ANIMA−アニマ−
anima :生命、魂。ユング心理学における、男性の無意識内に存在する女性的なもの。
PROLOGUE−プロローグ−
2021年3月4日。市街に熊が出現、民間人1名が負傷したため、銃で射殺。
同年4月19日。山道で野犬数頭が出没、民間人4名が負傷、内1人死亡。野犬計6等を射殺。
同年7月5日。市街に熊数頭が出没、民間人が多数負傷。危険大と判断したため射殺。
あくまで個人的な見解だが、人間は結局、他の生物との共存の道を捨てた。
ここ10数年で何10頭ものペットが捨てられ、殺処分されている。農園で何かウイルスが蔓延すれば、感染した家畜だけでなく、まだ感染していない家畜まで纏めて殺処分されてしまう。人間による世界支配は着実に進んでいる。
しかし、それはあまりに残酷ではないか。人間が支配者として君臨する前、誰がこの地を支配していたか。どれだけの動物の助けがあって人間が生きていられると思っているのか。
そこで考えた。
彼等に、この世界を返すのだ。
今1度、彼等に自由を与える。僕が、そのサポートをする。
小さい頃から動物は大好きだった。でも、人間だけはどうしても好きになれなかった。
「……完成だ」
準備は整った。
僕はこれから、計画を実行に移す。どれだけ蔑まれても構わない。この命がどうなろうと構わない。
僕が、ノアになるのだ。
ONE−1−
日差しが強い。
太陽が僕の邪魔をしているかのようだ。
でも、この計画は絶対に実行する。そしてその瞬間は、もうすぐそこまで迫っているのだ。
さて、最初の1人は何処かな。必要なものは、意識して探しているときほど見つからないものだ。だからといって意識しないようにしても上手くいかない。
場所が悪いのだ。彼等は人間に対して何らかの敬意を払っている。だから、人前には姿を現そうとしないのだ。もっと人間の少ない、汚くて、湿っていて、人が寄り付かない場所なら……ほら、いた。
1匹のドブネズミが暴れている。ネズミ捕りに引っかかっていた。近くの店が仕掛けたのだろう。
彼にしよう。ポケットから、とっておきの物を取り出した。注射器の中に入ったソレが、誤った道に進んだこの世界を正しい方向へと導いてくれる。
ゆっくりと歩み寄り、彼の側にしゃがむ。
「少し痛いよ」
注射針を彼の腹にあて、中に入った黄緑色の液体を注入する。ネズミは一瞬ピクッと動いたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
作業は済んだ。ネズミ捕りをいじって彼を自由にしてやった。彼は地下の仲間達の所へ一目散に走って行った。
「頼んだよ」
僕は彼等に方舟を示した。
あとは彼等が、自分達の手で舟を動かすだけだ。
2021年。
世界は若干ハイテク化が進んだ。が、未だに経済的格差があることは否定出来ない。よく漫画なんかで描かれているような世界はまだ完成していない。電子機器ばかりが進化するのみで、大きな変化は見られない。
ここ、日本生物科学研究所でもまだ成果は上げられていない。発足当初は難病を治すためのワクチンを造るということで注目されていたのだが、今ではその存在は風化しつつある。
「峰君、例の薬はどうだい?」
眼鏡をかけた痩せ形の中年男性が、長い黒髪の女性に声をかけた。
「いいえ、残念ながら」
今、この2人の研究者、峰靖子と高田総一郎が話しているのは、近年海外で猛威を振るっているウイルスのワクチンについてである。人体実験は認められておらず、マウスを使って効果を試している。が、今回も実験は失敗。マウスは副作用で死んでしまったらしい。研究所では何匹ものマウスを飼育しているため、1匹死亡したら別の個体が選ばれる。
高田はため息をついて新しいマウスを取りに向かった。この動作もこれで何度目だろう。高田は今年で還暦を迎える。研究にばかり力を注ぎ、家庭は冷えきってしまった。もう妻も子も出て行ってしまった。
峰も今年で34歳になるが、未だ相手はいない。この6年を全てワクチン開発に捧げて来たのだ。彼女の両親は何度も縁談を持ちかけたが、彼女本人は相手がいないことをさほど気にしていない様子だった。
「ああ、見てよこれ」
同僚の仁科浩平が、PCの画面を峰に見せた。そこには研究所を痛烈に批判したニュースが写し出されている。天然パーマの頭をポリポリ掻きながら記事を指差して文句を言う。
「良い気なもんだよなぁ、こっちの気も知らないで」
「でも、結果を出せていないのは本当のことだし」
「まぁね。はぁ……いつになったら万能薬が出来るのやら」
PCをスリープ状態にして仁科がため息をつく。
いつまで経っても良い成果が得られず、研究者達のモチベーションも下がってしまった。人の命を守るという当初の理念を今も覚えている者は少ない。この峰を入れても10人に満たないだろう。
「遅くなりました! ……あれ? 高田さんは?」
たった今やって来た岸田荘太もここの職員の1人だ。研究所内では1番若い。見た目も金髪にピアスという、とても研究者らしからぬ出で立ちだ。
彼は研究よりは趣味を優先するタイプの男だ。ここに就職したのも合コンのための肩書きが欲しかったからに過ぎない。
彼に続いて別の職員が入って来た。荻野祥子、峰の1年後にここに来た後輩だ。手に注射器を持っている。中には半透明の液体が入っている。これが、現在開発中のワクチンだ。
「桂君来てないですか?」
「え? 桂? ああ、そう言えばまだ来てないや」
桂信二。その男もここで働いている職員だ。これまで休んだことがなく、研究にも誰よりも力を注いでいた。
そんな男が急に休むとは少し意外だった。ただ、彼がいなくとも、研究は難なく続けられるのだが。
「ま、アイツも人間だってことだよ」
「なるほどね」
後ろで話を聞いていた近藤春樹と緒方清が笑いながら喋る。この2人は高田の同僚だ。先に出世した彼を疎ましく思っている。
彼等の会話を聞いて荻野が不快感を示した。
「いや、関心してる場合じゃないでしょ。重い病気だったらどうするんです?」
笑い飛ばす一同の中で、荻野だけは不安げな表情を浮かべていた。
いつものことだ。皆気にも留めない。
荻野と桂は交際関係にあるのだ。相思相愛、桂は研究にもこれまで通り力を注いでいるが、荻野の方は研究に手がつかない程彼を愛している。
どうせすぐに元気になる。峰は彼女を無視して作業を続けた。
「ほら、さぼってないで続けるぞ」
高田が白いマウスを掴んで戻って来た。足にはプラスチック製の小さな器具が取り付けられている。この研究室で飼育されている証だ。個体番号が記されている。
次はあのマウスが犠牲か。室内にいる殆どの職員がそう思った。高田も何だか残念そうな目で手の中の動物を見つめている。
これ以上マウスを犠牲にするわけにはいかなかった。研究所に残っている個体数はもう少なくなっている。1回の実験につき1匹死んでしまう、そんなペースが続けば研究が出来なくなってしまう。研究員達はこのことを気にかけている。
「いつまで続けんのかなぁ」
また仁科が愚痴る。峰はそんな彼の頭を机に置いてあったファイルで軽く叩いた。
「そんなんじゃ、いつまで経ってもワクチンは出来ないわよ。私達の薬で、世界中の人々を助けるのよ」
彼女の言葉は高田の耳にも届いていた。高田はマウスを見つめながらニコッと微笑んだ。
TWO−2−
昼間雨が降ったためだろうか、地面が濡れている。
上坂茂之と酒井彩は大学2年生のカップルだ。知り合ったのは去年。茂之のひと目惚れだった。顔質の整った彩は他の男子からの人気も高かった。そのため1度は諦めようとしたが、どうしても彼女の天使のような笑みを忘れることが出来ず、駄目元で告白したのだ。
あの決断が無ければ、あの告白が無ければ、2人は今別々の道を歩んでいただろう。人生とは本当に不思議なものである。
夜空を見ながら静かな小道を歩く2人。この道は茂之のとっておきのスポットだった。アパートやマンションの立ち並ぶ細い道。その上に広がる空。都心から少し離れた場所だからか、ここからだと珍しく星を見ることが出来る。星だけでも充分ロマンチックだが、今宵の満月がより一層ムードを引き立てていた。
「綺麗だね」
「うん」
「本当に、綺麗……」
彩の方が綺麗だよ。そんなことを言おうとして、止めた。ひと昔前のドラマのような台詞。言ったら笑われるだけだろう。
大丈夫。言葉なんて無くても、愛はちゃんと伝わる。それが、この1年彩と付き合って茂之が覚えたことだ。よく恋愛マニュアルみたいな本を見かけるが、愛というのは誰かが簡単に解読出来る様なものではないと思っている。心の底からわき上がってくる言いようの無い熱い思い。それが愛なのだと彼は思うのだ。
気づくと、彩が彼の顔を見つめていた。この大きくつぶらな瞳で見られると緊張してしまう。
「シゲ」
「うん?」
「ちょっと良い?」
「良いって、何が……」
茂之が言い終える前に、彩が彼に抱きついて来た。温かい。彼女の鼓動が、温もりが、茂之の身体に伝わってくる。生きている。自分も彼女も、確かに生きている。茂之も彩の後ろに手を回した。
何分そのままでいただろう。抱き合っていても見る者は誰も居ない。
この温かさが溜まらなく気持ちがよかった。しばらくこのままでいたい。そう思っていた茂之だったが、突然、
「痛っ!」
彩が叫んで手を離した。一気に現実に引き戻された。
彼女は仕切りに足首の辺を気にしている。見ると、どうやら血が出ているようだった。山じゃあるまいに、足を切る物などここにはある筈がない。周囲を見回していると、茂之は側溝の近くにあるものを見つけた。
1匹のネズミだ。ネズミは逃げずにじっと2人を見つめている。まさかこのネズミが? だとしたら問題だ。菌が入ってしまったかもしれない。ネズミと言えばすぐに浮かぶのはペスト菌。それだけではない。あんな汚い場所に住んでいる生き物だ、もっと沢山の細菌を運んでいるかもしれない。
小賢しい生き物だ。側に転がっている小石を拾ってネズミに投げた。ネズミは住処へと逃げて行った。
「大丈夫?」
「うん、ごめんね、ビックリしちゃって」
足首から流れ出る血液が、彩の白い肌を、そして靴を赤く汚している。噛まれたにせよ引っ掻かれたにせよ、この量は異常だ。やはり何かとんでもない物が入ってしまったのか。
こんなところで最愛の女性を失うのは嫌だ。すぐに病院に連れて行くことにした。
「行こう」
手を握って、やや駆け足でそこから移動しようとする茂之。だが、彩はその場から動こうとしない。思わず躓きそうになった。
「どうしたんだよ? 早くしないと」
「シゲ……」
彩が、震える声で呼んだ。
初めは何があったのかわからなかったが、彼女が何故動けなかったのかすぐにわかった。
周りを、大量の小動物が取り囲んでいる。小さなネズミもこれだけ大量に集まると気味が悪い。背筋が寒くなる。
ネズミ達は明らかに2人を見ている。チッチッという鳴き声も聞こえてくる。
「シゲ? ねぇ、シゲ!」
「う、うるさい!」
パニックになってしまって、つい彩に怒鳴ってしまった。すぐに謝ろうとしたが、足首に迸った痛みのせいでそう出来なかった。
ネズミが噛み付いている。1匹が靴を駆け上がってズボンの中に侵入、爪で足を器用に掴んでガリガリと齧っているのだ。あの鋭い歯が小刻みに振動するのと、自分の皮が少しずつ抉られてゆく感触が伝わってきた。それとほぼ同時に、痛みと熱もその場所から発せられる。あまりの苦しさに茂之がその場に倒れた。
「痛ぇぇぇ! 痛ぇよぉぉ!」
路上でもがく茂之にネズミ達が次々に取りつく。服の中に入り込み、柔らかい肉を齧っている。
彩の足にも彼等が群がる。彩も茂之同様、ネズミ達に噛み付かれて暴れ出した。叩いたりしてネズミを振り払おうとするが、動けば動く程彼等は飛びついてくる。
「助けて! 誰かぁ!」
「うああああっ!」
大声で叫ぶ2人。その声を聞いて駆けつけて来る者も何人かいるが、皆この世のものとは思えぬおぞましい光景を見て、2人よりも大きな悲鳴を上げて逃げ帰ってしまう。
もう駄目だ、助からない。
2人は暴れることも叫ぶことも止めた。視界がぼやけてゆく。血が目に入り込む。
ああ、これが死ぬということなのか。2人は悟った。
こんな形で交際が終わることになるなんて。目から涙がこぼれ落ちる。涙が血液と混ざり合う。その液体を、ネズミ達がよってたかって舐め始めた。
死んでも、2人は一緒だ。茂之は最期の力を振り絞って彩の手を探し、ギュッと掴んだ。弱いが、彩もその手を掴み返した。
若い2人の男女は、手をつなぎながら、惨たらしい最期を迎えた。
3日後。今日も桂は来ていない。
あれから3日経ったがまだ成果は出ていない。マウスも新たに2匹犠牲になってしまった。
何が悪いのだろう。改良出来る点はほぼ全て治した筈なのだが。研究者達は頭を抱えた。流石の峰も疲弊しているようだった。目の下にはくまが出来、目は若干充血している。彼女はこの頃殆ど眠っていないのだ。
「そんなに気にすんなって。実験に失敗したのは何も今日が初めてじゃないだろ?」
仁科がフォローするが、そのひと言が峰を余計に苛立たせてしまった。
「みんな、聞いてくれ」
そこへ高田が戻って来た。全職員が注目する。
「要請があった。遺体が運ばれて来た」
「遺体? 何で急に?」
「都内で変死体が見つかったらしいんだ。全部で、4体」
「俺達は刑事じゃないんですよ?」
「いや、事件云々の話じゃない。それらの遺体には、不可解な点が幾つかあるみたいでね。それを調べて欲しいという依頼があったんだ」
遺体の状態について尋ねると、高田はおどおどして、見ればわかるとしか教えてくれなかった。
要請とあらば調べなければならない。もしかしたらそこには、とんでもない細菌や病が隠れているかもしれない。
早速、高田に呼ばれた数名が遺体の確認に向かう。外は暑いのに中は涼しい。廊下を進むと、薬品だろうか、酸っぱい臭いが鼻を突いた。
「気をつけろよ」
と高田が言う。初めは何を言っているのかわからなかったが、部屋の中に入ってその意味が理解出来た。荻野は振り返って口を押さえている。あの仁科も言葉を失ってしまった。
金属製のテーブルの上に置かれた、真っ赤な塊。1度見ただけではそれが何かわからない。が、塊の中に見える目や肩、剥き出しになった骨を見てようやく、それが人間の遺体であることがわかる。
峰も驚いたが、他の2人程ではなかった。もう慣れっこだった。
「ど、どうしてこんなことに?」
「わからない。警察からは詳しいことは教えてもらえなかった」
「変な痕がありますね」
峰は塊に近づいて観察している。荻野と仁科は彼女に敬意を表した。
彼女の言う通り、肉塊には奇妙な形の傷が幾つも残っている。刃物ではつかないような、歪な形の傷が。
「ああ。解剖医も首を傾げていた。それから大量出血のあとも窺える。この点から、何らかのウイルスが感染していたのではないかと考えているらしい」
「なるほど、それを調べろってか」
「だったら早くやりましょう。私達にしか出来ないことよ」
「怖くないの? もしソレに新しいウイルスが感染してたら……」
「仁科君、この人は生きていたのよ。モノじゃないわ。“ソレ”なんて言い方やめて」
「い、いや……ごめん」
「ケンカはやめてくれ。至急結果を報告しなければ。……ああ、それから」
言いながら、高田が部屋の奥へ何かを取りに行った。すぐに見つかったようで、アルミ製のプレートを持って戻って来た。プレートの上には小さなものが乗っかっている。
「現場を捜査した警察が、こんなものを見つけたそうだ」
「え? 何これ?」
「見ての通り、ネズミだよ」
おそらく遺体の人物が暴れた際に踏まれたか何かで死んでしまったのだろう。暴れたかどうかは定かではないが、ネズミの遺体の状況を見るにまず間違いない。
しかし、驚くべきことはこれではなかった。よく見ると、ネズミの足に何かがついていたのだ。それには、何か書かれている。ナンバーだ。ナンバーが記載されている。
「わかったか峰君? このマウスは、ウチのマウスなんだ」
遺体を見たときとは別の、より不快な悪寒が3人の背筋に走った。
THREE−3−
僕の造った舟の完成度は高いようだ。その証拠に、早くも4人の愚かな人間が死んだ。
彼等もさぞや恐ろしかったことだろう。これまで自分より下だと思っていた存在が、突然牙を向いて襲いかかって来るのだから。人間とは案外弱い生き物だ。普段は偉そうに踏ん反りがえっているが、いざ危機に直面するとその殆どが尻尾を巻いて逃げ出すか、発狂して使い物にならなくなる。愚かな生き物だ。
さて、僕の計画はまだまだこんなものではない。ネズミの暴走なんて序の口。もうじき、もっと面白いことになるだろうね。
研究室が管理しているマウスが発見された、それは2つの可能性をあぶり出す。1つは、この1件の裏側に研究所の職員が関与していること。そしてもう1つは、たとえ意図的ではなかったにせよ、危険な生物を逃がしたとして批難を浴び、いずれここは……閉鎖される。
職員の中に恐ろしい考えを持った者がいるのも恐ろしいが、それよりも自分達の居場所が失われることの方が恐ろしかった。これまでの努力が全て水の泡になってしまう。高田もそのことを危惧しているようだった。
「どうするんです? 見つかったら……」
「何とかするさ。まだ研究は続けなくてはならないし」
「へっ、いっそ止めちゃったらどうです?」
言ったのは仁科だった。肩が少し震えている。
「何年実験したって、どうせ何も成果は得られないんだ。だったらこんな研究止めちまえば良いんだ」
「仁科君、何を……」
「だってそうだろ? 毎日毎日不完全なワクチン作って、何匹もマウス殺して、ただの鬼畜じゃねぇか!」
「仁科君!」
「……すいません」
仁科は気まずそうに顔を背けた。
高田はため息をつき、話を続けた。
「何にせよ、我々も調査をした方が良いだろう。事故にせよ事件にせよ、全てを隠蔽するのは好ましくない」
「仕事が無くなっても良いと?」
今度は荻野が尋ねた。彼女も職を失うことの方が恐ろしいようだ。
「最悪、そのことも視野に入れておくべきだろうな」
と、突然高田の携帯が鳴った。会釈をしてから部屋を出て電話に出た。廊下から彼の声が聞こえてくる。
高田が退室したあとの部屋のムードは最悪だった。誰も言葉を交わさなかった。
少しして、高田が焦りの表情で部屋に戻って来た。その様子を見て3人が覚悟する。いよいよ、最悪の事態を考えるべきだと。
だが、高田の口から発せられた言葉は予想だにしないものだった。
「準備を始めるぞ」
「は?」
「都内の動物園で死傷者が出た」
「そんな」
「犯人は射殺したとのことだが、彼、或いは彼女とも関係があるのかもしれない」
4人が、テーブル上の塊に目をやった。
その動物園では警察が現場検証を行っていた。
「牧野さん」
「うん?」
はげ頭の厳つい刑事、牧野平吉が後輩刑事の報告を聞いている。彼は大ベテランだ。いちいちメモをとらなくとも証言はしっかり記憶している。
事件は恐ろしいものだった。
動物園職員の話では、檻の清掃を行っている職員に、突然1匹のオランウータンが飛びかかったというのだ。彼等も案外凶暴だ。唸りながら職員の頭や身体を齧っていたそうだ。助けを求められたが、あまりの恐ろしさに被害者を置いて逃げてしまったとか。後に通報してくれたからまだ良かったが。オランウータンは駆けつけた警察隊に射殺された。被害者だけでなく、動物の遺体も研究機関に運ばれた。
「嫌な世の中になったもんだ」
「え?」
「人間と違って、動物には言葉が通じない。何考えてるかもわからねぇしな」
「でも、家の犬は言うこと聞きますよ?」
後輩のとぼけた言葉に、牧野が彼の頭を叩いた。
「そんな話してんじゃねぇんだよ」
「すいません」
「何にせよ、ここ最近起きてる事件はどこか妙だな」
他の3件も牧野も一緒に捜査を行っている。皆無惨な死に方をしていた。とある男女だけは手を繋いで最期を迎えたようだった。まだ20代で、牧野の娘と同い年くらいだった。胸が痛かった。
人間業とは思えない殺傷方法。彼等を殺した者も、言葉の通じない、心を読むことが出来ない存在なのではないか。鍛え上げられた刑事の勘がそう告げていた。
「あの!」
他の刑事が何か発見したようだ。全員の注目がそちらに集まる。
「監視カメラの映像に変なものが映ってました」
「変なもの? 何だそりゃ?」
「動物が暴れている様子が、映されていました。まるで、何かを振り払おうとするかのように」
「振り払う、ねぇ」
あごを摩る牧野。推理をするときの癖である。
今回の事件、犯人はやはり人ではない者の仕業なのか。警察にこの事件を解決することは出来るのか?
取り敢えず自分でもその映像を見てみることに。職員に連れられて事務室に向かう。場所は檻のすぐ近く。今回のようなトラブルが起きたとき、すぐに対処出来るようにするためだ。
「これがカメラ映像です」
モニターには現在の映像が映し出されている。職員と動物の血液だろうか、廊下が汚れている。それを清掃員が洗い流している。だが掃除は大変そうだ。血は広範囲に流れている。
「それでこちらが、事件発生時の映像」
リモコンを操作して問題の映像を再生する。
捜査員の報告通り、オランウータンが檻の中でもがいているのが窺える。時刻が深夜2時なのではっきりとはわからないが、確かにしきりに手を動かしている。30分ほど経つと今度は檻の柵を握りしめて吠え始めた。牧野さえおののく程だ。
「なるほど、予兆はあったわけだ」
「ちょ、ちょっと。それどういう意味ですか? 我々の管理がまずかったってことですか?」
「今はそんなこと言ってる場合じゃねぇだろうが!」
普段後輩を叱るのと同じ要領で怒鳴ってしまった。だが人が1人死んでいるのだ。職を失うことよりもそちらの方が問題の筈だ。
「何にせよ、事件は必ず解決させます」
刑事達は部屋から出た。
風が心地良い。あの恐ろしい映像を観たからか、外の空気が美味しく感じられる。しかし、この安堵の瞬間もすぐに終わるだろう。すぐにまた、おぞましい事件が起こる。刑事の勘が、またしても牧野にそう告げた。
研究所に2遺体が届けられたのは、連絡を受けてから1時間後のことだった。1つは人間の、そしてもう1つは動物の。
先程の塊の調査はほぼ完了している。遺体からはやはりウイルスが検出されたが、それは峰達がこれまで1度も見たことが無いものだった。とりあえずわかっていることとしては、この細菌が空気感染しないということ。現に峰達の身には何も起きていない。
新種のウイルスの感染。とんでもないことが起きてしまった。情報が無いためウイルスにどの程度の力があるかわからない。だが更に恐ろしいのは、一緒に見つかったマウスの死骸からも同じウイルスが見つかったということ。研究所の閉鎖は免れないだろう。
「始めよう」
早速2遺体の検死が始まった。報告によれば、このオランウータンは前夜に暴れていたらしい。今回もウイルスが絡んでいるのかもしれない。血液を採取するため、注射器を取り出して死骸の腕に針をあてる。すると、その瞬間、
「ひゃあっ!」
けたたましい悲鳴を上げて、死んだ筈のオランウータンが飛び起きたのだ。白目をむき、歯も剥き出しの状態だ。しかしすぐに力を失い、再び元の死骸に戻ってしまった。
「大丈夫か?」
高田が声をかける。小刻みに首を縦に振った。
今のは何だったのだろう。まだ僅かに息があったということなのか。気を取り直してもう1度注射針をあてる。今度は、起き上がることはなかった。
FOUR−4−
オランウータンと男性の遺体が運ばれた。これで怪事件もじきに解決するだろう。警察はそう考えていた。
撤収する男達。だがただ1人、牧野だけはじっと動物園を睨みつけていた。
「牧野さん?」
後輩の1人、鹿野が声をかけた。
「また刑事の勘ですか」
「事件は、まだ頭を出しただけに過ぎない」
「牧野さんの勘は当たるからなぁ。まぁ、取り敢えず署に戻りましょうよ。あっちでも何かわかったかもしれませんよ」
「そうだな」
納得がいかない様子だったが、牧野は後輩達とともに警察署に戻って行った。
檻の中で、また異変が起きていることなど知る由もなく。
最初にその異変に気づいたのは、檻の清掃を行っていた職員だった。
「はぁ、嫌な世の中になったもんだよ」
閉園後、1人愚痴をこぼして床を掃除する男。すると、檻の中から大きな音が聞こえて来た。動物が柵に突進したのだ。
「うるせぇんだよこの野郎!」
怒鳴った先にいたのは、何とライオン。男の声に刺激されてライオンも吠えてきた。吠えると口から何かが噴き出た。液体で、それは壁に直撃すると小さな赤いシミを作った。
ライオンの咆哮を皮切りに、他の檻に入っている動物達も次々に奇声を上げ始めた。中には檻や壁に突進して己の身を傷つける者もいる。
「何なんだよもう! ふざけんなよぉっ!」
掃除用具を檻に向けて投げると、清掃員は走って逃げ出した。
ライオンは爪で器用に掃除用具を引き寄せると、取っ手の部分を噛み始めた。
更に2日後。
新たに届いた遺体を含めた6遺体の検死が終了したのはこの日の朝だった。桂が来ていない上に今日は緒方が休暇だ。近藤も何だかやる気が無い様子で、峰達に協力してくれない。兎に角人手が足りなかったのだが、何とか作業を終えることが出来た。
検死の結果、2遺体からあのウイルスが検出された。ウイルスは既に広範囲にまで広がっているかもしれない。
だが、今回は新しい発見があった。ウイルスが検出された箇所が、人間とオランウータンとで違っていたのだ。被害者の方はオランウータンに噛まれた部分から見つかったのだが、オランウータンの方は、なんと血液から発見されたのだ。
「仁科君」
「え?」
「マウスの方はどうだった?」
このことが気になった峰は、仁科にマウスの死骸を調べてほしいと頼んだのだ。
「そっちの言う通り。出たよ、血液から」
「動物は、血液から発見される……」
ウイルスの新しい特性がわかった。
あの塊のような遺体も、ただ単にウイルスに感染したわけではなく、感染した別の動物に襲われた可能性がある。まだ峰の推測でしかないが、概ね当たっているだろう。つまりこのウイルスには動物を凶暴化させる作用があるということか。
考えているとまた電話が鳴った。
「今日は忙しいな、おい」
ため息をついて近藤が電話を取りに向かった。
「本当なら君等が行くべきなんだけどね」
嫌みを言いながら電話に出る。相手は本日は休暇で来ていない緒方らしい。初めは退屈そうに返事していた近藤だったが、途中から態度が急変、おどおどし始めた。何やら新しい問題が起きたらしい。
「わかった! ……おい、まずいぞ」
「何が?」
「町中で、ネズミが人を襲ってる」
「ネズミ?」
「ネズミが襲ってんだよ!」
いよいよ事態は大きくなってしまった。
研究所から離れた所にある動物園でウイルス感染した動物が現れた理由がよくわかった。ウイルスはネズミに乗って、あらゆる場所に移動しているのだ。
そこへ高田が、ペットボトルの茶を飲みながらやって来た。その顔を見るや否や、近藤がズカズカと歩み寄って高田の胸ぐらを掴んだ。強く掴まれたため、ペットボトルを落としてしまった。床の上に広がる黄緑色の液体が、拡散してゆくウイルスを思わせる。
「何呑気にお茶なんか飲んでんだよ! ぁあ? おい!」
先に出世した彼に対する不満が爆発している。高田は冷静な顔で彼を見ている。
「何があった」
近藤ではなく、峰達に質問する。だが峰達も詳しいことがよくわからない。
「ネズミが、大量のネズミが町中で人を襲ってんだよ!」
「何だと?」
「今渋谷が大惨事だよ」
渋谷。
人が大勢集まる場所だ。犠牲者も多いに違いない。
更に続けてまた電話が鳴り響く。今度は若い岸田がとった。
「もしもし……えっ?」
また動物か。近藤はますます苛つく。
「あの動物園で、動物達が暴れだしたって」
オランウータンと同じだ。直前に奇妙な行動をとり、そして、人を襲う。まだ解決策だって見つかっていないのに、もう大量の動物に移ってしまったのか。ウイルスの拡散する速度は予想以上に早い。自分達のペースでは追いつかない。
「終わりだ」
近藤が言った。文句の言う刺客の無い人間が。
「終わりだよ高田。お前の管理不行き届きのせいでこのザマだ!」
高田は何も答えない。先程と同じように、冷静な顔で相手を見つめている。彼だけではない。周りの人間達も彼に白い目線を送っている。この場に味方はいない。近藤は何も言わなくなった。
近藤の怒りが収まってから、高田は峰達に指示を出した。一刻も早くウイルスを止める手を探さなければならない。
「近藤、君は峰君を連れて動物園に行ってくれ」
「ああ、お払い箱ってか」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないですよ!」
怒鳴ったのは岸田だった。自分より30歳も若い青年に一喝され、とうとう自信も喪失してしまった。
「わかったよ。行こう岸田君」
近藤は峰ではなく岸田を指名した。どうせ外に出れば死ぬのだ。だったら今1番腹立たしい人間を道連れにした方が気分が良い。岸田は1度俯いたが、覚悟を決めて近藤について行った。
峰は何も言わなかった。岸田には申し訳ないが、彼女も出来れば外には出たくなかった。未知のウイルスが怖いのだ。
「じゃあ我々は、引き続きウイルスの調査を進めよう」
「はい」
残ったのは4人。数は更に減ったが、このメンバーの方が仕事が捗りそうだ。それぞれがやるべきことを分担して行う。
「でもさぁ」
と、仁科が作業をしながら峰に話しかけた。
「マウスは、あの箱に入れて管理してたんだぜ? それに、逃げたヤツに感染してたとして、なんで他の個体には感染してないんだ?」
「それ、どういうこと?」
「わからねぇかなぁ。要するに、誰かが意図的にウイルスを感染させて、逃がしたんじゃないかってことだよ」
理解出来なかったわけではない。したくなかったのだ。今まで共に仕事をしてきたメンバーの中に、今回の感染拡大の犯人がいるということを。それが事実なら、ウイルスも自然発生したものではなく、誰かが造ったという説が出てくる。
しかし、だとしたら誰が犯人なのだろう。近藤か緒方か? 高田の権威を失墜させるべく、ウイルスを蔓延させたとしたら。
いや、それは無いだろう。リスクが大きすぎるし、言っては難だが、彼等にこんな計画を思いつく筈も無い。ウイルスも造れないだろう。
「アイツは?」
「え?」
「桂だよ」
その言葉を聞いた途端、荻野が2人の方を向いた。視線を感じたが、仁科は気にせず話を続けた。
「おかしいと思わないか? 最近1度も顔を出さないんだぜ?」
「た、確かにそうだけど……」
「やめてください」
やはり荻野が噛み付いてきた。仁科がため息をつく。
「しばらく来てないだけで、何で犯人になっちゃうんですか?」
「いや、俺は1つの仮説を立てたまでで……」
「仁科さんこそ犯人なんじゃないですか?」
「は? 俺が? どうしてそうなるんだよ!」
「おい!」
高田が怒鳴った。
「今は言い争いをしている場合じゃないだろう」
高田の言葉で漸く冷静さを取り戻した。
恐ろしい事態に、誰もが冷静さを欠いている。近藤と緒方が居なくて良かったかもしれない。彼等がいたら、確実に犯人探しが始まってしまう。
FIVE−5−
通報を聞き再び動物園に急行した牧野達。
現場は地獄絵図のようになっていた。流石に今日は開園していない。
檻の入っている建物は扉を閉じられており、中の生物達が隔離されている。その周りには血まみれの職員が4名倒れている。皆出血が酷く、中には身体の部位が欠けた者もいる。扉も所々盛り上がっている。あんな応急処置ではどうにもならないだろう。
「おい、あそこ塞げ」
牧野が他の捜査員に指示する。男達は職員と協力して、扉の前にあらゆる物を運ぶ。ベンチ、ゴミ箱、兎に角重そうな物を選んで持って来た。
更に遅れて機動隊も到着した。非常事態ということで駆り出されたのだ。……人間ではない相手に楯が通用するとは到底思えないが、何も無いよりはマシだ。
「やっちまったな」
「何がですか?」
「昨日、嫁とケンカしちまったんだよ」
「それが何です?」
「今日が、最後の日になるかもしれねぇってことだよ」
牧野の言葉が、いつも以上に重く感じられた。
「あれ? あの人達まだ?」
「ああ、来てない」
「誰のことだ?」
牧野はまだ研究員達がここに来るのを知らないのだ。
「日本生物科学研究所の人です。何でも、あの動物にウイルスが感染してるとかどうとか」
「馬鹿なことしやがって」
「え?」
「防備もろくに持ってねぇ野郎が、こんなときに外に出たら死ぬに決まってんだろ」
時を同じく、渋谷にも警察機動隊が急行した。皆楯を構えてスクランブル交差点の辺りを囲んでいる。
その様子を、緒方はビルの屋上から窺っている。近藤に連絡している最中、彼等が現れて逃げ出した。しかし場所が悪かった。他の客と同じように、外に逃げれば良かったのだが、何故か彼だけは屋上に逃げてしまったのだ。とっさの判断が出来なかった。
「誰か、誰か来てくれよ……」
下ではまだ機動隊が様子を窺っている。その後ろには銃を持った隊員達が。まるで戦争ではないか。
「駄目だ、そんな物じゃ、アイツ等は止められないんだ」
涙目で、緒方がそう呟いた。ここに居るのは彼1人。誰も彼の言葉など聞いていない。
と、ここで、下でも事態が進んだようだ。隊員の1人が悲鳴を上げたのだ。そのすぐ後に銃声が聞こえた。始まったのだ、人間とネズミの戦いが。
緒方の予想通り、戦いはネズミが優勢だ。隊員が暴れているのを見るに、楯の間から侵入して人間を食べているらしい。
屋上から冷静に戦いを分析している自分が恐ろしい。勝負は目に見えている。緒方は場所を変えることにした。動物達もワケがわからず暴走しているらしいし、逃げるのは案外簡単かもしれない。
下へ降りる出口へ行こうと立ち上がったとき、あるものが視界に入った。
1羽のカラスだ。カラスはじっと緒方を見つめている。更に続けて別のカラスやハトが屋上に集まってくる。
「お前等もなのか?」
人間が言葉を発した。
それを合図に鳥達が一斉に緒方に向かって飛んで来た。彼等は男の肉をついばんでいる。
「いっ、痛っ! ふざけんなよ、おいぃ!」
鳥の大群を追い払って入り口へと急ぐ。鍵は開いているからすぐに入ることが出来た。開いた隙間めがけて鳥達が向かってくる。緒方は大慌てでその扉を閉めた。鉄の扉に切断され、カラスの首だけが中に落ちた。
「はぁ、た、助かった……」
階段を下りようと振り返った瞬間、絶望が彼の心を満たした。
自分が進むべき道を、大量の黒い何かが占領している。そう、ネズミだ。
「ふざけるなよ」
新しい餌を見つけて、今度はネズミ達が緒方に跳び掛かった。服の中に侵入した小動物達が柔らかな肉を齧る。削られる感触が恐ろしくて、彼は咄嗟に扉を開けてしまった。だがそこには、あの鳥達が待っている。
鳥がネズミと緒方に襲いかかる。彼等には仲間意識など無い。同じウイルスに感染していたとしても、鳥にとってネズミは格好の餌なのだ。
青い空の下、1人の男の悲鳴が響き渡った。
研究所。
焦っているせいか全く作業が手に付かない。峰は何度も壁やデスクに当たっている。荻野も恋人を犯人扱いされて苛ついている様子だ。
仁科はその思い空気に耐えられなくなり、部屋の外へ出た。こんなときに不謹慎だろうが、こういうときは好きな缶コーヒーを飲んで落ち着くのが1番良い。
自販機は建物の入り口付近にある。口笛を吹きながら自販機へ向かい、ポケットから財布を取り出す。
「はぁ、俺等帰れるのかな」
独り言を言った後、周りを確認する。が、誰も居ない。
中に犯人がいるかもしれない。そのことが彼も怖いのである。
自販機に辿り着き、小銭を入れてコーヒーを買う。ボタンを押した数秒後、ゴトンという大きな音とともに缶が落ちて来た。それを取り上げようとした瞬間、
「うっ!」
後ろから誰かに押さえられた。いったい誰だ、まさか桂か? 恐る恐る振り返る。
「静かに」
いいや、桂ではない。先程近藤と一緒に外に出た筈の岸田だった。岸田は仁科を連れて物陰に移動した。辺りをキョロキョロ確認してから、仁科を離して自分もひと息ついた。
「何だ? どうした? 近藤さんはよ?」
「静かに! 気づかれる」
気づかれるとは何なのだろう。
岸田が外を指差す。出入り口のドアはガラス張りだから、外の様子が見える。物陰に位置を変え、意識した途端、ソレがはっきりと見えるようになった。
中型犬2頭が何かを食べている。その下ではネズミ達も何かに齧りついている。
「あれは?」
「近藤さんです」
動物達が夢中になって食べているもの。それは、数時間前まで近藤だったものだ。
岸田の話によると、2人が準備をして外に出た瞬間、あの2頭が物陰から現れて跳び掛かって来たそうだ。持っていた道具で殴っても、彼等は痛みを感じていないのか、怯まず向かって来たという。岸田は早く中に逃げたのだが、近藤は犬達に捕まって助けられなかった。なので、取り敢えず鍵を閉めて隠れていたのだ。
あの犬もここの所有している個体だ。足にネズミと同じくプラスチック製の器具がついている。となると、もうここも安全ではなくなったということだ。中の動物達も感染している可能性がある。
「これから、どうします?」
「3人に知らせよう」
「はい。でも、まずは入り口を塞がないと」
確かに鍵だけでは頼りない。痛みを感じないのであれば、彼等は躊躇わずにあのドアを突き破ってくるだろう。
2人は同時に、ドアの脇に目をやった。あそこにはシャッターを下ろす装置が付いている。それで入り口の防御を固めるのだ。しかしあのドアでは、動けば犬達にもこちらの存在が知られてしまう。
やるしかない。2人は壁伝いに移動する。なるべく音を立てないよう、慎重に。幸い動物達は食事に夢中で2人に気づいていない。
「俺が押す」
先に先輩である仁科が装置に近づき、透明なふたを開けた。中に緑色のボタンがある。犬達の様子を窺いつつ、仁科はゆっくりとそのボタンを押し、すぐにその場から離れた。
シャッターが音を立てて降りてくる。この音に反応して犬達が吠え始めた。しかし、彼等が向かって来る前にシャッターが閉まり、ガラスが破られることはなかった。
「よ、よし。高田さん達の所に行こう」
「はい」
2人はおぼつかない足取りで、研究室へと向かった。
SIX−6−
事態は更に大きくなってゆく。
被害は東京だけでなく、関東、東日本、果ては日本全土にまで広がってしまった。都会では犬や猫、鳥等の動物が猛威を振るい、地方では熊や猿が山から下り、次々に人間に襲いかかった。
あの動物園でも、いよいよ人間達に限界が訪れようとしていた。
封鎖したドアが壊れてゆく。その前に無理矢理乗せて固めたベンチやゴミ箱のバリケードが揺れている。
機動隊が楯を構える。だが、皆心の底ではわかっていた。無駄なことであると。既に渋谷に向かった部隊は壊滅している。最後の1人が状況を説明してくれたが、今では誰とも連絡がとれない状態だ。
牧野や彼の部下は携帯で家族や友人に連絡をとっている。まだ電話に出る者もいるが、何度かけても留守番電話サービスに繫がる者もいる。後者の方が多かった。牧野の家族も、その後者に含まれていた。
「牧野さん」
「どうした」
「彼女が、彼女が出ません」
「そうか」
淡々とした答えに、後輩は驚いた。勝手に身体が動いて、牧野の顔面を殴ろうとしていた。が、それは直前で牧野に止められてしまった。
「悲しくないんですか? 何で普通にしていられるんですか! アンタおかしいよ!」
「うるせぇ!」
怒鳴られてようやく平静を取り戻した。自分が涙を流していたこともここでやっと気づいた。頭が熱い。
「気合い入れろよ」
「……はい」
若者には受け止めるのは辛かろう。しかし、自分達が砦にならなければ、犠牲者が、そして同じ思いをする者達が増えることとなる。
この刑事も決心したらしい。立ち上がってドアだけを見つめている。牧野もニッと笑みを浮かべて同じ方向を見た。
ガン、ガンという鉄を殴る音が大きくなる。ベンチが崩れ落ちる。奥に光る扉が、くの字に曲がってゆく。
「来るぞ」
男はただひと言、そう言った。彼の勘はよく当たる。今回も大当たりのようだ。近くにいた全員が目を瞑った。
牧野が言葉を発した、その数秒後、バリケードが破壊され、鉄屑と化したドアが音を立てて倒れた。内部と外とが繫がった。光を認識した動物達が、甲高い鳴き声を上げて飛び出して来た。機動隊が一斉に発砲する。頭部、或いは心臓に弾が直撃した動物はすぐに動きを止めた。だが、それ以外の部位に弾を受けても、彼等は何事も無かったかのように立ち上がり、人間達に飛びかかってくる。白目を向いたトラが警官の1人に飛びついた。鋭い牙が男の首をかき切った。トラだけでなく、大なり小なり様々な動物達が襲いかかってくる。
牧野も所持していた銃を発砲しようとするが、歳のせいか目が霞んで狙いを定めることが出来ない。そうこうしているうちに、2匹のヒョウが彼に噛み付いた。
「牧野さん!」
「ああっ、気にするなぁっ!」
獣の牙が彼の腕に深々と突き刺さり、貫通する。歯を伝って牧野の血液が流れ出る。刑事達がヒョウを退かそうと銃を乱射する。しかし2匹が離れることは無い。牧野も初めは痛々しい悲鳴を上げていたが、とうとうその気力も失われた。
続いて外からネズミの波が押し寄せて来た。空からは鳥の大群。もはや逃げ場は無い。
「くそっ」
獣達に取り付かれ、食事と化す人間達。アスファルトは間もなく赤い血に染まってしまった。
1度は決意したものの、ここにきて再び恐怖心が蘇った。後輩刑事は銃を捨てて走り出した。ネズミが何匹か足にくっついたが、そんなことは無視して、一心不乱に走った。
振り返って後ろを確認すると、メスのライオンやヒョウが追いかけてくるところだった。逃げ切る自信は無いが、兎に角走らなければ死んでしまう。
だが、ここで予期せぬ事態が発生した。前方から向かってくるネズミ達のせいで転んでしまったのだ。そうなれば肉食獣の餌になる前にまずネズミに身体を削られる。小さな猛獣達がいつも通り服の中に入り込んでくる。刑事は身体を転がしてネズミを潰す。しかしそれは、ますます彼等を刺激することになるのだ。
血の臭いに誘われて、別の場所から犬や猫もやって来た。皆白目を向いてよだれを垂らしている。
「おい、おい! どうするつもりだよ、おい!」
人間の言葉等通じる筈がない。背後からはライオンとチーターが追いつき、刑事の身体に爪を突き立てた。鋭い爪が肉に食い込み、引きちぎる。これまで体験したことの無い痛みが彼を襲った。
「やめろ! ああっ、やめろおっ!」
肉食獣が足に齧り付いた。肉だけが抉られて骨が剥き出しになる。
せめて、自分の身体が壊れるのは見ないでおこう。彼は意識がなくなるまでずっと、地面に顔を伏せて耐えていた。
仁科、そして逃げてきた岸田の報告を受けた峰達は衝撃を受けた。あの高田もいよいよ焦りの色を見せ始めた。
ひとまず作業を中断し、獣達の状態の確認、そして他の出入り口を塞ぐことになった。通用口は地下、非常口を含めて全部で6カ所ある。次の行動はひとまず安全を確保してから考えることにした。
「僕は動物の状態を確認してくる。感染の疑いがあれば隔離する」
「じゃあ、俺と峰で地下を閉めてきます。岸田と荻野は上を頼む」
犬とネズミが出現したことを考えると、上の階の方がまだ安全だ。危険な地下は上司である仁科と峰が行くのが良いだろう。
5人はすぐに動いた。まず峰と仁科が地下へ向かう。
「怖いか?」
「まぁね」
「悪いな、巻き込んじまって」
「それ、どういうこと?」
「地下に連れて来ちまったことだよ。俺も、怖いのかもな」
すぐに目的地に到着した。電気はまだ通っているから出入り口を探すのは容易だった。念のために外に何かいないかを確認してから閉鎖する。獣だけでなく、自分達以外の人間がいる可能性もあるからだ。
扉を閉めた後は各部屋の見回りも行う。中に潜んでいる動物がいればこの場で対処する。
1部屋1部屋、分担して見回りをする2人。峰はたった今閉めたドアの付近を調べている。
殆どが書類をしまってある部屋なのだが、その中に1つ、僅かに隙間の開いた部屋を見つけた。何かが潜んでいるかもしれない。隙間から中を覗き込む。が、気配はない。ゆっくりと引き戸を横に引くと、酷い異臭が峰の鼻を刺激した。
廊下の光が、暗い部屋の中を照らす。
中は書斎のようになっている。デスクと椅子、それから棚が幾つか置かれている。
「こんな部屋、あったっけ」
中に入ってみる。臭いは凄まじいが、室内は綺麗な状態を維持している。気になることと言えば、デスクの側に付着したシミぐらいか。デスクは椅子が壁側にくるように置かれている。
嫌な予感がする。足音を立てないように、デスクに近づく。そのとき、いきなり後ろから肩を掴まれた。驚いたとき程さほど悲鳴は上がらないものだ。素早く振り返って相手を見ると、
「あ、ごめん」
仁科だった。ひと通りチェックを済ませて峰を連れに来たのだ。
「ここ、何?」
彼もこの部屋は初めて見たらしい。6年も勤務しているのに、今まで何故気づかなかったのだろう。
「わからない」
「ふぅん。ま、普段俺達は実験室の中だからな……」
フラフラと歩き回る仁科。だが途中でデスクの中を見て飛び跳ねた。何があったのかと峰も確認しようとするが、仁科が慌ててそれを止めようとする。静止を振り切ってデスクの裏側にまわると、
「嘘、何これ?」
本来椅子を仕舞うべき所に、何かが押し込まれている。
シミの原因がわかった。あれは、この遺体から流れた血液だったのだ。
「こいつ、桂じゃないか?」
「えっ?」
遺体はまだ腐敗が進んでおらず、顔も綺麗な状態だった。そのためこの遺体が、連絡が取れなかった桂その人だと断定することが出来た。実験室に顔を出せるわけがない。彼は死んでいたのだから。
体育座りをするようにして押し込まれている桂。峰は遺体に歩み寄って、手や頬に触れた。希望のある職員だった。まだ若かったのに、その最期がこんな有様とはあんまりだ。
遺体の確認をしている途中、桂の尻の位置に何かがあることを発見した。尖った1部分が見える。それを掴んで引っ張ってみると、A4サイズの大学ノートが姿を現した。タイトルは書かれていないが、随分年季がはいっている。
「それは?」
「桂君が座布団にしてた」
ぱらぱらとページを捲る。
そこに書かれていたのは、ある人物の思いと、その人物が考えた恐ろしい計画だった。動物が殺処分された時の記録も印刷され、丁寧に貼られている。
青いペンで書かれた文字を懸命に目で追う。一連の事件の概要が、ここで漸く明らかになった。
幼い頃から、動物が大好きだった。でも、人間は好きにはなれなかった。
人間は動物達を簡単に殺し、土地を奪い、権力者の如く振る舞っている。
本物の権力者は人間ではない。太古よりこの地に住んでいる動物達だ。人間はそのことをわかっていない。
僕がノアになる。
僕が彼等に、再びこの地を取り戻すチャンスを与える。
誤った方向に進んでしまったこの世界を、正しい方向へ導くのだ。
「行くよ」
「え? どこに?」
「全部わかった。今回のこと、全部」
そう言うと、峰は仁科を置いてスタスタと歩き出した。わけがわからなかったが彼も慌てて彼女のあとを追った。
SEVEN−7−
階段を上がった2人。峰は何かに呼び寄せられるかのようにスタスタとある部屋へと歩を進める。
「おい、どこに行くんだよ?」
「黙って」
目的地は、マウスを飼育、管理していた部屋だ。そこの扉を勢いよく開ける。
「えっ」
2人が最初に目撃したのは、マウスを掴んで注射器を押し付けている高田の姿だった。
「高田さん。ウイルスを生み出して拡散したのは、あなたですね」
「は? どういうことだよ? 説明してくれよ!」
うるさい仁科に、峰があのノートを手渡した。
「ここに書いてありました。あなたがどんなことを考えていたか、何をしたか」
眉間に皺を寄せて峰を睨みつける高田。隠すつもりは無いらしい。
「桂君を殺したのも、あなたですよね?」
「嘘だろ、これ……」
ノートの内容を見て、仁科もやっと高田の計画を知った。
この中に記されていたのは、日記、彼が生み出したウイルスの説明、それからウイルスを拡散するための方法だった。マウス数匹にウイルスを注入して、研究室の外へ逃がす。最近マウスの量が減っていたのはこのためだった。
それなら、事態が悪化した後も彼が冷静でいられた理由もわかる。彼は元からウイルスを殺そうとは考えていない。人を大量に殺すことが目的だったのだ。
マウスと注射器を持ったまま、高田が話し始めた。
「人間は、調子に乗りすぎたんだ」
そして、注射器に入った黄緑色の液体をゆっくりとマウスの血中に注入する。マウスはじたばたしている。
「人間は、世界を彼等に返さなければならない。この世界は、彼等のためにあるべきなんだ」
「それが、こんな事件を起こした理由ですか」
「僕は彼等の手助けをしたんだ」
「手助け?」
「人間を殺す手助けさ」
ノートに書かれた情報によれば、ウイルスを打ち込まれた動物は思考能力が低下し、代わりに生命力が高まる。しかしウイルスは血液が無ければ意味がないため、動物は血液を求めて狩りを始める。血液が手に入れば良いため、人間だけでなく他の生物も平等に襲うとされている。
「人間にも感染はする。でも、人間は凶暴化する前に食われて死んでしまう。安心してくれ。凶暴化する前に死ねる」
「狂ってるよ、アンタ」
「人間だからね、僕も」
暴れるマウスが、高田の指先を噛んだ。流れ出る血を夢中になって吸っている。
「後悔してないんですか?」
「ああ、僕も死ぬつもりだ。人間だからね」
「そうではありません。動物に、あんな苦しい思いをさせることに後悔は無いのかと聞いているんです」
思考能力が下がるために臓器の機能が弱まり、外部から血を供給しなければ死んでしまう運命。高田はそんな無惨な運命を動物達に押し付けたのだ。
「君も、桂君と一緒だな」
「桂君もそう言ってましたか」
「ああ。だから殺したんだ」
「この野郎……この野郎!」
「仁科君!」
飛びかかろうとする仁科を峰が止める。感染したマウスを持っている高田に近づいたら、彼もマウスに噛まれてしまうかもしれない。
「他の2人は? 岸田君と荻野さんは?」
「遅かったね。屋上に行ったのを見計らって、扉を閉めて来てあげたよ」
今頃は、感染した鳥達の餌食になっていることだろう。
残りは2人。峰は目を覆った。
「ネズミは色々な所に入り込む。地下は勿論、船にもね。全世界に広がるのは時間の問題だよ」
注射器を、今度はメスに持ち替えた。峰と仁科を道連れに、自分も死ぬつもりなのだ。
「あのとき、君も近藤君と一緒に外に出れば良かったのに」
このひと言で、先程研究所の外に犬とネズミを放ったのも彼であることが判明した。本来なら既に峰は死んでいる筈だったが、近藤が岸田を選んだために予定が狂ってしまった。
「君達が何をやっても、ウイルスは止められないよ」
「止める」
峰は断言した。隣に立つ仁科も真っすぐ高田を見つめている。その目には迷いが無い。
「絶対に止める」
「……そうか。じゃあ」
メスを構え、2人に歩み寄る高田。2人は彼と距離を置く。刺されることも避けたいが、何よりも彼がまだ手に持っているマウスが危険だ。
高田がメスを持ち替え、強く握りしめた。殺される。先に刺されるのは自分か、それとも仁科か。強気の言葉を言っても、やはり死ぬのは怖い。峰は強く目を瞑った。
ところが、高田はしっかりと握りしめたメスを、2人ではなく自分の胸に突き刺したのだ。
「高田さん!」
メスを自ら引き抜き、その場に座る。傷口から一気に血が噴き出す。マウスはそちらの方に気が向いて、どうにかして血を飲もうともがいている。
「む、無理なんだよ、止める、なんて……」
最期にそう言うと、高田はゆっくりとその場に倒れた。マウスは彼の身体に押し潰されてしまった。これではいくら生命力が高くなったとは言えもう動けまい。
「高田さん? 高田さん! 高田さん!」
「よせ。もう死んでるよ」
「ずるいわよ! 1人だけこんな楽な死にかたして! 高田さん! ねぇ、高田さん!」
2人だけになった研究室。
峰はしばらくの間、高田の遺体を揺さぶって叫んでいた。
EPILOGUE−エピローグ−
峰君。
僕は、君のことを買っていたんだ。
君には充分な知識と熱意がある。科学者として申し分無い。それに人柄も良い。もしこの計画を立てていなかったら、僕は君を次のトップに選んでいただろう。
だから、君が目の前で死んでゆくのは見たくなかった。あのとき近藤と一緒に行くように薦めたのも、目の前で動物達に食われるか、或いは私に殺される君を見たくなかったからだ。先に別の場所で死んでくれれば、僕の良心は苦しまずに済む。
何度も言うが、ウイルスは止められない。止めたとしても、もう手遅れだ。
せいぜい見守っているよ、君がどこまで頑張れるか。
あれからどれだけの時が経っただろう。
高田の言った通り、ウイルスは全世界に蔓延した。
日本では山に住んでいた熊や猿も感染、凶暴化し、山を下りて次々に人間を襲った。更に船に侵入したマウスが他国に移動、最初は隣国の中国等で事件が発生し、その後すぐに全国に広がった。
たった数匹のマウスが持ったウイルスが全域に広がってしまった。もう生きている人間も当初の人口の半分を切っただろう。
峰と仁科はまだあの研究所に残っていた。食料も限られているためここに居られる期限も必然的に制限されてしまう。その期間内に、2人はどうにかしてウイルスを殺す方法を探すつもりである。自分達がやらねば、被害はさらに深刻なものになる。無駄なことかもしれないが、それでも、少しでも生きている者がいるのなら、彼等を救い出さなければならない。
空を狂った鳥が覆い、血を求める獣達が地上を、地下を徘徊する。
そんな世界の中で、2人は研究を続けている。
いつか必ず、平和な日が戻ることを信じて。
ANIMA−アニマ−