総務部しおりの “社内トラブル解決します!”

プロローグ わたしが総務部!?


3月。桜並木の坂道を水沢しおりは早足で上がっていく。桜のつぼみはふくらみ始めたばかりだが、あと2週間もすれば、この坂道は薄紅色に染まる。

かもめ商事は、横浜港を見下ろす丘の上にある、社員数120名の商社だ。しおりは地元の大学を卒業後、その経理部で3年間働いている。

息を弾ませて会社の玄関に着くと、廊下の掲示板の前に何やら人だかりができている。そこには10枚ほどの紙が貼り出してあった。

――あぁ。もう3月だもんな。

かもめ商事は4月に人事異動があり、その辞令を毎年この時期に掲示板に貼り出すことになっている。

――誰か知ってる人の異動があるかも……。

しおりも人だかりの後ろから辞令を眺めた。その時、ふと1枚の辞令が目に止まった。その視線の先には――


『辞 令

 水沢しおり殿

 平成24年4月1日付で総務部への異動を命ずる。』


「総務部? なんでわたしが!?」

かもめ商事は良くも悪くものんびりした社風で、ジョブローテーション(注1)のような制度があるわけでもない。しおりもこのまま経理部で働いて、30歳ぐらいまでにはいい人を見つけて――なんて漠然と考えていた。そこに突然の辞令だ。


※(注1)ジョブローテーション : 社員の能力開発のために、育成計画に基づいて定期的に職場の異動や職務の変更を行うこと。


「部長!」

しおりは、オフィスに駆け込むと経理部長の岩田に詰め寄った。

「わたしが総務部ってどういうことですかっ!?」

「いやぁ、私も急な異動でびっくりしてるんだよ。しかし水沢くんがいなくなると寂しくなるなぁ。そうだ! 送別会をやらないとな。場所は水沢くんお気に入りの『鳥八』でいいかね?」

「あそこの塩レバーは絶品ですからね……って、ごまかさないでください! 私、総務の仕事なんて全然知らないし、なんで急にそんな話に……」

「まあ最初はみんな初めてだから。ほらもう勤務時間だ。あと2週間は経理部員なんだから、最後までビシッと頼むよ」

「む~……」



そして4月1日。経理部で後任への引継ぎを終えると、しおりは期待と不安の入り混じった気持ちで総務部に向かった。

――総務っていったいどんな仕事をするんだろう。

総務部に着くと、受付に近いデスクに30歳ぐらいの男性が座っていた。よく見ると髪に寝癖がついてるし、ワイシャツもシワだらけだ。あまり身なりには気を使わないタイプらしい。

しおりはおそるおそる声を掛けた。

「あの、今日から総務部に配属された水沢ですが」

「おぉ、待ってたよ。おれは片山吾郎。よろしくな。部長、水沢さんが来ましたよ!」

片山が叫ぶと、オフィスの奥から50歳ぐらいの男性がニコニコ微笑みながらしおりたちのほうに歩いてきた。ロマンスグレーの優しそうなおじさんだ。

「どうも、総務部長の天野です。今日からよろしく頼みますよ」

「水沢です。こちらこそよろしくお願いします。ところで天野部長、他の部員の方は?」

「他の部員? うちは私と片山くんと君の3人だよ」

――えー!? 総務部ってたった3人なの?

「じゃあ、さっそくだけどこれをよろしく」

天野はそう言うと、しおりに大きな段ボールを渡した。

「部長、これは?」

「ブルーシートだよ。片山くん、水沢くんに花見の会場を教えてやってくれ」

「はい。じゃあ行ってきます!」

そう言うが早いか、片山はスタスタと廊下に歩き出した。しおりは段ボールを抱えて慌てて片山の後を追いかける。

「あの、ブルーシートに花見ってまさか……?」

「うん? 場所取りに決まってるだろ。早く行かないといい場所取られちゃうぞ!」

――花見の場所取り? 総務ってそんなことまでするの?

「片山さん、ちょっと待ってくださいよ~!」

こうしてしおりの総務生活は幕を開けたのだった。

第1章 うつ病は労災だ!


総務部に異動してから半年。しおりは持ち前の負けん気で帰宅後も労務管理や社会保険の本を読み漁り、ようやくひと通りの仕事には慣れてきた。それでも、時々イレギュラーな仕事が入るとまだ焦ってしまう。

そんなある日の午後。その日は天野も片山も外出していた。しおりが1人オフィスでパソコンを打っていると、受付から「すみません」と男性の声がした。

しおりが近づいてその男性の顔を見ると、青白く、ひどくやつれている。体調でも悪いのだろうか。

「はい、何か?」

「傷病手当金請求書を持ってきたので、提出をお願いしたいのですが……」

――傷病手当金(注2)かあ。本で読んだことはあるけど、実際に書類を見るのは初めてだ。うーん、1人の時に限ってイレギュラーな仕事が来るものね。


※(注2)傷病手当金 : 病気やケガにより仕事ができない場合に、健康保険から療養中の生活保障として支給される手当


「ごめんなさい。私まだ総務の仕事に慣れてなくって。この書類はどうしたらいいんでしょう?」

男性は、持参した書面を指で示しながら言った。

「医師の証明はもらってますし、必要な箇所は記入済みですから、ここに会社の証明をして、協会けんぽ(注3)に提出するんです」


※(注3)協会けんぽ : 全国健康保険協会の略称。自社で健保組合を持っている大企業に対し、中小企業の多くは協会けんぽに加入している。


「そうなんですか。すみません、本当は私がお教えする立場なのに」

「いえ、いいんです。もう4回目ですから、私も慣れてるんです」

男性は「お願いします」と言って去って行った。

しおりはデスクに戻り、男性が持ってきた書類を眺めた。うつ病――傷病名という欄にそう書いてある。

――顔色が悪いのはそれが理由だったのか……。もう4回目って言ってたけど、長い間欠勤してるのかな。



しばらくして片山が戻ってきたので、しおりは傷病手当金請求書を見せた。

「業務部の小宮さんが来たのか。今月ももうそんな時期か」

「毎月来てるんですか?」

「傷病手当金請求書は原則として毎月提出だからね。まあ、数ヶ月分まとめて出せなくもないけど、その分支給も遅れちゃうからな」

「もう4回目って言ってましたけど、その間ずっとお休みしてるんですか?」

「ああ。でも、この書類だけは毎月持ってくるんだよ。郵送でもいいって言ったんだけど、真面目な人なんだなあ」

「うつ病って、真面目な人ほど掛かりやすいって言いますもんね。きっと片山さんには一生縁のない病気ですね」

「……お前もな……」



夕方になって戻ってきた天野部長に小宮の話をした。

「そうか、小宮くんの傷病手当金も4回目か。片山くん、そろそろ通知書の準備をしないといけないね」

「はい」

「片山さん、通知書の準備って?」

「そうか。最近休職者はいなかったから、水沢は初めてだな」

そう言って、片山は棚から就業規則のファイルを取り出した。

「ほら、ここに書いてあるだろ」


第52条(休職)
1. 社員が次の各号に該当するときは、所定の期間休職とする。
 (1) 私傷病による欠勤が1ヵ月に達し、なお療養を継続する必要が
  あるため勤務することができないと認められたとき
  ① 勤続年数が3年未満の社員・・・3ヵ月
  ② 勤続年数が3年以上の社員・・・6ヵ月
2. 休職期間満了までに休職事由が消滅しない場合は、休職期間の
 満了日をもって普通退職とする。


「小宮さんは勤続15年だから、休職期間は6ヶ月だ。最初の欠勤1ヶ月と合わせて7ヶ月間は傷病手当金をもらいながら在籍できるわけだ」

「ふむふむ。じゃあ7ヶ月経ったらどうなるんですか?」

「クビ」

「えぇ!?」

「片山くん、誤解を与えてはいかんよ。休職期間満了による退職は解雇じゃなく、普通退職扱いだよ」

「普通退職?」

「更新の定めのない1年契約の契約社員は、契約満了日が来たらその日で退職になるけれど、クビにされたとは言わないだろう」

「はじめから1年限定と納得したうえで働いてるんですものね」

「あらかじめ労使合意で定めた条件に従って退職することを普通退職と言うんだ。休職期間満了も同じ考え方で、あらかじめ就業規則で休職期間は6ヶ月と通知しているのだから、その期間内に復職できなければ、約束どおり休職期間満了をもって普通退職というわけだよ」

「なーんだ、クビじゃないんですね。片山さん、驚かさないでくださいよ」

「でも部長、休職期間中に復職できなくて、もう少し退職は待ってほしいっていう人でも普通退職になるんですよね。それって実質クビに近いんじゃないですか?」

「まあその通りだ。ただ、休職中は給与は支払わないが、社会保険料の会社負担(注4)は休職前と変わらない。休職があまりに長期間だと人員計画に支障も出る。一定の期間で線引きするのはやむを得ないだろう」


※(注4)社会保険料の会社負担 : サラリーマンの社会保険料は労使折半が原則となっている。私傷病による休職中でも休職前と同様に社会保険料は発生するため、会社は社会保険料の半額を負担しなければばらない。


確かに会社だって限られた社員数と人件費で営業活動をしている。部長の言うことももっともかもしれない。

――それにしても……小宮さんはあと2ヶ月で復職できるのかな?

しおりは小宮のやつれた顔を思い出してふとそんなことを思った。



その1ヶ月後、小宮が総務部を訪ねてきた。

「あら、小宮さん。傷病手当金請求書ですか?」

「いえ、今日はちょっと別件で。あの、天野部長はいらっしゃいますか?」

――部長に用? 何だろう?

しおりが天野に取り次ぐと、「ああ小宮くんか。会議室に通してくれ」と言い、資料を持って会議室に入っていった。



それから1時間後。会議室から出てきた小宮の顔は前にも増して青白く、オフィスを足早に通り過ぎて廊下に消えた。

「部長、どうしたんですか?」

しおりは気になって天野に尋ねた。

「うん……先日、その通知書を小宮くんに送ったんだが、ちょっと面倒なことになってしまったよ」

そう言いながら、しおりに1枚の書類を手渡した。

「休職期間満了に関する通知書」と書かれたその書類の内容は、
・11月末日で休職期間が満了すること
・期間満了までに病気が治らなければ普通退職になること
の2点である。

「前に言ってた通知書ってこのことだったんですね」

「休職期間中に復職できなければ普通退職となることは就業規則で通知しているけど、就業規則をきちんと理解している社員は少ないだろう? だから休職期間満了の1ヶ月ぐらい前にその通知書を送るようにしているんだよ」

ところが、小宮は自分が退職になるとは思っておらず、通知書を見て驚いて抗議に来た、ということらしい。

「お気の毒ですけど、就業規則で決まってるんだから仕方ないですよね」

片山が言った。

「私的に掛かった病気やケガなら、そう割り切ることもできるんだけどね。ただ、小宮くんは自分のうつ病は労災(注5)だと主張してるんだ」


※(注5)労災 : 労働者が業務中にケガや病気になること。私傷病と異なり、労働者には治療費等の負担が掛からない。


「労災!?」

「ああ。自分がうつ病になったのは、会社の人間関係が原因だから労災だってね。業務が原因の病気の療養期間中は労働基準法で解雇できない(注6)ことになってるはずだとも言われたよ」


※(注6)業務災害による解雇制限 : 労働基準法19条1項 『使用者は、労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり療養のために休業する期間及びその後30日間(中略)は、解雇してはならない』


「それは認められるんですか?」

「何とも言えないな。労災になるかならないかを判断するのは、会社ではなく労働基準監督署だからね。ただ、彼の主張がどこまで本当か調べる必要はあるだろう」



業務部での小宮の人間関係については片山にヒアリングをしてもらうことにして、しおりはうつ病と労災について調べることにした。

厚生労働省の発表によると、平成22年度において、うつ病を含む精神障害等についての労災請求に対し、業務上か業務外かの判断が示されたのは1,061件。そのうち、労災と認定されたのは308件。認定率はおよそ3割ということになる。

「ふーん、精神障害は労災と認定されやすくなったって聞きますけど、認定率は横ばいなんですね」

「それでも支給決定件数はここ数年でずいぶん増加している。平成11年に判断指針が策定されたのもその一因だろう。この指針が出るまで、精神障害の労災認定については統一基準がなく、個別のケースごとに判断基準がバラバラだったんだよ」

天野はそう言って、「精神障害等の労災認定について」というリーフレットをしおりに手渡した。

「そこに【精神障害の業務起因性の判断のフローチャート】というページがあるだろう。実際の労災認定はこの流れに沿って行われるんだ」

「ずいぶん複雑な仕組みになってるんですね。ん? この業務以外の心理的負荷の評価っていうのは、労災に何の関係があるんですか?」

「精神障害は、1つの出来事が原因で発症するケースより、複合的な要素が重なって発症するケースが多いと言われている。労災の認定にあたっては、プライベートでの出来事が精神障害の発症に関係していないかを調べることが不可欠なんだ」

そこへ片山が業務部から戻ってきた。

「どうでした、ヒアリングは?」

「業務部の人間関係が悪かった、って言う人はいなかったよ。小宮さんも同僚とはうまくやってたみたいだぜ」

「うーん。小宮くんの主張とは異なるな。これは本人からもう少し詳しい話を聞いてみる必要がありそうだね」



その翌日、3人は小宮の家を訪ねた。

玄関からリビングに向かって歩いていた時、ふとキッチンを見たしおりは思わず顔をしかめた。流し台にはカップラーメンの空き容器が高く積まれ、床にはゴミの詰まったビニール袋がいくつも置いてあった。

――これも病気のせいなのかしら……?

「今日、奥さんはご不在かね?」

「ええまあ。それより天野部長、労災申請はしていただけるんですか?」

「君がどうしても労災だと主張するのであれば、会社として手続きはするよ。ただし、その前にもう一度確認しておきたい。君の病気は本当
に部内の人間関係が原因なのかね?」

「そうです。私は業務部の人間関係が嫌で、毎日会社に行くのが苦痛だったんです」

「でも、業務部のみんなは人間関係が悪いなんてことは言ってなかったですよ」

「それはみんな自分の身がかわいいからでしょう。総務部に人間関係が悪いなんて知られたら出世に響きますからね」

「では、今になって労災だと言い出したのはなぜかな? 最初に欠勤してから今までいくらでも言うチャンスはあったはずだが」

「それは……。傷病手当金がもらえるなら当面生活には困らないし、労災なんて言ったらますます会社に戻りづらくなるからです。でもクビにされるんだったら、言うべきことは言わないとって思ったんです」

「……なるほど、よく分かったよ。では明日までに労災申請の書類を用意しておこう。明日の夕方に総務部に来てくれるかな」


 
会社に戻ると、片山が天野に言った。

「部長、本当にいいんですか?」

「本人が労災と主張している以上、会社が申請しない訳にはいかないだろう。労災か否かは労働基準監督署の判断に委ねようじゃないか」

その時、社会保険のファイルを見ていたしおりが声を上げた。

「やっぱり!」

「水沢、何がやっぱりなんだよ」

「小宮さん、1年前に奥さんと離婚してるんです! ほら、この扶養届(注7)。奥さんを扶養から外してます」


※(注7)扶養届 : 正式な書類名は『被扶養者(異動)届』。健康保険の扶養家族に異動があった際に、協会けんぽまたは健保組合に提出する書類。


「本当だ。ん? でも1年前ってお前まだ総務にいなかっただろ。何で分かったんだよ?」

「さっき小宮さん家のキッチンを見て思ったんです。奥さんがいる割にはずいぶん汚れてるなって」

「そうか、私もうっかり忘れていたよ。1年前に離婚か。これはひょっとして……」

「離婚がうつ病の原因かもしれないってことですか?」

「業務部に行って確認しよう」



天野としおりは業務部の原口部長に話を聞いた。

「小宮の離婚の件ですか……。私も責任は感じてるんです」

「どういうことですか?」

「あいつは愛妻家でね。以前は休みの日に奥さんと出掛けた話なんかをよく同僚にしてたんですよ。だけど、去年の春、業務部で退職者が続いて、残った我々に仕事のしわ寄せが来ちゃってね。小宮も3ヶ月ぐらい毎日のように終電で帰っていたんです」

「そんなこともあったね。我々もいろいろな所に求人は出したんだが、なかなか応募がなくて。あの時は原口部長にも迷惑を掛けてすまなかった」

「いやいや、いいんですよ。そもそも部員が辞めてしまったのは、部長である私の責任なんですから。――それで、ようやく忙しい時期を乗り切った1年ぐらい前、小宮が離婚したって聞きました。毎日終電帰りじゃ、奥さんとゆっくり話す時間もなかったのでしょう。悪いことをしてしまったなと思っていたんです」

「その後の小宮さんの様子はどうでした?」

「目に見えて元気がなくなってね。同僚が誘っても飲みに行かなくなったし。心配してた矢先に欠勤が続くようになって休職、というわけですよ」



次の日の夕方、小宮は約束どおり総務部にやってきた。

「労災の申請書は書いてもらえましたか?」

「ああ、用意してある。ここに君の印鑑を押してくれ」

小宮はポケットから印鑑を取り出すと、申請者の欄に押印をした。

「これで、会社も労災と認めてくれたわけですから、私の解雇も撤回と考えていいんですよね?」

「その前に、君に話をしたいという人がいるんだ。結論はその後でいいかな?」

天野が振り返って「どうぞ」と言うと、会議室のドアを開けて男性が入ってきた。

「小宮、久しぶりだな」

それは業務部の原口部長だった。

「原口部長! 部長がなぜ?」

「お前にひと言謝りたくてな。天野部長から今日お前が総務部に来るって聞いて、話をする機会を作ってもらったんだよ。――小宮、お前が奥さんと別れたのは毎日遅くまで残業させてしまったおれのせいだ。おれが部下の労務管理をおざなりにしたばかりにお前の人生を狂わせてしまった。本当にすまなかった!」

原口はそう言って小宮に頭を下げた。小宮は驚いて顔を真っ赤にしている。

「部長は関係ありません! 残業は自分が好きでやっていたんです!」

「しかし、毎日終電帰りで、それが離婚の原因だったんだろう?」

「……いえ……それも違うんです。離婚は1年前ですが、妻とはその前からずっと別居してたんです。だから仕事が忙しかったのは関係ないんです」

天野が口を開いた。

「小宮くん。君が3ヶ月の間、ずっと長時間労働をしていたのは事実だ。うつ病の原因が離婚なのか長時間労働なのか私には分からない。労災申請書を出して労働基準監督署の判断を仰ぐのがいいんじゃないかね?」

しかし、小宮は首を横に振って答えた。

「すみません……労災申請はもういいです……」

原口が驚いて声を上げた。

「小宮、労災が認められなかったら、お前は退職なんだぞ!」

「原口部長。1年前は確かに大変でしたけど、部長は私を信頼して仕事を任せてくれましたし、時々飲みに連れて行ってくれたりして、すごく楽しかったんですよ」

「小宮、お前……」

「自分のことですから、うつ病の原因は離婚だって分かっていたんです。だけどこの間、あと1ヶ月で退職って通知書をもらって、会社を辞めたら傷病手当金がもらえなくなるし、どうやって生活すればいいのかってすごく悩んで……。そんな時たまたま読んだ雑誌に、労災なら会社は解雇できないって書いてあって、これを利用するしかないって思ったんです」

原口が天野に向かって言った。

「天野部長、お願いです。休職が6ヶ月という決まりは知っていますが、小宮の退職をもう少し待ってもらえませんか? 小宮は業務部が大変な時を支えてくれた功労者です。何とか休職期間を延ばしてもらう訳にはいかないでしょうか?」

「原口部長、お気持ちは分かりますが、ルールはルールです。ここで小宮くんの休職期間を延ばしてしまうと、他の社員が同じケースになった時、小宮くんは良くて何故自分はダメなんだということになりかねないでしょう。小宮くんの11月末での退職は変更できません」

原口はガックリ肩を落としてため息をついた。

「そうですか……。いや、おっしゃる通りです。小宮、力になってやれなくてすまないな」

「いやいや。原口部長にできることはありますよ。小宮くんの再入社の時に、推薦書を書いてもらわないと」

「再入社?」

「ええ。11月末での退職はルールですから変えられません。でも、うつ病が完治したらまた入社してもらえばいいじゃないですか。原口部長の推薦書があれば社長もノーとは言わないでしょう」

「でも、それでは退職している間の生活に困るでしょう」

「それですが、先ほどの小宮くんの話には1つだけ間違いがありましてね。水沢くん、退職後の傷病手当金について説明してあげてください」

急に話を振られてしおりは慌てた。

「えっと……、傷病手当金は、最初に診断が出た日から1年6ヶ月間は、会社を退職しても受給できるんです。小宮さんの初診日は半年前ですから、退職してもあと1年は受給できます。ただし、これには勤続1年以上の人だけという条件があるのですが、小宮さんは勤続15年ですから問題ありません」

「水沢くん、よく勉強してるね。――という訳ですから、退職している間も生活に支障はないでしょう。小宮くん、猶予は1年だが、その間に病気は治りそうかな?」

「1年もあれば十分です! 1日も早く治します!」

「天野部長、ありがとうございます! 小宮、良かったな。お前が戻ってくるのを首を長くして待ってるぞ!」

第2章 管理職に残業代は出ない?

「部長、わたしもう飲めません(泣)」

「なに~、私の酒が飲めないのか! 無礼なやつめ!」

「片山さん、助けて~(泣)」

「ふん。普段から生意気なお前がいいザマだな。ほら飲め! もっと飲め!」

その時、どこからか若い男性の声が響いた。

「無理強いは良くないです! それに水沢はまだ未成年じゃないですか!」

――ん……この声誰だっけ? その前に、わたしって未成年だったっけ?



ピロピロピロピロ、ピロピロピロピロ――

しおりは携帯電話の着信音で目が覚めた。

――うーん……日曜の朝に誰よ~。

液晶画面を見ると、「桜井弘樹」の表示。しおりの大学時代のサークル仲間だ。

「もしもし。何よ朝早くに」

「悪い悪い。起こしちゃったか。でももう11時だぜ。朝早くはないだろう」

枕元の時計を見ると確かに11時。あちゃー……。

「で、どうしたの? 飲み会の誘い?」

「いや、お前総務部だったろ。ちょっと訊きたいことがあってな」

「なに?」

「おれ、いま会社から残業代をもらってないんだよ」

桜井は、大学生の時からレストランでアルバイトをしており、希望通り大手の外食チェーンに就職した。持ち前の明るさと呑み込みの早さで順調にキャリアアップし、今年の春からは入社4年目にして郊外の新規開業店舗の店長に抜擢されるまでになっていた。

「残業代を……どういうこと?」

「おれ、4月から店長になっただろ。その前まではちゃんと残業代が出てたんだよ。けど、店長になってめちゃくちゃ残業は増えたのに、店長手当として5万円がつくだけで、残業代は1円も出ないんだよ。これって法律違反じゃないのか?」

「うーん……今すぐは分からないなあ。うちの部長がそういうの詳しいから、明日で良ければ訊いてみるけど」

「もちろん明日でいいよ。――じゃあ、よろしくな!」

桜井はそう言って電話を切った。

 ――まったく変な夢は見るし、マイペースなやつに起こされるし、せっかくの休日が台無しだわ。…………あれ? そういえば、さっきの夢のあのセリフ、昔どこかで聞いたことがあるような……?

「あ!」


 
それはしおりが大学2年生になったばかりの春。サークルの新歓コンパで4年生の先輩が新入生に酒を勧めていた時のことだ。

「ほら、大学生になったら酒ぐらい飲めなきゃダメだぞ」

「すみません、僕お酒はちょっと……」

「いいからいいから。ほら1杯だけ」

その時先輩に向かって桜井が叫んだ。

「無理強いは良くないです! それに彼はまだ未成年じゃないですか!」

険悪になりそうなところを、しおりや他のメンバーがなだめてなんとかその場を収めたことがあったのだ。

――あいつには昔っから振り回されるのよね……。



翌日、しおりは天野部長に桜井のことを訊いてみた。

「――というわけなんです。どうでしょう? 法律違反なんですか?」

「名ばかり管理職(注8)ってやつだね」


※(注8)名ばかり管理職 : 社内の職制で「管理職」と呼んでいる社員を、労働基準法の「管理監督者」とみなし、残業手当を支払わないこと。労働基準法に違反する行為である。


「あぁ、聞いたことはあります。でも、名ばかり管理職ってそもそもどういうものなんですか?」

天野は書棚から労働六法という分厚い本を取り出してきた。

「ほら、労働基準法の第41条第2号に管理監督者のことが書いてあるだろう」

「部長、読んでもさっぱりです……」

「平たく言うと、管理監督者は労働基準法における労働時間の適用を受けないということだ。労働時間の適用を受けなければ、定時も残業もないから残業代は払わなくていい、ということになる」

「じゃあ、どれだけ働いても残業代を払わなくていいんですか?」

「正確に言うと、夜10時から翌朝5時までの時間帯については深夜割増(注9)をつけなければいけないが、普通残業と休日勤務については払わなくてもいいことになっている」


※(注9)深夜割増賃金 : 労働基準法第37条第4項『使用者が、午後11時から午前5時まで(中略)の間において労働させた場合においては、その時間の労働については、通常の労働時間の賃金の計算額の2割5分以上の率で計算した割増賃金を支払わなければならない』


「じゃあ桜井くんは管理職だから、残業代をもらえなくても仕方ないってことですね」

「いや、いわゆる管理職と労働基準法の管理監督者とは違う概念だ。少し前までは、多くの会社が管理職=管理監督者として扱ってきたようだが、有名なマクドナルドの判決(注10)以降、名ばかり管理職の問題が注目されて、だいぶ変わってきたようだね」


※(注10)日本マクドナルド事件 : マクドナルドの店長が「管理監督者」に該当するかで争われた裁判。東京地裁では管理監督者の判断に際して、「①企業全体の事業経営に関する重要事項にどのように関与しているか、②勤務態様が労働時間等に対する規制になじまないものであるか、③給与及び一時金において、管理監督者にふさわしい待遇がされているか否かなどの諸点から判断すべきである」とした。


「マクドナルドの判決では管理監督者の判断基準が示されましたよね」

「ほう、片山くんは詳しいね。ただ、マクドナルドの判決で示された管理監督者の判断基準はそれほど目新しいものじゃなく、以前の判例を踏襲したものなんだが、誰もが知ってる大手外食チェーンの判決だけにニュースでも盛んに取り上げられたね」

「管理監督者の判断基準って具体的にどんなものなんですか?」

「マクドナルドの判決の要旨があるから、それを見るといい」

天野はキャビネットのファイルから1枚の資料を取り出し、しおりに手渡した。

「これを見ると、桜井くんは管理監督者にはあてはまらない感じだな。店長手当は5万円って言ってたし」

「勤務の実態を詳しく聞いてみないと何とも言えないけど、店長手当が5万円では、『管理監督者にふさわしい待遇』とは認められないだろうね。それに、外食チェーンでは、店舗の人事は本社で決めるところがほとんどだと聞いている。名ばかり管理職の可能性は高いんじゃないかな」

「なるほど。勉強になりました。さっそく桜井くんに伝えます!」



その夜、しおりは桜井に電話を掛けた。

「やっぱり『名ばかり管理職』か……」

「なんだ、知ってたんじゃない。その可能性が高いって言ってたよ」

「外食産業ならみんな知ってるさ。マクドナルドで有名になったからな」

「それも知ってたの! それなら最初から言ってくれればよかったのに」

「いや、聞きかじった知識じゃ会社に太刀打ちできないだろ。ちゃんとプロの意見も聞いとこうと思ったんだよ」

「調子いいわね。でも、本当に会社に請求するの? そう簡単に認めてくれるかなあ」

「平気平気。だって法律違反なんだろ。すんなり払ってくれるさ。――じゃあ明日も早いからもう寝るな。助かったよ!」

――まったく、楽天家なところは学生時代から変わらないわね。

でも、しおりはそんな桜井をうらやましいなと思う。桜井は就職活動の時、周囲の反対も聞かず、自分の希望する外食産業だけを受けて、見事に第一希望の会社に採用された。そしてわずか数年で、店長になるという昔からの夢を叶えたのである。

――桜井くんなら嫌なことがあっても、「何とかなるさ」って笑い飛ばしちゃうんだろうな。



その数日後、桜井から電話があった。

「みずさわ~、大変なことになっちゃったよ……」

「どうしたのよ?」

「本社の給与担当者に、『僕は管理監督者には該当しないみたいですから、今までの残業代を払ってください』って言ったら、人事部長に呼び出されて、さっきまで怒られてたんだ」

「ずいぶんストレートに言ったわね。それで人事部長はなんて?」

「『君には期待をしていたのにガッカリだ。自分は管理監督者じゃないなんて、店舗責任者としての自覚が足りないんじゃないのか!』って、1時間以上こってり絞られたよ」

「――ってことは残業代の支払いは?」

「当然なし。『今までそんな請求をしてきたやつは1人もいないぞ!』って、怒鳴られちゃったよ」

「そっかあ、じゃあ残業代はあきらめるの?」

「うーん、迷ってるんだ。今の仕事は大好きだけど、今日の人事部長の対応で会社に対する見方が変わったのも事実なんだ。会社の言い分も分からなくはないけど、法律違反をしてるのは会社の方だろ。それなのに頭ごなしに怒鳴りつけるなんて……」

「まあ、そう結論は急がずに。少し落ち着いてからゆっくり考えればいいじゃない」

「それもそうだな。――じゃあ明日も早いからもう寝るな。ありがとう!」

最後はいつもの楽天家に戻って、桜井は電話を切った。

――でも、桜井くんがわたしに弱音を吐くなんて初めてだな。昔は馬鹿なこと言って笑ってばかりだったのに。私たちもう大人なんだなあ。



その後桜井からは何の連絡もなかった。しおりは心配で何度かメールを打ったが、返信はなかった。大丈夫かな、電話でもしてみようか、そんなことを思っているうちに1ヶ月が過ぎた。

「おーい。水沢くん」

天野部長が雑誌を片手にしおりのデスクにやってきた。

「これを見てくれ」

「何ですか、この雑誌? 『週刊外食産業』? 部長、ずいぶん渋い雑誌を読んでますねー」

「そんなことより、ほらここ。この特集ページに載ってるしおかぜレストランって、君の友達の会社じゃなかったかね?」

「桜井くんの会社です! 特集って何か悪いことでも? まさか、名ばかり管理職のことですか?」

「まあ読んでごらんよ」



――特集 『名ばかり管理職』のいま

先日、全国に300店舗以上ある全てのチェーン店の店長を管理監督者から除外する施策を発表した、しおかぜレストランの井上社長にインタビューをしました。

―― 思い切った施策をとりましたね。

井上 チェーン店の店長が管理監督者に該当しないというのは、マクドナルドの判決以降、外食産業の大きな流れになりました。我が社もコンプライアンスを掲げる以上、法令に違反するリスクは排除しなければならないと判断したのです。

―― しかし、店長全員を管理監督者から除外するとなると、人件費も大幅に増加するのではないですか?

井上 一時的に見ればその通りです。不利益変更(注11)の問題がありますから、従前の基本給は下げられません。この基本給を元に残業代を計算すると、1人平均して約10万円の残業代が掛かります。今まで店長手当は5万円でしたから、大幅な人件費アップになるのは間違いありません。しかし、我が社の運営は店舗責任者である店長がキーマンです。きちんと法令を守り、みんなの頑張りには応えるという、会社のメッセージが店長に伝われば、一人ひとりのモチベーションが向上し、ひいては店舗の売上アップにつながると期待しています。


※(注11)就業規則の不利益変更 : 就業規則において、労働条件を労働者の不利益になるように変更すること。労働契約法9条で労働者の同意のない不利益変更は原則として禁止されている。


―― なるほど。長期的に見れば有効な人材投資というわけですね。では、この時期に思い切った施策を打ち出したのには理由があるのですか?

井上 先日、ある若い店長が私に直談判に来たのです。アポなしで突然社長室にやって来てね。その彼がこう言ったんです。
「社長、僕はこの会社も今の仕事も大好きです。まだ若手の僕に店舗を任せてくれて、とても感謝しています。だからこそ、うちの会社が法律違反してるのを黙って見過ごせないんです。お願いです。名ばかり管理職の問題を真剣に考えてください!」

その時は、「それは経営陣が決めることだ!」と追い返しましたがね(笑) でも、彼に言われたことが気になって、法務部や人事部に確認したら、やはり今のやり方は法令に抵触する可能性がある、という結論になったのです。

―― 一店長の言葉がきっかけとは興味深いですね。

井上 人事部長にその店長のことを聞いたら、非常に仕事熱心で上司からも部下からも信頼が厚く、愛社精神も高いとのこと。当社はいい人材に恵まれたなと心から思います。



「この若い店長ってまさか……」

「本人からは何も聞いてないのかい? この間の話があったから、てっきり彼のことかと思ったよ」

「今晩、桜井くんに電話して訊いてみます!」



そしてその夜、しおりは桜井に電話をした。

「悪い悪い、最近忙しくて。ごめんな、何度かメールもらってたのに」

「そんなことより、今日『週刊外食産業』でしおかぜレストランの特集を見たのよ。あそこに出てた若い店長って桜井くんのこと?」

「お前、ずいぶん渋い雑誌を読むんだなあ。うちの特集をやってたのか。それで何て書いてあったんだ?」

「あきれた! 読んでないの? 若い店長が社長室に直談判に来たって」

「ええっ! あんなことが雑誌に書かれたのかよ。恥ずかしいなあ」

「やっぱり桜井くんだったのね。それがきっかけで、全店舗の店長が管理監督者から外れるって書いてあったわ」

「そうなんだよ! 今月から残業時間に応じて残業代がもらえるようになってさー。ますますやる気が出たよ!」

「ちょっと! 何で報告してくれなかったのよ?」

「だから言っただろ。忙しかったんだって。――そうそう、明日も早いからもう寝るよ。またな!」

――後先考えずに突っ走るところは昔と同じだ……。でも、それでいいんだよね。私たち、社会に出て少しずつ変わっていくかもしれないけど、変わらないところはずっと変わらない。桜井くんはきっとこれからも、自分が信じた道をまっすぐに駆けていくんだよね。

第3章 育休延長は撤回します!

ある日の午後、しおりは片山と備品の買い出しに出掛けた。買い物を終え、荷物を抱えて会社に帰る途中、道端で若い母親がベビーカーを押していた。小さな帽子をかぶった赤ちゃんが不思議そうな表情で2人を見ている。

「片山さん、あの赤ちゃん見てください! カワイイ~!」

「何だ、お前子どもが好きなのか? 意外だな」

「失礼ですね! わたしは昔から子ども好きなんです。早く自分の子どもが欲しいなぁ」

「その前に結婚しないとな」

「……片山さんに言われたくないですね……」



会社に戻った2人に、天野部長が声を掛けた。

「2人とも、ご苦労さま。さっき川崎くんからそれが届いたよ」

「これは……『育児休業延長申請書』ですか。川崎さんの職場復帰、遅れるんですね」

経理部の川崎順子は、半年前に第一子を出産し、現在育児休業中である。育児休業が終わる4月からは職場復帰する予定だったが、赤ちゃんを預ける予定の保育園の抽選に漏れてしまったため、育児休業の2ヶ月間の延長を申し入れてきたのである。

しおりにとっては経理部時代の先輩にあたるが、川崎は当時から周囲の評判はあまり良くなかった。繁忙期でも周りに気を使わず長期の有休を取ったり、私用で早退することが多く、同僚にしわ寄せが来ることがしばしばあったためだ。

「部長、川崎さんの復帰が2ヶ月伸びると、経理部は4月と5月に人手が足りなくなるんじゃないですか?」

「経理の岩田部長が、川崎くんの代替要員として来てもらっている契約社員の遠藤さんに期間延長ができないか交渉してみる、と言っていたよ」

「もし交渉がうまくいかなかったら、水沢を経理部に戻せばいいですよ」

片山が意地悪そうに言った。

「そうしたら今度は総務部が手薄になって、片山くんには2人分頑張ってもらうことになるが、それでもいいかね?」

「いや……それは……。岩田部長にはうまく話をつけてもらわないといけないですね!」



片山の祈りが通じたのか、契約社員の遠藤早苗は期間延長を了承してくれた。しおりも安心していたのだが、その2週間後に思わぬ事態が発生した。

育児休業中の川崎が総務部に電話を掛けてきたのだ。電話を取ったしおりが用件を尋ねると、「育児休業の件で」とのことなので、天野部長に代わってもらった。

天野は5分ほど話をして電話を切った。しおりは内容が気になって天野に尋ねてみた。

「部長、川崎さんは何の用事だったんですか?」

「先日送ってきた育児休業の延長申請を取り下げて、最初の予定通り4月から職場復帰したいってことなんだよ」

「え!? どうしたんですか、急に?」

「なんでも、抽選に外れた保育園で入園の辞退者が出たらしく、川崎くんの子どもを預かってもらえることになったらしいんだよ」

「でも、この間遠藤さんに期間延長のお願いをしたばっかりじゃないですか。急に言われても困りますね」

「とにかく、岩田部長に事情を説明して遠藤さんの都合を聞いてもらうようにしよう」



「いやぁ、困ったことになりましたよ」

遠藤の件をお願いした岩田部長が頭を掻きながら総務部のオフィスにやってきた。

「どうしたんです?」

「遠藤くんは、4月から知人の会社に就職が決まっていたらしいんです。それを私が期間延長を頼んだから、知人に無理を言って2ヶ月先延ばしにしてもらった。それを今さら勤務開始日を4月からとは言えないということでした」

「そうか、それは困りましたね」

2人の部長の会話に片山が口を挟んだ。

「部長、この間秘書室の八木室長から連絡があったんですが、3月いっぱいで秘書室から1人退職者が出るそうなんです。確か川崎さんは秘書検定の資格を持ってましたよね。遠藤さんが辞めるまでの2ヶ月間、川崎さんには秘書室で働いてもらうっていうのはどうでしょう?」

「なるほど、それはいいアイデアだね。その2ヶ月の間に秘書室の後任を採用すればいいわけだからね」



翌日、川崎に総務部に来てもらい、その話をした。ところが川崎の口からは思いもよらぬ返事が返ってきた。

「遠藤さんにはお気の毒ですけど、わたしは正社員です。契約社員の遠藤さんのために、どうしてわたしが仕事を譲らなければいけないんですか!?」

「しかし、君は秘書検定の資格を持っているし、秘書室に行くとなったら遠藤くんより君の方が適任ではないかね」

「どうして、たまたま秘書検定を持っているだけでわたしが秘書室なんですか!? 納得できません」

川崎の言葉を聞いた片山が気色ばんで言った。

「川崎さん。お言葉ですけど、そもそもあなたが育児休業の延長申請をしたから、遠藤さんに契約期間を延長してもらったんですよ。それをやっぱり延長しないから、遠藤さんに秘書室に行けなんて、ちょっと勝手すぎないですか?」

川崎は片山を睨みつけて怒鳴った。

「あなたこそ言ってるの!? 育児休業延長の撤回は育児・介護休業法でちゃんと認められてる社員の権利でしょ!? 総務部員のくせに何も知らないのね!」

「そのぐらい知ってますよ! 別に育児休業の延長の撤回が悪いって言ったわけじゃない。自分の都合で延長を撤回したんだから、それを他人に押し付けるなって言ってるんですよ!」

「まぁまぁ2人ともやめないか。秘書室への異動の件は、遠藤くんや八木室長にも相談して、正式に決定したら後日連絡するからそれでいいだろう」

天野がなだめると、川崎は席から立ち上がって言った。

「今日のところはこれで帰ります。でもわたしは秘書室への異動なんて絶対に受け入れませんから!」

川崎が会議室から出て行ったのを確認すると天野が言った。

「片山くん、少し熱くなりすぎだよ。気持ちは分かるけど、ああいう言い方では川崎くんも素直に耳を貸す気にはならないだろう」

「言葉が過ぎたのは反省してます……でも、川崎さんのあの言いぐさはないでしょう?」

「まあねえ……。それにしても困ったものだな」



遠藤は経理以外の業務経験がないため、秘書室での業務は自信がないとのことだった。また、秘書室長の八木も秘書検定の資格のない遠藤の異動には難色を示した。このため、やはり2ヶ月の間川崎を秘書室に異動させる、ということが正式に決定した。

後日、川崎を総務部に呼び出し、秘書室への異動の件を告げた。すると、川崎は顔色を変えて天野に抗議をした。

「先日も言ったとおり、わたしは秘書室へ行くつもりなんてありません!」

「だが、川崎くん。遠藤くんは経理以外の業務経験がないそうだし、八木室長も秘書検定をもっていない遠藤くんの異動には難色を示している。2ヶ月後には経理部に戻れるのだから、何とか考え直してもらえないかね」

「何度言われても、秘書室に行く気はありません!」

「しかし、これは正式な人事異動として決まったことなんだ。同意を得られないのは残念だが、異動命令には従ってもらうことになるよ」

「……分かりました。こちらにも考えがあります。それでは!」

 川崎はそう言って会議室を出て行ってしまった。

「部長、考えがあるって言ってましたけど……」

「いまは感情的になっているだろうから、何を言っても無駄だろう。少し時間をおいてもう一度説得してみよう」



その1週間後、思わぬところから総務部に電話がかかってきた。受話器から聞こえてきたのは30代ぐらいの女性の声だった。

「こちらは、神奈川労働局男女雇用均等室ですが、総務部長の天野さんをお願いします」

――男女雇用均等室? 初めて聞く名前だけど……?

しおりが天野に取り次ぐと、天野は驚いた顔をして受話器を取った。

「もしもし。天野ですが」

「男女雇用均等室の福島と言います。先日、御社の川崎さんがお見えになり、育児休業延長を撤回したことで不利益取り扱いを受けたとの申し出があったのですが」

「川崎くんが……? いや、不利益取り扱いというのは事実ではありません。復帰後2ヶ月間だけ休業前と違う部署で勤務してもらうだけです」

「川崎さんは、拒否したはずの秘書室への異動は、育児休業延長を撤回したことに対する嫌がらせだと主張していますが……」

「嫌がらせなんてとんでもない 彼女と代替要員の雇用を確保するためのやむを得ない措置ですよ」

「……とにかく、詳しい話を聞きたいので、明日、男女雇用均等室にお越しいただけますか」

天野は明日の午後3時に行くと伝えて電話を切った。



「部長、川崎さんの件ですか?」

「川崎くんが男女雇用均等室に行ったらしい。秘書室への異動は、育児休業延長を撤回したことに対する嫌がらせだってね」

「何言ってるんだ、あの女! 均等室にまで行って!」

「片山さん、落ち着いてください。――部長、男女雇用均等室って言うのは?」

「ああ。労働局にある、育児・介護休業やセクハラなどの女性問題を主に取り扱う部署だよ。育児・介護休業法の違反案件はここが取り扱っているんだ。」

「川崎さんは、秘書室への異動が育児・介護休業法違反って言ってるんですか?」

「ああ。育児介護休業法に不利益取り扱いの禁止(注12)についての条文があるんだ」


※(注12)不利益取扱いの禁止 : 育児介護休業法第10条「事業主は、労働者が育児休業申出をし、又は育児休業をしたことを理由として、当該労働者に対して解雇その他不利益な取扱いをしてはならない。」


「今回みたいな異動も『不利益取り扱い』になっちゃうんですか?」

「いや。異動に伴って給与が下がるわけではないし、普通は該当しない。ただ、川崎くんは拒否したはずの秘書室への異動が嫌がらせにあたると主張してるんだ」

「希望しない部署への異動なんてサラリーマンなら普通のことじゃないですか! それのどこが嫌がらせなんですか!?」

「まあまあ。私が明日行って説明すれば均等室も分かってくれるだろう」

「部長、わたしも一緒に行っていいですか?」

「そうだな、均等室へ呼び出されることなんて滅多にないからね。勉強になるだろう」

「部長、じゃあ僕も!」

「……片山くんが来ると話がこじれそうだな。悪いが君は留守番だ」

「そんな~……」



翌日、天野としおりは男女雇用均等室を訪ねた。パーテーションで区切った相談ブースに案内されると間もなく担当の福島が現われた。昨日の電話の印象通り、少々気の強そうな30代と思われる女性だ。

「均等室の福島です。本日はご足労をお掛けして恐縮です。――先日御社の川崎さんがご主人と二人でこちらに来ましてね。会社の異動命令は育児・介護休業法違反だと主張されるので、こちらとしても対処しないわけにいかないんです。それでは、川崎さんの異動命令を出した経緯についてご説明いただけますか」

天野は、これまでの経緯を丁寧に説明した。福島はメモを取りながら聞いていたが、ひととおりの説明が終わるとうなずきながら言った。

「――なるほど、よく分かりました。川崎さんもご主人も代替要員の遠藤さんについては何もおっしゃっていなかったのですが、いま天野さんの説明を聞いてご事情はよく分かりました」

「私どもも、遠藤くんの事情がなければ川崎くんをすんなり経理部に戻すつもりだったのですが……」

「いや、そこで遠藤さんの期間延長を取り消していたら、今度は労働契約法(注13)の問題も出てきますからね。会社としては当然の措置をとられたと思います」


※(注13) 労働契約法第17条「使用者は、期間の定めのある労働契約(中略)について、やむを得ない事由がある場合でなければ、その契約期間が満了するまでの間において、労働者を解雇することができない。」


「ご理解いただいて安心しました」

「それでは川崎さんには、私のほうから育児・介護休業法には抵触しない旨の回答をしておきます。――今日はわざわざお越しいただいてありがとうございました」



会社に戻った2人を片山が待ち受けていた。

「部長、どうでした!?」

「法違反はないということだよ」

「やっぱり! これでひと安心ですね」

「いや、安心はまだ早いよ。川崎くんと話をしないといけないからね」

「そうか。どうするんですか?」

「今頃、均等室から連絡がいって、彼女も感情的になっているだろう。何日か時間をおいて私の方から連絡してみるよ」



ところがその2日後、川崎が突然総務部にやってきた。受付に駆け寄ったしおりは、川崎の後ろにベビーカーを押した男性がいるのに気付き、さらに驚いた。

「突然お邪魔してすみません。川崎敦と言います。順子がいつもお世話になっております」

川崎の夫はそう言ってしおりに頭を下げた。川崎はそれを黙って見ている。

しおりは川崎夫妻を会議室に案内すると、天野部長の席に行き小声で話した。

「川崎さんがご主人と一緒にいらっしゃいました。きっと秘書室への異動の件ですね」

「部長、どうします?」

片山も心配そうに天野に尋ねた。

「とにかく川崎くんの話を聞こうじゃないか。片山くん、今日はご主人もいるんだ。この間のように感情的にならないようにね」

そして、天野、片山と一緒にしおりも会議室に向かった。



「今日お伺いしたのは、順子の異動の件です。」

――やっぱり、そうか。1人じゃ埒が空かないから援軍を連れてきたってわけね。

しかし、川崎の夫の口から出たのは意外な言葉だった。

「大変なご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした! 私も順子からは、拒否したはずの秘書室への異動を命じられたって話しか聞いてなかったんです。その時はひどい会社だと思ったのですが、昨日男女雇用均等室で、遠藤さんという方のご事情を聴いて、それは順子が全面的に悪いって家に帰って叱りつけたんです」

「いや、それはご主人もてっきりご存知かと思っていました」

それまで黙っていた川崎が突然立ち上がった。

「どうもすみませんでした! 主人に叱られて自分の身勝手さに気付きました。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした!」

川崎はそう言って涙を流した。しばらくして嗚咽がおさまるとポツリと言った。

「わたし、この子のことで頭が一杯だったんです。初めての子どもで、毎日慣れないことばかりなのに、職場まで不慣れな秘書室なんて……って。でも主人に言われたんです。『お前の今の行動を、翔太が大きくなった時に正直に言えるのか!?』って。それでわたし目が覚めました……」

「川崎くん、それじゃ秘書室への異動の話は了承してもらえるかね?」

「はい。わたしでよろしければ精一杯勤めさせていただきます……」



しおりがベビーカーで眠っている赤ちゃんを覗き込んで言った。

「この子カワイイですね~! やっぱりわたしも早く子どもが欲しいなあ」

「水沢、子どもって1人じゃ作れないんだぞ」

「……部長、もう一度雇用均等室に行きましょう、今度はセクハラ被害で!」

しおりのその言葉にみんなが笑った。

総務部しおりの “社内トラブル解決します!”

総務部しおりの “社内トラブル解決します!”

かもめ商事に勤務する水沢しおりはOL4年目。 突然の辞令で総務部に異動になったしおりの前に次々と社内トラブルが巻き起こるが…。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ わたしが総務部!?
  2. 第1章 うつ病は労災だ!
  3. 第2章 管理職に残業代は出ない?
  4. 第3章 育休延長は撤回します!