向日葵
「おっ高原やんかー」
気さくにかけられた声に反射的にふりむくと、すらりと背の高い男性がにこやかに手を振っていた。去年まで同じ高校で同じ部に所属していた田岡先輩だ。
入学して間も無く、不安ばかりが募っていた私を美術部へと導いてくれた人だ。仮入部のときみた田岡先輩の絵は、決して技術面では飛び出て上手いとは言えなかったものの、私の目を、心を惹きつける何かを持っていた。
でも、できることなら、今、この人にだけは会いたくなかったのに。
そんな気持ちを必死に表に出さないように押し込めて、いつも私がこの人に向けているであろう笑顔を作り、ごく自然に挨拶を交わす。
「こんにちは。田岡先輩。珍しいですね。帰ってきてたんですか?」
田岡先輩は今年から上京して私では名前も聞いたことがないような遠いところでひとり暮らししながら大学に通っている。
「あぁ、こっちはもう試験終わって夏休みやからな。お盆はバイトでなアカンし、早めに帰ってきてん。」
田岡先輩は、最後にあったときと何も変わらない無邪気な笑顔でそう言った。
いや、少し髪が伸びただろうか。肌も少し焼けた気がする。
ラフなパーカーにジーンズという田岡スタイルは変わっていないけれど。
あぁ、そういえばもう夏か。
じっとりと汗ばんだ体に制服のカッターシャツが張り付いていたのは、こんなにゴツくて思い画材を運んでいたからというだけではないようだった。
そのことに気づいたらしい田岡先輩は、不思議そうな顔をした。
「なんやそない画材抱えて、今日は部活とちゃうんか?」
あぁ、もう。一番聞いて欲しくなかったのに。田岡先輩には。
「……今日は部活、休みなので。気分転換に風景画でも描こうかと。」
嘘だった。
今日はちゃんと部活がある日だし、きっと私以外の部員は皆、各々の小物相手にデッサンの練習でもしている頃だろう。
画材を持ってうろうろしていたのも、風景画を描くためでなく、"何か描く物"を探していたのだ。
心の奥でずっとくずぶっていたモヤモヤが這い上がってくる。
なんだか…そう、イライラするのだ。
筆を手にとっても何も描けない。描きあげても、どうにもしっくりこないのだ。
いわゆるブランクというものなのだろうが、自分の絵じゃない。まるで、他人の絵のようで…。
面白くない。わからない。技術が足りないのか。そう思って技術面を磨けば磨くほど遠ざかって行く気がした。
そうして、部活をサボってフラフラと描く題材を、いや、私にも描けるものを探し歩いていたところなのだ。
「そうか…俺も、見ててええかな。」
田岡先輩はゆっくりと瞬きし、そう言った。
私は内心とても焦った。だって、今の私には何も、何も描けはしないのだから。
「…構いませんが。」
ようやく絞り出せたのはその短い一言だった。
随分ぶっきらぼうに返事してしまったものだから、失礼だったか、と田岡先輩に目を向けると、本人は至って気にしていない様子で、「持つわ。」と言い、半ば強引に私から画材をひったくった。
少し身軽になった私は、早く済ましてしまおう、と短くため息を吐いて河原を目指した。
自然が多いいわゆる「田舎」な私達の住む街でも、河原は特に自然が豊かで生命力に溢れている。
やはり、ここなら描けるだろう。描くならここだろう。
水面は光が反射してキラキラと輝き、夏を待ちわびる草木達はより一層青々と茂っている。人の気配がぱったりと絶たれたこの一角は、最も自然のままで残っており、最も美しいと思う。
うん。ここだ。ここなら描けるだろう。
私はスカートに皺がつかないように、静かに草むらに腰を下ろした。その隣に人ひとり分くらいのスペース空けて、田岡先輩は黙って座り込んだ。
そこから私と田岡先輩は一言も言葉を交えることなく、どれくらいの時間が過ぎただろうか。
私はといえば、この美しさをどうにか、この感動をどうにか絵に表現できないかと時折筆を止めつつ、無言で絵を描いていた。
その隣に座る田岡先輩は、じっと私が作業している様子を見ているかと思うと、ぼーっとずっと遠くを見ていたりもした。私は少し、そんな先輩の横顔を盗み見ていたりもした。
「……。」
相変わらず黙ってそっと筆を置いた私の方を、先輩はゆっくりと見やった。
「できたんか?」
「…はい、でも…。」
とても見せられるようなものではなかった。構図はズレているし、光に対して影の位置がどうにもおかしい。気がする。何より、何かが足りない。私が表現したかった"美しさ"が欠けている。
まただ。
どうしたって、私の感じた「美しさ」を表現できない。
技法の勉強が足りないのだろうか。頑張ってきたのに。なんで、どうして。
ぐっと唇を噛み締め、眉間に力を込めるが、目頭がじんと熱くなるのが抑えられない。
駄目だ。何泣いているんだ。よりにもよって田岡先輩の前で。意味がわからない。
「いえ、その…これ、は、その…」
不自然でない程度に田岡先輩から顔を背け、全神経を瞼に集中させる。
泣くな。泣くな。
でもどうしても声が僅かに震えてしまう。
視界の端で、田岡先輩はふぅ、と息を吐いた。
私はびくりと肩を震わし、心臓が大きく波打つのを感じた。
呆れられただろうか、失望しただろうか。それとも単純に急に泣き出したことへの困惑かもしれない。
「なぁ、高原。」
先輩は私の名前を呼んだが、何だか、私に話しかけているのではなく、独り言のように聞こえた。
視界の端の人影はキャンバスボードの上で握りしめられた私の手をそっと取った。
右手がじんわりと暖かくなる。
長時間風にさらされていたせいで、私も先輩も冷え切っていたのに、なんだか、田岡先輩の熱を私の右手が吸収しているかのようにそこだけが、熱い。
先輩は、そっと私の手を開いた。
いつのまにか、その手はきつく閉じられていたようで、手のひらには薄く爪痕が刻まれていた。
目を丸くして顔を上げた私に田岡先輩は少し困ったように微笑んだ。
「君が入学してきた年の仮入部で掲示するために描いた俺の作品、高原、覚えてるか?」
ぐるぐると様々な思いが駆け巡っていた頭にその言葉が着地するまでに長い時間を要した気がした。
そうだ。忘れもしない。
少し歪で、特別上手いわけでもなくて、でも、誇らしげで、一輪、真摯に咲いていた。大輪の。
「…向日葵」
「やあっぱ、高原は覚えとったか…なんか、恥ずかしいなぁ。」
そういって、田岡先輩はまた、少年のようにはにかんだ。
忘れない。忘れられるわけない。
皆、技術面を見たんだ。田岡先輩はまだまだだって。
でも、私は凄く、綺麗で繊細で臆病で一生懸命で…愛おしく思った。
少し歪な向日葵は、太陽の光を一身に浴びて、その太陽に恩返しでもするかの如く、じっと太陽を見つめていた。
まるで、太陽が向日葵を慈しみ、向日葵がそんな太陽に恋をしているようで。
「あの絵、下手やったやろ。」
先輩は寂しそうに静かに呟いた。
私はびっくりして、首をブンブンと力いっぱい振った。
「そん、なっこと、ない、です…!」
このとき初めて、目頭を熱くしていたものが、溢れ出していたことに気づいた。
顔の熱は引いていたものの、今度は全身が熱い。
嗚咽が混じり、言いたいことが上手く声にならない。
「はは、高原はそう言うと思ったわ。」
いつもの明朗快活な田岡先輩からは想像もつかないほど、柔和で…寂しそうだった。
「なぁ高原?俺はな、お前が何でそない悩んで苦しんで泣いてんのかさっぱりわからんけど…なぁ、高原。」
高原、と、先輩は噛みしめるように静かに呟く。
その度に、心臓のあたりがほんわりと熱くなって心拍数が上がる。
「俺、お前の絵、好きやで。高原。」
あまりの衝撃に目を見開いて先輩をみると、ふと先輩の視線が落とされる。視線を辿った先には、先ほどまで抱えて隠していた私の絵が露わになっている。
「わ、わ、あ…!」
慌ててバタバタと隠そうとする私の手をぱしっと掴んで、田岡先輩は言った。
「しゃーないわ、俺の絵に憧れて入部したって聞いたで。しゃあないわ。俺は絵が下手や。部で一番な。下手やった。高原の絵な、俺のと少しおんなじ匂いすんねん。しゃーないわ。」
しゃーない、と、田岡先輩は繰り返した。
「でも、俺は高原の絵がいっちゃん好きや。どんなに絵の上手いやつでも敵わへんモンを高原は持ってんねん。」
「…?わた、し。そんな…のっ」
まだ嗚咽の混じる声で精一杯返事をすると、田岡先輩は私の顔をじっと見た後、キャンバスボードに視線を移した。
「美しいものを美しいと感じる。誰にでも出来るようで、実は難しいことやねんで。それを、誰かに伝えたい。気付いて欲しいっていう想いが、よぉこんなにも前面に表現できるわ。」
それは、田岡先輩だろう。
私は、目の前の少年のような青年をじっと見つめた。
あの向日葵は、確かに下手だった。単純に絵が上手いものなら、この世にごまんとあるだろう。
でも、あの向日葵は田岡先輩にしか描けなかった。
密集して咲く多くの向日葵の中でただ一つ、太陽への切望の眼差しを。
あれほど表現できる人が、他にいただろうか。
私は、先輩の後ろを追いかけていただけなのに。
「難しく考えんでええねん。高原、自分の好きなもの描き。周りは気にせんでええねん。上手さは気にせんでええねん。自分の伝えたいことを文字でも言葉でもなく伝えられる手段を君は持ってんねん。」
うん、と、小さく頷いた。
「俺はそんな高原の絵が好きやねんから。」
うん、うん、うん。
私も、好き。
泣きながらこくこくと頭を振る姿はきっと子供のようであったに違いない。
「んな泣くなやー困っちゃうなー」
田岡先輩は、少し意地悪く笑いながらも、ずっと私の手を握っていた。
手も、顔も、胸も、身体中が熱いほど火照っていた。
河原を急ぐ夏を報せる風は、少し湿っていて、私の体を冷ます気など毛頭無いらしい。
ふわりと舞った髪が頬を撫でた。
私は、笑っていた。
先輩も、少年のように無邪気に笑っていた。
向日葵
向日葵の花言葉は、「あこがれ」「あなたは素敵」「熱愛」「愛慕」「光輝」
「私はあなただけを見つめる」「敬慕」「あなたは素晴らしい」
はじめましての方ははじめまして。
そうでない方はお久しぶりでございます。
文弥と申します。
恋愛経験が浅い私ではありますが、気がついたらこんな話ばかり書いてしまっています。
そして、終盤で女の子が泣きじゃくってそれを男の子が慰めるんですねわかります。
この話は、美術部でもなんでもない私が書くには荷が重かったようです。
結局美術部っぽい単語は何一つ出さずに終わってしまいました。
でも、絵を眺めるのは割と好きで、あと向日葵も好きです。
田岡先輩は一体、どんな気持ちでこの絵を描いたんでしょうね…。
太陽のように向日葵を慈しんでいたのかもしれませんし、向日葵のように太陽に恋をしていたのかもしれません。
ですが、それはまた、別のお話。
ここまで読んで頂いた方、もしお気に召して頂けたら光栄です。
前作前々作も合わせ楽しんでいただけましたらこれに勝る喜びはありません。
また次回、何処かでお会いできる日を楽しみにしております。