ひとりぐらし―二、美僧の幽霊少年
死にながら生きていると美僧の少年が言う
職場の昼休憩の時間に、何気なしにニュースを見て居た。七月某日の正午十二時頃。
私はコンビニで買った惣菜パンに齧りつきながら、通り魔のニュースを見ている。
「最近、通り魔の話、多くないですか」
この図書館のサブチーフと呼ばれる人が謂う。
「自分が死んだって分らないわよね、突然刺されて死んだら。だから、幽霊の存在ってなんとなく信じるわ。私も、こうやって突然刺されて死んだら、死んだことも自覚出来ないまま、幽霊になるんだろうなあって思う」
チーフと呼ばれる人が、私の目を真直ぐ見て呟いた。私は特に返す言葉が浮かばないまま、頷いた。彼女の言っていることは、十分理解できるし、そう思ったことが、過去にもあったから、私は頷いた。
私は学生の時分から、メルヘンチックな物語を創作するのが好きだった。現実と全く乖離することなく、現実の何処かにひっそりと現れる怪異を愛した。そこに、ある寺の少年が登場する。彼は自らを「死にながら生きている」とのたまう。
―はたして、“死”というものを理解して死ぬ者はどれくらいいるだろう。私は思うのだ、人は自我以外の第二者と第三者が判断し、決断し、共通認識して社会的に死ぬのだ。本人が決めるものではないのだ。では、本人が生きていると思っていて、しかし第二者・第三者に共通認識=社会的に死んだとされた者が、“死んだ”とされた後に認知されたら何と呼ばれるか―幽霊だ。残念ながら、私は第二者と第三者に″死んだ″と認知されている。
しかし、私はこうして君に認知され、自我を自覚し、存在している。私は死んでいるのだが、生きている。もう自分で死ぬ覚悟はないのだ。だから死にながら生きている―
人の寿命は長いと思う。今や女性は九十年生きることはそれほど難しいことではない。
それだけ長い間、死のことを考え、そして生きる。私は幼いころから、“自分が死ぬ瞬間”
というのを妄想していた。突然終わるその時。
人は、自分が死ぬ時を悟るというが、それは本当なのだろうか。自分の体が機能しなくなり、脳が停止し、自我が消える。ただそれだけの、“死”。体が機能している、脳が動いている、自我がある、それだけの″生″。
医師が、家族が、社会が、私を「死んだ」と言って瞬間、私は消える。
もう何年経ったのだろう。祖父が他界して、三年以上経ったろうか。他県に住んでいた私は、しばらく祖父と会うことの無い日々を過ごしていたので、祖父が死んで、またA県へ戻ってからは、実は他界する前とそう変わらない感覚でいる。高校生の頃より、同じ家にいながら、ほとんど祖父との接点が無かったことに気付いた。だから、祖父が死んだ、その瞬間。機械の心音が止まり、医者がそう告げた瞬間も、「そうか、祖父は死んだのか」その事実だけが認識され、その後、A県に戻れば、前と変わらぬ、祖父に会わぬ日々と、何の変わりもなかった。二度と会えない―ときどき胸を締め付ける悲しみもあるが、それは幼き頃の記憶と、後悔の念である。地元に戻る機会も減っているし、祖父に会えない日々が継続しているだけ。そんな気でいる。
人の生死は、もしかしたら自我の中にはないのかもしれない。それは、第二者・第三者だけが持っているものなのかもしれない。そう思うのだ。
「と、思うのは、一人で生きていると錯覚しているひとりぐらしの勘違いかもしれないよ」
幽霊の少年が、儚げな笑みを浮かべて言う。
あくまで、世間知らずと言われる私の独りよがりな妄想である。
その答えは、自分が死んだときに分るというものだ。
ひとりぐらし―二、美僧の幽霊少年