夏の終わりの静かな風 13
それから、狭山さんのお姉さんが突然狭山さんにピアノを弾いてよと言い出して、この病院にある、レクレーション室のような場所にみんなで移動することになった。
狭山さんのお姉さんは、狭山さんがお見舞いに来てくれたときは毎回必ずといっていいほどこうやって狭山さんにピアノを弾いてもらっているようで、狭山さんが今日は吉田くんがいるから恥ずかしいと言っても、お姉さんはこの哀れな病人の唯一の楽しみを取り上げる気?と本気とも冗談とかもつかないような口調で狭山さんを脅して半ば強引に狭山さんにピアノを弾くことを了解させた。
「ゆかりは小学校一年生のときから高校三年のときまでピアノを習ってたからすごくピアノが上手なのよ。」
と、お姉さんは狭山さんのことを見てからかうように言った。
「じゃあ、楽しみですね。」
と、僕が微笑んで言うと、
「すごく下手くそだからあんまり期待しないでね。」
と、狭山さんは小さく笑って否定した。
ピアノはまるで学校の教室のような、二十畳程はありそうなただ広い部屋の片隅にちょこんとあった。
その部屋はもともとお見舞いについてきた子供たちが退屈したりしないようにするために設けられた部屋のようで、積み木などの玩具や、やわからいゴム製のボールなどの様々な遊具が置かれてあった。そしてそのなかに混じって、どこか寂しそうに、黒のアップライトピアノが、窓際の方にひとつだけぽつんと忘れ去れてしまったようにあった。
僕たちはそのアップライトピアノが置かれている場所まで歩いていった。
狭山さんはピアノの前の椅子に腰を下ろすと、そのピアノの蓋を静かに開けて、鍵盤の上にかけられている赤い布を取り除くと、何か大切なものに触れるときのようにそっと鍵盤の上に両手を添えた。
「いつもの曲を弾いてよ。」
と、お姉さんがリクエストした。
「いつもの曲って?」
と、狭山さんが不思議そうにお姉さんの顔を見ると、お姉さんは、
「ターンターンターターターターター」
と、何か曲のフレーズらしいものを口ずさんだ。
そのお姉さんが口ずさんだフレーズを耳にして、狭山さんはお姉さんが言おうとしている曲が何の曲なのかすぐに理解できたようで、
「わかった。ベートヴェンのピアノソナタね。」
と、笑顔で言った。
「そう。そう。たぶんそれ。」
と、お姉さんは小さく笑って言った。
「ベートヴェンのピアノのソナタ、吉田くんは知ってる?」
と、狭山さんは僕の顔に視線を向けると楽しそうな口調で尋ねてきた。
僕は狭山さんの問に首を振った。
「僕は普段あんまりクラシックとか聞かないからね。」
僕が苦笑してそう答えると、狭山さんは、
「でも、すごく有名な曲だから、吉田くんもどこかで一度くらいは耳にしたことがあるんじゃない?」
と、明るい声で言った。
それから、狭山さんは鍵盤の上に視線を戻すと、何か神経を集中させるように軽く瞳を閉じた。僅かな沈黙ができて、その沈黙なかには、窓の外の、ずっと遠くに見える海の潮騒の音が響いてきそうにも感じられた。
やがて、狭山さんは閉じていた瞳を開くと、ゆっくりとピアノを弾き始めた。
その狭山さんが弾き始めたピアノの曲は、確かに狭山さんが言ったとおり、僕もどこかで耳にしたことのある曲だった。たぶん小学校の授業や、何かのCMの挿入曲で。
その音楽に耳を傾けながら僕がふと思い出したのは、さっき狭山さんのお姉さんに見せてもらった詩集だった。その音楽の表面全体を包んでいるものは、悲しみや喪失感といった感情なのだけれど、でも、その音楽の芯の部分に、何かゆっくりと希望へと変わって行きつつあるものを、あるいは希望を模索して彷徨う意志のようなものを、僕は感じ取ることができるような気がした。
目を閉じて狭山さんの奏でる旋律に意識を集中させていると、まずイメージのなかに浮かんでくるのは白い、一輪の花だった。そしてその一輪の白い花は、深い湖の底で冷たい水に揺られながらそっと誰に知られることもなく咲いている。
深度の深いそこには普段あまり日の光が差し込まない。一日の大半の時間が微かに青色の色素を含んだような薄闇に満たされてしまっている。でも、一日のごくわずかな短い時間の間だけ、そんな深い湖の底にも太陽の光が差し込むことがある。
やがて彼女にとっては永遠とも思える距離から、太陽の、その微かに金色の色素を帯びたやわからな光が差し込み、彼女の身体を優しく包み込む。その澄んだ温かな光に包まれた彼女の身体は束の間、まるで彼女が光そのものになったかのように美しい輝きを放つ。
狭山さんの演奏に耳を傾けながら僕が思い浮かべたのはそんな光景だった。
「すごくきれいな曲だね。ちょっとだけ哀しい感じもするけど、でも、全体的に深い優しさに満たされているっていうか、上手く言えないけど。」
僕は狭山さんの演奏が終わるといくらか興奮して言った。
「ありがとう。」
と、狭山さんは僕のコメントにちょっと照れ臭そうに笑って答えると、
「だげと、わたしもこの曲好き。たぶん、わたしが知ってるピアノ曲のなかでは一番好きなんじゃないかな。」
と、狭山さんは楽しそうに微笑んで言った。それから、狭山さんはお姉さんの顔に視線を向けると、
「お姉ちゃん、今日のわたしの演奏はどうだった?」
と、冗談めかして尋ねた。
「少なくとも八十点はいってると思うんだけど。」
その狭山さんの言葉に、お姉さんはわざとらしくしぶい表情を作ってみせると、
「全然。四十五点ってところやっちゃない?」
と、首を左右に振りながら言った。
その点数を聞いて狭山さんがちょっと不服そうにえーと声を上げると、お姉さんは可笑しそうに笑って、
「冗談やが。もちろん百点に決まっちょがね。」
と、明るい口調で言った。それから、
「わたしのために素敵な演奏をありがとう。」
と、微笑んで改まった口調で言った。
「これで病気も早く良くなる気がする。」
「こんなわたしのヘタクソな演奏で姉ちゃんの病気が早く良くなるんだったら、わたし何万回でも弾いてあげるわよ。」
と、狭山さんはお姉さんの顔に視線を向けると、優しい笑みを口元に広げて言った。
「ありがとう。」
と、お姉さんは小さく笑って言うと、それから僕の顔に視線を向けて、
「さっきの曲は、たぶんゆかりはまだ小さかったら覚えてないと思うちゃっけど、わたしのお母さんが好きでよく弾いてた曲やっちゃわ。だから、あの曲を聞くとね、すごく気持ちが落ち着くとよね。わたし。」
と、お姉さんは口元に微笑を浮かべて言い訳するように言った。
「ねえ、見て。」
と、唐突に、狭山さんがお姉さん言葉を遮って言った。
それで僕が狭山さんの方に視線を戻してみると、狭山さんは窓の外に視線を向けていた。僕は狭山さんの視線の先を辿ってみた。するとそこには、灰色の厚い雲を切り裂いて太陽の光がいくつもの巨大な柱となって地上に降り注いでいる光景が見られた。
「すごくきれいじゃない?」
と、狭山さんは目の前に広がる光景に微かに目を細めて言った。
「そうだね。」
と、僕は相槌を打った。
巨大な光の束のうちのいくつかは遠くに見える海にもたどり着き、その暗い海面の一部分を黄金色の光に優しくきらめかせていた。
「明日は晴れね。」
と、お姉さんが決め付けるように言った。
夏の終わりの静かな風 13