キャッチボール(5)

 五回表

 バシッという激しい音を立てて、ボールはグラブに入った。今の音は、ボールの音なのか、グラブの音なのか。音は、どこから生まれて、どこへ消えるのか。
「父さん、今度、子どもが生まれるんだ」
 翼の力強い声がした。
「そうか、それは、おめでとう。父さんにも、孫ができるのか」
「そうだよ、父さん。父さんは、もうすぐ、じいちゃんだよ」
「じいちゃん?じいちゃんは、やめてくれよ。これでも、父さんは、まだ、若いんだから」
息子の声に反発するように、力を込めて、ボールを投げ返す。だが、ボールは、行き先を告げられていないかのように、息子のはるか左手の方向に飛んでいった。シュートがかかったのだ。何事にも、真っ直ぐなリアクションができないのは、昔からの悪い癖だ。
「ああ、翼。ごめん、ごめん」
 ボールを追いかけていく息子の背に、謝りの声を掛ける。やはり、じいちゃんになったのか。目がしょぼしょぼして息子のグラブが見えないのか、肩の筋肉が衰えてコントロールが定まらないのか、それとも、その両方なのか。
 はあはあはあはあと数えられないほどの息を切らせて戻ってきた息子が、ボールを投げ返してきた。
「父さんが、じいちゃんになったように、俺も、おじさんになったみたいだなあ。あれぐらい走っただけで、息がもたないよ。心臓が破裂するかと思ったよ。子どもが生まれるというのに、こんなのじゃあいけないな。もっと、体を鍛え直さないと」
 息子からの返球は、山なりの超スローボール。じいちゃんとなった俺の体を心配してくれているのか、それとも、ただ単に、自分の体がもたないのか。ボールのギザギザを目ではっきりと確認しながら、グラブを広げた。ボールは、音も立てず、すっぽりとグラブに収まった。昔、おしめを替えたり、高い高いと抱っこをしてあやしたり、熱が出たときには、慌てて車に乗せ、夜間病院に連れて行っ た、あの翼が、父親になるのか。妙な感慨にふける。
 確か、翼が生まれるとき、私は分娩室に入り、出産の立会いをした。医師と助産師二人と妻の四者が、新しい命の創出事業に取り組む中、私、ただ、妻の手を握り、ひーひーふーと声を発しながら、側で励ますのが精一杯であった。何か、取り残されたような気分、だが、なんとしてでも追いつかなければならない気持ち、でも、ただ見守るだけでいいんだという自分への慰めの感情などが、その都度、湧き上がり、交錯する。
 やがて、子供が、母親から分離。この世で、独立した存在になった翼。ほんぎゃー、ふんぎゃーという泣き声は、相手を威嚇しているのか、それとも、自らを鼓舞しているのか、私にはわからない。まして、本人も、いかなる感情から声を出しているのかは、知らないだろう。本能のまま、生きるために呼吸し、呼吸をするために、声を出す。それが、泣き声なのだ。決して、悲しいからではない。生まれたことに対する喜びの雄叫びなのだ。
 翼の入れ替わりに、私が妻の体内に入ってしまったら、どうなるのだろうか。子どもと入れ違いに、自分が、羊水の中に浸る。ほんの、ささやかな休憩・休息場所を求めての、回帰願望なのか、それとも、七年間は、地中深く眠ってしまいたいという人生からの逃避願望なのか、いやいや、新たな人生への旅立ちをしたいという願いなのだ。
 羊水は、用水に繋がる。穢れなき雨粒は、地面を洗い清め、他者の役に立ったという汚れちまった喜びに包まれながら、アスファルトの道から雨水管へと流れ込む。その後、多くの仲間たちと戦友のように肩を組んで列をなし、下水道管に集結する。管の中では、互いに、黒く汚れてしまったことを誇りに思いながらも、このままでは、決して、再び、空高く、舞い上がることはできないことを知る。仲間と共に流れ着いた下水処理場では、あれほど離れたがった人間の汚れや穢れと惜しみながらも訣別し、海へと注がれる。
 青く澄み切った海は、私の母である。母なる海で、クロールや平泳ぎで仲間と競走するなど遊びに興じ、激しい生の躍動に充実感を覚える。時には、一人で、ぷっかりぷかりと母の体に身を任せながら、ゆったりとした時間を過ごし、生を謳歌する。私は、思いついたように、左右の肩を回し、くるっとひっくり返る。背中を母に委ね、胸を空に向ける。海の青さ以上に、ブルーが強調された空。海が母なら、空は父だ。思ったとおり、父からの声が頭上のはるか彼方から降ってくる。
「息子よ、もう、そろそろいいだろう。遊びの時間は終わった」
 その声が聞こえた途端、私の背中は浮き、水玉から、蒸発して気体と化し、超高速度のエレベーターに乗ったかのように、空高く舞い上がる。母との別れを惜しむことなく、新たな冒険に心が躍る。母の必ず帰っておいでの別れの言葉に頷きながらも、心はここにあらずで、体も気持ちも上昇していく。見るもの全てが、一度は経験したはずなのだが、初めてのことのような気がして、心が浮かれる。
 ふと気がつくと、水滴の仲間たちと互いに手をつなぎ合い、雲のふんわりとしたベッドでお散歩だ。ジェットコースターほどのスリル感はないものの、新たな仲間たちとの出会いは、新鮮で、刺激的だ。自分以外の他者がいる。それを、この両目、両耳、両手などで感じながら、空での生活を満喫する。そして、束の間の休暇が終わり、仲間たちと一斉に、雨となり、地面へと落ちていく。美しい流線型で、真っ直ぐに地面に向かう雨粒もあれば、風圧を受け、ひしゃげた形で、落ちていくことを妨げられた仲間もいる。ゴールが同じでも、その間に、経験・体験することは、みんな異なっている。真横から突風を受ければ、遥か彼方に吹き飛ばされて、最初の目的地を見失ってしまう。
 それでも、空気中の汚れや不純物を自らの体に吸収し、全てを浄化するため、ゴールへと突き進む。多くの仲間たちが手を振る最終到着点の前で、私は、ふと気がつく。私たちの目的は、ゴールに到着することではなく、ゴールするまでの多様な、多彩な経験にあることを。私の体がテープを切り、地面と衝突する。大きく跳ねて、ばらばらに砕け散り、下校途中の、小学生の長靴の中に入る。そして・・・。

 私の頭の中を、様々な思いが巡りながらも、両眼は、生まれたばかりの翼の顔をじっと見続けた。その時、ほんの一瞬だが、翼の目が開く。生まれたての赤ちゃんが、どこまで外部の世界を認識できるのかは分からないが、彼は、確かに、目を見開いた。そして、目を閉じた。

「父さん、何、ぼーっとしているの?目が開いてないんじゃない?さあ、キャッチボールを続けようよ」
 翼の声がきっかけとなり、過去の記憶に埋没していた自分から、キャッチボールをしている現在進行形の自分に、舞い戻った。
「いやー、孫の名前は、何が、いいのか、考えていたところだよ。お前が生まれる時と同じようにな」
 私は、自分の世界に浸っていたことを少し照れながら、慌てて別の話題に切り替えた。
「ありがとう。でも、まだ、妊娠三ヶ月目だから、生まれるまでには、時間が十分あるよ。子どもの名前は、妻と二人でゆっくりと考えたいな。それに、男の子か、女の子か、まだ、分からないんだから、名前を決めようがないよ」
 ボールは、再び、私のところに返された。
「そりゃ、そうだ。少し、早すぎたかな。ただ、じいちゃんといつ呼ばれてもいいように、今から、気持ちを整理しておかないとな、ハハハハハハ」
 無理矢理に搾り出した笑い声は、周囲に拡散していく。だが、万事準備が大切だ。いつ如何なる時にも、何事があってもいいように、万全の態勢を整えておく。それこそが、年の功の所以たるものだ。ほかに何もなくても。そして、ボールを投げ返す。
「じいちゃんと呼ばれる準備を、今からするのはいいけど、あまり、早く、老け込まないでくれよ。困ったときに、子どもの世話を見てもらうつもりでいるんだから。妻の恵も、当分の間は、仕事に専念すると言っているし、保育所に預かってもらっても、幼児はよく熱を出すから、いざというときは、父さんに看病をお願いしたいからね。世話するほうが、介護されていたんじゃ、洒落にならないよ」
 息子が、ボールを投げ返してきた。老いては、子に従い、孫の世話をするのか。うれしさとあきらめが交じったつぶやきの声を発しながら、ボールをじっと見つめる。
「まあ、今後のことは、さておいて、まずは祝杯だ。外も暗くなってきたし、家の中に入ろう。母さんと恵さんが、夕食の準備をして、家の中で待っているぞ。今日は、しゃぶしゃぶだ。惠さんには、二人分の精のつくものを摂ってもらわないとな」
「ああ、そうだね。父さんは、うれしいことがあると、いつも、ビールで乾杯だね?」
 翼が笑いながら近づいてくる。
「確か、結婚の報告をしたときもそうだったような気がするよ」
「そうかも知れないな。グラスを傾けることで、喜びは膨らみ、広く分かち合うことができ、哀しみは、やわらいで共有することができるんだ。父さんの知識じゃなくて、人類、いや、全ての生き物の叡智なんだ」
「はっ、はっ、はっ。父さん、全ての生き物の叡智だなんて、いやに大きくでたものだね。まあ、そこが、父さんらしいところかも知れないね。それなら、家で飼っている、家族の一員のカメの亀吉にも、ビールを飲ませてあげないとね」
「亀吉は、今、頭を甲羅干しの石の中に突っ込んで、お休み中だ。もし、目覚めていたとしても、そんなことしたら、亀吉の甲羅が真っ赤になってしまうぞ」
「それ、本当?水槽の中に、ビールを注いだことがあるの?」
「真っ赤な嘘さ」
「なんだ、安心したよ。でも、一瞬、何でもやってみないと納得できない父さんなら、やりそうなことだと思ったけどな」
 私も、息子に、自分がどういう人間か、評価される歳になってしまった。それだけ、息子に分別がついてきたのだろう。それとも、翼が生まれて以来、子どもへの接触の仕方が、全く変わっていない証拠かもしれない。現状を変えるためには、冗談や大ホラでかわすしかない。変化球は、得意中の得意だ。お陰で、ストレートが投げられなくなった。
 私は、手にしたボールを持ったまま、翼にグラブを手渡した。
 翼は、私からグラブとボールを受け取ると、庭に置かれている、サッカーボールやバドミントンのシャトルや羽などを保管している道具箱に、子どもの時と同様に、ざっくりと放り込んだ。グラブは、箱の中に納まったが、ボールは、まだ、キャッチボールを続けたいのか、他の道具に跳ねて外へ飛び出し、車の下に隠れた。
「まあ、いいか。明日、車を動かして、ボールを探すよ。今は、冷蔵庫からビールを見つけ出すのが先決だ」
と、私は、翼に話しかける。
「それなら、僕がグラスの捜索隊員で、父さんがビールの探索隊員だ」
 翼は、私の提案に新たな役割分担案も付け加えて、一緒に玄関に入った。翼の肩は、私の肩の位置よりも、ボール一個分高い。今更ながら、子どもの成長に驚く。私は、また一歩、じいちゃんこと、ジェイジェイに近づいた。

 五回裏
 
 車の下に転がったボールは、芝生の寝床でぐっすりと眠っていた一匹の雨蛙の上を通過した。
「誰だ、おいらを踏みつけた奴は。まだ、外は薄暗いじゃないか。まだまだ、起きるのには少し早いぞ。もう少し、寝ていたいと思っていたが、体全体を踏みにじられたら、誰だって目が覚めてしまうし、驚いて、目が飛び出してしまう。いやいや、目が出ているのは、生まれつきだって?ほっといてくれ。それよりも、おいらの体を踏みつけにした奴に、文句の一言でも言ってやらないと気がすまない」
「ほら、見ろ。おいらの背中にギザギザの模様がついてしまったじゃないか。この歳まで、真面目に生きてきたのに、この有様は何だ。仲間たちが水たまりの風呂に入っていても、もう二度と一緒に楽しむことはできなくなってしまった。こんなヤクザな姿をみんなの前にさらすことはできないじゃないか。文句どころか、損害賠償ものだ。訴えてやる」
「あらら、一体どこへ逃げちまったんだ、おいらを轢いた奴は。ひき逃げとは、より一層悪質だ。許せることも、許せない。生き物なんてみんな、皮膚から始まり、五感を含めて、感覚器官の塊なんだ。一言、悪かったとか、すいませんでしたとか、謝れば、こちらも納得するが、知らぬ存ぜぬでは、怒りが収まらない。よし、おいらを踏みつけにした奴に、物事の道理を叩き込んでやろう。その前に、肝心要の相手を探さないといけない。自分の心の裏側までも見通せる三百六十度回転の自慢の出目を使って、必ず探し出してやるぞ。オイラの背中の通過跡から判断すると、真っ直ぐの方向だな」
「おっと、なんだ、あんなところにいやがった。車のタイヤに行く手を塞がれて立ち往生とは情けない。少し、右でも左でも避ければいいのに。猪突猛進とはこのことだ。まさか、今年が、亥の年だから、まねをしているんじゃないだろうな。まあ、とにかく、いくら憎い相手だといっても、身動きできないんじゃ可愛そうだ。ひょっとしたら、頭でも打って、気絶しているのかもしれない。仕方がない。助けてやるか」
 雨蛙は、全身の筋肉の収縮と伸長を何回か繰り返し、車の前輪の左タイヤに挟まっているボールにたどり着いた。
「おい、お前、大丈夫か?」
 雨蛙は心配そうに、ボールに話しかけるものの、相手からは返事がない。
「やはり、気を失っているのか。まともにタイヤにぶつかったみたいだな」
 雨蛙は、吸盤のついた指で、恐る恐るボールを突付いてみる。やはり何の応答もない。
「ひょっとしたら、こいつは、俺たちと同じ生き物じゃあないのかも知れないな」
 雨蛙は、今度は、両手で目の前の物体を押して見る。タイヤにひっかかっているせいか、雨蛙が押してもびくともしない。それならばと、やや背を伸ばし、手を上の方に付け、足も球面に乗せ、ボールの頂上に目掛けて登ろうとした。右手、右足、左手、左足と、リズムを取り、交互に手足を使いながら、順調に登っていく雨蛙。上手い具合に、手や足の引っ掛かりがあるため、登りやすい。 もうまもなく、頂点かと思われた瞬間、両手、両足が同時に滑り、そのまま背中から地面に落ちた。白い腹の筋肉がぴくぴくと引き攣っている。
 このまま、両手、両足を投げ出し、降参のままじゃあ、雨蛙の名に恥じる。気を取り直して、もう一度挑戦だ。先ほどは、あまりにも慎重になりすぎたため、あと一手、あと一歩が届かなかったと反省。やはり、自分の持ち味は、この引き締まった足の筋肉にある。一挙にジャンプして、頂上制覇を目指すべきだ。
 雨蛙は、ボールから少し後ずさりする。飛び上がるためには、しゃがまなければならない。勢いをつけるためには、助走が必要だ。風は吹いていない。後は、自分の気持ちの高ぶりだけだ。よし、エネルギー百二十パーセント充填。OKだ。いざ、いかん!
 緑色の強い意志を持つ生き物は、両手を大きく前に出し、すぐさま両足をひっつけ、体をまるめ、続いて、両足で強く大地を蹴る。背筋は伸ばされ、体は空中に弧を描く。車の天井にぶつかりそうな勢いだ。ホップ、ステップ、ジャンプの掛け声で、ボールに目掛けて飛び跳ねる。
 ボールの曲線と雨蛙の跳躍の弧が、希望の虹のように重なる。
べチャ。
 雨蛙の四肢は、ボールの八合目に引っ掛かった。頂上は、ほんの目の前。舌を出せば届く距離だ。蚊やハエが止まっていたら、簡単に舌を伸ばして食べられるだろう。だが、このまま引っ付いたままの状態では、いつかは滑り落ちてしまう。何とか、もう一手、もう一歩踏み出さないと。しかし、ほんの一瞬でも動くと、落ちてしまいそうな気がする。このアンビバレンツな状況。これでは、心が全く身動きできない。だが、いつまでもボールに引っ付いてはいられない。今はとりあえず、腕や腹筋、吸盤など体全体に力が入っているが、一本、また一本と筋肉の筋が離れつつある。もうそれも限界だ。
 脳が自覚した瞬間、右足が一歩下がる。それにつられて、左足も一歩後退する。今度は右手が、左手が、球面を掻きむしる。思わず、頬を球面に擦り付けて、少しでも滑るのを防ぐ。おっと、うまく、引っかかったぞ。ささやかな抵抗が功を奏す。だが、それも、ほんの束の間の出来事。球面のギザギザで、体全体の体重を支えることはできない。雨蛙は、背中だけでなく、頬にも堅気でない証拠を刻み、ずる、痛い、ずる、痛いと、音と声を両方立てながら、とうとう草むらに仰向けに倒れた。万歳したままの姿かたちでは、もう、抵抗はできない。白い腹が降参の印を示している。だが、ここであきらめるような雨蛙じゃない。一度ならずとも、二度、三度、勝負に挑まなければならない。負けるな蛙と、遠い過去の俳聖からも、我が一族は声援を受けている。
 雨蛙は、この言葉を思い出し、裏返った体を、全身の筋肉を使ってひっくり戻すと、再度、助走をつけるため、後ろに、ボン、ボン、ポンと飛び跳ねて下がる。先ほどと同じ位置だ。このまま、再挑戦しても、同じことの繰り返しでないかという疑念が湧く。それなら、もう一歩下がるべきなのか、それとも、反対に、もう一歩前へ進むべきなのか。再び、思い起こす。さっきは、一手届かなかった。後ろに下がれば、二手届かなくなるおそれがある。
 それなら、もう一歩前に進むべきか?いやいや、反対に、上にあがらずに、前に突っ込みすぎて、顔面ごとぶつかる可能性もある。やはりここは、前回と同じところから助走だ。意を決する。最後のジャンプの際に、踏み出す角度を一、二度上げてみよう。そして、もっと力強く蹴り上げてみよう。自分の体だけど、自分の思うようにはならないことは、この歳になってよくわかっているつもりだ。それだけに、足の筋肉や指先の骨までに、お願いをする。どうぞ、オイラを目の前の障害物の頂上まで飛び上がらせてくれ。神経の末端までに、願いが届く。熱い血潮が、了解の返事として返ってくる。再び、戦闘状況百二十、いや、十パーセント増しの百三十パーセント、フル回転の準備万端。さあ、行くぞ。ゴー。
 目の前の見えないフラッグが振られ、飛び出していくレインフロッグ。さっきよりも、飛び越さなければならない対象物がはっきりと見える。自分の体の三倍はあるぞ。最初の試みのときは、それすらもわからなかった。目が開いていたのに、何も見ていない、見えていなかった。ワン、ツー、スリー、さあ、踏み切りだ。両手を振り、体を引き上げ、収縮していた両足の筋肉のエネルギーをここぞとばかりに解き放つ。ロケットジャンプだ。時間は一瞬のはずなのに、何故か、蛙の目には、自分の動きがスローモーションのようにはっきりと映る。
体は、どんどんと上昇していく。目の前の壁を半分は越えた。もう少しで頂点だ。この勢いだと、てっぺんを通り過ぎて、車の天井にダンクシュートできるぞ。後は、いつ、手を伸ばすかだけだ。最高到達点に上がる前だと、前回のように、あと一手で届かないし、到達点から落ちだしたところで手を伸ばしても、重力に逆らえず、体を持たせることができない。早くもなく、遅くもない、グッドタイミングを見極めないと。そうだ、今だ。
 雨蛙は、指先の吸盤を最大限に開き、体を丸めてボールに飛びついた。ぺチャッと吸盤だけでなく、腕や足も曲げ、腹もボールに粘着させた。体中に、縞模様がついても構わない。今は、何を優先させるかだ。見事、頂点に着地成功。十点満点の十二点の出来栄えだ。だが、ここで、気を緩めてはいけない。何事も全て、最後の最後が肝心だ。喜びのあまり、一歩動き出した途端、奈落の底に落ちることもよくある。
 仮の征服者は、曲げていた肘や膝をゆっくりと持ち上げて、ボールから滑り落ちないことを確認する。緊張していた顔が緩む。笑顔も百点満点。誰が見ていたわけではないけれど、自分の中から、多くの観客の拍手が沸き起こる。満足、満足。
 その時、雨蛙は思った。確かに、オイラは、この球形の物体に飛びついて、頂上を極めることに成功したが、果たしてそれだけでいいのだろうか。オイラの成功は、仲間の成功。仲間の喜びは、オイラの喜び。ぜひとも、この物体を仲間たちに見せてやろう。そして、この物体をオイラたち雨蛙のシンボルにしよう。これまでは、柳の枝が、雨蛙一族の成長の象徴であったが、今は違う。歴史は、常に、更新されるのだ。新しい時代には、新しい酒袋が必要だ。それ、思い立ったら、直ぐに、実行だ。
 サーカスの花形役者は、車のタイヤに止まったボールを球転がしの要領で、動かし始めた。おイチ、ニ、おイチ、ニ。リズムをとれば、心も軽い。おっとどっこい、前につんのめって、落ちそうだ。そんな時でも、慌てず騒がず、立ち止まることなく、体を動かす。最後の難所は、駐車場と水路との段差だ。人間にとっては、何の支障もない高さだろうが、オイラたち雨蛙にとっては、身長の高さだ。まして、今は、玉乗りの真っ最中。この状態でうまく乗り切れば、どうぞ皆々様、拍手喝采を!曲芸師「天のカエル」の登場でござい、ござい!
 満ちていく月の光が、ボールとおまけのようにくっついている雨蛙を照らす。影は長く伸び、仲間たちが今宵の合唱コンクールに備えて、十匹、百匹と集まりつつある草むらのコンサートホールまで届いた。

キャッチボール(5)

キャッチボール(5)

五回表・五回裏

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-05

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