階段男

階段男

 ある日、僕はソイツを見かけた。
 ワイシャツ姿の4、50歳くらいの男性。見た目は優しそうだが、どこか取っ付きにくい。ソイツのことを、僕は【階段男】と呼んでいる。
 今の時代、エレベーターやエスカレーターという便利な物があるのに、ソイツは絶対に階段を使用する。別に何処かに行くわけではない。いつもいつも同じ大階段を上って、その後、下るのだ。
 確かにこの階段はかなり大きいから、登り切ったときには何らかの達成感がある。だとすると、彼は登り切ったときの興奮を忘れられずに、こうして毎日上り下りを繰り返しているということなのだろうか。
 あまりに気になったので、僕は階段で待ち伏せて、階段男がやって来るのを待っていた。すると数分後、いつものように、ワイシャツ姿の男性がやって来た。
 階段を上る前、彼はいつもと違う行動をとった。階段に向けてお辞儀したのだ。今までは来るなりいきなり登っていたのに。
 ゆっくりとお辞儀をしてから、1段1段踏みしめるように、時間をかけて上へ上へと進んでゆく。足腰が弱っているのか、足取りが覚束なく、たまにバランスを崩して転びそうになり、側の手すりを掴む場面を度々目にした。
 だが、すぐに体勢を立て直して、階段男は今日も1回登り切った。
 よし、今がチャンスだ。彼に歩み寄って話しかけようとするが、彼はすぐに下へ降り、再び登り始めた。その顔が一生懸命だったから、声をかけることも憚られた。
 特にすることもなく、僕はずっと彼の階段上り下りを観察していた。
 人目も気にせず、ひたすら目の前の階段と格闘する男。世の中には色んな人間がいるなぁ、と、何となくそう思った。
 その後、12、3週した後、男はもう1度階段に挨拶をしてそこから離れて行った。これも今まで見ない光景だった。
 階段男が帰ってしまう。今がチャンスだ。僕は彼に駆け寄ると、大声で彼を呼び止めた。
「あの!」
 階段男は途中で足を止めて、ホラー映画みたいにゆっくりと振り返った。笑顔を作っていたが、その笑みが余計に不気味に見える。
「どうしたの?」
 声も優しい。
 どうしよう、いざ聞こうとすると緊張してしまって声が出ない。階段男は笑顔で僕のことを待っている。
「大丈夫。私も暇人だ」
「は、はい。あの、その……あなたは、あなたは何で階段を上り下りしているんですか?」
 男の笑みが消えた。まずい質問をしてしまっただろうか。
 気まずい沈黙。怒鳴られてしまうだろうか。「俺のプライドを馬鹿にするな!」とか言われて怒鳴られてしまうだろうか。
 だが、程なくして、階段男はまた笑顔に戻った。そして、僕に理由を教えてくれた。説明する前に、彼はある人物の名を僕に告げた。
「笠井総一郎。知ってるかい?」
 知っている。何年か前逮捕された死刑囚だ。海外で見ず知らずの若者を惨殺したのだ。事件があったときには僕はまだ赤ん坊だったが、度々彼の特集をテレビで観たので覚えてしまった。
「知ってるかい」
「はい」
「アメリカで、人を殺したんだ。ナイフで腹と胸を滅多刺しにして、それだけでは飽き足らず、彼は口の中にナイフを突っ込んで……」
 待て。
 そんな話、ニュースではやっていなかった。誰も知らない様なことを、階段男はまるで見て来たかのように話す。
 もしかすると彼は、現場に居合わせた人間なのか?
「精神が狂ってしまったんだ。それで、周りの人間を、おぞましい方法で殺したんだ。……ふふふ、そりゃあ死刑になるよな」
 そう語る男はどこか寂しげだった。
「笠井はね、友達だったんだよ」
 男の話では、彼と笠井は仕事の都合で海外支局に異動になったそうだ。初めのうちは一生懸命仕事をしていたが、しばらくすると、家が恋しくなってしまったのだという。
「ま、だからといって人殺しをして良いわけじゃないんだけどね」
 何だか、余計に気まずい空気になってしまった。階段男に嫌な記憶を思い出させてしまった。
「あの、すいません」
「何が?」
「いや……ありがとうございました。それじゃあ」
 丁寧にお辞儀をして、僕はその場から早足で去ろうとした。すると、
「待ってよ」
 男が呼び止めた。さっきの逆だ。
 振り返ったときには、彼は僕の真後ろに立っていた。
「まだ続きがあるんだ」
「続き?」
「そ。もう良いかなぁと思ってね」
 階段男は妙に清々しかった。
「まだ答えてなかったろ、私が階段を上る理由」
 何だか気持ち悪い。
 怖いけれど逃げられない。
 男は、僕の肩に手を置いているのだ。
「ちょうど昨日かな、死刑が執行されたの」
「え?」
「うん、そうだ。昨日だ。だから階段上るのもこれが最後かな」
 先程のお辞儀。あれは、今日で上り下りをやめるためだったのか。
 しかし、それが笠井の死刑執行と何の関係があるというのだろう。
「昔は、捜査もずさんでね」
「捜査?」
「今みたいな近代的な捜査は行われていなかったからね。……笠井には悪いことしちゃったなぁ。代わりに、捕まってもらっちゃって」
 何故だろう。
 急に風が冷たくなった。いや、違う。僕が汗をかいているのだ。汗が体温を奪い、それで風が余計に冷たく感じるのだ。
 代わりに。
 要するに、数年前の殺人鬼は……。
「13階段ってあるだろ。アイツも中で死の恐怖を味わってる筈だから、僕も毎日、階段を13回上ることにしたんだ。まぁ死刑の方法は日本とアッチじゃ違うんだけどね。ははは」
 こんな話を笑いながら出来る男が気持ち悪くてたまらなかった。
 階段男の像が崩れてゆく。もっと明るい理由を期待していたのだ。しかし、その理由がまさか、冤罪で捕まり、死刑になった男への罪滅ぼしだったとは。
 話を終え、男はやっと手を離してくれた。自由になると同時に、僕は自然と2、3歩後ろに下がっていた。
「安心して。君を殺そうとは思っていない」
「は、話すかもしれないじゃないですか」
「勇気があるなぁ、君は。でも大丈夫」
 男は耳元に顔を近づけて、僕にこう言った。
「君は、世間は無力だからね」
 それだけ伝えると、階段男は軽快なステップを踏んでその場から去ってしまった。彼はこれからどこへ行くのだろう。安全な場所へ逃げるのだろうか。そもそも、彼は何者だったのだろう。
 男の背中を見ていると、彼の最後の言葉が脳裏に浮かんだ。
 そうだ、僕は無力だ。
 事件のことをテレビで知った程度の子供が騒いだって世間は受け入れてくれない。世間も犯人は笠井だということで事件を解決させてしまった。世界では沢山の事件が起きている。彼のことも次第に忘れられてゆくだろう。
 知っているのに、どうすることも出来ない。僕は何だか、広い世界の中に1人置き去りにされたような感覚に陥った。

階段男

階段男

昔、某駅の階段を上り下りしていたことを思い出して書いた話です。めっちゃくちゃです。

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-29

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