喫茶店
――ああ優雅な時間だ。
遼は独り、喫茶店で午後の一時を過ごしていた。彼はいつもカウンターの右端に腰を下ろす。特等席であり、ここが取られていると遼は機嫌を悪くする。大学に入学し、一人下宿で生活するようになってからは、大学の帰りこの喫茶店に立ち寄るのが毎日の日課となっている。ちょっと大人の雰囲気を堪能したかったのだ。ここでバイトをしようとも考えたことがあるが、学生は無理だと拒否されたのだから仕方が無い。気取った彼は、しかしコーヒーが飲めなかった。一度ブラックコーヒーなるものに手を出して、取り返しのつかない思いを経験したことがある。その苦さに舌が耐え切れず、小一時間は味覚を失った感覚に襲われた。その後も遼は諦めず、普通のコーヒー、ミルクコーヒーなどに手を出してみるも、どれも失敗に終わってしまった。今はカフェオレだとかミルクティーだとか、紅茶だとか、そういったもので落ち着いている。
「マスター、カフェのお代わり、貰えるかな」低く渋い声を意識して遼は注文した。本日最後の一杯。我ながら格好のいい注文だと、満足感に浸っていた。
――またこいつかよ。何がマスターだ、気取ってやがる。バーか何かと勘違いしているんじゃないのか。
遼の隣に座る佑介は彼を嘲笑していた。コーヒーも飲めないくせに、調子こいて喫茶店で安らごうとするなってんだよ、と。佑介は去年就職し、この辺りでは有名な会社で働くことになった。それにあわせてこの近辺に越してきたのであるが、たまたま見つけたこの喫茶店に立ち寄ったことがきっかけとなって、以後今日のように仕事の休憩時間をここで過ごすことになった。そして彼は、毎日顔を合わせる遼に苛立ちと優越感を感じていた。大学生の癖に、気取って毎日着やがってと悪態をつくこともあった。そのたびに被害に遭うのは店長である。佑介がのんびりとコーヒーにミルクを混ぜ、優雅にすする頃には、いつの間にか遼の姿はなくなっていた。
「アイツ調子に乗ってるよな全く。そろそろ常連の俺が言ってやったほうがいいかなほんと」と、いつものように悪態をついてやる。店長はそれに、苦笑いで対応していた。それにも気づかず佑介は、次々に愚痴をこぼしていた。
――本当にうるさいわね隣の人。愚痴ばっかりで……。店長も苦笑いじゃない。
隣の迷惑な客、佑介に苛立ちを感じている京子は、ブラックコーヒーを少しすすりながらパソコンを睨みつけていた。彼女の仕事は所謂ライター。京子は仕事に行き詰るとき、ネタを考えたいときはいつもこの喫茶店に寄る。ここのブラックコーヒーは格別であると友人に自慢するほどに、この店が気に入っていた。しかし、今日は隣の客の所為で不快感だけが積もってゆく。――ああもう記事が続かない。アイディアが浮かばないのも、隣の男の所為ね。彼女はワープロソフトを終了させ、再起動させる。すると今度は先程までとは全く違った記事を書きなぐり始めた。『野蛮で愚痴ったらしい男』への文句を書き連ねた文章だった。
「すみません、ケーキ、もらえますか?」大きな声で怒鳴るように京子は言った。怯えた店長は、またしても苦笑いを浮かべた。
――最近は客層が変わったかな。
目の前に座る客達を見て、店長と呼ばれる男、日野は小さなため息をついた。今までは歳を食った紳士淑女の方々と、他愛も無い話をしながらのんびりと店を運営してきたものであると彼は記憶している。しかし、今目の前に居るのは自分に酔った男、短気で調子に乗った男、怒りの矛先を他人にぶつける女。何時から狂ってしまったのか。日野は、そろそろ店も終わりかもしれないと時の流れを悟った。
喫茶店