働き蜂は笑わない

甘食

テーマはまんま題名

 改めて言葉にすると大変おかしなことになるが、その時私は気がつくと意識を失っていたのである。夢の中で夢だと自覚しているような感覚というとわかり易いだろうか。混濁とした意識の底からもがくようにして意識を取り戻していく中、初めに気づいたのは口の中に広がる蜂蜜のようなだだ甘さだった。口の中全体に広がる刺激的で殺人的な、それこそ“死ぬほど甘い”その甘さは辛党ならば卒倒していたかもしれない。だが、幸い自分は甘党であるので眉をしかめるだけで済んだ。どちらにせよ目覚めとしては最悪である。
 大きく伸びをしながら窓から射す夕日に目を細める。けっこうな時間寝ていたようだ。
 すると視界の外から「おはよう」と声がする。視線をやると遊びに来ていた彼女が漫画を読んでいて、彼女が家に遊びに来ていたのを思い出す。転寝をしてしまった気恥ずかしさを紛らわせるために見てもいない夢の話や、自分ももう若くないだの言葉を紡ぐが、彼女はどれも気にしていないように本を読んでいる。だが彼女との長い付き合いからいたずらで私の口に蜂蜜を流し込む姿が容易に想像できたので、「寝ている間に蜂蜜とか流し込んでない?」と単刀直入に訊くが彼女は不思議そうな表情をするばかりで本当に知らないようだ。
「いや、なんでもない、それよりご飯食べにいこうか」と話を変えると「何食べる?」と彼女は本を閉じ立ち上がった。口の中の甘ったるさについては私の口が蜂蜜を分泌しだしたということにした。


 彼女といっても世間一般でいう恋人のそれではない。
 私と彼女が知りあったのが高校2年の頃だというのははっきりと覚えているが、人見知りで内向的であった2人がどのようにして仲良くなったのかはとんと思い出せぬ。気がついたころにはよく喋るようになり、行動を共にすることが多くなっていた。
 初対面ではその地味な格好と素っ気ない態度から人見知りで無愛想な印象を受ける彼女であるが、親交が深めていくとそうではないことがわかる。様々なことに興味を示し、さばさばとした性格は時折自分以上に頼もしいところもあった。あまりに仲が良いためか、数少ない友人や知り合いの多くが私と彼女がつき合っているものだと思われていたり、彼女に想いを寄せていたらしい友人が彼女をあきらめたりとしていたようであるが、実際の私と彼女の関係はというと極々近い平行線をたどっていた。
 関係は高校を卒業しても途切れることはなく、大学進学を期に一人暮らしを始めた私のところへ彼女が遊びに来て、時には泊っていくこともある。さすがに同じベッドで寝たりはしないが、若い男女に有りがちなそれは何もない。大学の友人らにこの話をするとおおかた信じられないと言った反応を示すので大方私が不具か、相手の女は余程の醜女なのだろうと思っているに違いない。
 私が不具であるかどうかは置いておいて、彼女が醜女かというとそんなことは決してない。彼女の人見知りする性格の所為で浮いた話はほとんど聞かないが、雪のように白い肌、柔らかな曲線を描きながら小さく纏められた胴体からはすらりと長い手足が伸び、たおやかなその姿態はなまめかしい。烏の濡れ羽色の美しい髪はその輝きを乱すことなく腰のあたりまで伸び、前髪の合間から時折見せる悪戯めいた表情は、魅力的であった。
 そんな彼女は私にとってなんなのかと問われると大変回答に悩む。おそらくこれは彼女も同じなのであろうが、時と場合によっては恋人のように振舞うが、互いの都合によっては他人のように接するときもある。形容しがたい間柄であるが、同じ質問を彼女にしたところ、「とにかく似た者同士で気が合うのだろう」と彼女は笑っていた。


 そんなある日のことである。いつもの様に遊びに来ていた彼女が「私、そろそろ変わらなきゃと思う」と声を上げた。彼女が突拍子もないことを言い出すのはよくあることなので、特に視線を向けるわけでもなく、適当に相槌うつと、彼女は立ち上がった。
「という訳で外に出ましょう」
「念のため訊いておくけど、いきなりどうした」
「どうもしないけど、書を捨て外に出よっていうでしょ、なんなら本を捨てることからはじめましょうか」
「いや、結構」
 彼女は私の問いによくわからない返答をすると、外出の支度をせかす。外はまだ肌寒い、薄手のコートを羽織ると、携帯、財布、車のカギをポケットの定位置に滑り込ませる。ガスの元栓、家電のスイッチ、鍵の戸締りを指差し確認すると、彼女の言うがまま車を走らせた。

 彼女の指示の行き着く先は大型ショッピングモールであった。
「何買うの?」と私が尋ねると「服」とだけ答えた。確かに彼女は大変に美人だが、大抵の場合、デニムのパンツにシャツかパーカーといった服装で、お世辞にもおしゃれかというとそうではなかった。当然、そんな彼女にお気に入りのブランドなどあるわけでもなく、向かったのは全国展開している安さが売りの服屋であった。
「どういうのがいいんだろうね」と彼女は店に入るなり私に訊いてきた、その目は真剣そのものである。
 私もおしゃれではないのだが、何故かこの手の相談を受けることが多い。その所為か最近では密かに自分の感性に自信を持ちつつあるので、彼女の申し出には待ってましたとばかりに講釈を垂れた。
 彼女は私の話を熱心に聞き、その上で気に入ったものをいくつか選び、組み合わせやら着こなしを改めて私に尋ねるという形で見て回った。悩んでいるようであれば個人的見解を述べ、柄や組み合わせが使いづらいものは避けるようにした。
 結局、その店だけでなく何件もまわり、彼女の好きな色を中心にしつつ派手すぎない、無難なコーディネートがいくつもできあがった。その中で汎用性が高く様々な場面でつかえるものを何着か買った。両手に紙袋を提げる彼女は大変うれしそうであったので、気まぐれにささやかなネックレスを贈った。鳥をモチーフにした質素なデザインであったが、気に入ったのかこれも大変喜んでいた。


 私はかなり甘いものが好きで、学食や購買でよく甘いものを買う。私自身意識したことはないが、その姿がずいぶん様々な学生の印象に残る所為か、最近ではちゃきちゃきの甘党だというのが広く知れ渡っていた。ある時の飲み会では酔った先輩が「君は甘いものはよく食べるみたいだが、酒の方はからっきしだな」などというので、とびきり甘い蜂蜜酒を買い込んでどちらがたくさん飲めるか勝負を申し出た。私が次々と瓶を空けていく中、先輩は甘い甘いと辟易するばかりであった。この日から私と甘いものと蜂蜜酒の印象がすっかり定着してしまい、ミツバチというあだ名を付けられた。そのエピソードとあだ名の所為か、やれ新作のコンビニスイーツが出ただの、駅前に新しいケーキ屋ができただのすると友人知人がこぞって私の評価を聞きにくるくらいの信頼を得ていた。

 肌寒い風が吹く中、駅前通りの商店街を少し歩く、ぽつぽつと見かけるシャッターが寂しさを感じさせる。商店街唯一の花屋を過ぎたあたりで小道に入ると少し先に看板のない喫茶店がある。人目から隠れるようにあるが、この店はケーキが評判で、休みの日となると多くの女性客で賑わう隠れた名店である。そんな店で男一人というのはどうやっても浮いてしまうが、臆することなく足げく通い今では常連である。
 店の名前もなく、「営業中」の看板がぶら下がっている扉を開けると、いかにも喫茶店といったドアベルの音と共に「いらっしゃい」と店主の声がかかる。店に入ってまず目を引くのは大きな陳列棚に並べられた数々のケーキである。その種類は数十種に及ぶ。店主が恐ろしく飽きっぽいため、この数十種あるメニューは目まぐるしく入れ替わる。店に看板がないのも店に名前をすぐ変えたくなるからだそうだ。
 ケースの中に並べられたケーキはどれも美しく、飾り気のない無機的な並び方であってなお、さながら美術館のようであった。
私はガラスを通り抜けんばかりに陳列棚に顔を近づけ、ひとつひとつ品定めをしていく。彼女曰くこの時の私の顔は別人のように真剣であるという。少しの間品定めをした後、気になるケーキと甘めのミルクティーを注文すると、見知った顔を見つけたのでその近くの席に座った。この店はケーキが有名な店という事もあり女性客や家族連れが多く私のような男性の一人客は否応にも目立つ。彼もその一人で、私よりも大分年齢が高くこの店以外で見かけたことはないが、”甘い物好き”という共通項が結びつけた奇妙な友情みたいなものを感じていた。
 彼は彼で私の甘いものに対する姿勢というか感性が琴線に触れるらしく、甘味論に花を咲かせることが多い。
そんな彼の目の前には木苺をのせたレアチーズケーキがある。レアチーズの白に木苺の赤というコントラストもさることながら、甘さを抑えたレアチーズに木苺の酸味が加わり酸っぱそうな印象を受けるが、クリームとスポンジの割合が絶妙で、強すぎない酸味が淡い甘さを引き立て、さわやかな味が口の中に広がる。おそらく10人がこれを食べたら10人が「これなら何個でもいける!」というであろう。
 私が近づくと彼は紅茶をすすった。
「うむ、この自然な味わいが何とも言えない、これなら何個でもいけるんじゃないかな」ともう一口切り分けて口へ運ぶ。
「美味しいですよね、それ」
「さすがミツバチ、このケーキもチェック済みとは恐れ入るね」以前話したあだ名を彼が覚えていることに少し驚いたが
「来てる回数が多いだけですよ」とそんな事を話していると私の注文したケーキが運ばれてきた。
 そのケーキは彼のケーキと比べるととても色彩豊かで豪奢であった。黄赤緑青といった様々な色彩を放つクリームに包まれた球状のケーキは見た目から味をまったく想像できなかった。
「まさかそれを頼むとはね」と彼も唖然としている。
 私はフォークで赤い部分を切り取ると口へ運ぶ。興味深そうにこちらを見つめる彼を後目に無言で緑、黄色と様々な色のクリームを食べ私は確信をえた。
「どんな味がするんだい?」
しびれを切らし私に尋ねる彼に私は少し間を置いて答えた。
「―甘い」
 余りに当たり前過ぎる感想に彼は怪訝な顔をするので私はあえて何も語らず、彼に一口食べてみるよう進めた。彼は恐る恐る緑色の部分を一口食べると「うっ」と声を漏らしすぐさま紅茶を飲んだ。実は色彩豊かなこのケーキは一見様々な味が楽しめるかのように見えるが、ただただ甘いだけなのである。ひとたび口に運べば果物の甘さでも砂糖の甘さでもない純粋な甘さが無慈悲なまでに襲いかかってくるのである。
甘味の塊を甘めのミルクティーで流し込む私を彼は若干何も言わず眺めていた。彼の中で私の評価が上がっているのか下がっているのかを知る術はない。



 変わろうと四苦八苦する彼女を支え見守る自分という二人の関係は、以前にも増して奇妙なものへとなっていた。”変わりたい”という彼女の言葉はどうやら本物らしく、近頃は私の部屋へ遊びに来ても持ち込んだ若者向けの雑誌を読みふけっている。中でも男女の心理を書いた特集が気に入っているらしく、時折記事をボソボソと声に出して読んでみては「そうなの?」とこちらに聞いてくる。私は適当に相槌を打つ時もあれば、持論を展開する時もある。出かけるとなると服や装飾具を見て回っている、見て回るだけで買うことはあまりないのだが、鏡に映る自分の姿を見つめる彼女の姿は真剣そのものだ。

 ある金曜日の夜。次の日が休みだといつもの時間に寝るのが勿体ないような気がして、何をするわけでもなく起きてしまう。特にすることもなく毛布に包まっていた。
 すると不意に普段あまり鳴らない部屋の呼び鈴が鳴った。この時間帯である。心臓が飛び出るほどに驚き、音を立てぬようにドアのスコープから覗くと、そこには彼女の姿があった。ドアを開けると外の冷気と共にかすかにアルコールの匂いが漂う。
「飲み会でもあったの?」と訊くと「うん、専門学校の飲み会があった」と彼女は言った。
 私が高校を出て大学に進学したように、彼女もまた高校を出てからは専門学校に通っている。何の専門学校かは言ってこないので知らないが、こうして飲み会に参加しているところを見ると楽しく過ごしているようで何よりである。
 彼女がというよりは私が寒いので立ち話も早々に部屋へ招き入れる。彼女はベッドに腰掛け、私が熱いココアを入れてやるとそれを大事そうに両手で包み暖を取っている。彼女によると飲み会がこの界隈であり、家に帰るのも面倒だったので私のところにきたという事らしい。
 ため息をひとつ吐いて「どこから指摘してやればいいかわからないくらい不用心だな」と言ってやると、「うるさいなぁ」とぷりぷり怒った。隣に腰掛け、彼女の顔をまじまじと見ると、だいぶ酔っているようで、いつもは白い陶器のような頬も紅色に染まっている。思えば彼女の酔っているところに遭遇するのは初めてで、少しだけ大人になったんだなぁとしみじみしたりする。
「飲み会はどうだった?」と訊いてみると、
「・・・料理がそこそこ美味しかった」とうなだれたまま彼女が答えた。
「楽しかった?」「あんまり」
「専門学校はどう?」「普通」
「どうして変わりたいの?」「・・・」
 普通に受け答えしていたのが急に何も言わなくなった。答えづらいのだろうか?と彼女の顔を覗き込むと、不意に抱きつかれ、そのまま押し倒された。
 彼女の匂いと重みが私を包む、加速していく私の心音が相手に伝わっているのかと思うと視線を彼女に向けられない。かすかに頬にふれる彼女の肌が動き彼女がこちらに向くのがわかる、向ききる前に少しふれたのは上唇であろうか。
「変わらなくていいの?」と耳元で発せられたその言葉はアルコールの匂いを伴い、私の頭の中で霧のように漂った。
「む、無理に変わる必要はないさ!」動揺しているためか声が裏返りながらも彼女の反応を待った。
 永遠にも感じられる数秒間が過ぎた後、耳元ですーすーと寝息が聞こえた時はホッとしたようなガッカリしたようなよくわからない気持ちであった。私はゆっくりと彼女から剥がれると、シーツをかけ、自分は床に転がった。加速した心音は収まる気配を見せず、眠れるはずもない。

 翌朝、明るくなり始めた頃に彼女はむくりと起きあがった。私が「おはよう」と声をかけると、彼女も「おはよう」と言う。私は寝ぼけている彼女から隠れながら着替え、「朝ご飯買いに行ってくるけど何食べる?」というと彼女は立ち上がり「私も行く」とぼさぼさになった髪を簡単に手櫛で整えた。
 コンビニへ向かう5分間、昨晩の事を訊く度胸は私になく、だからと言って何を話せばいいかわからない。彼女の方も沈黙を守り、それが寝起きだからなのか昨晩の何かを引きずっているのかわからない。コンビニで適当に食べ物を買うと彼女は「じゃあ私帰るね」と来た道とは別の方へ歩き出した。その一連の流れに特別なものは何も感じられず、私の気にしすぎだと考えた。そう考えるとどこか安心してきたのか、部屋に戻るなりそのまま寝てしまった。

 彼女から連絡があったのはそれから一週間後だった。珍しく電話をかけてきたので何事かと思ったが、たまには電話で話すというのもいいものである。いつものように他愛のない話をしていると、彼女が最近同じクラスの人に告白されたというのではないか。
「おお、ついに努力が身を結んだか!」と思わず声を上げた。
 彼女と知り合って随分経つが、色恋の話はとんと聞いたことがなかったので、初めて訪れた変化に感心したのである。逸る気持ちをおさえつつ、相手のことを聞くとぽつぽつと人となりを話し出した。
 嬉しそうに相手のことを話す彼女に私は相槌を打ちながら言葉にできない満足感にしみじみとしていた。
どうやら彼女は告白の返事を考えあぐねているようだったので、「迷うのは気になっている証拠だし、気になるなら付き合ってみればいいんじゃないか」と強く背中を押してやった。すると彼女は改まって私に「ありがとう」と言った。「支えてくれて、見守っていてくれてありがとう」とどこか照れくさそうに、気持ちの入った声色で「おかげで変わることができた」と。それからひとしきり話すと「じゃあちょっと返事してくる」と電話を切った。
 

 結局彼女が付き合うことにしたと聞いたのは次の日である。
いつものように食事をしながらその話を聞き、「じゃあもうこうして飯を食うこともないのか」というと「どうしてよ」と彼女は言う。
「恋人にしてみれば、私の存在はあまり気持ちのいいものではないだろう」とため息とともに教えてやると「そういうものなのか」とさびしそうにうつむいた。
 何事もなく食事が終わり、いつものように部屋の前で「じゃあな」と彼女と別れた。部屋に入るなりごろんと横になると、しみじみと彼女とのことを色々考えた。自分を変えようと努力してきた親友である彼女に恋人ができるというのは嬉しくもあり、自分の元から去ったような寂しさもあり、(あぁ、子供が自立した親というのはきっとこんな気持ちなのだな)などと思いながらそのまま寝入ってしまった。


 それからなるべく彼女のことは考えないように日々を過ごしている。一ヶ月、半年、一年が過ぎ、大学の友人に「最近笑わなくなったね」と指摘され出した頃のこと。
その日はどんよりと鉛のような雲が空を覆い、いかにも冬らしい空だった。いつもの事ながら特に予定も無く、外は冷えるので出かける気にもなれない私はベッドの上でごろごろしていたが、滅多にならない郵便受けの音に身を起こした。もそもそと立ち上がり郵便受けを開けると一枚の葉書が入っていた。このご時世に葉書とは珍しい。表には手書きで私の名前と住所だけが記してある。「誰からだろう」と裏を返すと幸せそうな男女の写真、傍らには”結婚しました”の文字と彼女の名前があった。
 確かに写真の女をよくよく見ると、美しく化粧を纏った彼女であることがわかる。質素なウェディングドレスに身を包み、幸せそうに微笑む彼女は私が見たどの彼女より美しく、別人のようであった。
 不思議なものでそれを見てすぐの私の心は意外と冷静で、「結婚したのか、めでたいな」などと思っていたのだが、次第に私の心の片隅から染み出すように黒い感情が生まれてきた。それは友人がいなくなった喪失感か、友人が先に所帯を持ったことへの焦燥感か、それとも彼女を奪われた敗北感なのか、とにかくよくわからないドス黒い感情が次第に私の心を支配していく。
 私は彼女を自分の中で貶めることで暗い感情を抑えようとしたが、どれだけ彼女を貶めたところで、記憶の中の彼女も葉書の中の純白の彼女も美しかった。それがさらに喪失感を煽る形となり、みじめな自分の姿が浮き彫りになっていった。そうしているうちに私は自身を蝕む感情の正体に気付きつつあった。
いつも共にいてくれた彼女に安心し、いつしか心の中で彼女が私のものであるという錯覚を起こしていた。恋人ができたといってもきっと私の元へもどってくるだろう、私といるときが一番落ち着くであろう。そんな驕りが私の中にあった。だが、実際のところ彼女は私の腕をすり抜け今や見知らぬ男のものとなった。このドス黒い感情は自分のものではない彼女への勝手な独占欲だったのである。

心がどこまでも沈んでいく中、私はこの感情が失恋であるのだと、私が彼女に恋をしていたのだと実感した。心を覆う喪失感、見るもの聞くもの全てが白々しく、どうでもよく思える。私はドアに手をかけ、降りしきる雨の中へと飛び出した。
 雨はいつの間にか雪へと姿を変えていて、その姿を人々に見せ付けるようにゆるりと舞い落ちている。
 重々しい鈍色の空に混じる白雪は、まるでぽろぽろと壊れ朽ちていく私の心のようで、年末へ向け賑やかになっているはずの町並みから色彩がなくなったように見える。立ち並ぶ建物は菓子の空き箱で道行く人々はジンジャークッキーだ。私以外の、いや私自身含めすべてが無機物で構成されているかのような錯覚は悲しさや空しさを通り越して心地よささえ覚える。



「―? 大丈夫かい?」と私に語りかける声ではっと意識を戻した。気がつくと私はいつものカフェにいて、目の前には心配そうにこちらを見つめる彼がいる。
夢でも見ていたのかと思ったが、雪に濡れた服と芯まで冷えた体が夢ではないことを告げている。目の前には皿が高く積み重ねられ、全て私が食べたケーキなのだろう。
「・・・どうしたんだ、一体」
積みあがった皿の山にただならぬものを感じたのか、再び問いかける彼に私は時間をかけてこれまでの経緯と自分の想いを話した。
私より人生経験豊富な彼からすれば取るに足らない些細なことなのかも知れないが、彼は真剣な表情で耳を傾けていた。私が思いの丈を全て吐き出すと少しの沈黙が流れた。彼の表情から何と言おうか迷っているのが伺える。

「君の身に起こったことは本当に残念だった…。でも、人生とはえてしてそういうものなんじゃないかな」
 彼はつまりながらも私を慰めている。だが今の私には何一つ響いてこなかった。それらはただの言葉として、むしろただの空気の振動として私の鼓膜を震わせただけであった。だが、彼がゆっくりと時間をかけて、告げた言葉が強く私をひきつけた。
「…でもだ、誰しも人生やり直したいと強く願うときがある」
やり直す-、非現実的で夢のような言葉は私の心に染み込んでいく。
「やり直す…?」と私が顔を上げると、そこにはどこか真剣なそれでいて胡乱な表情の彼がいた。
「ああ、やり直すのさ」と彼は怪しく笑った。未だかつて見たことのない彼の表情は少しだけ恐ろしくもあった。だが私は藁にもすがる思いというよりは、もうどうにでもなれといった感じで彼の提案に耳を貸すことにした。

 カフェでの会計を済ませ、彼の後ろについて歩きだした。ふと、彼女と出かけるときはたいてい彼女の後ろについて歩いたことを思い出し、なんとも言えない切なさに苛まれもしながらしばし後ろをついて行く。途中電車に揺られ、バスに乗り換えながらたどり着いたのはとある大学のキャンパスであった。世間に疎い私でも名前だけは聞いたことがあるほどの有名な大学である。
 降り積もる雪が音を吸収したかのように静まり返った構内は私が通っている大学のものとは全く様子が違っていて、私の前を歩く彼は大学の関係者だったのかということに今更ながら衝撃を感じていた。彼が関係しているくらいなのだから差し詰め甘味学科といったところなのだろうか。
建物の中に入り、薄暗い廊下行ったりきたり、冷たい階段上ったり降りたりしているうちにある部屋の前までたどり着いた。彼は懐から取り出した鍵で扉を開けた。慣れた手つきで明かりをつけるとそこは薬品棚が立ち並び、いかにも研究室といった感じである。
 彼が背の低い冷蔵庫みたいな箱から取り出したのは三角フラスコだった。それに入っていたのは黄金色の液体で、それはさながら魔法の蜂蜜といった具合に怪しく輝いていた。
「細かい説明は省くが、この薬品は人の意識を過去へ戻すことを目的として作られた。もしこれが成功すれば、科学的アプローチから意識区での時間軸を-」
 彼の演説めいた説明を半ば聞き流しながらフラスコの薬品を見つめた。流動的な黄金色がてらてらと光を放っているかのようにきらめいた。自分のあだ名がミツバチであることを思い出しながら、コルクの栓をゆっくりと開けるとなんとも言えない甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
「その匂いでわかると思うが、その薬はなぜか死ぬほど甘くてね。効果を試そうにも誰も飲もうとしないんだ、私のまわりには私以上の甘党は君しかいない」
「それで私に飲めと?」私が彼の率直に言い当てると、彼は申し訳なさそうな顔で口を開く。
「実験台のようになってしまうのは申し訳ない。だが、それを目的に知り合いになったわけではないことは信じてほしい。君が類まれなる甘党だというのも、私の薬が恐ろしく甘いというのもまったくの偶然で-」おそらく本心なのだろう、彼の表情からは苦悶の表情が伺える。
「いえ、別にそこら辺の細かいことは何だっていいんですよ、たいした問題じゃあない」私はフラスコの中に漂う黄金色を見ながら手に取った。手にとったフラスコはひんやりと冷たい。
 彼が固唾を呑んで見守る中、私はぐいと黄金色を流し込んだ。彼の言ったとおり、その黄金色は刺激的で殺人的で、それこそ“死ぬほど”甘く、辛党が口にしたら卒倒しそうなほどである。その上予想していた以上に黄金色の粘度が高く、私の唇から舌へ通り喉から食道へと非常に緩慢な動きで流れていく。その間ずっと殺人的な甘さが口内の粘膜を刺激し続け、さながら私の舌そのものが砂糖菓子になってしまったかのような感覚だった。そうしているうちにだんだんと目の前が白んできた。どうやら薬の効果が現れだしたようだ。

口の中に広がる甘味だけがいつまでも私を苛んだ、それより甘い彼女との日々を夢見ながら意識を手放した。

働き蜂は笑わない

ありがとうございました

働き蜂は笑わない

友達以上恋人未満

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted