転生

愛を知らない僕は、醜い犬の子となって生まれ変わった

  

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 久しぶりの休日だった。
 僕は当然のように、その日もバイクにまたがった。
 キーを捻りセルスイッチを押しこむと、唸りを持った重低音と共に1000ccのエンジンがひと月ぶりに息を吹き返した。
 高熱の気体がヨシムラのカスタムマフラーの細い排気口から勢いよく噴射されるのを感じ、僕の心は高まった。

 特に予定などなかった。ただ、このマシーンと一体であることのみが僕の心を解放してくれるんだ。スロットルを捻り、風を切り裂き、その肉体を地球の重圧から解き放ってくれる、その時間こそが僕にとって掛け替えのないひと時だった。

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 清々しいほどの晴天だった。秋空の鋭い日射がヘルメットのスクリーンに反射し、僕は輝きの中に存在していた。気持ちのいい空気が僕の心を癒してくれる。

 今日という日がうれしかった。
 高速を降りると、僕の常連としているあのワインデングロードに向かった。
 そこは僕のお気に入りだった。あの複雑に曲がりくねった山道は、もはや僕の脳内に完全な立体造形として刻まれていた。

 次々に、もはや捉えることさえ困難なほどのスピードで先の見えないコーナーが僕の行く手には待ち受けている。
 僕の肉体は、その鋭くとがった神経は、そんな難易度などまったく感じさせることなく、確実に、正確に、完全に、僕を、僕のマシーンを誘導し、もの凄い速さを絶やすことなくそのカーブを駆け抜けていった。
 沸き立つ血を、燃える思いを、僕は実感した。僕の瞳は、肉体は、もはや一心に、究極に、その道に、そのマシーンに集中していた。

 風が体を圧迫した。重力が、遠心力が、迫りくる路面のアスファルトが、僕の心を高揚させる。身体が何度も反転しマシーンが幾度も向きを変え、タイヤのグリップが、そこに生み出される力強いトラクションが、その瞬間の僕を魅了して止まなかった。

 だが、まさに、そんな最中だった!
 ほんの僅かな狂いが、極めて微小な判断ミスが、何もかもを吹き飛ばした。

 「イカン!」

 その叫びと共に一瞬にして、それまでの究極の安定は、その力のすべてをまったくの逆方向へと吐き出していった。
 マシーンはもはやどうにもならないエネルギーによって、まるでそこへと向かって吸い込まれるように路面を激しく擦りながらまっすぐに走っていった。

 ガードレールに激突した。
 激しい痛みを全身に感じた。
 だがそれでもなお、一度吐き出された力は僕の願いなど非情なまでに否定して、僕の体を、愛車を、さらに外界へと投げ出していった!
 骨格が砕け散るさまを想像した。肉が引き裂かれる音がした。もはや空中を舞う僕の肉体に生き残る力の無いことを悟った。

 いつかこうなる日が来ることなど、当然のように知っていた。
 いや、きっと、僕はその時を待っていたに違いない。

 だから、だったんだ!
 そうだったんだ!
 だから今日も、そしてこれまでも、日々この道を、この峠を、僕は走っていたんだ。

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 気づくと僕は深い霧の中にいた。
 彼らがいた。
 彼らは皆、僕と同様のように思えた。
 暖かくも寒くもない、そんな得体のしれない空間だった。

 僕もまたその列に並んだ。何も命じられることはない。
 ただ、そうした。
 ただ、そうする他に僕の心は何もなかった。
 そうして進んだ。
 歩った。

 ゆっくりと、ただたんたんと、でも何も変わらない。
 何の変哲もない、時間の過ぎない時がゆっくりと過ぎて行った。
 僕は次第にそこへ近づいた。

 新雪のごとくやわらかな、しかし何の感触もない白綿のような階段を、一歩一歩、確実に、しかし何の実感もなく、僕はそこを昇って行った。
 そしてついに、僕はその存在の目前に立たされた。

 彼は問うた。
 僕に言った。

 僕は答えた。
 彼に言った。

 だが、どうしてか、彼はその僕の答えに頷かなかった。首を横に振った。
 ただ黙ってそうした。

 そうなんだ。
 彼は、すべてを知っている。

 そうなんだ。
 僕は、やはり事故で死んだのでなどでは、決してなかったんだ。

 僕は生きる意味を失っていた。さらに以前に失っていた。
 最後の望みだったあの人に見捨てられてから、僕は、なにも、なんの生きる力を持たなかった。
 すべてが空虚だった。
 あの人は、なぜ、どうしてそうしたのか。僕には結局知らされないままだった。

 日々疑問だった。
 判らなかった。
 なぜ自分が自分であるのかさえ、何も知らなかった。
 何も知らされることがなかった。

 僕は、ただ心を縛られ己を殺し、ただ命がそこにあったにすぎなかった。
 ただ、それだけの日々だった。
 ただ、耐えるだけの日々だった。

 死にたかったのです。

 死ねなかったのです。

 ただ、それだけの日々であった。

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 僕は再び地上へと落とされた。再び生きることを命じられた。
 よほど残酷な刑罰だった。無情な仕打ちだった。最も望まないことを、最大の苦痛を、僕に命じたに違いなかった。

 ああ、なんと天とは人の心を踏みにじる存在なのだろう。
 あり得ない、あり得ようがない。なぜなのだ!なぜそうするのだ!
 僕は呪った。憎んだ。悔しさの中に没した。

 僕は、無知脳な獣の子となって産みだされた。薄汚い野良犬の子だった。
 出現した日には、もはやその存在を否定されていると感じた。

 あまりにも非情だ。
 なぜなんだ?
 僕は疑問を深くした。

 「生きる日々を、苦悩と孤独しか与えられなかった、こんな僕のような人間が、なぜ、どうして、このような仕打ちを受けなければならないのか?」
 「家族の愛の中に居て、ただただ愛され、ただただ甘えて、ひたすらに己の幸せだけに慢心して生きたような、そんな幸福な一生を過ごし寿命を全うした、そんな者たちだけが、なぜ救われなくてはならないのか?」

 僕にはまったく理解できなかった。
 信じられなかった。

 薄汚く醜い雑種の犬の子となった僕は、ただ冷たい雨の中を歩いた。他の兄弟たちは皆、やはり死んだ。生を受けてすぐに帰っていった。
 だが僕にはそれが許されなかった。
 もはやこの醜さを背負って、ただ孤独に、ただ日々廃物をむさぼって生きるしかなかった。
 そう思った。

 次第に雨は雪に変わった。
 降りしきる雪の中で僕は凍えた。そして逃げるようにそこへ向かった。
 ゴミ袋の無造作に積まれたその場所しかなかった。その中に身を埋めるしかなかった。次第に体の震えは収まって、僕は深い眠りについた。

 チラチラと白い雪が、ただ周囲を飾るように積もっていった。
 もはやこのまま死ぬのだと思った。ようやく死ねるのだと思った。

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 ふと、目覚めた。
 柔らかな、暖かな、未だかつてない、そんな不思議な感触の中に僕はいた。

 力なく首を上げた。ゆっくりと上を見た。顔があった。
 やさしい微笑みがこの薄汚い僕を見つめていた。

 愛情が、慈しみが、そこにはあった。まだ幼さないそんな彼女の小さな胸の中に僕の体は包まれていた。
 少女は僕の目覚めを喜んでくれた。本当に可愛らしい笑顔だった。好きだったあの人にどこか似ていた。
 僕は少女の家へ連れて行かれた。

 だが何の期待も抱いてはいてはいなかった。そう思えばただ苦しみが増えるだけと思っていた。そう思う力だけを鍛えてきていた。
 だが、それは大きな間違えだった。

 僕は驚いた。
 彼女の家族には何の躊躇いもなかった。ただ一心に、これほど醜く薄汚れた汚れに満ちたこの僕を微笑みの中に迎えてくれた。
 その日から僕は、「ラブ」と呼ばれた。
 日々ことあるごとにそう呼ばれた。その声はいつも僕を幸せにした。尻尾を力いっぱい振っていた。嘘みたいに僕は甘えた。愛を求めた。

 毎日が暖かさの中にあって、そこには何の躊躇いも恐れもなかった。
 そんな僕を彼女は愛してくれた。
 「かわいい、かわいい」と言って僕を撫でた。こんなに醜い僕を少女だけは許してくれた。抱いてくれた。包んでくれた。

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 僕は一日の大半を狭いゲージの中で過ごした。そこで、ただ彼女の帰りだけを待っていた。ただそれしかできない日々だった。
 けれど、その中には幸福しかなかった。孤独など微塵もなかった。寂しかったけれど辛くなどなかった。全然なかった。

 愛があった。幸福を何の疑いもなく信じていられた。彼女は僕を不安の中には思わないのだから。だから僕も疑問などまったく不要だった。
 だから、それだけで僕は他に何もいらなかったんだ。
 心の底から幸せだった。

 僕は、ただのペットだった。彼女の恋人でも夫婦でもなかった。だけど僕はそれ以上に幸せだった。
 彼女は嬉しい時には、その細く可憐な両手で僕をいっぱいに持ち上げて笑った。
 また悲しい時は、この貧弱な僕に抱きつきキツく両手で締め付けながら、いっぱいに涙を流してその全ての辛さを分けてくれた。

 僕の前に居る彼女にはなんの飾りもなかった。装飾など不要だった。なんの躊躇も、なんの遠慮もいらなかった。
 だから、僕の前では本当の自分がそこにはあったんだ。
 そんな僕はこの世の誰よりも幸福だった。
 愛されていた。愛を実感できた。

 人である時にはなんら掴み取ることのできなかった本当の幸せが、そこには確実に存在していた。

 そうなんだ!

 僕の存在が、彼女にとって「本当の伴侶」であることに気づいた。

                (6)
 時はあっという間に流れて行った。
 あの日からすでに十年以上が過ぎ去っていた。

 僕の肉体は寿命を迎えた。
 彼女の暖かな腕に抱かれたまま、僕は息をやめた。
 魂が静かにそこから離れて行った。

 皆の涙があった。
 愛しい人の涙があった。
 僕はその暖かな涙に見送られ、そこを去っていった。
 汚れを洗い落とされた小さな魂が天へと向かっていった。

 そこで僕はようやく知った。
 天の心を、知った。
 あの日の審判の意味を、知った。

 そうだったんだ。
 そうだったんだ。
 あのままではダメだったんだ。
 あのまま死んでしまってはいけなかったんだ。

 だからだったんだ。

 ああ、神よ!
 あなたは、なんと偉大なんだ!

 僕は感涙の中に包まれて、緩やかに空へと昇って行った。

転生

ずっと大昔、失恋した時に浮かんだ話です。・・・苦笑

転生

突然のバイク事故で死んだ俺。・・・しかし神は、そんな絶望しかなかった惨めな男を、天国に連れては行かなかった。そして非情にも、醜く薄汚い犬の子として、この地上へと転生させた。 愛を知らない男の静かな物語です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-05

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