手放せない恋情

 過去をいくら振り返っても、見える物に触れる事はできません。

 三回目の六月二十四日は、雨だった。
 思い起こせば、夏輝は雨が好きだと言っていた。理由は覚えていない。聞いたはずなのに、忘れてしまった。
 休日なだけあって、人通りはそれなりにあった。誰もが傘を差し、各々の目的を果たすために歩いている。俺も、紺色の傘を差して歩いてはいるが、目的なんてない。全財産をズボンのポケットに押し込んで、意味も宛もなくただ足を動かしていた。
 雨のせいか、物の色がくすんで見える。「どんよりとした空気」を、実によく表現している光景だ。対照的に、耳が受け取る情報は随分と賑やかだった。雨の音、足音、水たまりを踏む音、人々が話す音、電車の音、車の通る音、水を跳ね飛ばす音、信号の音、店が流す音、傘を開く音、閉じる音……あげていてはキリがない。音はこの辺り一帯の空間を埋め尽くし、耳を塞ぎたい衝動を起こさせる。その衝動は放っておくと、ある種の暴力的な――例えば、今この手にある傘で何かを殴りつけたい、というような衝動へと昇華する。
 衝動の進化は俺だけに起こる現象らしく、周囲の他人は何食わぬ顔でこの街を闊歩している。当たり前だ。三年前の今日から、俺には黒く重い何かが、蜘蛛の糸のように絡み付いている。振り払ってしまいたいが、どうしてもできない。むしろ、そんなことをしてはいけないと思う気持ちもある。纏わりついてくるこれのせいで、こんなにも俺は冴えない気分でいるんだ。この気分を他の誰かも感じているとは、俺には思えない。だって皆、見るからに幸せそうな顔をしているじゃないか。
 灰色の景色は淡々としていた。古本屋とか、漫画喫茶とか、雑貨店とかが横を通り過ぎていくが、心に引っかかる物は何もない。歩道と車道の隙間に生える雑草は、雨に負けてしおれていた。夏輝はどうして、こんな天気が好きだったんだろう。……やっぱり、思い出せない。悶々と、平面的にも見える街を行く。
 夏輝が好きだった喫茶店を見つけたのは、雑貨店の前を通ってから十分後のことだった。往来の中、俺は足を止めた。そして、今までフラフラと何も考えずに歩いてきた道は、いつも夏輝と二人で歩いていた場所だったことに気づいた。あの灰色の景色は、色鮮やかになれば、かつて夏輝と一緒に見ていた景色だったんだ。
 財布の中身を確認した。千円札一枚と、小銭が三百円強。コーヒー一杯くらいなら大丈夫だろう。俺は特に喉が渇いているわけでもないのに、喫茶店に入ることを決めた。
 店内は静かだった。落ち着いたジャズが流れている代わりに、外の音がかなり遮断されている。落ち着いた茶色で統一された内装は、冷淡な灰色と違って暖かい。客も、俺の他にはサラリーマンと男女二人組しかいなかった。
 俺は窓から外が見える席に座り、一通りメニューに目を通した。一番安いコーヒー以外を頼むつもりはないが、この三年の間に新しいメニューが出来ていないかは気になる。だが、目新しい物は見つからなかった。…そうか、当たり前だ。俺はそもそも三年前のメニューを覚えていない。
 目新しい物の代わりに見つけたのは、キャラメルマキアートだった。夏輝はこの店のキャラメルマキアートが好きで、ここに来たら必ずそれを注文していた。一度飲ませてもらったことがあるが、それは俺の知っているキャラメルマキアートよりもずっと甘くて、甘党でない俺はもう一度飲もうとは思わなかった。あの味は、もう記憶にない。今、それを頼んであの味を思い出すのもいいかもしれないが、それには少々金が足りない。結局俺は、コーヒーを一杯だけウエイトレスに頼んだ。
 暇つぶしをするまでもなく、コーヒーはすぐに俺の前に現れた。白いカップに入った黒い液体は、白い湯気を上げていた。一口飲むと、纏わりつくような苦みが舌に絡み付いて、憂鬱な気分がより深まったような気がした。苦いのは好きなはずなのに。ミルクとシロップを入れようかと思ったが、その前にコーヒーに映った物に目を奪われた。俺のやつれた顔が揺らめいている。今の俺は、こんな不幸そうな顔をしているのか。このまま俺そのものが、黒の中に吸い込まれてしまいそうな心地がした。
 この黒く苦い液体は、俺に例の黒く重い何かを思い出させた。何か、と呼んではいるが、正体の見当は付いている。恐らくは夏輝だろう。それは夏輝が黒くて重いというわけではなく、「三年前まで夏輝と付き合っていた」という事実が、重いんだ。俺は三年間、ずっとこの事実に縛られ続けている。夏輝がもう俺の隣にいないという現実を受け入れられずに、楽しかったあの頃を回顧してばかりだ。夏輝は最後に、自分のことなんて忘れて、他の誰かを同じように愛してあげて、と言っていた。残酷な言葉だ。そうやって簡単に忘れられるはずがない、それくらい夏輝だってわかってたはずだ。それとも、俺が普通よりも未練がましい男なのか。だとしたら、俺は何と女々しい男なんだ。夏輝が今の俺を見たらどう思うだろうか。元々頼りなかった俺がこうなってしまっているんだ。きっと呆れて、失望することだろう。
 こうしてコーヒーの中の俺とにらめっこしても何にもならない。不毛さに気づいた俺は、コーヒーから顔を上げて窓の外の幸せな他人を睨んだ。どうせ彼らには、俺みたいな奴なんて視界にも入らないだろう。投げやりに、はぁと溜息を吐いたちょうどその時、往来の中で傘も差さずに佇む人物を見つけた。
 どうして見紛うことがあろうか。その姿はまさしく、夏輝の物だった。
 何よりもまず、自分の目を疑った。とうとう頭がいかれてしまったのか?ああ、そうに違いない。だって夏輝がこんな所にいるはずがない。こんな物、俺の頭が勝手に作り出した幻覚だ。
 最初のうちは、そう考えられる程度には冷静だった。そりゃあ、夏輝がここに帰ってくるのならこれ以上の幸せはない。だが幻覚に依り縋って生きていても、残るのは虚しさだけだ。俺は目を瞑り、顔面を手で擦った。そして目を開け、再び視界が明るくなり――夏輝は、いた。
 ……どういうことだ?あり得ないが、夏輝が帰ってきたのか?まさか。でもあれは…俺は固まったまま、思索にふけった。いくら考えても、窓の外の夏輝は消えずにそこにいた。
 俺が行動を起こしたのは、夏輝がゆっくりとこちらを向いたときだった。夏輝は俺に、とても悲しそうな微笑みを見せた。そんな顔、見たことがない。俺はそれを見た途端、居ても立ってもいられなくなり、三百円をテーブルに叩きつけて店を飛び出した。
 雨はまだ強い。だが、傘を差す事は全く頭になかった。雨に濡れながら、夏輝の所まで走る。夏輝の姿はすぐに見えた。駆け寄ると、この雨の中で夏輝が何故か濡れていない事に気づいた。雨のにおいに混じって、夏輝が好きだった香水の香りがした。
「夏輝」
 名前を呼ばれた夏輝は、俺に振り向いた。悲しそうな微笑みは変わらない。俺はその後の言葉を言おうとして、詰まってしまった。言葉が出てこない。言いたいことが多すぎる。ぽかんと馬鹿みたいに開いた口に、雨が数滴入った。
 夏輝も何も言わなかった。俺とは違って、何も言いたくないかのように、じっと口を結んでいた。せめて、俺の名前だけでも呼んでほしい。その程度のことすら、俺は言えなかった。
 やがて、夏輝は少しずつ透けていった。これだけ書くと唐突だが、気づくと夏輝の向こう側の景色が見えるようになっていたのだ。俺は現実にはあり得ない事態に驚き、焦った。このままでは夏輝が消えてしまう。触れようと手を伸ばしたが、空を掻くだけだった。
 やっぱり、幻覚だったんだ。夏輝がここにいるわけがない。最初からわかりきっていたことだった。
「夏輝…待ってくれ……」
 幻覚に依り縋って生きることは虚しい。確かにその通りかもしれないが、虚しくても構わない。たとえ幻覚でも、夏輝がいてくれさえすればそれでいいんだ。だから、消えないでくれ――
 心の中での必死の訴えも虚しく、ついに夏輝は雨に溶けるかのように消えてしまった。後に、香水の香りだけは残っていた。控えめな花束のような、上品で優しい香りだ。
 ジュ・ルヴィアン。再会、っていう意味なんだって。
 不意に、夏輝の声が聞こえた。咄嗟に辺りを見回したが、俺の目には夏輝の事なんて知らない他人しか映らなかった。
 相変わらず、雨はザーザーと降り続けている。

手放せない恋情

 ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
 情景描写が苦手なので練習しようと思って書いた話ですが、やはり上手くできないです。もっと鍛錬します。

手放せない恋情

恋人を失って以来、「何か」に苦しんでいる男。彼は今日も何かに引きずられて、雨に濡れた街を歩く。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-05

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