひめ)■
 愛姫が秀吉の人質にとられ京都生活を送っていたため、五郎八姫は京都で生まれました。姫なのに「五郎八」という男性的漢字の名前は不思議なかんじがします。結婚15年目の待望の嫡子に、後継者の男児を熱望していた政宗が、用意していた男子名をそのままつけちゃった、または、第一子が女子だった場合、次に男子が生まれるよう長女に男子名をつけるという願かけ的慣習があった、などの説があるようですが、本当のところはわかりません。
 五郎八姫は若くしてバツイチになり仙台に戻ってから、68歳で死去するまで独身を貫きました。京都時代、愛姫の友人に細川ガラシャ(キリシタン名、本名「玉」)がおりました。ガラシャは明智光秀(あけちみつひで)の三女で、細川忠興(ほそかわただおき)の妻でした。彼女の影響を受けて愛姫もキリシタンであったと思われ、五郎八が生まれるとすぐに洗礼を受けさせたと推測できます。後に徳川家康の六男忠輝に嫁ぎ、結婚後忠輝もキリシタン信仰を受け入れてゆきます。

 1606年(慶長11)の6月、忠輝との結婚を半年後に控えた五郎八姫は、‘初めての里帰り’という名目で仙台の地を踏みました。秀吉が生きていた時は、母娘は人質として京都にいましたが、家康が天下を取ると江戸へと移っていました。だから五郎八姫にとって仙台は故郷であっても知らない土地でした。仙台では、お姫様の初里帰りと言うことで城内は大騒ぎとなります。政宗公は家臣に命じて7月の盂蘭盆(うらぼん)の間中、町屋を含めた屋敷に灯篭を掛けさせるようにしたのです。今ですと、都会のネオン煌く夜景といったところでしょう。「夜は暗い」が当たり前の時代に、城下を灯篭の明かりで満たしたのですから、さぞかし綺麗だったことでしょう。その光景を見せるため、政宗公は娘を‘懸け造り’へと案内しました。

「さあ姫、ここから城下が一望できるゆえ来てみるがよい」
五郎八は父に促されながら望楼邸の先へと進み出た。夜の城下を見下ろした姫は声にならない声を発してため息をついた。
「…なんて美しい明かりでしょう…まるで夜空の星が地上に降りてきたよう…」
政宗は喜ぶ娘を細目で見ながら微笑むと、
「姫、よく明かりを見てみなさい。何か気づかぬかな」
何か、と言われてよくよく見直してみると「えっ」と小さく声をあげ「もしかして…」と言いながら父を振り返った。政宗は笑みを崩さずに小さく頷いた。
「いろはに喜んでもらいとうてのぅ」
姫は城下の明かりをもう一度しみじみ見つめ、静かに胸に十字を切ったのでした。

城下は札の辻を中心に町屋が十字に並び、灯篭の明かりはその十字沿いの道に密集します。仙台城本丸の御懸け造りから眺めると、そこには見事な光の十字架が浮かび上がったのです。政宗公がキリシタンの娘に贈った最高のプレゼント、元祖光のページェントとでもいいましょうか…この政宗公の粋なはからいは、政略結婚という犠牲を背負わせた父から娘への、複雑なる心情と純粋なる愛情の形であったのでしょうか。

 五郎八と忠輝は仲の良い夫婦でしたが、子供はいませんでした。1620年(元和2)、忠輝の改易により五郎八姫は離縁され江戸の仙台屋敷に戻ったあと2年後に仙台に来ます。そして大手門北側に屋敷を構えて住みました。城下の西にその屋敷があったので五郎八姫は「西館殿(にしだてどの)」と呼ばれるようになりました。愛子栗生(あやしくりう)の西館は、西館殿と呼ばれた姫がお城から移り住んだので、そこも同じく西館と呼ばれるようになりました。
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著作権あり
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■グランドクロス■
 六芒星発見のあと、親方の執念的研究の果てに発見されたのがグランドクロスですが、これはただたんに地図上に線を引いただけではありません。国土地理院東北地方測量部測量課に調べてもらった結果、緯度経度がほぼ一致、六芒星の中心をみごとにぶち抜いていました。

 西側の栗生西館は、政宗公没後キリシタン五郎八姫が住んだ屋敷(それ以前は綱元所有)、そのまた西にある諏訪神社は、もともと国分氏の一の宮(この地域で一番社格の高い神社守り神)として建てられていたが、綱元が政宗に願い出て再建しています。この線を今度は東に伸ばしていくと、榴ヶ岡の北に当たる原町(はらのまち)の陽雲寺に至ります。ここは、国分氏最後の代となった国分盛氏が、戦死した嫡子盛兼を弔うために建てた寺です。
 仙台城の場所には、元は国分氏の千代城があったし、その鬼門には天神社が祭られていたというようにこの街にはすでに国分氏が築いていた呪術的土台があったと思われます。
 北の栗駒町文字村にある洞泉院は、綱元が移り住み隠れキリシタンをかくまっていたという言い伝えがあります。ここには綱元と奥方の位牌が祭られていますが、奥方のほうの上部には丸に十文字の紋が浮き彫りになっていて、その横で綱元の位牌はちょうどその部分が欠け落ちているが、同じものがあった形跡が見て取れるのです。

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星の街P27 洞泉院の綱元位牌の写真
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洞泉院にある人形たちは隠れキリシタンを思わせます。ということは綱元さんもキリシタンだった可能性が濃いのです。六芒星の中心を貫くこの十文字が、キリシタンの十字架なのか、子午(死と再生)の呪術なのか定かではありませんが、これがもし偶然の一致であるならば、仙台は‘神が創りたもうた街’’、人の手で計画的に作られたとすれば、おどろくほど高度な知識と技術で築かれた街であることは間違いありません。そしてその要所要所に、茂庭綱元が深く関わっているということは、綱元さんは仙台城下建設の「総監督」であった可能性が非常に高いのです。

■茂庭石見綱元(もにわいわみつなもと)■
 茂庭家12代当主、天文18年(1549)1月11日の酉の刻、奥州伊達郡鬼庭村赤館に生まれました。幼名を左衛門(さえもん)、後に石見綱元と改名。
 綱元が生まれた1549年は、8月15日 にフランシスコ・ザビエルらの一行が鹿児島に上陸、キリスト教日本伝来の年。それから綱元さんの生まれ変わりという親方の生年は1954年。五郎八姫の生まれた年は1594年…3者同じ数字が並ぶ、意味のある偶然の一致なのか。
 
 茂庭家は代々伊達家に仕える世臣で、弁舌、交渉に長け軍略にも優れた軍師の家系でした。父良直は武田信玄のもとへ武者修行にも行っています。世継ぎとなる男子が欲しくて側室を持ち、白鳥明神に願をかけて、酉年の酉の刻に綱元は生まれました。そのため白鳥明神の化身といわれ、戦での雄姿には頭上に白鳥が舞っていたと伝えられています。人取橋の戦で、父良直は窪田十郎に額を割られて息絶えました。後に、窪田十郎が政宗に投降した際「父の敵を討て」と綱元に引き渡したところ綱元は
「戦場での殺し合いは皆主君のため、個人的な恨みではありませぬ。まして降人を討つのは武士の本分には非ず。この者まだお役にたちましょうゆえ、召しかかえてお使いになられたらいかがでしょう」と答えました。感心した政宗は窪田を綱元の配下にしました。
 
政宗の五男宗綱(二代藩主となった忠宗の弟)を綱元は大そう可愛がり、立派な武将に育てることを夢見ていました。しかし宗綱は16歳でこの世を去り、悲しみのあまり綱元は政宗の引きとめにも拘らず高野山に入道、僧侶として3年を過ごしたのです。
 政宗公の死後、洞泉院を建て政宗と宗綱の位牌を祭って菩提を弔いました。そして自分の墓石となる石像を自ら彫り、寛永17年(1640)92歳で亡くなりました。命日は、奇しくも政宗と同じ5月24日。綱元の墓石像は、両手を合わせ南を向いています。
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星の街P24写真
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石像の後ろには、殉死の禁を破り綱元の後を追った土屋孫右衛門の墓が、横には綱元の墓守をした遊佐道海の墓があります。不思議なことにこの道海の命日も5月24日なのです。
 
 仙台では毎年5月に「青葉祭り」という盛大な芸能祭りが2日間にわたり行われます。政宗公を祀った青葉神社の礼祭で、命日の5/24に多くの山鉾が市中を練り歩き、仙台三大まつりのひとつとして市民に定着しました。5/24は、政宗公、綱元、道海、3人の命日ということになります。

 歴史の記録によれば、茂庭家は熱心な仏教徒でした。仙台藩でキリシタン弾圧の指揮をとらせるのに適したのは茂庭家。茂庭家の人間ならば、幕府に対して信用させることができたのではないでしょうか。仙台城下を流れる広瀬川にかかる大橋は、仙台城大手門と城下町を結ぶために架けられました。その下で、カルワリオ神父ら9人は、極寒の中水責めにより処刑されました。キリシタンへの拷問は苛烈を極めた、それだけのことをやらなければ、幕府の徹底したキリシタン追及からのがれることはできなかったのかもしれません。
?少数のキリシタンを殺害することで多数のキリシタンを守ることができれば 死んでゆく人たちは殉教者なのです?

『樅の木は残った』の原田甲斐の寛文事件にも、茂庭家が深くかかわっています。綱元は、伊達家の存亡にかかわる重要な時に、かならず身を犠牲にして守り抜いているのです。
 伊達家には「黒はばき組」という忍者部隊がありました。商人や山伏に変装した黒はばき組は諸国へ送り込まれ、情報収集や暗殺などの密命を遂行し、政宗の「影の部隊」として活躍しました。人取橋で綱元の父を殺した窪田十郎が後に綱元の家来になるのですが、窪田の息子が「給料が安くて生活できない」と不満を漏らし、ついには藩を逃げ出してしまいました。はじめ南部藩のほうに逃げたようですが、岩城のほうで見つかり、綱元の命令で黒はばきが動いて刺殺されました。
 城下建設の際には「小人事件」というのがありました(末端の階級の者を「こびと」といった)。建設途中の大手門の近くに綱元の屋敷があったのですが、そこで作業をしていた小人と監視の役人とがケンカになり、まわりの小人たち全員が加わってきました。その騒ぎを聞きつけて屋敷から出てきた綱元が、「小人たちを切り殺せ」と命令しました。城下からは鉄砲を持って小人たちを攻撃する者も現れ、小人たちは愛宕神社の崖下にあった覚範寺に逃げ込みましたが、綱元や他の侍たちに取り囲まれてしまいます。窮地に追い込まれた小人たちは寺に火をつけ、全員死にました。覚範寺は政宗公の父輝宗公の菩提寺でしたから、それを焼いてしまった責任を綱元はとらなければなりません。その時政宗公は京都にいたため、綱元は切腹を覚悟でその報告のために京へと向かいました。

「おお、つなもと何かあったか」
「はい、例の件は片付きましたが、覚範寺を焼いてしまいました…ここで責任を取らせていただきとうございます」
綱元は腰の脇差を抜くと腹に突き刺そうとしました。
「まて」と政宗公が言うのと同時に、側近の武士が刀を取り上げました。
「まあまて、つなもと。もともと、あの寺は北山に移す計画なのだから、それが早まっただけよ。それよりも、城の秘密を知る者どもを、見事に消し去ったおぬしの手腕はみごとであった。戻って引き続き城を建てよ。おれは楽しみにしているからな」

ということで、綱元は腹を切らずにすんだのです。
 「小人事件」は、城の抜け穴などを造る作業に当たった者たちを口封じのために抹殺する‘芝居’でした。けんかのきっかけも、それに加わるようにけしかけたのも、密かに紛れ込んでいた黒はばきの者の仕業だったのでしょう。‘綱元のシナリオ’どおりに解決したのです。

 綱元は3年間高野山(真言宗本山)に入り、戻ってからは茂庭了庵という号を名乗った。茂庭父子は熱心な仏教徒であり、常に反切支丹の中心であった。息子の周防守良綱は、キリシタンに憎悪すら抱いており広瀬河原でのみせしめ処刑の指揮をとり、切支丹禁圧へと向かわせた、という文献資料からすると、綱元さんのキリシタン疑惑がまた謎を深めるのでした。

■隠れキリシタン■
 ?江戸幕府(征夷大将軍徳川家光)によるキリシタン禁止令の後、強制改宗により仏教を信仰していると見せかけキリスト教を偽装棄教したキリスト教信者。 1873年(明治6)に禁教令が解かれるまで、潜伏し秘教形態を守った信仰者たち?

 徳川家光の代になるまでは、東北地方での布教活動は比較的平穏でした。やがて強大になっていく幕府の権力に、独立的だった東北地方の諸大名も強制的に従わざるをえなくなっていきます。キリシタン迫害の嵐が迫りくると、政宗の徳川に対する対立的立場をさらに悪化させていくことになります。
 1613年(慶長18)9月、政宗の遣欧使節は、石巻の月の浦を出航しました(支倉常長が黒船-サン・ファン・バウチスタ号でローマへ)。
 幕府の命により「イスパニアと貿易がしたい」、それと政宗公の「キリスト教を広めたいので宣教師を派遣して欲しい」というローマ法皇への親書を渡すことを目的としました。そのわずか3ヵ月後、幕府はキリスト教を禁じ宣教師を追放したのです。政宗が禁教令を事前に知らなかったはずがない。にも拘わらずの「キリスト教広めたい」で莫大な費用と人材を投資しての使節団だったのです。
  
 常長が7年という命がけの航海を終えて、仙台に帰ってきたのは1620年(元和6)。仙台藩でも常長の帰国直前に、キリシタン禁令が出されていました。ローマで洗礼を受けすでにキリシタンとなっていた常長は、ローマから日本へ戻る際にキリシタンの弾圧が激しくなってきていることを知り、一度ルソン(フィリピン)まで来て2年間の時間調整をしています。同時期、綱元は出家という形で高野山に入り、常長が長崎に着くタイミングにあわせるように山を下りています。
  
 常長が渡航する13年前(1600年9月)、関が原の合戦が起きましたが、直前の8/12に、支倉常長の父は土地争いで裁かれ斬首されています。その時立ち会っていた伊達家の奉行は茂庭綱元でした。このような場合、御家取り潰しになりその息子も切腹となるはずが、常長は支倉家の養子であったことを理由に、奥さんと二人で蟄居(ちっきょ-謹慎)させられただけで済みました。これは寛大な取り計らいだと思われます。常長の歴史を調べてみると‘ローマに渡った’ことしか書かれていませんし、なぜ下級武士だった常長が使節に選ばれ、誰が選んだのかなど関連史料が見つかりません。常長の偉業が発覚したのもだいぶあとになってからです。推測ですが、綱元が常長を選び、御家再興を条件にしてローマへと向かわせたものと思われます。ローマへ船で行くことは命がけです。よほどの目的意識と使命感がなければ、達成させるのは難しいことです。常長は大崎君と葛西君を政宗様が攻めたときに、手柄を立てています。武士としてはなかなかの剛の者だったのでしょう。常長の人物像を把握していた綱元が、政宗公に推薦したのは間違いがないと思われます。
 仙台に現存する常長が持ち帰ったキリシタン関連の品々は、明治になってから発見されていますが、それまで密かに隠されていたのです。キリシタンである常長が長崎に着いて、今後の身の振り方を決めるには、かなり上の役職の人間の指示を仰がねばなりません。そのために、仙台または江戸屋敷から奉行クラスの人物が長崎まで向かうことになります。となれば、直ぐにその動向は幕府に察知されてしまいます。綱元はすでに高野山にいます。そこへ密使が連絡を取れば良いし、長崎へは大阪のなんばから船で行くこともできます。常長が長崎から仙台に入った道筋が書かれたものはまだ見つけていませんが、たぶん船だと思います。綱元は高野山を降りて、長崎に向かったと思われます。そして常長に現況を知らせ、適格な行動を示唆したと考えられます。
 
 ローマから持ち帰った品々はかなりの量があったものと思われますが、(明治に見つかったのはその一部?)長崎であればキリシタンも多くいるでしょうから、持っていけない品物は置いていったことでしょう。それに仙台藩の密偵なども多く住んでいたことでしょうし、島原も近いし。
 綱元が潜んでいた高野山のとなりには九度山があります。真田幸村公が、家康によって幽閉されていた場所です。この九度山で生まれた子供たちが、小十郎が白石城で預かった4人です。このあたりにはすでに協力者がいたわけです。
 サン・ファン・バウチスタ号出帆前、政宗公が視察に行った帰りに、綱元の屋敷に立ち寄っていることは記録にあります。ちなみに、黒船製造場所が石巻の月の浦となっていますが、別の場所であったという研究書もあります。結局のところ、通商の交渉は成立せずその後鎖国となったため、この使節団の真の目的がなんだったのか…日本の造船技術、航海術を試すための幕府との共謀説、または政宗公のキリシタンを利用した倒幕説など諸説様々あるようですが、本当のところはよくわかっていないのです。常長が記録した訪欧中の日記も、1812年まで現存していたそうですが、現在は行方不明(?)。
 支倉常長は、まるで歴史から抹消されたように、その末路もナゾとされています。息子はキリシタンがらみで処刑され、支倉家は断絶した。常長の墓が宮城県内に3箇所存在しています。
・帰国の翌年、失意のうちに病死した。--仙台 光明寺 
・愛宕山にかくまわれ84歳まで生きた。--大郷町 西光寺
・幼少期を過ごした地に隠れ住んだ。--川崎町支倉 円福寺

支倉常長さん、世が世なら、あなたは世界的な冒険家として成功をおさめ、英雄になっていたことでしょう。

■禁教■
 五郎八姫と遣欧使節の支倉常長が仙台に戻ってきたのは、同年の1620年(元和6)です。その3年後の元和9年、大晦日から翌年正月元旦にかけて、仙台の大橋のたもとではキリシタンの処刑が行われました。

・大村ノ賀兵衛(伊藤次郎衛門百姓)
・掃部(かもん)
・金七
・三九郎
・三迫ノあん斎(以上四名は和田主水百姓)

の五名は火あぶりの刑。

・高橋佐々衛門
・野口二右衛門
・若杉太郎衛門
・安間孫兵衛
・小山正太夫
・佐藤今衛門
・長崎五郎衛門(デイゴ・デ・カルワリヨ神父)
・次兵衛
・次右衛門

の9名は、極寒の凍てつく広瀬川へ篭に入れられ、水責めにされて亡くなりました。信仰の自由と命までも、国家によって奪われた信徒たち…これらの記録からは一見して、有無を言わさず死刑にされたように思われますが、石母田(いしもた)という仙台藩の奉行が書いた文書には、「ころび(転宗)をすれば命は助けると言ったのだが、頑なに拒否したためやむを得ず死罪にした」事が書いてあります。それは、他のキリシタンたちの見せしめとして行われ、これ以上の藩内での死者を出したくないという思いがあったようです。
 長崎五郎衛門=カルワリヨ神父は後藤寿庵(ごとうじゅあん)のところへ身を隠していたのですが、寿庵に危害が及ぶ事を心配して山奥の隠れ家に立ち退いたのです。しかし、雪道に足跡が残り役人にその場所が知られてしまいました。後藤寿庵はもともと仙台藩の後藤信家の長男でしたが、長崎に行った時にヤソ教徒となったため勘当の身となっていました。
 支倉常長は渡海するに当たり、勉学のため渡海経験をもつ田中勝介を尋ねて京都へ行きました。その時に、田中より海外に詳しい後藤寿庵を紹介されました。常長は寿庵をつれて仙台へ戻ると政宗公に紹介し、寿庵1200石を与えられました。常長は当時600石でしたから、その待遇の良さがわかります。1611年(慶長16)の事でした。
 
 日本でキリシタン信仰がそれほどまでに広がった理由は、宣教師たちは信仰以外にも土木技術や鉱山の採掘技術など、日本よりすぐれた技術も持っていたからでした。東北に初めてキリシタン信仰が入ってきたのも、外国から鉱山技術者を呼んだためでした。石巻の日和山を居城としていた葛西晴信は、鉄精錬の技術を高めるために備中国(岡山県)から布留大八郎、小八郎兄弟を招きました。1559年(永禄2)のことです。それによって、以前より十倍する良質な鉄が生産されるようになり、民の生活が楽になり感謝されました。布留兄弟がキリシタンであったことから、町が繁栄したご利益の象徴として民は競い合って入信し、その数三万人を数えたとあります。そのために寺が三つつぶれ、憤死した和尚もいたという事です。後藤寿庵も堰を造り「砂漠の如し」と言われていた地域を潤したため、その恩恵をうけた百姓たちは寿庵を慕い、キリシタンとなっていったのでした。

 仙台大橋の水責め拷問で亡くなったカルワリヨ神父は、江戸で幕府に密告したものがいたため、囚われたのでした。1623年(元和9)の12月7日、政宗公が将軍家光と面会中、神父を取り押さえるよう指示があったため、政宗公は翌日仙台に使者を出しました。
その手紙には
「昨日七日朝にお茶のために二の丸へ行けたことは幸せな事でした。その時上様(家光)が直接お話になったことは、江戸中にさえ吉利支丹が沢山いるのだから、奥州にもいるであろう。とおっしゃられ、そういう話を聞けば、なるほどと思うところもある。そこで御定めでもあるので伊藤弥兵衛を差し遣わすが、細かな事は伊藤が説明する。」
という内容でした。「なるほどそうですかぁ、もしかすると奥州にもキリシタンなるものがいるってことでしょうかねぇ…」と言っているような、すっとぼけた内容の手紙です。しかし、‘御定め’とあるように「上からの命令だぞ」と釘を刺しています。このとき幕府から名指しされたのが、カルワリヨ神父と後藤寿庵でした。
 仙台藩では後藤寿庵のいる福原邑(水沢辺)の屋敷に追っ手をやったのですが、屋敷を囲んでただわいわい騒ぐだけで、何も手出しはしませんでした。それは政宗公の命令だったからです。あまりにうるさいので後藤寿庵は屋敷を出て南部領へと立ち去ったのでした。追っ手の者たちは寿庵が去ってゆくのを見送るだけで、戻ってからの報告では「秋田のほうへ逃げた」としています。命令によりとりあえずは、捕らえるそぶりを見せていたようです。だから大橋の水責めがいかに苦渋の策であったかが伺えます。本人たちがうそでも転宗しますと言えば、命は助けられたのです。
 後藤寿庵を取り押さえに行く前に、キリシタン取締りについて奉行たちの打ち合わせ会議がありました。茂庭綱元はその席上で、「後藤寿庵ごときを捕らえずしてはキリシタン宗門取締りはでき申さぬ。この上とも殿から寿庵をかばうようなことをなさるまい」と断乎逮捕を厳命したと、「仙台キリシタン史」で取り上げていますが、実際はやいのやいの騒いだだけで終わっています。「小人事件」のときもそうですが綱元さんて、けっこうクサイ芝居が多い人です。おとぼけ政宗公と大根役者の綱さんコンビは、案外敵を欺いてきたかもしれません。

 政宗公の手紙にあるように「キリシタン」を「吉利支丹」と書いていますが、一般的には「切支丹」です。現代でさえ年賀状に「去年はお世話になりました」はNGで、「昨年」と書かなければなりません。「去」は「去る」という忌む言葉だからです。当時であればなおさら文字の表す意味は大きいものです。「吉利」は寿ぎの文字で、「切」は忌む文字です。伊達家には「伊達治家記録(だてちけきろく)」というものが残されていて、仙台の四代藩主綱村公の時から編纂されました。その時のキリシタンも「吉利支丹」の文字を当てています。伊達家にとってキリシタンは忌む存在ではなかったという証拠です。藩内各地でキリシタン弾圧が起きた事が記録に残っていますが、明治6年禁教取締高札が撤去されたあと、明治16年5月3日、日本最初のキリスト教団「日本天主公教会」が認可されました。その時の大司教は、仙台愛子(あやし)出身の土井辰雄という人でした。隠れキリシタンとして長く続けていなければ大司教になどなれないでしょう。鎖国のあとも幕府によって草の根を分けて掃討されたはずの隠れキリシタンたち。これらのことから、いかに仙台藩がキリシタンを擁護してきたかが伺えるのです。そして愛子は、かつてキリスト教の聖都であったかもしれません。

■支倉常長■
  1616年はいろんなことが起こった年です。4月17日に徳川家康が亡くなりました。7月6日には、五郎八姫の夫である越後高田の松平忠輝が改易(刑罰として身分を取り上げる)となり、武蔵の深谷を経て伊勢の朝熊(あさま)に流されました。そのため五郎八姫は離縁され、江戸の仙台屋敷へと戻されます(仙台へ帰ったのは4年後の1620年9月)。
8月20日、政宗公の命によりキリシタン武士の横沢将監(よこざわしょうげん)が、常長を迎えに堺港から旅立ちました(常長が仙台に戻ったのは4年後1620年8/25)。この時点で政宗公は、スペインの軍事力を借りた倒幕計画をあきらめたのでした。常長のローマ派遣のビジョンは、『ローマ法王のお墨付きを持ってスペインの軍事力を動かす』というものでしたが、ことが進まず時間だけが過ぎてゆきました。日本国内でのキリシタンに対する状況も変わり、そのことがローマにも手紙で報告されている事がわかってきたため、これ以上支倉常長を現地においておくのはまずいと判断したのです。
 常長は、ルソンに2年間待機させられてから、長崎までたどり着いています。このころには堺港からメキシコのアカプルコまでの航路が確立されていて、帰りはアカプルコからルソン経由で長崎、という流れになっていたようです。
 1618年(元和4)、茂庭綱元が後見役とした岩ヶ崎城主の宗綱公(政宗の五男)が5月28日に亡くなります。6月、綱元は宗綱の弔いに高野山へ行く事を政宗公に願い出ます。別れに際して政宗公が歌を詠みました。

行くとても 茂る木陰の すずしくは
夏き逃げらし 立帰りこん
ゆくもぬれ 残るもしぼる 袖の上に
とどめもやらぬ 夕月のかげ

 綱元は入道して「了庵高吽(りょうあんこううん)」と名乗りました。そして、1620年(元和6)5月28日、宗綱公三回忌の法事が終わってから帰仙したのですが、途中で江戸の仙台屋敷へ寄って政宗公に報告しています。たまたまでしょうか、綱元が高野山へ向かった年には支倉常長はルソンに着いています。そして、綱元が高野山から降りた年に常長は長崎に着いて、8月に仙台に戻っています。客観的に年代を振り返ってみると不思議な符合が見られます。宗綱公が亡くなったのは偶然としても、高野山まで行かなくても弔いはできるわけですから、その時(元和6)72歳だった綱元が、わざわざ山にこもる必要性があったでしょうか…。

1612年 4月 幕府による禁教令
1613年 6月 金山奉行大久保長安死亡
      9月 支倉常長遣欧使節出帆
1616年 4月 徳川家康死亡
      7月 松平忠輝改易、五郎八離縁
1618年 5月 政宗の五男死亡
      6月 綱元高野山へ入道
      8月 横澤将監が支倉常長を迎えに出帆、年内中に常長ルソンに到着
1620年 5月以降綱元高野山を下山し帰仙 
      8月 常長帰仙
      9月 五郎八姫帰仙
1623年 大晦日 仙台のキリシタン殉教

 「サン・ファン・バウチスタ」という名前は、月の浦から最初に出帆したときには付けられてはいなかったと思われます。記録にも「黒船」としか載っていませんし、幕府の役人も乗船しているというのに、洗礼者-聖ヨハネのことであるその名をつけるのはおかしな事です。なぜならば、黒船が出帆した1613年(慶長18)9月15日の前年の3月に、駿府内で切支丹禁止令発令、また江戸でも切支丹禁止と切支丹狩りが始まっていました。支倉常長は、渡航先で洗礼を受けています。帰国したのは7年後です。
参考:『図説伊達政宗』河出書房新社刊P102より引用

須藤光興氏は、以前に宮城県土木部下水道課長であった時に、「黒船の造船場所は石巻の月の浦ではない」と測量技師の立場から考察していましたが、後に宝文堂書店から『検証・伊達の黒舟』という本を出しています。それによると、建造場所は雄勝湾奥部であろうと説明しています。このことを深く信用するのは、説明している内容もさることながら、地図を見ると、

黒船を造った雄勝の場所とその北側の長面浦(ながつらうら)など一帯が、実は片倉家の飛び地だったのです。
以前、陰陽師親方が青葉神社の片倉宮司と一緒に十三浜の方まで出かけたとき、この辺一帯が白石とともに片倉家の所有する土地で、いわば‘飛び地’なんだ、という話を聞いていました。長面浦では仙台城の塩倉に納める塩を造っており、その塩を運んでお城に行くと大手門をフリーパスだったそうです。つまり、黒船を建造する場合の機密を守れる場所であり、地理的条件に加えて重臣が所有する土地であるという事からも納得がいくのです。長旅用の塩も調達できたという事でもあります。

 支倉常長は、帰国してからの足取りがまったくわからないのです。いつどこでどうして死んだのかも。航海日記も途中で行方不明になり、持ち帰った財宝は明治になってから数十点発見されたのみ。それよりフィリピンで2年間何やってたんでしょうね。高野山の綱元さんがなにか指示していたとしたら、‘スペインの軍事力を借りた倒幕計画はあきらめた’かもしれないけれど、倒幕そのものをあきらめるような政宗さんじゃないでしょうから、帰国前に黙々と任務を遂行していたかもしれません。政宗公が亡くなった翌年に「島原の乱」が起きたことも気になります。

■大久保長安事件■
 五郎八姫も夫の忠輝もキリシタンでした。忠輝が改易になったのには、一応大儀があります。それは、
・忠輝が家臣の旗本を殺害しても謝罪しなかった事。
・大阪の陣での遅参と怠慢な戦。
ですが、その前に『大久保長安事件』というのがありました。長安は忠輝の財政上の後見役を勤めた人物ですが、徳川家の金山奉行でもあったのです。さらに全国各地の金山・銀山の鉱山奉行も務めていました。その際、金銀の取り分は家康の命令で幕府側が四分、長安の取り分が六分でした。しかし、鉱山開発における諸経費などは全て長安持ちとされていたのです。いかにして自分の取り分を多くするか。長安は経費節減の手段として、イスパニアの新たな鉱山開発方法(アマルガム法)を導入しました。正式なキリシタンではなかったようですが、鉱山発掘技術を持つキリシタンには寛容で当然親交もあったでしょう。
 1613年(慶長18)に長安が死んだ時、「南蛮と結託して忠輝を先頭に天下を取る」旨の文書が見つかったというのです。忠輝は政宗公の娘婿かつキリシタンですし、長安の資金(百万両はあったとされる)をもとに、当時30万人いたとされるキリシタンを総動員して立ち上がれば、幕府転覆をはかることができたのです。死後この文書が見つかると7人の子供たちは死罪になりました。これが『大久保長安事件』です。
 一説には、天下人にふさわしいのは家康より政宗のほうだと考え、長安は政宗の倒幕計画に賛同していたと言われています。この事件を機に、幕府のキリシタンに対する弾圧が開始されることとなるのです。幕府にとってキリシタンがいかに脅威であったか。250年にもわたって続いた厳しい監視のもとで行われた禁教と迫害は、想像を絶するすさまじさがありました。幕府は独裁政権を守るために貿易をあきらめ、非人道的な制度で徹底的に執拗に、キリシタンを根絶させようとしました。
 長安の死後、忠輝には直接の仕置きはありませんでした。というのも1616年に家康が死んでしまってから、(家康ほどの力はなかった)将軍秀忠は、一番の不安分子である忠輝を改易して無力化したのです。このときなぜ、もっと怪しい政宗公を消してしまわなかったかというと、したたかで豪胆な政宗のこと、いざとなればどのような攻撃を仕掛けてくるかわからぬほど、恐ろしい存在だったからです。だから周りから取り崩しを行っていったのです。

 幕府に城下絵図を提出することになったとき、うそを描かねばならなかったということは、呪術を見破られないようにするためです。もしも絵図に間違いがあったことを幕府から指摘されたら、絵図を作った人とその責任者が制裁を受けることになります。現代であればお叱りか減給もので済みますが、当時は切腹です。何かを隠すために仙台藩ぐるみで仕上げたとなれば、仙台藩のお取りつぶしは間違いありません。それだけの覚悟があって、事実とは異なる絵図を提出したのです。「武力で対戦しよう、戦争をするぞ」くらいの覚悟の絵図なのです。
 
 家康の分霊を祭るのは「徳川幕府に忠誠を誓っていますよ」というパフォーマンスです。「将軍様は神様です。私たちを守ってください」という願いを見せて分霊したのです。
明治の始まる時代まで、天皇という存在を知っていた庶民は極わずかだったと思います。農民にとっては庄屋様が‘村一番の偉い人’で、時々見回ってくるお代官様は‘怖い役人様’でした。そしてお殿様と崇めていたのは、その領地の城主でした。その城主を束ねる徳川幕府の役人ですら雲上人で、将軍様にいたっては一般的な生活では霞的に考えることもはばかる存在です。だから、庄屋様クラスで「将軍様はすごい存在だ」と認識していた程度でしょう。
 分霊を許されるというのは、伊達家が将軍様と対等くらいの存在だと認められていたからできたことなのです。伊達政宗は徳川方が一目を置く存在だったということです。家康公が亡くなったとき、次の将軍であった息子の秀忠は‘伊達家が反乱を起こす‘というデマに惑わされて、出陣の準備をしました。それを政宗公は、笑って否定して収まったのです。徳川幕府は、伊達家が攻めてくるのではないだろうかと常に疑心暗鬼にかかっていました。それが少し和らいだのは、三代将軍の家光の存在でした。
 家光は子供のころから政宗公に可愛がられ「仙台のジィ」と呼んでなついていました。あるとき、「徳川幕府に刃向かうものがあったらどうする」という話の中で、政宗公が「わしが、先陣を切ってお守りもうそう」といって家光を安心させた、というエピソードが残されています。でもその心の奥は別物でした。

■四神発見■
 東西南北の四方位には、方位を守護する禽獣(きんじゅう)の神が宿ると信じられていました。

北は「玄武-げんぶ」-亀に蛇が絡みついた神
東は「青竜-せいりゅう」-青い竜
南は「朱雀-すざく」-赤い鳥(鳳凰)
西は「白虎-びゃっこ」-白い虎
戦国時代は五行思想からそれぞれ色も配されていました。北は黒で、中央は黄色となります。(相撲ではこれを花房と土俵の色であらわす)
 会津藩では年齢別に玄武隊(50歳以上)、青龍隊(36?49歳)、朱雀隊(18?35歳)、白虎隊(17歳以下)と四神の名前を部隊名としました。

 天空の星座から生まれた四神ですが、風水で自然環境エネルギーの作用を大地の形状で見た場合、北の玄武は高い山、東の青竜は川の流れ、南の朱雀は沢畔、西の白虎に大道、このよっつが揃うと「四神相応の地」と称して、自然エネルギーの充満する大吉相として尊ぶのです。
 政宗公は、大地形状の四神配置だけではなく、別な手段をもって城下に四神を配したのです。
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「星の街仙台」P16?20
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 四神に守られるべき中心は仙台城本丸です。北を見るとやや西寄りに「亀岡八幡宮」があります。亀という字が含まれ玄武となります。六芒星の中心で城下を二分する定禅寺通りを、西に延長した地点にみごとにぶち当たっています。この神社は伊達家の氏神で、松尾芭蕉が仙台に来た際に、真っ先に立ち寄るほど重要な神社でした。ここも高台の見通しポイントですがナント!神社の祭られている山は、驚くことに土盛りをされた人工の山だったのです。しかも!亀の形になぞらえて造られていて、亀の尻尾の一部が今も現存しています。尻尾は丸石を連ねて表し鳥居を潜って、その先は舗装道路の下に埋もれているのです。
 朱雀は仙台城から南に位置する瑞鳳寺・瑞鳳殿です。赤い鳥、鳳凰でもあり、子午の呪術でいうと南は‘火’ですから火の鳥とも言えます。政宗の不死、再生を願って子午の呪術を施した場所のひとつです。

真ん中の黒丸が仙台城。赤丸が四神の位置関係。

 西の白虎ですが、寺や神社ではありませんでした。城の西にある小高い山です。その山は昔「お生出の森-おいでのもり」と呼ばれ、ある日突然現れたという言い伝えがあります。きれいな三角形のお山、太白山(たいはくさん)です。(星の街P18写真)。海からも見えることから、漁師たちからランドマークとして崇められてきました。太白という名は、金星の別名「太白星」からとられ西の象徴でもあります。五行に直すと西の方角は「金」です。中国の古書「淮南子(えなんじ)」には「其神為太白・其獣白虎」とあり、太白と白虎の関係が明記されています。
 残る青竜は、仙台市内にはありませんでした。太白山と仙台城を結んだ線の東の彼方、松島にあったのです。「松島青龍山円福瑞巌禅寺(まつしませいりゅうざんえんふくずいがんぜんじ)。瑞巌寺の正式名称に「青龍」が含まれていたのです。

・六芒星と四神の関係について
 六芒星の傾きの理由は、仙台城本丸を基準として鬼門を押さえるためと、それに伴って城下を覆う六芒星を形作るという二つの目的を達成するためです。四神はまた別に独立した呪術として作られました。
 仙台城本丸を中心とした十二支方位は同じ基準ですが、基本的に東西南北の神様ですので15度傾いていると言うことはありません(六芒星とは切り離して考えてください)。各四神が正確な東西南北になかった理由は、四神が中国の星座、星宿にあるからだったのです。

・四神傾きの謎 
 仙台城を中心に四神の位置を結んでみると方角がいびつに見えます。実際角度はバラバラです。秘密のための配置か、本当の四神ではないのか…しかしこの配置には裏づけがありました。それは天空の星です。

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星の街仙台P19?20参照
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 西洋ではオリオン座など「座」を用いますが、中国では「宿」です。主なものは28宿あり(P20上図)、なかでも有名なのは「昴」(和名すばる)、西洋のプレアレス星団です。この28宿を7宿づつよっつに区切ってそこに四神を配したのです。(P20上図)星宿上では実際にある星に名前をつけて四神の各神様にしたため、大きさがまちまちになり、全天を円として見た場合に角度が一定にならず、それぞれの角度ができてしまったということです。中央には「天皇大帝」の星がありますが(P20下図)、家康が天帝となるべく日光東照宮に祭られたその星のことです。現在の「天帝」は、こぐま座の尻尾の先端にある星が北極星ですが、28宿が決められた当時は別の星でした。それは地球の地軸が少し傾きを持ち、26000年周期で歳差運動をしているため、時代によって地軸の真北にあたる星が変わるためです。

 P20の下図星宿図中央にある紫微宮(しびきゅう)の天体図を、中国漢代には長安の都に描き、日本の平安京では都の内裏に紫しん殿として模しています。星宿図の四神に振り分けられた角度を方位ごとに見てください。(P20下図)小さい順に東(75度)・西(80度)・北(98度)・南(112度)となります。それが地上に配した四神の間の角度の順番と一致するのです。(P19)
 政宗公は、仙台城を「紫微宮」(中心)と見立て、天体の四神を地上に配したわけです。これはかなり高度な知識と方法によります。その事を知っていた伊達家の誰かが、四神を隠す目的で、あえて地上ではなく星宿の四神の配置を施したものと思われます。中国の星宿図という高度な天文知識がなければできないことです。四神の本旨から逸脱しないで、悟られずにずらすことができたのは、驚異的な頭脳がそこにあったということです。   
京都の大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)に、中国から伝わったという天文図の拓本があります。それによって学ぶ事ができた人は、虎哉和尚しかいません(政宗公にへそまがり教育をした人)。
 彼は京都で修行していました。四神の青龍である松島瑞巌寺は、虎哉和尚による再建です。そこには「松島方丈記」という虎哉和尚直筆の額が残っています。その額には陰陽の龍がいます。口をあいている方が陽(向かって右)左が陰です。陰陽道は「陽」と「陰」で成り立ちます。
著作権 

 開府当時の仙台の城下町は、六芒星で囲まれた範囲でした。城下町は伊達家の家臣と町人商人などの住む居住区です。それらの人々を霊的攻撃から守るために六芒星の結界を張りました(図1)。その六芒星の外周を囲むと亀甲(寿)となってそれも結界としてみることもできます。ただこれだけだと本丸が鬼門から守れません(鬼門範囲がズレる)。そのため表向きには、定禅寺を筆頭に鬼門封じの寺社を建てました。(図2)
 当時の人たちはお家の存亡に関わる事に関して「深謀遠慮」という考え方で、幾重にも守りを固める手段をとっていました。六芒星の三角形の角度60度は、鬼門方位の丑寅の角度と同じです。ですからもう一つの鬼門封じの手段として、六芒星を傾け鬼門ポイントに頂点を合わせたのです(図3)。これで六芒星は城下町に住む人々を守り、さらに本丸の城主も守れるという二重防衛ができたのです。さらに、伊達家の永遠の繁栄を願うためにもう一つの呪術を施す事にしました。それが四神です。
 四方位に禽獣の神様がいることで、その中心はあらゆる役害から守られ、永遠の繁栄を招くと考えられていました(図4)。天空の星宿図に習って角度をあわせたことによって、四神であることを隠す事ができた、つまり隠す目的もあって星宿図の角度を採用したのです。
 このように、幾重にも呪術を施したので外部に知られることなく守られてきたわけですが、他にもまだ呪術を重ねようとした形跡があります。

・陰陽道 五芒星と六芒星
 陰陽道は安倍の晴明が有名になり、晴明桔梗紋として五芒星が知られています。晴明の先生である賀茂忠行と息子賀茂保憲の時に、陰陽道の天文道を晴明に、暦道を子の賀茂光栄にと二派に分けられました。賀茂の神様は「賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)」で元伊勢に祭られています。その神社の名は「籠神社(このじんじゃ)」で「籠」は「かご」です。
 世の中には身近なところに星型がけっこう潜んでいます。「カゴメトマトジュース」のマーク、函館の五稜郭は、五芒星と六芒星のミックスで、1ドル札にもよ?く見ればあります。それから、童謡「かごめかごめ」。

かごめ かごめ 
かごの中の鳥は 
いついつ 出やる
夜明けの晩に 
鶴と亀がすべった
うしろの正面 だれ

かごめ→籠目→六芒星→仙台城下…

 陰陽道の「陰」と「陽」は、数字では「偶数」「奇数」になります。「1・2」「3・4」「5・6」という風に奇数と偶数のペアがあり、五芒星と六芒星もペアです。ですから、賀茂保憲(かもやすのり)から二派に分かれた時に光栄は「陰・六芒星」、晴明は「陽・五芒星」になっているはずです。晴明の五芒星は五行の相剋図から来ています。

相剋-そうこく
相手を打ち滅ぼして行く、陰の関係。

木剋土-もっこくど
木は土から養分を吸い上げるので土に勝つ

土剋水-どこくすい
土は水をせき止めるので水に勝つ

水剋火-すいこくか
水は火を消すので火に勝つ

火剋金-かこくごん
火は金を溶かすので金に勝つ

金剋木-ごんこくもく
金は木を切り倒すので木に勝つ


相生-そうしょう
順送りに相手を生み出して行く、陽の関係。

木生火-もくしょうか
木は燃えて火を生む。

火生土-かしょうど
物が燃えて灰が残り、灰は土に還る。

土生金-どしょうこん
鉱物・金属の多くは土の中にあり、土を掘ってその金属を得ることができる。

金生水-こんしょうすい
金属の表面には凝結により水が生じる。

水生木-すいしょうもく
木は水のあるところに成長する。

■呪術都市■
 さて、政宗公が城下町を作る際に、様々な呪術を施したのはわかりました。仙台はまさに『呪術都市』なのです。公にされていた鬼門封じのための寺社群などは別にして、親方が発見するまでの約400年もの間、国家機密として守られてきた城下の呪術の謎が少しづつ解明されてきました。
 その一つ、陰陽道のまじないに使われる星型六芒星。陰陽道では陽の星を五芒星、陰の星を六芒星で表し、どちらも様々な霊的攻撃から守るためにつかわれてきました。
 政宗公の兜の前立てには三日月の飾りが使用されています。太陽の「陽」に対して月の「陰」を用いている事から、城下に「陰」の六芒星を用いたものと思われます。六芒星の六角形は亀の形の‘亀甲‘として、めでたい形であるとも言えます。仙台の城下町を上から覆うように配置されている事から、城下に住む伊達家の家臣たちを守るために作られたのでしょう。
 そしてもう一つの風水の呪術『四神』です。四神は東西南北の四方位に獣の神様を配置することで中心を守り、繁栄を促すという思想です。仙台では(天空の)四神を地上の寺社と自然の山で形作りました。京都の地形もこの四神(北の玄武、南の朱雀、東の青竜、西の白虎)にあたり、千年以上もの長きに渡って繁栄をしているわけです。
 仙台城下の六芒星と四神、どちらも幕府には知られないよう、命がけで隠し通したという発見でした。

?六芒星の存在を隠してきたということが、「伊達家は徳川幕府に尻尾を振り振り従っているわけではないのよ、いつでも天下を取るため立ち上がれるのよ」という、城下建設の際の政宗公、そして当時の重臣たちの意気込みの表れでもあるのです。それが六芒星なのです。無形の文化遺産、宝物だと私は思っています? byいなべの晴明

と、ここでこの歴史物語は 終わるはずでした。

しかし、なにかモヤモヤした感じが私の中に残りました。長年仙台に住んでいながら、全く知らずにいたこの街の歴史をずいぶん勉強させてもらったのですが…ずっと気になってしょうがないのが『グランドクロス』です。
この図形が呪術でなければどんな意味を持つのか。(ちなみに私は東西のライン上に17年住んでいましたからなおさら)
異様にキリシタンを擁護していた仙台藩のことを考えると、この十字架に、呪術ではないなにかまだ埋もれた秘密があるような気がして…。


 南北に関しては、北の茂庭綱元の墓の石像が南を向いているという事で、北から城下まで親方がラインを下ろしてみただけで、城下を貫通はしていません。(南に関係性のあるものがないか調査中)
 呪術の観点から考えるとこの東西のラインは意味不明ですし、かといってただの偶然の一致とは思えません。実際に六芒星の中心(定禅寺通りと国分町の交差する地点)に立てばわかりますが、西の方角と言えば道路に沿った亀岡八幡の方を示すでしょう。(星の街仙台P5)
傾いた街中では正確な西を探す事はできません。その先には青葉山があり、愛子(あやし)の方など見通すことはできません。六芒星が傾いてそれに沿った町割を行ったため、方角を惑わす事ができているのです。現代だからまっすぐに西に線をひけますが、当時であれば西といえば亀岡八幡の方角と言ってしまうでしょう。六芒星の存在がわかれば、真の西に線をひく事ができるのです。緯度と経度が一致して、見事に六芒星のど真ん中を通っています。城下中心から北の洞泉院(栗駒)までは、直線距離で63kmもあります。
 東西ライン上の諏訪神社、又はその先の未知なるポイントに呪術的意味合いがあれば納得なのですが、易経の‘東西で生死の輪廻’という説明では弱すぎて、ピンときません。それに、ライン上の途中の愛子(あやし)地区に栗生西舘をおく必要性がなんなのよ…綱元と五郎八と国分氏、この3人皆怪しい。もうひとつ猛烈に気になりだしたのがこの歌。
かごめ かごめ 
かごの中の鳥は 
いついつ 出やる
夜明けの晩に 
鶴と亀がすべった
うしろの正面 だれ

たしか、これって埋蔵金伝説によく取りざたされる暗号めいた歌詞ですよね。


第二章 伊達な埋蔵金伝説~限りなく史実に基づく妄想へつづく

第二章 伊達な埋蔵金伝説~限りなく史実に基づく妄想

 寛永13年(1636)5月24日に江戸で亡くなった政宗公。江戸と京都では七日間、漁、魚売り、鳴り物などの演芸も禁じ、将軍家と天皇家をも喪に服させるほどの人物であったのです。
自らの存在をいかにしてアピールし目立たせるかを、美意識と知性を最大限に活かし実行した裏で、相手に気づかせないどころか予測すらもさせない大胆な戦略をも練っていた。政宗公は『無言実行』の武将で、仕える家臣たちもまた、寡黙に確実に遂行する有能な人材が結集したのです。

■グランドクロスに関わる人物がナゾだらけな件■

★洞泉院(栗駒町文字村)---ツナモト?城下に呪術を配した総監督
★西舘(愛子栗生)---ツナモト・五郎八姫?政宗公の長女、キリシタン
★諏訪神社(北愛子)-国分氏・ツナモト
★陽雲寺(原町)-----国分氏?黒はばき組のボス

・代々熱心な仏教徒であったはずのツナモトさんの位牌に十字の痕跡(墓のある洞泉院-栗駒町文字村)。
・美しく聡明ないろは姫が20代前半でバツイチ後独身を貫き、政宗亡きあと栗生西舘に住んだ。
・諏訪神社はもと国分一ノ宮で(後に綱元が再建)、仙台城はもと国分氏の城があった場所。
・城主から町人になり、仙台藩のスパイになった(と思われる)国分氏。

この3人がグランドクロスの秘密に関わるとすればキリシタンがらみでしょうか。北(栗駒)も西(愛子)も隠れキリシタン伝説あり。

もう一度この年表を見てみます。
1612年 4月 幕府による禁教令
1613年 6月 金山奉行大久保長安死亡
     9月 支倉常長遣欧使節出帆
1616年 4月 徳川家康死亡
     7月 松平忠輝改易、五郎八離縁
1618年 5月 政宗の五男死亡
     6月 綱元高野山へ入道
     8月 横澤将監が支倉常長を迎えに出帆、年内中に常長ルソンに到着
1620年 5月以降綱元高野山を下山し帰仙 
     8月 常長帰仙
9月 五郎八姫帰仙
1621年 ---- 綱元が栗生屋敷を得る
1622年 -----宣教師ルイス・ソテロがマニラから長崎へ密入国
1624年 -----ソテロ捉えられ殉教

 愛子(あやし)は、ライ病(カモフラージュ?))扱いの村だったことと、あの奇祭。それからマリアを思わせる鬼子母神。しかし、愛子が怪しい最大の理由はもうひとつあります。
 ある時期、西舘に政宗公と重臣13人合計14人が集まり、歌を詠んだり宴会したり大騒ぎしたとの記録があります。そんなこと城でやればいいと思うのですが、隠れ住むにふさわしい条件がそろったこの(当時は辺鄙な)村に、わざわざ藩のお偉方が集まって何をしていたんでしょうか。記録に残される(わざと残した?)ほどの大宴会だったようです。そして諏訪神社ですが、人様の神社ですのに綱元さんがわざわざ手を加えています。
 小人事件の時もそうでしたが、綱元さんは藩の機密を守るためには手段を選ばぬクールな一面を持っていました。支倉常長が帰国してからの記録が一切残っていない(歴史から消された?)ことも、綱元さんが深く関わっているようです。

 晩年栗生西舘に住んだ五郎八姫は、家康公の六男に政略結婚で嫁に行ったが、国家の陰謀で離縁させられ仙台へ。この夫婦、政略結婚とはいえ仲が良かったが新婚生活わずか2年、子供はいない(という歴史上の記録)。
 離縁したとき五郎八はまだ20代そこそこで、美貌と教養を兼ね添えていたそうです。さらに政宗の長女とあらば再婚話もひくてあまたに違いないでしょう。キライで別れたわけじゃない五郎八は、傷心だったはず。母の愛姫などが再婚を強く勧めていたとあるが、がんとして断り続け、隠れキリシタンの里らしき愛子の栗生西舘で一生独身を通すのです。しかしこの地へ移ったのは政宗没後だから、このとき五郎八は40歳過ぎた頃。余生を愛子で…てことでしょうか。もしもいろはが、こっそり子供を生んでいたとして、その子も流れとしてはキリシタン。父政宗亡くなって後ろ盾がいなくなったキリシタンいろはの立場はまずい。で、子供と一緒に愛子に引っ込んだ。とも考えられる。栗生西舘の真北に位置するあの鬼子母神は、いろは姫(?)。
 ローマで洗礼を受け完璧なキリシタンとして帰国した常長は、幕府にとって最高の危険分子。ツネさんが長崎港に到着した時すでに仙台藩でも禁教令が出ていたから、高野山で待機していたツナさんがツネさんをこっそり仙台に連れて帰り、ツネさんをかくまうために栗生屋敷を準備した。と考えれば上の年表がピタリとあてはまる。

 ツネさんは2年間フィリピンの山でザクザク掘っていたか(当時日本はフィリピンにコネがあった)、渡航先で持たされたおみやげのレプリカを作っていたと思われる。その間、ツナさんは幕府の目をのがれるために入道のフリして高野山に。そして仙台藩の黒はばき組を高野山周辺、長崎周辺(島原含む)へ配置。黒はばきのボスは国分氏と思われ。禁教令激化の中、ツネさんをいかにして生かして無事に仙台へ連れて帰るか、それはツナさんの任務で政宗公の至上命令だった。
 歴史上では、「常長は通商の目的を果たせず失意のうちに帰国」とありますが、倒幕を計画していた政宗公にとってツネさん(とソテロ)の業績は、幕府には秘密裡の(キリシタン関連の)絶大なる成果を持ち帰ったと思われる。政宗没後翌年に「島原の乱」が勃発したのは、政宗の死が引き金に(?)。
 政宗公はだいぶ前からキリシタンとの親交を深め、国内中のキリシタンを味方につけていました。当然のごとく娘の五郎八はキリシタンたちにとってマリア的存在だったのではないでしょうか。南の天草四郎と北の五郎八姫。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
-フランシスコ会宣教師のルイス・ソテロは1600年、エスパーニャからフィリピンに渡り、マニラ近郊で日本人キリスト教徒の指導に従事し日本語を学んでいる。
1603年(慶長8)、フィリピン総督の書簡を携えて来日し徳川家康や秀忠に謁見、日本での布教に従事した。
1609年(慶長14)には上総国岩和田村(現・御宿町)田尻の浜で座礁難破し、地元の漁民達に助けられた前フィリピン総督ドン・ロドリゴとの通訳や斡旋にあたる。また仙台藩主・伊達政宗との知遇を得、東北地方にも布教を行った。
1613年(慶長18)、布教が禁止され捕らえられるが伊達政宗の助命嘆願によって赦され、慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らとともにヌエバ・エスパーニャを経てヨーロッパに渡る。エスパーニャ王、ローマ教皇パウルス5世に謁見し日本での宣教の援助を求めるが目的を達せず1617年、エスパーニャを発ちヌエバ・エスパーニャ経由でフィリピンに入り、マニラで日本に渡る機会を待って1622年(元和8)、長崎に密入国したが捕らえられる。この際も伊達政宗の助命嘆願があったが容れられず、1624年(寛永元年)に大村でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑により殉教した-

■黒船造船地は月の浦ではなく雄勝かもな件■
 雄勝(おがつ)一帯は片倉家関連の地で、軍事機密の漏洩を防げる条件がそろっていた。政宗はここで密造船を作らせていたのではないだろうか。サン・ファン・バウチスタ号も様々な細工があったと思われるが、この黒船は帰途に寄ったフィリピンで総督に懇願され売却している。総督はこの船を戦艦として欲しがった、それほど日本(仙台藩)の造船技術は高度だったから。
 新たに作った密造船(日本近海用)に黒はばきを乗せて長崎へ、常長を迎えに出した。この船には幕府へ献上する金塊も積まれていた。雄勝から真西に約30kmのところにある涌谷町は、日本最初の産金地である。また、牡鹿半島にも鮎川金鉱、東北最大の北上川を使えば岩手南部の鉱山も思いのままだった。禁教令によりキリシタンから高度な採掘技術を入手できなくなった幕府だが、(影のキリシタンブレーンを持つ)政宗は黄金郷奥州で金の採掘に不自由はしていなかった。迫害から逃れるようにキリシタンたちは奥州の鉱山地帯へ逃げ込んだため、人材には困らない。キリシタンたちにとっても、鉱夫のいでたちは身を隠す格好の変装になり、さらに仕事が与えられるというラッキーな条件となった。
 サン・ファン・バウチスタ号が出帆した1613年は、金山奉行の大久保長安が病死した年でもある。長安が死ぬまでの間、密かに最先端の採掘技術は仙台藩へ受け継がれていた。長安死亡後に見つかった私財(大量の金塊)は、仙台藩からのリベートだったかもしれない。
 
 密造船は(表向きは)運搬用として幕府に許可をもらっているため、あやしまれることなく行き来することができた。万一のことがあっても、幕府の目付けには賄賂で簡単に落とすことができた。政宗公がどれだけ膨大な鉱山を所有していたかは後述しますが、豪傑な政宗公のやることですもの。
 船は江戸から大阪のなんばに寄り、高野山から下りたツナさんを乗せて長崎へ向かいました。仙台藩では、せっせせっせと金塊が仙台城へ運ばれます。雄勝では塩の生産もしていたため、塩に紛らせ大手門をフリーパスで運び込めました。幕府の目付け役も塩の山をかきわけてまでチェックはできなかったし。こうして政宗公は倒幕のための軍事資金を着々と用意していたのです。

 ツネさんの遣欧使節は、政宗公の本来の目的であるスペインの軍事力を借りた倒幕計画を失敗に終わらせたかに見えたが、その代わりスペインの植民地であるフィリピンとの密議で、闇通商と軍事同盟を持ち帰ることとなる。全世界のカトリック協会の最高指導者ローマ教皇に謁見したドン・フィリッポ・フランシスコ常長は、当然マニラでも手厚い歓迎を受けた。マニラには、迫害を逃れたキリシタン(大名を含む)たちが住む3000人の日本人村があった。総督は、日本製西洋型軍艦(バウチスタ号)が太平洋2往復の航海を成功させたことを高く評価し、政宗の力を確信すると同時に船の売却を願い出た。この優れた造船技術の開示と引き換えに、フィリピンの鉱山採掘許可と兵器・兵力の要請に応じる取引をした。そして、弾圧が厳しい日本へ無事ドン・ツネを届ける約束も交わされていた。
 ドン・ツネはルイス・ソテロをマニラに残して先にフィリピンの便船で日本入りし、迎えにきていたツナさんとともに密造船で仙台へ戻った(1620年)。
 その際、黒船の代価として積まれたフィリピン産の鉱石類、武器類などは「黒はばき」により島原の反乱軍へと届けられた。
 ルイス・ソテロは、この4年後(1624年)長崎に密入国したが捕らえられ、政宗公の助命嘆願叶わず処刑されてしまう。頼りにしていたソテロとマニラの兵力を見失った島原の一揆は、ますます激しくなる迫害に直面するも、政宗公の(反乱)GOサインは一旦見送りとなった。長年にわたる厳しい弾圧・重税・飢餓に農民の不満は、政宗の死(1636年)を引き金にして一気に爆発し、乱はまたたく間に島原半島や天草島へと広がっていった。1637年。
そして幕府は鎖国へと向かっていく。

■政宗公が天下取り満々だった件■
 支倉常長をヨーロッパに行かせて、あちらに提示した内容です。もちろん幕府関係者も一緒でしたから、表向きは通商貿易目的でしたでしょうが、
「九ヶ条条約案」によると
『仙台に司教区を新設』(仙台をキリスト教の本拠地にしてもいいですよ)
『最恵国待遇』(一番良い貿易条件を約束しますよ)
『領事裁判権』(在留外国人が起こした事件を本国の「領事」が裁判する権利を認めますよ)
これらが、東北の一大名から世界のキリスト教最高峰に提案するような内容ではないことくらい、私にもわかる。この使節にどんだけ気合入れたか政宗公。そしてドン・ツネのプレッシャーたるやいかばかりか。
さらにヨーロッパ側の史料によれば、ドン・ツネは驚くべき大胆発言をしていたらしい。「教皇とスペイン国王の同意があれば、政宗公は将軍の座を実力で奪うことも考えている」

 そのときの日本は、家康が天下統一をすすめつつある「大阪の陣」の直前だった。だから政宗はヨーロッパの勢力を引きづりこんで、一気に天下取りのチャンスを狙っていた。そのためには軍資金がいる、それだけの経済力(軍事力)を持っていたのだ。秀吉のときに領地を奪われてチッって思ったけど、代わりに与えられた領地から金だの銀だの鉄だのザクザク採れる山があって、超ラッキー♪。それで政宗公(仙台藩)は、金の保有量では全国でも有数の大名に名を連ねていたわけです。それに、幕府の金山奉行大久保さんとも仲良かったし、仙台味噌だのいろいろ事業やってたし。鉄もいっぱい採れたから、めちゃめちゃ鉄砲作って武器の準備も万端だった。第一章に書いた「つるべうち」、アレですよ。幕府に向かって誇示するかのごとく派手にぶっ放したのです。

 政宗公の倒幕計画には、キリシタンの存在は絶対だった。30万人のキリシタンを従えて戦う自信があったのだ、このときまでは間違いなく。そして、ソレをうすうす感じ始めた幕府がこりゃヤバイぞと禁教令を厳しくして、キリシタンの根絶に躍起になった。その迫害の様子はローマにも伝わり、ドン・ツネの一団は交渉不成立のまま帰国させられることになる。最大の戦力キリシタンをことごとくやられてしまった政宗公の計画は一旦暗礁に乗りあげたけれども、政宗公の跡を継ぐかのごとく‘影の先導者’がいた。それが、五郎八姫なのではないかと。
■かごめかごめの謎■
 この歌は、発祥地も年代も作者も不明とされているようです(童謡って大抵そのようですが)。江戸中期にはあったといわれています。歌詞が意味不明で、年代や地域によっても変わったりします(童謡って大抵そのようですが)。

3番くらいまであったりとかしますが、一般的に知られている歌詞は

かごめ かごめ 
かごの中の鳥は 
いついつ 出やる
夜明けの晩に 
鶴と亀がすべった
うしろの正面 だれ

これも『陰陽・五行説』です。

かごの中(陰)と出やる(外で陽)
夜明け(陽)と晩(陰)
鶴(天で陽)と亀(地上で陰)
うしろ(陰)と正面(陽)

かごめは籠目(六芒星)
鳥(酉)は十二支でいうと方角は西。
鶴は四神でいうと南。
亀は四神でいうと北。

六芒星と四神に守られる仙台城下に、この歌が関係ありありな予感がしたので調べまくりました。この神秘的な歌詞には、様々な解釈がなされているようです。遊女説、陰謀説、囚人説、降霊術説、エトセトラ?徳川埋蔵金のありかを示す暗号だという説は有名で、いまだに健在のようです。
いろんな角度から探っていくうちに、まさかの「七夕」に行き着きました。七夕の起源をたどると、氷河期の世界樹(宇宙樹)信仰までさかのぼるようです。
 仙台といえば「仙台七夕まつり」が全国的に有名です。3日間にわたり200万人以上の人出を呼ぶ、国内最大規模の七夕行事で、青森ねぶた、秋田竿灯とともに東北三大祭のひとつです。まつり期間中は、メインとなる繁華街だけにとどまらず、各町内商店街でも素朴な笹飾りがお目見えします。『星の街仙台』だけあって、七夕は星のお祭りですから、気合が入ります。
 かごめかごめの歌詞の中でも、一番不思議で気になる「夜明けの晩に」というフレーズ。
夜明けの番人
朝から晩まで
あの世
日の出前 

など様々な解釈があるようですが、なぜだか私にはどれもピンときませんでした。なんかこう、もっと重たい意味があるような気がして、しつこく探っていたとき、ひょんなところから偶然目に飛び込んできた記述に、トリハダが立ちました。以下は仙台七夕飾りを制作して120余年の、伝統芸を受け継ぐ鳴海屋紙商事株式会社さんのサイトより抜粋。掲載許可要

?殆どの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、七夕祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われます。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもあります?

?各地の「七夕祭り」のうち、戦後に始まったものの多くは仙台七夕をモデルとしていると言われております。仙台では、伊達政宗が婦女に対する文化向上の目的で七夕を奨励したため、藩政時代から武家・町人ともに年中行事として各戸の軒先に笹飾りを出しておりました?

「神事を行う時間帯?七夕の深夜」という意味を持つ「夜明けの晩」。
六芒星 - 四神 - グランドクロス - キリシタン - 星の街 - かごめかごめ - 夜明けの晩 - 七夕 - 政宗公…
この歌と仙台がいきなり繋がりました。

「かごめかごめ」が、もしかしたら仙台発祥の歌だと仮定して、そこにやはり五郎八姫が深くからんでいるような気がしてなりません。年に一度織姫と彦星が会える(7/7)夜明けの晩、まるで離れ離れにさせられた忠輝と五郎八の悲恋を歌ったかのようでもあります。

 桃太郎の物語も「五行説」です。鬼のいでたちが角に虎のパンツの理由、「鬼門」だから丑と寅。桃太郎は、鬼ヶ島へ猿(申)・キジ(酉)、犬(戌)を連れて、鬼退治に出かけました。なぜもっと強そうな動物にしなかったんだろう。虎(寅)とか龍(辰)とかせめてヘビ(巳)とか。桃太郎の目的は、村の平和を守るための鬼退治だった。なのに結局は、鬼をやっつけてさらに鬼たちの宝物を持ち帰っている。

申・酉・戌は方角は西、季節は秋、それから金の方向。

桃太郎は最初から鬼の財宝を奪う魂胆があったのだと思われる。そのために縁起をかつぐ仲間(金)を選んで同行させた。計画(呪術)はまんまと成功して鬼の宝物を奪い持ち帰ったとさ。

■五郎八と忠輝■
 5歳で婚約させられ、12歳で嫁に出された。(ふたりが実際一緒に住んだのは8年後)。家康の六男忠輝と、政略結婚といえどもお互いまんざらでもない相性で、仲が良かったわけです。共通の信仰(キリスト)を持ち、戦のない平和な世の中になることを祈りながら仲むつまじく暮らしていたのも2年で終了。納得いかない忠輝の改易で離縁させられ、キリシタン仲間が次々虐殺されるのを目の当たりにしたわけです。その中にはきっと友人や恩師や身内もいたことでしょう…幕府の非人道的な行為によって奪われた大切な人たちの命、自分も生まれる前から幕府の人質、勝手に結婚させられ別れさせられ…五郎八姫が幕府を恨んでいないわけがない。美貌と若さと知恵、それと父の血を引く気性の激しさも持っていたようです。
 筆まめだった政宗公の直筆の手紙が数多く保管されていますが、その中に姫に当てた手紙があります。「忠宗に口出しするのを慎むように」という内容です。姫は実弟の二代藩主忠宗と大変仲が良く、政宗公亡きあともいろはの住む栗生西舘に、忠宗が足しげく通っているのです。姉弟は、政治についても語り合っていたのでしょう。
 いろはがバツイチ後独身を通した理由に、いつか忠輝と一緒になることを望んでいたからなのではないかと思うのです。いろはは68歳で、忠輝は93歳で亡くなった。それまでふたりは互いにずっと‘いろいろな思い’を共有していたのではないだろうか。

かごめかごめの鶴と亀は、忠輝と五郎八のことでは…。
鶴と亀がすべった
すべるは、統べる。

七夕の深夜、天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる。
夏の大三角は、こと座のα星ベガ、わし座のα星アルタイル、はくちょう座のα星デネブの3つの星を結んで描かれますが、3星のうちベガとアルタイルは、七夕の伝説における「おりひめ(織姫)」と「ひこぼし(彦星)」です。はくちょう座は十字架型をしているので、北十字ともいい、キリスト教ではこの星座をキリストの磔の十字架と重ねて考えることがあるようです。中国の神話では、はくちょう座は織女星と牽牛星を結びつけるカササギの橋です。

仙台城下の四神は、天空の星を地上に配しました。夏の大三角も地上に配した可能性があります。グランドクロスが「はくちょう座」だとしたら、ベガ(織姫)とアルタイル(彦星)も地図上に存在するはずです。

グランドクロスの謎を解く鍵は、夏の夜空なのかもしれません。


●愛子がアヤシイ件
 仙台市青葉区愛子(あやし)。敬宮(としのみや)愛子様が誕生されたときに、同名の駅がある町として騒がれた時期がありました。青葉山の西側に位置し、仙台中心部から10km、広瀬川に面しています。愛子という地名の由来は諸説あるようですが、どれもこれもむりやりこじつけたようにしか感じられません。いずれも確信に近い文献などは残されておらず、真相はうやむやのままのようです。
 愛子(あやし)がキリシタン五郎八姫と深くかかわりがあることがわかった時点で、ごく単純に政宗の正室→愛姫(めごひめ)の子→愛の子→愛子→五郎八姫

愛子の地名の由来はいろは姫なのでは・・・

グランドクロスの東西のライン上をわずかにはずれますが、諏訪神社の他にも伊達家関連の神社や、いろはが建立した薬師堂などがあります。それからキリスト教会が非常に多い。愛子が隠れキリシタンの里だったこと、明治に日本最初のキリスト教団が認可されたときの大司教(土井辰夫氏)が仙台愛子出身者であったことなども、地元ではほとんど知られていません。

 戦国時代の名高い武将たちは金山銀山を手中におさめていました。政宗公も玉山金山、半田銀山、不動金山、鮎川金山、浪入田金山(網地金山)、高子金山、その他アチコチ。当時彼らが金銀にこだわった理由は、弓や刀にとってかわる最強の戦闘武器「鉄砲」を入手するためでした。鉄砲の値段は、現在の価格にすると1挺(ちょう)36万~160万相当。政宗が行った「つるべ打ち」では、2000挺をブッ放した。ということは7億2千万円~32億円相当の鉄砲持っていた・・・・玉だけでもすごいです。これを年に2回やったんです。愛子(あやし)の遠丁森(とっちょもり)というところで、二代藩主忠宗も「つるべ打ち」をしたそうです。
 信長さんは、武田さんと戦ったときに、3000挺の鉄砲隊で撃破したそうですけど、政宗さんは、戦いじゃなくて試し撃ち(縁起かつぎの催し)ですから。だいたいにして、これだけの鉄砲隊を組織するだけの力があったったことが、幕府が恐れていた理由です。それに輪をかけて30万人のキリシタンが政宗公のうしろに見え隠れしていたわけですから、政宗をヘタに刺激しちゃイカンてことで、五郎八のキリシタンには目をつぶり、でもとりあえず忠輝とは別れさせた。

『黄金を制したものが国を制する。』徳川幕府
『黄金とキリシタンを制したものが国の王となる。』初代仙台藩主・伊達政宗

 政宗公は城内の一角に大規模な味噌工場を建てました。これが日本初登場の「御塩噌蔵おえんそぐら」です。
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仙台市博物館所蔵 著作権あり
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今では全国的に有名になった「仙台味噌」ですが、ルーツは政宗公にたどり着きます。仙台藩の味噌は、朝鮮出兵のときに大活躍しました。各藩が持ち寄った地元の味噌は長期間の滞陣で変質してしまったのに対し、政宗の味噌は持ちが良くそのうえ美味だったことから、兵糧としての完全品質を他藩からも認められました。米と塩に恵まれた仙台の味噌は贅沢な作りで美味しく、そのウワサはたちまち江戸庶民にも広まり、江戸藩邸内にも味噌蔵が作られブームになりました。政宗公は’実業家’としても大活躍していたわけです。
 片倉家の飛び地(密造船のところ、すぐ近所には鮎川金山)では、塩が作られていました。それを城内に運ぶときフリーパスでしたから、塩の中に金塊仕込んで、そのまんまおえんそぐらに運べたわけです。上の絵図見てください。広瀬川から下ろしてすぐに蔵直行です。

 幕府に献上する金塊は別として、隠し金塊があったでしょう。幕府の金山奉行大久保長安は密かに政宗公とタイアップしたがってたようですから。おえんそぐらは、絶好の’一時保管金庫’でもあったわけです。どんどん運び込まれる金塊の山、どこかに移すでしょう、人が寄り付かないところです。広瀬川使えば、らい病のウワサを流した愛子に、黒はばきが運んだ。と言っても、金ピカののべ棒が山から出てくるわけじゃないですから、錬金術を要するのです。アマルガム法という最新技術はキリシタンからもたらされました。鉱石に水銀を流して含有金銀を抽出し、後から水銀を蒸発させて取り除く(水銀流し)。しかし水銀は毒性を発揮する。もしもこの金の精製が愛子で密かに行われていたとしたらどうだろう。

『愛子百軒、ドス(らい病)九十九軒、残る1軒駐在所』 

隠れキリシタンをかくまうために人を寄せ付けない手段として「らい病」をでっちあげた。。。でも、らい病は水銀中毒患者のことだったかもしれない。当時は水銀ガスの危険性が知られていなかったでしょうから、作業員は原因不明の奇病扱いで亡くなっていたのではないでしょうか。恐ろしい流行病の村にはだれも近づかない。愛子は ’隠れる’’隠す’には、はからずも格好の条件がそろっていた。

愛子のN地区には昔、造成の際に大量の人骨が発掘された事実があります。時代的には数百年前のものとして新聞記事に上がったようですが、その後の調査はなされておらず(?)近くの寺に供養されたようです。この場所は大昔処刑場跡だったとされますが、罪人は藩の『機密事業』に駆り出され口封じのために消されたのかもしれません。

●いだて政宗
 茨城の豪族中村氏が、源頼朝にしたがって奥州藤原攻めをして手柄を立てたとき、その褒美として伊達の領地を与えられ、そこから中村名を「伊達」に変えました。福島県には安達(あだち)と言う地名があります。すると伊達は(いだち)と読むのが正しいのでしょう。時とともに変化したか、(いだち)が気に入らずに(いだて)としたかは定かではないのですが、伊達政宗は「いだてまさむね」と呼ぶのが正式です。現在、伊達は「だて」と読んでいますが、本当は「いだて」です。
 青葉神社の片倉宮司が祝詞をあげるときには「いだてと読め」、とお父さんから教えられたそうです。常長がローマに行った時の書状にもローマ字で IDATE と書いてありました。いつごろから「だて」と呼ぶようになったかは片倉宮司もわからないそうです。
 2010年をもって伊達は「いだて」と呼ぶことにしましょう。

『和解の時代、そして新しい伊達(いだて)政宗の夜明けです。』 by片倉宮司

 先日、陰陽師親方が青葉神社に行って’愛子があやしい件’を報告したところ、「そういえば・・・」と片倉さんが語った内容です。
-あの土地(黒船作った雄勝)を小十郎の領地にしたのは、もし敵が仙台に攻めてきたときには、まず松島の瑞巌寺に逃げて船に乗り、北上川を遡上して行くという逃避ルートを考えていたためだ。それと、以前から気になっていることがある・・・「蔵王」の別名は「不忘山」というのだが、小学校の校歌では「わすれじのやま」とでてきて、何かを忘れてはならないという意味で付けられたのではないか、と思っていた。
 蔵王(奥羽山脈の一部蔵王連峰)は蔵王権現のことだが、徳島の剣山にも蔵王権現が祭られている。剣山には財宝が埋められていてそれを守るために蔵王権現を祭ったという話からすると、小十郎が白石を与えられたのも不忘山を守るためではなかったか。。。。
 白石はアクセントのない話し方をするが、これは全国でも2?3箇所だけらしい。自分が大学生の時、友人から’アクセントがない’と指摘されてからずっと気になって、調べたことがある。言葉を真似てもアクセントが必ず出てしまうものだが、つまり白石では’よそ者’が紛れ込んできてもすぐにわかるということだ。今でも白石の人たちは排他的だといわれているが、きっとそのような土壌のせいではないか、それだけ守らねばならないものが、不忘山に隠されているのかもしれない-

●かごめと埋蔵金
 日本の埋蔵金ネタには必ずといっていいほどに、「かごめかごめ」のナゾの歌詞がささやかれるのです。古代イスラエルを支配した巨万の富を誇った貿易王ソロモンの財宝が、四国の剣山に!?「レイダース 失われたアーク」なる映画にも出てくるらしいですが、ユダヤの秘宝ですよ、モーゼの財宝?え?そんなスケールのでかい話・・・。「赤城山 徳川埋蔵金」のときもかごめの歌がその場所を示しているのではと、研究されていたようです。いずれにしても財宝のありか説には、どれもこれも非常に複雑な解釈がなされているようです。

かごめかごめ 
籠の中の鳥は
いついつでやる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
うしろの正面だれ

こむずかしいことが苦手な私としては、どうもこの歌がもっとこう 遊び心で作られただけのような気がするのです。この歌詞は、’ある一定のルール’の下にそれを知る者だけが簡単に解ける暗号(その場のノリで作った遊びの歌)、のような気がします。
 いだて政宗公は天下の大芸人でした。あるときは死に装束をまとって秀吉の前に参上し、あるときは大名達の前で砂金の入った袋をわざと畳にこぼし、畳の目に砂金が残っても平気なそぶりで大金持ち気取り。またあるときは舞いを披露するという秀吉の前にツツミをかってでるのだが、もし一つでも打ち間違えば首が飛ぶ、そこを見事なまでに演奏してしまうのです。朝鮮出兵ではド派手な衣装で他を圧倒し、本陣により近い配置を狙い、このとき仙台味噌も評判を得ます。茶道・能・書・詩歌・料理、あらゆる方面に才能を発揮した政宗公は千両役者でした。
 そんなことをツラツラ考えていたら、この歌ってやっぱり仙台発祥なんじゃ?って思えてくるんです。「夜明けの晩」が七夕に繋がったことも大きな要因です。
 
 政宗公が400年もの年月を隠し通した六芒星を、陰陽師親方が発見しちゃったことによってその’一定のルール’のようなものが見えてきた。六芒星と四神、それだけだったらここまで話は発展していません。グランドクロスの存在、これは呪術ではない。じゃぁなんなのかってところから様々な疑問と好奇心が生まれました。
 人工的に配置されたものたちの位置関係は、あきらかに『こじつけ』の域を超えています。当時ソレを知る者は、ホラあの栗生屋敷(のちの西舘)に集まってドンチャンやった13人 + 政宗公、計14人。その中に五郎八がいます、たぶん。
藩の重臣たちがわざわざ愛子の栗生屋敷に集合し、軍事機密の密会をやっていた。

『さて皆のもの。ここらでひとつ歌を詠み競うことにしようじゃないかい。‘この件’について、最もおもしろい出来のものに褒美をつかわそうじゃないかい』とか言って、政宗は目の前に金銀を積み上げました。藩の存亡を賭けた重大会議に緊張する13人が、とたんに色めき立ちます。いろはは、遠く離れた恋しい忠輝のことも想いながら、詠みました。

かごめ(籠目-仙台)かごめ(籠女-いろは)
籠の中の鳥は(仙台城下のお宝は)
いついつ出やる(いつ出すべきかしら)
夜明けの晩に(織姫と彦星が出会う七夕の夜に)
鶴と亀がすべった(忠輝と五郎八が統べった-キリシタンを統一する)
うしろの正面だれ(バックには奥州の王政宗がついている)

政宗に気に入られたのはいろはの詠んだ歌でした。ひとつの歌に’ふたつの意味’が込められているとはさすがオレの娘♪いろはよ、おぬしなかなかやるのぉ?褒美じゃ好きにせい!ハッハッハ byマサ

♪金ゲッツ!やりぃ? byイロハ

 実際に茂庭家記録には「寛永8年(1631)正月25日に愛子村御屋敷において夢相ひろめの御連歌あり」と記載されています。愛子村御屋敷とあるようにそのときはまだ綱元の屋敷でした。ここでは、その「夢想之連歌」は政宗公の直筆として

代ヲ長クタモツ心ハマサム子ノ
セカイシツカニ住ヨシノ松

とあります。
この栗生屋敷で重大な密会が何度か行われたかもしれません。このとき1631年は、政宗公が亡くなる5年前です。
密議メンバー(茂庭家記録より)
1.政宗
2.忠宗・二代藩主
3.綱元・茂庭ツナモト
4.実雅・龍宝寺住職
5.宥尊・?
6.良綱・綱元の子
7.貞成・?
8.似春?
9.祥景?
10.元直?
11.松恵?
12.重純?
13.重則?
14、久巴・?

ハテナマークの方々は調査中です。お寺のお坊さんか、武将の親子か・・・ここに五郎八の名はありませんが、キリシタンゆえ記録に残されなかったもしくは特別ゲストでしょうか。

 
●新史実発見
 宮城県立図書館郷土資料室で発見した、伊達家の研究においては第一人者といわれる土生慶子(はぶけいこ)先生の著作本「いろは姫」に驚くべき史実が書かれていました。
 
 五郎八姫は子供を産んでいたのです。忠輝と離縁させられた直後妊娠発覚。江戸の仙台屋敷で男子を出産。出生は極秘にされ、その子はのちに僧侶となります。それから、忠輝は家康の六男であるという通説ですが、七男です。忠輝は双子でした。記録では双子の兄は幼少時死んだことになっていますが、のちに忠輝の影武者として生きたのでは・・・。
 土生先生が研究された伊達文庫は「江戸時代には仙台城に秘蔵され、一般人には見せず、伊達家臣でも見たことは親、兄弟にもらせず、写しも禁じられて起請文を書いてみることができた・・・」といいます。 歴史に’絶対’は無い。でも、限りなく信頼できる資料にめぐり合うことは可能です。通説をくつがえす新発見、それが土生先生の本との出会いでした。

●双子
 昔々その昔、双子が生まれると、「鬼っ子」と呼ばれ忌み嫌われたようです。双子以上を宿すと獣腹といって’不吉’という迷信がはびこっていた時代があったのです。そういえば、歴史上の名だたる人物に双子がいるという話を聞いたことがないと思いませんか。双子は、そのどちらかの存在を記録から’消されて’いました。歴史上は、忠輝が誕生したときに醜い顔立ちだったことから、実父の家康が「捨てよ」と言ったそうです。生まれたての赤ちゃんてクシャクシャである意味’醜い’ですよね、、、忠輝の前に5人くらい生ませているのだから、家康さんだってそのくらいのことわかっているはずです。しかも男子なんだし、オギャーと生まれた直後に容貌に絶望するほどの理由がわかりません。
 忠輝はそれ以来「鬼っ子」と呼ばれながら孤独な幼少期を過ごし養子に出されました。しかし、史料の肖像画を見る限りイケメンです。五郎八姫も美女でしたから、イケてるカップルだったと思われます。醜いから嫌ったというのは世間に対してのカモフラージュで、実のところは双子だったから。将軍の息子に双子が生まれたことを世間に知られないようにトップシークレットで隠し通したのでしょう。
 史料には忠輝七男とあったから、双子の兄貴のほうが捨てられた。捨てるといってもたぶん俗世から離された(出家)。農民の子なら生まれてすぐに死なせたでしょうが、地位の高い家柄では’死んだ’ことにして寺などに預けて縁を切ったようです。
 忠輝が幕府の陰謀で改易されあっちこっちへ流された先に、たしか政宗公と仲良しの城主がいたっけ、、、忠輝と、影武者の兄貴がすり替わることなどそう難しくもなかったと思われます。。。

 忠輝(辰千代)の双子の兄(松千代)は、生まれてすぐに跡継ぎのいなくなった松平家に養子に出され8歳で亡くなったことになっています。そして入れ替わりに弟の辰千代(忠輝)が養子に入り、同時にいろはと婚約。15歳で結婚し、19歳で福島城主(新潟)となります。23歳で福島城を廃城し高田城を築きますが、築城には12藩の参加が命ぜられ、仙台藩政宗公が陣頭指揮をとっています。外堀に囲まれた城域は不等辺六角をなしている。

 政宗公は城に隠し部屋を作り、死んだフリ(出家)してた双子の兄貴松千代を呼び寄せて住まわせた。このとき影武者教育がなされたのではないだろうか。大久保長安が忠輝の付家老だったことから容易に計画は進められた。いろはと忠輝がこの城でラブラブ生活を過ごしたのはわずか2年だ。すぐに改易で離縁となる。
 家康に双子が生まれたとき、家康側はドヨ?ンだったけど、こさい和尚からへそ曲がり教育を受けた政宗にとっては目がキラ?ンと輝くような出来事でした。世間的には不吉な双生児でも、政宗から見れば天からの贈り物、希少な人材(戦力)に思えたのです。しかも家康の子ときたもんだ、鬼っ子が天使に見えたっちゃ?。殺してしまえという家康をなだめて養子をすすめ、死んだと思わせ出家に出し、弟辰千代を娘と結婚させ、城築時に兄松千代を密かに呼び寄せかくまった。
 やがてナニカを感じ取った幕府が、アセって忠輝(辰千代)を改易し、いろはと縁を切らせた。しかし政宗の内心は’シメシメ・・・ニヤリ ’ 双子の存在が、天下取り計画に大いに貢献するシナリオをメラメラと考えていたんじゃないでしょうか。
 
 政宗公は、お家騒動を危惧して実弟を殺したということになっています。が、本当のところ、俗世から離したのではないでしょうか。政宗公は武将としては勇猛果敢でしたが、繊細で慈悲深い一面もあったと思われます。弟を殺す芝居はしたでしょうが、実は面倒見てたんじゃないだろか。死んだフリしてた弟もどこかでつながっているように感じます。栗生屋敷の密議メンバーに入ってそうですけど。。。
 いろはに息子が生まれたときも、幕府がらみで極秘にするようはからい、とりあえずはいろはから引き離しどこかのお坊さんに預けました。二代藩主忠宗は実姉いろはと大変仲が良く、いろはを慕い頼っていました。史料を見ると、まるでいろはのおっかけでもしてるみたいに頻繁に会いに行っています。同じ母から生まれた5歳上のキレイなお姉さんですから、、、、それにきっと政宗亡き後の政策の相談もガシガシしていたでしょうね。。。西舘で。

 忠宗がいろはのために建てた松島天麟院の二世である黄河幽清(こうがゆうせい)和尚が、そのいろはの子だとされます。姫は亡くなる前の3年ほどこのお寺で過ごしたそうなので、息子に看取られたのでしょう。お墓もここにあります。

 家康さんは、於万の方(おまんのかた)との間にも双子作っています(秀康)。このときも家康さんはこの母子ともども激しく嫌い、顔が変だの粗暴だのとナンクセつけ、おまけに秀康の武将としての器量を認めながらも後継者であるべき秀康を秀吉に差し出して、弟の秀忠を世子にしています。そこまでして嫌った理由は「双子だから」。忠輝の時とまったく同じ流れなのです。
しかし忠輝は本当に家康から嫌われたのか、といえばそうでもなさそうなのです。「織田信長?豊臣秀吉?徳川家康」と渡り歩いた‘野風の笛’が家康から忠輝へと渡されているのです。この天下人の象徴といわれた笛は現在長野県諏訪市の貞松院に保存されています。

 世相から迫害される双子やキリシタンたちが安心して住める村。神の愛を受けて生きる者たち『愛の子』が住まう桃源郷 『愛子』

●チェンジ
 いろは姫は忠輝と離縁したあと4年間江戸の仙台屋敷で暮らしています。母親の愛姫も一緒です。愛姫はいろはを妊娠する前から幕府の人質にされましたから、いろはにとってのふるさとは仙台ではなく江戸や京都です。仙台は、嫁入り前に1回だけちょこっと顔出した程度(ホラあの仙台城の眺望亭から城下に灯篭の光の十字架見せられたとき)ですがそのいろはが、華やかな江戸を捨てわざわざ東北の城に永住覚悟で引っ越すことになります。愛する夫と別れさせられ、さらに出産後赤ちゃんと引き離され精神的ダメージは強かったようで、鬱にもなりますそりゃ。母親はじめ侍女たちが心配しまくり気をつかいまくったそうです。そうなれば住み慣れた江戸の屋敷で、母親の愛情に守られながら心の傷を癒すのが普通でしょう。甘えたい盛りに嫁に出されたいろはにとってそれ以上の心のよりどころはないはずです。なのに政宗は、いろはを母親と引き離し仙台に呼び寄せました。かといって政宗自身ほとんど仙台にはいなかったのですよ、江戸に居るほうが多かったんですから。
 キリシタンの弾圧強化を危惧した理由ももちろんあるでしょうが、いろはが仙台に住むことを承諾したのは、息子に会うためではないでしょうか。それから、もしや忠輝にも会うことができたのではないでしょうか。つまり、仙台には’いろはの家族’が集合できる条件が整えられていたのです。政宗公の周りには、高名な坊さんがいっぱいいます。いろはの息子を預けようものならコネはいくらでもありました。いろはが仙台入りしたのは1620年です。そして忠輝さんですが、改易後、朝熊(あさま)に2年、飛騨高山の天照寺に1618年から8年幽閉され、1626年から諏訪へ移動します。飛騨高山の藩主金森重頼と政宗公はお友達です。忠輝の件以前から、お互い和歌や茶に精通していたことで金森家との交流は深い。

 1625年 8/15(中秋の名月)月見の連歌会が催されています。連歌といえば、密談でしょう。このときですよ忠輝(辰千代)と兄貴(松千代)がすり替わったの。。。

1616年 忠輝改易、いろは離縁
1617年 いろは出産
1618年 忠輝飛騨高山に幽閉
1620年 いろは仙台入り
1625年 月見の連歌会
1626年 忠輝(入れ替わった兄)諏訪へ移動

月見の連歌 政宗の句

陰シモ 晴ルモ 同じ天ノ原
今宵ノ月ノ 名ヲヤ ナガメン

私にはこれが、双子がチェンジする様を詠った様にしか見えないのですが・・・この歌会の翌年、忠輝は飛騨高山を追い出されて諏訪に移り(この時35歳)、没する92歳までそこで過ごしたという記録です。移動の理由は、伊達家と金森家の特別に親しい間柄を徳川家が疑いだしたから(どうやら両家の交友は非公開だったらしい)。他には、忠輝のやりたい放題(大暴れ)に愛想が尽きて金森さんが預かり拒否したとかなんとか。この時点でふたりは入れ替わっているから、飛騨高山に居る必要が無い。兄松千代の’影武者’としての人生はここからが本番です。
脚本:政宗
演出:金森
主役:兄松千代
エキストラ:黒はばき

兄松千代は、ご乱心の芝居をうってわざと高山を追い出されます(金森さんもグル)。諏訪では監視下ながらも奉公人を100人近くも抱えた小大名のような高待遇で暮らしてます。文献にもありますが、外部との接触は滅多になく幕府の目付けもいたものの内部関係者からはかなり良くしてもらい、ほとんど不自由なく風光明媚な屋敷で茶や能や歌会を楽しみ、芸術作品まで残しています。
 諏訪市文化財に指定されている忠輝直筆俳句画軸の文学性・芸術性は、松尾芭蕉と並ぶほど(それ以上?)とまで評価されているようです。気性が荒く無粋な人物像(=乱暴者)忠輝の作品とはとても思えないということです。つまり兄貴は『繊細で芸術肌』だったんでしょうネ。あまりに居心地がいいもんで、死ぬまで58年間もここにいましたとさ。双子に生まれて不幸どころか、こんな優雅な生活やめられまへんな、ということで長生きしたんじゃないですか、松兄ィ。

 改易後の忠輝といろはの落胆ぶりは、治家記録にも残されるほど大きかったようです。近しい人たちの心配を増大させ「なんとかせねばなるまい」の書状も残されています。とくに忠輝ですが、改易の表向きの理由が取るに足らない内容です。忠輝本人、側近、母親、政宗、その他だれがなんと頼もうとも許されませんでした。若干25歳で新婚で、武将としての素質も充分で、これからファイト一発満々のときにいきなり監視付きの隠居、しかも一生です。自害でもなさるのでは・・・と心配されるほどでした。11歳から世話してくれた大久保長安もこの頃亡くなっています。亡き後に出てきた金銀財宝の山が、不正蓄財だ倒幕資金だと疑われ、ついでに忠輝も危険分子とみなされ、とどめは、やはり義父である政宗の’ローマだキリシタンだ倒幕だ’でしょう。改易離縁の理由が自分のせいにあると、政宗はひどく責任を感じていたことが伺われます。もはや自分の運命がどうにも変えられないことを悟った忠輝は、決心しました。「そーだ!仙台へ行こう」
 この頃五郎八姫は仙台城敷地内の西舘に住み、栗生屋敷は最初山岸修理之助さんて人が住んでいたのですが1621年から綱元さんの屋敷となります(いろはと常長が仙台入りした翌年)。ちなみに山岸さんは伊達氏の家臣で諏訪神社の造営に関係した人のようです。そして政宗公が亡くなる1636年、綱元は洞泉院へ、入れ替わりにいろはが栗生屋敷(西舘)の住人となりました。
 愛子の栗生屋敷はとかく密会の館(隠れ家)として利用されていたようです。もともと隠棲条件バツグンの土地にも増して、カモフラージュのための歌会などを催したりして万全なサポート体制が整っていたのです。

 いろは姫と侍女たちが輪になって「かごめかごめ」で遊びました。

かごめかごめ(籠目-仙台、籠女-いろは)
籠の中の鳥は(自由を奪われた忠輝は)
いついつ出やる(いつ出てこれるの)
夜明けの晩に(年に一度織姫と彦星が会える日-七夕の夜)
鶴と亀がすべった(四神で南と北、忠輝と松兄が入れ替わる)
うしろの正面だぁれ?

いろはが振り向くと 息子を連れた忠輝が立っていました。

 1625年「月見の連歌会」において、飛騨高山の忠輝と、死んだフリして仙台に潜んでいた松兄は完全に入れ替わりました。このとき忠輝34歳、いろは32歳、息子は8歳になっていました。

 忠輝は伊勢朝熊に流された時に坊主頭にしていますが、これは後に大きな武器になりました。また、綱元が栗生屋敷(西舘)に移ったのは、政宗公が本丸から若林城(現宮城刑務所の場所)に引っ越した後の事です(寛永6年)。忠輝と兄の完全すり替えまでの間、のこのこと忠輝が仙台に来たりするのは絶対にないことです。当時に飛騨高山-仙台を往復するということが、どれだけ大衆の目にさらされるかを考えると不可能です。やる時は一発勝負です。

 寛永二年(1625)八月十五日、政宗公は数百人の家臣を伴って金森の城へと向かいました。その中に僧侶も数名付き添っていた事でしょう。当時としては、ご祈祷する事は医者と同じような意味合いを持っていましたから、僧侶がいてもおかしくは無いのです。その坊主の一人が双子忠輝の兄であったのです。頭巾をかぶれば顔などわからないでしょうし、忠輝くらいの人物になれば、下っ端の人間が顔を観る事などできませんから忠輝に似ているなあ、などと疑う余地は皆無です。そして政宗公が詠んだ歌のごとくすり替えが終わって、一行は仙台へと向かいます。僧侶は自分のお寺へと戻りますが、忠輝が向かった愛子栗生には、8歳になる小僧といろはがおりました。感激のご対面です。
 江戸で生まれた子供はすぐにどこかの寺に預けられ、長旅に耐えられる年齢になってから仙台へと移されていたのです。仙台城の中では幕府のお目付け役がいる関係上子供を育てられませんから、お寺に預け(出家させ)育てていました。
・1626年(寛永3年)、
この年 御5男御誕生 次郎兵衛常元と称される。後 五右衛門と改めらる。軽部隠岐殿某の家嗣となりたまう。
綱元78歳で5男をもうける。とありますが、この子は忠輝の子供と思われます。昔は、妻(いろは)が30歳を過ぎると主人(忠輝)の寵愛をお断りする慣わしでした。そのため、若い女性を選んで主人(忠輝)に相手をさせたのでした。そこで子供が出来てしまったため綱元の子として、どこかへ養子に出しました(その後の子供の消息は不明)。戦国時代の恋愛は武将になるほど現代のようなきれいごとではなかったようです。男尊女卑の時代ですから、若い女性をあてがうということは接待の一つでした。それを受けるも丁寧に断るも受け手次第。茂庭家記録でも江戸の徳川家の家老の接待に女中を身の回りの世話役として差し上げたが、丁寧に帰してきた。というような内容の記録が見えます。忠輝に対してもいろはとの再会の喜びとは別に、そばに女性を付けられたのだろうと思います。
・1628年(寛永5年)、
政宗公若林城に引越し。本丸の坂道の上り下りがつらいので、平らなところへ移りたいと’隠居を匂わせる理由’で家光にお願いし許可をもらった。しかし実際の若林城は、まわりをそびえる高さの強固な城壁で囲み、まるで要塞を思わせる建造物でした。政宗公は60を過ぎてもなお、天下取りの夢は持ち続けていたようです。
・1629年(寛永6年)、
政宗公も引っ越したことだし、わし(綱元)も栗生へ引っ越すかなと。これで、忠輝様と五郎八姫は本丸で殿様ごっこできるべ。
・1631年(寛永8年)、
栗生で連歌でもやりながら今後の戦略でもかだっぺ。軍資金も隠したし、キリシタンもいっぺいるし。なあ、忠輝どの。。。おっと今は僧侶の***でしたな、ハハハ・・・

 歴史の記録は結果の記録です。でも人間は結果を出す前に目的があります。それは一点を見るとわからなかったのですが、こうして様々な角度から追求してゆくと真の目的が浮かび上がってきました。栗生屋敷の連歌の席(14人の中)に僧侶のフリした忠輝がいます、きっと。

●常長愛子入り
 支倉常長がフィリピンに2年滞留し、頃合をみはからって日本へ上陸、そして仙台に着いた年が1620年、いろは姫と申し合わせたかのような同じ年の、数ヶ月違いです。キリシタン弾圧激しい中、迎えに行った綱元さんと黒はばきの働きで無事仙台入り、おそらく愛子直行でかくまわれたことでしょう。ツネさんがあっちから持ち帰った『おみやげ』の、現金化しやすそうなものは「島原」へ置いてきたかもしれません(いざというときの足しにせよ.政宗の命により)。しかし、金では買えない、日本では見たことも無いすんぎょいものは、政宗公へ献上したはずです。ちなみに政宗公のお墓から発掘された金のブローチ(ロザリオ)はそのひとつで、常長の偉業を称える意味でも墓に入れるほど大切にしていました。ツネさんの責任ではないにせよ、目的果たせず帰国したふがいなさを、これらのすんぎょいおみやげでカバーできるかもしれん。と思うくらいすんぎょいものを持ち帰ったのではないかツネさん・・?
 ツネさん一行は、行く先々で大歓迎を受けたそうではないですか。どっかの港にはツネさんの銅像まで建っています。生まれて初めて見る東洋人だったでしょうし、彼らがどんだけオシャレしてったことか・・・しかも同じ宗徒でもって、さらに政宗のことですからこっちからもすんばらすいおみやげを持たせたことでしょう。国宝級のアレだのソレだの、だってなにせ黄金の国ジパングですよ、東北地方はザックザクですよ。一緒に日本を乗っ取ろうぜな勢いで行ったんですもの。それなのになんだか日本ではキリシタンの迫害がすさまじい。だから
『悪いけど今のところはご期待にはそえられません。その代わりこれをお持ちなさいな。これはね、すんぎょいものなんだよ。ミスターいだてによろしくね』
と言ってローマ教皇は通訳に日本語で’取り説’を書かせました。あっちからの『おみやげ』の一部は明治になってから発見され、博物館に所蔵された。その一部以外のいっぱいはどこにいってしまったのですか?それに明治になるまでその一部はどこにあったのでしょうか。

 仙台城の崖下の対岸に「花壇」と呼ばれる御屋敷があった(現在も花壇という地名で残る。ちなみにイタコはここに10年住んでいた)。その名のごとく、花畑があったところだが、その屋敷にキリシタン関連の品々を収納していた蔵があった。明治になってその蔵を開けたところ常長が持ち帰った品々の一部が発見され、常長の存在も明るみに出たのである。
 京都祇園祭で繰り出す山鉾に、常長がローマ法王五世からもらってきたタペストリーが使われている。京都以外にも大津や長浜にもタペストリーがあるが、五枚のタペストリーを会津藩主に渡し、会津藩主が二枚を徳川家光にあげた、残りの三枚は会津の天寧寺へ渡ったという流れである。家光に渡った2枚のうちは一枚を江戸芝の増上寺に、残りの一枚を加賀前田家にあげている。前田家の物は現存しているが、増上寺の方は焼失したという。会津天寧寺の3枚は、1800年ごろ京都の商人が買取り、祇園祭の鯉山が買い分割して現在に至っているという。

 いろはとツネさんは、栗生屋敷で夜な夜な語らい合ったことでしょう。本場のキリスト教のこと、教皇様のこと、異人の生活のこと、オシャレのこと、食べ物のこと、あんなことそんなこと、、、そして財宝のこと。いろはは生まれながらの超セレブなお嬢様です。ちょっとやそっとのお宝には驚きゃしません。アラこれはなにかすら?なんだかよっくわかんないけれどもとにかくすんぎょいものみたいよ。日本語の取り説も入ってるわ、親切ね。盗まれないように金庫に預けましょう。by イロハ

金庫=土の中


●若林城
 政宗公が若林城(現宮城刑務所)を隠居の場所とした事は、まさに矛盾だらけです。今の博物館のある場所(青葉山の下)は三の丸の跡でした。山登りがきついのなら三の丸で隠居しても良いはずだし、後にできた二の丸でも場所的には問題なかったはずです。わざわざ若林に城を築いた理由が、忠輝を盟主(主君)と仰ぎキリシタンをまとめて反乱を起こすという考えであれば、若林城は仙台の防衛線としては最高のものになることでしょう。そのために本丸を空けたのだとすれば、つじつまが合います。
 人目につかない愛子には隠れキリシタンたちが集合しています。常長さんが帰国した後隠居した(といわれている)川崎町へは山越えすれば秋保(あきゅう)を抜けて行き来できます。グランドクロスの東西ライン近辺に軍資金の一部を隠しておけば、仙台の表を通らずとも愛子に出入りできますから。忠輝、いろは、ツネさんが、政宗公の下でキリシタンをまとめる重要なポストについていたのです。25歳の若さとその性格からも、忠輝がおとなしく幕府のいいなり隠居するなど考えられません。「政宗パパに一生ついていけばオレの人生に活躍の場ができるゾ!」改易前キリシタン大名だった忠輝は、政宗にとっても強大な戦力であり、双子の兄がいてこその戦略です。そのような計画が着々と進められたにもかかわらず、実行されないままに政宗公が死んでしまいました。

 その悲しみを歌ったのがいろは姫のかごめ歌、なのかもしれません。

かごめかごめ・・・(籠目-仙台)
籠の中の鳥は・・・(仙台にいる忠輝は)
いついつ出やる・・(いつ出陣するの)
夜明けの晩に・・・(神事の行われる時間帯)
鶴と亀がすべった・(忠輝といろはのキリシタン反乱計画がすべった-失敗した))
うしろの正面だれ・(代わりに戦ってくれるのはだれ)

だから、政宗公の亡くなった翌年に(辛抱たまらず!)島原の乱が起きたのかもしれません。

●いろは歌
 五郎八という名前、響きがとても女性らしく政宗公の美的センスが伺われます。でも、漢字は男性的です。第一子に五と八の数字がつく意味はなんでしょうか。五郎八の名前の由来は、どんなに調べても結局は推測二通りしか出てきません。

・男子しか考えていなかった(ゴロハチ)のに女子が生まれたからゴロあわせでイロハと呼ぶことにした。
・女子が生まれたら次に男子が生まれるようにその女子に男子の名前を付ける風習があった。

いろは歌は48音  四八音(よはね) 

ヨハネといえば『新約聖書』に登場する古代ユダヤの宗教家・預言者のヨハネさん。イエスの到来を告げる役割をもっていた・・?
もうひとり、ユダヤのヨハネさんとは別に、新約聖書に登場するイエスの使徒12人の一人。
『イエスの愛しておられた弟子』あるいは『愛する弟子』
このヨハネさんは「黙示録」を書いてますね。終末思想『ヨハネの黙示録』です。
愛子(あやし)に今も残る奇祭ですが、口を利いてはならない、人に見られてはならない、家の主人がお参りから戻るまで家人も同じく無言で隠れるように過ごす。主人にお参りに持たせるお膳には、料理と一緒に12膳の箸(わらで作ったものを糸で結ぶ)を添えるそうです。
つまり12人で召し上がれということですね。キリストの愛した弟子12人へ捧げるためでしょう。そしてこの愛子の奇祭が行われるのは8月15日、マリアが昇天した日とされています。8/15といえば、忠輝と双子の兄が入れ替わったあの日、月見の連歌が行われた夜。偶然でしょうか。。

籠目籠目   (仙台城下の六芒星)
籠の中の鳥は (城下の財宝は)
いついつ出やる(出やる→いやる)

イヤルとは、ユダヤ暦の2月(太陽暦の4?5月)。

愛姫がキリシタンだったことで、待望の第一子は性別に関係なく最初から「いろは-48音」と決めていたのではないでしょうか。男子が生まれても「いろは」と読める文字を考えていた、、、政宗公は、国内のあとは世界征服まで考えていて、そのためにはローマ教皇に気に入られる名前がよかろう、ってことで。

いろは歌-すべてのカナ音を使って作られている手習い歌

いろはにほへと ちりぬるを   色は匂えど散りぬるを
わかよたれそ つねならむ   我が世誰ぞ常ならむ
うゐのおくやま けふこえて   有為の奥山今日越えて
あさきゆめみし ゑひもせす   浅き夢見し酔ひもせず

この中に、イエス・キリストに関係する暗号が隠されているといいます。また「ん」を加えて48音になるのは明治になってからのようですが、当時は47音で通っていました。10世紀頃には48音だったなど、諸説ありますが、政宗公のことですから先見の明で48音-ヨハネを決定していたのかもしれない。

ユダヤ、六芒星、政宗、預言者、ヨハネの黙示録、財宝、いろは歌・・・・・

■伊達な埋蔵金■
 『夜明けの晩に』-神事の行われる時間帯-----深夜2時前後、いわゆる’丑三つ時’です。方向でいえば「鬼門」に当たります。七夕でいうと、七月七日の午前1時?3時、織姫と彦星が年に一度最も近づく時。この歌が暗号として使われたのだと、まことしやかに囁かれ現代までナゾのまま残ったのは、24時間のうちで最も神秘なことが起こるまたは行われる時間帯だからです。それが童謡として幼子の口伝えに広がった(いろはが子供の間で流行らせた?)ことも不気味さを増し、人々の興味をそそったのだろうと思います。

夜明けの晩に 鶴と亀がすべった。

丑三つ時、忠輝と兄が入れ替わった。
丑三つ時、忠輝といろはがキリシタンを統一した(集会をやった)
丑三つ時、***に軍資金を埋めた。



この歌が仙台発祥である証拠はなにもありません。しかし、六芒星や七夕に関係してることから、陰陽師親方の17年にわたる歴史研究の成果と、史実に沿ったイタコの妄想がシンクロし始めました。日本の埋蔵金伝説にはウワサにすらあがったことのない史上初の「 いだて政宗 の埋蔵金 伝説 」が生まれそうです、、、

●経緯
 さてここで、今までの事を整理してみたいと思います。
六芒星と四神の配置は「呪術都市」の裏づけがとれました。グランドクロスの東西のラインは、呪術的観点からいうと東の’誕生’と西の’死’といった、’輪廻’とも解釈する事ができますが、それにしても六芒星の中心をズバリ正確に貫いている事から、もっと大きな意味を持っているのではと考えました。それに諏訪神社の宮司の「夢想の連歌」の件、あとで詳しく説明しますが、宮司が夢で見た歌を綱元に伝え、それを政宗公に報告し、わざわざ連歌会の主題に持ってきています。城でやればいいものを、隠棲地区の愛子で、林に囲まれた小さな屋敷にお偉いさんがゴチャゴチャと集まってドンチャンやっています。しかも近所にある諏訪神社を綱元が新しく建て直しちゃったりなんかして。
 諏訪神社は元々国分氏の一の宮です。愛子地区一帯および、政宗統治以前からの仙台の総鎮守でした。ここの和尚の(たかだか→)夢で見た(←ということになっていますが)歌が、治家記録に残されるほどの大げさなことに発展しているのです。
 建設工事を建前に、ドンチャンをカモフラージュとし軍資金などを隠した(あるいは取り出した)と考えても不思議ではないと思います。それを決定付けたのが忠輝が仙台へ来ていた、という推測です。忠輝が六男ではなく双子の七男であったという発見と、いろはには子供がいたという事実。そして常長の帰仙といろはの仙台入りが同じ年であること。大久保長安が忠輝の付け家老だったこと、死んだ後に軍用金ではないかと疑われるほどの私財を隠し持っていたのが見つかったこと。その事件に忠輝と政宗も関係ありとみなされたこと(これが忠輝が改易された本当の理由)。

 などなど、若林城の件も含めて、キリシタンによる幕府転覆計画があったと結論付けても筋書きが自然に通ります。
そこに「かごめかごめ」と「七夕祭り」が政宗公の発案らしいということも加わって埋蔵金暗号歌説のストーリー展開になりました。
 日本国内の埋蔵金伝説を調べてみたところ、実際に発掘された例も数あれど東北地方(仙台藩)には、いままで一度もささやかれたことすらない(勝ち組だったという理由あり)のだそうです。昔は銀行などありませんから、土の中へ埋めるのは日常的に行われていたでしょう。戦国時代、どの藩でもいざというときの軍資金は当然ながら確保していたはずです。倒幕を企て世界征服まで考えていたであろういだて政宗が、莫大な軍用金をどこへ隠していたのか。当然一箇所ではないでしょう。

 まずグランドクロスの東西のライン上はあやしすぎるほどあやしいあやし(愛子)。この一帯には伊達家関連の神社だのお堂だのがいっぱいあります。仙台藩の密会の館’栗生屋敷’のうしろには蕃山(ばんざん)があります。政宗公没後、この屋敷にいろはが移ったとき、「蕃山も私のものにくださいな」と言ってもらっていることから、何か目的でもあったのかと思われます。蕃山は、伊達家と非常に親しく付き合っていた和尚(雲居禅師うんごぜんじ)が晩年住んだ山です。この雲居さんもかなりナゾな人物、、、
 青葉神社の片倉宮司が気になっているのは、白石蔵王です。白石といえば政宗の片腕であった片倉小十郎景綱。白石城は仙台城の支城として伊達家の重臣片倉氏が代々居城しました。白石蔵王の別名は『不忘山-わすれじのやま』。

●夢想之連歌
寛永8年(1631)の元旦に諏訪神社別当山伏宮之坊が明神の夢相を見たとあります。
寛永8年正月25日に愛子村御屋敷(愛子西舘)において夢相ひろめの御連歌あり。
寛永12年(1635)霜月明神宮(諏訪神社)御造営ありし。

大辞林より
むそう-れんが ―さう― 【夢想連歌】
夢に現れた神仏の暗示により得た句を、発句に据えて巻く連歌

わかりやすくいうと、諏訪神社の宮司が、政宗公が歌を詠んだという初夢を見たんですね。その歌は「世を長く保つ心は政宗の 世界静かに住吉の松」というものです。それが綱元に伝わり、政宗公に報告した。その月の25日に栗生屋敷でその和歌をお披露目する会が行われた。政宗はこの歌をとても気に入り(?)、神社に金3両を奉納した。そして自筆で「代ヲ長クタモツ心ハマサム子ノ セカイシツカニ住ヨシノ松」と書いて残した。その後綱元さんが、人んちの神社なのに再建を申し出て造園などして手を加えてます。
 神木住吉の松は実際神社敷地内にあるようなんですが、現在では、長年の風雨にさらされ、木は枯れているが自然に崩落するまで補強を行い保存していくことが決まっている-そうです。

歌の中に一箇所気になる部分が。
マサム子ノって、ネだけ漢字の子になっているのが気になりましたが、政宗が詠んだ他の歌にも「マサム子」が出てくるそうで、子(ね)は12支の最初(スタート)なので縁起が良いことから、なにかと子にこだわりがあったようです。たしか、仙台城を築城するときも子年を選んでいたような・・・・この歌の解釈ですが、’戦なんかやめてこの松のように静かに末永くいこうよ’なかんじでしょうか。政宗らしくないような気がします。。。
 金三両というと、今の価値で表すとだいたい20?30万くらいでしょうか。てことはこの宮司さんの夢見料が60?90万。埋蔵的には ’ショバ代 ’・・・?この歌の解釈が正しいかどうかはわかりませんが、政宗というよりイロハっぽいですよね。「ったくもうあんたたちいい加減ケンカなんかやめて静かに暮らしなさいよぉ」
アラ? マサムネの子だから マサム子ノ  ?? 

諏訪神社-青葉区で一番古い神社の風格

住吉の松は朽果てわずかに切り株が残っている

この歌会で詠まれたのは66首。創世記からヨハネ黙示録まで聖書66巻。偶然でしょうか。

●千手観音善入院


国分氏の陽雲寺と同じ並びで、すぐそばのこのライン上に、もうひとつ古い神社があります。千手観音善入院。政宗公が好き(?)な子年の守り本尊です。子は始まり(スタート)、東西ラインの東は誕生(生)。
境内に樹齢約200年のイチョウの木があります。毎年春にはウグイスがやってきて、秋にはギンナンがたわわに実ります。御神木の貫禄充分で、天にまっすぐ向かう幹や枝ぶりはみごとです。この神社は江戸中期頃に建てられたようです。二代藩主忠宗の頃でしょうか。。。由来は、白根沢喜兵衛という人が’夢のお告げ’を受けてどこかの山に入り観音像を発見したとあります。しばらく自宅保管していたがこれじゃバチが当たると、どこかの神社に預けたがその後、寺や神社同士の合併があり現在の善入院に落ち着いたそうな。
 この界隈は藩政時代宿場町として栄え、御米蔵もあって年貢米を牛車で運ぶ重要な街道でもありました。松雄芭蕉が多賀城、塩釜へ向かうときにも通ったといわれています。現在は仙台三十三観音の第10番札所に、平成8年には仙台市の登録文化財にも指定されています。

木鼻部分には獅子頭と鶏頭の装飾
正面には鶏頭

獅子は権力や王の象徴であり、西側(仙台城)を向いています。鳥は酉。五行でいうと酉は「金」。(桃太郎もキジを連れていきました)
夜明けの晩に→夜明けの番人→鶏(コケコッコ)
鶴と亀がすべった→鶴亀は長寿の象徴。すべるということは死を意味する。

かごめかごめ(仙台城下)
籠の中の酉は(城下の金-財宝は)
いついつ出やる(いつ出したらいいの)
夜明けのばんに(夜明けの番人←鶏)
鶴と亀がすべった(政宗公が亡くなった)
後ろの正面だれ(政宗の代わりはだれ)

 戦国の世、男の’道具’でしかなかった女たちの『生きた記録』はほとんど残されていない。逆にいえば、藩の機密を託すには好適の戦士。五郎八姫は、政宗と正室の愛姫との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子。美しく聡明な姫を、政宗公は『影の後継者』として育てた。仙台七夕は、伊達政宗公が婦女に対する文化向上の目的で奨励した祭りである。
 身分の差こそあれ、この時代の’幸せな女性像’というものが浮かんでこない。そのような折、異国からやってきた愛の思想は、女達に一筋の光を与えたのだろう。『キリスト教』-愛を説く宗教は、非情な境遇に置かれた女達にとって人としての存在価値を唯一認めてくれるものとなった。武将達がザビエルを大歓迎したのは、鉄砲という近代武器や治水・鉱山などの日本には無い先進的技術を彼らが携えてきたためである。それに付随してもたらされた‘宗教‘は、それらの技術と同時に受け入れられていく。先進技術は貧しい地域の直接的な助けとなり、理想だけの仏教の教えから、生活の向上という現実的なご利益をもたらした。
 「技術と宗教」は多くの人たちの心をとらえ感動させた。「愛の思想」は、殺戮を繰り返してきた一部の武将達の良心にも光を投げかけ入信するものが後を絶たず、当初は信者の数が70万とも80万人ともいわれた。しかし宣教師の中には純粋な思想の伝達以外に、国家的思想を持ち込む者もいた。
 当時はイスパニアのイエズス会派とオランダのプロテスタントに別れそれぞれに貿易などの利権が絡んでいた。そのためオランダはイギリスと組んで、徳川幕府にイスパニア批判を訴えたのである。それを信じた幕府はキリシタン弾圧を開始した。改宗させるための刑は悲惨を極める。純粋に思想を受け入れた信者達は極刑に処されても信仰を捨てなかった。殉教していく仲間を知るにつれ、日本人気質が逆に信心を固くしていったのだろう。人として、筆舌に尽くせぬ残虐行為が国家の命令で行われていたこの時代、まさしく狂った世の中としか言い様が無い。このような時代に、思惑の反する’キリシタン擁護者’がいた。ひとりは、天下の影の将軍として恐れられていた『奥州の雄 伊達政宗』。そしてもうひとりは、その娘『五郎八姫-いろはひめ』。徳川幕府のキリシタン弾圧が激化する最中、ふたりは領地仙台の城の背後にキリシタンの聖都を築いていたのである。『イエスの愛しておられた弟子』あるいは『愛する弟子』をかくまった村「愛子(あやし)」。いろはが余生を送った地、 隠れキリシタンの里である。

「越後少将様、いろは ただ今到着いたしました。」
久しぶりで会った姫に忠輝は目を細めた。
「長の旅疲れたであろう。しかし、その’越後少将’と呼ぶのは親父殿の入れ知恵だろう」
面を上げた五郎八姫は笑顔を見せながら
「さすがに少将様察しの良い事。父上は会うたびに良き夫をもたれたと言い、少将様の自慢話をされておりました。」
「そうか、親父殿がそのように申して居ったか・・・」
忠輝は姫の先に政宗を映しながらうれしそうに答えた。
五郎八姫6歳時の縁組から16年の歳月を経て、二人は晴れて夫婦となった。
翌年慶長19年には、忠輝のために高田の城を築く事となり、建設のため伊達家並びに各藩から普請のために人が集められた。
「少将様、立派な城を築いて見せますぞ」忠輝に近づきながら政宗が声をかけた。
「これはこれは親父殿、大儀をばおかけしまして・・・姫もまねをしますゆえ’忠輝’と呼んでくださらぬか。」
「いやいや、もったいない。本当は大将様とお呼びしたいところですわ(笑)」
「これ親父殿声が高すぎます。こちらで茶でも進ぜながら四方山話なぞいかがでしょうか。佐渡もおりますゆえ。」
「佐渡?佐渡守殿がおわすとな!?」
佐渡守と呼ぶのは、家康が忠輝につけた勘定奉行大久保長安のことである。
しかし長安は昨年の4月25日に亡くなっている。
死んだ後にとんでもないものが出てきて、子供達7人が死罪となる事件(大久保長安事件)が起きるのである。
その事件の中心人物が実は、政宗と忠輝だったのだ。
茶室に入ると一人の娘がひれ伏して待っていた。
「親父殿、紹介いたしまする。この女は大久保長安の女郎集に紛らしておいた’間者’でございます。」
「多恵と申します。」凛とした声に女の気性が伝わってくる。
「くるしゅうないおもてをあげよ。」
政宗に促されゆっくりと顔をあげた女は、日焼けした肌にきりりと引き締まる黒目と口元が精悍さを感じさせる。
「この女は長安から渡された黄金をある場所に運ぶ役目をしておりました。」
「なんと、この細腕で黄金を運んだとな」驚く政宗に忠輝は
「まさか親父殿、人足に化けた間者の男集が運び出したのです。多恵が指揮をとりました。」
納得顔の政宗は多恵に笑みを向けた。

大久保長安はもと武田家の家臣で、甲州流採鉱技術を学んでいた。しかし、武田家が無くなり浪人していたところを佐渡の金山奉行として家康に抜擢された。採掘された金は幕府と山分けとし、長安はかなりの黄金を蓄財する事ができたという。そのため佐渡の行き帰りには、女郎を引き連れたド派手な大名行列を作り、旅籠では飲めや歌えのどんちゃん騒ぎであったと伝えられている。その度重なる美食が祟ったのか、病気になって亡くなった。
 長安は浪人のころキリシタンの宣教師から南蛮流の鉱山技術を会得しており、高度な技術を持っていた。忠輝の奉行となりキリシタンいろはもからんだことから、長安と政宗はかなり近しい関係となった。徳川幕府に不満を抱いていた長安は密かに「天下を治めるのに相応しいのは政宗公」と考えていた。『イスパニアの軍艦を加えて日本の国をキリシタン王国とする』という筋書きで蜂起すれば日本中のキリシタン達も一丸となって協力するであろうと計画を練っていた。そのとき忠輝は大将軍となり、政宗はキリシタンの国『日本の王』となるのである。
 長安は政宗に、資金面ではいくらでも用立てる事を約束していた。そして、その目的のための連判状をも作っていたのだ。しかし、まさかあっさりと病気で死ぬなど思いもよらず、ましてや女にうつつを抜かして生前に言った言葉が仇になろうとは、草葉の陰で臍をかんでいる事であろう。

「あのばか者が・・・女に死んだら一万両やるなぞと言ったばかりに、女に訴えられて屋敷を調べられる羽目になってしまった、、、」政宗は小さく舌打ちをした。
「たしかに、あの事件で見つかった連判状に親父殿とわしの名前が書かれてあって言い逃れるのに大変な思いをしました。そのうえ、長安が隠し持っていた金銀百万両も取り上げられてしまって・・・・」
「ところで、多恵殿が運んだ黄金はどこに隠したのじゃ。」
「それは、ここでは云えませぬが・・その金額でござる。」
「いったいいくらあるのでしょうかな。。」忠輝と政宗は目を合わせた。
忠輝がおもむろに右手の人差し指をあげた。
「一万か?」
忠輝は首を振る。
「十万、いや百万か?」
口元にうっすらと笑みを浮かべながらまたゆっくりと首を振った。
「なんと・・・! それでは千万か 」
忠輝は静かにうなずくと、「それに近いほどにござる、、」と耳打ちした。
ゆっくり大きくひとつ息をして姿勢を起こすと 政宗は 天井をにらんだ。
五月晴れの日差しが 茶室の障子越しに湯気を白く切り取っていた。


●大久保長安の隠し金
 信憑性の点でベスト10に入る国内の埋蔵金伝説の中に、『大久保長安の埋蔵金』が入っている。お家取り潰しや敗走などの不慮の事態があった場合、そのまま退蔵された可能性は高い。忠輝が仙台城にいて、キリシタンとともに幕府転覆を虎視眈々と狙っていたとすれば、その軍用金は使われずにいたということになる。大久保さんがからんでいたことで、仙台藩の軍資金とは別に特殊な存在だったと思われる。大久保長安事件で遺族は全員処刑され、姻戚関係も改易処分された。大久保家の財産が見つかっていないということは、その行方を知るのは忠輝ただひとりの可能性高く、それを守るためにも仙台に永住しようと決心したとも考えられる。(政宗公の指示・・?)
 日本には、とんでもない数の埋蔵金伝説があるらしいのですが、実際に工事現場などから偶然に見つかる埋蔵金のほとんどは、言い伝えも古文書もなかった(個人所有の)ものだそうです。小学生の男子がなにげに蹴っ飛ばした壷が割れて、金貨がザクザク出てきちゃったな事件もあったわけで。まるでおとぎばなしのような出来事だが、現実に起きているのです。

大久保長安の埋蔵金が 見つかっていない。

●松尾芭蕉
松尾 芭蕉(まつお ばしょう)は江戸時代前期の俳諧師(はいかいし)。寛永21年(1644年)生まれということは、政宗公没7年後の誕生です。現在の三重県伊賀市出身であることから、忍者説などがささやかれてます。最近の研究では、芭蕉と曾良の旅は’偵察の旅’で『奥の細道』は紀行本ではなく仙台藩の内部を記した報告書だなどどいわれているようです。仙台藩に入って、出発のときに詠んだ句が「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛しているにもかかわらず、松島では1句も詠まずに1泊して通過しているという異様な行程は有名な話です。
「松島や あぁ松島や 松島や」という誰もが知る句も、芭蕉が詠んだものではないことが解明されてます。

 このふたりにとって、松島の風景なんかどーでもよかったみたいな。。。そのかわり、仙台藩の軍事要塞といわれる「瑞巌寺」や藩の商業港「石巻港」を執拗に見物したことが『曾良旅日記』に記されています。『奥の細道』は、芸術活動ナンタラではなかったと。このふたりの旅の目的はズバリ、’仙台藩の財宝探し’じゃないでしょうか。それもキリシタン関係じゃないでしょうか。ツネさんが持ち帰っていろはが隠したすんぎょいもの。和訳の取り説ついたやつ。

1613年(慶長18)9月15日、仙台藩領雄勝湾船戸神明から一隻の黒船が外洋へと出帆した。
「これで布石は打った。あとは大艦隊を待つだけだのう。」
「しかし殿、常長は無事にローマまでたどり着けるであろうや。。。」
「カタコよ、そのような心配は無用じゃ。ソテロもいることだし、船出できるのも運がおれたちに味方している証拠よ。」
「そうじゃ殿の言うとおり。小十郎は心配性で困る。どおってことないさね。」
「シゲのようにまったく心配しないのもどうかと思うがな。」
「これはこれは(笑)」
馬上の男たちは、天下を手中に収める夢が現実味を帯びてきたことに、こみ上げるものがあった。
「どれ、城までは道中長いゆえ ひとつ用を足すとするか。」
成実(しげざね))が馬から下りて道端に立った。
そこは、今船出した湾が一望できる山道の崖ふちである。
「それではおれもシゲに習うとするか。」
政宗公も馬から下りとなりに並んだ。
「殿、思い出しますなぁ、こうしてふたり並んで寺の塀に小便してたとき後ろから・・・」
「あぁ、、和尚がいきなりゲンコツくれたっけなぁ」
「あれは痛かったなぁ・・・(笑)」

子供時代、ふたりは虎哉(こさい)和尚に教育された。政宗の父輝宗公は米沢城の北に資福寺を建て、僧として誉れ高い虎哉和尚を政宗の教育者として招いた。輝宗公の叔父に当たる伊達実元の息子成実は、政宗のひとつ年下であったことから側小姓となった。
成実はたいそうな暴れん坊で父も手を焼くほどだったが、逆に政宗は引っ込み思案で内向的な少年だった。それは5歳でわずらった疱瘡による右目失明と、醜く腫れたその目のコンプレックスからくるものだったろう。後の政宗公の「剛胆」な性格は虎哉和尚の教育と、共に育った成実の影響によるものといっても過言ではない。

「そういえばシゲ、おれは小田原の山の上で関白様と連れションしたことあるぞ。」
小田原の北条氏攻めの時、伊達家は北条家と協定を結んでいた。
そこに秀吉が参戦を促してきたのだ。
北条氏に味方し秀吉軍と戦うことを考えていた政宗だったが、政局に詳しい片倉小十郎が豊臣方に就くよう進言した。
意見がまとまらないまま時が過ぎ、小田原の総攻撃が開始されようとしていた。
まわりから促されとりあえず一旦出陣したものの、「後顧の憂いを絶つため」という口実で政宗の実弟である小次郎(こじろう)を殺しに 米沢へ戻った。
「殿、小次郎君を切り殺したと芝居を打ったときは城中が大騒ぎでしたなぁ。」
「あぁ、間者に聞こえるようにせんとウソがばれるからな。」
弟小次郎と母君を無事山形に逃したあと、政宗は再度小田原に向かったが、遅参の制裁として底蔵に幽閉されながらも懐柔策で命だけは助けられた。
そして初めて会った秀吉の’ひととなり’に魅了されたのである。
破天荒で頭脳明晰、ユニークかつ冷静沈着な戦術は政宗公を惹きつけた。
「小田原で一夜城の壁が白布でできていたのには驚いた。からくりで敵の目を欺き人を殺さず戦に勝つとは。あのようなやり方を見て諸行無常なれど、涅槃寂静の戦もできると教わったものよ。」
政宗公の一団は西日で黄金色に輝く稲穂を横に見ながら、トンボの群れのごとく仙台城をめざして馬を飛ばした。

第三章-探訪へつづく

第三章~探訪

●福沢御殿
 通りゃんせ 通りゃんせ
 ここはどこの 細通じゃ
 天神さまの 細道じゃ
 ちっと通して 下しゃんせ
 御用のないもの 通しゃせぬ
 この子の七つの お祝いに
 お札を納めに まいります
 行きはよいよい 帰りはこわい
 こわいながらも
 通りゃんせ 通りゃんせ

 この歌も江戸時代からあるといわれ、『七つのお祝い』は乳幼児の死亡率が高かった昔に、7歳まで無事に育った子を社会の一員として認め、神様へ感謝する儀式とされる。
 黄河幽清も、7歳までは江戸の寺に預けられ、長旅に耐えられる歳に達して晴れて母の待つ仙台へ旅立ったのです。徳川家や幕府にも秘密にされた政宗公の孫は、現仙台市泉区根白石(ねのしろいし)のそばの福沢という地名の場所にあった’福沢御殿’で育てられたと思われます。現在この御殿跡の名残は神社の祠のみですが、根白石にはかつて白石城があり、政宗公の祖母栽松院(久保姫)が住み晩年を送りました。墓もあります。根白石は「美人の里」といわれ、仙台城に仕える女中たちのほとんどがこの出身であったということから、祖母を慕った政宗公が根白石を訪れるたび、女中をスカウトしてきたのでしょう。
 福沢御殿についての資料も一切見つかりませんが、唯一「いろは姫 土生慶子氏著」の中に、五郎八姫と弟の忠宗(二代藩主)が福沢御殿に何度か通い泊まっているという記述があります。忠宗が五郎八に会いたければ西館で済むはず。ふたりが何の用でわざわざ存在自体が消された御殿に通いつめていたのか、異常な行動に思われます。
 仙台藩の家臣が土着するこの地の館には、藩の最高機密の人材が集められていたのではないでしょうか。双子の兄と入れ代わった忠輝、帰国後の足取りがつかめず2年後に死んだことにされた支倉常長、そして幽清。福沢御殿からは、南へ約10km下る街道があり栗生西舘にたどり着く、城下を通らず極秘に容易に行き来できる道筋なのです。
 記録に残してはならなかった伊達家のアジト福沢御殿は、現在の地図上では「館、館前、福沢館下」となっています。地名は、住む人たちの記憶と関係なく長く残るのです。
 
 五郎八は息子に会いに通ったのでしょう。母親の思いとすれば、一緒に暮らすことのできない子供のところへ足繁く行くことは喜び以外のなにものでもなかったと思われます。僧侶に扮した忠輝と修行僧の幽清、親子三人の団欒を楽しんだに違いありません。若く美しく聡明な姫が、再婚することなく生涯独身を貫いた理由はここにあったのです。

●永安寺(えいあんじ)
 「400年前のご先祖は修験者で、細川忠興に仕え、曾祖父は明治維新のときに海運業を手広くやっていて、妙心寺とも深く関わりがあったことから、一時期松島の瑞巌寺が経営難だった時に援助をした」という子孫のM氏に案内され、陰陽師親方と3人で根白石に向かった。
 栗生西舘から北へ約10km、福沢御殿のあったと思われる場所は現在のリサイクルセンターの裏あたり。そのもう少し先の福岡地区の山中奥深く、車一台やっとこさのダートを1.4km進むと突き当たりに、忽然と現れた永安寺。こんな山奥にひっそりと・・・まるで俗世間から隔離された仙人の住む桃源郷。

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画像
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 ここは、松島「瑞厳寺」の中興の祖、雲居禅師によって開山され、二代藩主忠宗公により建てられた伊達家ゆかりの寺。
-明暦3年(1657)、忠宗が古内主膳重広を伴って狩りをした時、福岡の山中に眺めの良い地を見つけた。「雲居の座禅の場にしたら喜ぶだろう」ともらし、古内主膳に命じて寺や座禅堂を建て雲居禅師を招いた-
寺の裏手には、禅師が毎日座禅を組んだという座禅堂跡があります。そしてこの寺は伊達家代々の『非常時の忍び所』として、一族の旅の支度が備えられていたといいます。嘉永5年に火災で寺は焼失しましたが、昭和31年に再建されました。
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雲居禅師直筆の書(本物)
禅師が座禅を組む姿(レプリカ、原画は大梅寺にある)

二代藩主忠宗公直筆の書(本物)
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なるほどこの寺が忍びの館だったわけは、400年経った現代でも、ここだよと説明できない場所にあることです。道に迷って入り込んじゃった、なんてエリアでもない。ここに藩のトップシークレットがいたといわれれば納得できる。そして福沢御殿には、永安寺に仕える者達がいたのです。

●大梅寺(たいばいじ)
 伊達家の牌寺として創建された臨済宗妙心寺派の大梅寺は、愛子(あやし)の蕃山(ばんざん)にあります。雲居禅師(うんごぜんじ)は、全国に173ヶ寺を開山し、天皇にも禅を講じたほどの高僧です。政宗公が松島瑞厳寺を創建する際開山に懇請されたが断り、政宗公亡きあと忠宗が遺言を受けその誠意に心を打たれ、やっと瑞厳寺の開山に報いました。政宗公の27年間にも及ぶ雲居禅師へのラブコールはようやく叶ったのですが、
1648年、雲居(99世)瑞厳退寺し、洞水入寺(100世)
1650年、愛子の蕃山を終焉の地と定めて庵を置き大梅寺を建立
1657年、根白石の永安寺を開山。
1659年、雲居入滅78歳。蕃山の山頂に埋葬される。
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 大梅寺参道。古い石段の両脇には、個性豊かな羅漢たちの石像が並ぶ。
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 大梅寺の麓には栗生西舘があり、蕃山は西舘に五郎八が移り住んだとき、「この山も私にくださいな」ともらった山。雲居禅師はこの地(現・仙台市青葉区茂庭)に庵を結び「瑞雲山祥巌寺」と称し、この山をこよなく愛しました。その後元禄5年(1692)に、伊達綱村公が大亀禅師を迎えて堂を大改築し、名称を霊亀山大梅寺と改称しました。「観光客お断り」の札があり庭園から先の門は固く閉ざされていますが、裏山は遊歩道になっていてハイキングコースとして人気があります。庭園内には、伊達家の別荘「郷六御殿」が移築されていて、伊達家との関わりの深さを感じさせます。

●栗生西舘跡
  西舘のまん前にお住まいのS氏はご先祖様が実際五郎八姫と関わりのあった子孫で、ご先祖は五郎八姫から着物を拝領されました。愛子には、他に3軒ほど姫の着物を保存しているお宅があるそうです。当時、一般庶民がお姫様から着物をもらうなどという絵空事のような出来事が、ここ愛子では行われていたのです。姫と住民の間にはかなり親密な交流があったという証拠でしょう。栗生西舘跡は仙山線落合駅から蕃山に向かってまっすぐ徒歩10分ほどの突き当りです。
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掲載許可要
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西舘跡は市の指定文化財だが、手付かずの森。うっすらと井戸の跡も見ることができる。以前地主がこの土地で畑を耕した際、大昔の道具らしき鋏などが出土したという証言がある。(残念なことにそれらは保存されていない)五郎八姫の時代のものであったかもしれませんね。

西舘跡から北側(栗生・落合の町並み)を臨む五郎八倶楽部(H22年発足)のメンバーたち。

1620年-五郎八姫は忠輝と離縁させられ仙台へ。同年支倉常長帰仙。
1621年-栗生西舘に茂庭綱元が住む。
1636年-政宗死去、綱元と入れ替わりに五郎八姫が西舘を貰い受ける。晩年をここで過ごす。

 西舘跡と落合駅の中間あたりに、五郎八姫が住民のために建立したという薬師堂があり、この中に「ロウソク食い」と呼ばれている木像があります。

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高さ20cmくらい
下唇(下顎)に十字が彫られている。この十字架をローソクのろうを垂らして隠したのでこの像は「ローソク食い」と呼ばれました。どう見ても洋風な顔立ち(キリスト似)。
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 ここからほんの数分離れた場所に、あの「鬼子母神」があります(第一章参照)。マリア様が昇天したという8/15に、隠れるようにお参りをするあの奇祭が行われるお堂です。中にはざくろと赤ん坊を抱いた、マリア様を思わせる像が祀ってあります。
 五郎八姫がキリシタンとして、ここ栗生西舘に住んでいたこと、愛子・栗生・落合が隠れキリシタンの聖都であったことは間違いないと思います。仙台城から栗生西舘まで通じる「秘密の通路」を研究してる方の話では、表門を通らず、城の裏側から短時間で密かに西舘へ行く抜け道の名残が今でもあるそうです。隠棲地区であった愛子には、「黒はばき」も住んでいました。城の重要人物が、幕府の目付けに気づかれることなく移動できる、あるいは敵から逃げることのできる『しかけ』があったのです。

●天麟院
 呪術の四神で説明した東の松島青龍山瑞厳円福禅寺(通称・瑞巌寺)の西隣に、五郎八姫の菩提寺天麟院があります。五月八日は五郎八姫の命日で、毎年例大祭が行われます。

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いろは観音

忠輝と五郎八
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1606年(慶長11)12月24日、クリスマスイブにふたりは結婚し、2年後に離縁、そして昭和59年(1984)忠輝300回忌の際、徳川本家より改易が解かれ、晴れてふたりは復縁しました。
新潟県上越市の高田城跡そばにある『カトリック高田教会』には、五郎八と忠輝が描かれたステンドグラスがあります。


天麟院の裏手の丘に五郎八姫は眠っています。

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  黄河幽清の石碑
 天麟院の裏手に、古い井戸の跡があります。
 仮霊屋の裏山の藪をかきわけ少し登ると、突然平らに造成された四角い土地が出現します。
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コケに覆われた石の階段と、回りを囲むように石積みがあります。あきらかにここに屋敷があった跡と思われます。

キリシタンだった五郎八姫が、亡くなる3年前(1658)洞水和尚を戒師として落飾し、瑞雲全祥天麟院殿と号しました。天麟院を営創し、洞水を一世とします。洞水はこの前に松島四大観の富山大仰寺を開山しており、幽清はすでに洞水に師事し松島にいたと思われます。そうして母の最期の三年間をこの屋敷で一緒に暮らしたのではないでしょうか。五郎八が仏教に改宗したのは、たったひとりの肉親である幽清に見守られ、永遠の眠りにつきたかったからだと思います。
屋敷跡のまわりは現在木々で覆われていますが、当時は美しい四季の風景に彩られる松島湾が見下ろせたことでしょう。

●瑞厳寺(ずいがんじ)
 支倉常長がローマから持ち帰った一対のガラスの燭台が、美術的骨董価値の高い国宝級として保管されています。キリシタン関係の品々は、ひとつひとつ藩の記録に残されるはずが、なぜかこれだけがいつごろどのようにしてここ瑞巌寺所有になったのか、未記載のため謎とされています。
 松島の東隣には「お水主町」(おかこまち)という、水夫(船頭)の居住区がありました。地元や和歌山、静岡、愛媛などから雇用されてここに住みました。政宗公の大建築のひとつである瑞厳寺に使用する建築用材などを、紀州熊野から運んだ海上輸送のプロ集団「水主衆」(身分は武士)。水主の茅葺民家は、一軒だけ移築され瑞厳寺参道に茶屋として現存しています。
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町指定文化財
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 キリシタン弾圧の渦中、フィリピンから長崎に着いた常長のその後の足取りが不明ですが、幕府の目を逃れて無事に仙台にたどり着くには、陸より海でしたでしょう。常長は松島に上陸したのでは(?)。そのときの「おみやげ」のひとつがこの燭台(?)。伝承によると創設当初16軒だった水主衆は、最盛期には48軒あり、出身者の中から僧侶になった者が、実に半数近くを占めています。それから、常長をルソンに迎えに行った横沢将監(よこざわしょうげん)の墓が、松島四大観のひとつ北の麗観「富山-とみやま」にあるのです。常長が帰国したのは1620年。翌年1621年に政宗公が瑞厳寺を訪れています。政宗公が美意識を注ぎ込んだ瑞厳寺が完成してから、ここを訪問したのはたったの2回。もう一回は1635年、亡くなる9ヶ月前。このとき孫の幽清は18歳になっています。
 1636年に、政宗の遺言により二代藩主忠宗が雲居(うんご)禅師を瑞巌寺の中興第一世に招きました。愛子の大梅寺(たいばいじ)は、雲居の隠居所として造営されたもので、1659年78歳で没した雲居禅師は、大梅寺背後の蕃山(ばんざん)山頂に埋葬されます。栗生西舘にいろはが移り住んだとき、「この山も私にくださいな」ともらったあの山。
 雲居禅師は愛姫を母のように姉のように慕い、五郎八、忠宗、幽清ともに伊達家と密接な関係を保った高僧です。

●玉山金山
 大船渡市のU様、陸前高田市のN様より埋蔵金関連情報を入手しました。そのさわりの部分を抜粋します。

-玉山金山は「陸奥の金」として日本で初めて金が発見されたと伝える金山の一つである。
即ち、天平の時代には既に産金されていたと伝える金山であり、昭和の代まで掘り続けた金山でもある。
玉山金山の伝承を記録した文書が岩手県陸前高田市の我家にある。我家は「安土・桃山時代」の文禄二年(1593)から玉山金山(陸前高田市竹駒町字上壺)に居住して、明治二十年代まで主たる居所として仙台藩の鉱山を指導してきた-

-Nさんのご先祖様は「右筆として仙台藩に召抱えられた」そうです。Nさんのご自宅の裏側が金山で、そこから採掘した金を近くの港から仙台へ運んでいたのですが、Nさんのご先祖様は宛名書きをしていてとても達筆で目に留められ、右筆として仙台藩に仕えることになったそうです-

 膨大な量の金が仙台藩へ献上されていたというご子孫の証言。政宗公の時代、資金が足りないと幕府から借金をする事が多々ありました。「***普請のために幕府から***借用した」「参勤の旅費にも事欠く年があった」などの記録が残されています。参勤交代制度の目的は、諸大名に出費を強いることで財政力を削ぎ落とし、謀反などを起こすことを抑止するためだったとされます。政宗公は幕府の思惑を察知して、倒幕の嫌疑がかけられないよう貧乏を装って借金したのだと思います。
 玉山金山は途中から産出量が少なくなったとはいえ、かなりの量の金が採掘されていました。マルコポーロが東方見聞録で世界に紹介した【黄金の国ジパング】の元であり、さらに、政宗公が所有(開発)した金山鉱山はここだけではありません。政宗公には間違いなく、想像を超える量の隠し金があったということです。また、藩政時代仙台藩直轄の「御用山」として霊峰五葉山がありました。当時、巨大鉄砲藩として恐れられていた仙台藩の「火縄」がこの山から産出された檜を原料に造られていたのです。仙台藩に献上された火縄は、年間14000尋(21000m)にものぼり、それが百年間も続いたとされています。江戸時代、ここは国内最大の火縄の産地だったのです。どこよりも金と武器(鉄砲)を山ほど持っていた伊達政宗。全国のキリシタンをまとめて天下人になることは夢ではなくて、目の前に手を伸ばせばつかめる’現実 ’だったのです。

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2003年 大船渡まちづくり塾 発行 イラムトゥイパとはエミシの言葉で「ああ、たまげた」
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本誌より抜粋
-世界史的にみても、新大陸発見以前の金の生産世界一は日本だった。8?16世紀頃まで、宮城県北部?岩手県南部にかけては最も多くの金を産出した一帯だ。日本最大級の金塊もこの地方から出ている。-
黄色の部分が産金地帯。赤く囲んである地域が「気仙郡-ケセン郡」で大船渡市、陸前高田市、住田町、釜石市に編入された旧唐丹村(とうにむら)などが含まれる。

これを見るとこの地方がどんだけ金まみれだったかがわかります。金塊が石ころのようにゴロゴロそのへんに転がってるもんで、その価値を知らずに貧乏暮らしをしていた「炭焼藤太」の伝説もあるほどです。

陸前高田市博物館
玉山金山
-みちのくの黄金は全国的にも有名です。とくに平泉文化の象徴である中尊寺金色堂は当時の金山隆盛を物語っており、これらの金は、この地方から多量に産出されたと伝えられています。 玉山金山の発見は、天平年間(750年頃)ともいわれていますが明らかでありません。文禄元年(1592年)より豊臣秀吉直轄の金山となり、同4年(1595年)伊達政宗に移管されました。当時の玉山金山は「たませんけん玉千軒」と伝えれているほどの隆盛でした。-

住田町には民俗館があります。
産金
-平成20年10月24日、産金コーナーがオープンしました。川砂金採取や鉱山で使われた用具など、住田や気仙の金山史を伝える約百二十点を展示しています。下有住の火の土鉱山跡にあった採金時の鉱石粉砕に使われる搗鉱機(とうこうき)の修復展示をはじめ、世田米の清水沢金山などで使われた用具、昭和51年に気仙川の橋りょう改修工事の際に見つかった全国で3番目に大きい川砂金のレプリカなどを見ることができます。-

霊泉玉の湯
-特に、綱宗の奢りは幕府の嫌忌にふれ世に云う伊達騒動の原因となりました。この結果、玉山金山の没収がなされるのを恐れて、金山の抗口や諸施設等を破壊して廃坑のようにみせかけて幕府没収を免れたという秘録も残されています。-

塩釜市に属する「浦戸諸島」には宝島伝説があります。気仙から運ばれる金塊を仙台へ運ぶルート上にあります。


●松尾芭蕉
  芭蕉がみちのくの旅に出たのは1689年春。同年5/9に松島を訪れていますが、松島で詩詠まず素通りし、宮城県北から岩手県南の産金地帯(伊達の四大金山)をめちゃめちゃ歩いてます。楽なルートがあるのにわざわざ獣道を選んで道に迷いしっちゃかめっちゃかな旅になったようです。
 石巻の日和山から金華山が見える詩を詠んでますが、実はここから金華山は牡鹿半島にすっぽり隠れて見えないとか。同行者の曾良日記のほうで正しい記録が見て取れる。ふたりはひたすら 黄金文化で栄華を誇った平泉を目指した。芭蕉46歳。

1636-政宗没70歳
    雲居来松、入寺
    五郎八仙台城から愛子栗生西舘へ移住
1640-茂庭綱元没92歳
1648-雲居退山、洞水(虎哉の孫弟子)入寺
1653-愛姫没86歳
1658-洞水「天麟院」開創
    二代藩主忠宗没60歳
    綱宗19歳で三代目藩主に
    五郎八天麟院へ
1659-雲居没78歳
1660-綱宗21歳で隠居、長男綱村2歳で四代藩主に--のちの伊達騒動
1661-五郎八没68歳、洞水退寺、鵬雲101世
1689-芭蕉松島を訪れる
1695-天麟院2世黄河幽世、山王社内の稲荷社を再営す 


●富山(とみやま)・大仰寺(だいぎょうじ)
 日本三景松島の四大観のひとつ、『富山』。観光客がそぞろ歩く松島メイン通りを抜けて県道23号線に入る。牧歌的風景を両脇に見ながら奥松島方面へ20分ほど走ると、途中右側に「富山駅」、通り越してすぐ左手に「富山観音」の看板あり、車1台がやっとのクネクネ山道を上る。一応舗装されて所々ガードレールもあるが、対向車が来ないことを祈るしかない。それでもこっちは表参道で、裏参道はもっと狭い砂利のダート。上り着いたところに車が数台停められるスペースがあり、そこから長い石の階段をひたすら登る。ウグイスの美声と原生林に囲まれ、四大観でありながら観光客を拒むかのような風情、そして眼前に見下ろす絶景に、息をのみました。鬱蒼とした森の向こうに幽かに白くもやでけむる松島湾。陽を浴びた海面がきらめいて あちらこちらに浮かぶ小さな島々が悠久の昔から変わらず自然の姿を見せている。別名「麗観」とも称されるほどの雄大な美観が広がっています。松島のあちこちを放浪しましたが、ここから眺める松島湾が一番美しいと私は思いました。ここはまるで、俗世と天上の中間にある’雲上の隠れ里’のようであります。


富山観音は、有名な五大堂(807年)や瑞巌寺(828年)よりも歴史が古く、松島の中では最古だそうです。政宗公の時代より800年も遡る頃の武官坂上田村麻呂が創建しました。政宗公の正室愛姫は、田村家出身で田村麻呂の子孫といわれています。
 この富山観音は、石巻市の牧山観音・涌谷町の箟岳観音とともに奥州三観音といわれ多くの信仰を集めています。この三箇所を線で結ぶとナント!キレイな正三角形が描かれます。これは大仰寺前住職の奥様が三地点を車で巡り、正確な距離を測り、発見したというトライアングルです。そしてさらに親方によれば、富山観音(大仰寺)の裏鬼門に当たる地点に塩釜神社がみごとにぶち当たりました。仙台城下の六芒星に通じるものがありますが、800年というタイムラグ・・・1200年も昔にこのような正確な図形を配置できたのも、当時の陰陽師(天文博士)の力です。
 大仰寺は富山観音のすぐ下にあり、世間にはあまり公表されていない五郎八姫の生々しいしい痕跡が残されています。
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観音堂を守る仁王門。茅葺屋根で両脇に仁王様がいます。

鮮やかな朱色がまぶしい富山観音堂。1654年五郎八姫による改修。

1657年五郎八姫が寄進した梵鐘。
観音堂の下に、洞水和尚開山の大仰寺があります。
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明治天皇が騎馬で登られここで休憩したという紫雲閣本堂。天気の良い日はここから牡鹿半島や蔵王連峰までも見渡せるそうです。

大仰寺には、支倉常長を迎えに行った横澤将監(よこざわしょうげん)の代々の墓があります。

実はこのときたまたま偶然、観音堂の塗り替え(?)作業中でお堂が開いていたのです。普段は固く閉ざされたその扉、三十三年に一度のご開帳でしか拝めない観音堂の中を、イタコは見た!
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写真許可要
中央の小さな黒い扉の中に一寸八分の木造本尊観世音が祀ってあると思われ、その下に千手観音。左は洞水和尚、右は坂上田村麻呂さんです。
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大仰寺前住職の奥様から伺った話によると、洞水和尚の木像は、昭和に入ってからの大地震で倒れ首が折れたそうな。すると、首口に穴があって中に細い桐箱があり奉書に包んだ髪の毛が出てきたそうな。「天麟院様の御かみのけ」と墨書。五郎八姫の遺髪は洞水像に守られ、三百年以上も存在したのです。地震が起きてこの像が倒れなければ、発見されることはなかったのでしょう。もうひとつ、五郎八姫が洞水和尚へ贈ったというお手製の袈裟(はおり?)も秘蔵されているそうです。門外不出ということで、見せていただくことはできませんでしたが。

坂上田村麻呂が創建した観音堂を五郎八姫が改修させたのですが、方三間、屋根宝形造瓦葺で、石積み基壇は当時としては大変珍しいものとされているそうです。

 洞水和尚は大仰寺を開山し、瑞厳寺(政宗公菩提寺)第100世、天麟院(五郎八姫菩提寺)第1世でもある。五郎八姫は隠し子幽清を洞水和尚に託したのではないかと思う。洞水の弟子として大仰寺で修行を積んだ幽清が、母の眠る天麟院の住職を継いだのも自然の成り行きではないか。父政宗、母愛姫、弟忠宗をも亡くし、孤独の晩年を送る姫にはたったひとり血を分けた幽清がいた。キリシタンだった五郎八姫が、亡くなる3年前に洞水の手引きで髪を落とし臨済宗に帰依したのもうなずける。息子に見守られながら松島で永遠の眠りにつきたかった。霊場松島には、五郎八姫の想いが満ちている。
 と同時にあまりに謎が多い。大仰寺の入り口そばになぜか横澤将監の代々の墓があります。仙台市内にある「泉区将監」「将監沼」の地名はこの人からきています。政宗公の家臣で、土木エンジニアでもあった将監さんは現泉区一帯に灌漑用水を作り地域に貢献しました。のちに政宗公の命により支倉常長を迎えにサン・ファン・バウチスタ号でメキシコへ出航します。だからこの船は大平洋を4回横断したんですね。このとき約100名の乗組員が亡くなったという苦難の航海だったそうですが、将監さんは常さんを無事連れて帰るという大役を果たしました。将監さんも向こうで洗礼を受けキリシタンとなりましたが、帰国後彼らを待っていたのは激しい弾圧でした。フィリピンに足止めされたとき、船を売って、一般貿易船に乗り換え長崎に着いて、そして出発地の月の浦へ到着。ということになっています。ソテロさんはしばらくフィリピンに残り、のちに長崎に密入国しますが捕らえられ、政宗公の助命嘆願容れられず、1624年火刑により殉教しました。
 身の危険を感じた将監さんは棄教したようですが、常さん同様その後の足取りが不明です。常さんと将監さんは、月の浦ではなく松島に着いたのではないでしょうか。そしてここ富山にしばらく潜伏していたのでは。将監さんの身分で、つながりもなさそうな松島の格式高い寺に埋葬されるには、なにかよほどの偉業か、代々まで守らねばならないなにかがあったのか・・・ナゾです。
 それに、観音堂の(当時はめずらしいとされる)石積基壇はなにを意味するのか。浦戸諸島宝島伝説の知名度が限りなくゼロに近いのも不自然です。常長さんの直筆航海日誌が明治になるまであったのに、その後紛失とはどういうことなのでしょう。そのような貴重なものをなぜ行方不明のまま現代まで放置しているのでしょう。常長が持ち帰ったキリシタン関連の財宝を五郎八姫が管理していたとすればそれを引き継ぐのはもはや幽清しかいない。芭蕉と曾良が松島を訪れた目的は・・・・?。

 五郎八姫は、59?63歳まで頻繁に松島を訪れている。この間富山観音堂を修復し梵鐘を寄進する。そしてその合間合間に「福沢御殿」にも通っている。すでに父政宗公、母愛姫も亡くなっており65歳のとき、親密な弟忠宗にも先立たれた。この年洞水和尚を戒師として落飾し天麟院殿と号した。66歳のとき、雲居禅師が亡くなり洞水が(愛子の)大梅寺二世を兼務。68歳で五郎八姫は、仙台城西舘で逝去。松島天麟院の後方の丘、瑞雲峰に葬られた。

●浦戸諸島
 松島湾(塩竈湾)に浮かぶ四島からなる浦戸諸島。桂島(かつらしま)・野々島(ののしま)・寒風沢島(さぶさわじま)・朴島(ほおじま)。
 「朴島(ほおじま)」は、もともと「鳳島」と書かれていたそうですが、伝説のとり「鳳凰」がこの島に住んでいた、という言い伝えからつけられたとも、また、「寶(宝)島」と書かれたとも。これは仙台藩の軍用金や貴重な宝物をこの島に隠したからだ、と伝えられている。「宝島」を「朴島」に改名したわけは、(軍事機密として)人を寄せ付けないためでしょう。
 もうひとつ気になる「野々島」の熊野神社。ご神像の奥に、キリシタンの仏像が祀られているそうです。松島にも隠れキリシタンはいたでしょうし、産金地帯(気仙)から運ばれた金銀財宝がこれらの島々に運ばれた可能性も充分にありますし、そうなると常長さんがローマから持ち帰った『神の物』も一旦ここへ奉納されたのかもしれない。。。幕府の目付けの目を盗んで隠すには最高の場所だし。
 塩釜?松島にかけては塩の生産地でした。同時に近隣の田園地帯では米なども豊作で、浦戸の島々は積荷の港町として栄えたのです。埋蔵する財宝は、塩や米に隠して運ぶにはパーフェクトな環境で、水主(かこ)衆は、海軍予備軍でしたでしょうし、もしかすると、横澤将監は水主衆のボスだったんじゃないでしょうか・・・・常長さんを迎えに太平洋を往復した人です。水夫たちにとっては大尊敬に値する人物。とすれば、代々の墓が富山(とみやま)の大仰寺にあるというのも納得ですし。。。五郎八姫が大仰寺にやたらこだわりを持ってたことも、晩年松島に頻繁に通ってたことも、この「神の物」があったから、、、?五郎八姫は浦戸諸島を見下ろす丘の上に埋葬された。

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画像
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・野々島
 塩釜港から市営汽船にゆられて約30分。貿易で巨万の富を蓄えた内海長者の伝説がある野々島。島のいたるところに金銀財宝を貯える倉庫として掘られた洞窟や、けもの道が枝分かれしてあります。
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島画像
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島巡りのグループをちらほら見かけましたが、観光地と呼ぶにはあまりにも素朴な島です。船着場に自販機が一台、トイレ一箇所、たまに猫、鳥の大群、花を植えてる島民。なにもないからいいいんだよ、そんな人がフラリとやってくるのでしょう。
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熊野神社
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この奥にキリシタンの仏像が祀られているらしいのですが、見ることはできませんでした。

・朴島
 過去に日本の埋蔵金伝説で一度も話題に上ったことがないという伊達政宗の埋蔵金ですが、知る島民ぞ知る別名「宝島」はありました。「封内名蹟志巻七」には“鳳羽島”と、明治戸籍編成時に“寶(宝)島”とあります。後戸籍改正時に“朴島”と書替えられました。
 県北の気仙郡の産金地でざくざく採れた金塊は、幕府への献上分をいかだに積んで仙台城に運んだことでしょう。浦戸諸島はそのルート上にあり、かつて塩や米の積荷の港町でした。幕府の目付けに知られずに、塩や米にまぎれた(隠し)金塊を朴島に運ぶのは容易だったと思われ。このとき松島の水主(かこ)衆が大活躍だったことでしょう。
 
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朴島の船着場から見えるブロッコリーの頭みたいな形の木の右横が大高森展望台です。


その大高森展望台から見た朴島の船着場です。
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この島は周囲2.2km、船着場周辺に17世帯約40人という統計がありますが、実際は半分以上が空き家のようです。塩釜マリンゲートから出る連絡船のチケット売り場で、「朴島になにしに行くの?あそこはなにもないわよ」」という顔をされましたが、本当に、小さな島です。

海上安全祈願の神社でしょうか・・・鳥居をくぐって急な石段を登ります。
 
なにやら井戸のような作りの上に建ってますけど。

地図の矢印部分の湾。台風などの災害時に船の避難場所になる。島へ上陸する裏口でまわりを囲まれて死角になっている。このとき’干潮’です。

堤防の突き当りは行き止まりでした。ザ・ジャングルで先に進めず。

・寒風沢(さぶさわ)島
浦戸諸島で最も大きい島で、江戸時代は仙台藩の江戸廻米の港として多くの千石船が来航し繁栄をみせていました。仙台藩が日本初の洋式軍艦「開成丸」を建造したところでもあります。そしてその開成丸の航海日誌にこんな歌がありました。

安政5年1月1日
一、正月元日。暁色殊に麗はし。水手とも八ツ時より起出て。乗初の式あり。
 頗る古風にていと目出度し。其後に酒肴吸物など手を盡してとりならべ。献酬の禮あり。舟歌をうたへて祝をなす。其歌に 正月ひとよの初夢に。きさらぎ山の楠を。舟につくりしはやおろし。白銀柱をおしたてて。黄金のせみをふくませて。みなは手なはにことの糸。綾や錦を帆に掛て。宝の島に乗こんで。数の宝を積こんで。あなたの蔵におさめおく。初春のゆき緋おどしの。きせなりもみな小櫻となりにけり。夏は卯の花たきねの水にあらひかは。秋となりてその色は。いづもいくさにかづ色の。紅葉にまかふにしきかは。冬は雪根にそらたれて。おもふかたきを討とめて。長き其名をあげまきや。かぶとの星の菊の座も。花やかにこそ。おとし毛のつるぎは。むこにいたさず。弓は袋におさめけり。富貴の御代とそなりにけり。右の歌。壱つづの後にはやしあり。目出たの。ソラわか枝も。イヱーさァかァ。ようのイヱーコノ。葉もイン。後にすけるといへる言葉にあれとも。これは唄はず十分に。満るをきらふ意なりとぞ。


●松尾芭蕉が隠れキリシタンだったかもしれない件
 芭蕉と曾良の旅の目的が、水戸光圀公の指令である「奥州のキリシタン関連調査と情報収集」だったという説があります。この頃にはすでに奥州の金は枯渇していたことになっているが、政宗公の死後真相を究明するための、ふたりは使者だったのではないかと。禁教の弾圧から逃れるために、鉱山の入り口を閉鎖し閉山のフリをした県北地区もあった。そうなるとふたりが松島をとっとと去って、黄金文化を誇る岩手の平泉に一目散に向かったのも不思議はない。
 松島を出るとき、ふたりは別行動をとっている。追従者であるはずの曾良が先を急ぎ、芭蕉はあとからあたふたとおいかけ道に迷ったりしている。仙台では、曾良が仙台城の勝手門を通されているのだ。外部の者で、しかも曾良の身分で勝手門を出入りできるということは通常では考えられないことである。仙台藩にとって曾良は、芭蕉よりもVIPな客人であったのではないだろうか。ふたりが水戸光圀公の使いであったと仮定して、なにをさしおいてもまずは仙台城へご挨拶でしょう。黄金の国ジパング伝説はキリシタンなくしてはけして語れない。仙台は陸奥国のキリシタンの拠点で、そのシンボル的存在だった政宗公の長女五郎八姫がいた。このとき、もし五郎八姫が生きていたなら90歳を過ぎている(姫は68歳で亡くなったことになっているが、史実が真実であるとは限らない)。支倉常長がローマから持ち帰ったキリシタンン関連の財宝のありかを探ることも、ふたりの任務の中にあったのだと思われる。それはもしかしたら『ヨハネの黙示録』かもしれないし、紛失したままの常長の直筆航海日誌だったかもしれない。
 芭蕉と曾良が旅に出る2年前の1687年、江戸では五代将軍綱吉が生類憐みの令を出し、人々の暮らしはハチャメチャに苦しめられている。光圀公はこの法令に嫌悪感を抱き、抵抗し続けたという。なんとかせねばなるまい。時代劇では、お供を連れた黄門様が世直し行脚に出るのだが、たとえ身分を隠したとはいえ徳川御三家の水戸藩主が、身の危険をさらすような行動に出ること、またそんな自由が許されるはずがない。そこで黄門様は自分の代わりに、視察団を派遣した。優秀な密偵「河合曾良」と、俳諧師で隠れキリシタンの「松尾芭蕉」である。
 「陸奥国の財源と軍事力そして、キリシタンの組織力を探って参れ!」

 マルコ・ポーロの「東方見聞録」は、他者の執筆によって誇張されヨーロッパ中に広まった。’中国大陸のすぐそばに黄金の島があるらしい!’マルコ・ポーロは実際日本の地を踏んでいない。中国で見聞きした日本の情報を戦争捕虜になった先で囚人仲間に口述し、それが評判となって「東方見聞録」が採録編纂された。その内容に黄金の宮殿(平泉の金色堂)の話なんかもあったもんだから、大航海時代、世界進出に萌え欲念と大望を抱いたヨーロッパ人がこぞって日本をめざした。そのターゲットとされたのが、宮城、三陸沖いずれも伊達家の領地の太平洋上だったのだ。しかし、探索はうまくいかないまま、目的地は蝦夷(北海道)に変更された。蝦夷の鉱山地帯には仙台からも技術者やキリシタン鉱夫たちが移住している。ヨーロッパ全土から、どれだけ熱いまなざしで日本が注目されていたかを把握していた家康公と政宗公。家康は浦賀を、政宗は石巻を貿易港としてヨーロッパとの交易構想を抱いていた。そして遂行されたのが日本初仙台藩の『慶長遣欧使節団』だった。
 
 支倉常長の偉業が世に出たのは、明治維新後岩倉具視が欧米視察のイタリア派遣時に、支倉の署名が入った文書を発見したからだ。なんと250年以上も、日本の歴史的遺産が闇に葬られていたことになる。常長がローマから持ち帰った財宝はほんの一部しか発見されていない。その中のまた一部と推測される対のギヤマン燭台が、松島の瑞厳寺に所蔵されている。
 瑞厳寺の西側には五郎八姫の眠る天麟院があり、息子の黄河幽清は二世住職となっている。瑞厳寺の東側には松島四大観のひとつ富山(大仰寺)があり、富山観音には五郎八姫が寄進した梵鐘と、遺髪なども残されている。そして大仰寺の一番の謎である、常長を迎えに行った横澤将監の代々の墓。
 なにより、常長の7年に及ぶ直筆の航海日誌が明治以降行方不明のままなのである。まじめで律儀で忠誠心の厚い人柄だったとされる常長のこと、マメに記録していたに違いない。文字にできない重要機密は暗号にして記していたかもしれない。常長が記録していた19冊の日記。いったい だれがどこへ隠したのか。

 富山(大仰寺)は、明治天皇も来訪している。天皇御一行は、あの辺境に馬を駆って登り「観光で来られた」そうだ。大仰寺の本堂『紫雲閣』からは、松島湾が一望でき気象条件によっては福島沿岸あたりまで見渡すことができるというのだ。17世紀中頃まで続いた大航海時代、黄金郷を見つけたが勝ち!の南蛮船が行き交う果てしなき大海原が、 富山(とみやま)の眼前に広がっている。

 常長さんがヨーロッパから持ち帰った品々は、幕府の禁教命令により、全て焼かれて処分された、という記録があるようですが、使節が7年かけて命がけで持ってきた宝をそうやすやすと仙台藩が(というより五郎八姫を筆頭にキリシタン幹部が)差し出すかな。政宗公のことだから、常長さんが帰国する前にダミーを作る準備万端で、千両役者の政宗公が幕府に泣く泣く差し出したのは、そのダミーじゃなかったかな。ツネさんが帰国する前の2年間フィリピンに足止めくらったのは、そんな準備があったからなんじゃないかな。
 茂庭綱元が高野山で待機していたこと、隠密とキリシタンを使えばフィリピンの常長と情報交換は容易にできたと思われる。弾圧から逃れたキリシタンがフィリピンへ流れていたことと、フィリピンからお忍びで入国した宣教師がいたこと。。。「本物」は、リスクを軽減するためあっちこっちにばらまいて隠した。そのひとつが、瑞厳寺にあるギヤマン燭台・・・これは、藩の記録に残されていないため出所が不明となっているが、だれがどうみても、常長さんが持ってきたヨーロッパ製のもの。当然記録に残しちゃいけないものだったから。
 政宗公の墓から発掘されたブローチとかロザリオは博物館にありますが、あとは仙台城の発掘現場から出てきた西洋陶器のカケラなど、、、
 ローマ法王パウロ五世が常長に与えたタペストリーは現在まで伝わっていて、その一部は京都の祇園祭の鯉山に使われているそうなのです。なぜ京都にあるのか不明ですが、黄河幽清が京都の妙心寺にて修行した際寺に預けたとも考えられます。このように、もっときっとあちこちに、いっぱいまだ眠ってる気がします・・・

●サン・ファン・バウチスタ号
 45号線を北上し、松島を通り抜けて石巻(いしのまき)へ。サン・ファン館内に入ってすぐに「シミュレーションシアター」の上映を見ました。20分間の映画なんですが、これスゴイです。座席が振動します。嵐の場面ではドッカンドッカン上下左右に激震です。映画もよく出来ていて、もっと長編を見てみたいと思いました。
長いエスカレーターを下って、復元されたサン・ファンバウティスタ号へ。500トン級の日本製西洋型軍艦です。

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船画像
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中を見学してみると、予想に反して狭く感じた、、、ここに180人が3ヶ月間航海したなんて、、、、常さんとソテロさんの部屋が左右にあるんですが、ベッドが異様に小さいです。150cmくらいしかないのでは。他の乗組員の部屋は当然ありません。そのへんに180人が雑魚寝・・・ねずみ退治のために猫も乗せられ、食料のために豚や鶏も飼われたようです。この船は数度の嵐にも耐え、太平洋を2往復したんですから、日本の造船技術は世界でも群を抜いていたようです。水平線の果て「東洋の国」からやってきたこのガレオン船がアカプルコに近づいたとき、さぞかしカッコよかったでしょうねぇ。伊達家の九曜紋に、逆卍の旗(支倉家)が海風にたなびいて、真っ黒に日焼けした侍たちが未知の国へ上陸したわけですよ。常さんの人生最大の栄誉の瞬間だったのではないでしょうか。

サン・ファン館のミニシアターで見た短編映画の中で、船が嵐にあったとき船長ビスカイノの命令で、必要最低限以外のものを海中に廃棄して沈没を防ぐ、というシーンがありました。それを聞いた常長があわてて止めに入るのです。政宗公から預かった伊達家の宝を海に沈めてなるものかと。刀を抜きそうになるところをソテロに阻止されます。実際に宝を捨てたかどうかは映画の中では謎のままでした。
一行がメキシコに着いてからヨーロッパへ旅する行程でものすごくお金に困った様子が、どの参考書籍にも描かれています。旅費が無いため随員がだんだんと減っていき、行く先々では国費で接待を受け、修道院などに宿泊させてもらいながら肩身の狭い旅をしているんですね。ハッキリいって、一行の滞在がはた迷惑がられた様子も見られます。国をあげての派手なパレードと晩餐会に、表向きは大歓迎の構図のその裏で、随員たちは次々と現地人となってとどまり、常長は病気になりながらもひたすら任務を遂行するべく翻弄します。太っ腹で財力のある政宗公が、どうしてお金をいっぱい持たせてあげなかったんだろって不思議だったんですが、なるほど嵐にあって海に捨てちゃったのかもしれません。とりあえず、あっちに行ってから着る衣装とかお土産なんかは絶対に現地では入手できないから、捨てるわけにはいかなんだ、けど、金銀財宝はなくてもなんとかなるべ的な・・・ソテロやビスカイノの祖国に帰るわけだし、旅費くらい国王に頼んでみるべ的な。当時のヨーロッパが財政難に苦しんでいたことを知らずに・・・だからビンボー旅行だったんですね常さん、本当に苦労したんですね。
常さんのあの有名な上半身の肖像画は、真実ではないという説があります。唯一日本に現存する支倉常長の肖像画(上半身油絵)は発見後修復に出されたときに捏造されたというのです。

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参照
『支倉常長慶長遣欧使節の真相』価格:3,780円(税込、送料別)許可要
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常長本人が持ち帰ったこの絵は、禁教時代が終わるまでの長い年月をけして「手厚く保管」されていたとは言いがたい条件のもと、岩倉具視によってその偉業が発覚されるまで ひそかに眠っていたのです。250年以上放置されていた油絵が、日の目を見たときどんなすごいことになっていたか・・ 修復に出される前の状態で撮影された’古写真’の発見により その2枚を見比べてみれば歴然と違いがわかります。
古写真(修復前)の常長さんは、長旅で心身ともに憔悴しきった容姿と表情があらわです。頭の禿げ具合、頬のこけ具合、眼力の無いうつろな瞳、、、忠誠心が服をまとったような常さんが、主君の命令を果たせないかもしれぬ絶望感と、健康を害したことによる不安にさいなまれている。せつなくなるほどの重苦しさが感じられるのです。修復後の常さんは、世間が思い込まされているあの絵です。絵を折りたたんでいた(と発表された)ことによる 十字に入った横の亀裂痕もどうやら加筆らしいとか。。。支倉常長は、死してなお 『国策』に振り回され呑まれ流されて、現代に美化され蘇っている。
常さんたちの偉業がどれだけ悲惨で過酷なものだったか。彼らは奇跡の生還を果たしたのだということです。常さん直筆の19冊の日誌はどこへいってしまったのでしょう。
明治まであったのですから。中身見た人いるのですから。「ちょっと貸すて」って持ってった人いるんですから。

ところで、常さんに会いに行こうと思い立ったこの日(8/24)は、常長一行が帰国した日(元和6年8月24日)と同月日、偶然でした。松島の天麟院(五郎八姫の霊屋)に初めて行ったときもそうでした。全く意識せずにひとりでふらりと向かったその日(5/8)は、五郎八姫の命日だったんです。「呼ばれて」いるのでしょうか。


●五郎八姫の遺品
 「重臣でさえ許可がなければ見ることができず、たとえ見たとしても、それを家族にも口外してはならぬ誓約をさせられて、厳しい監視の下はじめて目にすることができた」という仙台藩の機密文書を、とことん調べあげ、伊達家の研究では第一人者でもある土生慶子先生の講座を受ける機会がありました。そこに集まった受講生約30名が、のちに「五郎八倶楽部」を発足することになりました。栗生西舘の近く落合市民センターを拠点とし、伊達家の歴史研究を目的に活動しています。野外講座の松島探訪では、天麟院と瑞厳寺を見学しました。
天麟院では仏間に通され、五郎八姫の位牌の前で住職さんから語られる貴重な逸話に、我々は集中しました。開け放しの部屋に時折気持ちの良い風が吹き込んで、あっというまの1時間でした。
天麟院の東側徒歩5分ほどで瑞厳寺へ出ます。主水(かこ-水夫)衆が住んでいた茅葺の屋敷を移築した店に入り昼食をとりました。夏の最中、主水の家は自然の涼が取れる快適な空間でした。
 瑞巌寺の青龍殿(宝物館)では、普段はけしてさらされることのない五郎八姫の遺品を、特別に見せてもらうことができました。撮影は許されましたが、公表はNGのため文章のみでお伝えします。

取りい出したるは桐の箱。その中には、開山木像修理(H12?13年)のさい法身禅師木像胎内から発見された納入品が、ひとつひとつ丁寧に紙で包まれて寝かされていました。(富山観音の洞水木像から発見されたものとは別です)
この納入事業は五郎八姫60歳(承応2?3)の時に当たり、携わった人数は105名にものぼるそうな。そのほとんどが女性で、納入品の内容物は経本、写経文、数珠、毛髪、爪、銅銭など。五郎八姫とその侍女たちが、極楽浄土への往生に願いを込めてえらいお坊さんの木像胎内へ納入したものです。あえて博物館に展示しないのは、当時の彼女たちのその思いを尊重してのこと。つまり見せびらかすものに値しないもの。だからこの中身を拝見できるということはとんでもなく貴重な体験なのでありました。
ずいぶんと長い年月を木像の中で眠り続け、その後ほとんど日の目を見ることのないこれらの遺物はそれゆえに、保存状態はかなり良く、とても350年前のものとは思えない。「御西舘様ヨリ」と墨で書かれた和紙の包みを開くと、朱と金糸で織られた小さな袋が現れ、その中に桐の小箱が入っています。蓋を開けると、黄金色の地に鶴や雲などの色とりどりの模様が織られた布に守られて、小さな金剛仏像と、指の先ほどの小さな和紙にくるまれた包みが現れました。包みには「柴舟」の墨文字。そして後ろに五郎八姫の花押があります。
「柴舟」とは、当時金銀よりも珍重された『香木』で、香道をたしなむ政宗公が秘蔵する中で最も自慢の名香だったそうな。もとは宮中所持の「藤袴(ふじばかま)」で、初音「はつね」(前田家)、 白菊「しらぎく」(細川家)、柴舟「しばふね」(伊達家)の三家で分け「一木四銘」と言われています。この「柴舟」が宇和島藩伊達家にしか伝来しておらず、仙台藩では失われたと思われていました。それが数少ない五郎八姫の遺品の中から見つかったのですから、歴史的にもすごい発見だったでしょう。
他には、五郎八姫直筆のミニ写経文。きれいに折りたたまれた10cmほどの和紙に書かれた筆文字は、にじんだりかすれたりもせず、はっきりとその筆跡が読み取れます。女性らしく流れるような、ほんとうにうまい字です。五郎八姫の教養の高さがわかると同時に、60歳といえば老眼でしたでしょうに、よくもこんな細かい文字が書けるものだとビックリします。
それから、わずか3cmほどの小さな紙に包まれた姫の毛髪。開くとパラパラと散ってしまう可能性あるため中身公開NGでしたが、写真で見せてもらいました。60歳の髪とは信じがたいほどの 黒くつやがあり’からすの濡れ羽色’です。侍女でしょうか’すて’さんという人の髪の毛は、赤茶けています。やはり栄養状態の違いなのでしょうか。姫の側近だった人たちの数珠や毛髪や経本なども見ることができました。とくに驚いたのは鏡です。もちろんガラスではなくて、博物館などでみる銅鏡というものです。経年の劣化でサビサビのあの丸くて重たそうなやつを想像しましたが、これはちゃんと顔が認識できるほどに輝きが保持されているんです。350年前の女性たちが これに顔を映してお化粧したりしてたんですね?
 姫の納入品と一緒に、橋本洞庵の名前が入った包みがありました。中には、長さ5mmほどの毛髪が入っていたそうです。橋本洞庵は、五郎八姫に仕えた医者です。田村家の家臣だった橋本家は、五郎八姫の母、愛姫(田村家)が伊達家に嫁いだとき、一緒にきた一族です。姫のわずかな納入品の中にまぎれこむように入っていた洞庵の遺髪はなにを意味するのでしょうか。よほど大切な関係にあったと思われます。
湿度・温度管理された分厚いガラスの向こう側に、修復された姿で鎮座する歴史的史料をながめるのとは大違いの、目の前でひとつひとつ開かれる生々しい宝物たちに ドキドキしながら見入りました。

木像の中に遺品を入れるのは極楽浄土へ行けますようにとの願い。荒らされませんようにと土の中に隠す場合は
「10尺下よ」by土生慶子先生

●亀岡八幡宮
政宗公は、天空の星を地上に降ろしました。四神に守られるべく中心は仙台城本丸です。
玄武の「亀岡八幡宮」ですが、ここは亀を模り造られた人工の山です。政宗公はどこからそんな大量の土を運ばせたのでしょうか。四神の中でも本丸に一番近い場所にあり、幕府にはどんなことがあっても知られてはいけない極秘プロジェクトであったはず。そのための人材の確保と土木技術の手配。政宗公が抱いていた壮大な野望を実現するためにはキリシタンの存在が絶対でした。その頂点に君臨していたのが五郎八姫だとすると、

かごめかごめ (仙台城下の六芒星)
かごの中の鳥は(城下の財宝は)
いついつでやる(いつになったら日の目を見るだろう)
夜明けの晩に(七夕の夜に)
鶴と亀がすべった(忠輝と五郎八がキリシタンを統べる-統一する)
うしろの正面だれ(影の指揮者はだれ-政宗公)

この歌は、仙台の隠れキリシタンたちの間で歌い継がれ、のちに全国へ流れ童謡となったのではないでしょうか。

仙台城下の六芒星を見つめていると、私には六地点を結ぶ線が‘地下通路’に見えてくるのです。地下を掘った土は一か所に集められ、人工の山が出来た。城下の地下都市には迫害から逃れたキリシタンたちが住み、グランドクロスが貫く六芒星の中心には、礼拝堂が作られた。

夜明けの晩に行われた神事は、聖体祭儀(ミサ)。

●黄河幽清
 押し殺すようなうめき声の中、傍らに寄り添う者たちも額に汗をしながら声の主の手を握り絞める。燭台の灯りが襖に映る黒い影を揺らしている。
もう何刻続いているのだろうか、苦しみの中に永遠の時が流れる。屋敷中が粘りつくような重苦しい空気に包まれていた。
「姫、もうすこしでございます。力みなされ」
その老婆の声に呼応するかのように、うめき声が悲鳴に変わった。
「見えた。」悲鳴にも負けぬ声が上がり、廊下に待機していた女中に言葉を投げる。
「急げ、湯じゃ」
数名の女中があわてて廊下を駆け出していった。
その後を追うように産声が上がる。
「姫、でかしましたぞ。若君ですぞ」
塗炭の苦しみから解放された母親は、汗まみれの顔で頷いた。
真っ黒な泥の中から生まれ出た一輪の蓮の花のように穢れのない清らかな顔立ちの赤子であった。
しかし、どんなに綺麗な蓮の花でも一生泥の中にいなければならない宿命を負っている。まさにこの子の人生そのものではないか・・・。
まもなく、近くの寺の鐘が鳴った。
「あれ、明け六つになりましたね」
「いまだ寅の刻でしょうに、夏場の朝ははようござりまするな」
姫の脈を取りながら橋本洞庵が北の御方様に応えた。
産婆は、気持ちよさそうに産湯につかる赤子を優しく洗い清めていた。

 ここは、江戸芝増上寺の東隣にある松平陸奥守の下屋敷である。この日元和三年丁巳(ひのとみ)6月14日、夏盛りの早暁であった。
母となったのは松平陸奥守、奥州仙台伊達政宗の長女 五郎八姫である。


-われわれが知っている世間の常識というのは何と薄っぺらいものなのでしょう。私達は、今まで表に出なかった埋もれた歴史を調べています。それは、先に転生した私たちが’未転生者’たちの声に耳を澄ませ、後世になにを伝えたがっているのかを明らかにする作業でもあるのです。埋蔵金調査もかなり進みましたが、特定してここに公表する事ができない今は、環境が整うのを待っている時期なのでしょう。私達の知らないところで、グツグツと熟していることがあるはずです。自分たちだけではなく、すでに多くの人たちが一緒に動かされています。最近になって青葉神社に足を運ぶ人たちも、昨年愛子栗生で結成された五郎八倶楽部の方々も、間違いなくそのようです。私たちは少し足踏みしながら、その人たちを待つ時なのだと思います-
                                    平成の陰陽師 いなべの晴明
                                     

かごめ かごめ 
かごの中の鳥は 
いついつ 出やる
夜明けの晩に 
鶴と亀がすべった
うしろの正面 だれ

この歌が「徳川埋蔵金」の所在を示す暗号として今も研究されていますが、これがもしも仙台発祥だとすれば、制作者はキリシタン五郎八姫か、もしくは綱元さんかもしれません。夏の大三角も仙台城下に配され、グランドクロスがはくちょう座に当たるとすれば、そこに茂庭綱元が深く関わっている理由は、彼が「星の街仙台」を作った総監督だからです。
「うしろの正面 だれ」という歌詞は、「影の指導者は だれ」という意味で、綱元さんを指しているのかもしれません。織姫と彦星を結びつけるカササギの役目が綱元さんになるはずだったのでしょう。「鶴と亀がすべった」の意味は、鶴(天)と亀(地)が入れ替わる、すなわち天空の星が地上に降りたということでしょう。そして「かごの中の鳥」とは、六芒星の中の白鳥、つまり仙台城下の中のグランドクロスです。
 
綱元さんのプロフィールを覚えていますか?

 茂庭家は代々伊達家に仕える世臣で、弁舌、交渉に長け軍略にも優れた軍師の家系でした。父良直は武田信玄のもとへ武者修行にも行っています。世継ぎとなる男子が欲しくて側室を持ち、白鳥明神に願をかけて、酉年の酉の刻に綱元は生まれました。そのため白鳥明神の化身といわれ、戦での雄姿には頭上に白鳥が舞っていたと伝えられています。

綱元さんは、あえて、はくちょう座の頭にあたる部分(栗駒町文字村)を選んで永遠の眠りについたのです。

かごめの歌は、埋蔵金の所在ではなく、仙台城下そのものを現しています。
そして六芒星・四神・グランドクロスが、いまだかつてウワサにすらあがらなかった『仙台藩のキリシタンの財宝』のありかを示しているのです。
いろはの母である愛姫の生まれは1568年。「568」は「いろは」。
愛子(あやし)という地名は「愛の子-五郎八姫」」からつけられた。
いろは歌 48音 ヨハネ

いろは歌の中に隠された暗号--とがなくてしす(咎無くて死す)

-------無実の罪で死んだ----イエス・キリスト

埋蔵されたのは、支倉常長らが持ち帰ったキリシタン関連の財宝と バイブル・コード~聖書の暗号

星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産

 もしも支倉常長の通商交渉が成功していたなら、伊達家の存続はなかったかもしれない、という説がある。

・幕府は禁教令を出しつつも貿易をしたかった。-商教分離外交
・政宗公は容教と通商を要望した。-商教一致外交

 奥州の王がキリスト教と通商を手に入れたとき、この国を統一するのは伊達政宗、とだれもが考えたことでしょう。そうなる前に、幕府はいずれ仙台藩をつぶしにかかったに違いない。常長さんが通商に失敗したおかげで今の仙台があるのかもしれません。
 江戸後期から始まった大飢饉において奥州の被害も甚大で、仙台藩は「裏の備蓄」を使い果たしたといわれています。しかし、五郎八と忠輝率いるキリシタン軍の秘宝は、まだどこかに眠っているでしょう。ふたりの遺志を継ぐ者は、息子である黄河幽清しかいません。江戸の仙台屋敷で生まれ、僧侶として松島に痕跡を残し、1698年に亡くなった、ということしか記録にありませんが、伊達家の血を継いだ最後の『証人』であったことでしょう。
 五郎八姫にとって、43歳で父を、60で母を、65で弟を失った晩年は孤独に満ちていたかもしれません。しかし、松島には息子の幽清がいたのです。福沢御殿には、忠輝がいたのかもしれない。五郎八姫はけっして ’薄幸の姫 ’ではなく、この世を去るまで息子とともに「愛」を説き、来世の平和を願ったのではないでしょうか。

 2011年3月11日午後2時46分、東日本大地震発生。

 岩手・宮城・福島の3県にまたがり多くの方が津波被害で亡くなられました。心よりご冥福をお祈りいたします。
 
 仙台藩が深く関わった南三陸沿岸部も壊滅状態にあります。自然の脅威に対してなす術も無く、何度も訪れる余震におびえながら一時絶望感を味わった私たちですが、復興への入り口に向かって歩き始めた人たちも少なくありません。
 
 松島瑞厳寺では政宗公の位牌だけが倒れることなく無事だったといいます。近隣の街が壊滅したにもかかわらず、松島海岸は浸水はしたものの甚大な被害をまぬがれました。点在する島々が防波堤の役目をしたと、政宗公はそのことを知っていて、松島を伊達家の霊場に選んだのでしょうか。

 政宗公によって四百年もの間極秘にされてきた六芒星 -星の街-

- 未来永劫知られることがあってはならぬ、しかし
今ここで わしも 転生するときがきた。ゆえに
この『星』もようやく 陽の目を見るときがきたのじゃ。
五郎八よ、この街は おまえが思い描いた 愛に満ちた世界になっているか。
今このときこそ 迷える民に 財宝を与えようぞ -

----- 完 ----

星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産

約20年前、陰陽師いなべの晴明は地図上で、仙台城下の主要神社を結ぶと六芒星が描かれることを発見しました。そして四神・グランドクロスの図形も次々見つかり研究書を出版。それをもとにしてさらに追及を進めていくうちに、いまだかつて噂にすらあがらなかった仙台藩の埋蔵金疑惑が浮かび上がってきたのです。

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-09-11

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 第一章 呪術都市仙台
  2. 第二章 伊達な埋蔵金伝説~限りなく史実に基づく妄想
  3. 第三章~探訪