キャッチボール(4)

四回表・四回裏

 四回表

 翼が社会に出て、早、五年が過ぎた。東京に本社のある企業に就職したため、今は、東京の会社の寮に住んでいる。仕事が忙しいためか、それとも、特段、親に話すことなどないためか、翼の方から私たち夫婦に連絡してくることはまずない。朝早く、また、夜遅くに連絡しても、つかまらない。毎回、留守番電話の機械仕掛けの声が、いないのは当たり前のように返事をする。携帯電話にかけてもいいけれど、仕事専用と聞いているため、遠慮して、連絡することはない。里帰りも、盆、正月の、年二回だけだ。だが、こうした休暇制度のお陰で、子どもたちが帰郷できるのだから、日本の昔ながらの慣習も悪くない。
 今年も、盆の休暇で帰ってきた翼を連れ立って、私の父や母、祖先の墓参りに向かう。墓は、山を切り開いた市民墓地にあり、少し高台にあるため、風の通り道になっている。墓に、線香とろうそくを供えようとライターで火をつけようとするが、炎は風に煽られ、垂直から横向きとなる。それでも、線香なら燃えるが、ろうそくになると、一度、火がついても、すぐに消えてしまう。風がやむのを見計らって、急いで、火を灯し、墓の前で手を合わせるが、目を開けたときには、既に、ろうそくの炎は消えている。例え、火が消えても、心の灯火はついたままだと自分に言い聞かせ、墓の前から立ち上がる。私の後に、妻が続く。妻も消えたろうそくに火をつけるものの、線香を立てるときには、既に消えている。
「さあ、翼、お前の番だぞ」
 妻が数珠を置き、立ち上がるのを見て、私の後ろに立っている翼を促した。
「ああ、わかったよ」
 翼は、立ち上がった妻よりもはるかに大きい。翼が、小学校六年生の頃、妻の背丈と並んだ。高校生になる頃には、私も見上げなければならなくなった。さすがに、今は、成長は止まっているものの、私たち夫婦は老いていくため、身長の差が広がることはあっても、ちじまることはない。息子は、妻から数珠を受け取ると、火の消えたろうそくに再びライターで炎を灯し、取り出した三本の線香に火をつけた。手にした数珠をしっかりと握り、何かしら、長々と祈っている。普段は、手を合わせるやいなや立ち上がるのに、今日は珍しく長い間、墓の前で座っている。風が吹き、木々の青々とした葉が音を立てているため、私には、翼の声がよく聞こえない。
「終わったよ」
 翼は、ほこりのついた膝をはたきながら、ゆっくりと立ち上がる。夕日を浴びた影が一段と大きくなり、私の体全体を覆った。三人で、バケツやひしゃくなど、お供えの片づけをすますと、車の止めている駐車場に向かう。
「さあ、帰ろう。帰り道に、夕飯を食べようか?」
 私の提案に、妻が「それがいいわ。今日は、久しぶりに、中華はどう?」
 妻が推薦した店は、帰宅途中にある小さな中華料理店で、私たち家族にとってお気に入りだ。以前は、人通りの少ない奥まった場所にあったが、最近、道が拡幅され、交通量の多い、幅広い道に面したため、訪れるお客が増えたようだ。特段、そのお店から何かをもらっているわけではないけれど、自分のひいきの店が繁盛することは、なんだかうれしい。私設応援団になった気分だ。大げさに言えば、自分たちの味覚が、世間一般に認められた誇らしい気分なのだろうか。その反面、店があまりにも流行りすぎると、よくあるように料理が手抜きされ、昔の味が損なわれないかと少し心配にもなる。だが、今のところ、そのことは杞憂に終わっている。
「それは、いいな。翼はどうだい?」
「そこでいいよ」
 息子は、そんなことはどうでもいい、他に話があるかのように、ぶっきらぼうに返事をする。本当に中華料理でいいのか、他に何か食べたい物があるのか、翼の心を推し測れない。多分、お腹さえ十分に満たされればいいのだろう。
「それじゃあ、みんな、車に乗り込んで。母さんの薦める高級料理店へレッツゴーだ」
 私は、少しおどけて二人を促し、車に乗り込もうとしたとき、駐車場の水路に、一個のボールが転がっているのを見つけた。どこかで見たことがある懐かしいボールに思えたが、ボールなんて、皆、同じだ。墓参に来た子どもたちが、暇を持て余し、キャッチボールに興じたまま、持って帰るのを忘れたのだろう。それとも、生前、野球が大好きで、花の代わりに墓に供えてくれと頼んだ故人のボールが、どこからか転がってきたのだろうか。どちらにしろ、このまま放置しておいたら、なくなってしまう。忘れ物として、墓所の管理事務所に届けようと拾おうとしたとき、翼から呼び止められた。
「父さん、キャッチボールをしないかい?」
 意外だった。息子からキャッチボールの誘いを受けるなんて。これまでも、小さい頃は、私から声を掛けると、喜んで家の外に出ていたが、中学生や高校生になると、部活や勉強に忙しいため、二人でキャッチボールをする機会は、自然になくなってしまった。たまに、盆、正月ではないけれど、二人の波長が合ったとき、思い出したように、年一回から二回程度するくらいだ。キャッチボールの回数が減るのに比例して、親子の会話も少なくなっていった。
「それは、いいけれど、ここは、市営の墓地だから、キャッチボールをするような広場はないし、グラブだって、持ってきてないぞ」
「実は、ほら、ここにあるんだ」
 車のトランクを覗くと、グローブが二つとボールが一個、無造作に積まれていた。私が知らない間に、家の外の道具箱から、持ってきたようだ。
「ほう、どうした風の吹き回しだい。お前から、キャッチボールをしたいだなんて」
「ちょっとね」
 翼は、トランクから、グラブを二個取り出すと、私に、白っぽく、艶のないグラブを差し出した。覚えていたのだ、私の愛用のグラブを。そして、あの頃は、太陽光線を反射するぐらい光沢があったのに、今は、私と同じように、古ぼけてしまった自分のグラブを受け取った。そして、グラブを左手につけながら、おもむろに、十歩程度後ろに下がる。駐車場と墓地の間の道路が、急遽、私たちのグラウンドに早変わりした。
「母さんは、どうする?」
 妻は、ひしゃくとバケツを開けっ放しのトランクに片付けると、バタンと大きく音を立ててドアを閉め、あきれたように
「好きなようにしたら。でも、お墓参りの人に迷惑じゃないの?」と言いながら、それでも二人を見捨てられないのか、監督のようにベンチに座った。
「大丈夫だよ、もうこの時間なら、誰もやって来ないよ」
 翼は両肩を前後に回し、既にウォーミングアップに取り掛かっている。
 時刻は夕暮れだが、夏のせいか、屋外はまだ明るい。ナイター前の練習気分だ。もくもくと盛り上がった入道雲が、他の仲間の雲たちと一緒に、観客として私たちを見つめている。おーい、雲たちよ、ビールを片手に観戦するのもいいけれど、あまり飲みすぎると、赤い顔じゃなく黒い顔となって、夕立を降らさないよう、気をつけてくれよ。私は、心から願った。
「それに、二人とも、いつかはプロ野球選手になることを目指していたからな。お互い針の穴を通すコントロールの持ち主だよ。お参りの人に迷惑をかけることなんてないよ。翼、さあ、来い」
「目指すのは、誰にでもできますよ。実際に、プロの選手になれるのは、野球をやっている人の中でも、数千人、数万人のうちの一人でしょう?針の穴どころか、家のブロック塀を大きく通り越して、玄関のガラスを割ったのは、誰だったかしら?うちの玄関が、針の穴の大きさだなんて言わせませんよ」
 妻からの厳しい野次が飛ぶ。
 女という生き物は、他人の失敗をよく覚えているものだ。玄関にボールをぶつけたことなんてすっかり忘れてしまっていた。まして、ガラスを割ったことも。
「男というものは、傷を負って大きくなるものさ。傷負い人だけが、他人に優しくなれる。ほら、母さんも、映画で観ただろう」
「強くなくても、やさしくなくてもいいから、さっさと中華屋さんに行きましょうよ。私は、お腹がすいたわ」
またしても、現実世界にのみ生きている女の発言だ。このままでは、男たちの夢が、勲章が、女のリアルさの前に砕け散ってしまう。ここは、何としても、食い止めなければならない。
「ベンチは、黙っていて。さあ、翼、母さんに、真の実力を見せてやれ」
「ああ、行くよ、父さん」
転がっていたボールは、何日間も風雨にさらされたせいか、少し茶色を帯びている。それが返って、土のグラウンドで野球をやっているというリアリティを感じさせてくれる。夢にも、現実感が必要だ。陽炎では、風と共に、妄想がかき消えてしまう。翼の生身のボールが、私に目掛けて飛んできた。本当に、二人でキャッチボールをするのは、何年ぶりだろうか。ボールの汚れは、現実感だけでなく、地層のように月日も物語ってくれる。
「ストライク!さすが、翼」
 息子のボールは、私のグローブのど真ん中に突き刺さる。他に、お墓参りの人がいないせいか、人目も気にせずに声を上げた。いや、妻に聞こえるようにわざと大きな声を出したのだ。お墓参りが終わったのに、ぐずぐずと、まだ墓所にいる男たちを正当化するためにも、妻に、このキャッチボールがどんなに有意義なものか、認識させなければならない。そのためなら、どんな嘘でも、私はつく。嘘から、夢が生まれ、夢から未来が開かれる。
「なかなかやるじゃないか。会社が休みの日は、野球をやっているのか?」
私は、ポンポンと、二、三回、ボールをグラブの中へ投げ込んだ。今度は、私の番だ。準備万端だ。
「よし、お返しだ」
 息子に負けたくない一心で、大きなフォームで思い切り投げたものの、力がよけいにはいってしまい、ボールは、アスファルトの道路にワンバウンド、ツーバウンドと跳ねて、翼のグローブに収まった。
「少しだけどね。会社の寮の仲間とチームを作って、遊びだけど、お得意さんたちと草野球をやっているよ」
 翼は、私の暴投も、軽く、グラブを裁いて捕球した。そして、すぐさま、その姿勢から、手首だけを使い、投げ返してきた。ボールは、私のグラブに正確に入った。今の翼なら、私がグラブを閉じていても、手品のように、グラブの中にボールを入れるだろう。ひょっとしたら、守護神の見えないカラスが、プロ野球の選手の夢を捨てきれない翼のため、ボールを咥えて、運んでいるのかもしれない。次に、グラブを開いたら、羽がくっついていないかどうか確認してみよう。
「それは、いいことだ。社会人になると、毎日、家と会社の往復だけで、たまの休みの日も、仕事に疲れたせいか、動くことが面倒くさくなり、一日中、ベッドで寝転がってしまいがちだからな。体を動かすとしても、パソコンを使う際の目と指だけだろう?半径一メートルの範囲内で、世界が動いていると、勘違いをしてしまうぞ」
 私は、次こそ、ストライクを投げようと、さっきよりも、早く、指先からボールを離した。妻も子どもも、自分の思うようにならないのと同じく、ボールも、コントロールがつかないまま、今度は、翼の頭上高く飛んでいく。私には、カラスの応援はないのか。あるのは、妻の皮肉たっぷりの野次だけ。
「しまった」
 ボールの後から、私の落胆の声が、追いかける。例え、声がボールを追い抜いても、ボールのコントロールは制御できない。翼は、私の手からボールが離れた瞬間、ボールの軌道をすぐさま判断し、地面を蹴って、ジャンプした。すばやい判断のせいで、ボールは、翼のグラブの端になんとかひっかかった。
「悪い、悪い、翼。まだ、まだ、肩が十分、できあがっていないからな」
「お父さん、ここは、墓地よ。温もりは、すべて、あの世に連れて行かれているわ。それに、お父さんは、いつも、家族に対して、暴投ばかりじゃないかしら」
妻からのきつい横槍が入る。その発言こそが、暴投だ。
「大丈夫だよ、父さん。もう、二、三球、投げれば、肩も温まるし、昔のコントロールが戻るよ」
 時代は、確実に変わりつつある。昔の指導者は、現実の向こう側に過去の自分の姿を見て、今の指導者の息子は、映画のフィルムを眺めるがごとく全てを受け入れ、私を慰めてくれる。
「父さん。それよりも、話しがあるんだ」
 再び、ストレートボールだ。こちらが動かなくても、ボールが私を追ってくる。少し、気合が入っているのか、スピードが先ほどよりも増していた。
「なんだ、おっと、またまた、いい球だな」
 私は、息子の話を聞くため、キャッチボールを一旦中断しようと思ったが、思い直して、ボールを投げ返した。
「今度は、どうだ?父さんだって、まだまだ、現役だぞ。それに、話って、何だ?」
ようやく、ボールのコントロールは定まって、翼の持つグラブの真ん中に当たった。自分の体だからといって、自分の思うとおり動くとは限らない。何事にも、謙虚な姿勢で望むことが大切だ。そうすれば、いつかは、報われる。だろう?
「俺、結婚しようと思うんだ」
 突然の話に、私は驚き、どう答えたらいいのか迷い、一瞬、グラブを出すのが遅れた。それでも何とかボールを捕球しようと手を伸ばした。だが、ボールはグラブの先端に当たり、勢いを弱めたものの、私の後方にはじき飛んだ。急いで、後ろを振り向く。夕闇は、まだ迫ってきていないものの、全ての景色は灰色に向かって、一緒に手を携えている。その中で、歴史を積み重ねたボールも、道路のアスファルトに同化しつつあった。
「どこへ行ったのかなあ。まさか、かくれんぼじゃないよな」と独り言をつぶやきながら、走ってボールを取りに行く。ボールは、排水溝の穴に止まっていた。
「それは、よかったな。今夜は、祝杯だ」
 私は、ボールを握り締めると、翼からやや遠く離れた位置から、今、出せる力の限りで、ボールを投げた。多分、ノーバウンドで届くだろう。いや、絶対に、届いて欲しい。結婚については、もちろん、OKだ。息子が選んだ結婚相手だ。私がとやかく言う理由はない。こういうときには、積極的に賛成の意を表すことが大切だ。ボールは、家族の願いを適える虹になろうと、大きく弧を描き、翼のグラブへと吸い込まれた。それが、承諾の返事だ。
「ありがとう、父さん」
 翼からの返答。
「母さんはどう思う?」
 翼は、今度、妻に向かって尋ねる。
「どう思うって言われても、急には、返事のしようがないわ。それに、相手のことも知らないし・・・」
 やはり女は、現実を生きている。
 私は左手からグラブをはずすと、翼に近づいた。
彼から、再び、返球が。
「もうやめるの?それなら、父さん、クールダウンをしないと」
 翼が笑った。
 そう、クールダウンだ。息子の突然の結婚話に、心はホットだ。可笑しなことに、本人以外の周りの私が盛り上がっている。少し、落ち着かないと。
「そうだな、クールダウンだな。キャッチボールの基本だし、すべての運動の基本だ。帰ったら、冷たいビールで、体の中から、クールダウンをしよう。久しぶりに、飲み明かすか」
 私は、ほほ笑んだ。
「父さん、帰りに中華店に寄るんじゃなかったの?」
「祝杯は、何度挙げてもいいんだよ」
「お父さん、いくら、うれしくても、飲みすぎはいけませんよ。後片付けも大変なんだから」
我が家の健康の監督兼コーチの妻が、私たちのホットな思いつきに水を差す。
「大丈夫。ちゃんと、家族全員で乾杯して、後片付けもするよ」
あっという間に、私と息子は、グラスを鳴り響かせるまでの距離に近づいた。クールダウンは、終わりだ。
「このボール、どうしようか?」
 翼が、最後のキャッチボールの球を私に渡す。
「お前の、結婚の告白を記念して、家に持って帰ろうか?」
「そのボールは、どこかの子どもが忘れたんでしょう?元のところに戻しておいたら。明日にでも、探しに来たときに、なくなっていたら、がっかりするわ。幸せは、みんなで分かち合わないと。私たちは、ボールの所有者にお礼を言わないといけないくらいだわ」
 妻の気持ちが喜びに変化していた。こんなときは、素直に、監督の指示に従わなければならない。
 私は、誰もが目につく水汲み場のベンチの上にボールを置き、三人揃って車に乗り込んだ。
 再び、墓地に風が通る。本当に、お参りの時には、ろうそくに火がつかなくて困る。また、一旦、点いた火も、身内の者が拝んで、墓所から立ち去った後に、既に火が消えてしまっていることが多い。お墓には、まだ、十分燃え尽きていないろうそくが、あちらこちらのろうそく立てに残っている。火がついてすぐに消えたため、新品同様に長く残っているものや、運良く、風に吹き消されなかったため、最後の最後の芯まで燃え尽きたものまで様々である。
 先ほど、翼が点けたろうそくの炎は、まだ、明かりを灯している。自らを消滅させてまで、周囲を明るく照らすのか、次に備えて、とりあえず、一時だけの明かりを灯し、まるまる一本のろうそくとして原型をとどめるのがいいのか、私には、わからない。それも、運を天に、風に身を任すしかない。最後の結末を見るまでもなく、私は、車の運転席のエンジンキーを回し、アクセルを吹かして、家族と共に墓所から立ち去った。ろうそくよ、さらば。再び、私はここに戻ってくる。いや、来なければならない。いかなる形でか。
 鎮座する山を見上げると、風の波が押し寄せているのか、木々の枝や葉が頂上から山裾に向かって揺れていた。

 四回裏
 
 彼らの家族が墓所から立ち去った後、いつものように風が吹いてきた。寄る辺なくベンチの上に置かれたボールは、風に押され、道路に落ちると、そのままの勢いで道路の側溝を転がる。側溝には、大人の握り拳大の穴が開いていた。コンクリートの蓋が割れていたのだ。ボールは、ホールインワンのように、すっぽりと穴の中に吸い込まれた。空き缶や枯れた葉、お菓子のビニール袋などに遮られながらも、ボールは下へ下へと転がり続ける。そのうち、生暖かい生き物に触れて、勢いを失った。
 なんだ、僕のお尻に当たるものは。
 穴の中を住処にする子犬は、後ろを振り返る。
 お腹が空いたなあ。おにぎりころりんみたいに、何か、食べ物だったらいいんだけれど。でも、ひょっとしたら、あいつだったらいやだなあ。よく、この穴倉の中で出会うんだ、あいつに。この前も、雨降りの中、この住家で休んでいたら、雨水と一緒に、体中、縞模様のあいつが、細長い体をくねらせて、上から流れきたんだ。互いに、目と目が会ったけれど、何をするわけでもなく、あいつは、僕の両足の間をすり抜けていった。僕もあいつが苦手だし、あいつだって、体の大きな僕は怖い存在だろう。それにしても、今、僕のお尻に黙って挨拶をした奴は誰だ。温もりがないところを見ると、石かな。
 子犬は、狭い通路の中で、ゆっくりと体を回転させる。
 何だ、この丸い物体は。よし、何の返事もないのなら、挨拶がてらに歯で噛んでやる。おや、歯ごたえはいいけれど、硬いので中まで噛めないぞ。丸いから歯がすべって、口で咥えきれない。僕のご自慢の犬歯でも、歯がたたないや。噛み締めるたびに、あごから外れて、下に落ちる。なかなか、正体を現さない奴だが、遊び相手にはちょうどいい。僕一人ではもったいないから、仲間のところに連れて行ってやろう。みんな、面白がって喜ぶぞ。
 子犬は、口を大きく開け、再度、ボールを咥えようとした。今度こそ、成功だと思う間も無く、子犬のお腹から、グーグーという空腹の大合唱が起きる。よだれが垂れ、ボールは子犬の口からすべり落ち、更に、下方に転がっていった。
 待て、挨拶もないまま、さようならする気か。
 子犬の吠える声も無視し、ボールは傾斜に沿って、水路を転がる。慌てて、体全体で振り返り、ボールを追う子犬。
 待て、待て。
 先を走るボール目掛けて、後ろ足でジャンプし、届いた瞬間、前足で押さえ、口でぐわっと咥える。
「やった」と心の中で叫ぶ。
 喜びを口に出そうものなら、水面に写った犬を自分とも知らずに吠え立てて、自分が咥えた骨まで落とした仲間の二の舞だ。悪い歴史は二度と繰り返させない。ここで断ち切ってやる。そのためにも、ここは、グーかパーかわからない手だけれど、小さいガッツポーズで我慢、我慢。胸を張るのは、仲間たちに見せてからだ。
 子犬は、もう一度、ボールをがしっと咥え直すと、くるりと巻いた尻尾を左右に振りながら、意気揚々と穴倉を出て、仲間たちのいる公園の住処に向かった。

キャッチボール(4)

キャッチボール(4)

四回表・四回裏

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-28

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