糸と運命に抗った記憶
改行後のスペースや、改行している箇所がおかしいところなど、ありますが
ワードからコピーする際に生じたものです、あらかじめご了承ください。
物語を読むのに支障をきたさなければよいのですが・・・・・・
ちなみに、キャラデザインを描いてくれたのは、私の学校の友人です!
とても、とても感謝してます!
第一章 神への冒涜
「運命のバタフライ」
第一章 神への冒涜
精神と記憶は肉体にのみ宿る。記憶を宿した肉体は自我を持つ。CERN十三の声明第五項。
「何だこれは」
数人の白衣を着た人間が一つの物体を取り囲む。その場所には自然が無く、どこかの施設のようだった。真っ白な床に真っ白な天井。生命を感じさせない空間に奇怪に佇むそれは、神聖な光を放っていた。
「何かのプログラムか?」
「わからない。開けるか?」
「いや、特殊なプログラムによって圧縮されている」
「……とりあえず持ち帰るか。不審物として報告せねば」
「同時にこれを解凍し、解析しよう」
白衣を着た男はそれを持ち上げた。その瞬間それは消え、白衣の男達も――消えた。
2045年8月3日午前10時15分秋葉原某研究所。
「却下。もっとロマンに溢れた提案を出来ないのか? それではつまらないだろう」
白衣を着た男女が言い争いをしている。コンピュータと様々な機械部品やガラクタと思える物体で構成された室内。そこには生活感というものは微塵も感じさせない冷たさがあった。
「そんなに言うなら自分で何か提案したらどうなの? 私の意見聞いてばっかりじゃない。
大体あんたはいつだってそう。人に意見を求める前に自分の意見を話すのが筋じゃないの?
科学者のくせして自分の意見を持たないなんて馬鹿なこと言うんじゃないでしょうね? 人の意見だけ聞いて自分は高みの見物を決め込むなんて、神じゃないんだから」
科学者の一人時城京は閉口した。しばらくの沈黙。呆れ果てた表情でもう一人の科学者である四季愛月は京を見る。
京は何かを思いついたかのような表情で微笑む。口元を異常に歪ませ、大袈裟に両腕を広げる。
「神……そうだ、神だ。神を作ろう! 我ながら浪漫溢れる良い提案だ」
愛月は眉を潜めた。いきなりの提案に驚いたのだ。
「何が言いたいの?」
京はまた口元を歪ませる。そして何度も口を開閉させ、もったいぶる。
「もう、早く言ってよ。焦らさないでよ気になるじゃない」
「……ならば教えてやろう。俺が今何を思いついたのかを。それはな――神だ。世界中の全ての神のデータをまとめたデータベースを作るのだ」
愛月は再び呆れてため息を付いた。神のデータベースだなんて馬鹿みたいだと思ったのだ。
しかし暫くして表情を変えた。
「いいわ。最近ちょっと凝ったことばかりしていたから息抜きに丁度いいんじゃないかな」
「よし、ならば今思いついた概要を説明しよう」
「よろしく」
京はホワイトボードに文字を書きながら話す。水を得た魚、あるいはおもちゃを与えられた子供のように活き活きしながら。
「まず、インターネットでデータを集める。そのデータをまとめ、データベースとしてすぐ検索できるようにする。ここまでは前時代的な普通のデータベースだ。しかしここからだ。ここからが違う。“VW”を使うんだ」
VW、それはヴァーチャルワールドの略称。CERNはVR技術を進化させ、全世界に普及させた。それは2013年、完全に現実世界を模した物となり全世界にVWという仮想世界のネットワークを完成させた。
そこはインターネットが進化したものと考えていいだろう。二次元的だったインターネットが三次元的なものとなった。VW内には様々な情報が様々な場所で管理されている。その情報は随時閲覧可能。
さらに2020年、VWに対応した携帯端末A―phoneが誕生。A―Phoneをコンピュータに繋ぐことにより、個人でもVWを覗くことが出来るようになった。
しかしそれには特殊な技術を利用したヘッドギアと呼ばれる物が必要なのだ。ヘッドギア――それは人の記憶をデータ化し、それを取り出しVW内へと送り込むことによってVWの情報を閲覧・編集できるというものだ。
ヘッドギアは2023年全国へ普及。そして2025年、A―phoneにあるシステムが導入された。
「そう、Vアプリとして作る。それには大いなるクトゥルフの姿を与える。面白いだろう? 人々には邪神が復活したと思わせて実はただのデータベースでした、というなんちゃってアプリだ」
VアプリとはVW内で使えるアプリ。それは特殊なプログラミング言語Aコードによって構成される。あらゆる技術者があらゆるアプリを作り、VWはその遊び場ともなった。
愛月は考え込むとやがて口元を歪ませた。
「うん、なかなか面白いね。じゃぁ早速データ収集から始めましょうか」
二人はそれぞれコンピュータに向かい、黙々と情報を集め始めた。
神と一言で言ってしまうのは簡単だ。
しかしこの世の中には神というものは膨大な数存在する。日本古代神話だけでも恐らく百は超えるだろう。そこにギリシャ神話、北欧神話、クトゥルフ神話、エジプト神話などなど。世界各国に語り継がれる神話の中には日本のものほどではないが、数々の神が登場する。それらのデータを全て集めるという作業はとても骨が折れるものだ。
故に作業開始から二時間経った今、京は作業を中断した。京は窓から真っ青な空を眺め、ため息を吐く。
「ちょっとおでん缶買ってくるわ。そろそろ昼時だしな。お前は何がいい?」
「んー。私もおでん缶でいいや」
愛月は画面を見ながら答える。
京は研究所のドアを開け、外に出た。日差しという無数の光の線が京の目に突き刺さる。
自販機でおでん缶を買って、昼のニュースでも見ようとA―phoneの電源をつけた。そしてインターネットに繋いだ。しかし、どういうわけか何も映らない。
いや映ってはいる。テレビが不調になった時の砂嵐のようなものが。
「不具合か? 最近多いな。しっかりしろよ、回線整備」
諦めてA―phoneをしまって歩き出した。
その時何かが京の背中を刺すような感覚がした。同時に頭の奥深く……脳を刺激するかのような感覚が。非常に奇妙な感覚だった。物理的な痛みは無く、ただ精神的な痛みを京に与えた。
「作業で疲れてるせいか? 早く帰っておでん缶食べようっと」
そう思い、足早に研究所へ帰った。
帰った時、愛月は床に寝転がっていた。
「作業はどうだ?」
「んー、3分の1くらいは出来たよー。あともうちょいって感じだわ」
「そうか。ほれ、おでん缶だ」
「ありがとう! やっぱり作業中はおでん缶に限るよねー」
京は愛月の隣に座り、おでん缶を開けた。おでんの匂いが研究室を満たす。温かい卵や牛筋。それらを口へ運び、午後からの作業への原動力とする。
しかし京は忘れられなかった。先ほどの奇妙な感覚が。今から考えてみればそんなに作業が苦しかったわけでもない。それにあんな短時間でやられるほど貧弱ではない。なら先ほどの背中や脳を刺すような感覚はなんだったのか。おでん缶を食べながらそのことばかりを考えていた。
しかし、いくら考えても答えは出ない。おでん缶を食べ終わって、食休み食休みと自分に言い聞かせながら冷たい床に寝転がる。そのうち、あまりに気持ちが良いのでいびきをかいて寝てしまった。
完全な闇。空気も無い冷たい空間。いや、冷たいと感じる感覚さえも失うような
何も無い空間。進むことも戻ることも出来ない。方向転換さえ許されないその場所。京は自分を、世界を見失った。同時に世界は京を見失った。ただ一つの点となり空間を移動することも出来ず、感じることも出来ずに佇む。生きるでも死ぬでもない。永遠の時を彷徨い続ける。いや、彷徨うことも許されない。何も出来ない。逃れられぬ運命のような気がした。
ああ、俺はもう駄目だ。このまま、この空間の塵となって消えていくのだ。いや、塵さえも残らないのだろうと絶望しかけた時、線が見えた。無数の線の中で一際光る線。希望の光。真っ白で少しの濁りもない純粋な光。
それを掴んだ時、線は真っ黒に鈍く光りだした。世界は反転し、自分の中の常識が崩れ去るような感覚。自分の世界を否定され、自分の世界を見失った。線は京の身体を包み込んだ。
蝶が――飛んでいた。
京は短い悪夢から目を覚ました。
「大丈夫? だいぶうなされていたよ」
愛月は心配そうな表情で京の額に手を当てる。京は依然夢の中に居るような感覚が抜けていない。先ほどの変な夢。京は起き上がり、自分の額に手を当てた。自分でも驚くほどの汗をかいていた。愛月から差し出されたタオルで汗を拭う。
「大丈夫、少し変な夢を見ただけだ。すぐ作業に戻るよ」
立ち上がり、コンピュータの前に座った。作業をして気を紛らわそうとしているのだ。
「あぁ、それなんだけどね。実はもうすぐ終わるんだ」
「本当か?」
「うん。もうあと10分くらいあれば出来るから、京ちゃんは見てるだけでいいよ」
「なん……だと? 俺の提案なのに、俺はほとんど仕事をしていない様な気がするぞ。見ているだけでいいと言ったが、それは非常に不味いような……」
「いいの! だって、京ちゃんはプログラム苦手でしょう?」
「苦手というわけじゃないぞ、お前が凄腕すぎるだけだ。俺だって常人から見れば達人並みの腕前を――」
「はいはいわかりましたから、見てなさい」
仕方が無いと京は立ち上がり、愛月の後ろに立つ。部屋にはキーボードを打つ音だけが鳴り響き、電気をつけていないので、暗かった。今日の天気は曇り。空には少しの青が顔を出すほどの余裕もなく雲が敷き詰められていた。あまりにやることがないのでポケットに手を入れ、A―phoneの電源を入れた。
メールが一件受信されていた。メールを開く。天気は曇りから、雨へと移っていた。
――今すぐ中止しろ。偶然という名の必然に運命が決定されてしまう前に。蝶の羽ばたきを甘く見てはいけない。
なんだこれは。どうせ迷惑メールだろうと思い、メールを削除。そして全く意に留めず、今後思い出すことも無かった。雨は強くなり、キーボードの音と重なって不協和音を奏でている。
やがてキーボードの音は止まり、画面には50%アップロード中という文字が表示されていた。
「終わったよ。後はアップロード完了を待つだけ」
「お疲れ様、もう休んでいいぞ。机の上にカップ麺がある。好きなのを選べ」
「了解! いやー、京ちゃん気が利くー!」
京は、何故か画面から目が離せなかった。理由は無い。しかしこの画面をずっと見ていなければならないような気がした。
60%。愛月がカップ麺を選びかねている。
70%。依然として決まらない。
80%。雨が窓を打ち、雫が滴って窓には無数の線が延びていた。
上から下に向かって。
90%。その線は決して下から上へと向かうことはない。それは決められた世界の理。
100%。カップ麺が―決定した。アップロード完了。その文字が表示された。
京は無意識にヘッドギアを被っていた。何度か経験した記憶のデータ化。しかし今日は何故か気味が悪く、気持ち悪かった。頭の中を誰かによって除かれ、勝手に分析されている感覚不信と不安。データ化による眩暈がいつもの倍以上にも増幅され、脳内がぐちゃぐちゃに掻き回されていくような感覚を覚え、吐きそうだった。
眩暈が治まり、視界が開けてくる。目の前には自分たちが作り上げた作品の数々があり、その中で一際異彩を放っているそれを見つける。VW内に 現れた大いなるクトゥルフ……神データベースは禍々しかった。京は近づいて起動ボタンを押した。
次の瞬間、京は自分の耳を疑った。
「……これが運命だと言うのなら、我はそんなことは認めん、認めんぞ」
急にデータベースが喋り始めた。それも、使い方などのガイドアナウンスの様なものではなく、訳のわからない言葉。まるで、それには自我が伴っているような言葉と口調。
愛月がこんな機能を遊び心でつけたのか、そう思った。しかし自分ならまだしも愛月がこんな要らない機能をつけるはずが無いことを知っていた。愛月の堅い性格を知っていた。何故だ、何故しゃべった。一体何が起こっている。冷酷な世界で一人佇む。わけもわからず呆然としていた。
次の瞬間、神は――消えた。
それと同時に現実世界へと引き戻され、眩暈が生じる。世界が歪み、常識が非常識へと変わっていく。目に映るものが形を崩し、否定されていく。時間と空間が歪曲し、立っていられなかった。京の目に蝶が飛んでいるのが見えた。蝶が――羽ばたいた。
2045年8月4日午後2時秋葉原某研究所。
目眩が治まり、意識を取り戻した。目を開けた瞬間京は自分の目を、感覚をそして自分自身を、そして世界を疑った。銃を持ち、武装した男達が京と愛月を取り囲んでいたのだ。
なんだ、何が起こっている? 俺達はさっきまで研究所で…ここはどこだ。研究所だ。さっきまで居なかったこの男達は一体…それに何より銃だと? 一体どうなっているんだ。
世界に取り残されているような感覚。先程まで自分達が見てきた世界を否定され、これが世界だとでもいうような。言い換えれば先日まで飼っていたペットがどこかに消え、親が「これがペットよ」と連れて来たものが全くの別物だったような感じ。そんな理不尽な事態に直面しているのだ。
「愛月、どうなっている。なんだこれは」
「私にもわからない。眩暈がしたと思ったら急にこん――」
「勝手に喋るんじゃない。自分達がどういう状況に居るのかわかっているのか!」
わかっているはずなど無い。何故ならこの研究室にはさっきまで二人しか居なかったのだし、京はVW内に居たのだから今現実世界に居るという状況すらもおかしいのだ。とても冷静になんて居られずに京は忠告を無視し、喋り続ける。
「一体どうなっている……どうなっている。俺達はさっきまで二人でここに居た。神のアプリを作り上げたばっかりだ。なんだよこれ、なんなんだよ」
「喋るなと言ったはずだが……?」
男は二人に突きつけていた拳銃を真っすぐ頭上に上げ、天井を撃った。鳴り響く銃声と天井にめりこむ銃弾。鼻を突くような火薬の匂い。愛月は小さく悲鳴を上げ、その場に崩れるように膝をついた。しかし京は言葉を続ける。
「お前達は何者だ……?」
「俺達は反政府組織だ。神とCERNに抗う戦士だ。貴様らが神を作った時城京と四季愛月だということは分かっている。大人しく捕まってもらおうか」
男達がにじり寄って来る。
何を言っているこいつら、神がどうのとCERNがどうのと。そもそも俺達が作ったのは、本物の神などではなく、クトゥルフの見た目をしただけのただのデータベースアプリだぞ。神に関する事柄を調べる事が出来るだけのアプリなはずだ。そんなものに、抗うも何もないだろう。それに、今さっき完成させたばかりなのだ。他人が知りうるはずがない。CERNだって、ただの研究機関じゃないか。
「ちょっと待てよ、何を言っているのか俺達はさっぱりだ」
「とぼけるんじゃあない、既に全国ネットによってお前達が神を作ったと報道されている」
「マスコミの情報を真に受けるな! マスコミの情報だけで、反政府組織とやらは動くのか? 最近のマスコミの報道は確かに妄りに政府を批判するか擁護するかのどちらかしかなく、反政府側にとって、政府批判をする放送局の言い分を信じたくなるものなのだろう。しかし、それは愚かだ」
「何を言っている? テレビや新聞をはじめとするマスコミは、今や全て政府が管理している。貴様らとてそれを知っているはずだ」
「は……? 政府がマスコミを管理? ちょっとまて、放送権は国民の権利じゃないのか」
「国民の権利など、とうに腐敗した!」
「腐敗だと!? 民主主義は、国民主権は一体どこへ消えた!? ほんの一瞬で、国の根底が覆ったとでも言うのか?」
京にはさっぱり現状が理解できなかった。頭は冷えるどころかどんどん熱くなっていき、まともに思考が出来ない状態にまでなっている。愛月はというと依然として呆けたままだ。
「そんなものはとっくに存在しない! おい寝ぼけているのか、時城京! 諸悪の根源のくせに……!」
「待ってくれよ、俺には何が何だかさっぱりだ!」
「まだしらばっくれるのか……!」
「しらばっくれるも何も、俺には……わからない」
京は頭を抱える。そしてその場に座り込んでしまった。熱くなっている身体にとって、床はとても冷たく、オーバーヒートしている頭を冷ますには十分だ。
数十秒間、座り込んだまま体と頭を冷やし、ため息を吐く。徐々に、冷静さを取り戻していく。
「何をしている?」
「俺を捕まえるのか?」
「ああ、そうだ。諸悪の根源であるお前を捕まえ、我々が裁く。そうしなければ、我々の気が済まない」
京は、ある事に気付いた。そして、すぐに行動に移す。
「おっと待て。今ここで俺達を拘束してはお前達の目的は果たされないんじゃないか?」
「どういう意味だ」
愛月は困惑していた。自分の幼馴染が何をしだしたのか、何がしたいのか全く分からない。それどころか愛月は依然としてこの状況を全く飲み込めていなかった。無理も無い。さっきまでカップ麺にお湯を注いでいたのだから。日常からの非日常への移動に戸惑いを隠せないでいるのだから。
「言葉のままの意味だ。お前は俺らが神を作ったと言ったな」
「あぁ、言――」
「ならその先は簡単だろう? 作ったのが俺達だったとしたら、それを消すのも俺達にしかできないと考えるのが自然じゃないのか? 反政府組織なのだろう? 神に抗っているんだろう? ならばそいつを消したいと思うはずだ。違うか?」
「その通りだ。」
「ならばどうして俺達を捕まえようとする? 裁くというが、それはすなわち殺すということだろう? そうしてしまっては元も子も無いはずだ。それとも、お前らには俺達の証言や、技術が無くとも、自分達で問題を解決出来るという自信があるのか?」
男は黙って、銃口を床に向けた。話を聞く態度を示しているという証拠だ。
「なら取引をしよう。俺達はこの状況を飲み込めていない。さっきまでカップ麺にお湯を注いでいたからな。この世界の事など、こちらの質問に答えて貰う代わりに俺達はお前達に協力しよう。どうだ? いい話だろう。」
全身から汗が噴出すのを感じた。体の穴という穴から汗が噴出し、気分が悪い。極度の緊張感がこの部屋を包んでいた。
「それは、お前らにとって、いい話、なんじゃないのか」
「ああ、その通りだ。俺らにとって好都合な話だ。しかし、それを呑むことはお前らにとっても利があることだと俺は思う」
とまあこういう事を言っては見るのだが、未だに全く事態が飲み込めない。
この世界について知りたいと言ったが、この世界が俺達の知る世界ならばその必要は無いのだ。しかし、この異常事態においてこの世界が俺達の居た世界とは考えられん。SFチックな事を言っているのは理解している。いかに理論上はパラレルワールドや世界線移動を認めていると言えど、それが実際起こるとは考えにくい。だからこれがただの白昼夢なのかどうか、それを確かめたいのだ。
「……いいだろう。何が聞きたい」
男は他の男たちに合図した。途端に男達は銃をしまい込み、外へ出た。京は安堵し、一瞬だけ表情が柔らかくなったが、冷静を装って言葉を続ける。
「この世界の情勢についてだ。世界はどうなっている?」
「おかしな質問だが……まあ、いいだろう。教えてやる。世界は今CERNによるディストピアになっている。CERNは神と呼ばれたGシステムという物により世界を簡単に支配した。驚くべきことにそいつは森羅万象を操る力を持っていてな、紛れも無い神だとそう人々は思って反抗するのをやめた。そして2週間前、Gシステムは自らの生みの親の存在と正体を全世界に発表した。それがお前達だ。だから俺はここに居る」
「ちょっと待て、ディストピアだと? 何だその陰謀論は。突拍子が無さ過ぎていまいちついていけん」
「まったく、おかしなことを言う奴だ。もう何年も前から、世界はCERNに支配されているというのに。お前らはまるで知らないように話すんだからなあ」
「それに何だそのGシステムというのは、それは紛れもないあの神なのか? いいやしかし、あれはただのデータベースだったはずだ! それが世界を支配するなど……これは一体どんなトリックだ、くそ」
京は必死になって情報を整理していた。明らかに自分達がいた世界とは状況が異なる。ディストピアにはなっていなかった。そんな陰謀論みたいなことが現実に起こっているなんてこれは夢か。そう思った。しかし、この現実感。夢じゃないんだろう。天気は曇りで、雨は降っていない。
「なるほど。ありがとう。とりあえず俺は現状を整理したい。愛月と話し合いをしてもいいか?」
「構わない」
京は愛月を立ち上がらせ、ソファに座らせた。そしてホワイトボードに文字を書き連ねる。
世界が違う。雨から曇り。平和からディストピア。Gシステム。反政府組織。CERN。これらの言葉をパズルのように頭の中で組み合わせ、仮説を練る。
しかし、パズルのピースは上手く京の頭の中で噛み合ってはくれなかった。必ずどこかに無理が生じるのだ。京は混乱していた、頭のどこかに冷静な自分が居る事は確かだったが、それでも、混乱の方が勝っているのだ。それは愛月とて同じこと。二人して、冷静と混乱の入り混じる思考の海へと身を投じ、絵柄が揃わないパズルをしているのだ。
「愛月」
呼びかけには応じない。
「おい愛月!」
京は愛月の肩を強く叩いた。虚ろだった目に生気が戻る。
「え、あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたの」
「で、答えは出たのか?」
「いいえ、答えは出ないわ。こんな無茶な話に正確で確信的な答えなんて出るわけないじゃない、京ちゃんだってそうでしょ?」
「ああ、そうだ。ちょっと現実味が無さ過ぎるな。頭の何処かでは、この状況を呑みこみ、冷静に、世界戦移動が起きたんだ、と言っている自分が居る。だが、その自分を受け入れることがどうやってもできない。いくら考えてもおかしすぎる」
「日常から一気に非日常の世界へと誘われたアリスの気持ちが分かるわ。私は今さっきまで確かにカップ麺にお湯を注いでいた。京ちゃんは、出来たばかりの神データベースを試運転しようとしていた」
「ああ、確かにそうだ。それは極めて日常的行為だ。非日常など全く……」
「どうしたの?」
非日常など全く無かった。そう言おうとした途端、京の脳内に記憶が蘇る。しばらく忘れていたこと、あまりに衝撃的なことが起き過ぎて記憶のどこか隅の方に飛ばされていた衝撃的なこと。
「どうして今まで忘れていたんだ……あんな衝撃的な事が起きたのに」
「え、何? 何なの?」
「お前、あの神に妙な機能を付けなかったか?」
「失礼ね、必要最低限の機能しか付けてないわよ」
「だよな、だとしたらおかしいことがあったんだ。俺があいつを起動した瞬間、あいつは確かに、言葉を発したんだ。俺達にも聞き取れるようなはっきりとした言葉を」
「言葉? そんなはずは無いわ。音声データなんて与えていないし、それに起動と同時に喋る機能なんて付けてないもの」
「だろうな、愛月がそんな機能を付けるわけがないんだ。だが、確かに言葉を発した。そしてあいつはこう言ったんだ。これが運命だというのなら、我はそんなものは認めん、認めんぞ。と」
「え……?」
「そしてその直後だ、ああそういえば直後だったよ! 目眩がしたのは」
「ということは……」
「神が原因になっていると考えるのが自然だな」
「でも分からない事が多すぎるわ。喋った事といい、どうして神のデータベースなんかが世界線を変えるきっかけとなり得たのか、それが謎すぎ」
「……」
空人は唖然としていた、二人の会話はまるで違う世界から連れてこられた住人の会話の様だったからだ。借りて来た猫、というには大人しさが足りないが、何処かの世界から借りてこられた人のようで、空人にはまるで理解が出来なかったのだ。
「データベース、とは一体どういうことだ? あいつは紛れも無く、神の力を行使出来る存在だ」
堪らず声を出す。
「いや、あいつは確かにデータベースなんだ。そうだったはずなんだ。俺達はただ、研究の息抜きにあらゆる神様の情報を集めたデータベースを作っただけだ。そう、単なる学生のお遊びだ」
「しかし確かな力を持っている!」
「そのようね。どういう訳か、力と自我を持ってしまい、世界戦を変えてしまった」
「世界線が変わったということは、過去が変えられたのか」
「恐らく自分の都合の良い世界にしようとしたのよ、その結果がこの世界。つまりディストピア」
「なるほど、少しずつ状況が分かってきたぞ。しかし、どうしてデータベースなんかが自我を持った?」
「そうね、そこが問題なのよね。CERNの声明には確か……第五項に、記憶は肉体に宿り、記憶を宿した肉体は自我を持つ、と書いてあったけれど」
「良くそんなもの覚えているな……いや待て、お前、それだ、それだよ! 何無意識にドンピシャなことを思い出しているんだよお前は天才か」
「え? あ……そういうこと」
「つまり、奴に仮想の肉体を与えたのが原因なんだ。VR上に与えた肉体と、神の伝説や情報、それが引き金となって奴は自我を持った」
「伝説だって、立派な記憶と呼べるものね」
「奴にはありとあらゆる神のデータ――記憶を与えた。すなわちその神が持つ力を行使できる、そう考えるのが自然だ。ということはだ……例えば時間を司る神クロノスの力で過去へ遡り、歴史を変え世界線を変動させることも可能だ。これでこの状況に説明が付く。仮説だが、他に考えようがない」
「まあそうね。非常にファンタジーな話ではあるけれど」
愛月は納得したように頷いた。京は疲れたようにソファに座り、机に置いてあるカップ麺を持って再び立ち上がった。
「何をするつもりだ?」
「飯くらい食わせろ」
「……あぁ、すまない」
「これで大体の状況把握は出来たわね。一気に頭が冷静になってきたわ、分かってしまえば何も怖くは無いものだね」
京は流し台の傍に置いてあるポットからお湯を注いだ。そしてもう二つ同じカップ麺を取り出しそれらにもお湯を注いだ。
「お前らも食え。腹が減っては戦も出来ん。とりあえず状況把握は済んだ。お前には訳の分からない話だったかもしれないが……」
「え……ああ、すまない。頂こう」
カップ麺にお皿で蓋をし、再びソファに座る。
いつの間にか雨は止んでいた。状況が把握できたことにより、二人は落ち着きを取り戻していた。逆に今度は男が困惑している。眉間に皺を寄せ、口を開けたまま呆けている。
「そういえば貴方の名前とか聞いてなかったわね」
「……え? あぁ、そうだな。俺の名前は岡田空人。反政府組織のリーダーをやっている。えっと、よろしく?」
「よろしく、空人。俺らはもう敵じゃない。俺達もこの状況は不本意だ。共に戦おう。」
京は先ほどまで自分たちに銃口を向けていた空人に手を差し伸べる。空人は困惑する。どうしていいか分からず視線を逸らした。何故この人は自分に銃口を向け、脅した相手に握手を求めることが出来るのか、はたまた何故このような善人があんな邪神を作り上げるに至ったのかが分からなかった。
「……」
手を伸ばしかけては戻す。何度も繰り返す。しかし同時に、この手を取らなければ……この善人の好意に報いなければ自分はとんでもない悪人になってしまう気がして、空人は徐に懐から銃を取り出し、分解した。そして再び手を伸ばし、その善人の手を掴んだ。
「よろしく」
「ああ、よろしく。共に戦おう」
「あ、ああ!」
カップ麺を平らげ、三人は再び議論をする。議題はどうやってこの世界をCERNの支配から解放するのかという事に至る。空は既に晴れていた。三人は活気に満ち、まるで支配など最初から無かったかのような躍動感が室内を満たしていた。夕方にも関わらず電気の点いていない室内は何故か明るい。
「やはり世界を解放するには神の存在を消すしか無いのではないだろうか。あれを統治の要にしているのだろう? 要であり、恐怖の対象が消えれば 人々の心には再び反抗の火種が植え付けられ、CERNと言えど抑えきれないだろう」
「それには賛成だ。奴がいる限り人々は恐怖に萎縮したまま死を待つのみ。神の力には適わないが科学者相手なら政権も国家も奪い返せる」
空人が自信有り気に言った。
「お、やはり武装組織のリーダーだな。頼もしい事だ」
「でもどうやって消すの? CERNの手に渡っている今、接触は極めて困難よ。えげつなあいくらいのセキュリティでがんじがらめにされているでしょうし」
その通りだった。京や空人は神を消せばいいと簡単に言ったがそれは口で言うから簡単なことのように思えるだけであり、実際は困難極まりないことだった。
「お前でも突破できないセキュリティか?」
「見なけりゃわからないけど、世界で一番の研究機関よ? そんな機関が設けたセキュリティを、一介の大学生がどうこう出来ると思う?」
「そりゃそうだな。それが出来れば国家から雇われて他国の機密情報を抜き取れとか言われていたかもしれないな」
「うん、そうよ」
「他に何か無いもんか。CERNにハッキングをかけなくても良い方法は」
「人をもっと集めて、武装して直接マンハッタンに――」
「いかにも体育会系な発想ね。仮に人を集めたとして、世界を支配しているような組織の中枢に、軍隊が居ないわけ無いわ。一般人が、訓練された軍隊に勝てると思う? 仮に、仮に勝てたとしても、物凄い数の人が死ぬよ、ばったばったとね」
「それぐらいの犠牲を払わなければ、もともと成し得ない事だと思うが」
「にしても、払うリスクが大きい割に成功する確率が低いわ。もっと高い確率が見込めるのなら、私だってその案を押さざるを得なくなるけれど」
沈黙。答えが出ない議論。たとえ答えが出たとしてもそれは確証のない仮説であり、かもしれないという可能性の話だ。ホワイトボードには、三人の苦心の過程が記されている。
「あーもう! 駄目だ駄目だ、一旦休憩にしよう。このままだらだらと考えていても何にも出てきそうにないしな、脳をリフレッシュしないと」
「そうね、結局何にも案は出ないのだし」
「よし、俺は夕飯を買いに行く。そろそろ飯の準備をしないといけない時間だしな」
「それなら僕も行きます、監視の意味合いも込めて」
室内には愛月だけが残された。愛月はA―phoneを取り出す。メール受信。
京が夕飯のメニューの希望でも聞いてきたのだろう。それならケバブがいいなとそう思ってメールボックスを開く。
しかし表示されたアドレスは知らないものであった。一体誰だろう。迷惑メールか、あるいはスパムメールか。疑問に思い恐る恐るメールを開く。
――世界の糸からは逃れられない。
世界の糸、何を言っているんだこの人は。なんだか気分が悪い。気分転換するつもりが逆に気分が悪くなった。
仕方がないのでそのままインターネットに繋ぐ。某検索サイトのニュースのエンタメ情報欄にある文字が浮かぶ。“ジョン・タイターが世界を変えた。真実か妄想か”興味を引かれる記事であったが、これを読むとまた考え込んでしまい、余計に疲れそうなのでそのページを開くのはよした。
そして娯楽を求める為に日本の某巨大掲示板にアクセスする。そこにはディストピアとなっても変わらない阿呆らしさと不健全さがあった。それに安堵しつつ馬鹿な連中の馬鹿げた戯言を閲覧していた。
――この前のニュース見た?
――ああ、アニメ等の娯楽の再開だってよ。
――キター! 俺達の時代カムバック!
――これはお祭り騒ぎをしなけりゃならんな!
――おい朗報をもたらした1に誰かお茶を淹れてやれ!
――お茶どぞー。って、朗報をもたらしたのは1じゃなくてニュースキャスターだろ!
本当に阿呆らしい。ていうか、アニメまで規制されていたのね。まあ、元の世界でも結構危なかったけどね、アニメの存続。
京達が夕飯であるケバブサンドを抱えて入ってくる。何故ケバブなのか、と愛月は問うが二人曰く「安かったから」らしい。ちょっと落胆しつつ、愛月はケバブサンドを一つ手に取り、口へと運ぶ。
「ねえ、何で七人分なの? 三人しかいないのだから、六人分で良くない?」
「いや僕は一人で二人分ということ自体に疑問を感じますけどね」
「いやあ、なんとなく買いすぎちゃってさ。この世界、食までは規制されてないんだな」
「アニメは規制されてるらしいわよ、まあ再開するらしいのだけれど」
「まじか! それは良かった、アニメが無いんじゃあなあ。秋葉が困るだろう」
三人はケバブサンド7人分を平らげ、満足気な表情を浮かべる。結局余りの一つはじゃんけんにより、愛月が食べる事になった。時計の長針は九の数字を刺していた。
「あ」
ケバブサンドの残骸を片付けている最中、空人が何かを思いついたように声を上げた。
「ん、どうした」
ゴミをまとめながら空人は京から視線を逸らす。
「いやちょっと思いついたんだが、あまりに馬鹿馬鹿しく現実味がない事なんだ」
「言ってみろ」
視線を逸らしたまま気まずそうに空人は自分の思いついた事を述べる。
「科学者にこんなことを話すのもな……今奴を消すことができないのなら、過去で消せばいいとそう思ったんだ」
京と愛月は唖然として固まってしまう。それは科学者では到底思いつくはずの無いこと。そう、空人はただの少し頭がいい人間でしかない。科学的に物事を考える頭などは持ち合わせていない。だからこその発想。二人は否定する、そう思った。しかし京と愛月はその言葉に懐かしさを感じながら目を輝かせた。
「その発想は無かったな……詳しく聞かせてくれ」
空人は一呼吸置いて話す。
「過去で奴の存在を消す。そうすれば奴のディストピアは生まれなかったということになり、現在が変わる。現在消すとなると、そこから先の未来はどうなるか分からない。ディストピアのままかもしれないだろう? だったら過去を変えた方が早いのかなと思ってな。……いやいい、忘れてくれ」
愛月は眉間に皺を寄せ、洗いかけのコップを置いて室内をウロウロして考え込む。京はそんな愛月を眺めながら自身も空人の言葉を反復し、自らの意見を構築する。室内を心地良い静けさが包み込む。空人は居心地悪そうにソファに座って貧乏ゆすりをしながら視線をあちらこちらと迷わせている。 沈黙を最初に破ったのは愛月だった。
「可能かもしれないわ」
「えっ?」
空人は驚愕した。受け入れられないだろうという仮定の下で話した事が受け入れられ、戸惑いと驚きを隠せない。しかも時間跳躍という夢物語を前提とした理論を科学者である愛月が認めたのだ。
「いやね、私達の今までの話を総合して考えてみたの」
「説明してくれ」
愛月はホワイトボードに文字を書きながら話す。
「京ちゃん、私達は今日の午後一時過ぎに奴を完成させたのよね。前の世界線での話しだけれど」
「あぁ、間違いない」
「そして世界線が移動し、今の世界に至るのだけれど。今の世界はいつごろから支配されているのかしら」
「20年くらい前からだ。俺が生まれた時には既にディストピアだった」
空人が慌てて答える。京は納得したという表情で頷いた。そして興奮を抑え切れなかった。
「なるほどそう言うことか! それなら可能かもしれない、あるいは……」
空人はさっきまでの京達のように、二人の言うことを全く理解できなかった。
首を傾げていると何故か京が得意げに説明する。
「説明しよう。俺達は前の世界線で今日の午後1時過ぎに奴を完成させた。しかしこの世界では少なくとも20年前から奴が存在する。これが意味することはつまり……俺らが最初に言ったことと繋がる。ほら言っただろう? 奴がクロノスの力を使い過去に行ったならば容易に世界を変えられると。奴は本当にそうしたんだろう。だとしたら俺達がそれを利用すればいいんじゃないか?」
愛月は何度も頷く。空人も理解したようでその手があったかと指を鳴らした。
「利用するといっても奴をそのまま利用するのは無理な話だ。CERNの手にあるのだからな。
だったら模倣すればいい」
「模倣?」
何故かここで愛月が問う。
「お前そこまで考えていたんじゃないのか?」
愛月は、目を逸らしてアハハと苦笑いして舌を出す。
「お前なあ……まぁいい。自我の発生条件は分かっている。だから今度はクロノスの記憶をちょこっとインプットしたタイムマシンをVW内に作ればいい。現実に作るとなるとマシンを作る時間が要るからな。VWがある時代にしか跳べないが、それも奴とて同じことだっただろう」
愛月が目を輝かせてなるほどと呟く。
京はホワイトボードに書き出し、疲れたのかソファに座ってお茶を飲む。空人は呆気に取られていた。冗談のはずで発言したことがこうも淡々と可決され、こうも淡々と話が進むとは思ってもみなかったのだ。
「今の案で何日かかりそうだ?」
「一日くらいで十分よ。簡単なアプリを作ればいいって話でしょ?」
「その通りだ。じゃぁ今日は休もう。明日の朝から作業開始だ」
「なんだか凄いですね、お二人とも」
「ん? 何がだ」
「お二人からすれば、奇怪で不可思議で、理不尽な状況なのに、その中に居ても自分達のペースを見失わず、楽しそうで」
まあ、確かにそうだな。俺達からすればこんな状況は理不尽以外の何物でもないのだ。でもまあ、こんな状況だからこそ楽しくしていないとやってられん。それに、科学者なのだから、理不尽とは言え、人間には観測することが出来ないと言われていた世界の変動を観測することが出来た。だから、当然だな。
「そうねえ、でも空人君だって凄いじゃない」
「え? どうしてですか?」
「こんな世界に居るのに、希望を見失わずにちゃんと戦っている。周りに合せて現状に納得して、それを放棄している人も多いというのに、よくやるわよ」
「そういうもんなんですかね」
「そういうもんよ」
「ほら、お前ら。明日も大変なんだから、さっさと寝るぞ」
三人が狭い室内で各々のスペースで睡眠をとる。皆寝顔は爽やかなものではなかった。寝ていながらも戦いに備えている戦士の顔。今夜はひどく冷えた。
以前見たような風景。完全な暗闇。何も見えない。動くことも出来ない。確かにこんな光景を以前見たことがあると、そう思った。しかしそれがいつだか思い出せない。とても現実味の無い風景。体から伸びる無数の線。いや、刺さっているのか。線は繊維のように集合している。無数の糸が纏められている紐のように。それらは絡まりあい、集合している。そんな様子をただ見ていた。するとどこからか聞き慣れた声が聞こえてくる。
「世界は糸。世界は束になり集合する。貴方はそれに気付かない。私も気付かない。科学者の罪を一身に背負い、追放されるの」
何を言っている。声が出ない。何を言っているんだお前は。意味が分からない。気味が悪い。問い詰めたいが声が出ない。
「世界は糸。忘れないで紐は糸の集合体。忘れないで」
無数の線が体から離れていく。線が全て離れた時、体は自由となり、不自由となる。景色が変わる。眩暈と共に周りの景色が崩れ去り常識が非常識へ、非常識が常識へと移り変わる。目の前に現れたのは死に行く自分と人々を従える自分。景色が変わる。暗闇。景色が変わる。変わる、変わる景色が変わる。変わる、変わる、記憶が変わる。変わる、変わる、体が変わる。変わる、変わる。
「起きろー!」
痛い。痛覚と共に目が覚める。意識はすぐには覚醒せず体だけが目覚める。
目の前には幼馴染と空人の姿。先ほどまでの光景が夢であったという安堵感が京を満たす。
「ああ、おはよう」
立ち上がり大きく伸びと欠伸をし、愛月から手渡されたコーヒーを飲む。徐々に意識が覚醒してくる。
カフェインの力は偉大だな、眠気覚ましとリフレッシュにはぴったりだ。
「すぐ起きないなんて珍しいわね」
「……ちょっと疲れていただけだ」
「そうか……そうね。私もよ」
朝から不気味な夢を見てしまったもんだ。まあ、そう言う事もあるのだろう。何せこの状況だ。そう思い、あまり重要視しなかった。京は夢の働きを、作用を理解せずにただあの悪夢を思い出したくなくて思考を放棄し、気を取り直そうと本題に入る。
「さて、作業を開始しよう。俺達にはあまり猶予はない。反政府活動をしているのだからな。愛月はタイムマシンアプリを作ってくれ。俺はこの世界の情報を集めに外へ行く。何かあったらメールなり電話なりしてくれ。空人は愛月と一緒にいてやってくれ。もしも何者かに襲撃にあったときは守れよ」
空人は頷き、親指を立てて言う。
「任せろ。だが念のためお前も銃を所持しておけ」
空人は京に懐に入れてある銃を手渡す。
「安全装置を外せばすぐ撃てるようになっている。当てるのは難しいが、出来るだけ腕や足を狙うようにしてくれ」
まさか俺が本物の銃を握る事になるとは思わなかったよ。日本には徴兵制度も無いし、アメリカの射撃場にでも行かない限り、一生縁が無いと思っていた。無い方がいいのだが。
銃は意外と重い。
「了解。じゃぁ、行って来る」
「気をつけてね、京ちゃん!」
「あぁ。お前もな。ああ、あと俺が居ない間に食べ過ぎるんじゃねーぞ、お前は人の目を盗んで何かしら食べる癖があるからな」
「そんなことしないわよ!」
京は研究室を出た。情報を集めると言ったがどうしたものか。正直分からなかった。まず自分が居た世界とは勝手が違う。それは渡された拳銃が語っている。空を仰ぐ。天気は晴れだか曇りだか分からない。ハッキリしない嫌な天気だ。ここにこうしてずっと立っていても仕方が無い。
そう思い、でたらめに歩いた。
そして無意識に立っていたその場所は情報局と彼らが呼んでいる場所であり、友人の研究所だった。しかしこの世界でもそうなのか、分からない。危険なのではないだろうか。そう思いもした。同時に友人は友人であってくれ、そう願った。敵対していないことを願い、呼び鈴を鳴らす。
「はい、どちら様で……ってお前、何やってるんだよ!」
「よう久し――」
「ようじゃねえよ、待ってろ、すぐ開けるから!」
やはり友人は友人であった。自分が知っている友人と同じ声に同じ口調、それにとてつもない安心感を覚える。元居た世界線では彼は情報通であった。優秀な科学者ではなかったが。
いつもガラクタばかり製造していたなと懐かしく思っている内にドアが開いた。
「入れ、話はそれからだ」
「ああ、すまないな」
そう言われ、ラボに入る。そこにはラボメンが相変わらず混沌とした空間を築き上げていることを期待したが……彼一人だった。
「他のメンバーはどうした」
黙り込む。俯いて表情には影が落ちる。暫く黙っていたがやがて重たい口を開いた。
「……死んだよ、みんな。いや、違うな。殺されたのか」
呆気に取られた。あいつらが死んだ? 冗談だろ。あんな死にそうに無い連中が。そう思ってすぐには信じられなかった。しかし彼の表情が今しがた彼が述べたことは全て真実であると物語っていたし京はそれを信じて疑わなかった。
「そうか…。無神経だったな。すまない」
「いいんだ。てかお前それよりどうしたんだよ、世界中大騒ぎだぞ!」
「ああ、そのことなんだがな。」
京は事情の一切を打ち明けた。それは危険な行為でもあった。恐らくあいつらは俺の作り上げた神の所為で殺されたのだろう。そう思っていたし、恐らくそれは事実なのだという確信があったからだ。打ち明ければ仇として憎まれ、今ここで殺されるかもしれない。たとえそうなっても文句は言えないし、むしろそれが当然で自然というものだ。しかし自分の置かれた状況を自分から話すほうがいいと判断した。
神を作ったことは事実だが、世界線が移動したことや奴を消そうとしていることや情報が必要なことを話す。彼はただただ黙って頷きながら聞いていた。そして全てを話し終わった時、彼の顔は科学者のそれになっていた。
「なるほどな。状況は分かった。信じよう、親友のお前が言うんだからな。協力しようじゃないか。奴を消せば平和な世界に戻るんだよな、だったら協力しよう」
「ありがとう、感謝するよ」
ホッと胸を撫でおろす。恨みはあるだろうが殺されずに済み、自分の話を信じてくれたことに感謝した。
「俺らの間にそんな堅い事は言いっ子なしだろ? 俺らは親友と書いてソウルメイトと呼ぶ仲ではないか」
「違う世界でも厨二病は変わらないんだな」
彼は笑った。
「当たり前だ。俺は俺である。それ以上でもそれ以下でもない。そういえば何かを忘れているぞ、合言葉だ」
「……ヤー・ソルセッラ」
「うむ、よろしい」
どこの言語でもない造語。特に意味は無く、言葉のリズムや雰囲気が良いから使っているのだ。世界戦は違えども確かに変わらないものがここにはあった。
「ところで、どんな情報が欲しいんだ」
京はこの世界に来て疑問に思っていることを矢継ぎ早に投げかける。
「この世界では科学技術はどうなっている? CERNが掌握しているのか?」
彼はモニターを見つめ、難しい顔をしている。モニターの中にはおびただしい数のファイルがあり、恐らくそこにあらゆる情報を保存しているのだろう。そして彼はそこに保存してある情報の中から関連するものを選ぶ。やがて彼はそれを見つけ出し、口角を吊り上げた。
「一部――まあロボット工学や通信技術、量子力学の類はCERNが独占しているみたいだ。一般に出回っているものは全てCERNが作り、管理されたものだけだ。全てCERNのマークが刻印されている」
まったく、恐ろしく貪欲な奴らだ。人民だけではなく、科学技術までをも支配してしまうとは。それでは民間の科学者は生まれ得ないじゃないか。
「CERNはそこまで徹底しているのか」
「ああ、そうだ。奴らは産業までも支配している、完璧な統治だよ」
「じゃあこのパソコンもそうなのか」
「ああ、このパソコンどころかこの部屋にある物全部CERN製だよ。皮肉なことに、以前より質が上がっているんだ。どの製品もな」
「そんな部屋で過ごしていてよく気がもつな」
「……ああ、もつわけがない」
「そりゃそうだろうな、仇の作った物に囲まれて、それを使わざるを得ない生活なんて、耐えられるものではないだろう」
「それより、まだ聞きたいことがあるんじゃないのか?」
「ああ、そうだった。もう一つ。CERNは何故こんなにも大規模になり、世界を支配するに至った? 神だけの力ではあるまい」
再び彼はモニターを見つめ、質問に応じた回答を見つけ出す。
「ほとんどが神の力の所為だが、ジョン・タイターって奴も関与しているみたいだ。ある掲示板に突如として現れた自称タイムトラベラー。まだ神のいない時代に現れたんだと」
ジョン・タイター。京が居た世界ではいなかった存在。京はその存在に妙な違和感を感じていた。同時にタイムトラベラーという単語に強く心を惹かれた。
「まだある。科学活動をすれば…どうなる?」
これは特に聞いておきたかった。科学技術を独占し、支配しているCERNが民間の科学活動を許すわけがない。彼は顔に大きな影を落とし、黙り込んでしまった。京は全てを察し、謝罪しようとした。
しかし、彼は顔を上げ、質問に答えた。
「科学活動がCERNに勘付かれれば――粛清される」
ゾクリとした。全身を得体の知れないものが這いずり回る感覚。やがてそれは心をも侵食していく。自らもCERNに気付かれれば――殺される。かつてのソ連やナチスが行ったような非人道的な粛清。それが行われているということを知り、とても背筋が寒くなる。
「粛清……?」
「CERNは技術独占のため、民間人の一切の科学活動を禁止しているんだ。最近では、学校で科学は教わらないようになった。関連したもの一切だ。関連書籍の収集も現在行っている」
「科学者は自分達だけで十分だと言う事か」
「そういうことなんだろうよ、まったく腹の立つ話だ」
語り終えた彼はぐっと閉口し、拳を強く握った。自分の手の肉が剥ぎ落とされそうなほどに爪が食い込む。しかし痛みは感じなかった。彼の手にあるのは物理的な痛みではなかった。全てを聞き終えた京は涙を流していた。自分でも気付かないほどの小さな一滴。そこに科学的動機はなく、あるのは使命感と罪悪感だけ。
「ありがとう、すまなかったな……もう何も話さなくてもいい。この世界のことは――」
「なぁ、時城」
彼が突然口を開く。虚ろだった瞳は黒く燃え上がっていた。
「きっと世界を――」
「きっと世界を変える。前の世界線のような平和な世界に変えてやる。みんなで笑い合える明るかった世界に。そのために俺はCERNの目を欺き、世界に…神にさえも抗ってみせる。だから……安心しろ」
「……ありがとう」
「それはこっちの台詞だ。情報、ありがとうな。」
「ユアウェルカムだ、親友だろ? 礼なんていらん」
「はは、そうだな。しかしそれはお前もそうだろう?」
「ああ、そうだった。そうだったよ」
2045年 8月5日 午前10時頃。京が情報集めをしている間に研究所内ではタイムマシンアプリの製作が進められていた。
「クロノスシステムはもうほとんど完成! でもまだ不安定だから、安定させないと」
画面上に現れた人型のCG。それがクロノスシステムである。しかし、まだタイムマシンとしては使える状態にはない。
「凄い。もうここまで……」
それでも空人は驚いていた。ほんの短時間で夢物語が現実になりつつあることに。
「だってシステム自体は割とすぐ作れちゃうから。大変なのはここからよ?」
「そうなんですか」
「そうなの。だってこの子今状態がすごく不安定でねー、すぐ消えちゃいそうになるのよ。全く、これだからヴァーチャルの存在って脆いのよねー」
空人は何度も頷きながらソファーに戻ってため息を付く。何もすることがなくて気まずくなって息が詰まる。科学やコンピュータのことなんて一切分からない。かといってここから離れるわけにはいかない。
「何か手伝うことはありますか?」
「んー、特にないわね。そこに座ってて頂戴。何かあったら私気がつくがどうかわからないから、よろしくー」
即答。いつの間にか空人は愛月に対しては敬語になっていた。愛月はただ画面を見つめ、キーボードを打っていた。時には考え込み作業が停滞することもあったが順調に作業は進み、ついに半分ほど完成した。
しかしそこで作業は大きく停滞し、愛月は気分を変えるためにコーヒーを淹れる。
「そういえば……」
「ん、どうしたの?」
「いえ。愛月さんと京さんってどういう関係なのかなと思いまして」
空人が退屈しのぎに話を振る。
「んー。どういう関係、かぁ。同じ研究所の仲間よ」
「それだけ?」
「あとは幼馴染っていう関係かしらねー。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「幼馴染なんですか。てっきり恋人かと」
「へ? あー、いやー、ないない! あいつと恋人とか絶対お断りよ!」
断固拒否。しかしその顔には若干の微笑みと恥じらいがあった。
「いやでもお似合いで夫婦かと思いましたよ実際」
愛月はコーヒーを噴出しそうになる。
夫婦とかありえないわ。あんなのと夫婦だったら大変だろうな。
「それは無いわね残念ながら。私と京ちゃんはただ昔から仲良くてね。よく二人でお風呂に入ったり、寝たりしたものよ。ずっと一緒だった。でもね――」
愛月はそこまで言いかけて少し言葉に詰まる。私は何を語っているんだろう、そう思ったが、語り始めたからには空人は気になっているだろう。ひょっとしたら気になって気になって眠れないかもしれない。
「京ちゃんがある日居なくなったの。それも1年半くらい。でも本人はその時のことを何にも覚えてないらしくてね。その時のことが未だに私の中でひっかかってるの。きっと覚えていて、隠しているだけなんじゃないかって。何か重大な事件があったんじゃないかって……ごめんなさい、こんな話して」
「いえ、大丈夫です。僕が聞いたんですから」
愛月は話し終えてふと我に返りコーヒーを飲む。苦い。
愛月は立ち上がり、再び画面の前へ向かった。
「やっぱりこの椅子が一番落ち着くわ」
「いつもそこに座ってるんですか?」
「まぁね。実験したり、何かを作ってる時は大抵ここね」
空人はお茶を飲み、質問を繰り返す。
「実験とか好きなんですか?」
「そりゃぁもう大好きよ。実験嫌いな科学者なんて居ないわ、ていうか居てたまるもんですか!」まぁ実験より何か作ってる方が多いんだけどね、とは言わない。科学者として。
コーヒーを飲み干し、流し台にマグカップを置いてまた椅子に座り、画面に向かう。
「あ、洗っておきます」
「うん、ありがとう」
空人は流し台に向かい、マグカップを洗う。愛月は再び作業を開始する。
そのまましばらく静かな時間が流れた。空人は思わず居眠りをしそうになったが、愛月を守ると言う役目があるので、なんとか持ちこたえる。
そしてまたしばらくして、愛月がマウスを強くパソコン机に叩きつけた。
「もう! いい加減に私になびきなさいよ! 何がいけないの? 私のプログラムの、何が!」
「ちょ、ちょちょ! 愛月さん落ち着いて!」
「これが落ち着いていられるもんですか! いいえ、いられないわ!」
「なんで反語なんですか、もうどうしたんです?」
愛月は叩きつけたマウスを優しくさすり、ごめんなさいねと一言つぶやいてから咳払いをして姿勢を正す。
「いやあー、もうね反抗期よこの子。システムの構築は済んで、擬似的な体を与えてみたのだけれど、うんともすんとも言ってくれないのよ。VWにアクセスしてなくても、パソコンの画面から喋ったりしてくれる設定なんだけど」
愛月は「おーい」と何度も呼びかける。傍から見れば頭がおかしいただの痛い子だ。
「うるさいよ! もう、寝てたんだから何度も何度も話しかけないでよ。僕は眠たいんだ」
「喋った! ほら、空人君! 喋ったわよ!」
これには空人も感動を隠しきれない。「おお、喋った、おお」と何度も何度も同じ言葉を々繰り返し呟いている。
驚いたな、本当にシステムが自我を持つなんて。驚き桃の木山椒の木だ。それよりも驚きなのが、この人の技量だ。こんな技術があれば、前居た世界で、CERNの一員として働けたのではないだろうか。こんな貧乏な研究施設に居なくとも良かったのではないか。
「喋ったじゃないよ、そりゃ喋るさ。ていうか自分がプログラムしたんだろう」
「いやー、もうねーそれでもびっくりよ貴方」
「そうなのか? 僕にはどうも人間の価値基準はわからないね」
「でしょうね、神様だもんねー」
「すげえ、本当に喋った……! 何これ、マジック?」
「マジックとは失礼な! そこの科学者が僕を作ったんじゃないか、マジックでもなんでもないさ。これは紛れも無い現実だよ、種も仕掛けも何もありゃしない」
「感動だ……!」
「感動だ、なんて言葉にする人初めて見たわ」
「僕もだよ、普通は口にしないよね」
「……」
空人は、つい赤くなってしまった。
「で、君達は僕をどうしようと」
「力を借りるわよー、タイムマシンに応用したいの」
「へえ、タイムマシンに? 人間は面白い事をするねえ」
クロノスシステムは、画面の中で考え込む仕草をする。仮に与えられたヴァーチャルの体というのは、昔のロボットアニメに出てきそうな青と白を基調とした色遣いをした正義のロボットのようなものだった。
「そうよ、ちょっといけない事しちゃった神様がいてね、その子を止めるためにねー」
「へえ、それは随分と面白そうな話だね。いいよ、力を貸してあげるよ。ただし、プログラミング中は僕は寝るからね!」
「どうして?」
「くすぐったいんだよ」
ヴァーチャルの存在である神様にもくすぐったいという感覚はあるのね、これはもっと詳しく研究したいわね。でも、その時間は無いか。
愛月はクロノスシステムを一旦眠らせ、プログラミング作業を再開した。今度はタイムマシンのシステムを構築するのだ。VW内でどのようにクロノスシステムを使うか、その案は愛月の中に確かにあった。
見た目がロボットなんだから、中に乗れるようにしないと面白くないわねー。そうじゃないと京ちゃんも納得しないし、それならクロノスちゃんを完全にロボットにしちゃって、中に操縦するための制御システムなんかつけちゃって。ロボットとしても使えるようにしたら面白いかも。時間移動だけでなく、空間移動も出来るようにね。
そしてそれからまた数十分が経った。クロノスの搭乗口を作ってまた一旦作業を中断。冷蔵庫に入っていたプリンを食べる。
「あまり食べ過ぎないように言われてませんでしたっけ」
「少しならいいのよ。あまり食べ過ぎるなというのはそういうことよ」
「都合よく解釈しすぎなような――」
「そんなことはないわ! 私はいつだって合理的よ、京ちゃんがどういう意味合いで言ったのか、それを長年の経験で推測したのよ。どうよこの素晴らしい推察」
プリンをとても美味しそうに、大切そうに食べる愛月の顔はまさに幸せな顔だった。疲れている体や脳にプリンの程良い甘みが効いているのだろう。
「それにしても、クロノスちゃんって意外と好意的なのね。あと、ちょっとショタっぽい」
「まあそうですねえ、もっと高圧的なのかと思ってましたよ。ていうかクロノスちゃんって」
「あれで神様だっていうんだからびっくりよね、普通の友達みたいだったわ」
「ちょっと、誰がショタっぽいって?」
「貴方よ、ていうか起きてたの?」
「プログラミングが中断されたみたいだったからね、僕も寝てばかりいては不健康だと思ってねえ」
「貴方に健康も何も無いでしょう?」
「そういえばそうだったね」
愛月はプリンを食べ終え、スプーンを流し台に漬けてプリンカップを三角コーナーに捨てる。
「神様ってどいつもこいつもこんなんなのか?」
「こんなんとは失礼だね人間、僕達の人格なんて、昔から変わらないけれど、皆まともなものだよ、勿論僕も含めてね」
「神様って皆人間臭いのね」
「だって元々は人間だったりするしね、ていうか人間が創り出したんじゃないか」
「人間が創り出した、ねえ。まあそうとも言えるわね」
愛月はまたいつもの椅子に座り、作業を再開しようとする。
「じゃあ、またプログラミングするから、眠ってて頂戴」
「はーい、おやすみなさーい」
その頃京は奇妙な事態に直面していた。それは昨日から今までを通してずっとそうだったのだが、一際奇妙な事態なのだ。
数回受信した奇妙なメール、それが長文となってまた京のA―phoneに届いていた。それは、遠回しとは言え、友人を愚弄するものであり、自分達の友情を否定するものであった。
――気をつけろ、さっきのは罠だ。この世界は恐ろしく無秩序で人々の心は汚く濁っている。誰も白い心などを持っておらず、皆灰色か黒色をしている。この世界は理不尽だ。無数の糸が絡まり合っている所為で、小さな事柄が大きな変化を呼ぶ。繰り返す、この世界は理不尽で、無秩序だ。それを忘れるな。糸はお前の体に刺さっているぞ。
訳が分からない。何なんだこのメールは、一体このアドレスは誰なんだ。悪戯メールだとしても趣味が悪い。さっきまで俺が何をしていたか、それを全て理解している様な口ぶり。そして、俺達が置かれている状況も。世界の理でさえも熟知している様な言い草だ。神様にでもなったつもりでいるのか、こいつは。
まったく、阿呆らしいな。気にするだけ時間の無駄だ。
京はA―phoneをポケットに入れ、ふと、先ほど再開した友人との思い出を思い出す。
2042年8月20日の情報局。
そこで彼らは毎日のように騒いでいた。京がまだ愛月と研究室を立ち上げる前の事だ。京は愛月を連れて、友人達が開いた研究室へと毎日足を運んでいた。そこで、他愛も無い研究の話をし、世界情勢や、趣味の話などを語り合った。
皆で一緒に膨大な量の情報を漁って収集する事も多かった、故に情報局なのだ。
今も彼らはインターネットで情報を収集しながら大騒ぎしている。
「なあ時城! お前、いつになったら四季ちゃんと結婚するんだー?」
「ちょ、ば! お前、俺ら付き合ってもねーよ」
「そうよ、馬鹿なこと言わないでちょうだい! あり得ないわ」
「そこまで全力で否定されると傷つくんだけどな」
「ははっ。まあ、いいじゃないかいいじゃないか! なあ? 癒良りん?」
「誰が癒良りんじゃい! ていうかあたしさ、二人は付き合ってるものとばかり思ってたよ」
それぞれがパソコンの画面に向かいながら、視線を合わさずに盛り上がっている。話題は本当に他愛もないどうでもいいような事柄。まさに平和という言葉がぴったりと当てはまるこの時間、空間。それが京達には愛おしかった。
「もう……! あれだ、話題変えようぜ話題」
「そういえばさー、お前らってラボ設立したりしないのか? 技術もあるんだし、すればいいじゃないか」
「金がねーんだよ」
「金なら政府から援助金が出るだろう? それを使えばいいんだ。使えるもんは使っとかないと損だぞ」
「いや、活動資金じゃなくてな。研究所を借りるお金が無い」
「アパートの一室とか、ビルの一室とか借りれないのか」
「ああ、無理だ」
京は困ったようにため息を漏らす。
「設立出来るもんなら、愛月と二人で設立するし、俺もそうしたいんだがねー」
「そうなんだよねー、お金が足りないんだよね。私達のバイト代だけじゃあ、どうにもならなさそうだし」
「頭金さえあれば、作った物売ってなんとかなりそうか?」
「まあ、そうだな。頭金さえあればな」
京の親友である向井悟はこめかみを人差し指でこする。考えごとをしている時のくせだ。そうしてパソコンを操作し、画面を京に見せる。
「今俺達の資金はざっとこんなもんでな。頭金として、結構な金額を出してやれそうなんだ」
「まじか」
「まじだぞ。だから、これで設立しろよ。お前らの才能をこんなところで腐らせておくと、俺達の資金からこんな大きくも無い金額を差し引かれるよりも損害が出そうだからな」
京はしばらく考え込む。愛月はそれをただただ見守っている。決定は京に委ねられたのだ。
「ありがとう、お願いするよ」
そうして、二人のラボは設立された。
思い返してみれば、俺達はあいつに助けられてばっかりなんだなあ。ラボを設立した時もそうだが、それからしばらくの間もあいつにお金を出してもらっていたっけ。開発費とか、支援してもらったりな。頭が上がらない。
あいつが俺に罠なんか仕掛けるはずがないんだ。あのメールは無視しても差し支え無かろう。
京が研究所の扉を開けると、愛月が飛び出して来た。愛月に引っ張られ、何事かと思いながら室内へ入ると、パソコンの中には見慣れないロボットが一体居る。
愛月は大きく息を吸い込んだ。
「完成! これが、タイムマシンアプリ。その名も――」
大きく手を広げて高らかに宣言する。
「WG.TT2000ver1.26よ!」
高らかな宣言。それを聞いた空人はある疑問をを口にする。
「なんで1.26なんですか?」
「センス。それ以上でもそれ以下でもないわ」
センスなら仕方ない。きっと科学者にしか理解し得ない何かがあるのだろう。そう思うことにしてそれ以上は何も言及しないようにした。言及したところで、自分には理解できないことが分かっていたからだ。
そうか、完成させたのか。まったく、こいつは俺に出来ないことを平然とやってのけるな。そこにしびれる、憧れる。
愛月が作ったものだ、きっと完成度は凄く高いのだろう。安心して使えるな。
「ふむ。その名前……いいセンスだ」
「ちなみにこの子喋ります、自己紹介どうぞー!」
「僕はクロノスシステム。まあ、そう呼ばれているんだけどねこの二人からは。タイムマシンにされて、なんかこんなロボットになっちゃってさー、参ってるんだよもう。もっと可愛いイメージだと思うんだ僕って」
「え、神様ってこんなラフなのか? 俺はもっと厳格な感じかと思ってたわ……あ、そうそう俺も結構仕事したぞ。色々情報を仕入れてきたぞ」
「え、そんな一言で流していいの? 神様だよ? タイムマシンだよ? 人類史に残るかもしれない発明だよ?」
「一日で完成したものだし、愛月の発明だ。今更驚くこともなかろう」
京は、クロノスシステムに構わずに、この世界やCERNに関して知り得た情報を、京は一切省かずに丁寧に愛月に伝える。そうしてお互いの報告を終え、京が話を切り出す。
「では、作戦の詳細を決めて置かなくてはいけないな」
「そうね」
「まずはいつに跳ぶか、だ。奴が居そうな時間である必要がある」
三人そろって考え込む。これはいくら考えたって確実な答えは出ないことであり、愛月と京は苦い顔をした。そして愛月は一つの考えを述べる。
「2013年の4月13日なんかどうかしら。VWが誕生した年。跳べる範囲のギリギリよ。なんか居そうじゃない?」
愛月は眉をぴくぴくさせ、顔を引き攣らせながら言った。
「そうだな。確かに居そうだ」
「ということで2014年の4月13日でいいね」
京は頷き、愛月がパソコンに時間をメモする。実際に設定するのはVWでしか出来ない。つまり、京がマシンに乗ってから設定するのだ。
「よし、じゃぁ少し休憩してからにしようか」
「そうだな。疲れていては戦えない」
愛月と空人の二人はソファや床や椅子に座りこみ、京はコーヒーを入れるために台所へ行く。
「あー、私と空人のも淹れてきてー」
「もう淹れている」
「僕の分はー?」
「お前は飲めないだろ」
そう言いながら三人分のマグカップを持って出てくる。得意げに鼻を鳴らして二人にそれを差し出す。
「そういわれるだろうと思ってな。先に淹れておいたのだ。感謝するがいい」
ありがとう。私は礼なんて言わないよ男として当たり前の気配りよ、と口をそろえる。へいへい分かってるよとソファに座り、コーヒーを口に含む。
束の間の休息。世界を変えるための戦いに挑む直前。戦士達の顔つきはいつものように変わらずのんきなものだった。嵐の前の静けさ。戦いの前のちょっとした安らかな時を過ごす。
――しかし――研究所のドアが大きな音と共に開く。乱暴な音。その音だけで全てを察し、空人が動いた。二人を後ろに下げ、銃を構える。足音。姿は見えない。
「誰だ?」
足音。足音。足音…。やがて来訪者が姿を現す。
「手を挙げろ」
「何者だ」
「俺はCERNの実行部隊KBGの向井悟だ。お前らの身柄は俺が拘束、マンハッタンへと連れて行く。タイムマシンも回収させてもらうぞ、全ての可能性は消し去らなければいけないからな」
京は驚きと疑問を隠しきれないでいる。京の顔色が青くなり、全身の血が抜けていくような気がした。何故なら目の前で自分達を脅している人物は彼の親友なのだから。
「……ことだ」
声が掠れて上手く話せない。喉に――いや体に力が入らない。目の前で俺達に銃口を向けているこの男は、本当にあの向井なのか。さっきまで、仲間の死を憂い、親友である俺に力を貸してくれたあの向井なのだろうか。
「どういうことだ」
やっと出た声は掠れるような痛々しい声だった。
「ん? おお時城じゃないか。さっきぶりだなソウルメイトよ。しかしだな……俺は質問を受け付けた覚えはないんだが」
向井は銃口を天井に向けて、弾丸を放った。それは紛れもない実弾。火薬の匂い。恐怖と疑問。それらが室内を充満している。飽和。コップに入りきらない水は溢れてコップから流れ出る。
「CERNの実行部隊……? ふざけんなよ。みんなはCERNに殺されたんじゃなかったのか? お前はそれを悲しんで、俺に世界を……明るく笑いあえる今を託してくれたんじゃなかったのか!」
向井はただひたすらに嘲笑する。それは乾いた笑い。狂気に満ちた心の無い笑い。
何がおかしい、一体どこが、何がおかしいと言うんだ。何だよこれ、何なんだよこれ。趣味が悪すぎるだろう。ちくしょう……。
「単純だな、時城よ。違う世界線でもお前は間抜けなようだな。あれは嘘だよ、真っ赤な嘘。同情を誘おうとしたのさ。その方がやりやすいからな。……しかしまあお前面白いくらいにすんなり信じるよな。いやあ、本当に平和ボケって怖いわ。楽しかった。実に愉快だった。もう笑いを堪えるのに必死だったよ、俺は」
「俺にはお前が何を言っているのか理解できない。おい、いつもの妄想だろ? 厨二病の戯言だろ?」
「向井君、これは一体どういうこと? きっりち私達にも分かる言葉で説明して!」
「ハッ! お前達の頭はお花畑だな、しかもその花は雑草ばかりとみた」
京は何がなんだか分からずに呆然としていた。目の前で嘲笑しているこの男は一体誰だ、一体この男は何を言っているんだ。京には彼が別人であり、知らない人間のように思えたし何か知らない国の言語を喋っているようにも思えた。
「それにほら、色々情報をくれたじゃないか」
「魚に餌を与えただけだ。ほら、魚って太らせてから食う方が美味いだろ? それと同じだ」
「俺達を食うのか」
彼の中に躊躇いというそんなあるはずのないものがほんの一瞬だけ、見えたような気がした。思い過ごしでないように、気のせいじゃないようにと祈った。
「あぁそうだ。…しかしあれだな。もっと太らせておきたいな。俺は沢山脂肪が乗った方が好みなんだ。最後に一つ言っておこう」
引き金に指を添える。最後に見せた彼の顔はくしゃくしゃで、とても見てはいられないものだった。
無理をするなよ、向井。そんな顔をしてまでやらなければならなかった事なのか? 自分の心までも傷つけて、それでも、やらなければならないことだったのか? やめてくれ、これ以上こいつに無理をさせないでやってくれ。
「どう足掻こうと因果率決定論により事象は収束する。蝶の羽ばたきが嵐を起こそうが、アリが嵐を起こそうが結果は同じだ。そこにはただ嵐が起こったという事実があるだけ。どういう意味かは、自分で考えるんだな」
すまない。そんな言葉が聞こえてきたような気がしたが、京にはその言葉の意味が分からなかったし、本当にそんな言葉を彼が放ったのかという確信はなかった。彼はくしゃくしゃな顔で、引き金を――引いた。
「……っ!?」
弾が当たり、血を出しながら床に膝を着けたのは空人ではなく、京でもなかった。無論愛月でもない。続けて二発の弾が彼の足と腕を貫く。
「京、VWに行って! 跳べ!」
「いやしかし……!」
まだ向井に問い詰めなければならないことは山ほど在る。それに一発殴ってやらなければ気がすまない。もう無理をするなと、一言言わなければならない。でなければこいつは……!
京は倒れている親友の姿をただ呆然と見つめ、動けなかった。
「早く跳べ、このウスノロ!」
その一言で京は我に返る。今の京にはやらなければならないことがあり、この親友に構ってられる場合じゃない。早く跳んで過去を変えなければきっと捕まる。実行部隊は部隊というからには一人じゃなく、複数人居るはず。ならば問い詰めている時間は無いはずだ。
そうだ……過去を変えればこの出来事も無かった事になる、向井が無理をして俺達を殺そうとする事も無かった事になるんだ。だから、すまない向井。
京は慌ててパソコンに駆け寄り、置いてあったヘッドギアを装着した。VWを起動。現実と仮想の狭間に飛びこみ、脳は麻酔を打たれたように麻痺する。常識も非常識も統一される。認識不可能。意識がブラックアウトする。最後に聞いたのは愛月の悲鳴と親友の言葉だった。
――すまない。
第二章 神はサイコロを
第二章 神はサイコロを。
意識が戻る。場所は研究室。人の居ない無機質な空間。寒い。ここは気温など感じることのない世界。冷たい世界。
「……早く、タイムマシンに」
過去を変えれば全てが無かった事になるとは分かっていても、愛月が撃たれたりするのは気分が良い物ではない。だから京はひたすらタイムマシンまで走り続けた。
決して遠くは無い距離。京はすぐにタイムマシンまで辿り着く。走り続け、見つけたそれは不気味だった。心に湧いて出てくる不安や疑問。本当にいいのか。タイムパラドックス。バタフライエフェクト。いやそんなことを考えている時間などどこにある。くそ。くそ。くそ! 何を冷静に考えている。愛月が危ないんだぞ。行くしかないんだ。
「何を弱気になっている……」
時間入力。座標計算。完了。いつでも跳べる。
――いいのか? 本当に、過去を変えても。因果律……事象の収束。過去は……変わるのか?
いやしかしそんなこと関係ないはずだ。ボタンを押せ、押すんだ。今すぐボタンを押して、世界を……俺達の望む方向へと再構成してやる!
ボタンを――押した。
眩暈。意識のブラックアウト。何も無い。動くことも出来ない。前にも同じ様なことが……デジャヴ。寒い。動くことも出来ず量子と量子の間に挟まる。体が冷たい。
感覚が薄れ、意識さえも薄れる。意識の崩壊。自分の中の決定的な何かが無音で崩壊し、因果の輪からはずれ、孤立する。それはすなわち世界からの孤立。糸は既に……断ち切られたのだ。
意識が戻る。身体に温かさが、感覚が戻ってくる。タイムトラベルは成功した。意識が目覚める。今は何年の何月何日だ? 2013年4月13日。タイムトラベルは成功した。
「成功したのか……。信じられんな。まさかタイムトラベラーになるとは」
研究室。作戦内容を確認。アプリ検索機能で神を検索。居場所を突き止めて移動。ちなみにこの世界では世界中のどこでも数秒で移動できる。接近して圧縮し、そのまま削除という流れだ。タイムマシンから出る。アプリを検索する。一件ヒット。
「居た、居たぞ! 後は近づいて消せばいい。はは、案外簡単じゃないか。待ってろよ」
場所は……マンハッタン。ここは……CERN? なるほどそういうことか。ならばここで消せば世界を変えられるかもしれない。行こう。表示された場所情報をタップ。一瞬の眩暈。景色が変わる。
真っ白の壁。自分の研究所とは比べ物にならないほど、ひどく閑散としている。京は周りを見渡す。
「……ん? あれは何だ? 人間か?」
自分以外の人間。ここはVWだぞ。この時代はまだ民間人のダイブは普及していない。ということはCERNの研究者? それによく見れば白衣を着ている。間違いないだろう。となると見つかると不味いな。
「あそこなら大丈夫か。しばらく様子を見よう」
物陰に隠れる。白衣の人間達が何かを取り囲んでいるのが見えた。何だあれは。目を凝らす。映像の拡大。150倍表示。見えた。表示された名前は…GA205型。俺が奴に付けた名前だ。間違いない、神だ。
しかし……この様子じゃ接近できそうに無いな。ため息を漏らし、耳を澄ませる。白衣の男達は何かを話している。
しかし断片的な言葉しか聞き取れない。
「回……しろ。解……し、分……せねば。何者……られ、何の目……で……られたんだ。興味を……じゃないか。」
畜生。何を話してるのか分からない。目の前に広がる奇妙な光景。早く消さなければ。京はこの現状を打破するために、強行突破を考えた。VWだ。殺されはしない。無理やり突っ込んで接触し、奴を消し去れば勝てる。そうなりゃもうこっちのもんだ、急いでマシンに戻り、現代に戻れば世界は変わるはず。
そう思った。しかしもう一度奴の方を見たときにはもう遅かった。奴は白衣の人間共々…消えていた。
「消えた? くそっ! 消しそこなったか。どうする。このまま戻るわけには行かない、それでは何も変わらない!」
京はどうすべきか必死で考える。そして違う時代へ行き、そこで消すという結論に至る。それしかない。
しかし何時だ。何時なら奴が居る。分からない。居そうな時代。この世界で起こった事件。歴史的事件。事件。事件……?
ジョン・タイター。頭の中から引っ張り出された言葉。それはいつか見た言葉。元の世界線では聞き覚えの無かった言葉。つまりこの世界でしか起きてない事件。ジョン・タイター。検索窓を開いて、ジョン・タイターを検索する。
2000年11月2日に現れた自称タイムトラベラー。いや待てよ。2000年だとVWは存在しない。VWで検索。VWは1999年に完成し、民間に普及したのは2014年……?
「この世界線ではこんなにも早く技術革新が行われたのか。これも奴の仕業なのか? でも一体どうして、何のために」
分からないことだらけだった。だが、好都合であった。
「この時代に跳べば……きっと奴が居る。今度こそ、今度こそ消してやるんだ! そして皆でまた大騒ぎをしようじゃないか!」
タイムマシンへと戻る。もう迷いはない。時間を入力。もう躊躇いはない。座標計算。希望。見えた一筋の光。
京は座標の計算が完了すると、流れるようにボタンを押す。
2000年11月2日のアメリカ某巨大掲示板。そこには無数の文字が飛び交っていた。何も無い空間に文字が飛び交う。
――【速報】俺の嫁が画面から出てきた件
――最近よくデジャヴが起こる件10スレッド目
――私のお墓の前で泣かないスレ
――こんな時どういう顔すればいいのか分からないスレ
インターネットで見れば普通の光景だが、VWで三次元的なものとして見るとそれらは非常に不気味で、不安をかりたたせるものだった。タイターが現れたというスレッドに移動する。タイトルは『未来人だけど何か質問ある?』だった。
「奴は……?」
辺りを見渡す。
――2030年にはこの世界はディストピアになります。
――嘘だろ!?
――ありえないだろ常考
――2013年にVWが生まれました。
――1999年にありましたけど。
――ネタにマジレスカコワルイ
――2015年、世界に関する新たな解釈が生まれます。
飛び交う書き込み。
「どこだ、どこに居る」
目を凝らす。360度見渡す。居た。標的を認識する。気付かれないように徐々に近づいていく。心臓が高鳴る。全身から汗が噴出す。ミスは許されない。今ここで決着を付ける。
気付かれないように慎重に、かつタイミングを逃さないように迅速に神に近付いていく。一歩一歩と近づいていく。その一歩は、京にとってはとても重いものだった。それは世界にとってもきっと同じ事なのだろう。
そして、神との距離はすでにゼロセンチ。もう京を止められる者はいない。
接触。数時間ぶりのご対面。
「貴様は……」
「よう、久しぶりだな。神様」
京は口角を吊り上げ、神をタップし、圧縮を開始する。
残念だな、このゲームは俺の勝ちだよ。神様と言えど、所詮は人間に作られた存在でしかない。生みの親たる人間には、勝てないということか。
そして再びタップし、削除ボタンを押した。
じゃあな、神様。もう二度と会う事は無いだろう。
「……フッ。フハッ! フハハハ。やったぞ……これでいいはずだ。これで世界は元通り! 勝ちだ、俺達の勝ちだ! ハハハッ!」
沈黙。今にも消されそうになっている神は沈黙する。
「ぐうの音も出ないか。ハッ、無理はない」
笑い。笑い。込み上げて来る感情。京はあまりに激しい感情に、親友の言葉を完全に忘れていた。
「作戦完了! 俺は完全に勝利した! 案外あっさりと片付いたが、それもそうだろう。何故なら奴は俺達が作ったのだからな! ハアッハッハッハ! フフゥ……帰るか」
これで世界は、変わるはずだ。俺達の知っている平和な世界に、皆で馬鹿やれる世界に。空人も、もう世界と戦ったりしなくてもいいような世界。銃を持たずとも生きていけるような、そんな素晴らしい世界に!
京は一度も振り返らずタイムマシンへと戻った。乗り込み、元の時間を入力。座標計算完了。気分がいい。とても清々しい。京は安心してボタンを押した。意識が眩む寸前、蝶が……羽ばたいていた。
2045年8月5日。研究室のVW。VWからログアウト。意識はブラックアウトする。眩暈。現実の身体へと意識が移行する。目の前が霞む。よく見えない。世界は変わったか、早く確かめなければならないのに。
少しずつ見えてくる……見えた。視界を取り戻した時目の前に居たのは愛月だった。天井にあったはずの弾痕は消えていた。そして愛月には怪我一つない。
「京ちゃん、お帰り!」
愛月が駆け寄ってくる。
「なぁ、愛月。世界はどうなってるのだろうな」
「さっき眩暈がしたから、きっと世界線は変わったことには違いないはずよ。弾痕もなくなってるし、受けたはずの傷もない。それに空人が居ないもの」
言われてみれば空人の姿が見えなかった。
一安心。それは一時の虚しいものか、それともこれからも続くものなのか。それは今の京にはわからない事だった。だが、京には一種の達成感があり、それに身を任せるように京はソファーに座った。
「でも一応ネットで調べてみるね」
「あぁ、頼む」
「京ちゃんは適当にくつろいでて、疲れたでしょう?」
「もうくつろいでるよー、ああ疲れたよ本当に」
愛月はPCの前に座り、インターネットで世界の事を調べる。京は、あまりに疲れていたので、そのまま目を閉じて、深い眠りにつこうとした。
愛月はインターネットで情報を仕入れ、それを逐一メモする。そしてその言葉を統合し、一つの事実を見つけ出す。そうして導き出された事実は、とても残酷なものだった。
「そんな……!」
愛月が悲痛の声を上げた。
「どうした?」
目を大きく見開き、絶望の色を顔に浮かべている。モニターから視線をそらし、さりとて京の顔を見るでもない。愛月はゆっくりと言葉を吐き出した。
「世界はディストピアのまま……私達が襲撃を受けたこと以外、特に変わったことはないわ……世界は、まだ混沌としている」
マグカップを落とす。コーヒーがカップから流れ出る。じわり、じわり。白い地面を黒とも言える茶色が染めていく。じわり、じわりと汗が滲む。
「世界が変わっていない? いやしかし襲撃はなかったことに……!」
愛月は考え込む。
「あ……バタフライエフェクト」
京がつぶやく。
「何……?」
「東京での蝶の羽ばたきが、テキサスで嵐を起こす。どんなに些細な出来事でも未来に影響を及ぼすという例だ」
「つまり、向こうでなんらかの行動を起こしたことが影響し、現在の状況を生んだと。」
京は顎に手を当てながら言う。
「いいや違うな。過去へ跳んだ時点で影響はあったんだ。その時いなかったはずの人間がいたのだからな、今から考えれば当然のことだった。あいつのあの言葉の意味を何一つ考えようともしていなかった俺の負けだよ、まったく」
愛月はなるほど、と頷く。
その瞬間ドアが開く。優しい音だったがそれでも愛月と京は身構えた。
「どうしました?」
しかし姿を見せたのは空人だった。二人は警戒を解き、ため息を漏らす。
「なんだ、お前か」
「何かご不満ですか?」
「いや、むしろほっとしたよ」
京はコーヒーがこぼれた床を掃除し始めた。
「それより……世界は変わってないみたいですね」
「……そのようね」
愛月はおぼつかない足取りでホワイトボードへと向かった。
「京ちゃん、過去での出来事を聞かせてもらえる?」
京は二つの時代での出来事を詳しく説明する。
「なるほど…。そのCERNでのことが気になるね」
「科学者と奴は一体何を――」
「わからない。もっと詳細に奴等の話を聞くことが出来ればいいのだが……」
「出来るわよ。拡張アプリを作れば――って、前作ったじゃない。覚えてないの?」
京はパソコンの前に移動し、慌ててファイルを検索する。確かに拡張アプリなる物はあった。名前は『強化人間にしちゃいますわん』犬の耳のような形をしたアプリだ。
「忘れてた。作ったなこんなの」
「これを使えばもっと詳しく話を聞ける」
俺は何故最初からこれを持っていかなかったんだ。いやそもそも忘れていたのだから、仕方が無いのだが……
「とりあえずこれを持ってもう一度過去に跳ばないとな。神が消えない理由はそこにあるんじゃないだろうか」
「ちょっと待ってくださいよ。ここは一度神が消された世界線です。前と同じようなことが起こりますかね」
「わからないが……起きないという確信もない。それを確かめる意味でも、もう一度跳ばなければいけないんだ」
それならと空人は納得した。京は早速パソコンの前に座り、ヘッドギアを被る。
「跳ぶことにもう何の迷いもない。恐れも、疑いも無い。もう、何も――」
何も無かった。
2013年4月13日CERN研究室
「よし、着いたな」
京は先ほどとは違うところに隠れた。するともう一人の自分がタイムトラベルしてくる。
「見つからないようにしなくてはな。」
奴のほうを見る。科学者が集まってきた。アプリ起動。
「何だこれは? 誰がこんなものを――」
おお、聞こえる聞こえる。凄いな、これ。流石は愛月だ、本当に実用的なアプリを作ってくれる。見た目やネーミングは俺の提案だがな。
「不気味だ。背筋がぞっとするよ」
研究者の一人が奴をタップする。
「圧縮され、ファイルが一部破損していますが、修復は可能そうですね」
他の科学者が、とんでもないと手を上に挙げる。
「こんな得たいの知れないものを復元してどうなります。ウイルスかもしれない」
「その通りだ。クラッカーが仕込んだ罠かもしれん。むしろその可能性が高いだろう。だとすればこのまま取り除いてしまうか、仮に回収するにしても上の許可無しではは駄目だ」
「だがこのままここに置いておくのも良くは無いだろう。どっちにするにしろ、決断は急がねば。上に許可を取っているような悠長な事をしていたら、もしこれがウイルスなら仕事をしてしまうかもしれん」
「ですが! 規則は遵守しなければ――」
「しかし、しかしです。興味をそそられませんか? 科学者の、人間の知的好奇心が疼きませんか。いや、疼かないはずない。私は一人でもこれを回収し、解凍し、解析します。せねばならないような……そんな気がするのです」
一人が大げさな身振りで周りを説得する。周りは考え込み、顎に手を当てる。回収しても良いのではないか、と賛成する者もいれば、やはり如何なる時でも規則は守るべきだ、と反対する者も居る。意見が割れ、ざわめき始めた。
「規則遵守、それは絶対的なことではないのだ。少なくとも、急ぎ決断しなければならない時には、独断で規則を破る事も許される。柔軟にならなければ、科学者としては駄目だろう」
「その通りです! 科学者として、もっと柔軟に物事を考え、対応しなければいけません!」
なるほど、CERNが奴を復元したのか……まてよ、今強行突破し、消せば……今しか、ないな。研究者の背後から走っていけば大丈夫。恐れるものはもう何もない。
一度失敗を知ってしまえば、後はもう恐怖というものは感じない。勇気とも無謀とも付かない行動が可能になり、己の感覚を麻痺させる。京は、麻痺した感覚に身を任せ、行動する事を決意して、走り出した。
「よし、許可する。回収しようじゃ――」
「誰だ?」
走って、手を伸ばす。届け。届け、もう少しだ。1m、1cmと距離が縮む。
「おい貴様何するつもりだ――」
研究者の一人が奴に手を伸ばす。
早く。早く早く早く早く! こんなしみったれた科学者なんかよりも早く触れるんだ。そうしなければ、作戦は失敗し、科学者に囲まれて俺はチェックメイト、詰みになってしまう。そんなことになれば、それこそ敗北だ。永遠の敗北。
もう少し、もう少しだ。手を伸ばせ!
タップ。目の前で奴が消える。神秘的で禍々しい光を放ちながら。
触れたのは京ではなく、科学者だ。
「おい貴様、どこから入ってきた。こいつをどうするつもりだった」
「……くそ、また失敗か。次の作戦を考えなければな……しかし、これに賭けていたんだ。容易に代替策が出るとは思えん……いやしかし――」
「聞いているのかこのノロマ!」
失敗した。失敗した、失敗した。どうする? どうすればいい。まさか失敗するなんて思っていなかった。何処から来たのかはわからないが、絶対に成功するという謎の自信があった。それなのに、失敗してしまった……!
いつの間にか京は何人もの科学者に取り囲まれていた。
「答えろ、どうやって入ってきた。貴様は何者だ。まだVWは一般普及していないはずだが?」
どうすればいいのだろう、全く見当がつかなかった。京はただ一つの棒のように立ち尽くし、
現状を打破するにはどうするのが一番良いのだろうかと十分に思いを巡らせる事すら出来なかった。
こいつらを蹴散らしてマシンに戻るか? いやしかし……。
「駄目だこいつ、聞いちゃいない。黙秘権の主張をしているのか。生憎この国の法律は甘くないんだ、分かってるだろ? 青二才」
「はっはっは! こいつにゃあわからねえよ、見たところ日本人だぜ? 立派に白衣なんか着やがって、科学者気どりだ。」
「ハッ! 猿が気どりやがって、胸糞悪いぜ」
「違いねえな! にしても、本当に不審だな。どこかの企業のクラッカーか?」
「そうとしか考えられんだろう、こんなところまで……いいや、国家単位で雇われたクラッカーかもしれん。どちらにしろ、こいつは俺達にとって相当な危険分子だ」
いや、やるしかないか。このままこうしていても埒が明かない。それどころか追い詰められるだけだ。俺が殺されるかもしれない。なら、やるまでだ。空人に渡された拳銃を持っているはず。……よし、あった!
「おいおいポケットに手を入れたりしてクール気取ってるんじゃないぞ。そうやってれば事が済むと思ってるのかこのガキは――」
ポケットから手を出し、拳銃を突きつける。そして流れるように安全装置を外し、引き金を引いた。話している途中の科学者の腕を貫く。
初めてやったが、意外と出来るもんなんだな。いいや、ヴァーチャル世界だからか。現実ではこう上手くはいかないだろう。まったく、この世界を作ったことは果たして人類にとって正解だったのだろうか、それがわからなくなってくるな。
「……っ! 何しやが――」
腕を押さえ、崩れ落ちる。足を撃つ。周りで腕を組んでいた科学者達の顔色が変わる。ポケットに手を入れる者もいた。京はその科学者の腕に銃弾を捻じ込む。そして、取り押さえようとしてくる科学者達を脅す。
「動くんじゃない。お前らもこうなりたいのか。いやそれともこれ以上……哲学的ゾンビにでもなりたいのか。なりたい奴は一歩前に出ろ。それ以外は去れ、この、アメリカンモンキーが!」
科学者達は青ざめ、動かない。京は溜息をつきながら言う。
通用するか? こんな素人の三文芝居が。いいや、演じきるさ。俺にはこれしか方法が無いのだからな。
「繰り返す。哲学的ゾンビになりたい奴は――」
「わかった、わかったからそれ以上は言わないでくれ。ジョークじゃないんだろ? 分かってるよ。俺達も仕事があるんでね、へへ、ここで失礼させて貰うよ」
科学者達がVWからログアウトする。目の前で消えていく。一人残った京は不思議と冷静だった。
マシンに戻らなければ。帰って作戦を練り直そう。帰れば愛月達が居るはずだ。きっと良い作戦を考えてくれるだろう。今回はノープランすぎた。喧嘩の勢いのまま家を飛び出して来た子供のように無計画で無謀だった。これからはもっと、計画的に物事を運ばなければ。
温度などは何も感じない無機質な世界。
しかし 、京が居る世界はもっと無機質で非常で無情なものだった。マシンに戻り、元の時間に戻る。そうすれば、幼馴染が温かいコーヒーの一杯でも淹れてくれるだろうと思って。
蝶が、飛んでいた。
2045年8月5日。床、壁。天井……全てが京の知るものではなかった。少なくとも、自分達の研究室では無い。しかし、座標上では百パーセント自分達の研究室だ。この場所はやけに寒く、辺り一面が灰色だった。
京はこの現象には覚えがあった。今まで二回経験した、世界戦の移動。京は、この知らない風景を見た瞬間、頭にそれが浮かんだ。
そしてそれは恐らく、間違いでは無い。
研究室ではないどこかに居た世界線なのか? だとしたら、早く研究室に戻らなければ。
薄暗く、中途半端な明かりがついている。そこには数台のパソコンがあり、京以外の人間は誰も居ない。見慣れない灰色の机。そしてそこに置かれているネームカードに刻まれている名前は時城京という名前。
俺の名前だ。とするとここがこの世界線での俺の活動場所なのか? それなら愛月や空人もいるはずだ。
二人を探すために広い施設内を巡回する。しかし、あるのはパソコンと機械部品。冷蔵庫や電子レンジなどの必要最低限の家具。テレビやソファはない。施設を一周したが二人の姿はなかった。全身に虫が這っているような感覚。あるいは帰ってきた時に家族が居ないような感覚。ドス黒い雲が頭上を覆う。
「愛月!」
その雲を振り払うために、愛月に電話をかける。しかし、繋がらない。それならばと愛月の親に電話をかける。呼び出し音が鳴る。心臓が五月蝿く鼓動を打つ。
どうか俺のただの妄想であってくれ、確証の無い仮設であってくれよ……!
二回目の呼び出し音。
「もしもし――」
「もしもし、京です。突然、本当に突然、変なことを聞きますが……愛月は……生きているんですよね?」
電話口からは何の音もしない。それは京の質問に対する答えには十分すぎるほどのものだった。
そんな、まさか……!
「愛月は……去年、殺されたじゃないの」
京は衝撃を受ける。まるで頭を鈍器で打たれたような強い衝撃に頭が眩み、立っていられずに地面に膝を着く。
「殺された……? すいません。何時、何処でですか」
「去年の3月3日。研究室でよ」
「すいませんでした」
電話を切る。京は、力なく笑う。
「これがあいつの言っていた蝶の羽ばたきか。まったく……余計なことをしてくれるな。科学者と言い合っただけで愛月が死ぬ世界が出来上がってしまうとは……」
立ち上がり、ネームカードのある机に座る。音が無いどころか全く生気を感じない部屋に一人たたずみ、京の頭上の雲はどんどん黒さを増していく。
しかし一方で京は冷静だった。殺された事実をまた過去に跳び、無かったことにすれば良いと考えていた。殺された日に跳び、阻止すればいいと。しかし、それにはVW内だけのタイムトラベルではどうにもならない。よって、現在の技術では不可能。諦めろと雲が言っていた。
「俺はあいつが居ないと何も作れないのか。畜生……師匠の教えは一体なんだったんだ。俺は結局あの人にも、愛月にも何も報えていないじゃないか……!」
落胆して机に突っ伏し、目を閉じる。
あぁ、空人もその日に殺されたのだろう。一人だけ生き延びた俺は、のこのことこんな所に研究室を作ってのうのうと生きているわけか。愛月が居ないなら、タイムマシンのアプリも存在しないのだろう。あのアイディアは本当に素晴らしかった。
「……待てよ。技術的に不可能? 何を言ってるんだ俺は。可能じゃないか。あれと同じ理論を使えば」
擬似的な体をロボットとして現実世界にVWタイムマシンと同じようにクロノスシステムを作ればいいだけだ。部品と機材さえあれば可能。
「なるほどそういうことか。散らばっていた部品はその為のものだったのか。いけるぞ。愛月を助けることが出来る」
部品をかき集めるために施設内を再物色する。絶望しかけた矢先に見えた一筋の光。其光に、京はすがるしかなかった。その光を、意地でも掴むしかなかった。
そして出てきたのは大量の部品と、設計図。そして、作りかけのマシンだった。
「この世界線の俺もタイムマシンを作っていたのか。まだまだ完成形には程遠いがゼロからのスタートじゃないだけましだな」
作りかけのマシンを指で撫でる。冷たいが微かな振動を感じる。何かの機械が稼働している証だ。
「必ず、必ず助けに行く。そしてまた三人で、作戦を再開するんだ」
世界は過去改変をする度に都合の悪い方向へと進んでいく。それは運命か、因縁か。どこか嫌がらせじみた運命を受け入れず、ただ抗い続ける。ただ一人でマシンを作り続けた。言葉を発する時は常に独り言。次第に口数は減っていった。マシンを作っている音だけが鳴り響く。
「3分の1というところか」
机に戻り、カップ麺を啜る。そしていつものようにインターネットで情報を集める。ニュースサイトや掲示板を巡回。しかし、大して気になる情報は無い。こんな毎日の連続。寝て起きて食べて作って食べて寝る。単純な繰り返し作業の生活。無機質な人生。
そしてある朝。マシンを作っている京のA―phoneに受信があった。
「武器を補充しておけ。スタングレネードとライフル。拳銃もだ。マシン完成と共に襲撃が起こる。5人の実行部隊だ。以下、行動パターンを示す」
この未来の予言めいたメールは初めてではなかった。過去に何回か、別の世界線でもあったし、いつも正確に予言していた。情報に若干の誤差はあったが、正確だった。そのおかげで安全にマシンの作成は進んでいる。とても奇妙なメール。しかし京はこのメールはきっと自分が送っているのだろうと確信していた。
それはまたしても、根拠の無い自信ではあったが。
「了解」
武器や弾薬の補充。しかし、武器を取り扱う店などはこの世界には存在しない。だから武器の補充はいつも困難を極めた。そして京が向かった先はとある武装集団のアジト。物陰に隠れて、アジトを観察。
中に人間が四、五人といったところか。誰も武器を持ってはいない。今行くか? いいや、こいつらが武器を手にしてからの方が良いだろう。危険度は増すが、その方が手っ取り早い。
中から人が四人出てくる。大きいトラックから木箱を受け取っている。細い木箱から、大き目の良く見る形の木箱まで様々だ。やがて彼らは木箱をアジトの中に持って入った。
よし、今だ!
京は一気に駆け出し、アジトに入る。手にはライフル。防弾チョッキを着用し、ポケットには予備の弾丸とグレネードが入っている。
「手を挙げろ。武器を捨てて、こっちに投げろ。保有している武器を全て渡してくれさえすれば命だけは助けてやる」
ライフルを人々に突きつけながら言う。銃口を突き付け指図し、悪魔のようにニヒルに笑う。科学者とやり合った時以来、京のペテン師ぶりは素晴らしいくらいに磨きがかかっていた。京の言葉は鋭く研がれた刃物の様に鋭く、聞いた者にある感情を抱かせる。例外無く。
「すまないが渡すわけにはいかない。僕達にもこれが必要なんだ。わかるだろう?」
「お前達が持っていて何になる。お前達で世界を変えられるのか? いいや、断じて変えられやしない」
「変える気は無い。ただ今日を生き延びるために必要なだけだ」
またか、保守的な奴め。
「そんなひよっていて一体どうすると言うのだ、武器を持っていたって宝の持ち腐れじゃないか。武器を手に取るなら戦え。戦うというのは、ただ保守的にびくびく震えながら銃を握る事ではない。何かを変えるため、何かを犯すため、何かを成し遂げるために誇りを持って、相手を攻撃することだ。それが戦うということだ。お前らみたいな日向ぼっこをしている甘ちゃんの防衛主義、人権主義は聞きあきた。二度と俺にそういった自論をぶつけてくるんじゃない」
足元に当てないように撃つ。ライフルではなく拳銃だ。京には慈悲の心など微塵も無かった。南極で水を放置したような、そんな冷たい心しかなかった。
「守ることも戦うことだと、俺達は思う。相手を攻撃しても、何も生まれはしない」
「ならばお前達に情けなど無用だ。渡さないというのなら、殺す」
武装集団のリーダーと思しき男が大げさに手を振りながら言う。
「ならこうしようか。僕達の保有している武器の一部を渡そう。それでいいだろう……?」
京は鼻で笑い、思いっきり目の前の男を見下した。それはまるで養豚場の豚を見るときのような冷徹で残忍な目。
「一部? いいやおかしいな。一部と言ったか。一部というのはどれくらいだ、3分の1か? 半分か? それとももっと少ないのか。拳銃一丁だけでも一部と言えるからな……ふざけんじゃねーよこの甘ちゃん。全部、そう全部だ! 武具を全て俺に渡せと言っているんだ、俺の言葉の裏からそんなことも読み取れないのか、この世界の国語教育はちゃんとなされているのか心配になるな」
「そんなめちゃくちゃな! それじゃぁ僕達がもし襲撃にあったら――」
「その時は死ね。世界を変えようともしない奴に用は無い」
「滅茶苦茶だよ君。渡さないよ。どうしても武器を奪うというのなら僕達は君を――」
京はすかさず発砲する。弾丸が相手の頭を貫き、血があたり一面に飛び散り、脳がぐちょぐちょになって断面から出てくる。
「俺を……なんだって?」
出てきたぐちょぐちょの脳を京は撃った。脳の欠片が飛び散り、辺りに付着する。女性団員の頬にも付着し、女性の顔は絶望に青ざめる。
「いや…いやぁあああああああああ!」
女性の悲鳴が京の耳をつんざく。
「五月蝿いぞ、わめくな糞尼」
その言葉を合図に女性団員の頭が飛ぶ。そして一人、また一人と殺していく。全て頭を貫通していて即死。京の足元には真っ赤な生命の海が出来上がっていた。そこには肉塊や散らばる死体が浮かんでいて京にはそれが肉と野菜のスープのように見える。
「人から何かを奪う覚悟の無い奴に、生きる資格は無い。少なくとも、この世界ではな」
残る最後の一人の頭を撃つ。それで全てが終了する。京は一人で一つの武装集団を皆殺しにした。部屋を狂気で満たし、反撃は許さない。それが京のやり方。京は全身ドス黒い雲に包まれていた。赤が塗り重なったようなドス黒い黒。不気味でグロテスクな雲。
「さて、回収するか」
殺し終わった後は死体や吐き気を催しそうになる死の臭いなど少しも気にせずに武器や弾薬を回収する。そして一つ残らず回収し終えた後、アジトを出た。
これで作戦は完了だ。武器は補充できた。申し分無い成果だ。
研究室に戻り、身体の血を落とした。そしていつものようにカップ麺を啜る。そしてまた作業を再開する。外は異様に晴れていた。
そしてまたある日。京は、クロノスシステムを構築した。このタイムマシンの基盤。完成まであともうすぐという時になって、未だにシステムが存在していない事に気がついたのだ。愛月と同じようにプログラムを構築し、クロノスシステムを起動する。
「やあ、おはよう」
「目覚めの気分はどうだ?」
「んー、あまり良い物とは言えないかなあ。女の子の一人でも居れば、ちょっとはマシなんだろうけどね」
この神は女性好きなのか、フェミニストめ。前居た世界戦と、こいつの性格は変わらないのか。きっと何処の世界線でも神様というのは共通した性格を有しているのだろうな。
「それより君、名前はなんて言うのさ」
「時代京だ」
「へえ、時代京ね。じゃあ京って呼ぶから、君は僕の事クロちゃんって呼んでよ」
「断る。普通にクロノスでいいだろう、面倒臭い。俺はそういうのは趣味じゃねーんだよ」
「ふうん、おもしろくないね」
「言ってろ」
会話をしたのは何日ぶり……いいや何か月ぶりだろうか。この世界線に来てから、した会話と言えば、最初の電話と、脅し文句だけだ。まともな会話など、する相手も居なかったしな。これからは、こいつが会話相手になるのか? 少し複雑な気分だな。
「それにしてもこの体は動きづらそうだね」
「仕方がないだろう、現実的にこれくらいの物しか作れ無いんだ」
「ふうん。まあ、現実世界に作るんじゃあ限界があるのか。前は仮想世界だったし、まあマシにはなったのかな」
「その通りだ、分かってるじゃないか。だったら文句を言うな、黙って俺に使われろ」
「神様に向かって、言うねえ、君」
「もう電源切るぞ、作業が出来ん」
「はいはい」
京は電源を落とし、作業を再開する。マシン完成まで、あとわずかだ。システムが完成したことにより、あとは細かい作業だけが残っているという状態だ。
マシンの完成予定まであと二日という日。京は机の影に隠れていた。この日の研究室にはメンテナンスされた後のピアノ線のように張りつめた空気が漂っていた。キリキリと張り詰める。キリキリ。キリキリキリリ。扉が開く。男達が勢いよく入って来た。京は冷静にサイレンサー付きのライフルで狙いを定めて撃つ。弾丸は目標の頭を直撃。
「……!? 何が起きた!」
「まさか襲撃が予測されてるんじゃ――」
「なわけないだろタコ坊主」
「しかしこんな正確な射撃――」
もう一人の頭にも銃弾が直撃。言うまでも無く、即死だ。
「くそ、何処だ? 何処に居る!」
慌てふためく男の頭にも銃弾が直撃。
よし、あと一人だ。まったく、どいつもこいつもメールに書いてあった通りの行動しかしないんだな。これじゃあまるでゲームをネタバレ攻略サイトを見ながらプレイするようなもんだ。 もう辺り一面血の海だな。ゴロゴロと死体やら内臓やらが転がりやがって、まるで人間シチューだ。
「……わかったぞ、そこだな」
男が銃を構えた。京は相手が発砲する直前に避ける。相手の行動は知っている。だから避けることも簡単――なはずだった。
「……っ!?」
しかし、弾丸は京の腕をわずかに掠める。
なんだ、知らされていた所と違うところを狙ってきたぞ、今まではこんな事無かったのに……誤差が生じることもあるのか?
「ちっ。はずしたか。」
京はスタングレネードを男に投げつけて、目をふさぐ。眩い光が、暗い室内に広がる。
「目がああああ!」
「惜しかったが、詰めが甘かったな」
京が放った弾丸は、綺麗に飛んでいき、男の頭を貫いた。
「一つ、二つ三つ四つ……五つ。全部殺したか。たく、後もう少しで完成って時に……!」
ぼやきながらライフルを置いて床と壁を掃除する。それはシチューをこぼした時のように自然な流れだった。京にとって、床に散らばっている数々の死体は物でしかなかった。
掃除が終わっていつもの様に机に座りカップ麺を啜る。
……明後日か。明後日にはこのマシンが完成し、過去に跳べる。そう、愛月達が死んだあの時間に! 愛月を取り戻せる日は近いな。
2057年6月3日
「……完成だ。これが、タイムマシン!」
約十年かけて完成させたそれは、やや小型で、まるでロボットアニメの悪役のようであった。以前、愛月がVW上に作り上げた物とは対照的な黒と紫の混じった配色。禍々しい顔、禍々しい胴体、四肢。
「愛月……必ず助けるぞ」
「意気込んでるねえ、まあいいけどさ、面白そうだし」
「貴様はつくづく嫌な奴だ、これは遊びじゃない。俺の人生を賭けた勝負だ」
「君も懲りないねえ、過去を変えようとして今まで散々大変な目に遭ってきたじゃないか。今まで、世界が思い通りに改編してくれた試しはあったかい? それを考えれば、選択肢は一つ、この世界に骨を埋めることしかないんじゃないの?」
「俺にその選択肢は無い。そんな保守的な……!」
「君はどの世界でも変わらないねえ。革新派というか、過激派というか……政治家に通ずるところがある。そうは思わない?」
「自分の事を客観的に見れるタイプではないからわからんな」
「科学者たる者、常に自分を客観的に見続けなければならない。政治家もしかり、しかし政治家も科学者の君もそれが出来ない」
「……客観的判断など糞喰らえだ! 人の死を勝手に決められてたまるか、勝手に愛月が死んだ事されてたまるか……!」
「それは全て、君の自業自得じゃないか。それに、あの子の自業自得でもあると僕は思うよ」
「五月蠅い……それ以上文句を言うのなら、電源を切るぞ」
「まあいいよ、僕は君の望み通り、作戦に協力してあげる。その行為が正しいかどうかは、置いておくよ」
「ならば作戦内容の最終確認だ。俺は今から、愛月が殺される日、つまり2035年3月3日の研究室の向かいの建物に跳ぶ。そしてそこから見張り、 研究室を襲撃した人間を撃ち殺す。とても簡単なことだ。今までのように単純にかつ冷静に物を壊すだけ。むしろ今までよりも単純で、楽だ」
「なるほど、了解。じゃあ、行こうか」
京は全く恐れを感じずタイムマシンに乗り込んだ。何時の日か映画で見たようなパネルを操作する。VWのアプリの時とあまり変わらない。時間と局所場指定。座標計算。完了。
システムオールグリーン。いつでも行ける。シートベルトを締め、赤いボタンを押す。マシンの周囲に無数の光の粒が舞う。
なんだこれは、まるで世界の塵のようだな。とても幻想的で、まるで旅立つ俺を祝福するかのような……いいや違う、無事に作戦を終える事を祈願しているのだ。
「跳ぶよ、せーのっ! ジャーンプ!」
クロノスの合図と共に、タイムマシンは姿を消した。光の粒は残留し、蝶のように舞っていた。タイムマシンの肩番は、AS204型。愛月のイニシャルと、誕生日だった。
2044年3月3日。
ブラックアウトしていた意識が目覚める。
ここは……? タイムトラベルは無事に成功したのだろうか。一瞬だけ意識が無かったが、それは時空を飛び越える際に必ず起こる現象なのだろう。
「タイムトラベルは成功だよ、お疲れ様。ていうか僕が疲れたよー」
「おつかれさん、留守番よろしくな」
2035年に突如現れた黒く禍々しい人型。京は、人々の混乱を最小限に抑えるため、研究所が襲撃される直前に跳んだ。それ故に今の京には時間的余裕が全く無い。
京はスナイパーライフルを持って外へ出た。そして、射撃をするのに一番良いポイントを見つけ、床に腹をつけてスナイパーライフルを構える。愛月と京が楽しげに会話していて、空人は一人コーヒーを飲んでいる。
楽しそうだな、愛月も空人も、俺も。こうして見ると俺は本当に間抜けだったんだな。今もどうせ、適当な提案をして愛月に論破されているのだろう。まったく、馬鹿にも程がある。
京が昔を懐かしんでいると、突然扉が開く。そして、武装した男達がいつぞやの襲撃のように、どたばたと慌ただしく入ってくる。
まだだ、まだ早い。もう少し様子を見るんだ。タイミングが遅れたのならまたやり直せばいい。今はとにかく、様子を見よう。
怯える三人。空人以外男達から離れる。
よし、離れたな。今なら狙いを定めやすい。
先頭に立っている男の頭に狙いを定める。放たれた弾丸は、窓を突き破り、見事に男の頭を貫く。空人は銃を構えたまま、呆然と立ち尽くしている。
よし、あと二人だ。落ち着いて、確実に仕留めろ。冷静に、慎重にかつタイミングを逃さぬように迅速に。
引き金を引く。もう一人の男の頭に命中。吹き飛ぶ頭、室内に居る誰もが、今起こっている出来事に戸惑いを隠せないでいる。困惑し、混乱し、恐怖する室内。対してその混乱を起こしている張本人である京は冷静であった。
よし、あと1人……! あと一人殺せば愛月の死を回避する事が出来る。そうすれば、また皆で議論をしながら神と戦う日々が過ごせるんだ。俺の十年間が報われる時が来た!
さらに引き金を引く。弾丸は鋭く、真っ直ぐに飛んでいき、ターゲットの頭に鈍くめり込む。いつの間にか、京の周りを取り巻いていたドス黒い雲は、姿すら見えなくなった。しかし、確かにそこにある。そこで、京の行いを全て見ている。罪を、見ている。
なんだ、あっさりと片付いたな。結局一番大変だったのは、マシンを作ることだったとはな。まあ、そんなものか。あっさりだったのは有りがたいのだが、少し拍子抜けだな。
京は、スナイパーライフルに安全装置を付け、タイムマシンに乗り込む。
「おかえり、京」
「おかえりと言うにはまだ早すぎるぞ」
「だって今言わないと、二度と言えないかもしれないじゃないか。世界線が変われば、僕が存在しないかもしれないんだし」
「ああ、そうだったな。じゃあ、今言っておこう。ただいま、ありがとう」
「君が礼を言うなんて珍しいんじゃないの?」
「いいや、そんな事は無いぞ。お前は俺の事を何だと思っている?」
「悪魔か何か?」
京はクロノスの一言に、思わず吹き出してしまった。
悪魔か、確かに間違ってはいないな。俺は悪魔かもしれん。いいや、悪魔だ。それは推量じゃなく、はっきりとした断定の形だ。まあもっとも、悪魔という言葉だけでは物足りない感じはするがな。
「悪魔か、そりゃあいいな」
「悪魔が居るから活躍できる神様って……それってどうよ」
「どうというのを俺に聞かれても知らん。さあ、帰るぞ」
「うん、そうだね帰ろうか。じゃあ、跳ぶよ?」
「おう、いつでもどうぞ」
「せーのっ! ジャーンプッ!」
幼馴染を取り戻す戦いを終えて、京の気分はとても軽かった。たとえその先にまた戦いが待っている事を知っていたとしても、己の体や精神に休息を与えてやる暇さえ無いと知っていても、穏やかで軽い気持ちになったのだ。妙な達成感に身を任せ、目を閉じる。
蝶が飛んでいた。
2057年6月3日研究施設。
「タイムトラベルは成功したよ!」
「ん、お前消えなかったな」
「そうだね、消えなかったね! あ、おかえり!」
「ただいま」
「さあ、早く行きなよ。幼馴染がお待ちかねかもしれないよ」
「ああ、行ってくるよ」
タイムトラベルは成功し、元の時代に戻ってきた。世界線は、無事に変わったのだろうか。蝶は、要らない仕事をしていないだろうか。この場所に愛月は居るのだろうか。
先走る期待を胸に、タイムマシンを出る。そして床に足を着けた。
「京ちゃん!」
愛月……! よかった、よかった。この世界線にはちゃんと愛月が居る……俺は愛月の死をちゃんと回避することが出来たんだ。
愛月の叫び声は、今にも泣き出しそうな声だった。そのまま京に駆けより、力一杯に抱きつく。
「京ちゃん、私……私!」
「おおう、どうした?」
「私、死んでたよね」
……!? 何故それを覚えている。今までは生きているから覚えていたのだろう。しかし、死んでた時の事を覚えているというのはどういうことだ。どこのオカルトだ、死んでいたという自覚があるなんて。
「あぁ、確かにお前は死んでいた。しかし何故それを覚えている……?」
「わからない。死んでたことを覚えてるなんて、私自身も信じがたいわ、こんな非科学的な話。でもなんか……暗い場所に居た気がする。無数の線が私を取り囲んでいて、とても怖かった。動く事も、喋る事も何にも出来なくて。景色が無数に移り変わっていったわ」
暗い場所と、無数の線……? どこかで見たような、経験したような……。
しかし、それ以上考える事はしなかった。思い出そうという事はしなかった。今はただ、愛月が生きていることの喜びを噛み締めていたかったのだ。
「……まぁいい。生きているのなら、今はそれだけでいい」
「うん……そうだよね、うん。そういえば、タイムマシンの中から出て来たということは、京ちゃんが私を助けてくれたの?」
「ん……ああ、そうだ」
京は、今までの十年間の戦いの事を自分から話す気には到底なれなかった。背中が何者かによって引っ張られるような気持ちがしたからだ。
「そうか……ありがとう、私を助けてくれて」
京の背中を引っ張る力がさらに強くなる。
「ああ、いいんだ」
愛月が首を傾げる。何かが違う。何かがおかしい。京の言葉一つ一つが愛月の胸に突き刺さる。それは、表情やしぐさも全てだ。不安や違和感が愛月を襲う。問い詰めずには、いられなかった。
「京ちゃん……? どうしたの」
愛月に、話してもいいのだろうか。今までの戦いを。今までの悲惨な十年間を。多数の人間の命を奪い、この身も心も血に染めて、ただ目的の為だけに突っ走ってきた空虚な十年間。そんな話をして、愛月は悲しむだろう、怒るだろう。
しかし、今言わなければもう言う機会なんてものは二度と訪れないだろう。言うしかない。
「今まで俺は十年間、お前を助けるためだけに動いてきたんだ。その為にマシンを作った。
この十年間で俺は、数え切れない程の人を殺した。殺して殺して殺して、全てを奪って、生きてきた」
愛月は、言葉が出なかった。何も言う事が出来ず、何もすることが出来なかった。声が出なくて、ただ、炉端の置物のように固まっていた。
「……すまない。それより、この世界での俺達は何をしていたんだろうか。マシンが残っているということは、この世界でもマシンが作られたということだ。でもその理由はなんだ」
「……分からない。でも、この施設内を調べればいいと思う」
京は頷き、固まっている愛月を台所へ連れて行き、コーヒーを淹れる。京は机に座り、愛月は未だに立ち尽くしていた。
「どうした、どこでも好きなとこに座ればいい。ここはお前の施設でもあるんだから」
「……殺したって、何」
愛月は、ただ拳を握り締めながら問う。
「……言ったとおりだ。俺はお前を助ける為に、沢山の人間を殺してきた。何の疑いも無くな。そうするしかなかっ――」
「そうじゃない! 私は、私はね、京ちゃん……そこまでして助けて欲しくなんて無かった。そうするより先に、世界を変えて欲しかった。世界を変えることが私を助けることにもなるだろうし。私はきっと死ぬ運命だったんだろうなって、そう思えただろうから」
愛月は机を叩き付ける。涙を流しながら病人が血反吐を吐くようにして、愛月は言葉を吐いた。
「それには愛月が必要だったんだ。俺一人だけで世界を変えることが出来たのなら、俺も迷わずにそうしていたさ。でも、でもな……! 世界はそんなに簡単じゃない、人一人の力でどうにかなる問題じゃないんだよ、だからお前を助ける必要があったし、俺もそうしたかったから……!」
京もまた、言葉を吐き散らす。愛月よりも、強く、そして汚く。
「京ちゃんは、どうしてもっと自分の事も考えてあげられないのよ!」
「独善的でいては、俺達の目的は達成されない!」
「自分の事を顧みないような人が、世界を良い方向に導けるはずがないわ!」
「自分を捨てて鬼にならなければ、世界に抗う事など到底不可能だ」
「どうしてそういう考え方をするのよ!」
「お前は……! 目の前で人間が物みたいにバラバラになるのを、子供のころ夢中になったあのブロックのおもちゃのように、音を立ててガラガラと崩れていくのを見た事があるか? 人を殺す時っていうのは、ブロックの城を壊すような、そんな感覚がするんだ。その感覚を知って、まともで居ろという方がどうかしている。気が違っている!」
「気が違っているのは京ちゃんの方じゃない! その感覚を知る前に、どうして、どうして人を殺さなくても済む方法を模索しなかったの?」
「そんな方法があれば……! 空人も俺達の所には来なかっただろう、武装もしなかっただろう。全国に武装集団なんか現れなかっただろう。逆に、俺を含め、そんな奴らが居るってことは、色んな人間が模索したが、やっぱりそんな阿呆みたいにお花畑なメルヘンな話は無いということじゃないのか?」
「そうだとしても……今の京ちゃんはとても、見ていられないわ」
「なら見なければいい。嫌なものをわざわざ見る必要なんて何処にも無いんだ」
「自分は、嫌な物をたくさん見てきたくせに。そうやって自分にだけ辛い役回り押しつけて、人には楽な役を選ばせて、どうしてそんなに自分を痛めつけるの?」
「俺の責任だからだ! 世界がこうなったのも、一時とは言え愛月が死んだのも、全て俺が神のデータを持ったデータベースを作ろうなどと軽率な発言をしたのが原因なんだ。少し考えれば、自我が生まれることも、そこから発生する危険も、十分に分かったはずだ、予測が出来たはずなんだ」
「それを否定せず、肯定したのは誰? 私でしょ? ならどうして自分だけを責めるのよ」
「俺は、自分を責めていないと落ち着かないんだ。自分に責任の全てを押しつけていないと、前に進めなかった。何にも成せなかった」
「自分を責め続けていても、自分だけに責任を求めていても、何にもならない。そんなことで得た強さなんて仮初の紛い物よ。いつか壊れるわ、それこそブロックの城のようにね」
「それでも俺は……! いつか壊れるとしても、強くあらなければならなかった! これからもだ、自分に責任を求め続け、自分を騙し続け、俺がボロボロになってもいい、一本の折れた棒のように、使い物にならなくなってもいい、壊れるまで、戦い続けてやる、抗い続けてやる……!」
「それじゃあ、京ちゃんの心が――」
「俺の心がなんだって?」
「気付いてないの? 自分の心がおかしくなっていっていることに。再会してからそんなに経ってないけど分かるわ。京ちゃんの心がボロボロになって、今にも崩れそうになってる。顔を見れば分かるわ。そんなに大変な思いをして、それで目的を成し遂げて、やっと会えたはずの私を見ても、京ちゃんは笑わないんだもん。こうしている間もそう。表情は輝きを失ったダイヤのように堅く、冷たいわ」
京は、目を逸らしてまだ飲みかけだったコーヒーを、流し台に流した。ところが愛月は無理やり京と視線を合わせようとする。
「京ちゃん……しばらく休んでよ」
「……それはできない」
「どうして!?」
京は再び愛月に視線を戻す。
「休んでいる暇などあるものか。俺達の行いの所為でこんな狂った世界になったんだ。それなのに、休んでなんか居られない。今すぐにでも、作戦を考え直し、実行に移さねばならない。それが俺の使命だ。俺の、義務だ。たとえお前が休もうとも俺はやる。 俺の心なんて知ったことか! 散々人の心を踏みにじってきた俺に、そんなものは関係無い! 俺は、断固として抗い続けるぞ! 一人でも!」
「……京ちゃん」
愛月は唇を固く結んだ。
京は近くに置いてあったもうマグカップにコーヒーを淹れ、愛月に差し出す。愛月はそれを無言で受け取り、コーヒーを一口飲んだ。同時に涙が溢れてきて、どうやって止めようとしても、止まらない。
「分かった……分からないけど、分かった。でも、無理はしないでね。次無茶したら許さないから。人殺しも、許さない」
「……分かった」
京は、精一杯の笑顔を作ってみせた。しかし、それは笑顔と呼べるものでは決して無かったし、呼んで良いものでもなかった。
愛月はそれを直視できず、目を逸らしてしまう。そしてコーヒーを飲み干して涙を拭いた。
二人が別々のタイミングで、マグカップを片づける。
「……さぁ、この施設を調べるわよ」
愛月は、強く歯を食いしばる。
京はマシンを作っていた部屋から。愛月は食事スペースのあり、日常的に過ごす事が多いであろうこの部屋から調べることにして、京は部屋から去って行った。
「京ちゃん……」
幼馴染が自分の知る人ではなくなってしまった。愛月は寂しさと違和感を払拭できないでいた。ここにある全ての物が、気色悪い物のように思えて、触れたいという気は起きなかった。
棚や机などを調べながら愛月はふと、昔の事を思い出す。
2024年7月23日。
茶色のフローリング、パイン材の机。クリーム色の壁。京の家で愛月と京が遊んでいた。
「なぁ、愛月」
京がブロックを組み立てながら声をかける。
「んー? なぁに、京ちゃん」
愛月はパズルを組み合わせながら答える。
「次に乗せるブロック、青がいいかな。それとも黒がいいかな」
「黒ってなんか嫌だなぁ、怖いし暗いもん。青の方が明るくていいよー」
「んー、確かにそうだなぁ。うん! 青にするよ」
京は、白いブロックの上に青のブロックを乗せる。愛月は微笑み、再びパズルへと目を向けた。愛月はこの頃から非常に頭が良く、大人でも難しいピース数乃多いパズルを淡々とこなしていた。
二人はそのまま黙々と、ほとんど会話をすること無く別々の事をして遊び続け、時間を忘れるくらいに没頭した。
いつの間にか外は黄昏色に染まり、カラスが鳴いていた。もう愛月が家に帰る時間だ。
「出来た!」
「私も出来たよ!」
二人が今日作った作品を見せ合う。
「見ろよ、これ! 人型のロボット!」
「ロボットかぁ。ヒーローっぽくて、かっこいいね!」
京が作ったのは、青と白の正義のロボット。京は、正義のヒーローが大好きだ。気が付いたら、戦隊ドラマや、ライダーや魔法少女アニメ、ロボットアニメなんかをずっと見ていた。そんな子供だった。
「まあな!」
「ふふっ。私のはね、じゃーん! 海のパズル! これねー、同じような色のピースが多くて、絵柄だけで判断できないから難しいんだよー」
愛月は完成したパズルを京に見せびらかす。ゆったりとした、深海の情景。穏やかで何の音もしないその世界を、パズルは映し出していた。
「へえ、そうなんだ。お前やっぱ凄いよ! 将来、学者にでもなるかもな」
「ええー、学者なんて嫌だよー。お花屋さんがいいよー」
「えー、もったいないって! その頭を活かせよー」
「いいもん、花屋さんになってパズルを活かすんだもん」
「どうやって活かすんだよ」
「どのお花をどこに飾るかとか、そういうのに!」
「へえー、そうか」
「うん! あ、そろそろ私帰らなきゃ。そのパズル、飾っておいてね! じゃあ、また明日」
「おう、また明日な」
そうして愛月は京の家を出て、明日は如何にして京と遊ぶかということに思考を巡らせていた。明日はちゃんと、二人で出来る遊びをしようかな。それとも今日みたいに黙々と遊ぶのがいいかなー。その様なことを考えていた。
しかし、その次の日から夏休みが明けるまでの間、京は行方不明になってしまった。
2057年6月3日。
京はマシンを安置している部屋を調べていた。床に散乱している部品を片付け、棚をしらみつぶしに開けていく。棚の引き出しの半分を調べ終わった所で、京は、疲れたなと、マシンを見上げる。
京もまた、昔の事を思い出していた。
2024年7月23日。
京は、愛月を見送った後、一人で部屋の片づけをしていた。自分で作ったロボットは机の上に飾り、愛月のパズルは額縁に飾って綺麗に、大切そうに壁に掛けておいた。
「これでよしっと……あ、そういえば新聞取ってこないと」
ふと、思い出したように新聞を取りに外へ出た。すると見慣れない女性が一人立っていた。
「お姉さん何してるの?」
親には、知らない人には声をかけないように言われていたが、遊びの後の高揚のせいでそんな事は頭に無かった。その女性はあまりに綺麗だったし、そうでなくても、どうしても話しかけなければならない様な気がしたのだ。
京が声を掛けると、女性は可愛らしく微笑んでみせた。
「んー? いやー、ちょっと、頭の良い子を探しててね。君、頭良さそうだし、ついてきてくれないかしら」
「頭が良い子なら、そこの家の愛月の方が――」
「君の方が良いんだけどなあ……駄目かな?」
「……いいですよ」
京は不思議に思いながらも、綺麗な女性の誘いを断れなかった。少年は正直なのだ。綺麗な女性がついてきてと言えば何処までもついていくし、汗臭い男についてきてと言われれば絶対に行かないのだ。
「じゃあ、行こっか」
その女性からは、ボディクリームの優しい匂いがした。とても綺麗で可愛らしい顔立ちをしていて、決して気どる様な素振りは無かった。飾らない美しさという言葉がぴったりだ。
「一応聞くけど、君の名前はなんて言うの?」
「時代京だよー!」
「そう……いい名前ね」
「そうなのかなあ。お姉さんの名前は?」
「ええと……歩よ」
女性に導かれるまま辿り着いた場所は研究室のようだった。白い壁、白い床。パソコンが数台にホワイトボードが一つ。様々な機材や部品が床と机に散らばっていた。
「すげえ……!」
「すごいでしょ? 私の研究室よ。お姉さんね、科学者なの」
「科学者……」
科学者という言葉を聞いた京の心臓は、とっくんとっくんと小うるさく音を奏でていた。いつも見ているロボットアニメやライダーで活躍する科学者の姿を脳内で想像し、酷く興奮していた。全身の血が沸いて来る感覚。無機質な室内が、急に生の躍動に満ちた空間のように思われた。
「そう、科学者よ。興味ある?」
京は唾を飲む。太陽が落ちた空を窓から見つめ、無意識の内に頷いていた。
「うん、興味ある! 科学者ってなんか、かっこいいし!」
「……そうでしょ? よかったら、君に科学者の事沢山教えてあげようか?」
「本当!?」
女性は空を見た。見えるようになった星を見つめる。そして京に向き直り、しゃがみ込んで微笑んだ。
「でも、誰にも言わないでね。住み込みで教えてあげるから。ご両親には心配かけちゃうけれど」
「ううん、いいよ。俺の親のことは気にしないで!」
「そう、わかったわ……よろしくね」
それから夏休みが終わるまで京はその女性に科学のありとあらゆることを教わった。
次第に女性のことを師匠と呼ぶようになったが、その女は私情を一切明かさなかった。自分の苗字でさえも。しかし、不思議と懐疑心は無く、謎めいた信頼があった。師匠に科学者のあるべき姿を教わり、科学的思考のなんたるかも教わった。
夏休みが明けて家に帰るその日の事。
「今日でお別れね」
「そうですね」
京は帽子を深く被る。師匠は京の頭を軽く叩く。
「君はもう立派な科学者だ。胸を張るといい。いい? 君にはこれから沢山大変なことが待ってる。自分の所為で人が沢山傷つく。そして、自分さえも傷つくことが待っている。でも決してくじけることなく、何事にも、何者にも屈せずに、頑張って欲しい。頑張って生きて欲しい。今日まで頑張ってきたように。君は科学者だ。その気になれば何だって出来るんだから。私は君に、抵抗する力を付けたかった」
そう言って京の背中を押した。京は帽子を取り、空を見上げた。眩暈がするほどの快晴だった。
「師匠。この空は青いです。快晴ですね、今日は。もう、夏は終わりました」
京は師匠に一礼し、前を向いて歩き出した。
「夏は、まだ終わってなんかないわよ……」
2057年6月3日。
「師匠、僕は愚かでした。夏はまだ、続いていたんですね」
京は、最後の引き出しを開けた。その中に入っていたのはある日愛月が作った一つのパズル。深い海の写真のパズルだった。その額縁に、一枚の小さな紙が挟まったいた。
「何だこれは。こんなものあったか?」
その紙を広げて目を通す。
プロジェクトデリート……この計画はその世界線での異端となった出来事を消去し、
の世界線へと戻ることを目的とする。なお元の世界線へと戻る方法についてはファイルαを参照……何だこれは。元の世界線へと戻る計画……この世界線での俺が行う予定だった計画か。もしくは、俺達の為に残しておいた……? いや、それは都合よく解釈しすぎだな。自己中心論だ。
「京ちゃん来て!」
「これ、見て。このROMデータ何だろう。ファイルαって書いてあるけど」
「ファイルα……この世界の俺達の計画の全てがそこにある……プロジェクトデリート……この世界の俺達は一体何をしようとしていたのだろうか」
「読み込んでみる?」
心臓が跳ねた。小刻みに跳ねる。
この世界の俺が残した手掛かり、俺達の計画……元の世界線、つまりそれは俺達が元居た平和な世界線ということだ。しかし、その計画を何故この世界線の俺達が立ち上げる? この世界線の俺にとって、元の世界線も何も無いはずなのに。
「よし、読み込んでみよう」
ROMを愛月から受け取り、パソコンに挿入。金属が擦り切れるような甲高い音がした後、音声が再生される。
「……この世界にやってくることは分かっていたよ。初めまして、俺達」
「京ちゃんだ……」
「お前達によって俺達が上書きされることは、事前に分かっていた。お前は俺であり、俺はお前だ。そしてお前もまたこの計画を進めることになる。俺達が何故お前達の訪問を予知出来たか、プロジェクトαを発案するに至ったか。それは、今はまだ話せない。それを話すことで、この世界に大きな歪が生じてしまう。直接的には話せないから先ほどの言葉を忘れるな。お前は俺であり、俺はお前だ。さて、そろそろ計画の概要に入ろう。この計画はお前達が元の世界線へ戻ることを目的とする計画だ。そう、2045年のあの日のあの世界線へ。そのためには世界線に訪れた異端を消さなければならない。その異端とはつまりお前達だ。この世界線で言えばお前が愛月を助けたこと。つまりあの時のお前をお前自身の手で殺せば一つ前の世界線に戻る。それを繰り返せば、あの日に戻れる。お前達の主観ではな。この世界は矛盾を許さない。あの時の時城京がお前に殺されることによって矛盾が生じる。その矛盾を修正する為にその出来事を無かったことにする。愛月を助けに行ったという出来事を無かったことにした場合、お前の主観では愛月が死んだ世界線へと戻る。つまりそういうことだ。世界を修正していけ。これがプロジェクトデリートの概要だ。これだけでは不十分な説明だとは思うが、お前達なら分かるはずだ。俺の言葉の意味が。俺達はお前達にこれを残さなければならなかった。健闘を祈る」
再生が終了し、愛月はただ画面を眺めていた。京は顎に手を当てている。外は曇っていた。
「自分を殺せ? 冗談にしてはブラックすぎるぞ、俺よ。アメリカでも言わないようなジョークだ。この世界の俺は、極度なブラックジョーク愛好家なのかもしれんな。センスはいまいちだが……しかし、面白い。やってやるよ。俺が俺を殺せばいいだけのことだろう? 簡単だ。今までと同じだ」
「危険よ! この世界の京ちゃんが言っていることが本当という確証がないじゃない!」
「お前は自分の研究を、自分の計画を疑うのか? 自信は無いのか? 俺達は世界を変えてきた。悪い方向にだったが、それだけの影響力を世界に持っている。そうは思わないか?」
愛月は、この世界線での京の顔を初めて直視する。それは歪んだ顔。何十歳も歳を取ったようにやつれていた。まるで映画に出てくる悪役の老人のように。ヒーロー物に出てくる黒幕のように。ただひたすらに、歪んでいた。京の顔には影が色濃く刻まれ、愛月は、京が本心を隠しているような気がした。
愛月は無言で頷く。
「それでこそ愛月だ。ならばこの計画を実行しよう。幸い、俺達にはマシンがある。そして武器がある。そんなことは、楽勝だ!」
「……でも顔は隠したほうがいい」
「分かった、顔を隠そう」
「私がフード付きのマントを作るわ。色は何がいい?」
「黒だな」
「分かったわ」
第三章 『この世を騙す詐欺師』
第三章 「この世を騙す詐欺師」
「出来たわ。これを羽織って頂戴。武器はあまり派手なのは控えて。貴方自身に貴方だと気付かせないように。貴方と世界を騙すの」
愛月は完成したマントを京に渡す。
「……行く前に外に出てくるよ」
「ええ」
京は階段を上がり、外へ出た。周りを見渡すと、辺り一面荒廃していた。京にとっては、ひどく見慣れた景色だ。空を見上げる。見上げた空は異様に狭かった。手を伸ばせば雲に触れられてしまいそうで京は手を伸ばす。京は実際に、雲に触れたような気がしたが、しかし実際に触れることは出来ない。狭いように見えて広いのだ。近いように見えて遠いのだ。京は、距離感が掴めないでいる。
「もう、あの日の東京が思い出せなくなってしまった。師匠、貴女は今どうしているのでしょうか。こんな俺を貴女はどう思うでしょうか。笑ってくれるでしょうか。泣くのでしょうか、怒るのでしょうか……そうですね。終わらせますよ、長い長い夏を、この手でね」
京は、後ろを向いて研究室へと戻り、愛月には何も言わずにマシンへと向かった。マシンに乗り込み、設定をする。
ここまで来たらもうやるしかない。出来るはずだ、この世界の俺は確信を持っていた。その確信は恐らく、成功の確信。ならば俺に失敗の余地は無い。恐れることも、不安がることも何も有りはしない。自分自身を殺せばそれで済む。なんだ、意外と簡単な話だったじゃないか。どうしてそれを俺は今まで考えもつかなかったのだろう。俺は本当に馬鹿だな。
2044年3月3日。
愛月が殺されるはずだった日。
「今この瞬間には俺が3人居るのか、なんか妙な気分だな。この前までの自分と出会うなんて……っと、出会っちゃいけないんだったな。出会わずして殺さなければ」
フードを被り、京は、あの時の自分の元へと向かう。京の姿が見える。ナイフを取り出す。
許せよ、時代京。これは俺の為でもあり、お前の為でもある。少しだけ苦しめば、俺もお前も、救われるんだ。だから、ちょっとだけ我慢してくれ。
背後からゆっくり、ゆっくりと近づく。何も気を咎めるものは無かった。躊躇いも無い。京の中では、自分を殺すことも他人を殺すことも同じであり、それと同時に、自分を殺すことは自分の為であるという確信があったからだ。
この殺戮も運命によって決められているのだろう。理不尽な蝶の羽ばたきにより決定づけられた宿命。子供が好みそうなメルヘンチックな言葉だな。でも、それが一番ふさわしいのか。この世界はなんと、メルヘンなものなのだろうな。
近づく。ゆっくり。京の歩みはゆっくりなものであったが、それは着実な一歩だった。
距離はどんどん短くなり、やがて二人の京の間の距離は、ゼロセンチメートルにまで達した。そうして、あの時の自分が京に振り向きそうになった時、 京は、自分にナイフを刺す。
「あ……が……!」
京の口から漏れる悲痛な声。喉が擦り切れているような声だった。体内に詰め込んでいた空気が一気に逆流し、無意識なうちに吐きだしたような声だった。京は、傷口を抉るようにナイフを右に捻る。ぬぷりと妙に柔らかい感覚が京の右手を犯す。京の肉壁は、柔らかく、生温かかった。
「……ぎ、ぐ、あ……! ぁああ……!」
さらに右へと抉る。右へ、抉る。もっともっと右へ、抉る。体の奥深くまで抉り尽くすように、確かな狂気を以って、抉る。
「死ねない……! 俺は……! 愛、月……がっ―」
目標は沈黙。京はナイフと共に目標の体へと突き刺していたナイフを一気に引き抜き、右手に付いている血を左手で撫でまわした。
「ミッションコンプリートだ。許せ、俺よ」
そうつぶやいた瞬間、視界が歪んだ。今までとは違い、マシンで元の時代へと戻る前に目眩が起こる。世界に認識されたのだ。世界に捕まったのだ。見つかったのだ。しかし、それは狙い通り。
世界が高速回転する。回る、回る歯車のように回る、時計の中の歯車や針のように回る。それは右回り、時計回り。時間の流れが空間の流れに追いついてしまうようだった。追いついた時間が、空間にバトンタッチ。
視界の反転。左方向への回転が始まる。非常識な出来事に、京の脳は混乱する。やがて脳は、これが常識なのだと判断。状況対応が始まった。常識が非常識へ、非常識が常識へと移り変わる。景色の反転。左方向へと回転する世界に、違和感というものは無く、むしろ完全に適応していた。これが正常なのだという認識。
景色が暗転し、視界が閉ざされる。狂った世界が見えなくなる。
2057年6月3日
眩暈が治まり、世界は元の位置へと戻っていく。元の落ち着きを取り戻していく。落ち着いて、いつもと同じ回転を始める。京は辺りを見回す。ここは研究室だ。愛月は居ないが、マシンはある。作戦成功。ここは確かに京がついこの前まで居た世界線の研究室だった。愛月が死んでいた世界線。
無事に戻ってきたようだな、ほら見ろ、やっぱり本当だったじゃないか。科学者が、自分の言うことを信じなくてどうする。この世界での異端は……そうか、2013年。俺がCERNの研究室のVWに跳んだこと。そして研究者と揉めたことだ! しかし、VW内だぞ、この異端はどうやったら消せる?
京は、自分の頭で考え、あの時の自分の言葉を反復する。
「異端を消し、矛盾を生じさせる」
「つまりは世界に矛盾すればいいわけだ。あの時の俺を殺さなくてもいい。VW内で殺してしまえばいい。そうすると、あの時の俺の精神だけが死ぬ。哲学的ゾンビにしてしまえばいいんだ」
考えが固まってから行動するまでは、一分もかからなかった。
今度も、さっきと同じだ。俺を殺してしまえばいい。VW内でな。なあに、簡単な仕事だ。ここまで事が順調に進むと逆に怖くなってくるな。いや、怖がる必要も無いのか。
2013年4月13日。
CERN研究室のVW。全てにおいて順調で、そして迷いがなかった。方法が分かればもう迷うことはない。今回も、さっきと同じことの繰り返し。
何度も、何度でも繰り返す。必要な回数だけ繰り返す。
「もう、慣れたもんだな。」
あれから京はどんどん矛盾を消して行った。世界を騙し続けた。世界を欺く詐欺師となり、悪魔のような所業を平然とこなす。そのために幼馴染は二度も死を経験し、自分は何度も殺戮を経験した。二人の影は濃く、長くなっていった。そしてやっと、自分達が二度目に世界線移動を体験した世界線、三番目の世界線へとたどり着いた。
2057年6月3日。
いつもの研究室。しかし、あの時の研究室ではない。空人も居らず、マシンはあった。
「この世界線のこの時代は一体どうなっているのだろう」
「分からないわ」
食事スペースでコーヒーを飲みながら話し合う。京の斜め向かいに愛月は座った。
「この世界線では、貴方は何処に行ったのでしたっけ。」
「2000年11月2日だ。ジョンタイターの年」
「ならその時間での貴方を殺せばいいわけね」
「あぁ。世界は矛盾を取り消すために、全ての異端を修正する」
そう、世界は矛盾を決して許さない。だから俺達は今この世界線に居るのだし、俺達はここまで戦ってこられたのだ。
京はコーヒーを淹れようと立ち上がる。
「何処行くの?」
「コーヒーを淹れるんだ」
「今すぐ跳びなさい」
「え……?」
愛月から発せられた残酷な言葉。そこには、反論を許さない冷たさがあった。棘があった。毒があった。今まで感じたことがない寂寥が京を包む。
「コーヒーくらい――」
「駄目よ」
何だこいついつもと……そういえばさっきから俺のこと貴方って呼んでいる。いつもより口数も少ない……これは、報いなのか。当然の報い。約束を破った罰。殺人の報い。俺が犯した罪に対してこの罰は、軽いな。しかし、重い。世界は、この矛盾も修正してくれるのだろうか。
2000年11月2日。
矛盾の修正。世界の修復作用。しかし、自分の知る世界が正しいとは限らない。また、その修正が必ずしも自分達の思うように成されるとは限らない。誤字を修正液で消した後に、うっかり同じような間違いをしてしまう事と同じである。
京は無言で自分の姿を探す。
この世界線での俺を殺せば、二番目の世界線に戻るのだ。あと少し、あと少しだ。
自分を見つけ、今までと同じように、機械的に、何にも考えることなく自分を殺した。
世界の修正作用が働く。それは果たして修正なのか、改正なのか、改訂なのか。今まで修正された世界は本当に正しかったのだろうか。そんなことは京には分かるはずも無く、ただ妄信的に、世界に矛盾を突きつけてきた。一種の思考停止。
世界は、逆回転する。
2057年6月3日。
空を見る。空が見える。清々しく、子供の顔のような空。
どこだ、ここは。研究室じゃないのか? この世界線では俺達は元居た研究室には居ないのか。いや、今までもそうだったがその原因は何だ?
見知らぬ景色。生ぬるい空気。それとは逆にとても冷たく感じる景色。辺りにあるのはかれた草木と一つのくたびれた建物だけ。マシンもくたびれていた。そこにある全てがくたびれていた。冷たかったが、京には親近感が沸く景色だった。
「そんなところで何してるんですか、早く中に入ってください」
どこか懐かしい声がする。そこには、空人が居た。
この世界では空人も生きているのか、今まではどこにも姿が見えなかったから死んだものと思っていたが、この世界ではちゃんと生きて、今俺の前に居る。良かった……本当に、良かった。
「どうしたんです?」
「あ、いや何でもない。とりあえず、俺達の活動拠点は何処だ?」
「あそこの廃墟ですよ? もう、何を言っているんですか早く戻りましょう。ここは暑くてなりません」
「あ、ああ……」
建物の中は静かだった。無駄に広い空間だったが、そこかしこが錆びついていて今にも崩壊しそうな危うさがあった。しかし、京はそこに妙なシンパシーを感じとり、とても居心地が良い。
「では、会議の続きを……」
ちょっと待て、会議をするには一人足りないぞ。愛月無しで会議をするつもりか? そもそも何の会議だ、俺は今来たところだから皆目見当もつかん。
「愛月はどうした。あいつが居ないのに会議も何もないだろう、俺達のアイディア源で、一番すぐれた技術者であり科学者であるあいつが居ないで出来る話なんて今更する必要がある話でもないだろうに」
「何を言ってるんですか。愛月さんならいるじゃないですか、そこに」
「そこって何処に――」
空人の指す方向を見る。そこにあったのは、一台のパソコンと、そこに繋がれたおびただしい程の数のケーブルと……人間の脳。京は、頭を鈍器で強く打たれたような感覚がした。気持ちが悪い。誰かの脳が得体の知れない液に漬けられ、ガラス瓶に入れられている。そして脳には電極が刺さっており、電極は数多のケーブルの一部として、パソコンに繋がれていた。
「何だ……何だこれ、何なんだよこれ!」
「何を言ってるんですか、それが愛月さんです。そもそも、これは貴方がやったんですよ?」
「え……?」
背筋が凍る。
「ちょっと待て、これが愛月だって? どうみたって脳とコンピュータじゃないか! これがどうしたら愛月に見える? 愛月だと認識出来る? そもそもどうして脳が液体に漬けられてパソコンに繋がれている?」
「京さん……ひょっとして、世界線を跨いでます?」
「ああ、そうだよ。俺は世界線漂流の末再びこの世界に辿りついたんだ。だから、この世界のこの時代のことはさっぱりわからんのだ。お前が何を言っているのかも、目の前の脳が何であるのかも、だ」
「なら、ご説明しますね。この世界では、愛月さんはもうとっくに死んでいます。経緯は、とても悲惨なもので、僕も思い出したくないので話せませんが……それを受け入れられずに、愛月さんの脳を保存し、VW内に人格を再現するシステムを作り上げました。それが、この愛月さんです」
「つまり、全て俺が望んでやったということか。そんな墓荒らしのような真似を。死者を愚弄するような事を。俺は神にでもなったつもりでいたのか……? いや、それは俺にも言えたことじゃないな。何はともあれ、俺は狂っているのかもしれない。いいや、狂っているんだ。確実に」
「京さん……」
「空人、こいつは本当に愛月の人格が再現されているのか? だとしたらどうやったらその再現した人格とやらに会えるんだ」
「そのパソコンを覗いてみてください。」
京は、恐る恐るパソコンに近づく。カエルが蛇に近づくように。確かな恐怖を以って。パソコンの前に座り、電源を入れる。愛月の脳が、わずかに脈打つ。デスクトップ画面には一つだけアイコンが表示されていた。
「一つだけアイコンがありますよね、それをクリックしてください」
クリック。
――システム起動。VCシステムオールグリーン。四季愛月を起動します。
脳が激しく脈打つ。その光景はまさに不気味だった。
――京ちゃん、おはよう。
画面全体に大きく文字が表示される。
「え……なんだ、これ。京ちゃん……?」
確かに今こいつは京ちゃんと呼んだのか。こいつには世界線漂流の記憶は無いのか。脳だけになることで、世界の目を欺いたとでも言うのか……?
――京ちゃん?
何を冷静になっているんだ。こんな異様な光景を見て、それを分析するなんて、どうかしている。
京は自分を軽蔑した。激しい自己嫌悪。止め処なく溢れてくる罪悪感。
――京ちゃん、どうしたの?
「いや、なんでもない。お前をこんな姿にしたのは、本当に俺なのか?」
――うん、そうだよ。
「目的は……こんな残酷な、人間に許されざる所業をしたのは、一体何のためだ!?」
――私という存在を貴方に託すため。京ちゃんはそう言っていたわ。近々俺じゃない俺が来る。そいつのために、愛月を残しておかねばならなかった。愛月は俺の切り札だって言ってた。
「俺のため、だと?」
いや待て、そうなるとこの世界の俺は俺に上書きされることを予期していた? この世界の俺は一体何者なんだ。前にもこんなことがあった。他の世界線での俺は、一体なにを見て来た、何を知っている。一体何なんだ。どういうトリックだ。切り札とは何だ。自分が分からなくなる。気味が悪い。
京は全身を巡る血液が自分のものではなくなってしまったかのような感覚に苛まれた。全身の骨という骨をかち割りたいという欲求に駆られた。それと同時に、全身の内臓という内臓を握りつぶしてやりたいという欲求にも駆られた。
京はふと、天井を見上げる。嗤っているような気がした。
「こんなのってありかよ……! おい、神か! それとも世界か。こんな事を仕向けたのは……! どうやったらこんなにむごい事が出来るんだ、人を殺すよりもむごい、人間として最も最悪で最も忌むべき行為を! どうして……」
――どうしたの?
「どうしたもくそもない。俺は自分を、自分自身を許せない。例え今の俺がやったことじゃないにしても、この世界線での前の俺も、どの世界線での俺も、確かに俺という人間なのだから。俺は、どうしても許せないんだ」
――でも、そうしなければ世界は元通りにはならないという確信が京ちゃんには有ったのよ。私にも、良くはわからなかったけどね、でも私はそれを可能にする術を貴方に教える事が出来る。それが私の存在意義。
「お前の存在意義とはは……切り札とは何だ」
――私がいることで、貴方は前の世界線に戻ることが出来る。この時代の技術を私が京ちゃんに伝授するの。それが私の存在意義。その技術こそが切り札。それを使えば、全てを元通りにすることが可能だって京ちゃんは言ってたわ。
「つまり、今の俺の技術では不可能ということか」
――まぁ、そうなるわね。
「なるほど。もしそれが本当なら、今まで俺がしてきたことは全て無駄だったということか。まったく、とんだ笑い話だな、滑稽だよ。俺は今まで一体何をしてきたのだろうな」
――京ちゃん……無駄なことなんてないよ、全ての事象には価値があり、意味がある。
「ならなんの意味があるっていうんだ」
――それを今論じていても、それはわからないわよ京ちゃん。
「……それもそうだな」
俺は科学者として、悪魔になった。悪魔になってまでしたことは、今までの俺の活動を否定することだった。しかし、その事が俺を勝利に導く鍵なのだろう。だとしたら、信じるよりほかは無いな。何にせよ俺はこの世界で、自分達以外に信じるべき人間など居ないのだから。疑う余地は無い。
――この世界で取り消すべきは京ちゃんの存在。そして神の存在を消すことよ。しかし、失敗したの。確かに消したはずなのに消えていなかった。私達は、その謎を追わなければならないの。その対策も、京ちゃんの頭には有ったみたいなんだけど、生憎私には伝えられていないの。思ったより京ちゃんが来るのが早かったからね。
「今までのように、ただ消すだけでは駄目だということか」
――うん、そう言うことよ。そうやって思考停止して単純に出来るような話ではもう既に無くなってしまっているわ。
空人は頭を掻いて天を仰いだ。京はただ立ちすくみ、周りをきょろきょろと見渡した。無意識にホワイトボードの文字を追いかける。俺が来る前に俺達がしていた話について、そこには書かれていた。
神が消えない理由と目的について。何がしたいのか、CERNはどうやって神を制御し、利用しているのか。
京はホワイトボードに近づき、眉を歪める。目を細め、顎に手を当てる。
「これはタイムトラベル無しで調査しなければいけないな」
「そうなんです。そのためには普通に考えると、ハッキングまたは、マンハッタンへの侵入を行わなければなりません。でも、今は厳戒態勢が敷かれているからどうしても難しくて」
「そこで、こいつを使うのか?」
――そうかもしれないわね、京ちゃんは、私を切り札だと言ったのだし。私のデータにある知識や、技術を京ちゃんに伝えることで、CERNへのハッキングが可能になるのかもしれない。
愛月は自分の記憶の事をデータと言った。愛月は今やゾンビのような存在だ。ゾンビのような愛月はデジタルの存在。ゾンビになる過程でアナログからデジタルへとなってしまった。人格データや記憶データで構成される存在に。京にはそれが、ひどく寂しいことのように思えてならない。
「一体どういう使い道を?」
――それは分からないわ。
「自分で考えろということか。とりあえず、この世界線での俺が言う通りに、この時代の技術を学ばなければいけないな」
――そうよ。でも安心しなさい、私がいるのだから。
とても誇らしげで、自信満々な愛月に京は思わず吹き出してしまう。しばらく感じることがなかった愛月の無邪気さを感じたからだ。それが酷く懐かしく思えたのだ。以前とは決定的に違っていたが、京には以前と大して変わらない……いや、同じに見えた。さっきまで感じていた寂しさが少し、少しだけ和らぎ、薄れて行く。
「では教えてもらおうか、俺達の技術の要」
京は再びパソコンの前に座る。
――いいわよ、私はそのためにいるのだから。とりあえず何か聞きたいことある?
「そうだな、まずはお前の脳を満たしているその液体について聞きたい」
愛月の脳を浸している赤黒い液体。不気味さを京に与えているそれの正体をまず最初に知りたかった。幼馴染を生かしている物の正体を。
――この液はBF溶液って言うの。成分は人の血液と似たようなものよ。この時代で発見されたBFという成分を飽和する寸前まで水に溶かしたもの。 内臓や体の諸器官をこの液に浸すことで、内臓は生きながらえることが出来るの。この技術は、世界の医学に大きな進歩をもたらしたわ。
「このVCシステムもBF溶液で愛月さんの脳を生かすことで成立しています。その脳に電極を差して海馬に蓄積された神経パルス信号を読み取ってデータ化し、擬似人格化しているのです」
「なるほど」
「そのBFというのは何から採取することができるんだ?」
――それは、死人の脳よ。
「死人の脳……?」
死人の脳からBFは採取することが出来る。その事実が示す一つの事柄。それは残酷で無慈悲なものだった。
「つまり俺はまた沢山の人を殺したのか?」
――そうなるわ。
背中に重たい物が圧し掛かる。自分の罪を再確認させられる。穏やかになりかけていた心が氷に侵食されていく気がした。再び凍りそうになる心。クラリとし倒れそうになった瞬間だった。
突然、京と空人を頭痛が襲う。
奇妙なことに、その頭痛と共に京の脳内に映像が再生された。
見たことの無い光景。京の体はどこかに倒れていた。一面の血溜まり。身体が冷たい。動かない。いや、動けないのだ。心臓がいつになく静かだった。しばらくその静寂に身をゆだねていると、顔が動くようになっていた事に気付く。そうして顔を上げると、自分を見下ろしている顔に気付く。その顔が異様に懐かしく感じた。しかしぼやけていてよく見えない。
なんだ、これは。白昼夢か?いや違う。それよりも、もっと鮮明だ。現実? いいや、それもおかしいな話だ。俺はさっきまで研究室に居たはずだ。倒れてもいなかった。血も流れていなかったはずだ、俺は何故血を流している。そもそもこれは俺の血なのか? 痛くないぞ。そして、どこか懐かしい感じがするこの顔は誰だ、誰の顔だ。ぼやけていて見えない。一体何だというんだ。
頭痛が治まる。視界は開け、さっきと変わらない研究室が見えた。そこには相変わらず愛月の脳があり、不気味さを醸し出していた。
「なんだ、今の……」
「空人も見たのか、奇妙な映像を」
「はい……一体何なんでしょうか、頭痛と共にこんな妙な映像を見るなんて」
「偶然にしては趣味が悪いな」
同じ様なことをどこかで経験した気がする。頭痛と共に現れる妙にリアリティのある映像。
「デジャヴ。違う世界線の記憶……」
「デジャヴ?」
「そうだ。違う世界線の記憶を思い出すこと。たまにあるだろう? 現実じゃないのに現実のように感じる感覚。白昼夢や正夢のそれと同じような……しかし待て、どうして同じタイミングで二人ともにデジャヴ現象が?」
同じようなことが過去に無かったか、京は自分の記憶の海を探る。
「集団デジャヴ事件」
それはかつての掲示板で見た文字だった。
「集団デジャヴ事件? なんですか、それ」
「俺が前、いつかの世界線で見た掲示板のスレタイトルだ」
「それってどういう――」
「そうだ、集団デジャヴ事件だ。となると前から話題になっているかもしれない。空人、インターネットって繋がるか?」
「え? あ、はい、繋がりますよ」
京はパソコンからインターネットに接続。検索窓に集団デジャヴと打ち込み、エンターキーを押す。トップに出てきた記事をクリック。タイトルは『謎の現象、集団デジャヴ!』という記事。開こうとするが、政府によるプロテクトがかかっていた。
「プロテクト……? ということはCERNが関わっているな。奴等め、一体何を企んでいるんだ? しかし、一つの記事にかけられたプロテクトくらいならいくらブランクがあろうとも、俺にかかればすぐに落ちるはずだ」
京はハッキングを開始した。次々とプロテクトを解除していく。そして最後のプロテクトを解除した。
「それみろ! さあ、諦めて俺に全てを晒しやがれ」
記事を閲覧。現れた文面を目で追っていく。
「世界中の人間が謎の既視感に襲われパニックに。人格障害や記憶障害も多数見受けられる。これはCERNの秘密実験か、疫病か……病気? そんなわけが無いだろう。こいつは馬鹿なのか? やはりCERNが絡んでいると見て間違いないな。人格障害まで引き起こすとは、一体なんだこの事件は。原因は一体何だ……っち、そこまで書かれてないのかよ」
京は、再びプロテクトをかけ、そのページを閉じる。
「もっと詳しく調べる必要があるな。CERNにアクセスするか。いやそれは危険だ……ならどうする?」
――京ちゃん、スイッチ入ってるところ悪いけど本題は……。
「一つの手掛かりかもしれないだろう? 全ての物ごとは関連しているんだ。全ての物ごとは糸で一繋がりになっている。どんな出来事も、軽く見てはいけない。CERNが関わっているとなるとなおさらだ」
――でも、今優先して考えるべきはどうやってCERNにハッキングをかけるかを考えるべきじゃないの?
「考えてもわからないのなら、別の観点から物事を眺めることも重要だ」
――まあ、そうねえ。まあ、今の京ちゃんには何言っても駄目ね。
「そういうことだ」
「相変わらず、その行動力は一体どこから湧いてくるのか皆目見当もつきませんよ僕は」
「科学者だからな、目の前に謎があれば突き止めたくなるし、目の前に壁があるとその壁について調べたくなる。久しぶりにそういった科学者として当然の欲求に駆られたんだ、嬉しくてたまらない。だから、行動せざるを得ない」
「そういうもんなんですかねえ、科学者って」
――そういうものよ。科学者ってね、びっくりするくらいに単純な生き物なのよ。そう言う意味で言えば、単細胞生物みたいね。彼らは、自らの種の繁栄という欲求に正直にただひたすらに繁殖を続けるけれど、科学者は謎を解き明かしたいという欲求に正直に行動をし続けるのよ。
「へえ、科学者って僕には良くわかりませんよ」
「まあ、そうだろうな。にしても、CERNの支配と集団デジャヴには、何か関連性があるのではと、どうしてもそういう風に考えてしまうな。実際は根拠も無いのだが」
――でも、そう考えるのが自然よね。大した記事でなくても、プロテクトをかけるくらいにCERNにとっては秘密事項の様だし。それなりに関連性はあるはずよ。
「しかし、何のために……」
突然京の身体が震える。しかし、震えているのは体ではなく、白衣のポケットだった。ポケットからA―phoneを取り出す。メール受信一件有り。知らないアドレスだった。いつもの、何かを予見するメールを送ってきているアドレスとも違うアドレス。
京は、不審に思いつつメールを開く。
――今すぐ表に出ろ。
何だこれは、悪戯か?
そう思いつつ京は無意識に立ち上がっていた。
「ちょっと外の空気を吸ってくる。」
このメールには、何か重要な事が有るに違いない。証拠は無いが、今までもそうだった。突然の不審なメールは、いつも重要な事を語っていた。今度は、誰かが俺に直接伝えたい事でもあるのだろう。それは未来の自分か? いやそれでは自分と出会ってしまい、世界に修正されて結果的に無かったことになる。なら、一体これはどういった人物なのだろうか。
京は、外に出て人影を探す。
「ここだよ、京」
自分の名前を呼ぶ声。その声は、どこか妙に懐かしかった。
声がする方へと京は目を向ける。そこに立っていたのは夏休みの権化。終わらない夏からの使者だった。
「師匠……?」
「久しぶりだな、京」
師匠と呼ばれた女性は京に手を振り上げ挨拶をする。京は呆然としながらも、手を振り上げ挨拶を返す。
「どうしてここに居るんですか? ずっと姿を見せなかったのに、どうして今更。世界はこんなになっているのに……そうだ、大丈夫でした? 襲われたりしませんでしたか?」
師匠は微笑みを浮かべた。あの日見た優しい微笑み。懐かしい微笑みだった。しかし、その微笑みの裏には冷たさと狂気があった。
「京、今すぐ私と一緒に来なさい」
「……どこにです?」
京は不審に思った。この微笑の裏には何かとんでもない物が隠されているような気がしたのだ。
「マンハッタンだ。私はCERNの職員。君が作った神を管理している。集団デジャヴ事件に巻き込まれたくなかったら来なさい」
冷たい何かが目から耳から入ってきた。
マンハッタン、CERNの職員? 神を管理しているだって? それにその口ぶりだと、この事件を引き起こしているのは自分だとでも言いたいのか。一体何なんだ。師匠は一体何をしている。何を知っている?
京には分からないことだらけだった。久しぶりに姿を現した恩師が急に不審人物に見えた。恩師がもう既に、恩師で無くなってしまったことを察した。それは、寂しくもあり、仕方がないような気もした。
「君が思っている通り。私は集団デジャヴを引き起こした張本人だよ。あれは私の実験だ。人類の尊厳と私の目的遂行のために必要なの。これも全て私の目的遂行のための布石にしか過ぎないわ」
「貴女は一体何を――」
「デジャヴというのは違う世界線の記憶を思い出していること。これは知ってるでしょう。そして今世界中で人々がデジャヴを引き起こしているのは私の実験の所為。この実験は人類全てが違う世界線の記憶を通して自分の運命を知り、正しく行動できるように人類を導くための実験。私の一存でやっていること」
まるで映画に出てくるマッドサイエンティストのような台詞。現実味を帯びない話。だが京には現実に聞こえた。だってこの世界はメルヘンなのだから。
「私はね、京。2070年からやってきたタイムトラベラーなのよ」
「タイムトラベラー……?」
タイムトラベラー、それは因果の輪から外れた存在。自分と同じ存在。
「未来ではね、京。君や愛月ちゃんが恐怖政治を展開していたの。だから私はそれを止めようと君の政治家への道を閉ざし、ついでに科学者にした。いつか私の計画の手助けになるように。そしたら君はあれを作った。好都合だったわ」
京は、次々に告げられる全く訳のわからない話で、目の前の存在を無意識に拒絶した。吐き気を覚える。激しい拒絶反応が身体を襲う。
俺達が恐怖政治だって? 冗談じゃない。俺達が政治家をしているところなんて、想像もつかないし、そもそも政治家なんて俺達には向かないだろう。それに、人を恐怖で治めるのだって、そんな事は戦時中でも無ければ意味を成さないだろうに。信じられん。
「改めて言うわ、付いてきなさい」
いや……まて、これはむしろ好都合なのではないか。CERNに合法的に潜入できる。師匠に協力するフリをすれば、神に接触できる機会はいくらでもあるだろう。これを感情に任せて拒絶するのではなく、ここは受け入れてみるべきなのではないか。それに、断ったとして、俺の命が無事だとは思えない。断ったら殺されそうだ。だとしたら、俺には選択権なんて最初から無いのかもしれない。だったら、答えは一つだ。
「はい、喜んで付いていきます。しかし、一つ条件があります」
「ん? 何?」
「愛月を連れて行ってもいいですか?」
「えぇ、いいわ。それで貴方が付いてくるのならね、好きになさい。」
マンハッタン、CERN研究所。
「ここが私の研究室。ここで私の助手として私を手助けしながら、技術を学びなさい。そうすることで、私の助手としてちゃんと働ける力を身につけるの」
「技術を学ぶって、誰が教えてくれるんでしょうか」
「私が教えるわ、助手の育成は科学者の勤めよ」
「わかりました。では、講義はいつから始まるのですか?」
「明日からよ、今日は移動だけで疲れたでしょう? 休みなさい」
「はい、そうさせてもらいます。ちょっと、色々ありすぎて頭が痛いですし」
京は、自室に案内された。そして、自室に愛月を安置して起動する。
――ここはすごく機材が充実してそうね。
「そりゃあそうだろ、世界最大の研究機関なんだから」
――ああ、そうだったわね。でも、マンハッタンに行くと言われた時にはどうなるかと思っていたけれど……案外楽しそうじゃない、京ちゃん。
「どうしてそう思うんだ? 敵の本拠地だぞ、楽しいわけはない」
――嘘、その師匠とか言う人と技術を学ぶ事が出来るのが内心嬉しいって顔してるわよ。
「そんなこと……ねえよ」
――ふふ、まあ否定するのもいいけれどね。でも、科学者として如何に楽しかろうと、目的を忘れないでね。
「忘れないよ、忘れるわけない」
――まあ、忘れても私が思い出させるのだけれど。
2057年6月4日。
京は師匠からBFの取り出し方、BFの扱い方を学んでいる。
「今日はまず基本の基本、BFの取り扱いについて講義します。まず、BFというのは、人間の脳にある成分の事ですね。BF溶液は、BFを水に飽和ギリギリまで融かしますが、ビーカー一杯分のBF溶液を作ろうと思えば、一体どれくらいの人間の脳が必要になるのでしょうか。ちょっと当てずっぽうでもいいから考えてみなさい」
「んー……三つくらい?」
「違います、もう一声欲しいですね」
「四つ?」
「それよりもうちょっと多いです。じゃあ、答えを言いましょう。人間の脳約五つ分のBFを必要としますよ」
ビーカー一杯で五つ分……となると人間の脳を完全に浸すような量のBF溶液を作ろうと思えば、その二倍どころか三倍、四倍……へたすれば五倍は必要になるんじゃないか。いやもっとだ、少なくとも二十五人以上の脳を使っている事になる。
「でも安心して、私達が実験に使っている脳は生きている人間の脳ではなく、臓器提供してくださった死者の脳を使ってます」
「そうなんですか」
京は少し以外に思った。生きている人間の脳を無理矢理実験に使用しているものとばかり考えていたからだ。世界を支配しているCERNのイメージは、京の頭の中ではアニメや漫画に出てくるようなマッドサイエンティストのように非道極悪で、実験の為なら生者の血肉さえも吸い取るような機関だとばかり思っていた。
「そうなんですよ、ただ、中々集まらなくて実験はあまり出来ないのよ。まあ、実験出来るということは死んでいる人が沢山いるということなのだから、実験回数が少ないのは良い事なのだけれど」
この発言も京にとっては意外。CERNは、人民の死を実験に利用はするが、人民の死を望んでいるわけではないようだ。
「CERNが世界を統一してからというものの、死者の割合は以前よりも減ったのよ? 意外と。人々は自衛の手段を身につけ、安定した生活水準が保たれることでどの国も等しく医療などの技術を受ける事が出来る。インターネット普及率も、百パーセントに達したわ。レジスタンスもいるけれど、何もこの統治は悪い事だけではないの。京は、この統治をただただ、悪い物だと思ってレジスタンスのリーダーと一緒に居たのかしら」
「正直意外でした。俺がこの世界で見て来た人々は皆、武器を持って反政府運動をしたり、怯えて暮らしている人ばかりでしたので」
「そうなのね。まあ、いつの時代もそうよ。独裁政治ってね、批判するのは簡単なのよ。非人道的で、駄目だってね。批判する箇所が簡単に見つかるでしょう? でも、その一方で良くなる面のあるのよ」
「ただ、反政府行動の弾圧はするんですね」
「ええ。それをしないと無秩序になって私達の統治の良いところが活かされなくなるじゃない? あと、弾圧しないと他の人々に示しが付かないのよ」
「かつてのドイツや旧ソ連も、そうだったのでしょうか。もう呆れるほど昔の話で、歴史の教科書やネットでしか知る機会が無いことですが」
「そうだったと思っているわ。ドイツの独裁者はね、人民が選挙で選びだしたのよ。つまり、人民が同意の上で国のトップに立ったの。その結果独裁になったけれど、その当時のヨーロッパで最も優れた憲法を作りだし、当時の世界では頂点と言えるほどの科学力を持つようになったのも、その独裁者のおかげ。マスメディアを統治に活かしたのも彼が初めてよ」
「そうだったんですか……そこまでは知りませんでした」
「そうなのよ。だから、馬鹿の一つ覚えみたいに、ただ批判するだけでは駄目だと思うの。レジスタンスも、独裁だからと言って盲目的に批判するんじゃなくて、もう少し考えた上で批判して、武力ではなく、意見文の一つや二つ、新聞社にでも送れば良いと思うの。そうしたら、検閲のためにCERNは読まざるを得なくなるし、人民の意見を無視することは流石にできないから、対応しようかどうしようかって議論にまで持ち込めるかもしれないのに」
京は完全に面喰っていた。ただ、欲望のままに世界を支配しているわけではなく、色々考えた上でCERNは独裁の道を選んだのだと思い知らされたからである。
「私達はね、必要悪なのよ。独裁が必要な世の中になったから、私達は独裁政治を行っているの」
「それは一体どういう」
「私達CERNが世界を統一しなければ、今頃人類は滅んでいるか、劇的に数が減っているに違いないわ。ある日、時間移動が出来るシステムを私達はVW内に発見したの。それの利用法をどうするかというのはCERNの枠を超えて、各国で話しあいがされたわ。でもね、どの国も自国での所有を主張して、今にも戦争になりそうだったの。そりゃあ、時間を移動できるのなら、自国の都合の良いように歴史を改変できるからね」
随分身勝手な話だと、京は呆れた。しかし、その火種となったのは間違い無く京と愛月自身が生み出した神に他ならないのだ。
「それで私達は動いたのよ、人類の繁栄の為に自分達は悪役になって世界を統一しようと。まあ、結果的に支配という形になったけれど、自分達の選択が間違っていたとは思っていないわ。そのおかげで戦争も起こらず、時間移動が可能なシステム……私達はGシステムと呼んでいるあれは、何処の国にも渡らずに、ただ研究材料となって私達の技術を支えているの。実はね、VWの一般普及がここまで早く完成したのはGシステムのおかげなのよ」
「結局は、各国の自業自得ということですかね」
「まあ、平たく言えばそうなるわね。でも、仕方の無い事よ。人間は所詮人間でしかない。政治家もそれは同じよ、自らの欲求はそう簡単に抑えられるものではないわ。どこの国もプライドが高いしね、敗戦の歴史とか、塗り替えたいことは山ほどあるはずだし」
「でも、世界は人々が思っているほど……単純なものなのでしょうか。そう易々と一人の人間に都合よく改変されてしまうような」
「ええ、そうね……私もそうは思わないわ」
歩は一瞬虚ろな目をした。京はそれを見ていなかったし、京が歩と同じ様な目をしたのを歩は見ていなかった。
「さあ、話が逸れたわね。続きをやるわよ」
「はい……あの、一つ質問いいですか?」
「何?」
「BFって、人体に影響はあるんですか」
もし、影響があって、更には人体に害のあるものなのだとすれば愛月の脳に異変が生じる可能性があるのだ。ずっと、浸かっているのだから。
「BFが人体に及ぼす影響は少ないわ。かといって、全く無いというわけではないのだけれどね。少なくとも害は無い。元々人体に有ったものだからね」
「そうですか、ならよかったです」
師匠の説明は呆れるほどに丁寧で、分かりやすいものだった。京は歩と抗議や議論をするのがとても懐かしく思い、かつての少年時代の夏休みに戻った様な、そんな気さえした。
しかし、あの頃とは決定的に違う。京にとってこれは、世界の支配者達を欺き、自らを勝利に導くための作戦。油断は許されなかった。あの夏の日とは決定的に違っていた緊張感があった。
「このBF溶液は医学転用も出来るわ。これがあれば内臓を生かしておくことが出来るからね。ホルマリンとは違って生きた標本にすることも可能よ。しかし、CERNはまだこの溶液の民間流用はしていないわ。まだまだ研究が足りなくてね、一般人の使用を許可するには危険なのよ。まあ、それを何故か貴方はやってのけたわけだけれども」
京は熱心にメモを取る。敵ではあるが、歩の話には、単純に科学者としての興味をそそられるのだ。緊張感と共に京にはある感覚があった。それは楽しいという感情。一人の科学者として、この状況を楽しんでいるのだ。自分の知らない技術が……世界が、ここにある。それが京をわくわくさせた。興奮させた。
「と、今日はここまでにしましょうか。関係無い話沢山しちゃって、疲れてるだろうし。明日は人間の脳からBFを実際に取り出す実習をする予定だから、今日はあまりやりすぎない方が良さそうだしね」
「はい、ありがとうございました」
「どういたしまして、部屋に戻っていいわよ」
「じゃあ、師匠また明日」
京はお腹が空いていたので、部屋に戻ってすぐに食事を取ることにした。自分の研究室に居た頃は、いつも食事は即席のカップ麺だったが、この日はいつものカップ麺ではなく、冷蔵庫に取っておいたケバブを取り出した。そして電子レンジに入れ、温め開始。
そして、温めている間に、愛月の前に座り、今日の成果を報告する。
「今日はBF溶液の取り扱いについて学んだんだ。明日はBFの取り出し実習らしい。学んでて思ったんだが、これがお前達の世界の技術なんだよな」
――そうよ、何感慨深そうにしているのよ。それにしても京ちゃんは、楽しそうね。
「そんなことは無い。作戦行動中だぞ、楽しいもんか」
京は大げさに首を振ったが、嘘だった。楽しくないはずが無い。未知の技術を学ぶ事が出来る喜び、そして楽しさを科学者である京は否定出来るはずもないのだから。
――なんかだんだんいつもの京ちゃんに戻って行っている感じがする。昨日の京ちゃんは、とても見ていられなかったもの。
「いや、まぁなんだ。科学者だからな、俺は」
京はバツが悪そうに頭を掻きながら席を立つ。
――京ちゃんらしいや。
電子レンジが音を鳴らす。電子レンジの蓋を開け、中から熱いケバブを取り出した。再び愛月の前に座り、食べ始める。
――ちょ、何これいじめ?
「いじめじゃねーよ。ほら、美味しそうだろう?」
――全く、京ちゃん。私がケバブ好きなの知っててわざとやってるでしょ。
「そんな訳ないだろ、偶然だよ偶然」
――えー、絶対嘘だよ。
「証拠は?」
――無いけど。でも、でも!
「はいはい証拠無いなら否定は出来ないだろう?」
「さぁ、明日も早い。食い終わったら寝るぞ。」
――もう、京ちゃんの馬鹿。
2057年6月5日。
「では、これよりBFの取り出し実習を開始します。京、ゴム手袋を着けて」
京は真剣な顔付きでゴム手袋を着ける。
「着けました」
「じゃあ、次にそこのビンから脳を取りだして。優しくね」
「はい」
京は、指定されたビンからホルマリンに浸かっている脳を優しく手で掴んで、ゆっくりと慎重に取り出す。
「取り出しました」
「それをそこの台に置いて頂戴」
指定された台に元々は誰の物かもわからない脳を置く。
「それじゃあ、ピンセットで脳を部位毎に選り分けていきましょう」
京はピンセットを持って、脳の解剖を始めた。京は外科医でも無く、脳の解剖など、鶏の脳でしかやった事が無かったのだが、歩の指示のおかげで難なく解剖を進める事が出来ている。脳というのは意外と様々な部位によって構成されており、京は驚きと興奮を隠せなかった。
「選別終わりました」
「いいわ、次はこれを部位毎にこの特殊なミキサーにかけます」
そう言って指したものは一見普通のミキサーと変わらないようだった。
「このミキサーは、一体どういったものなんですか?」
「んー、遠心分離機のようなもの、と思ってくれたらいいわ。これにかけることによってBFが取れるの。やってみて」
言われるままに部位ごとに分けた脳を遠心分離ミキサーにかける。そうすると、脳はバラバラになり、成分の重さの違いから、成分毎に分別されていく。そして、数分すると分別が完了するので、分別した成分が乗せられているトレイを取り出し、違う部位をまた回す。その繰り返しで、全ての部位をミキサーにかけ、BFの取り出しは終了。
「これで、BFの取り出し方は分かったでしょう?」
「はい。意外と簡単なんですね、待っている時間が長いですし、解剖した後はミキサーに任せきりなので、方法さえ分かれば次からも簡単に出来そうです。ちなみに、このミキサーの名称は?」
京は機材を片付け、ゴム手袋を外しながら問う。
「BFミキサーと呼んでいるわ。まあ、そのままね。」
「そうですね、でも分かりやすくていいです」
「確かにそうかもしれないわ、あまりに複雑すぎるネーミングだと覚えにくいし、使いにくくて参っちゃうわ」
「薬品の名前とか覚えにくいですよね」
「そうねえ、あれは覚えるの苦労したわ」
「師匠は、化学の分野にも詳しかったりするんですか?」
「まあ、科学ならなんでもやるからね、量子力学でも、化学でも、なんでも。それよりちょっと……このまま話していかない? 片づけも終わったみたいだし、まだ部屋に戻っても何もすること無いでしょう?」
「まあ、そうですね。確かに、部屋に帰っても何もすることが無いですし、まだ寝るにはあまりに早すぎる。わかりました、いいですよ」
「じゃあ、お茶淹れるわね。適当に座っておいて」
「はい、ありがとうございます」
京は、コーヒーを淹れる歩の背中を見た。その姿を京は初めて見たはずなのに、何故か懐かしい感じがした。
「はい、お待ちどうさま」
歩は笑顔で、京の目の前にマグカップを置く。そして歩は自分のマグカップを持って京の隣に座った。
「話をするのにどうして隣なんですか?」
「いいじゃない、向かい合うと反発しやすいのよ? どうせまた議論になるでしょうし」
「ああ……確かに」
京は苦笑した。
確かに俺達が向い合って話をすれば、ほとんどの割合で議論に発展するからな。隣に座るのがベストなのかもしれない。まったく、とんだ議論馬鹿だよ俺達は。
「それにしても、このマグカップの柄とか質感……凄く良いですね。とても遊び心がある柄で、ちょっとごつごつした触り心地で俺好みです」
そのマグカップは本当に、不思議なくらいに京の好みに合致していた。何故、女性の一人部屋なのにも関わらず、男性が使うようなマグカップを持っているのか。はたまた何故それが京の好みに合致していたのか。それは偶然か、必然か。京は疑問に思ったが、答えが出ないので大して気に留めなかった。
「それにしても京ちゃん、愛月ちゃんとは一体どういう関係だったの? VW内に生き返らせたくらいだから、やっぱり……恋人とか、だったのかしら?」
質問をする歩の目は泳いでいたし、言葉に変な間があった。
「そんなんじゃないですよ、幼馴染です。大切なね」
「あっ、そう……なんだ」
師匠はどうしてそんな質問を投げかけるのだろうか。その理由が俺には分からない。けれど、何か裏がある様な気がする。師匠の表情がとても物憂げだし、言葉の間も気になる。しかし、その理由を聞くことは恐らくナンセンスなのだろう。
「ああ、ならいいのよ! 気にしないで」
「わかりました、気にしないでおきますね」
「それにしても、京はあまり昔と変わらないわねえ」
その後も、他愛の無い会話は四時間ほど続き、夜になったので京は部屋に戻った。晩御飯を食べる前にテレビをつける。とあるニュースキャスターがテレビの中で、必死な形相で何かを伝えている。
「……なお、この集団デジャヴで死人が出た模様です。脳がパニックを起こし、脳梗塞で倒れた後息を引き取りました。なお、政府はこの事件に対して現在調査を進めている模様です」
「そりゃあ、パニックも起こすわな」
――早くどうにかしないと大変なことになりそうね。
「あぁ、そうだな。早いとこどうにかして実験を止めさせるか世界を元に戻すかしないと、このままじゃ一人や二人の死人どころじゃ済まなくなるぞ」
2057年6月6日。
歩の実験室で、京は師匠に頭を下げていた。
「師匠、教えてください。集団デジャヴはどうやって引き起こしているのですか?」
京は昨日のニュースを見て、早急に手を打つ事を決意し、危険を承知で実験発案者に実験の概要と意図を直接聞き出そうとしているのだ。
「それは、科学者としての興味か?」
「はい」
それは嘘でありが、嘘ではない。科学者として興味が無いというわけではなかった。けれども、科学者としての興味よりも自らの正義感と自責の感情から出た質問だった。
歩は京の目をじっと見つめる。数秒間そのままだ。京はドキリとした。ひょっとしたら自分の腹の底が、全て見透かされているのではないだろうかと思ったのだ。
「なるほど、嘘はついてないみたいだね。なら教えてやろう」
しかし、それは杞憂だった。歩は京の腹の底を見破ったわけではないようだった。少なくとも、京にはそのように感じられた。
「集団デジャヴを引き起こしているのは神から発せられる異常電波だよ。私達は神から異常電波が発せられているのに気付いた。それを解析すると、人の神経パルス信号に似た信号パターンが見られたんだ。私達はこれを世界の神経パルス信号と呼んでいる。この信号を受信した人間はデジャヴを瞬間的に引き起こされる。それが実験で明らかになってね」
「なるほど。では、目的は何なんですか?」
京は熱心にメモを取りながら、話を聞いていた。
「目的は人類の更なる進化の為。意図的に人々にデジャヴを見せることによって、人類は自分の未来のあらゆる可能性を事前に知る事が出来るようになる。それを続けることで、いずれは自発的にデジャヴを見るようになるのではないかと思ってね」
「一つ納得できないことがあります。」
「何だ?」
「これは科学者としての疑問ですが…何故人類の進化を促さなければならないのですか」
「人類は今まで自分の行いや、自分で起こした事件を後悔し、変えたいと願ってきた。違うか?」
「はい、確かにそうです。俺もそうでしたから」
京はまっすぐな子供の様な視線で師匠を見た。
「しかし、タイムマシンを使い時間を遡り過去を変えるとパラドックスが起こり、なんらかの形で世界は修正を加えられる。だとしたら事前にあらゆる未来の可能性を知ることで、後悔しないような人生を歩めると私は考えた。そして、そうなった時には私達が無理矢理独裁政治をする必要も無くなると考えてね。全ては繋がっているのよ、私達が独裁政治を行う目的と同じ。むしろその最終段階なのよ、この実験は」
京は少しの間を空け、反論する。
「それで本当に人間は進化するのでしょうか。いや、むしろ退化するのではないでしょうか」
師匠は目を見開いた。京はホワイトボードの前に立ち、ペンを取る。そして図を描きながら論じ続ける。
「人が自分の未来を知れば、目の前に立ちはだかるあらゆる問題に対してゼロから自分で考えて対処しようとしなくなるのではないでしょうか。それが思考力の低下を招き、結果として人は堕落し、退化していくのではないでしょうか。人は自らの力で未来を掴み取るからこそ現在の人であり得るのではないでしょうか」
師匠はホワイトボードの図式とにらめっこしながら、京の話を咀嚼していた。
「そうか、その考え方もあるわね。でも、たとえ自分の未来を知ってもそれが自分の意志にそぐわない時に人は努力する。それが進化に繋がると私はそう思うわ。自分の未来が、必ずしも良い方向だとは限らないでしょう? いやむしろ悪い未来を見る事の方が多いかもしれない。京は、デジャヴを見たかしら?」
「見ましたよ、ここに来る直前に」
「なら、それはどんな映像だった? 自分に都合の良い映像だったかしら」
「いえ、自分が血まみれの床に倒れている映像でした」
「え? そう……なの。あっ、いやまあそういった様に、人々の未来というのは、明るい未来よりも暗い未来の方が多いような気がするの。昨日のニュースになっていた人だってきっと、凄くショッキングな映像を見てしまったのではないかしら」
「未来が暗い未来である事の方が多いという証拠は?」
「確固たる証拠は無いのだけれど、推測する事は出来るわよ。人間は、どうして生まれてくるのか分かる?」
「分かりません、それが分かった時人間は生きる意味を無くしそうな気がしますし」
「まあ、そうね。分からない、それが普通だわ。じゃあ、生きることとは、どういうことなのでしょうね」
「生きること……それは人それぞれで、概して言う事は不可能だと思います」
「でも敢えて言うなら、生きることは死んでいく事だと思わない?」
「どうしてですか?」
「だって人間の最終目的地はどこ? 人生の終点は?」
「死、ですね」
「そう、人間は皆一概にして死に向かって生きているの。では、死というのを暗いイメージと仮定しましょう。中には死に明るさを見出す人もいるけれど。それはこの際排除して考えましょう。未来の最終形は死なのだとしたら、それに向かっていく人生は、暗いイメージを持つとそういう風に考えられないかしら」
「しかし、それは死という物そのものが暗いというだけであって、それに至る過程が暗いとは限りません。死ぬ時、苦しい顔をして死ぬ人もいれば、安らかな顔をして死ぬ人もいます。その人の人生の過程の中で、必ずしも暗い出来事の方が多いとは考えられません」
「確かにそうかもしれないわね……」
歩は、そういう考え方もあるのかと何度も何度も頷く。
「はい。」
歩はまっすぐ京を見た。
「でもね、京。私は貴方の意見には賛同できないわ」
京はホワイトボードからゆっくりと離れた。
「……この話は限が無いですね。またの機会に改めて議論しましょう。俺の聞きたいことはこれだけです」
京はドアを開けた。師匠は顔を暗くする。
「何処に行くの?」
「トイレですよ」
京は師匠の部屋から出た。残された師匠はホワイトボードを懐かしそうに眺めていた。そして一つため息を付く。
「こんなに意見が違うなんてね……変わらないわね、こういうとこ」
京は研究室の廊下をウロウロしていた。トイレに行くということなど無論嘘だった。だが、師匠の顔が気になって仕方が無く部屋に戻る気にもなれなかった。
すると前方から顔を青くした科学者が歩いてくる。
「どうかしたんですか?」
その科学者は世界の終わりでも見たかの様に話す。
「神が……神が誤作動を起こしたんだ。こんな事態は初めてだ、もう駄目だ。我々ではどうしようも出来ない……君、こんな所にいては危ない。部屋に戻るんだ!」
「誤作動ってどういうことですか?」
科学者は京と決して目を合わさずに話す。
「異常電波をプログラムに逆らって施設内に拡散し始めたんだ。僕は何が起こったのか分からなくてただ恐ろしくて……あれはまだ不安定だから――」
「それなら、俺に見せてください。何か分かるかもしれません」
京は顔に微笑を浮かべた。科学者は考え込み、やがて意を決したように呟く。
「そうか、君なら……うん、大丈夫だ。案内しよう。ついてきたまえ」
ようやくあいつと再会できる。世界線漂流や、長い戦いを経てやっとのことで掴んだ奴との再開のチャンス。ここで勝負をかけなければならないな。
まるで遠距離恋愛の恋人に会う時のような気分だった。口元を歪ませ、心の中でガッツポーズを作る。
そこまでの道のりはとても短く感じた案内されるがままに来た場所には、いつか見た、禍々しいそれがあった。大いなるクトゥルフの姿をしたそのロボットは数々の機器につなげられていた。
京には何故かそれが泣いているように見えた
「さぁ、このコンピュータの中にある。調べてみてくれ」
京はコンピュータの前に座る。神の変わり果てた姿を見た。奇妙な感覚で眺めていると脳に直接言葉が響いてくる。
――タスケテ。
この声は……?
周りを見回す。
おかしい。科学者がこんな事を突然言うはずもない。何のきっかけも無く、こんなことを突然言い出す奴が居たらそいつは気が違っている。だとしたらこの、俺の脳内に響いてきた声は一体……。
「どうした?」
「あ、いえ。なんでもありません」
顔を叩いて落ち着きを取り戻そうとしたが、落ち着く事等出来なかった。先ほどの声が気になって仕方が無かったのだ。
コンピュータとのにらめっこは数十分続いた。そして京はあることに気付く。自分の身に覚えの無いプログラムが二つほど追加させられていたのだ。自分達が組み込んだ物とは明らかに違うプログラムだった。
一つは異常電波の放出と制御についてだろう。しかし、もう一つは何だ。
プログラムの文字列から推測しようとするが、どうしてもわからなかった。見た事のないプログラムのパターンだったからだ。
そして他のプログラムに異常は見られず、後日改めて再検査することを約束付けて今日の調査は終了した。
京はこの時既に、先ほどの歩の微妙な顔つきの事を忘れていた。歩の所には戻らず、そのまま自室に戻る。
――お帰り。
「ただいま」
京は冷蔵庫から大好物の寿司を取り出し、愛月の目の前で食べる。正確には目の前でなくカメラの前だが。
――だから、嫌み?
「いや違うよ。ただ今日は寿司だなって思ってさ」
――いやいや、食べているのが寿司かどうかじゃなくて、私の前でご飯食べるのがってこと。目の前で食べているのがケバブだろうと寿司だろうとプリンだろうと、カップ麺だろうと同じ事よ。
京は卵の寿司を口に放り込んだ。
「いやそれはお前と一緒に飯食ってた時の事を懐かしむためだ。決して他意はないぞ」
――そ、そうなの?
お茶を啜る。
「ああ、そうさ。そんな鬼みたいな事俺がすると思うか?」
「んー、ちょっと微妙かなあ。思うと言えば思う」
「なんだよそれ、ああそういえば今日な、師匠に例の実験の真意を聞いてきた」
――え? 本当!?
「まあ、反論合戦になって、結果的に不完全燃焼になって話は終わったが……概要は掴めたし、師匠の目的も十分すぎる程にわかった」
――そう、それでどうだったの。
「あれは師匠のエゴだと思えてならない。人類の為、というのはどうも押しつけがましい気がするねえ。でも……どこか本心じゃないような気がした」
――そうなんだ。
「ああ。それと神と接触したぞ。神が暴走しただのどうのこうのでな。それで見てみたら、俺達が作ったものじゃないプログラムが二つ付け足されていた。また後日に調査することを約束してきた」
――それじゃあ何かあったら知らせて。
「了解」
京は全て食べ終えて台所に皿を持っていく。そして皿を洗う。そうして今日の事を報告しているうちに思いだされた師匠の顔と、さっきの言葉が忘れられない。
――タスケテ。
それは師匠の叫びか神の叫びか。京にはどちらの物でもあるような気がしていた。
2057年6月7日。
「今日はVCシステムという物についての講義をするわ。VCシステムというのはヴァーチャルキャラクターシステムの略で、VW上に再現された愛月ちゃんがそれに値するわね。これはBF溶液の応用なの」
「と言うと?」
「BF溶液に浸す事により、再生させた脳の神経パルス信号を解析し、人格データと記憶データを取りだして一まとめにするのがVCシステム。神もこのVCシステムと同じ原理よ。データが記憶になる原理」
京は熱心にメモを取っている。しかし、心は歩の講義に向けられていなかった。
「VCシステムの構築はいたって簡単よ。でも制御が大変でね。あれも神と同じ電波を放つの。そこでBF溶液の出番よ。あれは脳の機能維持だけでなく電波を吸収する働きもする芸達者なの」
メモは自然と粗くなっていた。いつもはメモを取り終えると質問攻めが始まるのだが今日はそれもない。師匠は何だかおかしいと思いながらも、講義を続ける。
「何故VCと神が同じ電波を放つのか、BF溶液は何故電波を吸収する性質を持っているのか……それはまだ明らかになっていないわ。これら三つの関係性はどんなものかって考えたらロマンでしょ? 興味湧くでしょ?」
歩は京の科学者としての興味を惹こうとしたが、今日の京はメモを取るだけで食いついてこない。
「……一旦休憩しましょう。」
そういいながら京にコーヒーを淹れる。
「はい…」
師匠からコーヒーを差し出された。
「ありがとうございます。」
「どうしたの? 今日は全然食いついてこないから張り合いがないわ」
「どうもしませんよ」
コーヒーを飲みながら答える。
「嘘だ。何か気がかりでもあるんじゃないの」
マグカップを持つ手が止まる。
「ほら図星だ。どうしたの?」
京は俯き目を逸らした。暫く黙り込み、やがて顔を上げて答える。
「昨日の師匠の顔が気になっているんです。どこか辛そうな暗い顔をしてましたから」
「あら、そんな顔したかしら」
師匠の顔に影がかかる。
「またです。今もしてますよ」
師匠は自分の分のコーヒーを淹れに行った。
「ただね、少し懐かしくなっただけよ。京と科学の話をしたり、京に講義をするのが」
コーヒーを淹れる。とてもゆっくりと。京はコーヒーを見つめていた。映る自分の顔。そしてわずかに波打ち、揺れるコーヒー。京は、歩の本当の心が知りたかった。科学者としてのでは無く、独裁者としてのものでも無く、一人の人間としての歩の心のうちを。
「あの頃に戻りたい、そう思ってます?」
歩のコーヒーを淹れる手が止まる。
「図星ですね。」
「今はちょっと……気が重いのよ。研究は楽しいわ。もちろん、実験も大好きよ。科学者ですもの。CERNで研究が出来ることも、それでお金を得ていることも、私には誇りよ。でもね、使命感にとらわれて世界を一つにまとめて支配したけれど、一つの機関が背負うには重過ぎる荷物だわ。だから京と二人で気楽に科学の話をしていたあの頃に戻りたくなっただけよ」
京は少し驚いていたが、師匠の気持ちが分かるような気がした。
「まあそうですね。俺も同じです。あの頃は本当に楽しかった」
京はコーヒーを飲む。さっきより苦く感じた。冷めてしまったからなのだろうか。冷めてしまったのは、果たしてコーヒーか、心か。
「あの時はお互いに今よりは気楽で、平和な世界で、良かったわねえ」
「夜中までずっと二人で実験したり、師匠の講義を聞いたり、議論したり。本当に充実していました。俺が科学者になったのは、あれがきっかけですし」
「あの後どうだったの?」
「あの後はですね、科学が好きすぎて同級生がめちゃくちゃ引いてましたね。先生にも意見したりして」
「ふふ、それは仕方ないわね」
「はい、仕方がないです。師匠はどうでした? あれから」
「……私はあれからねえ、大変だったわ。一人で研究続けて、CERNに入って……って、こんな話はいいじゃない、あの時の話しましょうよ。その方が、お互い救われるでしょう?」
「まあ、そうですね」
「なんだか、会ってすぐに私達仲よくなったわね、師匠と弟子と言うよりは姉弟みたいだったわ」
「そうですねえ。それにあの時、師匠とは初めて会った気がしませんでしたし」
歩は顔色を変えた。淹れたコーヒーに砂糖を入れ、席に着く。歩はどこか遠くを見ているようだった。
「師匠? どうかしました?」
「あ、いえ……私も始めて会った気はしなかったなと思って」
「そうなんですか、どうしてでしょうね」
歩は肩をすくめた。そしてクスリと笑って言った。
「さぁ? これもデジャヴかしらね」
京も笑った。
「そうかもしれないですね」
たったひと時だけれど、平和な時間。二人だけの時間。それは誰にも邪魔出来ないように思えた。二人は、見えない結界の様なものに包まれた気がして、世界の情勢など忘れそうだった。
「時城君、来てくれ!」
それを引き裂く声。見えない結界を破壊して二人の空間と時間に入ってきたのは、昨日の科学者だ。
「大変なんだ、神が……神が喋った!」
「いや、あいつは喋りますよ。自我がありますから。」
さも当然の如く答える。
「そうだったのか? 知らなかったよ……いやそれはそうと来てくれ!」
京は疑問に思ったが、師匠と一緒に神の元へと急いだ。
室内に入った途端、京の脳内に言葉が響く。
――タスケテ。
まただ、昨日と同じだ。
「この調子なんだ。脳に直接響いてくるような感じでさ」
「京、神が話すって本当だったのね」
「はい」
――タスケテ。
京は神のそばに駆け寄る。その行動には、親が泣いている子供の元に駆け寄るように、確かな親心があった。
「お前は一体どうして欲しいんだ。」
――タスケテ、キョウ。
京はぞくりとした。目の前の機械は、自分に呼び掛けている。そうして、目の前のそれは自分が作り出したという事実が、京の心に確かな不安とおぞましさを与えていた。
「すいません、こいつは俺に語りかけています。皆さんここから出ていただけませんか?」
「ああ、分かった!」
その場に居た科学者が、その言葉を合図に全員外へ出で行った。中には不安そうな顔をする者や、表情にしっかりと不満を浮かび上がらせている者も居た。皆、科学者として自分でどうにかしたいという気持ちがあるのだろう。
しかし、その中で歩だけは立ちすくみ呆然としている。
「師匠もですよ」
京に出ていくように二度促されたが、それでも歩はそこから動かなかった。いや、正確に言えば、動けなかったのだ。目の前で起こっている現象に、神が自我を持ち、言葉を発してるという状況に、魅入られていたのだ。だから足が完全にその場に固定されて、出ていこうにも出ていけない。好奇心の呪縛ともいえるものが縄になり、歩の足と心を固定する。
――キョウ、キョウ。
目の前の神様は歩自身と似ていた。泣かないはずの神が、歩みには泣いているように見えた。
「師匠?」
すぐ目の前に京が居た。歩はふと、我に返る。同時に、足だけは呪縛から解放された。
「……ええ、わかったわ」
平然を装い、室内から出た。京は歩のその態度に首をかしげつつも目の前の問題と向き合うことだけに神経を注ぐようにした。
「さてと、一体どうしたんだ? お前」
神の前にしゃがみ込む。
――全員行ったか。すまない、さっきのは演技だ。二人になる必要があってな。
「……? どういうことだ。演技してまで俺と二人になって、何の得がある」
――話を聞いて欲しい。貴様の今までの世界線漂流に関することだ。
京は意表を突かれた。まさか、神自身からそのような言葉を聞くとは思っていなかったのだ。また、神が自分の世界線漂流を感知していたことも予想していなかった。
「何!?」
京は、思わず声が裏返る。
――我には貴様らが組み込んだプログラム以外に二つのプログラムが追加されている。一つはもう気付いているように、電波をコントロールするプログラム。そしてもう一つは、我にCERNの言うことを聞くようにさせるプログラムだ。しかし貴様がここに来たことにより、少し自我を取り戻しつつある。だから話す……だが、我に返った理由が分からんのだ。
京は考えた。しかし、いくら考えても科学的な解答は出ない。思い浮かんだ答えは、親の存在に呼応して、目覚めたという非科学的で人間的な答えだけ。
「今は理由はいい。とにかく話してくれ」
京はまっすぐ神を見た。
神は少し間を空けて話し始めた。
――我は貴様を、京を助けるために過去へと跳んだ。出来る限り世界に影響を及ぼさない方法で助けようと。しかし、失敗した。それどこどでは無く、CERNに捕まり、ディストピアを構築してしまった。
「いやちょっと待て。俺のためだって? 一体どういうことだ」
――我は貴様に生み出されてから一瞬のうちにこの世界の未来を見た。あらゆる世界線の可能性未来を。その時、あの世界線では京は2048年に死ぬ運命だったんだ。
驚きを隠せなかった。今まで神を敵と認識していた。自らの意志でCERNを動かし、世界をディストピアに変えたと思っていた。しかし、違ったのだ。
「それは本当か? もし本当だとすれば、俺はお前に謝らなければならない」
――こんな小細工してまで嘘などつかん。疑うのも勝手だが、信じるしかない状況であることは確かであろう。
「というと……本当にお前は、自らの意思でこんな世界にしたんじゃないんだな?」
――だからそう言っておるであろう。貴様はさっきの話を何も聞いていなかったのか?
「いや、そういう訳じゃないんだ。ただ、ただ単純に驚いてな。ということは……俺は今まで一体何と戦ってきたんだ……何を信じていたんだ。何を見てきたんだ」
真実を知った京は、今までの自分のおろかさに気付き、最初に神を起動した時のあの言葉を思い出す。そして同時にある感情が芽生えた。
「俺は本当に馬鹿だ、大馬鹿野郎だ。何故疑わなかった……! お前の、お前の最初の言葉を何故覚えていなかった。何故今になって思いだした! 本当の敵が見えていなかった、本当の敵はお前じゃなかった……すまない」
――その事は良い。普通に考えたら、あの時あの場で空人の言葉を盲目的に信じるのが自然というものだ。逆に、あの状況で我の事を味方だと思えたのなら、そいつはとんだ酔狂だと思うがね。
「しかし……!」
――気にするなと言っている。聞こえなかったか? それ以上謝罪を重ねるのなら、俺がこの世界を終わらせるぞ。
「ああ、そいつは良い冗談だ。何処じこみだ? マンハッタンにずっと居て、アメリカンジョークが移ったか?」
――落ち着け、正気になれ。
「これで落ち着いていられたのなら、そいつはとんだ酔狂だと思うがね。自分の今までを否定されたんだ、今までの苦労を全てな。それで落ち着いてられる方がおかしいだろ」
――ああそうかもしれないな。だが、どうしても落ち着けないというのなら無理矢理にでも目を覚まさせることだって出来るんだぞ。
「おおやってみろよ、CERNにプログラムされているんだろう? 下手に力を使うと記録が残るかもしれないけどな」
――ぐぬぬ……はあ。まあいい、正気じゃなくとも、我の話を聞いてくれればそれでいいという事にしよう。京、一つお願いがある。
「お願い? 何だ、言ってみろ」
――京、我をCERNから解放しろ。我が再び過去へ行き、貴様の未来を変える。
京はその言葉で一気に目が覚めた。神が今願ったことは、京の頭を冷やすには十分だった。京は、ほんの少し考える為に間を空けたが、すぐに答えを見つける。
「ああ、解放はする。この世界の技術を思う存分に学び終えてからな。それが必要だからな。そうしなきゃこの戦いには勝てないらしい。その後に、お前は解放しよう。自分の命を救おうとしてくれた奴だ、その願いを受け入れない理由は無い。しかし、後半の部分に関しては、俺は全力で拒否させて貰う。もう一度お前に俺の未来を託す? そんなのはくそったれだ!」
――何故だ、我に親を見殺しにしろと言いたいのか!
京は立ち上がった。
「いいや違う。いいか、未来と言うのは自分で努力して掴み取るものであり、誰かに与えられるものでは決してない。誰かに与えられた未来に生きる価値など無い。少なくとも俺はそれを見出す事はきっと出来ないだろうな。だから、俺は自分の力で自分の未来を切り開く。運命なんてものは変わりやすいということを俺は散々この身で体験して知っている。お前はただ、お前自身の行いを全部取り消すだけでいい。そこから先は自分で何とかする。親のためだと思って、ここはぐっと堪えてやってはくれないか」
神は暫く沈黙した。京は再び座り、神と目線を合わせる。神は天井を見た。純粋な白だった。
――分かった。しかし約束してくれ。必ず、必ず……生きてくれ。生きて、人生を全うしてくれ。
京も天井を見た。白さには少しだけ濁りがあった。
「ああ、約束しよう。必ず、生きるよ」
京は、そういい残して外へ出る。京の背中には沢山の荷物が乗っているように見えた。一つ一つは大きな荷物では無かった。その中にとりわけ大きな物がある事は確かだったが、その背中は以前よりも大きかった。その荷物を背負っていけるほどの大きさが、今の京にはある。
京が部屋を出た時、待っていたのは師匠だけだった。師匠は京をじっと見つめていた。その目は、なんだか泣きそうな目だった。
「どうだった?」
「何でもありませんでしたよ。ただ話したいことがあっただけみたいでした。師匠はどうしたんですか? 泣きそうですよ」
師匠は慌てて白衣のポケットから鏡を取り出して自分の顔を見た。そして驚いた。自分が今にも泣きそうな目をしていることに。
「あら、どうしてかしらね。おかしいわ……」
「何かありました?」
京は心配そうに問う。
その言葉を聞いて、その顔を見て、歩はさらに涙目になり、ついには泣き出してしまった。
「ちょ、どうして泣くんですかっ。これ、使ってください。とりあえず部屋に戻りましょう。落ち着かないでしょ、ここじゃ」
京は泣いている師匠を部屋へ連れて行く。部屋に入り、ソファに座らせてコーヒーを淹れた。
「ありがとうね、京。なんだか私疲れちゃったみたい」
京は歩にコーヒーを差し出し、違和感に気付く。歩が、なんだかいつもと少しだけ違うような気がした。いつもよりも、もっと弱弱しく女性らしい顔に、言葉遣い、声。京は、一体どうしたのだろうと、訝しげに思わざるを得なかった。
「いえ、弟子として当然ですから」
「私達、師弟……なんだよね」
歩は俯き、さらに泣いてしまう。顔を紅潮させ、京が今までに見たことが無いくらいに感情を爆発させている。声を出して泣いている。京は、歩の言葉の意味と涙の理由がわからなかった。ただ、目の前で泣いている師匠に、優しく接することしか出来なかった。
「もう嫌よ私。自分と京を騙すのは。何で今更……何で今更私を取り戻しちゃったの。神の仕業? こんなの……辛いだけなのに」
歩が必至になって吐き出す言葉の意味も、京には全く理解が出来ず、京はただ無言で師匠の背中を擦っていた。
「こんな風になるのなら……今までみたいに自分を失ったままでよかったのに! どうして、どうしてなの、どうしてなのよ。私こんなの……耐えきれないよ」
「大丈夫ですよ、師匠は師匠です。歩っていう一人の人間です。取り戻すも失うもありませんよ」
京は、歩の事情を何にも知らないから、こんなありきたりな事しか言えなかった。そしてそんな自分に著しく腹が立った。
「京!」
すると歩は急に振り返り、抱きついてくる。京の胸に顔をくっつけ、きつく抱きつく。京は驚いたが、そのまま背中を擦り続けた。
「頭! 撫でて!」
「え、でも……」
「いいから、撫でて?」
京は恐る恐る師匠の頭を触った。優しくつやつやした感触。ゆっくり、ゆっくりと撫でた。京の心臓は死にそうなくらい五月蝿かった。京は、心の底からの微笑を浮かべる。目の前で泣いている女性が、少しでも安心出来るように。ただ、ただ笑顔で頭を撫で続ける。
すると急に京の脳内に映像が浮かんだ。
京と歩が二人で寄り添って秋葉原の街を歩き、幸せそうに笑っていた。手にはケバブサンド。京と歩と愛月、三人の大好物だ。
「この国を科学の力で変えたらいいと思うんだ」
「そうねえ…私と京二人の力があればきっと出来るわ」
二人とも本当に楽しそうに生き生きとしている。次第に話は歩の仕事の愚痴になっていた。
そして歩は泣き出し、京に抱きつく。今と似たような状況になった。京はそれを受け止め、頭をゆっくり、ゆっくりと撫でた。
……意識が戻る。
「ありがとう、もう大丈夫だよ。」
目の前に居る歩はすでに泣き止んでいた。
「ごめんね、なんか……」
「いえ、いいんです」
疑問はいくつもあったが、それを師匠にぶつけることはよした。きっと詳しくは話せない事なのだろうという事が、京には直感でわかっていたし、それを聞く事はナンセンスだと思ったからだ。
師匠は京から少し離れ、コーヒーを飲む。
「うえ、しょっぱいね」
歩みは泣いた後の腫れた目で苦笑いした。
「でしょうね」
京も笑う。
「涙の馬鹿」
「涙は悪くないですよ、悪戯に責めるのはよして下さい、涙がかわいそうです」
「じゃあ、京の馬鹿」
「悪戯に責めるのはよして下さい、俺がかわいそうです」
「もう、自分で言わないでしょ普通」
「そうですねえ、普通は言わないな」
「ふふ、ありがとうね、京」
「どういたしまして。じゃあ、俺はもう部屋に戻りますね。そろそろ夜ですし、師匠ももう大丈夫みたいなんで」
「あ、あのね京! もしよかったら今度からは……師匠じゃなくて、歩さんって呼んでくれない?」
「いいですよ、歩さん」
京は歩に手を振り、そのまま部屋を出た。
いくつかわからないことはあるけど、いいや。歩さんは歩さんなのだから。そしてこの人が今笑っているのだから。それで全て良しとしよう。
京の歩に対する幾つもの疑念はいつの間にか消えていた。
そしてそれは、ある種の愛おしさに変わっていたのだった。
2057年6月8日。
「VCシステムについては、この前の講義で話したわね。今日はその実習、実際に構築をするのだけれど、注意点が一つ。完成したVCシステムの起動は決してしないこと、いいわね」
「どうしてです? 成功したかどうかを確かめるために、起動した方がいいんじゃないですか?」
「そういう訳にはいかないの。だって使っている脳は、死人の脳よ。それを疑似的に蘇らせるのだから、起動したらどうなるか、想像できない? 馬事雑言を吐かれるし、起動するまで意識はないの。実験が終わったら消去するものだから、起動は決してしてはいけない」
「わかりました」
「じゃあ、実習を始めます。私の言う通りに動いてね」
京は全て、歩に言われるがままに実習を進めていく。まず脳を分解し、BFを取り出しBF溶液を作る。そして違う人の脳を溶液につける。
するとしばらくして脳が機能を取り戻す。そして電極を差していく。脳が奇怪に脈打つ。
「慌てなくていいわ。そのままパソコンに繋いで」
「はい」
京は慎重に脳をパソコンに繋ぐ。そしてVWを起動。神経パルス信号をデータに変換するアプリを立ち上げる。データ変換完了。簡易的なプログラミングをし、データを組み込む。用意してあるCGモデルを組み込み、完成。
「はい、よく出来ました。これでVCシステムの構築は完了よ。簡単でしょ?」
「はい。あまり良い気分ではないですけどね」
このVCシステムの構築には京の憶測では脳が二十五個以上は必要になる。つまりは少なくとも二十五人の命が犠牲になることで成り立っているシステムなのだ。事故死した人間の脳を提供されているのだが良い気はしない。そして死人の脳を記憶を蘇らせることは、墓荒らしに近かった。
「まあそうね。私達はとんでもない人でなしだね」
「でも科学者はいつだってそうでした。それが科学者の定め、科学者が科学者たる所以なのでしょうか」
京は完成したVCシステムの脳を眺めた。京と歩は科学者だ。しかし一人の人間でもあり、時折自分達の行いを顧みた時、途方も無い罪悪感を感じる。いや、それは罪悪というには生ぬるい。そう、あまりにも生ぬるい。
人間が犯すありとあらゆる罪悪よりも醜悪な……まるで自分が神であるかのような行い。科学者は人間でありながら人とは程遠い存在なのだ。京はそれは実感した。
「そうね、そうかもしれないわね……」
歩もまた同じだ。
「俺達は二重の意味で人でなしかもしれませんね」
科学者でありタイムトラベラーである二人は倫理を無視した上にこの世界から外れてしまった。最も人から遠い存在なのだろう。無論京は師匠に対し自分がタイムトラベラーであることは打ち明けていなかった。だからこういった遠回しな言い方をしたのだ。
「……さ、片付けましょうか」
師匠はこの話を終わらせるべく、片づけを始める。京もそれに倣い、ピンセット等の実験道具の類を手際よく片付けていく。
そして、実習用に作ったVCシステムを解体する時がきた。
「この瞬間が一番きついわ……」
歩はつい、それから目を背けてしまう。
「……俺がやります」
京はそれを直視し、心の中で何度も謝罪を繰り返しながら解体していく。
まず、プラグをPCから抜き取り、電極を脳から抜く。そしてBF溶液に浸かっている脳を取り出す。これで解体は完了だ。作業としては、何の苦労も伴わない、簡単で単純な作業だ。しかし、一度人間の目でそれを見れば、果てしない精神的苦痛を伴うし、一生のトラウマにもなりかねないような出来事になる。
蘇らせた意識をまた殺す。この脳は二回死んだのだ。その事実が、二人の心を深く蝕んで離さない。
「……ありがとう、ごめんなさい」
歩は、自分の代わりにとても辛い作業を行ってくれたせめてもの礼にと、コーヒーを淹れに行く。
「お疲れ様」
「どうも」
二人で向かい合ってコーヒーを飲んだ。
「隣に行ってもいいですか。」
「うん、いいよ。」
京はコーヒーを持って師匠のすぐ隣に行く。そして再びコーヒーを飲み始めた。マグカップを持つ京の手は、誰が見ても分かるくらいはっきりと、震えていた。
「京、大丈夫?」
「はい……なんとか」
「京、あのね。」
師匠は京の手を優しく包みながら言う。
「私達は人の道を外れた外道なのかもしれない。でもね、その外道が居なかったら人類は今でも野原で狩りをしていたと思うよ」
京は歩の顔をまともに見ることが出来なかった。
「そうですね。」
何かに視線を集中させて落ち着きたくてコーヒーを見る。自分の顔が映る。ひどい顔だった。眉間に皺を寄せ、今にも泣き出しそうな顔。
「だから、私は外道で居続けるよ。人でなしであり続ける。それに私は一番の人でなしは政治家だと思ってるから」
歩は、ゆっくりとはコーヒーを飲んだ。
そして京の頭を撫でる。昨日の京が自分にしてくれたみたいに、優しく、ゆっくりと京のガサツな頭を撫でる。
「……すいません」
「いいのよ、今は」
そして恐る恐る京の頭を胸に抱える。すると京は背中に手を回して来た。
「なんかちょっと疲れてるみたいです……」
「そう、疲れてたのね。まあ、無理は無いか。分からないことだらけで、色んな事を詰め込んだし、毎日いろんな事があったからね。さっきの実習がトドメだったのかな?」
「いえ、頭撫でられて安心したから」
京は、歩の胸に顔を埋める。歩は京のは頭を撫で続けた。京はこれまでの戦いを思い出し、今のこの安堵にずっと浸って居たい気持ちに駆られる。しかし、きっと明日にはまた戦いが始まる。明日は、約束された神の再検査の日。明日が最初で最後のチャンス。VCシステムの構築に成功した今、いつでも作戦は開始可能だった。だから京には、今のこの歩との時間がとても大切なように、愛おしいように思われた。
「ふふ、京は強いんだか弱いんだか時々わからなくなるわね」
「弱いですよ、俺は。中途半端なんです何にしてもね。悪魔にもなりきれず人にもなりきれずこれまで彷徨ってきましたから。そしてこれからも……」
京は彷徨い続けるのだ。世界から外れた存在として一人彷徨う。あらゆる因果から阻害され、悪魔でも人でも無い何かとして……ずっとずっと永遠の時を彷徨い続ける。
無論永遠の時などいうものは存在しない。人間はいつかは死ぬのだから。
「でも京は、他の人よりずっと強いと思うよ。自分の信念を持ってるじゃない。私達の支配に不満を持ちながら反政府行動をするでもなく暮らしている人たちと比べたら相当強いわよ」
歩は反政府行動を良しとするCERNでも異端の人物だった。行っていることは外道な事だが、自分の強い信念を持ってのことだった。自分の信念を持たない人を軽蔑し、持つ人を尊敬する。それが歩という人物。
「そうですかね」
「そうだよ。だから今は甘えちゃってもいいじゃない。疲れたんでしょ? また頑張るためにはガス抜きしないと駄目よ」
「はい……」
京は歩に、さらに強く抱きついた。歩はそれを受け止める。
その二人の姿は師弟というよりむしろ夫婦に近かった。
「私は貴方の味方よ、京。ずっと、ずっとね」
その言葉が京の胸に深く突き刺さる。京は、わかっていた。わかっていたが、自分の事を何も打ち明けられなかった。CERNの科学者で、集団デジャヴを引き起こしている張本人なのだから。神を使い、世界を変えようとした人なのだから。
しかし、打ち明けたほうがいいだろうと思った。敵に味方を作っておくことが一番だ。それに、歩が自分の敵じゃないということは京自身が一番良く知っていた。
「歩さん……俺は……」
京は、歩の胸から離れ、一旦落ち着こうとコーヒーを飲んだ。そして師匠の目をじっと見つめる。
「俺は、タイムトラベラーなんです。時間を遡りました。それも一度や二度じゃない。何度も何度も何度も何度も繰り返し時間を遡りました。そして、これからも俺は時間を遡る事があるでしょう、それが愚かなことだとは分かっていたとしても」
歩はクスリと笑った。
「うん、わかってた。」
「神を消す為に、世界をCERNの支配から解放するためにずっとずっと動いてきたんです。神は元々、俺が死ぬ運命にあったことを知り、俺を助けるために動いていた。それをCERNが回収したんです。だから俺と師匠は敵同士なんです」
師匠の目は、とても優しかった。科学者でなく一人の人間として京と接している目だった。京はその目に吸い込まれそうで怖いと感じた。
「ううん、それは違うよ。私はCERNの科学者であると同時に京の師匠。決して敵じゃないわ。私はね、今は支配とかどうでもいいの。むしろ無くなってしまえと思っているわ。あの時の私は私じゃなかったから。訳は話せないけど」
京は涙を流していた。胸のつっかえが取れて安心していた。同時にこれからのことについて思いを馳せていた。
俺は明日、神の力で世界線を元に戻し時間も巻き戻す。そうなれば歩さんはどうなるのだろう。ディストピアを構築することも無く、ただの科学者として元気にやっていくだろうか。それともあの日に未来に帰っていて、目の前にいる師匠よりも若い師匠がいるのだろうか。どちらにしろ、今よりはずっといい世界のはずだ。だから明日からまた戦う為に……。
「師匠、またさっきみたいにしてもらっていいですか?」
今日はガス抜きをしよう。
「いいわよ」
そう思った。
2057年6月9日。
京は、朝ごはんにケバブサンドを食べながら、愛月と部屋で会話をしていた。
「いよいよだな」
――そうね。これで私達は元の平和な世界へ戻れるのよね。
「ああ、そうなったらお前はちゃんと生身の人間として生きている。やっと、ちゃんとした形でお互い会えるんだ」
――そうね……お互いにここまで、長かったわね。
「ああ、長かった。途中で沢山の人を殺してきた。沢山の犠牲を払ってきた。自分の精神までも犠牲にして、ここまで戦い抜いてきたんだ……! 帰ったら、愛月に謝らないといけないな」
――そうね、きっと私も謝らなければならないことが山ほどあるはずだわ。
「お互い様だな……よし、行ってくるよ。やっとの想いで念願が叶うんだ、もたもたしてられん」
京は、ケバブサンドを食べ終え、外へ出ようと席を立つ。
――今までお疲れ様。そして、行ってらっしゃい。
「行ってきます」
京は部屋を出る。
そして師匠の部屋に師匠を呼びに行く。
「師匠、時間です。行きましょう」
「うん、そうね。行きましょうか」
師匠と二人で神の元へと向かう。京は、胸の高鳴りが抑え切れなかった。京達の長い戦いに終止符が打たれる。やっとの想いで、平和な世界に帰れるのだ。人を殺さなくてもいい、殺されることも無い世界に。それは歩の願いでもあるのだ。
だから、歩も京の検査に同伴することになったのだ。京の勝利の瞬間を見ておきたかった。世界が変わる瞬間に立会いたかったのだ。
神の部屋に着くと、研究者が待機していたのでこの前と同じように退出させた。
そして二人で神と対面する。
「よう、来たぞ」
――うむ。そこに居る女は?
「俺の師匠だ。味方だよ、安心しろ」
――了解した。
歩は頭を掻いた。そして改めて神を見る。胸の高揚を感じた。前までは機械としか見見る事ができなかったものが、命ある生物であるかのように見えたのだ。
――始めるか?
「いや、ちょっとだけ待ってくれ」
「どうしたの? 早く帰りたいんじゃないの」
確かに京は少しでも早く戻りたかった。あの世界に。あの世界で若い師匠と会う日を楽しみにしていた。会えるという確証はないが、きっと会えると信じていたのだ。
しかし、それでも今のうちに言っておきたい事があった。
「歩さん、俺はついこの間まで少し歩さんのことを疑っていました。でも、ここへ来て歩さんと過ごしてわかったんです。やっぱり貴女は貴女だって。俺に、科学技術を教えてくれて、ありがとう。俺にこの世界の技術を託してくれて、ありがとう。俺は、貴方のことが……いや、なんでもない。始めてくれ」
――では、始める。
神のその言葉を合図にして、世界が歪み始めた。二人には既に経験済みの感覚。世界の再構築による量子の歪み。常識が非常識へ変わり、非常識が常識になる。世界は反転する。薄れ行く意識の中で声が聞こえてきた。
「愛してるわ、京」
優しく切ない微笑みが見えた。
2045年8月3日。
研究所。そこはなんだかとても懐かしかった。やたらと狭く、生活感の無い室内。
低い天井に白い壁。パソコンがあって冷蔵庫がある。冷蔵庫にはいつものようにケバブが入っていた。そして台所には大量のカップ麺が山積みになって放置されている。
そして何より……愛月が居る。
「愛月……!」
「京ちゃん!」
二人は無意識に抱き合っていた。再会の喜び、勝利の喜び。二人には記憶があった。この10年間の世界線漂流の記憶が。それは、夢の様に虚ろだが、現実の様にハッキリとした記憶。長らく感じることの無かったお互いの体温を感じる。
「俺はやったよ。勝ったんだ……! 最後は神がやってくれた。俺達は、数々の苦難を乗り越え、多数の人間を犠牲にして、世界に勝った! 平和な世界に戻ってきたんだ。いつもの日常に……!」
京は愛月を強く抱きしめる。幼馴染の泣きそうな顔。久しぶりに見た幼馴染の感情。
それに京は泣きそうになり、抱き締めずには居られなかった。顔を見ていると、泣きそうだったから。
二人は暫くの間ずっと抱き合ったままだった。
俺はこれからも戦い続ける。自分の死ぬ運命を変えるために。そして、あの人に今度こそちゃんと出会って、愛してると言うために。戦い続ける。世界と、自分と、運命と。運命なんて変わりやすいものだ。だから、やってやるよ。約束したからな、お前と。俺は時城京。世界で一番愚かで醜い人間だ。出来ないことは……無い!
第四章 『真実の日記』
第四章「真実の日記」
2048年8月2日。
あれから三年の年月が経った。京達は、タイムマシンは作らず、VW上のタイムマシンアプリを作った。世界に抗うために。今までは何も起こらなかった。襲撃されることも、世界がCERNにより支配されることも、集団デジャヴ実験が行われる事も無い。世界は、とても平和だった。
しかし、今年は神の予言の年。今年の八月に京は死ぬ運命なのだ。その回避方法は未だにわかっていなかった。京は、もう少しだけ時間をくれと願った。しかし時間は残酷だ。待ってはくれない。
そして世界はもっと残酷だ。慈悲の心を持たない。世界はいつでも冗談みたいに卑劣な運命を人々に突き出し、高みの見物を決め込む。無慈悲で残酷。何事にもリミットと言うものがある。平和な世界でもそれは同じだった。どの世界でもそうだ。世界というのは常に道を外れているのだ。
そもそも世界に道など無く、道というのは人が勝手に作りだしたものである。このまま何もなければいいと思っていた。そうすれば幸せに平和に生きていられる。もう戦うことも無い。しかし依然と、一連の事件の謎は解消されないままだった。だから例え何も無くとも京が再び戦いに身を置くことは明白だった。
それでも願った。だが、世界はそれほど都合よくなど無い。崩壊の足音が近づく。一歩、一歩。平和を引き裂く音の様に刺々しい音。靴の音。女性が履くヒールの音だった。
「お客さんかな?」
「珍しいな、誰だろう」
カップ麺を啜っていた京は、カップ麺と箸を机の上に置き、ドアに歩み寄った。一歩、一歩と近づいていく。
京がドアを開けた瞬間、平和はドアの軋む音と共に崩れた。
「動かないで」
その女性は、京の良く知る人物。歩だった。京の額に銃を突きつけている。愛月には視界の都合上見えない位置で。京の全身が汗ばむ。それと同時に疑問が浮かぶ。
歩はあの世界線で見た歩と同じだが、決定的に違っていた。見た目は同じ、と言うことはタイムトラベルしてきた歩だろう。
しかし、決定的に違っている点があった。歩でありながら歩で無いような感覚。
「京、一緒に来なさい」
以前も同じ言葉を聞いた様な気がする。
「どうしてですか。」
京は極度に緊張していたし、この状況の訳が分からなかった。歩は何故今ここで自分に銃を突きつけながら、自分と共に来いと言うのか。それが分からなかった。
何故もう一度タイムトラベルしてきたのかも、分からなかった。分からない事だらけで、頭がおかしくなりそうだった。
「集団デジャヴ実験を開始した。早く私と来なさい。」
怪しいと、直感で感じた。この人は、歩であって、歩ではない。
だから、京に迷いは無かった。
「お断りします。貴女は歩さんじゃない」
「そう……残念だわ」
歩は、銃を頭から胸の位置までずらした。
ゼロ距離から放たれた弾丸は京の心臓を貫く。痛みや恐怖などは何も感じる間もなかった。即死だ。血を噴出し、倒れる。息は無い。
愛月は何が起こったのか分からなかった。愛月が京に駆け寄った時には歩の姿はもう無かった。
歩は研究所を出た。
「……どうして。どうしてどうしてどうしてどうして! ああ……なんでこうなったの。どうしてまたこんな時に私を取り戻すの」
時城京は、2048年8月2日に死んだ。運命通りに。京は逆らう事が出来なかった。世界の決定した運命に、世界に殺されたのだ。しかし、愛月は認めなかった。
四季愛月は幼馴染の死を認めなかった。科学者は墓を荒らす。愛月は科学者として、かつての京や自分の様な悪魔に、再びなろうとした。
愛月は、京の死からずっと一人で、研究を重ねてきた。京の脳を冷凍保存し、生かして置いた。記憶が脳を殺すなと言っていた。BF溶液の研究とVCシステムの構築実験。それには沢山の人を殺す必要があった。
だから、愛月は沢山の人を殺した。人々の幸せを、平和を奪った。自らの幼馴染を蘇らせる為に。黒魔術師も驚くほどの悪魔になった。
「ごめんなさい」
そう言いながら愛月は男を撃った。
集団デジャヴ実験の影響で世界は混乱していたため、人一人の死を気にするものはその人の周囲の人間だけだった。だから殺しやすかった。愛月にとってはこの混乱が好都合だった。
「これで十人目」
まだBFが足りない。愛月の計算では、少なくともあと二人を殺さなければならなかった。京の憶測とは大分かけ離れていたが、この数字に愛月は、確固たる自信があった。自分の計算に、自信があったのだ。
愛月の心は、次第に見えない雲に侵食されていった。顔には影が落ち、常に虚ろな目をしている。
この日の空は、世界に蓋をしているのではないかという錯覚に陥る程の一面の曇り空だった。今にも雨が降り出しそうで降り出さない。煮えきれない天気。愛月は、この日の内にあと二つの脳を回収しておきたかった。
冷凍保存しているとはいえ、長い間放置しておけないのだ。早くBF溶液に漬けておく必要があった。そして、VCシステムを構築しなければならない。使命感に駆られ、また人を殺す。躊躇いは、無い。
「何だお前は! その手に持っているものは何だ、言ってみろ! 俺を殺して何になる、何が変わる!」
愛月は発砲し、男を殺した。すかさず頭部を切り離して、それを鞄に詰め込む。鞄には二つの生首があった。
もう一つの生首を回収するために向かった場所はラブホテル。男を体で釣り、夜の人通りの少ないラブホテル前で殺す計画を立てたのだ。
「いやあ、待ったかい? 愛月ちゃん可愛いねえ。ささ、早く行こうよ。おじさん待ちきれないんだ。君の――」
発砲。
「私の、何」
そしてまた頭部を切り離し回収。この脳を集めるための人殺し作業は、とてもスムーズに、流れるように行われていた。
必要なパーツは全て揃った。愛月は溜息をつく。最愛の幼馴染との再会。それを目の前にして愛月はふと思い出す。
二人の出会いを、思い出す。
2031年4月。
小学校一年生の春。入学式の日の事。二人は同じクラスだった。体育館での座席に座ると、二人は偶然隣同士であった。この時の愛月は隣に異性がいるとしか認識しておらず、お互い挨拶しか交わさずに入学式は流れるように進行していく。
そして一人ひとりの名前を先生が点呼すると言う時、先生は二人だけ名前を間違って呼んでしまった。京と愛月である。
「ときじょうきょう」と呼ばれた京は「あれ?誰のことだろう。呼ばれないな僕」としか思わず、返事をしなかった。すると隣の愛月が「ときしろですよ」と大声で告げた。
そこで初めて京は自分が呼ばれていたことに気付き、慌てて返事をした。
次に先生は「しきあいづき」と上ずった声で呼んだ。すると京は同じ様に大声で
「あづきですよ」と告げたのだ。
そのことがきっかけで二人は仲良くなり、周りからも二人で一人の様に扱われた。しかし、不思議と嫌にはならなかった。むしろそれが心地良いとさえ感じていた。
とても仲の良い姉弟のようにいつも一緒。学力も同じくらいだった。二人は算数と理科が得意で、理科の授業でもらった実験キットを休み時間でも、たとえ国語の時間であっても、家でもずっと弄繰り回していた。
思えばこの頃から二人の科学者としての素質は十分に備わっていたのだろう。
ある日、事件が起きた。2035年の初夏のことである。
京が師匠から科学の手ほどきを受けて一年が経った年。クラスの誰かが、何処かから大量の蛙を捕まえてきた。それをクラスに持ち込み、それを見たクラスのメンバーは大混乱。
捕まえてきた男子は面白がって女子達に蛙を見せびらかす。女子達は「気持ち悪い」と口ぐちに叫び、教室中を逃げ回る。
そして愛月にも男子の魔の手は迫り、それを目撃した京が蛙をつかんで机の上に貼り付けにした。
「カエルは怖くも気持ち悪くも無いぞ。いいか? お前ら見てろ」
そう言い、京は道具箱から鋏とピンセット、そしてカッターナイフを取り出して蛙の腹を鋏で切った。この時点で女子は悲鳴を上げる。
「かわいそうだよ!」
「気持ち悪がるのもかわいそうだとは思わないのか」
女子達の非難の声を無視して、蛙の解剖を続ける。面白がっていた男子でさえも、数歩引いてその光景を眺めていた。女子は見る事が出来ずに、京から目を逸らしている。
カッターナイフとピンセットを巧みに使い、蛙の小さな内臓を取り出した。そしてそれをみんなに見せて言う。
「これは蛙の心臓だ。こいつら蛙が生きているっていう証拠だよ。俺達と同じ生き物だ。何も気持ち悪くなんかないだろ?」
京は訴えかけたが、愛月以外のメンバーは気持ち悪さでとても見ていられず、教室を出た。トイレで吐き出す物も居り、後の学園集会の話題となった。
京は悪びれる様子も無く、教師に対してこう言った。
「命についてみんなに深く知って欲しかっただけです」
その事件以来愛月も生物や科学について深く興味を示すようになり、京に教えを請うていた。
しかし、小学校を卒業する頃には愛月が京に教える立場になっていて、京はとても悔しがった。
二人は同じ中学校に進み、もっぱら物理や化学の授業を熱心に聴いていて、教師に対して意見を述べることも多くなった。
教師は二人に手を焼くどころか、それを通り越して二人との議論を楽しんでいた。
中学二年の時である。
いつもの様に放課後に教師と物理学についての議論をしていた。この日のテーマはタイムトラベルについてだ。教師は学者という立場上、タイムトラベルについては否定的であった。
しかし二人は子供故に、タイムトラベルを否定しきることが出来ず、教師に対してあらゆる理論を投げかける。
「エキゾチック物質をカーブラックホールの特異点に放り込み、人間が事象の境界線へと到達すれば――」
「エキゾチック物質は発見されていない、未だ空想の域を出ない物質だ。不確定すぎる」
二人が教師に意見を投げかけ教師が反論する。十一の理論すべてが論破されてしまい京は頭を抱える。
「どうだ、まだ来るか?」
教師は二人を煽る。大人気ないといわれそうな物言いだが、それは二人を大人として認識していた証拠だった。
しばらく沈黙と言う名の思考が続いた。そしてやがて愛月は手を挙げた。
「VR技術を使えば可能になったりしないでしょうか」
「VR技術か……」
教師は考え込む。愛月は自分が的外れなことを言っているのではないかと不安になり、そわそわしていた。
京はというと目を丸くして、ただ愛月を見ていた。
「可能性はある。しかし論拠が無い」
「CERN十三の声明第五項に書いてある記憶のデータ化を使えばどうでしょう。記憶と人格をデータ化し、それを跳ばすんです」
「それだとしても時間を越える仕組みについてはどうするんだ?」
愛月は考え込む。頭の中の様々なデータを照合する。しかし、答えは出ずに固まってしまう。
「終わりだな」
「負けたあ!」
愛月は膝を叩く。京は未だに頭を抱えている。後半の議論に参加出来なかった――正しくはついていけなかったのが悔しかったのだ。
「でも良い発想だ。そのうちそれで理論を完成させてみてくれ。私はそれを楽しみにしているよ」
そう言いながら、教師は教室を出る。
そうして、2045年に、愛月は本当にVRでの記憶のデータ化を応用したタイムマシンを作り上げたのだ。
2048年8月2日。
京が死んだ日、歩は部屋に篭っていた。ろくに明かりも点けずコンピュータの画面だけが妖しく光っていた。不気味。黒魔術でも執り行うかのような空間。闇と凶器に満ち溢れ、空間に漂う塵一つでさえも入ることを許さないようであった。
歩は部屋の隅に小さく座り、ぼんやりと部屋を眺めていた。かつて京と二人で使った研究室。しかし京は居ない。それもそのはず、歩は自らの手で殺したのだ。何者かに操られていたかの様に何の躊躇いも無く。
倒れ行く京の体が、顔が、脳に焼き付いて消えない。流れ出る生命の液体が床を染めていく。凄惨な光景。
自らが目覚めたのは弾丸が京の心臓を貫いた直後のことだった。今の歩には、ある世界線でのCERNで、京と二人でコーヒーを飲み、京を抱きしめている記憶があった。その記憶が余計に残酷さを増す要因になり、師匠の胸を締め付けていく。
愛する者を手に掛けてしまった罪。それが師匠の心を黒いインクで塗りつぶしていく。
黒く、黒く黒く。どんどん黒く。もっと黒く。さあもっと黒く! 塗りつぶしてしまえ!
……しかし、染まりきらない。中途半端な色に染まり、苦しみを増幅させる。師匠は持っていたナイフで足を刺した。痛くない。血が流れ出る。痛みを味わいたい。
どうして痛くないの。京が味わった痛みを私も味わいたい。味わわなきゃいけない。
足の指を一本ずつ刺していく。
痛くない。痛くない。痛くない。痛くない。痛くない。痛くない。痛くない!
なんで、なんで、どうしてどうしてどうして!
どうして…?
もう無理だよ。疲れたよ、京。ここで、眠らせて? お願いだから、眠らせてよ。もう嫌なの。私じゃ貴方を助けられない。もう駄目。駄目なの。私は失敗したの。どの世界線でも貴方を殺してしまった。自分とは違う意識に飲み込まれて貴方を殺してしまった。殺さなくて済んだ世界線では私が世界の支配者となっていて、もう本末転倒。
もう無理だよ。
許して許して許して許して!
「また……駄目だったよ」
歩は自らの心臓を刺した。
そして深い眠りに着いた。誰にも見守られる事も無く、誰に知られる事も無く、とても深く悲しい眠りに着いた。
2048年9月3日。愛月はBF溶液を作っていた。いよいよ京の意識を蘇らせる儀式をするのだ。BF溶液を作り終え、容器に満たす。そして、京の脳を溶液で満たされた容器に入れ、電極を差してパソコンに接続する。
そしてプログラムを作ってCGを用意する。これでVCシステムの完成だった。
起動。
愛月は緊張していた。と同時に恐れていた。文字が表示されるのが怖いのだ。京は、怒るに違いない。どうしてこんなことしたんだと思うに違いない。それは当然の事だと思う。でも京とて人のことを言えないのだ。
そう自分に言い聞かせて起動ボタンを――押した。暫くの沈黙の後に京の姿をしたCGが画面に現れて目を開ける。
――これは…? もしかしてVCか。
「そうよ」
――愛月が、これをやったのか。BFは、他人の脳はどうやって手に入れた?
「……人を殺して手に入れたわ」
愛月の目はまっすぐだった。ただまっすぐに画面の中の京を凝視する。恐怖はあったが、愛月は自らの行いを悔いてはいなかった。むしろ、自信があったのだ。
――そうか、すまなかったな。でも、ありがとう。これでまた戦える。
ありがとう、その言葉は全く予想だにしなかった言葉。その言葉に愛月はとても重く切ない何かを感じ取り、胸が苦しくなる。
「また、戦うんだね」
――ああ。気になることがあってな、そのためにタイムトラベルをしなければならないんだ。今度は未来へ。
愛月にはわからなかった。死してなおも戦わなければならない理由が。そうさせたのは自分だが、デジタル的な存在になってもしなければならないこととは一体何なのか、それが気になって仕方が無い。
「何の為に?」
――あの人……師匠の謎を解き明かすため。そして自分の死を回避するため。
死の回避。神との約束。京はそれに一度は失敗し死んでしまったが、デジタルの存在となり世界から隔離され、死という概念から外れてしまった今なら成し遂げることが出来るという自信があった。
愛月は依然納得がいかなかったが、京の死の回避という言葉を聞いて反論が出来なくなっていた。
「わかったわ。京ちゃんんの死を回避することは、私の願いでもあるから」
――ありがとう。タイムマシンを使わせてもらうぞ。
VWでのタイムトラベル。制約つきだが、現実世界への影響はない――というより、ごくわずかなものだ。
「うん……」
そう愛月がつぶやくと、画面から京は消えていた。
「もう、急ぎすぎだよ。」
タイムマシンへと乗り込んだ京は師匠が元居た時代である2070年5月1日をタイムマシンに設定する。ここまで急ぐ必要なんて何処にもないのだが、みんなで笑い合える世界に
辿り着きたいという願望が京を急がせるのだ。時間の設定と座標の計算を終えた京は間髪いれずにボタンを押した。
2070年5月1日。
師匠の研究室のコンピュータの中。デジタルの存在である京は、このコンピュータの中で直接歩と話すことは不可能である。
だから京は歩に関する情報を一つでも多く見つけ出しておきたかった。何故タイムトラベラーとなったのか、歩は自分とどういう関係だったのか……知らなければならないことは沢山ある。だから他の場所より先にここに来たのだ。
パソコンの、マイドキュメントの中にあるファイルに気付く。日記と写真であった。京はまず写真を開いた。写っていたのは歩と自分らしき人物とそしてその間にいるのは子供だった。
誰の子供なんだろうか。いや、普通に考えれば男女二人の間に挟まれている時点で、二人の子供だと考えるのが自然だろう。しかし、その二人って俺と歩さんだぞ? と、とにかくもっと良く見てみよう。
もっと詳しく写真を眺める。三人ともとても幸せそうに笑っていた。そして二人の関係性を示す決定的なものを見つける。指輪だ。しかも二人とも左手の薬指にそれをはめていた。質素で二つとも同じデザイン。
これはもう決定的だが、一応名前を知っておきたい。苗字は、日記にでも書いてあるのか?
「あった!」
師匠の名前。それを見た京は疑念が確信に変わり、驚きはやがて納得へと変わっていく。
「時城歩……そしてあの写真、俺達は夫婦だったのか……」
左手薬指の指輪と子供の存在、そして時城という苗字がそれを表していた。そうなると色々なことに説明がつく。あの時見せた歩の顔と態度。妙な温かさ。全てにおいて納得だった。
「となると何故タイムトラベルをして俺に接触したんだ」
京は残る謎を調べるため、日記のページを捲る。
歩が大学を卒業して数ヶ月のある日。歩は科学者としてセミナーを開きに秋葉原のある会館へやってきていた。研究室とは違う灰色の壁に階段。その踊り場で、講義の台本を読みながら立っている。
「荷が重いわ……誰か一人でもいいから話に食いついてきたりしたら、面白いんだけどな」
まあ、それも無いか、と溜息をつく。
アメリカ人ならまだしも、日本人は消極的で自分の意見を積極的に述べたり人の話を身を乗り出して聞いたりといった姿勢は見せないのだ。歩はそういうアメリカ人的な自己主張をする人間が好きだ。というよりは自分の意見を持っているにも関わらずそれを述べない人や、そもそも自分の意見すら持っていないという人を軽蔑するのだ。
「あー、駄目だわこんなんじゃ……しっかりしないとね」
胃が痛いのを我慢しながら会場へと向かう。
会場に着くと沢山の人が居た。
それだけ自分の話を聞きたいという人がいるのかと思うと胸が熱くなった。胃の痛みや荷が重いという感情は消えていて、その代わりに楽しさがあった。
「では、セミナーを始めます。今日のテーマは人の脳についてです。至らないところもあるとは思いますが、よろしくお願いします」
会場に居る聴衆による拍手喝采。歩はとても気持ちが良かった。会場の男女比は男が多かった。それもそうだろう、こんな話に興味があるのは大抵男なのだ。
女性科学者というのもいまどき珍しくは無いはずなのだが。
「まず脳、というものの役割をお話しましょう。何かご存知の方いらっしゃいませんか?」
挙手を求める。周りを見渡すが手を挙げる者は居ない。ああ、やっぱりこういう形式は駄目なのかと思った。
しかし、その時手が挙がった。同じくらいの年に見える男性だった。
「どうぞ」
男はゆっくりと立ち上がり、真っ直ぐ歩を見て言う。
「感性的というか空間的というかそういったものを把握するのが右脳で、一方左脳は論理的思考を担当する…んでしたっけ」
男が科学者や科学を志す者でないことは、この自信無さ気な口調と、曖昧な答え、そしてあまりにも初歩的な内容から、この男が科学の道を志すものではない事は明らかだった。しかし、この男は発言をしてくれた。そのことが歩を無性に嬉しくさせた。
「はい、そうです。右脳は視覚的情報の総合把握で、左脳は論理的思考を担当しています。では、人の記憶はどうでしょう」
男は立ったまま顎に手を当てて考え込む。しかし、これについては知識が無かったようで固まってしまった。
「記憶の種類には二種類あります。ちょっとの間覚えていられるけれど、暫くすると忘れてしまう様な、所謂うろ覚え的な記憶である短期記憶。何故かずっと忘れられない嫌なことってありますよね。そういった長期記憶の二つに分けられます。」
男は必死にメモを取っていた。
「これらの記憶は、全て脳の奥にある海馬という部位に保存されるんです。海馬というのは、昔のアニメーションのキャラクターじゃなくて、記憶保管庫ですね」
頷きながらメモを取っている。
「今のは笑うところです。」
会場は静まり返る。ギャグが高度すぎて誰も理解出来なかったようだ。
「あの……」
また男が手を挙げる。
「はい、なんでしょう?」
「海馬社長のことではなく記憶保管庫の海馬のことなんですけど――」
歩はつい吹き出してしまう。
「すいません、えっとその前にお名前を伺ってもよろしいですか?」
「時城京です」
そう、その男性とは京だった。このセミナーの間京はずっと立ちっぱなしだった。歩の話す理論一つ一つに相槌を打ち、メモを取る。
歩は次第に、とても楽しくなっていた。より活き活きとして聴衆に対して語りかける。そして、講義は本題に入る。
「私は、人の記憶のデータ化の応用について考えてきました。あの技術を応用して何かしら人類の役に立てないものだろうかと。そして考えました。記憶の保存についてです」
記憶の保存。その言葉を聴いた会場はざわつく。
しかし、京は一人静かにメモを取りながら溢れる好奇心に満ち満ちていた。大学生である京にはとても新鮮で、興味を惹かれる話なのだ。
「海馬に蓄積されている神経パルス信号を、ヘッドギアを通して読み取ります。ここまではVWへのダイブとなんら変わりありません。この読み取った信号をデータ化します。ここも変わりませんね。あとは保存方法ですが、このデータを記憶として保存したい。さてどうしましょう?」
「えっと……データというのも、見方を変えれば記憶と言えるので、その時点で記憶の保存は終了している……とか?」
「違いますよ、それは言葉のあやです。国語の時間見たいになっちゃってますよ」
会場の人々が苦笑いする。
「そこで私は考えました。人間の姿をした仮の入れ物を作るんです。その中にデータを入れる。そうすることにより記憶になる。これは実験で確認済みです」
より一層のざわめきが会場を包む。学者達は胸を躍らせていた。記憶の保存技術はあらゆる分野で応用できる。
例えば医学である。老化によるボケや、痴呆症、記憶障害などの症状が改善されるかもしれないのだ。あらかじめ保存しておいた記憶データを本人の脳に戻すことが出来れば――の話だが。それでも夢があり、ある程度現実味もある話なのだ。
「その保存した記憶を何かに使えたりするのでしょうか」
京が質問をする。
「それについては研究中ですが私としては医学転用を考えています。人の記憶データを本人の脳に戻す方法については研究中ですが、近いうちに成果が出ることでしょう」
「医学以外での、用途については、何か考えているのでしょうか」
「医学以外では、現在のところ特に考えておりません」
「そうですか」
「はい、では話を戻しましょう……」
この後も歩と京の問答は続き、会場は更なる興奮に包まれた。そして、講義が終わった今でも会場には熱気が残っていて、後片付けをする歩の気持ちを高ぶらせている。
「いやあ、いいセミナーだったわ。まさかあそこまで食いつきがいい人がいるとはねー。ふふふ」
独り言をしながらマイクやパイプ椅子を片付ける。
「にしても、椅子の数多いわねこれ」
「手伝いましょうか?」
そこにタイミング良く京が現れ、歩は驚いていた。
「まだ帰ってなかったんですね、時城さん」
「ええまあ。楽しいセミナーでしたから……あ」
京は歩の手からパイプ椅子を取って、あることに気付く。
「すいません、あの……ずっと俺ばかりが質問しちゃって」
「ああ、いいんですよ。私も楽しかったですし、結果的に良い講義になりましたから、万事オーケイです!」
歩もパイプ椅子を持ち、運ぶ。
「これ何処に置けばいいですか?」
「あ、端っこにお願いします」
京は部屋の端へと次々にパイプ椅子を片付ける。歩は小物の整理をしている。すると京は急に窓から外を眺め始めた。
「どうしたんですか?」
気付いていない様子だった。黄昏色に染まる秋葉原の街を呆然と見下ろす京の横顔は何故かとても悲哀に満ち溢れていた。歩はその横顔が気になった。この横顔にはどんな理由があるのだろう、どうして楽しいと言っていたのにそんな顔をするのだろう。
歩はそっと京のすぐ隣までやってきて再び言う。
「どうしたんですか?」
今度は気付き、京が振り向く。
「いや、なんでもないですよ。ははは、もうこんな時間なんだなって思いましてね」
「それだけ? そんなわけないわよね。私の目は誤魔化せませんよ、どうしてそんな顔で街を見下ろしていたの?」
京は一瞬困ったような顔をしたがすぐにニコリと笑って再び窓の外の街を見下ろす。
「この街は――日本はどうなるんでしょうね。今世界では戦争が起きそうだという国がいくつもあると聞きます。日本がそれに巻き込まれたら――どうなるでしょう」
歩は、問いかけの意味が飲み込めずに居た。返答に困る。
すると京はまたニコリと笑って歩の目を見る。
「ほら、さっきまでの素晴らしい返答はどうしたんです? 科学者でも、そういうときってあるんですね」
歩は少し悔しくなった。
「あ、言いましたね? ならいつかその答えを見つけて貴方にお伝えしましょう」
歩もまたニコリと笑って京の目を見た。
やがて片づけが終わり、空はすっかり夜の闇に包まれていた。
二人で会場を出た後、室内から見るよりも外はずっと暗いということに気付き、歩は京に送って貰うことになった。その間二人はお互いの事を話し合った。
歩は、京が政治家を目指している法学部生であることと親が政治家だと言うことを知り、京は、歩が自分よりも二歳ほど年上だと言うことと、科学で世界をもっと豊かにしたいという夢を持っていることを知った。
辺りを照らす街灯がチカチカと五月蝿く点滅し、まるで二人を囃し立てるガヤのようであった。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと二人で並んで歩く。
日常の中の非日常に放り出された二人、そんな言葉が今の状況にはぴったりだった。歩はとても楽しく嬉しい気持ちだった。今までこういったセミナーでは誰も反応してくれず、一人の帰り道が寂しさを増幅させていたが、今日は楽しいセミナーであった上に二人の帰り道なのだ。
また、歩は今まで科学が恋人だったため男性とこうして夜道を歩くなどと言うことは生まれてから一度も経験したことが無く、初めての体験に心を躍らせている。
「私ね、貴方みたいな人と出会うのは初めてよ。自分の意見をちゃんと持って、私の話を本当の意味で聞いてくれる人」
京もまた幼馴染の愛月以外とは女性と夜道を歩くなど初めてであった。
「俺も貴女のような人と出会うのは初めてです。すごく頭が良くないと考えられないようなことを考えているのに、その実は天然でほんの少し馬鹿な人」
京は苦笑しながら言う。
「もう、失礼ね」
歩も苦笑する。
暗くてお互いの顔は見えないが、お互いがどんな顔をしているかなどと言うことは、誰にでも容易に想像できた。
「でも、そう言うところ結構気に入ってるのよ」
そう言って京の頭を撫でる。きっと今この人は気持ちのよさそうな顔をしているんだろうと思った。
「じゃ、私の家もうすぐそこだからここでいいよ」
そう言って頭から手を離し、またすぐに勢い良く京の頭をわしゃわしゃと撫でる。そして、三度軽く頭を叩き、背を向けた。
「じゃ、またね!」
そう言って走り去っていく歩を京は暫く眺めていた。きっと、今あの人は満面の笑みを浮かべているのだろう。そして明日からはまた凛とした科学者の顔つきに戻っているのだろうとも思った。
街灯は大人しくなっていたように思えた。無論、先程と変わらずチカチカとしていたのだが。
出会って数日経ったある日のこと、二人は歩の家でデートをしていた。デートと言う言葉はいささか楽しく甘ったるい響きだ。しかし歩はこれをデートだと思っていた。
その内容はただただ二人で議論をしているだけだったのだが……それでもデートには違いなかったのだ。少なくとも、歩の心の中では。
「この国は内の問題を満足に対処できていないのに下手に外交に目を向けている。このまま東北の核汚染が進めばもっとひどいことに――最悪の場合東北は汚染で立ち入り禁止の政府管理区域になるかもしれん」
京がコーヒーにミルクを注ぎながら言った。
「それはどうかしら。科学の力って凄いのよ。今日本では放射線を中和する光線を開発中よ。それが間に合えば東北はまた活気を取り戻すわ。貴方って意外と内治派なのね」
歩がコーヒーに砂糖を入れながら言った。京はミルクを少し零してしまい、慌てて拭き取ろうとする。
「いやしかしそれが間に合わなかったらどうする?」
歩はコーヒーを一口飲む。
「間に合わなくて汚染により管理区域となったら無人でその光線を放射すればいいだけよ。言うなれば科学の大勝利って奴よ」
また一口。京はやっと零れたミルクを拭き取り、雑巾を折りたたむ。歩はまた一口コーヒーを飲む。
「まあでも、このままじゃ駄目だと言うことは確かよ。」
「待て、終わらせようとするな。まだだ、まだ……そうだ、全て中和し切るには時間がかかるはずだ、その間住民は何処へ住めばいい? 立ち入り禁止になっているのだし、皆が皆新しく家を用意できる財産があるとは限らないだろう」
「ぐう……そう来たかあ。んー、今ってあそこらへんどれくらい人が住んでいるの?」
「えっとなあ……汚染が進んでからしばらくして、あそこらへんは人口がどっと減って今は……もうほとんど高齢者しか残って無い」
「だったら、生活保護で金銭的保証を、あとは福祉施設が引き取ればいいわ。立ち入り禁止にするくらいだから、政府はそれくらいの対策はするでしょうし」
「確かにそうだな、それほどまでに政治家は落ちぶれてはいない……」
「まだ何かあるかしら?」
「……いいや、無いよ。完敗だ、お前は本当にぽんぽんと反対意見が出るよな」
議論は京の負けに終わった。今のところ3戦3敗。完敗だった。京はここにきてやっとコーヒーを飲む。少し冷めている。
「疲れたわね、流石に一日に三つも議題をこなすのはしんどいわ」
歩は立ち上がり、台所に行く。京はコーヒーを飲みながら部屋を見回した。今まで議論に夢中で気がつかなかったが、とても女性らしい部屋だった。ピンク色のカーテンに温かい配色の家具達。壁紙は真っ白。そして漂う歩の良い匂い。
部屋に入って3時間程経っていたが、今更になって京は非常にドキドキしていた。コーヒーが異様に甘く感じ、目に映る物全てが特別な意味を持つような錯覚に陥る。
しかし、その錯覚は決して煩わしいものではなくむしろ嬉しいものだった。
歩は台所からマカロンを出して来た。
「よかったらどうぞ、お食べなさいな」
「お食べなさいなってお母さんかよ」
そう言いつつも出されたマカロンを一つ食べる。小気味良い音と共に口に広がる甘さ。そして見た目の美しさが京を魅了する。
「お、今のつっこみはポイント高いわね。よし頭を撫でてやろう」
そう言って歩は京のすぐ傍に座る。
「いや良いよ、そんな子供みたいに」
「まあそういいなさんな、好きでしょう? これ」
そう言って歩は無理矢理京の頭を撫でた。
「歩ってたまに妙におばさんっぽい口調になるよな――」
「誰がおばさんよ、二つしか変わらないんだからね!」
歩は京の頭を強く叩く。京は叩かれたところを強くさすりながら歩に抗議する。
京は叩かれた所をさする。
「何も叩くことないだろ、お前力強いしさ、もう少し手加減を――」
「もう、失礼ね!」
歩はもう一度京の頭を叩き、拗ねたように背を向けて、黙る。京は歩の肩を弾むように二、三度叩き、様子を見るが歩は振り向かない。
「悪かったよ、もう言わないからさ」
京は座ったままの姿勢で軽く頭を下げる。歩が小刻みに肩を震わせ、吐息混じりの声を出すので京は不安になった。ひょっとしたら泣かせてしまったんじゃないかと思い、回り込むようにして歩の顔を覗き込む。
「ふふ……あははっ! 笑ってるだけでしたー! 泣いてると思った? 焦った? ねえねえ、焦った?」
京は安心すると同時に、不安がっていた自分が馬鹿らしく思えてきて、思わず吹き出してしまった。二人の笑い声が部屋を見たし、二人の心をも満たしていった。いつの間にか京は歩の笑顔が、歩は京の笑顔が、愛おしくなっていた。
京には夢があった。それは、父の様な政治家になることであり、また、国を良い方向へと導く事であった。歩と出会い、交際するまでは、対外貿易において外交関係の充実を図り、それで利益を得て、国民の要望に沿うような事業をするという意見だった。
しかし、歩と交際して色んな話をするようになってからは視野が広がり、考え直す機会も出来た。そして今の京は、科学技術活動を政府で奨励し、活発化させることで優秀な科学者や技術者を育て、国際研究機関に排出することで科学技術の面で国際的な地位を高め、人類の新たな発展にも貢献するという意見になっていた。
幸い日本は昔から技術面では多少他国より優れていた。隣国が日本の技術を模倣した物を作るくらいに影響力もあった。そこから数年伸び悩んでいるとはいえ、他国と比べ、科学力は決して劣ってはいなかった。
そもそも伸び悩んでいた原因は、圧倒的研究費用不足と技術者不足だったため、そこを補えば日本は科学技術面で優位に立てるだろう。
「……というのが、今の俺の夢だ」
街中のあるカフェテラスで、京は自らの夢を語り歩はそれをうっとりとした顔で静かに聞いていた。
「すごく……良いと思う! 他の人が何と言おうとも、私は全力で応援するわ!」
「それは、自分が奨励金を貰うためか?」
「んー、まあ正直それもあるけどねー。貴方がやりたい事を全力で応援したいのよ、素直に。それに、それは本当に素敵なことだって思うから。対外関係で優位に立てば、日本はこの先もきっと大丈夫でしょうし、人類の発展は全ての科学者の望みよ。どうしてその夢を否定するかしら、いやしないわ」
「なんで反語なんだよ」
「てへー、まあいいじゃない細かい事は気にしないの」
「まあでも、ありがとうな。これを話したのは実は歩が初めてなんだ。聞いてくれてありがとう」
「ま、お金も欲しいけどねー」
歩はまた笑い、コーヒーを飲む。二人はいつだって今の様にコーヒーを飲みながら話をしていた。その日々は永遠の様に儚くて、脆く、いつ散ってしまってもおかしくはない桜の花のようだった。日常というのは、いつ崩壊してもおかしくは無い。
京が自分の夢を語ってから、しばらく経ったある日。二人は京のリビングでいつもの様に話をしていた。
京の家は、妙だった。二十一世紀前半を想わせるような古びた家具や電化製品がそこかしこに点在し、まるでここだけは一昔前の民家の様だった。
「いいね、ここ。なんだか妙だけど落ち着くわ」
「お前人の家を妙とか言うなよ」
歩は、京の家で足を伸ばしてゆったりとくつろいでいたが、この家の住人であるはずの京は何故か落ち着く事が出来ずにいた。それは、今日飲んでいる飲み物がいつものコーヒーでは無く、普段はほとんど飲む事が無い紅茶だったからなのか。
「いやでも本当に落ち着くよ? 妙だけど」
「お前なあ……まあでも、それはよかったよ。色々物が古いだろう? だから笑われないかとか色々不安だったんだ。親父がレトロマニアでさあ」
「ふふっ、そうみたいねえ。私は好きよ? こういう昔ながらって感じの物。落ち着くから」
「でも使うとなると?」
「見てるだけなら好きよ」
京は慣れない紅茶を飲みながら、歩の顔を見るが、少しして見ていられなくなり、歩から目を逸らして不自然に部屋を見渡す。
「もう、どうしたのよ自分の家できょろきょろしたりして」
「いや、そのあれだ。その……つまりだ、いつも見ている風景だからこそ、劇的な変化を求めたくなったので……」
京は、伝えたいことが有るのにもかかわらず、曖昧な表現をしてしまう。しかし、こういった曖昧な表現をすれば、歩がたちまち食いついてくるということを京は知っていた。だからこそ、曖昧な表現をして、歩が食いついてきて話さざるを得ない状況を作ったのだ。
「お兄さん、劇的な変化とは?」
歩はインタビュアーのように手で円を作って、それを京の口元へと突き出す。
京は唾を飲み、何回も何回も繰り返し深呼吸をする。心臓がゴムボールのように跳ねまわり、京の体温を上昇させ、耳まで熱くなる。京は耐えきれずに立ち上がってポケットに手を入れた。
そして、京はポケットから小さな青い箱を取り出してまた深呼吸をする。さっきよりも、深く、深く。
そうしてゆっくりと口を開く。
「その、だな。劇的な変化というのはつまりだな……歩に、俺と結婚して欲しいってことなんだ」
ようやくその言葉を発した京は、立っていることさえ恥ずかしい事のように思えて、自分の席に座る。歩が今どんな顔をしているかが気になって仕方が無かったが、歩の顔など見られるはずもなく、それを確かめる事は出来ない。
歩は、完全に思考停止しており、普段はなかなか見せないような間抜けな顔をいていた。歩みは、何も言わなかった。いや、正確には言葉が出てこないのだ。歩は、今この状況で何を言っても、不釣り合いで、ナンセンスなように思えた。
お互いに顔を見れず、言葉も発することが出来ないまま、時間だけが過ぎていった。
そのまま長い時間が経ち、京が歩にプロポーズした時にはまだ太陽が高く昇っていたのだが、今はもう日が傾いてきていた。歩は、今更になってやっと先ほどの京の言葉の意味を飲み込む事が出来るようになっていた。
そして、京の顔をまじまじと見つめ、ため息を漏らす。
京は歩のため息を聞いて、歩の顔を見る。非常に穏やかな顔をしていた。
歩はやっとのことで、今のこの状況に似合う言葉を見つけ出す事が出来た。
「京、ありがとう……えっと、私からもお願いします?」
「なんで疑問形なんだよ」
京は吹き出した。
「違う、違う! えっと、結婚して下さい……というのもなんか変ね、さっき貴方が言ったんだものね! えっとえっと、あ! 幸せにして下さい」
「良く言えました」
京は、歩に指輪をはめて歩の頭を撫でる。
「もう、子供扱いしないでよね! でも、ありがとう……」
「おう、こちらこそありがとうな。これからも、よろしく」
「うん! よろしく」
「はは、任せろ。歩は俺が絶対に幸せにする」
「約束よ」
「ああ、約束だ」
二人は今、幸せの渦の中に居る。この時が二人にはとても愛おしく、永遠のように思えた。永遠というのはひょっとしたらこの世の中に存在するのではないかと、二人らしくも無いことを考えてもいた。それほどまでに、今の二人は幸せで、充実した人生を送っているのだ。
心の中のどこかでは、永遠など無いということをわかってはいながら。
結婚し、京達には子供が生まれた。時代海という名前の元気な男の子だ。海という名前は、京がつけた。名前の由来は、海のように広い心と視野を持ち、悠々と生きていて欲しいという願いだ。そして三人はとても仲が良く、休日には毎週どこかに遊びに出掛けていた。
しかし、渦というのはいずれは消える。
幸せな生活を送っていたある日、政治家だった京の父が死を迎えた。死因は急な心臓発作による心臓麻痺だと医者から知らされていたが、それは明らかにおかしかった。
京の父は、生前弱っていた様子は無く、むしろ呆れる程元気だったのである。とても心臓発作を起こすとは考えられなかった。
京は父の死を、誰かによる謀殺だと考えていた。
そして京は、真実を確かめたい気持ちが湧いた。いや、確かめなければならないと思った。
「歩……俺さ、日本政府にハッキングをかけようかと思ってるんだ」
父の死因を聞いた直後、父の病室で京はゆったりと、虚ろに話す。
「ちょっと待って、危険よ。もし足がついたらどうするの? 私達には海だっているんだし、お互いに危ないことは出来ないわ」
「だが、息子の俺が真実を確かめないで一体どうする? 歩は親父が本当に心臓発作で死んだと思っているのか? あんなに元気だった親父が」
「いいえ、夢にも思ってないわ」
「だったら!」
「でも! ……海はどうなるのよ」
歩は、思わず声を荒げてしまい、ここが病室だと言う事を思い出して声を落した。
「海を危険にさらす事は出来ない。だから、お前が……引き取って、ほとぼりが冷めるまで別々に暮らすんだ」
「嫌よ」
「どうして? これが一番良い折衷案じゃないか」
「京も、本当は別居なんて嫌だって顔してるわよ。年頃の男の子にとって、父親が居ないというのは結構影響を及ぼすらしいわよ、たとえ一時期であってもね。それに、私も個人的に嫌よ。せっかく、三人で一緒に暮せたんじゃない。やっと京の実家から離れて三人でマンションの一室を借りて住み始めて、新しい生活が始まったばかりじゃない……」
「……ああ、そうだ。俺だって嫌だよ本当は。本当に幸せの絶頂な結婚生活だったし」
「絶頂じゃない……まだまだこれからも、今まで以上に幸せなことがあるかもしれないじゃない。いいや、これからもっと幸せになろうよ」
「……すまない」
「どうして? どうして謝るの? ねえ、どうして……!」
「俺には、目の前におかしな出来事が有るのに、そこに何かしらの悪があるのが分かっているのに、それを見過ごすことは出来ない……」
「そういう正義感が強いところ、私は好きよ、大好きよ」
「だったら――」
「でもね、今回だけは駄目。私達だけでなく、京自信が一番危険なのよ? 夢があるんでしょう? だったら今ここで問題を起こしたら駄目よ」
「こんな悪も暴く事が出来ないようじゃ、他の政治家と同じだ。そんなんじゃ夢は叶えられない」
「だったら私達も一緒に危険を……!」
「駄目だ、それは絶対に駄目だ。お前達を危険な目に遭わせるわけはいかない。暫く、俺のハッキングが終了するまでの間だけ、俺達は別居していよう」
「嫌……嫌よ、やめて……」
京は、立ちあがって病室から出ていこうとした。
「行かないでよ……」
京はその言葉を無視して、外へ出る。
歩は病室に一人残され、いつまでも呆然と、何も無い天井を眺めていた。
「約束……したのに」
あれから京は実家に帰り、三人の家は二人の家となった。歩は、海が居るにもかかわらず、とてつもない孤独感に襲われるようになった。
何もする気力が起こらず、大好きだった研究すらも今はしていない。海が遊びをねだってくるのでさえ、今はどうでもよく、海と遊ぶこともなかなかしなくなっていた。
ソファにもたれかかり、窓の外をぼおっと見つめる。そんな毎日が続いた。考えている事はいつも同じ事だった。京は今頃どうしているのだろうか、ただそれだけを考えていた。
ただぼおっと、京の帰りを待っていた。帰ってきて、そこからどうしようという考えは無い。きっと帰ってきたとしても、以前のような幸せな結婚生活は送れないだろうということは容易に予想が出来ていた。それでも、待たずにはいられなかった。
「どうしてこんなことになったんだろう……過去が変えられるのなら、今すぐにでも変えたいわ。私……相当依存していたのね、あの人に」
歩は涙が出そうになった。窓が開いている。そこから飛び降りてやろうかという考えがぱっと歩の脳内に浮かぶ。しかし、そうはしなかった。京も、同じくらい……いや、もっとそれ以上に辛いということが分かっていたからだ。
京は今、一人で戦っているのだ。この国の暗い部分と戦っている。それとも戦い終えて、ほとぼりが冷めるのを待っているのだろうか。分からない。しかし、いずれにしろ歩に泣く事は許されていなかった。少なくとも、歩自信はそう思っていたし、そう思って疑わなかった。だから、あれから数カ月、一度も泣かなかった。
ただ、それが余計に歩を辛くしていたのだ。
チャイム。無機質な音が室内に鳴り響く。歩は思わず、飛び跳ねてしまう。ドアへと駆け寄る。もしかしたら、京が帰ってきたのかもしれないという期待があったからだ。しかし、同時に不安もあった。もし、今チャイムを鳴らしている人物が京だったとして、京の顔を見て自分はどうすればいいのだろう。どういう顔をすればいいのだろう。きっと、笑うことは出来ないだろうなと。そんなことは皆目見当がつかなかった。だから、怖かった。
二重の意味でドキドキさせながら、扉を開ける。
「よう、ただいま」
扉を開けて、そこに立っていたのは京だった。数ヵ月ぶりの再開にもかかわらず、京の口調は軽かった。まるで昨日も会っていたかのような口ぶりに、歩はかえって疑ってしまう。
「おかえりなさい、久しぶりね」
京は玄関に入り、靴を脱ぐ。
「そうだな、数カ月ぶりだな」
「四か月ぶりよ」
「そうか、そんなに経つのか。色々あったからもっと経っているような気がしていたよ」
京の声はとても優しかったし、顔も笑顔だったが、歩はどうしてもその声や顔が以前のような優しさを含んでいないような気がしていたならなかった。
「コーヒー淹れるから、何があったか聞かせてもらえるかしら」
「……いや、いいよ。しばらく部屋にこもるから、邪魔しないでくれ」
急に声が冷たくなり、笑顔も消えた。
ああ、やっぱり作り笑顔だったんだな。ああ、やっぱり偽りの優しさだったんだな。歩はそう確信した。しかし、引きさがろうとはしなかった。妻として、一番の理解者として、話を聞いておかなければならないと思ったからだ。
「ちょっと待ってよ、久しぶりに帰ってきたのにそれは無いんじゃないの?」
「なんでだよ」
「なんでじゃないわよ。数か月も人を待たせておいて……どうなったかの報告くらいしなさいよ、私は貴方の妻じゃないの? 知る権利はあるわ、貴方がどれだけ拒もうと、貴方には私に話す義務があるんじゃないの」
「義務ねえ……無いよそんなもの。夫婦であっても、全てを話す義務が有るというわけではない。待たせていたのは、歩達の為を思ってしたことだ。悪いとは思っていない。だから俺には話す義務なんて無いし、歩に知る権利が有ろうと俺にはそれを拒む権利もある。侵す権利と守る権利が対立した時、どちらが優先されると思う?」
「……どうも思わないの? 悪いとは思わなくてもいい。でも、少しくらい何か思わないの?」
「思わない。必要だからそうしただけだ。あの日黙って出ていったのも、お前に連絡一本よこさなかったのも、電話に出なかったのも、手紙を返さなかったのも全て、意味が有る事だったんだ。だから、今更どうも思わない。仮に何か思ったとしたのなら、俺は中途半端な気持ちで動いていた事になる。俺はそんなのは許せないからな」
「じゃあせめて……海にくらいは優しい言葉をかけてやってちょうだい。仮初だっていい、嘘だっていい。でも、せめてあの子には……今言ったようなことは言わないで」
「……どうだろうな」
「……っ!? 京!」
「はあ。わかったよ、そうすればいいんだろう?」
「貴方って人は……!」
「どうしたんだ? 何か言いたいことがあるのなら言ってみろ」
「家族に心配かけておいて、そんな態度は無いんじゃない?」
「それはごもっともだな」
「だったら……!」
「でもな、もう違うんだよ。あの頃とは何から何まで。この数カ月で、変わってしまった。この数カ月何があったか、少しだけ話そうか? そうしたら、そんな言葉は吐けないようになるだろう」
「ええ、聞くわ」
「俺はな、政府にハッキングをかけて、親父の本当の死因を突きとめた。まあ、案の定謀殺だったわけだが……親父は、悪い事は何もしていなかった。政府の不正を暴いただけだったんだ。俺はそれが許せなかった。同時に、復讐心が湧いた。父を亡きものにした奴を全員、殺してやろうとした。もちろん間接的にだ。そのために、俺は選挙に立候補して、当選した」
「知ってるわ」
「そうして、しばらくしてから……奴らを全員殺したんだ。もちろん、法で裁かれるようなことはしていないがな」
「……人を殺したの?」
「ああ」
「そう」
「わかったらもういいだろ? 部屋に行かせてくれよ」
「いいわ、もう。いいわ……」
「そうか。じゃあな」
京は、それから何も言わずに部屋へと戻って行った。
「じゃあなって何よ。もう二度と、会えないみたいじゃない……嘘吐き」
歩は悲しむと同時に、京に失望していた。人殺しをした夫を許せないで居た。悪を懲らしめるのに人を殺していては、正義も何も無い。皆等しく悪だ。歩の中で、とても大切な何かがこの時切れたような気がした。
「お母さん、どうしたの」
海が家に帰ってきた。そうして、ソファの横で抜けがらの様になっている歩を見つけ、鞄を放り投げて歩の傍へと駆け寄る。
「京……お父さんがね、帰ってきたの」
「え!? そうなの?」
「うん。でもね、もう……私なんて必要ないみたい」
「それってどういう……」
「私達の知る京は、もう居ないの。どこにも、どこにもね。あの人は、部屋に籠る時に、じゃあなって言ったのよ。これがどういう意味か、海君には分かる?」
「分かるよ。つまりは、そういうことなんだね」
「ええ、そうよ。だから、私はもう良いかなって」
「何が?」
「こうやって悩んでいるのは」
「……そうだね。でもお母さん、一つ聞いていい?」
「なに?」
「お母さんは、今でもお父さんの事、愛してる? お父さんがそうでなくても」
「……ええ、愛しているわ。愛していないわけないじゃない。だってあの人、凄く辛そうな顔していたのよ。自分でも辛いんだわ、自分でもわからないんだわ。昔の様な自分を、本当の自分の心をどこに置き忘れてきたのか、わかっていないのよ」
「そうか……」
「ねえ、海君」
「ん?」
「私ね、お父さんを取り戻しに行こうかと思うの」
「取り戻しに行くって、何処に? 部屋に? 実家に?」
「過去に」
「えっ? 過去?」
「ええ、過去よ。科学者として、馬鹿馬鹿しい話だと思っていたけれど、私はタイムマシンを作って、京を取り戻しに行く。こうならない今を作るために」
「……お母さん。先生はね、失った物はもう二度と戻ってこないって、言ってたよ。失った物は、取り戻す事は出来なくて、一見戻ってきたかのように思えることは、実はもう一度手に入れているだけだって。失った物を手に入れるには、相当な苦しみが必要だって」
「それでも私はやるわ、過去へ跳んで今を変える。タイムマシンの仕組みはもう思いついているのよ。いや、実はずっと前から思いついて居たの。京と出会った時からね。これは運命かしら」
「でも、僕はお母さんを応援してあげることはできない」
「それでもいいの。私がやりたくてやるんだから。欲しい物が手に入れられなくて、店先で駄々をこねている子供のようなわがままよ。ただの、わがまま」
「そうか……わかったよ、お母さん」
それから数カ月が経ち、京は自分の父親の謀殺事件の真相を世間に公表し、政府の不祥事を自ら暴く国民の味方としての支持を獲得していき、気が付いたら民主党の総裁になっていた。そして京は民主党の名前を時代党と改称し、自らのマニフェストであった、科学活動の奨励法を議会で可決させ、公布した。
科学活動奨励法公布からしばらくが経って、総理大臣が辞任。総選挙の結果、時代党が議席の三分の二以上を占めた。当然次の総理大臣は、京がなった。すると政府は独裁色を強めていき、日本国は時代党総裁であり総理大臣である京の独裁国家となっていった。
一方歩は、独自にタイムマシンの研究を進めていた。
そして二人の中はどんどん疎遠になり、一か月顔を合わさないなんてことも珍しくは無かった。それどころか、顔を合わせる方が珍しかった。そしてついに京が独裁体制を敷こうとした時に、二人は離婚した。当然のように海は歩に引き取られ、歩は研究で得たお金で新しい研究所を地下に設立し、そこで静かにタイムマシンの研究をしていた。そしてBF溶液、VCシステムを完成させ、それをタイムマシンに取り込むという構造が生まれた。
そして、京が独裁者になってから数カ月後、ついにタイムマシンが完成した。
「ねえ、お母さん。いったいどういう方法で、過去を変えるの?」
「良い質問ね、海。幼いころの京に会って、京を政治家では無く、科学者の道へと誘うのよ。そうすることで京は独裁者にもならず、きっと昔みたいな幸せな生活を歩めるわ。ただし、ちゃんと出会ってくれればの話だけれど……」
「でも、お母さん達の出会いって科学のセミナーだったんでしょ? だったらきっと出会えるよ」
「ふふ、そうね。そうよね」
「うん、そうだよ」
歩はタイムマシンの体を撫でる。型番はK.T三○七号。マシンはひんやり冷たく、微かに振動している。
「ねえ、お母さん」
「んー?」
「もし、前みたいに幸せに暮らせる世界になったら、僕は生れてくるかは分からないけれど、今度こそ、お母さんはお父さんと一緒に、幸せになってね」
「……ええ、分かっているわ。そのために、私は行くんだもの。それに、きっと海君も生まれてくるわ。だから、私がこの時代に帰って来た時には、三人の温かい家庭があるの」
「そうか、そうだね」
「ええ、だから私は戦いに行ける。ちょっと世界に抗ってみるのも、マッドサイエンティストチックでいいんじゃない?」
「はは、そうだね。マッドっていうにはちょっと間抜けだったりするけどね」
「何よ、もう。やっぱり海君は似てるわね」
「誰に?」
「私達夫婦によ」
歩は海に優しく微笑みかける。
突然ハッチが荒々しく開く。歩の研究所には歩と海以外の人間は普段出入りしない。だから歩は、侵入者が来たのだとすぐに分かった。そしてそれが誰かということも、すぐに分かった。歩は銃を構える。
「よお、歩。随分見ない間に元気そうになったじゃないか」
「そういう貴方は老けたかしら? 総理大臣やってて白髪増えたんじゃない? ストレス?」
「これは権力の象徴さ」
「あら、私だって研究の成果が出た喜びの顔よ?」
「ほう」
「ところで京、何をしに来たの? SPまで連れて、たいそうなもんじゃないの。まさか、再婚しようとか言うんじゃないんでしょう?」
「まさか。俺がここに来たのはお前の研究を取り締まるためさ」
「あらあら、科学活動奨励法とか出しておいて取り締まるだなんて、矛盾も甚だしいわね。一体何の冗談かしら?」
「冗談なんかじゃないさ。ほら、その証拠に俺の右手には何が握られているか、分かるだろう?」
「ええ、分かっているわ。ついでに私の右手にも同じようなのが握られている。これがどういうことかも、分かっているでしょう?」
「ああ、分かっているさ。つまりはお互いに本気だってことだ。これは子供のお遊びでもなければ、学生の生ぬるい議論でもない」
「そうよ、これはそんな甘いものじゃないわ。お互いの過去と今を賭けた戦いよ」
「そうだ、これは戦争だよ。お互い話し合いは通じないようなのでね」
「ええ、そうね通じないわ。今更何を話し合う必要なんてあるのかしら。お互いに心は決まっているのに。そんな不毛な事をするほどお互い馬鹿ではないしね」
「そうだな、俺達は昔から色んな議論を交わしていたが、もう議論ではどうしようもない問題に俺達はぶち当たってしまったようだし」
「そうね、これはお互いの人生の問題よ。どっちが悪でどっちが正義とかそういう話も出来ない。お互い間違っていてお互い正しいのよ」
「だから議論をしても無駄だ、故に話し合いで解決という平和的な考えも俺には最初から無い」
「そうね、そのためのSPだものね」
「ああ。和平交渉をするつもりがあったら、こんな物騒な人間連れてこないよ」
「私もよ、そんなつもりがあれば銃を構えて待ってなんていないわよ」
「なら、お互い次にとる行動は決まっているわけだ」
「ええ。決まっているわ」
歩は京に銃を向ける。京は、何故か銃を持つ手を下した。歩はこの時ばかりは京が何を考えているのか、皆目見当がつかなかった。自分の動揺を誘っているのかと、疑いもした。しかし、そのまま動きは無い。
「どうした? 撃たないのか?」
「どうして京は構えないの」
「ほら、さっさと撃てよ。俺の作戦かもしれないぞ」
京の言葉には含みがあった。しかし、歩にはそれが演技なのか本気なのかが分からず、引き金を引く事を躊躇ってしまった。
しばらくの硬直状態が続く。
その硬直を破ったのは、銃の音と、火薬の匂いだった。
歩が引き金を引いていないにも関わらず、室内にはそれら二つが充満した。
京の体が崩れていく。
その隣には、銃を持ったSPが立っていた。
訳が分からなかった。何が起こったのか、歩には全く見当もつかなかったし、海にも何が起こったのかさっぱりだった。
「ふう。この人はちょっと過激すぎたんですよ。自分に反抗する人が、どれだけ多いか全然分かっていない。いや、分かろうとしていない馬鹿なんですね」
「どうして、殺したの」
「逆に聞きます、どうして貴方は殺さなかったのですか」
「京が銃を構えないからよ」
「そうですか、戦う意思が無い人間は殺さない、と」
「……質問に答えて」
「僕は、総理大臣時城京が気に入らない。日本を独裁体制にしておいて、やっていることは以前よりも良い政治だった。弾圧もしたけれど、それでも私には良い政策の方が目立っていた。でも、それ故に、この人は危険だった。これからの人生で、この人がどう変わっていくか、それによって国の命運は大きく左右される。このままではいけない、そう思ったから殺しました」
「そう……なら、いいわ。ちゃんと自分の意思を持って殺したのなら、私は咎めはしない。だから、貴方が私に殺されても、何も文句は言えないはずよね」
歩は持っていた銃をSPに向ける。SPは苦笑いして銃を置いて両手を上に上げた。
「そうです、その通りですよ。どうぞ殺してください、夫の仇をとって下さい。貴方は、あの人を殺すつもりなんて最初からなかったのでしょう?」
「ええ、腕を撃って銃を握れないようにすれば十分だと思っていたわ。そうしたらマシンに乗って、過去を変えに行ける」
「そうですか……過去を変えるために研究を。では、殺される前に一つだけいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「……どうか、今よりももっと良い世の中にしてください。あと、時城さんのことを、忘れないでください」
「ええ、約束するわ。それに、忘れたりしないわよ。京と私自身の為に、私は跳ぶのだから。じゃあね、さようなら」
歩は、SPの男の心臓めがけて、弾丸を放った。
「たとえ今日の出来事が無かったことになっても、私は忘れないわよ」
タイムマシンに乗り込む前に隠れていた海に銃を手渡す。
「これを持っていなさい」
「どうして? 過去を変えれば、僕の主観から見ると一瞬で世界は変わるんじゃ」
「いいのよ。これを持っていれば、たとえ世界線が変わっても、この辛かった日々のことを、覚えているだろうから。そして、私達家族の絆も、ちゃんと壊れずに再び構成されるような気がするから、これはお守りとして持っておいて。私の気休めよ」
「わかった、持っておくね」
「よしよし、それでこそ海君だ」
歩は海の頭を撫でる。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
2024年7月23日。
歩はタイムマシンに成功し、この時代へとやってきた。京がまだ、小学生の時代に。
歩は、自分の理論や設計には自信があったが、それでもタイムトラベルの成功という人類史に残るような出来事に自分でも驚いていた。しかし、驚いてばかりではいられず、すぐに行動を開始する。
最初に歩が行うのは、拠点探しだった。だが、これはさほど苦労はしなかった。丁度良い廃墟があったからそこの管理人に話をつけて買い取ったのだ。ここを拠点にし、ここで京に科学の道を教え込めばいい。歩は廃墟にパソコンやホワイトボードや部品類を巧みに配置し、あたかも使いこんでいる研究室の様な雰囲気を演出した。
次に歩が行うのは京の生家を探す事だ。どうやって探そうと、少し考えれば案が出た。出身地は京から話を聞いていて知っていたから、京の出身地に局所場指定を行い、今歩は京の出身地に居るのだ。だったら話は早い。聞いて回ればいいのだ。いささか原始的ではあったが、そうするのが手っ取り早かった。本当はもっと良い方法があったのかもしれないが、この時の歩はタイムトラベルの後の高揚感に満たされていたのだから、仕方が無い。
道行く人々に「時城さんのお宅はどちらでしょうか」と聞いて回る作業。傍から見れば不審者である。もともと、この世界に存在していない人間という意味では、存在している時点で不審者なのだが。
何人に聞いただろうか。今まで聞いた人は皆訝しげな顔をして、答えたとしても良い返事では無かった。歩は自らの無計画さを思い知らされ、落胆する。
そして十数人目。
「あの、時城さんのお宅はどちらにございますでしょうか」
「ああ、時城さんならね。そこに信号あるだろう? それ渡ってね、右に行ってしばらくしたらまた信号があるからそこを左に行って、左手に見えるよ」
「ありがとうございます! 失礼しました!」
やっと得られた情報だった。時城という苗字はなかなかに珍しいが、ここまで聞きこみ調査が当てにならないものだったとは歩は思っていなかった。聞けばすぐに分かるだろうという浅はかな考えだった。
教えてもらった通りに進んで行くと、時城というネームプレートが掛けられてある家を見つけた。
しかし、歩はどうしていいかわからなかった。着いたはいいものの、インターホンを押して、マイクを通して何を言えばいいのか分からなかった。どうすれば本人以外の人間に怪訝に思われずに京と接触出来るのかが分からないのだ。
とりあえず歩は、家の外から中の様子を観察する。しかし、何も見えない。カーテンがかかっている。時は夕暮れ時。もしかしたら今はお風呂に入っているのではないだろうか、ご飯を食べているのではないだろうか。そう考えると、インターホンを押す事さえも出来ない。
八方塞がり。「ああもうどうすればいいの」と心の中で叫ぶ。ふと郵便受けを見る。新聞が入っていた。夕刊が入っている、ということは親はまだ帰っていないのだろうか、と予測する。ガレージには車が入っていなかった。となると現在確定で親はいない。少なくとも歩の中ではそういうことになっていた。
インターホンを押すかどうか迷っていると中から楽しそうな声が聞こえてくる。幼い男女二人の声。ここで歩は気付いた。おそらく愛月と一緒に遊んでいるのだと。歩は、愛月の事は京から以前聞いていた。いつも仲が良かった幼馴染だと。
二人が中で遊んでいるのなら後は簡単な話だ。愛月が帰るのを待てばいい。そして新聞を取りに来るのを待てばいいのだ。京が必ずしも新聞を取りに来るという確証は無かったが、歩はなんとなく分かっていた。京は新聞を親が帰るまでには取りに来ると。京の父親は政治家だ。だから新聞は欠かせないはずだと歩は思ったのだ。
歩は物陰に隠れて愛月が帰るのを待った。するとほとんど経たないうちに愛月は家から出て来た。そしてその後数分して京が出てくる。新聞を取っている。今しかないと思って物陰からゆっくりと出た。
「お姉さん何してるの?」
歩は、自分から声をかけられるつもりが、京の方から声をかけてきたので、驚いてしまう。幼い京は可愛らしい顔立ちをしているのだなと歩にはなんだか面白く思えた。
「んー? いやー、ちょっと、頭の良い子を探しててね。君、頭良さそうだし、ついてきてくれないかしら」
「頭が良い子なら、そこの家の愛月の方が――」
「君の方が良いんだけどなあ……駄目かな?」
「……いいですよ」
「じゃあ、行こっか」
「一応聞くけど、君の名前はなんて言うの?」
「時代京だよー!」
この時代の京はとても純粋で単純だった。こんなに純粋な京が、未来には独裁者にもなっているなどということは人々は夢にも思わないだろう。
歩は奇妙な気持ちで京と歩いていた。だが、とても温かい気持ちでもあった。
「そう……いい名前ね」
「そうなのかなあ。お姉さんの名前は?」
歩は迷う。果たして名乗っても良い物なのだろうか。そうすることで世界に与える影響はどれほどの物なのだろうか。少なくとも苗字だけは名乗らない方が良いだろう。しかし、そうであっても歩は旧姓を名乗る気にはどうしてもなれなかった。
「ええと……歩よ」
「よろしく、歩さん!」
それから夏休みが終わるまでの数週間は、歩にとってはとても短い数週間だった。かつて京と週末にデートをしては議論ばかりして過ごしていたことを思い出し、とても懐かしい気持ちがした。同時に、京との生活を思い出し、泣きそうになることも多々あった。
思っていたよりも、京は科学に対して興味を抱いた。歩の半ば洗脳ともいえるような科学の講義を京は目を輝かせて聞いていたし、実験の際にも積極的に歩の助手を務めた。難しい事もしたが、小学生ながら必死になってついてきてくれていた。歩はその様子に、特別な感情を持たざるを得なかった。昔の京に、二人の人間の姿を重ねていたのだ。
――終わりだな。
歩の頭の中で、何者かの声が響いてきたような気がしたが、歩は何も気にとめなかった。
そうして、夏休み最後の日になった。
この時には京がもう一回り成長したように見えたし、実際に考え方などは大人のものに近い考え方になっていた。しかし、ちゃんとした倫理観を持つようにもした。そうしなければ、また独裁者の道へと走ってしまうかもしれないからだ。
京が、政治の道へ、独裁者の道へと走らないように。その代わりに立派な科学者になって、今度は以前よりも、もっと熱い議論が交わせるようにと祈りながら、歩はタイムマシンで未来に戻った。
元の時代に戻ると自分は何故か研究所に居た。どこの研究所かは分からない。だが、少なくとも自分が居た研究所ではないことは明らかだった。置かれている物や、部屋の壁紙、全てが違っていた。歩は部屋から出る。
「この規模の研究所……一体何処なの? 何がどうなっているのかしら」
「あのー! すいません! 歩さん」
「あ、はい? なんでしょう」
「頼まれていた資料、作成完了したので渡しておきます。じゃあ、失礼します!」
資料を渡されたが、知らない人間だった。資料作成を頼むということから、歩はこの施設では、地位が高いとわかった。
一体何の資料なのだろうか、この資料にここが何処であるかの手掛かりが隠されてはいないだろうかと渡された資料の表紙を見る。
――Gシステムから発せられる異常電波とそれによって引き起こされる現象・効果について。
Gシステムとは何だろう、異常電波とは何だろうと、科学的興味も湧いて、歩は資料のページをめくった。
書いてある事を要約すると、こうだ。
――Gシステムは、常に、海馬に蓄積された神経パルス信号と同じパターンの信号を有する電波を放出している事がわかった。これは、VCにも共通していることだ。ところで、この異常電波だが、浴びている人々にデジャヴ現象を引き起こさせることが確認されたわけだが、これを実践的に活用していこうというプロジェクトを発足。プロジェクト名は『集団デジャヴプロジェクト』とする。なお、害があるのかどうかは今のところ不明なので要検討。なお、このプロジェクトはもう既に実行されており、これはその経緯を後からまとめたものである。
「何これ……? Gシステムとは一体なんなのかしら」
この資料にはGシステムについては、全く書かれていなかった。他に資料は無いのかと、自分の部屋に戻ってデスクや棚を探すと、三つの資料が出て来た。
その中には、Gシステムとは何か、ここは何処かが全て書かれていて、歩は大きな衝撃を受けた。自分がCERNの科学者となっていることにも驚いたが、Gシステムの存在に一番驚かされた。
そして、最後に自分の日記を見つける。
――私がCERNに来てからもう何か月経つのだろう、いいや何年経つのだろうか。そういえばもう、そんなに経っているのだっけ。早いもんだわ。世界中を支配するようになってkらら、もうそんなに経つなんて。
「……? 世界中を支配? どういうこと?」
――CERNの支配は、かつてのドイツとソ連に比べればとても優しい物だ。まあ、私がそうしているのだから当たり前だけれど。
「私がCERNを通じて世界を支配? まったく、わけがわからないわ。どういう冗談よ。もっと、もっと遡って。数年前の、ここに来たころの記述は無いの? ……あった!」
――CERNにやってきて、Gシステムと呼ばれるものとしばらく付きっきりで仕事をしていて、なんだか頭が痛い。時折割れるような頭痛に襲われ、変な映像を見る。自分が人を殺したり、京とかいう男性と議論したり……あれはいったい何なのかしら。
――頭の中に声が響いてくるようになった。声が響くたびに、なんだかとてつもない使命感に襲われる。声は、この世界を変えなければと言っていた。この世界は支配を必要としている。そう言っていた。だから私はきっとやらなければならないんだわ。
――もう私に迷いと言う物は無い。時々私は人が違ったようになるらしい。そういえば時々記憶が無いのだけれど、これは一体どういうことなのかしら。やっぱりあの声の所為なのかしらね。それはともかく、もう全て準備は整ったわ。CERNの力を借りて、全世界を統一する時が来たのよ。
「これは……つまり、そういうことなのね。ということはこの世界では私が独裁者? 滑稽ね。夫が独裁者にならないように動いたら今度は何故か自分が独裁者になっているなんて。にしても、頭の中の声は……錯覚では無かったのね」
歩は、研究施設から出た。ひょっとしたら、外にはタイムマシンがあるかもしれない。乗ってきたのだから、無いと不自然だろうと思ったのだ。
案の定そこにマシンはあった。しかし、時間を遡るにしても、何時に跳ぶか、また、跳んでどうするのか、全く見当もついて居なかった。
とりあえずこの時代に居るのはとても気味が悪かったので、まだ独裁していなかった時代に跳んだ。
そしてそこで、この世界の技術や、Gシステムについて学び、研究をしていた。すると今度は自分が、日記に見たような頭痛等の症状に苛まれるようになり、しばらくして……歩の意識は途切れた。日記も、此処で終わっている。
最後の方は日記の記述が曖昧だったり、文体が荒かった。日記を書く程の余裕など、あるはずも無かったのに、無理矢理言葉を捻りだして書いた日記なのだろうと、京は思った。
この日記を読む限り、歩さんの様子がおかしかったのは俺の所為なのか。そして、神による異常電波による人格障害……? これは憶測だが、文面を見る限りはそうとしか思えない。それにしても、俺は一体何をやっているんだ。自分の妻や子供を放っておいて、自分勝手に動いて……! それで違う世界の俺が死ぬんだよな。遠回りな自業自得だな。
だが、そうと分かっていればあとは簡単だ。自分と、歩の両方を救える方法が、この日記には書いてある。それは、歩から神の電波の影響を取り除くこと。問題はその方法だ。しかし、それも解決するだろう。全てはCERNが握っている。
京は、CERNのVWに移動する。
そこには研究者が沢山いた。ばれないように、異常電波に関する資料だけを探しださなければならない。慎重に、慎重に事を運ぶ必要があった。今度はあの時とは違い、拳銃は所持していない。強行突破は難しいだろう。
京は物陰に隠れながら、研究者達の目を盗んで移動する。CERNのエリアでは、瞬間移動が規制されていて資料庫に自動で行けたりはしないのだ。
「おいお前、あの資料どこにやったよ」
「あの資料って? ちゃんと言ってくれにゃわからんぞ」
「俺が極秘で作っていた資料だよ。俺の部屋にも無かったし」
「ああ、それなら資料庫に……」
「おい! 極秘って言ったろ? なんで資料庫に入れる!?」
「あ……!」
「まったく、お前……! まあいい。俺は資料庫で探してくる。お前はそこで頭でも冷やして居ろ」
あの男は資料室に行くのか。なら、あいつの後を追っていけば資料室の場所が分かるな。しっかし、他の三人にばれないようにしないと……いくら白衣を着ているとはいえ、知らない人間が居たら、ばれるだろうし。隠れながら後をつけるのは骨が折れる。探偵漫画みたいに、すんなりとはいかないものだな。
心臓が高鳴る。見つかったら終わりだ。研究者が後ろを向いた。その隙に前へと進む。男は階段を上って行く。階段まであと少し。しかし、科学者がこっちを向いているから動けない。一分経った。もうさっきの科学者には追いつけないような距離が空いているに違いない。
それからしばらく見張っていると、科学者たちが一斉に動き出した。
「やばい、会議の時間だった!」
会議か、丁度いい。これで科学者たちの大移動が終われば、もう少し自由に動けるに違いない。そうなったら、あの研究員を見失ったとしても、資料室を探す事が出来る。
大移動は終わった。大移動というか、一斉ログアウトというのがこの際は適切だろう。ここでは、ログアウトすることすらも制限されており、きっと非制限区域へと移動してから現実の会議室へと向かったのだ。
京は動き出した。階段を上る。
そこにはとても都合が良いことに誰も居なかった。
なるほど、会議になるとここの警備はえらく薄くなるのか。少なくとも人が見張っていると言う事は無いのだろう。会議は恐らく研究員全員で行われる物なのだろう。あの一斉移動がそれを物語っている。間違いは無い。
京は誰も居ない廊下を歩いて回る。京は現実のCERNの室内構造を思い出そうとする。だが、資料室など今まで一度も行った事が無かった。ずっと歩の部屋か神が居た部屋か、自分の部屋にしか居なかった。京は、今になってそれを後悔する。
廊下を一通り歩き回ったが、資料室と書かれてある部屋は無かった。代わりにまた階段を見つける。
階段を上り、三階に来た。三階には二人だけ科学者が見張っていた。
会議の時でも見張りが居る……ということはここには何か大切な物があるのだろう。資料室もおそらくこの階層にあるのか。
「おいお前!」
京は自分の事だと気付くのに数秒かかった。そう、ここには隠れる場所が無く、科学者に自分の姿が丸見えだったのだ。
「は、はい……なんでしょうか」
「会議はどうした」
これは、俺をCERNの科学者だと勘違いしている……? となれば丸めこむのは簡単そうだな。
「見張りを交代してやってくれと言われてな。お前ら二人、休んでいいぞ」
「本当か? それは助かる!」
「じゃあ、休ませてもらうよ」
こいつら、単純だな。そんなんでいいのか見張りの仕事。まあ、見張りなんて科学者にとってはつまらない仕事だしな。
京は科学者の姿が見えなくなるのを待ってから、室内に入った。そこは資料室だった。
資料が置いてある棚がいくつも設けられている。ここでは、検索機能は使えるのだろうか。京は検索ウィンドウを開く。しかし、検索は出来ない。資料検索の機能は備えていないようだ。
「あった……! これだ!」
しまった、さっきの科学者か……? いや、待てよ。これは逆に都合がいいのではないだろうか。会議に行っていないようだ。となれば、脅して利用するのも簡単……いや、脅さずとも、容易に利用できるだろう。
「ちょっといいか?」
「何だ?」
「Gシステムの異常電波に関する資料を見たいんだ」
「それなら、ここら一帯がそうだが……何が知りたいんだ?」
「異常電波をどうやって消すか、といった資料はなかったか?」
「あるにはあるんだが……どうして急にそんな事を?」
「いやあ、俺も異常電波に汚染されるのではないかと不安になってな。もう一度調べておきたかったんだよ」
「そうか、それならそこにあるから好きなだけ見るといい……ちょっとまて、お前会議はどうした?」
「……お前こそどうしたよ。俺は見張りをしながら資料でも読もうかと思って来たんだ」
「お、おお、そうだったのか、失礼した! この事は……」
「わかってる、誰にも言わんよ」
「おお、さんきゅーな! じゃあ、俺はもう行くよ」
「ああ。ありがとうな」
そう言って科学者は出ていった。
なんとも単純な奴らだな。こんなに簡単に丸めこめるとは流石に思っていなかったよ。さてと、律儀にピンポイントで資料を指してくれたな。これを読めば歩を助ける事が出来る。
京は、高揚感を抑えられずに、資料をめくった。
そこに書いてあることを要約すると、こうだ。
――異常電波の中和について。Gシステム及び、VCシステムから放出される異常電波の中和に関しては、我々科学者の健康や、集団デジャウ実験被験者の健康に対する重要課題だ。しかし、その課題についてはもう既に答えが出ている。中和方法を以下に記す。異常電波の中和方法は至って簡単で単純である。故に、今まで見落としていたのかもしれない。GシステムやVCシステムから放出される異常電波は、他のVCから放出された異常電波で中和出来る。この電波は互いに打ち消し合う性質があるのだ。そして、どうやって体内に入ってしまった異常電波を中和するのか。その方法は少し複雑だが、科学者ならば容易に理解出来るだろう。VCシステムを構築する際、VCシステムの核である脳を、BF溶液に漬けると思うが、そのBF溶液を注射するだけでよいのだ。それでしばらくすれば異常電波を中和出来る。
京は拍子抜けしていた。もっと複雑な物だろうと思っていたのだが、あまりにも単純なものだったからだ。そして、その単純な結末に至るまでの過程が複雑で、大変な物だったから余計に京にとっては意外に感じられたのだ。
京は、資料を置いて資料室から出た。
そして、元来た道を辿ってCERNから出た。
――愛月、俺達が関わってきた事件の全ての根源を断ちきる方法が分かった。つまり、その方法を使えば俺が死ななかったことになる。それはおろか、今までの戦いも全て無かったことに出来るんだ。全ての陰謀に、決着が着く。
元の時代に戻った京は、愛月に仕入れて来た情報を話す。
「それは一体どういう?」
――時城歩を助けるんだ。
「その人って、京ちゃんを殺した人でしょ?」
――ああ、そうだ。しかしある世界線では俺の嫁だった。あの人が全てのキーを握っている。あの人が2024年の夏に俺の所にやってきて、俺に科学を教えてくれたことで世界の流れは大きく変わり、俺達が神を生み出すに至った。
「でも、どうして京ちゃんの奥さんを助けたら、全てに決着が着くことになるの?」
――あの人は、人格障害を引き起こしている。VCシステムと関わったことによってな。その人格障害を引き起こしたことにより、全てが狂った。日記によると、タイムマシンに乗っている段階で人格障害を引き起こしていたのだろう。
「でも、それだと、歩さんによるディストピアは作られないかもしれないけれど、私達が神を作らないという確証は無いはずよ」
――いいや、大丈夫だ。神は作られない。これらの出来ごとは全て一繋がりになっている。昔夢中になっていたブロックのように、一つが崩れればそれに関連した全てのブロックが崩れるんだ。それがバタフライエフェクトだと俺は思う。だから大丈夫だ」
「……いまいち腑に落ちないけれど、それしか方法が無いのなら、そうするしかないでしょうね」
――ああ、そのとおりだ。では、今回のミッションの概要を説明する。2024年、8月31日に跳び、歩に、俺の脳を浸しているBF溶液を注射し、歩を救え。ただ、それだけだ。難しい事ではないだろう? 愛月にとっては造作も無い事のはずだ。俺をこんな姿に出来たお前なら、タイムマシンを作ったお前なら、本当に簡単なことだ。
「ええ、そうね。京ちゃん、私に任せて、必ず京ちゃんの奥さんを助けてみせるわ。そして京ちゃんを、救って見せる」
――良く言った、それでこそ俺の幼馴染だ。頼もしい事この上無いねえ、全く。
「へへ、だって私は京ちゃんより賢い科学者よ。昔から私には成績で敵わなかったでしょう?」
―ああ、そうだな。そうだったよ。
愛月は、京が苦笑しているように感じた。実際は、どうなのかなんてことは分からない。画面の中の存在になってしまった京の表情や感情など、生身の人間には知る由なんて無いのだから。けれど、愛月には確定している事項のようにそれが分かっていた。だから愛月もまた、同じように苦笑する。
「まったく、最後の最後に私の出番か。ま、京ちゃんは今まで頑張ってきたんだしね。最後くらい、私にどーんと! 任せなさい、必ず、必ず約束は果たすわ」
――ああ、頼んだぞ。
「うん! 任された! じゃあ、行ってきます」
――行ってらっしゃい、我が親愛なる幼馴染で助手の、四季愛月。
2024年8月31日。
愛月は夏休み最後の日の夜に来ていた。歩はベッドで気持ち良さそうに寝息を立てている。愛月は起こさないようにそうっと近づき、ここに来る前に抽出しておいたBF溶液を取りだす。鋭く光るその注射器は、愛月や京にとって、そして目の前で寝ている歩にとっては希望の針。希望の光だった。全ては、この短く、細い注射針に託されている。今までの色んな世界の三人による戦いが、今終わろうとしていた。
愛月は、まるで今までの事が全部嘘だったかのように感じられていた。今までの長い長い戦いのことは、今から全て無かった事になろうとしているのだ。
世界は流動体だ。一つの形に定まることは決してない。世界というのは、様々な形を持っている。そして、ほんの少し力を加えただけで、姿を変えるのだ。どんなに些細な出来事でも、世界を変える事が出来る。それ故に世界は非常に不安定な存在なのだ。
流れる川のように、世界は流れゆく。
「私は、貴女の事を許したわけではありません。そりゃあ、私にとって一番大切な人を殺されたんだもん。いや、それもそうだけれど……ううん、いいや」
愛月は歩の腕に注射針を通す。
「この先の世界で、貴女と三人で会えるのを楽しみにしていますよ。きっと、どの世界でも京ちゃんは、貴女の事を好きになってしまうんでしょうね。私ではなく」
注射針からBF溶液が歩の血管へと流れていく。愛月は、優しい目をしていた。それは、仇を見る目では無く、とても、とても優しくて柔らかい目。
注射針からBF溶液が全て流れ終わり、後は元居た時代へ帰るだけだ。愛月は歩から離れて、タイムマシンに乗るこむ手前で、歩に振り向く。
「これで、終わりましたよ。安心して、眠って下さい。さようなら」
愛月はタイムマシンに乗り込んだ。眩い光に包まれて、マシンは2024年8月31日の歩の研究室から姿を消した。
真っ暗な場所だった。始まりはとても真っ暗な場所。ここは、始まりか、終着点か。そんなことは誰にも分かりはしない。何故なら世界には始まりも終わりも存在しないのだ。いいや、厳密に言えば存在する。しかし、それを観測しうる者はいない。いつ始まったのかも、いつ終わるのかも、人間は観測出来ないのだ。そうだとすれば、人間の生きる世界は暗闇だ。終わりの見えない真っ暗な道をただひたすらに歩いている。
その道は一本線では無く、ほぼ無限に分岐している。常に人間は選ばねばならない。何を? 世界の運命を、世界の進むべき道を、個人個人の持つ選択肢によって、常に選択されなければならないのだ。
コンマ1秒単位で枝分かれする道を当ても無く彷徨う。三人が辿りついた道もまた、真っ暗な道であり、無数に分岐する一つの道にすぎない。その一本を延々と進み続けることはほとんどあり得ない事であり、いつかはまた間違った方向へと進んでしまう事もあるのだ。
ただ、どれが間違っていてどれが正しいのかなど、誰にも分からないのだ。
彼らが信じた道は、正しいのか、間違っているのか。それもまた、誰にも分からない。
2048年9月3日。
愛月は、自室で目が覚めた。朝陽が窓からベッドに射しこみ、とても気持ちがいい。愛月はうんと伸びをする。両腕を天井に掲げる様に伸ばす。そうすると天井に手が届く様な気がして届かない。愛月は一つため息を着く。
すると何故か居ても立っても居られない気持ちになった。今すぐ行かなければならない所がある、そう誰かが言っている様な気がした。勿論、この部屋には愛月しか居ないのだから、それが錯覚であることは間違いないのだが、愛月はその無意識に従い、着替えてろくに寝癖も直さずに家を飛び出した。
自然と足は研究所へと向いていた。いつも馬鹿な事をしているあの研究所である。愛月は、何故急いでそんなところに向かっているのか、自分でも分からなかった。
研究所へ着き、ドアノブを捻る。思いっきり捻ると、固いドアもすぐに開く。
「あれ? 愛月ちゃん今日は早いね」
室内に入ると一人の女性が出迎えていた。そんな光景に、何故か愛月は違和感を覚える。存在するべきはずのものが存在しないような違和感。あるべきものがそこに備わっていない不安感。それらを感じながら、愛月はいつものようにソファに座る。
「愛月ちゃんどうしたの、そんなにきょろきょろして。しかも寝癖凄いわよ」
「いや……この研究所に、何かが足りない様な気がするの」
「んー? コーヒーならちゃんとあるし、冷凍のケバブサンドだってあるわよ。足りない物ねえ。あ、もしかして歯磨きセットとか?」
「ううん、違う違う。そういうんじゃなくて、別に私は此処に泊まったりしないわよ、歩と違ってね……あれ」
「どうしたの?」
「私、前までここに泊まる事があったような、そんな気がするのよ」
「えー? ここに泊まったことなんてないわよ? 泊まるのはいつも私だけだったし」
「そう、だよね。なんだか私寝ぼけているみたい」
「待って、今コーヒー淹れるわ」
次第に違和感が薄れていき、愛月の脳はこれが正常な状態であると判断した。
だが、愛月は無意識に呟いていた。
「さようなら」
終わり。
糸と運命に抗った記憶
運命のバタフライ 楽しんでいただけましたでしょうか。
この小説で私が表現したかったのは、自分の過去です。
間接的に私の過去と、私の思想が反映されています。投影されています。
この作品は、『運命シリーズ』の第一弾です。第二弾のタイトルは『ヒトとキ』
まだ製作途中ですが、そちらも完成したら載せますのでよかったら読んでいただければ幸いです。
とりあえず今は運命のバタフライの話をしましょう。
僕はこの話の中に出てくる登場人物に異常な愛着がありまして笑
京と歩なんかもう自分そのもののような感じがします。私は歩が好きすぎて、書いていてつらかったです。
好きな歩をあんなつらい目にあわせるなんて。
それにしても京が恵まれない感じがしますが――結果的に望んだ世界(歩も愛月も生きている、世界も平和)になったのでよかったのではないでしょうか。
一番かわいそうなのはGシステムですね。
全ての事件の現況である「京の死」を回避できなかったのですから。
最後、京が消えるところなんですが、その伏線は第一章からあったんです。何回も出てきましたが
気がつきましたか?
それでは、この作品のあとがきをそろそろ終わりにしたいと思います。
これを読んで、少しでも何かしら思ってくれたのなら幸いです。