彼と僕のお話
彼と僕と歴史のお話
「Hell」 「Buon giorno」 「Guten Tag」
「Bonjour」 「Buenas dias」 「你好」
――――
「何を言ってるんだ?」
彼は怪訝そうに僕を眺めるとそう言った。僕は小さく笑って答える。
「こんいちは、って言ってるんだよ」
彼はいつも本を読んでいた。その傍らで、彼への嫌がらせも含めて動き回るのが僕の日課。彼は自分の体がすっぽりはまる座り心地のいいお気に入りの椅子に座って、読み途中の本を閉じると僕を横目で見てくる。
「若干のズレはあるのかもしれないけど、おはよう、こんにちはって絶対それらの挨拶をしない国はないじゃない? それと同じで、どんな思いも上手く使えばある程度相手に伝わるようにできてるじゃない、言葉ってさ。だから国語以外の言語を学ぶことができる。そう思うとさ、人間って、生まれた場所も言葉も外見も違っても、そういう思いを伝えられるようにできてたんじゃないのかなって、思えるんだよね。これって、何故だと思う?」
僕が尋ねると、彼はくだらないとでも言いたげに、まつ毛の長い目を閉じてこう言う。
「そういうのは、神がそう作ったんだ、とでも思っとけばいいんだよ」
「ほかに答えはないの? 全部神様?」
「あるだろ、他の答えなんて。もっと頭のいい奴からしたら。でも、お前の脳はそこまでなんだ。無理をすることなんてない」
「きみの答えはないのかい?」
悪びれた様子もない彼に、僕も気にした様子もなく平然とそう尋ねると、彼はだんまりとして口をふさいだ。ずっと隣にいた僕なら分かる。彼がだんまりとするのは、答えがないからでも答えられないからでもない。その答えを言いたくないからだ。
「……ふーん、そういうものかい?」
僕が諦めて話をなかったことのように話始めると、彼は再び口を開く。
「……そんなもんだ。自分の中では答えがだせないような点を、いつだって人は神ってやつに押し付けてきたのさ」
話が終わった頃を悟ったように、彼はまた本を開く。僕はその仕草を眺めた。彼の長くて細くて綺麗な手が、本のページをなぞるように捲る。
「君は本が好きだね。……じゃあ、君が飽きるくらいに歴史書を読みあさるのも、神様が関係しているのかな?」
これまで何度かどうしてそんなに本を読むのかと尋ねたことがある。そのたびに彼はだんまりだ。僕が幼かったというのもあるのかな。「言ったところでお前には理解できねぇよ」とよく言われた。今回もきっとそんなものなのだろうと、だめもとで僕は尋ねたつもりだった。
「お前だって本を読むだろ」
「僕が読むのは、物語だ。歴史書じゃない。それに歴史って、馬鹿らしいじゃない。嘗てだれだれがこうしたことをやってきた、なんていくら時代が進んでもそこにあったのは戦争だ。戦争は人を殺すだけだと解っているくせに、それでも同じことを繰り返す。何度も何度もそんなことが書いてある。だから読む必要性を感じない」
僕が肩を竦めて言うと、彼は開いたままの本に視線を落としながらゆっくりと唇を動かす。
「そうでもないさ、と俺は言わねえよ」
彼の言葉に、耳を疑い目を見開く。
「言わないの? 僕はてっきり君のことだから「お前にはまだ理解できねぇんだよ」と小馬鹿にしてくるものかと」
「お前の中の俺っていう人物の認識になら言いたいことがあるけどな」
だっていっつもそうじゃないか、と僕が口をへの字にして返すと、今度は視線を上に向けて彼は言う。
「お前の言う通り、歴史の大半にあったものは惨い出来事ばかり。聖戦だなんだと謳っても、そこにあったのは死だ。結局歴史は繰り返して繰り返して、きっと世界はぐちゃぐちゃによく分からなくなって、そしてそのすべてを見てきたやつだけが真相を知っている」
「それは神様?」
僕の問いに、彼は笑う。
その笑顔は今まで見た事がない彼の笑顔で、実に美しく実にはかなげだった。
「誰でもいいさ。好きな奴を思い浮かべとけ。話を戻すぞ。全てを知っているのはそいつだけだとして、お前はどうする? これまで人間って奴らがしてきたことをどう考える?」
「僕は大人じゃないからさ、戦争で得たものなんてよく分からないよ。きっと得なかったものがない戦争なんてないでしょ、良くも悪くも。それで思うんだ。いつの時代も、誰かが犠牲として死なないと、誰も生きられないみたいだな、って」
僕が若干俯きながら言うと、彼は「そうなんだろうさ」と顔色も声色も変わらずに言い切った。
「誰も死なない平和な世界なんて、なかったんだからな。そりゃ比率は時代ごとに違うだろうが、誰も死なない世界で人は生きていける訳がない。人ってのは、死ぬものだからな」
「僕は死に方の問題を言ってるんだよ?」
そう言うと、判ってるよ、と言いたげに彼は微笑む。僕より先に生きてるからと、彼はいつもこんな調子だ。
「君はそう思っていても、それでも歴史を学ぶのかい?」
「学んでなんていない。お前は言っただろ、繰り返してるだけだって。俺はな、歴史を繰り返さないために歴史書を読んでるんじゃねぇんだよ」
彼は分かっていた。「じゃあなんで?」と僕が尋ねるということを。だから僕が口を開く前に答える。
「俺もきっと、この歴史っていうのに関わる立ち位置だろう。年月が経てば文献に載ってたりするような」
「だから義務的に読んでるって?」
僕が「納得がいかないなぁ」と腕を組んで呟くと、彼は「ちげぇよ」と笑う。その笑顔はすぐに消えた。
「俺はさ、会ったことも見たこともない奴らがしてきたであろうことを本で読んで、まるで自分が経験してきたかのように、知識を付けた気でいたいんだ。そうしていれば、俺は今までの奴らみたいに、同じことを繰り返したりしない。お前みたいな子供に、どこかで愚かな者だと悟られたりしないと、そう思っていられるだろ。それだけなんだよ」
彼の本音というものを初めてきたかのように、僕は驚いた。この件に関して、彼が語ってくれるとは思ってもみなかったし、その奥にあるすべてのものを見せてくれるとも思っていなかったからだ。
「……君はこの仕事向いてないよね。もっと普通の家庭に生まれて、普通の生活をしていたらさ、きっと君は幸せだったよ」
「それはきっとお前も一緒だろ」
言って、僕らは小さく笑った。
今が幸せじゃないって訳じゃない。それでも、別の人生が、と僕は彼に、彼は僕に思っている。
「これも、神様の仕業かな?」
「ああ言っておいてなんだが、あんまり可哀想に神をいじめてやるなよ」
ははははと笑いながら言う彼に、僕は少し茫然とした。
「やっぱり君はよく分からないやつだなぁ。神様をいないもののようにいいつつも、いるもののようにもいう」
「ああ? 俺は神を信じていると言った覚えはないぜ。いるともいないとも思ってない」
「だからそれが分からないっていうんだよ」
頬を膨らませる僕に、やっぱり彼はすまし顔だ。
「いるとは思ってないが、もしそんな奴がどこかにいたら、可哀想だと思うだろ」
「どうして? 神様って僕らの人生思うがままだろ?」
「そうやって、人ってのは神って奴にすべてを押し付けてきたからだよ。神が残酷だとはいろんなものでよく言われるが、残酷じゃない神なんて、この世界のルール上、存在しうると思うか? それこそ、蛇が誰かさんをそそのかさなければ、なんて言い出したのさ」
感心すればいいのか呆れればいいのか。彼はまるで神様が友達みたいに話すんだ。
「君の意見はなんというか、かたむいてるよ。なんで傾いて感じるかと言えば、君の中の神って存在の扱いがよく分からないからさ」
「そんなの知る必要はない。まぁもし、神って奴が誰の中にも一人いるとすれば、それはこっそり思いたいこと思ってりゃいいのさ」
目を閉じる彼。仕草の一つ一つが優雅で、そこがまたムッとする。余裕があるのかないのか。底を見せない。
「意味がわからないなぁ……」
「ならそれも、神の所為にしとけ」
笑う。この笑顔はいつになっても謎だ。彼という存在が謎なんだ。だからきっと僕は、ずっと君にこう問い続けて生きていく。君は誰なんだい? って。
彼と僕と別れのお話
「嘗て、挨拶の話をしたのを、君は覚えてるかな」
「君は記憶力よかったからね。きっと僕としたくだらない会話まで覚えてるんだろう?」
「だからきっとその話も覚えてると思って喋るよ」
「挨拶っていうのは、言ったら返ってくるものだし、言われたら返すべきものだと思っているけど、必ずじゃない。一方的に言うこともできる。「さよなら」とか、そういうのは特に。今回はさ、そういうのじゃなくて「ただいま」とか「おかえり」とか「いってきます」とか「いってらっしゃい」みたいな、お互いを縛っている言葉の話をしようと思うんだ」
「ふと考えたことはないかい? これらってどっちを先に言うことが多いんだろうね? ただいまって言われたから、おかえりって返すのか、おかえりって言われたからただいまって返すのか。これだって挨拶と変わらないと君は言いたいかな? 確かに一方的になるときだってあるけど、でも存在自体がお互いを縛っているだろう? どっちが欠けてもダメなんだ。どっちもいないと、さ」
「ここまで言うと頭のいい君だから、僕が言いたいことがなんとなく分かったと思う。それでいて君は無言を返すんだ。そこまでされると、無理に聞きにいくのも野暮ってものさ。だから僕は聞かないよ。君もそう思って、眠っているんだろう?」
「見てごらんよ。今日はとってもいい天気だね。映画とかだと、こういうシーンは大雨だったりするんだけれど、これは……君から僕への「泣くなよ」ってメッセージとでも受け取ればいいのかな」
「ああ、心配いらない。泣かないよ。もう子供じゃないんだ。……でも、まぁ……うん。寂しいよ。ずっと一緒にいたんだからさ。君もそう思ってる? 思ってても、君は顔に出さないだろうな。そういうの、本当に表に出さない人だったよ、君は」
「僕はそんな君が心配でさ。君はいっつも本音は胸の中で。すぐ誤魔化すし、僕が子供だからって教えてくれないことが多かったり」
「僕はずっとこう思っていたんだよ。君は一体誰なんだろう、って」
「情報の話じゃないよ? 名前とか性別とか生まれとか、君のそういった個人情報やその他もろもろを僕ほど知っている人間もいないと思ってるよ」
「そういうんじゃなくて、君って人間そのものがさ、僕は分からなかったんだ。君のことはいろいろ知ってたよ。寝るとき何故か口に手を添えて寝る癖とか、口が悪いけど優しかったり、子供嫌いに見えて実は好きだったりとか、そういうのは」
「でもどうしても君の姿は見えなかった。その理由はなんとなく分かっているけどね。君は本音をあまり言わなかったし、他人に自分を知られなくていいと思ってた。全く寂しい奴だったね。だから僕ははらはらどきどきでさ。いつか君が寂しく死んでいくんじゃないかって。君のことを誰も知らない人達に看取られてさ」
「案の状そんな感じだったじゃないか。僕は思ったね。君は利口だったけどバカだったって。傍にいて欲しいくらい、言ってくれてもよかったじゃないか。そうすれば僕は、直ぐにでも飛んで行ったのに」
「あーあ……。泣かないって言ったのに、なんだか悲しくなってきちゃったよ。ぽっかり心に穴が空いたみたいだ、ってなんて上手い比喩なんだろうね」
「……僕の気持ち伝わったかな。本当は怒りたいよ。ボカボカ殴ってもやりたい。君が珍しく僕にこてんぱんにされて、「悪かった」なんて謝っても僕はやめてやらないんだ。だから、覚悟しといてよ」
「――それじゃ、僕はもうそろそろ行くよ。家で家族が待ってるからさ。またね――。あ、言い忘れてた。これを言わないと、返事を貰えなかったね」
「また会うときまで。……行ってらっしゃい」
彼と僕と二人だけのお話
「はい」
僕が差し出した手を、君は心底不思議そうに見つめた。
「何だよ?」
「捕まりなよ。その方が立ち上がりやすいでしょう?」
僕は言うが、彼は一向に手を伸ばそうとはしてこない。
「一人でも立てる」
「立てるか立てないかじゃなくて、誰かの手を借りた方が楽じゃないかい? って言いたいんだよ」
僕は手を差し出したままで、彼はそれを握らないまま固まった。
「全く君って、近くにいる人達をなんだと思っているんだろうね?」
「どういう意味だ」
僕を少しだけ睨むように目を細める彼に、僕は笑顔で言う。
「頭のいい君は、判ってるんじゃないのかい? それとも、分からないふりをしているのかな」
「何が言いたいんだ」
少し意地悪をした。分かってる。でも、これぐらいは許してくれてもいいと思う。
僕は手を伸ばして、彼の手を無理やりに引っ張り上げると彼は突然のことに少しよろめきながら立ち上がった。
「おい」
「もうちょっと人を頼れよ、って言いたいのさ」
僕は笑う。彼はそっぽを向いた。
昔から素直じゃない人だ。まったくこまったものだよ。
「おもしろいと思わない?」
「何が?」
彼の手から自分の手を離しながら僕は言った。
「聖書では、アダムとエバが最初の人間だ。女とか男とか、性別はこの際別として、人っていうのは、生まれたときから一人じゃないと、そう考えられていたんだよ」
「神父の真似事か?」
「真似事じゃない。あとこんなことを神父が唱えているかは知らないし」
彼は誤魔化す。想いはあるのに。それをひたすら隠すんだ。
「話を戻すよ。最初から人が一人ではなかった理は、今もそうだと思わないかい?」
そして僕は彼のことを軽く突き飛ばした。まさか僕にこんなことをされるとは思ってもみなかったのか、珍しく彼の表情が崩れた。
彼は寝転んでいた草原に再び体を密着されるこことなった。少し痛そうにしてたけど、彼にはこれぐらいがちょうどいい薬だ。
「ごめん手が滑ったよ」
「俺にはお前が確信犯に見えるけどな」
上半身を起こしながら彼は体についた草をはらった。不満そうにしているように見えたけど、それすら僕は嬉しかった。
「君の表情が変わると楽しいね」
「俺は別に楽しくない」
言う彼に、僕は手を伸ばした。
「手伝ってあげるよ」
「…………」
彼はしばらく無言になって。それから僕の手を握り返した。
彼と僕のお話
つたない文章ではありますが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
これを読んで読者の方が少しでも楽しんでいただければ幸いです。