神経衰弱
「神経衰弱でもやらないか」
そう言って、友人がトランプを持って私の家にやってきた。特にやることも無かったので、私は彼の提案に賛成した。
紙製のケースから54枚のカードを取り出し、それをリビングの床に綺麗に並べてゆく。このゲームをやるのは何年ぶりだろう。子供の頃家族と一緒にやったのが最後ではないか? 今の子供達はトランプよりもテレビゲームの方が好きだ。孫もその1人で、彼とトランプゲームをしたことは1度もない。
カードを並べ終えると、友人がルール説明をしてきた。私も今年で74になったが、流石にルールはちゃんと覚えている。彼は親切心でやっているのだろうが、はっきり言って、時間の無駄である。
「いいかね? 互いにカードを2枚ずつ捲って、数が同じならそれを手に入れることが出来、もう1度カードを捲ることが出来る」
「ああ、ほぼ全ての国民が知っておるだろうよ」
「まぁまぁ。これは神経の限界に挑むゲームだ。どちらか一方の神経が限界を迎えたら、その時点でゲームの結果は出てしまう」
「なぁに格好着けとる? いいから始めよう。最初は君で構わない」
「そうかい。では、遠慮なく」
縦6列、横9列のカードの中から、友人は1番右上のカードとその斜め下のカードを捲った。ハートの5とダイヤの7。ハズレだ。悔しそうにそのカードを戻した。
次は私の番。まず最初に引いたのは……おお、クローバーの5。5はたった今彼が捲ったばかりだ。まだその場所は覚えている。私は問答無用にそのカードを選び、先手を取った。
「ありがとう」
「ははは、まだ鈍っていないみたいだな」
さて、ルールに従ってもう1枚引くとしよう。今度は……ああ、ダイヤの3。同じような幸運が2度も来る筈が無いか。仕方ない、今回は場所を記憶するだけに留めよう。適当にカードを1枚選んだ。引いたのはジョーカーだった。
次の番。友人も適当にカードを捲った。しかもそれはスペードの3。しまった、彼の方にツキが行ってしまったか。更に次の番、友人はハートの7を引き当てた。まずい、また2枚取られてしまう。
「これがゲームだからね」
「う、うむ」
「よし、じゃあ次は……ああ、8だ。まぁ仕方ないな」
と言って彼が選んだのは、何と私が先程選んだカード。当然中身はジョーカー、ハズレだ。
きっと忘れていたわけではなかろう。彼はわざとこれを選んだのだ。全ては、私に他のカードの在処を知られないようにするために。その証拠に、友人は私の顔を見ながらニヤニヤ笑っている。
そう言えば、学生の頃から彼はこういう男だった。根は良い男なのだが、勝負となると性格が変わる。少しでも相手と差をつけて、意地でも勝とうとするのだ。
全く、こんなゲームでも意地になるとは、彼もまだまだ子供だな。
さて、次に私が捲ったのはダイヤの5。もう1枚の5の在処はまだ明らかになっていない。ここは私も、子供に戻ることとしよう。先程の彼の真似をしてジョーカーのカードを捲ろうとした、ちょうどそのとき、
「リカコさんはどうした?」
友人が尋ねてきた。
思わず手が止まった。身体が小刻みに震えだした。何故だ、何故この男が彼女を知っている?
リカコとは、私の妻でもなければ娘でもない。最近行ったクラブで知り合った若い女の子だ。店だけの仲にしようとは思っていたのだが、どうしても我慢が出来ず、店の外でも付き合うようになってしまったのだ。
愚かな事だとはわかっている。だが、リカコちゃんは私の好みの女性だったのだ。若い頃の、若い頃の妻にそっくりだったのだ。それに今の時代、私のような老いぼれが若い女性を娶るなんてことも不思議ではない。あのとき、そして今も、私はその奇跡を心から願っているのだ。
見つからないように変装だってしてきたのに、何故友人に知られてしまったのだろう。まさかリカコが……いやいや、そんな筈は無い。このことが知られれば彼女だって仕事に支障を来すことになる。
「ふふふ、僕を、嘗めない方がいい」
「お前、何のつもりだ?」
「思い出したから聞いただけさ」
「り、リカコなんて子は知らんな。さぁ、2枚目は……」
「待て、僕はリカコさんが女の“子”だとはひと言も言っとらんぞ?」
しまった、嵌められた!
この男、何というヤツだろう。私の隙を突いて来おった。だが、この歳になればどうにでもごまかすことが出来る。
「そ、そんなこと言ったか? うん? すまんな、私も物忘れが激しくてな」
「そうか……あ、そう言えば、30万はどうなったかの?」
何だと? 何故そのことまで?
私は競馬が大好きなのだ。1ヶ月前、私は妻に内緒で、禁止されていたそれに手を出したのだ。有り金をつぎ込んだのだが全て負けてしまった。無駄にした額は……30万。
探偵でも雇っているというのか? この男は私の家の近所に住んでいる。だから持っている車や服もお互いによく知っている。だから、私に見つからないようにするために探偵を雇ったのか。
それにしても、彼は何故そうまでして私の動向を探るのだ? 私は別に彼に酷いことをしたつもりはないのだが。
「30万? おいおい、よしてくれよ。今は不景気だぞ、そん……」
そんなものに金をつぎ込む程馬鹿じゃないさ。
そう言おうとして口を止めた。また彼に突かれてしまう。
「いや、何でも無い」
「そうか……あ、ほら、カード」
そうだ、忘れていた。私は慌ててカードを引いた。スペードのA。はて、先程は別のカードを引こうとしていた筈だが。まぁ良い。まだゲームは始まったばかりだ。
友人は笑みを浮かべて次のカードを捲った。それは何とダイヤのA。何ということだ、ツキが完全にヤツに回ってきている。友は落ち着いた表情で、先程私が引いたカードを捲った。
3枚目に彼が引いたのはジョーカー。
ここで思い出した。私は先程、ジョーカーを引こうとしていたのだ。友人はまたカードを手に入れ、満足そうにそれを見つめていた。
「な、なかなかやるな」
「神経衰弱が得意でね」
「そうかい」
次は流石に当たらなかった。彼が引いたのはクラブの6とダイヤの9。しっかりと場所を確認して、私はカードを引こうとした。すると友人がまた動き出した。
「さっき、君はリカコさんのことを知らないと言っていたが、隠すのは止めにしないか?」
「え?」
「持ってるんだよ、ネガを」
固まってしまった。
ネガだと? 決定的な証拠ではないか!
焦って手に汗が滲む。先程覚えた筈のカードの位置も思い出せなくなってしまった。適当に選んだのはスペードの3。違う、こんなカード望んでいない。
ターンが友人に回り、彼は別のカードを引いた。ハートの9。9は先程出たばかりだ。そのカードを探す最中も、彼は私にあの話題をふってきた。
「よく撮れていたよ。あの日の夜のワンシーンがね」
「よ、夜?」
「銀座に居ただろう?」
確かに居た。
その日はリカコちゃんとあそこに行ったのだ。言えない。口が裂けても、ホテルに行ったなんて言えない。
「綺麗な写真だったよ。あ、9だ。もう1度僕だな」
次のカードはハートの3。3も先程私が引いたカードではないか。友人は会釈をしてから2枚目の【3】を引いた。その次はスペードの5。これも引いたカードではないか!
「それから君、あれは良くないね」
「あれ?」
「借りただろ、30万」
くそっ、痛い所を突いてくる。
そうだ、確かに私は競馬の穴を埋めるために30万を借りた。でもそれは正規の会社からだ。
「君が出てくる所も、ネガに収めてあるんだ」
「な、何だと?」
「おや、やっと反応したな?」
つい本性を晒してしまった。思わず口を手で覆った。
「まだ認めないか?」
「認めるって、私は疾しいことなど何も……」
「その借りた金の使い道も酷かったな。百合枝さんにプレゼントを買うのかと思いきや、リカコさんにヴィトンのバッグを……」
「ああっ! 止めろぉっ!」
もう駄目だ、これ以上耐えられない。
私は大粒の汗を額から流し、友人に詰め寄った。ネガを、ネガを返してもらおう。そのためなら、彼が望む物は何でも与えるつもりだ。
「何が欲しい? どうすればネガをくれるのだ? 教えろ!」
友人はため息をつき、またニヤッと笑みを浮かべた。そしてカードを捲った。
「初めに言わなかったか?」
「このゲームは、神経の限界が訪れた瞬間、負けが決まるのだ」
そこでハッとした。
まさかこの男、神経衰弱で勝利するという、ただそれだけのためにこんなことをしたのか? 私の正常な判断を鈍らせてカードの位置をわからなくさせ、その隙に自分はカードを記憶し、それを引き当てる。
何という男だ。こんなゲームでも全力を出すとは。思えば、今のカメラは殆どがデジタルカメラだ。「ネガ」というのもおかしかったのだ。そこで疑うべきだったのだ。
友人の言った通り、この日の私は散々だった。勝負は彼が勝ち、全体の5分の4のカードをかっさらって行った。
満面の笑みを浮かべる友人はカードを片付けると、私に軽く挨拶して部屋から出て行った。
帰りがけ、友人が言ったひと言で私は凍り付いた。
「ああ、奥さん。待たせてしまってすまない。あとはご自由に」
友人と入れ違いに、私の妻・百合枝が入ってきた。
「あなた、話があるの」
友人が家から去ってから、妻はそう言った。
この後、私は神経だけではなく、肉体まで衰弱する羽目になった。
神経衰弱