【掌編幻想譚】Red
四
四
とぷん、と海水に顔をつけると、足もとの砂が波にさらわれてサラサラと音を立てた。
遠くで飛行機がたてるブゥーンという音も、近くの人たちが騒ぐ声も、それで消えてしまった。
こぽぽぽ、と音を立てるこれは、私の口からもれる空気。
ジャッ、ジャッ、と足もとの砂を掻いてみる。大昔サンゴだったそれは、蹴りあげてもすぐに沈む。比重が大きいのだ。
水面に出した手を掻き回して音を立てた。
近くで起きているはずの音は、ゾボんゾボんと妙に遠く聞えて、手を止めると耳元でショワショワと消えた。
地上でかすかな音でも聞き分ける耳は、ここでは役に立たない。どうやら水中で音を聞きとるには、私の耳は適していないらしい。
音が聞こえないというのはいい。
妙に嬉しくなって、体をかかえて震わせるとしかし、目のはしに近くで騒ぐ集団の下半身が写った。
あは、きれいだね、生足ってのは。いいね。
年齢の割に無理してるように見えた水着も、今なら許せる気がする、とそんな下世話なことを考えている自分に気付いて愕然とした。
もっと沖に行こう、そう思った。
ゆっくりと砂を蹴って泳ぎだす。
ちゃぷん、と海の底近くまで、私は体を踊らせて潜っていった。
砂を蹴ってサラサラ。
水を掻いてシュワシュワ。
息を吐いてコポコポ。
海底の白い砂の上で、陽の光が揺れている。
顔を前へ向けると、茫とした水が広がる。
シュラシュラと水を掻きながら、私は前へ、そしてだんだんと深く潜っていった。
目を凝らした水の先は、きっと果てがないはずなのに、ある所からは藍で封されている。
例えば遠くから、4㎞先からでも、獲物の血を嗅ぎ分けると聞くあのサメが、私に向かって泳いでくるとして、それはあそこからどんな風にして浮かび上がってくるのだろう?
きっとその瞬間、ずっと目を凝らしていたとしても、いつ現れたのか分かるまい。
ここでは遠近を測るものがないのだ。
水深は、とっくに背が届かない。
水中での緩慢な動き。ここでの人間はあまりにも無防備だ。
そう気付くと、頭の左側がチリチリとする感じがして、こぽぽ、と息を吐いた。
私はさらに沖へ、そして深く潜っていく。
一掻き。
二掻き。
そのたびに視界は、その深さの分だけ広く、そして藍色に沈んでいき、私の「ここにいること」の認識を上書きしてくる。
三掻き。
四掻き。
私と海底との距離は変わらないはずなのに、白かったそれは明度を減じていく。
なまぬるかった水はある所からひんやりとして、水中に現れたその新たな海面に、体は分け入っていく。
体にまとわりついていた気泡もいつか散って、水を掻くしゅらしゅらという音もしなくなった。
鳥肌が立ちはじめる。
圧倒的な深みの存在は、私を矮小化させ、驚きと恐れをもたらすその認識はしかし、一掻きごとに程度を増して果てがない。
視界から流れ込む「恐怖」が頭の中にガリガリと飽和し、血流に乗ったそれは体中を痺れさせて、ある種の快感を引き出す。
浮遊力で動きの鈍くなった体からごボリと息を吐き出すと、さらに下降を始めた。
頭上の海面が高く、そして暗くなっていく。
いつも覚えていない、眠りに落ちる過程というのは、ちょうどこんなものかもしれない、と、頭のどこかで考える。
増してく深みに、体を取り込まれていくようだった。
おぼろげながら、まだ見えぬ「深み」というものを理解しはじめる。
光を受けとめる粒子のベールを解いて、色を減らしていくそれは、闇であったのだと。
しかし、闇を闇であると見て取ったとして、それを理解したと果たして言えるだろうか。
いや、言えまい。光がなければ、闇を見通すことはできない。
そこに暗い色を見ても、その中にあるものを見ることはできない。
目の前にあるものが、認識できないものである、という理解できない感覚を、頭の中で立ち上らせるにまかせ、煙草の煙を吸うようにして、体に染み渡らせた。
薄い酸素の中、効果の微小なそれが、自分を変質させるにまかせた。
不思議と、苦しくはなかった。
それは、幼い時の出来事を思い出させる。
まだ小学生、姉と一緒に風呂へ入っていた時のことだ。
姉が体を洗っている間、私は湯の中に潜って遊んでいた。そのうち、風呂桶の中で、湯の注ぎ口からふつふつと出ている気泡が、私の心をとらえた。
私はそれを、ずっと見ていた。
その間が、二分だったのか、四分だったのか、それ以上だったのか、よくは分からない。
そのうち、体を洗い終えた姉が私を引き揚げるまで、私は「自分が息をしていない」、ということをすっかり忘れていた。
もし、あのまま潜っていたら、どうなっていたのだろう。
しばしば、きっと、と私は想像した。
五分でも十分でも、飽きるまであの気泡を見続ける自分を。
それができないことだとは分かっていた。今だって分かっているはずだ。
なのになぜ、私はここで、苦しいとは感じていないのだろう。
血中の酸素がなくなっていくのを感じていた。
体の動きも、少しづつ鈍くなっていく。
細胞が、酸欠でかすれた悲鳴をあげている。
しかしそうしたことは、私自身とは隔てられていた。
私は海底にそって、さらに先へ進んだ。
視界が闇く沈んでいく。海面ははるか高く、水が支配権を増した。
ここでは誰も、水上のことなど考えないだろう。
ここにいる自分が、人ではなく魚だと言った方が、自然である気がした。
突然、
海底がなくなった。
ずっとあると思っていた海底が、ある部分から途切れていることに、私は気付いていなかった。
そこは、海底にできた崖だった。
私は下を覗いたが、底は全く見えなかった。
ただ、光のベールをまとった藍の闇があった。
顔を上げた先の水中は、ついに視界をさえぎるものが何もなかった。
脳細胞が、サラサラと音をたてて溶けていく。
私は、宙に掛けられた。
地を踏む足がその意味をなくし、今にも闇へ落下していくような気がした。
この絶壁から宙に飛び出すということは、つまり自分のいる場所を測るものをなくすということだと、地上に生きた本能が理解させた。
遠く下の方で、何かが動いていた。
じっと目の焦点が合うままにまかせていると、どうやらシュモクザメらしい。四、五メートルくらいくらいあるのかもしれないが、距離のせいで小魚のように小さく見える。
そいつは一匹だけで、はるか眼下、T字型の頭を振りながら、ふわふわと泳いでいるのだった。
きっと、私はあそこまで潜ることはできないだろう。
あいつを、もっと間近で見ようとしても、半分も行かない内に、体中の酸素を使い尽くすだろう。
そう考えるだけで、分かたれた体が悲鳴を上げる。
だが、その声を無視しても、今、私はあのサメが見たかった。
地上の全部を忘れて、全部をなくしても、私はあれが見たかった。
しかし全てを犠牲にしたとしても、それはかなわないことだった。
手を伸ばしても、届かないのだった。
しかし、だとすれば。
この茫洋とした宙は、私にとってどんな意味があるというのだろう。
手の届かぬ程の高さに実る林檎のように、一体それに何の意味があるというのか。
なぜ手の届かぬほどの果てを認識するのか。
なぜ闇を、理解できないものとして理解できてしまうのか。
私が生きているのは、ここから海面までの、光に満ちた、わずかな隙間であるはずなのに。
とすれば、と、
私の体はゆっくりと力を失っていった。
そして私は、届かぬ果てを埋めていくことにした。
私は、失った力を反転させるようにして使い、「そこにないもの」へ触れていく。
私が水と闇に目を留めて、そこに力を注ぎ込むと、
それは広大な土地になった。
土地に力を与えると、それは緑を出し、人が群れるようになった。
私がそのうち一人に目を留めて、これを王にすると、王は群れを大きくしていった。
私がさらに力を与えると、群れは見渡す限りの土地に増え、国を作り、
卑しいままに進んで、巨大な建造物を建て、都市を作り、その間を人や、魚や、クジラ、そしてもっと大きな何かが泳いでいった。
私がさらに力を与えると、
人は重くなった頭を垂れるようにして発展し、
自らの弱さを慰めるように卑しいものを作り、
やがてその大きな頭で身動きのできない赤子のようになって、
目ばかりをキラキラとさせたまま、
ゆっくりと死んでいった。
花火を上げた。
祭りをした。
紙吹雪で空を満開にして、
大きな声で歌い、楽しく遊ぶうちに、
やがて夜が来て、
街にはあかりが灯った。
夜が更けて、少しずつ消えていく灯りの中、
ビルの窓辺で男が一人、書き物をしていた。
男が手を止めて、窓の外を見ると、私は彼と目が合った。
すると、私は、恥ずかしくなった。
幼い者を、幼いままに遊ばせて。
ははっ、と男が笑った。
どん、と音がして、
男も、ビルも、都市も、
人も、国も、土地も、
そして水でさえもが、
消えた。
そしてただ、青い色だけが残った。
私は、
青い空の下で、海を眺めていた。
グラスの氷がカラリと音をたてて、風が吹いた。
離れた所で、友人たちが浜辺で騒ぐ声が聞えた。
しばらく、ぼんやりと海を眺めていた。
腕ににじんだ汗を、風が撫でた。
遠目に見える友人の水着は、やはり年齢にしては無理してるように見える。
どぎつい赤色に、急にめまいがしたような気がして、
「あんの生足が」と、よく分からないことを呟いた。
まぶたを透かしてみる太陽は流れる血の色をしている。
頭を起こして時計を見ると、もう昼時だった。
私はそろそろバーベキューの火でも起こそうかと、
椅子から腰を上げた。
【掌編幻想譚】Red