楓

 紅い楓の葉が一枚、雪の上に落ちた。雪は湯に流され、黒みがかった三波石が露出した。楓も雪と一緒に流されてしまった。
 東京に本社を置く一流鉄鋼会社の創業者、峰岸忠雄(みねぎしただお)は情婦の悦子(えつこ)と伊香保の温泉宿に泊まっていた。
「天皇陛下が崩御されたな」
「ええ」
 昭和天皇の崩御は昭和六十四年の一月七日のことだった。以前から病が報道されており、高齢でもあったことから日本中で予期されていたことではあった。悦子はいつものように忠雄の体を洗い始めた。
 忠雄は五十五歳を越えているが、その肉体的な魅力には一向衰えが見られない。それは若い頃に鍛えた肉体に、年齢による貫禄が加わったことが主な要因ではあるが、もちろん彼には生来の美貌も備わっていた。衰えぬ肉体の美しさは、彼の自信を担保しているものでもあった。
「なんか今日は、いつもと洗い方が違うんじゃないか、急いでいるみたいだな。どうかしたのか?」
 平生、悦子は大人しい女で、床の中においても殆ど忠雄にされるがままであった。おおよそ意志というものを持たない、少なくとも忠雄の前ではそのような女だった。だがその時の忠雄の体を洗う力に、忠雄はこの従順な女らしからぬ、意志による力とでもいうべきものを感じたように思われた。平生大人しい者が突然何かの力を見せると、他にも増して相手に脅威を与えるものがある。忠雄はそんな感覚を抱いた。
「何にもありませんよ、またどこかの女と間違えているのじゃありませんか」
 寒さのためか声が震えているように思われた。無理もない。忠雄は悦子のかける湯を浴びているから良いが、悦子の方は濡れた体で雪の舞う長野の山に裸でいるのだ。寒いから早く浴槽に入りたいのだろうか、と忠雄は思った。この女の意志などその程度のものだろう。そしてそれを言い出せない悦子が可愛らしく思われた。
「そうか、ならいいんだけどな、とにかく寒いし湯に入るか」
 檜の浴槽に入り忠雄は今一度、悦子の様子を眺めた。何かの病気みたいに白い肌は、温められて赤みを帯びてきている。表情には寒さから解放されて、安堵の色が広がっている。その顔はまるで幼い少女のようだ。やはり湯につかりたかっただけか。鎖骨に水滴が溜まり、肩にかかった黒い髪が僅かに浮かんで見えた。こんな小さな女から、この俺が脅威を感じるなんて。忠雄は心の中で苦笑した。悦子は忠雄の情婦の中でも最も痩せて体躯の小さい女である。白濁した湯に隠れて見えなくなってしまったが、乳房の下には肋骨が浮いて見えた。
「何ですか? じっと見て、まだ私の様子がおかしいとでも言いたいのですか」
「いや、違うんだ、気にするな」
「じゃあ、この際ですから、一つ質問でもしましょうかしら」
 忠雄との間柄では悦子は常に聞き役に回っていたため、悦子の方から何かを問うというのは極めて珍しいことだった。再び忠雄は違和感を覚えた。
「何だ?」
「その、いつも身につけているコインみたいなネックレスは何でしょうか? よっぽど大切にしているみたいに見えますけど」
 自分の容姿に自信があり、また十分すぎるほどの財産を持っている忠雄は、当然服装にも気を使っていた。洋装にせよ和装にせよ、悦子は彼が既製服を着ているところを見たことがない。常に自分の肉体的な魅力が最大限発揮されるよう仕立てた服しか着ないのであった。あらゆる場面において第一印象は良すぎるということはなく、そして第一印象の全てはその見た目にかかっている、というのが貧しい生まれから財を成したこの男の信条であった。にもかかわらず風呂場でも、床の中でも、忠雄は錆びついて崩れかかってさえいる円形のヘッドを付けたネックレスを肌身離さず身に着けていた。そしてそれを悦子はずっと以前から不審に思っていたのだった。
「そうか、話したことなかったか」
 忠雄は胸に貼りついたネックレスをつまみあげた。

「お前が生まれるよりもずっと前の話だけどな、昭和二十年、戦争が終わったんだ。俺は疎開先の田舎から東京に戻ってきた。本当にひどかった、瓦礫しかなかった、瓦礫の街に乞食や娼婦がうろついてて、敗けたんだなって実感したよ。
 でもな、学校は割と早くから始まってて、いつだったか、秋ぐらいには俺は学校に通い始めたと思う。って言っても制服はないし、俺は親父の形見の軍服を着てったんだ、戦死した親父の軍服が何で残ってたのかよく知らないけど、まあ、当時は服も足りないからそういう奴は結構いたんだ。
 それで学校に通い始めたのはいいんだけど、金もないし食い物もない。お袋はどっか行っちっまったし、はっきり言って勉強なんかよりも今日食うメシの方がはるかに大きな問題だった、すぐに学校には行かなくなったよ。
 学校に行かずに、金や食い物を盗んでは廃墟になったビルで食ってた。まあ、いわゆる浮浪児、って奴だな。硝子の抜けた窓枠がさ、影をくり抜いてその中を鼠が走っているようなところだった、今じゃ考えられないけど、戦後はそんな中での生活だったんだ。
 そんなある日、俺の寝ているところに一人の男がやってきた。俺は目を覚ましてそいつの方を見たんだ。暗いし、結構距離があったからよく分からなかったけど、無精髭が生えてて、俺の親父くらいの歳に見えた。俺がじっと見てるのに、近付いてくるんだよ、俺は盗んであった護身用のナイフを確かめた。そしてその男が俺の目の前まで来たとき、そいつは何て言ったと思う?
 胸の奥から漏れてくるような声で、これで君を買いたいんだけどって、金貨を差し出してきたんだよ。俺は今でもそうだけど、目も大きいし睫毛も長いし、その時は色も白かったし食い物もなくて痩せてたから、よく女に間違えられたんだ。今じゃ想像つかないだろうけどな、それでこいつもそうなのかなって思って、俺は男だよって言ったんだけど、そしたら、分かってるよって、そう言うんだよ。そう言ってそいつはニヤって笑った。前歯が抜けてるのが見えて、そこから声が漏れてるみたいだった。気味悪かったけど、それくれるの? って金貨を指差したら、そいつが頷いて、俺、金貨なんか見たことなかったから、じゃあいいよって言っちまった。
 それからはもうひどかった、そいつは俺の一張羅の軍服のズボンを下ろして、俺のチンポを舐めるんだ、その頃俺はまだ毛も生えてなかったんだよ。なめくじが這っているみたいだった。それで舐めるのに満足すると、次はそいつのチンポを舐めさせられて、苦い液の垂れてくる臭いチンポを舐めてると、そいつの血が昇ってくるような感じがした。その途端に急に口からチンポを抜かれて、今度はケツに入れられたんだ。俺はズボンが踝のところにひっかかってたから、その間瓦礫を掴んでバランスをとるのに必死だったよ。本当に最低だった、親父の形見の軍服着てさ、親父の歳くらいの男にケツ掘られてるんだ、髭が肩と頬っぺたに当たって、臭い息がそいつの欠けた前歯から漏れてきた。痛かったよ、盗みで捕まって何度も殴られたけどな、それよりずっと痛かった。そのまま中に出されて、俺は自分のケツから溢れてくるそいつの精子を押さえてたんだ、おかしいだろ? 俺はずっと金貨のことだけを考えてたよ、その時の金貨がこれなんだ。
 だからって何も、その時の貧しさを忘れず頑張るためだとか、そんなことのためにこんなボロいネックレスをつけてるわけじゃあない。大体、いくら何十年も経ってるからって、金がこんなにボロボロになるわけないだろ?
 俺はその後、金貨を持って闇市に行ったんだ、これなら暫くは食うに困らないだろう、なんて思いながらな。俺は闇市のじいさんにその金貨を見せて、これと米を交換してくれよ、って言ったんだ、でも、じいさんは金貨を一目見て、こんな物と換えるわけねえだろって言うんだよ。もちろん、俺はつっかかったよ、そしたらさ、ケツ掘られてまで稼いだ金貨を指して、これぁニセモンだよって、じいさんはそう言ったんだ。
 もう俺はまいっちまったよ、来る日も来る日もナイフ握りしめてその時の男を探した。恐喝でもしてやんなきゃ納まりがつかないからな。そして一か月くらい経った頃かな、廃墟の街に見つけたんだよ、瓦礫に座って酒かなんか飲んでたな。俺は後をつけて、そいつが一人になるのを待った。そして夜になって、そいつが一人茂みで立ちションしてたとき、後ろからナイフで突き刺しちまったんだ。その小便してる姿に、あの時のチンポを思い出しちまってさ。でも、そいつは刺した瞬間俺を見て、また笑ったんだ。恐ろしくなって、何度も刺したよ。そしたら動かなくなった、動かなくなっても顔は笑ったままなんだ、気味悪いだろ? 戦争中には死人なんて珍しいものでもなかったけど、自分が殺したのはやっぱり違ったよ。
 そしてそいつの死体を眺めながら、もう何をしてでも成功してやろうって思った、本物の金貨をたくさん稼いでやるってな。そして、色んなことをして俺は今の地位を築いたんだ。
 お前が生まれるよりずっと前の話だし、人殺しの気持ちなんて分からないだろうけどな、これは俺の殺人の証として身に着けているんだ」

 このような告白を聞いて、悦子はただ微笑していた。今までこの話を聞いたものは、みな本当か嘘か判断しかね、困惑した表情を浮かべる。忠雄は最初こそ拍子が抜けたような気がしたが、徐々に心が安らいでゆく自分を発見した。
 悦子の微笑は、悲しんでいるようにも見えた。楓の葉が一枚、湯に流され悦子の二の腕に辿り着いた。そのまま体をなぞって流れ続け、唯一肉の豊かな胸の谷間で止まった。
「いえ、もうすぐ私にも分かると思うわ」

 紅い楓が、雪の上に落ちた。黒い岩を覆っていた雪が、鮮血に染まった。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2013-09-27

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