愛は叶えるもの
まったく最近はとことんツいてない。仕事の大事な資料を紛失し、あらぬ疑いを掛けられて失恋目前。そうして有賀はひとりヤケ酒を飲んだ。
人と人の出会いは不思議だ。偶然が重なって見知らぬ他人が互いを見初め、やがて一つ屋根の下で暮らす事になる。
誰だって初めは他人。もちろん有賀の場合もこれに当て嵌まる。
しかも彼女はちょっと驚く程有賀の好みを熟知していた。というより、彼女との共通点が多かったという方が正しいだろうか?
例えば同じ趣味を持っていれば距離が縮まる事も多いだろうし、共有する時間が増えて好き合うようになったという人もいるだろう。
でも彼女は違った。付き合ってみたら好みが似ていたというパターンだったのだ。
世の中には色々な人がいるのだから、この偶然は稀有な偶然と言っていいと思う。
確かに不自然だなと感じた事もあるにはあるが、ふたりの出会いが彼女の一方的なラブコールだった事を考えれば、服装や嗜好、食べ物の好き嫌いなんかも、ずっと観察されていたんだろうなと思う訳だ。
今となってはそれもいじましいというか、楽チンというか、一体自分のどこにそれ程の魅力があるんだろうかと考えると、いつも笑ってしまう。
人と人は巡り合せ。
もしあのイヤリングが部屋に落ちていなければ、多分麻耶と一緒になる事もなかっただろう。
あれは今でも腑に落ちない出来事だったが、しかしそんな過去も忙しない生活に埋もようとしている。
「はぁい、ミルクでちゅよ」よもや自分が赤ちゃん言葉を使うとは思わなかった。
麻耶からそっと移された赤ん坊を、万が一にも落とさないように慎重に慎重に腕の中に抱いてから、手渡された哺乳瓶をその小さな口元に近付けると、もぐもぐと動いた口が乳首の部分を見付けて吸い始めた。
懸命にミルクを飲むその姿はなんとも言えず愛らしい。
男親は女親に比べれば親になった感覚に疎いと言われるが、どうしてどうしてこのかわいらしさは、こんな自分でも守ってやらなくちゃという使命感を駆り立てる。
「それじゃ、後は任せたわね」
そんな有賀の姿を笑いを堪えながら眺めていた妻は、やり掛けの家事を終わらせようと立ち上がった。
「はいよ」
一度ぐずってしまうと手に負えなくなってしまうが、今はミルクに夢中だから大丈夫だろう。
やはり母親の匂いに包まれた方が安心するらしく、麻耶に抱かれた方が泣き止むのが早かった。でもじきに自分でも同じようになってくれるんじゃないかと期待している。
カーテンを開け放った部屋は、春の日射しが斜めに射し込んでぽかぽかと暖かかった。
その淡い光の中で、まるで絵に描いたような親子のワンシーンを演じている自分がとてもこそばゆい。
外は季節外れの木枯らしが吹き荒れていて、ビューという風音と共に窓がカタカタと音を立てた。
おっと……。そんな微睡を遮るかのように、急に腕の中の頭が重くなる。
どうやらミルクを飲み終えない内に、”おねむ”になってしまったようだ。
有賀は哺乳瓶を傍らのテーブルの上に置くと、タオルで口元を拭ってから、その小さな身体をベビーベッドに横たえた。
そして薄い毛布を胸元まで引き上げ、頬をちょんちょんと二回突いてから後片付けを始める。
まだ眠っている時間の方が多いが、自分でも何でこんなにかわいく思えるのか不思議でならなかった。
「どう?」心配になったのか、麻耶がひょいと顔を覗かせた。
「途中で寝ちゃったよ」有賀はミルクの残りを振って見せる。
「そう……」
一度ベッドの中を覗き込んで娘にそっと頬擦りした彼女は、「コーヒーでも飲みましょうよ」と有賀を誘った。
***
「君達はもう処分するわね」麻耶は寝静まった家の中で、ひとり小さな段ボール箱と向かい合っていた。
中に納められたたくさんの写真。あの部屋から持ち出した小物の数々は、どれも大切な思い出の品には違いなかったが、こうして愛しい彼と結ばれた今、それらは不要な所か、危険な代物になってしまった。
麻耶はひとつひとつ取り出しては手に入れた瞬間を思い浮かべ、そしてお別れを告げる。
ばいばい。
君達のお蔭で私は幸せを手に入れる事が出来た。
とても、とても感謝してる。
その儀式は三十分程で終わった。それは彼女のした過去を清算するひとつのケジメだった。
***
「あの……、落としましたよ」
後ろからトントンと肩を叩かれて振り向くと、大きな眼鏡フレームの奥の、一瞬たじろぐような強い視線がこちらを見詰めていた。
そして視線を下に向けると、彼女の華奢な手が自分の定期入れを差し出しているのが目に入った。
有賀が慌ててスーツを探ってみると、確かにいつも入れてあるポケットには見当たらない。
「ありがとうございます。助かりました」
礼を返しながら受け取ると、「いいえ」と手を振りながら謙遜する。
少しはにかむような笑顔が、堅そうな印象をぐっと柔らかくしていた。
彼女は間違いなく美人だった。それもふらっと引き込まれそうな甘い香りを纏っている。
でも見惚れている暇はなかった。
朝の一分は貴重だ。いつも乗る電車の時間も迫っている。
それは彼女も同じなのだろう。なぜか頬を赤らめながら脇を擦り抜けて行った彼女も、足早に駅の中へと消えて行った。
危なかったなぁ。もし失くしてたら大損害になる所だった。
親切な女性に感謝しつつ、有賀も慌てて後を追うように足を進めた。
***
おかしいなぁ。今日も残業なのかな?
お休みの日。わざわざこの為だけに東京までやって来たんだから、何としてもやり遂げたいと思ったが、肝心の彼が一向に会社から姿を現さない。
目的は帰りの電車で一緒に帰る事。
最低でも並んで吊革に掴まりたい。あわよくば一緒に座って帰りたい。トイレも我慢してこうしてずっと待っているのに、どうして出て来てくれないんだろう?
地団駄を踏みながら、それでもひと目姿を目にするまでは諦められない事も分かっていた。
「あっ」社員通用口から待ち焦がれた彼のシルエットを認めた時、彼女を高揚と同時に失望が襲った。
待っていたのは自分だけじゃなかった。
これじゃあ、もう目的の達成は不可能だ。徒労感が身体を包み、彼女はその場でしゃがみ込んでいた。
もちろんあの女の名前は知っている。どんな関係かも。でも口にしたくはなかった。
「待った?」そんな声が聞こえてきそうな待ち合わせの場面。ここでは私はただの観客に過ぎなかった。
ふたりが連れ添って姿を消すと、彼女は立ち上がってそっと涙を拭った。
彼の隣に立ちたかった。
どうしても、何が何でも立ちたかった。
***
「どれにしようかな♪」
ずれた眼鏡を指先で押し上げた彼女は、フォトブックに収められた写真の中から、彼だけが映っている物を探していた。
どれも自分に向けられた笑顔じゃないのは癪だったが、隠し撮りした彼はどれも無表情か仏頂面で、はっきりいって気に入らなかった。
これとこれにしよう。悩んだ末に二枚の写真を選び出した彼女は、適当に空いたスペースを埋めてから、ラックの元の位置にそれを戻した。
素敵……。
今日の一番の目的はこれだったので、もう十分に満足するべきだったが、折角なので少し部屋を散策しようかな、と欲を出す。
本棚、クローゼット、台所、お風呂から果ては靴箱に至るまで、彼女はひとつひとつ扉を開けては、中身をじっくりと眺めていった。
この作家の小説が好きなんだ。料理はしないっぽいなぁ。あ、エッチなビデオ発見。
ひと足進めるごとに、新たな発見が待っている。本当にここは夢の世界だった。
心臓がどきどきして息苦しい。
あまりに興奮し過ぎて疲れてしまった彼女は、持参したジュースを飲んでひと休みする事にした。もちろん向かいにはさっきの写真を立ててある。
ああ、幸せだ。
再びぐるりと視線を巡らせた彼女の目は、乱れたベッドを捉えて離せなくなる。
きっと慌てて出掛けたんだろう。導かれるように立ち上がった彼女は、乱暴に捲れた掛布団を持ち上げると、そのまま身体を中へと滑り込ませた。
彼の匂いがする。まるで彼に包まれいてるようだった。
そのままうっとりと目を閉じると、あらぬ妄想が頭の中を駆け巡る。
ピピピッ。
まったくいつまでやってるんだ。警告するようにアラームが鳴ると、夢見心地の彼女を現実に引き戻した。
「ちぇ、時間切れか」
でもいいや。後は次回のお楽しみに取っておこう。
彼女はすべてを元通りに直してから身支度を整えると、しっかり戸締りを確認してから、家を後にした。
***
背中から優衣に抱き付いた有賀は、驚いて振り返った彼女の唇に唇を重ねた。
一瞬見開かれた瞳はすぐにイタズラっぽいそれに変わり、やがて身体の向きを変えて腕を背中に回してくる。
短い口付けを終えた優衣は、抑え切れない欲望に突き動かされて、早速次の段階へ進もうとする飢えた男の心理を先読みするようにひょいと距離を保った。
有賀の腕が空振りするのを見た彼女は、笑いながらべーっと舌を出す。口を尖らせる有賀を見て、もう一度舌を出す。
何だよ、もう。完全にからかわれてるじゃないか。
そんな彼女を今度は逃げられないようにきつく抱き締めると、有賀は再び唇を奪った。
「やだ、もう……」何となく拒絶するようなセリフはお約束だ。目と目が合えば、男心を弄んでいたはずの彼女の方が焦れて積極的になってくる。
「あっ、ちょ、ダメだったら……」
舌と舌が絡み合うと、再び目を閉じた彼女の腕が背中に回った。
ようやく彼女も気分がノってきたようだ。
互いの服を脱がし合い、上半身がはだけた所でベッドに移動すると、ふたりは抱き合いながら続きを行う。
一糸纏わぬ姿になった優衣が恥ずかしそうにベッドに横たわると、有賀はすぐにその美しい裸体に覆い被さった。
唇を重ね、項に顔を埋め、そして唇はさらに下へと移動する。
優しく、そして激しくその白い肌に愛撫を繰り返していると、優衣が、「ちょっと待って」とストップを掛けた。
もちろんそんな言葉で勢いは止まらなかったが、彼女は背中の辺りに手を伸ばして、何やらもぞもぞとやっている。
「何? 痛かった?」顔を上げた有賀が尋ねると、彼女は細い身体を少し持ち上げた。
「違うの。なんか固い物が背中に当たるのよ……」
結局起き上がって、シーツの上に転がっていた何かを探り当てた彼女は、摘み上げた物を目の前に持ってきた。もちろん有賀も顔を寄せる。
「これ……」何?
小さな灯りに落として薄暗くした部屋の中でも、それはきらりと輝きを放っている。
優衣はとっさに耳たぶに手をやって、イヤリングを着けていない事を確認すると、次いで自分の持っているアクセサリー類を頭の中に思い浮かべた。
やがて全ての照会を終えた彼女からは、一気に熱が引いていた。いや、寒気すら覚えていた。
「あれ? 優衣のじゃないの?」
彼女の不自然な態度に答えたそのセリフがとっさの言い訳にでも聞こえたのか、その表情は一層険しい物に変わる。
「私のじゃ……ない……」低い声でそう告げた彼女は、毛布を胸に巻き付けた後、もう一度同じように繰り返した。
「私のじゃないわ……」
どういう事なの? 他に女がいるのね? そうなんでしょ? 強張った彼女の顔は、間違いなく有賀の浮気を疑っていた。
これまでにも随分喧嘩はしたきたが、そこに女絡み、男絡みの縺(もつ)れだけはなかった。ふたりはどこか脇道に逸れず、繋がっているんだと信じていた。
だから優衣にとってこれは、正に青天霹靂だった。
「やだな、俺は知らないよ。優衣の勘違いでしょ?」
そう言われて敢えて思案し直してみるが、デザインが自分の好みじゃないし、プレゼントに貰った覚えもない。
やがて優衣は諦めたように首を横に振った。
突然こんな物を突き付けられても、知らない物は知らないのだからどうしようもない。有賀は有賀で自分にやましい点はないと訴え続けるしかなかった。
「そう……」
優衣は怒らなかった。心の中の驚きが失望に変ってしまったからだ。
正直頭の中には”結婚”の二文字が浮かんでいた。そう遠くない時期に、彼がプロポーズしてくれるんだろうと信じて、疑わなかった。
当然彼も同じように自分を想ってくれてると信じていた。
だからこそショックは大きかった。ほんの数年先の未来予想図をいきなり破り去られたような衝撃だった。
確かに時間が合わない事も多かった。だけど彼がこんな風に自分を裏切るなんて考えもしなかった。
私はバカだったんだろうか?
所詮彼も男。自分ひとりでは満足出来なかったのかもしれない。
優衣は、高校生の時揉めに揉めた過去を思い返した。
結局こうなっちゃうのかな……。
彼もすべてを知っているはずなのに、優衣がどれ程嫌悪しているか知っているはずなのに……。それでも別の女に走るなんて、項垂れるしかないじゃないの……。
互いに掛ける言葉を失うと、部屋には怖い程の沈黙が訪れた。
それでも優衣は考え続ける。
私は彼が何と言ってくれたら許せるだろう?
何と言ってくれたら許せるだろうか?
***
「ねぇ、その注文、私に届けさせてくれない?」
言うが早いか、強引にジョッキグラスを奪った彼女は、そのまま彼の席に品物を届けに走った。
呆気に取られたように立ち竦む同僚などまるでお構いなしだった。
「お待たせしました。ご注文のビールの中ジョッキです」左斜め四十五度。相手の正面に顔がくる時はこの角度が一番映える。
座敷で胡坐をかいていた男性客が声に反応してこちらを振り向くと、彼女の胸は嫌が上にも高鳴った。
にっこりと微笑み、そしてグラスを持つ手を、どうぞと前に差し出す。
お酒はそれ程強くない。なのにこれで三杯目。
かなり赤くなった顔で彼がビールを受け取ろうとしたその時、彼女はその暖かい手に触れる事が出来た。
やった! あまりの感動に身体が震える。
今日はもう手を洗いたくなかった。このまま仕事なんて放り出してしまいたい。それでも彼女は一礼すると、目を潤ませながら名残惜しそうに席を後にした。
彼は時々こうしてひとり、夕飯を兼ねて店に現れる。
ここはいわゆる街の居酒屋だが、ちゃんとしたご飯もののメニューも充実しているので、ひとり暮らしの男性には重宝なのだろう。
すぐにひと口、ごくりと喉を鳴らしてビールを飲んだ彼は何となく元気がない様子。
彼女は想像を巡らせる。
これはもしかして……? 彼女がちょっと唇の端を上げたその時、店長の喧しいダミ声が飛んできた。
ちぇ。仕方なく彼女は厨房へ足を向けた。言われるであろうお小言の内容は分かっている。
「何、勝手な事してるんだ!」「届けたらすぐに戻れ、このクソ忙しい時に!」
でもそんな事はどうでもよかった。
だって……、今日は彼の手に触れたんだもの。
完全に舞い上がっていた彼女は、知らずにスキップまで踏みながら店長の元へ向かった。
***
まったく最近はツいてない。仕事もプライベートもとにかくダメダメの状態だ。
考えてみると、家を引越してから運が傾いたような気がするな。
実際前のアパートに住んでいる時にトラブった記憶はなかった。
有賀は完全に酔いが回った頭で、最近のゴタゴタを振り返る。
とにかく物をよく失くすようになった。いや、自分ではちゃんとしているはずなのに、なぜか皆雲隠れしてしまうのだ。
そして逆に身に覚えがない物が部屋に落ちていたりする。
それは正にミステリー。ひとりおどけるように肩を竦めてみるが、もはや笑い事では済まされなかった。
なかなか休みが合わないふたり。そんな彼女が本当に久しぶりに有賀の部屋にやって来た時、夕食を共にして、正にこれから楽しい夜のひと時を過ごそうかという時に、それは見付かった。
裸のふたりは向かい合って、最後の喧嘩を始める事になる。
目の前に掲げられたイヤリング。それは誓って見知らぬ物だったが、ありのままを答えた有賀の言葉を、「ああ、そうなの?」と優衣が素直に受け入れてくれるはずもなかった。
「そう……」シラを切るのね。
ベッドを抜け出した彼女は無言のまま、背中を向けて下着を、そして服を身に着けていく。
正直怖かった。
いつもならもっと怒って、口喧嘩なら負けないわと言わんばかりにやり込めようとするのに……。
優衣は裏切り者の烙印を押した有賀を完全に拒絶していた。
「待ってよ、本当に知らない物なんだ。優衣が考えているような事は誓ってないから……」
でもそんな言葉を頭から信じていないのは、表情を見れば明らかだった。
「そこまで言い切るんなら、どうすればイヤリングがここに落ちてるのか説明してよ」
「それは……」……分からなかった。
有賀の沈黙を陥落と判断したらしい彼女は、他にも女がいる証拠があるんじゃないかと部屋を掻き回し始めた。
そしてその目が洗面台の棚に釘付けになった所で、怒りはピークを迎える事になる。
「歯ブラシが……変わってる……」いつもよりオクターブ低いその声は、明らかに震えていた。
それはいつだったか、お泊り用としてひと通り揃えた物の一つだったが、有賀はその色以外の特徴など欠片も覚えていなかった。
まるで有賀を突き刺すような勢いで、彼女はものすごい剣幕で戻って来た。
「そんな訳ないよ、買った時のままだって」眉間を狙うそれから距離を取るように後退りながら有賀は続けた。「だって、ピンク色のヤツだったじゃないか? 勘違いだって……」
勘違い? 二度目のその言葉を耳にした途端、彼女の腕は力が抜けたように垂れ下がった。
冷たい視線だけがこちらを見下ろしていた。
「私はね、いつもMっていうメーカーのを使ってるのよ」
残念だったわね。
腕を大きく振り被って、有賀に歯ブラシを投げ付けた彼女の目から大粒の涙が溢れ落ちた。
泣き顔を見せないように何度何度も目元を拭った優衣は、徐(おもむろ)に上着とバッグを掴むと、くるりときすびを返して大股で部屋を横切った。
最早何者も寄せ付けないオーラを放っていた。
ドアを叩き付けるように閉じた彼女は、そうして有賀の前から姿を消して行った。
「…………」
茫然自失。今の有賀をひと言で表すとすれば、これ以上の言葉は見付からなかった。
トランクス一枚の姿でへたり込んだ彼は、床に残された歯ブラシを拾い上げてまじまじと見詰めた。
正直、真に怒った彼女の迫力に押されて腰が引けていた。それが一層自分の疑惑を深めたのかもしれなかったが、人間はあまりに突飛な状況に出くわすと、頭の回転は止まってしまう物だ。
いくら見直してもこれが彼女の買った品と入れ替わっているのか、有賀には判別がつかなかった。
しかしあそこまで言い切るのだから、きっと本当なんだろうな。ぼんやりした頭でそう考えるだけだ。
有賀はそのままベッドにひっくり返ると、大きく息を吐いた。
追い掛けて追い掛けて説得したかった。けど今は彼女に何を言っても聞く耳を持たないだろうとも思う。
自分にやましい点はないけれど、あまりに状況証拠が揃い過ぎていて、言い訳は返って誤解を深めるような気がした。
やり切れない。こんな訳の分からない事で、ふたりの関係は終わってしまうんだろうか?
彼女は決して浮気を許さない。もちろんそれは一般的な女性の普通の考え方だろうが、父親が浮気をして家庭が壊れた経験を持つ彼女には、それは絶対と言っていい決め事だった。
しかも有賀との付き合いも三年になろうとしていて、この歳になれば結婚を思い浮かべても不思議はない。
ともすれば、夫になろうという男が、自分の目を盗んで浮気を繰り返すような家庭を想像をすれば、それを事前に断ち切ろうとしても当然だった。
……以来彼女からの連絡は途絶えたままだ。
一度言い訳のような、弁解のようになってしまった、事実ありのままをメールしてみたが、ついに返事が返ってくる事はなかった。
有賀は腕組みをして考え込んだ。
失くした物は……、まあ、過失だとしよう。
けど、ベッドに落ちていた片方だけのイヤリング、歯ブラシ。あれだけはどうしても納得がいかない。
部屋の鍵は自分の持っている一つだけ。もちろん侵入した形跡もない。一体どうすればこんな不思議が起こるんだろうか?
クソっ。出るのは溜息ばかりだ。
何とか重い瞼を開いた有賀は、残っていたビールを一気に飲み干した。
***
昨日、残った仕事を家でやろうと持ち帰ったUSBメモリーを紛失した。
気が付いたのは家に着いてからだった。
会社帰りにいつもの居酒屋でご飯を食べただけで、酒も飲まずにまっすぐアパートに帰ったのに、鞄に入れたはずのそれは忽然と消えていた。
データ自体は会社のパソコンにも残っていたので仕事に支障はなかったが、問題はその中身だった。
営業部に所属する有賀は、来週行う予定のプレゼンの資料作成が滞っていたので、家でやってしまおうと思って持ち帰ったのだが、実は外部に漏れると極めてマズい代物だった。
なぜなら資料には算出したばかりの最新の見積もりが含まれていたからだ。
今回新規に開拓した顧客は、ライバル企業との一騎打ちで、継続的なお付き合いを見越して、かなり無理をした価格を提示する予定になっていた。
スパイ活動なんて絵空事だったし、とすれば相手に渡る可能性もほとんどないと思われたが、重要書類を無断で外へ持ち出した事自体が、叱責の対象になった。
もちろん気付いてすぐに家路を逆戻りしたし、立ち寄った店の従業員にも聞いてみたが、落とし物として届けられてはいなかった。
帰り際、鞄に入れたまま家に着くまで中を開けていないし、電車はずっと立ちんぼだった。つまりこの手で肌身離さず持っていたのだ。
鞄を置いたのは唯一食事をした時だけだが、それだって外に零れ落ちるような構造じゃない。
そして今日、頃合いを見計らい、有賀が思い切って上司に報告すると、案の定飛び切りの雷が落とされた。
入社して以来こんなに頭ごなしに怒られたのは初めてだった。
早めに出社して資料そのものは作り上げたが、それとこれとは話の次元が違う。
心当たりはすべて探したし、鉄道会社にも連絡を入れてあったが、メモリは未だ持って見付からず仕舞いだった。
そういう訳で、事ここに至れば運のなさを嘆きつつ、とことん落ち込むしかないではないか。
悲劇に悲劇が加算されて、さすがの有賀も憂さを晴らしたくなった。
つまりヤケ酒だ。
とは言っても有賀はあまり酒が強い方ではない。正直に言うとすぐ顔が赤くなって、酔いが回るしまう性質(たち)だった。
陽気になっている内はいいが、それ上飲むと記憶があやふやになってしまう。
これまで何かやらかしたという報告は受けていないが、仲間内の飲み会ならともかく、仕事上の付き合いや、彼女との食事ではそれなりに自重してきた。
それでも今日はずいぶん飲んでしまった。
でも、まあ、いいじゃないか。
今日はなくなって困る物はしっかり内ポケットに入れてボタンをしてあるし、迷惑を掛ける相手がいる訳でもない。
でも……そろそろ帰るか。飲んでも飲んでも気分は晴れないし、ここらが潮時かなと思った。
会計を済まそうと立ち上がった有賀がよろけると、ちょうど傍にいた女性が支えてくれた。
「ああ、すいましぇんね」
大きな伊達眼鏡を掛けた彼女の顔をまじまじと見ると、はて、どこかで見たような気がする。
「大丈夫ですか?」
迷惑を掛けているはずなのに、なぜか彼女は嬉しそうに介抱してくれる。
髪をアップにしている彼女の項が眩しかった。それにとてもいい香りがする。
あれ? やっぱりどこかで会ったような気がするな。
この甘い香り。
どこだったかなぁ?
***
気が付くと、有賀は自室のベッドにひっくり返っていた。
いつの間に帰ったんだっけ? 白い天井を眺めつつ、記憶を辿ろうとした有賀だったが、帰巣本能はここを覚えていたんだなと思っただけで、思考は停止した。
なぜならパンツ一枚身に着けておらず、素っ裸だったからだ。
しかも部屋を見回しても、床には脱ぎ散らかしたはずの衣服一枚落ちていない。つまり、それは……。
有賀は一体どんな醜態を晒したのかと、一瞬で真っ青になった。
恐る恐る身体を起こし、服のありかを探して回ると、驚いた事にスーツはクローゼットに、下着やシャツは洗濯機に放り込まれていた。
何だ、酔っ払っててもやる事はやるもんだな。
千鳥足でも家まで帰り着き、ちゃんとスーツをハンガーに掛け、ベッドに入ったという事だ。
ほっとして時計を見上げると、時間は明け方の四時を回った所だった。
そんな有賀の表情が凍り付いたのは、部屋の中央に置かれた小さなテーブルの上を見た時だ。
”素敵な夜でした。また明日来ます。麻耶”
このメモはなんだ? ボールペンで書かれたまるっこい文字は、間違っても自分の筆跡じゃなかった。
そもそも麻耶って誰だろう? 素敵な夜って何だ?
有賀の顔色は再び赤から青に変わっていた。
ああ、何か思い出せよ、チキショウ。髪を掻き毟った有賀だったが、どうしても記憶がはっきりしない。
何か、何か間違いを犯したんだろうか?
翌日は休みだった。だから昨夜は思い切り飲めた訳だが、こんなに落ち着かない時間を過ごすくらいなら、仕事にでも出掛けた方がマシだった。
そしてそんな気持ちに拍車を掛けるように見知らぬ麻耶さんからメールが届く。もちろんアドレスを教えた覚えもない。
”夜の九時頃にお邪魔します。”文面はそれだけで、絵文字ひとつない素っ気なさは、ビジネスライクを思わせる。
本当にそうならどれ程気が楽かしれない。
何も手に付かないまま、頻繁に時計を眺めてはただ悶々とする。そうして有賀はその女の登場を待ち続けた。
「今晩は」
カチャリと音を立てて外に開いた扉の向こうに立っていたのは、驚いた事に若くて、そしてとびきりの美人だった。
「あなたが麻耶さん?」
出会って早々に発した有賀の言葉が玄関に立つ彼女の顔を曇らせた。
「私の事、覚えてないんですか?」
「いや、昨日は大分酔ってたから、失礼な事しなかったかなぁ、……なんて思って」
手持無沙汰の手をこねくり回しながら、有賀は相手の出方を慎重に伺う。
肩に掛けていたトートバッグを手に持ち替えながら、彼女は本当に悲しそうに溜息を吐(つ)いた。
「本気でそういう事言うのね」
「いや、その……」
「それじゃ、私が……、昨日どれだけあなたを好きでいるか伝えたのも忘れちゃったんだ」
「え?」
「だから抱かれてもいいと思ったのに……」俯いた彼女は涙を拭っていた。「あんな風にすぐエッチしちゃう女なんて本当は嫌いなんだよね……」
やっぱりやっちゃったのか。
どうやら悪いのは自分の方らしいが、有賀は何と返したらいいのか言葉に窮した。
ひとつ鼻を啜ってから顔を上げた彼女は、バッグの中に手を入れて何かを取り出した。こんな有様では、部屋に上げて貰えないと諦めたらしかった。
「今日はこれを渡しに寄っただけだから」彼女の手にはあの紛失したメモリが乗っていた。
「これ! 一体どこで?」
「それも覚えてないんだね。お店で見付けたって言ったのに。もう少し早く気が付けば、あなたも怒られずに済んだかもしれないのに、ゴメンなさいね」
「お店?」店といえば、あの居酒屋しか思い当たらなかった。「君って、もしかして……?」
有賀が思わず身を乗り出すと、彼女はやっと気付いてくれたの? というように微笑んだ。
ああ、この笑顔は間違いない。
「今日はメガネしてないものね」彼女は取り出した眼鏡を鼻に乗せた。
「どう? 分かった?」
「やっぱり……」
「ふふ、私はあの居酒屋の店員なの。あなたも毎日のように会ってるでしょ?」
「昨日、確か俺の事介抱してくれたよね? もしかしてその後家まで送り届けてくれたの?」
彼女は肯定も否定もしなかった。ただ寂しそうに笑っているだけだ。
なんて事だ。送りオオカミっていうのはあるけど、送ってくれた人にそんな事したのかよ、俺は……。
「今日はこれで失礼します。でも私があなたの事、死ぬ程好きだって事だけは忘れないで下さいね」
小さくお辞儀をして背中を向けた彼女をこのまま帰してしまっては、いくら何でも酷過ぎるだろう。
「あ、ちょっと待って。せめて、せめてひと言お礼を言わせてよ」
サンダルを突っ掛けた有賀が彼女を追掛ける。
そして彼女は足を止める。
それがふたりの始まりだった。
***
「いってらっしゃい」
今日も外はいい天気で、澄み切った空は高く、そこに刷毛で引いたような薄い雲がひと筋伸びている。
今は夫となった彼を、こうして小さく手を振って見送るのが昔からの憧れだった。
ふふ……。行っちゃった。
彼はそろそろ止めてくれと言うが、結婚してから日も経つというのに、まだこんな些細な事が嬉しくてたまらない。
それでもくるりと向きを変えて一度家の中に戻った麻耶は、今度は指定された袋に不燃ごみを詰めて、少し離れた集積場に向かった。
そこには昨晩お別れした小物達も含まれている。
やっぱり私がした事は正しかった。
だって今……、ふたりはこんなに幸せなんだから。
例えこの”出会い”のすべてが仕組まれた物だとしても……、これも”出会い”には違いないのだから。
愛は叶えるもの