PHANTOM LIFE

 本当に彼女は裏切ったのか?高校時代から仲の良い二人、そしてもう一人の登場人物。恋愛と友情の重さを量る物語ではない。主人公はいったい誰で、真実は何なのか?そして倒錯した恋愛意識が引き起こす事件。
 描写はなるべく抑えてあるので18歳以下でも問題ないと思われるが、多分これを読むもので10代はいないと思うが、そうでもないか?

第1章


 冷たい雨がガラス窓をぬらしている。
 何処へも行けない僕が溜め息をついている。
 テレビ画面が意味のない点滅をくり返している。
 さっき買ったばかりのタバコが底をつきはじめている。
 部屋の畷かさとは裏腹に凍り付いた心は逃げ場所を探している。
「楽になれれば何処だっていいさ」
と呟いたはずだが、実際声になっていたかどうか、自分でさえ自信がない。
 結局、眠りの中に救いを求めようとベッドに潜り込むが、こんな時に限って睡魔は僕を見放すのだ。ベッドに張り付けにされたようにじっとしているが、時の流れる昔が聞こえてきそうなくらい、神経が冴えてしまっている。
 消そうとしても消えない、脳裏に焼き付いた映像がスローで流れている、それは数時間前明らかに現実ではあったが、時間が経つにつれて、本当にあったことなのかどうか、夢と現の区別が付きにくくなってきていた。しかしその映像が流れている限り、どこへも逃げ込むことができないのだ。
 きっと誰かに説明すれば、多少気持ちにゆとりが生まれるかもしれないが、唯一相談できそうな、友達と呼んでも良さそうな、そいつがそのドラマの主人公だからしょうがない。ドラマはいわゆる恋愛物で、僕は降られ役の道化師といったところだ。ドラマについてそれ以上は語りたくない。まあ、時が来れば酒の肴には丁度いいかもしれないし、こんな僕の気持ちなどどうでもいい事なのだ。
 眠ることを諦めて立上がり、タバコの箱に手を伸ばすと空になっていることに気が付いた。ドアを開けて外に出ると白い息が漏れたが、それ程寒いとは感じなかった。それ以上に心が寒かったからだろうか。ジャンパーは羽織ったが、下はTシャツ一枚だった。タバコが切れたせいで、外へ出ることにはなったけれど、閉息した空間にちょっとした逃げ場所が生まれた。思えば、逃げ場所がたくさん用意されているならば、心にストレスを抱えなくても済みそうなものだ。
 アパートは小高い丘の上にあるため、66段の階段を上ったり降りたりして生活をしてきた。コンビニエンスストアも自動販売機も、もちろんコインランドリーに至るまで、その階殴を降り切った国道沿いに集まっていた。階段は、最近コンクリートで綺麗に舗装されたばかりだが、利用してい人を見るのは、昼間がほとんどだ。夜は、薄暗い街灯が寂しげに照らしているだけで物騒だ。『痴漢に注意』の貼り紙はもちろん、実際何件か、おかしな事件があり、僕の部屋にも警官が訪ねてきたことがあった。
 自動販売機にコインを入れると当たり前のようにタバコが出てきて少しホッとした。こんな気分の時はできるだけ人に接したくないものだ。まるで未成年者の様に辺りを見回し、そっと離れていった。さっきまでベッドに張り付いていた自分の姿を思い出したら、ドラマの続きが始まりそうになった。慌てて一本目に火をつけると、国道を渡って、さらに先にある踏み切りをこえ、線路脇にある公園まで辿り着いた。何も考えないようにするには、なるべく周囲にあるものを観察し続けることだ。鉄棒、砂場、ジャングルジム、すべてが無機質な存在感を放っている。時々、脇道を酔っ払ったサラリーマンが通って行く。酒に溺れるという方法もあったのだと、さりげなく思った。雨が降りだしてきたので、屋根の付いたベンチに座り、公園を照らすライトの中で光り輝く雨を眺めていた。
 踏切の警報が鳴り、遮断機が降りてゆく。大勢の人を積み込んだ、下りの電車が通り過ぎていった。駅が近いので、この辺りではスピードを落としている。僕がここにいることなど、電車の中のだれ一人、気が付くわけがない。たとえ気付いたとしても何も起こり得ないだろう。恐らく、大勢の先を急ぐ人々は、気付いたところで、精々酔っ払いや浮浪者だと判断してすぐに忘れるか、もしや犯罪者が事を起こそうとしている場面と勘違いし関わるのをさけようとする心理から、何も見なかったと自分を思い込ませようとするだけであろう。
 いずれにしても多くの人々は臆病であり、面倒臭いことは避けようとする。僕もまたその大勢の一人であり、彼等を軽蔑することなどできないのだ。むしろそんな人々に対して共感さえ覚える。気持ちが落ち着いてきたせいか、少しずつドラマを受け入れ始めていた。




 僕は彼女を信頼していたのだ。そう、今日の午後までは。時計を逆回転させて、せめて今日の午前中まで戻せば、僕のこの苦しみは消えて無くなるだろう。ただ今となっては、彼女の知られざる一面を知った以上、何も知らずに過ごして行くのはとてもやりきれない。高校時代から付き合ってきて、結局彼女のことなど何一つ理解していなかったのだ。
 僕達は高校卒業とともに上京、彼女は横浜の名門女子大、僕は名前の知られてない私立大学に入った。
 その頃の僕達は疑う余地もなく恋人同士だった、と思う。少し前なら自信を持って言い切れただろう。なるべく側に居たいと思うのは至極当然ではあるが、通う学校が違う以上、多少は我慢をしなければならない。
 しかし通学時間は短い方がいいに決まっている。彼女が先に、バスで15分程度の場所に住所を構えた。これは彼女のご両親が決定したワンルームマンションだった。一緒に住む等という野望はさすがにどちらの親にも言えず、僕は僕で自分のすみかを物色することになった。
「横浜にすればいいのに」
と彼女は言うが、通学がたいへんだった。 
「新宿からさらに私鉄に乗り替えるんだぜ」なんだか、そう言う自分が淋しかった。
 結局今の場所に落ち着いたわけだが、学校に行くのも、横浜に出るのも同等の距離ながら、そこそこ遠いような気がする。最初は週に一、二度、学校に行く合間を縫って、情報交換でもするように逢っていた。
 そして、お互い新しい環境に慣れはじめると、それぞれの都合が生じてきて、合う回数は少なくなっていった。昨年末までは2週に1度をキープしていたが、今年に入ってからは月に1回逢えれば良かった。所詮学校も違えば、住んでるところだって離れているし、気持ちまで離れていって当然なのかもしれなかった。それに大きな環境の変化は、恋愛よりも確実に興味津々な出来事に溢れていた。
 最近は僕の方から連絡を取るのみで彼女から電話をかけてくることはない。月に1度という約束は今年の成人式の日に決めたことだが、二人そろって式典には出ず、ベッドの中で大人の確認をした。そしてそんな確認は月に1度で十分だと僕自身は考えていた。
 先月、電話をした時に、
「アルバイトが忙しくて」
という彼女の短い返答にあっさりとあきらめた分、今日は気合いが入っていた。それなのに彼女がよこした答えは、まったく同じものだった。明らかに敬遠されてる節もあり、意を決して部屋を訪ねることにしたというわけだ。
 彼女の部屋を訪ねるのは上京した時以来だった。お互いの部屋に一回づつ訪ねていって以降、近所の眼が気になることもあって、新宿や渋谷、あるいは町田などで週末待ち合わせをした。
 僕たちは、取りあえずお互いが大学に合格するまで、キスだけで我慢しながら、最後の1線を固辞してきた。無理に固辞したわけではない。なかなか勉強がたいへんだった、といえばかっこいいが、必ず他人の眼があったからだ。
 今回も町田を経由して横浜線に乗り換えるつもりだった。いつもは新宿方面のホームに立つのだが、今日は江ノ島や箱根に向かう方の反対ホームで急行電車にのった。
 そういえば電車の中で前に逢った時の彼女の様子を思い返していた。たしかその時も町田だった。指定したのは彼女だった。
「ねえ、町田で逢わない。町田にしましょうよ。ちょうどそこからも一本だし、私も横浜線でいけるし」
その前にも数回町田で逢っていたので、特に異をとなえることはしなかった。今にして思うと、その言い回しの雰囲気から、彼女は僕とのことなどさっさと片付けて横浜に帰るための時間を計算していたのかもしれない。
 僕たちが最初に結ばれた場所、町田。
 恥ずかしい話だが、お互いの部屋で、初めて二人きりになれたのに、どちらの部屋もけして完全な場所ではなかった。僕の部屋に関して言えば、金魚にとっての水槽しかり、かごの中の鳥しかり、要するに世間に丸分かりの部屋であった。もちろん世の中にはそんなデリカシーを持たない人種もいて、週に1、2度は隣や下から、男女の獣の咆哮が聞こえてきていた。
 彼女の部屋はワンルームマンションだけにいったん部屋に入ると世間様の音は聞こえなくなる。それなのに完全でないとはどういうことかというと……これは一言でいうと「空気」ということになるだろうか。隅々まで清掃が行き届き、気が利いた小物が端々に置かれた部屋、淡いブルーが基調となった壁やテーブルの配色、合わせて彼女が来ている黄色いワンピースの柄、その着こなしと彼女の振る舞い、そのすべてが作り出す空気が僕の精神を支配していた。
 そう、ここは彼女の部屋ではなく、2ヶ月前の町田のイタリアン・レストラン。僕らは以前からくらべるとかなり会話の少ない食事をした。特に彼女は近況を語ろうとはしなかったように思う。最初の頃は、こんな友達ができたとか、ある講師に隠し子がいてとか、単位が思うようにとれないとか口が疲れるくらい話をしていた。その日はまるで儀式のように静かだった。
 それからは取りあえず、いつものホテルに入った。そう、彼女と初めて結ばれたそのホテルは完全だった。まずそれほど混んでいないから、知人とばったり会うなんてことはない。部屋の選択から会計に渉るまで従業員と顔を会わせる事はなかった。
 昨年の夏の終わりに初めてここに来た。どんな訳か、とにかく酔っていたし、話も弾んでいつになく遅くなり、終電に間に合わなくなり、半ば仕方なく一晩の宿を求めたのだった。お互いまさかとは思っていた。ただ眠って帰るだけのはずだった。
 エレベーターを降りて部屋にたどり着き、部屋のドアを開けて明かりを付け、ドアに鍵をかけた瞬間、そこがいわゆる「完全な場所」だと気がついた。そこは自分が獣と化しても違和感のない場所だった。また彼女を穢しても許される場所だった。壁やベッドや照明やBGMがそれを許していたし、何よりも部屋の香りがそこを完全たらしめていた。それが芳香剤なのか誰かの香水なのかは問題でなかった。明らかなる性欲の息吹が一気にほとばしり出たという感じだった。多分彼女もずっと待ち焦がれていたのだと思う。朝を迎えたことさえお互い気がつかなかったのだから……。
 それ以降はほとんど町田だった。クリスマスも、成人の日も……。横浜は彼女が嫌がったし、僕の近所にはなかったし、新宿や渋谷は移動時間を惜しんだ。
 2ヶ月前に戻ろう。僕はすぐにでも彼女を抱き締めて、とにかくキスをしたかったが、彼女はどことなくよそよそしく、何となく部屋が暑いとか、もう一本ビールが飲みたいとか、テレビのニュース解説者に絡んだりしていた。それは過去には見られなかった彼女の変化だったが、僕は成長だと思い込んでいた。それが大人になることかと思ったのだった。最終的に僕の望みは達したものの、彼女はまったく遠くにある別の夢をみているようだった。なんとなく一抹の寂しさは感じていた。
 そして、今日……。町田が近づくにつれて、どこからともなく雲が空を被いはじめてきていた。まるで不安の固まりのような雲はきっとこれからの僕自身を暗示していたのだろう。ただしまだその段階では、彼女にあえる喜びの方が勝っていたし、彼女のことを信じ切っている僕には、とるに足らない気象変化であったのだ。
 横浜線に乗り換えて、僕は空いていた席に座った。正面の席には、四人組の女子高生が、学校の話で盛り上がっていた。僕はなおも彼女のことを思い出していた。翌朝ホテルを出たあとのこと、映画を見て、コーヒーを飲んだこと、横浜線の改札まで見送りにいって、手を降って別れた時のこと等……。
 夜の公園での打ちひしがれた回想は、最寄りの桜木町駅に到着した辺りで、初めての時の記憶と合わせてダブルで途切れた。いつのまにか雨があがっていた。電車が何台か通り過ぎていったが、どれくらいの時間が過ぎただろう。部屋を出るときに腕時計を置いてきてしまっため時間がまるで分からない。とにかく、自分の部屋へ戻ることを考え始めていた。
 
  
 


 公園を出て踏み切りを渡ろうとした時、警報機がなり始めた。とっくに電車などなくなってしまったと思っていたのに、まだあったのだ。おそらく終電に違いない。踏み切りを渡り終えた時、遮断機が降りてきて、僕の今までいた場所とこれからの僕とを隔てた。新宿方面から僕に近づいてくる電車はスピードを落とし始めていた。何となくその場を離れることが出来ず、通り過ぎてゆこうとする電車をぼんやりと見ていた。通り過ぎてゆく窓という窓には、宴に疲れたサラリーマンが、醜い容貌をさらして吊り革につかまっている。それにしてもなんという人数だろう、こんな時間にもかかわらず……。
 僕が東京に出てきて2年が経とうとしているが、人が多いことについてはだいぶん慣れたつもりではいた。特に新宿駅の構内など、人の動きに注意していないと、しっかり歩くことなど出来ないのだ。そんな中で自然と身についたのは、人より速く歩くことが、人に迷惑をかけず、スムーズに歩くことができるという知恵だ。それは自分のためには違いないが、その方がかえって目立たないということも言える。
 東京に出て、自分の力を試し、なんとか一旗あげようと考えて、上京する人たちがほとんどかもしれないが、中には、田舎のような狭い世界では、自分の存在が余りにも目立ち過ぎるため、コップ一杯の水を海に流すがごとく、都会に流れてくる人たちもけっこういるようだ。特に前科があったり、取り返しのつかない過ちをおかしてしまった人は、そうやって生きてゆくしかないのかもしれない。僕は前者のつもりでいたのだが、人ごみに紛れた時にふいに湧いてくる安らぎを考えると、目立たずにいる方が好きなのかもしれない。いや、その反面、成功したいと思う気持ちもある。そんなことを考えると自分というものがよく分かっていないのだ、と思い知る。まあ、そう思い知ったところで反省することもないし、きっとその時の気分さ、といい加減だったりもする。
 歩いてきた道を戻り始めていた。電車が駅のホームに吸い込まれて、ドアが開き、多くの人たちがホームに吐き出されるのをぼんやりと見ながら、煙草に火をつけた。国道を渡ろうとした時、駅の方向から数人のサラリーマンがよろけながら歩いてくるのが見えた。彼等を待ち受けるものは、あたたかい家庭か、はたまた恐い顔をした奥さんか。そんなことはどうだっていいことだ。僕を待ち受けるものは誰もいない部屋だ。
 僕は数人のサラリーマンの向こうに一人、女性がいるのを見つけた。暗くてよくは見えなかったが、アルバイト帰りの大学生といった感じだった。春とはいえまだ夜はコート無しではいられないというのに、午前午後と温かかったせいか、薄着だ。早足でサラリーマンの横を通り抜けてゆく。さっきまで雨が降っていたので傘は持っている。案の定、四〇過ぎと思われるおやじが下品な言葉を浴びせかけるが、特に動じる様子もなく、スタスタと僕の方へ近づいてきた。
 僕がこれから登ろうとする階段を彼女が先に登り始めた。僕の方をちらりと見たがとくに気に留めた様子はなかった。薄着に見えたが、セーターそのものは厚手で暖かそうだったし、スカートの下から見えるストッキングもしっかり足をガードしていた。僕と同い年か、一つか二つ上のような気がした。顔はそれほど美人とは言えないかもしれないが、後ろ姿を見る限りは、僕でも少し気持ちが動いた。
 スカートの下も気になったが、あまりすぐに登って痴漢に間違われるのも嫌だったので、彼女が二十段くらい登るのをまってから上がることにした。彼女も、そして僕も「痴漢に注意」の貼り紙の前を通り過ぎた。何も起こらなかった。六十六段、登りきった時、彼女が僕のアパートの前を通り過ぎ、二軒隣にある二階建ての家にはいってゆくのが見えた。
 一年も住んでいるのに、僕はこの近所のことに関してあまり知らない。アパートの住人さえ二、三人見かけたくらいのものだ。僕は部屋に戻って、コップ一杯の白いミルクを飲み干した。人間を生かし続けるものは、希望とか、可能性とか、夢とかいろいろあるけれど、欲望もその一つであると思った。ベッドに横になるとやっと睡魔が僕を迎えにきたようだ。明かりを消して目を閉じるとドラマのつづきが静かにながれ始めた。




 ひとくちに横浜といってもかなり広い。横浜駅で降りれば何でもあるのかと思いきや、山下公園、中華街、といった観光スポットは桜木町や元町で降りた方が近い。地元の人なら当たり前のことだが、田舎出身者なら何人かは同意していただけるのではないだろうか。それは新宿や渋谷や六本木を一カ所に集めて東京と呼んでいる事に似ている。一カ所と言えない事はないが、どこへ移動するにも時間や金がかかるということだ。
 彼女のところへ行くには、桜木町でおりて、バスに乗り換えなくてはならない。前回は同行だったせいもあり、そんなに不便とは感じなかった。けっこう面倒臭いのに、今までよく僕に逢いに来てくれていた等と妙に恐縮したりする。バスに乗り換えたとたんに空から大粒の雨が降ってきた。途中のバス停では慌てたように人が乗り込んできた。乗客のだれもが、天気予報が外れたことを恨んでいたに違いない。
 バスをおりると慌てて商店街の屋根の下に潜り込んだ。ビニール製の透明な傘を買った。よけいな出費だったが、あともう少しのところで彼女の部屋だ。一分でも早く逢いたいじゃないか。
 僕はずいぶんお人好しだったかもしれない。日曜日の午後に果たしてどこへも行かず、部屋にじっとしているだろうか。それに彼女が忙しいと言うのは、逢いたくない理由ではなかったか。逢いたくない理由はいろいろあるだろうが、他に男が出来たのだと考えられなかったか。残念ながら、そんなことすら予想できないほど、多分、彼女を信用していたのだ。
 国道と平行して走るバイパスは、狭いながら車両が多く、歩道の道幅が狭かったので、歩くのに一苦労だった。酒屋の倉庫の角をまがって、二件目のマンションだった。三階建てで、それほど大きくはない。すべての部屋がシングル向けのワンルームだった。僕のアパートと違い、ユニットバスもエアコンもついている。入ってすぐの階段を三階まであがって、突き当たりの奥の部屋だった。僕は三つのドアの前を通り過ぎていったが、それぞれのドアについている魚眼レンズが無関心を装いながらも僕を監視しているように思えてならない。
 その時になって、やっと僕はいくつかの不安を覚えた。僕が好意的に受けいられるのは、彼女の愛情があってこそなのだが、それを信じて疑わなかった僕を、それを失った時の自分が、まるで軌道を外れた通信衛星のようにただの鉄の塊と化してしまうような錯覚が、襲った。すぐそこに見えた彼女の部屋のドアが数メートル後ずさりするように僕から離れてゆく。
「そうだ。いなかったことにして帰ろう」
心の中でだれかが呟いた。僕はその意見に同意しかけたが、何かから逃げようとしている僕の弱気を打ち消そうと慌ててドアに追い縋り、ベルチャイムを鳴らした。
 はたしてドアは開く。そして僕に知っている彼女も間違いなく、そこに存在した。僕の今までの不安がまるで嘘のように思え、僕は彼女に笑いかけようとした。
「ちょっと待って」
彼女はそう言って、いったんドアを締めた。1、2分してドアは開き、靴を履いて出てきた彼女は、後ろ手にドアを締めた。
「どうしたの。来るなんて言ってなかったじゃない。せっかく来てもらって悪いんだけど、友達が来てるの」
彼女は背中をドアに押し付けながら、息を弾ませている。僕はどう答えたものか、言葉につまった。
「なかなか会えないから・・・」
「また連絡するから今日は帰って」
彼女が冷たく言い放つ。僕は彼女の瞳の中に憎悪のかけらのようなものを感じ取った。僕はただの鉄の塊になろうとしていた。何も出来ないでいる僕に彼女の言葉が刺さる。
「お願いだから、今日は帰って……」
瞳の中の憎悪は消えていたが、涙が浮かんでいた。僕は鉄の塊どころか役立たずの屑鉄となってその場を離れた。
 理由を聞くタイミングを失い、上がってきた階段をおりて、バス停まで歩こうとしていた。止みかけた雨がまた降ってきて、傘を持っていないことに気が付くまで、多分、脳の思考回路はフリーズしたままだったように思う。
 彼女の部屋のドアの横に立て掛けた傘の記憶が蘇る。アインシュタインのような顔の科学者が頭の片隅で「真実の探求」とささやいている。
「そうだ、ちゃんとした理由を聴く権利が有る。もし友達が来てるなら正式に紹介されるべきだろう」
フリーズした思考回路が遅れを取り戻そうとフル回転を始めていた。そうだ、傘を取りに戻るのは絶好の理由であった。
 しかしそんな一瞬の勇気を持続させる事は出来ず、傘を手にしてドアの前に立ちながら、押す事も引く事も出来なかった。耳をすましても聞こえてくるのは、雨の音とアインシュタインの笑い声だった。
「ははは、所詮お前は凡人だ」
「凡人でもいいよ。嫌われたくないもの」
「真実の探求はどうしたんだ」
「もし、仮に他に男が……」
駄目だ、気が狂いそうになる。アインシュタインには付き合えない。まあ、落ち着いて、落ち着いて……。いや、そう考えると余計気になってしまう。自分が傷つかずに真実を知る方法はないだろうか。そんな方法は実はないのだが、相手に悟られず、事実をつかめれば、少し優位に立てるのではないかという無名大学生ごときの脳細胞が身体を動かしていた。
 彼女の部屋に背を向けたとき、僕は隣にあるもう一件のマンションから彼女の部屋のドアが見えることに気がついた。そのマンションも似たような造りになっていて、やはり三階立てだった。本当は窓側の方にマンションがあれば良いのだが、そっちの方は酒屋の倉庫になっていた。
 隣のマンションは、同時期に作られたものか、反対側から見て思ったように同じ作りで、彼女の方からも見られるという危険性も当然あったし、不審者が通路にいる事自体トラブルに巻き込まれる可能性も否定出来なかった。それを覚悟して三階通路にあがって、いくつかのドアを通り過ぎながら彼女の部屋の正面に陣取った。
 僕の背中側のドアにはたくさんの郵便物がこれでもかというくらい突っ込まれていて、人が住んでいる気配はなかった。腕時計を見ると三時五五分を指していた。テレビドラマによく出てくる張り込み中の刑事を頭に思い浮かべていた。
 雨は一時強く降ってまた小康状態になっていた。どちらのマンションもほとんど出入りがなかったが、張り込み開始後15分くらいに彼女の隣の部屋から、かなりけばけばしい水商売系の女性が出てきて、どこかへ出かけていった。多分これから仕事なのだろうか。彼女の両親が見つけた物件と聞いていたが、近所にどんな人がいるかぐらいのリサーチはしていそうなものだが……。
 さらに30分以上が過ぎた頃、彼女の部屋のドアが開いた。僕は少し身を屈めて、その状況を観察していたが、心臓はまたも鼓動を速めていた。そして出てきたのは彼女ではなく、僕の良く知っている男…彼だった。

第2章


 YUKIは、高校時代からの友人で同じブラスバンド部に所属していた。彼女の担当楽器はアルトサックス。颯爽と演奏するその姿は華があり、男女をとわず人気があった。特に男連中が話題にするのは、彼女の唇であった。厚いとか薄いというなら、やや厚め。でも格好が良かった。質感があり、少し湿ったように見えるその唇を誰もが狙っていた。交友関係は広いようだったが、特定の誰かとつきあっているような噂は、耳にしたことがなかった。
 高校二年のある日、たしか夏休みに入る数日前、僕は午後の授業をさぼって、いったん家に帰る途中だった。自転車通学だった僕は、通いなれた道をゆっくり走っていた。国道を抜けると平たんな一本道に出る。両脇にはほとんど何もない。あるのは見なれた田舎の田園風景だ。梅雨があけて、本格的な夏が到来し、焼けるような日ざしの中、体中に汗をかきながら、自転車をこいでいた。僕の視界にぼんやりと少し先を行く女子高生の姿が見えた。制服から見て同じ高校だ。一〇メートルくらい近づいたところで、それがYUKIだとわかった。僕にとっても彼女は憧れの存在だったので、少し緊張した面持ちで、抜こうかどうしようか迷っていた。僕は急いでいるわけではなかったが、彼女のペースにあわせて走っているのもなんだかためらわれた。僕は男らしく突っ走って、抜いてゆく方法を選んだ。ペダルを思いっきり踏み込み、一気にスピードを上げ、彼女のそばを通り過ぎていった。何も言うまいと決めておきながらつい声をかけてしまった。
「授業さぼって、どこ行くの」
別に返事を聞くつもりはなく、そのまま通り過ぎていこうとしたら、少し間を置いて、後ろから声がかかった。
「待ってよお」
素直な僕はその言葉に逆らえず、スピードを落としながら、後ろを振り向いた。極度に緊張していたために、ただ暑いだけではない、汗もかいていた。
「何か悪いこと言ったかなあ。気に障ったらご免ね」
その言葉に彼女は答えず、ただ僕の顔を見ている。その瞳に見据えられて、僕も言葉を失ってしまった。ただよくその顔を見つめると少し青ざめているようだった。いつものキュートな唇もやや青かった。
「どうしたの。具合悪そうだけど」
「早退。ちょっと風邪ぎみなの」と、彼女は言いながら自転車を降りた。辺りを見回しながら、「座れそうなところ、ないよネ・・・」と呟いた。
「もう少し先まで行けばピクニックっていう喫茶店があるけど・・・」
頭の中では彼女と一緒に喫茶店に入れるという言う妄想が、さらに多くの妄想を呼び、それ以上喋るとぎこちなくなりそうだったので、僕は途中でお茶を濁した。
「でも制服を着てるから、うるさくないかなあ」
「普通の喫茶店だよ。入ったことあるし、うちの学校の連中もたまに来てるみたいだから・・・」
別にむきになることもないのに、彼女を説得しようとしていた。実際、ピクニックという喫茶店は、名前からも分かるように、ファミリー向けのアットホームな雰囲気で、店のかまえも丸太小屋を少し大きくして、原色の赤や黄色を塗り付けたような明るい外装であった。後から考えれば、僕の家もその近くにあり、そっちに誘うこともできたのだ。でも座りたい場所と聞いて、思い付いたのが喫茶店だったからしょうがない。きっと僕の部屋なら、座るだけじゃなく、横になることもできただろう。それも二人で・・・。
 結局、ピクニックに入り、窓際のテーブルを選んで座った。テーブルは木製で、手作りかと思わせる程シンプルであった。それと同じものが三つあり、後はカウンターだけといった本当に小さな喫茶店であった。他に客はなく、いつも「マスター」と呼ばれている、眼鏡をかけて、髪とヒゲを伸ばした、人の良さそうなおじさんが、待ってましたとばかりに僕らの注文したクリームソーダを作り始めた。中は冷房が効いていて涼しく、僕にとっては心地よかったが、彼女にとってはどうだったのだろう。その時は、そこまで思いやる余裕などはなかった。クリームソーダがくるまで、彼女は窓の外を見ていた。二言三言話をしたようだったが、今はもう覚えていない。覚えているのは、彼女の横顔と唇、それとどことなく悲しそうな瞳の輝きくらいであろうか。




 高校時代最後の夏休み、僕らは定期演奏会の練習におわれていた。受験勉強の傍ら、学校に集まっては練習に余念がなかった。受験勉強も大事ではあったが、高校三年の最後の定期演奏会は、一生の思い出になるはずだった。僕にとっても大事なのは今だった。未来については漠然とした希望のようなものはあったが、そのために今を犠牲にすることはできなかった。駐輪場に自転車を置いて、流れ出る汗を拭い、部室に向かった。午後二時からの練習だったが、少し早めについたせいか誰もいなかった。相変わらず冷房など効いてないので暑い。何気なく当たりを見回すとふとアルトサックスのケースに目がとまった。YUKIのものだった。
 昨年の夏、彼女と喫茶店に入って以来、僕らは友達としてつきあってきた。周りからはとかく羨ましがられ、「どこまでいった」などと囃し立てられたが、どうしてもある一線を超えることはできなかった。僕らは部活が終わって一緒に帰る時には、必ずピクニックに立ち寄って数時間を過ごした。また中学時代の親友AKIOを交えて、彼の家で3人で勉強等していた。AKIOの家は資産家で、彼の与えられている部屋が誰よりも広かった。 AKIOはかなりの気遣いで僕らをまとめあげようと気をつかってくれていたが、常に自然体の僕らに対して、
「まさに似た者同士だね」
と諦めざるを得ないようだった。
 3人とも大学受験を目指していたから、勉強の話が大半を占めたが、嫌いな授業や先生について語ったり、その他友人のうわさ話で盛り上がった。AKIOは自分の学校のことを話すよりも、僕らが得意になって話している内容に笑顔で参加していた。
 AKIOに言わせると、僕らが仲良く話し合っている姿が羨ましいらしい。それを見ていられるだけで自分の事なんてどうでもいいのだとも語ったこともあった。親友のそんな姿を友情なのだと思っていたが、後になってかれもまたYUKIが好きだったのではないかと思うようになった。ただその時には、寸前に大学受験が迫ってきていた。
 僕はユーフォニウムというバリトンに似た、チューバを少し小さくしたような楽器の担当だった。ケースから中身を取り出し、練習に使っている3年5組の教室に向かった。机と椅子がピラミッドのように積み上げられて、あいたところに椅子だけが、並べられていた。その椅子を3つ並べて横になっている由紀の姿があった。
おどかしてやろうと音をたてずに近寄ったとたん、彼女が起き上がったので、こっちがびっくりした。
「び、びっくりしたあ」
「へへっ、眠っちゃった」
彼女はそう言って、両手を挙げて伸びをした。僕は持っていたユーフォニウムを椅子のうえに載せて、自分も椅子に座った。
「眠っているから、おどかしてやろうと思ったのに、こっちが驚いちゃったよ」
「なにかエッチなことを考えてたんじゃないの」
「眠れる森の美女じゃあるまいし、ガーガーいびきかいてたんじゃ、百年の恋も冷めちまうよ」
僕は嘘を言った。彼女は少し動揺していた。
「嘘よ。いびきなんてかかないもん」
「そんなの自分じゃわからないよ。今度聞いててあげるから、眠る時は言ってくれよ。さあさあ、練習、練習」
僕は、鞄の中から楽譜を数枚取り出した。ほんの冗談のつもりで言ったことが、けっこう人を傷つけていたりすることがある。いびきなんてたいしたことじゃないと思っていたのに、女の子にすればけっこうショックだったりするのか。練習が終わっても口をきいてくれなかった。
 そしてその翌日も、そのまた翌日も……。
「YUKIちゃん、どうしたの。喧嘩でもしたのかい」
とAKIOも心配してくれる。
「いやあ、女心は分からないね。いびきをかいてたから、そう言っただけなのに」
「えっ、そんなこと言ったの」
AKIOなら同情してくれるかと思いきや、YUKIの肩を持つなんて、いやそんな反応も半ば予測していた事だ。僕も自分が悪いのではないかと反省していたところだ。
 ただ謝る糸口がないまま、数日が過ぎて行った。




 定期演奏会は、取りあえず大成功をおさめ、三年生は打ち上げのための予約してあったスナックへ移動を開始した。卒業生の知り合いがやっている店だったが、学校には内緒だったし、アルコールもおいてあった。
「君たち最近喧嘩してるって話だけど、ほんと」
僕の友人であるAが僕に話し掛けた。少し離れてYUKIも女の子同士で喋りまくっていた。
「そんなことないよ」
「だって練習してても全然喋ってなかったよ。今日だってそうさ。話す機会なんていくらだってあったのに、二人とも妙に避けてたよな」
そいつはかなり出来上がっていた。他人のことなど、どうだってよかろうと思うのだが、根っからおせっかいな性格なのであった。
「なんだよー。僕は君たちのことを心配していってるんだぜ。おいっ」
突然YUKIの方に話を振りはじめる。別な話で盛り上がっていた女の子たちが、一斉にこっちを向いて、その中の一人が、「なあに」と答える。
「おめーじゃないよ。彼女だよう」
「YUKIちゃん、こいつとよりを戻してやってくれよ」
さすがに照れくさくなった僕は、大声で言った。
「これくらいで酔っぱらうんじゃないよ。酒に飲まれてどうする」
そう言って、Aを牽制した。
「そうよ。あんた達、最近おかしいんじゃないの」ともう一人おせっかいがいた。これ又僕らとは仲の良いB子だった。
「二人ともここで仲直りしちゃいなさいよお」
これが又酒癖の悪い女だった。僕らは、高三でありながら、ここに来てはたまに飲んでいた。AとB子がエスカレートしてきて、僕らが仲直りしないと場がおさまらないような雰囲気だった。僕が口を切ろうとする前にYUKIが喋り出した。
「もおー、二人ともしょうがないわねー。喧嘩なんかしてないわよー。ねえ」
僕に振ってきたので、僕もYUKIに相槌を打った。
「そおだよ。さっきから言ってるだろう。僕らは喧嘩なんかしてない」
AとB子が、交互に「嘘よ、嘘」とか「信じられない」とか言っている。そのうちに証拠を見せて、とか言いはじめてきて、僕は途方にくれてしまった。
「キスしようか」
YUKIが突然言いはじめて、その場の空気が変わった。どうもYUKIもかなり酔っているようだった。僕も素面とは言えなかったが、その場のだれもがかなり酔っぱらっているようだった。YUKIが虚ろな眼で僕に向かって「キスしよう」と言う。
 僕らは、そこで初めてキスをした。だれもが歓声を挙げて僕らを囃し立てていた。僕は恥ずかしくなって、外へ出ようとYUKIを促した。YUKIは黙って頷いた。どこをどう歩いたものか覚えていない。YUKIの唇の感触の余韻とほのかな髪の香りに、僕は包まれていた。
「YUKIはいびきなんてかいてないよ」
「もう気にしてない」
「あいつら、かなり飲んでたけど大丈夫かな」
「すごかったね。でも良い人たちね」
僕らはそんな会話をかわした。そしてもう一度キスをかわした。 




 二学期が始まると僕らのことを知らない者はなかった。学校中どこへ行っても好奇の眼で見られた。ただそれもつかの間で、しだいに受験という重々しい空気が漂い始めていた。僕らも恋愛にうつつを抜かしているわけにはいかなかった。考えてみれば、僕らはお互いのめり込むということがなかった。恋も大事だったが、これから先のことも考えていた。とにかく東京に出ようと思っていた。
 YUKIは志望校をかなり絞り込んでいた。それはどうも親の意見が比重を占めているようだった。特に母親の強い要望らしい。多分本人がそこの出身だとYUKIから聞いた気がする。彼女、自分の両親の話になるととたんにテンションが落ちるので、聞いちゃいけないのかなどと考えてしまう。
「へえ、東京じゃなくて横浜なんだ」
僕は一緒に東京の原宿とか、渋谷とかを二人でデートする夢を描いていたのに…。
 11月に入ると、YUKIは、特別に新しい塾を追加したせいもあって、AKIOと二人だけで過ごす時間が自然と増えていった。少々変わり者ではあるが、この中学からの親友は多分唯一本当の事を話せる友人だった。
 高校になって離ればなれでも、同じ高校の生徒や同じブラスバンドの部員よりも二人で逢う時間は多かった。男同士なのに気持ち悪いと思う方もいるだろうが、世に言うホモではなくトモだった。そんな彼だからこそ、高2の夏、YUKIと自転車ですれ違い呼び止められたこと、彼女と喫茶店でクリームソーダを飲んだ事などつぶさに相談したというわけだった。
 しばらくして、彼女を紹介するため、3人でピクニックで会ったり、AKIOの部屋で一緒に勉強するようになって、3人で付き合ってるような錯覚をするときもあった。そしてそれが功を奏してYUKIと僕の距離を一定に保つ事が出来たのだと思し、そしてそれが、高校生活を送るにあたってベストな環境を維持出来たのだと思うし、そしてそれが……。
「YUKIちゃん、元気にしてるかなあ」
「あいつは大丈夫さあ、多分、しっかり勉強して受験合格間違いなしだねえ」
僕は実際そう思っていた。むしろこっちが捗っていないと思った。
 AKIOが心配したのは、もちろん顔が見られなくて淋しいということだったんだろうけど、彼が僕の目の前で、純粋にそんな心配をすることになぜか腹が立った。初めての感覚だったが、多分それは嫉妬だった。彼の頭の中にYUKIがいる。YUKIを解放しなければいけない。
「さあ、僕らも本腰を入れないと目標達成はできないぜえ」
AKIOの頭からYUKIを消そうとして、目の前にある参考書に関心を向かわせた。僕自身もYUKIを頭の片隅にしまい込む作業に追われていた。とにかく受験が終わるまで……
 定期演奏会が終わって2学期に入り、YUKIと再び3人で集まるとAKIOはまるで自分の事のように喜んだ。
「仲直りしたんだね。そうじゃなきゃ」
僕らのうわさ話は校内では広まったが、さすがにAKIOの耳には入っていなかった。かといって自分達で報告する義務も必要性もなかったものだから、ついそのままにしてしまった。僕らはキスによって明らかに1歩踏み込んだ状況にあったが、なるべく何も変わっていないという振りをしていた。なぜそうしようと決めたのか特に理由はないが、AKIOに対する配慮だったかもしれない。実際以前と変わらないようにAKIOは絡んできたし、リアクションに困りつつも安心をしていた。
「二人とも、キスくらいしといたって、勉強の邪魔にはならないよ」
AKIOがそう言う時は、YUKIと二人、顔を向かい合わせて微笑んだ。その時の笑顔は本当に輝いていた。
 今、YUKIがいないAKIOの部屋で二人、人生で最も無意味な詰め込み勉強をしていた。
 多分多くの人が、人生を決定する大事な時間だと主張するだろうが、それによって失うものは、後で取り返そうと思っても、2度と手にする事はできないのだ。 
 年が明けても、YUKIと一緒にいられる時間は少なかった。まして以前のように3人で勉強する事はなかった。僕とYUKIの二人で会うのでさえ、下校時に例のピクニックでクリームソーダを付き合うのが精一杯だった。
 そうこうしている内に、受験に出かける支度を始めていた。宿泊すべきホテルや、行き帰りの新幹線等の予約、東京の地図など、必要と思われるものを


 (未完)

第3章


 第2章はこの物語の主人公である彼が書いた文章を使わせてもらった。彼に取っては仲良し3人の想い出を、いや特に愛する白坂由貴のことを文章に残す事に躍起になっていた。だから彼は脱落したのだ。いや脱落したはずだった。
 第2章の続きを僕なりに補足すれば、彼、根本潤は大学受験に一人失敗して、僕と由貴は晴れて大学生となった。自暴自棄になった彼は、誰も信用出来ないなどと呟き、僕と由貴が乗り込んだ特急電車の見送りにさえ来なかった。
 僕は彼が書いてくれているようなお人好しではないと思う。何を勘違いしているのか、由貴は一方的に彼の方を向いていると思い込んでいるが、彼女と二人で過ごした時間だってあるのだ。
 彼は試験に落ちたショックから書きかけの文章を処分しようとしていた。丸めてゴミ箱に捨てたものを僕が拾ったわけだが、それを読む事で彼が僕の事をどう思っているとか、どれくらい由貴のことが好きなのかがわかった。
 さて、第1章を書くにあたって、その時のムシャクシャした気分のままに、多分に自分の妄想や願望が加わっていたことは否定出来ない事実だ。ただし心の中を文章に出来るという事は、かなり精神的に落ち着いてきていた証拠で、あれからの事も含めて、なるべく事実を記していきたい。
 高校2年の夏、同じブラスバンド部員の根本潤と白坂由貴は、お互いに興味があったのだと思うが、急に接近しはじめた。根本は僕の前で延々とその話を繰り返すので、一度紹介してくれないかと言った。彼は翌週に由貴を連れて僕の部屋にやってきた。
 僕の目の前で惜しげもなくキスを交わしながら、二人して僕をからかった。時には二人だけにしてほしいと言って部屋から追い出した。僕の部屋なのに……。ただそれを許したのは、彼が一応中学からの旧友だったし、一目見たときから彼女の事が好きになったからだった。ちなみに彼女に対する好意は、彼にも悟られていたのは、例の文章を見た時に分かった。
 彼女に会うには旧友である根本を介するしか方法がなかったから、彼にはこまめに連絡をとった。その姿が親友としてなのか、親友の振りをしていたのか、自分でも分からなくなってきていた。ただそうしていればきっとチャンスが訪れるだろうと思っていた。そして、それが3人が3人とも丸く治まるような、簡単な結末では到底ないだろうと思っていた。
 彼らの仲が時々険悪になることもあった。果たしてそれはチャンスではなかった。そこは本心を抑えて、親友の振りをして、彼を慰めなければならなかった。
 根本と二人でいる時には、音楽の話で盛り上がったものだ。彼女が登場するまでは、十分それで楽しかった。久しぶりに二人だけの時間を過ごしていると、本当は親友なのではないかと思えなくもなかった。
 二人共通のお気に入りはビートルズだった。そういえば後期になって、ジョン・レノンがオノ・ヨーコと知り合った事が、ビートルズ解散につながったと言われているが、まさしくレノン=マッカートニー同様の危機がせまっていたのだ。
 高3の夏休みに彼らの学校の定期演奏会があった。チケットを買っていたので、末席で見ていた。声をかけたが、仲間内で盛り上がっていて相手にしてくれそうもなかった。
 秋には彼らの関係が修復していて、根本は一生懸命文章を書いていた。そう、この第2章のことだが、よくもあんな清純そうな文章が書けるものだ。読んでいて恥ずかしいくらいだ。定期演奏会を目前に仲違いする下り、実際見た訳ではないが、あんな事で腹を立てるだろうか?僕も参加しながら、変なことを言わされてる。
 定期演奏会の打ち上げで初めてキスをしたと書いてあるけど、嘘だ。僕の部屋で、僕をのけ者にして、いったい何をしていたというのだ。
 とにかく彼の書きかけの何だか分からない文章をもう少し補足していくことにしよう。
 

 

   
 受験の日程に合わせて、合間を縫って3人で会えないかどうかを検討していた根本だったが、彼女の日程がまったく噛み合ない事を知ると、半分やる気をなくしていたようだった。
 僕は男同士の旅行も悪くないというと、彼は苦笑いをしながら、
「そうだな。よし気持ちを切り替えていくぞ」と意気込んだ。
二人とも3校ずつ受験した。本命とあとはいわゆる滑り止めという奴だった。本命は同じ飯田橋にある大学だったが、あとは別々だった。
 日程の関係で、6泊7日をなんとかしなければならなかった。予算の都合もあるから、二人でホテルに2泊は確定したが、後は彼と僕の友人知人宅に4泊した。ほとんど日替わりで移動だったから、常に荷物は全部持ち歩いていた。
 知人は主に親戚関係で、比較的大人しく過ごさなければならなかった。彼のおじさん宅では、2階の一部屋を僕らのためにあけてくれたが、大声で騒ぐ事はできなかった。
 一方僕の学校の先輩の寮は、先輩の部屋に3人が寝泊まりするはめになったが、さすがに1年先に上京していると言葉遣いも違えば、遊び方も心得ていて、明日は試験があるという時に、
「よし、とにかく1杯飲みに行こう」
と気勢を上げるという案配だった。この勢いに便乗したのが彼で、この時点で死亡フラッグならぬ玉砕フラッグが揚がっていたにちがいない。
 上野駅から二人で特急に乗った時、彼はもう以前の彼ではなかったように思う。声をかけてもろくに返事もしなかった。田舎に付いた時には雪が舞っていた。雪と由貴、彼に取っては、さぞつらい凱旋だったろう。
 僕はチャンスが訪れたのだと思った。それでも律儀に卒業式を待った。そうすれば彼らの共通項が一つなくなる訳だし、晴れてキャンバス行きグループというカテゴリーで僕と由貴は彼から離れる事が出来たのだ。
 彼がそんな調子で、まったく使いものにならないとわかると、彼女に会うためには自分から動かないといけなかった。僕は初めて自分から電話をかけた。それも自宅からかける勇気を持ち合わせてはおらず、電話ボックスというスーパーマンも着替えで使ったと言われる魔法の箱の中で、いつもとは違うトーンで受話器に語りだした。
「あら、初めてじゃないかしら、電話をもらったの」
「根本君がかなり落ち込んでるみたいで、代わりに白坂さんに電話をするよう言われたんだ」
結局この期に及んでも彼の力を借りざるを得なかったのだ。
 数時間して、由貴が僕の家を訪ねてくれた。「根本君はまだ来てないの」
「まあ、中に入って少し待ってみようか」
彼女は、スリッパに履きかえて、靴をそろえた。靴を揃えようとして背を向けて屈んだ時にちらりと見えるものがある。僕の視線はつい非ぬ方向を向いてしまう。まるで僕を誘惑しているかのような仕草に心を奪われそうになる。彼女自身は意識してないのかもしれない。
 もちろん根本が来るわけはない。僕にもう少し演技力があれば、映画「太陽がいっぱい」のアロン・ドロンのように友人の彼女を手に入れる事が出来るのに、ここまで舞台を築いて置きながら、立ち回りの練習をしておくべきだったのだ。
「私が根本君に電話しても、本人が出たくないと言ってるらしくて、取り次いでもらえないの」
「そうだろうね。随分落ち込んでいたから」
会話をしても彼にまつわる事ばかりで、後は大学の入学式はいつだとか、どの当りに住むかとか、荷物はどうする、といったものだった。
 荷物は後から両親が送ってくれるという点は同じだった。そして何よりもこの日の成果は、上京日時を一緒にしたことだった。つまり同じ電車で数時間、旅が出来るという事に他ならない。
 発車のベルが鳴るまで、もしかしたら彼が現れるかもしれないと心のどこかで思っていたが、結局来なかった。僕らはそれぞれに彼に手紙を書いて出した。彼女の内容は分からないが、僕は取りあえず事実だけを書いた。彼女と一緒に東京に向かうという事実を……。
 
 
 

  
  
 僕は今心の底から反省をしているのであり、出来れば憎悪と妄想が支配した第1章を書き直したくて仕方がなかった。根本に対してはまだ多少のわだかまりがあったが、由貴に対する僕の思いは、事実をかなりねじ曲げてしまっていたのだ。
 大学に入っても由貴の心の中には常に根本がいて、故郷にいる根本にほぼ毎週手紙を書いていた。だから、高校時代を含め、僕と彼女が恋人だった事実はない。それでも彼女の事が好きだった僕は、都内の方が通学が楽なのに百合が丘のアパートを選んだ。それでも横浜に出るのは一苦労だった。
 彼女が僕に対して、「同居しよう」はもちろん「横浜にすればいいのに」と言った事実はない。
 僕と由貴が同じ電車で上京してきたのは事実だったし、これから始まるキャンパスライフのスタートラインとしては申し分のない演出だったと言える。
 僕のいつもの癖で、お膳立てはしっかりしているのに、そこで上手に振る舞う事が出来ないという分厚い壁が、またもそこに立ちはだかっていた。
「横浜って良いよね」
「そうね」
「アルバイトとかするの?」
「あまり考えてないなあ」
まったくもって話が弾まないのだ。何の進展もないまま上野に着いてしまい、東京までは同行したものの、彼女は東海道線に、僕は中央線に乗り換え、新しく暮らす場所に向かった。
 僕が女性に対して消極的にというか、臆病になってしまった原因は、どうも彼女、いや彼らの僕に対する扱いにあるといっても、間違いないのではないか。僕だって由貴にこだわっていたわけではないし、東京に出てみるとそこら中に美しい女性がたくさんいて、彼女達はいつも誰かに声をかけられるのを待っているようだった。だから、由貴のことなど忘れて、新しい恋愛を見つけることにしたのだ。
 だけど一度臆病風に吹かれると
「断られたらどうしよう」
という不安がいつもつきまとっていて、ただ遠くから見ているだけだったり、彼女が座っていた席に後から腰掛けたり、取りあえず駅までの帰り道を後ろからこっそり付いて歩いたりするくらいしか出来なかった。
 確かに彼女達の風貌は由貴に似ていたし、僕の理想像として由貴はいつも頭の中にいた。だから渋谷に行っても新宿に行っても、僕の視線の方向には由貴がいたし、彼女達は僕に見られる事で輝きを増していたに違いない。
 夏休みに入った頃に、彼女にもらった紙片に書かれた住所を頼りに、チャレンジを試みた。百合が丘駅のいつもとは反対ホームに行き、小田原行きに乗って町田でJR横浜線に乗り換え、東神奈川で京浜東北線に乗り換えるという流れだ。途中どこからともなく雲が空を被いはじめてきて、何となく不安が募っていった。
 横浜線に乗り換えて空いていた席に座った時、正面の席に四人組の女子高生が学校の話で盛り上がっていた。なぜだか皆同じような顔をしていた。夢だったのだろうか。
桜木町でバスに乗り換えた時、やはり雨になって、商店街で安いビニール傘を買った。 
「やだ、びっくりした。久しぶりね」
上野で分かれた時より数段きれいになっていた由貴だった。それは化粧のせいであると徐々に理解するに連れて、少し残念な気持ちも生まれつつあった。僕の知っている由貴ではない。
 彼女の部屋は、フローリングの床を含め隅々まで清掃が行き届いていて、気が利いた小物が端々に置かれていた。淡いブルーが基調となった壁やテーブルの配色、合わせて彼女が来ている黄色いタンクトップ、その剥き出しとなった肩から首のラインが僕の本能に話しかけていた。
「せっかく住所を教えておいたのに、今になって来たわね。待ってたんだから」
「えっ!」
と声を出したものだから、彼女は少しびっくりして振り向いた。
「どうしたの。何かあった」
「いや、いや、ちょっと部屋がきれいなんで、びっくりして……」
慌てて言い訳をした。今までも時々聞こえた幻聴だったが、今のはかなりリアルだった。
「根本君が今度遊びに来るわよ」
その声は幻聴ではなく、彼女自身のもので、台所から聞こえて来た。
「ちょうどお盆を過ぎたあたりに……。連絡なかった?」
アイスコーヒーをテーブルに置きながらさらにそう言った。
「いや、ボクのところには……」
そう、確かに来ていなかった。
 彼女からその話を聞いた時には、僕の邪な心はなえてしまって、彼女はただの彼女にしか見えなくなっていた。 
 根本が僕を差し置いて、彼女と二人きりで会おうという計画に腹を立てていた。ところがしばらくすると根本から電話がかかってきて、3人で会おうという話をするから、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。しかし電話は夏休み前に取り付けたもので、親にさえまだ伝えてはおらず、由貴にだけ教えてきた番号だった。根本に対する憎悪が次第に拡大していった。
 根本から電話があった数日後には由貴から電話があった。
「ねえ、町田で逢わない。町田にしましょうよ。ちょうどそこからも一本だし、私も横浜線でいけるし、時間と場所はまた伝えるわね」
もう二人で十分話し合われているのだろう。口を挟む余地はなく、決定に従うまでだった。



   
 根本は3日間滞在する予定の初日、僕の部屋に泊まった。彼とは中学からの旧友だから、泊まる事に際して、何の問題もなかった。彼も意識的に由貴の話をしなかったせいもあるが、想い出の中に身を埋めていると久しぶりに安らかな穏やかな気持ちが生まれてくるのだった。
「この階段毎日上り下りしてるの?」
「全部で66段、結構鍛えられるよ」
初日に話題にした階段を今日は下りてこれから町田に向かう。途中の立て札には、
「足下暗し、側溝注意!」
と書かれていた。
 由貴と約束した町田のイタリアン・レストランに僕らはたどり着いた。彼女はさらに美しく着飾っていて、つい僕と根本は顔を見合わせてしまった。その特に彼が考えている事が手に取るように分かってしまったのだ。ここがもし僕の部屋ならまだ多少は優位に立てたかもしれない。
 根本は地元の予備校に通いつつ、レベルアップを図りながら来年の受験を目指していた。「予備校って結構灰汁の強い講師が多いんだよ」
「うん、聞いたことがある。私が行ってた塾にも個性的な人がいたわね」
そんな話題に始まり、先発上京組は「こんな友達ができた」とか「ある講師に隠し子がいて……」とかを交互に語っていた。その時ふいに、
「彼女とか出来たの」
と由貴から聞かれて、答えに詰まってしまった。
「おい、おい、そんなデリケートな質問は、親友の僕でさえ控えてたんだぜ」
と根本が助け舟を出してくれたようだが、それは返って僕を傷つけるだけだった。
 話は変わって由貴が「単位が思うようにとれない」とか話しだした時には、僕の目の前の灰皿は山のように吸い殻が積もっていた。
JRの改札の前で僕らは別れた。彼らは僕に手を振ったあと、手を繋いでホームへの階段を登っていった。横浜に2泊するのだと聞いた。凍り付いたように心が冷たかった。
どこをどう歩いたか分からず、盛り場を獣のように徘徊していたような気がする。少し薄暗い路地に入り込んだ時、知らない女性に導かれ、訳の分からない場所に引き込まれた。
「どう、分かった?」
年上ではあったが、好みのタイプではあった。サービス内容と料金体系をざっと説明し終わったようだが、まるで聞いてなかった。頭の中ではずっと根本と由貴の後ろ姿を追っていた。
「帰ります」
帰りたかった。
「駄目よう!もう一口飲んでるんだから。私のここにも触ったでしょう。怖いお兄さん、連れてこようか」
とわざと僕の手を自分の胸元に辿り寄せていった。 
 ちょうどその時、別のボックスから妙にテンションの高い喘ぎ声が店内に轟いたかと思えば、多分その声が、
「NO!NO!ここは本番禁止よ!STOP!あん!あん!あん!」
というものだから、数名の怖いお兄さん達は、日本語の分からない、傍若無人の来客の方に一斉に走っていったようだった。
 僕はぽかんとその様子を見ていた彼女の背中に別れを告げて外に出た。そんな事件のおかげで一瞬は忘れ去られたが、新宿行きの最終電車に間にあった僕は、深い深い夢の中で由貴の姿をフラッシュバックさせながら、身も知らぬお姉さんの感触を重ね合わせていた。 由貴に導かれるまま、彼女の部屋のドアを開けたはずだったが、以前とは趣が異なっていて、とにかく雑然としていた。淡いブルーだったはずの壁は薄汚れたベージュだったり、ベッドの上に着ていたものが脱ぎ捨てられていたり、照明は妙に薄暗く、BGMは最近のJーPOPだったり……。ただ何よりも違うのは部屋の臭いだった。芳香剤なのか、香水なのかは分からないが、彼女らしくない臭い。以前彼女の部屋で化粧に批判的な反応をしていたものだが、とにかく彼女が彼女らしくないことがいっそう僕の覚悟を決めていた。
 入って来たドアの鍵をかけた自分の姿があった。この鍵をかけるという所作がなんだか犯罪めいているような気がしないではない。由貴は僕の手を取り、自身の胸元に導いた。「僕を馬鹿にするな」
 僕はそこで初めて獣と化して由貴に被いかぶさった。めちゃくちゃに彼女を穢したいと思い、その欲望のすべてを吐き出した……。多分人生で最も満足を得た瞬間だった。
 
「NO!NO!ここは本番禁止よ!STOP!あん!あん!あん!」
「怖いお兄さん連れてこようか!」
朝、目が覚める直前にそんな声が聞こえていた。いつになくすっきりした寝起きだった。欲望のすべてを吐き出した結果、聖職者のような全うな人間に生まれ変わったような気がした。
 それにしても、よく部屋にたどり着いたものだ。まるで夢遊病者のようにあの66段を登ったのだろうか。思いだせなかった。
 それからしばらくして、平凡な日常を繰り返している中で特に気がついたことがある。
「足下暗し、側溝注意!」
と書かれていた例の立て札に「痴漢注意」の張り紙がされ、側溝そのものにはコンクリートの蓋がなされ、街灯が少々増えたような気がしていた。段々治安が良くなっていくのは庶民に取っては安心して暮らしやすくなるというものだ。 
 年の瀬……学校の帰りにいつものようにこの階段を登ろうとしていた。すでに薄暗くなり始めていて、街灯がちらほらと点灯していた。以前見た事のある女性が一人、後ろを振り向いて僕の姿を確認したようだった。何だか慌てた様子で、階段を走り上っていった。その様子が何だかおかしくて、僕もまた急ぎ足になっていった。
 厚手で温かそうなセーターからは、洗剤の臭いとどこかで嗅いだような匂いが入り交じっていた。それは芳香剤でないとすれば彼女が使っている香水なのだろう。けして嫌いな臭いではなかった。
 彼女も、そして僕も「痴漢に注意」の貼り紙の前を通り過ぎた。
 別段、特に変わった事は起こらなかった。
 
 
以上

PHANTOM LIFE

 小説を初めて書いてみようと最初の数行を書いたが、頓挫したまま10年以上過ぎた。
想像を広げて書き足してはみたが、どうだろう?
 

PHANTOM LIFE

友情と恋愛、いつもの他愛無いドラマとは違うようだが、主人公は誰なのだろう。高校時代の淡い想い出は果たして真実なのか、フィクションなのか?彼女を信用して良いのか?倒錯した恋愛意識、そして妄想が暴走して引き起こす事件は現実なのか、夢なのか?真実はいったいどこに?

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-09-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第1章
  2. 第2章
  3. 第3章