宵空 -YOISORA-
ナイフの刃を手首に当てた。美和はアツシを恨んでいた。楽しかった思い出だけを残して逝けばよかったのに。どうしてこんな事をしたんだ……。
ナイフの刃を手首に当てた。……なんて、これはペーパーナイフ。どんな感じか試してみただけだ。リストカットなどしても何の解決にもならない。
本気で死のうと思ったら飛び降りる方が確実だろう。
でも今はそんな気にもなれなかった。結局こうして、ああでもないこうでもないと希望的観測が頭の中を堂々巡りするだけだ。
美和はナイフを机の上に放ると、自分のお腹をそっと撫でた。この中には新しい命が宿っている。でも妊娠しているなどと誰に言えるはずもなかった。
美和は何度目か分からない溜息を吐くと、窓の外に目を向けた。
気が付けば、いつの間にかまた夜になっている。
日一日とお腹の子供は育っていく。今日もまた少し大きくなったに違いない。
もう時間がなかった。
闇に輝く星々の光に、美和は自分の取るべき道を尋ねていた。
***
二年に進級するとクラス替えがあった。そのクラスメートのひとりがアツシだった。
同級の生徒は全部で二百人程だが、美和はそれまで彼の存在を知らなかった。
自己紹介での印象もこれといって残っていない。というか、美和はその頃、クラスの男子にあまり興味がなかった。ハマっていた某事務所の男性アイドルが頭の中を占領して、他の物が入り込む余地がなかったからだ。
目覚めてからお休みを言うまでずっと一緒に過ごす為に、部屋の壁はおろか、天井まで彼のポスターで埋める気の入れようだった。
その後行われた席変えで、アツシと隣同士になったのは偶然以外の何物でもない。
「よろしくね」それがふたりが初めて交わした言葉だった。
アツシはちょっぴり着崩した服装が似合う男の子で、一見取っ付きにくい印象だったが、実は気さくなおしゃべりだった。
女子の間での彼のルックスは、まあまあの評価。つまりそれは暗黙の合格点という事だ。
美和がそんな彼に恋をしたのは、別に特別な何かがあった訳じゃなかった。
横を向けば姿が目に入るので、互いに少しずつ話しをするようになって、そんな事の繰り返しがいつの間にか彼との壁を取り払っていた、とでも言えばいいだろうか。
時間の共有なしに人を好きなる事なんてない、と美和は思っている。アツシは最も近い場所にいる相手だった訳で、およそ”劇的”な出会いではなかった。
意識していた訳でもないのに、気が付けばアツシの事を好きになっていた。彼と一緒にいられる時間が嬉しくて堪らなくなっていた。
もっともそんな態度はおくびにも出さない。気付かれたら恥ずかしいし、もし告白してダメだったら目も当てられない事になる。
今は彼の隣でおしゃべり出来ればそれでいい。美和はそう思う事にした。
でもアツシに想いを寄せているのは、自分ひとりじゃなかった。他にも彼と仲良くなりたいという女子は少なからずいたのだ。
女の羨望は、時に嫉妬に変わる。
机越しにいつも彼といちゃいちゃしているように見えたのか、美和は彼女らの妬みの対象になっていた。
中でも同じクラスの秋恵は本気で美和を目の敵にしてきた。擦れ違う度に嫌味を言われ、果てはロッカーまで荒らされた。
付き合っている訳でもないのに、なんでこんな目に遭わなくちゃいけないの? 美和にしてみればそれが本音だった。
だっておかしいじゃない。そりゃ人よりちょっとは話す機会は多いのかもしれないけど、今はまだ、ただの友達なんだから……。
そうは思っても、実際には何も言わない。なるべく顔を合わせないようにして、やり過ごすよう心掛けた。例えこんな事がなかったとしても、彼女は付き合いたくない苦手なタイプだったからだ。
でも秋恵にはそんな自分の態度が余計癪に障ったらしい。とにかく彼女のしつこさにはうんざりさせらるばかりだった。
「尻軽」秋恵がぼそっと言ったひと言に、思わず美和は振り向いていた。
「そんなに好きならさっさと告ればいいじゃない! でもこんな陰険な事ばっかするあんたなんか、アツシが相手にするはずがない!」
嫌味を繰り返す彼女にいい加減頭にきていた美和が言い返したのは、その時が初めてだった。
でもよくよく考えた末というよりは、言葉が勝手に口を突いていたというのが正しかった。
威勢よく啖呵を切ったはいいが、実は美和の足は震えていた。言い終えた時にはもう後悔していた。もちろん彼女に報復されるのが恐かったからだ。
でも心の奥では、言いたい事が言えてすっきりしたのも確かだった。そして心のもやもやがなくなってみれば、見えたのはやっぱりアツシに惹かれている自分の姿だった。
しかもまるでアツシの代弁をするかのようなセリフは、彼女に対する宣戦布告になっていた。本当は他の人に彼を取られたくない自分の本心が、口を開かせたのだと気付いた。
「何ですって?」
初めは呆気に取られたような表情だった彼女の目に、すぐに怒りの色が灯った。
怒鳴られる。そう思って身構えた美和をひと睨みした彼女は、結局何も言わず背中を見せた。
何よ、何も言い返さない訳?
別に勝ったとは思わなかったけれど、正直彼女の態度に拍子抜けする思いだった。
しかもその日以降、彼女は美和に口も手も出さなくなった。
とにかく無視。まるで美和が存在しないかのように振る舞うようになった。
正直、彼女の沈黙に何か不気味な物を感じないでもなかったが、美和は言って良かったんだと思っていた。
***
アツシはサッカー部に所属していた。
美和には彼の実力がよく分からなかったが、決まって試合では補欠で、後半の最後などに短い時間だけ出場するような選手だった。野球でいうと代打みたいな感じだろうか?
脚で器用にボールをコントロールする彼が出すパスは正確で、得点に繋がるケースも多いのに、なぜかいつもベンチにいる。
単にスタミナがないのかな?
不思議に思って訊いてみると、彼は、「そりゃ他の人がうまいからさ」と謙遜するだけだ。
放課後、校舎の屋上から見下ろすと、グラウンドを駆け巡る彼の姿を見る事が出来る。いつからかそれが美和の日課になっていた。
今日も真っ黒に陽に焼けた彼が、試合形式で行われている練習で、先輩相手にひとり、ふたりと身体をかわしながらゴールを目指して走って行く。そして前を塞がれると、すかさずボールを逆サイドの味方に蹴り出した。
少し離れた所から「中村君カッコいいっ!」と声援が飛んだ。
どうやら球を受け取った人が中村君らしい。
その彼は手薄なゴール前を見ると、そのまま迷う事なくミドルシュートを打った。
ボールは惜しくもゴールの縁に当たってラインを割っていったが、タイミングはばっちりだった。
「もうちょっとだったのになぁ」そんな言葉が聞こえてきそうなやり取りが見える。
アツシの引き締まった身体も、俊敏な動きもすごく格好良かったが、今見えるその笑顔はもっともっと素敵だった。
「私もマネージャーになろうかな……」
そうすればもっと彼と一緒にいられるようになる。こんな離れた所から眺めてるんじゃなくて、傍で声を掛ける事も出来る。
手摺に凭れながら、美和は考えを巡らせた。でも彼ひとりに付きっ切りって訳にはいかないしなぁ。
心がじりじりと焦がれ、何かせずにはいられない衝動が自分を突き上げていた。
結局美和が部活に入る事はなかった。なぜなら彼の方が辞めてしまったからだ。
突然の退部は、美和と同じく彼を応援していた生徒を驚かせた。
「なんで辞めちゃったの?」茶化して訊いてみても、アツシは笑うだけで答えてくれない。
だけどその笑顔はとても寂しそうで、何か訊いてはいけないような気にさせられた。
運動選手に怪我や故障は付き物だ。彼はどこか選手としては致命的な問題を抱えて、辞めざるを得なかったんじゃないか? 美和は直感的にそう思った。だから理由を話さないし、どこか寂しそうに見えるんだ、と。
彼を説得にしに教室まで来た部員とのやり取りが、自分の考えを裏付けているように思えた。
あんなに楽しそうだったのに……。
しばらく彼の前でサッカーの話しは止めよう。
その横顔をちらりと見詰めながら、美和は何か自分に出来る事はないかなと考えていた。
***
帰りのホームルームが終わると、アツシは真っ直ぐ家に帰るようになった。
グランドから彼の姿がなくなれば、自然と美和の屋上通いも終わりを告げる。
”礼”が終わり、帰り支度が済むと、美和はなんとなく彼のあとを追うように教室を出る事になった。
「ねぇ、一緒に帰ってもいい?」
美和が後ろから声を掛けると、「おうっ」と手を上げて彼の許しが出る。
ついさっきまでおしゃべりしていた彼も、まだ話したい事があったのかもしれない。
ふたりで並んで歩き始めると、アツシの方が先に口を開いた。
「サッカー好きなの?」
彼は、放課後、美和が校舎の屋上で手を叩いたり、試合会場まで応援に来ていた事まで知っていた。今まで気付いた素振りなんか見せた事もなかったのに、ちゃんと見ていたらしい。
「うん、まあね……」まさか、あんたが好きなんだよ、とは言えない。
「ホントに?」
「ホントだよ」
「じゃあ、オフサイドってどういう事さ?」
サッカーの話題は避けようと決めたばかりなのに、向こうから誘ってくるとは思わなかった。しかも未だに細かいルールはよく分からない。
「えっと……」
「ははぁ、さては誰か好きなヤツがいるんだな?」
ふい打ちのようなアツシの言葉に美和の頭は沸騰してしまい、気が付けば自分の鞄で彼のお尻をばんばん叩いていた。
「もう、バカバカバカ!」
「おいっ、何すんだよ! そんなに怒る事ないじゃんか」
初日はそのまま喧嘩別れのようになった。
翌日、自分の行動を反省した美和がお詫びに何か奢ると言うと、彼は苦笑しながらその招待を受けた。
もしかしたらカマを掛けられたのかな? ずっと屋上にいた美和が今は彼の隣りいるんだから、気付いてもおかしくはない。
……なんて、それは私の自惚れだろうか?
でもそれがふたりの間の垣根を取っ払ったように、一緒に帰る事が多くなった。
アツシの家が美和の自宅からそんなに離れていない所にあるのは知っていた。ふたりとも自転車で通学した方が楽な距離だったが、彼は元々鍛錬を兼ねて徒歩で通学していた。
美和も一緒に帰れる日は自転車を学校に残して、歩いて帰るようにした。その方がたっぷり時間を取れるし、横に並んで歩く事が出来る。
その分朝は早く家を出なければならなかったが、そんなのはまったく苦にならなかった。
家までの道のりを、ふたりでおしゃべりしながらのんびりと歩く。別に何がある訳でもなかったが、いつも帰りが遅かった彼といられる時間はぐっと増えた。
「バイバイ」
そう言い合いながらも背を向けるのが惜しくて、別れの交差点で再び話し始めたふたりは、やがてすぐ傍にある喫茶店に目をつけた。
毎日入るのはお小遣い的につらいので我慢したけれど、暑い日や天気の悪い日は、店に入ってその続きをした。
そしてそれはいつしかふたりの日課のようになっていった。
***
学校でアツシと会うのは楽しかったが、美和はふたり切りのデートに憧れた。
校内はもちろん、その行き帰りも、どうしたって生徒や先生や親の目がある。手を繋いでいる所なんか目撃されたら、冷やかされて大変な事になってしまう。
どっかに誘ってくれないかなぁ? 隣で必死に誰かの課題を丸写ししているアツシを横目で見ると、突然こちらをその顔がこちらを向いた。
「大変ね」嫌味を言うと、「ああ、時間がない」と、それ所ではない様子。
でも次の授業中に飛んで来た小さな手紙には、なんと、”週末、映画に行かないか?”と書かれていた。
中身を見た美和は、授業中なのを忘れて危うくバンザイする所だった。
やった! デートだ! ふたりだけで出掛けるんだ。
小さな子供のように心を躍らせながら、”しょうがないなぁ、付き合ってあげるよ。”と精一杯やせ我慢した返事を投げ返す。
「オーケー」彼が小さく手を上げると、美和は天に昇ってしまいそうになった。
天気は晴れ。当日は心地よい風がそよと吹く、絶好のデート日和だった。
母に呆れられるまで服を選び直し、結局どたばたと出掛ける事になった初デートは、何かいつもと違う緊張感が漂っていた。
それでも映画館に向かう道すがら、美和は初めて彼と手を繋ぐ事が出来た。
さり気なく絡み合った手と手がしっかりと握られると、それだけで顔が赤くなった。
なんとなく弾まない会話。それでも彼の手の温もりを感じながら、肩を寄せ合って堂々と街中を歩けるのが嬉しくて堪らない。
「何が観たい?」彼がこちらを見た。
実はあまりに興奮し過ぎた美和は、自分の事に精一杯で何にも考えていなかった。
コメディ? ホラー? ラブストリー? 今週はジャンルが揃っている。
そこでちょっとした意見の対立が起きると、映画を見る頃にはいつもの雰囲気に戻っていた。
マックで少し遅いお昼。
映画は詰まらなかったが、どうせ時間の半分は横に座った彼の姿を眺めていたから、どうでもよかった。
「来週は遊園地に行こうよ」ウィンドウショッピングを楽しみながら彼が言った。
映画は、タダ券があるからと彼が奢ってくれたが、高校生のふたりは当然お小遣いが限られている。
そう言うと、彼が、「任せなさい!」と胸を叩いた。なんでもDSNYランドなら、親戚が勤めていて格安で遊べるというのだ。
「ホント?」美和の目はすぐに輝きを取り戻していた。
さらに翌週は原宿へ、その次の週は水族館へ遊びに行った。
少し無理をしているんじゃないか。そう思える程彼は予定を詰め込んだ。でも誘って貰えるのが嬉しくないはずがない。
週末が来るのが待ち遠しかった。ふたりでじゃれないながら見る、触る、食べる、しゃべる。その経験すべてが楽しくて堪らない。
携帯にはふたりの写真が溢れ、彼に買って貰ったチープでかわいいアクセサリーが、美和の鞄を飾った。
美和はこの時が幸せの絶頂だったのかもしれない。
原宿では、「人いきれした」と言ってしゃがみ込んだり、水族館で昼ご飯を食べた時は食欲がなさそうだったり、あれだけサッカーで鍛えたはずの彼は、どこか体調が悪そうな姿をちらりと見せた。
「あれだけ走り回れるのに、意外に体力ないのね?」美和はいつも補欠だった彼の姿を思い出した。
そんなアツシが気にならない訳ではなかったが、恋に恋していた美和には、それ以上彼を気遣う事が出来なかった。
***
ふたりで過ごす時間は長くなった。
初めてアツシの家に遊びに行くと、彼のお母さんは美和を抱き締めながら、「かわいい」を連発して、アツシに睨まれていた。
「なんかこうまで歓迎されるのも恥ずかしいな」
部屋に案内されてぺたりと床に座り込むと、美和は苦笑しながら彼の方を見た。
「ホントは女の子が欲しかったって、いっつも言うんだよ」彼が口を尖せながら、持ってきた飲み物を手渡してくる。「そんなのは俺のせいじゃないっつーの」
「でも、ま、それで大歓迎な訳。その内美和は母さんに取られて、着せ替え人形にでもされちまうかもしれないな」
「まさか……」
「あながち冗談でない所が恐ろしいんだよ。誰のもんだと思ってるんだか……」
え?
何でもないようなそのひと言が美和の心をどきりとさせた。
それって自分はアツシのものだっていう意味かな? そう思うと、なんかすごくどきどきする。
ふたりの姿を見れば、皆付き合っているんだろうなと思うかもしれない。でも未だに彼から交際を申し込まれてはいなかった。
もちろんそれはひとつの儀式であって、事実婚ならぬ事実彼氏なのかもしれないが、ひと言伝えてくれたら、どんなに嬉しいかと思うのだ。
毎日をこんなに充実させてくれるアツシに、そんな些細な事を言ったらバチが当たりそうだが、心の奥で美和はそのひと言をずっと待っていた。
「今度、一緒に買い物に行きましょうね」
帰り際、美和が挨拶すると、アツシの言った事はまんざら嘘ではないのだと気付かされた。
「美和ちゃんには淡い感じの色が似合うと思うのよね」
「はいはい、また今度ね」
美和の代わりに、アツシがお母さんをあしらって、結局彼の家を後にする時も美和は苦笑していた。
***
暑くなると夜のイベントが増える。その日は毎年恒例、地域主催の花火大会がある日だった。
今までは普段着で出掛けたお祭りや花火。
ゆかたはお腹を締め付けられるのが苦手で、あまり着たいと思わなかったのに、今年はねだってねだって親に買って貰った。
ピンクや赤の大きな花が描かれたゆかた姿で待ち合わせ場所に行くと、彼の驚きの表情が出迎えた。
「ちぇ、着てくるなら着てくると言ってくれればいいのに……」ティーシャツにジーパンのラフな格好の彼が、自分を上から下まで眺めている。
「引き立て役、引き立て役」
「俺が? ひでぇなぁ」そう言ってふたりは手を繋ぐ。
特別に解放された防波堤から夜空を見上げた。どこも人で溢れているが、ここだけは知られていないのか混むという程ではない。
海上から打ち上げられた花火を見上げ、歓声を上げる。
どんっ、どんっと尺玉が花を開くと、身体の中まで音が染み込む気がした。
花火は綺麗だった。
彼の瞳に赤や黄色や緑が映り込む。自分の瞳にも同じ物が映っている。
彼の腕が美和の肩を抱いた。
美和も彼に身体を預けて寄り添った。
大きな光が空に舞う中、見詰め合ったふたりの唇が出会っていた。
どーんっ。ひと際大きな音が心まで揺さぶるようだった。
唇が離れると、美和はちょっぴり涙ぐんだ。
ああ、なんて素敵なんだろう。夢見るような時間ていうのは、きっとこういう事を言うんだ。
海風が美和の髪を掻き乱す。
髪を直すように手を伸ばした彼と、ふたりはもう一度口付けを交わした。
***
季節は変わり、秋になっていた。
この頃には美和とアツシの仲は半ば公認のようになって、冷やかされる事もなくなっていた。
……そんなある日。
「ちょっと付き合ってくれない?」
美和が珍しくひとりで帰ろうと支度をしていると、本当に久しぶりに秋恵が声を掛けてきた。彼女も今は何も言ってこなかったが、苦手意識は相変わらずで、こちらから積極的に話しをする事はない。
「何?」
「いいからちょっと一緒に来てよ」
自己中なのはいつもの事だ。何の話しがあるんだろうと思いながら、仕方なくあとをついて歩き始める。
学校を出ると、彼女は普段ほとんど行く事のない街の外れへと歩みを進め、結局着いた所は打ち捨てられたセメント工場の跡地だった。
「わざわざこんな所まで連れて来て、何の用なの?」
錆び付いたベルトコンベアや廃屋のような建物の外を塀がぐるりと囲み、あとは雑草が茂るだけで何もない。
その塀の中に入ると、それらは外から見る以上に朽ち果てていた。
まだ外は明るかったが、何かされるんじゃないかと不安が募った。でもそこには誰もおらず、なのに彼女は話しをするでもなく携帯を見てばかりいる。
「ねぇ……」
「ちょっとここで待ってて」美和が声を掛けると、そう言い残して彼女は廃屋から出て行ってしまう。
呆気に取られながら、美和は仕方なく待つ事にした。また別の日に何か言われるくらいなら、今聞いておこうと思ったからだ。
でもいくら待っても彼女は戻って来なかった。携帯の番号など知らないから、連絡の取りようもない。
秋の日は釣瓶落とし。とくに山が迫ったここは、あと三十分もすれば暗くなり始める。こんな寂しい所にいて陽が落ちたら、辺りは本当に真っ暗になるに違いない。
いい加減バカバカしくなった美和が引き返そうとした時、やっと背後で砂利を踏む音がした。
秋恵が戻って来たのかと思った時には、抱きかかえられるようにして奥の方へ連れて行かれ、マットのような物の上に押し倒されていた。
顔を隠した男がそのまま美和の上に馬乗りになって、動きを封じてくる。
もがく手首にガムテープが巻かれ、口が塞がれ、目隠しに耳に栓までされて、気が付けば美和は反抗出来るような状態ではなくなっていた。
「んんんっ!!」
悲鳴を上げる間もなかった。突然スカートが捲り上げられると、下着が脱がされ、すぐに男の手が美和の大事な所へ滑り込んできた。
必死に頭を振った。脚を広げられ、股間を晒される恐怖に、美和はひたすら暴れて反抗した。
でも拘束された美和の力で、男のそれに敵うはずもなかった。
……行為が終わると、男は美和の手だけを自由にしていなくなった。
恐る恐る目隠しを外して辺りを見回すと、やはり誰もいない。
緊張の糸が切れた美和は声を上げて泣きじゃくった。貫かれた痛みよりも、こんな風に襲われた事が恐ろしかった。
涙を拭い、ゆっくりと身体を起こして残りのテープを剥がすと、ざっと髪や服の乱れを直してすぐにその場を立ち去った。
まだどこかにさっきの男がいないとも限らない。何より秋恵に見られているんじゃないかと思うと、恐ろしくて堪らなかった。
なんとか家まで帰り着いた美和だったが、こんな事は両親にも知られたくはない。
普段と変わらぬように振る舞おうとした物の、どうしても身体の震えが止まらなかった。
寒そうに肩を抱く美和を見たお母さんは、風邪でもひいたのかと思ったらしく、「早く寝なさい」と言ってくれたのがせめてもの救いだった。
風邪をひいた事にしても、お風呂に入らないではいられない。本当は家に帰って一番にしたかったのは、お風呂に入る事だったが、運動部でもない美和が汗を流すのは不自然なのでずっと我慢していた。
あんな事があったからといって、自分の何が変わる訳でもないと頭では分かっていたが、何度身体を洗い上げても、まだ何かが肌に付いている気がして、気が狂いそうだった。
美和が部屋でひとりになれた時には、夜も遅くなっていた。
ベッドに転がると涙が滲んだ。誰かに何も聞かずに慰めてほしかった。
何度もアツシに電話を掛けようとしては、思い留まって指を離す。間違っても彼に話せる事ではなかったし、もし口を滑らせて嫌われるのも怖かった。
それに風邪を拗らせたらしい彼は最近学校を休みがちで、ここ数日も姿を見せていない。
メールをすれば返事は来るが、うつすといけないからと見舞いも断られていた。
顔を上げると、まだ制服が出しっぱなしになっているのに気が付いた。
美和が着いた汚れを手で払ってからハンガーに掛けようとすると、絨毯の上に小さな物が音もなく転がり落ちた。
「何これ?」腰を屈めてそれを拾い上げた時には、すでに零時を回っていた。
***
翌日は土曜でお休みだった。でももし平日だったとしても、初めから学校へ行くつもりなどなかった。
秋恵が手引きして、ああなったのだ。なら生徒の間で、自分が襲われた事が噂になっていてもおかしくない。そう思うとこの先どうしたらいいのか、恐ろしくて美和の足は竦んでいた。
お母さんに不審がられるのを承知で、美和は陽が高くなっても布団を被って丸まっていた。でも何か様子がおかしい事に気付いているのか、一度声を掛けた切り誰も起こしに来ない。
正直それがありがたかった。顔を見たらきっと涙が止まらなくなってしまう。
一晩中眠れなかった美和が微睡(まどろみ)と緊張を繰り返していると、お守りのように握り締めていた携帯が鳴った。
表示を見ると、アツシの家からだった。
躊躇った挙げ句、電話に出た美和の耳に聞こえてきたのは彼のお母さんの声だった。
彼女は相手が美和である事を確めると、「アツシが死んだの」と呟くように言った。その声にはまったく感情がない。「昨日の夜、ビルから飛び降りて自殺しちゃった……」
美和は電話に齧り付いて、何度も何度も聞き返した。
彼女の声は掠れて消えそうだった。
「美和ちゃんには隠していて申し訳なかったけど、アツシは進行性の重い病気で、余命幾ばくもないと宣告されてたの。
大好きだったサッカーは無理をしない範囲で許可されてたけど、夏になる前にはそれも主治医の先生に止められて、部活は辞めざるを得なかった。
あの子は何も口にしなかったけど、きっとやり切れなかったと思うわ。
でも落ち込んでたアツシがあなたと付き合うようになって、どれ程慰められたか知れない。
本当はあなたに告げるべきだったのに、あの子の笑顔を見るとどうしても出来なかった。好き合うようになれば、必ず悲しい思いをするのは分かっていたのにね……。
美和ちゃんには、本当に感謝しても仕切れない。
こんな事になってしまって、本当にごめんなさい。
でもアツシを恨まないでやってね。恨むんなら何も言わなかった私を恨んでほしい」
そのまま言葉に詰まった彼女は、耐え切れずに泣き出してしまった。
沈黙した電話は、互いの啜り泣きだけが行き来する物になった。
現実感などあるはずがなかった。不幸が続いて、美和の感覚が麻痺していたのかも知れない。
それはアツシの遺影を前にしても同じだった。
お葬式の日。お父さんに車で送って貰い、降り立った美和の足は、地に着いていなかった。
彼のお母さんからあの陽気な笑顔は消えてなくなっていた。ずっと子供を見守りながら過ごしたこれまでの彼女の生活を思うと、その強い心には感服するしかない。
そんな彼女に頭を下げられて、美和は丁寧にお辞儀を返した。
ふわふわとした感覚のまま数歩進むと、正面にアツシの遺影が笑っていた。
真っ黒に日焼けした素敵な笑顔。
すると急に浮遊感が襲って、彼の顔が歪んだかと思うと、焼香に並んでいた美和の頭がぐらりと揺れた。
なんでこんな事になってしまったんだろう?
身体が傾くのを感じながらも、美和は自分の両手から目が離せなかった。
周囲に悲鳴が上がり、すぐに何本もの手が倒れた美和の身体を抱き起こした。
見知らぬ人達に支えられながら顔を上げると、駆け寄って来たアツシのお母さんが心配そうに自分を覗き込んでいる。
でも美和はすぐに視線を逸らした。どうしても目を合わせる事が出来なかった。
本当の事を知っているのは、美和ひとりだけだった。
***
空には満月と散りばめられた星々が輝いている。
月明かりに照らされた美和の影がビルの屋上に伸びていた。
手摺りから身を乗り出して下を見ると、落ちれば間違いなく死ねる高さがあった。
彼はなかなか現れない。ポケットの中の物を握りしめたまま、美和はひたすら空を眺めて待った。
コツコツ……。足音に気付いて振り向くと、アツシが来ていた。
彼は肩で息をして明らかに調子が悪そうに見えた。彼の病気を知らなかった美和は、その時は単に風邪が長引いているんだろうくらいにしか思わなかった。
風が強く吹くと、それだけでアツシの身体が揺れた。
美和は何も言わず、ただ彼の前にボタンを差し出した。
美和が襲われた時、夢中で引き千切った男の服のボタンだった。その飾りは独特で、しかも以前見た覚えがあった。
アツシは表情を変える事もなく、じっとそれを見詰めた。
「分かってたんだ。俺が君にした事」
美和の瞳が見開かれる。何よ、それ……。
「否定……しないのね?」
彼はコクリと頷いた。こんな風に身体を奪っておいて、何の罪悪感もないの?
「ごめんね、美和。どうしても君との子供が欲しかったんだ。そうしないと俺がいたっていう痕跡が残らないから……」
何を言っているのか分からない。それにこんな事をしなくても、アツシとならきっといつか結ばれたに違いない。どうしてこんな事までして自分とセックスがしたかったのか、美和にはいくら考えても分からなかった。
彼は再び謝った。「ごめんね」と。「俺には時間がないんだ。それも…………」
急に咳き込んだ彼に、美和は思い切りボタンを投げ付けた。
勝手に涙が溢れていた。
美和がアツシに迫ると彼は後ろに下がり、やがてビルの端まで追い詰めた。そこは手摺りの一部が破れ、死に最も近い場所だった。
彼はまだ何か言いたそうだったが、美和の顔を見て諦めたように口を噤んだ。
美和の握り締めた両手が小刻み震えていた。
許さない。絶対に許さない。私の気持ちがどんなに張り裂けそうか、思い知ればいいんだ。
美和が突いてアツシの身体が宙に舞った時、その手応えのなさにバランスを崩した美和は、よろけてコンクリートの床に倒込んでいた。
見上げた彼の口が、”そのまま帰れ。”と動き、それが最後の言葉になった。
彼の姿が闇に消えると、すぐに鈍い衝撃音が続いた。
美和は震える自分の両手を眺め続けた。
この手が彼を殺したのだ。この手がアツシを死へ至らしめたのだ。例えアツシが自ら飛び降りたのだとしても、この手は確かに彼の最期に触れていた。
そのままへたり込んだ美和は声を上げて泣いた。
こんなにひどい結末があるだろうか? ついこの間まであんなにも楽しく過ごした日々は、一体なんだったんだろう?
夜が明けるまでそこで泣きはらした。
きっと一生分の涙を流したと思う。
***
アツシは病気を苦にしての自殺という事で全ては終わった。彼の部屋にそういう内容の遺書が残されていたのが決め手になったらしい。
怖くて彼の遺体を見る事は出来なかった。
取り乱した美和がなんとか家まで辿り着けたのも、頭に、彼の”帰れ”という言葉が残っていたからに過ぎない。
美和にも今ならすべてが分かる。
アツシは死への恐怖に必死に耐えながら、どうしても自分の痕跡を残したかったんだと。
事情を聞いた美和が拒まなければ、それは実現したかもしれない。
振り返れば、秋になった頃から彼は急に美和の身体を求め出した。
美和にもエッチを体験してみたいという気持ちはあった物の、どうしても裸になるのが恥ずかしくて出来なかった。
彼の事はもちろん大好きだったけれど、それは無理をしてまでする物ではないと思ったし、その内自然とそんな瞬間がやって来るんだろうと思っていた。
美和がやんわりと拒むと、アツシはちょっとふて腐れた感じになって、でも決してそれ以上迫って来る事はなかった。
だから自分の気持ちを分かってくれたんだと思っていた。
なのに……。アツシは自らの遺伝子を残す為だけに、あんな凶行に走ったのだ。妊娠の可能性は低く、そして決して会う事のないふたりの子供という形を選んだ。
なぜ彼が自分の病気の事を美和に話さなかったのかは分からない。でも例え彼が死の縁にあったとしても、もっと違う形の時間が過ごせたはずだった。
絶対に最後まで彼を見捨てたりしないと言い切れた。それくらい好きだったのだ。
それがこんな結末になってしまった事が何より悔しかった。
結局彼の絶望を、舞い上がっていた美和は感じ取れなかった。
アツシは表面上いつも楽しそうに笑っていた。でもむしろ楽しい時間を過ごした事が、より一層彼を追い詰める結果になってしまったのかもしれない。
そして身勝手な動機と身勝手なやり方で美和を傷付けた挙句、アツシは死を選んでしまった。
それが美和にとってどんなに残酷な仕打ちであるか、彼は分かっていたんだろうか?
結局、残されたのは自分とお腹の子供だけになった。
たった一度のセックスで妊娠したのは、彼の執念と言えるかもしれない。
手首に刃を滑らせた。
こんな事をしてもどうにもならない事は分かっている。でも美和は今そういう気分なのだ。このまま思考を停止して、全てを投げ出せたらどんなにいいかしれない。
開けっぱなしの窓から風が入り、机の上の手紙が飛んだ。アツシからの手紙だった。
差出人は美和になっており、外国を経由して、宛先不在で出してからひと月以上も経って戻って来た事が消印から分かった。
生理が来ない事を不安に思った美和が、市販の検査薬で調べた結果、妊娠していると分かった直後に届いた物だ。
そこには遺書には書かれていなかった、彼の懺悔が記されていた。
自分が美沙を襲った事。もし妊娠していれば、それは自分の子供だとはっきり書かれていた。
手紙に貼り付けられた一本の髪の毛。これでDNA鑑定しろというんだろうか?
レイプは親告罪だ。もし美和が訴えを起せば、この手紙で彼が犯人だと証明する事も出来る。きっとアツシの指紋も付いている。
アツシは初めからこうするつもりだったんだと思った。
美和が妊娠したとしても、死ぬ前から最後の逃げ道は作っていた。それはすべてを美和に任せる事に等しい。
アツシを訴える事も、子供を産むかどうかも、彼を許すかどうも、だ。
どれをどう選んでも美和にはつらいだけ。彼の悲しい思いが美和を押し潰しそうになる。
手紙には、秋恵は美和を呼び出すのに利用しただけで、事情は何も知らないと綴られていたが、それはすでに彼女に確かめて知っていた。だから美和は今でも学校に通う事が出来る。
美和が気付かなければ、彼は自分にすべてを隠して、寄り添いながら死んでいくつもりだったらしい。
遺書も、この手紙も、美和があの日の深夜、アツシを呼び出した後慌てて書いたのが分かるからだ。
美和は自分の両手を眺めた。この手が押し出した彼の重みは、まさにこの子の重さだった。
こんなに重い子供を育てて行く自信などなかった。流産してくれるのが一番いいが、そんな事にはならない気がした。
外から見れば、彼氏を失っただけのかわいそうな自分は、一体どうしたらいいんだろう?
のろのろと床に落ちた手紙を拾い、椅子を引いて窓から身をのり出した。
見上げるといつの間にか夜も更け、空にはいつもと変わらずたくさんの星が瞬いている。
美和は、その星のひとつになったかもしれないアツシに、語り掛ける言葉が見付からなかった。
宵空 -YOISORA-