雨の降る日に、猫は鳴く vol,1 「猫鳴キ雨」
*この物語は完結しています
1
あ、雨降ってる。
朝のまどろみの中で、香枝子は思った。
雨音はしないし、自分の枕元に窓はないのに、私、どうしてそう思うんだろう。
香枝子はベッドの中で伸びをしてから、枕元にあった眼鏡をかけて、卓上時計を見た。目覚ましが鳴るまで、十五分早い。もう一度寝たら、絶対寝過ごすね、これは。
時計の隣には、「RAIN」とだけ書かれた薄い本。夕べ寝る前に呼んでいたもので、雨の日の写真と、その情景に付いて書かれたエッセイ。ああ、なるほど、とは一人で納得する。こんなものを読んでいたから、外が雨だなんて思ったのだろう。実際のところは、下の階に下りて、カーテンを開けてみなければわからない。
やがてベッドから降りて布団を直し、足元に置かれている書棚に本を戻し、並んでいる細いクローゼットを開けた。すでに四月の中旬を迎えるが、この地方はまだまだ肌寒く、パジャマの上にカーディガンを取り出して羽織る。ついでに、白いブラウスと紺の上着、同色のタイトスカート、ストッキングも取り出し、それらを持って下の階へと降りる。
下の階…と表現すると、2階建てに住んでいるかのようだが、ちょっと違う。寝室はベッドとクローゼットと本棚を置くのが精いっぱいの広さしかなく、単なるロフトである。階段を降り切ってすぐ目の前に、玄関と小さな靴箱があって、薄桃色の傘が立てかけてある。家のつくりは、円筒形の小さなバンガロー風。香枝子の勤め先が、1人暮らし用として用意したものを、有料で借りている。
一階の様子は、何もかも昨日と同じ。円形のフロアには全体的に掃除が行き届いていて、余計なものは置かれていない。そこには昨日の続きがきちんと流れている。
本棚の傍にあるカーテンを開けてみると、やっぱり雨なんか降っていなかった。どんよりとした曇りである。カーテンを開けたはずみで位置がずれてしまった本棚の写真を、そっと直す。離れた場所に住む家族の写真だ。両親と、弟。その他、家にあるのは窓付きの小さなキッチンに、食糧棚。ドアの向こうのバス、トイレ、洗面台。一人用の赤いソファに、椅子が一脚と小さなテーブル。その上に置いてある古いラジオ。
ラジオにスイッチを入れると、いつも聞いている局番が流れ始める。ノイズの混じった異国の音楽。それを聞きながらキッチンでトーストを2枚焼き、イチゴのジャムを塗る…と、瓶がちょうど空になった。次はちがう味のものを、買ってこよう。
パンが乗った皿をテーブルに運ぶと、そのまま玄関に行って、ドアを開けた。きちんと2本、牛乳が届いている。それを二本とも持ってきてテーブルに着き、一本を開封した。パンをかじりながらそのまま飲む。朝から外にあったから、冷たい。肌寒い朝なのだから、温めればよかったな…。
土鳥市東部は、午後から雨になります、今日の簡単朝ごはん、続いて運行情報です、春一番の影響鉄道の運行に遅れが。
そんな情報がラジオから次々と通り抜けていく間に、香枝子は食事を終わらせ、顔を洗って、歯を磨いた。うすく化粧をして、髪を整え、先ほどクローゼットから持ってきた服に着替えて、バックの中身を確認する。午後から雨だそうだから、傘を持って行こう。
黒いパンプスを履いて、家の中を見回してから、家を出た。
煉瓦塀のたちならぶ、静かな長い1本道をぬけ、商店街に入る。卵やら魚やら、朝食用の買い物をする主婦たちで、とたんに賑わいを見せる。香枝子はそこで、行きつけのパン屋「orange」に入った。仕事帰りでは閉まっているので、朝のうちに買って、ロッカーに入れておくつもりだ。大きめのフランスパンと、ジャム…。ジャムは少し迷って、洋ナシを選んだ。やあ、おはよう…と主人のお爺さんの挨拶を受ける。引っ越してきて以来この店に通っているので、すっかり顔なじみである。
「おはようございます。」
「これから出勤かい、いつも寄って貰って悪いね。これ、新商品で今度置くんだけど、良かったらあげるよ。」
それは、小瓶に入った薄茶色のもので、ブラウンシュガーを細かくしたようなものだった。
「自家製のシナモンパウダーなんだけど。嫌いじゃなかったら。」
その後、商店街を通り抜け、街の中心へ向かう。
そこには、歴史的な趣のある、古い木造の建造物がドンと居座っている。それはまるで周囲を威圧するかのようだが、れっきとした公共機関である。
正式名は『土鳥市王立図書館』。
香枝子は、そこで司書として働いている。
運営しているのは、この国を統一している王族たち。つまり、香枝子は一介の公務員というわけだ。二十一歳で配属されてから今年で3年目、ようやくこの広い館内の構造や仕事内容を、人に教えられるまでになってきた。
この図書館の大きな特徴として、一般書籍や新刊、古書や画集の類が膨大にストックされている。さらに、その地方にまつわる、ありとあらゆる歴史・民俗・写真資料・新聞を、ざっと百年分ほど保管してある。
香枝子は、脇にフランスパンを抱えたまま、建物の裏にある職員用玄関の重いガラス扉を押した。その瞬間から、体は古書と木のにおいに包まれる。雰囲気は重厚で重々しく、乾いているようで、湿っている。靴を履き換えて廊下を進み、女性用更衣室に入る。自分のロッカーに貴重品とパンを入れ、図書館の名前が入ったエプロンをつける。準備を終えて更衣室から出たところで、何人かの職員とすれ違い、挨拶を交わした。
その後事務室でのミーティングを終えて、二十人ほどの職員たちが、それぞれ持ち場へと散っていく。開館まで残り10分。利用者が入ってきたら、私語は厳禁である。それまでの間、職員たちは静かに、ささめき合う。
今日は喉が痛いのに、朝から受け付け担当なの、のど飴あげようか、馬鹿だな図書館で飴なんか、私簡易マスクもってるけど、児童書の特設コーナー昔話にするんですよね、どうして今回の新入図書って雑誌ばっかりなんですか、帰りにお茶して帰らない?
そんな中、香枝子は同期の女性職員と共に、午前中いっぱい事務仕事をこなした。彼女は、雨降ってきたけど傘持ってない、私も天気予報聞いときゃ良かった…と小声でぼやく。香枝子は、図書館の隣の売店で売ってるのに、と教えてあげる。
昼食は、図書館内にある喫茶室で、サンドウィッチとコーヒーを注文。甘いものが欲しくて、サンドウィッチの方はフルーツサンドにした。今朝貰ったシナモンを試しにかけてみる。上品な甘さと、ニッキの香り。うん、いい感じだ。
午後からは2階で一般の利用者を相手とした作業に移る。返却された図書を、一般書架に戻す。本はカートに入れて運ぶけれど、やっぱり重い。一冊一冊元あった場所にもどすのも、結構骨が折れる作業だ。そうするうち、先輩女性がやって来て、ちょっと…と声をかけられた。一回り年上の、テキパキとした性格の人物である。彼女は、悪いんだけどと言いながら、手書きのメモと、順番待ちのカードを取り出した。
「この三冊、地下から持ってきて貰えない?利用者さんから頼まれたんだけど、私どうしても手が離せないの。」
メモの内容を見て、思わず、えぇ…と言いそうになった。
童話の初版本、このあたりの古地図、歴史書。
全て『地下二階の大型書庫』に保管してあるものだ。
よろしく、とだけ言いのこすと、先輩はさっさと姿を消した。
仕方なく、受付の奥にある管理室に行って、地下室へ続く階段の鍵を借りる。金属製の輪に通されたもので、全部で3本ある。まずは1階へ降りて、受付近くに備え付けてあったドアを、一番新しい鍵を使って開けた。中から、ムッとするような重い空気がにじみ出てくるのを感じて、過去は思わず眉間にしわを寄せる。空気が湿ってて、カビ臭い。それに、埃っぽい…。その3つは香枝子が苦手とするもののなかで、かなり上位に入るだろう。一歩踏み出すのも嫌だけれど、これも仕事だ。しょうがない。
ぎしり。ぎりり。
香枝子の足が、派手な音を響かせる。まるで、ホラー小説か、暗いファンタジーに出てくるような光景だ。香枝子は、その手のものが好きではない。恐いという意味ではなく、目に見えないものは信じないタイプなのである。司書をしているくらいだから、専門書のほか、小説も好んで読むのだが、推理小説や文学などがほとんどだ。
やがて、地下一階に辿り着き、扉を開けた。明かりをつけて中を見る。そこには規則正しく並んだ書架群が目の前に広がっている。ここも書庫には変わりないが、地下二階に比べれば、収蔵内容も本棚も新しく、手入れも行き届いているように思う。その部屋を突っ切り、より古い扉をあけると、さらに下へ向かう階段がある。そこをさらに、一段一段下りて行く。すると、まるで水圧のように、雰囲気が重くのしかかる。自分の頭上にうずたかく存在している膨大な書籍が、この建物に流れ続けている長い時間が、そう感じさせるのかもしれない。
やがて香枝子の目の前に、板チョコにも似た大きな樫の扉が現れた。今度は、半ば錆ついたような鍵を選び、穴に差し込む。
ぎ、ぎぎぎ、ぎ。
ああ、いやだいやだ。
足もとにドアフックを置いて、なるべく密室を作らないようにする。入ってすぐの場所に取り付けられたスイッチをひねると、僅かばかりの照明がその空間をオレンジ色に照らしだした。
ここが問題の地下二階大型書庫。
いいや、書庫と言うより本の墓場のようなところである。
広い広い部屋の中に、びっしりと並んだ古い本棚。それも、地下一階のように理路整然と並んでいるわけじゃない。背中合わせだったり、そうじゃなかったり。
真上から見たら、すっかり迷路みたいに見えるんじゃないの、ここ。
本棚に沿って歩くと、その突きあたりに本棚があって、ああ行き止まりだと思って来た道を戻り、本棚と本棚の間にあいた隙間から隣の列に入ると、そこにもまた本棚の列があり…・。そんなことをしているうちに、すっかり出入り口がどこだったか分からなくなってしまう。誰も読まないような、古い本やら書棚やらを適当に詰め込みました、そしたら訳が分からなくなっちゃいました、という感じだ。
ぼんやりと上を見上げると、天井には、建物の補強のための梁が縦横無尽に張り巡らされているのが見えた。そこには、たくさんの蜘蛛の巣が出来ている。一体どこから入りこんだものか。あの巣の住人が首筋にでも入ったら…。いらぬ想像が、香枝子の足と頭をかき立てる。
地図地図地図…・と。ああ、あった。ええと、三〇年前の土鳥市南部は、これでしょう。歴史書は、確か地図の近くよね。二冊まで順調に見つかったことにホッとして、少し奥まった場所にある児童書用の書架を探しながら、慎重に歩く。幸いなことに、香枝子は方向音痴ではない。常に出口があった方向を確認しながら進んでいく。
そしてようやく、目当ての本の背表紙を見つけて、手に取った。
童話なんか、なにが面白いの。こんなの子供の読み物じゃないの。この本を借りに来た人物と直接会ったわけじゃないが、これほどまで古い童話を借りに来るのは、大抵は大人だ。
そんなことを考えながら、中身をぱらぱらとめくった、その時。
香枝子は突然、悲鳴を上げた。
*2*
どうやって潜んでいたものか、しっかりと閉じられていたはずの本のページの中から、何か大きなものが飛び出して来た。
カブトムシほどの大きさもある「それ」は、ページをめくっていた左手の親指にべったりと貼りつく。
「いやだ、なにっ!?」
とっさに右手でそれを振り払おうとしたが、残念ながら「それ」が取った行動は、香枝子の右手の動きよりもほんの少しばかり早かった。
大きな下あごに生えた鋭い牙が、ざっくりと親指に食い込んだのである。
一瞬間をおいて鋭い痛みが走り、香枝子はもう一度鋭い声を挙げて、持っていた本と一緒に「それ」を放り投げた。何が起こったのか分からないまま、左手を押さえて、その場にへたりこむ。
数十センチ先の床の上に、たった今放り投げたばかりの「それ」が、うぞうぞと蠢いているのが見えた。
息をのんでよくよく見ると、それはゲジゲジとワラジムシを足して2で割ったような、おぞましさ極まりない、節足動物であった。ゴキブリのような触角をちらつかせながら、まるで気味の悪い深海魚のように、ぼんやりとした青色に発光・点滅を繰り返している。
香枝子が呆然としているうちに、それはあっという間に近くの本棚の下へと潜り込み、やがて見えなくなった。
押さえていた片手をおそるおそる外すと、そこには2点のくっきりとした噛み跡があり、点の周囲には、まるで和紙にインクを染み込ませたかのように、青色の模様がにじんでいる。
刺された…どうしよう、刺された…。
ということは、これは毒?
「やだ、ちょっと…どうしよ…」
刺された個所は、ずくんずくんと、心臓の音に合わせて痛みが増していく。その恐怖に耐えきれなくなって、香枝子は慌てて本を抱え、地下書庫を出た。階段を速足で昇って、地下1階の書架を抜け、1階に戻る。慌てて、その場にいた同期の男性職員を捕まえ、自分の左手を見せながら状況を話した。静まり返っている館内では、それが充分に目立ったのだろう。周囲の利用者たちが、何事かとこちらに目を向けている。
「大きな毒虫がいたの。はやく捕まえないと…。」
しかし、息せき切っているこちらとは裏腹に、その反応は不可解なものであった。
「ちょっとまて、そんな傷、どこにあるんだよ。」
「は…?」
香枝子は一瞬、相手の言っていることが分からなかった。目立つ場所にあるその傷を、しかもわざわざ目の前で見せているのに、何故そんなことを言うのだろう。まさかふざけているのか?
「ほら、ここだったら。この緑色の二つの点よ。ふざけないで、本当に痛いんだから…。」
香枝子はその傷を、もう一度その職員に見せた。先ほどより青色が広がっている。すると、今度は相手の方が怪訝な顔でこちらを見た。
「ふざけてないってば。俺だって忙しいのに…。手、傷なんて何もないじゃないか。どうしたんだよ近藤らしくない」
そう言って、彼は再び自分の持ち場へと帰って行った。
痛む指を押さえたまま、またもや呆然としている香枝子の元に、今度は中年の女性職員が近寄って来る。香枝子はたったいま、男性職員に話したことを、そのままそっくり繰り返して説明する。
「ちょっと見せて、あら、何もないじゃないの。どこが痛いの?」
香枝子は何かしらぞっとして、その場を駈けだした。
貸し出しカウンターの奥にある事務室へと入り、救急箱を取り出して、とりあえず消毒を済ませる。その姿をみた同期の女子職員が、慌てて後を追ってきて、何かあった?と聞く。
「手、どうかしたの?怪我もしてないのに指の消毒なんかして…。」
香枝子は、黙って相手の目を覗き込んだ。何も、言い返すことができなかった。彼女の眼もまた、嘘をついてはいなかったから。
その日の終了間際、職員は全員、館長によって1階の事務室に収集された。利用者が多い時間帯であることも手伝って、その知らせは手早く、かつ的確に、皆に伝えられることとなった。近藤さんが地下で見たというその虫。他にも見かけた人がいた場合は、駆除業者に連絡するため、早めに報告すること。うかつに近づかないこと…。
しかし、皆、虫に関する嫌悪感や心配よりも、香枝子に対する妙な疑惑に取りつかれているのが見え見えであった。あんなこと言って、みんなに心配させたいのかしら。でも、近藤さんはそんな人じゃないのに…。うん、真面目だもんね。そのぶん、疲れてるんじゃないの。
香枝子は自分で消毒を済ませた後も、「青く光る虫」と「自分が負った傷」に関して、周囲に訴えた。何人かの上司、同僚、館長にまで。しかし、本当に誰ひとり、その話を信じてくれるものはいなかった。
閉館後、館長が神経質そうに苦笑いしながら近づいてきて、後片付けはもういいからさ、と言った。
「今日はもう帰ったら。いつも頑張ってくれているし、明日あたり、ちょっと休んでもいいしさ、どこか痛いんだったら、病院で診てもらえばいいよ…。」
気遣っている風でいて、遠まわしに、皆を騒がせたことを家で反省しろと言いたいのだろう。もう大丈夫です、と作り笑いをした後、お言葉に甘えてさっさと職場を後にした。
帰り道、黙々と自宅を目指す。
朝のうちにパンを買っておいて良かったと思う。どこかに寄る気なんて、サラサラ起きなかったから。病院が開いていたら診て貰おうかとも思ったけれど、それもやめた。一番近い外科まで、図書館から二十分ほどかかる。現在の時刻からして、きっと着くまでには閉まるだろう。
心の中に立ち込める、「もやもやとしたどす黒いもの」の正体について、香枝子は一心に考える。これは、周囲に対する怒りだろうか。それとも、自分の身に起こった異様な出来事への混乱だろうか。私は嘘なんかついてないのに、どうして、皆であんなことを言うの。誰にも見えないなんて、そんなことあるわけないのに。
そこで、小さなくしゃみを一つ。
相変わらず気温が低い。スプリングコートだけでは風邪をひきそうだと思って、あらかじめ持っていた薄桃色のストールを取り出して、首に巻いた。落ちないように押さえている左手が、刺された時ほどではないけれど、ずきずきと痛んだ。
翌日の朝、香枝子はまたも、時計が鳴る前に目を覚ました。何か奇妙な夢を見ていたかのような、目覚めの悪さであった。
何となくだるくて、頭が上がらない。気分を変えようと、布団の中で何度か伸びをする。もう少し横になっていたいという欲望と戦い抜いて、ようやく起き上がり、ベッドから出る。
いつも通りクローゼットを開けて、服を選ぶ。白いブラウスを取ろうとして左手を差し出した時、ようやく「目覚めの悪さ」の正体を知った。
傷口に出来た緑色が、より濃く、そして大きく広がっている。
「うあ…。」
不安と緊張で高鳴っている心臓を、ゆっくり呼吸することで落ち着かせる。
そうっと一階に下りて行って、カーテンを開けた。なるべくいつも通り、行動しようと心がける。ダイジョウブ、ダイジョウブ。
外は、昨日の天気予報通り、雨が降っている。ぽつりとも音がしない、細い細い雨…。
その時香枝子は、窓の外の、ずっと遠くの方で、猫の声を聞いた気がした。『猫鳴キ雨』、という言葉が頭に浮かぶ。猫が、静かに降る雨に向かって泣き声をあげると、離れた場所にいる別な猫のところまで、メッセージを運んでくれる。だから、『猫鳴キ雨』。
そんなことを思いながら、ぼんやりと部屋の中を見回した。
いつも通り、何も変わらない。そのことが、奇妙に香枝子を不安にさせた。香枝子だけが、自分が過ごしてきた日常から切り離された気がする。
ふらふらと立ちあがって、食事の準備にとりかかる。食パンがまだ残っていたから、レタスをひいて、フライパンで作ったスクランブルエッグを乗せて、ついでにケチャップもかけて…と、そこまでやって、手を止めた。無造作に、お皿の上に作ったパンを置く。
食欲がわかない。
そう言えば夕べも、あまり固形物を食べる気になれなくて、野菜スープを作って飲んだ。それも、カップで一杯は飲めなかった。困ったな、と香枝子は呟く。一昨日は休日だったために、久しぶりに買い物に出て、少し多めに食糧を買ってしまったのだ。
でも、しょうがないか…。
食事はやめにして、コーヒーを入れた。香りを嗅げば、少しは落ち着くかもしれない。
しかし、いれたてのコーヒーカップから立ち上ったのは、ただの蒸気に過ぎなかった。香りがない。
「…?」
豆を買ったのも、一昨日だ。お店で挽いて貰って、その場で袋に詰めた。悪くなるには早すぎる。しかし、一口飲んでみて、やっぱりやめた。何の味もない。不良品だったかしら…お店に行って取り替えて貰おうか。まったく、もう。
再度気を取り直して、身支度を始める。しかし顔色が悪く、化粧が乗らない。ブラウスにジーンズを履いて、肌寒いので薄いカーディガンを羽織る。昨日のまま、テーブルの上に置かれていたカバンの中身を確認して、レインブーツを履いて頭をあげると、軽く立ちくらみがした。
にゃあおうううううう。
香枝子は、その声にはっと立ち止まった。
図書館に向かう途中の、住宅街の道路。その真ん中で、数匹の野良猫が集まって輪になっていた。
ふるるるるるる…。
そのうちの一匹が、輪の中心に向かって威嚇の声をあげている。よく見ると、輪の中心には、小さな仔猫がうずくまっていた。子猫は、震えながら身を丸めている。白毛の、両目の上に眉毛のような丸い模様がある猫だ。
突然、輪の中の1匹が、俊敏な動きで仔猫の右耳あたりをがりっとひっかいた。来猫子がぴいと短く悲鳴を上げ、血が1滴、ぴっと飛んだ。
あ、可愛そう。
それに、道を開けて貰わないと私、先に進めない。
石でも投げようかと思ってあたりを見回したが、手ごろなものが見つからない。
すると、、近くの塀の上に、真っ黒いいびつな影が立った。
見上げると、それは野良猫たちよりも、ひときわ大きな黒猫であった。
その猫はひらり、と地面に降り立つと、悠然とした足取りで野良猫たちに近づいて行く。
ぐううわあああああううう。
その威嚇の表情はもう、野良猫なんか比較にならにくらい、凶悪だった。もう本当に、小型のトラと言った感じだ。人間がちょっとでもその黒猫をいじめようものなら、末代先まで祟られるんじゃないかと思うくらいだ。
猫たちは蜘蛛の子を散らすように逃げて行き、やがて怪我をした子猫と、その黒猫だけが残った。
子猫は困ったような顔で黒猫を見上げている。黒猫はその場に座り込み、目を細めて仔猫を見下ろしている。やれやれ、と言ったところだろうか。やがて耳の怪我をべロリ、と舐めてやると、その首筋を噛んで持ち上げる。
そして、ほんの一瞬、こちらを見た。
何だか射すくめられたような気がして思わず身構えたが、黒猫はすぐにこちらから目を離して、子猫を咥えたま、レンガ塀の向こうへと消えてしまった。香枝子は2匹が消えた方向をしばし見つめながら、随分似てない親子だとぼんやり思った。しかし、すぐに出勤時間を思い出し、急いで歩き始める。
一方、視界から消えたはずのその黒猫は、香枝子が少し先まで歩いたあたりで、再び塀の上に姿を現した。
しばしの間じっとその後ろ姿を見つめていたが、やがて塀を下り、子猫をぶら下げたまま、その後を追って歩き始めた。
職場に付くと、顔を合わせた職場の人間たちに、昨日はやっぱり疲れてたみたいです…とだけ打ち明けた。やっぱりね、まあそういうこともあるわね…などと言いながら、テキパキと準備をこなしている。
香枝子もまた、周囲と同じように事務作業や開館準備をこなしていく。自分の目には、昨日よりも、そして今朝よりもひどくなっている緑色の染みがはっきりと見えているけれど、誰もその傷口に目を留めない。例の地下の虫の話も、会話には上らない。みな、朝の全体会議も、諸々の打ち合わせも無事に終わらせて、いつもの持ち場へ散っていく。
香枝子は、朝一番で蔵書整理を行っている。返却された図書をカートの中へ積み込み、館内を押して歩く。そうして一冊一冊、もとの場所へ返していくのだ。最初に手に取ったのは、外国の古い推理小説だった。比較的有名なタイトルのもので、貸し出し回数も多い。
「あら…」
香枝子は、その本のある異変に気づいて、鼻を近づけて嗅いでみた。鼻を鳴らすのははしたないけれども、しかたがない。
「なによこれ。」
その本のページをぱらぱらとめくってみる。何の変化もない。
「どうして、本からコーヒーの香りがするの?」
そう、それはまさしく、今朝飲もうとして飲めなかった、あの入れたてのコーヒーの香りだった。訳が分からなくて、香枝子は近くにいた同僚を捕まえた。
「これ、どういうことだと思う?誰かのいたずらかしら。」
前に、利用者が自宅で香水の瓶をこぼし、バラの香りがついたまま書籍が返却された…ということはあった。しかし、入れたてコーヒーの匂いとはどうやって付けるのだろう。しかし、同僚からの反応は、昨日、虫に刺された時と、似たようなものであった。
「この本のどこからコーヒーの匂いがするの?古本の匂いがするだけだけど…?」
それだけ言って、同僚は受け付けの奥へと消えてしまう。香枝子は籠の中にあった、他の本を取り出してみた。
紀行文と、専門書、それから写真集。どれも、紙の匂いしかしない。何だったのかしら…。
その時、ふと視線を感じて、香枝子は後ろを振り返る。利用者たちは、誰もこちらを見ていない。気を取り直して再び作業に戻ろうとした瞬間、今度は香枝子の方が、その方向を凝視する羽目になってしまった。
一般利用者用の、ソファのはじっこ。
その人物は、黙々と何かを読んでいるけれども、明らかに普通の職業についている人間ではなかった。
背が高く、痩せ型で、こちらに横顔を向けるようにして座っている男。鼻の高い、顎のとがったシャープな顔つき。顔のラインにフィットするようにカーブしたサングラスをかけ、頭をすっかりスキンヘッドにそり上げている。
香枝子は、目が合う前にぱっと顔をそむけた。
あれはどうみても、「恐い仕事をしている人」に違いない。
それでも、どうしても気になって、もう一度振り返る。本人は意に介していないようだが、周囲の利用者たちは、ちらちらと彼のことを覗き見ているようである。それも、当然だ。静かに、黙々と本のページをめくり続けるヤクザなんて、あまりにミスマッチだ。誰か、男性職員に話した方がいいだろうか?
いいや、ちょっと待って…それっぽい恰好をしているだけで、もしかしたらヤクザじゃないかも?何も問題が起きていないのに、騒ぐのも変な話だし。
心の中でそう呟いて、とりあえず現状維持のまま、その場を後にした。
昼の休憩時間、香枝子は喫茶店の片隅で、注文したサンドウィッチを眺めながら、ぼんやりしていた。相変わらず食欲がなく、表面が乾燥していくのを見つめている。このままじゃ、だめよ。司書は食べなくても持つほど、楽な仕事じゃないもの。本を運ぶのは重いし、机にばかり座っているわけでもないし。
ため息をついて、パンと一緒に買ったオレンジジュースを一口飲んだ。
あれ、味がしない。
もう一度、自分が飲んでいるものを見る。フレッシュで、甘酸っぱそうなイエロー。まちがっても、それは絵具ではないはずだが、香枝子の舌には、まるでインクをとかした水のような味に感じる。腐っている味ではないが、明らかに客に出すものではない。しかし、同じものを頼んだ他の客見回してみても、誰もまずいでもなく、美味しいでもなく、いたって普通に飲んでいる。おかしいと思っているのは、どうやら香枝子だけのようだった。慌てて、サンドウィッチもかじってみる。本来なら柔らかいはずのパンも、新鮮なトマトも、まるで紙粘土か、ぬいぐるみの中身のようにしか感じられない。かといって、吐き出すわけにもいかないので、水だけ貰ってきて、流し込んだ。水だけは、普通に飲むことができた。
そうして、なかなか止みそうにない窓の外の雨を見ながら、休憩時間が終わるまでずっと、頭を抱えていた。
午後、今度は異様なまでの食欲に襲われた。
朝も昼も抜くことは普段ほとんどないので、その反動かとも思ったけれど、どうも今の自分の体は普通の状態とは違うような気がする。
それは、利用者が持ってきた小説を受け取って、中身を確認しようとパラパラとページをめくったときのことだった。
またもや、午前中と同じ現象に襲われたのだ。
なに、この匂い?スープ?
それは、伝記だった。外国で、戦火に引きされた実在する兄弟の伝記。
どうしてその本から、スープの匂いがするのよぅ。
と たんに、頭がぼうっとなった。
一口でいいから、食べたい。ぱりぱりとちぎって、口に入れて噛んだら、どうだろう。口の中にじゅっとスープの味がするだろう。最初のうちは噛めないけれど、なめているうちにだんだん柔らかくなってきて、やがて繊維がほどけて、トロトロになって…・そうなったら、空腹も満たされるかしら。
「ちょっと、ちょっと近藤さん何やってんの。」
後ろからそう叫ばれて、ハッと顔をあげた。背後に、女性の上司が立っている。香枝子は左手でその本のページを抑え、右手でページの上部を摘まんで、今まさに引きちぎろうとしていたところであった。その本を持ってきた利用者がぽかんとして香枝子をみている。
「どうして突然、本を破ろうとするの?何のつもり?ほら、もういいから変わって。」
彼女はそう言って香枝子を立たせると、変わりに受付の席に付いた。どうしたらいいのかわからなくなって、周囲からの目線から逃げるように、奥の事務机に座りこむ。
私、今、何をしようとした?
顔からうっすらと血の気が引いていくように感じた。
どのくらいそうしていたのか分からないが、先ほど受付作業を交代した先輩がやって来て、いろいろと小声でまくしたてている。しかし、その内容のほとんどが入ってこなかった。何が起こったのか変わらない。
すっかり体を硬直させていたところへ誰かがやってきて、香枝子の名前を呼んだ。ゆっくりと顔をあげると、彼女よりも若い男性職員が一人、立っていた。とても困惑したような表情をして、自分の背後に向かって指差しながら、告げた。
「あの男性が近藤さんと二人で話したいって…。」
香枝子は、座ったまま男性職員の後ろを覗き込む。
そこには、先ほどのスキンヘッドの男性が、こちらを見ながらじっと佇んでいた。
静かな、昼下がり。
朝から降りやまない小雨のせいで、喫茶室のテラスは肌寒い。備え付けられている小庭に咲いたチューリップが、細かな滴にさらされて、痛々しかった。テーブルは全部で5~6台あるのだが、座っているのは香枝子たちだけ。なるべく人気のないところで話しがしたい、というのが、その男の要望だった。
黒い。
それが、その男に対する香枝子の率直な感想だ。
黒のネクタイに、白いワイシャツ、白いベスト。その上に上下の黒いスーツを着込み、さらに真っ黒いレインコートを羽織っている。傍らの空いた椅子の上には、皮のトランクと黒の中折れ帽。男は背が高いだけではなく、姿勢も良いため、平均よりも身長が低い香枝子は、向かい合って座ると、頭一個分くらい見下ろされているように感じてしまう。意思の強そうな眉毛の間に、くっきりと入った二本の縦皺。サングラスの奥の鋭い三白眼は、こちらをじっと観察している。
怖い。一体、香枝子に何の用だろう。借金を作った覚えはないのだが。
「どうも…。お仕事中に申し訳ありません。」
男はまずそう言いながら、軽く頭を下げた。低い、ドスの利いた声である。香枝子もまた、いいえそんな…と頭を下げる。
「私は、こういうものです。」
そう言いながら、男は無駄のない動作で懐からカードケースを取り出し、中身を一枚だけ引き抜いた。薄い水色の名刺。男はそれを、長い指でテーブルの上を滑らせるようにして、香枝子の前に差し出した。 『篠澤製薬・売薬担当 篠澤 青』。ただ、それだけが印字してある。製薬会社の売薬担当?ということは、この人物は薬売りなのだろうか?
カードを裏返して見たけれど、会社の住所や連絡先、個人情報など、一切書かれていない。この名刺、一体何の役に立つんだろう。ただ、裏面の中央には小さく円が描かれており、その中に斜めの線が三本入っている。会社のマークだろうか?
「お名前は・・せい、さん?」
香枝子が呟くように尋ねると、『あお』と読みます、と男が答えた。あお。変わった名前だ。
「篠澤と呼んでいただいて結構。裏にあるのはわが社のマークです。猫が何かを引っかいた時に出来る傷を図案化したもんです。」
猫ォ?製薬会社のマークが、何故「猫」なの?
「あの、失礼ですが、本当に製薬会社の方なんですか?」
彼は表情を変えないまま、はい、と答えた。
「そうは見えん、と言いたいんでしょうね」
男…篠澤氏が訊く。はい、見えません。それが香枝子の内心であるが、口が裂けても言えない。篠澤氏はこちらの考えを察したのか、黙って頷いた。
「別に構いません、いつものことです。」
一瞬の沈黙が流れ、テラスの軒先で雨宿りしている小鳥の声が耳に入ってくる。篠澤氏は、じっとしたまま動かない。
「あの、製薬会社の方が、私に何の用でしょうか。」
沈黙に耐えられなくなった香枝子が、先に訊いた。
「午前中、ずっとソファで本を読んでらっしゃるのを、お見かけしましたけれど…。」
彼はサングラスの向こうで僅かに目を閉じる。
「拷問の心理学、という本を読んでいました。」
「ごっ」
「『拷問の心理学』です。仕事上、とても役に立ちます。」
香枝子が口をパクパクさせていると、篠澤氏はニコリともせずに、冗談ですよ…と言った。
冗談?これほどまで冗談と程遠い人間もいないはずだが、本人にはその自覚がないのだろうか。
こちらのそんな考えを知ってか知らずか、篠澤氏は唐突に言った。
「実は、その傷のことです。その、左手のね。」
香枝子はハッとして傷を押さえた。
「あなた、見えるんですか?」
まあ…、と篠澤氏がうなずく。
「朝、この図書館の近くで、私はあなたとすれ違ったんですがね。お気づきでしたか。」
すれ違った?この人物と?香枝子は一生懸命思い出そうとしたが、どうにも分からなかった…というより、そもそも誰かとすれ違った記憶がない。朝、図書館の周りに人は少ないのだ。困惑した表情で首をかしげると、構いませんよと言われた。
「大した問題ではないんでね。とにかく、私はその時に、あなたの左手に気付きました。それで慌てて後を追って、この図書館に入ったわけです。そして午前中いっぱい、本を読みつつ、あなたの様子を観察させてもらいました。それに関して、悪く思わんで頂きたい。」
それでは、香枝子が仕事中に感じたあの一瞬の視線は、この人物のものだったのだろうか?しかし、思い返しても、この男はただ黙々とページをめくっていたように思うだけど。
「まずは、その緑色の染みですが。それはセジンと言う名の、ある特殊な毒です。」
セジン?
「セジンに侵されると、次第に奇妙な症状に悩むことになる。その証拠に、あなたは随分と妙な行動を取っていたようでしたね。それに関してはご自分でも気付いたはずだ。」
そうずばり言われてしまうと、何だか気恥かしい思いに駆られてしまうが、確かにその通りである。
「ちなみに、その傷口も毒も、基本的には普通の人間には見えません。それはセジンが持つ、大きな特徴の一つです。そのことで、あなたも困惑されたかと。」
「そ、そうです。」
香枝子はちょっとだけコップの水を舐め、そう答えた。声が震えている。
「誰に訴えても、そんな傷はないって。皆見えないっていうんです。」
篠澤氏は納得したようにうなずいた。やはり表情は変わらない。
「あ、でも、どうして…。それならどうして、篠澤さんには見えるんですか。」
血筋です、と彼は答えた。
「我々篠澤一族は唯一、セジンを肉眼で見ることができる家系でね。そのせいで代々、製薬業者として、セジンに効く薬を取り扱っているわけです。」
「じゃあ、このトランクの中には、そのセジンに効く薬が、入っているんですか。それを私に売って下さると…そういうお話ですか?」
「違います。」
即答されて、香枝子は思わず、首の力が抜けそうになる。
「抗セジン薬は、患者によって材料が僅かに違います。したがって、患者に合わせて毎回薬草を調合するんです。その道具やら材料やらが入っています。」
篠澤氏は淡々と、そう説明する。
「そうなんですか?私は、虫に刺されたんです。虫刺され薬やマムシに効く薬のように、ある特定の解毒剤を塗れば治るんじゃないんですか?」
「それも違います。本来、セジンは虫の毒ではありませんから。」
「え、でも…。」
「順を追って、説明します。ところで、あなたのお名前は…」
「あ、ごめんなさい。近藤です。近藤、香枝子」
「いいですか、お嬢さん。人間が持つあらゆる感情や欲望…そういったものは、我々の吸っているこの空気の中に、常に漂っています。マイナスエネルギーのようなもの…と思っていただいても結構ですがね。」
「は…?」
「ちなみに、それらが大気に漂っているうちは、ほとんど害はありません。しかし何らかの要因によって、自然界に存在する植物・動物・虫・鉱物などに、高濃度で蓄積させることがあります。その蓄積量が、ある一定レベルを越えると、毒性を持つ物質となります。それがセジンです。」
真面目な顔でもっともらしいことを語っているけれども、何となく、非科学的である。
だんだんと、自分の眉間にも皺が出来て来たような気がしてならない。
「セジンを持つようになった存在のことを、我々は宿主と呼んでいます。セジンはまず、その宿主の体や習性をどんどん変化させ、人を襲わせる。つまりあなたは、『セジンの宿主である、何らかの昆虫に噛まれた』、ということです。」
篠澤氏は、サングラスの奥から、じっとこちらを見つめ返した。香枝子が話しについていけているのか、観察しているのかもしれない。
「そこで、どのような薬を処方すればよいのか…という話です。まず我々売薬人は、あなたにどのような症状が出ているのかを調べます。次に、その情報を、薬の調合を担当する者に伝える。担当者は過去の治療記録と照らし合わせて、宿主の正体が何であったのか、薬草をどう調合するのがよいのかを判断して、処方箋を作ります。」
香枝子は、首を僅かに傾けながら、水を飲んだ。
「その処方箋は、再び我々の元に送られてきます。そこに書いてある指示に従って薬をつくり、患者に処方する。これが、主な治療内容です。」
氏はそこでまた、目をつぶった。次はどう切り出そうか、といった表情だ。
「宿主の正体は、すぐ分かる場合もあれば、判断が難しい場合があります。しかしながら、今回に限って、宿主が生息していたのが図書館の地下だということから、おそらく紙魚でしょう。」
「紙魚ぃ?」
香枝子は怪訝な声で答えた。
「だってこんなに大きかったんですよ。」
そう言って、彼女は人差し指を親指の間を5㎝ほど開けた。
「私見たことありますけど、紙魚ってほんの数ミリじゃありませんか?」
篠澤氏は、ですから…と話しを継いだ。
「本来の姿ではないのです。」
納得がいかない。篠澤氏の話しは筋が通っているようにも思うけれど、あまりに空想めいている。虫が突然大型に変化するなんてありえないじゃない?
「本来、書物…とくに図書館にあるものや古書などには、マイナスエネルギーが溜まりやすいもんです。大勢の人間が、一冊の本を読んで、それぞれ違う感情を抱くわけですから。それが、何千、何万冊とあるわけでしょう、ここには。そんな世界で生きている昆虫が、セジンの宿主にならないとは言いきれない。」
まあ、それはさておき…、と篠澤氏はここで話を区切る。
「あなたの治療をどうするか、ということです。本来なら私が行うのが手っ取り早い。」
香枝子はその言葉に、ぎょっとした。この人物とこうして1対1で話しているのも緊張するのに、治療だなどと…。第一、本当に信用してよいのだろうか。
篠澤氏はもう一度眼を閉じ、顔をちょっとだけ傾けながら、喉の奥でごろごろと唸った。香枝子はぎょっとしてその音を聞いている。その音はどうやって出すのだろう。
「ふん、無理だな。」
氏はそう呟くと、改めて宣言する。
「今夜は先約があるので、私はそちらの治療に行きます。帰るまで、2,3日かかります。それからここへ戻ってきたのでは、あなたの病気は手遅れになるでしょうから…」
「てっ、手遅れっ?」
それは喫茶室の中にまで聞こえるくらい、素っ頓狂な声であった。
「たった2~3日で、手遅れになるんですか?」
「毒が体内を駆け回るのは早いもんです。蛇毒や虫の毒に比べたら、セジンの歩みは遅いくらいです。」
篠澤氏はもう一度、喉の奥で唸ったあと、はたと何かを思いついたようだった。
「そうだ、取引しませんか。」
と…。
「取引ですか。」
「悪い話じゃありませんよ。」
そう言って、篠澤氏は口の端をほんの少し釣りあげた。
もしかして、笑ったつもりか。何だか、雰囲気がにわかに怪しくなってきたように思う。いや、最初から尋常ではないのだが。
「私の代わりに、弟子を置いて行きましょう。大丈夫、常日頃からみっちりと…」
その時、篠澤氏の数メートル後ろに設けられた喫茶室のドアが、突然開いて、何か小さなものが飛び出してきた。それは、勢いよくこちらに駆けよってきて、いきなり篠澤氏の背中に飛び付いた。
「お師匠さまのばかー。」
香枝子はぽかんとしてその様子を見つめている。篠澤氏はその背後にいるものの腕を掴んで引きずり出した。
それは、くせの強い真っ黒な髪の、小柄な男の子だった。丸顔で下膨れの頬は、ほんのりピンク色をしている。まつ毛の短い、大きい眼が、ぱちぱちと瞬きしていた。椅子に座っている篠澤氏よりも、頭1.5個分は小さいだろうか。カーキ色のズボンに、ひざ下まである黒のブーツ、白いワイシャツの上に、水色のパーカー。大きな白いショルダーバックを持っている。
篠澤氏は無表情のまま、傍らに立つその少年を睨みつけ、大きな手のひらで丸い頬をがっと挟んだ。
「誰が馬鹿なんだ?」
底冷えするような声色である。子供なら縮み上がるところだろうに、その少年は怖じけることなく、だって、と抗議している。
「だって、何だ。言ってみろ。」
「ひがついたら、いないんらもん…。」
気が付いたらいないんだもん、と言ったのだ…おそらく。
「何にも言わないままいなくなったらやだよって言っれるのに」
またもや、氏は口の中で小さく唸る。
「悪かったな。夢中になって本を読んでいたからな。声をかけなかっただけだ」
目の端でちらっと香枝子の方を見ると、このお嬢さんは新しい患者さんだ、と言った。
「なんか言うことあるだろうが…」
少年は、頬っぺたを押さえられたまま、ぺこっと頭を下げた。
「ほんにひわ」
香枝子は思わずこんにちは、と頭を下げた。
そこでようやく、篠澤氏は少年の頬から手を離し、香枝子に向き直った。
「弟子の冬哉です。」
香枝子のぽかん、はまだ続いている。
だって、さっき、私の病気の治療をするって言ったではないか。
だとしたら、弟子と言うのは大人でなくてはいけないじゃないか。
篠澤氏は、またもやこちらの心の内を察したらしく、大丈夫ですとも、と答えた。
「こいつにはみっちり仕込んでありますから。」
「仕込むってなにを?」
「もちろん、セジンの治療方法ですよ。」
少年は、赤くなった頬を両手でさすりながら、何の話?と聞いた。篠澤氏はちょっとだけ目を瞑ってから、部下に大きな使命を与えるボス見たいな話し方で、少年に向かって言い聞かせた。
「お前をこのお嬢さんの元に置いて行く…泣くなっ!三日したら迎えに来る。お前はその間に、このお嬢さんをきちんと治療するんだ。わかったな」
少年と香枝子は、同時にえええ、という声を出した。
「そのかわりと言っては何ですがね。」
篠澤氏は、再び香枝子に向きなおって、口元を釣り上げて見せる。
「治療費は一切頂きません。どうですか、いいお話でしょう。」
夕方、仕事が終わったあと、児童書コーナーに座りこんでいた冬哉を連れて、香枝子はひとまず図書館を出た。商店街を抜けて、低いレンガ塀が並ぶ一本道を、二人で並んで歩く。塀の中には、各家庭の生活の様子がうかがえる。
「ねえ、香枝子さんちってどこ。」
「歩いて20分くらいかな。言っとくけど、狭いわよ。」
食事はどうしようかとも思ったけれど、買い置きのものは色々と残っている。香枝子は相変わらず食欲がわかない。腐らせるよりは食べて貰った方がいいかもしれない。
「僕はね、どんなに狭くても、平気なんだ。小さいからさ。」
ぴったり並んで歩いている冬哉が、そんなことを言う。
「ねえ、君、いくつ?」
「十歳。」
「ええ?ほんとうに?」
本人が言うように、ちょっとばかり身長が足りない気がする。
「篠澤さんの口ぶりだと、あなた、ずっとあの人の仕事を手伝っているように聞こえたけど、学校はどうしたの?今日は平日でしょう?春休みは終わっているし…」
「来週からずっと、流行り風邪で学級閉鎖。明日は開校記念日で、明後日は振り替え休日で、その次は週末で、それから…。」
冬哉はしれっとした顔で、そんなことを言う。香枝子は両手を振りながら、ああ、もういいわ…と遮った。
「篠澤製薬って、一族で経営しているんでしょう。家や会社はどこにあるの?」
「遠いところ。あとはヒミツ。」
それだけ言うと、あとはどんなに聞き出そうとしても、少年は頑として喋らない。
香枝子は、ふう、とため息を漏らした。本当に、こんな子供に病気の治療が出来るのだろうか。
「ねえ、もうちょっと聞いてもいい?できれば、答えてくれると嬉しいんだけど。」
冬哉は返事をする代わりに、背負っていたショルダーバックから、飴玉を一つ取り出して口に入れた。
「篠澤青さん…のことを、お師匠様って言ってたけど、冬哉くんのお父さん…じゃないんでしょう?」
冬哉は、うん…と小さくうなずきながら、香枝子を追い越した。
「じゃあ、ご両親は別にいるのね?君がこうして出歩いていることを、何と思っているの?心配してないの?」
その時、冬哉の表情がちょっとだけ陰った。
背後に続いている塀の上から、桜の木突きだしている。すでにつぼみが大きくなっているから、開花まであと少しだろう。
「知らないもん。」
少年はぼそっと答えた。
「知らないってどういうこと?」
冬哉は何か言おうとしてちょっとだけ口を開けたが、またすぐに閉じた。そのうち、ぱちぱちと瞬きしながら、俯いてしまった。
ふわふわした黒髪が、夕暮れの風で揺れている。
香枝子は、はっとして言った。
「うん、ごめんね。もう聞かないよ。この質問はもう終わりね。ほら、行こう。」
香枝子は少年の手を取って、再び歩きはじめる。温かくて小さい。
その時、一瞬だけ、少年の右耳の、裏側あたりが目に入った。細く、鋭い引っかき傷が3本入っている。
「その傷、どうしたの?」
すると、冬哉は耳をさすりながら答えた。
「これ?と野良猫にやられたんだ。」
野良猫にやられた?
なでようとして手を出して、指を引っかかれるなら分かるけれど、耳の裏を傷つけるなんてどういうことかしら。
いててて、と呟きながら傷をいじっている冬哉に向かって、触っちゃ駄目よ、と言った。
「猫に引っかかれたなら、ちゃんと消毒しなきゃ。野良猫ってばい菌いっぱい持ってるんだから。」
「ええ、消毒嫌いだよ、痛いもん。」
そう答えた冬哉の表情には、ほんの少し明るさが戻ったようだった。
「痛くてもだめ。化膿するじゃないの。ねえ、じゃあ、質問を返るわね。」
「聞きたがりだなあ。」
だって分からないことが多すぎるんだもの、と香枝子は心の中で愚痴を言う。
「私の病気のことだけれど、もし、このまま治療せずに放っておいたら、どうなるの。」
それは、ずっと不安に思っていたことだ。もし、このまま症状が進んで、物が食べられなくて、本にばかりよだれを垂らすようになってしまったら…。考えただけでも、ぞっとする。
いや、ちょっとまって。
そんなに悩むことないんじゃない?もっと、考え方を変えてみたらどうかしら。
そもそも、人間は何でも食べるのだから、本を食べたって、何もおかしいことはないのかもしれないじゃない。
もし、消化が悪いんだったら、煮込めばいいじゃない。煮込んでドロドロにして、雑炊みたいにして…。
胃のあたりが、奇妙な音を立てたのを聞いて、冬哉はどうしたの、と言った。
「目が泳いでる。」
香枝子はハッとして、少年の顔を見下ろした。大きな眼で、じっとこちらの表情を観察している。
「何を考えてる?」
「何でもないの、ちょっと…。」
「普通じゃないことを考えていたね。セジン特有の症状なんだ。普段は絶対に考えるはずのないことを、ぐるぐると考え続ける。いまのまま放っておくと、どんどん人間から離れていくよ。それは死ぬより怖いことだって、お師匠さまが言ってた。」
冬哉の背後にある塀からは、桜の枝が伸び、膨らんだつぼみをつけている。その先端から、雨粒が滴り落ちる。
冬哉の目は、ふざけていない。
「人間から、離れていく?」
香枝子は苦笑いしながら答えた。意味が分からない。
「廃人になるっていう意味?それとも、頭が狂ってしまうの。」
ちがうちがう、といいながら、冬哉は頭を振った。髪の毛が揺れる。
「お師匠さまは急いでいたから、全部を話して行かなかったけど、一番大事なことが残ってる。」
いつの間にか雲が切れて、香枝子の背後から僅かに西日が差している。オレンジ色の光が冬哉の顔を明るくした。
「お師匠さまに聞いたろ。『宿主は、どんどん姿が変化して、人を襲うようになる』って。僕はもう何度も人を襲うようになった生き物や植物を見てきたけど、みんな化け物みたいな姿になるんだよ。セジンに侵された人間もね、放っておくと、宿主と同じ姿、同じ習性をもつようになるんだ。つまり…」
冬哉葉はそこで、一呼吸置く。
「このままだと、香枝子さんも、恐ろしい姿になるよ」
「んもう、人をからかって…。まったく、馬鹿馬鹿しいんだから。化物なんかいるわけないでしょう。」
そう言いながら、香枝子はまな板の上に食パンを四枚並べる。
「からかってないもんっ。本当なんだよ。化物になったら、自分のことも忘れちゃうんだよ。」
香枝子は手を止めて、いいかげんにして、と言った。
「私はそういう話は信じないの。」
冬哉は右へ左へ、うろちょろと周りを移動しながら、ねえ、僕も手伝うよ…と言った。
「じゃあ、戸棚からお皿出して、テーブルに置いて。」
冬哉が戸棚を見つけて探り当て、丁度いいお皿を探して引っ張り出している間に、パンの上にちぎったレタスを乗せる。さらに、ハム、ソースを塗った白身魚のフライを重ねて、もう一枚の食パンで挟む。簡素だが、パンに大きさがあるために、子供には充分だろう。ついでに、ミルクを沸かして添える。
見ると、ラジオを移動させ、二人分のお皿を出し終えた冬哉が、本棚をじっと見つめていた。
「ほら、手を洗って。座って…。」
そう言うと、香枝子はとたんに、と懐かしい気分になった。彼女には、実家に歳の離れた弟がいる。家にいたころはこうして夕飯を作ったりもしたけれど…。
「さあ、ほら、食べましょう。」
香枝子は、椅子に座った冬哉を見ながら、自分も椅子に座って、手を合わせる。
「いただきまあす」
冬哉も、勢いよく手を合わせると、リズムよく頬張り始めた。
「おいひい。」
「そう?ならいいけど…。」
香枝子は一口かじって、その場に置く。相変わらずの味だ。食欲のままにパンにかじりついている子供の顔が羨ましい。
「かえこはん、ろうして、たべらいの?」
頭の中で、どうして食べないの?と変換してから、美味しくないの、と答えた。
「何を食べても…紙粘土を食べているような味がするの。」
ミルクを啜りながら、冬哉はふううん、と唸った。
「それは食欲がないから、そんな気がするだけ?それとも本当にそんな味に感じるの?」
「本当にそんな味に感じるの。」
頬づえをつきながら、香枝子はため息をついた。自分のお皿を冬哉のほうに押しやると、良かったら食べて、と言う。
「ありがとう、でもお腹いっぱいだから。」
「たくさん食べないと身長伸びないよ。」
「そんなことないもん。もう少ししたら、すら~っとなるんだから。」
少年はそう言って、パンのかけらを口に放り込んだ。美味そうに喉を鳴らして牛乳を飲んでいる。
「冬哉くん、私を治療してくれるって言ってたけど、本当に出来るの?」
マグカップを置いた冬哉は、待っていましたとばかりに、小さい胸をぐっと反らせた。
「僕がまず、香枝子さんから詳しい症状を聞くでしょ。それをしっかり覚えておいて、仲間に伝えるんでしょ。そうすると、担当の人が、僕の話しに従って、香枝子さんに合う薬の作り方を教えてくれるから、その処方箋を元に、僕が薬を…。」
「ちょっと、ちょっと待って。ごめんね、その話はもう、あなたのお師匠さまから聞いたの。でもね、あなたのお仲間って、どこにいるの?どうやって伝えるの?」
冬哉はけろりとした顔で答える。
「それは、ヒミツ。えっと、き、ぎき…。」
「企業秘密?」
「そう、それ。」
ヒミツが随分多いのね、本当に本当に、大丈夫かしら…。
「もう一度聞くけど、あなたが薬を作るのね?」
「そうだよ。」
僕にだってできるもん、と冬哉は小さな胸を精いっぱいそらして見せた。少年が胸を張れば張るほど、こちらの不安が募るのか気のせいか。
「ま、とにかく香枝子さんの症状を僕に話して。なるべく細かく。」
「ううん…そうねぇ。」
香枝子はしぶしぶ、地下で虫に刺されたところから始まって、その虫の大きさ、痛み、皆には傷が見えなかったこと、誰もその話を信じてくれなかったこと…までを話して聞かせた。
「それで終わり?もっとない?」
「ここから先は、ちょっと言いにくくって…。」
「だめだめ、笑わないから、教えて。」
「本当に笑わないわね。」
「わ、ら、わ、な、い、よ。」
香枝子はおずおずと、自分が抱えている妙な食欲ことについて話して聞かせた。図書館で、本からコーヒーの匂いがしたこと、ページをちぎりそうになったこと。それ以来、どうしても本が食べたくてしょうがないこと。
「へーぇ。変なの」
好奇心丸出しで、こちらの顔を見つめかえす冬哉の目を、香枝子はぐっと睨んだ。
「あ、ごめん。本って、食べられるのかな。羊は食べるよね。」
「ヤギでしょ、ヤギ。」
「ぷふふふふ。香枝子さん、めぇって言って。」
「…。」
香枝子はおもむろに立ちあがあると、近くにあった救急箱から消毒液を取り出してきた。
「わっ。」
冬哉があわててフードをかぶろうとするのを無理やり後ろから押さえつけて、耳の裏に出来た傷に、消毒液をこれでもかというくらい、すりこんでやった。
「わああああ。びりびりするよう、馬鹿あ。」
「治療してあげたのに馬鹿ってなによ。笑わないって言ったじゃない」
「だって変なんだもん。本なんか食べたって不味いよ。お腹壊すよ。」
「だから、困ってるんじゃないの。」
すると冬哉は、あっと何かを思い出したような声を出した。そして、玄関近くに置きっぱなしになっていたショルダーバックを持ってきて、ごそごそと何かをあさっている。
「そのバッグって何が入ってるの?」
冬哉はこちらを見ないまま返事をする。
「着替えとか、お菓子とか。あとは…あ、あった。」
そう言って、ティーパックのようなものを取り出し、テーブルに座っていた香枝子の元へ持ってきた。
「なによこれ。」
「おくすり。」
香枝子は怪しげな視線を、その包みに向けて送る。
「何のくすりよ。」
「セジンの症状を遅らせる薬。」
包みのはじっこを摘まんで降ると、ごそごそと妙な音がした。
「これ、何が入ってるのよ。」
「ええっと…。」
「…。」
「ドングリの皮と、トリカブトと、ぬばたまの花びらと、それから…。」
香枝子は冬哉の小さい手の平にその薬を乗せて返すと、御遠慮しときます、と言った。
「え~?」
「そんな不満げな声出されたって、飲めないわよ。」
「だってさあ。」
冬哉が眉毛を八の字にして説得する。
「これを飲めば、少しだけど調子が戻るし、症状が進みにくくなるよ…」
「そう言われてもねえ…」
入っているものが、この少年の言うとおりであったなら、ちょっと飲むのがためらわれる。ドングリの中身を食べるのは知っているけど、外側に薬効があるなんて聞いたことがない。もちろん、香枝子は薬学に詳しいわけではないけれども…その上、猛毒のトリカブトに、なんて言ったかしら…。
「ねえ、ぬばたまっていう植物、私聞いたことないけど」
「まっ黒い花を咲かせるから、ぬばたまの花っていうんだ。セジンの薬を作るには、必ず使うんだよ。」
「ふうううん…。」
ぬばたま、ってたしか、女性の黒髪のことだったかしら…。香枝子が想像を膨らませている間に、冬哉は水道でコップを洗って水を汲んで持ってきて、薬と一緒にと突き付けた。
「ささ、ぐいーっと。」
「結構ですってば。」
コップと薬を押し戻しながら、抵抗する。
「んもう、香枝子さんはわからず屋さんだなっ」
「分からず屋さんで結構です。」
そう言ってぷいっとそっぽを向む。冬哉は諦めて、コップと薬をテーブルに置き、ぷっと頬を膨らませた。
「香枝子さんはどうしたいの。治りたくないわけ?ずるいよ。」
「何がずるいのよ。」
今度は香枝子が不満げな声を出す番だ。ずるいことなんて何もしてない。
「だって僕の話は全然信じてくれないもん。自分の話は皆に信じて貰えなくて困ってたくせにさ。」
「私は自分の症状を受け入れて貰えないことに関する、医学的な話。君のは毒物が人間を怪物にするっていう空想のお話。」
「だから、空想じゃないんだったら!」
その後、しばらくそんなやり取りを繰り返したために、お互いすっかり疲れてしまった。一時休戦ということにして、冬哉はベッドに、香枝子はソファに寝ることにする。
「香枝子さんが病気なんだから、香枝子さんがちゃんとお布団で寝ればいいのにー。」
寝室まで冬哉を連れて行った時、少年はそんな大人びたことを言った。ふん、生意気言うじゃないの。
「いいの、熱があるわけじゃなし。子供を床に寝かせて大人がベッドに寝るわけにはいかないの。」
冬哉は重そうに瞼を動かしながら、難しい本ばっかりある…と呟いた。
「え、何?」
「本棚…。お話とかないんだね?」
香枝子は、ああ、といいながら自分の書棚を眺めた。
「そうね、読まないから。きみは好きでしょう?お話とか。今日はずっと児童書コーナーにいたわね。」
「うん、お師匠さまがたくさん読むから、僕も読む。」
「ああ、やっぱりあの人って読書家なんだ…。」
香枝子は、あの危険な雰囲気が漂う男性の、本を読んでいるところを思いだした。正直全然似合っていなかった。
「ねえ、あのね。読みたかった本を夢中になって読む時の感覚って、お腹が空いた時に、一生懸命ご飯を食べている時と似た感じがするんだって。」
「なあに、それ。」
香枝子は思わず首を捻る。良く分からない。
「脳に本の内容が満たされる気持ち良さと、胃が食べもので満たされる満足感?が近いって言ってた気がするなー…」
冬哉の目はすでにとろんとしている。
「香枝子さんが食べたくなる本ってさ、物語なんでしょ。」
「え?」
そう言われれば、いい匂いがすると思って手に取ったのは、みんな小説や童話だった。自分の異常さにばかり気を取られて、全然気がつかなかった。
「ということはさ、もしかしたら…。香枝子さんは、心のどこかで、お話とか、小説とか、読みたいと思ってるんじゃないの。」
そこまで話して、冬哉はすぐに寝息を立て始めた。無邪気そうにしていたけれど、知らない人間の家に来て、随分と疲れていたのだろう。
香枝子は、一階のソファの上で、毛布にくるまった。
冬哉に言われたことをじっくり考えてみたかったけれど、やはり、彼女自身も色々なことに疲れていたのか、あっという間に眠りに就いた。
その夜は、何やら妙な夢を見た。
香枝子は二本足で立てなくなって、四つん這いで歩いている。そのうち全身に長い毛が生えてきて、角と髭が生えてしまう。傍らでは、冬哉が、一枚一枚本のページを破って、私に与えてくる。私は、それをさも美味しそうに食いちぎる。
「かえこさん、めぇってないてよ。」
そこで、ふと目が覚めた。
辺りはまだ夜が明けたばかりで、意識は覚醒しているけれど、まどろみの中から抜け出せない。毛布をきているのに、どこからか冷たい風が入って来て、肌寒い気がする。
ぴゃああああおう。
うみゃああう。
頭の近くで、仔猫が鳴いている?
そういえば、昨日の朝、耳の裏を怪我した仔猫がいたわ。あの親子は似ていなかったけれど、どこに行ったのかしら。
そこで、ようやく、重い瞼を開けた。
寝る時には閉めていたはずの本棚の窓が、僅かばかり開いている。不思議に思いつつ、閉めようとして立ち上がった。毛布が床にずり落ちる。それを拾おうとして、体中が筋肉痛に襲われていることに気がついた。
窓の外では、また、猫泣き雨が降っている。
香枝子は、その日の図書館への道中、「orange」へ顔を出した。今日は買うものもなかったが、先日のシナモンの感想を言わねばならない。店の中はいつも通り、店主は奥で仕事をしているようだ。受付に立っていた店主の妻に挨拶をする。にこやかに返事が返ってくる。彼女ももちろん、香枝子と顔見知りだ。
しかし、御主人は…と言うと、とたんに関所は怪訝な顔をした。何か、おかしなことを言っただろうか。
少しして、奥から店主が現れた。先日の件を切り出すと、店主は妻と同じ表情を作って言った。
「お客様、失礼ですが。」
その口調は、何だかとても、よそよそしい。
「確かに、当店のシナモンパウダーは、顔なじみのお客様数人に、味見としてご提供いたしました。ですが…。」
店主は言いづらそうに、こちらの顔を覗きこんでいる。この表情を、この話し方を、どこか別なところで見たことがあるような気がする。たしか、友人と間違えて知らない人物に話しかけてしまった時の、相手の反応だったと思う。あなた、誰?
「失礼ですが、お客様が当店においで下さるのは、今日が初めてですよね。」
香枝子は気が付くと、図書館へとたどり着いていた。
どこをどう通って来たのか、ハッキリ覚えていない。歩くたびに、ふくらはぎや首が痛んだ。
いつも通り、職員用玄関から屋内に入り、女子更衣室のドアを開け、後ろ手で閉める。
「失礼な…。」
ふつふつと、怒りがこみ上げてくる。
あんなにいつも通っていたというのに、一体何故、自分のことを初対面だなどと言うのだろう。
何か、失礼なことをしただろうか?
それとも、あの主人はどこかに頭をぶつけたとか、若年性の物忘れとか?いいや、それなら、奥さんの方は覚えているはずだ。二人揃って、馴染みの客の顔を忘れるなんて…。
頭をかしげながら、自分のロッカーを開けようとして、バッグを探る…と、鍵がない。あら、忘れて来たかしら。でも、家ではバックから出さないんだけどな…。そんなことをぶつぶつ言いながら、自分のロッカーの名札を見た。
「あれ…?」
本来なら、小さな名札が入っているはずの四角いプレートは、何故か空欄だった。
「何よ…。」
慌てて手をかけて、引いてみる。鍵はかかっておらず、すんなり開いた。中には何も入っていない。自分が場所を間違えたのかと思って周囲を見回したけれど、そんなことはない。確かに、合っている。
「おはようございます」
そこへ、どやどやと数人の女性職員が入って来て、はたと、空のロッカーの前に立ちすくんでいる香枝子に向かって言った。
「どちらさまですか。」
香枝子はぼんやりと振り返った。首が人形のようにぎりぎりと鳴った。
「まだ、開館前ですよ。職員専用のロッカールームに無断で入られては困るんですが。」
「わたし…。」
「は?」
「私のロッカー…は…。」
わたし。
何も書かれていない名札を見ながら、考えた。
「わたし」は…誰だったかしら。
名前が思い出せない。
幾人かが、その場を離れて走って行った。人を呼びに行ったのだろう。全てが夢の中の出来事のようだ。
そのとき、不安げな顔で「わたし」のほうを見つめている人垣の向こうから、誰かが、何かを叫んでいるのが聞こえて来た。聞き覚えのある少年の声だった。
「ちょっと、この子どこから入ってきたの」
「ぼく、駄目だぞ。ここは入っちゃいけないんだから。」
いつの間にか職員に呼ばれてやってきた館長が、その少年を押し戻そうとする。しかし、その子供は俊敏な動きで人の手を軽々とすりぬけ、「わたし」の元へ走って来て、叫んだ。
「香枝子さん!!」
ああ、そうだ。
「わたし」は呟いた。
そうだ、「わたし」は香枝子だ。
この子の名前は、なんだったかしら。
少年は無言で近づいてきて、香枝子のわき腹あたりに、抱きついた。香枝子は、何か言おうとしたが、口が開かなくて、舌が重い。
「僕、おいて行かれるの、苦手なんだもん。」
ああ、そういえば、この子は、そうだったような気がする。
名前は、冬哉だ。
よかった、思い出せた。
「香枝子さん、これ…。」
少年は、だらりと両脇に下がっていた香枝子の腕をつかむと、持ち上げて見せた。皮膚の表面に、うっすらと銀色の粉がついている。そこでようやく、声が出る。
「なに、これ…。」
何か、粉が付くようなものを触っただろうか。まるで、小麦粉で料理をした後のようである。冬哉が、上手く腕を動かせないでいる香枝子の代わりに、両腕の袖もめくってみた。腕も、同じように粉が付いている。見つけるたびに手で払おうとするけれども、落ちない。どうやら、その銀粉は、香枝子本人から湧き出ているらしい。払っても払っても、無くならない。
少年は、相変わらずひそひそと話をしている人垣に向かって、香枝子の手を引っ張って行った。
「ねえ、どこにいくの。」
「家に帰るんだよ…。すみません、この人は僕の叔母さんなんです。ちょっと変わってて…。連れて帰りますから。」
そんなことを言いながら、ずんずん進んで、靴を履きかえ、逃げるように図書館を出た。
そのあとのことは、ぜんぜん覚えていない。
香枝子は、再び、夢を見ている。
誰か、神経質そうな女性が、厳しく香枝子に言い聞かせている。
実家にある、勉強机。随分古くなったと思っていたけれど、夢の中の状態では、まだ新しい。当たり前だ、そこにいる香枝子自身も、まだ子供なのだから。
そこに座って、本を開こうとしている。近所の古書店で、子供でもじゅうぶん買えるような値段で売っていたのだ。あんまりおもしろくて、帰り道に歩きながら読んでいたのだけれど、通りかかった大人に危ないと注意されて、途中でやめたのだった。読んだ場所まで、印をつけてある。道に生えていた葉っぱをちぎって、挟んだ。
しかし、誰かが…そう、母親が、本を開こうとする香枝子を止めたのだ。
そんな本を読んでいる暇があったら、お勉強なさい。こっちの本の方が、役に立つのだから、どうせ読むならこっちになさい、これはただのお話でしょう。
そう言って、何か別な本を押し付けた。
まって、母さん。これだけは読ませて、途中までしか読んでないの。
なに言ってるの、この間の試験、順位が二つも下がったじゃない。次は挽回しないと。
次は半年も先でしょう。
口答えするなら、没収します、まったくもう…。
香枝子は、そこでようやく覚醒した…といっても、瞼が重くて開けられない。深いまどろみの中をさ迷っているようである。どれくらい時間がたったのか、柔らかいものが自分の体を覆っているのがわかった。どこからか湿気を帯びた風が入って来て、頬をなでる。
目を開けると、一階のソファの上であった。随分長いこと、一人でぐっすりと眠りについていたようだ。部屋の明かりは付いているけれども、外はすでに薄暗い。体には毛布がかけられている。
一体何が起こったんだっけ。朝じゃなかったっけ?もしかして、丸一日、寝ていたの、私。
首が少し回るようになっていたことに気がついて、香枝子は周囲を見た。ソファの後ろに、冬哉が一人で佇んでいたことに、少し驚いた。彼は、じっと開け放たれた窓の外を見つめている。それは、まるで何かに耳を澄ましているかのようだ。
香枝子は、声をかけようとして体を動かした。筋肉痛が少しおさまっている。毛布をはがして床に置くと、キラキラとした銀の粉が舞った。一気に、現実の出来事が襲いかかってくる。
「あ、香枝子さん、気分どう。」
こちらに気付いた冬哉が言った。
「ここまで、僕が支えて来たんだよ。」
そうなの?、と応えようとして、香枝子は口の中が妙に粘ついていることに気がついた。しかも、随分とひどい味がする。
「うえ、ぺっ…なにこれ」
思わずつばを吐きだすと、ソファの表面に黒いものが点々と付いた。
「あ、えええと。」
冬哉はすっとぼけた顔で、窓とカーテンを閉める。
「チョコだよ。僕が食べさせたんだよ。」
「うそばっかり!な、なんか生臭いんだけど…」
「生臭いチョコだよ。」
相変わらず、冬哉はしれっとしている。
「何か、飲ませたでしょう。あっ、昨日の薬!?ぺっ、苦い…。」
あああ、飲んでしまった、あの妙な薬。よたよたと水道へ行って、うがいをする。口の中から、ほんのり黒い水が出て行った。
「あ、そうだ…」
香枝子はここでようやく、悲鳴に似た声をあげた。
「職場のみんなが…みんなが…。私のこと知らないって。どうしよう。何が起きたの?パン屋さんまで知らないって…。」
そう言いながら、玄関に行ってドアを開ける。表
札には、何も書かれていなかった。ロッカーと同じだ。自分で描いたはずの、近藤の文字。毎朝届くはずの牛乳もない。
「どうして…?」
つま先が冷たくなるような、心もとないような、うすら寒さが這い上がってきた。
「落ち着いて、聞いて…。あのね、僕もはっきりとは分からないのだけど…香枝子さんはもう、半分以上人じゃなくなってるんだと思う。それっていうのは、少しずつ少しずつ、この世から、自分が消えていくことなんだよ。外の世界で存在が消えかかっているのに、この部屋の中がいつも通りの状態を保っていられるのは、香枝子さん自身がまだ、自分は自分だっていう意識を持っているからだよ。ね、わかっただろう。こわいんだよ、セジンの毒は…。」
「でも冬哉くんは私のこと分かったじゃない。」
香枝子は口の周りを拭きながら、尋ねる。
冬哉はぎょっとしたように飛びあがった。
「だって、僕は…。あ、そうだ、たったいま、僕のところに処方箋が届いたよ。」
「処方箋?届いたって、どうやって。」
だからそれは秘密、と目顔の前で手をヒラヒラさせながら冬哉は答えた。
「でもね、僕のバッグに入っている薬草だけじゃ足りないんだって。『最後のひと匙』が必要なんだって、仲間が言ってる」
「さいごのひとさじ?何それ…」
そう答える自分のみけんに、食っ利器皺が寄っているのがわかる。体温が下がって寒い。ひどい顔色をしているはずだ。
「処方箋通りに薬を作ったあと、一番最後に加える材料のこと。仲間が言うには、『乾燥したタンポポの葉っぱ』なんだって。それがどこにあるのかは、香枝子さんにしかわらないんだって。だから、よーく思い出してみて。」
「また、訳の分からないこと言ってぇ…。」
香枝子はもう、ほとんど涙声だ。
「なによ、タンポポの葉って…。そこらへんに変えてるじゃないの、春だもの」
「何でもいいわけじゃないんだ。乾燥したやつだよ。何か覚えてない?」
乾燥したタンポポの葉っぱ…タンポポ…タンポポ…タンポポ…?
香枝子が悶々としている間、冬哉はショルダーバックからいろいろなものを取り出して、床の上に並べて行く。秤、乳鉢、小さなまな板、ナイフ、小さいくて細い金づち…。最後に小さな、薄いトランク型の木の箱を取り出して、中を開いた。そこには、小さな袋や試験管や、小瓶がぎっしり納められていた。それぞれ木の実やら乾燥した葉っぱやら、おそらく生薬だろうと思われるものが入っている。
「本当に、本当に作るつもり?」
「うん、早速、調合する。大丈夫だってば、いつもお師匠さまを手伝ってるんだから。この道具だって薬草だって、僕のなんだ。本格的に一から作るのは初めてだけどさ。それより、はやく思い出して。さっき飲んだ生臭いチョコレートの効能が切れるまえに…。」
香枝子は、冬哉が黙々と道具を準備する音を聞きながら、窓際にある本棚へと歩いた。
しゃがみ込んで、そこに入れられている植物図鑑を引っ張り出して、タンポポのページを開く。めぼしい情報は特にない。
その間に、冬哉は木の実をまな板で砕き、葉っぱをナイフで刻んで重さを計り、枝の皮をはがした。やがて全部乳鉢に入れ、ゴリゴリと叩いたり潰したりしている。小さな背中が、もくもくと作業を進めている。その姿に、さっきの口の中の味を思い出して、真っ暗な気持ちになる。
タンポポって言われてもなァ。
図鑑についているしおりのひもを、そのページに挟んで、元の場所に戻した。
「しおり…?」
その小さな呟きは、冬哉に聞こえただろうか。
香枝子は先ほど見た、昔の夢を思い出していた。それが、頭のなかで鮮明に冬哉の声とまじりあっていく。
学校からの帰り道。すれ違った誰かが言った。こら、本を読みながら歩いていたら、危ないよ、帰ってから読みなさいよ。しおり…しおりがない。読んだ場所まで、印をつけなきゃ。あ、この葉っぱを挟んどこ…。押し花になるかもしれないし。母さん、この本だけは読ませて。だめよ、お勉強しなきゃいけないもの。『最後のひと匙』がどこにあるのかは、香枝子さんにしかわらないんだって。心のどこかで、お話とか読みたいと思ってるんじゃないの。
そうだ、あの日。
間違いなく、香枝子は物語の世界に夢中になっていた。
でも、母に取り上げられた。
読んでいた物語を取り上げられたのは、その時一回だけだっただろうか。それとも、他にもあっただろうか?思い出せないということは、その時一回の出来事かもしれない。けれども、子供心に、大きなショックだったのだろう。いつしか、自分はそんなもの嫌いだと思い込むようになったのかもしれない。
あの時本に挟んだ葉っぱは…。
あの葉っぱは…。
「タンポポ…だったわ。たしかに。あの日も、確か春だったもの。」
その言葉に、背後にいた冬哉が、へっと声を出した。
「挟んだのよ、本に。挟んだ場所までしか、読めなかった。続きは読めなかったの。」
「何か思い出したの香枝子さん。」
あの本はどこにやったのだろう。捨ててしまったのだろうか。母はあんなことを言いつつ、読んだ本はどこかにきっちりと整理をして、とっておく人間だ。うんと小さい頃に読んだ絵本なんかもどこかにとってあったように思うのだが。
そこで、香枝子もう一度、頭の中で母の声を聞く。
ほら、これ、あんたがいる図書館に寄付できないかしらね。
それは、勤め始めてすぐの話だ。母が、箱にぎっしりと詰まった古本を持ってやってきた。香枝子は、中身を出して確認するのが面倒で、そのまま図書館へ運んだ。当時の、担当職員が言った。新しいもの数冊は一般書架で、残りは地下二階だね、近藤さん。
まさか、あの箱の中に?
「じゃあ探しに行こう、今から。」
その話を聞かせると、冬哉はさらっとそう答えた。時刻は閉館から1時間は建っている。すでに職員は帰宅し、真っ暗なはずだ。
「行くって…まさか、図書館に忍び込むつもり?」
「さ、早く来て」
冬哉は高いフェンスを越えた向こう側から、香枝子を呼んだ。
「無理だよ、こんなの。人に見られたりしたら」
「大丈夫だよ真夜中だもの。正面の門は鍵がかかってるし、他に方法がないんだよ。」
香枝子はやけくそになって、履いていたものをフェンス越しに放り投げ、裸足でえっちらおっちらと登り始める。もともと運動神経は悪くはないが、ろくなものを食べていないので、体力が落ちている。向こう側へ着いた時にはへろへろだ。
二人は、潜り込める場所を探して図書館の周囲を、壁に沿ってぐるりと回る。
「ねえ、やっぱり潜り込める場所なんて無いと思う。全部施錠してあるんだもの。」
そう言いながら、明かり取りの小さな窓まで押してみるけれども、どこだってびくともしない。当たり前だ。ところが、背後でかちゃり、という軽い音が響く。振り向くと、裏口のドアが内側からするり、と開いて、中から冬哉がひょっこり顔を出した。
「声子さん、こっちこっち。」
「どうやって中に入ったの?どこか鍵が開いていたの?」
駆けよりながら、声をひそめて聞く。こんな場面を誰かに見られたりしたら、それこそクビだ。
すると、冬哉は香枝子のすぐ近くの、壁の根元あたりを指差した。
「そこから入ったよ。」
「やだ、これ、なに?」
指差された場所は、猫子が一匹は入れるくらいの大きさの隙間が開いていた。板壁に何か刃物のようなものを突き立て、無理やり壊したような印象がある。
「いたずら?何でこんなこと…冬哉くんがやったんじゃないわよね。」
「僕がするわけないだろ。」
「そうよね…って、ちょっとまって、ここから入ったの?この小さい隙間から?どうやって?」
冬哉は大人ぶった仕草で、両肩を挙げた。
「僕、体が小さいけど、柔らかくもあるんだ。潜り込むのは得意。」
いくら小さくたって、柔らかく立って、この隙間かは小さすぎる。ちょっと、信じられない。
「いいから、ほら、入ろうよ。早く早く。」
香枝子は、冬哉に腕をひかれて、とうとう中へ一歩足を踏み入れた。そこは、資材や事務用具や、使わない机なんかが置いてある物置のような場所で、いわゆる用務員が出入りするためのドアであった。これって、不法侵入?どうしようかしら、こんな所誰かに見つかったら、クビじゃ済まないわよね。
「もしかして、見つかる心配してる?」
冬哉が、物置を出ながら聞いた。幸運(?)なことに、その物置は階段の下のスペースを利用しているため、鍵がかかったドアなどは存在せず、すぐに廊下に出て、一般書架へと行くことができそうだった。
「意外と心配性だね。ぼくがちゃんと内側から鍵かけたし、大丈夫だよ。それより、その本って、どこにあるの?」
「地下の大型書庫。ここは一階でしょう。下へ2つ降りるの。」
「どこから降りるのさ。」
「受付カウンターの隣のドアよ。」
いつも見ているはずの図書館だが、古くて大きくて真っ暗で、異常に不気味である。しかし冬哉は構わずに、廊下をずんずん進んでいく。そう言えば、探しに行く本の題名は、何であったか…。物語は、今思えば結構単純なものだったはずだ。いまの冬哉と香枝子のように、二人の主人公が暗闇の中を進んでいくおはなし。高い塔の上にたどり着くまでに、必要な品物を集めていく。その間に、いろいろな怪物に出くわしていく。銀の蛇とか、大蜘蛛とか、片目の狼とか。
板廊下が、二人分の音量でぎしぎし鳴り、やがて見慣れた空間へと足を踏み入れた。香枝子の職場、一般書架である。
「カウンターってあっちだね…。紙の匂いがすごいなあ。」
「だって、図書館だし。ねえ、何でそんなにすたすた歩けるの?見えるの?いくら闇に目が慣れたって、私そんなに早く歩けない。」
いざという時のために、小さなペンライトをポケットにしのばせて来たけれど、光が漏れることで、誰かに見つからないかどうか、不安である。
「見えるよ。ぼんやりだけど。夜目が効くんだ。」
行儀よく立ち並ぶ書棚を、カウンターに向かって縫うように歩いていく。その途中で、冬哉がトイレに行く、と言いだした。
「ああ、それもカウンターの隣に…。でも、電気付くかしら。」
「暗くても平気。じゃ、カウンターで待ってて。」
そう言うなり、冬哉は香枝子を本棚の列に一人残し、さっさと先に進んで行ってしまった。しかたなく、おそるおそる、真っ暗い中を歩いて行く。先ほどよりは闇に目が慣れたけれど、やはり足もとが不安だ。
と、その時。
何かに柔らかいものに躓いて、派手に転んだ。
短く、びゃう、という猫の悲鳴があがる。
床に額が当たって、自分の髪の毛から、ぱらぱらと銀色の粉が落ちた。
はっとして、鳴き声がした方をみると、長い尻尾を持った猫が、さっと走り去るのが分かった。かなり大きな猫だった。昨日の朝、道路にいた黒猫と同じくらいの大きさ…。さっきの隙間から入り込んだのだろうか。
「猫?何色?」
地下へ続く階段を降りながら、冬哉が聞いた。さすがに、昼間でも暗いこの階段は、夜目が効く冬哉の目にも敵わなかった。香枝子は持っていたペンライトを出して、足もとを照らしながら進む。
「何色かしら。お尻がちょっと見えただけだったから。きっとあの隙間から入り込んだのよ。困ったな。あちこち荒されたら、ことだわ。」
冬哉は小さく、ねこ、と呟くと、降りて来た階段を振り返った。
「どうかしたの。」
「ううん…なんでもない。」
やがて地下1階書庫を抜けて、さらに下に降り、あの忌まわしい本の墓場への入り口にたどり着いた。板チョコのような重い扉の鍵穴に、鍵束の中の一本を差し入れ、回す。
がちゃり、ぎりりりり。
密室にならないように、ほんの僅かに、ドアストッパーで扉を固定する。冬哉を先に中に入れ、ペンライトで照らしながら、この部屋の明かりのスイッチを探して、壁伝いに1,2メートル歩く。
「ねえ、僕、すっかり忘れてたことがあるんだよ。ものすごく…。」
「え、何か言った?」
「ものすごく大事なこと…なんだけど…。」
並んで歩く冬哉が、言いづらそうに口ごもっている。香枝子は、ようやく明かりのスイッチを見つけ、手を伸ばした。
この瞬間、もし二人のうちどちらかが、背後を振り返っていたとしたら、おそらくとんでもない悲鳴が上がったことだろう。冬哉はともかく、香枝子は間違いなく失神していたに違いない。
そこには、音もなく忍び寄る、熊ほども巨大化した、あの忌まわしい「宿主」が、乱雑に床に置かれていた本の中から1冊だけ選び出していた。わさわさと無数の足や触角を動かしながら、口を大きくあけて、ごくり、とそれを飲み込む。なぜ、その本を選んだのか、それは宿主にしか分からない。
とにかく、『宿主』は本を飲み込んだ瞬間から、ぼこぼこと体を変化させ、やがてまったく違う姿となり果てた。
「あのさ、香枝子さんを刺した虫…セジンの宿主のことだけど…。」
香枝子は、後ろの様子にも気付かないまま、ようやく部屋の明かりをつけた。相変わらずの薄暗い明りだが、闇に慣れていた目には眩しく、ほっとするように感じる。
「その虫がどうしたの」
「アレってさ、どんどん変化するって何度も言ったよね。そして人を襲うって。」
うん、聞いたわ、と香枝子は答える。
「耳にたこができるくらい聞いた。もう出来たかも」
さて、自分の本はどこら辺にあるかしらと自分の前方のみを見回したところで、香枝子もまた、何かに気がついた。
「凶暴に変化した宿主を退治するのも、実は僕らの仕事なんだ。これ以上犠牲者を出さないために。ちゃんと、退治する担当の人もいるんだよ…。」
「…っていうことは…。」
「この部屋の中には、怪物が一匹潜んでいるっていうことだよ。」
背中の毛孔が全部開くような気がして、後ろを振り向けない。背後に、何かいる。冬哉もまた、固まっている。
「さっき、僕のところに処方箋が届いた時、最後に追加のメッセージがあったんだ。僕は薬のこととで頭がいっぱいで忘れていたけど。あのね、虫を退治する日ってね、今夜…なんだって。」
香枝子は、おそるおそる、後ろをみるために、首を回し始めた。
その、ほんのちょっとの時間の中で、冬哉が言う。
「退治する日にはね、薬売りと患者は、怪物がいる場所に行っちゃいけないんだよ。危険だし、担当の人の邪魔になるから。」
そう言い終わったときには、すでに遅かった。
二人の背後には、牛ほどもある巨大なオオカミが、頭を低くして、こちらに唸りを上げていた。
「ちょっと待ってちょっと待って!か、怪物ってこれ!?」
後ずさりしながら、香枝子は叫んだ。
「お…オオカミじゃないのっ。あの虫はどうしたのよ!!」
「僕にも分んないっ。」
冬哉もまたそう叫ぶ。
そして、今にも食いつかんと身構えているオオカミの、一瞬のすきを突いて香枝子の手を取ると、一気に駆けだした。香枝子は引っ張られるようにして、迷路のような本棚の間を縫うように走る。オオカミはその後ろを、大きい本棚を飛び越え、背の低い本棚を蹴散らしながら、暴走列車みたいに追いかけてくる。
広い地下室の、もうずいぶん奥まで入ってきたところで、冬哉は突然倒れ込んだ。床の上に積まれてあった分厚い、大きな辞書を飛び越えようとして失敗したらしい。それにつられて、香枝子も派手に転んだ。
冬哉があわてて助け起こすけれども、ずいぶん走ったから、足がもつれて起き上がれない。
背後には、ようやく追い詰めたといった表情のオオカミが、走るのをやめてヒタヒタと忍び寄ってくる。生臭い息がかかるようだ。そのオオカミには、何故か片目がない。どこかにぶつけたのではなくて、最初から潰れてしまっている。まぶたが閉じられたままだ。
「片目の…オオカミ…?」
「香枝子さん、早く、頑張って立って!!」
冬哉がそう叫んだとき、ごん、という大きな音が2回して、オオカミが一瞬頭を下げた。
同時に、香枝子たちの目の前に、ごろごろっと白っぽいなにかが転がり落ちる。
それは、随分と履き古した男物のスニーカーだった。
オオカミはキラキラと銀の粉を振りまきながら、頭を振っている。その喉から、悲鳴や犬の鳴き声は上がらなかった。そう言えば、この謎のオオカミは先ほどから一度も声を挙げていない。
オオカミが俊敏な動きで、スニーカーが降ってきた方向を振り返った。冬哉も、同時にその方向を見上げる。状況が呑み込めない香枝子だけが、最後になってゆっくりと、オオカミの後方、天井部分に目を向けた。
まるで碁盤の目のように張り巡らされた、建物強度のための梁。
一体どうやって登ったのか、その男は梁に両足を引っ掛けて、器用にぶさらがっていた。
足には履きものがなく、組んだ腕には、大きな出刃包丁を携えている。
飛んできたスニーカーと同じくらい着古した、白いライン入りのグリーンジャージにジーンズ。
丸顔で、眠そうなドングリ眼。そして、癖のあるたっぷりした髪の毛。なんとなく、誰かに似ているような気がするのは気のせいか。
傍らで、冬哉がホッとしたように叫んだ。
「寛治さん!」
「こ、今度は何?あの人誰?」
香枝子は、こちらに尾を剥けたオオカミと、天井の男と、冬哉とを見比べながら、叫ぶ。
「僕の仲間。お師匠様の弟。『退治担当の人』なんだ」
寛治と呼ばれその男は、ぶら下がったままで、大きなあくびを一つした。
まるで、自分の頭の下で唸り声を挙げているのは、しつけの悪い小型犬か何かだと言わんばかりに…。
「禁を破ったな」
寛治が冬哉に向かって言った。朴訥とした話し方だ。「禁」は、香枝子たち二人が、この場へ足を踏み入れたことだろう。
冬哉はごめんなさい、と謝る。
「どうしても、来なくちゃいけない理由があったんだよ。」
男は喉の奥で、ふん、と短く唸る。
「助けて欲しいか?」
「え?」
冬哉は聞き返した。
「俺の邪魔をしないって約束するなら、守ってやる。」
「うん、助けて欲しい!」
冬哉が叫ぶ。
「約束する!ここから動かない!だから寛治さん助けて!」
「わかった。」
寛治のその答えが合図になった。
オオカミまるで弾かれたばねのように、天井からぶら下がっている寛治に向かって踊り上がる。
寛治は、ひらりとすばやく身をひるがえして梁の上に状態を起こた。噛みつかんとした獲物を逃したために、強靭なあごが、ガチン、という大きな音をたてる。地下の空間に、それが空しく響く。オオカミはいきり立ち、なんとか男の足を食い千切ろうと跳び上がるが、梁の上までには届かない。
寛治はオオカミを睨みつけ、ふん、ともう一度鼻息を漏らした。
足もとを見下ろすその眼は、先ほどの眠そうなドングリまなことはうって変わって、らんらんと輝いて見えた。
香枝子は、昔祖母の家で飼われていた、ものぐさな猫を思い出した。普段は眠ってばかりでほとんど動かないのに、目の前をネズミが通りかかった時だけ、猛然と襲いかかる生き物。
それから寛治は、なるべく香枝子たちからオオカミを引き離すようにして天井の梁の上を走り回り、隙を見て、床に飛び降りた。
着地するまでの一瞬のうちに、手に持っていた包丁をオオカミの前足に向かって、鋭く振る。
ひゅっと空を切る音がして、辺りにぱっと青色の血がはじけ飛んだ。オオカミは一瞬よろけたように後ずさりしたけれど、頑丈な脚はそれしきの傷では弱らなかった。床に下りた寛治が身を低くしてちょろちょろと走りまわる。その運動神経と度胸は尋常ではなく、オオカミはなんとか引き裂かんと、たけり狂っている。
一匹と一人が暴れ回るおかげで、周囲の書架が大きな音を立てて、ドミノのように倒れて行った。あたりに、古書が山となって散乱していく。足もとが悪いことなど、寛治にとっては特に問題でもないらしく、隙を見ては包丁を振り続けている。返り血を浴びて、寛治の顔は真っ青だ。しかし、いくら表面を切り裂こうとも、一向にオオカミは弱る気配を見せない。
やがて、寛治は書架の上にひょいと飛び乗ると、再び梁の上に飛び上がり、呆然として成り行きを見ていた香枝子たちの方へ走りだした。当然のごとく、オオカミは寛治の後を追って、一直線にこちらへと近づいてくる。
「ちょっとちょっと、待って…」
冬哉は、こちらに向かってやってくる寛治に向かって叫んだ。香枝子は体が固まって動けない。
香枝子たちの本の少し手前で歩みをとめた寛治が、肩で息をしながらも、けろりとした顔で言った。
「包丁じゃなくて鉈にすればよかった。これじゃ毛皮と皮膚しか切れない。」
その表情には疲れも恐怖もなく、ぼさぼさになった後頭部を片手でかき回している。
彼の足もとでは、怒りで香枝子たちのことなど目に入っていないらしいオオカミが、震えながら歯ぎしりしている。隣の冬哉は、ハラハラしながら、自分たちとそのオオカミを見比べている。その怒りがいつ自分たちへむけられたらどうしようかと、気が気ではないのだろう。寛治はそんな冬哉に問うた。
「こいつの正体って何?」
「え…」
俺、青から詳しい話聞いてないんだよ…と寛治は腕まくりながら言った。
「このままじゃキリがない。腹の中に何か入ってるみたいだから、それを取り出せば、元の姿に戻るかもしれない。そうすれば、退治するのは楽だからな。ただ、妙なもんが出てきたら面倒だから、うかつに吐かせるわけにもいかない。何か知らないか。」
紙魚よ、と消え入りそうな声で香枝子は答えた。しかしその声は、オオカミの唸り声で、見事にかき消される。
「聞こえない。もう一回。」
香枝子は思いきって声を大きくする。
「紙魚よ!紙を食べる虫!」
その瞬間、オオカミが突然、こちらを振り返った。
鋭い目が、香枝子をとらえる。
そこからの一連の出来事は、おそらく短時間で起きた出来事であったはずだが、香枝子の目の前では、とてもゆっくりと展開された。
「あー…なるほど」
天井から間延びした寛治の声が降ってくる。
オオカミは勢いよく床を蹴る。
一瞬身を引いた香枝子の身を、小さな冬哉がぎゅっと覆いかぶさる。
天井で、腹の中身は本か…と寛治が呟く。
目の前に迫ったオオカミが、香枝子たちめがけてくわっと大きな口を開く。
びっしりと並んだ牙と、香枝子たちとの間にある小さな空間へ、緑色のジャージがふわりと飛び降りる。
そこで初めて、オオカミの悲鳴が上がった。図書館中に響くほどの、けたたましい叫び声であった。
香枝子が目を開けると、開いていたはずの片目がガッチリと閉じられ、青い血がたらたらと流れ出ている。オオカミは、それこそ狂ったように頭をぶんぶんと振りまわしている。
香枝子たちの目の前には、同じく青い血を滴らせた包丁を持ってたたずむ、寛治の後ろ姿がある。寛治は、オオカミが切り裂かれた目を何とかしようとあがき、上向きにごろりと転がったチャンスを、逃さなかった。脱兎のごとく走り出すと、その場で高く飛び上がり、その腹の上にどん、と着地しした。オオカミはむせたように咳こみ、やがてがぼっという音がして、口から勢いよく何かが飛び出し、冬哉の少し手前に、どさっと音を立てて転がり落ちた。
それは、一冊の児童書だった。
『夜の塔の、だいぼうけん』。
香枝子は、咄嗟にそれに手をのばした。
「だめだよ、動いちゃ。」
そういう冬哉に背いて、香枝子はその本を持ちあげ、背表紙を開いた。
こんどう かえこ
つたない字で、確かにそう書かれている。
「これ。私の本…。」
「香枝子さん、危ないよ!」
冬哉に引き戻されたのとほぼ同じタイミングで、オオカミの体が、突然固まったように動かなくなった。
そしてそのまま、ぼうっとこれまでより強く発光する。青味がかった白い光。
寛治はゆっくりとそれに歩み寄り、オオカミの首があったあたりに包丁を振り下ろした。刃物が木に突き刺さる時の、乾いた音が辺りに響く。
やがて光が収まると、そこには小さな紙魚が一匹、頭と胴とを真っ二つにされて転がっていた。
「ねえ、タンポポってこれのこと?」
香枝子が、ぱらぱらとその『夜の塔の、だいぼうけん』をめくってみると、中から細長い形の、乾燥した葉っぱが一枚出て来た。長い年月挟まっていたせいですっかり押し花だ。
「それだ、それだよ香枝子さん!」
その時、ぱかん、という軽い音がした。冬哉が後ろを振り返ると、適当に拾って来たらしい薄い本を持った寛治が、最初と同じように眠そうな眼で佇んでいる。
「痛いなぁ…」
冬哉が、本で叩かれた場所をさすりながら振り返った。
「痛いなァじゃないだろ。来るなって言っただろ」
改めて近くで見ると、寛治は以外にも小柄だった。痩せの筋肉質、と言ったところか。髪の毛がボサボサなのは、暴れたからではなくて、無頓着な癖っ毛のせいだ。まばらに、無精ひげまで生えている。年齢は…いくつくらいだろう。青よりは一回り若いようだが。服のあちこちが擦り切れ、皮膚には血がにじんでいる。彼は、本をその辺に投げ捨てると、顔に着いた埃やら自分の血やらを、袖でグイッと拭った。どれもかすり傷程度だというのが凄いことだが、傷口には、あの青い血が付いたままだった。
冬哉はそんな寛治に向かって反論する。
「しょうがなかったんだ。香枝子さんの『最後のひと匙』を、どうしてもすぐに見つけ出さなくちゃいけなくってさ。それが、ここにあるっていうもんだから…。」
「どんな理由があったって、ダメ。迂闊。」
そんなやり取りを続けているこの二人を、香枝子はとくと見比べてみる。歳の差はあれども、何となく似てはいないだろうか。小柄なところ、髪の毛の質、目のかたち。
「あのう。」
そおっと声を出した香枝子の方を、二人が同時に見た。やっぱり似ている。
「あの、ありがとうございました。助けていただいて…。」
「いいよ。俺の仕事だから」
寛治はふわあっと欠伸をする。
「お怪我大丈夫ですか。」
「うん、平気。」
「その青い血、洗わなくて大丈夫なんですか?」
「これは血じゃなくてセジン。俺にはこの毒は効かないから、大丈夫。帰ったら風呂入るし…。」
セジンが効かない?キョトンとしていると、冬哉が耳打ちした。
「この人の血は特殊なんだ。生まれつき、セジンへの抗体を持ってるんだよ。だから退治担当なんだ。」
はあ、なるほど、と心の中で香枝子はぼんやり思った。
「おい、冬哉。後で埋めてやれよ。」
あごで、床面を刺しながら、寛治が言った。そこには、すでに絶命してピクリとも動かない紙魚の遺骸が転がっている。すでに光ってはいないけれども、ほんの僅かに、銀色の粉がその周りに散らばっていた。
「あなた、冬哉くんの伯父さま…ですか。似てらっしゃいますけど」
香枝子が聞いた。
寛治はぐいっと首をかしげる。
「ふん、似てないね。こんなちんちくりんと一緒にするない」
自分だって充分ちんちくりんである。
「ねえ、寛治さん、香枝子さんはね、僕の話をぜんぜん信じてくれないんだよ。」
寛治はあごをばりばりと搔きながら、しょうがないだろ、と答えた。
「それが普通。さて、帰って寝る。」
寛治は床に放りっぱなしになっていた例の出刃包丁をジーンズの腰のあたりに挟みこむと、出口に向かってのらりくらりと歩き始めた。その様子を見て、香枝子は、刃物で壊されていた、あの用務員余の出入り口の壁を思い出す。
「あなた、どうやってこの建物に入ったんですか。」
寛治はめんどくさそうに振り返ると、ちょっと肩をすくめてみせた。
「あんたさ、猫が忍び込めないのは、女心と水の中…ってことわざ知ってる?」
香枝子は、だまって 首を振った。
「どういう意味?」
「そのまんまの意味。」
寛治はにこりともしないまま、冬哉にじゃあな、と言い残し、そのままさっさと地下室を出て行った。
書庫には、冬哉と香枝子の二人だけが残された。
香枝子は冬哉と共にぼんやりと周囲を見渡し、やがてよろよろとその場に立ち上がった。
文字通り、天地をひっくり返したかのような荒れようの中を、出口に向かって躓きながら歩く。
本が大量に散らばっている状況が、こんなにも歩きにくいとは思わなかった。
これを一から片付け直す時のことを考えると、背筋が寒い。とにかく、香枝子がこの件に関して関わっていることだけはばれないようにしたい。
しかしながら、この本の墓場を見直すいいチャンスかもしれない。本を全部外に出して虫干しすれば紙魚もいなくなるだろうし、今回みたいなことも減るかもしれない。地下全体を掃除して、一般に開放する手もあるではないか。どのみち、このままでは本が可哀そうだ。
やがて地下を出て、鍵を締める。なるべく侵入した形跡が残らないように、その他の鍵も、全てきちんとかけ直して、図書館を後にした。すでに、寛治の姿は跡かたもない。
家に着いたのは、すでに夜中に近い時間。子供は寝る時間だが、そんなことをかまってはいられない。冬哉はさっそく、持って帰って来た本に挟まっていたタンポポを乳鉢ですりつぶして、それにあらかじめ作っておいた黒い粉末を混ぜ込んだ。ほんの少し水を足してさらに練ると、丸い黒飴のような丸薬が出来上がった。明らかに不敵なオーラを放っている。
「さあ、出来た。いざ…」
そういって、口に押し込もうとする冬哉を押し返した。
「ちょっとまって。これ、どうやって飲むの?」
「口に入れて、噛み砕いて、水で流し込むの。つまり食べるんだね。さあ、そろそろ薬の効き目が切れる頃だから、急がなくちゃ。」
そう言いながら渡された丸薬と、水の入ったコップ。
「じゃあ、の、飲むわよ」
香枝子は、鼻を摘まんだまま口に入れて、一気に噛み砕いた。見た目通りの、邪悪で攻撃的な味である。急いで水で流し込むと、丸薬が溶けて、今度は口いっぱいに匂いが広まった。
「ぐうう。」
全部飲み込んだ後、涙目になってうがいをした。口の中に残ったカスを全部取り除いても臭かった。しかし、薬の効果はてきめんだった。飲み終わって十分もしないうちから、ぱらぱらと舞っていたあの銀色の粉が、消えたのだ。
「元に戻った…うそみたい。」
「やったあ、薬が効いた。やっぱり、最後のひと匙はさっきのタンポポで良かったんだ。うああ、良かった」
「ああ…お腹すいた…。」
それは、突然やってきた。
体が元に戻ったとたん、いままで押さえていた本に対する食欲は描き消え、その代わりに猛烈な空腹感が襲ってきた。
頭の中に浮かぶのは、いつも食べているorangeのパンや、野菜のサラダ、卵料理。
「僕もお腹すいたな。」
香枝子はその言葉にハッと思い付いて、玄関のドアを開けた。表札には見慣れた近藤の文字。足もとには牛乳が二本、行儀よく並んでいる。
冬哉に命じて、食糧庫から洗いざらい、使えそうなものを拾わせた。ひとかけら残ったベーコン、ジャガイモ2個、小さなカブ、にんじん、缶詰のひよこ豆。よし、出来る。香枝子は鍋をひきかけて、牛乳を流し込んだ。
「もしかして香枝子さんシチュー作るの?」
傍らで、キラキラした目で鍋を覗きん込んでいる冬哉にむかって、まかせておいて、と答える。ジャガイモを向きながら、指先の傷がすっかり消えていることに気がついた。
翌日の朝、香枝子はまた、ソファの上で目を覚ました。
窓辺のカーテンの隙間から、ぼんやりと明るい、春の朝日が差し込んでくる。久しぶりに晴れたらしい。時計を見ると、時刻はまだ4時半だ。テーブルの上には、ゆうべ晩餐に使われた皿やきのスプーンなどがそのままの状態で置かれていた。
ああ、片付けもせずに寝てしまったのか…私としたことが…。
すっかり固くなってしまった体中の関節を回していると、周りでぱたぱたと動き回る音がした。見れば、夕食後に力尽きたように眠ってしまった冬哉が、いつの間にか目を覚ましていた。例のショルダーバックに、自分のものをかき集めては詰め込んでいる。
「香枝子さん、おはよう。顔色がいいよ。」
「どうしたの、荷物…」
冬哉はちょっと口ごもると、さっき連絡があったんだ…と呟いた。
「雨がやむちょっと前にね。お師匠さまが、もうすぐ迎えに来るって。」
それを聞いて、おどろいた 香枝子は慌てて身を起こした。
「ちょっと、ちょっとまって。いまから帰るの?この時間に…。」
確かに今日は3日めの朝だけれど、ちょっと早すぎはしないか。朝食の買い物に付き合って貰って、一緒に食べようと思っていたのに。
かりかり、がりがりがり。
それは、小さいけれどもハッキリした音だった。玄関のドアを、外側から猫が爪でひっかいている。
「あ、来たっ。」
荷物をまとめていた手を止めて、冬哉が玄関のドアノブに手をかけた。
「冬哉くん、ちょっと待って…。もし野良猫だったら…」
きいぃ、という軽い音がして、湿った冷気が部屋の中に入ってくる。
ドアの向こうにあったのは、朝靄には似合わない、真っ黒で背の高いシルエットだった。彼の足元には、例の皮トランクが置かれている。
その人物…青は、帽子をとりながら、頭を下げる。
「どうも、早い時間に…。」
香枝子は思わず黙ったままで頭を下げた。
「わああ、お師匠さまっ」
青は低くしゃがみ込み、抱きつこうとする冬哉の両頬を、片手でがっと掴んだ。弟子の唇はすっかり8の字である。その顔を睨みながら、ドスの利いた声で言った。
「おい。『わああお師匠さま』の前になんか言うことあるだろうが…っ」
「おはえりなはい。」
おかえりなさい、と言ったようである。やっぱり、どう見てもヤクザが子供をいじめているようにしか見えない。
「もう一個あるよな。寛治に聞いたぞ。お前、退治現場に行ったんだって?」
「ごめんなはい。言い訳はしまへん」
それでようやく、冬哉は青の手の平から解放された。青は立ち上がり、香枝子を見下ろした。少年はすっかり赤くなった頬っぺたを両手でさする。
「いかがです。お加減のほうは」
「はい、あの、おかげさまで…。」
「それは、何より。」
青はにこりともせずに言う。香枝子は、寒いですから…と室内へ招いたが、彼はその申し出をきっぱりと断った。
「予定より少し早いですがね、冬哉を連れてこのまま発ちます。急ぎの用事が出来たもので。」
「そ、そうですか…。」
それより、と青は続けた。
「いくら取引とはいえ、体調のお悪い中で知らない子供を預かるのは大変だったでしょう。飯も食わせて貰ったんでしょうし…世話になりました。」
香枝子はぶんぶんと両方の手の平を振りながら、いいえ、そんな…と言った。結局のところ、ちゃんと直して貰ったのだし。そんなことより、もっとお二人について、いろいろ話が聞きたいのだけど…。
「うちは常に人手不足でしてね。こいつにも早いところ一本立ちして欲しいんですよ。つまり、一度はこうして、一人で患者を治療することになるわけで…悪く思わんで下さい。」
青は、いつの間にか香枝子の後ろに佇んでいた冬哉に向かって、行くぞ、と声をかけた。初めて会った時と同じように、パーカーを着て、バックを下げている。玄関で靴を履き、晴れやかな笑顔で、じゃあね、香枝子さん…と言った。
「いろいろありがとう。初めて治療した患者さんっていうのは、忘れられないものなんだって。ねえお師匠さま。」
青は無表情のまま、香枝子に向かって両肩をちょっとだけあげて見せた。そして手早く冬哉の手をひき、さっとドアを閉める。
足音も、話し声もない、そこには静けさだけが残った。
ハッとして、香枝子は急いでドアを開く。
すると、道路を挟んだレンガ塀の上に、ひらりと真っ黒な猫が飛び乗った。こちらを振り向いて、じっと見つめている。間違いなく、2日前に見た、あの黒猫だった。良く見ると、目の片方は金色、もう片方はグリーンのオッド・アイ。口元には、やはり眉毛模様のある、白い子猫を咥えている。
香枝子は一か八か、ありがとう、と言って手を振った。
子猫は咥えられたまま、ぴゃう、と鳴いた。
二匹は、隣の屋根に軽やかに飛び移り、そのまま姿を消した。
香枝子はカーテンを開け、部屋の中に朝日を入れると、もう一度部屋の中を見回してみる。
ラジオをつけて、昨日の残りのシチューに火をかけた。
少しさびしい、でもいつもと同じ日常。
夕べ、図書館の地下で恐ろしい目に会ったことも、数時間前まで見知らぬ少年がこの家にいたことも、まるで遠い昔の出来事か、もしくは夢でも見ていたかのようだ。
二人分の皿を片づけ、スープ皿にシチューを注いで、ついでに食糧棚の中に残っていたリンゴをむく。
テーブルについて、スプーンでシチューをすくって口に運ぶ。
おいしい。
それは、生きている実感だ。
ラジオをから天気予報が流れてくる。土鳥市は久しぶりの晴天となり、桜のつぼみが開き始めるでしょう。
食べ終えてから、足元に落としたままになっていた「夜の塔の、大ぼうけん」を拾い上げる。中身をぱらぱらとめくってみたけれど、そこにはもう、小さい頃に挟んだしおりはなく、どこまで読んだのだったか、分からない。
時計を見ると、出勤まではまだだいぶ間がある。
香枝子は改めて、その本の1行目から読み始めた。
雨の降る日に、猫は鳴く vol,1 「猫鳴キ雨」