或る雨の日の事

 愛の存在しない世界にて。

一日目

 三日振りに、雨が降った。
 雨は、恩恵と被害の両方をもたらす。一滴の水すら惜しい者にとっては、この雨はまさに恵みの雨である。しかしそうでない者にとっては、雨などはただ濡れるだけの邪魔な存在だ。では室内に居ればいいのかと言うと、そういうわけでもない。
「煩いな」
 自分の部屋で、窓の外を眺めるロスは呟いた。雨音と人々の声は、窓越しにでもよく聞こえる。
 窓の下では、地下鉄のホームへ続く階段に傘が群がっていた。入り口のシャッターが閉まっている。地下鉄の運行に携わる人は、雨に濡れる事も嫌うような潔癖性ばかりなのだろうか。蠢く傘と、響く怒声と、罵倒。ここで騒いでも、地下鉄の車掌には届かない。
「ロス様、失礼します」
 ロスの家に忠実な、正確に言うと彼の父親から渡される給料に忠実な執事が、ロスの部屋のドアを開けた。窓際に立っていたロスは、ゆっくりと首をそちらに向けた。
「何だ?」
「ロス様にどうしても会いたいと言う人が」
「僕に?」
 ロスは眉をひそめた。心当たりが無い。
「誰だよ、それ?」
「ノン、と名乗ってますが」
 いよいよロスの顔が、不快そうなそれになった。
「…ノン?そんな奴知らない、追い返せ」
「しかし…何と言っても、引き下がらないのです」
「しつこいな。どうせ貸した金返せとか言ってんだろ?」
「それが、ただロス様に会わせろとの一点張りで…」
「はあ?何だそれ」
 ロスはいつも通りの不機嫌な様子だったが、そのノンという者に興味を持ったらしかった。丁度暇だったし、と彼は執事の横をすり抜け、およそ十時間振りに部屋を出た。
 長い廊下、長い階段。ロスは誰ともすれ違わなかった。住み込みで働く人以外は、地下鉄の車掌と同じく休み。さっきの執事も、伝える事は伝えたぞといった態度で自分の部屋へ戻っていった。
 階段を降りて大広間まで来ても、やはり誰もいない。ロスは少々面倒に思いながら、大広間にある扉の中で一番大きな両開きの物を押し開けた。
 その先にロスが見た物は、どこか異様な物だった。
 確かにそこには青年がいた。少しだけ青みがかった長めの黒髪、ロスよりは日に焼けている肌、白いワイシャツにジーパン、小さなショルダーバッグ。見たところ至って普通の青年だ。異様なのは服装ではなく、彼が全身くまなくびしょ濡れであるという状態だった。
 しかも彼は、玄関の戸の前で口笛を吹いている。正確には、口笛らしき物。雨は相変わらず強いためロスの耳にはほとんど聞こえないが、その口から出される息は、すーすーと空回りした軽い音しか出していなかった。同時に青年は、玄関の右にある絵をぼんやりと眺めていた。誰かが描いた花の絵。名前はネリネ。ヒガンバナ科の球根植物で、別名「ダイヤモンド・リリー」。
「そんな物、大した価値も無いのに何で見てるんだ?」
 その答えを聞いた所で、自分には何の利益も無い。ロスは純粋に、好奇心から青年に尋ねた。不意の言葉に驚いた青年は、ますは顔を、少しして体をロスの方に向けた。しばらく、沈黙が続く。驚き顔が解れたころ、ようやく青年は口を開いた。
「満開だから」
「はあ?」
 全く訳が分からない、とロスは気の抜けた返事をした。青年は続ける。
「このネリネ、満開って事はもう暗い未来しか残ってない。この後は、萎れて枯れて、種残して終わり。でもそんな事知ってか知らずか、面白い程鮮やかに咲いてる。花っていうのは不思議な物だよ」
 青年はネリネを眺めながら、薄く笑う。青年の理屈は、ロスにはよく分からなかった。
「君は、ロスというんだよね?」
 青年はもう一度ロスに顔を向けた。
「……まぁ、そうだけど」
 そうだ、こいつは僕に用があるんだったとロスは思い出した。青年は泥水の足跡を作り、ロスの側まで来た。青年の方が、十センチほど背が高い。
「ずっと、君と話がしたかった」
「は?」
 微笑む青年をロスはやはり理解できず、また気の抜けた答えを返した。
「お前……名前は?」
 ノン、と執事からは聞いていたが、一応ロスは確認した。
「俺は、ノン」
 ノン、とロスは小さく繰り返した。変な響きだった。
 ノンはだらりと垂れ下がっていたロスの手を取った。濡れた手で触れられ、ロスの表情が一気に曇る。
「俺、ロスの事を知りたいんだ」
 ロスからするとノンが言った事はさっぱり訳が分からなかったが、それ以上に、雨によって自分に与えられた新たな影響の方が不愉快だった。ロスはノンの手を振り解いた。
「濡れた」
 ロスは潔癖性というわけではないが、濡れるのは嫌いだった。慰謝料でも払わせようかとロスは思ったが、ノンはそれを言われる前にショルダーバッグからハンカチを出した。
「はい」
 これで拭きなよ、とノンはそれを差し出した。未だにポタポタと髪先から水の滴る人がする行動ではない。
「慰謝料は払いたくないって?」
 それ以外の理由は、ロスには思いつかなかった。しかしノンは、首を横に振った。
「君が嫌がってたから」
 ロスはとうとう、呆れて物も言えなくなった。相手が嫌がったから?冗談でもそんな理由使わない。
「…お前、僕が嫌がったらどんな事でもしないのか?」
「うん、しない」
「じゃあ、僕が喜ぶ事は?」
「何だってするよ」
 ロスは、ノンを理解しようとすることを諦めた。その努力は、間違いなく無駄だ。
「変な奴」
「やっぱりそう思う?」
 ロスの吐き捨てた言葉に、ノンは笑って答えた。ついさっき始めて会ったばかりなのに、少なくとも四回は笑っている。ここまで笑う人を、ロスは今まで見たことも聞いたこともなかった。
「お前、笑ってばっかりだな」
「君と話せた事が、嬉しいから」
「…何だそれ」
 ロスはこの奇妙な青年に構うのが、もう嫌だった。どうも調子が狂う。
「あのさ、用がないなら帰れよ」
 『帰れ』とだけ言って、それが原因でトラブルに巻き込まれるのは御免だ。本音では用があっても帰って欲しかったが、ロスは嘘をついた。
「帰って欲しい?」
「ああ」
「じゃあ帰るよ」
 そう言ってノンはあっさりとロスに背を向けた。不服そうな様子は、全く見られない。
「え、ちょ、ちょっと待てよ!」
 想像だにしていなかったノンの反応に、思わずロスは彼を呼び止めた。ノンはすぐ、ロスに振り向いた。
「な…何なんだよ、お前は?僕と話してどうするつもりなんだ?」
 見知らぬ青年に突然、ずっと君と話したかったなんて言われても、疑問しか生まれない。ロスはようやく、最初に感じた疑問を投げかけた。
「聞きたい?」
 しかし、首を傾げるノンを見たロスは、やはりノンに帰って欲しいと思った。これ以上こいつと話しても疲れるし、そもそも聞いた所で何にもならない。
「…いや。やっぱ帰れ」
「……うん、そうする」
 ノンはまた笑い、今度こそ玄関を開けて、バケツを引っ繰り返したような雨の中へそのまま消えた。ああ、傘持ってないのか。だからあんなに濡れていたんだ。…濡れてもいいから、僕に会いたかった?
 やっぱり訳が分からない。ロスはすぐにそんな考えは遠くにやり、長い階段、長い廊下を再び億劫に思いながら自分の部屋へ戻った。
「あ」
 自分の部屋のドアを閉めて、初めてロスは左手に持っていた物に気づいた。これで手を拭きなよ、とノンが渡したハンカチ。返していなかったが、それは、ノンが返せと言わなかったからだ。そもそもノンは一言も、貸すとは言っていない。
「こんなもん貰ってもな…」
 ベッドにごろんと寝転がったロスは、左手でハンカチを摘まんで顔の上に翳した。真っ白で、角に何かの花の刺繍がしてある。何でこんな女物を持ってんだ?
「寝るか」
 ロスはハンカチをどこかに放り投げ、枕にうつ伏せになった。
「…ったく、何なんだよ」
 自分の中に残った疑問に苛立ちつつも、ロスはあっさりとうつ伏せのまま眠りについた。雨は、ノンが来た時よりは少し弱まっていた。

二日目

 二日間、雨が続いた。
 今日も地下鉄は止まっているらしい。騒音は相変わらず、ロスの部屋の中を満たしていた。
「ロス様、昨日のノンという方がまた…」
 ロスは布団を頭から被り、暇を潰すために寝ていた。しかし執事の声に、ロスの意識はすぐ現実へ連れ戻された。
「…また?」
 ロスは布団を自分の体から剥がし、のっそりと床に立ち上がった。片手で髪を適当に梳かしながら、昨日通った玄関への道を辿る。五歩歩いた所で、足の裏に違和感を感じた。見ると、昨日投げたハンカチが足の下にある。ついでだ、とロスはそれをポケットに突っ込んだ。
 ロスはノンに興味を持っていた。彼は人として何かとおかしいが、暇潰しの相手には使えるかもしれない。それなら、使えるだけ使おう。そんな事を考えながら、ロスは大広間の重い扉を開けた。
「また会えたね、ロス」
 ノンは扉の向こうで、やはり笑っていた。反対に、ロスの顔は不機嫌に染まる。昨日も思ったが、ノンの笑顔はどこか心地が悪い。…そうか、とロスは気づく。こいつの笑顔には、裏が全く無いからか。
「何でまた来たんだよ?」
 その声には、迷惑だといった調子が含まれていた。事実、ノンの体は今日も雨に濡れていて、床が泥水で濡らされる事がロスは嫌だった。この事をこいつに言ったら、どんな反応をするんだろう。
「君の事、知りたいから」
 昨日と同じことを言っている。この調子じゃ、教えるまで毎日通い続けるかもしれない。しかしロスは、教える気など最初からない。
「僕なんかの事、何で知りたいんだよ?」
 ただ、それにだけは興味を持っていた。
「…君はまた、変って言うかもね」
 ノンはやや自虐的に笑みを浮かべた。変、という言葉にロスはふとハンカチを思い出したが、それを言い出す理由が見つからず、黙ったままでいた。
「三ヶ月くらい前、ここの前の道通った時、初めて君を見た。…そういえば、その日も雨だったな。君は窓枠に頬杖をついて、退屈そうに外を見てた。その時はまだ、君に興味は持ってなかった。そういう人がいるなってだけで」
 三ヶ月前に、雨が降った日なんてあっただろうか。ロスはすぐ、思い出す事を諦めた。
「でもさ、不思議なんだ。それからちょっと日付が経った頃、もう一回通るとまた君がいた。その次の日も、また次の日も、一日に何回通っても、君はずっとあの部屋で外を見続けていた。だんだん俺も、君を見るために道を通ってるんじゃって思えてさ」
 ほら、変だろ?とノンはしっとり濡れた頭を掻いた。一方ロスは、
「随分と記憶力がいいんだな。そんなの覚えてても何にもならないだろ」
 と率直な感想を述べた。しかしロスの嫌味もノンは飲み込み、そうかもね、と告白を続けた。
「そしたらもっと変な事に、君と話したくなった。君の事を知って、君をそこから連れ出したくなったんだ」
「…僕を誘拐しても、何処にも売れねーぞ?」
 闇取引における子供の需要は、十二歳位を境にして一気に落ちる。ロスは今年で十五、大した値では売れない。
「そんなつもりで言ってるんじゃないよ」
「じゃあ何だよ?」
「さぁ。よく分からないや」
「…変な奴」
「ほら、やっぱり言った」
 また、あの不愉快な笑顔。ロスは舌打ちしたが、その表情は崩れない。
「…結局、僕の事聞いてどうすんだよ?」
「どうもしないよ。ただ、俺が知りたいだけ」
 ロスは少し考えた。自分の事を話すなんて面倒だ。しかし話した時間だけ、自分は退屈を潰す事ができる。まず思いついた要素はそれだが、二つを天秤に掛けるならもっと他の要因も沢山ある。どちらがいいか、彼なりに考えた結果は否定の方向だった。
「話すわけないだろ」
 棘のあるロスの言い方に、ノンは少し残念そうな顔をした。
「何で?」
 と、彼は首を傾げた。こいつは馬鹿か?と本気でロスは呆れた。
「お前が僕の情報を悪用しないって、信じろっつーのか?」
「そんなことするわけないじゃないか。そもそも俺は、悪用できるような君の情報なんていらないよ」
 即答したノンの瞳は、この上ないほど真っ直ぐだった。下心や悪意に満ちたような瞳しか知らないロスは、表には出さなかったが心の中では動揺した。
「…信じられるわけないだろ、そんなの」
「なら、無理に信じてくれなくてもいいよ。話したくないのを無理に聞いてもしょうがないし」
 ノンは諦めて笑う。それを見たロスは、慣れない表情と反応に戸惑いばかりでなく、苛立ちも感じた。何でこいつは僕にこんな態度を取る?このままではいつまでも、こいつは変わらない。…それは、嫌だ。そう思ったロスは渋々折れた。
「分かったよ、話せばいいんだろ?」
 ぶっきら棒なロスの言葉を、ノンは本当に嬉しそうに受け取った。ただ、とロスが続ける。
「今日は帰れ。今は話したくない」
 その理由はごく単純で、自分が予想する物とは全く違う反応をするノンと話すことは、ロスにはかなり疲れることだからだった。疲れも驚きも苛立ちも、一回寝ればリセットされる。ロスはもう、そのことに意識を向けていた。
「うん、分かった」
 急なロスの要望にも、ノンは嫌な顔一つせず従った。そして水の中へ帰って行くノンを見て、ロスは気づいた。あいつはまた明日来るのか。暇潰しの道具が向こうから歩いて来てくれるのはありがたい。ロスは暇という物を一番遠ざけたいと思いながら、一番長くそれと付き合っている。
 ノンを執事かなんかにしたら、その暇は多少は解れるかもしれない。命令にも忠実だろうし。だがノンといると、どうも気分が悪くなる。今疲れているのだって、あいつのせいだ。大体僕のことが知りたいって、何で知りたいんだ?僕の情報がどっかでは高額で取引でもされてるのか?馬鹿げてるが、そうじゃなかったらそんな事言うもんじゃない。けどノンはきっと、違うと言うんだろう。そもそもあいつは、悪用できるような情報はいらないって言っているんだ。じゃあ悪用できない情報って何だよ?
 ロスはそこで、自分が玄関に突っ立ってずっとノンの事を考えている事に気づいた。…さっさと寝ようと思ってたのに。ノンのせいでそれを忘れていた彼は、舌打ちをして玄関に背を向けた。

三日目

 三日間、雨が続いた。
 雨はどうも、止む気がないらしい。絶え間無く聞こえる雨音を、ロスは玄関で壁に寄りかかりながらぼんやりと聞いていた。
 こんな日でも、ノンはまた来る。ロスはそう確信していた。僕の事を話すと僕が言った以上、あいつはそれを聞くためにまた全身を濡らしてここに来る。
 それにしても、あいつは傘一つ持ってないのか?ロスが床を見ると、昨日一昨日の泥水は乾き、足跡の形に土がこびりついていた。足でこすると、土は薄く広がった。後で執事に掃除させるか。今より少しはマシになるはずだ。
 はぁ、とロスが意味も無く溜息をついた所で、ドンドンとドアを叩く音がした。ロスの家は優に築百年を超えるもので、今時のインターホンなどは付いていない。来客はドアを叩くという原始的な方法で、自分が来た事を家の住人に知らせる。ロスはドアの掛け金を外して、ノンを中へ入れた。
「今日は君が迎えてくれるんだね」
 やはりノンは全身びしょ濡れだった。こいつは濡れる事が趣味なのか、とまでロスには思えた。
 ロスが始めから玄関にいたのは、単に執事に呼び出されたくなかったからだ。何かをしているのを邪魔されるのは、気分のいいことではない。だがノンの嬉しそうな顔から察するに、ロスは早く自分に会いたいから玄関で待っていた、と考えているらしい。つくづくおめでたい奴だ。
「で?」
 ロス自身にとっては、自分が最初からここにいたことなどどうでも良かった。さっさと用を済まさせてこいつを帰らせよう。
「何が知りたいんだ?」
 大方、僕の家の総資産とか、親父が今どこにいるかとか、そんな事だろう。それで僕の家が強盗に入るだけの価値があるかを判断するんだ。滅多に外に出ない僕の事を、世間知らずのバカだと思ってるんだろうが、バカはお前の方だ。
「そうだなあ…あ、じゃあ、ロスは何歳?」
 しかし、ノンの唐突な質問に、ロスは面食らってしばらく固まった。これはもう、バカを通り越して理解できない。こいつが知りたいのは、僕の年齢なのか?何でそんな意味の無いものを?
「教えてよ。俺、そういう事が知りたいんだ」
 昨日、ロスはノンのしつこさに負け、知りたい事を教えると言った。教えてはいけない情報が何かは、ロスにも判断できる。年齢は、どんな見方をしても、問題のある情報ではない。
「…十四」
「誕生日は?」
「四月二十九日」
「血液型は?」
「多分、A」
「兄弟は?」
「上に七十人くらいいたらしいけど、全部死んだ」
 ノンはその回答に驚くことは無かった。単に、ロスの父親がどこかの女に孕ませた子供が七十人くらいで、その中で運良く生き残ったのが、ロス一人、というだけだ。生まれた子供の七割強が成人する事なく死ぬこの世の中では、よくある話だ。
「何でいつもあの部屋に居るの?」
 ついに、答えるのが面倒な質問が来た。確かにロスは、ここ数年家の外に出ていない。おかげでその肌色はまさに、透き通るような白だった。
「外に出たくないから」
「どうして?」
「雨に、突然降られるかもしれないだろ?」
「…晴天でも?」
「晴天だからこそ怖いんだ」
「そんなに、濡れるの嫌?」
「だって気持ち悪いし。それに、濡れた手で何か触ると、その何かが濡れるだろ?それが嫌だ」
 次々と他の物を侵していく。まるでウイルスだな。昔、誰かはロスにそう言った。
「でも濡れたところなんて、拭いていけばいいじゃないか」
 またもロスは驚いた。しかし彼はあくまで平静を装って、同じ場所に突っ立っていた。拭けばいい。そんなこと言われたのは初めてだった。
 今までにロスが見て来た反応は、全てロスの持論に納得したものだった。濡れても、いい事なんて何もない。他の物濡らして面倒事を起こすくらいなら最初から濡れなければいいんだ。面倒事をきちんと処理する、という発想は誰にもなかった。
「変な奴」
 ノンの発想は、ロスには変な物として映った。しかし、やはりノンは笑顔をロスに見せていた。その笑顔はロスにとっては、初めのうちは物珍しくかつ不快感を催すものであったが、何度も見せられるうちに慣れて、特に何かを思う事はなくなった。
「お前は?」
 代わりに、ノンに対する興味は深まっていた。どういう環境にいれば、こんな変な奴になるのか。気になったロスは、ノンと同じ行動に出た。
「何?」
「お前は、何歳?」
「十七」
「誕生日は?」
「七月三日」
「血液型は?」
「分からない」
「兄弟は?」
「さあ…ただ、血縁者なら全員死んだよ」
「…ふーん」
 聞かれた事は、大体聞き返した。だが、ロスが本当に聞きたい事は、全く違うところにある。しかしロスは、それをノンに聞く事はしなかった。今聞いた所で、どうする?僕はそれに対して何かするのか?
「じゃあ、俺帰るよ」
 思考を巡らせるうちに、何故かノンの方から帰ると言い出した。ロスは、帰れというような素振りは全くしていない。
「何でだよ?」
「そろそろ、君が帰れって言うかと思って」
 実際はロスに、帰れと言う気はなかった。残り一つの聞きたい事をどうするか、それを決めるまでは待っていて欲しかった。が、「まだ帰らないで」と言うのも癪だ。
「じゃあ、帰れよ」
「うん」
 ノンはドアを開けた。水に濡れた灰色の景色が、ドアの形に切り取られて現れる。その中へ入って行くノンを見たロスは、ふと思った事をそのまま口にした。
「明日も来るのか?」
 その言葉をかけられるとは全く思っていなかったらしく、ノンは随分と驚いた顔でロスに振り向いた。
「…うん、行くよ」
 行かない理由が無いしね、とノンは笑った。それに対しロスは表情を変えず、すぐ側の傘立てに刺さっている、紺色の傘に目をやった。
「これ」
 差し出されたそれを、ノンはまるで魔法でも見せられたかのような目で眺め回した。ロスがやや苛立った声で説明を加える。
「また濡れた格好で来られたら、困る」
 明日も雨が降るという確証は無い。だが何となく、この雨はまだ続きそうな気がした。
「じゃあ、晴れたら返すよ。それまで借りてていい?」
 自分が渡したハンカチには何も言わないのに。変な奴、とロスは心の中でもう一度言った。
「じゃあ、また明日」
 ノンは外に向かって傘を開き、ロスに手を降った。
 また明日。ロスが今までに聞いた事が無い言葉だった。
 ドアがバタンと閉まり、灰色の景色が閉ざされる。来客と傘が消えた玄関で、ロスは僅かに後悔した。やっぱり、聞いておけばよかった。
 お前は僕に何をして欲しいんだ?僕とどういう関係になりたいんだ?僕の個人情報を知って、それだけ?ノンの誕生日を知ったって、その疑問の答えはわからない。聞くしかないんだ。
「…まあ、いいか」
 次に思い出した時に聞こう。あっさりと諦めたロスは、後悔を玄関に置き去りにしてその場を後にした。

四日目

 四日間、雨が続いた。
 地下鉄の運転手はようやく重い腰を上げたようで、人の怒鳴り声は聞こえない。雨音だけが、ロスの鼓膜を揺らしていた。
 一人だけで使うには広すぎる大広間。ロスはそこで独り、山積みになった本を読み漁っていた。ロスが生まれるずっと前からこの家にあった、古い童話集。彼は、気まぐれで十年以上前に読んだ子供向けの物語を掘り返しているわけではない。タイトルがあるのかないのかもわからず、内容もうろ覚えな物語を探していた。確かなのは、その童話の主人公がノンのような人間だということ。自分の都合より他人の都合を考える、変な奴。ロスはそのあやふやな記憶だけを頼りに、紙面上のノンを探し出そうとしていた。
「っ…」
 突然、ロスはやや顔をしかめ、右手の人差し指の先を睨んだ。本の紙の端で切ったらしい。少し経つと血が滲んできた。だが、大した傷ではない。ロスはすぐにそれを忘れ、本に意識を戻した。
 しかしその意識はすぐに逸れた。
 ドンドンドンと重い音が雨音に混じる。ノンだ。ロスは童話の旅を中断し、玄関へ向かった。
 玄関を開けた先に、ノンは確かにいた。しかし昨日までの彼とは違う。肌も、髪も、服も、鞄も、どこも濡れていない。そしてその手には、一本の傘。本来ならそれが普通の姿なのだが、ロスはノンと出会ってから四日目で、ようやくその姿を見る事ができた。
「今日も、傘借りていいかな?」
 ノンは傘を畳み、困り顔で笑った。どうせ外に出る事は無いし、傘なんて一本失くなったところで何の問題もない。ロスにとっては、家が濡れない事だけが大事だった。
「勝手にしろ」
 突き放したロスの態度にも、ノンは表情を変えなかった。少しは不機嫌になったらどうなんだ。ロスは片手で、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「でも、おかげで濡れないで済んだよ」
 傘を適当な所に立てかけたノンは、つかつかとロスの側まで歩み寄りその右手を握った。三日前と、同じだ。ロスはたじろいだが、ノンは手を放さない。
「濡れなければいいんだろう?」
「あ?……まぁ…」
 確かに、前にロスが不機嫌になったのは、自分の手が濡れたからだった。それが無ければ、嫌がる理由はない。だが、そうされたいとも思わない。ノンが自分の手を握ろうと握るまいと、ロスはどうでもよかった。しかしそれは、握られたことによる影響が何も無かった場合に限られる。
「痛っ……」
 さっき切ったところを強く押されて、痛みが再発した。思わずロスが漏らしたその言葉を、ノンは聞き逃さなかった。
「あ、ご、ごめん。強すぎた?」
 ノンは慌てて、手をぱっと離した。ロスが何と言おうか迷っていると、指先の傷にノンが気づいた。
「ロス、怪我してる?」
 ノンはもう一度ロスの手を取り、今度は握らずに人差し指をじっと見つめた。
「どうしたの?」
「…別になんだっていいだろ」
 説明するのが面倒だという意思があからさまに滲み出ている、素っ気ない返事だった。それに気づいたのか、ノンはそれ以上理由を問い詰めることはしなかった。
「でも、まだ血が滲んでるよ?絆創膏貼る?」
 問い詰める代わりに、随分と心配そうな目をしていた。また、何度目か分からないが、ロスはノンの言ってる事が理解出来なかった。普通、他人の怪我にそこまで言うか?しかも、こんな軽い怪我に。大体、僕の怪我なんてお前には関係ない。
「こんなの、ほっとけば治るだろ」
 考えた事全てを集約して、ロスはそう言い切った。
「…処置とか、何もしてない?」
 この程度の傷に、何をしろというんだ?むしろする方がおかしい。
「だから何だよ?」
 僕の勝手だろ――と続ける前に、ノンはロスの手を自分の口の前へ持っていった。自分の意志と関係なく体を動かされるのは、いい気分ではない。ロスが振り解こうとした、丁度その時だった。
 ノンは小さめに口を開けて舌を出し、そこにロスの指を当てた。
 ロスは、ノンが何をしているかをすぐには理解できなかったが、真っ先に現れた驚きと、濡れた原因が唾液という事に対する嫌悪感と、元からあった振り払おうとする力が合わさり、ロスの手はすぐにノンの手を抜けた。
「なっ何すんだよ!」
 自分の傷口を舐めた事はあっても、舐められた事はない。今この世に生きている人間は、殆どがそうであるに違いない。振り払った後でロスは、一度も感じた事の無かった変な感覚を反芻した。背筋を下から上へ駆け上がる、ぞくっとしたあの心地。不快感、と一言で言うには、何か余計なものが付いてきてる気がする。
「舐めた方が早く治るよ」
 そんなわけ無い。第一、何でそこでお前が舐めるんだ。ロスはその二つは言わず、代わりに軽蔑を込めてノンに聞いた。
「本当は、舐めたいだけじゃないのか?」
 そうでもなきゃ、こんなことをノンがする理由はない。案の定、ノンの顔が一気にばつの悪そうなそれに変わる。
 本当、そんな事して何になるんだ。
「変な奴」
 ロスは、使用人とかに足を舐めさせて優越感に浸るという趣味、あるいは性癖なら聞いた事があった。しかし、自分から他人の傷を舐めたがる趣味は知らない。ロスには、知らない事を全て変という単語で纏める癖があった。
「お前、他の奴の傷も舐めるのか?」
 うん、がきっと答えだ。その趣味の相手が僕だけである必要性なんてあるはずない。が、ノンはそんなロスの考えを覆した。
「しないよ。舐めるのは、君のじゃなきゃ嫌だ」
「は?何でだよ?訳分かんねぇ」
「そうだね、俺も分からない」
 成る程、とロスは納得した。本人が分からない事を他人が分かろうとしたって、分かるはずがない。とにかく、ノンはそういう変な奴なんだ。それで全部収まりがつく。
「…雨、弱くなったみたいだね」
 扉に顔を向けたノンが呟く。確かに雨音は、最初の勢いを失っていた。ノンは、まだ乾いていない傘を持った。
「今のうちに、帰った方がいいかな?」
 彼はそう言って首を傾げた。どうしていちいち聞いてくるんだ。その程度の判断も自分でできないのか?
「僕に聞くな。帰りたければ勝手に帰れ」
「じゃあ、ずっと帰らないって言ったら?」
 ……ずっと帰らない?ロスはしばらく、何も言えなかった。変な質問に呆れていたのもあるが、そもそも質問の答えを見つけられないでいた。ずっとって、つまり死ぬまでってことなのか?退屈は紛れるが、代わりに疲れる。そんな奴と、どちらかが死ぬまで一緒にいろと?いいのか悪いのか、判断がつけられない。…いや。この場合、ずっと一緒にいる、という状態そのものが問題じゃないか。
「それは、邪魔だ」
 そんなのは、誰であっても邪魔に決まっている。この質問をしてきたのが全く別の人だったとしても、ロスは同じ答えを返しただろう。
「…じゃあ、俺は帰らないとね」
 じゃあ?そのじゃあは、僕が邪魔って言ったことを受けてか?だとしたら、相変わらず変な行動の理由だな、もう勝手にしろよ。
 ロスが心の内でまた呆れていると、それを読んだかのようにノンは笑った。
 またね、とノンが家を出て行った後、ロスは独り、指先の傷をノンがやったように舐めた。特に深い意味は無い。ただ、何となくやりたい、という一時の欲に従ったまでである。乾いていた人差し指が、また濡れる。ロスはうっすらと血の味を感じた。
「…まずっ」

五日目

 五日間、雨が続いた。
 昨日は動いた地下鉄だが、今日はまた運転手の不在によって止まっているらしい。地下鉄が原因の罵倒があるのを除けば、大広間の中の状況は昨日とほぼ同じだった。
「あった」
 昨日の捜索の続きをしていたロスは、ようやく目当ての物を見つけ出した。
 タイトルはなく、五分もかからずに読み終わるほど短い話だが、そこに居るのは確かにノンだった。正確に言えば、ノンにとてもよく似た変な人物。ノンはこいつの生まれ変わりか?ロスはそんな冗談めいた事も本気で考えた。ノンは変な行動ばかり取る人間だが、それを抜きにしても、彼にはどこか人間離れした奇妙な雰囲気があった。生まれ変わりぐらいは経験しているかもしれない。
 目的の物を見つけ、一息ついたロスの耳に、昨日と同じ重い音が飛び込んできた。もうそんな時間か。ロスは手元の、ノンの前世かもしれない男を閉じて立ち上がった。
「昨日の怪我、大丈夫?」
 昨日と同じように乾いたロスは、挨拶も程々にまずはロスの心配をした。また、他人の心配か。
「あんなの、怪我なんて呼ばねーだろ」
「傷は、みんな怪我だよ」
 じゃあその傷の基準は何なんだ――とまで言っていたらキリが無い、とロスは別の事を口にした。
「…どんな傷でも、怪我なのか?」
「俺からすると、だけどね」
 ロスには、先程の童話がきっかけである、やってみたいことが一つあった。純粋な好奇心は、ロスを大胆な行動へ誘う。
「自分でやった傷でも?」
 ノンは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「じゃあ」
 ロスは右のズボンのポケットから、折りたたみナイフを取り出した。護身用に刃物を常に持ち歩くのは、呼吸をするのと同じくらい当然な事だ。ロスを守るために存在するナイフは、五ヶ月振りに、ロスを傷付ける為に使われた。
「これも、怪我か?」
 左の袖を捲ったロスは、そこに右手のナイフを当てて引いた。切れた線に沿って、血が流れ出す。痛みに、ロスの顔が歪んだ。ロスに自分を傷付ける趣味がある訳ではない。ただ、彼の自傷行為に対するノンの反応を、ロスは見たかった。
 そしてノンは、ロスの期待通り興味深い反応をした。
「ろ、ロス!?何してるんだ!」
 もう一本傷を作ろうとしたロスの腕が、ノンに掴まれた。今まで、相手の行動を訳が分からないと評していたのはロスの方だったが、今回その立場は逆転した。しかし、ロスもやはりノンの行動の訳を分かっていない。
二人はお互いを理解できないまま、同じ姿勢で数秒固まった。
「僕が僕を傷付けた所で、お前には何の影響も無いだろ?」
 それでも、ノンに放す気は無い。
「でも、ロスが傷付く所なんて見たくない」
 ノンがロスを見つめる眼は、いつかと同じように痛いほど真っ直ぐだった。それはロスを責めているからではなく、心の底からロスの事を思っているからできる眼である。
「もし誰かを傷付けたいのなら、俺にやってよ」
 ノンの声は決して強いものではなかったが、ロスが目を見開いて驚く程度の力はあった。いよいよあの冗談めいた話――ノンがあの男の生まれ変わりだという話が、本当になるかもしれない。そんな、まさか。ロスは思わず、口元を緩めた。
「お前って本当にバカだな」
 ロスが最後に笑ったのはいつか、彼自身にも分からない。それはロスの笑いの沸点が低いからではなく、家の中だけで生活していたら、笑うような事なんて滅多に起きないからである。この笑いは、面白いからではなく、あまりのバカバカしさに呆れた笑いだが、どちらにせよロスがそんな表情をするのは非常に珍しかった。ノンは見たことのないロスの表情に驚いたが、すぐにいつもの微笑みに戻った。
「初めて、笑ったね」
 本当に嬉しそうな言い方だった。ロスはふと、こいつはずっと僕の笑顔が見たかっただけなんじゃないか、と思った。
 ノンがようやくロスの右腕を放した。ロスはナイフを畳んで、ポケットに元のようにしまった。左腕では、血が一筋傷口から流れている。あの不味い味を思いだしたロスは、左腕をノンの方へ差し出した。
「舐めろって言ったら、やるか?」
 まるで僕が、ノンに血を与えるみたいだ。他人にあげる血なんてないのに。ロスはそう考えながらも、腕を引っ込める事はしなかった。
「君がして欲しいなら、するよ」
 と、ノンは差し出された腕に触れた。別に、して欲しいわけではない。ノンは果たして舐めるのか、腕を舐められたらどんな感触なのか、それが気になるだけだ。…いや、それはつまり舐めて欲しいってことなのか?
 だが、ロスがそんなことを考えているうちに、ノンの舌はもう血の筋をなぞっていた。
「変な奴」
 ロスはぽつりと呟いた。
 彼の目の前でノンは跪き、一心不乱に傷を舐めた。痛い部分を、生温い物が這う。混ざった感覚を、ロスは目を閉じて味わった。気持ち良くはない。が、悪くもない。
 どうしてノンは、僕にここまでするんだろうか。まるで、奴隷だ。ロスはふと、さっき見つけた物語を思い出した。
「なあ。お前って、童話とか読んだことあるか?」
 ノンはその動作を止める事無く、ただ首を小さく横に振った。
「こんな話があるんだ」
 ついさっき読んだばかりの話を、ロスはほぼ完璧に覚えていた。これを聞けば、さすがのノンも自分のしていることに疑問を持つだろう。その時、こいつはどうするだろうか?
「昔々あるところに、一人の男がいた。男は特に何もせず、のんべんだらりと生きていた。男には一つ、変なところがあった。何故かいつも、隣の家に住む女の事を気にかけていた。何かにつけて無償で物をあげたり、女の喜ぶ事をみんなしてあげたり。女はある日男に、どうしてそんな変な事をするのか、と聞いた。男は一言、君にとって必要な存在になりたいから、と言った。女はこの不思議な男に、それなりの興味を持った。しかし、男の本当の望みは違っていた。彼は本当は、ずっと女の側に居ることを望んでいた。また別のある日、男はその本当の事を女に伝えた。女は、そんなのは迷惑だと突き返した。望みが叶わないと知った男は、自分で首を吊って死んだ。…そういう話だ」
 ロスがこんなに長く話すのは久し振りだ。長話を終え、ロスは一つ溜息をついた。ロスの言葉が途切れたのを確認すると、ノンは血の味に慣れ切った舌をようやく腕から離した。
「君は、その男が俺みたいだって言うのかい?」
「というより、お前そのものみたいだ」
「じゃあ俺も、死ななきゃいけないのかな」
 そろそろ帰ろうかな、とでも言っているかのような調子だった。もうノンの行動にいちいち驚くことも少なくなったロスだが、さすがにその言葉には動揺を隠せなかった。
「な、何言ってんだお前!?」
「望みが叶わなくて死ぬんなら、俺にだってその可能性はあるよ」
 ロスは、言う言葉が見つからなかった。どんなに退屈でも、どんなに不快でも、彼は自殺しようと思ったことはない。そもそもロスは、死にたくない。普通の人間ならそれは当たり前のことで、実際、自殺する人は滅多にいない。ノンは…こいつは、どれだけ普通から外れれば気が済むんだ?
「やっぱお前、変な奴だな」
 しばらくの無言の後に現れたロスの言葉に何かを思ったか、ノンは立ち上がりロスに背を向け、玄関横の傘を持った。
「帰るよ。一人で、少し考えたいんだ」
 何を?とロスは口を開きかけたが、何となくそれを聞きたくないと思い、結局は何も言わなかった。
 ノンがドアを開けると、冷えて湿った風が玄関に吹き抜けた。まだ血が止まっていない傷口に当たり、ロスは冷たさと痛みに表情を歪ませた。
「おい」
 ノンが扉の向こうに消える直前、ロスは彼を呼び止めた。何となく聞いてみたいことが一つできたからだ。ゆっくりとノンが、声の方へ首を向ける。
「例えば僕が殺されそうになったら、お前、どうすんだ?」
「俺が代わりに殺される」
 早い回答だった。一寸も迷う事なく、ノンは他人の為に死ぬ事を選んだ。もはや、変という単語だけでは収まりそうにない。しかしロスには、変に代わる別の言い方は見つからなかった。
「明日も、行くよ」
 その言葉を残して、ノンはドアを閉めた。
 独り残されたロスは、昨日と同じように、傷口を舐めてみた。ついさっきまでノンが味わっていた血は、やはり不味い。
 あいつはあんな事して何が楽しいんだ?それとも、楽しいからやってる訳じゃないのか?
 そういえばノンは昨日、僕の傷しか舐めたくない理由が、自分でもわからないと言っていた。それなら、どうせこれだって分からないに決まってる。諦めろ。どうせ考えたって分かりゃしないんだ。
 ロスは舌打ちを一つし、大広間ではなく自分の部屋に帰った。後には、肌にまとわりつくような湿気を含んだ空気だけが残った。

六日目

 六日間、雨が続いた。
 しかし、長すぎる雨雲もようやく終わりが来たようで、雨音は今までのどんな物よりも弱々しい。ロスの家にも、久し振りに多くの使用人が来ていた。しかしロスにとっては、使用人が何人いようと退屈である事に変わりはない。彼の退屈に効くのは、ノンの存在くらいしか無かった。
 しかし、今日は何故かノンが来ない。今までは決まって午後一時ごろに玄関の戸を叩いていたが、ロスが先ほどから何度も目を向けている時計は、もう午後五時ごろを指していた。窓の外の景色は、だいぶ薄暗い。
 明日も来るって言ってたじゃねーか。ロスは明らかに苛立った様子で、もう読み飽きた本を部屋で読んでいた。五、六日振りに来たメイドがロスの部屋のドアを開けたのは、本がまさに結末を迎えようとする直前だった。
「ロス様。ノンと名乗る方がいらっしゃいましたが」
 ロスはノンという固有名詞に直様反応し、本を放り出して玄関へと直行した。その足取りは、昨日までよりも少し速い。
「何で遅いんだよ?」
 玄関に一人でいたノンの姿を見つけたロスは、わざとらしく感じる程不機嫌な声で、そう聞いた。
「ごめん、ちょっと…色々あってさ」
「色々?」
「……うん」
 ノンは珍しく、ロスの問いに正直に答えようとしなかった。色々は気になるが、いつまでもこんな話をしてても仕方がない。ロスはそう判断し、この話題を早々に切り上げた。
「用事は、何だ?」
「用事がないと、来ちゃ駄目?」
 ノンは大した用事も話題も持ってきていない。が、それを言うなら昨日も一昨日も、これと言った用事があって来たわけではなかった。ノンはただ、ロスと話したりしたいが為に、雨の中を毎日往復した。
「用も無いのに来たのか?」
 そんなノンにとっては、その質問に答えるのは簡単だった。
「俺、君と居たいだけなんだ」
 それじゃあ、あの童話の男と同じだ。ここで僕が迷惑だって言ったら、ノンは首を吊るんだろうか。ロスの脳裏にそんな考えがよぎった。
「君は、邪魔だって言ってたけどね」
 二日前のロスの言葉を、ノンは覚えていた。ここでの邪魔は、迷惑とほぼ同じ意味だ。じゃあやっぱり、ノンは死ぬのか?
 しかしロスの予想に反して、ノンは死という言葉を口にすることはなかった。
「…本当に変な事なんだけどさ。俺、したいことがあるんだ」
 唐突とも言えるノンの話に、ロスは興味を持った。
「何だよ?」
 今更変な事と言われても、今までの行動だって十分すぎるほど変だ。でもわざわざ自分で言うって事は、よっぽど奇妙な事なんだろう。
「少し、いいかな?」
 ノンはロスの方へ歩みを進めた。いいか悪いかなんて、されることによる。僕は何をされるんだ?ロスは期待と共にノンを見上げた。
 そこからロスがされたことは、確かに変な事だった。
 ロスの視界から、突然、ノンが消えた。が、背中には彼の腕があり、胴体がノンの腕と体に挟まれて圧迫されている。その力はかなり強い。ロスは苦しさの中、自分かノン、どちらかの鼓動を感じた。
「…こんな拘束して、どうすんだよ?」
「どうもしないよ。ただ、こうしていたいんだ」
 ノンは何故か普通に喋らず、ロスの耳元で囁いた。掠れた音を含んだ吐息が、耳の中を|(くすぐ)る。
 二人は、男女が夜、ベッドの中で性行為をする時よりも、ずっと密着していた。人間の体がこれほど近づく事はまず無い。
 ロスは、精神的には嫌ではなかったが、肉体的には苦しかった。さっさと放せ。ロスがそう言う前に、ノンはその心を読んだかのように腕を緩めた。
 ロスの視界に戻ってきたノンの顔は、いつもの笑顔とは違い、何かを強く決意したような表情をしていた。ノンの右腕はロスの背中を離れ、指先がロスの左頬に軽く触れた。それはゆっくりとロスの輪郭を下へなぞる。顎先まで辿り着いた指先は、そこをくっと上に持ち上げた。ロスの視線とノンの視線が繋がり、直線になる。
 果たしてこの後何が起こるのか。ロスが予測する前に、ノンはぐっとロスに顔を近づけた。
「…は?」
 やはり理解できないロスは、見事に気の抜けた声を出した。しかしその声の発生源である口は、すぐ、ノンの唇によって塞がれた。
 ……何だ、これ。ロスは今までのどんな瞬間よりも強く、ノンを変な奴と感じた。だが塞がれた口では、それを言う事ができない。おまけに口呼吸もできないため、苦しい。本当わけわかんねえ。何だよこれ?僕を苦しませたいのか?
 しかしロスはそんな思考とは逆に、この状況をどうにかしようとはしなかった。苦しさの反面、きっとまだ何かあるという期待もまた彼の中にあった。そしてノンはロスの期待に、忠実に応えた。
 ノンはただロスと唇を重ねただけでなく、その後口内の粘膜と舌とで唇を感じた。さらにそれだけでは飽き足りず、舌はロスの唇と歯の間をすり抜け、その奥に潜んでいた舌と絡んだ。唾液が混ざる。
 ロスは理解することを諦め、生温い血の味を感じる事にした。ああ、昨日あんな事したから、きっとまだ舌に血の味が残っているんだ。どこかドロドロとした奇妙な事をされながらも、ロスはこのような事を考えられる程度に冷静だった。
 ただ、苦しい。口呼吸はできず、鼻呼吸もこの状況で普通にやっていいものか。つまりロスには、息の仕方が分からなかった。
 まだ放さないのか――いい加減にしろ、窒息死させる気か、とロスはノンを両手で押した。ロスの腕の長さ分、二人が距離をとる。目を開けて口を閉じたノンに、ロスは一つ言い放った。
「苦しい」
「…嫌だった?」
「いい気分にはならない」
「そうか……ごめん」
 ノンは申し訳なさそうな表情をしたが、ロスにはそれが、涙を堪えている表情に見えた。何で泣きたいのか分からないが、それを堪えようとする理由はもっと分からない。しかしノンについての理解を諦めたロスにとっては、それはもう関係無い、どうでもいい事だった。
「…帰るよ。元々用なんて無かったし」
 ノンも何かを諦めたらしく、そんな調子の声で言った。ロスに、それを止める理由はない。
「そうか」
 それ以上もそれ以下も、ロスは言わなかった。
 ノンが玄関を開けると、外はもうほとんど真っ暗だった。雨は相変わらずしとしとと降り続けている。ノンは空を見上げて、呟いた。
「明日は晴れるんだろうな」
 何を根拠に?だがそれはただの独り言だったようで、すぐ、じゃあねとだけ言ってドアを抜けた。
 理解は無理だと諦めながらも、やはりロスはあの奇妙な行動について考えずにはいられなかった。腕と体と唇と舌で、ノンはロスと繋がっていた。それは、ノン自身がその苦しい事を望んだからだ。ノンはずっと、こんな意味不明な事がしたかったのか?ああいう事をして何かが変わるのか?ロスには到底、答えが分かりそうにない。…やっぱり無駄だ、こんな事。
「変な奴」
 結局、 ノンを評する言葉はそれしかなかった。

七日目

 六日振りに、晴天になった。
 一週間丸々雨だったら観測史上初の事となったらしいが、初めての事とはそう簡単に為される物ではない。
「静かだな」
 窓の外を眺めながら、ごく当たり前の事を彼は呟いた。罵倒の声どころか、雨が地面を叩く音一つしない。
 空は雲一つない完璧な空色。太陽は建物に隠れて、白い日光すら確認できない。ノンの言った事は、これ以上無いほど見事に当たった。
 ふと、ロスは時計を見た。晴れでもノンの行動パターンが変わらないなら、そろそろ来るはずだ。部屋を出た彼は、ほぼ一週間振りに顔を合わせた使用人達何人かとすれ違いつつ、玄関へ向かった。
 大広間の扉の先、玄関の床は、使用人が仕事をしたようで、それなりに綺麗になっていた。乾いた泥水の足跡も、一応無い。
 ロスが玄関で待ち始めてからすぐ、昨日の天気予報を当てた青年は傘を持って現れた。
「晴れたら返すって言ったからね」
 と、ノンは傘をロスに手渡した。今更返されても、別に嬉しくない。だからと言ってこの傘をまたノンに渡すのも、何か違う。結局、ロスは傘を元あった所へ戻した。
「今日は、君に頼みがあって来たんだ」
 また昨日のあれか?…いや、そんな様子はない。
「…頼み?」
「ナイフ、今持ってる?」
 ナイフ?疑問に思いつつ、ロスはズボンの右ポケットに手を突っ込んだ。硬い感触が、確かにする。
「ああ」
「じゃあさ、外行かない?」
 そこでじゃあさと言われても、ナイフと外、繋がる要素が見つからない。そもそもロスは、はっきりとした目的が無い時は決して外に出ない人間だった。
「嫌だ」
「…ねぇロス。今日の空見た?」
 と、ノンは指で真上を指した。その方向を見ても、あるのは天井だけだ。
「ああ」
「雲一つ無い青空だったよね?」
「そうだな」
「雲の無い所に雨は降らないよ」
「それは……」
 ロスは言い返せなくなった。悔しいが、ノンの言うことに間違いは無い。それにこのままだと、いいと言うまでノンは居座るかもしれない。はぁ、とロスは溜息をついた。
「分かった、行けばいいんだろ?」
 かなり渋々と答えたが、ノンはそれでも良いようだった。
「じゃあ、行こう」
 ノンはロスに背を向け、玄関の戸を開けた。眩しい日光が差し込む。ロスは数年振りに、太陽の光を直に浴びた。
 ロスが引き籠っていた数年の間に、外の世界は大きく変わっていた。部屋の窓から見ているだけでは、その変化全てを知る事はできない。ロスは新大陸に到達した探検家のように、きょろきょろと周りを見ながらノンの後を着いて行った。目的地まで歩く中で、ノンは一言も口をきかなかった。
「どこ行くんだ?」
 ロスが聞いても、まるで聞こえていないかのように黙々と歩き続けた。声をかけるのは無駄と思ったロスも、それ以上は何も言わなかった。
 十五分程歩き続けた所で、ノンはようやく足を止めた。街の中心部からはだいぶ外れた、周りに何も無い小高い丘。雑草が自分勝手に伸びている。こんな何もない所に来る物好きは、他にはいない。風が草を揺らす音だけが、無音でない状態を保っていた。
「何でこんなとこ来たんだ?」
 いい加減に話せといった様子の声に、ノンはきつく結んでいた口をようやく開いた。
「ここなら、誰も来ない」
 しかし、ロスが聞きたかったのはそういう事ではない。
「何するんだよ?というか、頼みって?」
 ノンの事だから、外に出る事だけが頼みではないに決まっている。事実、ノンはロスの瞳を真っ直ぐと見つめ、彼への本当の頼みを口にした。
「俺を殺してほしいんだ」
 その頼みは、短い間でロスが引き受けるか否かを決めるには、あまりにも衝撃的だった。固まるロスに、ノンは続ける。
「そのポケットにあるナイフで、この心臓を刺せばいいだけだよ。簡単だろう?」
 他人事のようにノンは言うが、そうやって簡単に殺されるのはノン自身だ。ロスは声を荒げずにはいられなかった。
「お、お前、何言ってんだ!正気か!?」
「君の為に雨に濡れてる時点で、俺はもう正気じゃないよ」
 と、ノンはまたいつものように笑う。
 殺人事件なんて日常茶飯事だ。形骸化した警察は、そんな事件を丁寧に調べたり犯人を突き止めたりはしない。つまり、ノンを殺そうと殺すまいとロスの身には何の影響も無い。しかしロスは、それを理由にして何の躊躇も無く人を殺す人間ではなかった。
「…死にたいんだったら、自殺しろよ」
「最初はそうしようと思ったけど、それじゃあ、あの童話の男と全く同じだ。俺は、あんな奴になんてなりたくないから」
 ノンは地面に座り込んだ。晴天のおかげで、地面は昨日までの雨など無かったかのように乾いている。
「何で死にたいんだ?」
「あの男と同じだよ、君も分かっているんだろう?」
 確かに分かっていた。だが、そこは問題ではない。ロスはノンを見下ろした。
 こいつの命を、僕が奪う。それはどういう事なのか、彼はぼんやりと考えた。
「俺の望みは、君の側にずっと居ること、昨日みたいに君と触れ合う事なんだ。でもそれが君を苦しめるなら、俺の望みは叶わない。だったら生きててもしょうがないんだ。一回死んで、生まれ変わった方がいいよ」
 ノンは頭の後ろで手を組み、仰向けに寝転がった。その左脇に、ロスは自然と膝立ちになった。
「じゃあ何で僕に殺されたいんだよ?他の奴じゃダメなのか?」
「うん。俺は、君に殺されたいんだ」
 言葉の内容とは裏腹に、ノンは穏やかに笑う。
「君が俺を殺したら、君は俺の命を奪うことになる。奪うって事はつまり、俺の命が君の所有物になるんだ。そうすれば、君は俺を忘れられなくなるだろう?」
 …そういう事、なのか。
「やっぱお前、変な奴だ」
「そう?」
「そんな考え方、僕は聞いた事無い」
「それは、俺と君が赤の他人だからだよ」
 ロスはその言葉に引っかかった。
 じゃあノンは、その赤の他人に殺されたいのか?側に居たいのか?あんな事したのか?雨に濡れたのか?…ああ、だから正気じゃないのか。
「ロス」
 真剣な声で名前を呼ばれ、ロスは目の前で横たわる青年に意識を戻した。
「もし君が俺の事を少しでも気にかけてくれているなら、俺を殺してよ」
 ノンの表情には緩みも固さも無い。あるのは強い願いだけだ。
 ロスは(おもむろ)にポケットからナイフを取り出した。それはロスの身を守る為の物であって、ノンの命を奪う為の物ではない。しかし二日前にロスを傷付けた以上、このナイフはもう裏切り者だ。ロスは裏切り者を両手で持ち、胸の前に構えた。ノンの、中心よりやや自分の方に寄った辺りの胸を、彼は見つめる。
「…本当に、いいんだな?」
 何故それをノンに確認したのか、ロスは自分でも分からなかった。死んだ後で文句を言われるなんて有り得ないのに。
「いいよ」
 ノンの表情は、死を覚悟したそれだった。こいつの中にも、こんなに強い覚悟があったのか。
 覚悟をしていたのはロスも同じであり、彼は目を閉じ、激しい動悸が収まるのを待った。しかし、心臓がロスの思い通りになってくれる気配は無い。
 …どうしてこんなに、僕の心臓はうるさいんだ?ノンを殺すのが、その命を奪うのが、そんなに怖いか?
 仕方ない。
 ロスは目を開けて、ナイフを無理矢理持ち上げた。手が震える。息が苦しくて、口で息を吸うしかない。暴れる心臓が、そこから飛び出してきそうな心地がした。
 ノン。どうしてお前はその命すら僕に与えるんだ。どうして……
「早く」
 …けれど、外してはいけない。
 ロスは真っ直ぐに、ナイフを下へ降ろした。
 そして彼の耳に聞こえたのは、何とも形容し難い音。人肉は、硬いと柔らかいの丁度中間だった。
 激痛に、ノンが顔を歪める。しかし口元は、笑っていた。ロスはその表情に、一種の恐怖すら感じた。
 ノンの鼓動が、ナイフを伝ってロスの手元に届く。ナイフを抜くべきかか抜かないべきか、ロスは迷った。前者は出血多量になり、後者は長く激痛に苦しむ。抜いて、とノンは荒い息の合間に言おうとしたが、ロスがそれよりも早くナイフを胸から引き抜いた。
 ノンが、痛みに喘ぐ。白い服の胸元は、じわじわと赤く染まっていく。ロスはその苦しみに終止符を打つように、あるいは今までのノンとの記憶を壊そうとするかのように、ナイフを刺し、抜くという行為を何度も繰り返した。一回ごとに、ノンの命はここから離れていく。ロスは無心だった。ただひたすらに、ノンが死ぬまで繰り返した。何度も何度も繰り返すうちに、ノンの呼吸は止まった。
「ノン」
 幾つ目の刺し傷を作った後だろうか。真っ赤な胸元を見つめ、ロスはノンの名を呼んだ。答えは無い。ナイフが草の上に落ちた。顔を見ると、痛いはずなのに穏やかだ。まるで眠っているかのようだった。
「ノン」
 もう一度呼んだが、ノンは体のどの部分も動かさなかった。彼は本当に眠っていた。これが自分の行動の結果、とロスは分かっている。ごく当たり前の事だ。しかし彼は理解に苦しんだ。
「ノン」
 その名前を持つ青年の胸に、ロスはそっと手の平を当てた。動脈血で濡れたが、それを気にする様子は無い。手をどかし、代わりに顔を近づけた。血の臭いが、ツンと鼻に来る。
 やがてロスはいつしかの彼のように、舌を出してその血に触れた。自分とは全く違う味。いくら舐めても、この怪我は治らない。
 馬鹿だ、とロスは思った。自分でやったことを、今確かに後悔している。もう、誰の事も笑えない。
 ロスは顔を上げ、じっとノンの寝顔を見た。こんな顔で殺される奴なんて、聞いた事も無い。それも、僕とお前が赤の他人だからなのか?
 お前は最期、何を見た?
 ロスの唇は、胸の次は唇に近づいた。理由は分からない。意味もなくそれをしたかった。ロスの体はノンに被さり、腕は背中を回り、目は閉じ、唇は重なる。されるよりもする方がずっと苦しい。どうして今になって気づいたんだ。
 ゆっくりとロスが体を起こしても、ノンは表情を崩さなかった。左の手首に、何かが触れる。それを引っ張り出すと、ロスは思い出した。そうだ、こいつは花が趣味だった。辺りを見ると、雑草が小さな白い花を咲かせている。ここに来た本当の理由は、それか?
 ノンは、これで濡れた手を拭いて、とロスにそのハンカチを渡した。今もロスは濡れている。しかしそれ以上にノンは濡れていた。
 ロスはハンカチを、ノンの胸に強く押し当てた。たちまちにそれは赤く染まる。どんなに力を強くしても、ノンは濡れたままだった。濡れる原因が自分自身にあるんだ。いくらこんなことをしても意味が無い。それでもロスは、手を緩めなかった。
 固く握りしめられた拳に、雫が一滴落ちた。
 赤くないそれを、ロスは見つめた。拳の上の雫は、一滴、またもう一滴と増えていく。ロスは顔をぐるりと真上に向けた。
「何だよ」
 雲一つ無い青空に、彼は呟いた。
「今日も雨か」

或る雨の日の事

 ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
 この話は、黒い世界(厘のミキ作)という漫画を読んだ後、衝動的に書き上げたものです。気になった方はそちらも読んでみると良いかもしれません。

或る雨の日の事

同性愛描写があるので苦手な方はご注意ください。 怠惰な毎日を送るロス。ある日彼の元に、「奇妙な」青年が現れた。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 一日目
  2. 二日目
  3. 三日目
  4. 四日目
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  6. 六日目
  7. 七日目