亡国にて

 彼らは確かに、幸せを手にしたのでしょうか。

 目が覚めて最初に見えたのは、道に力なく投げ出されている、自分の脚だった。
 僕は建物か何かに寄りかかって座っている。まず僕にわかったのは、それだけだ。
 顔をあげると、途端に華やかな光景が目に映った。特別豪華なドレスに身を包んだ貴婦人や、髭の形をさきほどから何度も確認している紳士など、一般人では触れる事も許されないような貴族が、何十人と道を歩いている。行き先と思われる方向には、大きな城があった。今日はあそこで舞踏会があるのかもしれない。小石を跳ね飛ばして、馬車が目の前を通った。そこにはきっと、どこかの国からやってきた王女が乗っているんだろう。彼らとは身分の違う一般人も、自宅の窓から顔を出して、豪華な人々に興味津々のようだった。
 ともかく、ここが豊かな国の城下町という事はわかった。だけどそれ以上に、わからない事があまりにも多すぎる。何しろ、自分を含めて(・・・・・・)今僕が見ている物の中に、見覚えのある物が何一つないのだ。一応、もう一度うつむいて自分の格好を見てみたが、やっぱり記憶にない。僕はそこでようやく、自分自身がどういう状態なのかを理解した。
「僕は…誰だ?」
 僕の中に、僕に関する記憶が全くない。名前も、生まれた国も、どのような人なのかも、顔もわからない。頭の中に、ぽっかりと空白ができている。所謂、記憶喪失ってやつだろう。
 そうわかるや否や、たちまち僕は不安を覚えた。記憶喪失?僕は一体誰だ?どうすればいいんだ?誰か僕を知っている人はいないのか?僕は、僕は――
 同じ姿勢のまま、頭だけは色々な考えを巡らせていた。さらに、他人に何の反応もされないという事が、この考え、つまり不安を煽った。ここには人が何十人といるのに、誰一人として、明らかにこの場にそぐわない僕に関心を示さない。まるでここには誰もいないかのようだ。じゃあ僕は、本当は存在しないとでも言うのか?
 …いくらなんでも、このままではいられない。僕は立ち上がり、目の前を通る紳士に手を伸ばした。もうこの際、何を言われたって構わない。その肩を少し叩いて、「すいません」と一言声をかけるだけだ。それで何かしら反応してくれれば、ひとまず僕の存在は確かな物になる。
 だけど現実は無情だった。僕の手は、どういうわけか紳士の肩をすり抜けたのだ。
「え…何で?」
 僕はもう一度手を伸ばした。もう二度、もう三度と繰り返したが、紳士は黙々と歩き続ける。他の人にも同じ事をしたけれど、結果は変わらなかった。しかもすり抜けるのは、人々ではなく僕の手の方だ。僕は一種の透明な存在(・・・・・)にでもなってしまっているのだろうか。…本当に、僕は存在しないと?……そんな、馬鹿な。
「そんな事しても無駄だぞ」
 ふと、男の声が聞こえてきた。雑踏の中で不思議と、その声は際だっていた。
 僕は反射的に、声の方に振り返った。いつからいたのだろうか、そこにはやや重そうな鎧に身を包んだ、齢五十程度と見られる男が、つい先ほどまでの僕と同じように腰をおろしていた。
「あ、あなたは?」
 僕は内心ではすがるような気持ちで、男の側へと歩みを進めていた。まあ、座れよ。という男の言葉に、僕はその隣に座り込んだ。
「お前、記憶がないんだろ?」
「……はい」
「俺も最初はそうだった。何、すぐに思い出すから心配するな」
 その口振りだと、男も最初は僕と同じように記憶喪失だったが、今はもう記憶を取り戻しているらしい。そうだ、もしかしたら僕の事を何か知っているかもしれない。
「あの、僕は一体…」
「俺に聞くんじゃなくて、自分で思い出せ」
 きっぱりと言われてしまった。でも確かに、僕はこういう人だと仮に今この人に言われたとしても、容易には信じられないだろう。いずれ思い出せるのなら、その方がいい。僕は別の事を、彼に聞いた。
「あなたは…僕が分かるんですか?」
「それは、君を認識できているのかどうかって意味か?」
「…はい」
「認識できないなら、何で俺は君と話せているんだ?」
「あ……ごめんなさい」
「謝る事はない」
 華やかな空気に似つかわぬ格好の男二人が、道端に座り込んで会話している。端から見れば異様な光景のはずなのに、誰も僕たちに目を留めようとしない。
「じゃあ…どうしてここの人たちは、僕たちに気づかないんでしょう」
「…それはな」
 男はしばし沈黙した。言おうか言うまいか悩んでいるようだったが、ついに彼は初めて、僕自身についての情報を与えてくれた。
「死んでいるんだ。お前も、俺も」
「え…?」
 僕が死んでいる?…いくらなんでも、それはおかしい。僕は今こうして目を開けているし、物事を考えられるし、息もしているし、脈もある。死んでいるはずがない。僕はそんな感じの事を男に訴えた。
「そう思い込んでいるだけだ。恐らく今の俺たちは、この空間の記憶(・・・・・・・)に紛れ込んじまった魂でしかない。だとしたら、ここの人たちが俺たちに気づかないのも当たり前だ」
 男は流れるように説明したが、僕には全く理解できなかった。
「…空間の、記憶?」
「俺たちは、今まで経験してきた事を記憶している。それと同じように、物質とかが存在する空間そのものも、その場で起きた事を記憶しているって仮説があるんだ。俺たちが今いるところは多分、その記憶の中だ」
 やっぱりわからない。空間が経験し、記憶する…?僕にこれ以上説明しても無駄と思ったか、男は別の話を始めた。
「ここがどこか、わかるか?」
 それは、例の空間の記憶ではないのか…いや、この人が言っているのはそういう意味ではないだろう。
「…いえ」
「ここは、レンジェルム王国っていうんだ」
 レンジェルム。確かに、道を行く貴族たちがその名を言っている。だけど僕の記憶の中には、そんな名前はない。
「レンジェルム…」
「随分と華やかな国だろ?」
「そうですね……舞踏会にこれだけの人が来るなんて、とても豊かな国って事ですよね?」
「まあな。この頃はまだ、豊かで平和な国だった」
 と、男は遠い目をした。今、目の前でこれだけ華やかだというのに、どうしてそんな言い方をするんだろう。
「…どういう事ですか?」
「現実では、レンジェルムという国はもう無い」
「え?」
「この国は三十年以上前、横暴な王政に反対する人たちによって内乱が起きて、滅んでしまったんだ」
「そんな…じゃ、じゃあ今僕たちが見ているのは…」
「それが、空間の記憶ってやつだ。レンジェルムがあった空間は、暴政や虐殺で国が滅びたっていう現実を見たくなくて、まだ華やかだった頃の記憶を繰り返しているんだろう。実際にはこのあたりは、破壊されなかったレンジェルム時代の建造物や家が放置されてボロボロになっている、寂しい場所だ」
 つまり今僕たちが見ているものは、レンジェルム王国…正確には、レンジェルム王国があった空間の、過去の姿。そう考えればいいのだろうか。まだ今一つわからないが、ひとまずはそういう風に考えておく事にした。
「…何か、思い出したか?」
 男は僕の顔を覗き込んだ。今の僕はきっと、浮かない顔をしている事だろう。
「いえ…何も」
「じゃあ、もう少し別の…そうだな、俺の話をしよう」
 じゃあ…?もしかしてこの人は、僕が自然に記憶を取り戻せるように誘導してくれているのか?
「俺も、レンジェルムの国民だったんだ」
 え?と僕は男に顔を向けた。気にせず、男は続ける。
「七歳年下の妹と、お袋の三人家族だった。貧しかったけどそれなりに幸せな家庭だったよ、俺の家は」
 過去形の言葉は、どうしようもなく寂しい響きを持っていた。男はその響きに浸っているのか、しばらくの間を空けてから、続きを話した。
「そして、親友もいた。小さい時からよく二人で遊んでたな。けど俺が十八の時、俺もそいつも王族の暴政のせいで親を亡くした。金も食糧も全部、税として毟り取られて、その結果飢え死にだ」
「…酷い……」
 僕はその当時、まだ生まれていなかったに違いない。だから記憶喪失でなくても、レンジェルムの記憶は僕の中には無いだろう。だからこそ、僕はそれ以外の言葉が言えなかった。
「ああ。でもそれからすぐ、もっと酷い事があった。俺の家に突然兵士がやってきたんだ。『お前達兄妹が王族へ反逆する意思を持ち、国王の暗殺を図ろうとしているとの密告があった』ってさ。もちろん身に覚えなんて全くない。そんなのは嘘だって否定したが、俺と妹は問答無用で連行され、牢屋に入れられた」
「…どうしてそんな事に?」
「親友が、嘘の密告をしたんだ」
「え…親友が?」
 男は何でもないように言ったが、それはつまり、彼が親友に裏切られたという事じゃないのか?…どうして?
「連行される時、俺ははっきりこの目で見た。あいつが兵士から、褒賞として金貨のぎっしり詰まった袋を受け取っているのをな。あいつはその金で他の国に逃げたんだ。俺たちを売って、自由を買った…みたいなものさ」
 その親友は、薄情で酷い人間だ。僕でもそれは分かる。だけど、なぜか僕は、その親友に対してどこか他人でないような感覚を覚えた。…誰なんだろう、その人は。
「……あとは酷いもんだ。俺と妹は処刑される事になった。裁判も何もありゃしねぇからな。…先に、妹が処刑された。連れて行かれる前に、『お兄ちゃん、助けて』って言ったのが…俺が聞いた、あいつの最後の言葉だ」
 僕は、この人の思いを実際に感じる事はできない。妹が処刑された怒りと悲しみは、僕が思っているよりもずっと深いのだろう。それだけの事しかわからない僕には、何もかける言葉が見つからなかった。
「次の日、俺が処刑されるはずだった。でも丁度その日に、武装した国民によって内戦が始まった。それで俺の処刑は行われずに済み、少しして内戦を鎮めるために来た他の国の兵士に助けられた。俺だけ生き残っちまったんだ。それ以来俺はその国で、騎士となって生きてきた……というわけだ」
 男の話は、そこで終わった。だけど、彼の人生と僕の記憶、繋がる要素がわからない。
「それは…僕の記憶に何か関係があるんですか?」
「所々。何か聞きたい事はあるか?」
 何が関係しているのか、心当たりはある。それについて聞け、という事だろう。
「その、裏切った親友は…」
 どんな人だったのか。本当にその人が裏切ったのか。最終的にはどうなったのか。どれを聞くのが正しいのかわからなくなって、僕はその先が言えなかった。しかし男は、先を促さずに言った。
「ああ。きっとこれを聞けば、何かしら思い出すはずだ」
 そして、その口から発せられた言葉。
「ダイティス=メラート」
 それを聞いた途端、ふっと頭の奥の方で、何かを包んでいた固い殻が溶けた。
「その親友の名前だ」
 知っている。一度だけ、孤児院の人に連れて行ってもらったんだ。そこにあった墓石にその名前はあった。その時、僕はこう言われた。ここにあなたの…
「君の父親の名前でもある」

 僕は、レンジェルムから遙か東にある、アンジェリスという国で生まれた。
 僕が物心つく頃には、母さんはもういなかった。僕を産んだせいで死んでしまったらしい。僕の父さん…ダイティスは僕の事を、母さんを奪った存在と見なすようになった。…きっと、それだけ母さんの事が好きだったんだろう。
 僕の記憶の始まりは、鬼の形相で拳を振りかざす酒に酔った父さんと、全身に感じる痛みだ。
「お前さえ生まれてなければセシリアは死ななかったんだ!くそっ、何でお前なんかが生まれたんだ!お前がセシリアを殺したんだ!」
 父さんからは、そんな事ばかり言われた。僕はただわけもわからず、ごめんなさいと謝って許しを乞う事しかできなかった。今になってみると、よくあの時死ななかったと思う。
 そんな日常が変わったのは、僕が五歳になった頃だった。いつものように父さんが大量の酒を(あお)り、目障りな僕を殴ろうと手を上げた。僕は歯を食いしばり、目をぎゅっと閉じて、次に襲いかかってくる痛みに耐えようとした。しかし、いつまで経っても殴られない。代わりに、目の前でドサッと、何かが倒れる音がした。恐る恐る目を開けると、そこには泡を吹いて仰向けに倒れている父さんの姿があった。しばらく目を見開いて、喉のあたりを掻き毟るような手の動きをしていたが、やがてはその動きも止まった。
 後になって聞いたところによると、父さんは急性アルコール中毒による呼吸困難で死んだらしい。けどその時の僕に、そんな事がわかるはずがない。そもそも僕は、父さんから死という言葉をさんざん聞かされていたが、それがどういうものなのかは知らなかった。だから目の前で倒れている父さんが、その『死』という状態になったという事を、僕は理解できなかった。ただ、いつものように鼾をかいて寝ているのとは違う、とだけはわかった。
「お父さん……?」
 反応はない。
「お父さん!」
 大声で呼んでもそれは同じだった。普段だったら、このくらいの声量で呼ばれるとすぐに起きて「うるせえ!」と殴られる。
 …もしかしたら、できるかもしれない。僕は父さんの異変を心配するよりも先に、慎重に父さんのズボンのポケットに手を伸ばした。その中に玄関の鍵がある事はわかっている。今までに何度も同じ事を試みたけど、眠りの浅い父さんはすぐに気づいて、僕を殴った。
 もちろん、死んだ人間にはそのような事はできない。僕は無事に鍵を手に入れ、やっと他人に助けを求める事ができた。初めて浴びた直射日光は、暖かかった。
 父さんは葬儀を挙げられる事なく、母さんの隣に土葬された。一方、身寄りのなくなった僕は、孤児院に預けられた。そこの人たちは皆、僕を殴る事も怒鳴る事もしない代わりに、惜しみない愛情や友情を僕に約束してくれた。普通の人ならそれは当たり前の事なのかもしれないけど、僕にとってそれらはずっと、どんなに欲しくても手に入らない物であり続けていた。
 それからの僕は、今までと比べ物にならないほど幸せだった。毎日が楽しかった。五年間笑えなかった分を沢山笑ったし、遊べなかった分を沢山遊んだ。幸せ以外に、あの時の僕を表現する言葉はきっとない。あるならばぜひ教えて欲しい。
 幸せを知った僕は、やがて幸せだけでなく夢も手にする事となった。
「騎士って凄いよな。だって皆のためになる事やってるんだぜ?」
 ある日、友達がそんな事を言った。騎士とは、国と国民を守る存在。だから皆から尊敬され、頼りにもされる。誰もが憧れる存在だ。
 僕はふと思った。こんな僕でも、誰かの役に立てるのだろうか。誰かから尊敬されるようになるのだろうか。初めは漠然とした憧れだった。しかし時が経ち、成長するにつれて、憧れは僕がなんとしてでも叶えたい夢へと変わっていた。僕は誰かのためになる事で、僕を否定し続けていた父さんは間違っていた事を確かにしたかった。あるいは、死後の世界にいるかもしれない父さんに、自分でも人のためになるし、生きていたっていいんだと見せつけたかったのかもしれない。
 十六歳になった年、僕は孤児院を出て、訓練の後に少年兵団第十四部隊に入隊した。騎士のサポート役である少年兵になる事はつまり、騎士になるという夢に近づいた事を意味する。僕が誰かのためになれるまで、あと少しだった。
 少年兵団に配属されてから三ヶ月後、第十四部隊は西方にあるサネージという国へ、視察に行く事になった。サネージはアンジェリスからはだいぶ遠いところにあるが、道中特に何の問題も起きることなく、出発してから数日後にはサネージに到着していた。視察というものは、内容が最初から決まっている。現地の騎士団の人から国政や経済の状況についての説明を受け、合同訓練をし、城下町を見学する。これまでに視察した国ではそうだったし、サネージでもそれは同じだった。ただ奇妙な事に、僕はこの視察一日目の間、何度も誰かの強い視線を感じた。その度に視線の元へ目を向けたが、そこにはいつも一人の騎士がいた。彼は僕の事を知っているのだろうか?だけど僕は、その騎士と以前に会った覚えはない。僕が、どうかしましたか?と聞こうとも思ったが、残念な事に聞くタイミングが掴めなかった。まあ視察は明日もある事だし、急ぐ必要はないだろう。僕はさして気にする事なく、一日目の視察を終えた。
 しかし二日目に聞く必要は無くなった。その夜、僕はは隊員の一人に呼ばれた。僕に会いたいという騎士の人が来ているという。もしかして、あの人だろうか。彼が待っているという宿の外へ出ると、案の定そこにいたのは、あの騎士だった。どうして、わざわざここまで会いに来たんだろう。
「…もしかして、君の父親はダイティス=メラートというんじゃないか?」
 僕が何かを言う前に、騎士は怖い顔をしてそう聞いてきた。
 墓石で一回見ただけだけれど、ダイティス=メラートという名は知っている。この騎士は、あの人を知っているのか?どんな関係なんだ?そもそも、どうして僕があの人の子供だと知っているんだ?聞きたい事は沢山ある。でも、質問に質問で返すのは失礼だ。
「はい、そうですけど…」
 その答えを聞くや否や、騎士は強く歯を食いしばり、僕に背を向けた。
「着いて来い」
 それだけ言い、彼は早足で歩きだした。知らない人についていってはいけません、と昔孤児院の大人達に言われていた。だけど今の僕は、そこで言われている『知らない人』の基準を知っている。多少ここを離れても、さっき僕に伝えてくれた隊員がいるから大丈夫だろう。僕は騎士の言うとおりに、彼の背中を追った。
 道中、騎士は少しも僕の顔を見ようとはしなかった。あなたは誰ですか?どこへ向かっているのですか?僕は何度か質問したが、彼は答える素振りをまるで見せない。仕方なく僕は、黙って彼の後に着いて行く事にした。
 三十分ほど歩いただろうか。僕たちは兵士が警備するサネージの国境に到着した。サネージの城下町は国境のすぐ側に位置している事は知っていたが、まさか越える事になるとは思っていなかった。
 騎士が通行証を見せると、門はすぐに開かれた。この先は、かつてレンジェルム王国があったところだが、今はどの国も統治していない。そこにあるのは、ただの平原だ。家の灯りがない平原は、夜にはほぼ真っ暗になる。ランタンのような灯りになる物を何も持っていない僕たちにとっては、雲の切れ間から注ぐ満月の光だけが頼りだった。しかし騎士は、その満月の光すらも届かないような森へと入っていく。僕は思わず足を止めたが、その事に気づいていないのか、あるいは気にしていないのか、騎士は構わずにどんどん進んでいく。今更引き返す事もできない。僕は意を決して森の中へ足を踏み入れた。
 案の定、森の中は真っ暗だった。足下が全く見えず、僕は何度も転びそうになった。だがそのような状況でも、ぼんやりと見える騎士の影と、歩く度に鳴る鎧と草の音のおかげで、騎士を見失う事はなかった。暗闇の中で、虫の鳴き声と金属音と草を踏む音はよく響いた。二十分ほどすると、単調な行動と、同じ景色と、同じ音が繰り返される現状に、気が狂いそうになるのを感じていた。いつまで続くんだろう…もしかしたら、この森には終わりがなくて、この騎士も実は人間じゃなくて、僕は永遠にここを彷徨う事になるんじゃ……そんな妄想に怯えたりもした。どうすれば?今から戻ろうにもこんな暗闇じゃ道がわからない。どうしようもないじゃないか。じゃあ、僕はこのまま……
 たまらず、僕は口を開いた。もう六回目だ。無駄だとわかってはいても、妄想を否定するためには、聞くしかない。
「教えてください。…あなたは誰ですか?どこへ向かっているんですか?」
 やはり、答えはない。だけどすぐに、希望が見つかった。森の終わりが見えたのだ。
 今までずっと同じペースで歩き続けていた騎士が、ここに来て急に足を速めた。慌てて僕も、早歩きでその後に続いた。
 そして再び月光の下に立ったとき、僕の眼前には町があった。町、正確にはかつての王国の名残には当然、灯りも人気もない。
「…ここが、レンジェルム……」
 話に聞いた事しかない亡国を目の当たりにした僕は、そこから感じる虚しさと寂しさに取り憑かれた。ここには誰もいない。が、何かはある。その何かは必死に、ここで起きた悲劇を僕に訴えている。平和な時代しか知らない、この僕に。昼間に見た遺跡も銅像も、この街の前では何の意味も成さないように僕は感じた。
「お前も、まさか覚えてるだろ?」
 突然、騎士は口を開いた。街に意識を奪われていた僕は、その声で我を取り戻した。だけど、何を覚えているというのだろう?
「三十年…俺はずっと待ってたんだ」
 …違う。僕は直感した。彼は僕に話しかけているんじゃない。…じゃあ、誰に?
 騎士はユラリと僕の方を向いた。僕を睨むその目に込められていた思いを、僕は容易に読み取れた。怒りと憎しみと恨み、負の感情を前にして、僕は立ちすくむしかなかった。恨みの権化のように思われる騎士は、一歩また一歩と僕に近づいていく。殺してやる――呟きか幻聴かわからない声が聞こえた。僕は確かに命の危険を感じたが、足が動かない。…父さんと同じだ。僕はこの人が、怖くてたまらない。
 動け、動け、逃げないと――僕は死ぬ。死にたくなんて、ないのに……。騎士は悠長に僕が逃げ出すのを待ったりはしなかった。彼は懐に忍ばせていたナイフを手にした。人を殺すには十分な大きさだ。月光に照らされて、ギラリと刃が光った。
 それでも――いや、だからこそ僕は動けなかった。疑問と恐怖で混乱しきっている僕に、鋭い切っ先が向けられる。
 騎士に迷いはなかった。負の感情を乗せた刃先を、彼は無抵抗な僕の腹へ、深々と突き刺した。直後、僕を襲ったのは、気を失いそうな激痛と、腹の底からこみ上げてくる血液だった。血を吐いた僕は、体重を支えきれなくなって仰向けに倒れた。視界の真ん中に、月が見える。
「あの後俺らがどうなったかなんて、お前は知らないよな?」
 騎士はナイフを引き抜き、僕に馬乗りになった。出血が増え、僕の服があっと言う間に赤く染まる。意識が朦朧としている僕は、騎士の言葉を聞くだけで精一杯だった。
「リーナは死んだ。処刑されたんだよ、暗殺を企てた罪で」
 今度は心臓にナイフが突き立てられた。鋭い痛みに、僕は声を上げ、目から涙を零した。しかし、まだ死なない。
「お前のせいで…リーナは死んだ。お前が…お前がリーナを殺したんだ!」
 騎士も泣いていた。もう、指先を動かす力も残っていない僕は、早く殺してほしいと思っていた。死にたい訳じゃない。でもこの傷は深すぎる。痛いし、助からない。僕は騎士になりたいのに、その騎士に殺される。やっぱり僕なんかが騎士になるなんて、おこがましかったんだ。僕は、生きてていい人間じゃなかったんだから。この人も父さんと同じ事を言っている。僕は人殺し。僕は死ぬべきなんだ。そんな僕が、誰かのためになんて……
 ふっと、僕の眼前に、死んだはずの父さんが現れた。僕の顔をのぞき込んで、笑っている。僕の記憶にはない表情だ。その隣には、どこかで見た事のある女性が、同じように笑っている。――そうだ、写真。部屋の隅にあった写真立ての中の写真に、父さんとこの人が映ってた。じゃあ、この人がセシリア――僕の、母さん。
 僕が最期に思い出したのは、友達でも、仲間でも、孤児院の大人でもなく、記憶の奥底に埋もれていた両親だった。僕は、幸せな家族の中に生まれてきたはずだった。…あの頃の父さんは優しかった。あの世で父さんと母さんは…どんな顔をして僕を迎えてくれるんだろう。できる事なら……
 そこで、僕の意識は闇に堕ちた。

「君は、若い頃のダイティスにとてもよく似ている」
 全てを思いだした僕に、男――つまり僕を殺した騎士は、独り言のように話しかけた。
「言い訳にしか聞こえないかもしれないが…俺は君が、ダイティスにしか見えなかった。それで殺さずにいられなくなったんだ。……あの時の俺は、どうかしてた」
 騎士の声や表情に、負の感情は見られない。ただ後悔だけは、はっきりと感じられるほど滲み出ている。
「すまない事をした……なんて問題じゃない。そんな言葉じゃ取り返しがつかない事を、俺は君にしてしまった。罵倒でも何でも、甘んじて受け入れよう」
 負の感情がない、というのは僕も同じで、自分を殺した犯人が目の前にいるというのに、何故かそれについて何も感じない。
「あの…僕があなたに殺されたなら、あなたはどうして死んでいるんですか?」
 騎士は驚いた表情をした。僕がそれを知ってどうするんだ、とでも思っているのだろうか。それでも彼は、答えてくれた。
「君を殺した後…レンジェルムの町に入った。建物の配置以外、何もかも変わってしまっていた。当たり前だよな、三十年もほったらかされていたんだから。…けど、小さい頃よく遊んだ町外れの丘は、何も変わってなかった。そこからは街全体がよく見渡せて、夜の景色なんか最高だったんだ。俺はその丘に登って、街をしばらく見下ろしてから、自刃した」
「自刃…!?どうして…」
「もう生きていられないって思ったんだ。いくら君がダイティスの息子で、ダイティスによく似ていても、それを理由に殺していいはずがない。俺はダイティスの家族を殺した。その点で俺は、あいつと同罪だ。そんな状態でおめおめと生きたくはない」
 騎士は長い溜息を吐いた。彼が抱く後悔は、僕にも痛いほど伝わった。
「…ところで、ダイティスは今どうしている?」
 そうか、この人は父さんがどうなったかを知らないんだ。僕は自分の父、更には母の事も、包み隠さず騎士に話した。
「虐待、されていたのか……それは辛かったな」
「でももう、ずっと昔の事ですから」
「そうか…しかし、皮肉だな。俺たちを殺して長生きするつもりだったのに、俺よりも早く死ぬなんて。…結局、俺のした事は、ただの人殺しって事か」
「…でも僕は、あなたを恨んだりはしていませんよ」
 その言葉を聞いた騎士は、また驚いた様子で僕に顔を向けた。僕は彼を見つめ返す事なく、続けた。
「あなたを恨んで僕が生き返るわけでもありませんし。それに僕が死んだ事で、少年兵団に一人空きができましたから。他の、騎士になりたい人が夢に近づけたって考えれば、僕の死はちゃんと意味があるって思えるんです。…僕の仲間たちは、悲しむかもしれないけど」
「どうして…そんな風に考えられるんだ?君だって騎士になりたかったんだろう?」
「確かにそうですけど…そもそも、僕が騎士になれるはずがなかったんです。騎士は誰かのためになれる人じゃないとなれません。…僕は、そんな人じゃなかったんです」
 それ以上言う事は、何もなかった。騎士はそれ程間を開けず、返事をしてくれた。
「君は間違っている」
 そう言って僕の顔を見つめる騎士の目は、迷いがなくまっすぐだった。
「間違ってる……?」
「誰かのためになれない人なんていない。人のため、と在る事に権利なんて必要ないはずだ。それに、俺は一応サネージの騎士だったが、誰かのためになりたいなんて立派な理由で騎士になったんじゃない。レンジェルムからの移民が就ける一番安定した職が騎士だったってだけだ。その上、君を殺してしまった。そんな俺ですら、騎士としてやってこられたんだ。君が騎士になれないわけがない」
 権利が必要ないというのも、彼が騎士となる動機も、僕のためにつかれた嘘、という風には聞こえなかった。…信じても、いいんだろうか。
「でも……」
「…もしかして、ダイティスに言われた事を気にしてるのか?」
 なおも納得がいかない僕に、彼はまさしくその通りな事を言った。僕は小さく頷いた。
「君のお母さんは、君のせいで死んだんじゃない。いや、誰のせいでもないんだ。だから君がそれを理由に、自分は誰かのためになれないとか考えているのなら、それも間違いだ」
「そ…そうなんですか?」
 騎士はまっすぐな目のまま、確かに頷いた。その時僕は、自分が抱えていた重い荷物か何かが、背中から滑り落ちて行くような気がした。…僕はずっと、自分が信じていた事を否定して欲しかったんだ。
「…今更こんな事言っても仕方ないが」
 騎士は少し悲しそうな目をして、僕に微笑んだ。
「君はきっと、いい騎士になっただろうな」
 その言葉は、じんと僕の胸に染み渡った。死んでからそんな事言われてもとか、今更そんな事言わないでとかは思わなかった。ただ、純粋に嬉しかった。それだけで、僕が生まれてきた意味はちゃんとあったように感じられた。
「ありがとう…ございます。その言葉だけで、僕はもう十分です」
 それに、と僕は本心の告白を続けた。
「騎士になれなくても、僕の願いはたくさん叶いました。孤児院の大人たちに優しくしてもらったし、友達もできた。夢だって、手にする事が出来た。もし父さんが死んでなかったら、僕はきっと、ここまで生きていられなかった。それと比べれば、僕は十分幸せな人生を送ってきました。だから、いいんです」
 僕は、騎士に笑ってみせた。笑う事で、僕の言った事は本当なんですよ、と伝えるつもりだった。騎士は僕の顔を見て何を思ったか、僕から顔を背けた。
「…僕たち、これからどうなるんでしょう」
 もう、僕の過去の事はいい。あと残っているのは、これからの事だ。僕は話題を変えた。
「さあな。ただ…推測でしかないが、多分俺たちは、レンジェルムで死んだからこれを見せられている。死んだら魂は体から出ていくはずなのに、この『空間の記憶』に押さえつけられて、体から魂が抜けられないんだ。だから、俺たちの死体がレンジェルムから離れれば、魂はここから解放される…のかもしれない」
「えっと……つまり、誰かが僕たちを見つけて、死体を運んでくれればいいって事ですか?」
「ああ。…多分、夜が明けたら君の所の兵団か、俺のとこの騎士団が見つけるだろう。レンジェルムにいるっていうのは、国境の兵士が知ってるからな」
 細かい理屈はよくわからないけれど、ともかくここに永遠に居続けなければいけない、というわけではないらしい。僕はほっとした。しかし、騎士が次に言った言葉で、僕の安堵はすぐにどこかへ行った。
「もっとも、ここから出られるのは君一人だけだが」
「え…?ど、どうして僕だけなんですか?」
「運よく、この町の家に、紙とペンが残ってたんだ。だから俺は遺書を側に残しておいた。君を殺したのは俺だって事と、俺の死体をサネージに持ち帰るなって事を書いた。どうせ朽ち果てるなら、故郷の方がいいってな。だから多分、俺はずっとここから出られない」
 騎士は自嘲気味に笑った。そんなつもりはなかったのに、この、誰にも気づいてもらえない世界で、ずっと一人でいるなんて…とても自分では耐えられない。僕は震える声で聞いた。
「そんな…僕がいなくなったら、あなたはここで一人になってしまうんですか?ずっと?」
「そういう事になるな。レンジェルムで死ぬ人がこの先現れるって事も無いだろうし…まあ、そのうちここに新しい国が出来たら、話は別だけどな」
「でもそんなの、いつなのかもわからないし…下手したら、永遠に……」
「こればっかりは仕方ない。実際、どうこうできる話じゃないからな」
 僕は何も言えなくなった。かける言葉が見つからなかった。どうこうできる話じゃない、確かにそうかもしれないが、それを受け入れられる事が、僕は信じられなかった。
「それに、きっとこれは俺への罰なんだ。復讐にばかり囚われて、何の罪もない少年を殺した罰。君の代わりに、この町が俺に罰を与えてくれたんだろう。だから、このままでいいんだ」
 罰…じゃあこの人は、もし自分もここから出られるとしても、ここに居続けると言うのか?そんな必要なんてないのに。…いや、僕が許しても、きっと彼自身が許さないのだろう。
「…もう、夜明けか」
 騎士は僕の手先を見ながら、そう呟いた。僕も騎士と同じ部分を見て、息を呑んだ。手が透けている。いや、手だけではなく、全身が一様に色を失いつつあった。
「え?な、何これ!?」
「現実では、もう夜が明けたんだ。君を抱えた誰かが、レンジェルムの国境に近づいている。その人が国境を越えたら、君の魂はここから解放される。…大方、そんなところだろう」
「そ、それじゃああなたが……」
 そうしている間に、僕の姿はどんどん消えていく。視界は白い靄がかかったようになっていった。その視界の真ん中で、騎士が笑う。
「俺の事はいい。君は、もうこんなところにいる必要はないんだ」
 その笑顔は、僕が最期に見た父さんの笑顔によく似ていた。僕は思わず見えない手を騎士の方へ伸ばしたが、その行為は何の意味も持たなかった。
「あの世ってのがあるのかは知らないが、そこで君が幸せでいられるよう願っているよ」
 消える直前、遠い声を聴いた。だが僕は…僕の魂は、その声に答える事はできなかった。
 幸せ――その言葉を最後に、僕の魂は何処かへと消えた。

 夜になり、舞踏会はいよいよ盛り上がってきているようだった。城の上空では、火薬で出来た大輪がいくつも咲き続けている。
「花火か」
 俺は何となく、呟いてみた。あの頃よりも少しだけ近くなった花火が、俺の目には映っていた。
 俺が寄りかかっている家に、一人の来訪者が現れた。
「なあ、早く行こうぜ!花火が終わっちまうぞ!」
「大声出すな!リーナが起きるだろ」
「あ、悪い悪い。それより、お前行かないのか?」
「そんな事言ってないだろ。……お母さん、ダイティスと花火見てくるよ」
 二人の少年は、俺の前を走っていった。その行先を、俺はよく知っている。だが俺に、自分もその場へ行こうとする意志は無い。俺にはこの場所で十分だ。
 咲いては散り、また咲いては散り。その繰り返しの果てに、一際大きな花が夜空を彩った。周囲から、おおっという感嘆の声と、拍手が上がった。
「花火って、こんなに綺麗だったのか」
 俺は思わず、誰に宛てたでもない言葉を口にしていた。
 しかし、終わらないものは無い。その大輪もやがては散り散りになり、夜の暗闇へと溶けて消えてしまった。

亡国にて

 ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
 これは今年の学園祭で、漫研の部誌に載せた物です。しかし、ネットに載せる際に大きく改定しました。
 ご察しできた方もいらっしゃるかもしれませんが、この小説は長いファンタジー小説の一部分です。元の長い小説も、受験が終わったら書くつもりです。

亡国にて

見知らぬ街で目を覚ました少年。彼は記憶と、自分の存在感を失っていた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-05

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