青の筆跡
プロローグ
なにもかもがなくなったとき、光だけがあった。
なにもせず、ただあった。
近所の本屋
本屋を入って、レジとは真反対の場所に行く。
子供の専用スペースの近くにある、絵本コーナー。
色とりどりの絵本がある中にある、青く綺麗な空の絵が描かれた絵本。
【にいみ ちさ】
この絵本は、彼女の遺作だ。
それを知っているのはきっとごく僅かで、少なくともこの絵本を買った人は調べでもしない限りわからないだろう。
僕はその絵本を手に取って、レジに向かう。
こうして彼女の絵本を買うのは初めてだ。
いつもは彼女が描いているのを横から見るか、彼女から見せてくれたから買う必要はなかったのだ。
けれど、この絵本だけは見たことがなかった。
この絵本を知ったのは、彼女の担当からの電話だった。
「ちささんの絵本を発売しました」
実はこの電話をもらったのは一ヶ月前で、僕はすぐに買いにいくことができなかった。
彼女が死ぬということはわかっていた。
人間はいつか死ぬもので、そんなことわかっていた。
彼女の余命もわかっていた。
けれど、彼女が死んだと聞かされたとき、自分が覚悟できていなかったのを知った。
「1200円でございます」
少し厚みのある絵本はやはり少し値段が高かった。
財布から1200円出して、物を受け取りレシートをもらって外に出る。
寒空を見て、雪が降りそうだと思う。
ここ最近そんな空が続いていて、暖かさがない季節が僕は好きではなくなっていた。
帰りの電車
絵本は鞄に入れて、人の少ないホームで電車を待つ。
絵本を買うために会社を早退してきたため、いつもよりホームは殺風景だ。
溢れ返る人にため息を吐くこともない。
鞄の中に入っている絵本に意識がいく。
まるで彼女がいるようで、もどかしい。
電車が来て、乗る。
久しぶりに電車の椅子に座り、辺りを見回す。
親子に老人に学生。
親子を久しぶりに見た気がして、自分が無意識に避けていたのかもしれないと思った。
「ママ」
少年の口から紡がれるのは幼稚園での出来事。
女の子が、先生が、友達が。
無邪気な笑顔に僕の心は抉られる。
彼女がいなくなってから、僕はなにもかもをひねくれて捉えるようになってしまったようだ。
「あのね、絵本を読んだよ」
「なんて絵本?」
「うそつきディエラって絵本!」
少年が嬉しそうにそう言った絵本は、彼女の二作目の絵本だった。
ディエラという少女が嘘で人を幸せにする話しだ。
現実離れしている、と言った僕に彼女は「絵本は現実じゃないんだよ」と笑顔で言った。
彼女はよく「絵本は夢と未来を与えるものなんだよ」と言っていた。
そう言う彼女はいつも幸せそうだった。
楽しそうに絵本の内容を必死に母親に伝える少年を見て、泣きそうになった。
彼女のこと
彼女こと、にいみちさと僕は恋人同士な訳ではない。
最初の出会いは高校でだった。
たまたま出席番号でにいみ、にいがたで席が前後のこともあり少しばかり話す間柄だった。
特別仲が良いわけでもない。
お互い目立つような存在でもなく、ただゆったりと学校生活を過ごしていて、同類のようなものだった。
廊下ですれ違えばなんとなく目が合い、朝会えば挨拶を交わす程度だった。
そしてお互い卒業してそれぞれの道へと進んだ。
僕は彼女が大学に行ったのかさえも知らなかった。
そして再会したのは大学四年生の時だった。
再会、というのは少し違うかもしれない。
僕から会いに行った。
たまたま高校の仲が良かった奴と遊んだときに、彼女の話題が出て来たのだ。
「にいみさ、入院してるらしいよ」
いつも健康そうで元気そうな彼女が入院したと聞いて、あの頃の記憶がぼぅと蘇ってきたのだ。
そして気になってしまい、病院の名前まで聞き出して、僕は彼女のお見舞いに行った。
彼女は相当驚いていた。
それはもう口をあんぐり開けるくらいに。
彼女はあまり変わっていなくて、けれど痩せこけていた。
「にいがたくん」と呼ぶ声も少し掠れている気がして、胸が締め付けられたのを覚えている。
僕が会いに行ったその日、彼女は絵本大賞に応募してその結果が来た日だった。
両親も来れなくて一人で封を開けるのが怖かったから、僕が来てくれて嬉しかったと言っていた。
彼女が封を開けるのをとても躊躇っていて緊張しているから、その緊張が僕にまで伝わって来て手に汗握っていた。
彼女が絵本作家を目指すきっかけもなにも知らないのに。
彼女がゆっくり封を開ける。
中の紙には「絵本大賞おめでとうございます」と書かれていた。
二人でとても喜んだのを今でも鮮明に思い出せる。
それから僕はちょくちょく彼女に会いに行った。
両親にも挨拶して、恋人と勘違いされお互い否定したのも覚えている。
彼女の絵本の原画を見ては、窓に照らしてみて「いいね」なんて話して。
花束を花瓶に入れては彼女がそれを模写して。
あの頃のようにゆったりとした時間が流れていた。
僕は彼女と恋人同士ではなかった。
けれど、僕は彼女が好きだった。
絵本
家に帰ると誰もいなかった。
それは当たり前なのだけれど、今日だけは少し寂しく感じた。
ネクタイを緩めて、ソファに座る。
何度か深呼吸をしてから絵本を出した。
【そらのいろ にいみちさ】
一枚めくってみる。
この絵本は基本的に白黒だ。
読み始めは、色がない世界でそれになんの疑問も持たずにみんなが生きている。
それを疑問に思った少年が、少しいやがる幼なじみを引き連れて色を取り戻す話しだ。
山を越え谷を越え、二人は少しずつ瓶の中に色を取り戻していく。
最初はいやがっていた少女も次第に色に魅せられ、そして二人は色を取り戻した。
けれど、青色だけ見つからず路頭に迷う。
青色はどんな色なのかわからずに、二人は探すがやはり見つからない。
仕方なく村へ帰り、二人は瓶に閉じ込めた色をぼんやりと見ていた。
すると少年は色々な色が混じり合っている部分がかすかに違う色なことを知る。
少年は瓶の蓋を開けた。
色は様々な場所に飛び、そして全ての色が混じり合い、空が青色になり、世界は色とりどりになった。
そして最後のページでは少年と少女が手をつなぎ、真っ青の空にとけ込んでいた。
彼女の遺作は、あまりにも彼女らしいと思った。
そして自分が泣いているということに気づいた。
絵本を撫でてみる。
すると背表紙の裏側が少しぼこぼことしているのに気づいた。
絵本のカバーをめくり。背表紙を見る。
【未来と夢へ、あなたが向かっていけますように願っています】
ぼたぼたとその字に涙が滲む。
あぁ、彼女は気づいていたのかもしれない。
僕が彼女に恋情を抱いていたと。
けれど、お互い気づかぬ振りをしていたのだ。
彼女は死ぬから、死んだから。
絵本を抱きしめる。
嗚咽が止まらず、僕は泣きわめいた。
エピローグ
「空が青いのってなんでかな」
「海の色を反射してるんだよ」
「にいがたくん夢がある言い方するね」
「そんなことをどこかで聞いたんだよ」
「私より絵本作家に向いてるかも」
「にいみの方がいつも詩的なこと言ってるぞ」
「そうかなぁ」
「そうそう」
「じゃあ私、いつか海と空が交わってる場所に行きたい」
「僕が連れてくよ」
「本当?」
「本当」
「約束だからね」
「うん、約束」
青の筆跡