母殺し
海外旅行
中国に来ていた。
友人のいない母は金にものを言わせ、旅行は好きだがお金のない私は背に腹は代えられぬと、犬猿の仲にも関わらず2人で旅行する事がときどきあった。
安宿なのだが繁華街の近くで、夜9時も過ぎているというのに窓の外から光、声、クラクションなどの活気が入って来る。手狭だが必要な水回りの設備さえ整っていれば、あとは高級ホテルと同じように水道から茶色い水がでて、家電が壊れていて、水筒にお茶が入っている。こちらの高級は高級の意味をはき違えていることが多いのでお金の無駄だ。服務員が最近覚えたチップというものをせがんで来ないだけ安宿の方が分がいいかもしれない。
母は64歳。団塊世代を働く事だけで生き抜いて、子どもを、常識に添うようにだけ育てて来た。私は37歳。子どもとは私の事だ。いまだ子どものいない私は、自分が子どもである事以外の感覚を知らない。夫との2人暮らしに何の不足も感じていなかった。親が親がと各々の家庭の文句を言っていた友だちは、今は皆、子どもが子どもがと口を揃えて同じ事を言うようになった。最初は信じられない光景だったけど、今は、どうやら私の方が哀れまれるべき存在なのだと少しはわかるようになってきた。それを決定的に教えてくれたのは宗教の勧誘だ。ピンポイントで私を狙って来る。気付かなくて済んだ不幸を、思い切りぶつけられてしまう。仕方が無い、彼らは世界中の人に不幸である自覚を植え付けるのが仕事だ。思いっきり幸せそうな人まで、暗い顔にさせてしまう手腕。幸せのまま自分たちの世界に下りて来ない人がいたら、地獄に堕ちると最後っ屁をくらわす。
母から教えてもらった事は沢山ある。食器を洗ったらシンクも拭け。洗濯物は皺にならぬようにパタパタとやれ、男というのは常に女を騙そうとしているから気をつけろ。中身の綺麗な女性になりなさい、ブスなお前は身なりなど整えても誰も見ないんだから。
数々の奴隷への指示と、洗脳により、私は卑屈になり、内気になり、ギギギギギギギギと、少しずつ少しずつ、ねじれて行った。
小学生時代のまだ背の低い頃、母親に見下ろされ、人格否定の言葉が何時間も続いたときは、母の顔が、ぼわっと、般若に変わって見えて来た事もあった。話半分、今のは何だったのかと不思議でならず、般若はきっと女の人だぞ?後で調べてみようとそればかりが気になった。母が夜中に帰って来るまでの膨大な1人の時間に、辞書で調べてみると、やはり般若は女性であった。
高校の頃などは、髪も梳かさず、寝癖でボサボサのまま登校したものだ。少しでも身なりを整えようとすると、母は私の周りをうろつき、嫌悪のまなざしと思いつく限りの嫌みを浴びせた。まるで、父が選んだ女への恨みのように、若さと美しさへの憎しみをぶつけられた。モサイ姿さえしていれば、母は微笑んでくれた。
青春を謳歌する事への嫉妬は、醜いながらも私にも受け継がれ、自分が許されなかったオシャレをしている学生を見ると、多分母親と同じ表情になっているだろう。母から受け継いで嫌になるものの一つだ。
中国留学が始まってから、やっと私は髪を整える事を許された。飛行機に乗って外国まで逃げて初めて、女性らしく身なりを整える事ができた。母親に押し付けられた新興宗教も、共産圏の壁を越えらず、とうとう誰も追って来なかった。これでもう朝晩神に原罪を詫びなくて済む。
そんな私は順調に壊れ、男性恐怖、統合失調症、広場恐怖、適応障害、醜形恐怖、人格障害…。もう何がなんやらわからぬ薬を飲まされ、寛解のないまま今も生き延びている。
散策
「さて、夜の散策でもしようかな」
と、まだ煌煌と明かるい夜の町へ行ってみたくなる。羊肉串の香辛料の匂いでじっとしていられなくなる。
日本の夜の町は若者と未婚と不倫者と金持ちのもの。中国の夜の町は、どちらかというと町内の祭りのような、食後の腹ごなしをするような家庭的な感覚のものだ。日本のオープンテラスとなると恥ずかしくて座る事ができず、外の開放感など限られた人達の特権のようなものだが(座ったとしても歩道の人通りが忙し過ぎて、開放感と言えるものは感じられないが)、こちらでは色々な食べ物を少しずつ注文し、歩きながら食べ、またはベンチに座り、周りには老若男女がそれぞれの人生を楽しんでいる。
将来的には全ての世代が揃う町に住みたいと思っている。そんな理想の町が、日本のどこにあるのかまだ良くわからないが。過疎化で年寄りだけでも嫌だし、外来種の集った若者だけの不自然な町も嫌だ。中国の夜は、若さを楽しむ訳でも、美貌を楽しむわけでも、成功を楽しむ訳でもない。それぞれの現在を楽しんでいる。小さい頃から慣れ親しんだ習慣を、連綿と続ける。年寄りも、子どもの頃家族と歩いた記憶があり、子ども達は、今家族と歩く思い出を作る。
経済特区などの大きな都市へ行けば資本主義のような社会構造になるのだろう。若者の町などと区切られた世界で、アイディア勝負のいつでも新しい店が並び、数年単位で潰れる。いつも生まれ変わっているはずなのに、コアイメージは私の子どもの頃から全く変わらない。古くは竹の子族であったり(映像としての知識しかないが)、バブルのボディコンであったり。子どもの頃は、ああはなりたくないと思ったけど、年頃になると、どうしてもああなりたいと思い、しばらくすると、なりたかったけどなれなかったとなり、結局はなりたくないからならなかったのではないか?と少し気付きだすお年頃。
自分を変えたいと言いうと「そんなつもりはないくせに」という友人の視線、自分は変わりたいと言うと「本当にそう思ってますか?」という占い師。変わったら幸せになれると訴えても「それは幸せですか?」と疑問で返して来るカウンセラー。その度に戸惑う自分。歳を取る事で少し自分を分析できるようになると、まるで周りには見透かされていたかのように感じ、恥ずかしくなる。私は、自分では知らぬ所で、とんでもない頑固者だったのかもしれない。
部屋の鍵を閉め、廊下を歩き、エレベーターに乗ろうとすると、シェフのような格好をした従業員がルームサービスを運んでいる。母と私2人くらい乗れるスペースはあるのに、乗ろうとすると物凄い剣幕で文句を言って来た。私たちはたじろぎ、エレベーターには乗れず、しかたなしに階段で歩いて降りた。
途中の階で厨房の騒がしさに気付き、少し除いてみると、非常に不服そうな顔をした従業員達がバタバタと仕事をしている。日本人への悪口が聞き取れる。どうやら、わがままな日本人の客が泊まっているようだ。私たちに気付き、3、4人束になって出て行けと囃し立てる。犬猫にするようなシッシッという手の動きを向けられ、睨まれる。
どうも時勢が悪かったか。日本の総理大臣が中国を仮想敵国に指名したこの時期に、極端に反日的な人材の集るホテルに泊まってしまったようだ。今来るべきではなかったかな、という恐怖を感じるほどの明らかな敵視を感じた。
ハプニング
夜の町を散策し、部屋に戻る。
旅先のちょっとしたトラブルにも極端に騒ぎ立てる母親とは、一緒にいるだけで酷いストレスになり、2人とも眠剤を飲まないと眠れない。精神科に行くことを進めるがプライドが許さないのだろう、私の貰って来る薬を奪う。それが無いと私も眠れないのだと言っても、思いやりが無いと言ってまた罵詈雑言を浴びせられるだけ。だから医者には大げさに言って、多くの薬を貰って来る。母は環境の変化に弱く、私はそんな母との関わりに弱って行く。4、5日目ともなると、挙動言動がおかしくなり、私は2回分ほどの薬を1回分だと言って渡し、早々に眠ってもらう事にしている。眠る寸前まで眠れない眠れないと言っている。
私の心労は限界だ。
帰国の日、夕方の飛行機まで時間があるので、また町を少しぶらついて部屋に戻った。部屋に戻って母は水筒に入っているお茶を飲んだ。私も進められたが喉は乾いていなかったので断った。
私は窓からの騒音を惜しみながら、トランクに荷物を積み込んで帰国の準備をしている。
ガシャーン
バタン
ドタン
何が起こったのだ?部屋の中からは聞こえるはずの無い騒がしい音がする。すぐ側で、母がのたうち回っている。とんでもない苦しみ様だ。これは、何か食べ物にあたったとかいうレベルじゃない。
怖い。
意識があるとは思えぬ形相と、その人間らしからぬもがき苦しむ体の動きを見ている。何をしたらいいのかわからない、ほんの一瞬の出来事だった。
母は死んだ。
さっぱりわからない。動揺しつつも、頭は情報処理でいっぱいに稼働している。何故?原因は?理由は?
いまそこにいた母が死んだ。37年間母だった人がいなくなった。その現実が意外に大き過ぎて、直視できなかった。
水筒…
このお茶を飲んですぐ、母は苦しみ始めた。服務員…反日…。
極右バカの犠牲?
私たちが?!
あいつらは、日本人の客を全部殺す気だったのだろうか?だとしたら、私が生き残っているのがばれたら殺しに来る。
帰りしたくをしている途中だった。あとは水回りに使うものと、化粧品を片付ければ終る。とにかく、早く日本に着かなくては。この国は頼りにならない。隠蔽のために何をするかわからない。
母の遺体をそのままにして、私はこっそり部屋を出た。厨房を避け、チェックアウトし、空港に付いた。
ベンチに座り、あとは飛行機を待つだけ。
旅行とは往々にそうだが、あとは飛行機に乗ったら日本だとなると、それはそれでホッとするもの。好きで海外旅行に来てるくせに、帰りというのはそれなりに嬉しかったりもする。
その安堵感と共に、心に人間らしい感情が生まれ始めた。辛い。
心が自分を守ろうと言い訳をする。
あんな人間でも?もがき苦しんで死ねばいいと思っていたじゃないか。そうだ、早々に遺産を貰った方がいいと計算していた。長生きされても、財産が減るだけだって思ってたじゃないか。冷静に計算して、他人が殺してくれて自分は手を汚さずに済んだんだ。あ、サイフに現金が数千円しか無い。母に頼ってたからなぁ、そうか、母のサイフを持ってくれば良かった。でも、後で金目当てだの、ややこしい事になったら困るからいいや。こんなに急に遺産が手に入るなんて。少しだけ楽になる未来。
そんな考えを巡らせているうちに、偽物の冷静を取り戻して行った。これは、自分ではどうすることもできなかった現実に折りあり合いを付けるしか無かった、私の生きる為の知恵なのだ。母に愛されなかったのは、私が努力をしなかったからであって、私そのものを憎んでいる訳ではない。努力さえすれば愛されるのだと、自分を誤摩化して来た。生き延びる為に。
異常な状態で冷静でいられるのは、もうそれは正常ではない。わかっている。ベンチに座り飛行機を待つ。母の悶死の形相をそのままに私は日本に逃げる。全ては日本についてから。
記憶
目をつむると、思い出したくはないホテルの部屋の様子がありありと浮かぶ。嫌な事ばかりを記憶する脳に出来上がっている。きれいに処理して生きて行くことができないのだ。
狭い部屋、洗面所、倒れた水筒、帰国準備途中の母の荷物、私の知っている限り一番大きな生き物の死体…人間の死体。
ありありと、生々しく、細部の色彩まで思い浮かべる事ができる。70%の完成度で記憶を呼び起こす。
母の質量、湿度、後は消えて行くだけの残った体温…80%のリアルな記憶、窓の外の昼下がりの光と音…90%。香辛料と排気ガスの匂い…
…100%
気付くと、母が、ベッドに座っている。私はまだ帰国準備の途中で、あとは洗面道具と化粧品を片付ければいいことになっている。母が立った。水筒からお茶を注ぐ。
「飲む?」
母が私に聞いて来る。私は毒が入っている事を知っているので
「要らない」
と答える。
窓から埃臭い風が入って来る。水筒に蓋をする動作の音が響く。
全てはもう終ったのだ。母は望み通り死んで、私に被害は無く、もう帰国するだけ、遺産をどう使うのかは日々色々考えていたのでもう後処理の方に力を注ぐ事に決めたのだ。
「そのお茶、毒が入っているよ。」
私は教えてあげる。母は、私の言う事を信用しない。私の頭が悪いから、説得力がないらしい。私も、それ以上の説明をする気はない。多くを説明したからといって、丁寧に説明をしたからといって、決して理解はしてもらえない。根本的に私という生き物は信用されないのだ。私の意見を聞かなければ死ぬ。あとは母の判断に任せる。
母はちょっと私の顔を見たが、何を言ってるのかとキチガイを見る目をしてお茶を飲んだ。
私は母を見ている。
少しすると、動きがおかしくなり、喉のあたりを両手で押さえている。
ガターン
家具にぶつかりながら私は一直線に母の元へ走る。
「吐き出せ!」
洗面所に引っぱり、歯ブラシで喉の奥を突いた。
げろげろげろげろ
胃の中のものが、昼に食べたものも一緒に流れ出て来る。凄い量が吐き出され、私は更に水を飲ませ、もう一度吐かせた。左手を母の背中に置き、下から上へ強く胃を押していた。
窓の外からのクラクションの音、入って来る風。
飛行機の時間に合わせ、黙々と帰国準備の作業を継続する2人。
大騒動の後、母は体調不良を未然に防げたとは思っているが、私の言う通り毒が入っていたとはやはり信じていない。死にでもしなければわからないんだ。何事も無かったかのように帰国準備をし、とりわけ私に感謝をする訳ではない。実際、彼女にしてみれば一瞬具合が悪くなっただけの事なのだから。
私は洗面道具と化粧品をトランクに詰め、ガラガラと引きながらドアを開けた。厨房の人間に見つからないように。母を先に部屋から出し、最後の忘れ物の点検をすると、枕元にチップが置いてあった。母が置いたのだろうが、5千円札が2枚ある。こんな多額なチップは要らない。というか、私たちを殺そうとした人間にチップは要らないと、その2枚の5千円札をポッケに入れて、部屋を出た。
厨房を避け、チェックアウトをした。
母殺し